テサロニケ人への手紙第二3:1-5--試練に直面するとき

私はこのブログで何回も言いましたが、神様は私たちに安楽な人生を約束していません。パウロは確かにそんな人生を送りませんでした。

福音のためにパウロは鞭で打たれて、迫害されました。彼は海で遭難を経験したし、耐えられないほどの圧迫を受けました。最終的にはパウロはキリストのために殺されました。

それでも、パウロは頑張りました。どうして、彼は頑張ることが出来たでしょうか。

パウロはテサロニケ人たちに頼みました。

最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。また、私たちが、ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです。(1-2)

多分、いくつかの理由で、パウロは頑張ることが出来ました。

一つ目は、パウロが自分の苦しみの実を見たことです。つまり、パウロが、テサロニケ人たちにやピリピ人たちを通して、神様が働いていることを見たことです。だから、パウロは、自分の働きと苦しみが無駄なことではないと分かって励まされました。

二つ目は、パウロは、人々がパウロのために祈ってくれていることを知っていたことです。パウロは、「私は大丈夫です。自分の力で、試練を乗り越えらえるから」と決して言いませんでした。

むしろ、パウロは何回も頼みました。「私のために祈ってください。私の回りに災いがあるし、悪い人もいますから。」

三つ目は、パウロに対して敵対的な人がいても、パウロは主が忠実で良い方だと理解していたことです。パウロはこう言いました。

すべての人に信仰があるわけではないからです。しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし悪い者から守ってくださいます。(2-3)

そしてパウロは、テサロニケ人たちに頑張るように励まして、こう言いました。

私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています。

最後に、パウロは、彼らが試練の中でしっかり立てるようにカギを教えています。彼は祈りました。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(5)

多くの場合、私たちの試練によって、私たちは怒りや苦々しい思いに落ちてしまって、神様に見捨てられたと思います。そして、自分自身をかわいそうに思います。周りの人たちが私たちのことを理解してくれないと思うから。

でも、パウロは言います。あなたの試練のせいで、神様から離れないでください。むしろ、その試練によって、神様に近づきましょう。神様のもとに駆けつけましょう。

さらに、パウロは私たちに促します。「キリストを覚えていなさい。イエス様があなたのために何を耐えたかを覚えていなさい。イエス様は愛している人たちに裏切られ、見捨てられました。そして、イエス様は侮辱され、鞭で打たれ、十字架に付けられました。それでも、イエス様はそのすべてを耐えました。なぜでしょうか。なぜなら、イエス様はあなたを愛しているから。

だから、あなたはもう耐えられないと思う時、イエス様を仰ぎましょう。イエス様はあなたのことが分かりますから。イエス様はあなたを愛しています。あなたは見捨てられていません。」

へブルの著者こう言いました。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

また、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(15-16)

だから、あなたは見捨てられて、やられたと思うなら、パウロのように、私はあなたのために祈りたいと思います。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(5)

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テサロニケ人への手紙第二2章--酷い苦難の中の希望

私は前にも言ったけど、クリスチャンたちが反キリストを見て、迫害されることを信じます。そして私は、イエス様が反キリストを滅ぼしに来るまで、自分の民を集めないと信じます。どうして私はそう信じるでしょうか。この個所の言葉がその一つの理由です。

あるクリスチャンたちは反キリストが来る前に、イエス様は自分の民を集めて、天国に連れて行くと思います。彼らの主張は、もし、キリストが来る前にあるしるしが成就しなければならないとしたら、イエス様がいつでも来られるとは限らないのだそうです。だから彼らによれば、そのしるしを見るまで、私たちは何の準備もしなくていいということです。

私は二つの答えがあります。

一つ目は、イエス様が自分の民を集める前にいろんなことが起こらなくてはならないけど、イエス様はいつでもあなたを天国に連れて行くかもしれません。イエス様は、あなたに明日のことを約束していません。あなたは交通事故で死ぬかもしれません。また、あなたは犯罪人に殺されるかもしれません。そのようなことが起こるなら、あなたは何等かの準備しているでしょうか。もしかしたら、イエス様のたとえ話のように、神様が急にあなたを裁くために呼ぶ時、あなたは何の準備もしていないでしょうか。(ルカ12:13:21)

二つ目は、その議論はパウロの言葉に反対することです。パウロ自身は言いました。「イエス様はまだ来られていません。その前にあるしるしが成就されなくてはなりません。」

パウロの時代から今まで、何が変わりましたか。何も変わっていません。イエス様はまだ来られていません。そして、私たちはいつイエス様が来られるか分かりません。だから、パウロがまだ生きているとしたら、私たちに同じことを言うでしょう。「イエス様はまだ来られていません。まだあるしるしは成就されなくてはなりません。」

もちろん、クリスチャンが反キリストを見ることは不穏なことです。特に今まで、我々クリスチャンたちが反キリストを決して見ないと信じていた人は、それを聞きたくないと思いうでしょう。

でも、私たちは希望を持っています。

パウロによれば、酷い苦難の時、つまり、反キリストの時代、この世界の人々は神様のみ怒りを受けるけど、私たちはその御怒りを受けません。(第一テサロニケ5:9)

また、ペテロはこう言いました。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを試練から救い出し、正しくない者たちを処罰し、裁きの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(第2ペテロ2:9も別訳、脚注を調べてください)。

さらにパウロはテサロニケ人たちにこう言いました。

しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。(13-14)

要するに、あなたは試練を経験するかもしれないけど、神様があなたをもう選んだので、あなたを必ず救うことです。そして、あなたはイエス様の栄光にあずからせてくださいます。

そういうわけで、パウロはこう言います。

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(15-17)

私たちが何を経験しても、反キリストに直面しても、パウロは私たちに言います。「あなたが受けた真理にしがみつきなさい。何よりも、イエス様にしがみつきなさい。なぜなら、一番暗い時に、イエス様は、私たちに励ましと希望と力を与えてくださいます。」

実は、もし私の考え方が間違っていて、私たちが反キリストに会う必要がなければ、私はとても嬉しいです。でも、私たちが反キリストを見るとしたら、イエス様にしがみつきましょう。イエス様は私たちにその試練を乗り越えるように助けてくださいます。

 

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テサロニケ人への手紙第二2章--どうしてたくさんの人が滅びるでしょうか

1章では、パウロはかなり不穏なことを言います。

パウロはテサロニケ人たちにこう言いました。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え。。。主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。(6,8-9)

地獄の定義が欲しいなら、9節はそのコンセプトをまとめます。地獄とは、人々がいつまでも、主の御前から退けられるということです。

「永遠の滅び」を聞くと、ある人は「もう意識していない状態」と考えます。でも、聖書によれば、滅びた人は、実はまだ意識があります。そして、神様がいのちや喜びや愛の源なら、神様から離れる存在は地獄でしょう。

でも、どうして、人々は神様から退けられるでしょうか。

今日の個所では、その答えを見つけます。

2章では、パウロはテサロニケ人の誤解を解きます。あるテサロニケ人たちはパウロの以前の手紙を読むと、イエス様がもう帰って来られたと思ったので、その帰りを見逃したと思って、心配しました。

でも、パウロは彼らを励ましました。「あなたたちはイエス様を見逃していません。イエス様が来られると、すべての人が必ずイエス様を見ます。イエス様が来られると、あなたは必ず知ることになります。」

そしてパウロは、将来に何が起こるか説明します。

イエス様が来られる前、反キリストが来ます。反キリストは、神様に対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言します。パウロの時代から、実はその前から、私たちはこの世界に不法の力を見ています。私たちを滅ぼしたい偽りの父はその力の源です。でも、今に至るまで、聖霊様はサタンを引き止めています。

でも、ある日、聖霊様が取り除かれて、サタンは自由にこの世を統治します。反キリストは来ると、偽りのしるしと不思議を行います。そういうわけで、多くの人たちは騙されて、反キリストが本当のキリストだと考えます。だから、彼らは結局滅びます。(3ー10節)

でも、どうして彼らは滅びなくてはならないでしょうか。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。(10-11)

これは人が地獄で滅びる主な理由です。神様は彼らに福音の真理を伝えてくださいました。福音を聞いたことがない人でも、創造物のあかしも、自分の良心のあかしもあります。(ローマ書1章)

それでも、彼らは救いに導く真理を愛することを拒みます。むしろ、彼らは自分の罪を喜びます。

多くの人々は福音を信じることが出来ないわけでもありません。むしろ、彼らは福音の真理を信じたくないのです。なぜなら、彼らは福音を受け入れると、悔い改めなくてはなりませんから。彼らは自分の罪を捨てなくてはなりません。でも、彼らはそうしたくないのです。

だから神様は彼らに言います。「あなたは真理を受け入れたくないのですか。では、この惑わす力の偽りを飲み込みなさい。」

彼らはそうするので、永遠に自分の罪を抱き締め、神様を呪い、決して悔い改めません。そういうわけで、彼らは地獄で滅びます。

あなたはどうですか。あなたは真理を持っているけど、どうするのしょうか。その真理を受け入れて、救われるでしょうか。もしかしたら、自分の罪にしがみついて、滅びるでしょうか。

主のみ言葉を覚えていてください。

わたしは生きている。。。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

あなたはいのちを選ぶことが出来ます。どうして死を選ぶのでしょうか。あなたはどうしますか。

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テサロニケ人への手紙第二1章ーーイエスの名が私たちの間であがめられ、私たちも主にあって栄光を受けるため

苦しみが好きな人は、誰もいないでしょう。どうして神様が私たちの苦しみを許すか、疑問に思うのは簡単なことです。でも、この手紙では、私たちはいくつかの答えを見つけることが出来ます。

私は以前にも言ったけど、テサロニケの教会は迫害の中で生まれました。パウロはテサロニケから追い出されて、その都市にもう一度入ることが出来ませんでした。そういうわけで、テサロニケ人たちを励ますため、パウロは自分の代わりに、テモテを送ったし、手紙を二枚送りました。これは二番目の手紙です。

テサロニケ人たちの苦しみの結果は何だったでしょうか。パウロはこう言いました。

兄弟たち。あなたがたについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたすべての間で、一人ひとりの互いに対する愛が増し加わっているからです。(3)

彼らの苦しみにかかわらず、パウロが祈っいていたように彼らの信仰と愛は成長しました。(第一テサロニケ3:11-12)

そういうわけで、パウロはこう言いました。

ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。(4-5)

「それは。。。神の正しいさばきがあることの証拠です。」

パウロが意味したものは何でしょうか。

その意味は、神様が決してミスをせずに、いつも正しいことをすることです。だから、神様が私たちの人生に試練や苦しみを許すとき、その試練や苦しみは私たちを決して滅ぼしません。むしろ、私たちは金のようになって出て来ます。(ヨブ記23:10)

私たちはその真理をテサロニケ人たちの人生に見ることが出来ます。彼らは自分の試練に滅ぼされませんでした。むしろ、彼らの愛と信仰は強くなりました。そういうわけで、パウロは、「あなたたちは苦しんだけど、あなたたちは神の国にふさわしいものと認められる」と言いました。

そして、パウロは彼らを励ました。「この世では、正義を受けないかもしれないけど、最終的に、神様はあなたの迫害者を裁き、あなたたちに安らぎを与えてくださいます。」

黙示録6:9-11では、神様は似た言葉を、クリスチャンの殉教者たちに言ってくださいました。

とにかく、パウロはその日についてこう言いました。

その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。(10)

私はその言葉が大好きです。イエス様が来られると、神様は、試練の中であきらめずに神様のために生き続ける聖徒たちの間であがめられます。それと同時に、神様は私たちの間で感嘆の的となられます。なぜなら、私たちはふさわしくない人だったのに、神様は恵みによって私たちを救ってくださいましたから。また、その日、私たちは、神様が私たちとともにおられ、私たちを強めてくださったので私たちが試練を通過することが出来たと悟ります。

だからパウロはこう祈りました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(11-12)

どうして私たちは苦しみを経験するでしょうか。その目的は、イエスの名が私たちの間であがめられ、私たちも主にあって栄光を受けることです。そして、何に直面しても、イエス様に従い続けると、神様は私たちの善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現して、祝福してくださいます。

そして、イエス様は来られる日に、私たちを見て、こう言います。

よくやった。良い忠実なしもべだ。。。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

アーメン。主イエスよ、来てください。

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テサロニケ人への手紙第一5:16ー28--イエス様が帰るから(2)

