回りの人々に気づく(使徒の働き3章)

ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめ(ました)。(4)

上の言葉は私の目に留まりました。

ぺテロとヨハネは、その足の不自由な人を無視し、こう言うことができました。「私たちは神様を礼拝するために、宮に行っているところなのだ。しかも、お金を持っていないから、しょうがない。宮に行こう。」

でも、その代わりに、彼らは止まってその人を見つめました。そして、彼らが持っているものをその人に与えました。

私はその点で、まだ成長するべきです。つまり、私は回りの人々にもっと気づくべきです。彼らのニーズに気づくべきです。そして、すぐに「私は与えられるものを持っていない」と言わずに、できる限りのことをすべきです。神様はその点で私の心の中に働いています。

私が思っている以上に、神様は私を用いたいだろう。

あなたが思っている以上に、神様はあなたを用いたいでしょう。

天のお父さん、あなたが私の行く手に置いてくださる人々に私が気づくように。そして、あなたが私に惜しみ無く与えてくださったように、私も惜しむなく回りの人々に与え、あなたの愛で彼らに触れるように。

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私たちの(良い)主に従う(使徒の働き4章)

主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。(24)

「主よ」。

初期のクリスチャンたちは神様を「主」と呼んだけど、通常はギリシャ語の「クリオス」を使いました。

でもこの場合、彼らは違う言葉を使いました。それは「デスポテース」という言葉です。

「デスポテース」という言葉は、神様の支配の権利と力を強調します。

残念なことですけど、多くの人々は神の支配の権利と力を認めることを拒みます。

ダビデの時代でも、ぺテロの時代でも、今でも、人々は神様の支配に抵抗します。(25ー27)

でも、ぺテロとほかのクリスチャンたちは神様を自分の主として認めました。だから彼らは喜んで神様に従いました。(19ー20)

なぜ彼らは喜んで従うことができたでしょうか。なぜなら、彼らは、神様が良い方であることを認めたから。

興味深いことですけど、英語の「despot」、つまり「暴君」という言葉は「デスポーテス」に由来します。

でも暴君どころか、神様は私たちを愛している創造主と天の父です。

神様、あなたは私の主です。あなたは良い主です。あなたはいつくしみ深い主です。この世は時々狂ってきているようですけど、あなたがすべてを支配していることを信じます。また、あなたが私の最善を望むことを信じます。あなたは私の信頼と服従にふさわしい方です。だから主よ、私は喜んであなたにすべてを明け渡します。あなたに喜んで従います。あなたを愛しています。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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喜びに特徴つけられる(使徒の働き2章)

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。(28)

ペテロが引用したダビデの言葉は私の心を打ちました。

私たちはダビデの確信を持ち、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、必ず私を喜びで満たしてくださいます」と言えるでしょうか。

その言葉を本当に信じれば、私たちにとってクリスチャン生活は喜びになります。

み言葉や祈りやクリスチャンの交わりは単なる義務ではなく、私たちを喜びで満たすものになります。

そして、私たちの周りの人々は必ず気づくでしょう。(46-47)

天のお父さん、イエス様を通して、あなたは私にいのちの道を知らせてくださいました。あなたの御前で、あなたは必ず私を喜びで満たしてくださいます。周りの人々が私の喜びに気づいてあなたに引き寄せられるほど、私の人生が喜びに特徴つけられますように。

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イエス様が戻るまで(使徒の働き1章)

そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(11)

数年前、私はこの箇所についてブログの記事を書きました。その記事をこちらで読むことができます。

今日、この箇所を読むとき、御使いの言葉は以前と同じように私の心を打ちましたから、私はこう祈りました。

イエス様、この壊れた世界には、御使いの言葉は私の希望です。ある日、あなたはこの世に戻ります。そして、あなたはすべてを新しくしてくださいます。

でも、その間に、あなたは私に役割を与えてくださいました。

だから、あなたの御霊で私を満たしてください。そして、あなたが戻るまで、私が忠実にあなたに与えられた役割を果たすことができますように。

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愚か者で、心が鈍い(ルカの福音書24章)

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。(25)

イエス様、その二人の弟子たちのように、私は愚かで、心が鈍いために、預言者たちの言ったことだけではなく、あなたの言ったことを信じられない時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、すぐに落ち込み、絶望する時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、この世界で、私の中であなたが何をしようとしているのか分からない時がどれほど多いでしょうか。

私は愚かで、心が鈍いために、あなたを信頼せず、バカな決断をする時がどれほど多いでしょうか。

赦してください。

イエス様、私の目を開いてください。私に悟りを与えてください。あなたの言葉によって、私の心が内で燃えていて、希望といのちと平和と喜びが湧き上がるように。

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私たちが躓くとき(ルカの福音書22章)

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(31ー32)

ぺテロは大失敗してしまいました。22章の最後では、イエス様の目の前で、ぺテロは「イエス様を知らない」と言っていました。

でも、私たち皆が大失敗する時があります。私たち皆がイエス様を失望させる時もあります。

では、私たちはどうやって立ち直ることができるでしょうか。

イエス様の言葉を思い起こすべきです。

つまり、イエス様はあなたのために祈っていることです。イエス様は私たちを見限っているわけではありません。今なお、イエス様は私たちのためにとりなしてくださっているのです。

だからイエス様のもとに戻りましょう。

そして、他の躓いてしまった人たちを見たら、彼らを力づけてやりましょう。彼らに言いましょう。「私はあなたに共感できる。私も失敗するときもあるから。でも、イエス様は私をを赦してくださった。あなたをも赦してくださるよ。だから一緒にイエス様のもとに戻りましょう。」

サタンの気に入った嘘は、「あなただけだよ。あなただけがこのように失敗するよ」ということです。

でも現実は、もっとも偉いクリスチャンでも大失敗することがあるということです。 

真理は、イエス様が私たちを見限ることはないということです。今でも、イエス様は私たちのために祈っていて、待っているのです。

だから、互いにその真理を思い起こし、励まし合いましょう。

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主よ、私の目が見えるようにしてください。(ルカの福音書18章)

弟子たちには、(イエスが言われたこと)が何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(34)

(目の見えない人)が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。「わたしに何をしてほしいのですか。」

するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」40ー41)

イエス様、どれだけあなたは私に大切なこと、私が聞かなくてはならないことを伝えたいと思うけど、弟子たちと同じように、私にはその言葉が隠されていて、理解できないでしょうか。

私は霊的に盲目になりたくないです。どうか私の目が見えるようにしてください。あなたが言わんとしていることを理解できるように、私の心の目を開いてください。

あなたが私に言わんとしていることを理解し、受け入れることを妨げるものを私の心から取り除いてください。

パリサイ人のプライドを私の心から取り除いてください。

すべてをあなたに開け渡そうとしない指導者の態度を、私の心から取り除いてください。

主よ。あなたにすべてを開け渡すことには、喜びがあります。あなたに従うことには、喜びがあります。

目が見えない人はその喜びを知りました。

私もその喜びを知るように。

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あなたがたは、自分自身に気をつけなさい(ルカの福音書17章)

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」(1ー4)

「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、その前の言葉に繋がっているだろうか。もしかすると、そのあとの言葉に繋がっているだろうか。答えはちょっと微妙です。(新約聖書の節番号は西暦1555年に発明されたことをご存じだったでしょうか)。

とにかく、「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉はどっちにも繋がると、理に叶っています。

1ー2節はを読むと、いつも身に染みてしまいます。今朝、私は祈りました。「天のお父さん、私は躓きをもたらす者になりたくないです。私のせいで妻と娘が躓かないように。私のせいで同僚たちと生徒たちが躓かないように。私のせいで教会の兄弟たちと姉妹たちが躓かないように。」

でも、もう一つのことに関して、私たちは自分自身気を付けなければなりません。

私たちは傷ついたとき、苦々しい思いに気を付けなければなりません。私たちは相手への怒りを心にずっと抱いてはいけません。むしろ、私たちはすぐに相手と話さなくてはなりません。その目的は、単に怒りをぶつけることではなく、和解を求めることです。

でも、相手が悔い改めても、悔い改めなくても、私たちは許すべきです。それは相手の益のためではなく、私たちの益のためです。相手を許さないと、苦々しい思いは私たちの心を蝕んでしまいます。だからそういう意味でも、私たちは自分自身に気をつけなくてはなりません。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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私たちが入ろうとしないとき(ルカの福音書15章)

すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。(28節)

上の言葉に私は心打たれました。

放蕩息子の話を読むとき、私たちはたいてい次男に注目します。

でも、この話に登場する父親は次男だけではなく、長男をも愛していました。

だから、長男が愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、家に入ろうとしないと、父親は、その息子のところに行きました。

私たちはどれだけ長男のように振る舞うでしょうか。

私たの問題のため、あるいは、神様に不当に扱われていると感じるため、私たちは愚かな態度を取り、苦々しい思いを抱いて、神様のもとに来ようとしません。

でも、私たちが入ろうとしないとき、神様は出て来ます。神様は私たちを救われたとき、そのような恵みを与えてくださったし、今なお、その同じ恵みを与えてくださいます。

詩人アサフもそのような恵みを受けて、こう書きました。

私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき、私は愚かで考えもなく、あなたの前で、獣のようでした。しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手を、しっかりとつかんでくださいました。あなたは、私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます。(詩篇73:21ー24)

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サタンに縛られている国のための祈り(ルカの福音書13章)

この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。(直訳:安息日に、彼女はこの束縛から解き放たれる必要がないんですか。)(16)

天のお父さん、この国のために祈ります。日本は、18年ではなく、何千年もの間サタンに縛られているのです。日本はこの束縛から解き放たれる必要がないのでしょうか。

サタンに縛られている人々のためのイエスのあわれみ深い心を私に与えてください。

天のお父さん、からし種のようにあなたの御国が成長し、日本中に広がり、人々があなただけにある平安を知るように。また、パン種のように、あなたの御国がこの社会の隅々にまで浸透し、完全に変容するように。

天のお父さん、あなたの御国が来ますように。

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自分の心を守る(ルカの福音書12章)

イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。」(1)

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(15)

その言葉を読んだとき、私は、どんな偽善や貪欲さが私の心にあるのか考えました。それをまだ考えているけど、もう一つの考えは私に思い浮かびました。

イエス様は、私たちの心、また、私たちの心にあるものを心配しています。だから、12章では、イエス様は二回言われました。「気を付けなさい。警戒しなさい。」

でも、私たちはどうやって自分の心を守ることができるでしょうか。

今日の箇所を読んだとき、私が考えたのは、「私たちは心の中でどんな対話をしているのでしょうか。」ということです。

興味深いのは、17節の「考えた」と訳されている単語が、英語の「dialogue」、つまり「対話」の語源となっていることです。

イエス様のたとえ話の登場人物は、心の中で考えていました。彼は、心の中で自分と対話をしていたのです。そして、その対話は彼の貪欲さを明らかにしました。

あなたの心の中で何が起こっているのか知りたいと思いますか。

では、あなたの心の中でどんな対話をしているのでしょうか。

自分との対話だけではなく、心の中で他人との議論がどれだけあるでしょうか?

その対話は私たちの心の中身を明らかにします。だから、イエス様は私たちに注意します。「心の中の対話があなたをどこに導いているのか気を付けなさい。」

「天のお父さん、私が自分の心を守るように助けてください。貪欲に対しても、偽善に対しても。あなたとの関係や私たちの人間関係をダメージする態度に対しても。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。」

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指一本だけで(ルカの福音書11章)

しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。(20)

霊的な戦い、特に私たちの敵サタンを考えるとき、私たちは大切な真理を忘れがちです。

それは、神様がサタンよりも断然強いということです。

サタンは神様と対等ではありません。

神様は創造主です。

サタンはただの被造物なのです。

神様は小指一本だけで、サタンを破ることができます。

だから霊的な戦いに直面するとき、私たちのうちにおられる方を信じ、戦いましょう。

また、ヨハネの言葉を覚えていましょう。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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信仰があれば(ルカの福音書8章)

恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。(50)

今日、私は上の言葉を反芻しました。

信仰が弱くて、弟子たちは嵐を恐れました。

信仰がなくて、ゲラサの人々はイエス様を恐れ、イエスに自分たちのところから出て行ってほしいと願いました。

その反面、長血をわずらいで苦しんでいた女の人はイエス様の反応を恐れたけど、信仰によって、イエス様に受け入れられ、癒されました。

また、ヤイロは、恐れに負けず、イエス様を信じたゆえ、娘は復活しました。

信仰があれば、恐れの必要はありません。

嵐も、悪靈も、健康問題も、死も、もちろんイエス様をも、恐れる必要はありません。

むしろ、私たちは赦し(7:50)、救い、神の受け入れ、平安、命を知ります。

それは素晴らしい真理ですね。

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でも、真理は。。。(ルカの福音書7章)

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(23)

最近、私は霊的な戦いについて考えています。実は、日曜日から、私の教会で霊的な戦いに関するメッセージのシリーズが始まりました。

私たちの敵サタンについて考えたとき、私が気づいたのは、サタンの主な武器の一つは欺き、嘘です。イエス様はサタンを「偽りの父」と呼びます。(ヨハネ8:44)

サタンはバプテスマのヨハネに対して、その武器を振るっていました。

「あなたの人生は無駄でした。あなたはこの牢に入っているけど、あなたはいったい何を成し遂げたでしょうか。あなたはイエス様をメシアとして宣言したけど、それは本当なのか?彼はローマ帝国からイスラエルを自由にしていないし、あなたを助けてくれていないでしょう?あなたはまだここにいるでしょう?」

嘘と真実を混ぜ合わせるのは、本当に効果的な武器ですね。

だからヨハネは自分の弟子たちをイエス様のもとに遣わし、尋ねました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

イエス様はどのように答えたでしょうか。彼は、人々を癒したり、悪靈を追い出したり、福音を述べ伝えたりしました。

そして、イエス様はヨハネに基本的にこう言われました。「あなたは私に失望しているね。私があなたの予想通りにローマ帝国を倒していないから。でも、真理は、私はメシアです。そして、私はメシアに関する聖書の予言を成就しているのです。だから、自分の人生、自分の働きは無駄だと思わないで。真理をしっかり信じなさい。私自身が真理です。だれでも、私につまずかない者は幸いです。」

サタンが私たちを嘘で攻撃するとき、私たちのクリスチャン生活がうまくいかないとき、私たちがイエス様に失望して、イエス様が良い方であることを疑うとき、その痛みと疑いのサイクルかを破って、宣言しましょう。「私はこのように感じてるかもしれないけど、真理は、イエス様は良い方です。真理は、イエス様が本当に神の子で、私の救い主です。真理は、イエス様は私を愛しているのです。」

そして何よりも、覚えていましょう。「イエス様自身は真理です。」

真理は、イエス様に信頼する人は、決して失望させられることがありません。(ローマ10:11;第一ぺテロ2:6)

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目を覚まして祈る(ルカの福音書6章)

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(ルカ6:12)

ルカ3ー6章を読んで、イエス様が祈るために、3回一人で出ていったことに気づきました。

5章によれば、イエス様はしばしばそうしました。

今朝、私が考えたのは、私がイエス様の模範に従うべきということです。

天の父は私を愛し、回りの人々に触れたいのです。でも、私は天の父が何をしているのか気づいているだろうか。

その反面、サタンは私を憎み、私と私の愛する人々を滅ぼそうと思っているのです。でも、私はサタンが何を謀っているのか気づいているだろうか。

イエスは私たちに「目を覚まして祈っていなさい」と命じました。

パウロとぺテロも同じことを私たちに言いました。「エペソ6:18;コロサイ4:2;第一ぺテロ4:7」

でも、私はその言葉に従っているのだろうか。

天のお父さん、あなたが何をなさっているのか、また、サタンが何を謀っているのか私がちゃんと気づくように。

イエス様がされたように、目を覚まして祈ることを私に教えてください。

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私たちが弱く、罪深くても(ルカの福音書5章)

ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」。。。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとるようになるのです。」

ルカ5章とヨハネ21章には共通点があります。特に、ぺテロたちはイエス様の言葉に従い、奇跡的にたくさんの魚を捕ったことです。

でも、その二つの話にあるぺテロの感情とイエス様の反応は私の印象に残りました。

ぺテロは、自分の罪を見て、イエス様に「私はあなたとともに歩むにふさわしくないです」と叫びます。

でも、イエス様はぺテロに言われます。「恐れないで。私にはあなたの罪は見える。それでも、私はあなたとともに歩みたいし、私のミッションのためにあなたを用いたいのです。」

そして、三年間が経って、イエス様の復活の後、ぺテロはさらに自分の罪深さと弱さを見ることになりました。イエス様に忠実であると約束した数時間あと、ぺテロは三回イエス様を知らいないと言っていました。

そのあと、イエス様に出会ったとき、ぺテロは「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」とは言わないけど、たぶんぺテロは自分に対して、さらに疑いがあるでしょう。「イエス様はまだ私を用いることができるだろうか。イエス様はまだ私を用いたいと思うだろうか。」

でも、イエス様はぺテロを励まされます。

「私を愛していますか。よし。私の子羊を飼いなさい。」

「私を愛していますか。よし。私の羊を牧しなさい。」

「私を愛していますか。よし。私の羊を飼いなさい。」

そして、イエス様はぺテロに言われました。「私に従いなさい。」

それは本当に素晴らしいことだと思います。イエス様は私の弱さと罪を見ることができます。でも、私は「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。私はあなたにふさわしくない人だ」と言うとき、イエス様は答えられます。「恐れないで。あなたの失敗や罪に関わらず、私はあなたを受け入れた。さあ、私に従いなさい。私と一緒に行って、私から受けた愛と恵みで、回りの人々に触れましょう。」

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神の御子、神の子(ルカの福音書3章)

イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(21ー22)」

このアダムは神の子である。(38節、新改訳(第三版))

イエス様、あなたは天の父が喜ばれる神の子です。

天のお父さん、あなたはかつてアダムについても同じことを言われました。でも、アダムは反逆し、罪を犯しました。そしてアダムによって、罪と死はこの世に入りました。でも、イエス様、あなたによって、私たちは赦され、永遠のいのちを与えられました。(ローマ5:12ー21)

天のお父さん、日本の人々、また世界中の人々があなたの救いを見ることができるように。(ルカ3:6)

イエス様、人々に悔い改めを促し、あなたに指し示したヨハネのような心と熱心を私に与えてください。

また、あなたが救おうと思っている人々に対するあなたの心を私に与えてください。

あなたの心を私に与えてください。

アーメン。

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天の父のことに関わる(ルカの福音書2章)

わたしが自分の父の家にいるのは当然(直訳:必要)であることを、ご存じなかったのですか。(49)

今朝、イエス様の言葉は私の心を打ちました。12才のイエス様がすでにご存じだったのは、「わたしが自分の父の家にいるのは必要なのだ」ということです。私には、この考えが思い浮かびました。「日曜日に、神の民は「私が自分の父の家にいるのは必要なのだ」と考えるだろうか。」

でも、49節の脚注を見ると、もう一つのことを思い起こしました。それは、ギリシャ語には「家」という言葉は書いていないということです。文字通りには、イエス様が言ったのは、「わたしが自分の父のことに関わることは必要なのだ」ということです。その「こと」はちょっと微妙です。イエス様の親たちはイエス様を探していたのだから、その「こと」が「父の家にいること」を意味するのは理にかなっています。

でも、新改訳の脚注によれば、もう二つの可能性があります。それは、「父の者の間にいること」と「父のみわざのうちにいること」です。

正直に言うと、私が自己中心になるのは簡単なことです。

でも、私はイエス様のようになりたいです。天の父のみわざに関わりたいです。天の父が大事にするものを私も大事にしたいのです。

「イエス様、あなたの心が欲しいです。毎日、天の父が大事にするものを私も大事するように。」

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礼拝するように自分の心を導く(詩篇103篇)

わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(1ー2)

今日、この箇所を読んだとき、私は「どれだけ私は主をほめたたえるように自分の心を導くだろうか」と考えました。

「おい!自分よ。今日、主をほめたたえよ!主が良くしてくださったことを忘れるな。あなたへの主のいつくしみを忘れるな。」

もちろん、悪いときも、私たちはそうするべきです。ダビデが落ち込んだときに、彼は言いました。「おい!自分よ。どうしてあなたはそんなに落ち込んでいるの?主をほめたたえよ!」(詩篇42ー43篇)

でも、良いときも、主をほめたたえることを覚えていることは大切なのです。私たちの祝福がどこから来たのか、自分に思い出させるべきです。(申命記6:10ー12)

この詩篇では、ダビデはそうしました。私のただの意見ですけど、たぶん、神様がダビデのバテ・シェバとの罪を赦し、ダビデの息子アブサロムの反乱の後に神様がイスラエル王国をダビデに返された後、ダビデはこの詩篇を書いたでしょう。(第二サムエル記11ー19章)

あなたはどうですか。主をほめたたえるように、毎日、自分の心を導いているでしょうか。

主のみこころを行い、主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ、すべて造られたものたちよ。 主が治められるすべてのところで。わがたましいよ 主をほめたたえよ。(21ー22)

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私たちの罪が赦された、忘れられた(イザヤ書65章)

かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない(16ー17)

以前、上の言葉を読んだときは、なぜか私はいつもイザヤが、新しい天と新しい地で神の御顔を見るときに私たちがかつての苦難や罪や失敗を忘れる、と言っていると思っていました。

私たちの苦難や罪と失敗を忘れてしまうと私は今でも信じるけど、それが神様のポイントだとは思いません。

神様が言ったのは、「かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠される」ということです。

だから、「先のことは思い出されず、心に上ることもない」と言うとき、神様が「先のことは思い出されず、わたしの心に上ることもない」と言っていると思います。

アダムとエバが初めて罪を犯して以来、私たちがこの世界でどれほどの苦しみを引き起こしてきたのでしょうか。

私たちはどれだけ神様の心を悲しませてきたでしょうか。

今日の箇所では、神様はその事について話します。神様はご自分の民の罪と反逆について話し、どれだけ彼らが神の心を悲しませたかを話します。

それでも、神様は言います。「わたしはすべてを新しくします。その日、あなたの罪やあなたがわたしの心を悲しませたときのすべては忘れられ、わたしの目から隠されます。そのことは思い出されず、わたしの心に上ることもない。」

イエス様の十字架の働きによって、私たちのすべての罪は赦され、忘れられました。

それが不思議な恵みですね。

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私たちをあわれむ神(イザヤ書64章)

日曜日はイースターでしたが、この季節に、どうしてイエス様が死ななければならなかったのかを思い出した方がいいと思います。

今日の箇所は本当に興味深いです。イザヤは、神様が天を裂いて降りて来て、ご自分自身をこの世の国民に現すように祈ります。その反面、イザヤが分かったのは、神様が来られたら、イスラエルの敵だけではなく、イスラエルも裁かれます。なぜなら、イスラエル人たちも神様に背を向けたから。

だから、イザヤは祈ります。

主よ、どうか激しく怒らないでください。 いつまでも、咎を覚えていないでください。 どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに 目を留めてください。(9)

その祈りは、イエス様が死ななければならない理由を明らかにしています。十字架で、イエスは私たちの代わりに神様の怒りを負ってくださいました。イエス様とその十字架の働きによって、私たちの罪は赦されます。

初代の教会は旧約聖書を読んだとき、ギリシャ語訳を使いました。イザヤ64:4のギリシャ語訳はちょっと意訳で興味深いです。「 あわれみを待ち望む者のためにみわざを行われるあなたのほかに、私たちはとこしえから神を耳にしたこともなく、 目で見たこともありません。」

神様の最終的な憐れみのみわざは十字架で行われました。

パウロはそのように思ったようです。十字架について話した時、パウロはイザヤ書64:4を意訳します。

目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった。(第一コリント2:9)

十字架は悲劇的な事件ではありませんでした。十字架は私たちを憐れみ、私たちを救うための永遠からの神の計画でした。それは素晴らしいことです!

