使徒の働き4:32-37--一致、力、と恵み

教会はどういうものであるべきでしょうか。この個所では、私たちは良い模範を見ることができます。

一致

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。(32)

現代の教会はそんなことを言えるでしょうか。2000年前のクリスチャンたちは、自分たちの心と思いを一つにしました。彼らは自分の所有しているものを自分のものと言うことさえしませんでした。彼らは、自分の物が主のものだと見なしました。だから、兄弟たちや姉妹たちに必要があれば、彼らはそのニーズに備えました。それゆえ、クリスチャンたちの間では、飢える人がいませんでした。

でも、今は、多くのクリスチャンはそのように考えません。十一献金のメッセージを聞くと、彼らは「でも、それは私のお金だ」と言います。「十一献金は旧約聖書の時代のためでした。それは私に関係ないです。」

正直に言うと、十一献金は旧約聖書の時代のためだと思います。でも、「あなたのお金」は、実際にあなたのものではありません。神様があなたに才能や健康なからだを与えたので、あなたはお金を稼ぐことができます。だから、実は、そのお金は神様のものです。

使徒の働きの時代に、クリスチャンたちがそれを認めたので、彼らは神様に与えてくださったことを惜し気もなく分け合いました。その結果は。。。

恵み

大きな恵みが彼ら全員の上にあった。(33b)

もちろん神様は直接私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを赦してくださるし、いろんな祝福を与えてくださいます。でも神様は、私たちがその恵みのパイプラインになるように望みます。私たちは、自分が受けた恵みを周りの人々にシェアするべきです。でも、私たちが自己中心で、その恵みをシェアすることを拒むなら、そのパイプラインは詰まるようになります。

その反面、私たちが自分自身から目を離して、周りの人々を愛するなら、教会の中で恵みは豊かに溢れます。

ちから

使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし(ました)。(33a)

その力によって、彼らはいろんな奇跡を行ったし、彼らの証しがその世界を全く変えてしまいました。

その同じ御霊は現代でもそんなことができます。だから私たちはそのために祈るべきです。癒しの奇跡だけではなく、変えられた人生という奇跡のために祈るべきです。つまり、聖書を伝える人が話すとき、私たちは、聖霊様が彼らを通して働くように祈るべきです。聖霊様の力が抜けたら、牧師のメッセージは無意味なものとなってしまいます。だから、聖霊様が私たちの牧師たちを満たして、彼らを通して話すように祈りましょう。

でも、それだけでなく、聖霊様が私たち自身を満たして、私たちを通して働くように祈りましょう。なぜなら、私たちも神様の祭司たちですから。

一致、恵み、と力。2000年前の教会のように、現代の教会がその三つのことで満ちるように。

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使徒の働き4:1-31--御霊に満たされ続くこと

この個所を読むと、二つのことに気づきました。

最初に、御霊に満たされることはただ一回の経験ではありません。むしろ、神様の民は何回も御霊に満たされました。この個所で私たちはそのことを見ることができるし、使徒の働き中にそのことを何回も見ることができます。

二つ目のポイントは、御霊に満たされるのは、特別な目的があることです。この個所では、私たちは二つの目的を見ることができます。つまり、大胆さと力ということです。

ルカは最高法院の人たちに関してこう言いました。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(13)

ちょっと考えてみてください。ペテロとヨハネは逮捕されて、徹夜で禁固されました。だから、彼らが最高法院の前に出させられたとき、宗教的なリーダーたちは彼らが怖がると予想しました。でも、ペテロとヨハネは大胆にイエス様のことを伝えたり、聖書を引用したりしました。さらに、彼らはこの驚くべきことを言いました。

この方(イエス様)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(12)

彼らは世間一般の漁師でした。彼らは特別な宗教的な教育を受けていませんでした。でも、彼らは力と大胆さをもって、そのことを伝えました。さらに、そのリーダーたちが彼らをどんなに迫害しても、ペテロとヨハネを黙らすことはできませんでした。

それに、そのリーダーたちはまだイエス様の空っぽなお墓を説明できなかったし、その癒された足の不自由な人の奇跡を否定できなかったので、ペテロとヨハネの言葉に反ばくできませんでした。

だから協議した後、彼らはもう一度ペテロとヨハネを脅かして、イエス様の名によって語ることも教えることも禁止しました。

でも、ペテロとヨハネはもう一度大胆に答えました。

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。(19-20)

そのリーダーたちはそれを聞いて、その二人をもっと脅かしたけど、結局彼らを釈放しました。

ペテロとヨハネはほかのクリスチャンたちに会ったとき、一緒に祈りました。特に、全ての人々がイエス様がメシアであることを知るように、神様がクリスチャンたちに大胆さと力を与えるように祈りました。

そのあと、

集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。(31)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、私たちがイエス様のためにこの世に影響を与えたいと思うなら、私たちの中の聖霊の臨在が必要ということです。私たちはただの一般人かもしれないけど、聖霊を通して、私たちが大胆さと力を持つので、神様は私たちを通して素晴らしいことができます。

でも、どれだけ私たちはその大胆さと力を欠くでしょうか。私はその感じがよくわかります。私は自分の欠点と弱さを知って、自信を持たないときも多いです。

だから、私たち皆は、聖霊に満たされ続かなくてはなりません。私たちは御霊の器だけど、いろんなひびがあります。私たちが疲れるときもあります。私たちがこの世のものにのめり込んでしまうときもあります。私たちが絶望するときもあります。だから毎日、さらに毎秒、私たちは神様の仕事をするために聖霊様に満たされなくてはなりません。

聖霊様、私はあなたが必要とします。だから毎日私を満たしてください。この世の民はあなたが本当に必要とします。だからあなたの仕事をするために、私を力と大胆さで満たしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き3:17-26--祝福を受けることができる前

多くの人々は、神様からの祝福を望みます。

実は神様は、自分の子どもに贈り物を与える父です。神様の子どもとして、私たちは祝福を期待することができます。

でも、その祝福を受ける前に、私たちがすべきことがあります。ペテロはユダヤ人たちにこう言いました。

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。。。モーセはこう言いました。「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。その預言者に聞き従わない者は誰でも、自分の民から断ち切られる」。。。神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなた方一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(19-20、22-23、26)

ようするに、「モーセ自身が、モーセのような一人の預言者が来ると言いました。そしてモーセは、あなたがたがその預言者に聞き従わなければならないと言いました。そうしないと、あなたがたは自分の民から断ち切られます。そして、その預言者はもう来ました。イエス様がその預言者でした。だからイエス様の言うことを聞いて、悔い改めなさい。あなたを祝福するために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。でも、まずあなたたちが悔い改めなくてはなりません。そうすれば、イエス様があなたたちの罪をぬぐい去るし、回復の時、また祝福の時は来ます。」ということです。

ペテロはその言葉をユダヤ人たちに言ったけど、その言葉は私たちにも当てはめられます。

神様はまずイエス様をユダヤ人たちのために遣わしたけど、神様は私たちのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そして、イエス様がユダヤ人たちを祝福するように、私たちをも祝福してくださいます。

でもその前に、私たちは悔い改めなくてはなりません。私たちは自分の道を行き続けることができません。私たちはイエス様に聞き従わなければなりません。そうしないと、私たちは決して神様からの祝福を知ることができません。おまけに、私たちは神様の民から断ち切られて、神様の国に入ることができません。

多くの人々は神様からの祝福を望むけど、自分の道を行き続けたいと思います。自分勝手の条件で、その祝福を望みます。でも、その祝福を望むなら、自分勝手の条件ではなく、神様の条件に従います。

もちろん救いはその通りです。自分勝手な条件では、救いを得られません。つまり、あなたの良い行為を通して、その救いを得られないことです。むしろ、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはなりません。ただイエス様に対する信仰を通して、あなたは神様に義と認めれらます。

でも、私たちの救いを得た後、同じ原則で私たちは生き続けます。もし、私たちは自分の道を行くなら、神様からの祝福を期待することができません。私たちは神様の道を行かなくてはなりません。

では、私たちは何とかその祝福を稼がなくてはならないでしょうか。違います。私たちは決してそんなことができません。

でも、神様は私たちの信仰を望みます。私たちは神様に従うほどに、神様を信じるでしょうか。それなら、私たちはその祝福を知ります。

ノアが箱舟を作ったとき、その教訓を学びました。

アブラハムがカナンに行ったとき、その教訓を学びました。

ダニエルが王の食べ物を拒絶したとき、その教訓を学びました。

聖書の時代でも、現代でも、多くの人々はその教訓を学びました。

あなたは神様からの祝福を望んでいるでしょうか。

あなたはどれだけ神様を信じるでしょうか。自分の道をやめて、神様の道を行くほどに、神様を信じるでしょうか。

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使徒の働き3:11-16--私たちじゃない

ペテロとヨハネが癒してくれた乞食が歩いたり、飛び跳ねたり、大きな声で神様を賛美したりすると、周りの人々は本当に驚きました。その人は40年間ぐらい歩くことができなかったから。でも、すぐに、彼らはペテロとヨハネをもぽかんと見つめ始めました。

でも、ペテロは彼らにこう言いました。

イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や、敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。。。このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。(12,16)

ペテロの言葉の中に、私たちは本当に大切なことを見ます。

私たち自身は、自分の人生の中心ではありません。大切なのは、私たちではありません。大切なのは、私たちができることではありません。

大切なのは、イエス様です。大切なのは、イエス様が十字架で行った御業です。大切なのは、今イエス様がしていることです。

ペテロが高慢な態度で、「私たちを見て。凄いでしょう?神様は私たちに素晴らしい力を与えてくださった。私たちは本当に恵まれているでしょう?」と自慢するのは、簡単だったでしょう。

でもそうせずに、ペテロはイエス様を示しました。ペテロとヨハネではなく、イエス様がその人を癒したと指摘しました。

また、ペテロが言ったのは、その奇跡を見た人がペテロとヨハネを信じて褒めるべきではなく、イエス様を信じて褒めるべきだということです。なぜなら、イエス様が彼らのために死にましたから。モーセとほかの預言者たちはイエス様を指して、イエス様に聞きなさいと言いました。

でも、多くのクリスチャンたちはイエス様に焦点を当てずに、自分自身に焦点を当てます。彼らは自分の霊的な賜物に焦点を当てます。自分ができることに焦点を当てます。自分がもらった誉れに焦点を当てます。でも、そうすれば、彼らは自分のいのちの目的を見逃します。

それはイエス様を知って、周りの人々にイエス様を指すことです。

でも、自分自身に焦点を当てると、私たちは、神様が私たちに与えたい命や喜びを知ることができません。

あなたはどうですか。あなたは何に焦点を当てるでしょうか。何のために生きているでしょうか。誰のために生きているでしょうか。

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使徒の働き3:1-10--神様の仕事に参加すること

正直に言うと、神様が私に人に触れる機会をよく与えてくださるのに、私は何回もその機会を逃してしまいます。どうしてでしょうか。なぜなら、私は自分の予定に集中しすぎるから。

例えば、私は買い物に行って、誰かに巡り合うけど、私は挨拶しかしないで、すぐに買い物に戻ります。時々私は本当に時間がないかもしれないけど、どうして私はその人と約束をしなかっただろうか。むしろ、多くの場合、私は心の中で言い訳を言って、すぐに行ってしまいます。

今日の個所では、乞食を通り過ぎる時、ペテロとヨハネがそんな言い訳を言うのは簡単だったでしょう。なぜなら、彼らは神殿に行っているところだったから。彼らは神様を礼拝する予定がありました。だから、その乞食と話す時間がなかったでしょう。さらに、彼らはお金が全然ありませんでした。

だから、その乞食を無視するのは、本当に簡単なことだったでしょう。

また、「ごめん。お金がない」と言って、行き続けることは簡単なことだったでしょう。

でもそうせずに、彼らは止まって、その人を見つめました。

そして、彼らができないことが気にせずに(つまり、お金ををあげること)、彼らは聖霊様ができることを指しました。

ペテロはこう言いました。

金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。(6)

そして、ペテロはその乞食の手を取って立たせました。いきなりその乞食は歩いたり、飛び跳ねたり、神様を賛美したりしたので、みんなは驚きました。

あまたはどうですか。あなたは、自分の予定に集中しすぎるので、聖霊様が何をしたいか見ることができないでしょうか。

あなたの限界に集中しすぎて、聖霊様ができることを見ることができないでしょうか。

毎日聖霊様の導きによって、歩みましょう。聖霊様が何をするかを見て、聖霊の導きによって、その仕事に参加しましょう。

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使徒の働き2:42-47--一つになって、一つにする

今日、私はこの個所を括ろうと思うけど、44節と46節では、「一つになって」と「心を一つにして」という言葉は、私の心を打ちました。

その言葉は、42節の関係があると思います。つまり、クリスチャンたちは交わりに専念しました。

彼らがほかのクリスチャンとの関係を大事にしたので、彼らは積極的に一緒に時間を過ごそうと努めました。でも、ただ宮に集まったわけではなく、彼らは自分の家にも集まりました。そして、一週間に一回だけではなく、毎日集まりました。さらに、彼らは本当に互いに愛し合いました。だから、彼らはいつも貧しい兄弟たちと姉妹たちを助けました。

そして、彼らは自分の心を一つにしました。

では、彼らは決してケンカしなかったでしょうか。それは違うと思います。

彼らはいつも同意したでしょうか。たぶんそうではないでしょう。

でも、最終的に彼らは、相手の違いを見逃して、相手を兄弟たちと姉妹たちと見なすことができました。彼らはお互いを必要だと認めました。さらに、彼らはその関係に専念しました。

クリスチャンたちは新しい夫婦にアドバイスを与えるとき、しばしばこう言います。「大変な時にも、この関係を守ろうと努めなさい。相手に対するコミットメントは、とても大事なのです。だから喧嘩するときにも、傷つけられる時にも、頑張って、その関係を守りなさい。」

もちろん、それはそうです。

でも、どれだけクリスチャンはほかのクリスチャンと喧嘩して、その関係を捨てるでしょうか。

神様は私たちに「兄弟たちや姉妹たちとの関係を守りなさい。私はあなたからそんなコミットメントを望みます。」と言うけど、私たちは全然そのことを考えません。辛い時にも、私たちが喧嘩する時にも、私たちが傷ついたときにも、神様はそんなコミットメントを望みます。

結婚のように、クリスチャンの交わりは、コミットメントが必要です。また苦労が必要です。でも、そんなコミットメントを持てば、報いは素晴らしいです。

そんなコミットメントがあれば、私たちは祝福されます。さらに、この世の人々は、私たちの互いの愛を見て、イエス様に魅せられます。使徒の時代に、そんなことが起こりました。

神様の民の愛と一致によって、また、彼らの間の神様の働きによって、教会が成長しました。ルカはこう書いた。

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

確かに、教会の中には、いろんな問題があります。教会が人間から成り立つ限り、問題があるはずです。なぜなら、イエス様は完全な人々のために来たのではなかったからです。イエス様は霊的な病気な人々のために来ました。また、壊れた人々のために来ました。

牧師たちやほかのリーダーたちが失敗するときもあります。

教会で、人は人を傷つけるでしょう。

それでも、その関係にコミットメントを持つでしょうか。あなたのプライドを脇へ置いて、苦労して、人間関係の問題に取り組むでしょうか。イエス様のためにそうしませんか。

主の言葉を覚えていましょう。

私はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

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使徒の働き2:42-47--一緒に祈ることに専念する

正直に言うと、最近の記事を考えたとき、私が教会をやめた人に対して厳しすぎただろうかと思いました。私はちょっとわかりません。

誰かに傷つけらて、教会をやめた人もいることをよく知っています。だから、ある程度まで、私は彼らに共感できます。

でも教会をやめるのは、良い解決ではありません。

相手を許すことは、大変だし、とても難しいことです。でも、私たちが本当にイエス様を愛し、従いたいと思うなら、その教訓を学ばなくてはなりません。なぜでしょうか。

一つ目の理由は、苦々しい思いや怒りを抱いて、相手を許さないと、私たちは聖霊様を本当に悲しまらせることです。(エペソ人への手紙4:29-32)

もちろん、あなたが聖霊様を悲しませるなら、天の父とイエス様をも悲しませます。

二つ目の理由は、私たちが許さないと、私たちはこの世の人に、どんなメッセージを伝えているでしょうか。私たちは彼らと全然違いません。

とにかく、傷ついた人にちょっと共感できるけど、私は神様のみ言葉に頑なな心を持つ人に全く同意できません。

また、キリストのからだ(つまり、教会)が要らないと思う人と全く同意できません。私はパウロの言葉を使うけど、彼らは手と足に、「私はあなたを必要としない」と言います。(第一コリント12:21)

しかし、パウロでも、そんなことを言いませんでした。

ちょっと考えてみてください。

パウロはローマ帝国中に神様のために働いて、福音を述べ伝えました。だからパウロは毎週同じ教会に行くことができませんでした。彼は一つの教会に関して、「これはマイ・チャーチ」と言えませんでした。

それでも、パウロはクリスチャンの交わりに熱心を持っていました。彼はいつもほかのクリスチャンたちと時間を過ごしたいと思いました。(ローマ1:10-12;第二コリント1:15-16;ピリピ1:8)。

どうしてでしょうか。パウロは彼らを祝福したいと思ったから。(ローマ1:11;第二コリント1:15)。

パウロは、彼らがパウロを必要としたと認めました。

さらに、パウロ自身が彼らを必要としたと認めました。

特に、パウロは彼らの祈りが必要でした(エペソ6:19-20;コロサイ4:3;第一テサロニケ5:21;第二テサロニケ3:1-2)。

また、パウロは彼らの励ましが必要でした。(ローマ1:12)

「私は、教会を必要としない」と言う人は、とてもわがままだし、高ぶっています。

どうして私は彼らを「高ぶる」と呼ぶでしょうか。私たちはお互いを必要としますから。

どうして私は彼らを「わがまま」と呼ぶでしょうか。仮に、彼らが私たちを必要としないと思っても、私たちは彼らを必要としますから。私たち皆は、キリストの体に役割を持ちます。

とにかく、使徒の働きの個所に戻りましょう。この個所によれば、そのクリスチャンたちは祈りに専念しました。

でも、この個所によれば、彼らは自分の部屋で、一人で祈っていたわけではありません。もちろん彼らはそうしましたけど、ルカのポイントは、彼らが一緒に祈っていたことです。

(ところで、ルカは使徒の働きを書いたでしょう。(ルカの福音書1:1-4;使徒の働き1:1-2))

どうしてほかのクリスチャンと一緒に祈ることも大切なのでしょうか。

一番の理由は、そうすれば、私たちは自分の心を神様の御心に調子を合わせるし、私たちは相手の心にも調子を合わせることです。イエス様は、私たちが一つになるように祈りました。(ヨハネ17:20-21)

一緒に祈ると、私たちは一つになります。

教会の初めから、一緒に祈ることはクリスチャンたちの習慣でした。(使徒の働き1:14)

クリスチャンたちが一つになると、私たちは神様の国のために素晴らしいことができます。

でも、私たちが喧嘩したり、「あなたを必要としない」と言ったりすると、私たちは弱くなって、何もできません。サタンはそれを見て、きっと喜ぶでしょう。

だから、そんな考え方を捨てましょう。キリストの教会として、一致を求めましょう。

全てのことに同意しなくてもいいです。

私たちのミニストリーのやり方は違うかもしれません。それでもいいです。

でも、私たちの愛を伝えましょう。また、「あなたを必要とする」と伝えましょう。

そうすると、サタンの国は崩れて、私たちの人生にイエス様はほめられます。また、天の父もほめたたえられます。

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使徒の働き2:42-47--主の体を軽んじること

教会をやめた人について考えると(前回の記事を読んでください)、私はもう一つのことが思い出しました。それは聖餐式のことです。残念なことですが、多くのクリスチャンたちは聖餐式が何を意味するか、何を象徴するか深く考えません。

使徒の働き2:42では、ルカは使徒の時代のクリスチャンについてこう書きました。

彼らはいつも。。。パンを裂き「ました」。

もしかしたら、ルカは、彼らがただ一緒に食べたことを、意味したかもしれません。でも第一コリント11章によれば、教会では、しばしば聖餐式はその食事の時間の部分でした。

聖餐式とは、何でしょうか。それは十字架のことを思い出すこと。その前の晩、弟子たちと食べた時、イエス様はパンを裂いて、こう言いました。

これはあなたあたのための、わたしのからだです。私を覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:24)

そして、イエス様は杯を取って、こう言いました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

一つのことに注意してください。聖餐式は、クリスチャンたちが一緒にすることです。私たちはそのパンを裂いて、分け合います。どうしてでしょうか。

理由の一つは、私たち皆はキリストの体に属するから。イエス様を信じる人々のすべてのために、イエス様は十字架で死んでくださいました。イエス様は、あなたが好きなクリスチャンだけのために死んだわけではありません。

ちょっと考えてみてください。最初の聖餐式で、その瞬間、弟子たちが本当に互いに愛し合っていたでしょうか。

そのさっき、彼らは、弟子たちの中で誰が一番か議論したばかりです。弟子たちの間で、皆の足を洗ってあげる人が誰もいなかったので、イエス様はそうしなくてはなりませんでした。

また、彼らの人格を考えてください。例えば熱心党員と呼ばれていたシモンとマタイを考えてください。イエス様に出会う前に、シモンはローマ帝国に逆らおうと思いました。でもイエス様に出会う前、マタイはローマ帝国のために働いていました。彼らは本当に親友だったでしょうか。

そんな難しい関係があったので、イエス様は彼らに命じなくてはならなかったでしょう。「互いに愛し合いなさい」。もし彼ら皆がとても親しい関係を持っていたら、イエス様はそのことを言う必要がなかったでしょう。

でも聖餐式を一緒にするとき、彼らは思い出しました。「私たち皆はイエス様に属します。私たち皆は、イエス様にあって、一つです。」

だから、パウロはコリント人たちに怒りました。彼らはいつもケンカして、どっちのリーダーが一番偉いか議論していました。それに彼ら皆はキリストの体に属していたのに、金持ちは、貧しい人々を見下しました。でも彼らを見下すことで、実は、金持ちはイエス様の教会を軽んじました。(第一コリント11:22)

だから、パウロはこう言いました。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(第一コリント11:27)

主のからだと血に対して罪を犯すとは、どういう意味でしょうか。その人々は、イエス様の捧げた血とからだを軽んじて、罪を犯しました。

彼らは基本的にこう言いました。「イエス様、あなたがその人のために死んでくださったことをよく知っています。でも私は、そのことに気にしません。私自身は、その人と全然関係ないのです。」

そんな態度を持つと、あなたは、主のからだ、つまり主の教会に罪を犯します。なぜなら、あなたがそのクリスチャンが好きでも嫌いでも、その人はイエス様のからだに属するから。

だから、相手に怒るとき、相手が嫌いな時、相手と争う時、聖餐式に参加すると、あなたの相手に対する態度を考え直さなくてはなりません。

だからパウロはこう言いました。

だれでも、自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい。(第一コリント11:28)

この個所の文脈に従えば、それは、あなたが兄弟たちや姉妹たちとの関係を吟味しなくてはならない、という意味です。

残念なことですけど、教会をやめる人々はそうしません。もし彼らがまだ聖餐式に参加するなら、彼らが好きな人だけと一緒にします。彼らの悪い人間関係を全然吟味しません。彼らは相手と和解を求めません。むしろ、彼らはその人を避けます。でもそうすれば、彼らはキリストのからだと血を軽んじてしまいます。

あなたは、「私はまだクリスチャンだけど、教会をやめた」と言うなら、自分自身にこの質問を訊いてください。

「一対一で、私がやめた教会の人の皆と聖餐式をする機会があれば、私はその機会を利用するだろうか。そのとき、私たちはこう言えるでしょうか。「イエス様と天の父が一つであるように、私たちは一つです。私たちの一致によって、この世は、天の父がイエス様を遣わしたことがよく分かるでしょう。」」(第一ヨハネ17:21-23)

あなたがまだ教会に行っても、どのように聖餐式をするでしょうか。兄弟たちや姉妹たちとの関係は良いでしょうか。もしくは、あなたはイエス様のからだと血を軽んじるでしょうか。覚えていてください。イエス様はあなただけのためではなく、あなたが軽蔑するクリスチャンのためにも死んでくださいました。だから、その関係を吟味して、その人に対するあなたの態度を考え直すべきです。

 

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使徒の働き2:42-47--クリスチャンの交わりに専念すること

この記事は前回の記事の続きです。その記事で、私は教会をやめる人について話しました。彼らの一つの文句は、彼らが教会で訓戒されることを飽きたことです。また、彼らは「もう知っている」と言う態度を持ちました。

今日もっと大切な問題について話したいと思います。多分、多くの人々が教会をやめる理由は、説教ではなく、人間関係です。つまり、人々はリーダーたちやほかの教会のメンバーたちと気が合わないことです。

私の友達の掲載した記事を読んだとき、私はちょっと混乱しました。その記事のインタビューされたクリスチャンの一人は、「人間関係の問題のせいで、私は教会をやめるわけではありません。私はかッとして、急にやめたわけではありませんでした。私は、教会をやめる決断をじっくり考えました。」と言いました。

でも、その記事に、その人のやめる理由は書いてありません。

その人は、人間関係の問題を控えめに言います。でもその記事(とコメント欄)を読むと、はっきりするのは、多くの場合、人間関係の問題が教会をやめる問題の根本だということです。

ある人々は、教会の方向に関して、リーダーたちに賛成できませんでした。

ある人々は、彼らに対するリーダーたちの行動を批判しました。

ある人々は、教会の愛の欠乏に関して文句を言いました。

だから、彼らは教会やめてしまいました。

でも、使徒の時代、クリスチャンたちはそうしませんでした。

新改訳では、翻訳者たちは「守り」(別訳、「専念」)という言葉を使徒たちの教えだけに繋ぎます。でもほとんどの英訳では、翻訳者は「専念」という言葉を「使徒たちの教え」だけではなく、交わりや、パンを裂くことや、祈りに繋ぎます。

だから、私たちはその個所をこのように翻訳できます。「彼らはいつも。。。(クリスチャンの)交わりに専念していました。」

つまり、彼らはクリスチャンの交わりに熱心を持っていました。

私の友達の一人は、その記事を読んで、こう言いました。「まあ、私はもう教会に行かないけど、クリスチャンの友達がいて、私たちは霊的な成長や、個人的な成長のために、互いに励まし合いますよ。」

彼らが本当にそうしたら、いいことだと思います。でも、具体的に彼らは何を意味するでしょうか。彼らは一週間に一回ぐらい電話するでしょうか。一か月に一回?一年に一回?

彼らはその友達と時間を過ごし、互いに話し合い、励まし合い、もし必要があれば、訓戒し合うでしょうか。彼らにとって、そのことをするのは、優先度が高いでしょうか。

彼らは一緒に祈ることに専念するでしょうか。

彼らは一緒にパンを裂くでしょうか。

もしかしたら、彼は先に仕事や、家族や学校を優先して、時間があれば、ほかのクリスチャンとの時間を割くでしょうか。

でも、使徒の時代のクリスチャンたちは交わりを優先しました。

信者となった人々はみな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(ました)。。。(44-46)

彼らは交わりに熱心を持ったので、毎日宮に集まりました。彼らは家々に時間を過ごしました。そして、他のクリスチャンたちのニーズを満たしました。

その結果は?

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

どうして、教会は成長したでしょうか。イエス様は私たちにその理由を説明します。イエス様は弟子たちにこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(35)

ちょっと注意してください。イエス様は「あなたがたがすべての人々に対する愛があるなら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」と言いませんでした。

イエス様は「互いに間に愛があるなら。。。」と言いました。

もちろん、私たちは教会の外の人を愛するべきです。また、私たちはいつも教会の人たちを愛することに焦点を当ててはいけません。私たちは教会の外にいる人に触れるべきです。

でも、この世の人々が私たちを見るとき、私たちが喧嘩したり、怒り合ったり、許し合わないし、苦々しい思いを持つことを見るなら、彼らはどう思うでしょうか。

この会話をちょっと想像してください。あなたは友達にイエス様のことをずっとシェアして、彼らは「じゃあ、あなたの教会に行きたいと思うけど」と言います。でも、あなたは「実は、私はもう教会に行かない」と言います。彼らが「どうして」と訊いたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「まあ、人間関係の問題があって。。。」

「ちょっとリーダーたちと教会の方向に関して喧嘩してしまったので。。。」

相手はそれを聞いて、どう反応するでしょうか。イエス様が教会を愛して、その教会のために死んだのに、あなたがその教会の悪口を言ったら、彼らはクリスチャンになりたいと思うでしょうか。

第一ヨハネ4:20をちょっと言い直して、あなたの心にぐっと来るかもしれません。

「神を愛すると言いながら兄弟と交際することを拒むなら、その人は偽り者です。見える兄弟と縁を切る者に、目に見えない神を愛することはできません。」

もし、教会の兄弟たちや姉妹たちと交際することを拒むなら、あなたが神様を愛することを主張できるでしょうか。もしその縁を切るなら、あなたは本当に神様を愛することを主張できるでしょうか。

友達を愛するのは、簡単なことです。

兄弟たちや姉妹たちが欠点があっても、あなたは彼らを愛するでしょうか。

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使徒の働き2:42-47ーーみ言葉に専念すること

数年前、私の友達はFacebookで記事を掲載しました。そのタイトルは、「教会をやめた人」でした。

その話では、ある敬虔なクリスチャン、つまり、聖書をよく勉強したクリスチャン、惜しげもなく献金をささげたクリスチャン、また、熱心に人々を導いたクリスチャンが、教会をやめてしまったということでした。

その人は自分の信仰は捨てなかったようです。でもその人は教会をやめました。その人は、「教会の中で、私は最も積極的な人の一人だったし、最も忠実な人の一人だった」と言ったのに、教会をやめました。

その人はいくつかの理由を与えていましたので、私は以後数日にわたって、そのことについて話したいと思います。

正直に言うと、私が愛している人々がその著者の意見に同意すると言うと、私は本当に悲しみます。

その著者の一つ目の理由は、「私は牧師のメッセージを何百も聞いたので、もう分っているし、訓戒されるのは、もう嫌です。」と言うことです。

でもこの個所では、教会の模範、また、クリスチャンの生活の模範を見ます。

今日、一つのことに焦点を当てたいと思います。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り[ました]。(42)

新改訳で、「使徒たちの教えを守る」と書いてあるけど、その「守る」と翻訳された言葉はいろんな意味があります。だから、翻訳者は、使徒の働き1:14で、その言葉を「専念する」と訳しました。(それは、第3版です)。また、使徒の働き6:4で、彼らはその言葉を「励む」(第3版)、また、「専念する」(第4版)と訳します。

要するに、私たちはこの個所をこのように翻訳することができます。「彼らはいつも使徒たちの教えに専念しました。」

多くの英語の聖書では、42節はそのように翻訳されています。

とにかく、そのクリスチャンたちは、神様の言葉に熱心を持っていました。彼らはその言葉を知りたいと思いました。彼らはその言葉に従いたいと思いました。

だから、「訓戒さられるのはもう嫌だ」と言う人に、私はこう訊きたいと思います。

「あなたはみ言葉にどれだけ専念するでしょうか。聖書が本当に神様のみ言葉であること信じるでしょうか。その使徒の働きの時代のクリスチャンのように、あなたはみ言葉に対する強い熱心を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは、聖書にある教えがもう古臭いと思うでしょうか。その教えがあなたの人生に関係ないと思うでしょうか。」

もちろん、説教するときに、人を見下す牧師もいます。彼らは「もうたどり着いた」という態度を表現するかもしれません。その場合、私は、教会をやめた人の文句が分かります。でも、それは本当の問題でしょうか。

ちょっと自分自身に、この質問を訊いてください。

「私が聖書を読んで、聞きたくないことを見ると、私は訓戒される感じがするだろうか。」

残念なことだけど、多くのクリスチャンたちが聖書を読むとき、好きな個所だけを読みます。でも彼らが聞きたくない言葉のある個所を避けてしまいます。そういうわけで、教会に行くとき、「私は訓戒されている」と感じます。

でも、私たちがクリスチャンなら、み言葉に専念しなくてはなりません。励ましや慰めの言葉でも、挑戦や訓戒の言葉でも、私たちはその言葉に専念するべきです。

「何百のメッセージを聞いていたし、もう分っている」という文句に関して、私たち自分自身に同じような質問を訊くべきだと思います。

「聖書を読むとき、私はもう何も学んでいないだろうか。もう全部読んだので、知っているだろうか。もしくは、神様はその言葉を通して私にまだ話しているだろうか。」

正直に言うと、私は、もう全部読んだ事があるし、メッセージの内容を聞いたことある、という感じはよくわかります。それでも、二つのことを言いたいと思います。

一つ目は、私が40年来のクリスチャンだけど、私はまだ学んでいることです。私が聖書を読むとき、また日曜日のメッセージを聞くとき、神様は私に新しいことを示すときもあります。その時、私は本当に興奮します。

二つ目は、あなたは同じことを何回も聞いたことあるかもしれないけど、その言葉に従っているでしょうか。その言葉はあなたの頭からあなたの心に移動したでしょうか。

例えば、あなたは許しのメッセージを何回も聞いたことあるでしょう。でも、あなたを傷つけた人をもう許してあげたでしょうか。あなたは怒りと苦々しい思いを手放すことの大切さに関して聞いたことあるけど、その怒りと苦々しい思いをもう手放したでしょうか。

要するに、あなたの人生に、神様の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、あなたの心の思いやはかりごとを見分けているでしょうか。(へブル4:12)

もしくは、その言葉はあなたの左の耳に入るけど、右の耳から出ていくでしょうか。

もちろん、私はあなたの経験をよく知りません。教会をやめた人の経験をも知りません。

もし、あなたの牧師がいつも皆さんを見下しながら、説教するなら、あなたは別の教会に行った方がいいかもしれません。

でも、それは本当の問題でしょうか。

もしくは、問題は神様のみ言葉に対するあなたの態度でしょうか。

 

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使徒の働き2:38--福音のメッセージ

この個所では、私たちは一番最初の本格的な福音の説教を読みます。

その以前、すべての説教はイエス様の死と復活の前に伝えられました。だから、その説教はまだ不完全でした。

でも、ペテロがこの説教をしたとき、イエス様はもう旧約聖書にある救いに関する預言を全て成就していました。だから、ペテロは群衆に宣言しました。

神が今や主ともキリストともされたこのイエスをあなたがたは十字架につけたのです。(36)

それを聞いて、心を刺され、群衆は答えました。

「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37)

ペテロは彼らに言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして、遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

簡単に言うと、それは福音のメッセージです。

まず、私たちの罪を悔い改めなくてはなりません。私たちはもう自分の道を行かずに、神様の道を行き始めなくてはなりません。私たちは自分の道を行ったので、神様や、周りの人々や、私たち自身をも傷をつけました。私たちはそのことを認めなくてはなりません。

「主よ。私の道を行くのがもう飽きました。その道を通して、私は本当に苦しみました。でも、あなたが私を愛してくれたので、あなたは十字架で私の罰を受けてくださいました。だから、これから私はあなたに従いたいと思います。私はあなたを信頼し、従がいます。」

バプテスマは、その決断のしるしです。バプテスマを通して、あなたはこう言います。

「私の古い生活に対して死にます。「私の道」に対して死にます。そして、私は新しい人としてよみがえります。イエス様の血によって、私の罪は清められたし、聖霊の力によって、私はこの新しい人生を送ります。

御霊という約束は一番良い賜物です。なぜなら、聖霊様は神であり、私たちのうちに住んでおられるから。私たちはもう神様から離れていません。私たちは神様と親しい関係を持っています。そして、私たちが神様と歩めば歩むほど、聖霊様は私たちに傷をいやし、私たちを新しくします。そして、神様が私たちのための計画した人生を見つけます。実は、神様はそもそも私たちを造る前に、そのプランをもう考えていました。

永遠の命は、天国では始まりません。永遠の命は今から始まります。

それは福音のメッセージです。そのメッセージを信じ、受けていましたか。もし、上記の祈りを始めて祈ったら、どうぞ私にコメント欄に伝えてください。

 

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使徒の働き2:1-41--この同じ御霊

私にとって、聖霊様が来て、教会を力で満たす日はちょっと想像しにくいです。激しい風が吹いてきたような響きを聞いて、炎のような舌が一人ひとりの上に留まるのを見るのはとても不思議なことでした。

そして、御霊で満たされて、彼らはエルサレムの道に行って、学んでない言語で神様を賛美しました。周りの国々からのユダヤ教の改宗者たちが、その賛美を自分の言語で聞いて、とても驚きました。私が彼らなら、私もびっくりしただろうと思います。「不思議だな。これは何だろう?」

でもペテロはこう言いました。

これは、預言者ヨエルによって語られたことです。「神は言われる。終わりの日に、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、私のしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する。。。」(16-18)

そしてペテロが福音を伝えて、その日に3000人の人々は救われました。

そんな話を読んで、多くのクリスチャンは訊きます。「どうして、現代ではそんなことが起こらないのだろうか。どうして現代に聖霊様はそのように働かないだろうか。」

でも、聖霊様が現代でもそのように働くと思います。ペテロはこう言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

ペテロによれば、聖霊という賜物はペテロの世代だけのためではありません。ペテロは、彼らの子孫のにも聖霊様を与えられる、と言いました。それだけではなく、聖霊様をすべての国民に、与えられると言いました。つまり、主が召してくださったすべての人々は聖霊様を受けます。

14年前、私の牧師の人生がめちゃくちゃになっていたとき、神様は彼に夢を見させました。その夢によって、私たちの教会は始まりました。

私が振り返ると、神様は何回も私の周りの人々を通して、私に話しました。

私の人生のために神様の御心を求めていた時、ある日、私の祈りを知らずに私の友達はいきなりこう言いました。「ブルース、なぜか私はあなたが事務職をすることが想像できません。あなたがミニストリー向きだと思うけど。」

それに、神様が私に直接話したり、私の人生にいろんなことをしたりしたので、私は快適なハワイの生活を捨てて、日本に引っ越しました。

私は確信をもって、聖霊のおかげで私は日本に来ていると言えます。

実は、私は聖霊様の導きがもっともっと必要です。

正直に言えば、私はよく自分の力と知恵によってミニストリーをします。でもそのようにもう生きたくないです。2000年前にクリスチャンたちが聖霊様で満たされたように、私も聖霊様に満たされたいのです。あなたはどうですか。

天のお父様。あなたの御霊で私を満たしてください。あなたは2000年前に御霊を送るのを約束しました。そして、御霊があなたが召してくださった人々のすべてのためだと約束しました。

あなたが私の人生に働くことを見たことがあります。でも、それをもっと経験したいです。私はあなたが必要です。あなたの知恵と力が必要です。だから私を満たしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き1:12-26--私たちの心を知っている神

この個所では、マッティアは使徒として選ばれて、ユダの務めを引き継ぎました。

ある人々は、ペテロや、ほかの弟子たちが勝手にマッティアを任命したと思います。つまり、神様はマッティアではなく、パウロを選びたいと思いました。だから、その人たちによれば、イエス様がパウロに現われて、パウロを使者として任命した時、実は、パウロはユダの務めを引き継いだそうです。

私はかつてそう考えいていたけど、今はそう思いません。なぜなら、第一コリント15:5で、パウロはマッティアを12人の使徒の一人として認めていたから。イエス様が復活した後、ユダに現れなかったので、パウロはマッティアについて話していたでしょう。それに、パウロが使徒として任命されたのに、彼はこう言いました。「私は使徒の中では最も小さいものです。私は使徒と呼ばれるに値しないものです。」(第一コリント15:9)

もう一つ注意事項があります。それはユダの死です。マタイの福音書27章によれば、祭司長はユダが返したお金を取って、畑を買って、ユダは出て行って首を吊りました。

でも、使徒の働きによれば、ユダは地所を買って、真っ逆さまに落ちて、体が真っ二つに裂けました。どうやって、その二つの話を調和できるでしょうか。

アケルダマ(その畑の名前)はベン・ヒノムの谷にあります。たぶん、ユダは崖の上で首を吊ったでしょう。そして、ユダの死体が腐敗し始めている間に、その綱は切れたかもしれません。だから、その死体は谷に落ちて、その畑に着地しました。それを聞いて、祭司長たちはユダの代わりに、その畑を買ったでしょう。なぜなら、彼らは「そのお金は血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」と言ったから。(マタイ27:6)

でも、それは今日の要点ではありません。

興味深いことは、使徒たちが、ユダが彼らと同じ務めを割り当てられていたと認めたことです。つまり、ユダは他の弟子たちと一緒に宣教旅行に二回行って、福音を述べ伝えたり、悪霊を追い出したり、病気の人々を癒したりしたことです。(ルカ9-10)

でも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。ユダがいろんな素晴らしいことをしたのに、彼の心は本当にイエス様のものではありませんでした。だから、彼は最終的に暴露されて、追い出されました。

そのあと、神様に属する心を持つ人は、ユダの務めを取りました。

私は何を言いたいと思っているでしょうか。

私たちがミニストリーをしているなら、毎日自分の心を探らなくてはなりません。私たちの動機を見抜かなくてはなりません。私たちの心が本当に神様のものかどうか試さなくてはなりません。

私たちはイエス様の名前によって、いろんな良いことをすることができます。私たちのミニストリーを通して、人々は救われるかもしれません。

でも、神様は私たちの心をご存知です。もし私たちの心が神様の目にかなわないなら、最終的に神様は私たちの務めを取り去って、別の人に与えます。

でも、もっと酷い可能性があります。

もしかしたら、私たちはイエス様にこう言います。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか。(マタイ7:22)

でも、イエス様は私たちにこう答えます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

あなたの心はどうですか。あなたは本当に自分の心をイエス様にささげたでしょうか。

もしかしたら、良いクリスチャンのふりをしているでしょうか。そうなら、結局あなたの勤めが取り去られて、ほかの人に与えられます。

あなたの心は、誰のものでしょうか。

 

 

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使徒の働き1:9-11--イエス様の戻りを待つこと

イエス様が天に上っていくことを見るのは、本当に驚くべき光景だったでしょう。だから私は、どうして弟子たちが口をぽかんと開いて、イエス様が見えなくなるまで空を見つめたことがよく理解できます。私が弟子なら、同じことをしたでしょう。

でも、二人の天使が現れて、こう言いました。

ガラリヤの人たち、どうして天を見上げて、立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(11)

その言葉で、私たちは二つのことを学びます。

一つ目は、私ちの希望の理由です。この世はめちくちゃだし、だんだんもっと悪くなるけど、イエス様はきっとこの世に戻ります。その日、イエス様はすべてを新しくします。

二つ目は、イエス様が戻るまで、私たちに大仕事があることです。多分、天使たちが意味したものは、「ずっとここにぽかんとして立っているな。イエス様が言ったことに従いなさい。」ということです。

弟子たちはまずエルサレムに行って、聖霊を待つべきでした。ミニストリーをしたいと思うなら、私たちも同じことをするべきです。前回の記事で私は言ったけど、私たちができることには限界があります。でも聖霊様に満たされる人は、この世を変えることができます。

だから、この世を見るとき、ただ愚痴を言わないでください。ただ天国を仰いで、イエス様の戻りを待たないでください。むしろ、聖霊に満たされて、神様が言うことに従いましょう。

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ルカ24:46-53;使徒の働き1:1-8--世界を変える力

それでは、これは福音書に関する最後の記事です。さらに、今日から使徒の働きの話を始めます。

以前私が気づいたかどうかわからないけど、多分、使徒の働き1:4で、ルカはルカの福音書24:49に参照したでしょう。その個所では、イエス様は弟子たちに「聖霊様が来るまで、エルサレムで待ちなさい」と命令しました。

とにかく、40日間ぐらい後に、イエス様は弟子たちにベタニヤ、つまりオリーブ山に連れて行きました。

オリーブ山で立っていた時、弟子たちはゼカリヤの預言を覚えていたかもしれません。ゼカリヤの預言によれば、国々がイスラエルを征服した後、主はオリーブ山に来て、その国々と戦って、世の王になります。(ゼカリヤ書14)

もしかしたら、彼らはその預言を思い出したかもしれないので、イエス様に訊きました。

主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒の働き1:6)

でも、イエス様は答えました。

いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威を持って、定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:7-8)

多くの人々はイエス様がいつ戻るか気になります。もちろん、イエス様の戻りのしるしに注意した方がいいと思います。でもそれよりも、イエス様が戻るまで、私たちはイエス様からの受けた使命を考えなくてはなりません。それは何でしょうか。それは、福音を宣べ伝えることです。私たちはイエス様の証人となるべきです。

イエス様の証人になるのは、どういうことでしょうか。

基本的に、私たちが見たことや、聞いたことや、知っていることを伝えることです。イエス様があなたの人生に何をしてくださったことを伝えるべきです。あなたが教会で学んだことや、聖書から学んだことを周りの人々に伝えるべきです。私たちはそうすれば、この世を変えます。

でも、私たち自身の中には、世を変える力がありません。私たちの言葉自体は、人の心を変える力がありません。むしろ私たちに住んでおられる聖霊様が、自分の力によって、この世を変えることができます。でも、私たちの力によっては、私たちは何もできません。

だからイエス様は弟子たちに、「よし。あなたたちが、もう知るべきことをもう全部知っているので、行きなさい。この世を変えなさい」と言っていませんでした。

むしろ、イエス様は彼らに言いました。「聖霊様のために待ちなさい。聖霊によるバプテスマを受けるとき、あなたは力を受けます。そのあと、行きなさい。」

私たちはしばしば自分の力と知恵によってミニストリーをしようとします。そうすると、私たちは、いろんなことを成し遂げるかもしれません。でも、私たちが本当にこの世界を変えたいと思うなら、聖霊によるバプテスマが必要です。私たちは聖霊様の力に満たされるべきです。なぜなら、人間的な力や知恵には限界があるから。でも、神様には、限界がありません。

聖霊様、私を満たしてください。私はしばしば、自分の知恵によって、私の力によってミニストリーをしようとしています。でも、あなたを離れては、私は何もすることができません。私がもう自分の力や知恵に生きるのは、もう飽きました。だから聖霊様、私を満たしてください。私があなたのためにこの世に影響を与えるために力を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイ28:20--私たちと共におられる方

私たちはもうすぐ福音書を読むのを終えます。私の予想以上に時間がかかったけど、楽しめました。

とにかく、イエス様は弟子たちに指示を与えた後、こう言いました。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(20)

イエス様はすぐに天国に戻ろうと計画しました。そして、イエス様が天国に戻った後、弟子たちは大仕事をしなくてはなりませんでした。それは神の国を広げることです。

もちろん、その仕事をするのには、喜びが伴いました。でも、イエス様が知っていたのは、弟子たちがきっと迫害や苦しみを経験することです。最終的に、弟子たちの多くは自分の信仰のために死にました。でも、イエス様は彼らに約束しました。「あなたは私を見なくなります。それでも、私はあなたと共にいます。あなたたちを捨てて孤児にしません。むしろ、私はあなたたちに聖霊様を与えます。そして聖霊様はあなたたちと共に住み、あなたたちのうちにおられます」。(ヨハネ14:16-20)

イエス様は私たちに同じことを約束します。私たちがどこに行っても、何をしても、どんな喜びや、苦しみを経験しても、イエス様は私たちを決して見捨てません。イエス様は今私たちと共におられます。そして永遠まで私たちと共におられます。