この手紙の終わりで、パウロは、イエス様の帰りを考慮に入れて、テサロニケ人たちがどのように生きるべきか教えます。

パウロはこう言いました。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(16-18)

テサロニケ人たちは迫害されていました。でもその迫害の中で、パウロは彼らに言いました。「神様が望んでおられるのは、あなたたちが喜び、絶えず祈り、悪い時も良い時も感謝することです。」

その言葉を書いたとき、パウロは自分のピリピの経験を考えていたでしょうか。テサロニケに行く前に、パウロとシラスはピリピで鞭で打たれ、牢に入りました。彼らはどのように反応したでしょうか。彼らは喜び、賛美歌を歌い、神様に感謝しました。その結果は?神様は文字道りにその所を揺すって、パウロとシラスを自由にして、看守とその家族を救ってくださいました。

その経験があったので、パウロはテサロニケ人たちに同じことをするように励ますことが出来ました。

そして、パウロは彼らに訓戒しました。

御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(19-22)

私たちはどのように御霊とその働きを消すことが出来るでしょうか。一番の方法は、御霊に聞かず、信頼しないことです。約束の土地に行ったとき、イスラエル人たちにはその問題がありました。(へブル3:17-19)

そういうわけで、パウロは言います。「預言を軽んじてはいけません。」

今なお、神様は人を通して語ることが出来ます。でも、私たちはその人の言葉を吟味しなくてはいけません。特に、その言葉を神様のみ言葉と比べて、人の言葉が、神様のみ言葉に合うかどうか調べなくてはいけません。その言葉が合うなら、信じましょう。その言葉が合わないなら、拒絶しなくてはいけません。

でも要点は、神様が聖書や、人を通して何かを語ると、その言葉を無視してはいけないことです。その言葉を無視すると、あなたは御霊を消します。そして主の日に、神様はあなたの責任を問います。

最後にパウロはこう祈りました。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(23

そして、パウロは私たちに思い出させます。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(24)

主が帰って来られるので、私たちは責められるところのないものとして生きるべきです。でも、私たちは自分の力によってそんな人生を送ることは出来ません。私たちは御霊の力に頼らなくてはなりません。だから聖霊様にしがみつきましょう。御霊を消してはいけません。むしろ、御霊に満たされましょう。そうすれば、聖霊様は私たちを清める事だけではなく、周りの人々にも触れます。

私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。(28)

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テサロニケ人への手紙第一5:12-15--イエス様が帰るから

イエス様の帰ってくることについて話した後、パウロは私たちが教会として、また、個々のクリスチャンとしてどのように生きるべきか教えます。

パウロは最初に私たちの人間関係について話します。

パウロは教会のリーダーたちに関してこう言います。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。

私たちはどれだけ自分の教会のリーダーたちを当たり前のことだと思うでしょうか。彼らが失敗するとき、私たちはどれだけ彼らを批判したり、見下したりするでしょうか。

実は、私たち皆が失敗する時はあります。もし、皆が私たちにスポットライトを当てていたら、私たちもよく批判されるでしょう。もちろん、リーダーたちはもっと厳しいい基準で測れるはずです。それでも、パウロは言います。「リーダーたちを尊敬しなさい。彼らはあなたのために苦労しているから。あなたが知る以上に彼らは苦労しているでしょう。だから、彼らを尊敬するだけでなく、この上ない尊敬を払いなさい。彼らが神様とその御国のため、あなたのために苦労しているので、愛を持って、この上ない尊敬を払いなさい。」

どうして私たちはそうするべきでしょうか。なぜなら、イエス様はすぐに戻ってくるから。牧師たちの些細な失敗を全部批判している場合ではありません。神様自身が彼らの責任を問います。あなたではなく、神様が彼らの裁判官です。だから、リーダーたちの人生を惨めなものにするではなく、「お互いに平和を保ちなさい。」(13b)

覚えていてください。リーダたちは主にあってあなたを指導する人たちだけど、彼らはあなたの兄弟たちと姉妹たちです。だから、神様がリーダーたちやあなたに導くにつれて、リーダーたちと戦わずに、一緒に働きましょう。

パウロはさらに言います。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。

牧師たちやリーダーたちだけが批判されているというわけではありません。教会のメンバーたちも批判される時があります。もちろん、彼らが罪を犯しているなら、私たちは彼らに訓戒するべきです。

でもほかの人は、小心な者で、霊的な敵に脅かされます。だから、私たちは彼らを鼓舞するべきです。私たちは彼らの隣に立って、戦うべきです。彼らの大変な状況で、彼らを強めるべきです。

ある人は、体力的に、精神的に、感情的に、または霊的に弱い者です。彼らが私たちの兄弟と姉妹たちなので、彼らを助けるべきです。

そして、イエス様が私たちに寛容であったように、私たちも彼らに寛容であるべきです。神様が私たちのことを諦めないので、私たちは兄弟と姉妹たちを諦めるべきではありません。

最後に、パウロはこう言います。

だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。(15)

教会の中でも、人々が私たちを傷つける時もあります。相手を許しがたい時もあります。でも、私はもう一度、言います。主はまた来られます。だから恨みや苦々しい思いを持ってはいけません。彼らの裁きを神様に委ねましょう。そして、彼らに優しくしましょう。

教会の中だけではなく、教会の外でも、そうしましょう。そうすれば、彼らはイエス様の愛を見て、イエス様に魅せられるかもしれません。

主はすぐに来られます。あなたはどのように牧師たちやリーダーたちを扱っているでしょうか。あなたはどのように兄弟たちと姉妹たちを扱っているでしょうか。あなたの周りの人々をどのように扱っているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一5:1-11--イエス様があなたのために来るとき、準備すること

たくさんの人たちは、いつイエス様が帰るか疑問に思います。パウロの時代では、テサロニケ人たちもそのこと疑問に思いましたし、今なお、たくさんのクリスチャンたちはそのことを疑問に思います。

パウロは基本的にイエス様の言葉を繰り返します。つまり、いつイエス様が帰るか誰も知りません。だから私たちはいつでも準備しているべきです。そうすれば、私たちがびっくりすることはありません。

パウロはこう言いました。

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(1-9)

イエス様が帰る日に関して、私たちがよく知っているのは、この世の人たちは自己満足で、安心を感じるということです。彼らが神様から離れているのに、自分たちの人生はうまくいくようです。イエス様によれば、その日、人たちは食べたり、結婚したり、取引したり、植えたり、建設したりします。ノアの時代、大洪水の前に、人々はそうしていました。また、ソドムとゴモラが破壊される前に、人々はそうしていました。

もちろん、その行動自体は悪い物ではありませんでした。でも、その人たちは神様に背を向け、悪を「善」と呼び、善を「悪」と呼びました。

あなたの回りにそんなことを見ることが出来るでしょうか。私は出来ます。

神様はその人たちを裁いたように、イエス様が帰ってくると、神様は全世界を裁きます。ノアとロトのような人たちだけが救われます。どうして、彼らは救われたでしょうか。なぜなら、彼らは裁きの日のために準備していましたから。

だから、パウロが言ったように、罪の暗闇に暮らさずに、光の子として生きましょう。私たちの行動が暴露されても、あなたが恥を感じない人生を送りましょう。

信仰を着けましょう。私たちへの神様の愛を信じて、また、神様が私たちの最善を望むことを信じましょう。

愛を着けましょう。神様に対する愛、また、周りの人々に対する愛を着けましょう。その愛は私たちの態度と行動を形成させるでしょう。

救いの希望を着けましょう。そうすれば、試練と向き合うとき、私たちは絶望しないでしょう。神様があなたが御怒りを受けるではなく、救いを受けるように呼んだことを喜びましょう。

私たちはいつかイエス様と共に御国にいるけど、その関係を今でも喜びましょう。私たちがこの世にいる間、イエス様が望むのは、私たちがイエス様との関係を楽しむことです。(10)

もう一つのことを覚えていてください。「主の日」、つまり、イエス様がこの世に戻る日は将来のことですが、あなたにとって、主の日とは、イエス様があなたのために来る日です。それはいつでも来るかもしれません。明日、あなたは交通事故で死ぬかもしれません。心臓発作を起こすかもしれません。地震で、死ぬかもしれません。神様はあなたに明日を約束しません。だから、準備してください。

あなたはどうですか。あなたは今準備しているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一4:13-18ーー私たちの希望

「希望は生きている者のためです。死者は希望を持っていません。」

昔のギリシャ人の詩人はその言葉を言いました。パウロの時代、多くの人々はそのように死を考えました。

実は、私は多くの日本人と話すとき、彼らは大体同じことを言います。死後に関して、彼らは希望を持っていません。彼らにとって、この人生しか何もありません。

周りの人々の影響によって、テサロニケ人たちには死後の希望があまりなかったようです。そして、自分の信仰のために殺されるクリスチャンたちを見ると、テサロニケ人たちは疑問に思いました。「イエス様がこの世に帰ると、もう死んだクリスチャンたちはどうなるだろうか。彼らはその日の喜びと希望を取り損ねるだろうか。」

でも、パウロは彼らにこう言いました。

眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(13-18)

どうして、私たちは死後の希望を持っているのでしょうか。なぜなら、イエス様自身が死んで、よみがえられましたから。そして、イエス様は私たちに言いました。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる。」(ヨハネ14:19)

また、パウロによれば、イエス様がこの世に戻ると、もう亡くなった人は復活し、空中でイエス様と会います。

それに、この手紙では、パウロは、私たちが亡くなると、すぐに主の所に行くと教えます。(1:23)

また、ルカの福音書では、イエス様は悔い改めた犯罪人に約束しました。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

だから、イエス様が帰ると、亡くなったクリスチャンの残った遺灰や骨がよみがえって、新しい体に変えられて、天にいる人の霊と一つにされます。そのあと、まだ生きているクリスチャンたちは引き上げられ、その体も変えられて、空中で主と会います。その新しい体は、朽ちないもの、死なないものになります。(第一コリント15:51-53)

ところで、反キリストが来るとき、クリスチャンたちはまだこの世に存在していると思います。私の考え方が間違えていたら嬉しいけど、聖書を読む限り、それが私の結論です。

一つの理由は、「主と会う」という言葉は、大切な人を出迎えて、その人を町に護衛するというニュアンスがあるということです。

だから、パウロの描写は、クリスチャンたちは主を空中で出迎えて、地上でイエス様を護衛することです。そのとき、イエス様はこの世を千年統治します。そのあと、イエス様は最後の戦いでサタンを打ち倒して、私たちは永遠に主とともにいることになります。

それは、私たちの希望です。私たちはその希望を希望のない人たちにシェアしなくてはいけません。兄弟たちや姉妹たちが苦しんでいて、もう限界になったと思うとき、その言葉で励ましましょう。

私たちの苦しみは永遠のものではありません。イエス様はこの世に帰って、正義をもたらしてくださいます。だから、その希望を持って、安心しましょう。

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テサロニケ人への手紙4:9-12--周りの人たちの尊敬を得るため

「偽善者」。

日本では、私は分からないけど、欧米各国では、多くの人はクリスチャンたちを偽善者とよく呼びます。

残念なことですけど、多くのクリスチャンたちはその評判に値します。

パウロの時代でも、偽善者のクリスチャンたちがいました。彼らの生活によって、彼らはイエス様の御名を汚しました。だから、パウロはテサロニケ人たちに、そのことについて書きました。

4章では、パウロは、私たちが神様を喜ばせるようにどのように生きるべきか教えます。前回の記事では、私たちは神様のための聖い宮になることについて話していました。

現代のように、その時代でも性的な罪が多かったので、パウロはテサロニケ人たちに性的な清さを守るように促しました。彼らの体は神様の宮なので、その宮を汚すべきではありませんでした。

清くない人生を送れば、私たちはこの社会に溶け込みます。でも、神様は、私たちがこの社会に溶け込むことではなく、目立つ人になるように呼びます。

そして、パウロはこの世の中で目立つ方法をもう一つ教えます。パウロはこう言いました。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。(9-10)

この世界の人たちは、情欲のことがよく分かります。でも、愛のことがあまり分からないので、彼らの一生、愛を追い求めます。

でも、イエス様はクリスチャンたちにこう言います。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

私たちがキリストの教会として互いに愛し合うと、ノンクリスチャンたちは魅せられます。

何年たってもクリスチャンの夫婦がまだ愛し合っていると、ノンクリスチャンたちは魅せられます。

全然違う人たちが教会で互いに愛し合うと、ノンクリスチャンたちは魅せられます。

クリスチャンたちが苦しんでいる人たちに触れると、ノンクリスチャンたちは魅せられます。

なぜでしょうか。なぜなら、クリスチャンたちはノンクリスチャンたちが持っていないものを持っているから。

そういうわけで、パウロはテサロニケ人たちに言います。「あなたたちは互いに愛し合ってよかった。でも、ますます豊かに愛しなさい。あなたたちの愛を通して、あなたの光を照らしなさい。」