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とりなしをし続けなさい!(イザヤ書62章)

シオンのために、わたしは黙っていない。 エルサレムのために沈黙はしない。 その義が明るく光を放ち、 その救いが、たいまつのように燃えるまでは。。。エルサレムよ、 わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。終日終夜、 彼らは、一時も黙っていてはならない。 思い起こしていただこうと主に求める者たちよ、 休んではならない。主を休ませてはならない。 主がエルサレムを堅く立て、 この地の誉れとするまで。(イザヤ書62:1,6ー7)

1ー2節では、メシアは黙らず、沈黙せず、エルサレムの義が明るく光を放ち、 その救いが、たいまつのように燃えるまで働き、とりなしをしてくださいますと約束します。

それは本当に励ましの言葉です。なぜなら、イエス様はエルサレムのためだけではなく、神の民のすべてのためにそうしてくださいます。私たちの義が明るく光を放ち、 その救いが、たいまつのように燃えるまで、イエス様は働き、とりなしをしてくださいますから。(ヘブル7:22ー25)

でも、6ー7節は私の心を打ちました。メシアはエルサレムの城壁の上に見張り番を置きました。そして、メシアは彼らに言います。「休んではならない。主にご自分の約束を思い起こさせなさい。祈り続けなさい。主がエルサレムを堅く立て、 この地の誉れとするまで主を休ませてはならない。 」

私は日本について考えます。イエス様は私たちを日本のための見張りとして任命しました。そしてイエス様は私たちいに言います。「日本のためにとりなしをし続けなさい。黙ってはなりません。すべての人をイエス様のもとに引き寄せるという約束を神様に思い起こさせなさい(ヨハネ10:16,12:32;黙示録7:9ー10)。神の国が日本に来るように祈りなさい。イエスにある日本の義が明るく光を放ち、 その救いが、たいまつのように燃えるまで、神様は働き続けるように祈りなさい。」

天のお父さん、この国民はあなたを切実に必要としています。あなたの国が日本に来るように。

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イースターの希望

神の贖いの計画は揺るぐことのないものです。私たちがどんなに失敗しても、どんなに酷い罪を犯しても、救いようのない人は誰もいません。

それはイースターの希望です。毎日、その希望に立ちましょう。

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祝福されている(イザヤ書61章)

「彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」


私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義(別訳:義)の外套をまとわせ。。。」(9-10)

この個所を読むとき、たいてい1-3節が私の目に留まります。なぜなら、イエス様はその言葉を自分自身に当てはめましたから。(ルカ4:18-21)

でも今日、9-10節が私の目に留まりました。私がどんなに祝福されているかが分かりました。私はいつも自分の欠点や失敗や罪を見ます。でも、恵みによって、神様は私に救いの衣とキリストの義の外套を着せてくださいました。

天のお父さん、私は本当に祝福されています。私はあなたにあって楽しみ、あなたにあって喜びます。なぜなら、あなたは私に救いの衣とキリストの義の外套を着せてくださったから。私はその衣を作る必要はありませんでした。私はその外套を買う必要はありませんでした。イエス様、あなたはご自分の血によってその服を買い取り、私に着せてくださったのです。ありがとうとしか言えない!

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 輝け!(イザヤ書60章)

あなたは忘れたかもしれないけど、イザヤ書60章は59章の続きです。(笑)

そして、59章では、この暗い世界の中におけるキリストにある私たちの希望を見ました。最悪の時、私たちが自分自身を救うことができなかった時、私たちの救いをもたらすために神様はイエス様を送ってくださいました。

59ー60章では、神様は主にイスラエルの復活について話しているけど、黙示録ではヨハネは、イザヤの言葉を借りて、新しい天と地、特に新しいエルサレムについて話します。(イザヤ60:3,黙示録21:24;イザヤ60:11,黙示録21:25ー26;イザヤ60:19ー20,黙示録21:4,23,黙示録22:5)

その新しい天と地は私たちの希望です。

だから、エルサレムとユダヤ人たちに対する神のみことばは、私たちにも当てはめられます。

起きよ。輝け。 まことに、あなたの光が来る。 主の栄光があなたの上に輝く。(60:1)

今朝、神様その言葉を通して私に話しました。「この世の闇を見るとき、絶望しないで。この世の悪や回りの人々の絶望や壊れた人生を見ても、へこたらないで。起きよ。この世で輝け。あなたの希望を表せ。そうすれば、人々は暗闇から私の光の中に入ってきます。」

天のお父さん、私があなたの光を輝かせるように。

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認められた。選ばれた。(ローマ人への手紙16章)

パウロの挨拶を読むとき、二つの言葉は目に留まりました。

パウロはアペレという人に関して、「彼はキリストにあって認められている人だ」と言いました。(10)

また、ルフォスという人に関して、パウロは「彼は主にあって選ばれた人だ」と言いました。(13)

実は、パウロはすべてのクリスチャンに関して、そんなことを言うことができました。どうしてパウロは特にその二人に対して指摘をしたのでしょうか。

私たちはその二人に関してほとんど何も知らないので、これは私のただの意見ですけど、もしかしたら、その二人にはパウロの励ましの言葉が必要だったかもしれません。

聖書では、「認められる」という言葉は、「試された」というニュアンスが入っています。だから、もしかしたら、その時にアペレは試練に直面していたかもしれません。迫害や、苦しみを経験していたかもしれません。だから、彼は時々「どうして?」と考えたかもしれません。

でもパウロは彼に言いました。「あなたは試練に直面し、苦しみました。でも、あなたとあなたの信仰は火で精錬された金のようです。神様はあなたに「よくやった。」と言われています。」(第一ペテロ1:7)

そして、パウロはルフォスに言いました。「あなたはイエス様にあって選ばれました。キリストにあるあなたのアイデンティティを忘れないでください。」

でもパウロが前に言ったように、ルフォスは自分の良い行動や実績によって選ばれたわけではありませんでした。むしろ、神様の恵みと憐れみによって彼は選ばれました。(ローマ9:11-17)

しかし、私はもう一度言います。パウロの言葉はその二人のためだけのものではありません。その言葉はイエス様に属する全ての人のためのものです。

だから、あなたは試練に直面しているなら、神様に信頼し続け、あなたへの神の慈しみと愛を信じ続けましょう。そして、アペレのように、あなたは火で試練された金のように出てきます。(ヨブ23:10)

また、あなたのアイデンティティを忘れないでください。あなたは主にあって選ばれた者です。

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誰のために生きているのでしょうか(ローマ人への手紙14章)

今日の箇所を読んだとき、パウロの先の言葉を連想しました。

14章では、パウロはこう書きました。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(7ー9)

上の言葉を読んだとき、ローマ11:36ー12:1を連想しました。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

また、14章15節では、パウロはこう書きました。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。

(その言葉の背景をもっと詳しく知りたい方は、この記事をどうぞ読んでみてください。)

その言葉を読んだとき、13節にあるパウロの言葉を連想しました。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。。。愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(13:8,10)

たぶん、イエス様が私に尋ねるのは、「あなたは誰のために生きているのでしょうか」ということです。

「自分のためだけに生きているのでしょうか。あなたは自分勝手に生きているのでしょうか。それとも、私のために生きているのでしょうか。特に、私があなたに与えた人々を愛しているのでしょうか。私は彼らのためにも死にました。あなたも彼らに愛を示しているのでしょうか。」

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私があなたのものだから(ローマ人への手紙11ー12章)

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(11:36ー12:1)

最近、上の言葉は、私の毎日の祈りの土台になっています。

天のお父さん、すべてのものはあなたから発し、あなたによって成り、あなたに至るのです。あなたはすべてのものを造り、すべてのものはあなたとあなたの目的のために造られました。私もあなたとあなたの目的のために造られました。だから私のからだをあなたに捧げます。私の人生があなたへの礼拝になるように。私のすべての言葉、思い、行動があなたに喜ばれる、聖なるものになるように。それらがあなたに対して芳ばしい香りになるように。生きたささげ物として私のからだを捧げます。あなたは、私が捧げることができるすべてのものにふさわしい方です。私へのあなたの素晴らしい恵みをあわれみを感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の残りの者(ローマ人への手紙11章)

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。。。神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」 しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」 ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(1ー5)

ローマ書9章ー11章では、パウロは福音に対するユダヤ人の頑なな心について話しています。そして、パウロは、「神様はユダヤ人たちを退けられたでしょうか」と訊きます。

パウロの答えは明快です。「違います。これまでも、そしてこれからも、恵みの選びによって神様に属する残りのユダヤ人がいます。」

私は日本を考えます。日本にはクリスチャンが少なくて、「神様は日本を退けられたのだろうか」と考えるのは簡単なことです。

でも、パウロは明快に「違います」と答えるでしょう。

もちろん、パウロのユダヤ人たちに関する言葉のすべてを日本人に当てはめることはできません。

でも、私は、日本の各都市には、神様が永遠の昔から知っていて、選ばれた残りの人々がいると信じます。私たちが福音を伝えたら、彼らは必ず救われるでしょう。(ローマ書10:13ー15)

だから日本にある神様を知らない人たちの数を考えるとき、失望しないでください。祈りましょう。そして、神様から与えられた人々に福音を伝えましょう。そうすれば、神様の恵みによってその残りの人々を必ず見つけます。

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心を歌わせる言葉(ローマ8章)

この個所を読むとき、私には一つの高校生頃の思い出がいつも思い浮かびます。

ある日、私はバス停から高校まで歩いたとき、パウロの言葉を考えていました。

その日、私の心は歌っていました。

今日も私の心は歌いました。たぶん私が高校生のときよりも、私の心はもっと歌っていたでしょう。

だって、私は罪に定められることは決してないのです。

私は赦されました。

私にはもう恐れる必要はないのです。

私は神の子供です。

私のうちにおられる御霊は「アバ、父」と叫んでいるのです。

私には希望があります。

私の祈りがめちゃくちゃでも、御霊はとりなしてくださっています。

天の父が御霊の祈りを聞くので、すべてのことがともに働いて私の益となります。

神様は私に反対せず、むしろ、私の味方です。

神様は私をあらかじめ知っていました。

私はイエス様のかたちと同じ姿にあらかじめ定められました。

私は召されました。

私は義と認められました。

さらに、神様は私には栄光を与えになりました。

私は責められないで、義と認められました。

私は裁かれないで、擁護されています。

そして、神の愛から私を引き離せるものは何一つありません。

あなたの心はすでに歌い始めているでしょうか。

パウロの言葉を考えましょう。

その言葉に思いを巡らしましょう。

あなたの心は歌っているでしょうか。

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あなたの者となるため(ローマ人への手紙7章)

ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。(4)

イエス様、私はかつてサタンの国の奴隷だったけど、私はもはやサタンのものではありません。

私はもはや自分自身のものですらありません。私は単に自分の罪深い心に従っているわけではありません。

私は他の方のものです。私はあなたのものです。私は自分の幸せのためだけに生きているのではなく、私はあなたのために実を結ぶために生きているのです。私はあなたのために生きているのです。

私へのあなたの素晴らしい愛を感謝します。私があなたと共に歩み、あなたのために実を結ぶように。アーメン。

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いのちの新しさ(ローマ人への手紙6章)

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(4)

ある英語の訳が大好きです。その訳者たちは、「いのちの新しさ」という表現を使います。私たちはいのちの新しさを喜び、歩むべきです。

私は罪と死の臭さが漂っているお墓の中を歩きたくないです。私は義といのちの新鮮な空気を吸いたいのです。

私は腐敗している罪の埋葬布に包まれ、歩きたくないです。私はキリストの義の服を着たいのです。

ちょっと想像してください。イエス様はラザロを復活させて、「出てきなさい」と言うけど、ラザロはこう答えます。「いや、けっこうです。私はこの布に包まれ、お墓の中で歩き回るのは好きなのです。」

バカな話でしょう。

私は新鮮な空気を吸い、新しい服を着、自分自身を義の道具、義の武器として神様に捧げ、たくさんの人々を奴隷にしたサタンと戦いたいのです。

イザヤのように、私は神様の前に立ち、自分自身を捧げ、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言いたいです。

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平和(ローマ人への手紙5章)

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(1)

長い文書を読む時、要点を見逃すのは簡単なことです。でも、パウロの要点を見逃さないでください。それは何でしょうか。

こうして、私たちは。。。神との平和を持っています。

その言葉を反芻しましょう。

「私は神との平和を持っています。

私はかつて神様の敵でした。でも、今私は神様と和解させていただきました。神様との平和を持っているのです。

だから試練が来るとき、神様は私を罪のために罰しているわけではありません。

神様との平和を持っています。私は神様の恵みに立っているのです。

さらに、毎日、神様は愛を私に注いでくださっているのです。」

だから、試練に直面するとき、絶望しないでください。

「神様は私を罰している」と考えないでください。

十字架で、イエス様はあなたの罰をすでに受けてくださったのです。

あなたは神との平和を持っているのです。

苦しみのとき、その真理をしがみつきましょう。

その真理は私たちの希望です。

神様と私たちへの忠実な愛は私たちの希望です。

そしてその希望は失望に終わることがありません。

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神の忠実さ、キリストの忠実さ(ローマ人への手紙3章)

日曜日に、私の教会で私はメッセージをしました。そのメッセージの要点は、神への私たちの忠実さではなく、私たちへの神の忠実さによって、私たちは神様に近寄ることができるということです。

今日の箇所では、パウロはその真理について話します。まず、パウロはユダヤ人たちへの神の忠実さ、神の真実さについて話します。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(3ー4)

でも、パウロによれば、ユダヤ人たちだけではなく、私たち皆が神様に対して不忠実な人々です。(9ー18)

それでも、神様は私たちへのご自分の真実さ、忠実さを現します。どのようにそうされたのでしょうか。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。(21ー22)

それは普通の訳ですけど、脚注によると、別訳もあります。それは、

すなわち、イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

イエス様を信じる私たち皆には、イエス様は自分自信が真実な神、真実な救い主であることを現します。私たちがイエス様に対して不真実だったのに、イエス様は私たちのことを諦めませんでした。むしろ、イエス様は十字架にに行って、天の父の御怒りを私たちの代わりに受け、ご自分の血潮によって、私たちの罪の代価を支払ってくださいました。

私はそのような忠実さがとても不思議なことだと思います。イエス様の忠実さのおかげで、私は躓くときにも落ち込むことはありません。私はイエス様に対して真実でなくても、 キリストは常に私に対して真実です(第二テモテ2:13)。だから、私は躓くとき、イエス様は「あなたが私をがっかりさせた」と言わず、「あなたのやぶれた誓いを新たにしなさい」とも言わず、むしろ、イエス様は単にこう言います。「私のことを愛するかい?よし。私についてきなさい。」(ヨハネ21:15ー19)

天のお父さん、私へのあなたの素晴らしい忠実さを感謝します。

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あなたがあがめられるように(ローマ人への手紙1章)

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。(21)

天のお父さん、上の言葉が私に関して言われることがないように。私はあなたによって造られ、あなたのために造られました。だから私の人生によって、あなたがあがめられるように。私の言葉や思いや行動によって、あなたがあがめられるように。私の人生全体があなたへの礼拝となるように。また、毎日、私の心があなたへの感謝で溢れ、その感謝の心によって、私の考え方や生き方が変えられるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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一つの心(ヤコブの手紙4章)

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(7ー8)

天のお父さん、

「あなたに従う」とは、どういう意味でしょうか。

「あなたに従う」の一面は、私のすべての欲望をあなたに委ねる、ということのようです。

私の欲望の主となってください。私の願いがあなたの御心と一致するように。あなたが求めるものを私も求めるように。あなたの優先順位が私の優先順位になるように。

また、私があなたを他のどんなものよりも求めるように。私の最高の願いがあなたに近づくことであるように。

私は二心の人になりたくないです。私の心を一つにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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完全な人(ヤコブの手紙3章)

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(2)

今朝、上の言葉は私の心を打ちました。「完全な人」の「人」と訳された言葉は、もちろん、男性も女性も指すことができるけど、多くの場合、その言葉は特に男性たちを指します。

誤解しないでください。翻訳者たちはたぶん2節を正しく訳したけど、男性として、ヤコブの言葉は私の心に響きました。

自分があるべき完璧な男であることを妨げているものについて考えるとき、舌を指摘する男性はあまりいないと思う。

私は普通そのように考えません。

でも、ヤコブは私たちの舌を指摘します。

私たちの舌は私たちがあるべき夫であることを妨げます。

私たちの舌は私たちがあるべき父であることを妨げます。

シングルの男性の舌は、自分があるべき彼氏であることを妨げます。

自分の言葉によって、私たちの妻たち、子供たち、彼女たちにどれだけのダメージを与えるでしょうか。

男性たち、どのような男性になりたいですか。私はイエス様のようになりたいです。私の言葉が人々を燃やすのではなく、むしろ、彼らを癒すことを望みます。私の言葉が知恵にふさわしい柔和で特徴つけられることを望みます。

イエス様、私が舌を制して、完全な男性になるように。イエス様、私があなたのようになるように。

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成熟した、完全な者(ヤコブの手紙1章)

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(2ー4)

「成熟した、完全な者。」

今朝、上の言葉は私の心に響きました。

天の父は、私が何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者になることを望んでおられます。たぶん、すべてのお父さんたちは自分の子供たちのためにそれを望んでいるでしょう。

私は自分自身を成熟した、完全な人だと思いたいです。でも、つい先週、私は「このところでは、私はまだ成熟しなければならないなぁ」と考えました。

私が何一つ欠けたところのないクリスチャンと全然言えません。

性格に関しても、知恵に関しても、私にはたくさん欠けたところがあります。

だから、ヤコブの次の言葉も私の心に響きました。

あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。(5)

正直に言うと、父として、私はもっと忍耐が必要です。私の娘の未熟さと不完全さを見ると、私はよくフラストレーションを感じます。でも、神様は私に対してそう感じていません。

むしろ、弱く不完全なままで私は天の父のもとに来ると、天の父は惜しみなく、とがめることなく私に必要なものを与えてくださいます。それが本当に不思議なことだと思います。

天のお父さん、私は成熟した、完全な人になりたいです。あなたも私のためにそれを望んでおられます。私の欠けたところをよくご存じです。私がそのところで成長するように助けてください。すべてにおいて、私はあなたのようになりたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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暗い世界の中における私たちの希望(イザヤ書59章)

イザヤの言葉を読んだとき、「この世界はあまり変わらないなぁ」と思いました。

今週のニュースを見たとき、私は暴力や銃殺事件やいろんな不義をよく見ました。

この世には、真理が広場でつまずき、人々は神の真理を拒絶し、自分の真理を作ろうとしているのです。

でも、それらは新しい問題ではありません。数千年前、イザヤはそのような問題を話していました。だから、イザヤの感情がよく理解できます。

私たちは光を待ち望んでいたが、見よ、闇。 輝きを待ち望んでいたが、歩くのは暗闇の中。(9)

でも、15ー16節にあるイザヤの言葉が大好きです。

主はこれを見て、 公正がないことに心を痛められた。主は人がいないのを見て、 とりなす者がいないことに啞然とされた。 それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、 ご自分の義を支えとされた。(15ー16)

もちろん、イザヤはイエス様について話しています。私たちの罪は 私たちと神様との仕切りとなったけど、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払って、私たちの救いをもたらしてくださいました。

でも、それだけではなく、ある日、イエス様のこの世に戻り、正義をもたらし、この世を癒してくださいます。(17ー20節)

それは私たちの希望です。だから、この暗い世界に直面すると、神のすべての武具を取りましょう。私たちの思いと心を失望やサタンの他の攻撃から守るため、救いのかぶとをかぶり、正義の胸当てを着けましょう。また、平和の福音の備えをはき、希望のない人々に私たちの救いの希望を伝えましょう。

イザヤの言葉を借りれば、

良い知らせを伝える人の足は、 山々の上にあって、なんと美しいことか。 平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、 救いを告げ知らせ、 「あなたの神は王であられる」と シオンに言う人の足は。(イザヤ52:7)

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あなたのような父になるように(イザヤ書57章)

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名が聖である方が、こう仰せられる。 「わたしは、高く聖なる所に住み、 砕かれた人、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人たちの霊を生かし、 砕かれた人たちの心を生かすためである。 わたしは、永遠に争うことはなく、 いつまでも怒ってはいない。 わたしから出た霊が衰え果てるからだ。 わたしが造ったいのちの息が。(15ー16)

天のお父さん、

あなたが私から遠く離れておられる神ではなく、私を気にかけていない神ではなく、むしろ、あなたが私のそばにおられ、情け深い神であることを感謝します。

あなたがいつも私に怒っている父ではなく、私をいつも責めている父ではなく、むしろ、私の弱さを見て憐れんでくださる父であることを感謝します。

私が自分の娘にとってそのような父になるように。

私の娘は私を見るとき、あなたがどのような父であるかわかるように。

私はあなたのようになりたいです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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石投げを巧みに操る(イザヤ書55章)

最近、教会でダビデとゴリアテについてのメッセージを聞きました。牧師の一つのポイントは、すべての国がイスラエルが従っている神を知るようにダビデは石を投げた、ということです。(第一サムエル17:40,46)

そして、巧みに投げられた石は神様が望んだ目的を成し遂げました。その石によって,ゴリアテは倒されただけではなく、イスラエル人たちも、回りの国の人々も主が神であることを知るようになりました。

今日の箇所を読んだとき、そのメッセージを連想しました。私が巧みに投げたい石は、神の御言葉です。特に、福音です。

私は回りの人々に、満足できないものではなく、心の穴を埋めることができる神を求めるように促したいのです。

彼らに、自分の人生を滅ぼしている罪から悔い改めるように促したいのです。

また、彼らには遅すぎるわけではないという良い知らせを伝えたいのです。なぜなら、神様は悔い改めている人を豊かに赦してくださるから。

そして、神様が約束しているのは、ダビデの石のように、神のことばご自分のところに、空しく帰って来ることはなく神様が望むことを成し遂げるということです。

天のお父さん、私の回りの人々があなたを知り、また、永遠のいのちを知るために、私があなたのことばをよく知り、巧みに操るように。

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どうしてあなたは私をそんなに愛してくださっているのでしょうか(イザヤ書53章)