イエス様、あなたが私と共におられてくださり、感謝します。私が何回も失敗しても、あなたは私を決して見捨てません。私があなたの臨在をもっと知るように助けてください。私にあなたの声が聞こえるように助けてください。私の人生に働いてください。また、私を通して働いてください。毎日、私があなたに近づくように。あなたをもっと知りたいです。アーメン。

 

 

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マタイ28:16-20--弟子を作ること

数年前まで、私は、マタイ28:16-20の出来事と使徒の働き1章の出来事が全然違う時に起こったことに気づいていませんでした。マタイの出来事はガリラヤで起こりました。使徒の働きの出来事はオリーブ山で起こりました。

もしかしたら、ガリラヤでイエス様は11人の弟子たちだけではなく、500人の弟子たちにも現れたかもしれません。(第一コリント15:6)

だから、ガリラヤに来た時、「疑う者たちもいた」。(17)

つまり、11人の弟子たちは、もうよみがえられたイエス様を見ていたけど、その500人はまだイエス様を見ていなかったことです。

とにかく、イエス様に会うと、彼らの疑いがなくなりました。そしてイエス様は彼らにこう言いました。

わたしには天においても地においてもすべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(18-20)

イエス様が単に「福音を述べ伝えなさい」と言わなかった意義があると思います。(もちろん彼らには福音をの述べ伝える役割もありました。)

イエス様は彼らに「弟子を作りなさい」と言いました。その弟子たちは自分の弟子を作るわけではなく、イエス様の弟子を作るべきでした。弟子を作る方法は何だったでしょうか。

彼らは新しい信者にバプテスマを授けました。バプテスマは、彼らがイエス様に従うことを決めたしるしでした。私たちもバプテスマを受けるとき、私たちがキリストに属することを表現します。バプテスマの水はお墓の象徴です。そして、私たちがその水に入ると、私たちは「イエス様が死んで、よみがえられたように、私は自分の古い生活に対して死んで、新しい人としてよみがえります。そして、私の体が死ぬとき、私はよみがえって、イエス様と共に永遠にいます。」と言っています。

時々日本では、ノンクリスチャンの親たちは、クリスチャンの息子や娘にこう言います。「教会に行っても良いけど、バプテスマを受けてはだめです。」

だから、その息子と娘は本当に困ります。「私の家族を怒らせてでも、洗礼を受けた方が良いだろうか。」

実は、使徒の時代にも、多分ユダヤ人たちも同じプレッシャーと向き合ったでしょう。でもイエス様の弟子になりたいなら、私たちはイエス様をすべてよりも優先しなくてはなりません。洗礼を受けるときに、あなたは皆の前でその決断を宣言します。

イエス様は弟子作りについてもう一つのことを教えました。彼らは、新しい弟子たちにイエス様の戒めを教えなくてはなりませんでした。さらに、彼らは新しい弟子たちがその戒めを守るように教えなくてはなりませんでした。

たくさんのクリスチャンたちがそれを聞いて、違和感があります。

「だって、それは律法主義でしょう?私たちは恵みによって救われたでしょう?」

もちろん、私たちは恵みによって救われました。もちろん、私たちはキリスト教をルールの制度として教えるべきではありません。

でも、私たちが弟子たちに教えなくてはならないのは、神様が彼らを本当に愛していることです。また、神様は私たちの最善を望みます。だから、もし私たちの救いのために神様を信じるなら、神様の道が一番良いと信じるのは当たり前でしょう。私たちはその道を行くべきでしょう。

さらに、私たちは神様を本当に愛しているなら、神様を喜ばせることをするべきでしょう。

簡単に言うと、私たちは、人々が神様に近づくように教えるべきです。私たちは、彼らが毎日神様をもっともっと愛し、信頼するように教えるべきです。

残念なことですけど、多くの教会はそのことを教えません。だから、教会の中で、たくさんの赤ちゃんのクリスチャンがいます。彼らは決して成長しません。彼らは「神様を愛している」と言うけど、決して神様に信頼することを学んでいません。だから、彼らの人生はめちゃくちゃになります。

だから、私たちは福音を述べ伝えるだけではなく、弟子を作りましょう。イエス様を愛し、信頼し、従うクリスチャンを育てましょう。そうすれば、彼らはイエス様の恵みと知識において成長します。

 

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ヨハネ21:18-23--イエス様から目を離さないこと

あなたがどうやって死ぬかを聞くのがとても恐ろしいことでしょう。だから、イエス様がペテロの死を預言した後、多分二人とも無言で歩きました。ちょっと気まずい沈黙だったでしょう。

とにかく、結局ペテロは、ヨハネが彼らについていっていることに気づきました。だからペテロはイエス様に訊きました。

主よ。この人はどうなのですか。(21)

つまり、「彼もあなたのために死ななくてはならないでしょうか。」ということです。

でもイエス様は答えました。

わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(22)

主に仕えるとき、私たちはしばしば自分自身を周りの人々と比べるでしょう。時々、私たちは彼らの才能や霊的な賜物がうらやましくなります。時々、私たちは自分の才能や賜物を誇るので、周りの人々を見下します。

時々、神様は私たちを呼ぶけど、ペテロのように私は訊きます。「どうして私でしょうか。あいつを遣わしたら。」

でも、イエス様は私たちに同じ答えを与えます。「彼らのことを気にしないで。あなたにかかわらないから。あなたは、私に従いなさい。周りの人々から目を離しなさい。あなた自身を彼らと比べるな。私から目を離さないで、私に従いなさい。

正直に言うと、それは難しいです。私たちの目はすぐに周りの人々に行きますから。私たちの心は、すぐに自分自身を周りの人々と比べます。今なお私はそうします。

でも、神様のために実を結びたいと思うなら、私たちは周りの人々から目を離してはいけません。むしろ、私たちはイエス様から目を離さないで仕えるべきです。

あなたはどうですか。何を見つめているでしょうか。自分自身でしょうか。周りの人々でしょうか。もしかしたら、イエス様しょうか。

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ヨハネ21ーー私たちを信じてくれる神

これは聖書の中で私が大好きな話の一つです。主人公はペテロです。自信満々なペテロです。大胆なペテロです。でも、ペテロがイエス様を知ることを三回否定したので、その自信や、大胆さをなくしました。多分彼は自分が信じられなくなったでしょう。

復活の後のペテロとイエス様の最初の会話を本当に読みたいです。残念なことですけど、福音書にはその会話が書いてありません。

ペテロはイエス様のお墓に行ったときに、イエス様の死体を見つけられなかったので、本当に混乱したでしょう。「ヨハネはイエス様がよみがえられたと思ったけど、それは本当だろうか。」

たぶん、ペテロはこう思ったでしょう。「実はある意味、それが本当じゃないといいなあ。だって、どうやって私はイエス様と向き合えるだろうか。」

でも、突然イエス様はペテロの前に現れました。ペテロはどう反応したでしょうか。ショックでしょうか。喜びでしょうか。そうかもしれません。

でも、もしかしたら、ペテロはイエスのもとにひれ伏して、泣きながら何回も「ごめんなさい。どうか赦してください。」と請うたかもしれません。

多分イエス様はペテロにこう言いました。「大丈夫です。赦してあげるよ。私はあなたのような人々のために十字架で死んだよ。私はまだあなたのことを愛しているよ。」

多分、それを聞いてペテロは慰められたでしょう。でも、すぐに疑いが浮かんだかもしれません。「まさかイエス様は本当に私を赦してくれたか。イエス様は私を赦してくれても、自分の弟子として私をもう受け入れられないだろう?私の失敗は大きすぎるだろう。」

そして、数日が経って、ペテロがイエス様に会わなかったので、もう一度気が沈んだかもしれません。「やっぱりだめです。イエス様は「赦してあげるよ」と言ってくれたけど、私はもうイエス様の弟子として続けられないだろう。私の元の生活に戻った方がいいかなあ。」

だから、ペテロは他の弟子たちに、「私は漁に行く」と言いました。

彼らは多分ちょっと退屈していたから、ペテロと一緒に行きました。でも、夜通し漁したのに、何も捕れませんでした。

もしかしたら、ペテロは気がもっと沈んだかもしれません。「私はもう絶対ダメだな。魚を捕ることすらできない。」

でも、彼らは岸辺から声を聞きました。「おい!食べる魚がないみたいだね。船の右側に網を打ったら。」

弟子たちがそうしたら、急に彼らの網に魚がいっぱいいました。それを見ると、ヨハネは叫びました。「あれは主だ!」

ペテロはヨハネの言葉を聞くと、すぐに湖に飛び込んでイエス様のところに泳ぎました。ペテロが着いたら、たぶんイエス様は笑いながら、「ペテロ。何をしているの。他の弟子たちを助けなさい。」と言いました。

ペテロは船に戻って、彼らはその魚を岸辺まで持って来ました。彼らが着いたとき、イエス様は彼らのために魚をもう焼いてくれていました。

彼らが食べながら、たぶん皆は笑ったり、いろんなことを話したりしたでしょう。でも、皆が食べた後、イエス様はペテロに言いました。「ペテロ。ちょっと話があるんだけど、おいで。」

それを聞いて、たぶんペテロははらはらしていたでしょう。「やっぱり。イエス様は私を責めて、捨てるだろう。イエス様の弟子としての私の人生は終わりだなあ。」

だからおどおどして、彼はイエス様と一緒に散歩しました。

もしかしたら、無言で彼らは何分も散歩したでしょう。そしてイエス様はペテロに訊きました。

ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。(15)

新改訳では、「この人たちが愛する以上に」と書いてあるけど、実はイエス様の言葉はもっとあいまいでした。イエス様が言ったのは、「これらよりも、私を愛していますか。」ということです。

多くの聖書学者によれば、たぶんイエス様は他の弟子たちについて話していました。だから、新改訳では「この人たちが愛する以上に」と書いてあります。

でも、私がペテロの答えを考えると、その解釈を受け入れられません。ペテロは、「はい。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と言いました。

ペテロは自分の失敗をよく覚えていたのに、どうして「はい」と答えられたでしょうか。

だから、私には違う意見があります。もしかしたら、彼らが歩きながら、彼らはペテロたちの船や、網や、魚を見たかもしれません。だから、もしかしたから、イエス様が意味したものはこうかもしれません。「ペテロ、このものよりも私を愛していますか。私はちょっとだけ去ったけど、あなたはすぐに元の生活に戻りました。あなたは本当にこのものよりも私を愛しているのでしょうか。」

その質問に対して、ペテロはきっと答えられました。「はい。あなたを愛しています。」

イエス様は答えました。

わたしの子羊を飼いなさい。(15)

彼らはもうちょっと歩き続けて、イエス様はもう一度訊きました。「私を本当に愛しているでしょうか。」

ペテロはもう一度「はい」と答えたので、イエス様は言いました。

わたしの羊を牧しなさい。(16)

彼らはもうちょっと歩き続けて、イエス様はもう一度聞きます。「ペテロ、私を愛しているでしょうか。」

イエス様はそれを聞いて、ペテロの心を痛めました。だから、ペテロは答えた。

主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。(17a)

イエス様は答えました。

わたしの羊を飼いなさい。(17b)

そしてイエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(18)

イエス様はペテロの死を預言しました。何年か後、ペテロはイエス様を信じることのゆえに十字架で死にました。

どうしてイエス様はペテロにそのことを伝えたでしょうか。多分、イエス様はこう言いたいと思いました。「ペテロ、私はあなたの大失敗したをよく知っている。でも、私はまだあなたのことを信じているよ。実は、将来にあなたは同じような試練と向き合います。その時、あなたは、私を否定するか、私のために死ぬか選ばなくてはなりません。でも、今度はあなたは死ぬことを選びます。」

そしてイエス様はペテロに言いました。

私に従いなさい。(19)

ペテロのように、私たち皆には失敗するときもあります。だからペテロのように、私たちは、神様がまだ私たちを用いられるかどうか疑問に思います。「私は大失敗した。神様は私なんて受け入れられるだろうか。」

もちろん神様はあなたを受け入れて、あなたをまだ用いられます。なぜなら、神様は現在のあなただけを見ないから。神様はあなたが将来に何になるかよくご存じです。神様はあなたのことを信じてくれます。

だから、自分の力に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。神様があなたを受け入れ、あなたのことを信じることを覚えていて、安心してください。そして、行って、イエス様に従ってください。

 

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ヨハネ20:24-31--イエス様を見たことがないのに

「百聞は一見にしかず。」

私たちはそれを言うけど、時々何を見ても、信じない人もいます。

パリサイ人たちと祭司長たちはイエス様の奇跡を見たけど、まだイエス様がメシアであることを信じませんでした。例えば、ラザロが復活したけど、彼らはラザロを殺そうと思いました。なぜなら、人々はその奇跡によって、イエス様のを信じるようになったから。

彼らの問題は何だったでしょうか。彼らが信じたくなかったことです。もし何かを信じたくないなら、あなたはいつもどうして信じられないかの言い訳を作られます。

でもトマスは本当にイエス様の復活を信じたいでした。それでも、彼らはなぜか自分自身を説得できませんでした。だから、彼はほかの弟子たちにこう言いました。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。(25)

だから、イエス様が鍵がかけられた部屋に奇跡的に入って、トマスのぽかんと顔を見た時、多分イエス様は微笑みながら、こう言いました。

あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27)

トマスの反応は?

私の主。私の神よ。(28)

イエス様は答えました。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(29)

つまり、「あなたの信仰は、あなたが見たものによるでしょうか。とりあえず、それはいいけど、あなたが見ないままでも信じるなら、本当の祝福を知ります。」ということです。

アブラハムもその祝福を知りました。アブラハムは神様が彼をどこに導いているかよくわからなかったけど、アブラハムは自分の地元を去って、神様に従いました。なぜなら、アブラハムは神様の約束を信じたからです。

ノアもその祝福を知りました。神様が洪水が発生すると言ったから、ノアは大きい箱舟を作りました。

ダビデもその祝福を知りました。神様がダビデが王になると約束したから、サウロ王が何回もダビデを殺そうとしても、ダビデは仕返しを求めませんでした。そして、神様のタイミングで、ダビデは王になりました。

マリアもその祝福を知りました。彼女は天使のメッセージを信じて、イエス様の母になりました。

聖書の時代から現代まで、たくさんの人々は神様を信じて、祝福されました。

でも、それは盲信ではありません。

イエス様が生まれる何百年前に、いろんな預言者はたくさんのことをイエス様に関して預言しました。

また、イエス様に出会った人は自分の経験を書きました。ヨハネはこう書きました。

イエス様は弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(30-31)

それに、私たちは教会の有名人の経験も見ます。例えば、オーガスティンや、マルティン・ルターや、ジャン・カルヴァンは神様の御国のために素晴らしいことをしました。

今なお、教会で私たちはたくさんのクリスチャンに出会います。神様は彼らの人生の中で働いて、福音を通して彼らの人生を変えてくださいました。

また私たち自身も、イエス様に出会って、自分の目で神様の働きを見ます。

でも、私たちは一つの選択をしなくてはなりません。

「主よ。私はあなたを見たことがありません。それでも、あなたを信じます。」

そして、私たちがイエス様を信じて従うと、イエス様はますます自分自身を私たちに現わしてくださいます。そして私たちも祝福を知ります。

ペテロはこう言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1:8-9)

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ルカ24:36-49;ヨハネ20:19-23ーー満たされて、遣わされた

イエス様が復活した日曜日に、11人の弟子たちの間で、たくさんの混乱や不信があったらしいです。彼らが集まったとき、マリアやほかの女性たちや、エマオに行ってきた弟子たちや、ペテロは、「主を見た。」と言い張りました。それでも、ほかの弟子たちはその話を信じませんでした。

そして、イエス様は急に現れました。もちろん、彼らは驚いて、最初は幽霊を見ていると思いました。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。」と言いました。

私たちはその言葉を聞いて、「やっぱり弟子たちが怖がったので、イエス様は彼らを慰めようとしました」と思うかもしれません。

でも実はその時代、その言葉は「こんにちは」のようなとても普通の挨拶でした。

だからもしかしたら、最初は、イエス様はとてもカジュアルな態度を持って、普通の挨拶としてその言葉を言ったかもしれません。でも、彼らは怖がったので、イエス様はもっと真剣に、「安心してください。わたしだよ。」と言って、彼らを励ましました。

そして、イエス様は自分の手と足を見せたり、魚を食べたりした。多分、皆はイエス様の傷跡に触りました。そのあと弟子たちの皆は説得されて、喜びました。

そして、イエス様は彼らに預言者たちがイエス様の死と復活を預言したことを教えました。また、イエス様自身が以前言ったことを彼らに思い出させました。

そのあと、イエス様は彼れにこう言いました。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)

また、

あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:48-49)

そして、イエス様は彼らに息を吹きかけて言いました。

聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。(ヨハネ20:22-23)

それを読んで、私は別の聖書の話を考えます。エデンで、神様がアダムに息を吹きかけて、アダムは物質的な命を受けました。でも、この個所では、弟子たちは霊的な命を受けました。

聖霊様は、救いのしるしとして、彼らに入りました。そしてイエス様が以前約束したように、聖霊様は彼らにいろんなことを教えたし、彼らがどこに行っても聖霊様は彼らと共におられました。さらに、聖霊様は、彼らがイエス様からの使命を果たすために力を与えてくださいました。だからそのあと、彼らはあらゆるところに福音を広げました。

そのように、私たちがイエス様を救い主と主として受けると、イエス様は私たちに息を吹きかけて、霊的な命を与えてくださいます。聖霊様も、私たちに入って、私たちを導いてくださいます。さらに、聖霊様は私たちに力を与えてくださるので、イエス様からの使命を果たすことができます。

だから、私たちは独りぼっちではありません。私たちは自分の力と努力によって、神様を喜ばせ、神様の目的を果たす訳ではありません。

むしろ神様自身は私たちに住んでおられる聖霊様を通して、私たちを満たして、命と敬虔をもたらすすべてのものを私たちに与えてくださいます。(第二ペテロ1:3)

私たちの主な仕事は、福音を広げることです。私たちは、悔い改めてイエス様を受ける人に、「あなたの罪は赦された」と宣言できます。でも、神様の救いを受けない人に、私たちは将来の裁きについて警告します。

神様は御国のカギを私たちに与えてくださいました。福音を伝えたら、私たちが御国を門を開けて、周りの人々は入る機会があります。

だから聖霊に満たされて行きましょう。死にかけている世に、御国の門を開きましょう。

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ルカ24:13-35--鈍い心

いつイエス様がペテロに自分自身を現したかによって、この話では、私たちはイエス様の復活の後の第三目か第四目の現れを見ます。

この話では、二人の弟子たち(しかし12人の弟子に所属していませんでした)は、エマオという村に向かっていました。もしかしたら、エマオは彼らの出身地だったかもしれません。彼らが歩きながら、女性たちの話や、ペテロとヨハネの話について話しました。でも、彼らはまだイエス様が復活したことを信じなかったらしいです。

そしてイエス様は突然現れました。でも、彼らはイエス様を認識できませんでした。聖書によれば、彼らの目はさえぎられていました。(16節)

つまり、彼らはイエス様を見ることができたけど、イエス様は彼らがイエス様のことを認識するように許しませんでした。もしかしたら、イエス様はお墓の外で、マリアに同じことをしていたかもしれません。

とにかく、イエス様は彼らに訊きました。

歩きながら語り合っているその話は何のことですか。(17)

多分その二人はとても驚いたでしょう。「知らないのですか。君はエルサレムにいていたわけじゃないのですか。何が起こったか知っているでしょう?」

でも、イエス様は何も知らないふりをして、答えた。

「どんなことですか。」(19節)

そして、その二人は自分の混乱と悲しみを打ち明けました。つまり、彼らが、イエス様がメシアで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると思ったのに、イエス様は十字架で死んだことです。それに、彼らはイエス様がよみがえられた話を聞いたけど、その話を信じられるかどうかわかりませんでした。

それを聞いて、イエス様は彼らを叱責しました。

ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(25-26)

そして、イエス様は、苦しんでいるメシアが私たちの罪のために死んでくださって、よみがえられたという始めての説教を教えました。

彼らがエマオに着いたら、イエス様はもっと先まで行きそうな様子でした。でも、彼らの心がかき回されたので、イエス様に頼みました。

一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。(29)

そして、イエス様が彼らと食卓に着くと、イエス様はパンを取って、神様をほめたたえ、裂いて、渡されました。(30)

もしかしたら、それを見ると、彼らはイエス様が5000人にパンと魚を与えてくださった出来事をを覚えていたかもしれません。そして、彼らの目が開かれて、イエス様を認識しました。でもその瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。

そして彼らは話し合いました。

道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。(32)

そして、彼らは11人の弟子たちのところに行って、イエス様が復活したことを伝えて、女性たちとペテロの話を確認しました。

それでは、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

どれぐらい私たちは、神様の言葉に対して、鈍い心を持っているでしょうか。

私たちはイエス様が私たちの罪のために死んで、よみがえられたことを信じるかもしれないけど、イエス様のほかの言葉を本当に信じるでしょうか。

なぜ私たちの心が鈍くなるのでしょうか。

もしかしたら、その二人の弟子のように、私たちの過去の経験を振り返って、失望するかもしれません。または、私たちの人生は希望通りに進んでいないかもしれません。

だから、私たちは神様に疑問を持ちます。「あなたの言葉は真実なのしょうか。あなたは本当に私とともにおられるのでしょうか。私のニーズを本当に備えてくださるのでしょうか。あなたは私を本当に愛しているのでしょうか。」

私もそんな疑いを持ったことがあります。

もしかしたら、私たちは神様の道を疑って、自分の道を行きたいと思うかもしれません。私たちは神様の道が無駄だと思いますから。

私はノンクリスチャンと結婚するクリスチャンをたくさん知っています。彼らの理由は、良いクリスチャンの伴侶を見つけることができなかったことです。でも多くの場合、あとでその決断を後悔してしまいました。

私たちがイエス様の言葉を信じないので、その二人の弟子たちのように、私たちは失望した人生、悲しみの人生を送ってしまいます。

でも、良い知らせがあります。イエス様は私たちのことを決してあきらめないのです。イエス様はまだ私たちと共に歩んでいます。

もし私たちが自分の心を開いて、すべてを打ち明けると、イエス様は自分の言葉を私の心に注いて、私たちを癒して、新しい希望を与えてくださいます。

だから私たちの鈍い心を捨てましょう。私たちの心を開いて、イエス様を信じましょう。

聖書はこう言っています。「この方(イエス様)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

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マタイ28:1-20;マルコ16:1-8;ルカ24:1-12;ヨハネ20:1-18--いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活に関して、二つの注意事項を言いたいと思います。

一つ目は、私がマルコ16:9-20を飛ばすことです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはその言葉を書いていなかったから。

どうして、マルコは具体的にイエス様の復活に関して話さなかったでしょうか。私は三つの意見を聞いたことがあります。

一つ目は、その福音を終える前にマルコが亡くなったことです。

二つ目は、元のエンディングはなぜかなくなったことです。

三つ目は、もしかしたら、使徒の時代に、教会で牧師がマルコの福音書を読んだ後、イエス様の復活を見た人々が自分のあかしを伝えたかもしれません。

とにかく、マルコが亡くなった後、現在のエンディングが加わったらしいです。

私の二つ目の注意事項は、イエス様の復活に関して、四冊の福音書の話を統合するのはとても難しいことです。だから、できるだけ、私はその復活の話の順番を伝えようとするけど、それはただ私の意見です。

でも、どの福音を読んでも、基本的な事実は同じです。女性たちがイエス様のお墓に着いたとき、そのお墓はもう空っぽでした。そして、天使たちが来て、イエス様の復活を女性たちに伝えました。そのあと、イエス様がマリアとほかの女性たちに現れて、その女性たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷なら、証人の証言がちょっと違っても、その四つの事実を認められます。

それでは、私はここに簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様のお墓に行ったけど、イエス様の死体がありませんでした。

2.マリアがお墓に入って、イエス様の死体がなかったと分かると、すぐに弟子たちに伝えるのに帰りました。

3.しかし、ほかの女性たちは残っていて、多分何が起こったか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が来て、一人の天使はイエス様が復活したという良い知らせを伝えました。

4.そして、女性たちは弟子たちに伝えるために、帰りました。彼らは急いだので、止まらないで、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.そのうちに、マリアは弟子たちにイエス様の死体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)だから、ペテロと(多分)ヨハネはお墓を調べに行きました。マリアは彼らと共にお墓に戻りました。彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家にきて、残った弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネはお墓に着いて、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活したと信じたらしいけど、ペテロはまだ疑ったようです。たぶん、彼らは帰っている間にそのことを議論したでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネがお墓に行ったときに、走ったので、もしかしたら、マリアは遅く着いたかもしれません。だから、マリアがやっと着いたとき、ペテロとヨハネがまだいたかどうか私は分かりません。そして、イエス様はマリアのところに来て、彼女を慰めました。そのあと、彼女はすぐに弟子たちのところに帰りました。(ヨハネ20:12-18)

8.彼女が帰っている間、イエス様はほかの女性たちのところに来ました。もしかしたら、彼女らは帰っている途中だったかもしれません。もしかしたら、彼女らはちょっと失望していたかもしれない。なぜなら、弟子たちは彼女らの話を信じなかったから。でも、イエス様が彼女らを励ましたので、彼女らはもう一度弟子たちのところに戻りました。そのころ、マリアも来たので、弟子たちはマリアとその女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかわからないけど、それが私の推測です。

とにかく、マリアのことをちょっと考えてみましょう。私がこの話を想像すると、イエス様のお墓の外で、マリアが悲しんで、絶望しているというイメージを見ます。私の意見が正しいなら、彼女は他の女性たちの天使の経験をまだ聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の死体がなくなったことです。

そして、マリアはそのお墓に入ったら、二人の天使を見ました。でも、ほかの女性たちの話をまだ聞いていないので、マリアはその天使たちを認識しませんでした。だから、その天使たちが「なぜあなたは泣いているのですか」と訊くと、マリアは単に、「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません」と答えました。

もしかしたら、天使たちがイエス様の復活を伝えようと思った瞬間、イエス様は来たかもれしれません。

最初は、マリアはイエス様のことも認識しなかったけど、イエス様はマリアの名前を言いました。

「マリア。」

それを聞いて、マリアの悲しみの涙は、たちまち大喜びに変わりました。

どれだけ私たちはマリアのようでしょうか。私たちは苦しんでいて、神様がとても遠いと思います。私たちは祈るけど、その祈りは天井に当たって、神様に届かないようです。私たちは神様を求めようとするけど、神様を見つけられません。神様が死んだようです。

でも、実は神様は私たちと共におられます。マリアのように私たちは神様を見ないかもしれないけど、神様はおられています。そして、一番ふさわしい時に、神様は自分自身を現してくださいます。

だから諦めないでください。私たち皆は悲しみの時を経験します。私たち皆は、神様が遠いと思ったことがあります。でも神様はインマヌエルです。つまり、「神様は私たちと共におられる」ということです。

そして、イエス様を復活させた同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びに変えてくださいます。

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マタイ28:11-15--説得されることを拒む人

私は祭司長たちとパリサイ人たちの頑なな心なんて、信じられません。イエス様のお墓を警備するために、彼らが対策を練たのに、そのお墓は空っぽになりました。彼らでも、その事実を認めなくてはなりませんでした。

彼らは番兵たちの話を聞いて、地震と天使のことを知りました。

さらに、彼らはきっと、ほかの復活された人々に関して聞いたはずです。(マタイ27:52-53)

でも、その証拠を見ても、彼らはまだイエス様がキリストであることを信じませんでした。だから、弟子たちがイエス様の死体を盗んだ噂を広げるために、彼らは番兵たちにお金をあげました。自分が律法をちゃんと守ると自慢する人なのに、彼らはそんな嘘を広めました。

その行為によって、彼らはイエス様の言葉の正しさを証明しました。ラザロのたとえ話で、イエス様はこう言いました。

モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、誰が死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。(ルカ16:31)

イエス様とほかのユダヤ人たちがよみがえられたのに、パリサイ人たちや祭司たちはどうしても信じませんでした。

今なお、そんな人もいます。あなたは彼らに神様の存在の証拠を示して、聖書やイエス様に関する彼らの疑問に答えるかもしれません。

また、彼らは自分が説明できないことを見るかもしれません。例えば、彼らはクリスチャンの知り合いのがんが癒されることを見るかもしれません。それでも、彼らはどうしても信じません。

最終的に、どうしてもイエス様を信じない人がいます。彼らが信じることができないわけではなく、彼らは信じたくないのです。そして、神様が彼らに恵みを与えてくださらないなら、彼らは決して信じないでしょう。

それでは、私は何を言いたいのでしょうか。

祈ってください。神様だけが彼らの目を開けるから。パウロはこう言いました。

それでもなお私たちの福音に覆いがかかっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いがかかっていると言うことです。彼らの場合は、この世の神が(つまり、サタン)、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(第二コリント4:3-4)

それでは、私たちは何を祈るべきでしょうか。キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、神様が彼らの心を照らしてくださるように祈るべきです。(第二コリント4:6)

パウロ自身はそのように救われました。彼は霊的な盲目で、真理を拒絶したけど、神様は文字通りに、また、比喩的に光をパウロに照らしてくださいました。その光によって、パウロの人生は全く変わりました。

あなたが愛している人々の頑なな心を見て、失望しているでしょうか。あなたは彼らの心を変えることができません。あなたは何を言っても、何をしても、その心を変えることができません。でも、神様はそんな力を持っています。

だから諦めないでください。祈ってください。熱心に祈ってください。そして、神様の恵みによって、彼らは救われるかもしれません。

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マタイ27:62-66;28:1-4--だれも妨害できない神様の計画

ちょっと考えてみると、これはかなり面白い聖書の話です。

パリサイ人たちや祭司長たちは弟子たちがイエス様の死体を盗んで、イエス様がよみがえられたと宣言することを心配しました。だから彼らは、ピラトがイエス様の墓を警備するように頼みました。

ピラトは同意して、番兵を送りました。

でも三日目に地震が起こって、天使はイエス様の墓を覆った石を脇に転がし、その石の上に座りました。番兵たちはそれを見て、気を失いました。

パリサイ人たちと祭司たちの混乱とフラストレーションを想像してください。多分、彼らは互いに訊き合いました。「どうして私たちはその番兵を頼んだでしょうか。どうやって、空っぽなお墓を説明できるでしょうか。番兵たちが寝ちゃったと信じる人もいないはずだし、弟子たちが番兵たちをやっつけたと信じる人もいないはずです。どうしたらいいでしょうか。」

この話から私たちは大切なことを学ぶことができると思います。

人々は、神様の計画を妨害するため、また自分の目的を果たすためにいろんな計画を立てることができます。でも、最終的に、彼らは神様の計画が妨害できません。神様の目的は堅く立ちます。

多くの人々は人間の自由意思と神様の主権に関して、疑問に思います。私はすべての答えを持っていないけど、この個所で、私たちがその答えの部分を見ることができると思います。

自分の自由意思で、パリサイ人たちと祭司長たちは番兵を頼みました。神様はその選択の邪魔をしませんでした。でも、彼らの選択の後、神様は自分の選択をしました。

神様はイエス様を復活させて、石を転がして、番兵たちを怖がらせました。

そのように、神様は私たちの選択を許してくださいます。でも、そのあと、神様は自分の選択をします。だから私たちは神様の計画が妨害できません。

パリサイ人たちと祭司たちは、イエス様のお墓で神様の計画を止められませんでした。そしてこの先決して、神様の計画が妨害できる人は誰もいません。

だから確信をもって、神様をほめたたえましょう。なぜなら、神様はすべてのことをコントロールしているし、神様は計画はきっと果たしますから。

 

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マタイ27:32-61;マルコ15:24-47;ルカ23:32-56;ヨハネ19:18-42--聖書が成就するため

この個所を読んではっきりすることは、イエス様の死が偶然ではなかったことです。また、イエス様の死は、神様の間違いではありませんでした。むしろ、この時間が始まる前から、神様は私たちの救いを計画しておられました。

皮肉なことは、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めると、イエス様はそのしるしを与えたんだけど、彼らはそのしるしが認識できなかったことです。彼らはイエス様が十字架から降りるように挑戦したけど、イエス様は預言を指しました。

だから、イエス様は叫びました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼んでいたと思いました。でも、実はイエス様は彼らに詩篇22篇を指していました。なぜでしょうか。なぜなら、十字架でイエス様はダビデの書いたことを成就したから。

十字架でイエス様は侮辱されて、軽蔑されました。実は、祭司長たちは思わずダビデの詩篇を引用しました。22篇で、ダビデの敵はこう言いました。

主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)

祭司長たちはイエス様に関して、こう言いました。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)

ダビデの時代、十字架という刑罰はまた存在していませんでした。それでも、ダビデは十字架の死について生々しい描写を与えました。ダビデはこう言いました。

水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)

実際、十字架にかかった人の骨んの関節はしばしば外れたそうです。

そして、ダビデはこう言いました。

心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)

ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺すと、血と水が出てきました。現代の医者によれば、その血と水が出るのは、心不全のしるしです。

ダビデは、イエス様が喉が渇くことをも預言しました。

舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)

また、ダビデはイエス様の手と足が刺されたことを預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬(またはライオン–>13節を読んでください)の歯の描写を使ったけど)。

犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)

それに、十字架でかかった人は自分の胸郭を見ることができました。

ダビデはそんなことについても話しました。

私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)

またダビデは、兵士たちがイエス様の服のために賭けたことを預言しました。

彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)

そのらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていたけど、そのことが認識できませんでした。

ヨハネはほかの聖書の個所も参考します。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指します。

さらに、イザヤ書53章は具体的にイエス様のことを指します。

イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)

証人たちがイエス様に言いがかりをつけたのに、イエス様は何も言いませんでした。(7節)

イエス様は自分の敵のためにとりなしをしました。(12節)

イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたけど、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)

そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)

だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に天の父はイエス様の死、また私たちの救いを計画しました。

だから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払った代価のために天の父をほめたたえましょう。

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マタイ27:45-54;マルコ15:33-39;ルカ23:44-49;ヨハネ19:28-30--全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年私は税務署に行って、確定申告を提出して、一か月後に、税務署がちょっとお金を返してくれます。しかし、すぐに私は市民税や県民税も支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで支払います。もちろん分割払いで支払ってもいいけど、一括払いの方がいいと思います。そのあと、次の年まで、もう税金のことを考えなくていいから。

十字架で、イエス様の最後の言葉はその税金を支払うイメージを描写しました。

12時に、闇が全地を覆いました。15時頃まで、ずっと暗いままでした。その時、たぶん神様は私たちの罪を全てイエス様に負わせたでしょう。その暗闇は罪の描写でしょう。罪によって、霊的な暗闇はこの世に来たけど、天の父はその罪をイエス様に負わせました。

そして、15時ごろにイエス様は叫びました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

多分その瞬間、天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせて、イエス様に背を向けたでしょう。それなら、天の父のイエス様との関係は初めて壊れたでしょう。そしてイエス様は私たちが値する罰を経験しました。つまり、イエス様は天の父から離れたのです。

イエス様は完全の愛の源、喜びの源、また命の源から離れました。

そんな生活は地獄です。イエス様は実際に地獄に行かなかったけど、その意味で、地獄を経験しました。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死ぬ直前に、イエス様は天を仰いで、祈りました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代に、ユダヤ人たちが税金を払ったとき、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のための負債は全部支払われました。

その結果は?私たちは神様と新しい関係ができます。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を上から下まで真っ二つに裂けました。(マルコ15:38)

なぜでしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう言いました。「私たちの間の障害は破れました。イエス様を通して、あなたには私にアクセスがあります。」

イスラエル人と違って、私たちは神様から遠くて立たなくてもいいです。(出エジプト記20:18-21)

むしろ、私たちは神様に近づいてもいいです。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

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ヨハネ19:25-27--私の苦しみを脇へ置くこと

私たちがどれだけわがままであるか知りたいなら、悲しんでいるときに、私たちがどう反応するかを見るべきです。私たちが試練に直面するとき、私たちが苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身に焦点を当てるでしょうか。

自己憐憫に浸るのは普通の反応だと思います。

「どうして私はこんな試練に向き合っているだろうか。いつまで私は苦しまなけてはならないのか。」という質問は普通だと思います。

でも、私たちが十字架を見るとき、イエス様は、自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てました。イエス様は一人の犯罪人を憐れんだし、敵のために祈ったし、このシーンでは、私たちは、マリアに対するイエス様の愛を見ます。

マリアは十字架のもとで泣いていました。マリアの長男はひどい罰を受けて、死にかけていました。マリアのほかの子どもたちは十字架の近くいなかったらしいです。もしかして、彼らはイエス様が狂って(マルコ3:21)、イエス様が彼らの家族に恥をかかせたと思ったかもしれません。

だから、他の息子たちや娘たちはおらず、マリアは十字架のもとで泣きました。家族からの慰めはありませんでした。だから、イエス様は愛している弟子(多分ヨハネ)を見ると、マリアにこう言いました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(26)

(その時代、「女の方」というのは、とても丁寧な表現でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言いました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のところに引き取りました。

イエス様は自分の苦しみだけを考える権利を持ったでしょう。彼は無実でした。イエス様はその苦しみに値しませんでした。それでも、彼は自分の苦しみをわきへ置いて、周りの人々を見て、愛を示しました。

あなたはどうですか。

私のかつて牧師の奥さんは本当に素晴らしい人でした。私が知り合った人の中で、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるまで、そのような人でした。彼女ががんにかかって、だんだん健康が悪くなってきたので、結局自分のベッドにずっといて、ほかの人々が彼女の世話をしなくてはなりませんでした。それでも、彼女は自己憐憫に浸りませんでした。最後まで、彼女は彼女の世話する人にイエス様の愛で触れようとしました。

もちろん彼女は完全な人ではありませんでした。多分、気が沈んだときもあったでしょう。でもイエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置いて、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。もしかしたら、あなたは自分の苦しみを脇へ置いて、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しむときに自分自身に焦点を当てる心は、苦しみにとどまります。でも自分の苦しみを脇へ置いて、周りの人々のニーズを見る心はその苦しみの上に上がって、もう一度喜びを見いだします。

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マタイ27:38、44;マルコ15:27,32;ルカ23:32-33、39-43;ヨハネ19:18--神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは十字架の有名の話の一つです。イエス様の隣に、二人の犯罪人も十字架にかけられました。そして、ルカはその二人に関して、こう言いました。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉は、私の心を打って、私はこう思いました。「どれぐらい人々は自分の罪のために苦しんで、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪いことをしたので、罰を受けていたけど、悔い改めずにその罰に関してぼやいていました。もしかしたら、自分の行為が正しいと思ったので、彼はイエス様に叫びました。「あなたは本当にキリストだろうか。私はこの罰に値しない。私を救え。」

他の福音書によれば、最初は、もう一人の犯罪人もイエス様ののしりました。でももしかすると、イエス様は答えずに、情けを持って、彼れらを見たかもしれません。だから、だんだん二人目の犯罪人は静まりました。彼が分かったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を取ろうとしたけど、イエス様が自分の尊厳を保っていたことです。さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持つのを見ました。

もしかすると、その犯罪人は、イエス様の奇跡を見たことがあったし、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見て、始めて「やっぱり私は悪かった。私はいろんな言い訳を言ったけど、それはただの言い訳だった。私はきっとこの罰に値する。」と認めたかもしれません。

だから、ほかの犯罪人はイエス様をののしり続けると、彼は言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向いて、願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像だけど、たぶんイエス様は初めて十字架で微笑んだかもしれません。そしてイエス様は答えました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていても、命を見いだしました。

私は前にも言いましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のようです。彼らは悪いことをするけど、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めずに神様をののしります。

多くの人々は、どうして神様が地獄で人々を永遠に罰するか疑問します。

多分一つの理由は、地獄で誰も悔い改めないことです。むしろ、彼らは永遠に神様をののしります。彼らは自分の行為が正しかったと言い張ります。彼らの心で、自分の悪さを理解するけど、彼らは自分の罰について文句を言います。

地獄では、人々は自分が悪いのが分かるし、その罰に値するのも分かるけど、そのことをどうしても認めません。

でも自分の罪を認めて、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように、赦されて、命を見いだします。

でも、その時間は今です。あなたが死んだ後では、手遅れです。だからパウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうですか。イエス様の前にへりくだって来るでしょうか。イエス様からの救いを受けたでしょうか。

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ルカ23:34--彼らをお赦しください

多くの人々にとって、相手を許すのはとても難しいことです。なぜなら、私たちの心に深い傷を持っているから。そして、その傷が深ければ深いほど、癒しの期間は長くなります。

もし、指が針で刺されたら、癒しは早いです。でも、相手があえてあなたの背中をナイフで刺したら、その癒しはすごく時間かかるでしょう。

だから敵に対するイエス様の反応は本当に驚くべきものです。十字架で、イエス様は言いました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(23:34)

イエス様の言葉をちょっと考えてみてください。もし、相手が自分が何をしているのか分からなかったら、その人を許すのはもっと簡単なことです。多くの場合、彼らは何をしていたか分かると、すぐに謝るでしょう。そんなことを割と許しやすいです。

でも相手があえてあなたを傷つけるなら、それはとても許しにくいでしょう。

それでは、パリサイ人たちと祭司長たちの場合はどうでしょうか。彼らはイエス様に「あれ?イエス様、私たちの行為によって、あなたは十字架で付けれらているのですか。ごめんなさい。あなたを助けましょう。」と言ったでそうか。

そうではありません。もともと、彼らはあえてイエス様を殺そうと思っていました。彼らが代金を払ったので、ユダはイエス様を裏切りました。最高法院の前の裁判のため、彼らは嘘をつく証人を呼びました。そして、彼らはピラトとヘロデにイエス様についていろんな嘘をつきました。彼らの勢力によって、ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫びました。それだけではなく、イエス様が十字架にかかっている間、彼らはイエス様をからかいました。

いったいイエス様は「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と言えたでしょうか。彼らはよく知っているはずだったのに。

でも、彼らは実際に知りませんでした。彼らは自分の嫉妬に目がくらんでいました。彼らは自分のプライドや罪に目がくらんでいました。サタン自身が彼らの思いをくらませました。

実は、私たち皆は、以前霊的に盲目でした。

人々があなたをあえて傷つけても、その理由は彼らも霊的に盲目だからです。

もしかしたら、彼らはあなたにどんなダメージを引き起こしたか分からないかもしれません。

もしかすると、彼らは、神様の目には、あなたには価値があることを知らないかもしれません。

もしかしたら、彼らは自分の傷を持つので、思わずあなたを傷つけるかもしれません。彼ら自身は自分の行為が分からないかもしれません。

ある男性は、家族を虐待したお父さんを何年も許すことができませんでした。でも神様は彼に、そのお父さんも虐待されていたことを現わしました。その癒されていない傷のため、そのお父さんは大人になると、自分の家族にいろんな酷いことをしてしまいました。

その息子がお父さんの傷が分かると、お父さんに共感して、許すことができました。

私たちが相手を許せないとき、そんなことのために祈るべきです。つまり、私たちが自分の傷から目を離して、私たちを傷つける人のことがわかるように祈るべきです。

イエス様は十字架でそうしました。イエス様は自分の傷から目を離して、彼を憎む人々のニーズを見ました。その敵は決して悔い改めなかったけど、イエス様は彼らを赦してくださいました。

神様の助けによって、あなたが相手の傷が分かるようになります。それでも、彼らは決して悔い改めないかもしれません。でも、あなたが彼らのことが分かるようになれば、あなたは変わります。あなたは自分の傷に焦点を当てずに、相手の傷に焦点を当て始めます。神様があなたの心に彼らに対する愛と情けを注いで、あなたは彼らを赦すことができるようになります。

あなたが許せない人がいるでしょうか。あなたがその人のことが分かるように祈ってください。彼らの傷が分かるように祈ってください。そして、イエス様のように祈ってください。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

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マタイ27:33-37;マルコ15:22-26;ルカ23:38;ヨハネ19:18-22--神様が書かれたこと

ピラトと祭司長たちの会話はとても興味深いです。ピラトは十字架の上にイエス様の罪状書きを掲げました。イエス様の「犯罪」は?