でも、テサロニケ人たちには問題がありました。あるテサロニケ人たちは怠けものでした。主がもうすぐ帰ってくると思ったので、「なぜ私は働かなくてはならないだろうか」と思いました。だから、彼らはほかのクリスチャンたちのお金と食べ物を受けて、ヒルのように振舞いました。でも、その振る舞いによって、彼らはイエス様の御名を汚しました。

だからパウロは彼らに言いました。

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。(11-12)

ヒルのように生きるなら、私たちはイエス様の光を照らすことが出来ません。ヒルが好きな人は誰もいません。

それだけではなく、第2テサロニケによれば、あるクリスチャンたちはおせっかいばかりしていました。だから周りの人々は彼らを見るとき、「それはクリスチャンだろうか」と思いました。

そういうわけで、パウロはテサロニケ人たちに言いました。「働きなさい。ヒルになるな。ちゃんと働いたら、周りのノンクリスチャンたちはあなたを尊敬するでしょう。」

あなたはどうですか。周りの人々はあなたを見ると、どんな人を見るでしょうか。キリストの愛に満ちる人を見るでしょうか。勤勉な人を見るでしょうか。

良い理由で、あなたは目立つでしょうか。

 

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テサロニケ人への手紙第一4:1-8--性的な清さを守る事

新約聖書の時代の著者たちのように、私たちは性的な罪が多い世界に暮らしています。テレビ番組や映画やインターネットなどでそんな罪を見ることが出来ます。どこを見ても、そんな罪を見ることが出来ます。

でも、セックスに関するこの世の考え方を受け入れると、私たちは安っぽい偽物を買ってしまいます。神様が私たちのために計画したのは、夫婦が一つになって、永遠の関係を持つことです。でも、多くの人たちは一時的なスリルに甘んじます。そして、最終的に、彼らの人生は壊れて、空っぽになります。

性的な罪によって壊れた人たちの人数は数えきれません。私たちは離婚や、父のない家や、母のない家や、希望していない妊娠や、中絶や、性病や、傷ついている人をよく見かけます。

簡単に言うと、私たちのための神様の計画と違って、私たちは壊れた人たちです。

だからパウロはテサロニケ人たちと私たちにこう言います。

 最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。 私たちが主イエスによって、どのような命令をあなたがたに与えたか、あなたがたは知っています。 神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、 一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。(4-6)

「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」

それはどういう意味でしょうか。それは、私たちが神様の目的のために選ばれたということです。私たちは神様の宮になりました。神様は私たちのうちに住んでおられます。パウロによれば、私たちのからだ自体は神様の宮です。(第一コリント6:19)

でも、聖なる者になるために、私たちは性的に清くなければなりません。私たちは性的な罪を犯すとき、私たちは自分のからだに対して罪を犯します。(第一コリント6:18)

言い換えると、私たちは性的な罪を犯すと、私たちは神様の宮を汚します。だから、「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」と言ったあと、パウロは言います。「淫らな行いを避けなさい。」

要するに、結婚していない人はセックスをしてはいけません。

私たちは自分の本能に従う単なる動物ではありません。また、私たちは神様とその御心を知らない人ではありません。神様は自分自身とその御心を私たちに現わしました。また、私たちは選択する力を与えてくださいました。だから、神様はその選択のために私たちの責任を問います。

私たちが性的な罪を犯すと、私たちと寝ている人に対して罪を犯します。また、その人が違う人と結婚しているなら、私たちはその人の配偶者に対して罪を犯します。もし、自分が結婚しているなら、不倫をすると、自分の配偶者に対して罪を犯します。パウロによれば、そのために私たちは裁かれます。

神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。(7)

神様が自分の聖なる民になるためにイスラエル人たちを選んだように、神様は自分の聖なる民になるように私たちをも呼びました。

あなたは聖なる人でしょうか。

パウロは性的聖さに関して、とても厳しいです。彼はこう言いました。

ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。れたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。(8)

要するに、パウロは自分の意見を伝えているのではありません。パウロは神様の言葉を伝えています。だから私たちがその言葉を拒むなら、実は、パウロではなく、神様を拒んでいます。

あなたは、結婚している人たちへの神様の賜物を乱用しているでしょうか。

あなたの生活で、神様を拒んでいますか。

パウロの言葉を覚えていてください。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19-20)

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テサロニケ人への手紙第一2:14-3:13--迫害と向き合う覚悟をすること

迫害を受けるのが好きな人は誰もいないでしょう。また、憎まれて嬉しい人は誰もいないでしょう。でも、クリスチャンとして、その可能性のために覚悟をしなくてはなりません。私たちの信仰のゆえ、ある人々は私たちを憎むことがあります。

そういうわけで、パウロはテサロニケ人たちに警告しました。

私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。(2-4)

「苦難にあうように定められている。迫害にあうように定められている」。

クリスチャンたちはそんな言葉を聞きたくないけど、パウロはテサロニケ人たちにその可能性に関して警告しました。だから、迫害が来た時、彼らの心は準備されていました。彼らの信仰は揺るぎませんでした。むしろ、彼らは堅く立っていました。(3:6-8)

私たちもそうするべきです。

でも覚えていてください。神様は私たちが自分の力で立つように呼びません。むしろ、私たちは神様の力に頼らなくてはいけません。

どのように、私たちは神様の力に頼ることが出来るでしょうか。一つの方法は、聖書を読むことです。そうすれば、自分の信仰が成長し続けます。パウロはテサロニケ人たちにこう言いました。

私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。(10)

イエス様に関する知識を完全に持っている人は誰もいません。だから私たちの人生では、その知識と信仰が成長し続けるべきです。それは教会に行くの一つの理由です。私たちは霊的な栄養を受けるので、試練に直面するとき、私たちは堅く立つ力を持ちます。もちろん説教を通して、私たちは霊的な栄養を受けます。でも私たちの兄弟たちや姉妹たちとの関係を通しても、その栄養を受けます。神様は私たちの心に愛を注ぐにつれて、私たちは互いにい愛し合うことを学ぶし、教会の外の人たちをも愛することを学びます。(12)

でも、霊的な栄養の源は神様自身です。私たちに住んでおられる聖霊を通して、神様は私たちの心を強めてくださいます。だから、パウロはこのように祈りました。

そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。(13)

私たちはイエス様のために生きるにつれて、サタンはかならず私たちに反対します。それは当たり前のことです。パウロや、テサロニケ人たちや、教会の初めから今までのクリスチャンたちは迫害されました。

あなたはそんな迫害に直面する覚悟をしているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙2:13-16--神のみ言葉?人間の言葉?

私たちは普段聖書を神様のみ言葉と呼びます。でも、私たちは聖書をそのように扱うでしょうか。その言葉が本当に神様から来ると信じて、従うでしょうか。もしかしたら、聖書の言葉を人間の言葉として扱うでしょうか。私たちはある言葉が好きじゃない場合、その言葉を無視する自由を感じるでしょうか。

13節では、私たちはテサロニケ人たちの選択を見ることが出来ます。パウロはこう言いました。

こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。(13)

私たちがみ言葉を聞いて受け入れると、神様は私たちの心のうちに働きます。でも、私たちはその言葉を受け入れるでしょうか。

私たちにとって、受け入れやすい言葉もあります。私たちが神様の愛と恵みについて聞くと、その言葉を喜んで受け入れるでしょう。でも、受け入れ難い言葉もあります。例えば、聖なる人生を送ることに関する言葉とか、私たちがイエス様に応える責任を持つことなどです。

もちろん、一番大切な言葉は福音です。つまり、イエス様とその十字架の働きだけを通して、私たちが救われることです。私たちは自分自身を救うことは出来ません。私たちの救いのために、イエス様を信じなくてはなりません。

テサロニケ人のクリスチャンたちはすぐにそのことを信じました。でもほかの人たちは信じませんでした。ユダヤ人のリーダーたちは預言者たちやイエス様をも殺しました。そして、パウロは福音を広めようとしたとき、そのリーダーたちに追い出されました。パウロは彼らに関してこう言いました。

ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。(15-16)

そのユダヤ人たちや、あるテサロニケ人たちは神様のみ言葉を単なる人間の言葉として扱いました。その結果は?彼らの罪が重なったので、神様の御怒りを知りました。

あなたはどうですか。あなたはどのように聖書を扱うでしょうか。聖書を神様のみ言葉として扱うでしょうか。あなたはその言葉に従うべきだと思いますか。もしかしたら、聖書をあなたが無視できる人間のおすすめとして扱うでしょうか。

あなたが神様のみ言葉を聞くと、神様はあなたの責任を問います。

だから、その言葉を重視し、従いましょう。そうすれば、私たちは神様の祝福を得て、毎日、神様のようになりつつあります。

神様はあなたに何をおしゃっているでしょうか。

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テサロニケ人への手紙2:1-12ーーれっきとした仕えるもの

ピリピ人への手紙では、パウロは、福音が広めていることを見て、神様をほめたたえました。でも不思議なのは、福音を広める人たちの間に、悪い動機を持っている人もいたことです。(ピリピ1:15-18)

その箇所から私たちが学ぶのは、人々が悪い動機を持っても、神様は彼らを通して福音を述べ伝えることです。でも結局、彼らは神様からの報いを得ません。

でも、自分のミニストリーのすべてでは、パウロはれっきとした神様に仕える者です。今日の箇所では、そのことを見ることができます。

迫害されても、パウロは大胆に福音を述べ伝えました。(2節、また、使徒の働き16-17章)。

そして、パウロは神様のみ言葉を教えるとき、正確に教えたし、テサロニケ人たちを操って騙そうと思わずに、清い動機を持っていました。(3,5)

さらに、パウロは、周りの人々ではなく、むしろ神様に認められることを望み、神様に福音をゆだねられらた人として働きました。(4-6)

時々、人々は神様のみ言葉をオブラートに包みます。なぜなら、相手が真理に気を悪くするかもしれないから。実際、イエス様の言葉によって、たくさんの人々が気分を害しました。特に、パリサイ人たちやほかの宗教的なリーダーたちは怒りました。イエス様は神様の愛だけではなく、神様の裁きについても話しました。イエス様は、自分を拒絶する人が裁かれると教えました。(マタイ7:21-23;25:31-46など)。

パウロはイエス様の模範に従いました。彼はエペソ人たちにこう言いました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(使徒の働き20:26-27)

パウロはエゼキエル書33章に触れていました。その箇所では、神様はエゼキエルに警告しました。「私たちの民に裁きに関して警告しなさい。そうしないと、あなたの責任を問います。」

だからパウロは福音を述べ伝えた度に、彼の目的は人々ではなく、主を喜ばせることです。

それでも、パウロは周りの人々を愛していました。彼は使徒としての権威を乱用したことがありませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。(7-8)

母のようにパウロは彼らの信仰を養いました。父のように、パウロは彼らのお金を取らずに、彼らを霊的に支えるために、頑張って働きました。そして、父として、パウロは彼らを慰めて、励ましました。また、パウロは彼らに神様にふさわしく歩むように促しました。(6-12)

彼らの霊的な親として、パウロは彼らの模範でした。パウロは敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまいました。(10)

それはれっきとした仕える者の姿です。

そのことを考えるとき、自分の牧師を責め始めることは簡単なことでしょう。でも、そうしないでください。むしろ、自分自身を見てはいけません。なぜなら、神様はあなたを使える者として呼びました。あなたは、家族や、友達や、周りの人々に仕えるように呼ばれました。彼らに対して、あなたは神様の使節です。(第二コリント5:20)

神様はあなたに福音をゆだねました。あなたはれっきとした仕える者でしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一1章ーーれっきとした信仰

もしかしたら、これはパウロの一番最初の手紙の一枚かもしれません。たぶん、第二番の宣教旅行中に、パウロはこの手紙を書いたでしょう。パウロがこの手紙で触れる出来事を使徒の働き16ー17章で読むことが出来ます。その個所で、パウロのピリピのトラブルについて読むことが出来るし、テサロニケで何が起こったか読むことが出来ます。