イエス様、あなたはこの世に来たとき、私たち人間のようになりました。あなたは美男子ではなかったし、私たちが慕うような見栄えもありませんでした。

あなたは人から退けられることも、病をも経験しました。

そして、あなたは刺されました。あなたは砕かれました。十字架にかけられるまでには、あなたの姿は人とは思えないほど、あなたは打たれました。(イザヤ52:14)

そのすべては私のためでした。私の背きのためにあなたは刺され、打たれました。私の咎のためにあなたは砕かれました。私には天の父と平和がある理由は、あなたが私のために罰せられたからです。そして、あなたの打ち傷のゆえに、私の罪によって壊れた人生は癒されました。

私はさまよった羊のようでした。私は自分勝手な道に向かって行ったのです。でも良い羊飼いのようにあなたは私を探し求めました。私は神様に罰せられて当然だったけど、あなたは私の罰を受け取ってくださいました。

あなたに十字架を強いた方は誰もいませんでした。あなたは自ら望んで自分のいのちを死に明け渡しました。あなたは私の罪を負ってくださいました。そして、今なお、あなたは私のためにとりなしをしてくださいます。「父よ、彼をお赦しください。彼は、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

イエス様、あなたは十字架で私の罪を負ってくださったおかげで、私は天の父の御前に立ち、義と認められます。

あなたは苦しみと死を経験したけど、あなたはよみがえられ、あなたの死によって救われた私たちを見るとき、満足しています。

あなたの恵みに畏敬の念を抱いています。どうしてあなたは私をそんなに愛してくださっているのでしょうか。

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私の祈り(イザヤ書51章)

わたしの民よ、わたしに心を留めよ。 わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。 おしえはわたしのもとから出て。。。

義を知る者たちよ、わたしに聞け。 心にわたしのおしえを持つ民よ。。。」(4、7)

天のお父さん、

私の心をあなたに導いてください。私の目が覚めるように。祈るとき、私があなたに耳を傾け、あなたの声を聞こうという態度を持つように。あなたから出る教えを聞きたいのです。私の心にあなたの教えを持ちたいのです。

祈るとき、私が口だけで「あなたのみこころが行われうように」と言わないように。むしろ、聖書の中であなたが何を言われたかを思い出させてください。あなたの言葉によって、私はあなたのこころを本当に知ることができ、そのこころに従って祈ることができるようになるから。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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イエス様の心(ヨハネの福音書21章)

こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。。。さあ、朝の食事をしなさい。」。。。 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。(9ー10,12ー13)

いろんな意味で、私はヨハネ21章が大好きです。なぜなら、私たちはイエス様の心を見るから。

もちろん、ぺテロに対するイエス様の愛を見るけど、今日上の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「どうして、イエス様は弟子たちのためにわざわざ朝御飯を作ったのだろうか。イエス様は彼らのために大きな奇跡を行ったばかりなのに。」

その答えははっきりしていると思います。イエス様には、「私の弟子たちはとっても疲れて、お腹が空いただろう。なにか作ってあげよう」という考えが思い浮かんだから。

そのパンと魚はどこから来たでしょうか。イエス様は奇跡的にそれらを作ったわけではないと思います。(もちろん、イエス様はそのような力を持っていたけど。)

たぶん、前日にその近くの村でパンを買って、その日の朝、他の漁師たちから魚を買ったでしょう。

とにかく、イエス様は弟子たちのことを考えていて、祝福したいと思いました。イエス様は大きな奇跡を行ったわけではありません。むしろ、思いやりを持って、彼らを祝福しただけです。

私はイエス様の心を持ち、その模範に従いたいです。私の愛している人たちのニーズにもっと気づきたいのです。それは、ただの大きなニーズだけではなく(例えば、ぺテロを弟子としての自信を建て直すこと)、でも、小さいことも気づきたいのです。そして、できるだけ、私は彼らを祝福したいのです。

イエス様、そのような心を与えてください。

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平安(ヨハネの福音書19章)

イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」(19)

今日の箇所を読んだとき、弟子たちがその日曜に何を感じていたか考えました。不安。恐れ。混乱。でも、イエス様は来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(19)

その後、イエス様はトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。(27)

その言葉を読んで、イエス様が死ぬ前に弟子たちに言った言葉を連想しました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

今週、私はあることを気にかけています。正直に言うと、その事をくよくよするのは簡単なことです。その事を心配するのは簡単なことなのです。

それでも、イエス様は私のところに来て、「平安があなたにあるように。私はあなたと共にいる。私に信頼しなさい。信じる者ではなく、信じる者になりなさい」と言われます。

イエス様、私のトラブルの中で、あなたは私の主、私の神、平和の君、インマヌエルです。私がそれを忘れないで、あなたに信頼するように助けてください。

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神様が私たちに下さった杯を飲む(ヨハネの福音書18章)

「イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」」(11)

時々、試練に直面し、私たちは祈るけど、神様は私たちにその試練を取り除かないと言われます。その試練は神様が私たちに下さった杯なのです。

イエス様はそれを経験しました。(ルカ22:42ー43)

パウロもそれを経験しました。(第二コリント12:8ー9)

そして、その杯を持って、私たちには選択肢があります。私たちは苦々しい思いを持って、その杯と戦うことができます。

もしくは、私たちは次の態度を取ることを選ぶことができます。「あなたの恵みは私に十分です。あなたが私と共におられるから、私は満足している。」

前者の道は惨めな人生や死に至ります。でも、後者の道は喜びに至り、そして最終的に復活に至ります。

だから、今日、私は自問自答するのは、「神様の恵みは私に十分だと思うだろうか。「神様が私と共におられるから、私は満足している」と言えるだろうか」ということです。

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イエス様の忍耐(ヨハネの福音書16章)

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(12ー13)

上の言葉を読んで、私はこう考えました。「どれだけイエス様は私に同じことを言うだろうか。イエス様が私に言いたいことがたくさんあるけど、私はその言葉に耐えられません。なぜなら、私の心はまだ準備ができていないから。でも、イエス様は私を叱りません。むしろ、イエス様は忍耐をもって待っています。そしてイエス様のタイミングで、御霊は私が知らなければならないことを伝えてくださいます。」

イエス様、あなたは私の心をよく知っておられます。私が何を聞くに耐えるか耐えられないかよくご存じです。私に対するあなたの忍耐と柔和さを感謝します。あなたの言葉を聞くために私の心を整え続けてください。私があなたに対して、柔らかいを心を保つように助けてください。聖霊様、私は自分の心をあなたに開きます。あなたのタイミングで、私をすべての真理に導いてください。私には、その真理が受け入れがたいかもしれないけど、その真理に導いてください。

そして、イエス様、私へのあなたの忍耐と柔和さを、私も周りの人々に与えるように助けてください。

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イエス様を知る(ヨハネの福音書14)

イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。(9)

イエス様の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「イエス様は時々私に同じ質問をするのだろうか。」

「こんなに長い間、あなたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。」

もちろん私が初めてクリスチャンになった時よりも、私はイエス様を知っています。去年よりも、私はイエス様を知っていると思いたいです。

でも、私はあとどれだけイエス様について知らなくてはならないだろうか。それは、一生続くプロセスでしょう。

使徒パウロは長い間クリスチャンだったけど、「キリストを知りたい」と言いました。(ピリピ3:10)

パウロはイエス様をよく知っていたけど、イエス様をもっと知る必要があると認めました。

正直に言うと、私もそうしなければなりません。

イエス様、あなたをもっと知りたいです。あなたを本当に知りたいのです。私は頭ではあなたについてたくさんのことを知っています。でも、そのすべての知識が私の心に入ってくるように祈ります。あなたにもっと信頼したいです。あなたの仕事に参加したいです。あなたが行うわざを行い、さらに大きなわざを行いたいです。正直に言うと、私はその概念を把握できません。

あなたは、あなたを愛する人たちにご自身を現すと約束しました。(21)

だから、私は願っています。あなたが毎日ご自身を私にもっともっと現してください。あなたを本当に知りたいですから。アーメン。

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すでにきよい(ヨハネの福音書13章)

イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。。。」(10)

たくさんのクリスチャンたちは自分の罪によって、自責の念に苦しみます。彼らはいつも自分の罪と失敗をくよくよします。

あなたも、よくそうするでしょうか。

もし、イエス様とあなたのための十字架のみわざを信じるなら、イエス様のことばはあなたのためです。

「あなたはきよいです。」

その言葉があなたの心に響きように。

「あなたはきよいのです。」

そのことばによって、神様と私の関係は完全に変わりました。

もちろん、この世を歩むと、罪によって私の霊的な足は汚れてしまいます。

でも、イエス様が私を受け入れている確信を持っています。

私がイエス様のもとに来ると、イエス様が恵みによって私の足を洗い、私がもう一度完全に清くなるという確信を持っています。

私はその確信を持って、イエス様と毎日歩んでいます。そういうわけで、私の罪と失敗にもかかわらず、私はクリスチャンとして、喜びを持って歩んでいます。

あなたはどうですか。その確信と喜びをもって、イエス様と歩んでいますか。

イエス様の言葉に思いを巡らしましょう。あなたの心の中でその言葉を繰り返して言いましょう。

その言葉があなたの心に刻み込むように。

「あなたはきよいです。」

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もうダメ?(ヨハネの福音書11章)

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(21)

マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(32)

今まで、マリアとマルタの言葉を読んだとき、彼女たちがイエス様を責めていると思いました。「何でもっと早く来てくれなかったの?もっと早く来てくれていたら、私の兄は死ななかったでしょうに。」

しかし今、私は彼女たちがイエスを責めているかどうか少し疑問を感じています。

なぜなら、イエス様が着いたとき、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日間たっていたから。つまり、イエス様がすぐに来たとしても、ラザロはすでに2日間死んでいたということです。

だから、たぶん、彼女たちが意味したものは「イエス様のせいじゃないけど、兄が病気になったとき、あなたがそんなに遠くにいなかったらと思う。もしここにいてくださったなら私の兄は死ななかったでしょうに。」ということです。

でも、はっきりしていることは、イエス様が着いたとき、マリアとマルタにはイエス様がラザロを復活させることができるという考えが全然思い浮かばなかったということです。イエス様にラザロを復活させるように願おうという考えは全然思い浮かびませんでした。マルタは「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と言ったけど、24節と39節にあるマルタの言葉を見れば、マルタがイエス様がその日にラザロを復活させることを全然考えなかったということは明らかです。

それを読んで、私はこう考えました。「もうダメだ。祈り続けるのはもう無駄だ」と思うときがあるだろうか。

「イエス様がこの死んだものを復活できない。私の状況はもう復活の希望がない」と思うときがあるだろうか。

私はイエス様がそんなに小さな方だと思うだろうか。

イエス様が私が願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことができると思うだろうか。それとも、イエスができることについての私の概念はまだ小さすぎるのだろうか?

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私は信じる(ヨハネの福音書9章)

イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」

イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」

彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。」(35ー38)

天のお父さん、私がかつて目の見えなかった人の心を持つことができるように。あなたに開かれる心を持つことができるように。回りの人々が何を言おうとも、あなたをすぐに信じ、信頼し、礼拝し、従う心を持つことができるように。

パリサイ人たちの態度は全然違いました。彼らはわざと目をつぶり、明らかなことを信じることを拒み、あなたを信じることを拒みました。

私はパリサイ人たちのようになりたくないです。

だから、今日、そのかつて目の見えなかった人とともに、私はあなたのもとに来て、礼拝し、子供の心を持ち、「主よ、信じます」と言います。

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弟子のしるし(ヨハネの福音書8章)

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(31)

その言葉を読んだとき、イエス様は私の心に語りかけました。

弟子のしるしの一つはもちろん愛です。(ヨハネ13:34ー35)

でも、イエス様によれば、もう一つの弟子のしるしは、私たちがただイエス様を信じることだけではなく、私たちがそのことばにどどまることです。つまり、私たちはいつもそのことばに心を開き、受け入れ、従うことです。

37節では、イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。

ある英訳には、こう書いてあります。

私のことばはあなたの中で進行していません。

口語訳も興味深いです。

わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。

それを読んだとき、神様が私たちにこう訊いているように感じていました。「あなたは私のことばに心を開いているでしょうか。私のことばはあなたの中で進行しているでしょうか。」

私たちが神のことばに心を開くと、そのことばによって私たちは変えられます。私たちの考え方、私たちの行為は変えられます。私たちはイエス様のように考え、生き始めます。神の子どもたちのように考え、生き始めます。

そして、イエス様によれば、私たちが神のことばにとどまり、心を開き、そのことばを信じ、受け入れ、従うと、その真理は私たちを自由にします。(32)

あなたはどうですか。あなたは神のことばに心を開いているでしょうか。そのことばはあなたの中で進行しているでしょうか。

天のお父さん、あなたのことばは私の中でどこまで進行しているでしょうか。時々、私は「どうかなぁ」と思います。私があなたのことばに開いている心を持つように。教会のメッセージを聞くとき、聖書を読むとき、兄弟たちがあなたのことばをシェアするとき、そのことばが厳しくても、そのことばを聞きたくなくても、私がそのことばを聞き、受け入れ、従うように助けてください。なぜなら、私はあなたが良い方であることを信じているからです。また、あなたのことばによって、私が自由と喜びを知ることを信じるからです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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キリストの労苦の中に入る(ヨハネの福音書4章)

わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。。。わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです(直訳:ほかの者たちが苦労し、あなたは彼らの労苦の中に入りました)。(34、38)

「彼らの労苦の中に入りました。」

神様は私の心をその言葉で打たれました。

サマリアの女の人の証しによって、たくさんのサマリア人たちがイエス様を求めに来て、弟子たちはその女の人の労苦の中に入りました。彼らはイエス様の労苦の中に入ったとも言えます。イエス様が彼女と話しかけて、その言葉によって、彼女は興奮し、町の人たちにイエス様のことを伝えたのです。

とにかく、それを読んで、神様はこの考えを私の頭の中に入れました。「私はあなたと私の民のみながイエスの労苦の中に入ることを望みます。イエスは十字架でその労苦を始めました。他のクリスチャンたちは何百年もその労苦の中に入りました。あなたたちもその労苦の中に入ることを望みます。だから、目を上げなさい。罪によって死にかけている人々に目をつぶってはいけません。彼らには私が必要です。彼らを無視するな。むしろ、彼らに手を伸ばし、私の愛でか彼らに触れなさい。」

だから、今日このように祈りました。「天のお父さん、今日だけではなく、毎日私があなたの労苦の中に入るように。イエス様は私の回りの人々のために死にました。だから私を用いてください。私が彼らにあなたの愛で触れるように。私があなたの御心を行い、あなたのわざを成し遂げるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン」

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奇跡を求めるとき(ヨハネの福音書2章)

母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」(5)

あなたは今年、奇跡を求めているかもしれません。それは、身体の癒しかもしれません。それは、人間関係の癒しかもしれません。あなたは新しい仕事を探しているかもしれません。あなたは果てしのない問題の解決策を求めているかもしれません。

でも、その奇跡を求め、神様のもとに来るとき、マリアの態度を取りましょう。

「神様、私の問題を解決してください」と繰り返して祈るだけではなく、むしろ、イエス様に「あなたは私に何をしてほしいのか。あなたが言われることは私はします」と祈りましょう。

神様はそのような心を求めています。

神様は、神様をジーニーとして見る心ではなく、神様を操ろうとする心ではなく、むしろ、神様に完全に従う心を求めているのです。

そして、私たちが神様に従うと、私たちが分かるようになるのは、最大の奇跡が神様が私たちの状況にもたらす変化ではなく、神様が私たち自身の心にもたらす変化であることです。

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イエス様が私たちに与えたいもの(ヨハネの福音書6章)

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」。。。イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(26,35)

どうして、私たちはイエス様を求めているのでしょうか。どうしてイエス様のもとに行くのでしょうか。それは、私たちが単にイエス様から何かを求めているのでしょうか。それとも、私たちはイエス様に出会いたいのですか。私たちはイエス様を知りたいのですか。

もちろん、イエス様は私たちのニーズに備えたいと思います。でも、イエス様は他のどんなものよりも、自分自身を私たちに与えたいと思っています。なぜなら、イエス様こそが私たちの魂の飢えと乾きを満たすことができますから。

良い知らせは、私たちがイエス様のドアを叩けば、イエス様はいつもそのドアを開けてくださるということです。そして、イエス様はこう言います。

わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(37)

イエス様、今日、私はあなたのもとに来ます。私は、あなたから何かを求めているわけではありません。私が欲しいのはあなただけなのです。あなたをもっと知りたいのです。あなたがいつも私にドアを開けてくださり、感謝します。」

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私たちの主の模範に従う(イザヤ書50章)

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず。。。(4-5)

いろんな意味で、イエス様は4-7節にある言葉を成就しました。(マルコ1:35-38;ルカ9:51;ヨハネ12:23-33;マタイ26:67;ヨハネ19:1-3)

でも、4-5節にあるイエス様の模範に私は特に従いたいです。今年だけでなく、残りの人生も従いのです。

疲れた者を言葉で励ますため、キリストの弟子の舌を持ちたいです。

でも弟子の舌を持つため、私にはキリストの弟子の耳が必要です。毎朝、私はイエス様に時間をささげ、私への主の言葉を聞かなければなりません。

でもそれだけではなく、キリストの弟子の心が必要です。私は毎日毎日、一瞬一瞬イエス様を私の主として従わなくてはなりません。

天のお父さん、私にキリストの弟子の耳をお与えください。私へのあなたの言葉を聞きたいのです。

また、私が疲れた者にあなたの命の言葉を与えるために、キリストの弟子の舌をお与えください。

そして、キリストの弟子の心をお与えください。私が毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様に私の主として従うように。

イエス様、私はあなたのようになりたいです。アーメン

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神様に信頼するように自分の心を導く(マラキ書3章)

今年、私の教会では、自分の心に単に従ってはいけないということを学んでいます。なぜなら、私たちの心が間違った道に私たちを導いてしまうときもあるから。だから、心に従わず、むしろ、神様に従うように、私たちは自分の心を導くべきです。

そんな態度を取るのはとても大切です。なぜなら、この壊れた世界では、私たちの考え方がひねくれてしまうのは簡単なことですから。

ユダヤ人たちはそのようになりました。彼らはバビロンの追放から戻ってきて、神殿もエルサレムの城壁も再建されたけど、まだたくさんの問題に直面しました。

そういうわけで、彼らは神の愛と神の正義を疑ったし(1:2;2:17)、神様に仕える価値を疑いました(3:14)。

その態度は彼らが神様に接し方に表れています。つまり、彼らは神様を侮ったり(1:6-8)、神様のものを盗んだりしたのです(3:14)。

さらに、その態度は、ユダヤ人たちが自分の妻たちへの接し方(2:14-16))、また、互いへの接し方に表れています。(3:5)

でも、すべてのユダヤ人がそのような態度を取っていたわけではありません。自分の状況にかかわらず、周りの人々の態度のかかわらず、彼らは自分の心を導いて、主に従い続けました。

神様が自分を愛していることを信じることを選びました。神様がいつかこの世には、正義をもたらすと信じることを選びました。だから彼らは神様に忠実に仕え続けました。

その結果は?

主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。

「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」(3:16-17)

この世の問題や、自分の問題を見るとき、自分の考え方はひねくれてしまっているでしょうか。

自分の心を導き、神様に信頼し、従うことを選ぶでしょうか。

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私たちの大祭司の模範に従う(マラキ書2章)

イエス様、あなたは私たちの完全な大祭司です。あなたは天の父を恐れ、その名の前におののきました。あなたの口には真理のみおしえがあり、あなたの唇には不正がありませんでした。あなたは平和と公平さのうちに天の父とともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせました。あなたの唇は知識を守り、人々はあなたの口からみおしえを求めました。

でも、あなたは今すべてのクリスチャンたちをあなたの祭司としました。あなたは私さえも祭司としました。私たちを王国とし、あなたの父である神のために祭司としてくださいました。(黙示録1:6)

だから、毎日、私があなたに追随するように。私が天の父を恐れ、その名の前におののくように。私の口に真理のみおしえがあり、私の唇に不正がないように。私が毎日毎日、一瞬一瞬、平和と公平のうちに天の父と共に歩み、多くの人々を不義から立ち返らせるように。私の唇が知識を守り、人々が私の口からみおしえを求めるように。

天のお父さん、私にはその仕事をする資格がないと感じています。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいるのです。でもあなたの恵みによって、あなたは私の唇に触れ、私の不義を取り去り、私の罪も贖ってくださいました。(イザヤ書6:5-6)

だから、私はあなたのみ前に立ち、言います。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)

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神様が私たちに愛といつくしみを与えてくださったから(テトスへの手紙3章)

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(4-5)

「人に対する愛。」

上の言葉は私の目に留まりました。

なぜなら、3章では、パウロはこのようなことも言いました。

あなたは人々に注意を与えて、その人々が。。。すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。(10)

神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

なぜ私たちはそうするべきなのでしょうか。

なぜなら、神様はまず私たちに愛といつくしみを与えてくださったから。

だから、神様が言葉だけではなく、行為でも私たちを愛しているように、私たちも周りの人々を行為で愛するべきです。

今日、神様は私に尋ねました。「私と同じように、周りの人を愛していますか。」

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真の礼拝(テトスへの手紙2章)

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(14)

最近、私はこの疑問について考えます。人々が「ワーシップするのが好きです」と言うとき、それは何を意味しているのだろうか。
また、私は何を意味しているのだろうか。

多くの人々はそれを言うとき、「賛美するとき、私は本当に嬉しいです。神様の愛を感じるから。神様が私とともにおられることを感じるから」ということを意味します。

実は、アメリカ人として、「ワーシップ」という言葉を聞くとき、賛美することをよく考えるので、そのような人々に共感できます。

でも、日本では、聖書の翻訳者たちは「ワーシップ」ではなく、「礼拝」という言葉を使います。

「礼拝」とは何ですか。それはただ賛美することですか。礼拝はただ神様に愛の歌を歌うことですか。礼拝はただの教会での日曜日の集まりなのですか。

それは違います。

礼拝は、真のワーシップは、イエス様が素晴らしいあわれみのゆえに十字架にかけられたことを認めるものです。さらに、真のワーシップは、どうしてイエス様がそうしてくださったかを理解します。それは、私たちをご自分のものとし、罪から清め、良いわざに熱心な民とするためです。

私たちはイエス様のものになりました。私たちはイエス様に属しているものです。

だから、礼拝、ワーシップとは、ただ神様に愛の歌を歌うことではありません。

ワーシップとは、「私の人生はすべてあなたのものです。私の時間、お金、すべてのものをあなたにささげる」と言う生活を送ることです。

ローマ書11ー12章では、パウロはその事について話しました。パウロは歌を歌ったけど、その歌はただの神への愛唱ではありませんでした。むしろ、パウロは「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように」と歌いました。(ローマ11:36)