「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。

祭司長たちはすぐにピラトの所に行って、抗議しました。彼らは「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください。」

でもピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」(ヨハネ19:21-22)

今なお、多くの人々はユダヤ人たちのような態度を取ります。彼らはイエス様を王として認めたくないのです。彼らは、イエス様が神の子だと認めたくないのです。また、彼らは、イエス様だけが神様への道だと認めたくないのです。

だから、彼らはクリスチャンたちにぼやきます。

「イエス様は自分が王や、神の子や、神様への道と自称したかもしれないけど、私はそう信じない。」

でもピラトと違って、私たちは私たち自身よりも優れた権威を持つ方に指すことができます。私たちは彼らにこう言えます。

「神様が書いたものは決まっています。あなたはその言葉を変えられません。あなたは神様に自分の御心を変えさせることができません。神様の言葉は永遠に立ちます。あなたの不信は、神様の言葉を変えません。」

人々はそんな言葉を聞きたくないでしょう。祭司長たちはピラトの言葉を聞いて、とても怒ったでしょう。でも、相手がその言葉が好きかどうかは構いません。なぜなら、神様の言葉は正しいから。だから人々は選択しなくてはなりません。

彼らは自分の心をその真理に合わせるでしょうか。もしくは、彼らはその真理を彼らが信じたいことに曲げようとするでしょうか。

でも、もし彼らが真理を曲げようとしたら、結局真理ではなく、彼らの人生は砕かれます。

イエス様は自分自身に関して、こう言いました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たち(つまり、祭司長たちや、ほかの宗教的なリーダーたち)が捨てた石(つまり、イエス様)、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」。。。また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42,44)

祭司長たちはイエス様を拒絶したので、彼らの世界は砕かれました。エルサレムは倒れて、神の神殿は破壊されて、おまけに、裁きの日に、彼らは自分の罪のために裁かれます。

イエス様を拒絶する人々の皆に同じことが起きます。神様が書いたことは決まっているから。

あなたはその言葉を聞いて、どうするでしょうか。

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ルカ23:27-31--イエス様の心

イエス様の心を見て、私はいつも驚きます。

この個所では、私たちはイエス様を十字架に導いた憐れみ深い心を見ます。

イエス様は丘をの登ったとき、泣いている女性たちを見て、こう言いました。

エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。なぜなら人々が、「不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山々に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言い、丘に向かって「私たちをおおえ」と言い始めます。生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。(28-31)

イエス様は自分の境遇を無視して、ユダヤ人たちがイエス様を拒絶した結果を預言しました。つまり、「私が神様のいのちで満ち溢れているのに、ローマ人たちが私にこうするなら、彼らは霊的に枯れた人々に対してどうするでしょうか。ローマ人たちがあなたたちを迫害して、あなたたちは死を望みます。そのとき、あなたたちは子供のいない人々をねたみます。」

35-40年後に、イエス様の言葉は成就しました。ローマの軍隊はエルサレムを破壊しました。

でも、私の心を打ったのは、イエス様がそのことを望まなかったことです。ユダヤ人たちがイエス様を憎んだのに、イエス様は彼らの破壊を望みませんでした。むしろ、イエス様が彼らの救いを望みました。

それに、イエス様は私たちの救いを望んでいます。

だから、イエス様は十字架に行きました。イエス様は、自分自身だけを見ずに、私たちと私たちのニーズを見てくださいました。

そのことを考えていると、この讃美歌を思い出します。

And can it be that I should gain an interest in the Savior’s blood?
どうして、救い主の血によって、私は益を得ただろうか。
Died He for me, who caused His pain—
私がイエス様の苦しみを引き起こしたのに、イエス様は私のため死んでくださいました。
For me, who Him to death pursued?
イエス様の死は、私こそのせいでした。

Amazing love! How can it be,
すばらしい愛。そんなことがあり得ようか。
That Thou, my God, shouldst die for me?
私の神なのに、どうしてあなたは、私のために死んでくださっただろうか。
Amazing love! How can it be,
すばらしい愛。そんなことがあり得ようか。
That Thou, my God, shouldst die for me?
私の神なのに、どうしてあなたは、私のために死んでくださっただろうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

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マタイ27:31-32;マルコ15:20-21;ルカ23:26;ヨハネ1916-17--私たちがイエス様の十字架を背負わなくてはならなかったら

クレネのシモンという人に関して、私たちはほとんど知りません。マルコによれば、彼はルフォスという人の父でした。ローマ書16:13では、パウロはルフォスという人に挨拶したので、ある聖書学者たちは、マルコの福音書のルフォスが同じルフォスだと考えています。

多分、シモンは北アフリカのユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを祝うために初めてエルサレムに巡礼したのでしょう。でも、エルサレムに着いてみると、彼は予想以上のことを見ました。シモンは、本当の過ぎ越しの子羊が彼の罪のために殺されるのを見ました。(第一コリント5:7)

でもその前に、シモンはイエス様の十字架を背負わなくてはなりませんでした。最初は、イエス様は自分の十字架を背負ったけど、肉体的な苦しみ(イエス様はむちで打たれて、たくさんの血を流しており、軍人の拳で殴られました)や、精神的な苦しみ(イエス様が愛した者たちはイエス様を裏切ったり、捨てたりしました)のため、その十字架の重さに耐え切れなくなり、イエス様は倒れました。イエス様はその十字架を背負うことができなくなりました。だからシモンは代わって、その十字架を背負いました。

それを読んで、私はこう思いました。もしイエス様がゴルゴタで「もういいです。私はもうこの苦しみに耐えられない。あなたはこの十字架を背負いなさい。あなたはこの十字架で死になさい。あなたはこの十字架に値するでしょう?私には罪を犯したことがない。罪を犯したのはあなたです。」と言ったら、私たちはどうなったでしょうか。

ある意味、シモンはそれをちょっと経験しました。イエス様は十字架を背負えなかったので、シモンは自分の十字架を背負わななくてはなりませんでした。実は、それは本当はイエス様の十字架ではありませんでした。それはシモンの十字架でした。なぜなら、イエス様は罪を犯していなかったけど、シモンはたくさんの罪を犯したから。

あとになって、シモンはその真実を理解したでしょうか。

「私は実際にイエス様を助けていませんでした。私こそが、その十字架に値しました。実は、その十字架を背負ったとき、イエス様は私を助けようと思いました。私はその十字架で死ぬことに値したけど、イエス様が私の代わりに十字架で死んだので、私は罪から救われました。でも、イエス様が十字架をもう耐えられなくなっていたら、私はどうなっただろう。私はどこにいるだろうか。」

その答えは?地獄です。なぜなら、私たち皆は地獄に値するから。

でも、イエス様は十字架を背負ってくださいました。イエス様は十字架で私たちが値する罰を受けて、死んだほどに、私たちを愛していました。だから、私たちの罪は赦されて本当の命を見つけることができます。それは、私たちを愛する神様との関係を持つ人生です。

だから、十字架を当たり前のものだと思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちのために十字架で死んだ者を仰ぎましょう。

Jesus Christ,
イエス・キリスト
Praise your name,
あなたの名前をほめたたえます。
Lord I sing without shame.
主よ。私は恥じずに歌います。

You bore the cross.
あなたは十字架を背負ってくださいました。
So much love.
あなたは私をそんなに愛していました。
All my life, all I need is you.
私の一生、私が必要なのは、あなたしかない。

ーージェームズ・ガブリエル

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マタイ27:22-26--イエス様の血が私たちの上に

全ての福音書を読むと、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫びは、私の心に響きます。

イエス様はそれを聞いて、本当に悲しんでいたでしょう。なぜなら、イエス様がその人々を本当に愛していたのに、彼らはそんなひどい言葉を叫んだから。

ピラトはその言葉を聞いて、諦めて、群衆の前に手を洗って言いました。

この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。(24)

その群衆はそれを聞いて、答えました。

その人の血は私たちや私たちの子供らの上に。

最終的にユダヤ人たちはその行為のために苦しみました。彼らが自分のメシアを拒絶したので、西暦70年に、タイタスというローマの将軍が、エルサレムを破壊して、多くのユダヤ人たちとその子供たちは殺されました。もちろんタイトスが刀を振るったけど、それはユダヤ人に対する神様の裁きでした。

でも、ピラトと群衆の言葉に思いを巡らすと、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、私たち皆はイエス様の死の責任を持っていることです。イエス様は私たちのために死にましたから。私たちが神様を拒絶していなかったら、また、罪を起こしていなかったら、イエス様が死ぬ必要がなかったでしょう。だから、イエス様の血は、その時代のユダヤ人だけではなく、私たち皆の上なのです。

パウロはこう言いました。

全ての人は罪を犯し「ました」。(ローマ3:23)

だから、ピラトと違って、「私には責任がない」と言える人がいません。私たち皆は責任を持っています。

でも実は、「イエス様の血は私たちの上に」という言葉に、もう一つの意味を付けられると思います。(これは私の二番目のポイントです。)

もちろん、群衆の意味したものは、「イエス様の死は私たちの責任だ」ということです。でも、皮肉なことは、イエス様の血は私たちを覆って、私たちの罪をきよめてくださることです。私たちがイエス様を信じたら、その血は私たちの罪を覆って、神様の目に、私たちは義人と認めれます。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体をきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:12-14)

だから、私たちの救い主に叫びましょう。「あなたの血が私たちの上に。私たちは罪を犯したので、あなたの死の責任を持っています。でも、あなたの血が私たちの上になるように。あなたの恵みと憐れみによって、私たちをきよめ、赦し、完全にしてください。」

 

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ヨハネ19章14-19--あなたの王は誰でしょうか

ピラトと祭司長たちの会話を見ると、私たちは聖書の話の中で、最も大きい皮肉の一つを見ます。

ピラトは神様のことを全然知らなかったけど、彼は祭司たちとほかのユダヤ人たちに叫びました。「見よ。お前たちの王だ。」

ピラトは100%正しかったのです。イエス様は、ユダヤ人たちの王でした。

でも、世間一般の人々よりも、神様をよく知っているはずのこの祭司長たちは主張しました。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」

ピラトは、「カエサルのほかには、私たちに王はない」と言うべき人だけど、彼は「イエス様は王だ」と言いました。

その反面、「イエス様は王」と言うはずのユダヤ人たちは、むしろ、「カエサルは王」だと言い張りました。

祭司長がそう信じなくても、彼らは「神は王だ」と言うはずでした。でも、彼らは怒り過ぎて、考えずに「カエサルは王」だと叫んでしまいました。

あなたはどうですか。あなたの王は誰でしょうか。

あなたは祭司長と違って、「イエス様は王だ」と言うかもしれないけど、あなたの行為は同じことを伝えるでしょうか。

もしかしたら、周りの人々はあなたの行為を見ると、「あなたの王はあなたの会社」だと言われるでしょうか。なぜなら、あなたにとっては、仕事は一番大切だから。

もしかしたら、「あなたの家族はあなたの王だ」と言われるでしょうか。

もしかすると、「あなたの趣味はあなたの王だ」と言われるでしょうか。

日本では、とても大きい神は、文化という神です。

多くのクリスチャンの間でも、文化は王として支配します。

日本の文化の要求に従うプレッシャーはとても強いです。

だから、彼らは家族の平和を守るため、彼らは自分の信仰を曲げてしまいます。

また、自分のキャリアを守るため、彼らは教会に行くのをやめます。

もし誰かがあなたの人生を見て、「これはあなたの神」だと言ったら、何を指すでしょうか。

あなたの仕事でしょうか。

あなたの文化でしょうか。

あなた自身でしょうか。

もしかしたら、神を指すでしょうか。

もっと大切なのは、あなたの答えです。もし自分自身の人生を見ると、あなたは正直に「神様は私の神」だと言えるでしょうか。

もしかしたら、別のものを指すべきでしょうか。

あなたの王は誰でしょうか。

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ルカ23:7-10--イエス様が答えてくださらない人

この個所では、私たちはイエス様に対するヘロデの反応を見ます。でも、もっと正しく言うと、私たちはヘロデに対するイエス様の反応を見ます。

このヘロデはバプテスマのヨハネを殺しました。そして、彼がイエスについてはじめて聞いた時、イエス様が実はよみがえったヨハネかどうか疑問に思いました。(マタイ14:12;ルカ9:7-9)

だからヘロデはイエス様に会ってみたいと思いました。パリサイ人によれば、ヘロデはイエス様を捕まえたいと思いました。(ルカ13:31-33)

でもこの話では、ようやくヘロデはイエス様に会いました。彼はイエス様が奇跡を行うように頼んだり、イエス様にいろんな質問を訊いたりしたけど、イエス様は何も答えてくれませんでした。

どうしてでしょうか。たぶん、イエス様が分かっていたのは、イエス様が何を言っても、ヘロデがイエス様を信じないし、従わないことです。

ヘロデは何回もバプテスマのヨハネの言葉を聞いて、「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」けど、どうしても悔い改めませんでした。(マルコ6:20)

ヘロデは同じ方法でイエス様を扱いました。ヘロデにとっては、イエス様は興味深い人でした。もしかしたら、イエス様が何か芸をしてくれると思ったかもしれません。

でも、ヘロデはイエス様のことを重視しませんでした。ヘロデはイエス様に従おうと全然思っていませんでした。だから、イエス様は何も答えてくれませんでした。

この話は、私たちに対する警告です。もし私たちがイエス様に対する頑なな心を持っていれば、イエス様は私たちに言うことが何もありません。

イエス様は、私たちの魔神ではありません。私たちはイエス様のことを軽く考えてはなりません。

イエス様は私たちの神です。

イエス様は私たちの王です。

イエス様は私たちの主です。

あなたはどうですか。あなたはイエス様のことをどのように考えるでしょうか。

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マタイ27:11-26;マルコ15:1-5;ルカ23:1-25;ヨハネ18-19--私たちには、基礎がないと

前にも言いましたが、この福音の個所を統合するのはちょっと難しいです。以下は私の個人的な意見ですが、どうぞ福音を読んで、自分の結論を導いてください。

  • 祭司長たちや、最高法院の代表たちはイエス様をピラトの前に連れて行って、最初の告発をしました。(ルカ23:1-2;ヨハネ18:29-31)
  • ピラトは初めてイエス様と話します。(ヨハネ18:33-38で、その話の詳しいことがあるけど、ほかの福音書では、小さい要約しかありません)。
  • ピラトはイエス様が無実だと宣告するけど、ユダヤ人のリーダーたちがその判断に抗議したので、ピラトはイエス様をヘロデに送りました。(マルコ15:3-5;ルカ23:4-12)
  • ヘロデがピラトにイエス様を送り返して、ピラトはもう一度イエス様が無実だと宣告しました。(ルカ23:13-17)
  • そして、ピラトはユダヤ人たちに「私はイエス様かバラバ(という犯人)を釈放しようと思っているが、どっちの方を釈放した方がいいか」と訊きます。でもユダヤ人たちバラバの釈放を願いました。(すべての福音書)
  • ピラトはバラバを釈放したけど、イエス様を殺さずに、むちで打つように命令しました。(マルコ15:16-20;ルカ23:21;ヨハネ19:1-7)
  • ピラトはもう一度ユダヤ人を説得するようにしたけど、結局イエス様が十字架で殺されるように命令しました。(ヨハネ19:7-14)

その背景を踏まえて、以後数日にわたって、私は全ての主人公について話そうと思います。

今日、私はピラトについて話したいと思います。

歴史書ではピラトについて読めるけど、私は聖書の話だけを参考したいと思います。

この話を読むと、私はピラトに関してこう思いました。

「難しい決断しなければならないとき、またどうやって自分の人生を送ればいいか考えるとき、ピラトには強い基礎がなかった。」

ピラトが初めてイエス様を尋問するとき、彼はまずイエス様が本当に反逆者かどうか見極めたいと思いました。だから、彼は直接に聞きました。「お前は王なのか。」

イエス様は自分が王だと主張したけど、「私の国はこの世のものではありません」と言ったので、ピラトはイエス様がローマ帝国の脅威ではないと分かりました。ピラトにとっては、それは一番大切なことでした。

でも、イエス様は続けて、ピラトの世界観に異議を唱えました。イエス様はこう言いました。

わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(ヨハネ18:37b)

要するに、「ピラト、あなたは真理の味方でしょうか。あなたは真理を愛しているでしょうか。真理はあなたの基礎でしょうか。そうならば、あなたは私の言葉を聞き、従わなくてはなりません。

私たち皆はイエス様の質問と向き合わなくてはなりません。私たちの人生の基礎は何でしょうか。その基礎は真理でしょうか。イエス様が真理であることを信じるでしょうか。

ピラトはその疑問と向き合いました。彼の反応は?

真理とは何なのか。(ヨハネ18:38)

私はピラトの声を本当に聞きたいです。

彼は怒って、「あなたは自分が誰だと思うのか?全ての人々よりも、あなたは真理をよく知っていると思うのか。」と訊いていたでしょうか。

もしかしたら、皮肉っぽい声で話して、「真理?本当の真理はないのだ。真理とは、力を持つ人が言うことです。」と言いたかったのかもしれません。

もしかすると、絶望を感じて、「真理が本当に存在するだろうか。真理が存在しても、私は見つけられるだろうか。」と言いたかったのかもしれません。

ピラトが意味したものが、私は分からないけど、結局彼は真理の存在を拒絶しました。また、イエス様を真理の源として拒絶しました。その結果は?

彼が決断するとき、確固とした基礎がありませんでした。むしろ、彼は周りの人々の言葉や彼らからのプレッシャーに影響を与え受けました。

彼は暴動の脅威に直面しました。(マタイ27:24)

また、ユダヤ人のリーダーたちは、ピラトの行為をカエサルに伝えると脅しました。(ヨハネ19:12)

そのプレッシャーを感じて、ピラトは自分の恐れに負けて、悪い決断をしました。彼の決断が悪いとよく知っていたのに、その決断をしました。

私たちにも同じようなことが起きるかもしれません。もし私たちが真理を私たちの基礎にしないと、もし私たちがイエス様を私たちの基礎にしないと、周りの人々の意見で、私たち自身の恐れによって、私たちは決断します。そして、私たちは悪い決断をするのが落ちです。

あなたはどうですか。決断するときに、あなたの基礎は何でしょうか。あなたの人生の基礎は何でしょうか。神様の知恵を求めているでしょうか。神様の言葉が真理であることを信じるでしょうか。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたのうちに、知恵にかけている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱くもので、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。(ヤコブ1:5-8)

 

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マタイ27:1-10--死をもたらす悲しみ

この話では、私たちはイスカリオテのユダの死を見ます。

イエス様が死刑を宣告されたことを見て、ユダは後悔して、祭司長たちと民の長老たちの所に行って、こう言いました。

私は無実の人の血を打って罪を犯しました。(4)

そして、彼はもらったお金を返そうとしたけど、祭司長たちや長老たちがそのお金を受けることを拒んだので、ユダはそのお金を神殿に投げ込んで、立ち去りました。そして、彼は首を吊りました

コリント人への手紙第二7章で、パウロは二種類の悲しみについて話しました。パウロはこう言いました。

神様のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(7:10a)

ペテロはそんな悲しみを経験しました。彼はイエス様を知ることを三回否定して、本当に悲しみました。でも、彼は悔い改めたので、赦されて、イエス様の弟子としての立場に戻りました。

その反面、ユダは決して悔い改めませんでした。もちろん彼は自分の行為の結果を後悔しました。でも、神様からの赦しを求めずに、ユダは自殺してしまいました。パウロはそんな悲しみを「死をもたらす悲しみ」と呼びました。(第二コリント7:10b)

残念なことだけど、たくさんの人はユダのような悲しみを経験します。彼らが自分の行為の悪い結果を見るけど、赦しの希望がないと思います。その行為がひどすぎて、神様が彼らを赦せないと思います。

私たちはそんな人のために何をしているでしょうか。

祭司長たちはユダに神様からの赦しを知ることを助けてくれるはずだったけど、そうしてくれませんでした。むしろ、彼らはユダの悲しみを見て「で?もしあなたが悪いことをしたら、それは自分の責任です。私たちには関係ない。」と言われました。

もちろん、祭司長たちは罪深い心を持って、ユダを助けることができませんでした。ユダを助けるのに、彼らは自分自身の罪を認めなくてはならなかったでしょう。でも彼らは自分の罪を認めたくありませんでした。

皮肉なことだけど、そのお金が「血の代価」だから、彼らはそのお金を神殿の金庫に入れられないと思いました。実は、彼らは自分の罪が分かったからでしょう。

とにかく、神様の祭司として、私たちは、彼ら自身の罪で苦しんでいる人々を助けるべきです。私たちはそうしているでしょうか。私たちは、彼らが悔い改めると、神様が彼らを赦してくださることを、彼らに伝えているでしょうか。

もしかすると、彼らが苦しんでいることを私たちは喜んでいるでしょうか。私たちは彼らに「それはあなたの責任だよ。身から出た錆だよ。私の助けを求めるな。」と言うでしょうか。

イエス様はペテロにそんなことを言う権利を持っていました。イエス様は、ペテロだけにではなく、すべての弟子たちにそう言えたでしょう。でも、その代わりにイエス様は彼らに恵みを与えてくださいました。イエス様は神様からの赦しを示しました。だから、彼らが悔い改めて、彼らの人生は全く変わりました。

イエス様は、私たちが周りの人々のためにそうするように望みます。あなたはそうしているでしょうか。

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マタイ26:57-68;マルコ14:53-65;ルカ22:63-71--番大切な質問

イエス様の裁判はいろんな意味で本当にひどいものでした。

一番の理由は、祭司たちと最高法院はイエス様が無実だとよくわかっていたことです。でも、彼らはイエス様をねたみ、憎んだので、必死にイエス様を殺す理由を探していました。

神様の律法によれば、彼らが人を告発したいと思ったら、二人の証人のあかしは同意しなくてはなりませんでした。でも、彼らは証人たちを何人も尋問したとき、証拠に同意する二人の証人を見つけることができませんでした。

ようやく、彼らは同意する証拠を持っている証人たちを見つけたと思いました。その二人によれば、イエス様は神殿を壊して、新しいのを建てると言いました。実は、イエス様の意味したものは、「あなた方がこの神殿を壊しても、私は神殿をよみがえらせる」ということです。それに、イエス様はヘロデの神殿について話していませんでした。むしろ、イエス様は自分の死と復活について話しました。(ヨハネ2:19-21)

それでも、大祭司はその証人たちを詳しく尋問すると、彼らの証言の中では、矛盾があったので、その証言はダメになりました。

大祭司はフラストレーションを感じて、イエス様を直接尋問しました。イエス様が黙っていたので、大祭司は叫びました。

私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。(マタイ26:63)

それは一番大切な質問です。イエス様は誰でしょうか。イエス様は本当に神の子でしょうか。イエス様は本当にキリストでしょうか。(ところで、「キリスト」というのは、名前ではなく、肩書です。簡単に説明すると、キリストとは、「神様が約束した王」を意味します)。

そうなら、私たちの人生をイエス様に捧げるべきです。さらに、いつかイエス様は私たちを裁きます。だからイエス様は彼らに警告しました。

あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。(マタイ26:64)

イエス様はダニエル書7章を参照しました。ダニエルによれば、すべての力と権威と栄光がメシアに与えられて、メシアと戦う人が裁かれることです。

祭司たちと最高法院をそれを聞いたとき、どう反応したでしょうか。彼はイエス様とその言葉を拒絶しました。イエス様が彼らのメシアで、神の子であることを信じることを拒みました。

むしろ、彼らはイエス様を神を冒涜で告発して、死刑を宣告しました。

多くの人々は、そのように反応します。彼らは福音を聞いて、イエス様の主張がよくわかります。それでも、彼らはイエス様を拒絶します。むしろ彼らは、彼らのために十字架で死んでくださった方を踏みつけます。だからへブル人への手紙の著者によれば、彼らはいつか裁かれます。(へブル10:28-30)

でもイエス様を信じ、受け入れる人は、神の子どもとなる特権をもらいます。(ヨハネ1:12)

あなたはどうするでしょうか。イエス様はを拒絶するでしょうか。イエス様を受け入れるでしょうか。

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ヨハネ18:12-14;19-24--私たちに真実を言う人を打つこと

この個所では、私たちはイエス様の最初の裁判を見ます。アンナスという人は裁判官でした。カヤパという人が大祭司になる前、アンナスは大祭司だったけど、ローマの帝国は彼を退けて、その代わりにカヤパを大祭司にしました。それでも、ユダヤ人のリーダーたちは、まだアンナスを尊敬して、もしかしたら、カヤパが大祭司なのに、アンナスの影響はまだとても強かったでしょう。

とにかく、アンナスはイエス様に自分の弟子たちのことや教えについて尋問しました。でも、イエス様は直接答えずに、言いました。

わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。(20-21)

要するに、「あなた方は律法を尊重すると主張しているでしょう。では、その律法に従いなさい。律法によれば、あなたがたは私を告発したいと思うなら、証人が必要です。証人たちはどこでしょうか。」ということです。

でも、イエス様がそう言ったとき、下役の一人はイエス様を打って、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言いました。

しかし、イエス様は答えました。

わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。(23)

アンナスはそれを聞いて、やり込められました。なぜなら、イエス様は正しかったから。だから、彼はイエス様を正式な裁判のためにカヤパに送りました。

でもイエス様の質問は、私に考えさせます。人々が私に真理を伝えるとき、私はどのように反応するだろうか。特に、その真理が私の罪を指摘する時、私はどう反応するだろうか。

アンナスのように私は高慢して、自分の悪さを認めないだろうか。アンナスの下役のように、私はその人を攻撃するでしょうか。

もしかすると、私はその真理を受け入れるだろうか。

真理を聞くのがつらい時もあります。正直に言うと、私が頑固なので、神様は私に「ブルース。その人の言葉を聞きなさい」と言うときもあります。

それでも、時々私はその真理と戦います。私の悪さを認めたくないから。私は自分の道を行き続けたいと思います。

でも、キリストの弟子として、私たちはそのように生きてはいけません。私たちは真理を愛するべきです。耳に痛くても、その真理を愛するべきです。

だからヤコブの言葉に従いましょう。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:21-22)

人々があなたに真理を伝えると、あなたはどう反応するでしょうか。

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マタイ26:69-75;マルコ14:66-72;ヨハネ18:15-18;25-27--自分の心を見極めること

イエス様の裁判を見る前に、ちょっとペテロの話を見たいと思います。この話に関しては、福音書を統合するのはちょっと難しいです。でも私はその話をちゃんと理解するなら、ペテロは実際にイエス様を知ることを4回否定したけど、証人たちの前では三回否定しました。

最初の否定は、大祭司の家の中庭で起こりました。もう一人の弟子(もしかしたらヨハネかもしれないけど、もしかしたら12の弟子たちのグループの外の弟子かもしれない)が大祭司をよく知っていたので、中庭に入って、彼がペテロのことを保証したので、ペテロも入ることができました。(ヨハネ18:15-16)

でもこの話に、あるしつこい女性が登場します。彼女が門番なので、ペテロが入ったとき、彼女は訊きました。

あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。(ヨハネ18:17)

ペテロは、「違う」と答えました。

そしてペテロは彼女から逃げたけど、彼が火に当たっているとき、彼女は彼について行って、彼をじっと見つめて、言いました。

あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。(マルコ14:67)

そして、大きな声で、彼女は皆に叫びました。

この人も、イエスと一緒にいました。(ルカ22:56)

それを聞いて、彼らはペテロに訊きました。

あなたもあの人の弟子ではないだろうね。(ヨハネ18:25)

ペテロは答えました。

弟子ではない。何を言っているのか分からない。理解できない。(ヨハネ18:25b;マルコ14:68)

そして、ペテロはすぐに前庭の方に来ました。でもじきに、その同じ女性はほかのしもべと一緒にペテロと向き合いました。もしかしたら、その友達は以前にペテロとイエス様を見たことがあったかもしれません。そして、門番はペテロを指して、「この人はあの人たちの仲間です。」と言いました。(マルコ14:69)

そして、その友達も、みんなの前で言いました。

この人はあの人たちの仲間です。(マタイ26:71)

その中庭にいる一人の人はそれを聞いて、ペテロを見ました。彼もペテロを認識して、叫びました。

あなたも彼らの仲間だ。(ルカ22:58)

ペテロはそれを聞いて、誓いました。「いや、違う。そんな人は知らない」(マタイ26:72;ルカ22:58b)

それを聞いて、たぶん皆はちょっと静まったけど、1時間後、ほかの大祭司のしもべが通りかかって、ペテロを見ました。おまけに、彼はペテロに耳を切り落とされた人の親類でした。だから彼は言いました。

あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。(ヨハネ18:26)

ペテロはそれを否定しようとすると、もう一人の人は叫びました。

確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。ことばのなまりで分かる。(マタイ26:73;マルコ14:70)

それを聞いて、ペテロはパニックになって、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と叫びました。(マタイ26:74)

そして、鶏が鳴きました。

その瞬間、ペテロは大騒ぎを聞いて、イエス様がピラトのところに連れて行かれていることを見ました。そして、イエス様は振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは自分が何をしたかわかって、外に出て行って、激しく泣きました。

それは私の福音の統合です。(ちょっと間違いがあるかもしれないけど。)

とにかく、私たちはその話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがペテロを批判するのは簡単なことです。私たちは彼の臆病と偽善を批判することができます。でもそうする前に、まず私たちは自分の心を見つめた方がいいと思います。

実は、私がペテロなら、私はもっと勇気を持っていたかどうかわかりません。

私は十代の時、同じようなことをしましたから。私の友達が私に「君はクリスチャンですか」と訊いたら、私はその質問を逃れようとしました。私はなぜか「はい」と答えられませんでした。

いまだに、私はそのことを考えて、恥ずかしいです。

さらに、私はほかのクリスチャンが別の罪に落ちることを見たことがあります。特に、彼らは性的な罪に落ちます。でも、私もそのような誘惑によく直面して、私は気を付けないと、その罪に落ちるかもしれません。私は弱いから。神様の恵みだけによって私は立っています。

私たちがほかの人々が罪に落ちることを見ると、そのことを覚えていなくてはなりません。私たち皆は弱いものです。私たち皆は罪に落ちるかもしれません。だから、相手を裁く前に、その人を憐れんで、彼らの回復を求めましょう。

パウロの言葉を覚えていましょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ人への手紙6:1)

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マタイ26章47-56;マルコ14:43-52;ルカ22:47-53;ヨハネ18:1-12--力と権威、憐れみと恵み

この個所では、イエス様の中に、三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。イエス様は敵に取り巻かれたのに、イエス様はその事情に力を持っていました。イエス様が立ち上がって、敵と向き合うとき、イエス様は、「だれを捜しているのか」と訊きました。彼らが、「ナザレ人イエスを」と言ったら、イエス様は「わたしがそれ だ」と答えました。(ヨハネ18:4-5)

日本語では、かなり見にくいけど、実はイエス様はそれを言うとき、神様の名前を使いました。(出エジプト3:13-14;ヨハネ8:58)

とにかく、イエス様の敵がその言葉を聞くと、彼らは地に倒れました。その瞬間、彼らはどれだけ恐れたでしょう。

だから、イエス様はもう一度聞きました。「誰を探してるのか。」(ヨハネ18:6-7)

彼らの自信が消えてしまって、彼らはおどおどして答えました。「ナザレのイエスを、」

彼らがイエス様の返事を待っている間、彼らはまた地に倒れる覚悟をしたでしょう。でもイエス様は答えました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕まえに行っても、彼らはだれが本当の力を持っているかよくわかりました。それは彼ら自身ではなく、イエス様ということでした。

2.イエス様の憐れみ。その敵はまだおどおどしたので、たぶん弟子たちはその恐れをいいことに、彼らを攻撃しようと思いました。だから弟子たちの一人は叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロはその敵の一人を攻撃して、右の耳を切り落としました。(もしかしたら、ペテロはその人の頭を切ろうと思ったけど、誤ってその耳だけを切り落としてしまったかもしれません。)

でも、イエス様は彼らを叱責しました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

古い讃美歌で、こんな歌詞があります。

イエス様は、自分自身を自由にするため、またこの世界を滅ぼすため、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実はその作詞家は間違えていました。12軍団というのは、4万8千人から7万2人ぐらいということです。

とにかく、イエス様はその敵だけではなく、この世界の人々を滅ぼすことができました。でもイエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さずに、むしろ彼らの命の代わりに、自分の命を捧げました。

3.イエス様の恵み。憐れみというのは、相手が値する罰を与えないことです。恵みは、相手が値しないものを与えることです。この話では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを与えてくださいました。イエス様は彼の耳をいやしてくださいました。(ルカ22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。もっと正しく言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちの霊的な癒しをもたらしてくださいました。イエス様の恵みによって、私たちの罪が赦されて、私たちは永遠の命を得ることができます。私たちがしなくてはならないのは、一つのことしかないことです。それはイエス様のことを信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

 

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マタイ26:36-46;マルコ14:32-42;ルカ22:39-46-私の心と神様の心が違うとき

時々、私たちは試練と苦しみに直面します。例えば、私たちは重い病気にかかったり、私たちの信仰のために家族の問題が出たり、ミニストリーの問題があったりすると、私たちは神様の助けを願います。

時々神様は私たちの祈りに叶えてくださって、素晴らしい方法で私たちの状況を変えてくださいます。

でも、時々神様は私たちの祈りを断ります。この個所では、私たちはそのような返事を見ます。

イエス様は同じことを三回祈りました。最初にイエス様はこう祈りました。

わが父よ、できることなら、この「十字架の苦しみの」杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)

イエス様はその祈りを冷静に言っていませんでした。イエス様は地面にひれ伏し、祈りました。(マルコ14:35)

それに、イエス様はストレスをすごく感じて、彼の汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ22:44)

私たちがイエス様を想像する時は、落ち着いたイエス様を思い浮かべるでしょう。でもこの時、イエス様は全然落ち着いていませんでした。

天の父はイエス様の感情をよくご存じでした。天の父はイエス様を本当に愛していました。でも天の父はイエス様の祈りを断りました。

イエス様はそれが分かったので、こう祈りました。

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

それでも、たぶんイエス様は別の方法のために祈り続けたでしょう。

でも、天の父はその祈りを断りました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あるクリスチャンたちが言うのは、もしあなたが信仰を十分持っていれば、神様があなたの祈りに叶えなくてはならないことです。

でもそうなら、私たちはイエス様の信仰が足りなかったと言わなくてはなりません。私たちは神の子を責めるでしょうか。

実は、私たちの心が神様の心と違うときもあるわけです。神様は魔人ではありません。私たちは自分の心に神様の心をしいて合わせることができません。むしろ、私たちは自分の心を神様の心に合わせなくてはなりません。

イエス様はそうしました。イエス様は天の父がイエス様の願いに叶えると言い張りませんでした。むしろ、イエス様は自分の心を天の父の心に合わせました。私たちもそうするべきです。

そして、天の父が私たちの祈りを断るなら、イエス様のように、私たちは立ち上がって、天の父の御心に従うべきです。

でも、そうすると、自分の力だけで神様の御心に従う必要がなくなります。あなたは、一人でその試練に直面する必要はありません。

イエス様は一人で、自分の試練に直面しませんでした。イエス様の苦しみと苦痛の中で、天の父はイエス様を励まして強めるために天使を送ってくださいました。天の父はあなたのために同じことをしてくださいます。

それだけではなく、聖霊を通して、神様は自身は私たちを慰めてくださいます。聖霊様が私たちの助け主なので、私たちが苦しむときに、聖霊様は私たちを慰めてくださいます。(ヨハネ14:16)

だから、パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26-28)

では、神様は私たちの祈りを断ると、私たちはどうしたらいいでしょうか。神様に信頼するべきです。神様の方法があなたの方法よりも優れていることを信じるべきです。あなたがその試練に直面している間に、神様があなたを助けてくださることを信じるべきです。そして、立ち上がって、神様の御心に従い続けるべきです。

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マタイ26:36-46;マルコ14:32-42;ルカ22:39-46;ヨハネ18:1--弱い

サタンが優しい方だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや、精神的な弱さを見ると、すぐに攻撃します。

この個所では、私たちはそれを見ることができます。イエス様と弟子たちがゲツセマネについた時、イエス様は彼らに警告しました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはもう精神的に疲れ果ていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、彼らは、イエス様が裏切られることと、イエス様が彼らを去っていくことを受け入れられなかったということです。

だから、彼らは肉体的に、また精神的に、また霊的に弱くなりました。(ルカ22:45)

だから、イエス様が彼らに「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言ったのに、彼らは寝てしまいました。イエス様が何度も彼らに警告したり、頼んだりしたのに、彼らは1度だけではなく、3度も寝てしまいました。

その結果は?イスカリオテのユダとユダヤ人たちのリーダーたちが来ると、彼らは逃げてしまいました。

でもイエス様はもっとつらい試練に直面しました。イエス様は十字架を背負い、十字架ですべての人々の罪を背負いました。その時、天の父はイエス様に背を向けました。

この個所で、私たちはイエス様の祈りをちょとしか見ません。でもイエス様の最初の祈りは一時間ぐらいかかったし、もう二回祈りました。イエス様が祈るとき、苦しみすぎて、イエス様の汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ22:44)

さらに、その時、弟子たちが寝ていたので、イエス様には精神的なサポートがありませんでした。

でも、イエス様が弱い時に、天の父はイエス様を強めてくださいました。それに、天の父はイエス様を支えるために天使を送ってくださいました。(ルカ22:43)

だから、捕まえられたとき、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟をしました。

どうして弟子たちがちゃんと目を覚ましていて祈ることができなかったけど、イエス様はできたでしょうか。たぶんイエス様は生前は、毎朝、目を覚まして祈る修行をしたから。朝だけではなく、夜もそうしました。(マルコ1:35;マタイ14:23)

だからイエス様の一番弱い時に、イエス様は自然に自分自身を訓練したように反応しました。

その弟子たちは、自分自身を訓練しなかったので、弱い時に、彼らは失敗しました。

あるアメリカの有名なアメフトの監督は自分の選手たちと一緒に試合のビデオを見るとき、相手のチームの選手について話しました。そのチームの一人は何回も同じミスをしてしまいました。だから、その監督はこう言いました。

「その選手が練習するとき、自分のテクニックに関して、ちゃんと気が付かなかったのだろう。たぶん、彼はこう思った。「正しいやり方をもうよく知っている。だから、今ちゃんとしなくても、試合の時、私はちゃんとできる。

でも、あなたが疲れ果ててしまうと、あなたは思わず反応するだけだ。そして、あなたが自分自身を訓練するように、あなたは反応するものだ。」

霊的な世界でも、その原則は同じです。もし、あなたが「私が困ったとき、私がするべきことをよく知っている。ちゃんと祈る。」と言うけど、あなたが毎日その訓練をしないと、あなたが肉的に疲れた時、また精神的に疲れた時、あなたはちゃんと祈ることもできないでしょう。そして試練が来ると、弟子たちのようにあなたは自分の弱さに負けます。

でも、イエス様のように、あなたは毎日神様を求め、目を覚まして神様と話すと、試練に直面すると、あなたはするべきことができるし、固く立つことができます。

あなたはどうですか。あなたは毎日目を覚ましていて、神様と話すでしょうか。

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

 

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ヨハネ17:20-23--私たちに対するイエス様の望み

クリスチャンたちが本当にイエス様が私たちに対する望みを知っているかどうか疑問に思います。

以前の記事で、私たちは、イエス様が私たちとの親しい関係を望まれることを見ました。永遠の命とは、イエス様に近づき、イエス様を知り、イエス様に知られることです。

でも、イエス様はほかのことも望みます。イエス様は私たちと兄弟たちと姉妹たちが一つになることを望みます。

イエス様はこう祈りました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(20-23)

イエス様は、私たちがイエス様と天の父のような関係を持つことを望みます。イエス様と天の父が一つであるように、私たちも一つになるべきです。でも、それはどういう意味でしょうか。

一つの意味は、目的の一致とういうことです。私たちが同じ目的をもって、一緒に働くことです。その目的は、福音を伝えることです。

でも、もう一つの意味は、私たちが互いに人を自分よりすぐれた者と思うことです。私たちは自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みます。(ピりピ2:3-4)

でも多くの場合、私たちはそうしません。だから、ノンクリスチャンたちが私たちの教会に入ると、彼らは喧嘩を見たり、苦々しい心を見たりします。彼らは、教会の外でそんなことを見ることができるので、あきれて、すぐに出てしまいます。それでも、その教会の人たちは自分のことに夢中で、何が起こったか気づいていないでしょう。

イエス様はそれを見ると、本当に悲しみます。

周りの人々に対するあなたの行動と態度のため、どれだけあなたはイエス様を悲しませるでしょうか。あなたの苦々しい思いや、恨みや、陰口を持つ心のため、どれだけイエス様は悲しむでしょうか。

そうすると、イエス様だけではなく、私たちも苦しみます。

おまけに、ノンクリスチャンは暗闇の中で躓き続けます。なぜなら、彼らは教会の中で光がないと思うから。

あなたはどうですか。あなたとほかの教会のメンバーたちは一つでしょうか。

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ヨハネ17:16-19ーー聖別された。聖別されている途中。

「聖別」。

日本では、人々がその言葉をよく言うかどうかわからないですけど、英語では、「Sanctification」という言葉は「Christianese」、つまり、「教会だけで使われている言葉」という言葉です。

聖書では、「聖別」という言葉を読むし、教会の説教でその言葉を聞くかもしれないけど、その言葉はどういう意味でしょうか。

基本的に、二つの意味があります。

一つ目は、神様の目的のために、ほかのものから選り別けられることです。

二つ目は、清められることです。

イエス様が弟子たちのために祈ったとき、その二つの意味を見ることができます。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(17:16-19)

まずは、19節を見てみましょう。イエス様が言ったのは、弟子たちが(また私たちが)聖別されるために、イエス様が自分自身を聖別したということです。

要するに、天の父の目的のためにイエス様が自分自身を選り別けて、この世に来て、十字架で死んだことです。その働きによって、イエス様は私たちを聖別しました。つまり、イエス様は私たちの罪を清めて、私たちを天の父のものにしたことです。

だから私たちがこの世にいるのに、私たちはもはやこの世のものではありません。私たちの考え方や、生き方は、この世の民の考え方や生き方と全然違います。だから彼らは私たちのことが理解できないし、私たちを憎む人もいます。

それでも、その聖別される過程は、今でもなお続いています。

神様の言葉と働きを通して、私たちは罪が何かわかるし、その罪を憎み始めます。そして、私たちが罪を犯すとき、神様の言葉が私たちの心を打つので、私たちは悲しんで、悔い改めます。そのように、神様は私たちをきよめ続けています。

そして、神様の言葉を通して、私たちは神様の御心を知るようになります。神様は、私たちがどのように生きるべきか教えるし、どのように神様の国の目的をもたらすか教えてくださいます。その言葉を聞き、従うと、私たちは毎日もっともっと神様の目的のために聖別されて、用いられます。

だから、ある意味で、私たちはもう聖別されました。なぜなら、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちの罪は清められたから。

でも違う意味で、私たちは毎日まだ聖別されている途中です。

イエス様が私たちが聖別されるように祈っているので、私たちもそう祈りましょう。

イエス様、毎日私をもっともっと聖別してください。私がもっともっとあなたのようになるように。私が罪を憎み、天の父の仕事に参加するように。

私が失敗するとき、私を赦し、引き上げてください。毎日、私をきよめてください。毎日、私があなたのものになるように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ17:11-15ーー私たちが敵対的な世にいるのに。。。

この個所では、イエス様が私たちに対する愛を持って、私たちのために祈ってくださることを見ることができます。

覚えていてくさい。イエス様は本当に私たちのために祈ってくださいます。

私たちはしばしば周りの人々のために祈るけど、私たちの大祭司イエス様は私たちのために祈ってくださいます。特にイエス様は、天の父が私たちを守ってくださるように祈ります。

もちろん、この個所でイエス様は弟子たちのために祈っていました。でもイエス様が私たちのためにも祈っていることを信じます。なぜなら、イエス様が弟子たちを敵対的な世に送ったように、私たちをも敵対的な世に送るから。そして、弟子たちが霊的な戦いに直面したように、私たちも霊的な戦いに直面します。

だから、イエス様はこう祈りました。(今でも、イエス様が私たちのためにこのように祈ると思います。)

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。。。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(11,14-15)

あなたが霊的な攻撃に直面するときもあります。

福音のために、あなたを憎む人もいます。

あなたが迫害されるときも来ます。

でも、イエス様が私たちのために祈ってくださるので、天の父はサタンの攻撃に限定を置いてくださいます。そして、神様の力に頼ると、私たちは耐えられない試練を経験しません。

だからどんなにつらい試練に直面しても、堅く立ちましょう。なぜなら、神様は私たちとともにおられるから。

そして、あなたはきっとその試練を乗り切り、勝利を得ることを覚えていてください。なぜなら、イエス様はあなたのために祈ってくださっているから。

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ヨハネ17章ーー永遠のいのちとは

「永遠のいのち」と聞いたら、多くの人々は天国で永遠の幸せを持つことについて考えます。もちろんそれはそうですけど、なぜか多くの人々は神様抜きの存在を想像します。

彼らは神様が天国におられることが分かるかもしれないけど、天国で私たちは神様を本当に知るし、また私たちが神様に知られるということを、あまり考えません。だから、この世にいる間、彼らは神様がおられないかのように生きています。

ノンクリスチャンだけではなく、クリスチャンでもそのように生きています。彼らは日曜日に教会に行って、讃美歌を歌ったり、メッセージを聞いたりします。もしかしたら、平日でも、彼らはたまに聖書を読んで、祈るかもしれません。でもそれ以外に、彼らは神様がおられないかように生きます。

仕事や、家族や、趣味は良いことだけど、私たちはよくそれらにはまりすぎて、私たちの神様との関係に時間を投資しません。でも私たちの命、特に、永遠の命とは、神様との関係ということです。

イエス様はこう祈りました。

永遠のいのちとは、唯一の誠の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(3)

もちろん私たちは永遠に生きるけど、イエス様は、永遠のいのちとは、永遠に生きることだと言っていませんでした。

もちろん天国で私たちは幸せになるけど、イエス様は、永遠のいのちとは、幸せな人生を送ることだと言っていませんでした。

むしろ永遠のいのちとは、神様を知ることです。また、永遠のいのちとは、イエス様を知ることです。

永遠のいのちとは、天の父とイエス様のことについて知ることではありません。永遠のいのちとは、天の父とイエス様を親しく知ることです。

イエス様はこう祈りました。

彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。。。父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。。。わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。(21,23,24,26)

だから私たちの人生の目的は、神様を知ることです。

私たちの人生の目的は神様に近づいて、神様を親しく知って、神様に親しく知られることです。

だから永遠の命は、ただの将来のことではありません。永遠の命は、今から始まります。イエス様によれば、今なお、イエス様が天の父を現しているし、将来にも現わし続けてくださいます。

だから私たちが天国に行くと、新しいことを始めません。むしろ天国は、私たちがこの世で始めたことの続きです。

だから、あなたが天国に着くと、あなたと神様が、まだただの知り合いの関係を持つなら、かなり情けないことではありませんか。天国に着くと、あなたはまだ神様をほとんど知らないなら、かなり情けないことではありませんか。

でもこの世に、神様と親しい関係を作ったら、天国に着くと、あなたはどれぐらい喜ぶでしょうか。もしこの世で、あなたが毎日神様と話したり、神様の声を聞いたり、あなたの人生の中で神様の働きを見たり、あなたを通して神様が周りの人々に触れることを見たり、するなら、あなたがやっと神様の顔を見ると、あなたはどんなに幸せになるでしょうか。

私はそんな喜びを知りたいです。多分、毎日私はそのように生きていないけど、そのように生きたいです。あなたはどうですか。

主よ。あなたをもっと知りたいです。私はあなたと親しい関係を持って、天国に行きたいです。だから、自分自身を私に現わしてください。私も、自分の心をあなたに開きます。毎日、毎秒、あなたが私のうちにいるように。また、毎日、毎秒、私があなたのうちにいるように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ16:16-33--平和を喜びを見つけるのに

この個所をを読むと、イエス様の言葉に弟子たちが頭を抱えていることが分かります。なぜなら、イエス様は去って行くと言ったから。彼らがその言葉に拘ったので、イエス様のほかの言葉はかすんでしまいました。

聖霊様のことや、将来の祝福のことについてのイエス様の言葉を聞かずに、彼らは繰り返して思いました。「イエス様は去って行きます。私たちはどうしようか。」

だからイエス様は彼らを励ましながら、彼らに警告しました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(20-22)

イエス様の死と復活で、その言葉は成就しました。イエス様が十字架で付けられたとき、イエス様の敵は喜んだけど、弟子たちは絶望しました。でも弟子たちが、よみがえられたイエス様を見ると、彼らの悲しみは喜びに代りました。だから、彼らが迫害やいろんな苦しみに臨んでも、彼らの喜びを奪い去ることができる者はありませんでした。そして、その喜びを持って、彼らはこの世を変えました。

でもイエス様の言葉は私たちにも当てはめられると思います。イエス様がこの世に戻るまで、私たちはいろんな試練に臨みます。今は、私たちの悲しみの時間です。

パウロはこう書きました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ人への手紙8:22-23)

でもイエス様がこの世に戻ると、私たちはイエス様を顔と顔を合わせて見ると、私たちは喜ぶし、私たちの喜びを奪い去ることができる者はありません。

でもイエス様が戻るまで、イエス様がの十字架の働きの故に、私たちは神様に近づくことができます。

だからイエス様のみ名によって、私たちが天の父に何でも求めることができて、与えてくださいます。そして、私たちの喜びは満ち溢れるようになります。(ヨハネ15:23-24;26-27)

時々私たちがイエス様の言葉の例外を教えすぎると思います。

もちろん私たちの祈りは神様の心に応じなくてはなりません。

もちろん、私たちが間違って蛇を頼むと、神様は断る権利を持っています。

でもその例外に拘り過ぎると、私たちは神様から何も求めなくなってしまいます。天の父は私たちにためらわずに訊いてほしいのです。

どれだけ私たちは聞かないので、神様からの祝福を逃すでしょうか。どれだけ私たちが心の願いを神様に頼まないので、私たちの喜びは不完全でしょうか。

だから、願いましょう。

パウロの言葉を覚えていてください。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8:26-27)

