「私は殺人を認めません。」
それはアガサ・クリスティの本に出てくる探偵、エルキュール・ポアロの有名な信条です。
この箇所によって、私は神様もそのように考えると思う。だから、この箇所で、殺人のことについて、たくさんの命令があります。つまり、故意に誰かを殺したら、どうしたらいいか教えたし、偶然だったらどうしたらいいか教えた。その後で、神様は言った。
あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。(33節)
日本人については分からないけど、時々、アメリカ人は殺人について、ちょっと鈍感になる。最近、アメリカで、たくさんの子供が殺されたから、アメリカの人々はショックを受けた。でも、普通は、殺人のニュースを聞いたら、別にショックを受けない。毎日、殺人が起こるからです。
でも、神様にとっては、その血が土地を汚す。どうしてでしょうか。多分、誰かが人を殺すと、命の価値の蔑視を示すからです。そして、殺人者はすぐに、もう命の価値が全然分からなくなるんです。
しかし、殺人はもっと長いプロセスの最後の段階です。そのプロセスの始まりは、私たちが命の価値を尊重しない事です。私たちは人を見下げる。私たちは人を憎む。そうすると、彼らの体を殺さないかもしれないけど、私達の心の中で彼らを殺す。だから、イエス様はこう言いました。
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがた は聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能な し』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21ー22)
私たちは人を憎む時に、土地を汚す。なぜならば、本当にその人を殺さなくても、私達の心の中で私たちはその人を殺したからです。ヨハネはこう言いました。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)
でも、イエス様はどんな方でしたか。ヨハネは続きました。
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(第一ヨハネ3:16a)
イエス様は私達を大切に考えたから、自分の命を十字架で捨てました。命を滅ぼさなかった。自分の命を捧げた。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命が受けられる。
あなたはどうですか。命を大切にする。あなたの言葉だけではなくて、あなたの行動によって、命を大切にする。それはどういうことでしょうかか。ヨハネはこう答えた。
ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3:16b)
イエス様が自分の命を私達のために捨てたように、あなたも他の人のために命を捨てるでしょうか。
イエス様、あなたのように、私が人の命を大切にするように助けて下さい。私は、他の人をあまり大切にしない。私はよくわがままになります。私のニーズと欲望を求めるだけです。私を変えてください。私が他の人のために命を捨てるように助けて下さい。あなたは私のためにそうしてくださったから。アーメン。