そして、パウロは真のワーシップを定義します。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)

あなたはどうですか。「ワーシップが大好き」というとき、パウロのワーシップの定義を使っているのですか。

天のお父さん、私が本当にワーシップを愛するように。私が何も隠さず、喜んで私のすべてをあなたに捧げるように。あなたをそのようにワーシップするのは、ふさわしいのです。なぜなら、あなたは私を造り、あなたのみこころゆえに、私は存在し、また造られたのですから(黙示録4:11)。すべてのものがあなたから発し、あなたによって成り、あなたに至るのです。だから、私の歌の中だけではなく、私の人生の全体において、あなたに栄光がありますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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クリスマス12日目

これは12回のシリーズの最後の記事です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。(創世記29:35)

ヘブライ語では、「ユダ」は「ほめたたえる」を意味する言葉に聞こえます。

ユダはヤコブの四男だったけど、イエス様はユダの系図に属するので、ユダの話でこのシリーズを終えるのがふさわしいと思いました。

ユダが生まれたあと、レアはしばらくの間、自分の苦しみから目を離し、心の穴をヤコブの愛で埋めようとするのをやめました。むしろ、レアは、神様に向かって賛美しました。

今年、レアの模範に従いましょう。でも、一日だけではなく、一週間だけではなく、一ヶ月だけではなく、むしろ、毎日、毎朝、自分の心を導き、自分の問題と苦しみを目を離し、イエス様を仰ぎ、こう言いましょう「今日、今日、私は主をほめたたえることを選びます。」

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クリスマス11日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。(創世記35:16-18)

ベン・オニとは、「私の悲しみの子」という意味です。

その反面、ベニヤミンとは、「右手の子」という意味もあります。

どちらの名前もイエス様に当てはめることができます。

預言者イザヤはイエス様に関してこう言いました。

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。(イザヤ53:3)

でも、十字架の後、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。(エペソ1:20-21)

「悲しみの子」、「神の右手の子」であるイエス様をほめたたえましょう。

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クリスマス10日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。彼女は身ごもって男の子を産み、「神は私の汚名を取り去ってくださった」と言った。彼女は、その子をヨセフと名づけ、「主が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」と言った。(創世記30:22-24)

ヘブライ語では、ヨセフは「取り去られた」を意味する言葉に聞こえるけど、「加える」ことを意味します。 

神様がラケルに息子を与えて、ラケルの汚名を取り去ったように、イエス様の十字架の働きによって、神様は罪による私たちの汚名を取り去りました。

さらに、イエス様のおかげで、神様は毎日私たちに恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。

背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイ2:13-14)

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。(ヨハネ1:16)

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クリスマス9日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

レアはまた身ごもって、ヤコブに六番目の男の子を産んだ。レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶでしょう。彼に六人の子を産んだのですから。」そしてその子をゼブルンと名づけた。(創世記30:19-20)

ヘブライ語では、ゼブルンは「尊ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

私たちは何をしても、望んでいる人から名誉を受けることはないかもしれません。レアがヤコブに6人の子を産んだのに、聖書ではヤコブがラケルを尊ぶのと同じように、レアを尊ぶという示唆はありません。

でも神様はイエス様を信じる私たちに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。それは私たちの行いのためではなく、イエス様が私たちのためにしてくださったことのためです。

「あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、 万物を彼の足の下に置かれました。」。。。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。(へブル2:7-10)

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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クリスマス8日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。そこでレアは、「私が女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった」と言って、その子をイッサカルと名づけた。(創世記30:17-18)

ヘブライ語では、「イッサカル」は「報酬」を意味する言葉に聞こえます。

レアが女奴隷をヤコブに与えたために、神様が実際にレアに報酬を与えたことは本当に疑わしいです。

でもそれは罪の問題です。罪は私たちに良いものを与えていると主張し、私たちを騙してしまいます。 罪は、「神様があなたに報酬を与えてくださっている」と主張するときもあります。

イエス様にある神の無償の賜物を受ける取る方が良いのではないでしょうか。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

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クリスマスの7日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

レアの女奴隷ジルパはヤコブに二番目の男の子を産んだ。レアは、「なんと幸せなことでしょう。女たちは私を幸せ者と言うでしょう」と言って、その子をアシェルと名づけた。(創世記30:12-13)

アシェルとは、「幸せ」という意味です。

レアは心の穴を埋めるため、ヤコブに女奴隷であるジルパを提供して、ヤコブはジルパと寝ました。そうすることで、レアは幸せでした。でも、その幸せはすぐになくなりました。20節では、レアはまだ心の穴をヤコブの愛で埋めようとしています。

でも何百年も後、アシェルの子孫アンナは本当の幸せがどこから来るか知りました。ルカ2:36ー38では、アンナの話を読むことができます。アンナは若いときに結婚したけど、7年後、その夫は亡くなりました。残りの人生、アンナは神を夜も昼も求めました。

でもある日、アンナはイエス様を見て、その穴が埋まりました。

ちょうどそのとき(アンナ)も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの購いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子ことを語った。(ルカ2:38)

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クリスマスの6日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

レアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与えた。レアの女奴隷ジルパはヤコブに男の子を産んだ。レアは「幸運が来た」と言って、その子をガドと名づけた。(創世記30:9-11)

ガドとは、「幸運」という意味です。

子供はもちろん神様からの祝福です。でも、幸運のためにレアは代償を払わなくてはなりませんでした。レアがヤコブにもう一人の女性を提供したので、彼は4人の妻と寝ていました。それは本当に幸せなことでしょうか。それは本当に幸運でしょうか。

私たちがそのような「幸運」を求めないように。むしろ、キリストにある祝福を求めましょう。

その祝福で一番嬉しいことを知っているでしょうか。

十字架で、イエス様はその祝福の代価を支払ってくださったことです。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)

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クリスマスの5日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

ラケルの女奴隷ビルハは再び身ごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。(創世記30:7-8)

へブライ語では、「ナフタリ」は「私の戦い」を意味する言葉に聞こえます。

心の穴を埋めることができないもののために、私たちは相手と戦うことがどれだけあるだろうか。ラケルの場合、ヤコブの愛のためにレアと戦いました。

でも、最終的に、私たちの戦いのあと、私たちはまだその心の穴を感じます。神様こそがその穴を埋めることができます。だから、賜物ではなく、賜物を与えてくださるかたを慕い求めましょう。

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(ヤコブ4:1-3)

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クリスマスの4日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を与えてくださった」と言った。それゆえ、彼女はその子をダンと名づけた。(創世記30:6)

結婚式の夜、ラケルはレアにヤコブを奪われました。おまけに、ヤコブはその後にラケルとも結婚したし、レアよりもラケルを愛していたのに、レアは4人の息子たちがいたけど、ラケルはまだ子どもがいませんでした。だから、ラケルは自分の女奴隷をヤコブに提供しました。ヤコブはビルハと寝て、その子どもたちはラケルの子供たちと認められました。

へブライ語では、「ダン」は「裁く」や「正当化」を意味する言葉に聞こえます。

神様が実際にレアかラケルの間で、どちらに有利な判断をくだしたか本当に疑わしいです。

でも、神様がイエス様を信じる私たちに有利な判断を下したことは確かです。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34)

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クリスマスの3日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

彼女はまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくでしょう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と言った。それゆえ、その子の名はレビと呼ばれた。(創世記29:34)

「レビ」はヘブライ語語で「結ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブの愛を切望し、ヤコブと結ばれることを切望しました。

多くの人々はそのような愛を切望します。

イエス様において、神様は愛を与え、私たちが神様と結ばれました。

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。(エペソ2:12-13)

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クリスマスの2日目

この記事は12回のシリーズのうちの一回です。このシリーズでは、クリスマスと私たちへの神様のメッセージに照らして、ヤコブの12人の息子たちの名前を再解釈しています。

彼女は再び身ごもって男の子を産み、「主は私が嫌われているのを聞いて、この子も私に授けてくださった」と言って、その子をシメオンと名づけた。(創世記29:33)

「シメオン」はヘブライ語で「聞く」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブに嫌われ、軽視されたので、傷つき、苦しんでいました。

でも、神様はレアの叫びを聞いてくださいました。同じように、神様はご自分を愛している人々の叫びを聞いてくださいます。

また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(黙示録8:3-4)

主の目は、正しい人たちの上にあり、主の耳は、彼らの叫びに傾けられる。。。苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、そのすべての苦難から救い出してくださる。主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34:15,17-18)

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クリスマスの1日目

メリークリスマス!

今日から、クリスマスの12日のため、特別なデボーションをします。このデボーションは私の最近の説教に基づいています。それをここで聞くことができます。

その説教では、私はヤコブの12人の息子たちの名前を取り上げました。ラケルとレアの苦悩から生まれた名前だったけど、クリスマスと私たちへの神のメッセージに照らして、その意味を再解釈しました。

今日は、ルベンの話を取り上げます。

主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。レアは身ごもって男の子を産み、その子をルベンと名づけた。彼女が、「主は私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するでしょう」と言ったからである。(創世記29:31-32)

ルベンとは、「子を見よ」と言う意味です。

レアはヤコブに「見てください。私はあなたに息子を生んだよ。私を愛してください。」と言っていました。

でも、神様は私たちを見て、こう言います。「見よ、私の子を与えたよ。私はあなたを愛している。」

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。(第一ヨハネ4:9)

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クリスマスの歌(イザヤ書25章)

主よ、あなたは私の神。 私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。 あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、 まことに、真実に成し遂げられました。(1)

クリスマスがもうすぐなので、今朝、上の歌は私の心に響きました。

神様の遠い昔からの不思議な計画を真実に成し遂げ、御子イエス様をこの世に送られました。

でも、25ー26章では、イザヤはイエス様の初臨ではなく、イエス様の再臨について話しているようです。

イエス様はこの世にもう一度来ると、正義をもって、すべての悪を滅ぼします。その後、イエス様は最後の敵を克服します。その敵は死です。今、死はベールのようにこの世のおおうけど、神様はそのベールを取り除き、 永久に死を飲み込まれます。神様は私たちの罪の恥を取り除き、すべての顔から涙をぬぐい取ってくださいます。(7ー8)

パウロもヨハネもその事をもっと具体的に話すので、彼らの言葉をどうぞ読んでください(第一コリント15:20ー28,51ー57;黙示録20:7ー21:4)。

とにかく、その日、私たちはイエス様を見て、以下のクリスマスの歌を歌います。もちろん、今でも私たちは歌うことができるけど、イエス様がもう一度来るとき、私たちはその歌の意味をもっと深く知ることになるでしょう。

見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。 私たちを救ってくださる。 この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。 その御救いを楽しみ喜ぼう。(イザヤ25:9)

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偽ることのない神(テトスへの手紙1章)

それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。(2)

「偽ることのない神。」

今朝、その言葉は何となく私の心に響きました。

その言葉は、私の希望の土台です。神様は偽ることのない方だから、約束されたことを必ず実行される。その中には、神様が永遠の昔から約束した永遠のいのちも含まれています。

その約束はイエス様において、成就しました。

ルカの福音書にあるシメオンの言葉を連想しました。

主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。(ルカ2:29-32)

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神の御心を悟る(エペソ人への手紙5章)

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。 ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(15-17)

天のお父さん、この世界を歩むとき、私があなたの御心の大局を心に留めるように。あなた御心はすべてのものが御子の支配下に集められることです。(エペソ1:9ー10)

それは私を含み、私の回りの人々を含み、被造物の全体を含みます。

でも、あなたの御心の大局を心に留めるながら、あなたが今日、私に何を望んでいるのか分かりますように。

回りの人々に触れるあなたが与えてくださる機会を見ることができるように。私がサタンの捕虜を救出し、あなたの国に導くように助けてください。彼らに対するあなたのあわれみ深い心を与えてください。私が毎日あなたの愛のうちに歩むように。そして、私があなたが与えてくださる機会を十分に活かすように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちのうちに働く神の御力(エペソ人への手紙3章)

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。。。(3:20)

今日、「私たちのうちに働く御力」という言葉を考えました。

今まで、それを読むと、神様の力が私を通して働き、回りの人々に触れることを考えました。

でも、今日私が考えたのは、神様の力が私を変えるため、私のうちに働いているということです。そして、その過程に関して、神様は私が願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことができます。

問題に直面するとき、私はしばしば、神様が私の問題を取り除くように祈ります。私の状況を変えるように祈ります。

神様の恵みによって、そうしてくださる時もあります。

でも、多くの場合、神様は私たちの状況を変えようとはしません。

むしろ、神様は御子のかたちと同じ姿に私たちを変えたいと思います。(ローマ8:28)

でも、時には私たちは、それは無理だと思います。

最近、私の牧師は、自分の心を導くことについて話しています。(箴言23:19)

でも時々、それは難しいものです。特に人に傷つけられて、私たちが許さなければならないときです。

相手に謝って欲しいのです。相手が変わることを望むのです。

それと同時に、まず相手が変わらなければ、まず私たちの状態が変わらなければ、自分たちの心が変るのは無理だと主張します。

でも、神様は私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方です。

なぜでしょうか。

なぜなら、イエス様を復活させた力は私たちのうちにも働いているからです。

でも、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

天のお父様、あなたの愛に私を根差してください。私がその愛の確信をもって、生きるように。私があなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解して、私の心の穴が埋められ、私の傷が癒されるように。私の状況や回りの人々を変えるように祈りません。むしろ、私を変えてください。私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできるあなたの力によって、私をイエス様のように変えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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しかし神は(エペソ人への手紙2章)

しかし、あわれみ豊かな神は。。。キリストとともに生かしてくださいました。。。 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。。。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(4ー6,10)

今朝、神様の恵みに驚嘆していました。

ギリシャ語では、パウロは「私たちは神の作品」と書いたとき、「神の」という言葉を強調しました。

私は、「なぜ「神の」という言葉を強調しただろうか」と思いました。

でも、4節をもう一度読みました。「しかし、神は。。。」

私の犯した罪によって、私は霊的に死んでいて、神様から遠く離れていました。自分の犯した罪によって、私は御怒りを受けるべき子で、地獄にふさわしい人でした。

しかし、神は。。。

神様は私を生かしてくださいました。イエス様の血によって、神様は私の罪を赦してくださいました。神様は私をともによみがえらせ、イエス様とともに天上にご自分のとなりに座らせてくださいました。

なぜでしょうか。

私が素晴らしい人だからではありません。私の良い行動のためではありません。

むしろ、私たちへの神様の愛とあわれみのためです。

神様は母の胎の内で私を組み立てたとき、私は神の傑作(英訳)でした。(詩篇139:13ー14)

私の罪によって、その「傑作」は傷があって、壊れました。でも、恵みによって、神様は私を新しく造りました。

私は神様が二回造った傑作です。

でも、神様は人々が私を観賞するためだけに造ったのではありいません。私は特別の目的のために造ったのです。それは、神の国のために、人々に触れることです。毎日、その良い行いに歩みたいです。

あなたも神の傑作です。あなたは、神様が二回造った傑作です。その真理を喜びましょう。そして、毎日、神様が与えてくださった行いに歩みましょう。

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羊飼いの歌?(イザヤ書12章)

今日、アドベントのディボーションを読んでいて、羊飼いの話を考えました。彼らは天使を見たとき、どう感じたでしょうか。ルカの福音書によれば、彼らはとても恐れました。なぜでしょうか。

神様は400年ぐらいユダヤ人たちに何も言いませんでした。でも、急に、神様はその沈黙を破りました。なぜでしょうか。彼らを裁くためでしょうか。

違います。良い知らせを伝えるためです。

神様の怒りは去りました。そして、神様は御子を通して救いをもたらしています。

羊飼いたちは天使たちの言葉を聞いたとき、イザヤ書12章が思い浮かんだでしょうか。たぶんそうではありません。でも、彼らがイザヤの言葉を連想したなら、その歌を歌ったでしょう。

主よ、感謝します。 あなたは私に怒られたのに、 あなたの怒りは去り、 私を慰めてくださったからです。」 見よ、神は私の救い。 私は信頼して恐れない。 ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。(1ー2)

エッサイの根、つまり、イエス様は来ました。(イザヤ書11:1ー5,10)

そして、イエス様を見てから、羊飼いたちは回りの人々にその良いニュースを知らせました(ルカ2:16ー18)。

シオンに住む者よ。 大声をあげて喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、 あなたの中におられる大いなる方。(イザヤ書12:6)

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あなたのため(イザヤ書9章)

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(6)

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。」

上の言葉を読んだとき、イエス様が生まれた夜に羊飼いたちに言った御使いの言葉を連想しました。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)

御使いは羊飼いたちにその良い知らせを伝えた時、イザヤの言葉を考えていたでしょうか。私はそう思います。

御使いはただ、「救い主がお生まれになりました」と言うこともできたでしょう。

または、「イスラエル人のために救い主が生まれになりました」と言うこともできたでしょう。

でも、御使いは「あなた方のために救い主が生まれになりました。勢力のある人のためだけではなく、一般人のためです。あなたのためです。」

そして、御使いは羊飼いたちを生まれたばかりの王を見に行くように誘いました。

その王は兵士に守れた宮殿にいませんでした。その王の父親と母親(と、おそらく家畜)しかそこにいたので、羊飼いたちさえその王を訪ねることができました。

救い主はあなたのためにお生まれになりました。

羊飼いたちのように、自分も取るに足りない人と思うかもしれない。自分があまり価値がないと思うかもしれない。

でも、イエス様はあなたのためにお生まれになりました。

あなたのために。

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神様を信じることを選ぶ(イザヤ書7章)

アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、神である主はこう言われる。それは起こらない。それはあり得ない。(5-7)

上の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれだけ実際に起こらないことを心配しているだろうか。」

心配で眠れないことがあったけど、多くの場合、私が心配したことは起こらなかった。

神様を信じる方がいいでしょう。

神様が私とともにおられることを覚えている方がいいでしょう。

2千年前に神様は私と共におられるというしるしを与えてくださいました。そのしるしは飼葉おけに寝ておられた赤ちゃんでした。

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(7:14)

マタイによれば、「インマヌエル」とは、「神が私たちと共におられる」を意味します。(マタイ1:22-23)

アハズが神様に信頼するを拒むことを批判するのは簡単なことです。

でも、私はどれだけ神様が与えてくださったしるしを無視して、神様に信頼しないでしょうか。

イエス様、あなたがいつも私と共におられます。あなたは本当にインマヌエルです。だから、私が心配することを誘惑されるとき、あなたに向かい、信頼するように助けてください。

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聖なる神、恵み深い神(イザヤ書6章)

これは聖書の中で私がもっとも好きな箇所の一つです。この箇所を読むと、私はいつも感動します。

今日、神様の聖さと恵みを考えていました。

セラフィム(ある種の天使)は叫びました。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。(3)

残念なことですけど、ウジヤ王はその生涯の後半において、神様の聖なるさを認めることを拒み、神様の目から見てひどい罪を犯してしまいました。(歴代誌第二26:16ー21)

その反面、イザヤは神様の聖なるさを認め、叫びました。

ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の主である王を この目で見たのだから。(5)

でも、それと同時に、私たちは神様の恵みも見ることができます。

皮肉なことに、イスラエルに対する神様の裁きに私たちはその恵みを見ることができます。神様はイザヤに、「この人々の心を肥え鈍らせなさい。」

どのように、イザヤは彼らの心を肥鈍らせたでしょうか。彼らが聞きたくない真理を述べ伝えることによって、イザヤはそうしたのです。

最終的にイスラエルはバビロンに倒されました。でも、イザヤの言葉によって、「切り株」が残りました。その「切り株」は神様に忠実な人たちでした。例えば、ダニエルやエゼキエルやネヘミヤやエズラはずっと神様に忠実に仕えました。

そして、その「切り株」を通して、イエス様は来て、私たちを救ってくださいました。

幻でイザヤが見た王は、王座から下り、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。(ヨハネ12:23ー41)

それがクリスマスの意味です。王は私たちを救うためにご自分の王座からくだり、この世に来てくださいました。だから今、イザヤのように、私たちは自分の恥と咎をもって、イエス様のみ前に来るとき、イエス様は恵みをもって、私たちに言います。「あなたの咎は取り除かれ、 あなたの罪も赦された。」

だから私たちは歌います。

Joy to the world!
世界に喜びを!

The Lord is come!
主は来られた!

Let earth receive her king!
この世の民はその王を迎えよう!

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いつ癒しが来るか(イザヤ書1-2章)

天のお父さん、私たちはあなあたの家の山が堅く立つ日を待ち望んでいます。戦争が終わる日を待ち望んでいます。正義をもってすべての悪人が裁かれる日を待ち望んでいます。すべての人々があなたを求める日を待ち望んでいます。(2:2-4)

癒しはいつ来るだろうか。この世とその民は霊的に病気です。(1:5-6)

なぜだろうか。なぜなら、彼らは自分たちの主を認めないから。彼らはいのちの源が分からないから。彼らの心の飢えを満たすことができる方を知らないから。むしろ、彼らはあなたを捨て、侮り、あなたに背を向けました。(1:3-4)

いつ癒しは来るだろうか。

私たちのお金や私たちが自慢できるものによって、癒しはもたらさない。(2:7-18)

私たちの政治家によって癒しは来ない。(2:22)

この世界はあなたを王、主、神として認めて初じめて、癒しを知るのです。

わたしたは、形だけではなく、心からあなたを求めて初めて、癒しを知るのです。(1:11-19)

その日、人々はこう言います。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。(2:3)

でも、あなたの民は最初にそうしなければなりません。私たちは心からあなたを求めなければなりません。

だから、あなたを求める飢えを私の心に与えてください。一瞬一瞬、日々日々、私があなたを信頼、頼るように助けてください。毎日、私があなたのみ言葉、御心、知恵、力を求めるように。

この壊れた世界、また、その壊れた人々に、あなたの御国が来ますように。

そのために私を用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちが何に心を留めるか(ピリピ人への手紙4章)

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。

8節を読んだとき、「私はどのようなことをいつも考えているだろうか」と思いました。

最近、私は、いろんなことをくよくよします。

政治的な問題。社会問題。ガザとイスラエルの問題。

また、個人的な問題。つまり、家庭の問題。

でも、私がそのようなことをくよくよすると、フラストレーションや怒りや悲しみや心配に至ります。

平安に至ることは全然ないでしょう。

だから、神様は私によく言います。「焦点を変えなさい。テレビやインターネットを消しなさい。頭の中で人と議論するのをやめなさい。私に向かいなさい。」

そして、私は神のみ言葉を読みます。神のみ言葉に私の考え方を形成させます。神様のみ言葉によって、私は真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いことに、徳とされることや称賛に値することに注意を向けます。

また、私の考えていることをすべてイエス様に話します。

パウロの言葉借りれば、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、自分の願い事を神様に知っていただきます。」

あなたはどうですか。どのようなことをいつも考えているでしょうか。

イエス様、あなたはブドウの木で、私は枝です。私のいのちと霊的な栄養はあなたから流れます。だから、私があなたのことに心を留めるように。私が一日中、何のことを考えているかあなたはよく知っておれられます。でも、私がそのようなことをくよくよしないように助けてください。むしろ、私があなたにとどまり、あなたのことを考えるように。あなたは私のいのちですから。

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私たちの希望(ピリピ人への手紙2章)

私の好きな聖書の箇所の一つはピリピ1:6です。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

ピリピ2:12―13では、パウロはその真理をもっと詳しく説明します。

。。。恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

クリスチャンとしての私の希望は、自分の罪と弱さにもかかわらず、神様が私のことを決して諦めないということです。神様が始められた良い働きを完成させてくださいます。今なお、神様は私の心の中で働いて、イエス様のようになろうとする思いと力を与えてくださいます。

時々、その過程が進むのがとても遅く感じられます。今でも自分の欠点はよく見えているのです。私は完全な人どころではありません。でも、振り替えると、神様が私をだんだん変えてくださったことを見ることができます。

だから、私への神様の日々の素晴らしい恵みに畏敬の念を抱きます。そういうわけで、私は神様に従い続けているのです。私の動機は罪悪感や神様の怒りではありません。神様が私を拒絶するのを心配することはありません。

むしろ、神様の素晴らしい恵みのゆえ、私は神様に従っているのです。

それはあなたの希望でしょうか。

神に従おうとする動機は何ですか?