時々、私たちは弱いので、何のために祈るべきか分かりません。時々私たちは悪いことのために祈ってしまいます。でもその時、聖霊様は私たちのためにとりなしてくださって、私たちの益のために祈ってくださいます。だから、パウロはこう言いました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

だから、この三つのことを覚えていて安心しましょう。

  • 私たちの事情がどんなに悪くても、イエス様はこの世に戻って、すべてを癒してくださいます。
  • 神様が私たちを愛しているので、私たちは何を頼んでもいいです。そして、聖霊様は私たちのためにとりなしてくださって、良いことだけを与えてくださいます。
  • 神様は自分の計画に従って、すべてのことを私たちのために全てのことが共に働いて益となります。

その三つの言葉を覚えていると、イエス様の言葉はあなたの心にもっと強く響くでしょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(33)

 

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ヨハネ16:5-15--御霊の働き

聖霊様は誰でしょうか。今なお、多くのクリスチャンたちは聖霊様に関して混乱しています。

でも一つのことを覚えていてください。聖霊様は「物」ではなく、聖霊は「者」です。

聖霊様はただの力ではありません。聖霊様は人格を持っています。

だから、イエス様は聖霊様について話すとき、聖霊様を「助けぬし」と呼びました。そのギリシャ語の言葉はちょっと翻訳しにくいです。ある意味では、聖霊様は弁護士みたいです。サタンが私たちを責めようとすると、聖霊様は私たちを弁護したり、私たちに助言を与えたり、助けたりしてくださいます。人格のない力は、そんなことができないでしょう。

だから、そのことを理解して、覚えていてください。聖霊様は人格を持つ方です。

サタンが私たちを責めるとき、天の父のみ前にイエス様と共に聖霊様は私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちがどう祈ればいいか分からないとき、聖霊様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ8:26-27,34)

私たちが神様が本当に私たちを愛するかどうか疑問に思う時、聖霊様は私たちに「あなたは神様の子どもだよ」と思い出させてくださいます。(ローマ8:15-16;第一ヨハネ3:24)

でも、イエス様は聖霊様についてもっと教えます。

その方(聖霊様)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。(8)

時々私たちは、人々の心を変える責任があると思います。もちろん、私たちは福音の種を蒔き、水をやる責任があります。でも聖霊様だけがその種を成長させることができます。聖霊様だけが人々の心を変えることができます。

人々がイエス様を拒絶するとき、聖霊様は彼らの罪を明らかになさいます。(ところで、この個所では、罪とは、一般的な悪いことをすることよりも、イエス様を拒絶することです。)

イエス様が天国に戻ったので、私たちはイエス様の義の模範を見ることができません。だから、聖霊様は私たちに何が良いか教えるし、イエス様を救いの道として指摘します。

そして、聖霊様は人々を将来の裁きについて警告します。サタンはもちろん裁かれるけど、キリストを拒絶する人も裁かれます。

最後に、聖霊様は私たちを全ての真理に導いてくださいます。私たちが聖書を読むとき、聖霊様は私たちにその言葉の意味を教えてくださいます。はじめて聖書の言葉を読むとき、私たちがその意味が分からないかもしれないけど、後で私たちがその言葉が必要なとき、聖霊様は私たちにその言葉を思い出させて、その意味を説明してくださいます。

もう一つのことを気づいてください。つまり、天の父とイエス様と聖霊の交流に気づいてください。天の父が知っていることは、イエス様も知っています。イエス様が知っていることを、正しい時に聖霊様は私たちに現わしてくださいます。天の父とイエス様と聖霊様は一人の神で、一緒に調和して働きます。

それでは、私たちに対して、この真理はどんな意義があるでしょうか。

イエス様は私たちの益のために天国に戻ったと言ったとき、本気でそう言いました。なぜなら、聖霊を通して、神様自身はイエス様を信じる者の中に住んでいるから。聖霊様は私たちを通して、周りの人々をイエス様に近づけます。聖霊様は私たちを弁護士し、私たちのためにとりなしてくださいます。聖霊様は私たちを教えたり、導いてくださいます。また、聖霊様は私たちを慰めてくださいます。

イエス様、聖霊様を私たちに与えてくださり、感謝します。聖霊のゆえに、あなたは本当にインマヌエル、「私たちと共いに神」です。聖霊様、毎日私たちを導き、教え、助けてくださいますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ15:18-6:4ーー職業上の危険

私が初めて日本に来た時、私は教会で英会話の授業を教えました。

その時、牧師のお嬢さんはキリスト教の幼稚園で働いていました。でもある日、一人の子供が彼女の手をハサミで刺しました。幸いに、そのハサミの刃の先端が丸かったので、彼女は大丈夫でした。

でも、あとで、彼女は私に言いました。「私の幼稚園は英語の先生が必要です。そこで働きませんか。」

私はそのハサミの話を覚えていたので、断りました。そんな職業上の危険に全然興味がないから。:)

でもクリスチャンとして、私たちはある「職業上の危険」を避けることができません。もし、私たちがイエス様のことを伝えるなら、私たちに怒る人がきっといるでしょう。私たちを憎む人もいるでしょう。

イエス様はこう言いました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(18-21)

イエス様は完全な愛でした。イエス様は完全な人生を送りました。それでも、人々は彼を憎みました。

私たちはイエス様の運命を避けると思うことができるでしょうか。

もちろん、すべての人々が私たちを憎むというわけではありません。私たちがイエス様の真理を教えると、私たちを愛する人もいます。でも、私たちがイエス様のメッセージを曲げることを拒まなければ、時々、相手の反応は敵対的になってしまいます。

残念なことだけど、そういうわけで、たくさんのクリスチャンはそのメッセージを曲げてしまいます。なぜでしょうか。彼らは憎まれたくないから。闘争が欲しくないから。

私の言葉を誤解しないでください。私たちはあえて闘争を求めてはいけません。私たちがイエス様のメッセージを正しく伝えるなら、ある人が私たちを憎むことは当たり前のことです。自然に闘争が起こります。でもそんなものは私たちの目的ではありません。

でも、イエス様のメッセージを伝える時、私たちは闘争に腰が引けてはいけません。むしろ、私たちは「神様の計画のすべてを、余すところなく」知らせなくてはなりません。(使徒の働き20:27)

イエス様は決して闘争に腰が引けませんでした。まして、私たちはなおさらです。

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ヨハネ15:12-17--愛の戒め

我々クリスチャンが「互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めの意味合いがわかるかどうか、私は疑問に思います。

一つの意味合いは、愛がただの感情ではないことです。

神様でも、私たちに自分の感情を変えるように命令できません。

例えば、私はあなたに、「私に怒りなさい」と言っても、あなたが怒る理由がないと、私に怒ることにならないでしょう。でも私があなたを殴ると、もちろんあなたはすぐに怒るでしょう。なぜなら、怒りは感情ですから。私たちの状況によって、私たちの怒りは出ます。

また落ち込んでいる人に、「元気になりなさい」と言っても、その人は急に嬉しくならないでしょう。私たちの状況によって、私たちは嬉しくなるから。

でも、イエス様は私たちに命令します。「互いに愛し合いなさい。」

もし愛がただのセンチメンタルな感情なら、イエス様は私たちに「愛し合いなさい」と命令できませんでした。なぜなら、私たちの愛は周りの人々との関係によるから。もし仲良しだったら、その人を愛せます。でもそうでないと、愛せません。

では愛とは、どんなものでしょうか。愛とは、私たちが相手を高い価値のある人とみなすことです。そして私たちがその態度をもって、相手を扱うことです。

イエス様はそんな愛の最高の表現を説明します。

人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きいな愛は誰も持っていません。(13)

つまり、最高の愛とは、私たちは自分自身よりも相手を大事にすることです。

イエス様は私たちにそんな愛を示してくださいました。イエス様が天国を出て、この世に来て、私たちの罪のために死んでくださるほどに、私たちを愛してくださいました。私たちに値した罰を受けるほどに、イエス様は私たちを愛してくださいました。

だから、イエス様が私たちを大事にしたように、私たちも周りの人々を大事にするべきです。私たちが彼らのために命を捨てるほどに、私たちは彼らを愛するべきです。

「でも、それは無理でしょう。あなたは私が毎日どんな人を扱わなくてはならないことが知らないでしょう。私自身を彼らのために犠牲にするべきでしょうか。そんなに彼らを大事にするべきでしょうか。」

はい、そのとおりです。

でもそうするのに、私たちは新しい心が必要です。でも、私たちがぶどうの木に繋がってこそ、その変化がありえます。

あなたが神様の愛を受けると、あなたの失敗と罪にもかかわらず神様があなたを愛してくださることが分かります。その神様の愛が分かると、相手の失敗と罪にもかかわらず、あなたは彼らを愛せるようになります。でも、イエス様に繋がらずに、神様の愛をいつも受けていないなら、相手にそんな愛を示すのは無理だともいます。

あなたの周りに、愛しづらい人がいるでしょうか。正直言うと、私の周りにはそんな人がいます。

でも、愛はただの感情ではありません。愛は選択です。でも私たちに対する神様の愛が分からないと、私たちにはそんな選択ができません。

だから、神様に近づきましょう。私たちが神様の愛に根ざすように。そうすると、神様の愛が私たちを通して流れて、私たちは愛の実を結びます。

この世はそんな愛を必死に探しています。

あなたはどうするでしょうか。

 

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ヨハネ15:7-17--私たちが実を結ぶように祈ること

この個所では、イエス様はとても驚くべき約束をします。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(7)

このイエス様の言葉を読むと、多くの人々は「では、私が長者になるように祈ろう」と考えます。

でも、イエス様の言葉を注意深く読んでください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら。。。」

前回の記事で、私はイエス様にとどまることについて話しました。それは、イエス様に信頼する人生を送ることです。つまり、私たちがイエス様が私たちの最善を知り、私たちの最善を求めることを信じるということです。

でも完全に神様に信頼する人は、お金に執着するでしょうか。それはありえないと思います。

お金や、持ち物や、一時的なものを求めるよりも、その人は何を追求するでしょうか。その人は神様との関係を追求します。また、その人は神様の国のために、周りの人々に触れたいと思います。要するに、その人が神様のために実を結びたいと思うことです。

だから、イエス様は8節で、こう言いました。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(8)

私たちが何でも欲しいものを求めるという教えの文脈は、私たちがイエス様のために実を結ぶことです。

イエス様はつづけます。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(16a)

そう言った後、イエス様はもう一度言います。

また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(16b)

実を結ぶ一つの方法は何でしょうか。他のどんなことよりも、イエス様はこう望みます。

あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。(17)

こうすれば、私たちは周りの人々に神様の性格を現わし、この世に触れます。そのように、私たちは実を結びます。それだけではなく、私たちは永遠に残る実を結びます。

もし、私たちが変えられた心を持つなら、つまり、一時的なものではなく、永遠の物に焦点を当てる心を持つなら、神様は喜んで私たちの祈りをかなえてくださいます。なぜなら、私たちがもっと実を結ぶから。

あなたはどうですか。あなたはイエス様にとどまっているでしょうか。あなたは何よりも、イエス様を喜ばせたいと思うでしょうか。あなたはイエス様に仕えて、この世に触れたいと思うでしょうか。もしかして、あなたは一時的なものにまだ執着しているでしょうか。

あなたの心の状態はどうでしょうか。

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ヨハネ15:1-11--イエス様のとどまる必要

前回の記事で、私は私たちの人生の中の天の父の働きについて話しました。つまり、私たちの義、私たちの実は自分の努力からではなく、天の父の働きから来ることです。イエス様のみ言葉を通して、天の父は私たちを清めてくださいます(3)。

また、私たちが失敗したり、罪を犯したりするとき、天の父は私たちを上げて、実を結べるように私たちを刈り込んでくださいます。

それでは、私たちの実が天の父の働きを通して来るなら、私たちは何もしなくていいでしょうか。

そういうわけではありません。私たちがしなければならないことは一つあります。私たちはイエス様にとどまらなくてはなりません。

それはどういう意味でしょうか。私たちはイエス様との親しい関係を保つべきです。

私たちはイエス様を私たちの人生の中心にするべきです。

また、イエス様と時間を過ごすべきです。

私たちはイエス様の言葉を聞くべきです。そして、その言葉に従うべきです。

イエス様はこう言いました。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(9-10)

以前の記事で私は言ったけど、イエス様は、ただ「私の言葉に従いなさい」と言っているわけではありません。イエス様は、「私に信頼しなさい。私は愛しているから。あなたの最善を望みます。」と言っています。

相手に信頼できないなら、その人との関係を作るのはとても難しいです。

もし私たちが神様に「あなたに信頼できない」と言うと、その関係には距離があります。

でも、私たちが神様を信じ、神様の言葉に従えば従うほど、私たちの神様との関係は親しくなります。

私たちは神様に信頼するから、その言葉に従います。そうすれば、私たちは神様からの祝福を見て、神様が私たちの最善を望むことを悟ります。だから私たちは神様をもっと愛して、信頼するので、喜んで神様の言葉にますます従います。そして私たちは神様からの祝福をもっともっと見るので、私たちはますます神様を愛し、信頼します。

そんな神様との関係によって、私たちは多くの実を結びます。

でも、私たちが決して神様を信じることを学ばないと、どうなるでしょうか。私たちは決して実を結びません。

イエス様はこう言いました。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。(15:4-6)

あなたはどうですか。あなたは神様と共に歩み、神様を愛し、信頼するでしょうか。そうしてこそ、あなたは実を結べます。その関係がないなら、あなたが何をしても、神様を喜ばせることができません。そして、その不信を捨てないと、ユダのように、あなたは枯れて燃えてしまいます。

でも、神様と歩むと、あなたは実を結び、喜びを知ります。

イエス様はこう言いました。

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11)

どうやって、神様との信頼関係を始めるでしょうか。まず、あなたの救いのためにイエス様に信頼するべきです。ヨハネはこう書きました。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ(ること)。。。それが神の命令です。(第一ヨハネ3:23)

もしあなたがまだそんな関係がないなら、今日その関係を始めませんか。

イエス様、今まで私はあなたのことを知っていたけど、あなたを完全に信頼していなかったので、自分の道を行きました。赦してください。あなたが私の罪のために死んでくださって、よみがえられたことを信じます。私の救い主と主になってください。毎日私があなたを信頼し、従うように助けてください。私を近づけてください。あなたのために私は実を結びたいです。イエス様のみ名によって祈ります。

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ヨハネ15:1-2--上げられて、刈り込まれた

キリスト教をほかの宗教と比べると、一つの大きい違いは、私たちの義が自分の努力によらないことです。むしろ、神様が私たちの心を変えてくださるので、私たちのふるまいは変わり始まります。

旧約聖書で、神様はそのコンセプトをはじめて教えました。神様はエレミヤを通して、こう言いました。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。。。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31,33)

そして、エゼキエルを通して、神様はこう言いました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル36:26-27)

そして、今日のヨハネの個所では、イエス様は神様の働きをもっと説明します。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(1-2)

イエス様によれば、天の父は実を結ばない枝を取り除き、実を結んでいる枝をもっと多く実を結ぶように刈り込みます。

神様が実を結ばない枝を取り除くというのはどういう意味でしょうか。

私は、そのクリスチャンが自分の救いをなくすわけではないと思います。他の聖書の個所はそのアイデアを否定するから。

二つの可能性があると思います。

イエス様はイスカリオテ・ユダのような人について話しているかもしれません。ユダはイエス様のところに来て、いろんなことを学びました。実際に、彼は弟子になりました。でも結局、彼は実を結びませんでした。彼はイエス様を本当に信じるようになりませんでした。だから、彼は取り除かれました。

今なお、多くの人々は教会に行って、聖書からいろんなことを学びます。でも彼らは本当にその言葉を信じるようになりません。だから彼らは取り除かれます。

しかし、もう一つの可能性があります。

「取り除く」と言う言葉は、「上げる」と翻訳できます。もしかしたら、イエス様が意味したものは、天の父は実を結ばない枝を日照にさらすように上げるということです。だから、その枝はもっと栄養素を得て、健康になり、実を結び始めます。

そのように、神様は私たちの罪と失敗から私たちを引き上げて、私たちが実を結ぶように、私たちの心中で働きます。そして、私たちが実を結び始めると、神様は私たちの実の成長を阻止するものを刈り込みます。

神様はペテロのためにそうしてくださいました。

ペテロはイエス様を裏切って、本当に落ち込んでいました。でも、イエス様は彼を引き上げて、励ましてくださいました。

イエス様はペテロが自分自身を変えるために待ちませんでした。むしろ、イエス様はペテロの所に行って、彼の心の中に働きかけて、その憂鬱からを引き上げて、彼が進めるように挑戦しました。

しかしペテロが実を結び始めると、イエス様は、「では、私の働きは終わりだ」と言いませんでした。むしろ、イエス様はペテロの偏見を刈り込んだので、ペテロがかつて見下した異邦人に福音で触れ始めました。(使徒の働き10-11)

でも、その過程はまだ終わっていませんでした。ペテロはもう一度失敗すると、イエス様はもう一度ペテロを引き上げて、もっと刈り込みました。(ガラテヤ人への手紙2:11-14)

あなたはどうですか。あなたのクリスチャン生活を見ると、失望するでしょうか。

神様があなたを責めないことを覚えていてください。神様があなたのことをあきらめないことを覚えていてください。

むしろ、あなたが完全になるまで、神様はあなたの心の中で働き続けます。

だから、神様から逃げないでください。むしろ、神様に近づいてください。神様にとどまってください。そうすれば、あなたは実を結びます。

 

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ヨハネ15:1-17--実を結ぶために選ばれました

この有名な個所で、イエス様は私たちと神様との関係をすばらしい描写で表します。

イエス様は自分自身を「ぶどうの木」と呼びます。

旧約聖書では、神様はイスラエルをぶどうの木と呼びました。イスラエル人が神様のために実を結んで、その実を通して、周りの国民は神様に近づくはずでした。でも、彼らの不従順のため、悪い実ばかりを結んだので、神様は彼らを裁きました。(イザヤ5:1-7;エレミヤ2:21)

だから、イエス様は自分自身を「ぶどうの木」だけではなく、「まことのぶどうの木」と呼びました。なぜなら、イエス様の実を通して、人々が神様に近づくだけではなく、イエス様の働きを通して、彼らは救われるから。

そして、イエス様は私たちを「枝」と呼びます。16節に、イエス様はこう言いました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(16)

実を結ぶのは、どういう意味でしょうか。一つの意味は、神様に変えられた人生ということです。

パウロは私たちのかつて罪深い人生について話した後、こう言いました。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)

つまり、私たちが本当にクリスチャンになったら、私たちの人生はそのことを証明するはずだということです。私たちの古い人生と比べると、私たちの生き方と考え方は変わるはずです。

そして、私たちの人生が変われば変わるほど、私たちは周りの人々に影響を与え始めます。彼らは私たちの中に神様を見て、神様に近づいて、救われます。

それはイスラエルのための神様の最初の計画でした。でも今は、それは私たちのための神様の計画です。

ペテロはこう言いました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(第一ペテロ2:9)

あなたは実を結ぶために選ばれました。あなたはその実を結んでいるでしょうか。

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ルカ22:35-38--敵対的な世に直面すること

イエス様と弟子たちが二階の大広間を出ると、イエス様は彼らにこう訊きました。

わたしがあなたがたを財布も袋も履物も持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。(35)

その以前、イエス様は弟子たちをイスラエルの各地に福音を延べ伝えるために二回遣わしました。(ルカ9-10)

その時、イエス様は、彼らが何もを持たずに、彼らが行く都市にいる人のもてなしに頼りなさいと命令しました。

イエス様の人気さの最中で、人々は弟子たちのニーズに備えてくれました。時々、弟子たちは敵対的な人に出会ったけど、弟子たちを歓迎する人にも出会いました。(ルカ22:35b)

でも、彼らの事情は変わりました。イエス様は「不法な者たちとともに数えられた」ので、彼らにたいする敵対的な人は増えました。(37-38)

以前に弟子たちを歓迎した人は、もはや彼らを歓迎しません。だから、イエス様は弟子たちに警告しました。

しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。(36)

つまり、「これから、私についていくと、とても危険です。だから用心しなさい。」ということです。

弟子たちは答えました。

主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります。(38)

要するに、「心配しないでください。誰かが私たちを攻撃したら、私たちは彼らを撃退できます。」ということです。

実は、ゲツセマネでペテロはそうしようとしました。

イエス様は答えました。

それで十分。(38)

私は分からないけど、もしかしたら、イエス様がそれを言ったとき、ちょっとイライラしたかもしれません。なぜなら、イエス様のポイントは、暴力を暴力で戦うということではなかったから。むしろイエス様のポイントは、「敵対する人に出会うために自分の心を整えなさい」ということです。

イエス様は私たちに同じことを言います。

後でヨハネの福音書で私たちは読みますが、イエス様は弟子たちに(また私たちに)警告しました。「私のために、人々はあなたを憎みます。彼らはあなたを迫害します。その時、驚いてはいけません。」

もちろん私たちはノンクリスチャンを愛し、福音を伝えるべきです。でも、同時に私たちは注意するべきです。イエス様のために、私たちを憎む人もいます。私たちを裏切る人もいます。私たちを傷つける人もいます。私たちが愛している者もそうするかもしれません。

だから、イエス様の言葉を覚えていてください。

いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい。(マタイ10:16-17)

 

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ヨハネ14:15-31--捨てられていない

最近まで、私の娘はよく私と妻の部屋に来て、私たちのベッドに登って、私たちの間で寝たものです。

私たちが「どうしてここに来たの?」と訊くと、彼女は「寂しかった」と答えました。

多分、私たち皆、寂しがったことがあります。

イエス様が「わたしは去って行く」と言うと、弟子たちはそう感じたでしょう。でもイエス様は彼らに言いました。

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。

世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(16-21,23)

イエス様の言葉では、私たちは三位一体を見ることができます。また、その言葉を通して、私たちは大切な真理を学びます。三位一体である神様は私たちと共におられます。

イエス様が約束したのは、もう一人の助け主、つまり聖霊様を送ってくださることです。そして、聖霊様は私たちに教えるし、イエス様の言葉を思い出させてくださいます。

そして、イエス様は、ご自分自身が私たちの所に来ると約束しました。イエス様は私たちを捨てて孤児にはしません。

最後に、イエス様は、天の父が私たちの所に来て、私たちと共に住むと約束しました。

でも、私たちが覚えていなくてはならないことがあります。私たちは神様の言葉に従わなくてはなりません。だから、前回の記事の教訓はとても大切だと思います。

つまり、私たちが神様の言葉に従うほどに、神様を信じるだろうかということです。だから14章の最初で、イエス様はこう言いました。

神を信じ、またわたしを信じなさい。(1)

神様を信じないなら、神様との関係ができません。

また、私たちは神様を本当に愛しているでしょうか。私たちがが神様を喜ばせたいと思うほどに、神様を愛しているでしょうか。私たちが罪を避けたいと思うほどに、神様を愛しているでしょうか。

もし私たちは神様を信じ、愛し、従うなら、神様の臨在をよく知ります。だから、良いときも、悪いときも神様からの平和を知ります。

イエス様は弟子たちにこう言いました。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27)

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ヨハネ14:15-31--私たちが本当にイエス様を愛しているなら

この個所を読むと、多くの人々はびっくりするでしょう。

イエス様はこう言いました。

もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(15)

ちょっと考えてみてください。もし、あなたの彼女や、彼氏や、夫や、妻が、「もしわたしを愛してるなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言うなら、あなたはどう反応するでしょうか。

多くの人々は「いやだよ」と答えて、その人と絶交するでしょう。

でも私たちのイエス様との関係について、二つ目のことを覚えていてください。

一つ目は、イエス様がただ私たちの救い主だけではなく、私たちの主ということです。でもイエス様は、自分の歪んだ喜びのために、私たちの人生を惨めなものにしようと思っていません。むしろ、イエス様は私たちを愛して、私たちの最善を望みます。さらに、イエス様は私たちの創造者なので、私たちの人生のデザインをよくご存じます。だから、イエス様の言葉に従えば、私たちの人生はうまくいきます。

だから、「私の言葉に従いなさい」と言うよりも、イエス様はこう言っています。「私を信じなさい。あなたが私を愛しているなら、私を信じなさい。あなたの最善をよく知って、望むから。」

残念なことだけど、私たちの経験では、多くの人々が私たちに「こうしなさい、ああしなさい」と言うとき、彼らは私たちの最善を求めずに、自分の最善を求めています。

だから、神様が「私を信じなさい。あなたの最善を求めているよ。」と言うと、私たちはその言葉を疑います。

それは新しい問題ではありません。エデンの時代でも、そんな問題が発生しました。神様はアダムとエバに言いました。「私を信じなさい。あなたの最善を求めているよ。だから、善悪の知識の木の実を食べるな。あなたが悪を知ると、本当に苦しむから。」

でも、サタンがエバをだましたので、彼女は神様の意図を疑いました。彼女は思いました。「神様は私の最善を望まないだろう。神様は私にこの良いものを与えてくれないだろう。」

今なお、多くの人々はそのように考えます。

もう一つのことを覚えていてください。

私たちが罪を犯すと、神様は傷つきます。神様はきよい方なので、罪を見ると、本当に悲しみます。

あなたは神様を本当に愛しているでしょうか。神様を悲しませたいと思うでしょうか。もしくは、あなたは神様を喜ばせたいと思うでしょうか。

ちょっと考えてみてください。もしあなたの妻や夫を愛しているなら、あなたはあえてその人を傷つけるでしょうか。「私はこうすると、相手をきっと傷つけるけど、私は気にしない。」と言いうでしょうか。

もちろんその態度を取らないでしょう。むしろ、あなたは相手を喜ばせたいと思います。

そのように、私たちは神様を愛するべきです。もし私たちが本当に神様を愛すると、神様を悲しませずに、神様を喜ばせたいという態度を取るべきです。

イエス様はこの世に生きている間に、そんな態度を取りました。イエス様は天の父を愛し、信じたので、いつも天の父の言葉に従いました。十字架まで、天の父の言葉に従がいました。なぜでしょうか。なぜなら、イエス様は天の父が私たちの最善を求めていることを信じたから。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。

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ヨハネ14:12-14ーーすばらしい約束

この個所では、イエス様はすばらしい約束をしました。多分、その約束を聞いて、あなたは、「マジで?イエス様は本気なの?」と言うかもしれません。

イエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(12)

イエス様はいろんな驚くべきことを行いました。イエス様は病気な人を癒したし、死者を復活させたし、何千人にも教えたし、福音を通して彼らに希望を与えてくださいました。

イエス様を信じる人もそんなことをするでしょうか。さらに大きいなわざを行うでしょうか。

もしかしたら、あなたは使徒の働きを読んで、イエス様が弟子たちだけに関して話したと思うかもしれません。なぜなら、彼らはイエス様が行ったような奇跡を行ったし、福音をイスラエルだけではなく、全世界に延べ伝えたから。

でも、イエス様は「わたしを信じる者」と言いました。弟子たちだけではなく、イエス様を信じる者だと言いました。新約聖書の時代に生きていた人だけではなく、イエス様を信じる者がさらに大きなわざを行うと言いました。

どうしてイエス様はそんなことが言えたでしょうか。なぜなら、イエス様は天の父のところに帰って、私たちに聖霊を送ったから。その聖霊様が私たちの心の中に住んでいるので、聖霊様の力を通して、私たちはこの世を変えることができます。

それでは、私たちはイエス様のように病気な人を癒すし、死者を復活させるでしょうか。

時々、私はこう疑問に思います。「どれだけ私たちは私たちの不信のため、神様の働きを制限するでしょうか。」

私は発展途上国のクリスチャンのすばらしい話を聞いたことあります。彼らが「現実」を考えずに、イエス様の言葉を聞いて信じたので、神様は素晴らしい奇跡を行いました。

正直に言うと、私はしばしば懐疑的な態度を持っています。時々、私は日本でも癒しの話を聞くけど、私は「その人は本当に癒されているだろうか。どれぐらいその人の良い健康はそのように続けるだろうか」と思います。

それでも、私は神様が現代でも働いていると信じます。この瞬間でも、神様が働いていると信じます。

私たちがイエス様の言葉をもっと信じたほうがいいと思います。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(13-14)

もちろん、私たちがスポーツカーのために祈れば、イエス様がきっとその祈りに答えるというわけではありません。でも、私たちの栄光を求めずに、むしろ神様の栄光を求めると、また、自分の願いではなく、神様のみこころ求めば、多くの場合、神様は私たちの祈りに答えてくださいます。さらに、神様は、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行ってくださいます。(エペソ3:20)

神様は私たちを通してこの世に触れたいと思います。でも、神様が私たちを用いることができると思いますか。あなたの不信や、懐疑を捨てて、神様に「あなたの御心が行われるように」と祈るでしょうか。

主よ。あなたの言葉を信じるのは難しいです。その言葉はありえないみたいです。でも、私の信仰を増やしてください。私をあなたの御霊で満たしてください。あなたの教会を御霊で満たしてください。この世の民は死にかけています。あなたは彼らに命を与えたいと思います。だから、私が不信と懐疑を捨てるよう助けてください。私がすべてをあなたにささげるように助けてください。あなたの栄光のために私を用いてください。アーメン。

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ヨハネ14:7-11ーー神様を見ること。神様を知ること。

どうやって私たちは神様を知ることができるでしょうか。どうやって私たちは、神様がどんな方であるか知ることができるでしょうか。

神様が目に見えない方だから、もちろんその疑問には一つの答えしかありません。神様は自分自身を私たちに現わさなくてはなりません。

最初は、神様は自分自身を幻や、夢や、天使や、預言者を通して現わしました。

そして、イエス様はこの世に来ました。でも、イエス様は単なる人間ではありませんでした。イエス様自身は神でした。そして、イエス様は私たちの間に生きていました。だから、イエス様はこう言えました。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。(7)

ピリポがそれを聞いて、「私たちに父を見せてください」と言うと、イエス様はこう答えました。

ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(9-11)

イエス様の言葉を誤解しないでください。天の父とイエス様は同じ方ではありません。天の父はイエス様ではありません。イエス様は天の父ではありません。でもパウロはこう書きました。」

御子は、見えない神のかたちであり「ます」。(コロサイ人への手紙1:15)

イエス様を通して、私たちは天の父の「かたち」を見ます。(もう一度繰り返すけど、誤解しないでください。神様は霊なので、物質的なかたちを持っておられません。)

イエス様の言葉を聞くと、私たちは天の父の言葉を聞きます。

いろんな状況に対するイエス様の反応を見ると、私たちは天の父の反応を見ます。

だから、天の父を知りたいと思うなら、イエス様を見てください。

ちょっと考えてみてください。周りの人々が私の娘を見ると、彼らはしばしば「ブルース、お嬢さんはあなたに似ているね。」と言います。

そして、彼女が成長すると、彼女の行動や考え方は、私に影響されます。彼女を見ると、あなたは私についていろんなことを学ぶことができます。それは親子の常です。

それでも、彼女は私の不完全な反映です。でも、イエス様は天の父の完全な反映です。

それでは、私のポイントは何でしょうか。

神様を知りたいと思うでしょうか。イエス様を見てください。

神様の考え方を知りたいと思うでしょうか。イエス様の言葉を読んでください。

いろんな状況に対する神様の反応を知りたいと思うでしょうか。イエス様の反応を見てください。

私たちは神様がどんな方であるか想像しなくてもいいです。私たちはもう知っています。なぜなら、神様はこの世に来て、人間になったから。

だから、神様との関係を求めましょう。そうすれば、神様をきっと見つけます。

ヤコブはこう言いました。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)

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ヨハネ14:4-6--天の父のもとへの道

多くの人々はこの個所を読むと、腹が立ってしまいます。なぜなら、イエス様の言葉を受け入れにくいから。だから、彼らはその言葉を拒絶します。

イエス様は何を言ったでしょうか。

ちょっと背景を説明すると、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたのために場所を用意しに行く」と言っていたばかりでした。そして、イエス様は彼らにこう言いました。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネ14:4)

でもトマスはイエス様の言葉が分からなかったので、当然の質問を訊きました。

主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(14:5)

イエス様はこう答えました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(14:6)

イエス様は「私は父のみもとへの道を教えます」と言いませんでした。

イエス様は「父のみもとに行くのに、あなたがたが何をするべきか教える」と言いませんでした。

イエス様は「私が父のみもとへの道だ」と言いました。「もし天国に行って、天の父を会いたいと思えば、わたしを通して行かなくてはなりません。」

それは驚くべき主張です。

でも、ちょっと考えてみてください。

もしアメリカ大統領に会いたいと思えば、あなたは勝手にホワイトハウスのオーバルオフィスに入ることができません。あなたは招待状が必要だし、それを持っていて、誰かが扉であなたを出迎え、大統領のところに連れて行ってくれます。その人がいないと、あなたは大統領に決して会うことができません。その人は、大統領のもとへの道です。

そのように、イエス様は天の父のみもとへの道です。でも、イエス様はただの天国のスタッフではありません。イエス様は神の子です。イエス様が十字架で死んで、私たちの罪の代価を払ったことによって、私たちは神様との関係ができます。

イエス様は私たちを天の父のみもとに連れて行って、大祭司として私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8:34;へブル10:19-22)

でも、イエス様の十字架の働きがなければ、また、イエス様が私たちとともにいなければ、私たちは天国に行けないし、天の父に会うことができません。

イエス様はトマスにもう一つのことを言いました。「私は真理です。」

多くの人々は真理を求めています。

でも最近、多くの人々は、真理が実在していないと思います。特に霊的な真理がないと思います。

でも、イエス様は「私は真理だ」と主張します。「私の言葉は真理です。真理は相対的なものではありません。私の言葉は完全な真理です。私から離れたら、あなたは真理を見つけることができません。」

さらに、イエス様は「私は命だ」と主張します。

多くの人々は、人生の意義を求めています。彼らは意義のある人生を求めています。彼らは生きがいのある人生を求めています。最終的に、彼らは死後の命を求めています。

だから、イエス様は言います。

「私は命です。命の意義を求めているでしょうか。私の所に来なさい。意義のある人生を求めているでしょうか。生きがいのある人生を求めているでしょうか。あなたは、お金や、家族や、持ち物や、力や、結婚や、子供などを通してそんな人生を獲得しようとするかもしれないけど、それらはあなたに命を与えることができません。最終的に、あなたの心は空っぽになります。私だけを通して、あなたは生きがいのある人生を見つけることができます。

また、もし死後の命を見つけたいと思うなら、仏や、ムハンマドや、ほかの宗教的なリーダーを通して、そんな命を見つけることはできません。私だけを通して、あなたの罪が赦されて、あなたは永遠の命を得ることができます。」

でも、多くの人々はそれを信じたくないのです。なぜなら、彼らは自分の宝ものを捨てなくてはならないかもしれないから。また、彼らはもう自分勝手に生きることができないから。

だから、彼らはイエス様が嘘つきだと言います。または、イエス様が間違えたと言います。または、イエス様が正しく引用されなかったと言います。

でも本当の命を見つけたいと思うなら、イエス様だけにあって、そんな命を見つけることができます。

真理は相対的なものではなく、確かな物です。イエス様だけにあって、真理を見つけることができます。

また、あなたが天国に行って、天の父に会いたいと思うなら、イエス様はあなたの隣におられなければなりません。

だからイザヤの言葉を聞いて、従ってください。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しきものは自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6-7)

 

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ヨハネ14:1-3--私たちのために用意されたもの

前回の記事で私が言ったように、最後の晩餐で、弟子たちはイエス様の言葉で衝撃を受けて悩んでいました。なぜなら、イエス様は「私が行くところに、あなたは今ついて来ることができない」と言ったから。おまけに、イエス様は、彼ら皆がつまずいて、イエス様を見捨てると言いました。さらに、ペテロが一番勇気のある弟子みたいだったのに、イエス様は、ペテロが「イエスを知らない」と三度言う、と言いました。

イエス様は彼らの心をよくご存じだったので、彼らを励まして、こう言いました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(14:1)

要するに、「悩まないでください。こんなことは酷いかもしれないし、たぶんあなたたちはそんなことが想像つかないかもしれません。でも、天の父はまだすべてのことをコントロールしています。天の父を信じなさい。また、私を信じなさい。」ということです。

そして、イエス様は彼らに未来のことをちょっと見せて、どうしてイエス様が行かなくてはならないか説明しました。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(14:2-3)

イエス様は私たちに3つの約束をします。

1.もし私たちがイエス様を救い主として受け入れば、イエス様は天の父の家に私たちのために場所を用意しています。イエス様がどんな場所を用意するか分からないけど、きっとそれが豪華な場所だと思います。イエス様は卑しい場所を作るはずはないです。

クリスチャンの歌手キース・グリーンは興味深い歌詞を書きました。

「あなたは6日間で天地を作ったけど、父の家を2000年以上構築中です。」

2.イエス様はもう一度この世に戻ります。弟子たちはイエス様が去ると聞いて、パニックになりました。でもイエス様は、「私がきっと戻る」と言いました。最初に、イエス様は彼らに聖霊を送ると約束しました。そして、イエス様自身はいつか戻ると約束しました。

3.そして、イエス様が戻ると、イエス様がいるところに、私たちもいるようになります。

パウロはこう言いました。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらの言葉をもって、互いに励まし合いなさい。(第一テサロニケ4:16-18)

でも、ちょっと考えてみてください。その会話の数時間後に、弟子たちはつまずいて、イエス様を見捨てました。イエス様はそんな人々に、その素晴らしい約束をしました。どうしてイエス様は彼らにそんな約束をしたでしょうか。

なぜなら、イエス様は彼らをあきらめずに、彼らの心と人生に働き続けようと計画したから。

そのように、イエス様は決してあなたのことをあきらめません。あなたがどんなに苦しんでも、あなたがどんなに失敗しても、イエス様はあなたのために場所を用意しています。だから絶望しないでください。むしろ、立ち上がって、歩き続けましょう。

Why should I worry?
どうして私は悩んでいるでしょうか。
Why should I fret?
どうして私は心配しているでしょうか。
‘Cause I’ve got a Mansion Builder.
私には、豪邸を作ってくれる方との関係があります。
Who ain’t through with me yet.
その方は、私のことを決してあきらめない。

–Second Chapter of Acts

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マタイ26:31-35;マルコ13:27-31;ルカ22:31-34;ヨハネ13:36-38--私たちの弱さを知っておられる神。私たちを受け入れる神。

イエス様が弟子たちに「わたしが行くところにあなたは今ついて来ることができません」と言うと、彼らはもちろん悩んでいました。イエス様が彼らの先生だったので、彼らはイエス様が彼らのそばにおられない人生が想像できませんでした。

だから、いつものようにペテロは皆が考えることを言い出しました。

主よ。なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちを捨てます。(ヨハネ13:36-37)

イエス様の答えを聞いて、ペテロとほかの弟子たちは衝撃を受けました。

わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。(ヨハネ13:38)

そして、イエス様はペテロにこう言いました。

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)

でも、もう一度ペテロは言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)

しかし、イエス様はもう一度繰り返しました。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたし知らないと言います。」(ルカ22:34)

もしかしたら、ほかの弟子たちがそれを聞いて、「まさかペテロは裏切り者だろう。さっきイエス様は、私たちの間に裏切り者がいるを言ったけど、それはペテロだろうか」と思ったかもしれません。

ペテロもそう疑問に思ったかもしれない。

だから、イエス様は続けました。

あなたがたはみな、つまずきます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:27-28)

でも、ペテロは主張し続けました。

たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)

だから、イエス様はもっと具体的に、また、もっと強く宣言しました。

まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。(マルコ14:30)

それでも、ペテロはイエス様の言葉を信じませんでした。そして、ペテロとほかの弟子たちは「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました。(マルコ14:31)

でも、最終的に、イエス様が預言した通りに、彼ら皆はつまずきました。イエス様が捕まえられたとき、彼らは逃げたし、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。

わたしのポイントは何でしょうか。私たちが自分自身を知っているよりも、イエス様は私たちのことを知っておられます。私たちが知らなくても、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。それでも、イエス様は私たちを受け入れます。

それがこの話の最も驚くことだと思います。イエス様は決してペテロを責めませんでした。むしろ、イエス様はペテロを励ました。「わたしはあなたのために祈っているよ。あなたはつまずくけど、あなたはきっと立ち上がります。だから、立ち上がったら、ほかの弟子たちを励ましなさい。」

そのように、イエス様は私たちの弱さをよく知っていおられます。でも、イエス様は私たちを責めません。むしろ、私たちの大祭司として、イエス様は毎日私たちのために祈ってくださいます。私たちが転ぶと、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。そして、私たちを引き上げると、イエス様は私たちに「他のつまずいていた人を憐れんで、励ましなさい。」

だから、私たちが失敗しても、私たちが弱くても、この言葉を覚えていて下さい。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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ヨハネ13:31-35--全ての人が認めるように

ユダが部屋から出た後、イエス様は残りの弟子たちに向いて、十字架の前の最後のメッセージを始めました。この傲慢なよく喧嘩するグループに、イエス様はこう言いました。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(34:35)

覚えていてください。この前、この弟子たちは彼らの間に誰が一番偉いか議論していました。彼らのプライドのゆえ、誰もほかの弟子たちの足を洗う気は全然ありませんでした。

だから、イエス様はこの大切の教訓が彼らの心にぐっと来るように望みました。つまり、彼らがお互いに愛し合うことです。

ちょっと気づいてください。イエス様は、「すべての人々を愛しなさい」と言いませんでした。もちろん、イエス様はそのことも望んだけど、そう言いませんでした。

むしろ、イエス様は「お互いに愛し合いなさい」と言いました。

どうしてでしょうか。

その互いの間に愛によって、全ての人はその十一人がイエス様の弟子たちであることを認めるから。

今なお、多くの教会は、そのお互いの愛が欠乏しています。私たちは弟子たちのようにプライドを持って、よく喧嘩します。だから、ノン・クリスチャンたちが教会に入ると、彼らは「イエス様に従う者はこういうものだろうか。イエス様はこんな人を育てるだろうか。それなら、私はイエス様とその教会に興味ない」と思います。

何年か前、私はある教会に行ったけど、賛美の時間、なぜかワーシップ・リーダーは部屋の後ろに座ったままで、渋い顔をしていました。だから、ほかの人がビギナーなのに、頑張ってギターを弾き、歌わなくてはなりませんでした。だからその日、礼拝の雰囲気はとても悪いものでした。

後で私が分かったのは、礼拝の前にそのワーシップ・リーダーがほかのリーダーと喧嘩していたということです。

でも、一番悪いのは、その日に新しい人が来ていたということです。彼女はその悪い雰囲気に気づいたので、その教会に決して戻りませんでした。

もし、私たちが互いに愛し合えないなら、どうやって私たちは教会の外の人を愛することができるでしょうか。

もし、私たちがこの世の人々のようにふるまえば、どうやって、彼らは私たちの中にイエス様を見ることができるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは周りのクリスチャンたちの態度を変えることができないけど、神様の助けによって自分自身の態度を変えることができます。周りのクリスチャンに対するあなたの態度はどうですか。

あなたは彼らを見下すでしょか。彼らを批判するでしょうか。彼らの欠点についていつも文句を言うでしょうか。もしくは、あなたがイエス様に愛されたように、彼らを愛しているでしょうか。

今度の日曜日、あなたは教会に行くとき、イエス様の言葉を覚えていてください。その言葉に思いを巡らしてください。そして、あなたが周りのクリスチャンを愛せるように、神様の助けのために祈ってください。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(34:35)

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マタイ26:26-29;マルコ14:22-26;ルカ22:14-20--十字架の描写

旧約聖書の中で、キリストを描写する話はいっぱいあります。この個所では、イエス様はその描写を成就します。

イエス様と弟子たちは最後の晩餐で過ぎ越し祭りを祝っていました。そして、彼らは最初のぶどう酒の杯を取って飲んだ後、イエス様は袋からマッツァーというパンを一枚を出しました。実は、その袋にはマッツァーが三枚ありました。

どうして三枚あったのでしょうか。あるユダヤ人によれば、そのマッツァーはアブラハムとイサクとヤコブを描写します。他のユダヤ人によれば、そのマッツァーは祭司たちとレビ人と普通のイスラエル人を描写します。

とにかく、イエス様は第二目のマッツァーを出して、裂き、弟子たちに与えました。そして、過ぎ越しの祭りの食事で、イエス様は初めてその伝統の本当の意味を説明しました。

これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。(ルカ22:19)

現代のユダヤ人のクリスチャンによれば、その三枚のマッツァーは天の父、御子、と聖霊を描写します。

そして、そのマッツァーを通して、私たちはイエス様のことを学びます。

第二目のマッツァーが袋から取られたように、イエス様は天国を出て、私たちの間に生きていました。

マッツァーの中には、パン種は入っていませんでした。聖書では、パン種は罪を描写しました。だから、マッツァーはイエス様の罪のない性格を描写しました。

そして、マッツァーが膨らまないように、人々は焼く前にそのマッツァーを刺しました。そのように、イエス様はも私たちの罪のために刺されました。

また、マッツァーが裂かれたように、十字架でイエス様の体も裂かれました。

そのマッツァーを食べたあと、イエス様は次のぶどう酒の杯を取りました。それは贖いの杯と呼ばれました。それを見て、ユダヤ人たちは過去を顧みて、どうやって、神様が彼らを奴隷の人生からを解放してくださったか覚えていました。

でも、今回イエス様は弟子の思いを未来に指しました。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、私の契約の血です。(マタイ26:28)

ルカの福音書によれば、それは「新しい契約」でした(ルカ22:20)。「新しい契約」とは、どういう意味だったでしょうか。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出した後、彼らと契約を結びました。それは、彼らが神様の律法に従えば、神様は彼らの神となって、彼らは神の民となるということです。でも、結局問題が発生しました。だれもその律法に完全に従うことができませんでした。

だから、エレミヤ書で、神様は新しい契約を作ると言いました。でも、その契約は人々の努力によるものではありませんでした。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうであるーー主のことばーー。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだーー主のことばーー。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(エレミヤ31:33-34)

この契約では、神様はいくつかの約束をしました。

一つ目は、私たちが神様に従えるように、神様が私たちの心を変えてくださることです。

二つ目は、私たちは神様との新しい関係を持つことです。神様と私たちの間に、私たちは祭司たちや牧師たちが要りません。私たち皆は神様との親しい関係が持っています。

三つ目は、神様は私たちの罪を赦してくださることです。神様はもはや私たちの罪を思い起こしません。

だからイエス様が意味したものは、「新しい契約は来ています。私の注がれた血によって、あなたたちの罪が赦されて、あなたたちは新しい命を得ます。」ということです。

イエス様と十字架の働きを覚えていて、へブル書の著者の言葉に従いましょう。

心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。(へブル10:22-23)

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マタイ26:20-25;マルコ14:17-21;ルカ22:21-23;ヨハネ13:18-30--裏切り

福音書を統合すると、一つの疑問は、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。

ルカはユダが参加したことを暗示するようですけど、他の著者によると、ユダは参加しなかったようです。

私の意見だけど、恐らくユダは聖餐式に参加しなかったと思います。多分、ルカは最後の晩餐の出来事を年代順位に伝えなかったと思います。

とにかく、この個所では、イエス様は裏切り者ユダを扱います。この話では、興味深い点がいくつかあります。

ヨハネは、(多分「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネでしょう)イエス様の隣に座ったlast supperようです。でも、ユダもイエス様の隣に座ったようです。なぜなら、すべての弟子たちはユダに対するイエス様の言葉を聞いたはずはないですから。彼らがイエス様がユダを裏切り者として指摘するのを聞いていたら、彼らはユダを責めたことでしょう。