使徒の働き17章によれば、テサロニケにあるユダヤ人たちが福音が嫌いだったので、町の役人たちにパウロについていろんな嘘を言ったので、パウロはテサロニケから逃げなければなりませんでした。

そのトラブルがあって、テサロニケ人のクリスチャンたちも迫害されていたので、パウロは彼らの信仰が揺らいでいるかもしれないと思ったようです。だから、パウロは、テサロニケのクリスチャンたちの状態を調べるために、テモテを送りました。良かったことは、彼らは迫害されていても、自分の信仰を貫いていたことです。

そういうわけで、この手紙の初めに、パウロは、「あなたたちのために神様に感謝する」と言います。

その言葉で、私たちはれっきとした信仰のしるしを見ることが出来ます。それは何でしょうか。

パウロはこう言いました。

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。(3)

1.れっきとした信仰は、ただ座って何もしないものではありません。れっきとした信仰は実を結びます。つまり、良い行為を行います。イエス様は、こう言いました。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。。。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。(マタイ7:16-17)

2.れっきとした信仰の行為は、神様やほかの人々への愛から生まれます。その信仰は、神様や人々に仕えるように強制されません。また、その信仰は、ただの義理から仕えません。むしろ、その信仰は喜んで仕えます。

3.れっきとした信仰は将来に関して、希望を持っています。その信仰は、イエス様がいつか帰って、正義を持ち、この世を新しくすることを信じます。そういうわけで、その信仰は、試練や迫害に直面しても、耐えることが出来ます。

パウロは、テサロニケ人たちの中にその信仰を見ました。

でも、れっきとした信仰には、ほかのしるしがあります。

4.れっきとした信仰が生じるのは、人が福音を聞くとき、聖霊様が彼らの罪を指摘して、彼らが悔い改めることです。言い換えると、もし、人が自分の罪を悔い改めずに罪を犯し続けるなら、自分がれっきとした信仰を持っていることを主張することが出来ません。れっきとした信仰は、自分の罪の悪さを認めて、イエス様が十字架で払った代価が分かるので、神様に感謝する心を持っています。(5)

5.れっきとした信仰は、聖霊によって、変わる力を持っています。聖霊様は私たちの罪を指摘するだけではなく、私たちが新しい人生を送るために、私たちの心を新しくしてくださいます。(5)聖霊様は私たちのうちに住んでおられ、毎日、私たちを新しく造られます。

6.れっきとした信仰は、試練に直面しても、聖霊によって、喜びに満ちています。

7.れっきとした信仰は、自分のことを周りの人々に伝えます。周りの人々はそんな人を見ると、その人の光を見ることが出来ます。(8)

その光は何でしょうか。私たちはもはやこの世の神々に仕えません。つまり、私たちはお金や、持ち物や、セックスや、ほかの一時的なものを追い求めていません。もちろん、そのもの自体は悪い物ではないけど、それは私たちの目標ではありません。むしろ、すべてのどんなものよりも、私たちは生きておられる神に仕えています。

だから私たちはこの世のあるものではなく、天のある物に集中します。天のあるものに集中すると、私たちは愛、希望と言葉で表現できない喜びを知ります。

あなたはどんな信仰を持っているでしょうか。

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コロサイ人への手紙 4:17-18–忠実

一つの言葉がこの個所をまとめると思います。それは「忠実さ。」

テキコは、「主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべ」でした。

オネシモはかつて不忠実なしもべでしたけど(ピレモンへの手紙)、「忠実な愛する兄弟」になりました。(9)

アリスタルコが忠実な人だったので、彼は主のためにパウロと一緒に牢に入りました。

マルコはバルナバの従兄弟でオネシモのようにかつては不忠実な人でした。パウロとバルナバと一緒に宣教旅行に行ったけど、その途中、彼は立ち去って帰りました。(使徒の働き13:13)

でも今、忠実な人になって、ユストとマルコは牢に入っているパウロを励ましました。(10-11)

エパフラスは、忠実にコロサイ人たちのために祈りに励んでいました。さらに、彼はコロサイ人たちのために非常に苦労していました。(12-13)

残念なことだけど、デマスは最終的に不忠実な人になってしました。彼はこの世を愛したので、パウロを捨てました。(第二テモテ4:10)

そして、この手紙を終える前に、パウロはアルキポという人に訓戒しました。

主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。(17)

簡単に言うと「忠実に生きなさい。」

あなたはどうですか。あなたは忠実な人でしょうか。

あなたが忠実な人だと思うなら、デマスの例を覚えていてください。この世に対する愛のため、忠実さを失ってはいけません。

でも、あなたが別に忠実じゃない人だと思うなら、マルコとオネシモの例を覚えていてください。彼らもかつて不忠実な人たちでしたが、神様はもう一つにチャンスを与えてくださいました。そのように、神様はいつもあなたにもう一つのチャンスを与えてくださいます。

だから、忠実に生きましょう。そうすれば、裁きの日に、私たちは神様に褒められます。

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コロサイ人への手紙4:5-6--知恵を持って、歩むこと

外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。(5-6)

「知恵を持って行動しなさい。」直訳すると、「知恵をもって、歩みなさい。」

「機会を十分に活かしなさい。」

どれだけ私たちは福音を宣べ伝える機会を取り損ねるでしょうか。なぜその機会を取り損ねるでしょうか。なぜなら、多くの場合、私たちはその機会を探していないから。私たちはすべての機会を活かすでしょうか。

娘が6歳の時に、私はユニークな機会を持っていました。毎晩、娘が寝る前に、私と妻は聖書の話を娘に読んだし、娘と一緒に祈りました。また、娘はずっと日曜学校に行きました。でも、私が福音をシェアしたたびに、娘はクリスチャンになりたい気がなさそうでした。

でもある日、娘は日曜学校の先生の話について話しました。それは、イエス様は人の心に住んでおられることです。それを聞いて、娘はとても嬉しいでした。でも、私は娘に訊きました。「イエス様をあなたの心に住むように誘ったことがあるでしょうか。」

それを聞いて、娘はちょっと静かになって、そして、「いいえ」と答えました。

だから私は娘に言いました。「人たちがイエス様を心に住むように誘ってこそ、イエス様はその人の心に住む始めます。」

そして、私はもう一度、娘に福音を説明しました。その時、娘は初めて、始めから最後までその話を聞いてくれました。そのあと、娘は祈って、イエス様を受け入れました。

私はずっと娘のために祈ったので、その機会が来た時、私は準備できました。でも、どれだけ、私は準備していないので、機会を取り損ねるでしょうか。

私は、外部の人たちに対して、知恵を持って行動しないため、どれだけ機会を取り損ねるでしょうか。私のことばがいつも親切ではなく、むしろ文句や批判に満ちるため、どれだけ機会を取り損ねるでしょうか。

私の言葉が塩味の効いたものではないため、どれだけ、私は機会を取り損ねるでしょうか。私の言葉は塩のように相手の心に染みるときもあるかもしれないけど、その言葉はいつも神様の愛に満ちるはずです。

私はその機会を見逃したくないです。

あなたはどうですか。私たちの人生はとても短いです。あなたの機会を活かしているでしょうか。

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コロサイ人への手紙4:2-4--戦線の後ろで祈ること

私たちは霊的な戦線の後ろにいるかもしれないけど、どれだけ私たちの祈りが大切なのか分かるでしょうか。たくさんの人たち、つまり、牧師たちや宣教師たちは戦線で戦っています。でも、多くの場合、私たちは、彼らが私たちの祈りが要らないかようにふるまいます。なぜなら、彼らが霊的に強い人だと思うから。

でも実は、この人たちは特に私たちの祈りが必要です。パウロはその必要をよく認めました。だから、彼はコロサイ人たちにこう言いました。

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(2)

「たゆむなく」とは、「しつこく、神様の手を放さずに、しがみついて、祈ることです。」

言い換えると、ただいい加減に祈ってから、自分のことに集中してはいけません。私たちは、こころを込めて神様への祈りに従事するべきです。

そして、パウロは「目を覚ましなさい。」と言います。神様があなたの周りに何をなさっているかに注目して、どのように祈るべきか神様に訊くべきです。

また、感謝深い心を持つことを覚えているべきです。

祈りを「頂戴のリスト」にしてはいけません。むしろ、神様がどのようにあなたを祝福してくださったか覚えていて、感謝しましょう。

でも、そのあと、パウロは、私たちがどのように戦線の人のために祈るべきか教えます。

同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。(3-4)

あなたは、「福音を述べ伝えるのはそんなに難しいでしょうか。そのメッセージはとてもシンプルですけど。」と思うかもしれません。

もちろん、福音のメッセージはシンプルで変わらないものですけど、サタンは不信者の思いをくらませました。だから戦線の人々はどのようにみ言葉を振るうべきかという知恵が必要です。

だから、あなたが知っている牧師たちや宣教師たちについて考えるとき、そのように祈りましょう。彼らは私たちの支えが必要です。

それだけでなく、彼らに言ってください。「私はあなたのために祈っています。」

それを聞いて、彼らは励まされるでしょう。なぜなら、彼らは一人で戦わずに、あなたに支えられていることを知るから。

 

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コロサイ人への手紙3:1-17--キリストを私たちの命と見なすこと

「イエス様は私の命です。」

クリスチャンとして、あなたはその言葉を言うことができるでしょうか。私たちがその真理を認めても、認めなくても、イエス様は実際に私たちの命です。

パウロはこう言いました。

「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」(3)

この世の人々も、私たちも、私たちがキリストにあって何を持っているかを完全に見えないかもしれないけど、私たちはキリストからたくさんの祝福を受けました。

私たちは罪から救われ、神様と和解されました。毎日、聖霊様の力によって、私たちはイエス様のようになりつつあります。そして、ある日、イエス様が私たちのからだを贖って、私たちは完全に罪から自由にされます。その日、私たちは天の遺産を受け、栄光の冠を戴きます。

でも、今はそれは隠されています。私たちは今、そのものを垣間見ることしかできません。しかし、イエス様がこの世に戻ると、そのすべては現れます。

パウロはその真理をこのように表現しました。

あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。(4)

それならどうして、私たちの多くはイエス様とイエス様にある宝物に焦点を当てずに、この一時的な世界を追い求めるでしょうか。

パウロは私たちに訓戒します。

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(1-2)

「上にあるものを求めなさい。」

言い換えると、永遠のものに焦点を当てなさい、ということです。では、永遠のものとは何でしょうか。

神様との関係は永遠のものです。また、御国の民との関係も永遠のものです。だから、その関係を邪魔するものを捨てなくてはなりません。その邪魔するものは、何でしょうか。

パウロは私たちに教えます。

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。(5-7)

以上のものは私たちの関係を邪魔にします。その罪を抱くと、私たちは自分自身を神様よりも大切にします。神様の御心を求めずに、私たちは自分の欲望を求めます。私たちはお金やセックスやほかのものを私たちの偶像にします。私たちは神様を捨て、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という命令に反してしまいます。

でも、私たちは兄弟たちや姉妹たちとの関係を邪魔にするものをも捨てなくてはなりません。だからパウロはこう言います。

しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。互いに偽りを言ってはいけません。(8-9)

どうしてでしょうか。なぜなら、キリストにあって私たちは一つですから。私たちの間には、人種的な壁や、性的な壁がありません。私たちは一つの家族です。だから私たちは互いに家族として扱い合うべきです。(8-11)

だからパウロはこう言います。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(12-15)

そしてパウロは言います。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。(16)

その「ことば」とは何でしょうか。その「ことば」は福音です。私たちは、十字架の御業と自分が受けた恵みに思いを巡らすでしょうか。私たちの人生はイエス様の愛と恵みに根差しているでしょうか。また、イエス様の教えは私たちの考え方と生き方を変えるでしょうか。

さらに、私たちはそのことを思い出すと、神様に対する感謝の念を持ち、互いに兄弟たちと姉妹たちにその受けた祝福を思い出させ合うでしょうか。(16)

最後に、私たちが何をしても、すべてを主イエスの名において行うでしょうか。(17)

私たちはイエス様の代表者としてふるまうでしょうか。

イエス様は私たちの命です。でも私たちはそのように生きるでしょうか。

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コロサイ人への手紙3:17-4:1--キリストの代表者として生きること

私は、ある英語の聖書の翻訳者がどのようにコロサイ3:17を翻訳したか大好きです。

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスのの代表者として行いなさい。(3:17、NLTの翻訳)

「誰かの名前において行う」とは、「その人の代表者として行う」という意味です。その翻訳を見ると、私はその言葉を再認識しました。そして、パウロの次の言葉をも再認識しました。