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戦え!(コロサイ人への手紙4章)

彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。(12)

「彼はいつも。。。あなたがたのために祈りに励んでいます。」

「励む」という言葉は新約聖書では「戦う」と訳されるときもあります。(第一テモテ6:12;第二テモテ4:7)

だから、パウロの言葉を「彼は祈りによっていつもあなた方のために戦っています」と訳すことができるでしょう。

その言葉は私の心に響きます。

私はどれだけ祈りによって、人々のために戦うだろうか。

今、私は特に二人の苦しんでいる人たちについて考えています。でも、ほかの苦しんでいる人たちも知っています。

だから、神様が「彼らのために祈って戦いなさい」と言っているような気がします。「戦いなさい。ただ短く形だけの祈りを祈ってはいけまない。彼らのために戦いなさい。」

神は今、あなたが誰のために戦うことを望んでいるのか?

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神様の目で私たちの兄弟たちと姉妹たちを見る(コロサイ人への手紙3章)

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(12ー15)

時々、私はキリストにある兄弟たちと姉妹たちにイライラさせられてしまいます。

でも、今日の箇所を読んだとき、神様は私に大切なことを思い出させました。

もちろん、私は神様に選ばれたもの、聖なるもの、愛されているものです。

でも、私の兄弟たちと姉妹たちも同じです。

そういうわけで、彼らと接するとき、私は慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着るべきです。

また、神様は、私が忍耐を持って、彼らを許し、愛するように命じます。

神様が私たち皆を自分の子どもたちとして大事にするので、キリストの平和が、私たちの心を支配するようにすべきです。

神様がどのように彼らを見るか忘れてしまうと、私たちの心の中で彼らを罵るのは簡単なことになります。でも、そうすることで、私たちは間接的に神様を冒涜してしまいます。なぜなら、私たちは神様の似姿に造られた人を罵るから。(ギリシャ語では、「罵る」という言葉は神様について使われるとき、常に「冒涜」と訳されます。)

だから今朝、神様が私に思い出させたのは、ご自分の子どもたちの皆は神様に選ばれたもの、聖なるもの、愛されているものであることです。だから、特に私は自分の妻と娘を見るとき、その真理を覚えていて、彼らに接するべきです。

あなたはどうですか。どのように兄弟たちと姉妹たちを見ているのでしょうか。

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あらゆる点で主に喜ばれ、主に完全に受け入れられる(コロサイ人への手紙1章)

こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(9-10)

「あらゆる点で主に喜ばれる。」

今朝、その言葉は私の心に打ちました。私がの望むのは、自分があらゆる点で主に喜ばれることです。でも、私は何回も失敗してしまいます。私が主にふさわしく歩んでいないときが多いです。

だから、パウロの下の言葉は心強いものです。

今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。(22)

私がいつも主にふさわしく歩んでいると言えません。自分があらゆる点で主に喜ばれると言えません。

でも、イエス様の十字架のみわざによって、神様の目には、私は聖なる者、傷のない者、責められるところのない者です。

簡単に言うと、私は神様に受け入れらているのです。

私は完全に受け入れられているのです。

あなたはどうですか。

その確信をもって、毎日イエス様と共に歩んでいるでしょうか。

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神様がなさっていなかったこと(マタイの福音書27章)

「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」

しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」(4)

私が驚いたのは、祭司たちがユダに対する反応したように、神様が私たちに反応しなかったことです。

私たちのとがと恥をもち、神様の御前に来て、「私は罪を犯した」と告白したとき、神様は「私には関係ない。自分で始末しなさい」と言いませんでした。

神様はそうしていたら、私たちをユダのように絶望と死に陥れていたでしょう。

でも、神様はそうせずに、むしろ、御子を送ってくださいました。

彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 しかし、主は私たちすべての者の咎を 彼に負わせた。(イザヤ53:5ー6)

I’ll never know why you did what you did.
私には、なぜあなたがあんなことをしたのか理解できない。

You didn’t have to die, but you did.
あなたが死なないことを選ぶことができたけど、私のために死んでくださった。

You hung on the cross so that I wouldn’t be lost.
私が滅びないために、あなたは十字架でかけられた。

You took my place, now you’re pleading my case.
私の代わりに死んでくださっただけではなく、今あなたは私を擁護してくださっているの。

You didn’t have to do it, but I’m glad you did.
あなたは死なないことを選ぶことができたけど、私のために死んくださって、私は感謝します。

You didn’t have to do it, but I’m glad you did.
あなたは死なないことを選ぶことができたけど、私のために死んくださって、私は感謝します。

-クリスタル・ルイス

 

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あなたのみこころがなりますように(マタイの福音書26章)

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。。。御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。」(マタイ6:9ー10)

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

天のお父さん、十字架で死ぬ前の夜、「弟子の祈り」でイエス様が教えた言葉を、イエス様自身は祈りました。

人々がそのように祈るべきだと教えるのは簡単なことです。

一般的な日常の祈りとして、その言葉を祈るのは簡単なことです。

でも、私が直面したくない問題があるとき、その言葉を祈るのは難しいです。

その祈りが自分の人生に実際に関わるとき、私はその言葉を祈ることができるだろうか。特に、あなたのみ心が私が試練や苦しみに直面しなければならないというものであるとき、私はそのように祈ることができるだろうか。あなたの良い性格を疑わず、また、苦々しい思いを抱かず、私はまだあなたを「父さん」と呼ぶことができるだろうか。

イエス様、ぺテロと他の弟子たちと同じように、私は弱いものです。

だから、特に私よりも大きな問題に直面するとき、自分の力で耐えられない試練に直面するとき、あなたが祈ったように、私も「あなたのみこころがなりますように」と祈れる恵み、力、信仰を与えてください。

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ただ人々を責めているだけなのか?(マタイの福音書23章)

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(4)

パリサイ人たちと律法学者たちは回りの人たちの罪をよく指摘しました。

でも、彼らは罪の重荷に苦しんでいる人たちに手を伸ばし、あわれむことはありませんでした。

イエス様の言葉を読んで、私は考えました。「私はただ人々の罪を指摘するだけなのだろうか。それとも、自分たちの罪によって苦しんでいる人々を私はすぐに助けてあげるのだろうか。」

たぶん、パウロは上のイエス様の言葉を考え、この言葉を書いたでしょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ人への手紙6:1ー2)

天のお父さん、パリサイ人たちと律法学者たちと違って、私はただ人々の罪を指摘したくないです。私が罪によって苦しんでいる人たちに対するイエス様の心を持つように。あわれみの心を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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聖書を知らないのか?(マタイの福音書22章)

サドカイ人たちがイエス様にバカな質問を訊いた時、イエス様はこう答えました。

そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。(29)

イエス様は私たちに関してそう言えるでしょうか。

私たちは聖書をちゃんと知らないため、どれだけ自分の世界観が間違っているでしょうか。

私たちは聖書をちゃんと知らないため、どれだけバカな決断をするでしょうか。

私たちは聖書をちゃんと知らないため、私たちの偉大なる力強い神様がどれだけ小さく見えるでしょうか。

イエス様がサドカイ人たちに関する言葉を私たちに当てはめることがないように。むしろ、神様のみ言葉を愛して、読みましょう。そうすれば、私たちは神のように考えるようになり、神様を親しく知るようになります。

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神様が求める実(マタイの福音書21章)

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。(43)

今日の箇所、特に、上の言葉を読んだとき、パリサイ人たちとサドカイ人たちへのバプテスマのヨハネの言葉を連想しました。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。。。 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ3:8ー10)

神様が求めている実は何でしょうか。それが悔い改めにふさわしい実です。

収税人や遊女たちはそのような人だったから神の国に入りました。でも、宗教的なリーダーたちは悔い改めることを拒んだので、神の国に入ることができませんでした。(31ー32)

二人の息子に関する例え話では、イエス様はその二つの態度の違いを描写しました。(28ー30)

そして、いちじくの木を呪うことと、ぶどう園の例え話によって、イエス様は悔い改めにふさわしい実を結ばない人たちに警告しました。(18ー19,33ー34)

悔い改めとは、単に「気が変わる」という意味ではありません。

悔い改めとは、単に神様のことばに同意することを意味しません。

悔い改めはいつも変えられた心、また、変えられた人生に至ります。

私の教会では、私たちは「Head, heart, hands」と言います。

神様のことばが私の頭に入り、私たちの心は変えられて、私たちの人生も変えられます。

それが神様が求めている実です。

あなたはどうですか。そのような実を結んでいるのでしょうか。

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あなたの言葉が受け入れ難いとき(マタイの福音書19章)

イエス様、時々あなたの言葉は受け入れがたいものです。

あなたが結婚について話したとき、弟子たちにとって、その言葉は受け入れがたいものでした。

若い金持ちにとって、「あなたが執着しているものを手放し、私について来なさい」というあなたの言葉は、受け入れがたいでした。

ときどき、あなたは私にも受け入れがたいことを言います。

私の心は頑ななものなのです。

私の道がもっと楽で、その道を行き続けたいのです。

また、私が手放したくないものもあるのです。

でも、あなたの言葉が受け入れがたいとき、私があなたが良い方であることを思い出すように助けてください。

あなたの言葉が受け入れがたいとき、あなたの道が最善なものであることを思い出すよう助けてください。

あなたの言葉が受け入れがたいとき、私が柔らかい心を保ち、あなたとその道に従うように助けてください。

なぜなら、あなたの言葉が受け入れがたいものかもしれないけど、そのことばはいのちですから。(ヨハネ6:63,68)

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イエス様の言うことを聞かない(マタイの福音書17章)

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。。。

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。(5,22-23)

私たちはどれだけイエス様の弟子たちのようにふるまうでしょうか。神様は良い計画を持っています。その計画は良いものです。でも、私たちは神様が言うことのすべてを聞いていないので、その計画を理解できません。

私たちが聞いているのは、私たちの計画や夢や希望は無くなるということだけです。だから、私たちはたいへん悲しんでしまいます。

でも、私たちは、その計画や夢や希望の灰の中から何がよみがえるかわかりません。

それは、喜び、平和、いのちです。

でも、最も大切なのは、私たちがイエス様を見ることです。

だから、神様の計画が私たちの計画に反対して、私たちは悲しんでいるとき、天の父の言葉を覚えていましょう。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

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すぐに忘れる(マタイの福音書16章)

信仰の薄い人たち。。。まだ分からないのですか。。。覚えていないのですか。(8-9)

私たちが忘れっぽいため、どれだけ私たちの信仰が薄いし、神様が教えようとしていることが分からないのでしょうか。

私たちは聖書を読んだり、教会のメッセージを聞いたりして、励まされ、鼓舞されるけど、すぐにその言葉を忘れてしまいます。

また、神様がどのように私たちの人生に働いてくださったことを見て、私たちは驚き、喜ぶけど、すぐに忘れてしまいます。

私たちはただ覚えているだけで、どれぐらい私たちの信仰が増えるでしょうか。

天のお父さん、私の信仰を増やしてください。あなたが私に教えてくださったこと、何をしてくださったことを覚えているように助けてください。そして、そのことを覚えているにつれて、良い時も、悪い時も、私があなたを喜び、信頼するように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちは誰についていっているのか(マタイの福音書14章)

ヨハネの死は本当に切ない話ですね。でも、今日、私はヨハネの弟子たちの反応を考えました。彼らはヨハネの死体を引き取って葬りました。そして、彼らはイエスのところに行って報告しました。

でも、今日、私は初めてこう考えました。

「そのあと、その弟子たちは何をしただろうか。イエス様に着いて行き始めただろうか。

それとも、彼らはただ自分の家に戻っただろうか。」

私たちは知りません。

彼らがイエス様に従い始めたのだったら、良かったと思います。なぜなら、ヨハネはいつもイエス様を指して、「その人に従いなさい」と言っていたから。

それはともかく、私たちはどうでしょうか。私たちは誰に従っているでしょうか。

多くの人々は、ほかの人の影響によってクリスチャンになりました。その人は牧師や友達や家族かもしれません。

でも、その人がいなくなると、私たちはどうするでしょうか。

彼らは亡くなるかもしれません。

彼らは引っ越すかもしれません。

残念なことですけど、彼らは罪に陥り、神様から離れるかもしれません。

その時、私たちはどうしますか。

私たちはただ「家に帰る」でしょうか。

それとも、私たちはイエス様に向かい、従うでしょうか。

イエス様は5000人にパンを与えたとき、自分自身が命のパンであることを証明しました(ヨハネ6章)。つまり、イエス様こそが私たちに本当の命を与える方ということを証明したのです。イエス様こそが私たちの霊的な飢えと渇きを満たすことができます。

さらに、人生の嵐が来るとき、イエス様はいつも私たちと共におられる方です。

人々が私たちから立ち去るときもあります。彼らが私たちをがっかりさせるときもあります。

でも、イエスは決してそんなことはしません。

だから私はもう一度あなたに訊きます。

誰に従っているのですか。

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深く根差している信仰?(マタイの福音書13章)

また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。(20-21)

イエス様は、石灰岩の上に土の薄いところに蒔いた種を描写します。その石灰岩のせいで、根がなかったので、困難と迫害が来ると、信仰の芽がすぐに焼けて枯れてしまいました。

それを読んだとき、私は考えました。「根の成長を妨げた石灰岩とは何だろうか。」

もしかしたら、それは不信の石灰岩かもしれません。つまり、私たちへの神様の愛を疑うし、神様が本当に良い方であることを疑うということです。

ある人々は、「神様が良い方だ」と「神様はあなたを愛している」と聞くと、すぐに喜びます。

でも、試練が来ます。また、彼らは迫害されます。そして、深く埋もれてい疑いが表面化する。

「神様は本当に良い方だろうか。神様は本当に私を愛しているだろうか。そうなら、どうして、この悪いことが起こっているのだろうか。」

その結果は?彼らの信仰はすぐに枯れてしまいます。

あなたはどうですか。試練や迫害が来るとき、あなたが最初に考えるのは、「神様が良い方なら、神様が私を本当に愛しているのなら、どうして私は苦しんでいるのか」ということでしょうか。

もしかすると、あなたの信仰は、「神様は良い方」と「神様は私を本当に愛している」という確信に深く根差しているでしょうか。

あなたの根はどれほど深いのですか。

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恵みの言葉、裁きの言葉(マタイの福音書11章)

今日、私の心を打ったのは、イエス様が言った恵みの言葉と裁きの言葉です。

イエス様はいろんな奇跡を行ったのに、ある町の人々が悔い改めることを拒んだので、イエス様は彼らを厳しく裁きました。

イエス様は自分のミニストリーにおいて、その線をいつも引きました。イエス様は悔い改めのメッセージを伝えました。

イエス様が説教するとき、そのメッセージを伝えたし(マタイ4:17)、弟子たちを送ったとき、同じメッセージを伝えるように命じました。(マルコ6:12)

そして、人々が悔い改めないとき、イエス様は裁きについて警告しました。(ルカ13:1ー8;ヨハネ5:14)

それと同時に、イエス様の言葉は恵み深いものでした。牢に入れられて信仰が揺らいだヨハネに、イエス様は励ましのことばを与えました。


そして、罪悪感を持っていた人、また、宗教指導者たちの立法主義的なルールによって重荷を負っている人たちにイエス様は安らぎを与えました。

でも、悔い改めて、イエス様を信じてこそ、私たちはその安らぎを知ります。

イサヤは同じようなメッセージをイスラエル人たちに与えました。

「立ち返って(別訳:悔い改めて)落ち着いていれば、 あなたがたは救われ、 静かにして信頼すれば、 あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたはこれを望まなかった。(イザヤ30:15)

それは、コラジン人たちとベツサイダ人たちとカペナウム人たちの問題でした。だから、イエス様は彼らを裁きました。

でもイエス様に対して柔らかい心を持っている人たちに、彼らが疑いや罪悪感をもっていても、イエス様は恵みを与えました。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14ー16)

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私たちの心、私たちのメッセージ(マタイの福音書9章)

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

イエス様の言葉を反芻とき、私たちの教会に来るノンクリスチャンに対する私たちの態度を考えました。

私たちはあわれみ深い心を持つべきです。なぜなら、彼らは、羊飼いのいない羊の群のようですから。サタンの攻撃によって、彼らは弱り果てて倒れている人たちなのです。

私たちは彼らを避けるべきではありません。私たちは手を伸ばし、彼らにキリストの愛を示すべきです。

それと同時に、私たちは彼らのためのメッセージを持っています。イエス様は彼らを招くために来ました。でも、何のために招いているのですか。

ルカの福音書では、イエス様の意味はもっとはっきりしています。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:32)

愛は、「自分の罪を犯し続けて良い」と言いません。

愛は、「悔い改めなさい」と言います。

最初から、それはイエス様のメッセージでした。(マタイ4:17)

マタイと他の罪人と食べながら、イエス様はそのメッセージを伝えました。

イエス様はザアカイとその友達にも必ず同じメッセージを伝えたでしょう。(ルカ19:1ー10)

だから、教会でノンクリスチャンに出会うとき、イエス様の態度を取り、彼らを歓迎し、愛とあわれみを示しましょう。

でもそれと同時に、謙虚さと柔和さをもって、イエス様がマタイとその友達に伝えたメッセージを彼らに伝えましょう。「神の御国が近づいた。神様はあなたを愛し、その御国に入るように誘っている。だから自分の罪を悔い改め、神様に向かってください。そうすれば、あなたは命を知ります。」

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イエス様についていく(マタイの福音書8章)

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。(マタイ7:28ー29)

イエス様についていくとは、どういう意味でしょうか。

もちろん、私たちはイエス様の権威を認めなければなりません。

イエス様ははっきりと自分の権威を発揮しました。

イエス様が命令すると、風と波は従いしました。

イエス様が命令すると、悪霊たちは従いしました。

イエス様はもちろん権威を持っている方ですけど、私たちはその権威を認めているのでしょうか。

百人隊長はそうしました。

イエス様についていきたいと思った二人の人たちがその権威を認めたかどうか私たちはわかりません。

マタイ7:28ー29にある群衆の中には、イエス様の権威を認めた人も、拒絶した人もいました。

でも、イエス様の権威を認めることは、必ずしもイエス様についていくとは限りません。

悪霊はイエス様の権威を認めたけど、イエス様を憎みました。

ガダラ人たちはイエス様を恐れ、その地方から立ち去ってほしいと言いました。

私たちはどうでうか。

イエス様は私たちに訊きます。「私の権威を認めているのですか。私に従うほどに、私を愛し、信頼しているのですか。」

あなたはイエス様に従いたいのですか。

あなたはイエス様を愛し、本当に知りたいのですか。

イエス様の言葉を覚えていましょう。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。(ヨハネ14:21)

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岩を割る(マタイの福音書7章)

ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。(24-25))

今朝、イエス様の言葉を読んだとき、ある絵が私の目に浮かびました。

もちろん、イエス様は家を岩の上に建てるという描写を与えます。

でも、私の目に浮かんだのは、ある人が岩の上に建てず、むしろ、その岩を割って、その破片を家の壁に入れようとすることです。でも、壁の部分が岩のかけらで構成されていたものの、その家は砂の上に建てられたので、すぐに倒れてしまいました。

たくさんの人はその建築家のようです。彼らはイエス様に従っていると主張するけど、イエスの教えのすべてに従って生活しているわけではありません。むしろ、彼らは、イエス様の教えを「割って」、好きな「破片」を自分の考え方に取り入れようとします。

私たちはそうしてはいけません。イエス様の教えから、気に入った部分を自分の考え方に取り入れながら、それ以外の部分を捨ててはいけません。そのように生きる人は天の父の御心を行っているわけではありません。彼らはただ自分の心に従っているのです。

私たちはイエス様の教えの部分だけではなく、その教えのすべてによって、人生を建てなくてはなりません。

そして、イエス様一番最初の教えは、「悔い改めなさい」ということです。私たちが罪を悔い改めなければ、神の御国に入ることができません。(マタイ4:17)

悔い改めることを拒み、自分の罪にしがみつくなら、ある日、私たちはイエス様に「主よ、主よ」と呼ぶけど、イエス様は答えます。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(23)

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私の目が癒されるように(マタイの福音書6章)

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。(22-23)

天のお父さん、私が物事を実際にあるがままに見ることができるように、私の霊的な目を癒してください。

私が、あなたが良いお父さんであることが分かりますように。あなたが私を本当に愛してくださっているので、私が何にも心配しなくてもいいということが分かりますように。

私が、この世もとすべて世にあるものも過ぎ去ることが分かりますように。

私が何が最も大切なのか分かりますように。つまり、私があなたの義と御国を優先するように。

多くの場合、私の目は病気なのです。だから私の目を癒してください。

私があなたをほかのどんなものよりも大事にするように。また、私が、委ねられたあなたが愛している人たちを大事にするように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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あなたの心を映す(マタイの福音書5章)

ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(48)

天のお父さん、私はあなたのようにもっとなりたいです。私の失敗をよくご存じです。私の義と愛があなたの義と愛に及ばないことをよくご存じです。

でも、私へのあなたの愛とあわれみへ眼差しを向けるとき、あなたのようになりたいという願いを増やしてください。

あなたの麗しさや完全さを見るとき、私があなたのようにもっとなりたいと思いますように。

“I want to walk in the image of you,
Like a child imitating what his Father would do,
A mirror of your heart.”