たくさんの最後の晩餐の絵画と違って、だれも椅子に座らなかったでしょう。彼らは低いカウチに座りました。そして、彼らは横になって、左の肘に休みました。だから、彼らの頭には、隣の人の胸のところにありました。

だから、たぶん、イエス様の右にヨハネは座りましたし、イエス様の左にユダは座ったようです。

私が以前言ったように、イエス様の隣に座るのは光栄に思われることでした。だから、イエス様はユダをその左に座らせることによって、ユダに光栄を与えました。

それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。

だから、イエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)

弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人は、イエス様に訊きました。「まさか私じゃないでしょう。」

ユダ自身もイエス様にそう訊きました。

もしかしたら、ユダはイエス様を全くだましたと思ったかもしれません。でも、イエス様は答えた。「はい。あなたですよ。」

ユダのショックを想像してください。彼の秘密はばれました。もしかしたら、彼はイエス様が皆の前でユダを暴露して、ユダが殺されると思ったかもしれません。

多分そのときぐらい、ペテロはヨハネに訊いたでしょう。「イエス様が誰について話しているか、訊いてごらん。」(ヨハネ13:24)

イエス様はヨハネに答えました。

わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)

実は、その時代に、パン切れを浸して与えるのはもう一つの光栄を与え方でした。

だからイエス様がそのパン切れを浸して、ユダに与えたら、たぶんヨハネ以外の他の弟子たちは「すごいな。私たちが思ったより、ユダは偉いな。」と思ったでしょう。

ユダ自身は驚いたでしょう。彼は一瞬イエス様の言葉を誤解していたと思ったかもしれません。

でも、イエス様は彼に言いました。

あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)

ユダはそれを聞くと、イエス様が彼の心をよく知っていたことが分かりました。そして彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵の所に行きました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは私たちをわざと傷つけます。そのとき、私たちが苦々しい思いを持って、彼らを軽蔑するのは簡単です。

でも、イエス様がユダを神様に造られた人間として尊敬したように、私たちも、裏切り者を神様に造られた人間として、尊敬するべきです。

それでも、私たちは彼らの性格をよく知っているべきです。彼らの性格に関して、私たちは自分自身を騙してはいけません。そして、できるだけ、私たちは自分自身を守るべきです。

イエス様の人生を見ると、イエス様にはその習慣がありました。人々がイエス様を殺そうと思ったとき、イエス様はすぐに逃げました。ユダの場合だけ、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、イエス様の時間がやっと来たから。イエス様がこの世に来る目的は私たちの罪のために死ぬことです。

でも一般的に神様は、私たちが相手からの虐待を受けることを要求しません。だから、できるだけ、その人を避けてください。

もしなぜかその人を避けれらないなら、あなたの「盾」をいつも使ってください。つまり、彼らがいるとき、気を付けてください。もし、彼の性格をよく知っていて、自分の心を彼らの言葉や行為のために整えるなら、自分自身を守ることができます。

それでも、私たちは相手を許すべきです。さらに、私たちは彼を神様に造られた人間として尊敬するべきです。ペテロはこう書きました。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)

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ヨハネ13:6-11--私たちの足が洗われること

この話から、私はもう一つのポイントを言いたいと思います。

イエス様がペテロの足を洗おうとすると、ペテロはこう言いました。

決して私の足を洗わないでください。(8a)

イエス様が答えました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(8b)

そして、いつものように、ペテロは言い過ぎました。

主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。(9)

でも、イエス様は答えました。

水浴した者は、足以外は、洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたががたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。(10)

イエス様が意味したものは何ですか。「ペテロ、あなたが私を信じたので、あなたはもうきよいです。でも、毎日、あなたはこの人生を送ると、あなたの「足」は罪で汚れます。私はそれだけを清める必要があります。」

イエス様は私たちに同じことを言います。私たちがイエス様の前に来て、イエス様とその十字架の働きを信じると、イエス様は私たちの過去の罪のすべてをきよめてくださいます。

それでも、毎日私たちの心は罪で汚れます。私たちは自分の罪で、神様や、周りの人々を傷つけます。また、私たちの罪で、私たち自身も苦しみます。でも、私たちが救いをなくしたわけではありません。私たちはまだ神の子供です。

でも、毎日私たちはイエス様の前に来て、「私を赦してください。私の心を清めてください。」と祈らなくてはなりません。それは昔の罪のためではなく、当日の罪のためです。

ヨハネはこう書きました。

もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

正直に言うと、私の足を洗われるために、私はイエス様の前にもっと行かなくてはなりません。毎日私が罪を犯しても、私はよく反省せずに、告白しません。だから、その罪は私と神様との壁になります。

だから、毎日、イエス様の前に来て、私たちの罪を告白しましょう。イエス様の赦しを願いましょう。そうすれば、イエス様は真実な方なので、私たちをきよめてくださいます。

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ヨハネ13:1-17--私たちの模範

聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きに関して、いろんな生々しい描写を与えてくれます。

まず、神様はアダムとエバに、誰かが蛇の頭を踏みつけて潰すけど、そうするときに、その人の足は打たれる、と約束しました。(創世記3)

他の描写は、神様がアブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと命令したという話です。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に神様は彼を止めました。(創世記22章)

そして、神様の律法では、いろんないけにえや捧げものがイエス様を指していました。

それだけではなく、預言者イザヤはイエス様についていろんなことを預言したし(特に、イザヤ53章)、ダビデの詩篇もイエス様を指しました。(例えば22篇)

でも、イエス様が十字架で死ぬ前にもう二つの描写を与えてくださいました。一つ目のは、もちろん聖餐式です。(別の記事で、私はそのことについて話します。)

でも、二つ目のは、この個所にあります。それはとても美しい描写だと思います。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(4)

それは何の描写でしょうか。パウロはこう言いました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ5-7)

イエス様は神だったけど、ご自分を空しくしました。もちろん、イエス様はまだ神だったけど、栄光の上着を脱ぎ、人間になりました。それだけではなく、イエス様は王として来ないで、しもべのかたちをとりました。

パウロはつづけました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)

イエス様が自分自身を低くして、弟子たちの足を洗ったように、イエス様が自分自身を低くして、十字架で死んだので、今私たちの罪はイエス様の血によって洗われます。

だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようと思ったとき、イエス様は言いました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)

要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私がはあなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。私があなたの罪を清めないと、あなたは私と関係ないことになります。」ということです。

イエス様は彼らの足を洗うと、上着を着て、もう一度自分の席に戻って、彼らの主としてふるまいました。そのように、パウロはこう言いました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)

イエス様が弟子たちに訊いたように、私たちにも同じ質問を訊きます。

わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)

あなたは分かっているでしょうか。あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨てたか、また何をささげたか分かりますか。それが分かっているなら、イエス様はあなたにこう言います。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)

イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべでした。そして、イエス様は私たちにイエス様のようになるように呼びます。あなたもしもべでしょうか。

 

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ルカ22:24-30;ヨハネ13:1-17--本当のリーダーシップ

私は以前にも言いましたが、四つの福音書を統合するのは時々難しいです。多くの場合、著者たちは出来事を年代順位に伝えないし、時々話を伝える途中、ちょっと脱線するときもあります。最後の晩餐について読むと、私はそんな感じがします。

弟子たちが食べている時に、彼らは自分たちの中で、誰が一番偉いか議論していました。どうして、彼らがそのことについて話し始めたか分からないけど、もしかしたら、彼らが過ぎ越しの祭りを祝うために、二階の大広間に入ったとき、彼らは一人一人の席に関してケンカし始めたかもしれません。なぜなら、その文化では、イエス様の右に座っている人は最も偉い弟子と見なされたし、イエス様の左に座っている人は2番目だったということだから。そして、イエス様から遠く離れて座れば座るほど、弟子の地位は低くなりました。

だから、彼らは誰がイエス様の隣に座るべきかケンカしていたかもしれません。

もしかしたら、ペテロはこう言ったかもしれません。「俺はおまえたちのリーダーだよ。俺がイエス様の右に座るのは当たり前じゃん。」

そしてヨハネはこう言ったかもしれません。「でも、イエス様は俺の方が好きだよ。」

または、ユダは、「でも、俺はお金の担当でしょう。俺は一番偉いよ」

何分ぐらいイエス様がその喧嘩を見たか分からないけど、ようやく弟子たちはぼやきながら座りました。そして、イエス様はショッキングなことをしはじめました。

こんな状態では、食事の前に誰かが他の人々の足を洗う習慣がありました。その時代、皆はサンダルを履いていて、未舗装の道路を歩いたので、彼らの足はすぐに汚くなりました。普通は、しもべが弟子たちの足を洗ったはずだけど、しもべがいない場合、一番年下の人は弟子たちの足を洗ったはずです。だから、たぶんヨハネがそうするべきでした。でも、彼は何とかイエス様の隣に座ることができたので(ヨハネ13:23)、その席を譲って、しもべの仕事をすることが嫌でした。そして、その大喧嘩の後、ほかの弟子たちもそうする気はありませんでした。

イエス様は彼らを責める権利がありました。でも、その代わりに、イエス様は彼らに愛を示しました。

イエス様は、席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、彼は弟子たちの足を洗って、拭きました。

それを見て、弟子たちは恥ずかしかったでしょう。特に、イエス様がその仕事をしているのは、彼らのせいでした。彼らの中で、誰もその仕事をしたくなかったから。

イエス様はその仕事をし終わってから、座り、彼らに訊ねました。

わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(ヨハネ13:12-14)

イエス様は続けました。

異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。(ルカ22:25-27)

そして、イエス様は結論しました。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:15-17)

イエス様は彼らに何を教えたいと思ったでしょうか。イエス様は彼らを大きい責任を持つために選びました。ある日、イエス様は彼らに王権を委ねます。彼らはイスラエルの十二部族を治めます。また、彼らはイエス様の国でイエス様の食卓に着いて食べたり飲んだりします。

でも、イエス様が以前言ったように、リーダーシップとは、ただ人々に命令することというわけではなりません。本当のリーダーは人々に仕えます。だからイエス様は弟子たちの足を洗いました。そして、イエス様は私たちの罪のために死にました。

だから、私たちリーダーたちも同じことをするべきです。リーダーシップの祝福は、私たちの権利にありません。リーダーシップの祝福は、人々に命令することではありません。むしろ、リーダーシップの祝福は、イエス様と同様に人々に仕えることです。それが、本当のリーダーシップです。

あなたはリーダーシップをどのように定義するでしょうか。それは、人々があなたに仕えることですか。もしくは、あなたが人々に仕えることでしょうか。

 

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マタイ26:1-19;マルコ14:12-16;ルカ22:7-13ーー主のために部屋を整えること

この時から、イエス様は群衆の前にもう現れません。皆の前で、教えたり、奇跡を行ったりしません。イエス様は、もうすぐ自分が十字架で死ぬことをよく知っていました。でも、その前にイエス様は弟子たちと一緒に最後の食事をしようと思いました。

この話はちょっと微妙です。イエス様は奇跡的に、ある男性が都市で水がめを運ぶことを知っていたでしょうか。(その時代、女性たちだけがそんなことをしていました。)もしくは、その前にイエス様は、マルコ(それは、マルコの福音書のマルコ)の父と相談して、その合図を前もって決めたのでしょうか。

私は分からないけど、結局イエス様の弟子たちがその家に入るとき、その家の二階の大広間の席などはもう用意されていました。

興味深いのは、イエス様が生まれた時、宿屋に場所がなかったことです。でも、イエス様が死ぬ前に、イエス様のために用意された部屋があったということです。

あなたの心の状態はどうですか。あなたの心はイエス様のために用意されているでしょうか。

もしくは、あなたの心の中で、罪や自分の情欲が散らっているので、イエス様はあなたを用いることができないでしょうか。

イエス様、私の心の中で、あなたのためにいつもスペースがあるように。また、私の罪を清めてください。私を通してあなたの目的を果たしてください。私の人生をあなたの栄光のために用いてください。アーメン。

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マタイ26:1-16;マルコ14:1-11;ヨハネ12:1-11--本当の愛。偽の愛。

この話では、私たちはイエス様に対する二人の人の愛を見ます。でも、彼らの愛は全く違うものでした。

マリアの愛は、心から来ました。でもユダの「愛」は自分勝手な物でした。

イエス様はベタニアという町に行きました。その時、イエス様はシモンという人の家を訪ねました。その弟子たちとラザロとその姉妹たちマリアとマルタも来て、一緒に食事しました。

食べた後に、マリアはとても高価の香油をもって、イエス様の頭に注ぎ、足に塗って、自分の髪でその足をぬぐいました。

ユダはそれを見て、言いました。

どうして、子の香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(ヨハネ12:5)

他の弟子たちも同意して、同じことを言ったようです。

でも、ヨハネはユダの動機を説明します。

彼がこの言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(12:6)

でも、イエス様は答えました。

彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために、良いことをしてくれたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:6-9)

この言葉に対するユダの反応は何だったでしょうか。彼はイエス様を引き渡すために、祭司長たちのところへ行って、彼らから銀貨30枚をもらいました。

私たちはユダの動機が分かりません。でも、それがイエス様の叱責のためではないと思います。多分、もっと深い理由があったでしょう。もしかしたら、彼の愛は相手から何をもらえるかによったかもしれません。だから、もし自分のためにお金を盗むことができる限り、彼は喜んで貧しい者にお金をあげました。また、イエス様が王になりそうだと思う限り、ユダはイエス様に喜んで従いました。

でも何回も、イエス様は、王になることについてではなく、自分の死について話しました。もしかしたら、ユダはその話にうんざりして、「もし、死にたいと思うなら、死ね」と思ったかもしれません。だから、彼はイエス様を裏切りました。

でも、マリアは心からイエス様を愛しました。そして、ユダと違って、マリアはイエス様から何をもらえるかと思わず、イエス様に貴いものをささげたいと思いました。

私はヨハネの生々しい描写が大好きです。

家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

イエス様に対する私たちの愛は、そのようなものであるべきです。この世は、イエス様に対する私たちの愛の香りでいっぱいになるべきです。私たちの愛が明らかになれば、周りの人々はその愛を見逃さないはずです。

ユダがマリアを責めたように、私たちを責める人もいます。でも、イエス様にとって、私たちの愛は香油みたいなものです。

あなたはどうですか。あなたの愛は自分勝手なものでしょうか。イエス様から何をもらえるかしか考えないでしょうか。もしかしたら、あなたの愛は、イエス様にとって、また、この世界によって、すばらしい香りでしょうか。

 

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マタイ25:31-46--どうやっ て兄弟たちと姉妹たちを扱うか

イエス様は、この世の終わりに関する話をこのたとえ話で終えます。「大きいな患難」について話した後、イエス様は最後の裁きについて話します。その時、神様は国々を裁きます。そして、飼い主が羊をやぎからより分けるように、神様は人々をより分けます。

そのたとえ話の文脈を考えたら、たぶんイエス様が意味したものはこうです。大きな患難の時、たくさんのクリスチャンは迫害されるし、苦しみます。その時、ある人はイエス様を信じ、愛するので、そのクリスチャンたちを助けます。だから、イエス様は彼らを祝福し、神様の国に歓迎します。でも、クリスチャンを迫害する人、また、クリスチャンの苦しみに目をつぶる人は裁かれます。

でも、この話がほかの応用があると思います。大きいな患難はまだ来ていないけど、私たちがどのように兄弟たちや姉妹たちを扱うかによって裁かれます。

イエス様はこう言いました。

さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた、御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」(34-36)

その人々がイエス様に、「いつ私はそんなことをしたのでしょうか」と訊いたら、王は答えます。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。(40)

でもその兄弟たちを助けない人に、王はこう言います。

まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。(45)

私たちの兄弟たちや姉妹たちが苦しむときに、私たちはどうするでしょうか。神様の愛をもって、彼らに触れるでしょうか。私たちがそうすれば、実は私たちはイエス様に触れます。

でも私たちが彼らに目をつぶれば、実は私たちはイエス様に目をつぶってしまいます。だから私たちは裁かれます。

ヨハネはこう言いました。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子供たち。私たちは、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:16-18)

イエス様は私たちにたくさんのものを与えてくださいました。私たちに命を与えるために自分のいのちを捨てました。どうして私たちは隣人のためにそうしないでしょうか。

イエス様に目をつぶらないでください。イエス様は私たちの兄弟たちと姉妹たちのために死んでくださるほどに、彼らを愛しました。だから、彼らに手を伸ばして、触れましょう。

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マタイ25:14-30--忠実に仕えること

この個所の二つ目のたとえ話はイエス様が以前に教えた点を指します。つまり、イエス様がこの世に戻るまで、私たちは、神様が私たちに委ねた仕事を忠実にしなくてはならないということでです。

この話では、ある人は3人のしもべにお金を預けて、「このお金を投資しなさい」と指示しました。彼は最初のしもべに5タレントを預けました。(1タレントの銀は26-36キロぐらいでした。)そして、2番目のしもべに2タレントを預けて、3番目のしもべに1タレントを預けました。どうして、その主人はしもべたちに違う量を与えたでしょうか。その主人は、しもべたちのそれそれの能力に応じて、その銀を預けました。

そのように、神様は私たちに才能と財源を与えてくださいます。でも、私たちは同じものを与えられません。神様は、私たちに違う才能を与えて、その才能によって、何の資源を与えるか決めます。

また、この話のように、神様は私たちがその才能と財源をちゃんと使うことを要求します。もし、私たちが忠実にそうすれば、神様は私たちにこう言います。

よくやった。良い忠実なしもべだ。お前はわずかなものに忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(21)

この話では、主人は二人のしもべにそう言いました。でも、もう一人のしもべは、その銀を投資せずに、地面に穴を掘り、その銀を隠しました。だから、その主人が戻ると、そのしもべはその預かった銀だけを返しました。

どうして彼はそうしたでしょうか。多分彼は自分の主人を敬わなかったから。彼は主人が不公平だと思いました。つまり、主人が何もせずに、働き手の労働のゆえに儲かるということです。そして、しもべがその銀を投資しても、主人が彼に報いをちゃんと与えてくれないと考えました。

多くの人々は神様をそのように考えます。彼らは神様をちゃんと重んじません。彼らは、神様が不公平だし、厳しすぎると思います。だから、彼らは、神様の国のために自分の才能や財源を投資をせずに、神様を責めます。でも、彼らの神様に対する文句は言い訳だけです。実は、彼らは自分自身のために生きたいと思っています。

主の日が来る前、つまり、イエス様がこの世に戻る前に、多くの人々はそのように思います。その時代、地震や飢饉や、戦争や、疫病が発生します。それを見て、人々は自分の罪を悔い改めずに、神様を責めます。

でも、イエス様が戻ると、彼らは自分の言い訳と批判が間違っていたとわかります。むしろ、神様が公平な方なのに、彼らは自分がわがままだし、怠けものだし、罪深いということが分かります。だから、彼らは裁かれます。

信仰の部分は、神様が良い方であることを信じることです。私たちはいろんな災いを見るかもしれないけど、神様は悪くありません。私たちは不正を見るかもしれないけど、神様は不正な方ではありません。むしろ、この世の問題は私たちのせいです。でも、私たちの責任を認めずに、神様を重んじないで、神様を責めれば、私たちはいろんな言い訳を作って、私たちが任せれらたものを忠実に使いません。

あなたはどうですか。あなたは神様についてどう思うでしょうか。あなたの人生を通して、神様を重んじるでしょうか。また、神様があなたに任せたものを忠実に用いて、あなたはこの世に触れているでしょうか。

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マタイ25:1-13--準備すること

25章では、二つのたとえ話を通して、イエス様は先に教えたことを重視します。つまり、私たちが目を覚まして、イエス様の戻りを待ち望まなくてはならないし、イエス様が命令したように私たちは忠実に仕えなくてはなりません。

この一つ目の話では、多くの人々がすべての細かいことも解釈したいので、時々彼らは言い過ぎると思います。

でも、この話の要点は、私たちは目を覚まして、準備して、イエス様の戻りを待ち望むことです。なぜなら、私たちが予想しないうちに、イエス様は戻るから。

この話では、住人の娘はそれを学びました。花婿が花嫁の家に行って、そしてその二人が帰ると、婚礼の祝宴が始まる予定があったので、皆は待っていました。でも、なぜかその二人は遅れたので、彼らがやっと来た時、10人の娘たちは寝ていました。その娘たちが起きると、彼らのともしびは消えそうだったので、彼女らは油がもっと必要でした。5人の娘たちは余分な油を持っていたので、そのともしびを整えました。でも、ほかの5人たちは余分な油を持っていなかったので、油を買いに行かなくてはなりませんでした。

でも、彼女らが帰ると、家の戸が閉じられたので、彼女らは入ることができませんでした。

イエス様の要点は何だったでしょうか。ある人々は花婿の戻りのために準備していたと思ったけど、実は彼女らはちゃんと準備していませんでした。でも、ある人々は、ちゃんと準備していました。ちゃんと準備した人々は婚礼の祝宴に参加できたけど、準備していない人々は参加できませんでした。それに、彼らは家に入ることもできませんでした。

イエス様が戻るとき、多くのユダヤ人はその愚かな娘のようです。彼らはメシアのためにずっと待ち望んでいます。あるユダヤ人はちゃんと準備しています。つまり、彼らがイエス様をメシアとして認めて、聖霊に満たされたので、イエス様が戻ると、神の国に入ることができるということです。

でも、あるユダヤ人たちはちゃんと準備していると思うけど、実は準備していません。そしてイエス様が戻ると、彼らはそのことが分かります。その時、彼らはやっと、イエス様がメシアだとわかります。でも、彼らは手遅れで、神の国に入ることができません。

ユダヤ人たちだけではなく、ユダヤ人ではない人もそれを経験します。

多くの人々は自分がクリスチャンと言い張ります。でも、彼らは本当にイエス様を主と救い主として受け入れていません。彼らの見かけが敬虔であっても、彼らは敬虔の力を否定する者です。(第二テモテ3:5)

彼らはイエス様に従うと言うけど、自分自身のために生きています。

だから、イエス様が戻ると、彼らは自分の心が整っていないとわかって、神の国に入ることができません。

あなたはどうですか。イエス様の戻りのために準備しているでしょうか。一つの道しかないのです。パウロはこう言いました。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)

あなたはどうするでしょうか。

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マタイ24:36-51;マルコ13:32-37;ルカ21:34-36--いつも整えた心を持つこと

多くのクリスチャンたちは、いつイエス様が戻るか気になります。だから、多くのクリスチャンたちはいつイエス様が戻るか予測しようとしました。私が高校生の時、ある本が出版しました。そのタイトルは「1988年にイエス様がきっとこの世に戻る88の兆候」でした。

もちろん、イエス様は1988年に戻りませんでした。でもその著者はがっかりせずに、ほかの本を書いて、もう一度イエス様の戻りを予測しました。

なぜか、その著者のように、多くのクリスチャンたちはイエス様の言葉を無視します。

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。(マルコ13:32)

神様は自分の計画を立てました。でも神様は、私たちに、いつイエス様が戻るか教えてくださいませんでした。

でもイエス様は自分の戻りに関するしるしを教えました。また、私たちに「目を覚ましなさい。自分の心を整えなさい」と警告しました。イエス様はこう言いました。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)

残念なことだけど、多くのクリスチャンはその言葉も無視します。

前回の記事でも私は言いましたけど、イエス様はこの個所で同じことを四回繰り返すので、私も繰り返してもいいと思います。

多くのクリスチャンは、いつイエス様がクリスチャンたちを集めて、天国に連れていくか議論します。大きな患難の前にイエス様は私たちを集めるでしょうか。その患難の途中で、私たちを集めるでしょうか。その患難の後に私たちを集めるでしょうか。

私はその疑問が大切ではないとは言いません。でも、いつイエス様が戻るかという疑問よりも、イエス様が戻るときに私たちの心がもう整ったかという疑問は、もっと重要です。もし、あなたの心がいつも整っているなら、イエス様がいつ戻っても、あなたはびっくりしません。

それがイエス様のポイントです。だから、イエス様の戻りの細かいことについて議論する前に、自分自身にこの質問を聞いてください。

「もし、イエス様が今日戻っても、私の心は整っているだろうか。私はイエス様の御心に従っているだろうか。もしイエス様が今日戻るなら、私に何を言うだろうか。」

それは一番大切な質問です。

では、あなたの心はもう整ったでしょうか。

 

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マタイ24章;マルコ13章;ルカ21:5-38--私たちの主が戻るまで

この個所では、イエス様は、自分が帰るまでどんな出来事が起こるか説明します。そして、イエス様の言葉によれば、この世界はだんだん悪くなる一方です。実は、最終的にとても大変な状態になります。戦争があったり、地震やいろんな災害が発生したりします。そのトラブルのゆえ、偽の預言者が現れて、希望のメッセージを伝えるけど、彼らはたくさんの人々をだましてしまいます。

おまけに、反キリストも現れます。

その結果は?迫害です。特にユダヤ人たちもイエス様に従う人も迫害されるので、多くの人々は自分の信仰を捨ててしまいます。今、多くの人々は自分がクリスチャンであると言い張るけど、イエス様に従わずに自分の道を行きます。でも、迫害の時代が来ると、そんな「クリスチャン」はいなくなると思います。迫害される前に、彼らが自分の「信仰」を捨てると思います。

そして、周りの邪のゆえ、多くの人の愛が冷えます。信頼関係は少なくなるし、人々は周りの人々、特にクリスチャンたちを裏切り始めます。そして、ほかの災害が発生するので、人々はもっと怖がります。でも、この災いのピークを迎えると、イエス様が現れて、邪悪なものを終わらせて、神の国はやっと来ます。

その言葉を言った後、イエス様は私たちを励ますけど、私たちに警告もします。

最初の警告は、偽のキリストが来ることです。イエス様がこの世に戻ると、イエス様が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るので、全世界はイエス様を一斉に見ます。だから、噂を信じてはいけません。しるしや不思議を行う偽のキリストも現れます。でも、その人を信じてはいけません。なぜなら反キリストも、しるしや不思議を行い、たくさんの人々をだますから。(第二テサロニケ2:3-9)

そして、イエス様は、私たちがその大変の試練に直面しても希望を失わずに、イエス様を待ち望み、神様の御心に従いつつけるように励まします。イエス様はこう言いました。

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(ルカ21:28)

要するに、迫害や災害などが起こっても、思い悩まないでください。絶望しないでください。なぜなら、その出来事はイエス様の戻りのしるしだから。

でもイエス様は私たちに警告します。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカ21:34)

その試練が来るとき、周りの不正を見ると、絶望に落ちるのは簡単です。だから、イエス様は、私たちが絶望に落ちないように気をつけなさいと言いました。

また、邪悪なものを見るとき、私たちは皮肉的な心を持つことに注意しなくてはなりません。「イエス様は帰らないなあ」と思い始めてはいけません。むしろ、イエス様を待ち望み続けましょう。また、イエス様に仕え続けましょう。そうすれば、あなたは報いを得ます。でも、そうしないと、あなたは懲らしめられます。(マタイ24:46-51)

もしかしたら、あなたは、「この話は私に関係ない」と思うかもしれません。なぜなら、その試練が来るとき、また、反キリストが来る前にあなたがもうイエス様とともにいると思うから。

前にも私が言ったように、私もそれを信じたいです。でも、もし反キリストを見て、あなたが間違えたことが分かるようになるなら、この言葉を覚えていてください。

そして、どんな試練に直面しても、どんなに苦しんでも、主が戻るまで、イエス様を待ち望み、忠実に仕えましょう。

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マタイ24:1-35;マルコ13:1-31;ルカ21:5-33--将来を現すしるし

前回の記事では、私はこの個所はとても難しいと言いました。一つの理由は、マタイとマルコとルカは同じ話を伝えるけど、その話を統合するのが難しいということです。

イエス様が神殿が破壊されると言ったとき、弟子たちは衝撃を受けて、いつそれが起こるか訊きました。また、世の終わるときのしるしがどのようなものか訊きました。

彼らの視点を考えてみてください。その質問を訊いたとき、彼らはまだイエス様が十字架で死ななくてはならないし、よみがえられなくてはならないことが分かりませんでした。さらに、よみがえられた後にイエス様が天国に帰らなくてはならないことがさっぱりわかりませんでした。だから、彼らがイエス様が来られることに関して訊いたとき、その質問は、いつイエス様が天国から戻るかという意味ではありませんでした。たぶん、彼らが意味したものは、いつイエス様が自分の国を建てるかということでしょう。

彼らは子供の時から、「主の日」に関して、何回も聞いたことがありました。その日、主は国々を裁き、イスラエルは王国としてもう一度確立されます。

でも、イエス様は彼らに神殿が破壊されると伝えました。その前だと、確かに主の日が来ることはないでしょう。

それに、その週の初めに、イエス様と弟子たちがエルサレムに着いたとき、多くの人々は「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」と叫びました。

だから、弟子たちは本当に混乱していました。

とにかく、ルカによれば、イエス様は、将来に偽のキリストが来たり、戦争や、いろんな災害が発生したりすると言いました。でも、それが起こる前に、イエス様は、彼らが迫害されるし、殺されると言いました。使徒の働きを読めば、それを見ることができます。

また、彼らが捕まえられたとき、イエス様が約束したように、聖霊様が彼らに何を言うべきか教えたので、彼らの敵は彼らのあかしをどうやって反ばくするかわかりませんでした。

そしてイエス様は彼らに、「軍隊がエルサレムを取り囲むとき、すぐに逃げなさい」と警告しました。なぜなら、エルサレムは破壊されて、人々は捕虜になるから。イエス様が言ったのは、妊娠している女性たちにとって、その日がとてもひどい時になるということです。

西暦70年に、イエス様の預言は成就しました。そのとき、ほとんどのクリスチャンたちはイエス様の警告を覚えていて、逃げましたけど、ほかのユダヤ人たちはエルサレムに残りました。なぜなら、彼らはエルサレムが一番安全なところだと思ったから。でも、イエス様が言った通りに彼らは殺されたり、捕虜になったりしました。

そして、マタイとマルコは、「荒らす忌まわしいもの」について話します。ダニエルはその出来事を預言しました。アンティオコス4世エピファネスという人はダニエルの預言を成就しました。彼は ゼウス の偶像を神殿に立てて、祭壇の上に豚を捧げました。(神様の律法によれば、豚は汚れたものです。)

西暦70年には、そんな出来事がなかったけど、ある聖書学者たちは、ローマ人たちが神殿に入ったとき、彼らが違う方法で神殿を汚して、そのようにイエス様の預言を成就したと思います。私はその意見に同意します。

イエス様はその出来事に関して、こう言いました。

それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。(マルコ13:19)

最近まで、私はイエス様が西暦70年の出来事について話していなかったと思いました。なぜなら、反キリストが来ると、クリスチャンたちがもっと苦しむと思っていましたから。でも今、私はその確信がありません。なぜなら、歴史を読むと、エルサレムが倒れたとき、そのユダヤ人たちの苦しみは本当にひどかったから。

それでも、たぶんその2000年前の出来事は、将来のしるしだと思います。実は、その出来事は現代の出来事を指していると思います。今なお、私たちは戦争や、戦争のうわさを聞きます。私たちは飢饉や、地震や、いろんな災害を見ます。私たちは偽のキリストを見ます。また、私たちはクリスチャンに対する迫害を見ます。

さらに、イエス様がこの世の戻るまで、その出来事が続きます。でもイエス様が戻ると、天に現れて、全世界はイエス様を見ます。その時、イエス様は、自分の民を呼んで、集めます。(マタイ24:30-31)

多くのクリスチャンたちは、反キリストが来る前にイエス様が自分の民を呼んで、彼らが決して反キリストを見ないことを信じています。

私はそれを信じたいです。でも、その考え方は間違っていると思います。

でも、そのことについて何を信じても、一つのポイントを覚えていてください。

エルサレムに関するイエス様の預言は全部成就しました。今なお、イエス様のほかの預言は成就しているところです。だから、イエス様はきっとこの世に戻ります。イエス様はそう約束したから。

イエス様はこう言いました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(ルカ21:33)

だから私たちがどんなに苦しんでも、私たちの心を準備して、イエス様を待ち望みましょう。

 

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マタイ24:1-2;マルコ13:1-2;ルカ21:5-6--私たちの神殿が堕落すると

この個所は、聖書の中で最も難しい個所の一つです。あなたがこの個所の解釈を全部望むかもしれないけど、正直のところ、私も知りたいのです。だから残念なことだけど、このブログには、すべての答えがあるというわけでもありません。

だからいつものように、私ははっきりしたことに焦点を当てたいと思います。また、この個所が私たちの人生とどいう関係があるか話たいと思います。

今日、どうしてイエス様はこんなことについて話し始めたか見ていきましょう。イエス様がパリサイ人たちと律法学者たちと議論した後、イエス様の弟子たちは神殿を見て、こう言いました。

先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。(マルコ13:1)

もちろん、うわべを見ると、神殿はとても美しい建物でした。でも、イエス様はすぐに彼らの熱心に水を差しました。

この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。(マルコ13:2)

イエス様が言った通りに、神殿は崩れました。西暦70年に、神殿は攻撃されて、火事が始り、屋根から金が融けて、壁のひびに入ってしまいました。だから、将軍はその金を取るために神殿の石の一個ずつ倒すように命令しました。

どうして、神様はそんなことを許したでしょうか。なぜなら、その神殿のうわべが美しかったのに、その神殿の中には、いろんな堕落があったから。もちろん、神殿で良いことも起こったけど、堕落が多すぎたので、結局その神殿はもう立ち続けることができませんでした。神殿には欲張りもあったし(だからイエス様は業者たちを追い出した)、「私たちは神様に仕える」と言った祭司たちが神様に会った時、神様を認識しませんでした。イエス様が彼らの間に立っていたけど、彼らはイエス様を神様として認識せずに、イエス様を殺したいと思いました。

我々クリスチャンは神の神殿です。でもどれぐらい私たちは有名なクリスチャンが、またそのミニストリーが、堕落のために倒れることを見たことあるでしょうか。彼らは倒れるだけではなく、彼らとそのミニストリーも全く崩れてしまいます。

でも、彼らを裁く前に、私たちの神殿を見なくてはなりません。私たちの神殿には、何があるでしょうか。堕落があるでしょうか。欲張りがあるでしょうか。偽善があるでしょうか。嫉妬があるでしょうか。プライドがあるでしょうか。こんなものは、エルサレムの神殿にありました。それらは、あなたの神殿に入っているでしょうか。

他の物もあなたの神殿を汚すことができます。情欲とか、苦々しい思いとか、相手を許さない心は私たちの神殿を汚すことができます。

その反面、愛や憐れみなどはあなたの神殿に入っているはずだけど、そのものはあなたの神殿に入っているでしょうか。

周りの人々が私たちの神殿を見るとき、素敵な神殿だと思うかもしれません。私たちはクリスチャンの模範に見えるかもしれません。でも、私たちの神殿が堕落するなら、結局その神殿は倒れて、その堕落は丸見えになります。

あなたの神殿に何が入っているでしょうか。

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マルコ12:41-44;ルカ21:1-4--神様が何を求めているか

パリサイ人たちを厳しく責めた後、イエス様はちょっと座って、神殿で献金箱を通り過ぎる人々をそっと見ました。

金持ちも来て、とても目立つ方法で大金をその献金箱に入れました。たぶん、それを見ると、イエス様の顔は渋くなったでしょう。人々は相次いでその献金箱にお金を入れたけど、たぶんイエス様の顔はだんだん暗くなったでしょう。

でも次に、一人の貧しいやもめがその箱の隣に止まって、ほかの人々と違って、レプタという硬貨を二枚入れました。レプタはあまり価値がありませんでした。たぶん、二枚のレプタで、彼女は小麦粉をちょって買えて、小さいパンを焼くことができたでしょう。でも、その代わりに、彼女はそのレプタを献金箱に入れました。

もしかしたら、彼女はほかの人々の献金を見たので、そのレプタを入れたときに、ちょっと恥ずかしかったかもしれません。でも、彼女は神様に愛と感謝を持って、そのお金を入れました。

たぶん、イエス様がそれを見ると、彼の顔は明るくなったでしょう。だから、イエス様は彼女を指して、弟子たちにこう言いました。

まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。(マルコ12:43)

弟子たちはそれを聞くと、驚いたでしょう。たぶん、彼らはイエス様にこう言いました。「どいうことですか。イエス様、彼女はお金を少ししか入れなかったけど。」

でもイエス様は言いました。

皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(マルコ12:44)

パリサイ人たちと律法学者たちを批判した後に、イエス様がそのやもめを褒めることは偶然ではなかったと思います。イエス様は彼らを偽善者と呼びました。なぜなら、彼らの行為は周りの人々を感動させるためだったから。

だから、イエス様はそのやもめを見たとき、彼は弟子たちに言いました。「見ろ。神様はそんな人を探しているのです。」

神様はどんな人を探しているでしょうか。神様に属する心を探しています。

彼女は、周りの人々が彼女に関してどう思ったか全然気になりませんでした。彼女は自分の持ち物にしがみついていませんでした。

むしろ、彼女は神様にこう言いました。「私はあなたのしもべです。私のはちょっとしかないですけど、それをあなたに捧げます。」

あなたはどうですか。あなたはそのような心を持っているでしょうか。イエス様はあなたを見ると、「この人の心は神様に属する」と言えるでしょうか。

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マタイ23:29-28--神様に遣わされた人々を拒絶すると

叱れるのが好きな人は誰もいません。

「君は間違っている」と言われるのが好きな人もいません。

でも、そう言われると、あなたはどう反応するでしょうか。

パリサイ人たちは彼らの先祖たちの例に従いました。彼らは懲らしめられたとき、その言葉を聞かず、悔い改めずに、神様に遣わされた人々を攻撃しました。

彼らはイエス様に反対し、殺してしまいました。その後、彼らは弟子たちに反対し、彼らを殺そうと思いました。それでも、彼らはこう言いました。「私たちが自分の先祖なら、私たちは一切預言者たちを殺さなかっただろう。」

だから、イエス様は彼らにこう言いました。

蛇よ。まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。だから、見よ。私は預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。(33-36)

それで、イエスは泣いて、こう言いました。

エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。今から後、「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に」とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(37-39)

最終的にそれは起りました。イエス様を殺した世代の人々が生きているうちに、イスラエルは倒れたし、その神殿が破壊されて、今なお再建されていません。

私たちが神様に遣わされた人々を拒絶すると、何が起こるでしょうか。私たちの人生は潰れてしまうし、私たちは裁かれます。

神様はそれを見て、全然喜びません。神様はそれを見て、泣きます。でも、私たちが自分の主としてイエス様を認めるまで、私たちは決して命と平和を知りません。

ソロモンはこう書きました。

愛する者が傷つけるのは誠実による。(箴言27:6)

真実は厳しいかもしれません。真実を聞くのは辛いかもしれません。でも、真実を受け入れると、私たちは癒されます。

あなたが叱られるとき、どうするでしょうか。

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マタイ23:25-28--内側を清めること

この個所では、イエス様はパリサイ人たちや律法学者たちを厳しく責め続けます。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。(25-28)

それは非常に厳しい批判ですね。多くのユダヤ人たちはパリサイ人と律法学社を正しい人と見なしました。でも、イエス様は彼らの心の汚れを暴露しました。彼らの強欲や放縦や偽善を全部暴露しました。イエス様は彼らを白く塗った墓を呼びました。彼らの外側はきれいだったけど、内側に腐っている骨がありました。

でも、あなたはどうですか。イエス様があなたの心を見るなら、何と言うでしょうか。あなたを白く塗った墓を呼ぶでしょうか。イエス様は、あなたを外側がきれいで、内側は汚い杯と呼ぶでしょうか。

仮面をかぶるのはとても簡単なことです。実は、ギリシャ語では、「偽善者」という言葉のもとの意味は「役者」でした。でも、神様はあなたの外側だけを見ずに、あなたの心も見ます。その時、神様は何を見るでしょうか。

また、あなたが自分の心を見るとき、何を見るでしょうか。神様が見苦しいと見なすものを見るでしょうか。あなたには、周りの人々の罪を見るけど、自分の罪が見えていないでしょうか。

あなたが神様の憐れみをどれだけ受けているのがわかるので、周りの人々の罪を見るとき、あなたは彼らに同情を感じるでしょうか。もしくは、あなたは彼らを責めて、「私は一切そんなことをしないだろう」と思うでしょうか。

あなたの心の中に、何が入っているでしょうか。あなたの杯から何を清めなくてはならないでしょうか。

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マタイ23:23-24--大切なものを覚えていること

日本は違うみたいですけど、最近アメリカ人が「クリスチャン」という言葉を聞くと、悪いイメージがよく思い浮かんでしまいます。

ある程度、それはイエス様を愛する人に対する当然の反応です。イエス様はこう言いました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。。。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ18:18,20)

でも時々、私はこう疑問に思います。「どうして、彼らはそんな悪いイメージを持っているだろうか。それは、私たちがイエス様に従うからだろうか。もしくは、私たちは一番大切なことを忘れていたからだろうか。」

アメリカのクリスチャンたちの多くは、毎週の日曜日に教会に行ったり、バイブルスタディーに行ったり、毎日聖書を読んだり、祈ったり、聖書的な価値観を周りの人々に伝えたりします。実は、イエス様の時代にも、そのような人がいました。それはパリサイ人たちと律法学者たちです。でも、イエス様は彼らに関して、こう言いました。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。(23-24)

ルカ11:24では、イエス様はもう一つのことを加えました。彼らは神への愛を持っていませんでした

またある時、イエス様は弟子たちにこう言いました。

互いの間に愛があるなら、その弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

だから、私たちが自分自身にこう訊くべきだと思います。私の人生は神様の愛と憐れみで印されているでしょうか。周りの人々が私たちを見るとき、私たちからの愛と憐れみを見ることができるでしょうか。私たちが彼らを愛しているのを知っているでしょうか。彼らに対する私たちの憐れみを見ることができるでしょうか。もしくは、ただ彼らを責める人を見るでしょうか。

私たちの職場では、周りの人々は誠実さのある人を見るでしょうか。また、忠実な人を見るでしょうか。もしくは、彼らはできるだけ仕事をサボる人を見るでしょうか。

もし、周りの人々には私たちの中で愛と憐れみと誠実が見えないなら、私たちは彼らの批判に値します。残念だけど私たちのせいで、彼らは決してクリスチャンにならないかもしれません。

神様は彼らを裁くけど、私たちをも裁きます。なぜなら、私たちの行動によって、「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」から。(第二サムエル記12:14)

あなたはどうですか。あなたの心から何が出ているでしょうか。愛?憐れみ?正義?誠実?神様はにとって、それは一番大切なことです。

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マタイ23:16-22--抜け穴

別の記事で、私はどうして律法主義がそんなに悪いか話しました。この個所では、私たちはもう一つの律法主義の悪い点を見ます。律法主義では、人々はいつも抜け穴を探しているわけです。彼らはその律法に文字通りに守っていると思うかもしれないけど、その律法の精神をたびたび避けてしまいます。

パリサイ人たちと律法学者たちは、たくさんの抜け穴を見つけていたと思いました。この個所では、イエス様は一つの例を指します。

律法によれば、神様に何かを誓うなら、その誓いをちゃんと守らなくてはいけませんでした。

でも、パリサイ人たちや律法学者たちは、その律法を解釈するとき、いろんなくだらないルールを作りました。

例えば、もしあなたが、神殿にかけて誓うなら、その誓いを守らなくてもいいです。でも、神殿の黄金にかけて誓うなら、その誓いを守らなくてはいけません。

また、もしあなたが、祭壇にかけて誓うなら、その誓いを守らなくてもいいです。でも、祭壇の上のささげものにかけて誓うなら、その誓いを守らなくてはいけません。

でも、イエス様はそのルールのくだらなさを指摘しました。なぜなら、神殿によって、黄金は聖なるものになったから。また、祭壇によって、そのささげものは聖なるものになりました。

だから、イエス様は彼らに言いました。「もし、あなたが神殿にかけて誓うなら、あなたはその神殿に住まわれる神にかけて誓うわけです。また、もし天にかけて誓うなら、神の御座、またその御座に座しておられる神に誓うわけです。」

イエス様のポイントは何でしょうか。

正しいことをしなさい。

神様が「私の名にかけて誓うなら、その誓いを守りなさい」と言ったとき、神様は「私の名に欠けずに誓うなら、その誓いを守らなくてもいい」ということを意味したわけではありませんでした。

もちろん誓いを守るのは大切ですけど、最も大切なのは、真実を言うことです。もし、あなたは何かをすると言うなら、それをちゃんとしなさい。

パリサイ人たちと律法学者たちは「神様に対する誓い」という言葉に集中しすぎて、「誓いをちゃんと守りなさい」という原則を見逃しました。

だから、彼らは「ブヨをこして除いた」。(神様に対する誓いを定義するのに、いろんなルールを作りました。)

でも、彼らはらくだを飲み込んでしまいました。」(彼らは何回も自分の誓いを破りました。)(マタイ23:24)

あなたはどうですか。あなたは、心から正しいことをして、神様を喜ばせたいと思うでしょうか。

もしくは、正しいことをするのが嫌なので、あなたはいつも抜け穴を探しているでしょうか。

あなたは抜け穴を見つけようと思って、その抜け穴を利用するなら、神様を喜ばせることができません。正しいことをしなさい。神様があなたに言ったことをしなさい。

 

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マタイ23:13-15--私たちの先生が悪い時

私は子供の時、「ベスト・キッド」という映画を見ました。それはもう30年前だったけど、まだ面白い映画だと思います。実は、今Youtubeで、その映画に基づく現代のシリーズを見ることができます。(多分それは英語だけだけど。)それも、とても人気です。

その映画では、ダニエルという人は、いつもある空手道場の生徒たちにいじめられていました。だから、ダニエルは空手を習いたいと思いました。あるとき、ダニエルは自分の先生に訊きました。「どうしてあいつらは、あんな振る舞いをするんだろう。」

その先生は答えました。「悪い弟子というものは存在しない。悪い先生だけが存在しています。」

私は完全に同意できませんけど、その言葉に真理が入っていると思います。

先生が悪いなら、その先生に従う人も同じ道を行きます。

この個所でも、私たちはそう学びます。イエス様はパリサイ人たちや律法の専門家を厳しく責め続けました。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナ(つまり、地獄)の子にするのだ。(13-15)

この律法学者たちやパリサイ人たちはいろんな欠点がありました。彼らは偽善者たちだったし、律法の細かいルールに凝っていたし、神様が大事にするものがよく分かりませんでした。その結果は何だったでしょうか。彼らの弟子たちもそのように振る舞いました。実は、その弟子たちはもっとひどくなったのです。クリスチャンになる前のサウロは一つの例でした。

それでは、私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。

もし、あなたが聖書を教えるなら、あなたの性格はどうですか。

ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しい裁きを受けます。(ヤコブ3:1)

ヤコブが主に私たちの教えについて話していると思うけど、私たちの人生についても話しています。私たちが教師なら、パリサイ人たちや律法学者たちと違って、私たちの教えと私たちの行為は合わなくてはなりません。(マタイ23:3)