妻たちよ。夫に対するイエス様の代表者として、夫を敬って、従いなさい。(3:18)

夫たちよ。妻に対するイエス様の代表者として、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。(3:19)

子供たちよ。両親に対するイエス様の代表者として、両親に従いなさい。(3:20)

父たちよ。子供に対するイエス様の代表者として、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子どもたちが意欲を失わないようにするためです。(3:21)

奴隷たちよ。イエス様の代表者として、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。(もちろん、日本では、奴隷制がないけど、従業員たちはそのように仕えるべきです。)(3:22-25)

主人たちよ(現代では、上司たちよ)。イエス様の代表者として、奴隷(現代では、従業員)に対して正義と公平を示しなさい。(4:1)

要するに、私たちのすべての人間関係では、私たちが誰を代表するか覚えているべきです。私たちはイエス様を代表しています。私たちの夫や妻や子供や両親や従業員や上司に対して、私たちはイエス様の代表者です。

夫を敬わないとしたら、あなたはどのような代表者でしょうか。

妻に対して辛く当たるとしたら、あなたはどのような代表者でしょうか。

両親に従わないとしたら、あなたはどのような代表者でしょうか。

子どもたちを苛立たせるとしたら、あなたはどのような代表者でしょうか。

いい加減に働くとしたら、あなたはどのような代表者でしょうか。

従業員たちに対して正義と公平を示したとしたら、あなたはどのような代表者でしょうか。

あなたの友人関係や隣人関係や同僚関係や兄弟と姉妹関係では、あなたはどんな代表者でしょうか。

周りの人々はあなたのうちにイエス様を見ることができるでしょうか。もしかすると、彼らはあなただけを見ることができるでしょうか。

あなたはイエス様の代表者です。あなたは良い代表者でしょうか。

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コロサイ人への手紙1:28-2:23–キリストにあって満たされること

「満ち満ちる。」

どうやら、それはコロサイの教会に入っている偽教師たちの合言葉でした。だから、この手紙では、パウロはその言葉を使って、偽教師たちに言いました。「あなたたちは「満ち満ちる」という意味を実に知らないでしょう。」

パウロはコロサイ人たちに言いました。「あなたたちはキリストにあって成熟したもになります。それは、私のミニストリーの目的です。」

パウロは続けました。

私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(2:2-3)

つまり、「知恵と知識の宝はこの偽教師たちからではなく、キリストこそから来ます。だから、彼らのまことしやかな 議論に騙されないように。」ということです(2:3-4)

そしてパウロは彼らに言いました。「イエス様だけにあって、知恵と知識の宝を見つけることができるので、キリストのうちに根ざされ、建てられなさい。あなたたちがどのように救われたか覚えているでしょうか。あなたの救いはイエス様を信じる信仰によりました。あなたたちはイエス様との関係に入りました。だから毎日、信仰によって、イエス様と共に歩み続けなさい。毎日、イエス様を信じて、イエス様があなたのためにしてくださったことを覚えていながら、喜びを持って感謝しなさい。」(2:6-7)

そして、パウロは彼らに警告しました。あなたたちをキリストから引っ張ってしまう哲学から避けなさい。その哲学は空しいもので、人間的な言い伝えや、もろもろの霊によるものです。(2:8)

「もろもろの霊」とは、たぶん悪霊です。つまり、その哲学の源は、悪霊です。

そして、パウロはコロサイ人たちに二つのことをはっきりと伝えます。「神様の満ち満ちた性質を知りたいのですか。イエス様を見なさい。」

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(9)

パウロは続けます。

あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。(10)

つまり、「満たされたいなら、この偽教師たちではなく、イエス様だけを求めなさい。」ということです。(9-10)

どうしてでしょうか。キリストだけにあって、私たちの罪深い心は扱われるから。人間の努力ではなく、キリストだけは私たちの罪深い心を割礼することができます。言い換えると、イエス様だけが私たちの罪深い心を摘出ことができます。

キリストの力を通して、私たちは古い人生に対して死んで、また、イエス様にあって、私たちは新しい人として復活します。だから、私たちはもはや自分の力によって生きません。むしろ、私たちは神様の力によって生きるのです。(11-12)

私たちは死んだものでした。私たちは自分自身を救うことができませんでした。でも、神様は私たちを生かして、私たちの罪を赦してくださいました。私たちの罪のため、神様に対する債務証書を持っていました。でも神様はその債務証書を破って、十字架に釘付けにました。そして、イエス様は十字架で死んで、蘇られました。その御業によって、キリストは、自分と私たちを滅ぼそうとしたサタンと悪霊たちを打倒しました。(13-15)

だから、パウロは言います。「イエス様の十字架の御業に自分の努力を加わえようとするな。あなたたちはイエス様にあって、もう満たされているから。ユダヤ人たちの伝統的な修行に戻るな。イエス様は本体です。ユダヤ人たちの霊的な儀式や犠牲はただの影です。ユダヤ人たちの犠牲や祭りはすべてイエス様を指しました。イエス様はもう来たので、その陰ではなく、イエス様自身を見なさい。」(16-17)

そして、パウロは続けました。「偽の宗教的な経験に巻き込まれるな。天使たちや、ほかの創造物を拝むな。そうすれば、あなたはキリストから離れてしまいます。キリストだけにあって、あなたは成熟して、完全になります。」

キリストにあって、あなたは以前の宗教的な経験に死にました。そのものに戻っていはいけません。また、宗教的なルールは良さそうだけど、あなたの罪深い心を治すことができません。(20-22)

簡単に言うと、イエス様はすべてです。私たちが満たされるように望むなら、イエス様を求めるべきです。

でも、あなたはそうしているでしょうか。あなたは何に根差しているのですか。イエス様に根差しているのですか。もしかすると、ほかのものに根差しているのですか。あなたの人生の中心は何でしょうか。

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コロサイ人への手紙1:15-29--私たちが必要な方

ある偽教師たちとその教えがコロサイの教会に入ってきたようです。その教えの詳細は私たちにははっきりしないけど、はっきりしているのは、その偽教師たちは、クリスチャンたちがイエス様以上のものが必要だと教えたことです。

要するに、神様の所に行きたいなら、いろんな天使の助けが必要だったので、その天使たちをも礼拝するべきだと教えたのです。

さらに、その偽教師たちによれば、コロサイの教会の人たちは、まだいろんな奥義を学ばなくてはならないし、その偽教師たちだけがその奥義を教えることができると言いました。つまり、神様に義と認められると望むなら、コロサイのクリスチャンたちはいろんな儀式を行ったり、いろんな修業をしたりしなくてはならなかったのです。

だから、この個所では、パウロは大切なことを強調します。それは、私たちは、イエス様だけが必要であることです。

どうして、私たちには、イエス様だけが必要なのでしょうか。

なぜなら、イエス様は創造物の全てよりも偉い方ですから(15)。パウロは「イエス様がすべての造られたものより先に生まれた方」と言うと、イエス様が創造物の全てよりも偉い方であることを意味します。

エホバの証人たちは、神様がほかの創造物の前にイエス様を造ったと教えます。でもそれはパウロの意味したものではありません。パウロの言う意味は、イエス様の立場は創造物の立場よりも高いのです。言い換えると、イエス様はすべての創造物を治める方です。

どうして、イエス様はその高い立場を持っているのでしょうか。なぜなら、イエス様はすべてのものを造ったから。すべてのものはイエス様にあって造られて、イエス様のために造られました。イエス様は天使たちも、ほかの霊的な力も、私たちも造りました。(16)

さらに、イエス様は万物に先立って存在したし、イエス様にあって、すべてのものは成り立っているのです。イエス様が一秒で、この世から御手を離したとしたら、この世はなくなるでしょう。(17)

そして、神様はイエス様を教会のかしらとして任命しました。神様は天使や人間を任命せずに、イエス様だけを教会のかしらとして任命しました。そして、イエスはが十字架で死んで蘇られたので、私たちの模範になりました。(18)

それだけではなく、神様はご自分の満ち満ちたものをすべてイエス様のうちに宿らせました。そういうわけで、イエス様は見えない神のかたちです。だから神様を知りたいと思うなら、イエス様を見ればいいのです。(15,19)

そして、イエス様の十字架の死によって、私たちは神様と和解されました。私たちはほかの仲介者が要りません。イエス様を通して、神様は私たちを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせました。(20-22)

偽教師たちは神様の奥義について話していたけど、イエス様にあって、一番大切な奥義はもう現れました。その奥義は世々の昔から多くの世代にわたって隠されていたけど、今は私たちに明らかにされました。その奥義は何でしょうか。イエス様を信じる信仰によって、イエス様は私たちのうちに住んでおられることです。私たちがユダヤ人でも、アメリカ人でも、日本人でも、イエス様が私たちのうちに住んでおられるので、私たちはイエス様にあって一つのからだ、一つの教会になりました。そして、私たちは神様の栄光をこの世に照らします。

だから、どうして私たちはほかのものが必要だと思うでしょうか。私たちはほかのものが要りません。そういうわけで、パウロは言います。「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。」

イエス様だけにあって、私たちは成熟したものになります。(28)

でも、どれだけ私たちはイエス様以上なものが必要するかのように生活するでしょうか。私たちはほかの宗教を追求します。私たちはほかの霊的な経験を求めます。または、この世のものを求めます。

でもこんなものは私たちを満たすことができません。イエス様だけが私たちを満たすことができます。

あなたはどうですか。自分の人生を満たすために、何を求めているでしょうか。イエス様だけがあなたを満たすことができます。あなたはイエス様だけが必要なのです。

 

 

 

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コロサイ人への手紙1:1-14--信者たしの皆のための祈り

もしクリスチャンの友達のために祈りたいと思うけど、ただ「だれだれさんを祝福してください」ということ以上に祈りたいなら、パウロの祈りを見た方がいいと思います。パウロの模範によって、私たちはどのように神様の御心に従って人々のために祈るべきか学ぶことができます。

一つの模範はコロサイ1章にあります。パウロはコロサイ人たちに会ったことがなかったけど、エパフラスという人から、コロサイ人たちの信仰について聞いていました。彼らの信仰について聞いた時、パウロは大喜びしました。そして、彼はコロサイ人たちのためにかなり具体的な祈りを祈りました。何のために祈ったでしょうか。

どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。(9)

クリスチャンとして、私たち皆はそんな知恵と理解が必要です。なぜでしょうか。

また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。(10)

神様を喜ばせたいなら、また、実を結びたいと思うなら、神様の御心を知らなくてはなりません。そして、神様が自分の知恵と理解で私たちを満たすにつれて、私たちは神様のことをもっと深く知るようになります。私たちは神様の考え方を理解し、神様にとって何が大切かを理解します。私たちは神様のことについて知ることだけではなく、神様自身を知るようになります。特に、神様が自分の力を私たちに与えると、私たちは神様をもっと深く知るようになります。そういうわけで、パウロはコロサイ人たちのためにこう祈りました。

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。(11-12)

神様は、私たちが自分の力によってクリスチャン生活を送ることを望みません。でも、多くのクリスチャンたちは、試練を忍耐し、寛容するけど、喜びを持っていません。どうしてでしょすか。なぜなら、彼らは神様の力ではなく、自分の力に頼っているから。パウロの祈りは、コロサイ人たちが自分の力によって、試練を忍耐することではありません。むしろパウロは、コロサイ人たちが神様の力に満たされて、喜びを持ちながら、試練を忍耐できるように祈りました。

また、パウロは、コロサイ人たちが自分自身ではなく、神様に焦点を当てるように祈りました。パウロの祈りは、コロサイ人たちが、自分の努力ではなく、むしろ、神様の恵みによっていろんな祝福を受けたのを覚えているということです。私たちが神様の遺産を受けられる理由は、神様が私たちにあずかる資格を与えてくださったことです。

それだけではなく、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13-14)

私はもう一度、言います。そのことのすべては、神様の働きです。神様は私たちを暗闇の力から救い出してくださいました。神様は私たちを御子のご支配の中に移してくださいました。私たち自身ではなく、イエス様にあって、私たちは贖いと罪の許しを得ているのです。