「あなたの姿をもち、歩みたいです。
自分のお父さんに真似する子供のように。
あなたの心を映したいです。」

–クリス・クリスチャン

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神の子どもの祈り(マタイの福音書3章)

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(16ー17)

天のお父さん、どうして、恵みによって、あなたは私のために天を開き、御霊を私に遣わし、「これはわたしの愛する子どもです。わたしはこれを喜ぶ。」と言えるでしょうか。

どうして?それは私が把握できない真理です。でも、私は本当に感謝します。

だから、私が悔い改めの実を結ぶように助けてください。あなたは、私がどんな罪と戦っているのかをよく知っておられます。パリサイ人たちやサドカイ人たちと違って、単に私が義人であるふりしたくないです。私が本当の義の実を結ぶように助けてください。

イエス様、あなたは、御言葉によって私がもうすでにきよいものであることを宣言しました。だから今、あなたの御言葉が私にとどまるように。その言葉が私を刈り込みし、形成し、変えるように。あなたの御言葉によって、私の言動が変わるように。あなたの御言葉によって、私の罪を明らかにしてください。でもそれと同時に、あなたの御言葉が私にあなたの愛と赦しを思い出させるように。あなたの御言葉によって、わたしがあなたと一緒にもう一歩進み、あなたのようになるように鼓舞されるように。

あなたはブドウの木。私は枝です。私がどうやってあなたにとどまることができるか教えてください。あなたを離れては、私は何もすることができないです。でも、あなたにとどまると、私は多くの見を結びます。私は本当にあなたのために多くの実を結びたいです。(ヨハネ15:3ー7)

聖霊様、あなたがイエス様を導き、満たしたように、日々、一瞬一瞬私を導き、満たしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちとともにおられる神(マタイの福音書1章)

このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。 そして男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」 それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(22ー23)

今朝、私はその最後の言葉に思いを巡らせました。つまり、「神が私たちとともにおられる」ということです。

私たちとともにおられる。

私たちから遠く離れていない。

私たちとともにおられる。

神様は私たちをご自分の愛にふさわしくないものと見なして、私たちから遠ざからない。

わたしたちとともにおられる。

私たちの罪と失敗を見ても、私たちのことを諦めない。

私たちとともにおられる。

私たちをいつも責めているわけではない。むしろ、私たちを擁護してくださっている。

私たちとともにおられる。

敵が私たちを攻撃するとき、神様は私たちを見捨てず、私たちのために戦う。

私たちとともにおられる。

私たちの神様は私たちとともにおられる。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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敬虔の訓練はどこから始まるか。(テもテへの手紙第一4ー5章)

敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。(4:7)

もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。(5:4)

私の母は未亡人なので、上の言葉は私の心に響きました。特に、母は今うつ病で苦しんでいるから。

私は母から遠く暮らしているので、今あまりできないですけど、定期的に母と話たり、母と一緒に祈ったり、母のために祈ったりしています。

でも正直に言うと、このようなとき、パウロの言葉に従って、母に仕えることは難しいです。神様の恵みを本当に必要としています。でも、それは、私の敬虔の訓練の部分です。

でも、自分のお母さんが未亡人ではなくても、パウロの言葉は私たち皆に当てはめられます。つまり、私たちの敬虔の訓練は家庭から始まるということです。私たちは教会や職場だけで敬虔を示してはいけません。

私たちの両親、兄弟たち、夫や妻、子供たちにも敬虔を示さなくては行けません。

そうすれば、私たちの天の父は喜ばれます。

でも、家庭で敬虔を示すのは難しいときもあります。特に、家に帰って、私たちが疲れたときです。また、家族にイライラさせられる時に敬虔を示すのは難しいのです。

でも、私たちを愛しておられる天の父のようになりたいのなら、家庭で敬虔のために自分自身を鍛錬しなければなりません。

天のお父さん、私はあなたのようになりたいです。私が母に敬虔を示すことを助けてください。また、私の妻にも、私の娘にも敬虔を示すことを助けてください。彼女らに対する私の愛によって、あなたを喜ばせたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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祈っている男性たち(テモテへの手紙第一2章)

そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。(8)

男性として、上の言葉はいつも私の心を打ちます。

どれだけ、我々男性たちは祈りを大事にするでしょうか。

その代わり、どれだけ、私たちは無神論者のように生きるでしょうか。つまり、どれだけ私たちは神様がおられなかいかのように、また、自分自身だけに頼るかのように生きるでしょうか。

家や職場や教会では、私たちを特徴づけているのは何でしょうか。

それは怒りでしょうか。

それは議論する態度でしょうか。

もしかすると、私たちは祈りで特徴づけられているでしょうか。私たちは毎日きよい手を上げて祈っているのでしょうか。

もちろん、女性たちも祈るべきです。上記のことは女性達にも当てはめられます。

でも、この箇所では、パウロは特に男性たちに話しています。

だから、神様の挑戦に応え、祈りの男性たちになりましょう。

私たちはイエス様の兵士たちです。(第二テモテ2:3-4)

私たちはサタンと戦っています。サタンは私たちの家族、愛する人たち、そして私たち自身さえも滅ぼそうとしている敵です。(エペソ6:10-14;第一ペテロ5:8;ヨハネ10:10)

だから、イエス様の兵士たちとして、男らしく、ひざまずき、戦いましょう!

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神の律法が何のためにあるか(テモテへの手紙第一1章)

私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。11祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。

最近、あるクリスチャンたちは、ある牧師でも、旧約聖書の教えから教会を「解き放とう」としています。つまり、彼らは、神の律法が私たちには、全然関係ないと教えているのです。なぜなら、私たちは儀式的な律法、割礼や生贄や宗教的な祭りなどに関する律法を守る必要がないから。

でも、パウロによれば、律法を適切に用いるなら、律法は私たちにはまだ役に立つものです。律法を適切に用いるとは何でしょうか。それは、罪を定義することです。

上のリストは基本的に十戒の拡大版です。

そしてパウロが教えているのは、神の律法が神様をすでに喜ばせている義人のためではなく、むしろ、神様に反抗している人のためだということです。つまり、律法は彼らの罪を指摘します。ローマ3:19-20では、パウロは、「律法を通して生じるのは罪の意識です」と言います。

それと同時に、パウロは「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない」と言います。なぜなら、律法を完全に行う人は誰もいないから。

そういうわけで、私たちにはパウロが述べ伝える良い知らせが必要です。それは、

キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。(15)

でも、「罪人」を定義するためには、「罪」を定義しなければなりません。神の律法は罪を定義します。その定義がなければ、福音はありません。私たちが罪が何であるか知らなければ、私たちは何から救われているのですか。

残念ですけど、教会を旧約聖書の教えから「解き放とう」としている多くの人は、ヒメナイとアレクサンドロと同じように、健全な良心を捨て、自分の罪を抱き、信仰の破船にあってしまいました。(20)

私たちはそうせずに、保ち、 立派に戦い抜き、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛の人生を送りましょう。(5,18-19)

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聖書の言葉を祈る(テサロニケ人への手紙第二3章)

祈るとき、私たちはしばしば何を祈るべきかわからないので、ただ、「だれだれさんを祝福してください」と祈ってしまいます。

そのような祈りはいいけど、何を祈るべきかわからないとき、聖書の言葉を祈ったほうがいいと思います。

今朝、ちょっと霊的に、また、精神的に苦しんでいる人たちについて考え、パウロの言葉を借りて祈りました。

「天のお父さん、彼女を強くし、サタンの攻撃から守ってください。」

「天のお父さん、彼の心を導いて、あなたの愛とキリストの忍耐に向けさせてください。」

「天のお父さん、彼女がたゆまず良い働きをするように助けてください。」

「平和の主、どんな時にも、どんな場合にも、彼女に平和を与えてください。あなたが彼女と共にいることを彼女が知るように。」

「イエス様、彼があなたの恵みをいつも覚えているように。あなたの恵みが彼と共にありますように。」

ところで、あなたの牧師にも、そのような祈りが必要です。たぶん、人々がそのように祈ってくれたら、牧師はとてもうれしいと思います。人々が私のためにそのように祈ってくれたら、私はとても嬉しいのです。

今日、誰のためにそのような祈りをささげることができるでしょうか。今、誰の名前が思い浮かんでいるでしょうか。

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神が良い方であることを信じる(テサロニケ人への手紙第二2章)

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。(15)

2章を読んだとき、三節にある言葉は私の心を打ちました。つまり、イエス様この世に来て、すべての悪を克服し、この世を癒す前、まず背教が起こるとうことです。言い換えると、ある日、かつてイエス様を信じると主張した多くの人々は、イエス様に背を向けてしまいます。

ユダは最初の背教者だけど、たくさんの人々はユダの模範に従いました。かつて私と一緒に主に仕えた人の中にも、今は主に背を向けている人がいます。アメリカでは、かつて有名だったクリスチャンの歌手や牧師たちも背教に陥ってしまいました。

人が主に背を向ける理由はたくさんあります。でも多くの場合、その理由は、彼らが真理を拒絶したということです。つまり、彼らはもはや聖書が神のみ言葉であることを信じていないのです。なぜなら、彼らはこの世の考え方に流されていましたから。「良い神」とはどのような方かというこの世の考えに流されていました。「良い神」が何を言うはずかというこの世の考えに流されていました。特に、道徳に関して、彼らはこの世の考え方に流されていたのです。

そのような態度を持っているので、「不法の人」である反キリストが現れると、彼らは喜んで従います。なぜなら、彼らはもう真理を拒絶し、偽りと取り替えたから。

誤解しないでください。聖書に関して、疑いや質問があっても、大丈夫です。神様の言葉に関して、「どうして」と聞いてもいいです。正直に言うと、私が神様とその道を理解できないときもあります。そのような疑いや質問があれば、牧師や成熟したクリスチャンにどうぞ尋ねてください。

でも、最終的に、私たち皆は選択をしなくてはなりません。あなたは神様が良い方であることを信じるか、信じないか。神様のみ言葉が良いものであることを信じるか信じないか。神様の道が最善のものであることを信じるか、信じないか。

「いいえ」と答えると、私たちはユダのように背教に陥り、滅びてしまいます。

でも、「はい」と答えると、私たちは喜びと命を知ります。

私はすでに選択しました。

神様が良い方、神の道が良い者であることを信じることを選択します。

なぜなら、私の人生にや私は神様の恵みといつくしみを見たから。

あなたは何を信じますか。

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私が実を結ぶように( テサロニケ人への手紙第二1章)

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(11-12)

天のお父さん、私をあなたの召しにふさわしい者にしてください。私はよく失敗します。私は善を求め、あなたのために実を結ぼうと思うけど、多くの場合、そうしません。イエス様、あなたはブドウの木。私は枝です。あなたの力によって、善を求めるあらゆる私の願いを実現してください。それは、私が周りの人々の称賛を得るためではなく、あなたの御名があがめられ、あなたの父もあがめられるためです。「よくやった。良い忠実なしもべだ」というあなたの言葉を聞きたいです。

天のお父さん、あなたの恵みを感謝します。私を選び、召してくださったあなたは真実です。(第一テサレノニケ5:24)

また、あなたが私のうちに良い働きを始められたのを完成させてくださると確信しています。(ピリピ1:6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちのための神のみ心(テサロニケ人への手紙第一5章)

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(16ー18)

多くのクリスチャンたちは「私のための神の御心は何だろうか」とよく訊きます。

この箇所では、パウロは神の御心の全体を教えていませんが、私たちにどのように生きることを望んでおられるのかを教えます。それは、「いつも喜び、 絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝する」ということです。

でも、私たちの人生はいつも楽しいものではありません。私たちはしばしば試練に直面するし。どうすれば、私たちはいつも喜び、すべてのことにおいて感謝することができるでしょうか。苦しいとき、何のことを喜び、感謝することができるでしょうか。

私たちは、神様がどのように私たちを見てくださっていかを感謝し、喜ぶことができます。つまり、神様が私たちを見ると、ご自分の似姿を見るということです(創世記1:26ー27)。また、私たちが神の祭司となり、神様は私たちに「主の聖なるもの」という言葉が記されているのです。(出エジプト記36:28;申命記7:6;14:2;第一ぺテロ2:5,9)

そして、神のもの、神の祭司、神の民、神の愛している子供として、私たちはいつでも神様の御前に行くことができます。神様が私たちを拒絶する恐れは全然ありません。良いときでも、悪いときでも、勝利の時でも、苦しみのときでも、私たちは大胆に天の父に近寄ることができます。

それは、私たちのための神の御心です。つまり、私たちが一瞬一瞬、神様と歩み、神様との関係を喜ぶということです。

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私たちから出て、響き渡っている(テサロニケ人への手紙第一1章)

主のことばがあなたがたのところから出て。。。響き渡った。。。(8)

天のお父さん、あなたは私を愛し、選んでくださいました。あなたが御霊で私を満たしてくださったので、私に対するあなたの愛に関して、強い確信を持っています。

だから、あなたのことばが私から出て回りの人々に響き渡るように。私の言動が回りの人々に私の信仰を表すように。彼らがあなたに対する私の愛、また、彼らに対する私の愛を見ることができるように。そして、私がどんな苦しみに直面しても、彼らが私の中にあなたの希望が輝いていることを、見ることができるように。

私の回りの多くの人々はあなたを知りません。彼らはこの世には、平安や希望を持っていません。彼らは愛に飢えています。だから、彼らに触れるために私を用いてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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疲れた(ガラテヤ人への手紙6章)

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。。。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(2,9ー10)

正直に言うと、上の言葉は私にとって、今ちょっと難しいです。なぜなら、問題解決の目処がたたないとき、相手の重荷を負うのは結構辛いのです。そして、今は、問題解決の目処がたたなそさうです。

それでも、パウロは言います。「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」

でも、自分の力では、私はそのことばに従うことができません。私にはブドウの木ににとどまることが生まれる霊的な栄養や憩いが必要です。(ヨハネ15:4ー5)

イエス様、私は今あなたを必要としているのです。あなたはブドウの木で、私は枝です。あなたを離れては、私は何もすることができないのです。あなたは私に、「失望せずに、あきらめずに人の重荷を負いなさい」と言いました。でも、私は疲れました。だから、私がどのようにあなたに一瞬一瞬とどまることができるかを教えてください。私を強めてください。私を満たしてください。そして、あなたの臨在で、あなたの恵みと愛によって、私の魂をリフレッシュしてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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聖霊によって歩み、導かれ、生き、進む(ガラテヤ人への手紙5章)

御霊によって歩みなさい。(16)

御霊によって導かれている。。。(18)

私たちは、御霊によって生きているのなら。。。(25a)

御霊によって進もうではありませんか。(25b)

聖霊様、私はたくさんの宗教的なルールを守って頑張ろうというクリスチャン生活を送ろうとしていません。むしろ、私はあなたとの関係をもって、歩んでいるのです。

聖霊様、あなたのおかげで、私は命を持っています。私は霊的に死んでいたけど、あなたの恵みによって、私にいのちの息を吹き込んでくださいました。だから今、あなたによって、私は神の子供として、「アバ、父」と叫びます。(4:6)

だから聖霊様、今日、私を導いてください。あなたがどこに行くのかを教えてください。私の回りで、あなたが何をなさっているのかを教えてください。

今日、私はあなたと歩調を合わせるように助けてください。私があなたより先に行かず、あなたに遅れず、あなたと違う道を行かないように。

むしろ、私があなたの知恵と力によって、あなたと共に歩み、あなたの実を結び、回りの人々にあなたの愛で触れるように。

あなたによって歩み、導かれ、生き、進むという人生がどのように送れるか教えてください。私はそのような人生をもっと知り、歩みたいのです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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信仰によって生きる?(ガラテヤ人への手紙3章)

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。。。律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(2ー3,11)

信仰によって生きるとは、どういう意味でしょうか。パウロは何を意味したのでしょうか。

たぶん、その意味の基礎は2章20節にあります。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

信仰によって生きるとは、この二つのことを信じることから始まります。

1. 神様は実際に私を愛しています。
2. イエス様は私の罪のために死んでくださいました。十字架でイエス様は完全に私の罪の債務を赦してくださいました。

私がはじめてその真理を実感したとき、私は本当に感動しました。私は何年もの間、その真理を知っていましたが、その日、その真理は私の心に染みました。

多くの人は、クリスチャンになるとき、その真理を信じ、喜ぶけど、だんだんこのような考えが自分の心に入り始めます。

「神様は私にがっかりしているだろう。」

「私はあまり良いクリスチャンじゃないなあ。私はもっと良いクリスチャンになるべきだ。」

「私はもっとやるべきだろう。もっと聖書読んだり、祈ったり、友達にイエス様のことを話したり、神様に仕えたり、するべきだろう。」

「私は罪に対してもっと勝利を得るはずなのに。」

「私はもっと良い人間になるべきだ。もっと良いパパ。もっと良いママ。もっと良い生徒。もっと良い教会のリーダー。」

そのような考えが自分の心に浮かぶことがあるでしょうか。

それらは信仰の言葉ではありません。それらは信仰から生まれる喜びの言葉ではありません。

私たちがクリスチャンになったとき、神の愛、イエス様の十字架の働きによる神の受け入れを信じ、喜んだのに、どうして、すぐに神様の愛と受け入れが私たちの「実績」によるものと考え始めるでしょうか。

パウロはガラテヤ人たちに言いました。「クリスチャンになるとき、神様があなたたちを受け入れた理由は、あなたたちが割礼を受け、神の律法に従ったからではありません。むしろ、あなたたちがイエス様を信じることによって、神様はあなたたちを受け入れてくださいました。どうして、今、神の律法に従うあなたたちの努力によって、神様の受け入れを求めているのでしょうか。」

あなたはどのようにクリスチャンの生活を送ろうとしているでしょうか。信仰によって生きているのでしょうか。イエス様があなたを愛し、あなたのためにご自分を与えてくださったことを喜んでいるでしょうか。もしかすると、あなたが神の愛と受け入れに値することをまだ証明しようとしているでしょうか。

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他の福音?(ガラテヤ人への手紙1章)

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取りとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(8-10)

ガラテヤの教会は大問題に直面しました。あるユダヤ人たちは彼らに「モーセの律法を守り、割礼を受けなかれば、あなたは救われない」と言いました。

でも、その教えはパウロが彼らに述べ伝えていた福音と正反対のものです。つまり、私たちは神の恵みだけによって私たちは救われることです。だから、パウロは彼らに言いました。「もし、誰かがほかの「福音」を述べ伝えるなら、その人は神様に呪われるものです。私たちの福音はイエス様自身から来ました。私たちがその福音を変えたら、周りの人々を喜ばせるかもしれないけど、キリストを喜ばせません。」

現代では、救われるために割礼を受けなければならないと教える人はたぶんいないですけど、ほかの点では人々は福音を変えることを誘惑されています。

例えば、多くの人々は、「イエス様を信じても、信じなくても、すべての「良い人」は天国に行きます」と信じたいのです。

ほかの人々は、罪を悔い改める必要性について話すことを避けます。おまけに、ある人は、神様が「罪」と呼ぶことを「善」と呼ぶし、神様が「善」と呼ぶことを「悪」と呼びます。(イザヤ書5:20;ローマ1;24-32)

私たちがそのような「福音」を述べ伝えるなら、周りの人々は喜ぶかもしれません。でも、イエス様は喜ばれません。

正直に言うと、キリストの福音を忠実に述べ伝えるのが難しい時もあります。そうすれば、私たちが愛している人は喜ばないかもしれません。でも、神様への愛、また彼らへの愛をもって、イエス様が私たちに委ねた福音を忠実にシェアしましょう。なぜなら、その福音によって、イエス様は私たちを救ってくださったから。

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恵み(再び)

私は8年前、この記事を書きました。私が書いた記事の中で、これは最も好きな記事の一つのです。

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神のみ言葉を信じ、み言葉に従うことができる前(列王記第二22章)

そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「の宮で律法の書を見つけました」と言った。そしてヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。。。シャファンは王の前でそれを読み上げた。王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。(8,10-11)

今週、私はヨハネ15章を反芻しています。そして、神のみ言葉が私たちにとどまるとは、どういう意味か考えていました。

もちろん、神のみ言葉が私たちにとどまるのに、私たちはそのみ言葉を信じ、従わなければなりません。

でも、そのみ言葉を信じて従う前に、もう一つのことをしなければなりません。

私たちは、そのみ言葉を知るべきです。

今日の話では、私たちはその真理を見ます。

神殿の状態は本当にひどいものでした。どうして、祭司たちは神の律法の巻物がどこにあるのかずっと知らなかったのでしょうか。

ヨシヤは神様に対して柔らかい心を持っていました。神のみ言葉に対するヨシヤの反応は自分の心を明らかにしました。ヨシヤはそのみ言葉を信じて従いました。

でも、私たちは知らないことを信じて従うことはできません。

あなたは神のみ言葉を知っているでしょうか。神様の目には、無知は言い訳ではありません。ユダの無知によって、神の怒りと裁きは彼らに下ろうとしていました。

そのように、私たちが神様のみ言葉を信じ、従わなければ、私たちの人生、つまり、私たちの家族やほかの人間関係や経済などはめちゃくちゃになってしまいます。

でも私はもう一度言います。信じ、従う前に、神のみ言葉を知らなければなりません。

あなたは毎日、神のみ言葉を読む時間を取っていますか。もしかすると、聖書はあなたの家に(あなたのスマホに?)「見当たらない」のでしょうか。

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神様のさばき、神様の忍耐(列王記第二21章)

ユダの王マナセは、これらの忌み嫌うべきことを行い。。。それゆえ、イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。(11ー12)

マナセ王のことを考えたとき、神様の忍耐とあわれみは私の心をもう一度打ちました。

マナセ王はたぶん、ユダの王たちの中でもっとも悪い王でした。彼はユダに偶像礼拝を復活させたり、自分の息子をその偶像に捧げて火の中を通らせたり、たくさんの人々を殺したりしました。ユダヤ人の伝説ですけど、その時、預言者イザヤは「のこぎりで引かれました。」(へブル11:37)

そういうわけで神様はマナセとユダに判決を下しました。それでも、そのさばきは何年もユダに降りかかりませんでした。なぜでしょうか。なぜなら、神様の望みは彼らが悔い改めることでしたから。

驚くべきことですけど、マナセは最終的に悔い改めました。(歴代誌第二33:10ー13)

あいにく、マナセの息子であるアモンは悔い改めなかったけど、その孫であるヨシヤは悔い改めたので、ヨシヤが死ぬまで、そのさばきはユダに降りかかりませんでした。

マナセの話を考えて、私への神のあわれみを思い出した。私が神様の目に忌み嫌うことを何度も犯したのに、神様は私をあわれんでくださいました。神様の忍耐は本当に素晴らしいです。私は本当に神様に感謝します。

ダビデもその忍耐とあわれみを経験して、こう歌いました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。(詩篇103:8)

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祈るときに、私たちの態度(列王記第二20章)

ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。

この出来事は、アッシリアの王センナケリブがユダに侵略し始めた後、その軍隊がエルサレムを包囲する前に起こったようです。(20:13と18:14ー16を参考してください。)