だから、あなたが教師なら、あなたの教えと行為は合うでしょうか。もしくはあなたは偽善者のように生きているでしょうか。

そして、あなたが教えるとき、またあなたの人生を送るとき、神様の優先順位を覚えているでしょうか。正義と憐れみと誠実を覚えているでしょうか。

覚えていてください。神様はあなたの教えと行為によって裁きます。でも、それだけではなく、あなたが自分の弟子を忠実に訓練しないと、神様はあなたがが生み出した弟子を見て、あなたを裁きます。

でも、もう一つのことを覚えていなくてはなりません。あなたの先生はどんな人でしょうか。あなたの先生はどのように生きているでしょうか。どんなことを教えているでしょうか。もし悪い先生に従うと、あなたは彼が行っている道を行くと、大変なことになってしまいます。

教会で、あなたは誰を聞いているでしょうか。ポッドキャストを聞くとき、誰を聞いているでしょうか。誰の本を読んでいるでしょうか。先生たちは、自分の教えに責任を持つけど、あなたは何を聞くかに責任を持っています。

だから私は以前にも言ったことがありますが、もう一度繰り返します。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)

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マタイ23:1-12;マルコ12:38-40;ルカ20:45-47--リーダーシップに関する間違った考え方

リーダーシップというのは何でしょうか。

イエス様は、厳しくパリサイ人たちと律法の専門家を批判した時、本当のリーダーシップを定義しました。

まず、イエス様は弟子たちと群衆に警告しました。

律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで事項しないからです。(マタイ23:1-2)

この個所では、イエス様が彼らに教えたのは、そのリーダーたちの権威のある立場を尊重しなくてはいけないけど、彼らの行為をまねてはいけないということです。なぜなら、彼らの言葉と行為が合わなかったから。

もちろん彼らは律法の細かいルールや、いろんな宗教的な伝統に従ったけど、一番大切なこと、つまり、正義や憐れみや、誠実を忘れました。その態度は神様や周りの人々に対する彼らの態度に影響を与えてしまいました。

それに、その態度は、彼らのリーダーシップに関する考え方にも影響を与えてしまいました。彼らは人々に仕えずに、命令したいと思いました。

イエス様は彼らについてこう言いました。

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)

彼らはたくさんの律法やルールを人々の上に注ぎました。でも、その人々がそのルールを守れなくて、その罪悪感の重さで倒れ始めると、パリサイ人たちや律法学者たちは彼らを励まさず、彼らのために祈らず、彼らを助けないで、むしろ彼らを責めました。

また、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の立場を鼻にかけていました。彼らの聖句を入れる小箱は大きかったし、衣の房が(その房にも、神様の言葉が書いてあった)長かったので、周りの人々は彼らを見た時、本当に感動しました。「その人は本当に霊的な人だ」と思いました。

さらに、彼らはお金を儲けるために彼らの立場を利用しました。イエス様は「彼らはやもめたちの家を食い尽くします」と言いました。多分それは、パリサイ人たちがやもめの歓心を買って、やもめのお金を取ったという意味です。

それに、彼らは周りの人々に「先生」や、「父」と呼ばれるのは好きでした。なぜなら、それは彼らの高い立場のしるしだったから。

でも、イエス様は言いました。

しかし、あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。(マタイ23:8-10)

リーダーたちはそう覚えていてはいけません。肩書を持っているのはいいことだけど、実は、私たち皆は対等です。神様だけが私たちに対して優れた方です。

それでも、神様はしもべとしてこの世に来ました。イエス様は病気な人々を癒したし、情けない人々に良い知らせを伝えたし、十字架で、私たちの罪のための罰を受けて下さいました。リーダーたちはそんな態度を取るべきです。

だからイエス様はこう言いました。

あなたがたのうちで、一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:11-12)

本当のリーダーたちはしもべです。彼らは敬意や、栄誉や、お金を求めていません。むしろ、周りの人々に仕えるために全てをささげます。

あなたはどんなリーダーでしょうか。

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マタイ22:41-46;マルコ12:35-37;ルカ20:41-44--ダビデの子。神の子。

多分、イエス様はパリサイ人たちやサドカイ人たちの偽善的な態度にうんざりしたので、彼らを黙らせるためにこの質問を訊いたのだろうと思います。

あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。(マタイ22:42a)

パリサイ人たちや律法の専門家に対して、それはとても簡単な質問でした。だから彼は即答しました。

ダビデの子です。(マタイ22:42b)

そして、イエス様は彼らの「キリスト」(または、「メシア」)に対する考え方に異議を唱えました。イエス様はこう聞きました。

それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、「主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」」と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:43-45)

その答えも簡単です。イエス様は人の子(つまり、ダビデの子)のみならず、イエス様は神の子です。

人間として、イエス様はダビデの子孫でした。でも、神の子として、イエス様はダビデの主でした。

でもパリサイ人たちや律法の専門家はそのことが理解できませんでした。もしかすると、彼らは心の中で、そのことを理解したくないと思ったかもしれません。

今なお、多くの人々はパリサイ人たちと律法の専門家のように考えます。彼らはイエス様を人間として認めます。また、彼らは、イエス様が良い方だと認めます。もしかしたら、彼らは、イエス様が素晴らしい先生だと認めるかもしれません。

でも、彼らはどうしてもイエス様が神の子だとは認めません。

でも、イエス様は人の子だけではありません。イエス様は神の子です。だから、イエス様は私たちの愛や、信頼や、服従にふさわしい方です。さらに、イエス様だけが天の父への道です。

あなたはどうですか。イエス様についてどう思いますか。

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マタイ22:34-40;マルコ12:28-34--神の国に入りたいと思うと

イエス様を尋問する人たちの中で、一人の人がイエス様の言葉に感動しました。だから、彼はイエス様にこう訊きました。

すべての中で、どれが第一の戒めですか。(マルコ12:28)

イエス様は答えました。

第一の戒めはこれです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

第二の戒めはこれです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(マルコ12:29-31)

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。(マタイ22:40)

要するに、もしあなたは完全にその二つの戒めを守ることができるなら、実はすべての戒めを守ってしまうということです。なぜなら、すべての戒めは、その意二つの戒めに基づいているから。

イエス様に質問する人は、答えました。

先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。(マルコ12:32-33)

この人は、パリサイ人たちや律法の学者たちと違って、とても大切なことが分かったようです。それは、儀式的な聖さでは足りないということです。もし私たちは神様を喜ばせたいなら、律法に文字通りに従うべきだけではなく、律法の精神にも従わなくてはいけません。そして、私たちがその二つの戒めに従わないと、私たちのほかの良い行動には、全然意味がありません。

その人がそれがよくわかったので、イエス様は彼にこう言いました。

あなたは神の国から遠くない。(マルコ12:34)

イエス様が言っていないことに気づいてください。

イエス様は「ああ、良かった。あなたがそのことがよくわかっているから、天国にようこそ。」とは言いませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたは神の国から遠くない。」と言っていました。

どうしてでしょうか。

その人がもう一つのことがちゃんとわからなくてはならなかったから。それは何だったでしょうか。

それは、その二つの戒めに完全に守る人が誰もいないということです。だから、私たちには救い主が必要です。その人がその必要がわかって、イエス様を信じていたなら、イエス様はその人に、「神の国にようこそ」と言ったでしょう。

私たち皆、その真理がわからなくてはなりません。自分の良い行動によって、天国に入られる人は誰もいません。私たちが頑張っても、私たちは完全に神様を愛し損なうし、周りの人々を愛し損ないます。

そういうわけで、イエス様はこの世に来ました。イエス様は十字架で私たちの罰を受けてくださいました。でも三日目にイエス様はよみがえられました。だから、イエス様を信じてこそ、私たちは救われます。

あなたはイエス様を信じていますか。もしイエス様をあなたの主としてまだ受けていないなら、今日そうしませんか。

イエス様、私は罪を犯しました。私は心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くしてあなたを愛していませんでした。隣人を自分自身のように愛していませんでした。むしろ、私の行為を通して、私はあなたを傷つけたし、周りの人々も傷つけました。許してください。あなたが十字架で私の罰を受けてくださり、感謝します。私の主になってください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

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マタイ22:23-32;マルコ12:18-27;ルカ20:27-40--聖書と神様の力が分からないと

ある英語の子どもの歌は、サドカイ人たちをこのように描写しました。

I don’t want to be a Sadduccee. (サドカイ人になりたくないよ。)
’cause, a Sadduccee is sad, you see. (だって、サドカイ人たちは情けない人たちだから。)

それはちょっとくだらないだじゃれだけど、ちょっと真実が入っています。

最終的に、彼らは希望を持っていない人でした。なぜなら、彼らは復活を信じなかったから。彼らが死ぬと、彼らの命は終わりだと思いました。その考え方は、神様に関する彼らの思いや、自分の人生に関する思いや、聖書に関する思いに影響を与えてしまいました。

彼らは神様の力がわからなかったし、神様の愛がわかりませんでした。彼らには、神様が私たちと一緒に永遠に生きたいと思うというコンセプトが全然ありませんでした。

彼らは、墓に入ると彼らの命が終わりだと思ったから、この世のものに執着しました。つまり、力とお金に執着したということです。

そんな考え方は、彼らの聖書の理解にも影響を与えてしまいました。彼らは聖書の最初の5冊だけを受け入れました(創世記から申命記まで)。彼らは預言者たちの書や詩篇などを神様の言葉として受け入れませんでした。

だから、彼らはイエス様のところに行って、パリサイ人たちを混乱させた質問をイエス様に訊きました。とてもくだらない質問だったけど、その時代のユダヤ人たちの文化では、万が一(億が一と言えるでしょうか)その話が実際になる可能性がありました。

サドカイ人たちはこう訊きました。

先生。モーセは、「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」と言いました。ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。(マタイ22:24-28)

それはとてもくだらない疑問でしょうね。それはあり得ないと思います。

とにかく、イエス様は彼らに結構厳しく答えました。

あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の175御使いたちのようです。(マタイ22:29-30)

そして、イエス様は出エジプトからの個所を引用しました。サドカイ人たちがその個所をよく知っていたはずだけど、彼らは決してその言葉を深く考えなかったでしょう。だから、イエス様の言葉は彼らにぐさっと来たでしょう。イエス様はこう言いました。

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(31-32)

神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とおっしゃいませんでした。神様は、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。今なお、わたしは彼らの神である。」

要するに、アブラハムやイサクやヤコブの魂はまだ生きていました。だから、イエス様はサドカイ人たちが受け入れた聖書の個所から復活を証明して、彼らの議論を潰してしまいました。

それでは、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。神様を私たちが作った箱に入れてはいけません。サドカイ人たちは神様をそんな箱に入れてしまいました。彼らは神様の力がわからなかったので、神様がが人々を復活させることができないと思いました。

どうして、彼らは神様の力がわからなかったでしょうか。なぜなら、彼らは聖書が正しくわからなかったから。

だから、私たちがサドカイ人たちのようにならないように。聖書を勉強し、理解するように頑張りましょう。

もし聖書が神様に関する私たちのアイデアに反対するなら、サドカイ人たちと違って、その言葉を捨てずに受け入れましょう。そうすれば、私たちは神様をもっと知るようになり、神様ともっと親しい関係ができます。

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マタイ22:15-22;マルコ12:13-17;ルカ20:20-26--神様の物を返すこと

私は税金を支払うのが大嫌いです。毎年の三月に確定申告を書き込むのはとても大変です。その時、お金を返してくれるけど、六月になると、税金はとても大変です。私はマンションを買ったので、そのために毎年税金を支払わなくてはならないし、市民税や県民税も支払わなくてはなりません。

税金を支払うのが好きな人などいないと思います。でも、イエス様の時代では、ユダヤ人たちは特に支払いたくありませんでした。なぜなら、彼らはイスラエルを征服していたローマ帝国に支払わなくてはなりませんでしたから。

だから、パリサイ人たちとヘロデ党の者たちは、イエス様を罠に陥れるための完璧な疑問があったと思いました。

彼らはこう訊きました。

先生。私たちは、あなたがお話になること、教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。(ルカ20:21-22)

もしイエス様は払わなくていいと言うと、ヘロデ党の者たちがローマ帝国にその言葉を伝えて、イエス様は反逆者として捕まえられたでしょう。

その反面、イエス様が税金を払うべきだと言うと、ユダヤ人の間で、イエス様の人気は減ってしまったでしょう。

でもイエス様は彼らの動機をよく知っていました。だから、もう一度イエス様は彼らの質問に別の質問で答えました。

まずイエス様は彼らに税金を払う用の銀貨の一個を見せてくれるように頼みました。そして、イエス様は彼らに訊きました。

だれの肖像と銘がありますか。(ルカ20:24)

彼らは、「カエサルのです」と答えました。

すると、イエス様は言いました。

では、カエサルのものはカエサルに、神のものは、神に返しなさい。(ルカ20:25)

イエス様が意味したものは何でしたか。

「あなたはカエサルのお金を使っているでしょう?カエサルのお金を使ったら、実は、そのお金はカエサルに属する物でしょう?だから、カエサルに属するものを返しなさい。」

しかし、イエス様は続けました。

「でもあなたたちは、より大切なことを覚えていなくてはいけません。神様に属するものを神様に返しなさい。」

その言葉を通して、イエス様はローマの主張を巧みに反ばくしたし、ユダヤ人たちに大切な教訓を教えました。

ローマ帝国はカエサルが神だと主張しました。実は、その銀貨にその言葉がそう書いてありました。でもイエス様ははっきりとカエサルと神様を区別します。

「カエサルという人間に、彼に属するものを返しなさい。でも本当の神に、神に属するものを返しなさい。」

でも私はイエス様の二つ目のポイントについて話したいと思います。ローマの帝国の銀貨に、カエサルの肖像と銘が彫られたように、私たちに、神様の肖像と銘が彫られています。

聖書によれば、神様は人をご自身のかたちとして創造されました。(創世記1:26-27)

そして、パウロはこう言いました。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(第二コリント3:3-4)

神様は自分の名前を私たちの心に書いて、私たちが神様に属するものであることを明らかにしました。時々、私たちに彫られた神様の肖像は、私たちの罪のため歪んでいるけど、パウロはこう書きました。

私たちはみな。。。鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられています。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

それでは、私は何を言おうとしているのでしょうか。

私たちは神様に属するものです。だから、私たちは神様に属するものを返さなくてはなりません。それはただのお金ではありません。それは私たちの命です。

あなたは神様に属するものを神様に返すでしょうか。

 

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マタイ22:1-14--神様の国はいること

この話では、イエス様は私たちがイエス様を拒絶する危険性を警告し続けます。

このたとえ話では、ある王は自分の息子のために結婚の披露宴を催して、たくさんの人々を招待しました。でも、その日が来た時、そのお客さんたちは色々と理由をつけて来ませんでした。

王はもう一ど彼らにしもべを遣わしたけど、彼らは気にもかけずに、自分の用事であっちこっちに行きました。

さらに、ある人々はそのしもべを捕まえて、侮辱し、殺してしまいました。

この話は以前の話のように、イスラエルの描写です。でもそれだけではなく、この話は福音に対する多くの人々の反応の描写です。神様は自分の国に入るように私たちを招待します。神様は私たちのためにすべてを整えました。私たちがしなくてはならないことは行くことだけです。でも、たくさんの人々はその招待を軽んじて、自分の道を行き続けます。さらにある人は神様のメッセンジャーを侮辱し、迫害します。

その結果は?裁きです。死です。

でも、この話には、どんでん返しもあります。王様はほかの人々を招待して、彼らが来てから披露宴は始まりました。でもその人々の間で、婚礼の礼服を着ていない人がいました。彼は傍若無人で、その王の要求を無視して、普通の服を着ていました。だから、その王は彼の所に行って、言いました。

友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。(12)

その人には良い言い訳がなかったので、彼は「人が泣いて歯ぎしりする暗闇」に放り出されました。(13)

そのように、多くの人々は神様の招待を聞いて、神の国に入ろうと思います。でも、彼らは神様の条件を認めず、自分の道で入ろうと思います。

神様の条件は何でしょうか。ヨハネは私たちに伝えます。

その証とは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)

要するに、神の国に入りたいと思うなら、イエス様を着なくてはならないということです(ガラテヤ3:27)。「イエス様を着る」とは、どういう意味でしょうか。イエス様をあなたの主として受け入れなくてはなりません。そうすると、神様は私たちを見るとき、私たちの罪を見ずに、キリストの義を見ます。なぜなら、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払いましたから。

でも、多くの人々はその条件を受け入れたくないと思います。彼らは自分の道で神の国に入ろうとします。でも、そうすると、神様の招待とイエス様の十字架の働きを軽んじてしまいます。

私たちはそうしてはいけません。そうするなら、私たちは神様を侮辱します。

だからあなたは選択があります。あなたは神様の条件を受け入れ、神の国に入ることができます。または、あなたは自分の道を行って地獄に行くことができます。別のオプションはありません。

あなたはどうですか。神様の条件を受け入れて、神様に近づこうと思うでしょうか。もしくは、自分の道で神様のところに来ようとしているでしょうか。

 

 

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マタイ21:33-46;マルコ12:1-12;ルカ20:9-19--私たちの基礎を拒絶すると

イエス様はユダヤ人のリーダーたちに不信を責めた後、彼らが悔い改めないとどうなるか警告しました。

このたとえ話は、イザヤ書5章に似ています。イザヤ書の箇所では、神様は自分が造ったぶどう園について話しました。そのぶどう園は北イスラエル王国とユダ王国を表しました。その話でも、イエス様の話でも、その主人が受け取るはずのぶどうを受け取りませんでした。でも、イエス様の話では、イエス様は特に農夫たちを責めました。

もちろん、その農夫は、預言者たちとイエス様を拒絶したユダヤ人のリーダーたちを表していました。彼らはイスラエル人の霊的な健康を守る責任を持っていました。その仕事をちゃんとしていたら、イスラエルは霊的な実を結んだでしょう。でも、彼らは堕落して、その責任を果たしませんでした。

どうしてでしょうか。神様を重んじずに、自分自身のために生きたから。彼らはお金や、力や、人からの栄誉に執着しました。そのリーダーたちが自分の責任を果たさなかったので、イスラエルが実を結ばないのは、当然のことでした。

だから、神様は彼らにしもべを送りました。イスラエルの歴史の中で、神様は何回も預言者たちを遣わしました。彼らはイスラエル人たちに警告したし、訓戒しました。でも、何回も、そのリーダーたちは預言者たちを拒絶して、迫害しました。時には、彼らはその預言者たちを殺してしまいました。

イエス様がユダヤ人たちに、主人がその農夫をどうするか訊くと、彼らは答えました。

その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば、収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。(マタイ21:41)

それでも、ユダヤ人たちはそんな悪者が存在することに驚きました。だから彼らは「そんなことが起こってはなりません。」と言いました。(ルカ20:16)

でも、イエス様は答えました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には、不思議なことだ。」

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42-44)

イエス様が意味したものは何ですか。イエス様はすべてのものの基礎です。イエス様は要の石です。要の石とは、建物の一番最初の据えられた石を意味します。その石はとても大切でした。その石がちょっと歪むなら、その建物の姿の全体は歪んでしまうでしょう。写真を見て、歪んだ要の石を想像してください。その建物の姿はどうなるでしょうか。)

とにかく、そのビルは要の石の周りに建てられました。そのように、神の国、また私たちの人生はイエス様の周りに建てられなくてはなりません。でも、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を拒絶したので、神の国はそのリーダたちが軽蔑した人々に与えられました。つまり、収税人や、売春婦や、異邦人に与えられました。なぜなら、その人たちはイエス様に向かって、彼らの救い主として受け入れましたから。でも、そのリーダーたちは裁かれて、すべてをなくしてしまいました。

あなたはどうですか。あなたの人生を何の上に建てているでしょうか。お金でしょうか。持ち物でしょうか。力でしょうか。この世のものでしょうか。もしくはイエス様でしょうか。イエス様はあなたの要の石でしょうか。

神様はあなたの命を与えてくださいました。あなた自身や、あなたのものは神様に属しています。そして、神様は自分の国のためにあなたから実を要求します。でも、自分自身のために生きているなら、その実を結ぶことができません。そして、そのユダヤ人のリーダーたちのように要の石を拒絶すると、あなたは裁かれて、すべてをなくしてしまいます。

あなたは誰のために生きているでしょうか。

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マタイ21:23-32;マルコ11:27-33;ルカ20:1-8ーーあなたの間違った考え方を認めないと

私たちの考え方が間違ったと分かるとき、時々それを認めるのは難しいです。私もそれを認めたくありません。どうしてでしょうか。プライドがあるから。「私は間違った」と言うのは難しいので、謙虚な態度が必要です。

でも、私たちの神様との関係や人々との関係を守りたいと思うなら、私たちはその謙虚な態度が必要です。

イエス様の時代の宗教的なリーダーたちはそんな態度を持っていませんでした。イエス様は何回も彼らの間違った考え方を指摘したけど、彼らはそれをどうしても認めませんでした。特にイエス様の最後の週に(つまり、十字架に行く前に)、私たちはそれを見ることができます。

イエス様が神殿から業者たちと両替人を追い出した後、祭司長たちや民の長老たちがイエス様の所に来てこう訊きました。

何の権威によって、これらのことをしてるのですか。だれがあなたにその何の権威を授けたのですか。(マタイ21:23)

いつものように、イエス様は彼らの質問を別の質問で答えました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。(マタイ21:25)

それを聞かれたら、彼らは板挟みになってしまいました。

彼らが「天から」と答えると、イエス様は「では、どうしてヨハネの言葉を信じなかったでしょうか。彼は私がメシアであることを言いました。もし、その言葉を受け入れるなら、私の権威がどこから来るかよくわかるでしょう。」と言ったでしょう。

その反面、彼らが「人から」と答えると、周りの群衆は彼らに怒ったでしょう。なぜなら、彼らはヨハネが本当の預言者だと信じましたから。

だから、彼らは「分かりません」と答えました。

そして、イエス様は「もし私の質問に答えてくれないのなら、私もあなたの質問に答えません。」と言いました。

そのあと、イエス様は彼らにたとえ話を語りました。その話では、あるお父さんには二人の息子がいました。そのお父さんが長男に何かを頼んだとき、最初はその息子は「それをしたくない」と答えたけど、最終的にその仕事をしました。

でも次男は訊かれたとき、最初は「はい。します。」と言ったけど、最終的にその仕事をしませんでした。

このたとえ話では、イエス様はこのリーダーたちをイエス様が触れた罪人たちと比べました。

このリーダーたちは正しい人たちに見えたけど、心の中では神様に背きました。

彼らがバプテスマのヨハネを見た時、彼が頭がおかしいと思いました。でも彼らがすぐに分かったのは、ヨハネのミニストリーを通して、たくさんの人々の人生が変わったということです。だから、神様はきっとヨハネを通して働いていました。でも、そのリーダたちは自分のプライドのゆえに、ヨハネを拒絶しました。

そして、彼らはイエス様を見ました。彼らは、イエス様の奇跡を見たし、イエス様の教えを聞いたけど、イエス様を拒絶しました。イエス様が彼らの間違った考え方を暴露して、彼らがイエス様の議論に反ばくできなくても、彼らは自分の考え方にしがみつきました。

その反面、このリーダーたちに見下された罪人たちはあえて神様に背いて、人々をだましたり、自分の体をセックスのために売ったりしたりしましたけど、ヨハネとイエス様の言うことを聞くと、彼らは謙虚に自分の罪を認めて、悔い改めました。

だから、イエス様はそのリーダーたちにこう言いました。

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。(マタイ21:31)

あなたはどうですか。あなたが間違ったとき、それを認められるでしょうか。プライドはあなたの人間関係を壊します。でも、もっと大変なのは、プライドがあなたの神様との関係を壊すということです。

だから、謙虚な心を保ちましょう。相手に訓戒されたら、その言葉を受け入れましょう。私たちが間違ったとき、すぐにそれを認めましょう。そうしないと、そのリーダーたちのように、私たちは周りの人々から距離を置かれたり、神様から離れたりしてしまいます。

 

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ヨハネ12:44-50--イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言うけど、イエス様を信じていません。

でも、あなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この個所では、イエス様はこう言いました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じるということです。イエス様を見ることとは、神様を見るということです。

そして、イエス様はこう言いました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だからイエス様の言葉を聞くこととは、神様の言葉を聞くということです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えるから。だから、あなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、実は、あなたは神様の言葉を拒絶するのです。さらに、イエス様を拒絶するなら、実は、あなたは神様を拒絶するのです。

だからイエス様はこう言いました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。イエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけます。でも、イエス様を拒絶すると、あなたは暗闇と裁きを見つけます。

あなたはどうするでしょうか。

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ヨハネ12:42-43--誰からの栄誉を求めるか

聖書の中で、これは最も切ないの言葉の一つです。

しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じたものが多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。(42-43)

この個所では、私たちは隠れた信者たちを見ます。彼らはイエス様の奇跡を見たり、その教えを聞いたりして、イエス様を信じるようになりました。でも、彼らは誰にもそう言いませんでした。なぜなら、彼らは会堂から追放されたくないと思ったから。その文化では、会堂から追放されるとは、ユダヤ人の社会から追放されることでした。

でも、彼らの決断が表したのは、彼らが神様を喜ばせるよりも、周りの人との歓心を買いたいと思ったということです。

もし、サタンがあなたがクリスチャンになることを阻止できないなら、あなたが自分の信仰を周りの人々に伝えることを阻止しようとします。どうやって、サタンはそうするでしょうか。サタンはあなたに訊きます。「もし周りの人々に伝えたら、彼らはどう反応するだろうか。」

時々、その反応は明らかです。あなたの友達や、家族はあなたを拒絶するでしょう。その議員たちは、その板挟みに直面しました。イエス様のことを信じると言うと、彼らは会堂から追放されたでしょう。

でも多くの場合、私たちは相手がどう反応するかわかりません。しかし、私たちは悪い反応を恐れます。私が中学生と高校生の時、私はそう感じました。私が高校生二年生の時まで、私がクリスチャンであることを友達に伝えませんでした。なぜなら、私は彼らの反応を恐れたから。

でも神様は私たちがそのように生きることを望みません。神様は私たちが周りの人々に触れるに望みます。でも、私たちが恐れに支配されたら、私たちはそうできません。

私たちの信仰のために私たちを拒絶する人がいます。全ての人が私たちを愛するわけでもありません。イエス様が完全な人なのに、彼を憎んだ人がいました。どうして私たちは違う反応を期待するでしょうか。

だから、相手が私たちを拒絶することを心配しないでください。私たちの信仰を大胆に伝えて、その結果を神様に委ねましょう。

イエス様の言葉を覚えていましょう。

ですから、誰でも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を知らないと言います。(マタイ10:32-33)

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ヨハネ12:27-41--遅すぎる前に

時々、人々はイエス様に従うことを延ばします。なぜなら、彼らは「後でそれができる」と思うから。でもそうすれば、危険性があります。

この話では、イエス様は十字架を考えた時、腹をくくって叫びました。

父よ。御名の栄光を現してください。(28a)

そして、天の父は皆の前で答えました。

わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。(28b)

イエス様の周りの人々はその声を聞いたけど、正しく聞いていないようです。

ある人々は「雷が鳴ったのだ。」と言いました。

「天使があの方に話しかけた」と言う人もいました。

どうして彼らは天の父の言葉が分からなかったのでしょうか。

ヨハネは解説します。

それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。

「主よ。私たちが聞いたころを、誰が信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。

「主よ。彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(38-41)

私は以前の記事でその個所を説明したけど、基本的に、彼らが天の父が分からなかった理由は、彼らがもうイエス様に対する頑なな心を持っていたということです。

ある人にとっては、イエス様が以前大工の仕事をしていたから、そのイメージは彼らのメシアというイメージに調和していませんでした。

他の人々がイエス様を拒絶する理由は、イエス様が彼らを宗教的な偽善者として現したということです。

また、イエス様の教えが彼らの伝統と宗教的なルールに反対したから、イエス様を拒絶する人もいました。

だから、イエス様が奇跡を通して、自分のメシアの資格と自分の言葉の真実さを証明しても、彼らは、「悪魔の力でその奇跡を行った」と言い張りました。

この話では、彼らは「まさかそれが神様の声とは思えない。それはただ私の想像でしょう。きっとその音は雷だろう」と言いました。

でも、彼らが自分の目と耳を閉じれば、閉じるほど、彼らの心は頑なになって、もっと霊的に盲目になりました。

だから、イエス様はもう一度彼らに警告しました。

もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。(35-36)

要するに、「あなたの時間は短いです。すぐにあなたの心を開かないと、あなたは永遠に盲目になってしまいます。あなたがまだできるうちに、私と私が持っている光を信じなさい。」ということです

イエス様はあなたに同じことを言っています。人々がイエス様のもとに引き寄せられて救われるために、イエス様は地上から上げられて、十字架でかけられました。

でも、あなたが目と耳を閉じ続けるなら、最終的にその真理が目の前にあっても、あなたはその真理が認識できません。そうなら、あなたにとっては、救いのチャンスはなくなります。

だからパウロはこう言いました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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ヨハネ12:12-26--仕えるのに

イエス様のエルサレムへの目立つ入場のため、また、イエス様が神殿から業者たちや両替人を追い出したゆえに、エルサレムのいたるところに、イエス様は話題になりました。だから、初めてエルサレムに来た人たちがイエス様に会いたいと思ったのは驚くようなことではありません。

この話では、ユダヤ人になろうと思っているギリシャ人たちは、イエス様に会いたいと思いました。多分、ピリポがギリシャ語の名前だから、彼らは最初にピリポのところに来ました。だから、ピリポはアンデレと一緒にその人々をイエス様のところに連れて行きました。(アンドレはしばしば人々をイエス様に紹介しました。)

イエス様は彼らに会ったとき、こう言いました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(23-24)

イエス様は自分の死と復活について話していました。イエス様がこの世に生きている限り、彼のミニストリーはイスラエルまでの限定されたものでした。でもイエス様が死んで、復活した後、聖霊を通して、イエス様の働きは世界中に広がって、全ての国と民族に触れました。

でも、イエス様は続けました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は当たり前のことを言ったし、結構逆説的なことを言いました。

当たり前のことは?イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなくてはいけません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様にいるところにいなくてはいけません。

もしあなたがいつもイエス様から離れているなら、イエス様に仕えるのは難しいのです。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望むことを見なくてはいけません。

でもイエス様と共にいたいと思うなら、時々あなたが愛する者や、執着するものをも残さなくてはなりません。だから、イエス様は逆説的なことを言いました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。」

もちろん、私たちがすべてを憎まなくてはいけないわけでもありません。でも時々、イエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものをの残さなくてはなりません。

例えば、イエス様は「あなたの国を出て、別の所に行きなさい」と言うと、私たちは従わなくてはなりません。

もしイエス様は「あなたの現在の給料が高いけど、その仕事を捨てて、私に仕えなさい」と言うと、イエス様の国のために私たちは従わなくてはなりません。

時々イエス様についていくために、私たちの人生は全く変わってしまいます。時々私たちは犠牲を払うことがあるでしょう。でも、私たちがイエス様のところにいないと、私たちはちゃんと仕えることができません。

でも覚えていてください。その犠牲と変化はとても痛いかもしれないけど、最終的にその甲斐があります。

私は日本に引っ越した時、そのことを学びました。私には全然ハワイを出る予定がありませんでした。でも実は、日本に来ると、私はもっと幸せになりました。イエス様についていって、日本に来ると、私は命を見つけました。

イエス様についていくと、あなたも命を見つけます。

あなたはどうですか。イエス様にいるところに、あなたもいるでしょうか。

 

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マタイ21:18-22;マルコ11:20-25--私の信仰の強さは?

信仰。

実は、私は自分の信仰はあまり強くないと思います。特に、祈るときに私の信仰があまり強くないと思います。私は祈るとき、信仰をもって祈るでしょうか。「信仰をもって祈る」とは、どういう意味でしょうか。

イエス様が呪った木が枯れると、弟子たちはとても驚きました。彼はイエス様に訊きました。

どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。(マタイ21:20)

イエス様は答えました。

神を信じなさい。(マルコ11:22)

「神様を信じなさい」とは、どういう意味でしょうか。私たちは何を信じているでしょうか。

一つ目は、神様が良い神ということです。神様は私たちを愛する天の父なので、私たちに良い賜物だけをくださいます。だから、私たちがパンを願うと、神様は石を与えるようなことはしません。また、私たちが魚を願うと、神様は蛇を与えるようなことはしません。

二つ目は、神様は私たちの祈りを聞くということです。小さい願いでも、神様は聞いてくださいます。私たちの問題が大きくても、小さくても、私たちが祈ると、神様は聞いてくださいます。

三つめは、神様が私たちの祈りにかなえる力があるということです。私たちの願いは、神様にとって難しいものではありません。

四つ目は、神様が私たちを祝福したいと思うということです。良い理由がないなら、神様は私たちに良いものを与えてくださるのを控えることはなさいません。

五つ目は、神様は私たちのために計画を持っているということです。そして、その計画は良いものです。

その五つことを覚えていながら、イエス様の次の言葉を読みましょう。

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求める者は何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。(マルコ11:23-24)

この個所のため、神様に何を頼んでも、神様がその祈りをかなえなくてはならないと思う人がいます。

でも時々、私たちが魚やパンに見えるものを頼むけど、実際にそれらは石や蛇です。例えば、私たちはある男性や女性と結婚するように祈るけど、十年後に私たちは神様がその祈りにかなえてくれなかったことを感謝するようになります。

または、私たちは良いことのために祈るけど、神様はより良いものを整えています。例えば、私たちが新しい仕事のために祈るけど、神様はそれより良い仕事を与えてくださいます。

だから、信仰をもって祈っても、神様がその祈りをかなえてくださるとは限りません。

でも、普通はそれは私の問題ではありません。私の問題は、神様が本当に私を祝福したいと思うことを信じないことです。

例えば、私の現在の職場はとてもいいです。私の以前の職場よりも十倍ぐらいより良い職場です。でも、その学校に応募するとき、私はいろんな疑いを持っていました。実は、数年前、その同じ場所で私は不採用になりました。それに何回も私は良い仕事のために祈ったけど、かなえてくださいませんでした。

でも、私があまり信仰がなくても、神様の恵みによって私は採用になりました。

また、私はがんにかかった人のために祈りました。お医者さんたちはその状態がもうだめだと言ったけど、たくさんの人々は祈りました。私も祈ったけど、あまり希望を持っていませんでした。もちろん、神様が私の友達を癒す力を持っていると信じるけど、癒してくださるかどうかわかりませんでした。結局その二人とも亡くなりました。でも、神様は一人の命を5年ぐらい伸ばしてくださいました。

とにかく、私は何を言おうとしているでしょうか。

神様は信仰を見て喜ぶし、祈りに応えるけど、私たちの信仰の強さにはあまり関係ないです。私たちの信仰が小さくても、神様が応えてくださるときもいっぱいあります。

それでも、私はもっと希望をもって、祈った方がいいとも思います。なぜなら、神様は私を助けられるし、実際に私を助けてくださいますから。

だから、私はよくこう祈ります。

「あなたを信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

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マタイ21:12-22;マルコ11:11-25;ルカ19:45-48--実のない木

多くの人々はこの話を読むと、イエス様の行為がわかりません。いちじくのなる季節ではなかったのに、どうしてイエス様は実の結んでいない木を呪ったでしょうか。

聖書学者たちは、いろんな意見を持っています。一つの意見は、過ぎ越しの祭りの時、普通のいちじくの木が人が食べられる芽を結んだことです。もしかしたら、イエス様はそんな芽を探していたかもしれません。でも、木にそんな芽がないなら、多分、いちじくのなる季節が来ても、その木は実を結ばないでしょう。

その意見が正しいかどうかわからないけど、筋が通った話だと思います。

とにかく、マルコの福音書によれば、イエス様はいちじくの木を呪って、エルサレムに入って神殿を清めて、エルサレムから帰っている途中で、弟子たちがその木が枯れたことに気づきました。だから、そのいちじくの木を通してイエス様は弟子たちに何かを教えたいと思ったようです。それは何でしょうか。

いちじくの木が実を結ばないゆえに裁かれたように、イスラエルが霊的な実を結ばないゆえに裁かれることです。神殿で、私たちはそのことが見ることができます。

イエス様のミニストリーの初めにも、イエス様は神殿を清めました。イエス様は牛や羊を売っている人々を追い出したし、両替人を追い出しました。なぜなら、その場所まで、外国人たちは入って礼拝できたから。彼らが神殿のより近くに来るのは禁止されていました。でも祭司たちはその所を市場としました。それに、たくさんの人々は、その業者や、両替人に騙されました。

その場所が神殿なのに、祭司たちはそうしました。

だから彼らの修行や、宗教的な熱心が堕落したものであることは明らかでした。

さらに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶するだけではなく、イエス様を殺そうと思いました。だから、イスラエルは裁かれました。ローマ帝国の将軍タイタスは、その神殿を破壊しました。今なお、その神殿は再建されていません。どうしてでしょうか。神様がずっと愛と恵みをイスラエルに注いだのに、彼らは実を結ばなかったから。

でも、神様の行為は実を結ばないわけでもありません。ユダヤ人たちがイエス様を拒絶したので、福音はこの世界に浸透しました。そして、ある日、ユダヤ人もイエス様を信じるようになります。(ローマ書11章)

でも、私たちは自分自身にこう訊くべきです。私たちの人生は何の実を結んでいるでしょうか。私たちの体は神様の宮です。その宮は実を結んでいるでしょうか。

私たちは周りの人々に影響を与えているでしょうか。もしかしたら、この世界に執着して、私たちの宮は汚されているでしょうか。ユダヤ人たちの祭司たちのように、私たちはお金に執着しているでしょうか。他の世の物に執着しているでしょうか。もしそうなら、私たちが実を結ばないので、裁きの日に私たちの功績は燃えてしまいます。

私たちが実のない木にならないように。私たちは実を結びましょう。聖霊に満たされて、私たちは周りの人々に神様の愛で触れましょう。

 

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マタイ21:1-11;マルコ11:1-11;ルカ19:28-44;ヨハネ12:12-19--私たちに平和を与えるもの

この個所で、イエス様はエルサレムにようやく着きました。そして四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよくわかると思います。彼らは叫んでいました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため多くの人々は、「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と訊きました。そして、ほかの人たちは答えました。「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ。」(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々はまだ、ラザロの復活について話していたことです。(ヨハネ12:17-18)

最初は、パリサイ人たちはイエス様に言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

でも、イエス様がその願いを断ると、彼らはつぶやきました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

でも、イエス様がエルサレムに近づいてその都市を見た時、喧噪の中で、イエス様は泣いてこう言いました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、その聖書に書かれている出来事が起こりました。タイタスというローマの将軍は、エルサレムとその神殿を破壊しました。

どうして神様はそれを許したでしょうか。なぜなら、ユダヤ人たちは神の訪れの時を認識しなかったから。だから、彼らは神様の平和を逃しました。彼らの心の中の平和を逃したし、神様との平和を逃しました。

そのように、神様が私たち一人一人に来ると思います。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがなくても、全ての人々は神様のことがわかります。彼らは星空を見て、また、周りの自然を見るとき、多分聖霊様は、彼らの心にこう言うでしょう。「これは偶然じゃないですよ。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

もしくは、教会で、彼らはイエス様について聞くかもしれません。または、彼らの友達はイエス様について教えてくれます。

その時、彼らは分かれ道に立ちます。彼らはどうするでしょうか。彼らは聞いて、従うでしょうか。もしくは、その言葉を拒絶するでしょうか。神様に従うと、彼らは神様との平和と永遠の命を知ります。でも、彼がその言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうですか。今神様はあなたを呼んでいます。今日は救いの日です。今日イエス様を受け入れませんか。

イエス様、私は罪を犯しました。私は自分の道を行って、あなたを傷つけました。それに、私は周りの人々を傷つけたし、私自身をも傷つけました。私を赦してください。あなたが十字架で私の罪のために死んでくださることを信じます。あなたが三日目に蘇られたことを信じます。あなたの愛を感謝します。私を救ってください。私の王になってください。私の主になってください。私はこれからあなたに従います。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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マタイ21:1-11;マルコ11:1-11;ルカ19:28-40;ヨハネ12:12-16--主がお入り用なのです。

私たちはイエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この個所では、一つのプレースは私の心を打ちました。イエス様は弟子たちにこう言いました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従がうと、その持ち主たちは訊きました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちがイエス様が指示したように答えたので、持ち主たちはその子ろばを貸してあげました。

それを読んで、私は思いました。「主が私に「私はこれが必要です」と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。彼は経済的に苦しんでいるから。」と言ったとしたら、私はすぐに「はい、あげます。」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに行っている途中、誰かにばったり会って、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい。」と言ったとしたら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時間が来たよ。私に仕えるために別のところに行きなさい」と言うと、私は「はい。行きます。」と答えるでしょうか。

もしくは、私が持っているものにしがみつくでしょうか。

実は、私はわかりません。振り返ると、たぶん何回もイエス様は「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だから。」と言ったけど、私は断ってしまいました。

「私は忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要です。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様のところに行って、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちもそうしなくてはなりません。イエス様が私たちに「これが必要です。」と言うと、私たちはそのものをイエス様にささげて、イエス様を私たちの王としてあがめなくてはなりません。

私はそうするでしょうか。

あなたはどうするでしょうか。

主よ。時々、あなたは「私はこれが必要だ」と言ったのに、私は断りました。赦してください。特に、あなたに私の時間をささげないときも多いです。あなたが私のお金や時間や人生の王になるように。私の優先順位を整理することを助けてください。毎日、私があなたを主としてあがめるように助けてください。アーメン。

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ルカ19:28;ヨハネ11:55-57--本当の聖さ

前回の記事で、私たちは王を拒絶する人に関するたとえ話を読みました。今日の話では、私たちはイエス様が指した人々を見ます。

イエス様がエルサレムに近づいていて、多くの人々は過ぎ越しの祭りをお祝いするためにもう来ていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。

どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)

なぜ彼らはそう訊きましたか。

祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)

実は、それは本当に皮肉なことでした。どうしてでしょうか。

過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちはちゃんと自分自身を清めなくてはなりませんでした。つまり、彼らが儀式的に清められなくてはならなかったことです。(ヨハネ11:55)

でも、祭司たちとパリサイ人たちは儀式的に清められたのに、彼らは心の中で、イエス様を殺そうと思いました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。聖さは、儀式的なものだけではないことです。聖さは、教会に行ったり、聖書を読んだり、献金をささげたりすることだけではありません。

本当の聖さは、イエス様を王として受け入れる事から始まります。「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や私の努力で、私は清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」

ヨハネはこう書きました。

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

私たちが神様に受け入れられるように望むなら、他の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとに行って、イエス様の救いの御業を信じなくてはなりません。そうしてこそ、私たちは神様の目に清められます。

あなたはどうですか。あなたは本当に清められるでしょうか。

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ルカ19:11-28--キリストを拒絶することを主張すると

このたとえ話では、もう一つの大切なポイントがあります。

イエス様はこう言いました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。。。一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と伝えた。さて、彼は王位を授か[りました]。(12,14-15)

実は、このたとえ話は実話を基にしています。ヘロデ大王が亡くなったとき、彼の息子ヘロデス・アルケラオスは王位を授かるためにローマに行きました。(なぜなら、ローマの皇帝はイスラエルの本当の支配者だったから)。

でも、ユダヤ人たちは大使を皇帝アウグストゥスに送って、「ヘロデス・アルケラオスが私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と言いました。

最終的に、ヘロデス・アルケラオスは、ユダヤを支配したけど、王位を授かることができませんでした。

そのように、イエス様は天の父から王位を授かるのを待っています。でも今なお、多くの人々はイエス様を憎んで、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と言います。でもヘロデス・アルケラオスの場合と違って、彼らがそれを望もうが望むまいが、イエス様は王になります。

そして、彼らがイエス様に反対することを主張すると、たとえ話の人たちのように彼らは裁かれます。

あなたはどうですか。あなたはイエス様をあなたの王として受け入れているでしょうか。それを望もうが望むまいが、イエス様は王になります。だから、イエス様に反対するために裁かれるよりも、イエス様にあなたの人生を捧げた方が良いでしょう。

私は、地獄の話であなたが怖がることを望みません。神様の愛と恵みは、もっと幸せな話です。そらに、神様はあなたを本当に愛しています。神様との和解ができるように神様は、イエス様をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪のために、イエス様は十字架で死んでくださいました。

でも、神様の賜物を拒絶すると、また、イエス様をあなたの王として拒絶するなら、あなたは裁かれます。

ヨハネはこう書きました。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神様のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)

あなたは選択しなくてはいけません。あなたはどうするでしょうか。

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ルカ19:11-27--私たちが待っているうちに

ルカによれば、イエス様がこのたとえ話を教える理由は、「イエス様がエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていた」ということです。(11)

つまり、イエス様は彼らの間違った考えを吹っ飛ばしながら、正しい考えを彼らの心に植えたいと思ったことです。だから彼はこう言いました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。(12-13)

イエス様は、どのような間違った考えを覆したいと思ったのでしょうか。それは、神の国がすぐに来るということです。

王になる前に、イエス様は罪の問題に取り組むために十字架で死ななくてはなりませんでした。イエス様は死んで、復活した後、天国に帰って天の父の右に座りました。そして、聖書によれば、今イエス様は「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。」(へブル人への手紙10:13)

だから、いまだに私たちはイエス様の帰りを待っています。

それでは、イエス様が帰るまで、私たちはどうしたらいいでしょうか。

私たちはイエス様に忠実に仕えるべきです。イエス様は弟子たちの心にその考えを植えたいと思いました。神の国のために、まだたくさんの仕事をしなくてはいけません。

このたとえ話では、王は十人のしもべに同じ金額を与えました。そして、彼は彼らに、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言いました。

そのお金は何を象徴しているでしょうか。多分、それは私たちの救いです。そのしもべたちはそのお金のために働きませんでした。王は、彼らにをそのお金を預けて、彼らは投資しなくてはなりませんでした。

そのように、私たちが働かずに、神様の恵みによって救いを与えられました。でも、私たちはその救いを持って、神様の国のために働くべきです。

パウロはこう言いました。

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ2:12-13)

私たちが与えられた救いを投資するとは、どういう意味でしょうか。私たちが受けた救いを持って、周りの人々に投資することです。私たちは自分の救いを喜ぶだけではなく、周りの人々にその救いをシェアする心が必要です。彼らのために祈るべきです。彼らに仕えるべきです。また、彼らに対して、私たちはイエス様の目と口と耳と手になるべきです。イエス様が帰るまで、私たちはそうしなくてはいけません。

そうすれば、私たちは報いを受けます。どんな報いを受けるでしょうか。私たちは神様の国のために、もっと大きい責任をもらいます。

多くのクリスチャンたちは神様のために素晴らしいことをしたいと思います。でも、彼らが受けた救いを周りの人々にシェアしないなら、神様はもっと大きい責任を与えるでしょうか。

さらに、最後のしもべのように、彼らが神様の国のために投資しないと、イエス様が帰ると、彼らは叱責されます。

パウロはそんな人に関して、こう言いました。

その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:15)

あなたはどうですか。あなたが受けた救いで、何をしているでしょうか。

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ルカ19:1-10--私たちのせいで

これはとても有名な聖書の話ですけど、今日私がこの個所を読んでみると、今まで読み過ごしていた個所が私の心を打ちました。

[ザアカイ]はイエス様がどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。(3)