でも、多くのクリスチャンたちはその真理を忘れてしまいます。だから、私たちは自分の力と知恵によって生きようとして、喜びを失ってしまいます。

しかし、私たちは神様の知恵や知識や力で満たされて、私たちの祝福が私たちの努力からではなく、キリストの働きから来ることを覚えていると、喜びを知ります。

だから、クリスチャンの兄弟たちと姉妹たちのために祈るとき、ただ「神様、その人を祝福してください。」と祈らないでください。パウロのように祈りましょう。

そして、自分のためにもそう祈りましょう。

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ピリピ人への手紙4:14-23--私たちが捧げると

前回の記事では、私は多くのクリスチャンたちの問題について話しました。それは、彼らがまだ自己中心であることです。彼らは、まだ自分の必要や欲望だけに焦点を当てています。

でも、それは神様の御心ではありません。ピリピ人たちはそんな人ではありませんでした。パウロは彼らに関してこう言いました。

あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。(15-16)

どうやら、多くの教会はパウロからたくさんの祝福を受けていましたが、彼らはまだ、主に捧げていなかったし、周りの人々に捧げていませんでした。

赤ちゃんのクリスチャンにとっては、そのことは当たり前です。赤ちゃんとして、私たちは霊的な栄養を受けなくてはなりません。でも私たちは成長するにつれて、受けることだけではなく、与えることを学ばなくてはいけません。ピリピ人たちは若いクリスチャンの時からそう学んだようです。

パウロ自身は、ピリピ人たちやほかの教会からお金を受けることに興味はありませんでした。彼は大体自分のニーズに備えました。でも、パウロはピリピ人たちの気前が良い心を見ると、神様に彼らの成熟さを感謝しました。

そして、パウロは彼らに言いました。

私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。(17)

パウロは、気前の良い態度という実について考えていたでしょうか。つまり、その気前のいい態度は霊的な報いに導くでしょうか。もしかしたら、パウロは実を言うと、将来に救われる人について考えていたかもしれません。つまり、ピリピ人たちは惜しみなくパウロのミニストリーを経済的に支えたので、救われる人が多くなることです。たぶん、パウロは救われる人たちについて考えていたけど、もちろん、神様はピリピ人たちの気前がいい態度のために報いを与えてくださったでしょう。

さらに、パウロは彼らの贈り物に関してこう言いました。

それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。(18)

そしてパウロはこう言いました。

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(19)

時々、私たちは捧げるとき、捧げ甲斐があるかどうか疑問に思います。私たちは与えすぎたかどうか疑問に思います。でもパウロは私たちに励ます。私たちが惜しみなく与えると、神様は自分の豊かさから私たちのニーズに備えてくださいます。

正直に言うと、私は気前のいい態度を学んでいる中です。お金を手放すのが難しい時もあります。でも、私たちが捧げると、神様を祝福するだけではなく、ほかの人々が祝福されるにつれて、神様はあがめられます。

だからパウロはこう言います。

私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(20)

あなたはどうですか。あなたは与える人でしょうか。もしかしたら、あなたはただ受ける人でしょうか。

私たちが神様から受けてくださったものを周りの人々にシェアするように。

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ピリピ人への手紙4:10-13--満足さの秘訣

私たちは電子レンジの社会に暮らしています。私たちが今、欲しいものを受けたいと思います。そして、すぐに受けないと、私たちは不平を言い始めます。

でも、私たちはそんな態度を取るべきでしょうか。パウロはそんな態度を取りませんでした。パウロはピリピ人たちの気前のいい態度を感謝するとき、こう言いました。

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(11-13)

「ありとあらゆる境遇に秘訣を心得ています。」

パウロは何の秘訣を学んだのでしょうか。実は、パウロは具体的には言いません。2017年版の新改訳によれば、パウロは「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」

でも、第3版では、こう書いてあります。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 」

多くの英語の翻訳では、パウロの言葉はそのように翻訳されました。

「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 」

私たち皆はそう言えるでしょうか。

パウロは乏しい時にも、満足していました。また、富むときにも、満足していました。

私たちは、なぜ乏しい時に満足することを学ばなくてはいけないかは、簡単に理解できるでしょう。でも富むときに、どうして満足することを学ばなくてはいけないでしょうか。

もしかしたら、あなたは自分の必要な物以上に持っているでしょう。それでも、あなたは、まだ欲しいものがあって、どれだけ不平を言うでしょうか。どうして私たちはそうするでしょうか。私たちがたくさんのものを持っていても、どうして満足するのはそんなに難しいでしょうか。

たぶん、私たちはとても自己中心だからです。多くのクリスチャンたちは、まだ自己中心です。彼らは自分の必要や欲望をよく考えています。でも、彼らはそんな物に集中しすぎるので、実際に彼らに満足させることができる方を忘れてしまいます。それはイエス様です。

イエス様との関係は満足の秘訣です。つまり、私たちはイエス様を知ることです。また、イエス様の復活の力を知ることです。いろんな試練や苦しみを経験しても、私たちは毎日、鏡をのぞくと、自分にあって、だんだんイエス様の反映を見ることができます。また、毎日私たちは、どうして神様が私たちを選んでくださったか分かるようになります。

パウロはそのすべてを完全に経験しなかったけど、たぶん、ほかの人よりも、それをつかんだでしょう。

そういうわけで、試練を経験しても、彼の喜びは奪われませんでした。ちょっとしか持たなくても、彼はイエス様にあって喜びました。たくさんのものを持っていても、彼はイエス様にあって喜びました。

日本では、人たちは「我慢」という言葉をよく言います。辛い時に私たちが我慢することを誇ります。でも多くの場合、私たちは自分の力に頼るので、結局、私たちはもう我慢できなくなります。

パウロはただ我慢したわけではありません。パウロはイエス様との関係を喜びました。そういうわけで、どんな試練を経験しても、パウロはその試練を乗り切る力を持っていました。

あなたはどうですか。あなたは満足しているでしょうか。イエス様はあなたの人生の中心でしょうか。もしかしたら、あなたは満足するために、いつも世のものを求めているのでしょうか。

そのものによって、あなたは満足することができません。イエス様との関係だけによってあなたは満足を知ります。

あなたの人生の中心は何でしょうか。

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ピリピ人への手紙4:2-9--私たちの心に平和があること。周りの人々と平和を保つこと。

前回の記事で触れましたが、この個所では、パウロの議論の流れはちょっと見分けにくいです。

5ー6節は特に難しいです。

「主は近いのです。」と言ったとき、パウロはその言葉を「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。」という言葉に繋げていたでしょうか。もしかすると、パウロは、「主は近いのです。」という言葉を「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」という言葉に繋げていたでしょうか。

もしかすると、その三つの言葉は全部つながっているでしょうか。「主は近い」という真理は、私たちの心の中に平和もたらすし、私たちの関係にも平和をもたらします。

とにかく、パウロはこう言いました。

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(5b-7)

多くの場合、私たちは心配に負けます。例えば、ユウオディアとシンティケのように、私たちは人間関係の問題があるとき、心配します。でも、それだけではなく、私たちは仕事や、子供や、将来などについて心配します。その心配によって圧倒されるのは簡単なことです。では、どうすれば良いでしょうか。

主が近いということを覚えているべきです。私たちが問題と心配があるとき、主が私たちとともにおられることを覚えているべきです。イエス様があなたを愛していることを覚えているべきです。

それに、違う意味で主は近いのです。つまり、主はすぐにこの世に戻ってくることです。その日、イエス様は私たちの涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。私たちの悲しみとトラブルはなくなるし、私たちはもう苦しみません。簡単に言うと、私たちの苦しみのすべては一時的なものです。

だから、パウロが言ったように、思い煩わないでください。むしろ、あなたの問題と心配に直面するとき、あなたを愛している神様に祈りましょう。そうすれば、神様の平和があなたの心と思いを守ってくれます。

原語では、「守る」は軍の言葉です。私たちの思いは戦場です。でも、神様は私たちの敵よりも強い方です。

私は、エリシャのことを考えます。彼が敵の軍隊に囲まれたから、エリシャのしもべはパニックになっていました。でも、エリシャは、「神様、彼の目を開いてください」と祈りました。そして、しもべがもう一度見ると、天の万軍を見ました。(列王記第二6章)

エリシャはそれを見ることが出来たので、平和に満ちました。

でも、私たちは自分の心配をくよくよすると、その平和を知ることができません。

また苦々しい思いや、恨みを持てば、私たちは平和に満ちることが出来ません。

だからパウロは私たちにこう言います。

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(8)

そうすれば、私たちの心は平和に満ちるし、神様は私たちの関係で平和をもたらします。人間関係の問題があるとき、私たちはよく相手の悪い点に焦点を当てて、彼らが何をしたか考えます。でも、パウロは、「そのことに集中するな」と言います。むしろ、パウロは、「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」と言います。

特にイエス様に集中してください。上記の言葉はイエス様に当てはめられるから。

苦しみの時に、イエス様とパウロの模範に従いましょう。

そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(9)

あなたはどうですか。あなたの心には、神様の平和があるでしょうか。もしかしたら、あなたの心配をくよくよといつまでも持っているでしょうか。苦々しい思いや恨みを手放すことができないでいませんか。

主よ、あなたがエリシャのしもべの目を開いたように、私の目を開いてください。私が、あなたが近いであることが分かるように。私が、自分の心配から目を離すことが出来るように。そして、私があなたに焦点を当てるように。あなたはすべての良いものの源ですから。あなたの平和で、私を満たしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ピリピ人への手紙4:2-5--教会の一致を保つこと(2)

時々、パウロの議論の流れを見分けるのは、ちょっと難しいです。例えば、3節と4節は全く違うトピックでしょうか。

もしかしたら、3-5節は繋がっているのでしょうか。

もしかすると、3-9節は全部繋がっているのでしょうか。

私はちょっとわからないけど、たぶん、4-5節を書いた時、パウロは、まだユウオディアとシンティケについて考えていたのでしょう。

パウロはこう言いました。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。(4-5)

要するに、「神様に焦点を当てなさい。今まで、あなたたちは自分自身に焦点を当ていたので、自分のプライドを捨てられないし、この喧嘩を解決することができません。だから、改めて神様に焦点を当てなさい。イエス様があなたのために何をしてくださったかを覚えていなさい。イエス様の十字架の御業をもう一度、喜びなさい。イエス様の御業のゆえに、相手に対する態度を変えなさい。あなたたちの関係では、あなたたちの寛容が教会の皆さんに知られるように。」

そしてパウロは「主は近いのです」と言います。

私たちは兄弟たちや姉妹たちと喧嘩しているとき、その真理を覚えているべきです。「主は近いのです。」

それはどういう意味でしょうか。

1.イエス様は教会の人々のうちにおられます。だからイエス様はあなたたちの喧嘩を見ると、悲しみます。神様との平和をもたらすため、また、兄弟たちや姉妹たちとの平和をもたらすために、イエス様は自分の命を十字架で捧げました。どうして、私たちはイエス様の前に戦い続けるでしょうか。

2.イエス様は、もうすぐ来ます。イエス様はこの世に戻り、私たちを新しい天と新しい地に導きます。でも、イエス様が今日戻ったとしたら、あなたたちに何を言うでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言うでしょうか。

もしかしたら、イエス様はあなたにこう言うでしょうか。「どうして、兄弟と喧嘩して、時間を無駄に使っていたのでしょうか。どうして、姉妹と喧嘩して、時間を無駄にしていたのでしょうか。私はいろんな役をあなたに任せたけど、この世の人々に触れずに、あなたの怒りと苦々しい思いはあなたたの人間関係の邪魔になりました。」

私たちがイエス様の前に立つとき、私たちのプライドと争いのため、どれだけ私たちは恥じるでしょうか。

主は近いです。だから私たちの関係では、平和を持って、一致のために働きましょう。

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ピリピ人への手紙4:2-3--教会の一致を保つこと

パウロはこの手紙を書いていた時、どれだけ、ユウオディアとシンティケの喧嘩について考えたでしょうか。その二人の女性たちがパウロと一緒に福音のために働いていたので、パウロはその二人の姉妹たちを本当に愛し、心配していました。

でも、この手紙を書いた時、その二人の女性たちは喧嘩中でした。どうして、彼女らが喧嘩していたか、私たちは知りません。パウロは「ユウオディア、あなたが悪いです。謝りなさい」と言わなかったし、「シンティケ、あなたが悪いです。謝りなさい」と言いませんでした。

むしろ、パウロは、こう言いました。

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。(2)

この手紙を貫き通す一つのテーマは、教会の一致です。だから、パウロはピリピ人たちにこう言いました。「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていなさい。」(1:27)

そして、パウロは彼らに言いました。

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。。。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(2:2、5)

また、

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。(2:14-16)