私が気づいたのは、ヘゼキヤの祈りの根拠と神様の答えの根拠です。

ヒゼキヤは祈るとき、自分の忠実さを指して、「私は良い人だ」と主張しました。

でも、神様は、なぜヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救ってくだるかを説明した時、何を言ったでしょうか。神様は、「わたしのために、わたしのしもべダビデのため」と言いました。(16節)

簡単に言うと、ヒゼキヤの真実さや善良さではなく、ご自分の栄光のため、また、ご自分のいつくしみ、忠実さ、恵みによって神様はそうしてくださいました。

神様はダビデにいろんな約束をしたので、その約束を忠実に守ってくださいました。そして、ヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救ったことによって、神様はヒゼキヤだけではなく、ユダの人たちにも、回りの国民にもご自分の栄光やいつくしみや恵みを現してくださいました。

この話を読んで、私はこう考えました。「何によって、私は神様の前に来て祈るのだろうか。自分の忠実さや良い行為を指すのだろうか。私は神様に「私はあなたの祝福に値する」と主張するだろうか。

もしかすると、私はこう祈るだろうか。「神様、私はあなたから何も受けるに値しません。でも、私へのあなたのいつくしみや恵みや忠実さによって、私はあなたの前に来て、祈ります。」

そのような心をもって、祈るだろうか。」

もし、私たちが「神様の祝福に値する」と思うなら、ヒゼキヤのように、プライドの罠に陥りやすくなります。(12ー19節;歴代誌第二32:24ー25)

「神様が私の願いをかなえてくださることは当たり前だろう。私はふさわしいものだから。私は神様の祝福に値するのだ。」

その反面、神様が私の祈りに「いいえ」と答えると、私たちは怒ってしまいます。

あなたは、何によって神様の前に来て、祈るでしょうか。自分の善良さを指すのでしょうか。それとも、神様の恵み、いつくしみ、忠実さによって祈るでしょうか。

天のお父さん、あなたから私は何の良いものに値しません。それでも、あなたの恵みによって、あなたが私をご自分の子供と呼んで、私は何でも願うことができます。だから、私はへりくだってあなたの前に来て祈ります。私の善良さだはなく、あなたのいつくしみ、恵み、真実さによって、私は祈ります。そして、あなたが「はい」と答えても、「いいえ」と答えても、私は、あなたが良い方、また、あなたの道が最善のものであることを信じることを選びます。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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何に拠り頼んでいるのか(列王記第二18章)

(ヒゼキヤ)は。。。主の目にかなうことを行った。。。彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。。。

ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。。。ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」」(3,5ー6,13,19)

天のお父さん、ヒゼキヤは心を尽くしてあなたに従い、仕えました。それでも、トラブルは起きました。そして敵は来て、「いったい、お前は何に拠り頼んでいるのか」と叫びます。

私はヘゼキヤに共感できます。時々、私は正しいことをし、あなたに頼り、忠実にあなたに仕えようとするけど、トラブルが起きます。

そして、敵であるサタンは来て、私に叫びます。「いったい、お前は何に拠り頼んでいるのか。神様なの?」

サタンは私があなたを疑うことを望みます。彼の動機は悪いけど、その質問は実際に良いものです。

私はいったい何に拠り頼んでいるのだろうか。私は本当にあなたに拠り頼んでいるのだろうか。

特に試練が来るとき、自分自身に頼るのは簡単なことです。つまり、自分の力や知恵に頼るのは簡単なことです。でも、もしかしたら、この試練を通して、あなたは、私がどんなにあなたを必要としているか思い出させているかもしれません。

ヒゼキヤはエジプトに拠り頼るをやめ、あなたに拠り頼み始めなくてはなりませんでした。(イザヤ書30ー31章)

天のお父さん、私も、自分自身に頼ることをやめ、あなたに拠り頼むように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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根本的な問題(列王記第二17章)

こうなったのは、イスラエルの子らが。。。主に対して罪を犯し(ました。)(7)

数年前、私はメッセージを聞いたとき、牧師は興味深い質問を訊きました。「私たちの問題には、いろんな理由があるかもしれません。でも、根本的な理由は何でしょうか。」

7節を読んだとき、その牧師の言葉を連想しました。

イスラエルが倒れた理由はたくさんありました。

そのころ、アッシリアは大国だったけど、イスラエルは小さい国でした。

ホセア王はアッシリアの王と条約を結んだけど、その条約を破りました。

その二つの理由よって、私たちはどうしてイスラエルが倒れたか説明することができます。

でも、それらは根本的な理由でしょうか。

18-19章では、ヒゼキヤもアッシリアとの条約を破って、エルサレムはアッシリアの軍隊に囲まれました。アッシリアはユダ王国よりも強かったけど、ヒゼキヤが神様のみ前にへりくだったとき、神様はエルサレムを救ってくださいました。

その時だけではなく、イスラエルが何回もより強い敵に直面した時、イスラエル人たちが神様を信頼したので、神様は彼らを救ってくださいました。

イスラエルがアッシリアに倒された根本的な理由は、イスラエル人たちは神様に背を向け、ほかの神々を礼拝していたからです。神様とその道に従わずに、イスラエル人たちは周りの国々の道を歩みました。

今日の話を読んで、自分の問題を考えました。私の問題にはいろんな理由があるかもしれません。でも、最も根本的な理由は何だろうか。私の心は神様の目にかなっているだろうか。私は神様とその道に従っているだろうか。もしかしたら、私は自分の道を歩んでいるだろうか。

神様は私の罪を指摘するとき、私は悔い改めているだろうか。もしかしたら、私はただいいわけをしているだろうか。

天のお父さん、私の心を探り、知ってください。あなたは私の問題をよく知っておられます。その問題の根本的な理由を現してください。私がしなければならないことがあれば、悔い改めなくてはならないことがあれば、明らかにしてください。私があなたに信頼し、従うように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちが誰ものであるかを思い出す(列王記第二16章)

「アハズは使者たちをアッシリアの王ティグラト・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。。。」(7)

この話の背景をもっと知りたいなら、イザヤ書7章を読んでみてください。アハズがアラムやイスラエルと対立している最中に、イザヤは有名なインマヌエルの預言をしました。

イザヤ書7章では、神様はアハズに「私を信じなさい。あなたの敵は成功しないよ。私を信じるため、しるしを与える。しるしを求めなさい」と言いました。

でも、アハズは神様を信じることを拒み、しるしを求めませんでした。むしろ、彼はアッシリアの助けを願いました。その助けを受けたけど、「贈り物」を送らなくてはならなかったし、結局、アハズの「主」と「父」はイスラエルに敵対してしまいました。
アハズがへりくだって神様に向かい、「私はあなたのしもべであり、あなたの子です」と言ったとしたら、その結果はどう違っていたでしょうか。

私は今、自分の問題に直面し、神様が私にこう言っていると感じました。「あなたが誰のものであるかを覚えていなさい。あなたは私のしもべです。でも、それだけではなく、あなたは私の愛している子供です。私を求めなさい。私を信じなさい。」

そして、神様は私にこの詩篇を思い出させました。

神はわれらの避け所 また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ 海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。。。「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる万軍の主はわれらとともにおられる(インマンヌエル)。ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:1ー3,10ー11)

Ein Gedi caves –Joe Goldberg from Seattle, WA, USA, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons
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神様の忠実な愛を忘れる、再び(列王記第二13章)

しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。主がイスラエルに一人の救う者を与えられたので、彼らはアラムの支配を脱した。こうしてイスラエル人は以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままであった。(4-6)

神様の恵みは本当に素晴らしいですね。エホアハズとイスラエル人たちは主に背を向けていたのに、エホアハズが神様の助けを求めると、恵みによって、神様はイスラエル人たちを助け、アラムから救ってくださいました。

でも、彼らの人生が普通に戻ると、彼らは神様のいつくしみを感謝をせずに、自分の罪に戻りました。彼らは神様を捨て、自分の道に戻りました。

どれだけ、私たちも自分の罪の故に困り、神様に叫んで、神様は恵みによって私たちを助けてくださるでしょうか。

どれだけ、私たちは神の忠実な愛といつくしみを忘れ、神様を脇に置き、自分の道に戻るでしょうか。

私たちの人生がうまくいくとき、神様を忘れないように。また、私たちが神様の忠実な愛といつくしみを当たり前のものだと思わないように。

パウロの言葉を覚えていましょう。

神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ書2:4)

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神様の忠実な愛を忘れる(列王記第二12章)

列王記と歴代誌の興味深い違いは、列王記の著者はしばしばユダの王の悪い行為について話さないことです。

例えば、列王記第一15章では、その著者はアサ王のひどい罪について話しませんでした。今日の箇所でも、その著者はヨアシュ王のひどい罪について話しません。でも、アサの話のように、著者は、ヨアシュの人生に悪いこともあることを示唆します。

著者はこう書きました。

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。

上の言葉を読んだとき、この質問が浮かぶでしょうか。「エホヤダが死んだ後、ヨアシュは何をしたのだろうか。」

残念なことですけど、エホヤダが死んだ後、ヨアシュは主に背を向け、偶像を礼拝し始めました。そして、エホヤダの息子ゼカリヤはヨアシュを責めて、悔い改めるように促したとき、

ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれた誠意(別約:忠実な愛)を心に留めず、かえってその子を殺した。(歴代誌第二24:22)

でも、ヨアシュはエホヤダの忠実な愛だけではなく、神様の忠実な愛をも忘れてしまいました。特に、ヨアシュのお祖母さんは彼を殺そうとしていたけど、神様はヨアシュを助けてくださいました。

だからこの話を読んだ後、私はこのように祈りました。

天のお父さん。ヨアシュと違って、私が自分に対するあなたの忠実な愛を決して忘れないように。あなたの愛を忘れるなら、あなたに背を向けることは簡単なことになるから。天のお父さん、私はあなたから決して離れたくないです。

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全き心?(列王記第二10章)

ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。。。しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。(29,31)

今日、私は上の言葉を反芻しました。神様は、アハブに属する者を殺すことによってアハブに対する神の裁きを実行するためにエフを褒めました。なぜなら、アハブとその家族は罪を犯しただけではなく、イスラエル人たちを罪に導いたから。特に、彼らがイスラエル人たちをバアル礼拝に導いたことです。エフはバアルの礼拝をも止めたので、神様は喜ばれました。

でも、上の言葉によれば、神様はエフの心をすべて持っていなかったようです。

エフはバアルを礼拝しなかったけど、ヤロブアムが偽りのヤハウェ礼拝のために立てていた金の子牛を礼拝し続けました。(列王記第二12:26-33)

その罪、また、たぶんほかの罪に関して、エフは主の律法に従おうと心がけることをしませんでした。(出エジプト記20:4-5;申命記12:5-14)

それを読んで、私は自分にこの二つの質問を訊きました。

1.私がしがみついている罪があるのだろうか。私が離れようとしない罪があるだろうか。小さくても、私の人生にそのような罪があるだろうか。

2.私は心を尽くして神様の言葉に従おうと心掛けているのだろうか。私は神の戒めの最も小さいものにも従っているだろうか。(マタイ5:19)

私は、神が私の心の一部ではなく、すべてを持っていることを望みます。あなたはどうですか。

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神様の忍耐、神様の裁き(列王記第二9章)

アハブがナボテを殺したとき、神様はアハブとその家族を裁きました。

でもアハブが神様の前にへりくだった時、神様はその裁きを先延ばしにしました。(列王記第一21:21-29)

それでも、アハブはやがてもう一度神様に反抗したので、殺されました。(列王記第一22章)

しかし私が驚いたのは、アハブの息子ヨラムに対する神様の恵みです。12年間に渡って、神様は何回もヨラムを助けてくださいました。(列王記第二3,5-7章)

また、神様がご自分の素晴らしいタイミングをヨラムに示したので、ヨラムはシュネムの女の人を助けてくれました。(8:1-6)

たぶん、神様はヨラムほど、ほかの不敬虔なイスラエルの王にそのような恵みを与えていなかったでしょう。でも私たちは、ヨラムが最終的に悔い改めて神様に従うようになった示唆を全然見ていません。むしろ、彼は自分の罪に執着し、それから離れることがなかったのです。(列王記第二3:3)

だから結局、神の裁きは彼に下りました。

では、私は何を言いたいのでしょうか。

旧約聖書を読むとき、神様の裁きが厳しすぎると考えるのは簡単です。でも、私たちが覚えていなくてならないのは、最も反抗的な人たちに対しても、神様が我慢強くて、恵み深かったということです。

神様は正義の方で、永遠に裁きを先延ばしにすることができません。でも、神様は人を裁くすることを喜ばれません。むしろ、神様は人を憐れむことを喜ばれるのです。だから、神様は預言者エゼキエルにこう言われました。

わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。(エゼキエル33:11)

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信仰の目(列王記第二6章)

見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。(33節)

抜き打ちテストをしましょう!6章にあるイスラエルの王の名前は何ですか。もしその名前がすぐに思い浮かばないのなら、良い言い訳があります。3章では私たちはその王の名前を一回読んだけど、そのあと、著者はいつも彼を「イスラエルの王」と呼びます。エリシゃの名前やヨシャファテ王の名前やナアマンの名前さえもイスラエルの王の名前よりも出てきます。(ところで、その王の名前はヨラムです。)

8―9章でヨラムが死ぬまで、私たちはその名前を再び読むことはありません。

深読みしているかもしれないけど、もしかしたら、列王記の著者はヨラムのことを軽く見ていたかもしれません。なぜなら、ヨラムは 神様への信仰があまりなかったからです。

5章では、信仰のない民の中で(例:6章28ー29節)敬虔な両親は敬虔な娘を育てました。それでも、その娘は捕らえられ、敵国で奴隷にされました。でも、その大変な状況の中で、彼女は主に仕え続けました。私たちは彼女の両親の反応をよく知らないけど、その娘の信仰を考慮に入れると、たぶん、彼らの苦しみの中で神様への信仰を保ったでしょう。

エリシャも敵に囲まれていたけど、信仰の目でその状況を見ました。

でも、この不敬虔な王は、神様に何度も助けられたのに(3、5―6章)、トラブルが来ると、すぐに神様をとがめ始めます。

私たちはどうですか。トラブルが来るとき、私たちはどのように反応するでしょうか。ヨラムのように、私たちはすぐに、神様が良いかたかどうか疑うでしょうか。もしかしたら、エリシャとその女の子のように信仰の目をもって、神様に仕え続けるでしょうか。

天のお父さん、困難が来るとき、信仰の目を与えてください。あなたに信頼し、従い続けるように恵みを与えてください。

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信仰のある子供を育てる(列王記第二5章)

ナアマンの話を読んだとき、私は捕らえられた若い女の子について考えました。彼女はナアマンのツァラアトを見ると、エリシャの助けを求めるように勧めました。

それを考えていた時、神様は二つのことを私の心に置かれました。

一つ目は、その女の子がイスラエルで成長していたとき、神様に背を向ける人々の中で生活していたということです。それでも、その子供はイスラエルの王よりも神様への信仰を持っていました。

そして、神様はこの質問を私の心に置かれました。「どうして信仰のない国で、その子供は信仰を持っていたのでしょうか。」

その答えは明らかだと思います。彼女の両親が神様に信頼するように教えたのでしょう。

だから今日、私はこのように祈りました。「天のお父さん、私の言葉と模範によって、娘が信仰のある人になることを学びますように。」

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 神の呪い、神の恵み、再び(列王記第二2章)

エリシャがエリコの水を「癒す」という話を読んだとき、神様は、私が今まで気づかなかったことを示してくださいました。

エリコは呪われた町でした。イスラエル人たちが約束の土地に入ったとき、彼らが征服した最初の町はエリコでした。その時、ヨシュアはエリコを再建することを企てる人に対して呪いを宣言しました。(ヨシュア記6:26)

そして、ある愚かな人がエリコを再建したとき、神様の呪いは彼にかけられました。(列王記第一16:34)

エリシャの時代、ある意味、エリコはまだ呪われた町です。その町は良いところに位置していたけど、水が悪くて、その地は産物を出しませんでした。

でも、エリコの人々がエリシャの助けを頼んだとき、エリシャは塩を水の泉に投げ込んだとき、こう言いました。

「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」(21)

エリコは長年呪われていました。でも、神の恵みによってエリコはたちまち癒されました。

あなたは、神様に呪われたと思うかもしれません。自分の罪のため、あなたは神様から裁かれていると感じているかもしれません。でも、神様に向かい、へりくだって悔い改めれば、神様はあなたの人生を癒してくださいます。

神様は町の何百年の呪いを取り去ってくださるなら、あなたのためにもそうしてくださいます。

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神の呪い、神の恵み(列王記第二1-2章)

1章と2章では、私たちはエリヤとエリシャによって、神様の呪いが人々にかけられることを見ます。たぶん多くの人々はそれを読んで、エリヤとエリシャの行為は酷かったと思います。

でも、私たちは一つのことを覚えているべきです。それは、聖書では、神の呪いが私たちの敵に対する魔法の言葉ではないということです。神の呪いとは反抗的な人々に対する神の裁きです。

エリヤの場合、イスラエルの王や、最初の二人の隊長は神様とその預言者に反抗的で傲慢でした。

エリシャの場合、私たちは神様とその預言者に同じような態度を見ます。でも、多くの人々にとって受け入れがたいのは、神様は「小さい子供たち」を裁いたということです。

でも、ヘブル語では、「子供」という言葉の定義は幅広いです。「小さい子供」を意味するときもあるけど、「青年」を意味するときもあります。

列王記第一3:7では、ソロモンは自分を「小さな子供」と呼びます。たぶん、ソロモンは自分を卑下して、「私は無知で、青臭い人だ」と言っていました。

そのように、列王記の著者はその青年たちの無知を批判していました。でも、ソロモンとその青年たちの違いは、ソロモンが神様の御前にへりくだったことです。そのゆえ、ソロモンは神様の恵みを受けました。

その反面、その青年たちは神様とエリシャに傲慢で敵対的な態度を取りました。そういうわけで、彼らは裁かれました。

だからヤコブの言葉を覚えていましょう。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:6-10)

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友好関係を保つ?(列王記第一22章)

聖書を読むとき、文脈に注目することは大切なことです。44節を読むとき、文脈に注目することはとても大切です。

ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた。(44)

一見したところで、それは良いことです。

でも、43節では、著者はヨシャファテを主の目にかなうことを行うために誉めたあと、高き所を取り除けないために批判しました。たぶん、ユダヤ人たちはその高き所で神様を礼拝していたけど、神様はエルサレムだけに礼拝する、特に、いけにえをささげるように命じました。(申命記12:8ー11,13)

その批判のあと著者は、「ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた」と言いました。著者は、ヨシャファテを誉めずに、逆に批判し続けているのです。

でも、43節では、著者はヨシャファテを主の目にかなうことを行うために誉めたあと、高き所を取り除けないために批判しました。たぶん、ユダヤ人たちはその高き所で神様を礼拝していたけど、神様はエルサレムに礼拝する、特に、いけにえをささげるように命じました。(申命記12:4ー11,13)

その批判のあと、著者は、「ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた」と言いました。著者は、ヨシャファテを誉めずに、逆に批判し続けているのです。

でも、どうして著者はヨシャファテを批判していたでしょうか。平和は良いことでしょう。

普通は、そうです。でも、友好関係を保つ方法が間違っていました。つまり、ヨシャファテの息子はアハブの娘アタルヤと結婚しました。(歴代誌第二18:1)

そして、アハブのようにアタルヤは神様に従いませんでした。さらに、列王記第二11章で、彼女はダビデのすべての子孫を殺そうとしました。

今日の話では、アハブの影響によって、ヨシャファテは主の言葉を無視して、アハブと一緒にアラムと戦いました。ヨシャファテは神の預言者へのアハブの態度を批判したのに、その預言者のことばを無視しました。(8)

その結果は、ヨシャファテが危うく殺されるところでした。そして、ヨシャファテはユダに帰るとき、他の預言者は彼を厳しく責めました。(歴代誌第二19:2)

それでも、ヨシャファテはそのような失敗をもう二回繰り返してしまいました。(歴代誌第二20:35ー37;列王記第二3章)

ソロモンは「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。 愚かな者の友となる者は害を受ける」と書きました。(箴言13:20)

「愚かな者」とは、単に「バカな人」を意味しません。旧約聖書では、「愚かな者」とは、「神様に反抗する人」を意味します。

もちろん、私たちはそのような人とできるだけ平和を保つべきです。しかし、私たちは彼らに影響されてはならない。そうすれば、ヨシャファテのように、私たちは害を受けてしまいます。

あなたは誰と歩んでいますか。

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不機嫌になり、怒る(列王記第一21章)

アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。(4)

イエス様によれば、私たちは神の御国に入るため、子供のようになるべきです。でも、イエス様はアハブのような態度を取ることを意味しませんでした。

アハブは王でした。神様はアハブにイスラエルを委ねました。でも、アハブは駄々っ子のように振る舞いました。

「アハブは不機嫌になり、激しく怒った」と二回書いてあります。

最初のとき、神様がアハブを叱責したので、アハブは不機嫌になりました。(20:43)

今日のの箇所では、ナボテがアハブに自分のブドウ畑を売ることを拒んだから、アハブは不機嫌になりました。(21:4)

でも、この話を読んで、私はこう思いました。「私がアハブのように振る舞うときがるだろうか。私は幼い子どものように不機嫌になって怒る時があるだろうか。」

神様は私の人生の中で一つのことを指摘したので、私は悔い改めなくてはなりませんでした。

あなたはどうですか。不機嫌になって怒る時があるでしょうか。上司に対して?夫か妻に対して?彼か彼女に対して?友達に対して?

もしかしたら、神様に対して?