ザアカイは取税人でした。現代でも、多くの人々は税務署が嫌いかもしれないけど、イエス様の時代では、ユダヤ人たちは取税人が大嫌いでした。以前にも私は言いましたけど、取税人はユダヤ人たちが憎んだローマ帝国と協力したし、自分の民をだましました。だから、ユダヤ人の間では彼らは全然人気者ではありませんでした。

それでも、ザアカイはどうしてもイエス様を見たいと思いました。なぜでしょうか。

多分、彼はたくさんのお金を持っていたけど、彼の心はまだ空っぽでした。でも、ザアカイがイエス様を見ると、イエス様の中で違うことを見ました。つまり、命と希望を見ました。

でも群衆のため、ザアカイにイエス様が見えませんでした。

多分、その群衆の中には大勢の信心深い人々がいたでしょう。多分彼らは神様を愛していたでしょう。でも、彼らのため、ザアカイにイエス様が見えませんでした。

ザアカイは背が低い人でした。もちろん、大勢の人々がいました。でも、もしザアカイが無理矢理にイエス様のところに行こうとしたら、ザアカイは群衆の反応を予想できたでしょう。彼らはザアカイだと認めれば、たぶん彼を通らせなかったでしょう。

だから、ザアカイは木に登りました。でもザアカイを見て、イエス様はこう言いました。

ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(5)

もし、ザアカイが人々の彼に関する意見について疑いがあれば、彼らの反応はその疑いを吹っ飛ばしたでしょう。彼らは文句を言いました。

[イエス様]は罪人のいところに行って客となった。(7)

でも、ザアカイがイエス様の愛に触れたので、彼の心は変わりました。だから彼はこう言いました。

主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。(8)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれだけその群衆のようにふるまうでしょうか。私たちは神様を愛していると言うかもしれません。また、イエス様に従うと言うかもしれません。でも、私たちのせいで、周りの人々にイエス様が見えないでしょうか。

私たちは彼らにイエス様のことを伝えるでしょうか。

または、私たちは彼らを見下したり、彼らを追い出すでしょうか。

ザアカイに対するイエス様の反応を覚えていましょう。イエス様は、彼らとの関係を望みます。だから、イエス様は十字架に行きました。私たちだけのために死なずに、イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。

イエス様は軽蔑されている人ためにも死にました。だから人々を軽蔑しないでください。また人々がイエス様に来るとき、妨げないでください。むしろ、イエス様の言葉を覚えていましょう。

人の子は、失われたものを探して救うために来たのです。(10)

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マタイ20:29-34;マルコ10:46-52;ルカ18:35-43--私たち自身のことだけで思い詰めずに、周りの人々に気づくこと

私がバルティマイとその友達の話を読むと、イエス様の愛と憐れみ深い心は、私にとても印象的です。

イエス様はもうすぐ十字架に行くし、そのことを親友たちにはっきりと伝えたのに、彼らは理解してくれませんでした。そんな状況で、イエス様が自分の思いや、フラストレーションや、心配で思い詰めていたなら、びっくりすることではなかったでしょう。でも、その道を歩いているうちに、イエス様は前に何回も聞いていた願いをもう一度聞きました。

主よ。ダビデの子よ。私たちを憐れんでください(マタイ20:30)

大勢の人がイエス様を取り巻いて、多分イエス様がその声を見逃すのは簡単だったでしょう。

または、その声を無視するのは簡単だったでしょう。なぜなら、たくさんの人はその二人に「黙れ」と言いましたから。

でも、イエス様は止まって、「その二人を呼んできなさい」と言いました。

そして、彼らが来ると、イエス様は彼らに訊きました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

彼らは答えました。「主よ。目を開けていただきたいのです。」

そして、マタイによれば、イエス様が深く憐れんで、彼らの目に触れて、癒してくださいました。

イエス様は自分のフラストレーションとトラブルで思い詰めずに、周りの苦しんでいる人々に気づきました。

私たちはどうでしょうか。どれぐらい、私たちはイエス様の模範に従って、自分自身のことで思い詰めずに、周りの苦しんでいる人々んい気づくでしょうか。

どれぐらい私たち自分自身の必要やフラストレーションで思い詰めるので、神様の愛で周りの人々に触れる機会を逃がすでしょうか。

多分、私はよくそんな機会を逃がしたでしょう。

私たちはイエス様のようになるように学びましょう。私たちの苦しみと心配で思い詰めずに、周りの人々のニーズや痛みを見ましょう。そして、イエス様のように、彼らに触れて、神様の力で彼らを癒しましょう。

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マタイ20:20-28;マルコ10:35-45--全く違う態度

前回の記事で私は言いましたけど、イエス様は弟子たちにはっきりと自分のミッションを説明したけど、彼らはまだ分かりませんでした。彼らは、どうしてイエス様がこの世に来たか分からなかったし、すぐに来る試練がわかりませんでした。もし、彼らはちゃんと分かったら、たぶんヤコブとヨハネ(また彼らの母)はこの願いをイエス様にしなかったでしょう。彼らはこう頼みました。

あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。(マルコ10:37)

イエス様はそれを聞いて、どう感じたでしょうか。その直前、イエス様は彼らに「私はすぐに殺される」と言ったのに、彼らは自分の地位が気になりました。だから、イエス様は彼らにこう言いました。

あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができますか。(マルコt10:38)

つまり、「私の話を全然聞いていないのですか。私は死にます。私の右と左で死にたいと思うのですか。」ということです。

それはイエス様が意味したものでした。でも、いつものように、ヤコブとヨハネはその言葉を完全に誤解しました。だから、彼らは「できます」と答えました。

だから、イエス様はこう言いました。

確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。(39)

実は、その二人はイエス様のために苦しみました。ヤコブは殺されて、ヨハネは追放されました。

でも、イエス様は彼らにこう言いました。

しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。(40)

でも他の弟子たちはヤコブとヨハネの願いを聞くと、本当に怒りました。どうしてでしょうか。ヤコブとヨハネがイエス様の感情を全然考えなかったからでしょうか。違います。多分、彼ら自身がヤコブやヨハネよりも資格があると思ったからでしょう。

でも、イエス様は彼らを集めて、こう言いました。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マタイ10:42-45)

要するに、「あなたたちは自分の態度を変えなくてはなりません。あなたたちは、私の国に何の位置を持つか心配します。なぜなら、偉い人が楽な人生を送ると思うから。あなたたちは、周りの人々に命令できるし、彼らがあなたに仕えると思います。

でも、私の国では、それは偉い人ではありません。偉くなりたいと思うなら、あなたは人々に仕えなくてはなりません。また、あなたが先頭に立ちたいと思うなら、あなたは皆のしもべにならなくてはいけません。なぜなら、私は仕えられるために来なかったから。私は人々に仕えるために来ました。実は、私は彼らのために死ぬために来ました。」ということです。

実は、私もその態度が必要です。私はよく自分自身を周りの人々と比べるし、競争します。でも、ミニストリーをするとき、その態度はいけないのです。私たちは仕える態度が必要です。

それはミニストリーのための態度だけではなく、それは私たちの人生の態度でなくてはいけません。

仕事で、私たちは同僚やお客さんに仕えるべきです。

家で、主人たちは妻と子供に仕える態度が必要です。

正直に言うと、その三つのところで、私はよく失敗します。

だから、ある古い英語の讃美歌は、私の祈りです。

実は、「The Witness」(目撃者)というクリスチャンのミュージカルで、ヤコブとヨハネはこう歌いました。

Lord make me like you.  Please make me like you.
主よ。私をあなたのように変えてください。
You are a servant.  Make me one too.
あなたはしもべです。私もしもべになるように。
O Lord I am willing.
私の心は開いています。
Do what you must do to make me like you Lord.
私があなたのようになるように、あなたがしなければならないことをどうぞしてください。
Make me like you.
あなたのように私を変えてください。
Whatever you do Lord, please make me like you.
どうしても、私をあなたのように変えてください。

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マタイ20:17-19;マルコ10:32-34;ルカ18:31-34--はっきりしていることがわからないこと

この話では、ルカの言葉は私の心を打ちます。

弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカ18:34)

もちろん、「これらのこと」や、「このことば」というのは、イエス様の死と復活のことでした。

ルカの言葉が私の心を打つ理由は、イエス様がはっきりと自分の死と復活について話したことです。弟子たちはその言葉が理解できないはずがありませんでした。それでも、彼らは理解できませんでした。なぜでしょうか。

もしかしたら、彼らはまだ霊的に成熟していなかったかもしれない。多くの若いクリスチャンが聖書を読むとき、理解できないことがいっぱいあるでしょう。でも、私たちの信仰と知識が成長すると、私たちは神様の言葉がますますわかるようになります。

もしかしたら、それは弟子たちの問題だったかもしれないけど、彼らにほかの問題もあったと思います。

つまり、彼らはイエス様の言葉を理解したくなかったということです。イエス様がすぐに死ぬことを信じたくなかったのです。だから、イエス様が自分の死と復活について教えると、彼らは自分の耳を閉じました。

もう一つの理由は、彼らが神様の御心を求めるよりも、自分の望みを求めたことです。次の話のヤコブとヨハネの願いを見ると、私たちはそんな考え方を見ることができます。

でも、どれぐらい私たちは同じような態度を取るでしょうか。聖書では神様の言葉がわかりやすいし、または、神様は私たちの心にはっきりと話すので、私たちがそのメッセージを見逃すはずはないのですが、私たちは見逃してしまいます。

例えば、私が振り返ると、私がハワイに住んでいた時、神様ははっきりと私が日本に行くように呼びました。何回も私は、「あなたは事務などの仕事には向いているとは思えない。ミニストリーをした方がいいよ」と言われました。ある人々は率直に、「あなたは宣教師として日本に行った方がいいよ」と言いました。

でも、私はハワイを出る気が全然ありませんでした。また、日本に行く気が全然ありませんでした。だから私はその言葉をずっと受け入れられませんでした。

私が「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」のような言葉を聞いても、私は「その言葉は私のためではない」と思いました。

でも、神様は私の心の中で働き続けて、数年後、私は日本に来ました。そして、私は神様に従う喜び、また神様の言葉に従う喜びを知りました。

もし、あなたの心を神様に開けば、あなたもその喜びを知ります。

でも、あなたの心の状態はどうでしょうか。神様があなたに話しているのに、その言葉に対して、あなたは自分の目をくらましているでしょうか。もしくは、あなたは自分の心をその言葉に向かって開いたでしょうか。

私たちは、いつも神様にこう言いましょう。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

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マタイ20:1-16--でも、それは不公平だよ

私の意見だけだけど、もしかしたらこのたとえ話は、ペテロに対するイエス様の反応かもしれません。ペテロはこう言いました。

私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

多分イエス様はこの話を通して、ペテロを励ましたいと思ったけど、同時にペテロに警告したいと思ったでしょう。

この話では、ある主人が自分のぶどう園で働く者を雇いました。最初に雇った労働者たちは主人と交渉したけど(一デナリは普通の一日の賃金でした)、そのあとに雇った労働者たちは具体的な賃金を交渉していませんでした。むしろ、主人はこう言いました。

あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。(4)

夕方になると、主人は労働者に賃金を払いました。彼は一番最後に雇われた人々に最初に払って、一番最初に雇われた人々に対して最後に払いました。主人は後に雇われた人々に一デナリを払いました。だから、最初に雇われた人々が来たとき、彼らはもっと払われると思いました。でも、主人は彼らにも一デナリを払いました。だから彼らは文句を言いました。

それは当然の反応でしょう?ある労働者は一時間だけ働いたけど、一デナリをもらいました。でも、一日中働いた人々も同じく一デナリだけをもらいました。

でも、主人の答えを見てください。

友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私は気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。(13-15)

要するに、その最初の労働者たちが騙されたとは言えないことです。彼らは交渉した賃金をちゃんともらいました。それでは、どうして彼は怒りましたか。なぜなら、主人は後に働いた労働者に対して、とても気前が良かったから。

イエス様のポイントは何でしょうか。「私に従うために何をもらうか気にするな。あなたが値するものをもらうことに気にするな。また、自分自身を周りの人々と比べるな。あなたはどれぐらい捨てたか、また、相手がどれぐらい捨てたか、気にするな。あなたの報いはちゃんともらいます。でも実は、神様は人が値する報いを与えることにあまり興味ありません。神様は私たちが値しない報いを与えるのを喜びます。もし、あなたが値する報いを心配しすぎると、神様はそれを与えるかもしれないけど、それだけを与えます。

でも周りの人が何をしているか気にならないし、あなたが値する報いが気にならないなら、あなたが想像するよりも、神様からの祝福を受けます。」

あなたはどうですか。あなたはいつも自分自身を周りの人々と比べているでしょうか。あなたはいつも、「どうして、私が相手よりも神様に仕えているのに、相手の方が神様に祝福されるだろうか」と疑問に思うでしょうか。

覚えていてください。恵みとは、あなたが値することには全然関係のないことです。

恵みとは、私たちが神様からの報いに値しないのに、神様が私たちにいつくしみを注ぐことです。実は、私たちに値するのは死です。なぜなら、私たち皆は罪を犯したから。

だから、私たちが値するものをあまりにも考えないでください。むしろ、私たちが値しない恵みを受けたことを喜びましょう。つまり、私たちは永遠の命、喜び、平和、と愛を豊かに受けたことを喜びましょう。

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マタイ19:27-30;マルコ10:28-31;ルカ18:28-30--イエス様に従い甲斐がある?

イエス様に従い甲斐が本当にあるでしょうか。裕福な役人はその疑問に向き合わなくてはなりませんでした。残念なことだけど、彼はイエス様に従い甲斐がないと思いました。

ペテロも自分自身に同じことを聞きました。「イエス様のために、私はすべてを捨てたけど、本当にその甲斐があるでしょうか。」

だから、彼はイエス様に訊ねました。

ご覧ください。私たちはすべとを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

イエス様は答えた。

まことに、あなたがたに言います。私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マルコ29-31)

ここには、二つの注意事項があります。

1.イエス様は、私たちがイエス様に従うと、報いを得ると教えました。天国だけで報いを得ずに、この世でも報いを得ます。それだけではなく、イエス様は、私たちが豊かに祝福されると言いました。もちろん私たち皆が金持ちになるわけではありません。でも、私たちの人生の終わりに私たちが振り返ると、「私は祝福された。やっぱりイエス様に従った甲斐があった。」と言えます。

2.マルコの福音書だけもこの言葉が書いてありますが、本当に目立つ言葉です。イエス様は私たちの報いについて話すけど、私たちに警告もします。「あなたは迫害されます。あなたは私に従えば、きっと迫害されます。」

つまり、クリスチャンの生活はいつも楽しいものではないことです。もちろん喜ぶときもあります。もちろん、神様は私たちに祝福を注ぎます。

でも、もしイエス様に従うと、あなたを憎む人もいます。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々は彼を憎みました。イエス様はこう言いました。

しもべは主人にまさるものではない。。。人々が、私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ15:20)

だからイエス様に従っているうちに、私たちが迫害されることに驚かないでください。むしろ、永遠の報いに照準を合わせましょう。なぜなら、私たちが苦しんでも、最終的にイエス様に従い甲斐があるから。

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マルコ10:21-22--真理を言うほどに、人々を愛すること

この話では、イエス様は意地悪だったでしょうか。どう思いますか。

この若い役人は必死に神の国に入りたいと思ったけど、イエス様は彼に不可能な挑戦を与えてしまいました。その人が神様に対する熱心を持ったのに、イエス様の言葉によって、その熱心は消えてしまいました。

でもマルコは興味深いことを言います。彼はイエス様のその役人に対する感情を説明します。

イエスは彼を見つめ、その人をいつくし[みました]。(マルコ10:2a)

イエス様は彼のうわべだけを見ずに、その人の心をも見つめました。イエス様は彼の熱心がよくわかりました。でも、イエス様は彼が欠けていたものをも見ました。だからイエス様は、その人が自分が欠けているものがわかるように望みました。そうすれば、その人はイエス様の助けを求め、永遠の命を見つけたでしょう。

だから、イエス様は彼にこう言いました。

あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っているものをすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。(21b)

要するに、「さっき、あなたは自分が何かまだ欠けている感じがすると言ったでしょう?その通りです。あなたは神様を愛するよりも、お金に執着しています。だから、あなたが持っているものをすべて売り払いなさい。あなたの隣人をあなた自身のように愛すると言ったでしょう?それでは、あなたの持ち物を売り払ってから、貧しいものに与えなさい。そうすれば、あなたは本当の宝を得ます。そして私に従って来なさい。」ということです。

それを言った時、イエス様の望みは相手が本当の命を知ることでした。でも逆に、彼は悲しく帰りました。

イエス様は真理を取り繕おうとしませんでした。イエス様は率直に真理を言いました。

時々真理は聞きにくいものです。時々、人々はその真理を拒絶します。でも私たちは真理を伝えなくてはなりません。

それでも、私たちは本当の愛と憐れみを持って、真理を伝えなくてはなりません。

相手はまだ真理を拒絶するかもしれないけど、彼らが私たちの愛がわかるように。

彼らは傷つくかもしれないけど、彼らが私たちが彼らの最善を望むことを知るように。

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マタイ19:16-26;マルコ10:17-27;ルカ18:18-27--救いの不可能性

私が大学生の時、私の宗教学の教授はキリスト教に関して話した時にこの話について話しました。彼のポイントは何だったでしょうか。キリスト教によれば、あなたが天国に行きたいと思うなら、あなたの持ち物をすべて売らなくてはいけないことです。

実は、私の教授はうっかり全く違う事を証明しました。それは、「文脈にちゃんと注意しなくてはなりません。そうしないと、聖書の言葉を誤解してしまうから」ということです。

とにかく、この個所のすべてを比べると、イエス様と話した人に関して、興味深いことを見つけられます。彼は金持ちだったし(すべての著者がそう書きました)、彼は若かったし(マタイ19:22)、彼は役人でした(ルカ18:18)。

そして、彼はイエス様にこう訊きました。

「良い先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16;マルコ10:17)

イエス様はこう答えました。

なぜ、私を「良い」と言うのですか。また、なぜ、良いことについて、私に訊ねるのですか。良い方は神おひとりのほか、誰もいません。(マタイ19:17;マルコ10:18)

この個所では、イエス様は自分自身に関する誤解の一つを吹っ飛ばします。それは、「イエス様は良い方だったけど、神ではありませんでした。」ということです。

イエス様はその人に、こう言いました。「あなたは私を神と呼んでもいいです。それを信じないなら、私をただの人間と呼ぶかもしれません。でも、私がただの人間なら、私を良い方と呼んではいけません。なぜなら、神様だけが良い方だから。」

そして、イエス様は彼にこう言いました。

「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(マタイ19:17)

その言葉だけを読むと、あなたは、イエス様が私たちの良い行動によって天国に入られると言っていると思うかもしれません。でも、この役人の反応を見てください。

私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。(20)

多くの人々には同じ問題があります。彼らは一生懸命神様の戒めを守ろうとします。彼らは頑張って、正しいことをしようとします。その役人のように、その戒めをちゃんと守ったと思う人もいます。でも、心の中では、彼らは何かが欠けているとわかります。どうして、彼らはそう感じるのでしょうか。

なぜなら、私たちは周りの人々をだますかもしれないし、私たち自身をだますかもしれないけど、神様の基準を完全に満たす人がいないから。

パウロはこう書きました。

全ての人は罪を犯し「ます」。(ローマ3:23)

もし、私たちは自分の心を探ると、そのことが分かるでしょう。

それでは、どうしてイエス様は永遠の命の方法について話した時、神様の戒めを指したでしょうか。多分、パウロはその答えを与えてくれます。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては、神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ3:20)

ちょっと考えてみてください。鏡には私たちの顔を洗う力があるでしょうか。そんな力はありません。でも鏡は私たちの汚い顔を映します。

そのように、律法は私たちの罪を清める力がないです。でも、律法は私たちの罪を指摘できます。

でも、時々、その「鏡」の反映はちょっとピンぼけになるかもしれません。もちろん、神様の律法の言葉はわかりやすいです。それでも、私たちがその律法の意味がちゃんとわからないときもあるし、その律法がわかっても、私たちに自分の罪をまだ見ることができないかもしれません。

この役人には、その問題がありました。彼はちゃんと律法を守ったと思いました。だから、その人に自分の反映を見えるように、イエス様はその「鏡」を拭いてくださいました。イエス様はこう言いました。

完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、私に従って来なさい。(21)

どうして、イエス様はそう言ったでしょうか。なぜなら、その役人が言ったように、彼は何かがまだ欠けていたから。神様を愛するよりも、その人はお金に執着しました。だから実際は、彼は十戒の最初の戒めを破りました。お金が彼の神になりました。

その役人がイエス様の言葉を聞くと、自分の罪をはっきり見ることができました。残念なことだけど、彼はこう言いませんでした。「イエス様、私を助けてください。私は罪人です。私を憐れんでください。」

むしろ、彼は立ち去りました。彼は悲しく立ち去りました。

だからイエス様はこう言いました。

富を持つものが神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。(マルコ10:23)

弟子たちはそれを聞くと衝撃を受けました。なぜなら、彼らは金持ちは神様に恵まれた人だと思っていたから。でも、イエス様は同じことを繰り返しました。

子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。(マルコ10:24-25)

どうしてでしょうか。なぜなら、この世のものを持ちながら、神様からのものを持つのは無理だから。金持ちは、普通の人よりも、この世のものを持っています。だから、彼らが手離すべきのものが普通の人よりも多いです。

弟子たちはこう訊きました。

それでは、だれが救われることができるでしょう。(マルコ10:26)

イエス様の次の言葉はこの個所の要点です。

それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)

神様から離れたら、救いは不可能です。私たちが不完全な人だから、自分の努力で自分自身を救うことができません。

イエス様はその教訓を役人に教えたいと思いました。

でも、イエス様の十字架の御業によって、また神様の御業によって、救いの可能性があります。私たちはしなくてはならないのは、イエス様を信じることだけです。

ヨハネはこう書きました。

神は、実に、そのひとり子を与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

今日あなたは、神様の救いの賜物を受けないでしょうか。

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マタイ19:13-15;マルコ10:13-16;ルカ18:15-17--子供のように

イエス様が弟子たちを子供たちを追い出すために責めた時、イエス様はこう言いました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:14-15)

子供のように神の国を受け入れるとは、どういう意味でしょうか。子供の性格はどんなものでしょうか。

1.彼らは人々を全面的に信頼します。年が過ぎ去り、いろんな傷や、嘘や、裏切りのため彼らの心が堅くなるまで、彼らは人々が言うことを信じ、全然疑いません。私たちはそんな心を持つべきです。

罪とは、基本的に神様に対する信頼の欠如ということです。つまり、私たちは神様にこう言います。「あなたの言葉を信じません。あなたが私の最善を望むことを信じません。だから、私は自分の道を行きます。」

でも、そんな態度を持っていれば、私たちには決して神の国に入ることができません。

2.彼らは全く大人に依存することです。そして、彼らはそのことを認めます。彼らには自分の料理が用意できないし、服やほかの必要なものを買えません。彼らはそのものをもらうために、自分の両親に依存しています。

そのように、どれぐらい私たちが神様に依存しなくてはいけないことがわからないなら、私たちには決して神の国に入ることができません。なぜなら、私たちには救いを買うことができないから。また、私たちには、救いのために働くことができません。むしろ、私たちは神様の恵み、またイエス・キリストの十字架の御業に頼らなくてはなりません。

それは、あまりにも簡単すぎるので、多くの人々にはその真理を受け入れられません。また、彼らはその真理を信じたくありません。彼らは自分の救いを買えると思いたいのです。または、彼らは自分の救いのために働けると思いたいのです。彼らに何もできないことを認めたくないから。

でも、私の最初のポイントに戻ります。彼らは、神様を全く信じるように学ばなくてはなりません。

イエス様はこう言いました。

神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神の御業です。(ヨハネ6:29)

あなたはどうですか。子供のような心を持って、神様の前に来るでしょうか。

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マタイ19:13-15;マルコ10:13-16;ルカ18:15-17--取るに足りない者の神

父親として、私は自分の娘が大好きです。それでも、彼女がうっとうしい時もあります。特に、私が大切な仕事をしているとき(別に大切じゃないことをする時も)彼女は必死に私の注意を引きたいと思います。

私が仕事をし続けながら、彼女を見ずに「はい、はい」と言うのはとても簡単です。もし、私は特に参ったら、「後で。今忙しいよ。」と言うかもしれません。

この個所では、イエス様の弟子たちはそのように反応しました。お母さんたちが自分の赤ちゃん(きっと、泣いている赤ちゃんもいたと思う)、また、幼い子供たち(多分、乱暴な子供もいたと思う)をイエス様に連れて行ったとき、弟子たちは参ってしまって、「もう帰れ。イエス様はこの子供たちのために時間がないよ。」と言いました。

でも、イエス様はすぐに弟子たちの言葉に反応しました。

イエス様はそれを見て、憤っ[た]。(マルコ10:14a)

そしてイエス様は彼らに言いました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(マルコ10:14b)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちの子供たちを、またほかの人を弟子たちがしたように扱ってはいけません。彼らを取るに足りない人として扱ってはいけません。大切ではない人として扱ってはいけません。私たちの時間に値しない人として考えてはいけません。

そうすれば、イエス様はとっても憤るから。彼らはイエス様の貴い創造物です。イエス様は、彼らのために死ぬほどに、彼らを愛していました。

あなたもそのように愛されています。あなたは自分が取るに足りない人だと思うかもしれません。あなたがのけ者だと思うかもしれません。でも、人々があなたをそのように扱う時、イエス様は憤ります。イエス様はあなたを憐れんでくださいます。あなたを愛しています。イエス様は決してあなたを捨てません。

だから、イエス様に近づいてください。イエス様の目では、あなたがとても大事な人です。あなたは貴い者です。そして、イエス様はあなたとの関係を望みます。

主よ。あなたが取るに足りない人の神であることを感謝します。ほかの人が私を捨てたかもしれないけど、あなたは私を決して捨てません。

主よ。私が周りの人々を取るに足りない人と見なさないように。私があなたのように、彼らを貴いものと見なすように。私の心を変えてください。私があなたのようになるように。アーメン。

 

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マタイ19:1-12--結婚しない方がましでしょうか

イエス様の教えに対する弟子たちの反応は、とても興味深いです。

もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。(10)

要するに、「もし離婚できずに、同じ人とずっと結婚していなくてはいけないなら、結婚しないほうが良い」ということです。「みじめな結婚よりも、独身の生活がましです。」

もちろん、みじめな結婚よりも、独身の生活の方がましですけど、多くの人々はずっと独身の生活を送りたくないでしょう。だから、イエス様はこう言いました。

そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。(11-12)

要するに、独身の生活で満足できる人は少ないことです。

ある人は、「母の胎から独身者として生まれた。」例えば、生まれつきの体の不自由のため、彼らにとって、結婚生活を送るのは大変すぎます。

もしくは、彼らは「人から独身者にさせられた」。多分イエス様は宦官について話しています。現代では宦官という存在はありませんが、以前のトラウマのため、結婚したくない人もいます。

またはパウロのように、神の国のため、独身の生活を送ろうと思う人もいます。

そしてイエス様は、あなたが独身生活で満足できたら、それでもいいと言いました。

でも、情けないのは、弟子たちが、また、現代の人の多くが、一生の結婚は牢みたいだと思うBall and chainことです。英語圏では、「Ball and chain」とううイメージがあります。(右の絵を見てください。)

だから、彼らは結婚する気が進みません。でも、その考え方のせいで、彼らは一生の結婚の喜びを逃してしまいます。神様は初めて結婚を造ったとき、夫婦のために幸せな生活を計画しました。

結婚は素晴らしいものであるはずです。結婚は「Ball and chain」とは限りません。

それでは、いい結婚の秘訣は何でしょうか。

結婚の始めから、あなたと伴侶は腹を決めなくてはなりません。

まず、神様に対する柔らかい心を保つことを決めなくてはなりません。

そして、伴侶に対する柔らかい心を保つことを決めなくてはなりません。

神様に対する柔らかい心を保つなら、あなたたちが喧嘩するとき、神様はあなたたちの心に語って、平和をもたらしてくださいます。多くの場合、神様はあなたに(または伴侶に)「もうやめなさい。相手に譲りなさい。」と言います。

また、神様はあなたたちにどのようにあなたたちの結婚を強めるか教えてくださいます。またあなたたちがどのように相手のニーズに備えるか教えてくださいます。また、あなたたちがどのようにもっと愛し合えるか教えてくださいます。

もし伴侶に対して柔らかい心を保つなら、あなたが相手のことをもっと理解するようになります。相手の動機が分かるし、相手をイライラさせることがわかるし、相手を喜ばせることがわかるようになります。もし、あなたが頑張ってそのことを学ぼうと思って、相手をイライラさせないように努力するだけではなく、あえて相手を喜ばそうとしたら、相手はあなたにそうしてくれるでしょう。

だから、あなたたちはみじめな結婚ではなく、幸せな結婚ができて、本当に一体となります。

あなたはどのように結婚とみなすでしょうか。「Ball and chain」とみなすでしょうか。もしくは、神様が意図した喜びで満ちたものとみなすでしょうか。

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マタイ19:1-12;マルコ10:1-12--私たちの伴侶が私たちに対して頑なな心と持つとき

以前の記事で、私は夫婦が自分の心を探らなくてはならないと言いました。つまり、私たちが自分の伴侶に対して頑なな心を持っているかどうか、自分自身に訊かなくてはいけないことです。また、私たちが神様に対しても頑なな心を持っているかどうかを訊かなくてはなりません。

健全な結婚のためにも、不健全な結婚のためにも、それらはとても大事な質問です。なぜなら、あなたは神様に対して、また伴侶に対して頑なな心を持っているなら、あなたの結婚は長く続かないからです。

でも、もし私たちの伴侶が私たちに対して頑なな心を持っているなら、私たちはどうしたらいいでしょうか。

それはとっても難しい問題です。

聖書では、神様は二つの件についてしか教えていません。

一つ目は、相手が姦淫を犯した場合です。でもそれだけではなく、相手がどうしても悔い改めません。イエス様ははっきり言います。その場合、神様は離婚を許します。あなたが相手と離婚して別の人と結婚すること、それは姦淫ではありません。

多分その理由は、神様の目では、その結婚が修復できないくらい、相手が頑なな心を持っていることです。その夫婦の関係はもう潰れてしまいました。なぜなら、相手がほかの人と一体となったから。特に、相手が再婚するなら最初の結婚は壊れてしまうので、あなたはその人に縛られません。

でも、相手が一回だけ不倫したけど、悔い改めた場合はどうでしょうか。それは、もうちょっと複雑です。もちろん壊れた信頼関係を修復するのはとても難しいです。無理だと言わないけど、とても難しいです。でも、相手が悔い改めると、あなたが仲直りをもたらすために働くのは神様の御心だと思います。

それはとっても難しいです。もちろん、あなたは神様の恵みが必要だし、周りのクリスチャンたちのサポートも必要だと思います。信頼関係を修復するのはたくさんの時間がかかると思います。でも、神様はあなたの結婚を癒すことができます。もし、あなたと伴侶が神様に対して柔らかい心を持つなら、神様はあなたの心を癒せるし、あなたの結婚を癒せます。

第一コリント7章で、パウロは別の件について話します。それは、あなたのノンクリスチャンの伴侶があなたを捨てることです。その場合、パウロはこう言いました。

しかし、信者でないほうの者が離れていくなら、離れていかせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。(第一コリント7:15)

イエス様と使徒たちは、その二つの場合についてしか話しません。

でも現代では、多くの人々はDVに関して疑問に思います。その場合、神様は離婚を許すでしょうか。イエス様と使徒たちはそのことについて全然話していません。

私はその理由が分かりません。その時代でも、同じ問題がありました。ユダヤ人の妻たちは夫と離婚できなかったけど、DVの場合は彼女らが裁判官に願って、裁判官が夫が妻を離婚するように強制できました。

とにかく、イエス様と使徒たちがDVに関して話さないので、多くの牧師たちはDVが離婚の理由にはなりえないと考えます。

私はこう言います。もし、あなたの伴侶が危ない人で、あなたが相手に虐待されるなら、それに、相手がどうしてもカウンセリングを受けないなら、あなたは相手と一緒に住み続ける必要がありません。あなた自身と子供を守ってください。

私の意見ですけど、パリサイ人たちに対するイエス様のことがDVに当てはめられると思います。

私が喜びとするのは真実の愛(あるいは、憐れみ)。いけにえではない」とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

神様が結婚の祭壇の上に、虐待された妻たちをささげることなど要求しないと思います。

それでは、DVの場合、神様は離婚を許すでしょうか。それは正しい質問だと思いません。

正しい質問は何でしょうか。

イエス様は、モーゼの時代に神様が人々の頑なな心のため、離婚を許したと言いました。

ちょっと質問を訊かせていただきます。

クリスチャンは頑なな心を保ってもいいでしょうか。

それはだめです。

だから、これは私の個人的な意見です。結婚がもう続くことができないほど、相手が頑なな心を持っていたら、神様は離婚を許します。

それでは、あなたが離婚を考えているなら、どうしたら良いでしょうか。

どんな条件に直面しても、(姦淫や、あなたが捨てられた状態、DVなど)、決める前に自分の心を探ってください。

「私には神様に対して、また、伴侶に対して、頑なな心があるだろうか」と自分自身に訊いてください。

それは最も大切な質問だと思います。

もし、あなたは「はい」と答えると、離婚の決断を伸ばした方が良いと思います。あなたは、自分の頑なな心のため、離婚するべきではありません。

でももし、あなたが自分の心を神様と伴侶に開いたのに、伴侶が頑なな心を持って、離婚を求めたり、または、相手が暴力であなたを脅すなら、離婚しても良いです。

その場合、神様は離婚を命令はしないけど、その状態をよく理解してくださり、離婚を許すと思います。

 

 

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マタイ19:1-12;マルコ10:1-12--神様と私たちの伴侶に対して、頑なな心を持つと

いろんな福音書を読んで、同じ話を統合するのはとても興味深いです。私はマタイの福音書とマルコの福音書をちゃんと統合しているかどうかわからないけど、このように統合するのは面白いと思います。

パリサイ人たち:何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。

イエス様:知らないのですか。二人は結婚すると、もはや二人ではなく、一体になったのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。

パリサイ人たち:では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。

イエス様:え?モーセはあなたがたに、何と命じたでしょうか。「あなたの妻を離婚しなさい」と命じたのですか。

パリサイ人たち:まあ、そういうわけではないけど、モーセは、私たちの妻を離別することを許しました。

イエス様:その通りです。モーセは離婚を命令しないで、離婚を許しました。どうして、離婚を許したか分かるでしょうか。なぜなら、あなたたちの心が頑ななものだったから。でも神様がアダムとエバを造ったとき、結婚を造ったとき、離婚は神様の元の意図ではありませんでした。

この話を統合するのは面白いかもしれないけど、とても深刻です。

そして、この個所では、イエス様はどうして多くの夫婦が離婚してしまうか説明します。彼らは神様に対する頑なな心を持つし、伴侶に対する心を持っています。

人々はどのように神様に対する頑なな心を持つでしょうか。

まず、彼らは結婚に関する神様の教えを拒絶します。結婚は一生のものです。私たちは自分の妻か夫に忠実しなくてはなりません。キリストが教会を愛するように、夫は妻を愛しなくてはいけません。教会がキリストに従うように、妻は夫に従わなくてはいけません。それらは神様の教えです。

でも逆に、多くの人々は、その教えに従うのが無理だと言って、いろんな言い訳を作ります。

「私の妻が私に従わないのに、どうして愛するべきだろうか。」

「私の夫が私を愛してくれないのに、どうして私は彼に従わなければいけないんだろう。」

「結婚生活がうまくいくかどうかだれもかわかりません。もしかしたら、うまくいかないかもしれないので、離婚のオプションを保った方がいいだろう。」

また、彼らは喧嘩するとき、神様は彼らに「もうやめなさい。相手に譲りなさい。このことについて喧嘩するのは無駄です。」と言います。

でも、彼らは誇りや怒りを捨てるのを拒むので、神様の声に従いません。

どのように人々は伴侶に対する頑なな心を持つでしょうか。彼らは互いに聞き合わないのです。

妻が夫が働きすぎると言う時、夫は「だって、私たちはお金が必要だろう」と答えます。

夫が情交の欠如に関して文句を言うと、妻は「だって、私は疲れ過ぎているよ」と答えます。

妻が夫の言葉か行為がひどいと言うと、夫は「あなたは敏感すぎだよ」と答えます。

いろんな例を与えることができます。

その結果は?

離婚です。

多くの人々はどうして自分の結婚が失敗したか疑問に思います。2-3回結婚する人もいるけど、その再婚も離婚することが大半です。どうしてでしょうか。

なぜなら、彼らは自分の心の問題に取り組まなかったから。つまり、神様に対して、また、伴侶に対して、柔らかい心を保つのを学ばなかったことです。

あなたは独身でしょうか。あなたは伴侶を求めているでしょうか。その前に、自分の心を探ってください。

神様があなたの行為について訓戒するとき、あなたはその言葉を聞いて受け入れるでしょうか。あなたが結婚すると、神様は、きっとどうやってあなたの伴侶を扱うか訓戒するしょう。でも、もし今あなたが神様の言葉に対して頑なな心を持って、その態度を結婚に持っていくと、あなたの結婚は潰れてしまいます。

あなたは結婚しているでしょうか。あなたの伴侶のため、フラストレーションを感じるでしょうか。手始めに、あなたの目を相手を離して、自分自身の心を探ってください。どのように、伴侶に対して頑なな心を持っているでしょうか。あなたの方が何をした方がいいか、神様に訊いてください。

あなたは離婚しているでしょうか。別の伴侶を探しているでしょうか。その前に、自分自身にこう訊いてください。「私はどのように以前の伴侶に対して、頑なな心を持っていただろうか。私はどのように神様に対して、頑なな心を持っていただろうか。」

そう訊かないと、あなたは同じ失敗を繰り返すが落ちです。

もう一つのことを考えてください。今でも、あなたは神様に対して、また、元夫か元妻に対して、頑なな心を持っているでしょうか。つまり、神様は、あなたに相手と仲直りをもたらすように働きなさいとおっしゃっているでしょうか。神様がそうしているなら、その言葉に従うでしょうか。

次回、相手があなたに対して頑なな心を持つ場合について話していきますが、今日自分の心を探ってください。神様はあなたの心をの全体を持っているでしょうか。

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マタイ19:1-12;マルコ10:1-12--どうして離婚はそんなに痛いでしょうか

離婚はとても難しいトピックです。なぜなら、離婚に関連する痛みはとても深いから。日本でも、離婚率はだんだん上がる一方です。だから、私たちは真剣に結婚と離婚に対するイエス様の教えを見るべきだと思います。

パリサイ人たちはイエス様のところに来て、こう訊きました。

何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。(マタイ19:3)

その時代でも、それは論争的な問題でした。どんな理由でも離婚してもいいと思ったパリサイ人たちもいたし、性的な罪だけが、正しい理由だと思ったパリサイ人たちもいました。

実は、多くのパリサイ人たちは離婚していました。多くの場合、彼らはほかの女性と結婚したいと思ったから妻を離婚しました。もちろん彼らは姦淫を犯したくなかったけど、別の女性と付き合おうと思ったので、妻を離婚したのです。

多分、山上の垂訓とこの個所では、イエス様が特にその問題について話していると思います。つまり、「あなたと結婚していない人と寝なくても、もし、別の女性に付き合うために、あなたの妻を離婚したら、神様の目では、それは姦淫だ」ということです。

とにかく、イエス様はパリサイ人の質問にこう答えました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはや二人ではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイ19:4-6)

イエス様は律法の専門家の意見を全く無視して、聖書を示しました。そして、聖書によって、イエス様は結婚が何であるべきかを説明しました。

結婚とは、男と女が一体となることです。彼らはもはや別々のものではありません。彼らは結ばれて、一体となったのです。

時々、人々は疑問に思います。「どうして、神様はセックスが夫婦だけのためだと命令するだろうか。」

主な理由は、男性と女性が一緒に寝ると、彼らは結ばれるからです。それが肉体的な結びだけではなく、彼らは精神的にも結ばれます。彼らの魂も結ばれます。

あなたはボンドを使ったとき、うっかり指を二本貼り合わせたことがあるでしょうか。もし無理やりにその指を引き離そうとしたら、どうなるでしょうか。肌が傷ついてしまうでしょう。

そのように、夫婦が離婚すると、きちんと別れられません。肉体的と精神的な結びのため、彼らの魂は裂かれます。

また、結婚していない人たちの場合でも、彼らが一緒に寝ると、彼らが別れるなら、その魂の結びのため、彼らの魂が裂かれてしまいます。

でも、結婚しても、結婚しなくても、カップルの関係が長く続けば続くほど、別れる痛みはひどくなります。なぜなら、性的に結ばれたし、彼らが一緒に経験したもの(良くても悪くても)に結ばれたから。

なぜ離婚がそんなに苦しいでしょうか。この個所で、イエス様はその理由を教えます。離婚は私たちの魂の部分を裂きますから。永遠まで続くはずのものが、つまり、体の一致、心の一致、魂の一致は裂かれました。だからイエス様は命令します。

「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(マタイ19:6)

それでは、離婚の痛みは決して癒されられないでしょうか。神様は離婚した人を赦してくださらないでしょうか。

そういうわけではありません。

でも私たちは二つのことを理解しなくてはいけません。

一つ目は、神様は結婚を永遠のものとしてデザインしたことです。

二つ目は、私たちが神様のデザインを拒絶するなら、痛みは自然な結果のことです。

それでは、どうして、人々は離婚するでしょうか。次の記事でそのことについて話そうと思います。

 

 

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ルカ18:9-14--恵みの必要を覚えていること

まず、ちょっとアナウンスがあります。最近私は新改訳2017を買ったので、これからその翻訳から引用し始めます。だから、あなたの聖書と比べると、ちょっと違うかもしれません。

とにかく、不思議なことだけど、何千年経っても、人間はあまり変わりません。この個所を読むとよくわかります。

ルカはこう書きました。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエス様はこのようなたとえを話された。(9)

その時代、特にパリサイ人たちはそんな態度を持っていました。パリサイ人たちは一生懸命一番細かい律法でも従おうとしました。でも、それはプライドに至りました。イエス様のたとえ話で、あるパリサイ人は大きな声で、こう祈りました。(もしくは、祈りよりも独り言を言ったでしょうか)。

神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。(11-12)

ようするに、「神様、あなたの国に私のような人がいて良かったですね。私はいい人でしょ?逆に、この収税人は。。。」ということです。

残念なことだけど、今なお、そんな態度を取るクリスチャンもいます。彼らは、神様の恵みによって救われたと認めるけど、彼らの態度は違うことを伝えます。

恵みによって生きる人に二つのことがはっきり見えます。彼らの罪深い心が見えますし、どれぐらい神様が必要か見えます。

収税人には、その二つのことがよく見えました。

その時代、ユダヤ人たちは収税人を憎みました。なぜなら、収税人はユダヤ人なのに、イスラエルを征服したローマ帝国と協力したから。それに、収税人たちは、イスラエル人を騙して、ローマ帝国が要求したよりも多く税を取りたてました。

でも、この収税人は自分の胸をたたいて、こう祈りました。

神様、罪人の私をあわれんでください。(13)

イエス様はその人に関して、こう言いました。

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14)

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みによって生きているでしょうか。あなたには、自分の罪深い心が見えるでしょうか。どれぐらいあなたが神様が必要か分かるでしょうか。

そんな人は、どんな人でしょうか。

彼らは、へりくだり、神様が何をしてくだったことを感謝します。彼らの心の中で、プライドの余裕がないのです。つまり、自分の義に関するプライド。自分のたまものに関するプライド。

彼らは自分が永遠の死にしか値することがわかります。でも、神様が彼らに恵みを注いだので、毎日彼らの心は感謝で満ちています。

相手が彼らを正当に評価しないとき、彼らは苦々しい思いを持っていません。彼らの功績を自慢しません。むしろ、彼らは感謝で満ちた心を持っています。

二つ目は、彼らが受けた恵みを周りの人々に与えることです。彼らは偉そうな態度を取りません。むしろ、彼ら自身が神様の恵みが必要だったように、彼らは周りの人々もその同じ恵みが必要だとわかります。

自分の罪深い心がわかるなら、相手を軽蔑できません。あなたがどうれぐらい赦されたかわかると、あなたは周りの人々を裁くことができません。むしろ、あなたの心は恵みと憐れみで満ちるので、その恵みと憐れみで周りの人々に触れ始めます。

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みがどれぐらい必要か分かるでしょうか。

 

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ルカ18:1-8--試練に直面するとき、信仰を貫くこと

一節だけを読むなら、あなたは、イエス様のポイントが、神様がすぐに祈りに応えないとき、祈り続けるべきことなのだと思うかもしれません。

もちろん、それはそうだけど、実は、イエス様は一つの種類の祈りに関して話しています。

この個所では、イエス様はまだこの世の最後の日について話しています。その日は、悩みの日、試練のある日です。

イエス様は、私たちが自分の罪のために裁かれないと約束したけど、イエス様は、私たちが決して試練と苦しみに直面しないとは約束しませんでした。時々、私たちは不正義を経験します。特に、反キリストが現れて、この世を治めるとき、クリスチャンたちは本当に苦しみます。

この個所では、イエス様はそのクリスチャンについて話しています。聖書によれば、すべてのクリスチャンが迫害されます。その時、私たちは、「神様はどこか。神様は私を捨てただろうか。まだ私を愛しているだろうか。正義はいつ来るだろうか。」と疑問に思うかもしれません。

だから、イエス様はこのたとえ話を話しました。この話では、ある女性が不正義を経験したので、彼女は裁判官の所に行って、正義を願いました。でも、その裁判官はずっと断りました。でも、彼女はあきらめずに、何回も裁判官の所に行って頼み続けたので、結局裁判官はこう言いました。

私は神を恐れ ず、人を人と思わ ない が、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよ う。そうでないと、ひっきりなしに やって来 て、私は疲れ果ててしまう。(4-5)

イエス様の意味したものは、何ですか。神様がその裁判官のように、私たちに正義を与えたくないので、毎日私たちの祈りで神様を困らせないと、応えてくださらないということでしょうか。違います。

実は、イエス様は正反対のことを言っています。この不正な裁判官がその女性のしつこい願いのために正義を与えるなら、ましてあなたを愛する公正な神様は、あなたに正義を喜んで与えてくださらないことがあるでしょうか。

黙示録6:9-11で、私たちは似た話を読みます。その個所では、聖徒たちはイエス様のために迫害されたけど、この世では、正義を受けませんでした。でも、神様は彼らを励ました。「正義はきっと来ます。」

でも、苦しんでいるとき、正義を待つのは苦しいです。だから、イエス様は私たちにこう訊きます。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(8)

もしかしたら、あなたはこう考えます。「大丈夫です。私はひどい苦難(マタイ24:21-22)に直面しないから。その前にイエス様はクリスチャンたちのすべてを天国に連れて行ってくださるから私は心配しなくていいです。私は反キリストを決して見ません。」