そして、3章では、パウロは彼らに言いました。「自分の立場と実績に関するプライドを捨て、イエス様に集中しなさい。イエス様を知ることをあなたの目当てにしなさい。あなたたちは御国の市民なので、そのように生きなさい。」

そのすべてを言った後、パウロはユウオディアとシンティケに言います。「あなたたちのプライドを捨てなさい。あなたの争いを捨てなさい。互いに受け入れ合いなさい。もう一度、福音のために一緒に働きなさい。」

パウロは現代のクリスチャンたちを見るとしたら、私たちにその言葉を繰り返すでしょうか。今なお、多くのクリスチャンたちは主を愛し、イエス様に仕えたいと思うけど、自分のプライドのせいで、ほかのクリスチャンたちと喧嘩しています。

私はパウロの痛みに共感できます。なぜなら、私も教会の中で、そんな分裂を見たことがありますから。

そんな問題を見ると、私たちは何もせずに、その問題が悪化することを許すことができません。パウロはこう言いました。

そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。(4:3)

その「真の協力者」がだれだったか分かりませんけど、パウロはその人に言いました。「この二人の姉妹たちが和解するように助けてください。どうか、何とかしてください。」

でも、和解をもたらさずに、多くのクリスチャンたちは、二つに分かれてしまいます。または、あるクリスチャンたちはそのことについて噂を広めます。でも、教会の一致を保ちたいと思うなら、そんなことをしてはいけません。

むしろ、パウロは私たちにこう言います。

平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:3)

あなたはそうしているでしょうか。

もしくはあなたのプライドのせいで、相手と仲直りすることを拒むでしょうか。相手があなたを傷つけても、あなたが相手を傷つけても、できるだけ、仲直りしようとしなくてはなりません。

兄弟たちや姉妹たちは喧嘩しているとき、平和をもたらそうとしているでしょうか。もしくは、あなたは、一方の味方にしすでしょうか。

あいにく、多くの人々は喧嘩を解決しません。むしろ、その喧嘩を放置するけど、結局、その状態が爆発するので、一人の人、もしくは、二人とも教会をやめてしまいます。でも、その結果は、イエス様に栄誉を与えるでしょうか。

教会はイエス様に栄光を与え、この世に、イエス様がどんな神であるかを現すべきです。でも、教会の中で、ひびがあれば、私たちはそうできません。あなたは教会のひびの一つでしょうか。もしかしたら、あなたはひびを直す人でしょうか。

 

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ピリピ人への手紙3:17-4:1--御国の市民として生きること

私が以前言ったように、ピリピ人たちはローマの市民として、とても誇りを持っていました。

今なお、多くの人々は自分の国の国民として、誇りを持っています。

でも、今日の個所では、パウロは私たちに私たちの本当の国籍を思い出させます。

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(4:20)

そして、パウロは私たちにキリストにあって私たちの運命を思い出させます。

キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(4:21)

簡単に言うと、この世界は私たちの家ではありません。また、私たちの運命は、私たちが死んで腐敗することではありません。むしろ、私たちはもっと素晴らしい運命を持っています。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(3:17)

パウロは、自分の模範だけでなく、テモテとエパフロデトの模範についても話していました。そして、パウロはピリピ人たちに言いました。「私たちの模範に従いなさい。私たちは自己中心ではなく、キリスト中心です。あなたたちもそんな態度を取るべきです。」

そんな態度は、ピリピ人のクリスチャンたちの周りの人々の態度と全然違いました。私たちの周りの人々もそんな態度を取りません。むしろ、

多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる。。。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(3:18-19)

そんな人は自己中心で、この世のものを求めているのです。でも、彼らの最後は滅びです。

そのようなな人生を送るために、イエス様は私たちを救ったわけではありません。イエス様が私たちを救った目的は、私たちがイエス様を知り、イエス様のようになることです。そして、イエス様が私たちのうちに住んで、私たちを導き変わっていくにつれて、私たちは本当の命を知ります。

そして、私たち皆は、つまり、キリストの教会は、御国の市民として歩むにつれて、イエス様の光をこの世に照らします。

だから、パウロはこの話をこのようにまとめます。

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(4:1)

あなたはそんな生活を送っているでしょうか。自分のこととこの世のものに集中せずに、キリスト中心の生活を送っているでしょうか。あなたの一番の望みは、イエス様を知ることでしょうか。あなたは、周りの人々があなたの人を見ると、イエス様をあがめるように望むでしょうか。そんな人生によって、あなたは本当の喜び、また、本当の命を知ります。でも自己中心の態度を持つと、本当の喜びと命を見つけることができません。

あなたはクリスチャンなら、御国の市民です。あなたは御国の市民として暮らしているでしょうか。

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ピリピ人への手紙3:12-16ーー目標を目指して走っている

私の人生を見ると、キリストのようになるため、私は後どれぐらい変わらなくてはならないか、よくわかります。

結婚すると、特にクリスチャンの男性たちはその真理が分かるようになると思います。教会に対するキリストの愛の模範と比べると、妻に対する私の愛は欠けているものだとわかります。

だから、パウロは、「私のための神様の目的をまだ果たしていない」と言うと、私は共感できます。実は、私の進歩を見ると、落胆するのは、簡単なことです。でも、私はパウロの言葉にしがみついています。

私は、(つまり、キリストの義や、キリストの復活の力など、9-11節に参考してください)すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。(12)

パウロの次の言葉も好きです。

そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(12b)

ある英語の翻訳が好きです。「キリストは、私を捕らえ、自分のものにしました」

それを聞いて、私は慰められます。なぜなら、私はキリストに受けられるように努める必要がないから。イエス様はもう私を自分のものにしました。私はイエス様に属しています。だから、私が失敗しても、イエス差が私を拒絶する恐れがありません。

そういうわけで、私は頑張って進みます。神様に受け入れられるためではなく、もう私が持っているキリストにあるものを経験するためです。つまり、イエス様の義、イエス様の苦しみ、イエス様の死、また、イエス様の復活です。なかでも、イエス様との関係を経験したいのです。イエス様が私を知る程度まで、私はイエス様を知りたいのです。

だから、私は失敗しても、星刻しても、パウロのように言えます。

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(13-14)

私の失敗をくよくよしたくありません。そうすると、私は絶望してしまいます。

その反面、私は自分の勝利を祝い過ぎたくありません。そうすると、私は自己満足してしまいます。

むしろ毎日、賞に照準を合わせて、走りたいです。毎日、神様が何を整えてくださったかちゃんと理解して、私のための神様の計画通りに生きたいです。

パウロによれば、私たち皆がそう考えるべきです。

ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。(15-16)

あなたは、自分が大人だと思うでしょうか。あなたはまだまだです。だから、走り続けなさい。

あなたは失敗者だと思うでしょうか。神様は自分のものとしてあなたを受け入れました。だから走り続けなさい。

また、今あなたがどこにいても、戻ってはいけません。

むしろ、到達したところを基準にして進むべきです。そして、先を進めなくてはいけません。自分の力ではなく、むしろ、あなたのうちに住んでおられる聖霊様の力によって、走りましょう。

あなたは、そのように暮らしているでしょうか。

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ピリピ人への手紙3:1-11--イエス様の模範に従うこと(2)

数日前、私はイエス様の模範に従うことについて話しました。

3章では、パウロは自分のことについて話しているけど、2章に書いてあることを考えると、パウロの言葉を違う視点で見ることだできると思います。

パウロはこう言いました。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」(3:7)

クリスチャンになる前、パウロは自分がユダヤ人であること、またパリサイ人であることを誇りました。また、パウロは、頑張って律法に従うことを誇りました。でも、クリスチャンになるとキリストのゆえに、パウロはそのプライドを捨てました。それだけではなく、イエス様との関係と比べると、パウロはすべてのものを価値のないものと見なしました。

イエス様を得て、イエス様の義に包まれたいと思ったので、パウロはそのすべてをちりあくたと見なしました。(8-9)

そして、パウロの主な願いはイエス様とその復活の力を知り、イエス様の苦難にあずかって、キリストの死と同じ状態になることです。そして最終的に、彼はイエス様と共に復活させられたいと思いました。(10)

それと同じく、私たちのゆえ、イエス様は、自分にとって得であったすべてのものを損と思うようになりました。私たちとの関係と比べると、イエス様は、自分が天国にあるものを損と見なしました。私たちを得て、自分の義で私たちを着せるために、イエス様は天国にあるものをちりあくたと見なしました。

イエス様の望みは、私たちがイエス様とその復活の力を知り、イエス様の苦難にあずかって、イエス様の死と同じ状態になって、栄光で復活することです。

そういうわけで、イエス様は十字架に行って、苦しみました。

だから、私たちはイエス様のためにそうするべきではないでしょうか。イエス様が私たちのためにすべてを捨てたゆえ、私たちもイエス様のためにそうするべきではないでしょうか。

では、毎日、イエス様の模範に従いましょう。

 

 

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ピリピ人たちへの手紙3:1-11--私たちの目当て

クリスチャンとして、私たちが間違っている物に集中するのは簡単なことです。

例えば、多くのクリスチャンたちは、仕事や、お金や、持ち物や、婚活に焦点を当てます。もちろん、それ自体は悪いものではないけど、その物に集中しすぎるのは簡単なことです。

でもあるクリスチャンたちは、クリスチャンのルールや、どのように良いクリスチャンになれるかに、集中しすぎます。そうすれば、クリスチャン生活は何のものであるべきかを忘れてしまいます。

今日の個所では、パウロはそのことについて私たちに警告します。パウロはピリピ人たちにこう言いました。

犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。(2)

パウロは何について話しているのですか。たぶん、パウロは、モーセの律法に従うべきことを教えたユダヤ人のクリスチャンたちについて話しています。彼らによれば、クリスチャンになるために、ピリピ人たちが割礼を受け、ほかのモーセの律法に従うべきです。

パウロはその人たちを犬と呼びました。ユダヤ人の文化では、それは侮辱でした。実は、彼らはしばしば異邦人たちを犬と呼びました。でも、パウロは彼らに言いました。「異邦人たちではなく、あなたたちは犬どもです。」

パウロは続けます。

神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。(3)

旧約聖書では、神様は何回もイスラエル人たちに言いました。「肉体的な割礼よりも、あなたの心が割礼されるように望みます。」(申命記10:16、30:6;エレミヤ4:4)

実は、私たちがクリスチャンになるとき、私たちの心が割礼されます。聖霊の働きによって、私たちの心は神様のものになります。

エゼキエルはその真理をこのように説明しました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(エゼキエル36:26)

でも、あるユダヤ人たちのクリスチャンたちによれば、すべてのクリスチャンたちは割礼を受け、モーセの律法のすべてを守らなくてはいけないのです。だから彼らは、ユダヤ人として、自分の身分に集中したし、どうやって、律法によって義と認められることができるかに集中しました。

でも、パウロはピリピ人たちに言いました。「そのユダヤ人たちの目当ては間違っています。」

パウロ自身はそのユダヤ人たちよりも自分の身分や自分の義に関して誇ることができました。(4-6)

でも、そのことを自慢せずに、パウロはこう言いました。

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(9-11)

簡単に言うと、パウロはこう言いました。「私は、私自身に集中していません。どうやって、律法によって義と認められることができるかに集中していません。私は宗教のルールに集中していません。私は、その全部がちりあくただと考えています。(原語では、「それらはフンだと考えています。」という意味です。)むしろ、私は一つのことに集中しています。それはイエス・キリストです。

イエス様を知りたいのです。

イエス様と一つになりたいのです。

イエス様からの義を求めています。なぜなら、私の義は神様の目には足りないものですから。

私の力ではなく、イエス様の力を知りたいのです。

イエス様の苦難にあずかるほどに、私はイエス様を知りたいのです。

私はイエス様と共に死にたいのです。つまり、聖霊様の力によって、私の罪深い心を十字架にかけたいのです。

聖霊様の力によって、イエス様と共に復活して、新しい命を知りたいのです。

イエス様、イエス様、イエス様、イエス様。イエス様を知るのは私の目当てです。」

多くのクリスチャンたちの問題は、イエス様に集中せずに、自分自身に集中することです。

そういうわけで、彼らは疲れてしまいます。彼らの信仰は重荷になります。彼らは自分の空しい努力で神様を喜ばせようとするけど、失敗してしまうので、イエス様に対する愛は後退します。

もし、イエス様ではなく、ほかの物に集中するなら、どうやってイエス様との愛の関係ができるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは何に集中しているでしょうか。

 

 

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ピリピ人へ手紙2:19-30--キリストの模範に従うこと