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神様の柔和さ(列王記第一19章)

主は、あわれみ深く、情け深い。 怒るのに遅く、恵み豊かである。主は、いつまでも争ってはおられない。とこしえに、怒ってはおられない。。。父がその子をあわれむようにfw、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。(詩篇103:8ー9,13ー14)

列王記19章を読んだとき、神様は上の言葉を私に思い出させました。

エリヤは本格的なかわいそうパーティーを開いていました。神様は「死にたいの?じゃあ、死ね!」と言うことができました。

でも、神様は逆に愛をもって、エリヤに御使いを遣わして、焼きたてのパンと水を与えてくださいました。

そして、山の上での神様とエリヤの会話をちょって考えて見ましょう。

神様は「外に出て、山の上で主の前に立て」と命じたとき、エリヤはどう感じたでしょうか。

彼はビクビクして外に出て、神様の反応を恐れたでしょうか。痛烈な叱責を予想したのでしょうか。

もしそう感じていたのなら、エリヤが見たものは安心させるものではありませんでした。エリヤは激しい大風も、地震も、火も見ました。でも、エリヤが注意深く見たとき、神様がその大風や地震や火の中におられないことに気づきました。

むしろ、神様がもう一度話しかけたとき、かすかな細い声で優しく話しかけました。

とはいえ、神様はエリヤがそのかわいそうパーティーに居続けることを許しませんでした。

むしろ、神様は、エリヤがそのかわいそうパーティーから離れ、神様の奉仕に戻るように命じました。

多くのクリスチャンたちは神様の怒りを恐れます。彼らは失敗するとき、神様がいつも怒ったり、彼らを叱責したりすると思います。

でも、私たちの天のお父さんはそのような方ではありません。神様は私たちにいつも叱り飛ばしているわけではありません。

むしろ、神様はかすかな細い声で、私たちが再び立ち上がり、神様についていくように励ましてくださいます。

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すべてを治める神への祈り(列王記第一17-18章)

ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。(1)

天のお父様、アハブ王はあなたがイスラエルの神として認めなかったけど、アハブの無知はその現実を変えませんでした。

でも、シドンのやもめが学んだように、あなたはイスラエルの神だけではなく、あなたはすべての国の神です。

あなたは実際に被造物のすべての神です。あなたの命令によって雨が止んだし、あなたの命令によって雨がもう一度降り始めました。

あなたの命令によって、烏もエリヤにパンと肉を持ってくれました。

天のお父様、アハブのように、多くの人はあなたを神として認めません。

だからエリヤのように、私たちあなたの民は、あなたとその御心に従って祈ります。この国の人々、また、すべての国民があなたが神であることを知るように、私たちの祈りを聞き、答えてください。

彼らの心をあなたに向けてください。特に、あなたが私たちの人生に置いて、また、私たちに愛する責任を与えた人々の心をあなたに向けてください。イスラエル人のように、彼らも「主こそ神です。主こそ神です」と認めるように。(18:39)

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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神様の懲らしめに対する私たちの反応(列王記第一15章)

列王記にあるアサの話を読むと、彼がかなり良い王に見えます。でも彼の人生に霊的な問題がある示唆も見ることができます。つまり、ベン・ハダデとの条約を結ぶために、アサは主の宮から銀と金を奪って、ベン・ハダデに渡したということです。

歴代誌第二16章では、その著者はアサの霊的な問題を明快に記録します。預言者ハナニを通して、神様がアサをその行為のために責めた時、アサはハナニを牢に入れました。その後、アサが足の病気にかかったとき、主を求めることを拒んで、医者だけを求めました。

アサの話を読んだとき、私は「アサは救われただろうか。アサは今、天国にいるだろうか」と疑問に思いました。

私の意見だけど、たぶんアサは天国にいるでしょう。

なぜなら、列王記の著者は、アサが「主の目にかなうことを行なった」、また、「アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった」と書いたから。(列王記第一15:11,14)

歴代誌を読むと、列王記にある言葉はちょっと不思議に見えるけど、ダビデに関する神様の言葉を考えましょう。

ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。(列王記第一14:8)

列王記の著者はダビデについて大体同じことを言うけど、「ヘテ人ウリヤのことのほか」という言葉を付け加えます。(列王記第一15:5;第二サムエル記11章)

私がアサとダビデのことを考えると、神様は私の心に二つのことを印象づけました。

一つ目は、私たちは恵みによって生きることです。神様は私たちを見ると、私たちを義人として認めます。私たちが完全な人だからではありません。むしろ、イエス様の十字架の御業によって、私たちを義と認めてくださいます。私たちはイエスの義を着せられています。だから、私たちの罪と失敗にもかかわらず、裁きの日に、神様は私たちについて、こう言います。「あなたはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。」

それは本当に不思議なことですね。

でも二つ目は、この地上に、私たちの行為が神様との関係のクォリティーに影響を与えてしまうということです。神様との関係の一つの面は、神様の懲らしめに対する私たちの反応です。ダビデは神様の懲らしめによく応えたので、彼の人生の最後まで、神様と良い関係を保ちました。その反面、アサが神様の懲らしめにいい方法で反応しなかったので、人生の最後に、神様との関係はあまりよくありませんでした。

あなたの行為は神様との関係のクオリティにどのような影響を与えているでしょうか。

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主がご自分の名を置く所(列王記第一14章)

ユダではソロモンの子レハブアムが王になっていた。レハブアムは四十一歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。

ソロモンが神の神殿を建てたとき、神様はご自分の名をその神殿にとこしえまでも置くと約束しました。(列王記第一9:3)

でも、そのあと、ソロモンは神様がご自分の名を置いた都市にもう一つの名前、つまり、もう一人の人を連れてきました。その人はソロモンの妻であるナアマでした。彼女とソロモンの他の妻たちの影響によって、ソロモンの心はほかの神々に向かいました。(列王記11:1-4)

どうやら、ナアマはレハブアムを同じ道に導いたようです。列王記の著者はわざわざレハブアムの母の名前とその素性を二度記録しています。

神様は私たちにご自分の名を置きました。私たちは今、神の宮です。でも、私たちはほかのどのような名、つまり、どのような影響をその宮に持ってきているでしょうか。

どんな本を読んでいるのですか。インターネットやテレビで何を見ているのですか。どんなポッドキャストや歌を聴いているのですか。

ある種のものは明らかに悪いものです。もちろん、そのようなものを避けるべきです。

あるものは別に悪いものではないけど、クリスチャンの成長のために特に役に立たないものです。そのようなものは適度ならぜんぜん問題ないのです。

でも、あるものの影響によって、私たちは神様に近づき、私たちの信仰が強くなります。あなたはそのようなものを神様の宮に持ってきているでしょうか。

神の宮に持ってくるものはどのようにあなたの態度や世界観や信仰に影響を与えているのですか。

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(ピりピ4:8)

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神の人?(列王記第一13章)

今日、「神の人」という表現を反芻しました。聖書では普通、その表現は預言者に当てはめられるけど、ダビデもテモテも「神の人」と呼ばれました。(ネヘミヤ12:36;第一テモテ6:11)

興味深いことは、サムソンのご両親に遣わされた御使いも「神の人」と呼ばれました。多くの聖書学者たちは、その御使いが実際にイエス様であったと信じています。(士師記13:6)

でも、今日この箇所を読んだとき、神様は私に二つのことを指摘しました。一つ目は、年老いた預言者は「神の人」と呼ばれなかったことです。その人の行為を見ると、私たちはその理由がよく理解できると思います。

二つ目は、聖書に「神の人」と呼ばれた人の中で、この預言者だけが「主のことばに背いた神の人」と呼ばれたことです。

でも普通、「神の人」という人が神のことばに従うことで特徴づけられます。

「神の人」は自分のものではありません。「神の人」は神様に属し、従います。

「神の人」は神様を自分の主と認め、神様に従います。「神の人」は神様に信頼し、神の一つ一つのことばで生きます。小さいことでも、「神の人」は神のことばに従います。今日の話では、その「神の人」はそうしませんでした。

「神の人」は神様から委ねた人々を愛し、その人々に忠実に仕えます。

ヤロブアムは「神の人」ではありませんでした。神様に信頼することを拒んで、自分の道を行きました。(列王記11:38;12:26ー30)

レハブアムは「神の人」ではありませんでした。彼はイスラエル人たちに仕えずに、むしろ、自分の力を振るおうとしました。(列王記12:13ー14)

我々クリスチャンたち、男性たちでも、女性たちでも、「神の人」として生きるべきです。私たち皆は、神様を主と認め、神様に従い、神様から委ねられた人々を愛し、その人々に仕えるべきです。

でも、聖書では、「神の人」という表現はいつも男性たちに当てはめられます。モーセ、サムエル、ダビデ、エリヤ、エリシャ、テモテは「神の人」と呼ばれました。

だから、私は女性たちに「神の女性」になるように勧めるけど、さらに男性たちに「神の男性」になるように勧めます。

男性たち、神様を主と認め、神様に従いましょう。毎日神様に従いましょう。そして、神様から委ねられた人々、特に自分の妻と子供たちを愛し、忠実に仕えましょう。

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不従順のために言い訳をする(列王記11章)

必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。。。ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。(申命記17:15ー17)

モーセを通して、神様はイスラエル人たちに王に関してそのルールを与えました。

ソロモンはそのルールをことごとく破りました。(列王記第一9:28;10:14ー21,26ー29;11:1ー3)

どうして、ソロモンはそのルールを破ったでしょうか。

私には分かりません。

でも、もしかしたら,ソロモンはそのルールがそんなに大切ではないと思ったのかもしれません。

神様への私たちの不従順に対して、いろんな言い訳を考えることができます。

「私はまだ主を愛しているよ。私はまだ主を礼拝しているよ。さらに、回りの人々はそのように生活しているの。」

たぶん、ソロモンもそのように考えていたでしょう。彼はまだ主を礼拝していました。でも、問題は「彼の心が神、主と一つにはなっていなかった」ということです(11:4)。そして、最終的に、ソロモンは主の目にまったく悪であることを行ってしまいました(11:6)。

自分を騙して、自分の不従順に対していろんな言い訳を考えるのは簡単なことです。でもそうすれば、最善の事態であっても、私たちの心はもはや100%神のものではなくなってしまいます。最悪の事態では、私たちは主の目に全く悪であることを行ってしまいます。

イエス様、あなたは、「私を愛する人は、私の戒めを保ちます。」と言いました。

私があなたを愛することはあなたがご存じです。だから、私の不従順に対する言い訳を捨てるように助けてください。私の心がすべてにおいてあなたのものになるように。

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本当に不思議な真理(列王記第一8章)

それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。
実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできませ。
まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。(27)

今朝、私はその言葉に思いを巡らしました。

天も神様をお入れすることはできません。でも、恵みによって、神様はソロモンが建てた神殿に入って、ご自分の栄光でその神殿を満たしたことを選んでくださいました。(10ー11)

数百年後、神様はこの世に来て、私たちの間に住まわれました。イエス様自身は地上の神の宮になって、神の満ちた満ちたもの、神の栄光のすべてはイエス様のうちに宿られました。(ヨハネ1:14,2:19;コロサイ1:19)

でも今は、私たちが神の宮です。天も神様をお入れすることはできないけど、神様はイエス様を信じる一人ひとりの心のうちに住まわれることを選んでくださいます。(ヨハネ14:23,エペソ3:17,第一コリント6:19ー20)

私たちが神の宮になったので、夜も昼も神様はご自分の目を私たちに開き、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちを見守り、私たちの叫びと祈りを聞いてくださいます。

さらに、神様は私たを見て、「わたしの名をそこに置く」と言われます。(列王記8:28=29)

天のお父様、あなたは、はたして地の上に住まわれるでしょうか。
実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできませ。
どうしてあなたは私のうちに住まわれることを選ぶでしょうか。
どうして、私を見守り、私の祈りを聞いてくださるでしょうか。
どうして、私をおご自分のものと呼ぶでしょうか。
あなたの愛は本当に不思議です。

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私たちを強くし、堅く立たせる方です。(列王記7章)

この柱を本殿の玄関広間の前に立てた。彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。

正直に言うと、私にとって、7章はかなりつまらないのです。

でも、この箇所を読んだとき、神様は「ヤキン」と「ボアズ」についての脚注に私の注意を向けられした。

「ヤキン」とは、「彼は設立する」または、「彼は堅く立たせる」を意味します。

「ボアズ」とは、「力をもって」、または、「彼にあって力がある」を意味します。

もしかしたら、ソロモンは第二サムエル記7:7ー16にあるダビデへの神の言葉を思い出したかもしれません。ダビデはいろんな試練に直面していたけど、神様はダビデを強くしてくださったし、ダビデの子孫の王座を堅く立たせると約束しました。最終的に、ダビデの子孫であるイエス様において、その言葉は成就します。

とにかく、神様は私に思い出させました。「私はあなたをも堅く立たせます。私はあなたをも強くします。だから、私と共に歩みなさい。」

それが神殿の意味です。神様が私たちと共におられることです。

だから、神様と歩調を合わせましょう。そうすれば、私たちがどんな試練に直面しても、神様は私たちを堅く立たせ、毎日強くしてくださいます。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:10)

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ソロモンの神殿、あなたの天の御座(列王記第一6章)

天のお父さん、ソロモンが建てた神殿は言葉で表現できないほど美しいところでした。大祭司が初めて至聖所に入った時に、どう感じたか私は想像するしかできません。

それでも、その神殿は天国にあるあなたの御座の影だけです。

それに、地上にあるあなたの御座へのアクセスは、ただ一国の一部族の出身の大祭司の一人に限られていました。

でも、イエス様、十字架であなたは子羊のように屠られました。

そして、十字架で自分の血によって、あなたは神のためにすべての部族、言語、民族、国民の中から人々をあがない、彼らを王国とし、祭司とされました。そして、神の祭司として、私たちは御座に座っておられるあなたの父への直接のアクセスを持っています。でも、私たちはただの祭司たちではありません。私たちは天の父の愛している子供たちです。そして、ある日、私たちはあなたと共にこの世を治めます。(黙示録4:9ー10)

だから、天のお父さん、あなたの御座に近寄ります。私たちは大祭司でさえ持っていなかった大胆さをもって、あなたの御座に近寄ります。なぜなら、イエス様は私たちの罪のために代価を支払ってくださったから。あなたが私を赦してくださった確信を持っているから。あなたが私を愛し、受け入れてくださっている確信をもっているから。(ヘブル4:16;10:19ー22)

天のお父さん、毎日毎日、一瞬一瞬、私と共に歩んでください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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真の男らしさ(列王記第一2章)

あなたは強く、男らしくありなさい。あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。(2-3)

ダビデの言葉は、男の人にも女の人にも当てはめられるけど、この話では、ある男性(ダビデ)がもう一人の男性(ソロモン)に「男らしくありなさい」と命じたことを考慮して、特に男性たちにお話ししたいと思います。

現代の社会では、「男らしさ」というイメージはだんだんぼんやりしたものになってきたけど、以前は「男らしさ」を聞くと、人々は、「強い」、また、「勇敢」というイメージを持っていました。

ダビデの時代でも、人々はそのように考えました。

しかし、真の男とは、単に強くて勇気のある人のことではありません。

真の男とは、神の口から出る一つ一つのことばで生きる人のことです。そして、時々、その言葉に従うために、私たちは本当に心の強さと勇気が必要です。

最近、マルコ10章を読んで、私が気付いたのは、イエス様が真の男とは何であるかという模範を示してくださったということです。

天の父は、イエス様をエルサレムに十字架で死ぬために送りました。イエス様がたぶん恐れをもって死にたくないと思っても、イエス様についていった人たちが怖がっても、イエス様は思い切ってエルサレムに向かって行きました。(マルコ10:32)

イエスは十字架で死ぬほど、天の父の口から出る一つ一つのことばで生きました。

イエス様は真の男です。

私はそのような男性になりたいです。男性たち、あなたはどうですか。私たちは何としてもの父の口から出る一つ一つのことばで生きるでしょうか。

良い知らせは、私たちが自分の力でそれをする必要がないということです。実は、自分の力だけでは、私たちはそれができません。

だから、イエス様の言葉を覚えていましょう。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:4-5)

男性たち、あなたはどうするでしょうか?

私たちの妻たち、息子たち、娘たち、周りの人々は私たちを見て、私たちの反応を待っているのです。

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あなたは、わたしに従いなさい(ヨハネの福音書21章)

イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

多くの人々は、しばしば自分を周りの人々と比べてしまいます。正直に言うと、私もよくそうしてしまいます。

でもそうしてしまうと、私たちは一番大切なことを忘れてしまいます。それは、イエス様に従うことです。

今日の話を読んだとき、私はペテロのことを考えました。イエス様を見ると、ペテロは湖に飛び込んで、イエス様のところへ泳ぎました。

私の最初の考えは、「イエス様に対するペテロの情熱が欲しいなぁ」ということです。

私の次の考えは、「ペテロはクレージーだった。私は絶対に湖に飛び込まない」ということです。

もちろん、私はイエス様を愛しているけど、ペテロの性格と私の性格は全然違います。(あなたはどうですか。イエス様を見たら、湖に飛び込んで、イエス様のところへ向かって泳ぐでしょうか。)

でも、神様は私にこう言いました。「私がペテロをそのような性格を与えようと望んだとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたをありのままに造りました。あなたは私に従いなさい。」

神様は、私がペテロのようになることを望んでおられません。神様は私が自分の牧師やほかのクリスチャンのようになることを望んでおられません。神は私を造ったとおりに生きることを望んでおられるのです。

神様はあなたに対して同じように感じておられます。

もし私たちがイエス様に目を離さず、イエス様に従い、神様に託されたものを忠実に使うなら、神様は満足されます。

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見よ、あなたの王だ(ヨハネの福音20書19-20章)

ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」(ヨハネ19:14)

すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。(20:19-20)

見よ、あなたの王だ。
体が血まみれで引き裂かれた王。

見よ、あなたの王だ。
茨の冠をかぶせられた王。

見よ、あなたの王だ。
殴られ、顔があざだらけになった王。

見よ、あなたの王だ。
不当に虐待された王。

見よ、あなたの王だ。
木にかけられた王。

見よ、あなたの王だ。
あなたのために死なれた王。

見よ、あなたの王だ。
墓から脱出した王。

見よ。あなたの王だ。
栄光によみがえられた王。

見よ。あなたの王だ。
手と脇腹が突き刺された王。

見よ。あなたの王だ。
その平安にとどまろう。

見よ。あなたの王だ。
すぐに来る王。

見よ。あなたの王だ。
新しい天と地を造る王。

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聞き従う心(列王記第一3章)

しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。(7,9)

新改訳では、「聞き分ける心をしもべに与えてください」と書いてあるけど、英訳では「聞き従う心」と訳されています。

ヘブル語では、「聞き分ける」と訳された言葉は普通に「聞く」と訳されます。また、その言葉はたまに「従う」というニュアンスがあります。だから、英訳では、「聞き従う」と訳されているのです。(もちろん、この文脈では、「聞き分ける」と訳されてもいいけどね。)

ソロモンの言葉を読んで、私はイエス様の言葉を連想しました。

わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。(ヨハネ5:30)

この世にいたとき、人間としてのイエスの知識は限られていました。その意味では、ソロモンのように、イエス様は小さな子のようでした。イエス様は完全に天の父の知恵に頼りました。だからイエス様は毎日、天の父に耳を傾け、その御心に従いました。

イエスがそのように生きたのなら、なおさら私たちはそのように生きるべきでしょう。

天のお父さん、あなたを喜ばせたいです。あなたの御心を求めているのです。でも、私は小さな子のようです。善悪を判断するために、あなたの知恵が必要です。正しい判断、良い決断をするために、あなたの知恵が必要です。だから、聞き従う心を私に与えてください。一日中、あなたの御声に耳を傾ける心を与えてください。あなたの声に喜んで従う心を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様が書いたもの(ヨハネの福音書19章)

「そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。

ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」」(21ー22)

天のお父様、ユダヤ人は怒って文句を言ったけど、ピラトの言葉が立ちました。

それなら、なおのこと、あなたの御言葉は立つでしょう。この世の民がどんなにあなたの言葉に反対し、あなたに反抗しても、あなたの言葉は立ちます。

あなたが書いたものは決まっているのですから。

預言者たちを通してあなたが言った言葉のすべては成就しました。(24,28,36ー37)

それが私の希望です。

この世は壊れました。この世の民はあなたに反抗したのです。

でも、あなたはご自分の王を立てました。(詩篇2:6)

この世はその王を十字架につけてしまいました。

でも、あなたはその王を復活させました。

そして、ある日、その王はこの世に戻り、この世のすべてを新しくしてくださいます。

私はその日を待ち望みます。

なぜなら、あなたが書いたものは決まっているのですから。そして、その言葉のすべては、あなたのタイミングで成就します。

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見よ、この人だ。見よ。あなたの王だ。(ヨハネの福音書19章)

ピラトの言葉は私の心を打ちました。

見よ、この人だ。(5)

その日、ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。人間と同じようになられた神です。(ピリピ2:6-7)

その神は、むちで打たれ、拳で殴られ、いばらの冠をかぶせられ、紫色の着物を着せられた方です。

Amazing love! 
(驚くべき愛)

How can it be, that thou, my God, shouldst die for me? 
(どうして、あなたが私の神なのに、私のために死んでくださったのだろか。)

–チャールズ・ウェズリー

見よ、おまえたちの王だ。(14)

ユダヤ人たちは何を見たでしょうか。

それは、死刑を宣告された王です。ご自分の罪のためではなく、私たちの罪のためです。

Amazing love! 
(驚くべき愛)

How can it be that you my King, would die for me?
(どうして、あなたが私の王なのに、私のために死んでくださったのだろうか。)

ビリー・ジェームズ・フット

 

今日の話を何回も読んだことあるかもしれないけど、ただざっと読まないでください。また、読んでから、すぐに忘れないでください。

ちょっと時間を取って、ユダヤ人たちがその日、何を見たか、よく考えましょう。そのシーンを思い描きましょう。

イエス様があなたのために何をしてくださったか、よく考えましょう。

イエス様の苦しみをよく考えましょう。

イエス様の死をよく考えましょう。

また、イエス様の復活を覚えていましょう。

ユダヤ人のリーダーたちの模範に従ってはいけません。私たちの王を軽んじてはいけません。

むしろ、深い感謝と喜びをもって、「あなたは私の王だ」と歌いましょう。

そして、毎日、毎秒、私たちの人生をイエス様にささげましょう。

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自分の疑問の解決がもう気にならなくなる日(ヨハネの福音書16章)

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。(22ー23)

今日、私は上の言葉に思いを巡らしました。日曜日は父の日でした。だからいつものように、私は12年前に亡くなった父のことを考えました。

私の父はいろんな苦しみに直面しました。特に、最後の十年では、父はいろんな健康問題を持っていました。

もし父が「どうして」と尋ねたとしても、驚くようなことではなかったでしょう。でも彼は実際に決してそうは訊きませんでした。

この世を見るとき、私はよく「どうして」と訊きます。ガンで亡くなった友達もいたし、うつ病で自殺をした親戚もいました。「良い人」(実のところ、私たち皆は罪人です)に悪いことが起こったことを見たこともあります。

だから私は悲しみを知っています。痛みを知っています。まだ理解できない疑問をたくさん持っています。

でも、イエス様によれば、イエス様の顔を見る日が来ます。その日、私は喜び、イエス様に何も尋ねることはありません。

どうしてでしょうか。もしかしたら、その日、私は神様の計画のすべてを知るからかもしれません。

でも、もしかしたら、その日、私はもう自分の疑問の解決を気にしなくなるかもしれません。なぜなら、私の目でイエス様を見るから。そして、イエス様が私と共におられ、私の悲しみと痛みは洗い去られます。

でも、とりあえず、私は天の父にアクセスすることができます。私の願いを神様に委ねることができます。そして、天の父は私の願いを聞いてくださいます。私を愛してくださるから。そして、私の良いパパは知恵をもって、私が求めていることが良いと思うなら、与えてくださいます。(第一ヨハネ5:14ー15;マタイ6:11)

だから、イエス様の言葉を固く信じます。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

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