正直に言うと、私はその確信がありません。もしかしたら、私たちはそのひどい苦難を経験し、反キリストに直面するかもしれません。

でも、私たちがそれを避けられても、あなたの信仰はどれぐらい強いでしょうか。

辛いときに、あなたは神様とその正義を疑問に思い始めるでしょうか。あなたは、「神様、あなたはどこですか。私を愛しているでしょうか。どうして私はこんなに苦しんでいるでしょうか」と訊きますか。

もしくは、あなたは信仰を貫いて、「神様、私はあなたをまだ信じる。私が苦しんでいても、あなたを捨てない。あなたが最終的に正義を私に与えてくださるのを信じます。この世では、私はその正義を見ないかもしれないけど、後で私はあなたの正義を知ることを信じます。」と言うでしょうか。

イエス様はあなたを見ると、揺らいでいる信仰を見るでしょうか。もしくは動かぬ信仰を見るでしょうか。

へブル人への手紙の著者の言葉を覚えていてください。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(へブル12:12)

そして、私たちの忠実な神に対する信仰を貫きましょう。

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ルカ17:20-37 --急な裁き、確かの裁き

パリサイ人たちに神の国について話した後、イエス様は弟子たちに警告しました。つまり、とても大変な時が来ることです。その時、彼らはイエス様の帰りを願うので、イエス様が帰った噂を聞くと、その噂を信じるかもしれない。でも、イエス様は自分の帰りに関して、いくつかのことをはっきり教えました。

一つ目は、イエス様が帰って来ると、だれも見逃すことはできないことです。イエス様はこう言いました。

いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(24)

二つ目は、イエス様が不意に現れることです。その日は普通の日のように始まります。人々は、いつものように、食べたり、飲んだり、結婚したり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりします。でも急にイエス様が来て、裁きが始まります。

三つ目は、義人が死に至る裁きを経験しないことです。イエス様はこう言いました。

ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。(29-30)

注目してください。ロトがソドムを出ていくと、裁きが来ました。そのように、イエス様が帰ると、義人が悪者から別れたあとで、裁きは来ます。

四つ目のポイントは、イエス様が来ると、もしあなたが神様との関係を持たないと、あなたは裁かれることです。あなたの友人や、妻や、夫や、親族が素晴らしいクリスチャンでも、その関係はあなたを救うことができません。だから、イエス様はこう言いました。

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。(34-35)

最後のポイントは、裁きが確かなものであるということです。イエス様はこの話をこの言葉でまとめました。

死体のある所、そこに、はげたかも集まります。(37)

死体があれば、はげたかが来るのは確かです。そのように、霊的な死んだ者がいれば、その裁きが来るのは確かです。

だから、あなたは自分自身にこう訊かなければならないです。あなたは準備しているでしょうか。あなたの心は準備しているでしょうか。あなたはこの世のものに執着しているでしょうか。もしくは、あなたは神様を愛しているでしょうか。

裁きの日に、あなたの心の隠されたものは現れます。

イエス様が来ると、イエス様を愛している人たちは、イエス様を喜んで迎えます。でも、この世のものに執着する人は持ち物をなくすことを恐れます。

だから、イエス様は弟子たちに警告しました。

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(32-33)

神様がソドムを裁いた時、ロトの妻はソドムにある生活に執着して、振り返りました。だから、彼女も裁かれました。もし、あなたがこの世のものに執着するなら、イエス様が帰ると、あなたも裁かれます。

あなたの心はどこでしょうか。

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ルカ17:20-21--神様に御国を見ること

この個所では、パリサイ人たちはイエス様に、神の国がいつ来るのか訊きました。もしかしたら、彼が意味したものは、「あなたは本当にメシアでしょうか。そうなら、私たちにしるしを与えてください。」ということです。

でも、いつものように、イエス様は批判者にしるしを与えることを拒みました。むしろ、イエス様はこう答えました。

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(20-21)

イエス様の意味したものは何でしたか。「あなたたちは、神の国のしるしを探しすぎて、神の国がもう来たのが認識できません。」

つまり、「あなたの王はもう来ましたよ。その王は、あなたの間で、御国の仕事をしています。それを見ているのに、どうしてあなたは、まだしるしを求めているでしょうか。」ということです。

パリサイ人たちには神様が何をしているか見ることができませんでした。でもあなたはどうですか。神様はあなたの周りの人々の心の中で働いています。神様は彼らの人生を変えたいと思います。それに、神様はあなたを通して、彼らに触れたいと思います。でも、あなたは自分の人生に集中しすぎて、神様が何をしているか認識できないでしょうか。

もしくは、聖書に書いてある預言に興味があって、いつイエス様が帰ってくるか疑問に思いすぎているため、神様があなたの周りに何をしているか分からないでしょうか。

もちろん聖書に書いてある預言は大切です。でも、神様が何をしているか見えないなら、私たちの視点はゆがんでいます。そして、神様は御国のために私たちを用いることができません。

あなたはどうですか。あなたの周りに神様が何をしているか見えるでしょうか。

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ルカ17:11-19--感謝

この個所では、10人のツァラアトに冒された人々は一緒にイエス様の所に行きます。

もちろんツァラアトはつらい病気でしたけど、一つの良い点がありました。ツァラアトに冒された人々の間では、普段存在する壁は崩れました。

普通は、ユダヤ人とサマリヤ人は互いに憎み合いました。でも、その十人は病気のせいで、自分の民の間でのけ者になりました。だから、彼らがわっかったのは、彼ら皆がただの人間で、ユダヤ人とサマリヤ人には大差がないことです。

私たちもそのことを学ぶべきです。つまり、パウロはこう教えました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

私たちにどんな宗教的な背景があっても、どんな文化的な背景があっても、私たち皆は同じです。つまり、私たち皆は罪人です。そして、イエス様が私たちに触れてくれないと、私たちは死ぬとき永遠に神様から離れます。私たちの罪のせいで、私たちはのけ者になりましたから。

おまけに、その10人のように、私たちは自分自身を救うために何もできません。

その時代、ツァラアトの治療がなかったので、ツァラアトに冒された人は、何もできませんでした。

そのツァラアトに冒される人のように、私たちは一つのことしかできません。それは、神様様の憐れみを願うことです。

その十人はイエス様にこう叫びました。

イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。(13)

イエス様は彼らを憐れんで、癒してくださいました。でも、彼らは信仰が必要でした。イエス様はその場で彼らを癒してくださいませんでした。むしろ、イエス様は彼らにこう言いました。

行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(14)

そして、彼らは行く途中で癒されました。そのように、イエス様だけが私たちの罪深い心を清められます。

とにかく、自分が癒されるとわかると、彼らは大喜びでした。でも、サマリヤ人だけが、イエス様の所に戻って、イエス様に感謝しました。

イエス様はそれを見ると、こう訊きました。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(17-18)

イエス様は、どれぐらい私たちに関して、同じことを言うでしょうか。私たちの罪を清めるために、イエス様は十字架で死にました。イエス様の恵みによって、私たちは永遠の死から救われました。でも、どれぐらい私たちはその救いを当たり前のものだと思っているでしょうか。

私は感謝の言葉についてだけ話しているわけではありません。どれぐらい私たちの行動は、イエス様に対する私たちの感謝を表すでしょうか。

イエス様は愛と恵みを私たちの人生に注いだけど、私たちはその愛と恵みを楽しんでいるだけでしょうか。もしくは、その愛と恵みは私たちを通して、周りの人々に触れるでしょうか。私たちの人生は神様に栄光を与えているでしょうか。

あなたはどうですか。あなたの人生はイエス様に対する感謝を反映するでしょうか。

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ヨハネ11:45-57;12:9-11--真理を認識すること

私は前にも言いましたけど、パリサイ人たちと祭司たちの大きい問題は、彼らがイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を見たにもかかわらず、まだイエス様を信じなかったことです。

だから、この個所で、彼らは危機に直面しました。

イエス様はラザロを復活させたし、彼らはその奇跡を否定できませんでした。皆は、ラザロが4っ日間死んでいたのに、イエス様が彼を復活させたことを知っていました。だから、たくさんの人々はイエス様を信じるようになりました。

でも、パリサイ人たちと祭司たちの反応はどうだったでしたか。

「私たちはイエス様の御業をよく知っています。私たちはその奇跡を否定できません。でも、私たちはまだ信じません。」

イエス様がメシアだという証拠があったのに、彼らはどうしてもイエス様を信じませんでした。

その反面、彼らはユダヤ人たちの反応に思い悩みました。つまり、ユダヤ人たちがイエス様を王にしようとすれば、ローマ帝国はイスラエルの土地と国民を奪い取る、ということです。

ヨハネは、大祭司カヤパの言葉の皮肉さを認識しました。カヤパはこう言いました。

あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(49-50)

カヤパが意味したものは、ローマが彼らの国を奪い取るよりも、イエス様が死んだ方がいいということです。

でも、ヨハネは、こう解説しました。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51-52)

自分自身の口から出る真理が認識できないくらい、プライドと野心が彼らの目をくらましていました。

あなたはどうですか。真理を聞くとき、その真理が認識できるでしょうか。

イエス様は、「私は真理だ」と言いました。

真理がわかるようになるためには、あなたは一つのことを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が生ける神の御子キリストであることです。それを認めるまで、あなたは真理を決して認識できません。

あなたはどうですか。真理が認識できるでしょうか。

 

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ヨハネ11:23-44--死んだ者に命を与える方

いつかこの11章を終えるでしょう。でも今日はまだ終えません。:)

この個所は真理に富む所だから。

イエス様がマルタに「あなたの兄弟はよみがえります。」と言ったとき、マルタはこう答えました。

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。(24)

でもイエス様はこう答えました。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。(25-26)

つまり、「よみがえりはただの未来の出来事ではありません。私はよみがえりです。私は死んだ者に命を与える者です。もし私を信じれば、あなたは決して死ぬことがありません」ということです。

そして、イエス様はラザロを復活させて、自分の言葉を証明しました。

イエス様はラザロを復活したように、イエス様を信じる人たちのすべてを復活させます。

パウロはこう言いました。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり[ます]。(第一テサロニケ4:16)

そして、パウロはこう言いました。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(第一コリント15:51-53)

ラザロの場合、彼はよみがえらされたけど、もう一度死にました。でも、イエス様は私たちを復活させるとき、私たちに朽ちない体を与えてくださいます。

あなたはどうですか。死後、あなたがどうなるか存知ですか。永遠の命を持つ確信があるでしょうか。

イエス様はよみがえりと命です。イエス様を信じると、あなたは決して死ぬことがありません。あなたがこの世を去ると、新しい命は始まります。

だから、イエス様はマルタに訊いたように、あなたにも訊きます。「このことを信じますか。」

あなたがマルタのように答えるように。

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。(27)

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ヨハネ11:17-44--私たちの苦しみをイエス様に打ち明けること

私たちの多くは、苦しむとき、その苦しみに取り組まずに、埋めてしまいます。私たちはその苦しみを無視しようとします。もしかしたら、私たちは仕事や、食べ物や、楽しいことでその苦しみを埋めようとするかもしれません。でも、その苦しみは私たちの魂を腐らせてしまいます。そして、その腐敗は広がって、私たちを食い尽くしてしまいます。

私たちはどうしたらいいでしょうか。

マリアとマルタはそれを経験しました。彼女らの兄は亡くなりましたから。おまけに、もしイエス様がもっと早く来れば、ラザロが死ななかったことをよく知っていました。でもなぜか、イエス様はすぐに来てくれませんでした。だから、彼女らはラザロの死を考えると、苦しんだし、多分、イエス様が彼女らを裏切ったと思ったでしょう。

だから、イエス様がやっと来た時、彼女らは大体同じことを言いました。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(32)

私は前にも言ったけど、もしかしたら、マルタはそれを言ったとき、イエス様を責めずにその言葉に「私はあなたをまだ信じる」という意味を含めたかもしれません。

でも、マリヤの場合、多分苦しみを込めた声で、それを言ったでしょう。だから、ヨハネはイエス様の反応を描写するとき、こう言いました。

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ[ました]。(33)

どうしてイエス様はそのように反応したでしょうか。多分イエス様はマリヤに同情したでしょう。でももしかしたら、イエス様はマリヤの不信仰を見たので、傷ついたかもしれません。38節で、ほかの人々がどうしてイエス様がもっと早く来なかったか訊いた時、イエス様は同じ反応をしました。

だからイエス様はラザロのお墓に行ったとき、マルタにこう言いました。

その石を取りのけなさい。(39a)

私はマルタの答えがよくわかります。

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。(39b)

でもイエス様は答えた。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

最初、マルタはその言葉に従うのは、気が進みませんでした。もう手遅れでしたから。ラザロはもう亡くなっていました。

でも結局、彼女がイエス様の言葉に従ったので、イエス様はラザロを復活させました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは、どんな苦しみを心の中に埋めてしまったでしょうか。その苦しみのため、どんな苦々しい思いを持っているでしょうか。つまり、ほかの人々に対する苦々しい思い。または、神様に対する苦々しい思い。

イエス様はあなたに、「その石を取り除けなさい」と言います。「あなたの苦しみと苦々しい思いを打ち明けなさい。そのものはあなたの心の中で腐っているから。だからその苦しみを打ち明けなさい。もし、私を信じるなら、あなたは神様の栄光を見るから。」

あなたはどうするでしょうか。

 

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ヨハネ11:7-10--光の中を歩んでいること

イエス様がラザロとその家族に会うためにユダヤに行こうとすると、イエス様の弟子たちはその決断に反対しました。

先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。(8)

でも、イエス様の答えは本当に印象的です。

昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(9-10)

イエス様が意味したものは何だったのでしょうか。

天の父の御心に従う限り、きっと大丈夫になるでしょう。天の父の導きを信頼する限り、つまずかないでしょう。そう、イエス様は教えました。

その反面、神様の御心に従わない人、また、天の父の導きを信頼しない人は困ってしまいます。

だから私たちは、イエス様のように生きるべきです。

前回の記事で私は、イエス様が他の何よりも私たちの信頼を望む、と言いました。そして私たちがイエス様を信じて従う決断をすれば、私たちは現実をはっきりと見ます。私たちの状況が大変な時、私たちには、イエス様の愛が見えます。また私たちの試練が一時的なものであることが分かります。

でも世の光から離れると、私たちの試練と受けた傷のため、私たちは絶望の暗闇の中でつまづきます。

あなたはどうですか。あなたには、はっきり見えるでしょうか。

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ヨハネ11:1-45--私たちが信じるために

これはイエスの最も有名な奇跡の一つです。私は何回もこの話を読んだことがあるけど、今回、この言葉は私の心を打ちました。

あなたがたが信じるために。。。(15)

この個所では、私たちはこのテーマを何回も見ます。そして、その言葉にあって、私たちはイエス様の動機を見ることができます。時々、人々はイエス様の行動がわからなかったけど、イエス様の動機は、彼らの信仰が成長することです。

だからイエス様はマルタの信仰に挑戦しました。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

そして、イエス様はラザロのお墓で祈ったとき、こう祈りました。

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(42)

そして、ラザロの復活の後、ヨハネは私たちにこう言いました。

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

イエス様が私たちが学んでほしいことの一つは、私たちがイエス様を信頼することです。私たちのすべての経験、私たちの苦しみや試練の中にあってイエス様を信頼すること、それがイエス様の意図されていることです。

時々、私たちは神様にこう訊きます。「神様、あなたを愛しているけど、どうして、私はこの試練に直面しているのでしょう。あなたは私のことを本当に愛しているでしょうか。」

この話では、マリヤはそう訊きました。マリヤはイエス様のことを本当に愛していました。別の話で、彼女はとても高価な香油でイエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐいました。

マリヤはイエス様のことを愛したし、イエス様がマリヤたちを愛していることを知っていたので、ラザロが病気になると、彼女はイエス様を呼びました。イエス様がきっと来る確信がありました。

実際、イエス様はその家族を本当に愛していました。(5)

だから、イエス様は彼らの家に行かずに二日間待ちました。(6)

ちょっと待ってください。イエス様は彼らを愛していたから、行かなかったのでしょうか。

それはどういう意味でしょうか。

どうして、イエス様は二日間も待っていたのでしょうか。なぜなら、イエス様は彼らがイエス様を信頼することを学ぶのを望んでおられたから。

イエス様が二日間も来られなかったので、ラザロは死にました。でもイエス様がラザロを復活させたとき、彼らの信仰のレベルはすごく上がりました。

時々、私たちは「どうして神様は何も言わないだろうか。どうして私の祈りに応えてくれないだろうか」と疑問に思います。

マリヤとマルタは多分そう考えたでしょう。「どうしてイエス様は来てくれないだろうか。」

もちろん彼女らはイエス様を信頼したけど、イエス様は彼女らがもっともっと信頼するように望みました。

マルタの言葉をちょっと見てください。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 (21)

それは苦々しい気持ちを込めた言葉でしょうか。私はそう思ったけど、今私はわかりません。もしかしたら、それは信仰の言葉かもしれません。

「イエス様、あなたがもっと早く来ていたら、私の兄を癒すことができたことをよく知っています。でもあなたをまだ信じています。今でも、神様はイエス様と共におられ、イエス様の願いを聞いてくださることを知っています。」(21-22)

マルタはイエス様がラザロを復活させることを信じたでしょうか。多分そう信じなかったでしょう。(39節を読んでください。)

でも、もしかしたら、彼女はこう言いたかったのかもしれません。「あなたは私の願いを叶えてくださらなかったけど、あなたをまだ信じています。だからこれからも、私が困ったとき、あなたの所に行きます。」

でもイエス様はもう一度マルタの信仰に挑戦しました。

「今の問題をもうあきらめたでしょうか。そうしてはならない。あなたのお兄さんは復活する。私は命の主です。私は誰にも命を与えることができます。私を信じるものは死んでも、生きるのです。そして私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(23-26)

マルタは、「はい」と答えたけど、多分、彼女は、イエス様が意味したものが分からなかったでしょう。それでも、彼女は言いました。「あなたを信じます。あなたが神の子だと信じます。」(27)

それはどういう信仰でしょうか。それは子供の信仰です。

私たちはイエス様の言葉がわからないときもあります。私たちが神様の決断と行動がわからないときもあります。でも、私たちは混乱しても、がっかりしても「私はまだあなたを信じる」と言うでしょうか。

マルタはラザロの墓で、その疑問に向き合わなくてはなりませんでした。「大変な状態になったのに、私はイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。」

でも、彼女がイエス様の言葉に従うと、神様の栄光を見ました。

私たちもそうします。マルタに訊いたように、イエス様は私たちにこう訊きます。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

あなたはどう反応しますか。

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ルカ17:1-10--私たちの奉仕に対する態度

私たち皆は、褒める言葉を聞くのが好きです。相手が「よくできたね」と言ってくれると、私たちはとても嬉しくなります。でも、そういうわけで私たちは奉仕するでしょうか。私たちは相手の称賛を求めているでしょうか。私たちは神様の称賛を求めているでしょうか。

相手から称賛をくれないと、私たちは正当に評価されていないと感じるでしょうか。私たちは怒ってしまうでしょうか。

イエス様はとても興味深い描写を与えてくださいます。

ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。(7-10)

イエス様が意味したものは何ですか。神様は私たちの努力を正当に評価しないでしょうか。神様は私たちに報いを与えてくださらないでしょうか。違います。

ほかの個所によれば、神様は私たちの努力と働きを評価して、いつか報いを与えてくださいます。

でも、私たちが二つのことを覚えていた方がいいと思います。

一つ目は、私たちがこの世に生きている限り、私たちにするべきの仕事があることです。私たちは自分の成功を祝って、怠ける態度を取る余裕がありません。さらに、私たちには相手からの称賛を求める余裕がありません。むしろ、私たちは神様にゆだねられた仕事をし続けなくてはなりません。

二つ目は、私たちがどんな役割を持っていても、神の国でどんな立場を持っていても、私たちは神様の恵みだけによって仕えることです。

私たちは神様から報いをもらうことに値しません。もちろん、私たちは救いにも値しません。

実は、私たちの欠点や弱さ、失敗にかかわらず、神様が私たちを用いることは、恵みなのです。

それに、私たちが仕えることができるように、神様はいろんな才能や賜物を与えてくださいます。神様は私たちに力と知恵を与えてくださいます。

だから、それらを全部もらったら、私たちは自慢することができるでしょうか。

パウロはこう書きました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから私たちが生きる限り、神様にゆだねられた仕事をし続けましょう。謙遜に。忠実に。

そして、仕えるときに、どうして私たちが仕えることができる理由を覚えていてください。つまり、神様の恵みを覚えていてください。

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ルカ17:3-6--赦し

この個所では、イエス様は赦しについて話していますが、とても厳しい言葉を言っています。彼はこう言いました。

もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。

相手があなたを傷つけるとき、あなたはずっと怒りを抱いていはいけません。イエス様は私たちに「その人とじかに話し合いなさい」と命令しました。

もちろん、あなたがちょっと落ち着くまで待った方がいいと思いますけど、あなたの怒りがずっと溜まったらダメなのです。そしてイエス様が言ったのは、「相手が悔い改めれば、赦しなさい」ということです。

でも、イエス様は続けます。

かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(4)

これはただの勧めではありません。イエス様は「相手が謝るなら、あなたは許してあげるのをちょっと考えた方がいいかも」と言っていません。

イエス様は私たちに命令します。「赦しなさい。」

弟子たちの反応は何だったでしょうか。

私たちの信仰を増してください。(5)

私たちの多くが、そのように考えると思います。

「主よ。私の傷はとても深いのです。私が赦せるかどうかわかりません。私たちが相手を赦せるように、私の信仰を増してください。」

イエス様は弟子たちに(また私たちに)こう答えました。

もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ」と言えば、言いつけどおりになるのです。(6)

つまり、どれだけあなたの傷が深くても、その根は引っこ抜けられるということです。それに、あなたはそんなにたくさんの信仰がいりません。

あなたが信仰をどれぐらい持っているかは、あまり関係ありません。

あなたがだれを信じるかが、大切なのです。イエス様は素晴らしい癒し主です。あなたがどんな傷を持っていても、イエス様はあなたを癒すことができます。

だから、あなたが自分を変える強い意志があるかどうかは、大切ではありません。

実は、神様の戒めは私たちに自分自身を変える力を与えることができません。だから、私たちは自分の心を変える力がないのです。自分の力で、私たちは完全な人になることができません。

でもイエス様は私たちを変えることができます。

だから、自分の力に頼り、「頑張ろう。相手を許そう。」と思わないでください。

むしろ、イエス様に向かって、イエス様からの癒しと助を頼んでください。

そして、イエス様を信じると、あなたは奇跡を見ます。

 

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ルカ17:1-3--人々につまずきを与えること

この個所では、イエス様はこう言います。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(2)

それはとても厳しい言葉ですけど、イエス様は続けます。

気をつけていなさい。(3)

つまり、「私はあなたに話しているよ。あなたに警告しているよ。気を付けていなさい。」ということです。

それを読んで、私はちょっとびくびくしています。私には9歳の子供がいます。彼女も小さいものだと思います。私はどんな父だろうか。私は頑張っているけど、完全な父ではありません。

彼女は私を見ています。私は良い模範でしょうか。もしくは、私の行動によって、娘につまずきを与えているでしょうか。

それを考えるとき、私はこう祈ります。「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」

でも、私はほかの人々につまずきを与えているでしょうか。私は、妻や、同僚や、教会の人たちに、私の行動と悪い態度によって、つまずきを与えるでしょうか。

あなたはどうですか。周りの人々にどんな影響を与えているでしょうか。あなたの助けによって、彼らはイエス様に近づいているでしょうか。もしかしたら、あなたは彼らにつまずきを与えているでしょうか。

神様、あなたは私の心をよくご存じです。私の失敗をご存知です。私が傷つけた人々をご存知です。赦してください。私を変えてください。私の心を変えてください。私の態度と行動を変えてください。私の影響で、人々があなたに近づくように。私が彼らにつまずきを与えないように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ルカ16:19-31--地獄の現実さ

地獄。それは全然楽しいトピックではありません。でもイエス様は地獄について教えました。この個所では、イエス様は地獄の実在を教えるし、地獄がどんな場所であるか教えます。

最初のポイントは、地獄が苦しみの場所ということです。人々は意識がある状態で苦しんでいます。人々が死ぬと、もう意識はないと思う人が多いです。でもその考え方は間違っています。地獄で、人々は自分の状況をよく知って、苦しみます。

二つ目のポイントは、悪者と義人の間には、大きな淵があることです。そして、人々はその淵を渡ることができません。一旦地獄に入ると、脱出できません。もう手遅れで、悔い改めることができません。実は、多分、地獄にいる人が悔い改める気はないと思います。この話では、金持ちは苦しんでいても、憐れみを願っていても、悔い改めませんでした。

三つ目のポイントは、地獄にいたいと思う人がいないのです。また、地獄にいる人は、愛しているものが地獄に来ることを望みません。

時々、人々はこう言います。「私はクリスチャンになりたくないです。なぜなら、私の両親と祖父母は亡くなりましたから。もし、彼らが天国に行けないなら、私も行きたくないのです。」

でも、この金持ちの言葉を聞いてください。

父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。(27-28)

アブラハムは、「それは無理だ」と答えました。なぜなら、神様がそれを許しても、その金持ちの兄弟たちがすでに神様のみ言葉を拒絶したので、誰かが復活して、彼らに警告しても、彼らは信じないでしょうから。

皮肉なことですが、別のラザロは、イエス様の力で復活しました。だから、イエス様は自分が神の子であることを証明しました。でも、イエス様の敵がそれを見ても、イエス様を拒絶したし、イエス様とラザロを殺そうと計画しました。

しかし、私のポイントは、その金持ちは家族が地獄に来ることを望まなかったことです。だから、あなたの家族と友達が地獄にいるため、あなたがイエス様の救いを拒絶しているなら、その金持ちの言葉を覚えていてください。あなたの家族と友達はあなたが地獄に行くことを望みません。

どうやって、私たちは地獄を避けることができるでしょうか。それには、イエス様を信じなくてはなりません。イエス様があなたの罪のために死んでくださり、よみがえられたことを信じなくてはなりません。イエス様を主と救い主として受け入れなくてはなりません。

「神様が愛なら、どうして人々を地獄に送るでしょうか。」と訊く人もいます。

でも、神様から離れた人生そのものが、地獄なのです。あなたが命と愛と喜びと平和の源から離れるなら、それは地獄ではありませんか。

神様が人々を地獄に送ることよりも、人々が自ら地獄に行くことを選びます。つまり、彼らは命の意味を与える方に背を向けるのです。そうすると、どうなるでしょうか。彼らは絶望しか持っていません。それは地獄です。

あなたはどうするでしょうか。命の源に向かうでしょうか。もしかしたら、命の源に背を向けるでしょうか。それはあなたの選択です。

 

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ルカの福音書16:19-31--準備しないと

この個所で、イエス様は地獄について話します。そして、それは本当たに生々しい描写です。なぜなら、イエス様はある人の経験を描写するから。

ある学者たちは、イエス様が実在の人について話していると考えています。なぜなら、この話で、イエス様は登場人物の名前を教えるから。

私は、この出来事が本当に起こったかどうかわかりません。でもこの話を通して、イエス様は、私たちが永遠のために準備するべきだとはっきり警告しています。だから、16章では、最初の話(ズル賢い管理人)と最後の話には強い関係があります。

この話では、イエス様はぜいたくに暮らしている金持ちについて話します。彼のニーズはすべて満たされたし、欲しいものをすべて持っていたから、自分の未来は全然気になりませんでした。

また、彼は周りの人々のことも心にとめていませんでした。

毎日、彼はラザロという乞食の前を通り過ぎました。私たちはラザロについてあまり知らないけど、もしかしたら、ラザロは体が不自由だったので、物乞いしかできなかったのかもしれません。

そしてラザロは、いつも金持ちの食卓から落ちる物を食べたいと思ったけど、金持ちはラザロに全然気づいていませんでした。

彼らは何年もそのような生活を送りました。

でも、彼らが死ぬと、ラザロはアブラハムのふところに連れて行かれて、慰められて、金持ちはハデス(地獄のようなところ)で苦しみました。そして、彼が助けと憐れみを求めると、アブラハムはこう答えました。

子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(25)

アブラハムが意味したものは何ですか。その金持ちはずっとこの世の人生を楽しみました。彼は富を蓄えて、快楽を求め、勝手気ままに暮らしていました。でも、彼は全然永遠のために備えをしていませんでした。

その反面、ラザロはこの世に何も所有してませんでした。生前は、彼は本当に苦しんでいました。それでも、彼は永遠のために準備しました。

だからその二人が亡くなった時、ラザロは慰められたけど、金持ちは苦しみました。

お金は、その金持ちの問題ではありませんでした。彼の問題は、未来のために準備していなかったことです。イエス様の言葉に従わずに、彼が自分のお金をちゃんと使わなかったので、永遠の住まいに迎える人が全然いませんでした。(16:9)

その人の模範に従わないように。私たちの命はとても短いです。それを覚えて、永遠のために準備しましょう。そうしないと、金持ちのように永遠に苦しみます。

あなたはどうですか。永遠のために準備しているでしょうか。

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ルカ16:15-18--自分を正しいとすること

パリサイ人の一つの大きな問題は、独善的な態度です。

彼らは細かいルールに従ったけど、彼らには自分の目立った罪が見ることができませんでした。そして、イエス様がその罪を指摘したとき、彼らはその罪を否定ました。「私たちは正しい人だ」と言い張りました。

だから、イエス様は彼らにこう言いました。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。(15)

この話では、イエス様は彼らのお金に対する執着を裁きました。でも、パリサイ人たちはこう思いました。「でも、私のお金は神様の祝福のしるしだろう。イエス様は何を言っているんだろう?」

でも、彼らの心の中では、お金は彼らの偶像になりました。彼らは神様よりも、お金を愛していました。もしかしたら、彼らはお金よりも一つのものだけを愛していたかもしれません。それは、周りの人々の誉め言葉です。だから、彼らは施しをしたとき、たくさんの人に見られるのを確認しました。

たくさんの人々はお金や、周りの人々からの称賛を求めるけど、神様の目にはそれらは憎まれるものです。もちろん、お金と誉め言葉自体は悪いものではありません。でも、それらが私たちの人生の目的になると、また、それらが私たちの神になると、私たちの神様との関係の邪魔ものになります。

パリサイ人たちは人の前で自分を正しいことをする他にも、色んなことをしました。彼らは余計なルールを強制したけれど、そこに抜け穴を見つけると、自分自身を褒めました。

例えば、イエス様は彼らの姦淫の考え方を非難しました。あるパリサイ人はその律法を避けるため、自分の妻たちと離婚して、すぐに別の人と再婚しました。でもイエス様は彼らにこう言いました。

だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。(18)

でも、最悪なのは、彼らは罪人に触れずに、罪人を裁いたことです。彼らは律法を利用して人々を裁きました。彼らは全然その罪人の救いを望みませんでした。むしろ、彼らは「人々から天の御国をさえぎっていました。」(マタイ23:13)

それでも、ある人々はパリサイ人を押し切って、天国に入っていました。つまり、パリサイ人たちが拒絶した人々はイエス様に触れられて、パリサイ人たちとその余計なルールを押し切って、神の国に入っていたことです。(16:16)

あなたはどうですか。あなたの心に何が入っているでしょうか。あなたのうわべはきれいなのに、あなたの心は汚いでしょうか。

あなたは独善的な態度を持っているので、自分の罪がわからないでしょうか。

私たちがパリサイ人のようにならないように。むしろ、イエス様が私たちの罪を表して、神様との関係を塞ぐ私たちのプライドの壁を壊すように祈りましょう。

 

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ルカ16:13-15--誰に仕えるでしょうか。何に仕えるでしょうか。

私たちの社会では、お金という神はとても人気です。多くの人々はお金を慕い求めます。彼らはお金のために働きます。時々、お金のために彼らは死にます。(例えば、過労死です。)

でもイエス様はこう言いました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(13)

私は以前も言いましたけど、私にとっては、その教えがとてもきついです。特に、お金を使って人に仕えるのは難しいです。だから、私は自分自身にこう訊くべきです。私は誰に仕えているでしょうか。

私はお金に仕えているでしょうか。私は頑張って働いて、持っているお金をできるだけ握っているだろうか。もしくは、その金を神様に仕える道具とみなすだろうか。神様は、いつでもどこでも、私のお金にアクセスができるでしょうか。

そうではないなら、私は神様ではなく、お金に仕えています。実は、それは偶像礼拝です。

それはパリサイ人たちの問題でした。彼らがイエス様の言葉を聞いた時、彼らはあざ笑っていました。

その時代、人々は富が神様の祝福のしるしだと考えていました。

「神様は義人だけを祝福するだろう。私はたくさんのお金を持っているので、確かに私は義人だろう。」

それだけではなく、彼らは貧乏な人々を見下しました。彼らはイエス様をも見下しました。だから、彼らは偶像礼拝を犯しただけではなく、プライドと言う罪を犯しました。

あなたはどうですか。あなたは自分の持ち物を誇るでしょうか。あなたの持ち物はあなたの神でしょうか。あなたはお金に仕えていて、神様の国のために周りの人々に触れないでしょうか。

あなたは何に仕えているでしょうか。誰に仕えているでしょうか。

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ルカ16:10-12--忠実さ

前回の記事では、私たちはズル賢いの管理人の話を読みました。その管理人が自分の未来のために準備していたので、イエス様はその人を褒めました。それでも、イエス様はその人を責めました。イエス様はこう言いました。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(10)

要するに、だれを信頼するか気をつけなさい。どんな人にも大きい責任をゆだねることをせず、まず、人々をちゃんと見てください。最初に、その人に小さい責任を与えて、その人がちゃんと果たすかどうか確認しなさい。その人が忠実に仕えるなら、もっと大きい責任を与えなさい。でも、小さい責任でも、その人が不忠実なら、その人を信頼するな、ということです。

でも、私たちは相手を評価するだけではなく、私たち自身にも見なくてはいけません。イエス様は続けました。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(11-12)

神様は私たちにお金や、いろんな資源を与えてくださいました。あなたはその資源を忠実に使っているでしょうか。

あなたのお金が、実は神様のものだとわかるでしょうか。神様はあなたに才能と体力を与えてくださいました。だから、あなたはお金を稼ぐことができます。あなたが持っているお金はあなたのものではありません。あなたは、神様のお金を管理しているだけです。

もしあなたが忠実に神様のお金を管理していないなら、神様があなたにほかの責任を与えると思うでしょうか。特に、神様はあなたにミニストリーの責任を与えるでしょうか。

私は教会の働きだけについて話していません。あなたの学校や、職場や、近所では、たくさんの人は神様が必要です。神の国の一員として、私たちはその人々に触れるように呼ばれました。私たちはそうすれば、天国で報いを得ます。

でも、あなたが一時的な物であなたが不忠実なら、神様は永遠のものであなたを信頼できるでしょうか。

あなたは、神様があなたにゆだねたもので忠実でしょうか。神様はあなたを信頼できるでしょうか。

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ルカの福音書16:1-9--私たちの未来を確保すること

私たち皆は安定した未来を望みます。でも私たちはちゃんと準備しているでしょうか。そして、未来を考えると、永遠のもののためにも準備しているでしょうか。

このイエス様のたとえ話は、ちょっと変わっていました。なぜなら、イエス様は私たちがどのように生きた方がいいかを教えるのに、悪い人の模範を用いたから。

この話では、ある管理人は、その雇い主のお金を乱費しました。もしかしたら、彼はそのお金を横領したかもしれません。雇い主はそれがわかったら、その人を首にしました。でもその前に、管理人は会計の報告を出さなくてはなりませんでした。だから、その報告を完成するまで、彼はまだ雇われていました。

その報告をしている間、管理人はどうやって自分の未来を確保できるか考えました。彼は肉体労働者になりたくなかったし、雇い主が推薦状を書いてくれないので、別の人のために管理人として働かないでしょう。もちろん彼は乞食になりたくなりませんでした。

だから、彼は計画を立てました。彼は雇い主の債務者たちのところにに行って、その借りを減らしてあげました。なぜなら、彼はこう思ったから。

こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。(4)

そこまで、そのたとえ話はあまり変わった話ではありませんでした。でも、雇い主がその管理人の行動を知ると、その反応はとても変わったものでした。

主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。(8b)

どうしてでしょうか。その管理人は自分の未来を確保したから。(でもきっと、管理人を褒めた後、雇い主は「出て聞け」と叫んだでしょう。)

そして、イエス様はこう言いました。

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないもの[です」。(8a)

要するに、この世の人は、自分のお金と立場を賢く利用して、また人を賢く扱うので、自分の未来を確保するのです。世の人はそうするのなら、ましてクリスチャンたちはなおさらです。でも、クリスチャンとして、この世の人生だけではなく、永遠を考えなくてはいけません。

たとえ話では、管理人が自分の立場を利用したので、人生の次の段階に入ると、友達は彼を迎えました。私たちにはこの話はどんな関係があるでしょうか。イエス様こう言いました。

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(9)

イエス様が意味したものは何ですか。私たちは、人々が神の国に入られるように、資源を利用することです。例えば、宣教師たちにお金をささげることです。また、教会に献金をささげることです。また、誰かと一緒に食事して、福音を伝えることです。

そうすれば、天国にたどり着いた時、あなたのお金はなくるけど、あなたが福音によって触れられた人々はあなたを歓迎します。さらに、イエス様はあなたを迎え、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言います。

でも、自分のお金を自分自身だけのために使うなら、あなたを迎える人は誰もいないでしょう。そして、イエス様はあなたを迎えると、あなたは自分のお金の使い方を申し開きをしなくてはなりません。その時、あなたが自慢する達成はどうなるでしょうか。パウロはこう言いました。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:12-15)

あなたはどうですか。あなたの未来を確保しているでしょうか。

 

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ルカ15:11-24--恵みの贅沢さ

多分、これはイエス様の話した中でも一番有名なたとえ話でした。でも、パリサイ人たちはその話を聞くと、本当にあきれたかもしれません。

なぜなら、パリサイ人にとっては、この話の主人公が嫌な人でしたから。その若い人はそのお父さんに背を向け、「お父さんは死んだらいいのに」と言いました。(なぜなら、お父さんが死ぬと、遺産をくれるはずだから。)

そして、息子はその遺産を取って、ぜいたくな暮らしをしました。彼はいろんな意味で、欲張りだったし、わがままだったし、ゆがんだ人でした。

彼はすぐにその遺産を費やしてしまいました。そして、大飢饉が起こりました。

おまけに、彼のお金が無くなると、その友達も彼から離れていきました。彼は貧乏だったし、情けなくなりました。彼を助ける人が誰もいなかったので、彼は本当にみじめな仕事をしなくてはなりませんでした。ユダヤ人にとっては、豚は不潔な動物だったのに、彼は豚の世話をしなくてはなりませんでした。彼はその豚の餌を食べたいと思うくらい、飢えていました。

それは罪の欺きです。罪はあなたを一時的に喜ばせるけど、最終的に死に至ります。

とうとう、彼は自分の罪を悟りました。彼はこう言いました。「父のしもべの人生は私のよりもましだ。多分、父は私を自分の子として受け入れられないだろう。私は悪すぎたから。でも、もしかしたら、父は私をしもべとして雇ってくれるかもしれない。」

だから、彼はてくてくと歩いて家路につきました。

歩いている間、彼は自分のセリフを練習しました。

お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。(18-19)

多分、パリサイ人たちは息子の思いを聞いたら、二つの反応があったでしょう。

「もし、彼が土下座して、お父さんの許しを請うなら、お父さんは彼を許すかもしれない。でも、息子がそうしても、許してくれないかもしれないな。」

または、パリサイ人たちは「まさか。だって、その息子はひどすぎただろう。お父さんは絶対許さない。」と思ったかもしれません。

だから、彼らはイエス様の次の言葉を聞くと、あきれたでしょう。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(20)

その時代、凛としたユダヤ人の叔父さんは絶対すたこら走ったりしませんでした。だから、パリサイ人たちは、お父さんがそんなみじめな息子のために、そのように走ったことがありえないと思ったでしょう。

でも、そのお父さんはそうしました。彼はその息子を抱いて、口付けました。

その息子は汚くて臭かったし、その服もボロボロだったでしょう。それでも、そのお父さんは気になりませんでした。

そして、その息子が自分のセリフを言い始めると、お父さんは口を挟んで、しもべを呼んで、こう言いました。

急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。(22-24)

それは、神様の恵みと愛のぜいたくさです。

パリサイ人たちはそんな神が想像できませんでした。だから、彼らが周りの罪人を見るとき、その罪人を軽蔑しました。

でもイエス様は、神様がその罪人が神様に戻るように望むのを教えました。そして、その人が戻ると、神様はその人を侮りません。むしろ、神様はその人を抱いて、祝います。

あなたが神様を考えるとき、どんなイメージを持っているでしょうか。厳しいお父さんでしょうか。または、いつも責めている神でしょうか。私たちの罪をずっと覚えている神でしょうか。

イエス様はそんな神を教えませんでした。だから、周りの人々を見るときは、パリサイ人の性格ではなく、天の父の性格の真似をしましょう。

そして、もし、あなたが神様があなたのことを愛し、受け入れられるかと疑問に思うなら、神様がきっとあなたを愛して受け入れることを覚えていてください。

あなたに対する神様の愛と恵みはぜいたくなものです。そして、悔い改めさえすれば、神様はその愛と恵みをあなたに浴びせてくださいます。

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ルカ15:1-10--失われた人を捜して救うこと

この個所では、イエス様とパリサイ人たちの大きい違いを見ることができます。つまり、パリサイ人たちは失われた人々を裁いたのです。残念なことですけど、今なお、多くのいわゆるクリスチャンの態度は神様の態度と全然違います。でも、イエス様は失われた人々を探して救おうと思いました。

イエス様はパリサイ人たちと時間を過ごしたばかりだから、次はイエス様は「罪びとたち」と時間を過ごしました。実は、イエス様は普段から罪人と時間を過ごしました。

でもパリサイ人たちはそれを見たとき、イエス様を責めました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2)

パリサイ人たちは、「罪びとたち」に触れると汚れると思ったので、彼らを避けました。パリサイ人たちは決して罪人たちを食事に誘わなかったし、罪人の家を訪ねることなど想像できませんでした。できるだけ、仕事するときにも、罪人とやり取りしないように努力しました。

だから、イエス様が罪人たちを歓迎したときに、パリサイ人たちは衝撃を受けました。

だから、イエス様は三つのたとえ話を話しました。今日、私は二つのたとえ話について話します。

一つ目の話は、迷子の羊に関する話です。羊飼いはその羊を愛していたので、その羊を探しました。そして、その羊を見つけたとき、羊飼いは友達や近所の人たちを呼び集めて、こう言いました。

いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。(6)

そして、イエス様はパリサイ人たちにこう言いました。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(7)

パリサイ人たちをちょっと考えてみてください。もしパリサイ人たちが羊飼いだったら、羊を責めたでしょう。「馬鹿な羊だな。あいつが死んだら、いい気味だ。」

でもイエス様はそのように決して考えませんでした。むしろ、自分の命を捨てるほどに、羊飼いはその羊を救おうと思いました。

パリサイ人たちの考え方は全然違いました。でも、彼らはイエス様の態度を持っていたはずでした。たぶん、彼らは預言者たちの書を何回も読んだでしょう。そして、彼らがその書をちゃんと覚えていたら、神様はそのように考える方だとわかるはずでした。実は、それがホセア書の要点です。

そして、イエス様は銀貨を一枚をなくした女の人について話しました。たぶん、それは結婚した女性の頭飾りだったのでしょう。頭飾りとは、10枚の銀貨で作られたアクセサリーでした。現代の結婚指輪に似ているでしょう。もし、あなたが結婚指輪をなくしたら、どう感じるでしょうか。その女の人もあなたと同じように感じたでしょう。

だから、彼女は頑張って、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜しました。

そのように、神様はあまねく全地を見渡し、念入りに失われた人々を探して、救おうと思います。そして、イエス様によれば、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(10)

それは、神様の態度です。あなたはどうですか。「罪びと」を見ると、その人を裁くでしょうか。もしくは、彼らに神様の愛で触れて、彼らの救いのために働くでしょうか。

人々を裁くのパリサイ人のようにならないように。むしろ、私たちを救ってくださったイエス様のようになりましょう。

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ルカ14:25-35--費用を計算すること

大勢の群衆がイエス様についていくとき、イエス様は彼らの心を探っていて、彼らの動機を見抜こうと思ったでしょうか。

彼らはイエス様の奇跡を見るためについて行いったでしょうか。イエス様の素晴らしい教えを聞くためについていったでしょうか。もしくは、彼らは本当にイエス様がメシアであることを信じたからついていったでしょうか。

多分そういうわけでイエス様は彼らに挑戦しました。

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(26-27)

要するに、「あなたは本当に私の弟子たちになりたいと思っていますか。その代価は高いです。あなたの家族をも失うかもしれません。あなたの命をも失うかもしれません。」ということです。

イエス様は弟子たちに決して楽な人生を約束しませんでした。実は、彼は正反対なものを約束しました。

十字架を負うのは全然楽なことではありませんでした。また、人々が十字架を地面に置いた後、彼らはその十字架で苦しみ、ひどい死を経験しました。でも、その十字架を負わないで、つまり、あなたがイエス様のために試練を経験することを拒むなら、イエス様はあなたが弟子になることはできないと言いました。

それは受け入れやすい言葉でしょうか。そんなことはありません。

でもイエス様は私たちに挑戦します。「私についていきたいと思うなら、費用を計算しなさい。」

イエス様はその決断を塔を築くことと比べました。もしある人は前もってその費用を計算しないので、その塔が完成できないなら、周りの人々はその人をあざ笑います。

そのように、もしあなたはイエス様についていき初めるけど、試練のせいで諦めると、あなたは恥をかきます。

でも、もう一つの費用を計算しなくてはなりません。イエス様についていかないと思うなら、その費用をも計算するべきです。イエス様はこう言いました。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。(31-32)

あなたには神様との平和があるでしょうか。もしくは、あなたは神様と戦っているでしょうか。あなたは神様と戦っていないと思うかもしれませんけど、イエス様をあなたの主として拒絶するなら、実は、あなたは神様に反抗しているのです。

ちょっと考えてみて下さい。聖書によれば、神様は私たちと和解をもたらすためにイエス様をこの世に送りました。でも、どうして私たちには神様との和解が必要でしょうか。私たちは神様と戦っているからです。

だからイエス様は私たちに警告します。「あなたが神様と戦っているなら、その費用を計算しなさい。もし、ある王はほかの王と戦い交えようと思うなら、勝利の見込みを考えます。もし、勝利できないと思えば、平和をもたらそうとします。」

私たちもそうするべきです。実は、神様はもう私たちに手を伸ばしています。でも、神様との平和を望むなら、あなたは神様の条件を受け入れなくてはなりません。つまり、イエス様の十字架の働きを信じ、イエス様を主として受け入れなくてはなりません。

そうすれば、本当の命を知ります。でも、イエス様を拒絶しているまま、あなたが亡くなるなら、神様との戦いがどれだけひどいか分かるようになります。

だからまだ時間がある間に、神様との平和を求めてください。神様は私たちがこの世の塩になるように呼びます。私たちがこの世を神様の光と愛で影響するように呼ばれます。あなたが役立たない塩にならないように。

 

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