パウロはピリピ人たちにイエス様の模範に従うべきと言った後、二人の人々を例として指しました。

パウロはテモテに関して、こう言いました。

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕える仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。(20-22)

その前、パウロはピリピ人たちに勧めていました。

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。(4)

そして、パウロはピリピ人たちにこう言いました。「テモテはそんな人です。多くの人々は自分のために生きるけど、テモテは違います。テモテはイエス様の模範に従い、あなたがたのことを心配しているのです。さらに、テモテは福音のために私と共に忠実に仕えています。

そのあと、パウロはエパフロデトという人を表彰します。ピリピ人たちはパウロの奉仕を助けるためにエパフロデトを送ったらしいです。でも、パウロと一緒に仕えている間、彼は死ぬほどの病気にかかりました。だから、パウロはエパフロデトをピリピに帰らせました。でも、ピリピ人たちがエパフロデトを失敗者として批判しないように、パウロは彼を「私の兄弟、同労者、と戦友」と呼びました。さらに、パウロはこう言いました。

ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。(29-30)

イエス様が天の父の御心に従って、自分の命を喜んで捧げたように、エパフロデトもそうしました。だからパウロは言いました。「エパフロデトのような人たちを尊敬しなさい。あなたは彼の模範に従うべきです。」

私たちもエパフロデトの模範に従うべきです。

あなたはどうですか。あなたは、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みているでしょうか。もしかしたら、あなたは、自分の最善のために集中しているでしょうか。

あなたは、自分のために生きているでしょうか。もしかしたら、あなたは神様の御心に喜んで従い、自分の命さえをかけるでしょうか。

もちろん、神様は、あなたを福音のために死ぬように呼ばないかもしれません。でももしかしたら、神様は、あなたが会社を辞めるように命じるかもしれません。または、神様はあなたを別の国に宣教師として送るかもしれません。神様がそうすれば、あなたはどうするでしょうか。

テモテとエパフロデトの模範に従うでしょうか。でもそれより、イエス様の模範に従うでしょうか。

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ピリピ人への手紙1:27-2:18--光として輝くこと

聖書が章と節で分かれるのは、ある意味良いことです。章と節によって、私たちはある聖書の個所を簡単に見つけることができます。でも、時々、章と節の番号が著者の議論の流れを邪魔して、その番号によって、私たちは著者が新しいトピックを始めたと勘違いをしてしまいます。

今日の個所では、そんな勘違いの恐れがあります。

私はこの記事を書き始めたとき、最初は、2章12-18節だけについて話そうと思いました。でも、そうしてはいけないと分かってきました。なぜなら、パウロは以前のテーマを続けているから。つまり、私たちが福音にふさわしく生活するべきということです。

パウロのポイントは、私たちが一致を保つことによって、福音にふさわしく生活することです。でも、その一致を保つのに、私たちはイエス様の模範に従うべきです。イエス様は私たちを救うために、この世界で自分のニーズを置いておいて、自分の命を十字架で捧げてくださいました。

そのことについて話した後、パウロはこう言います。

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(2:12-13)

多くの場合、私たちはこの言葉を読むとき、自分自身に当てはめます。「私はそうするべきだ」と思います。

でも、パウロは教会の家族に話しています。「あなたがたが恐れおののいて、自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままにあなたがたのうちに働いてい志を立たさせ、事を行わせてくださる方です。」

要するに、イエス様のいけにえによって、天の父はあなたがたに救いを与えてくださいました。だからその救いを生かしましょう。神様はあなたがたのうちに働いています。神様が自分の志をあなたがたに教えたので、教会として、あなたがたは神様の目的を果たすべきです。

でも、私たちがいつも喧嘩しているとしたら、その目的を果たすことができません。

だからパウロは私たちにこう言います。

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(2:14-16)

教会のメンバーたちが喧嘩していることを見ると、この世の人々は「クリスチャンたちは私たちと全く同じものだ。」と思います。

でも、彼らが、互いに愛し合い、仕え合う教会を見ると、また、不平を言わず、疑わずに行う教会を見ると、私たちは彼らに対して輝いている光になります。

そして、彼は考え始めます。「どうして、クリスチャンたちは私とそんなに違っているのだろうか。私は彼らのようになりたい。」

そういうわけで、パウロはピリピ人たちに言います。「私の希望は、あなたたちが光になることです。あなたたちがそんな人になれば、私はいつかイエス様の御前に立つとき、誇りを持って、あなたがどんな人になったか指摘することができます。」

パウロは、彼らに対する自分の愛について話して、この個所をまとめます。

たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。(17)

つまり、「あなたたちに仕えることは重荷ではありません。あなたたちのように、私は自分の救いを達成するように努めています。神様があなたのうちに行っていることを見ると、私は喜びます。だから、私が福音のために牢に入ることを悲しまないでください。むしろ、私と共に喜びなさい。そして、私たちが一緒に働き、喜ぶにつれて、この世界は私たちの光を見ます。」ということです。

あなたはどうですか。それはあなたの態度でしょうか。神様があなたの中だけではなく、周りの兄弟たちと姉妹たちの中で働いていることを見るでしょうか。

あなたたちは、一緒に協力し、一致を持って歩むにつれて、神様が自分の目的を果たすことを見ているでしょうか。あなたたちが一緒に光を人々の前で輝かせるゆえに、彼らは、あなたたちの良い行ないを見て、天の父をあがめているでしょうか。

もしかしたら、彼らがあなたたちを見ると、いつも喧嘩している人たちを見るでしょうか。

私たち皆が教会として、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めるように。私たちを通して、周りの人々は彼らを愛し、彼らのために自分の命をささげた主を知るように。

 

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ピリピ人への手紙1:27-2:11--福音のメッセージ

前回の記事では、私たちが福音にふさわしく生活するべきということを学びました。でも、福音とは何でしょうか。

パウロは2章でその福音をはっきりと説明します。福音はイエス様に関するものです。つまり、

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(6-8)

ちょっと考えてみてください。イエス様は神の御姿てあられます。でもイエス様は、「私は天の父や御霊と対等です。どうして私の方が地球に行って、このみじめな反抗的な民のために死ななくてはならないのだろうか。」と言いませんでした。

むしろ、イエス様は自分を空しくしました。イエス様は神様として栄光に値する方でしたし、その栄光を持っていたけど、その栄光を手放して、人間になりました。

さらに、イエス様はこの世に来る時、人間の王としてきませんでした。むしろ、貧しい家庭に生まれて、大工になりました。

それだけではなく、神様としてイエス様は自分勝手に生きる権利を持っていたけど、そうしませんでした。むしろ、彼は畏まって、しもべとして、天の父の指示に従いました。そして、天の父は「この世のためにあなたが死ぬ時間が来た」と言うと、イエス様は答えました。「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

どうしてイエス様は天の父の御心に従ったのでしょうか。なぜなら、イエス様は天の父を愛しているから。その愛のため、イエス様は自分が値するものを捨てて、十字架で辱められて亡くなられました。

でも、福音の話はまだ終わっていません。

パウロは続けます。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(9-11)

天の父はイエス様を復活させただけではなく、イエス様をかしら、また支配者としてすべてのものの上に置きました。そして、ある日救われたの人々のすべては、ひざまずいて、礼拝し「イエス・キリストは主です」と喜んで告白します。その日、私たちはしみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の統一した教会として、父なる神に栄光を帰します。

パウロによれば、私たちはこの福音にふさわしく生活するべきです。イエス様が私たちのためにそうしてくださるなら、私たちがイエス様の模範に従うのはふさわしい反応でしょう。だから、パウロはこう言いました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(5)

私たちはイエス様と一つになりました。だから私たちはイエス様の模範に従うべきでしょう。周りの人々が私たちを拒絶するのに、私たちは彼らにキリストの愛情と憐れみを与えるべきでしょう。

もし、ある日、我々クリスチャンたちが一緒にイエス様を私たちの主として礼拝するなら、今互いに愛し合い、御国のために一緒に働くべきでしょう。

また、私たちは利己的な態度を捨てて、兄弟たちと姉妹たちを自分よりすぐれた者と思うべきでしょう。イエス様が私たちのために自分の命を捨てたように、私たちは兄弟たちと姉妹たちのために自分の命を捨てるべきでしょう。

あなたはどうですか。福音を信じているでしょうか。その福音によって、生きているでしょうか。

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ピリピへの手紙1:27-2:4--福音にふさわしく生活すること

今日のタイトル、「福音にふさわしく生活すること」を見ると、どんな考えが思い浮かぶでしょうか。自分の信仰を周りの人々に伝えることでしょうか。聖い生活を送ることでしょうか。もちろん、私たちはそうするべきですけど、たぶんパウロはその言葉を書いたとき、違うことを考えていたでしょう。

彼はこう書いた。

ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。(27a)

多分、ほかのことよりも、パウロは教会の一致に触れているでしょう。

原語では、「ふさわしく生活する」とは、市民としてふさわしく生活するというニュアンスがあります。

ローマの帝国では、ピリピ人たちは身分の高い人たちでした。彼らは土地を所有する特権を持っていたし、ある種の税金を払わなくていいでした。だから、ローマの市民として、彼らは自分の身分を誇りました。

でも、パウロは彼らに言いました。「あなたはローマ帝国の市民として誇りを持っているけど、それよりも、神の御国の市民として、誇りを持つべきです。だから御国の市民としてふさわしく生活しなさい。ほかの市民たちとの一致を保ちなさい。」

なぜそうするべきでしょうか。

そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。(27b-28a)

パウロはピリピ人たちに警告しました。「ある人たちは必ずあなたたちに反対します。」

だからパウロは彼らにこう言いました。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。(29-30)

その言葉はちょっと不思議です。「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」

でも使徒たちは苦しみをそのように見なしました。彼らは苦しみを喜ぶ機会と見なしました。例えば、使徒の働き5章では、彼らは福音を宣べ伝えたゆえに、鞭で打たれたけど、彼らは喜びました。パウロも苦しんでいても、この手紙では、自分の喜びを表しました。なぜパウロは喜んだでしょうか。

使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜び(ました)。(使徒5:41)

だから、福音にふさわしく生活する意味の一つは、イエス様のために苦しむことです。

でも注目してください。もちろん、私たちは一人でイエス様のために苦しむかもしれないけど、パウロはクリスチャンたちが一緒に苦しみを経験することについて話しています。

そして、パウロによれば、クリスチャンたちが霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされないことは、反対者たちの裁きのしるしだし、ピリピ人たちの救いのしるしです。

言い換えると、反対者たちは、イエス様に対するピリピ人たちの愛、また、ピリピ人たちの互いの愛を見て、ピリピ人が得た命が分かります。そして、そのピリピ人たちが得た命を見ると、反対者たちは、死が自分の心を治めていることが分かるようになりました。

でも、反対したたちは具体的に何を見たはずですか。

キリストにあって励ましがある人たち。試練の中で愛の慰めがある人たち。御霊の導きと力によって歩む人たち。敵に対す愛情と憐れみがある人たち、また、ほかのクリスチャンたちに対する愛情と憐れみがある人たち。同じ思いとなる人たち、また、同じ愛の心を持つ人たち。心を合わせ、思いを一つにした人たち。利己的な思いや虚栄から何もしない人たち。むしろ、へりくだって、互いに自分より優れた者と思う人たち。自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みる人たち。(2:1-4)

それは福音にふさわしく生活することです。

私たちはそのように生きているでしょうか。個々のクリスチャンとしてだけではなく、教会として、そのように生きているでしょうか。

もし教会の人たちが単なる個々のクリスチャンとして、自分自身に仕えるとしたら、教会はこの世にあまり影響を与えられないでしょう。だから自分自身を個々のクリスチャンとして考えずに、御国の市民として生き始めましょう。互いに愛し合い、仕え合いましょう。

十字架で死ぬ前に、イエス様はこう祈りました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネ17:20-21、23)

その祈りを覚えていましょう。

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ピリピ人への手紙1:19-26--イエス様があがめられるように

私にとって、死がまだ遠い将来のことである気がします。

でも、パウロはこの手紙を書いたとき、自分がすぐに殺されるかどうか分かりませんでした。パウロは、裁判でネロが彼を釈放する確信を持っていたけど、それは100%確実ではありませんでした。

だから、パウロはこう言いました。

 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。(20)

生きづづけても、処刑されても、パウロは平気でした。パウロにとって、大切なのは、パウロが生き続けても、処刑されても、キリストがあがめられることです。だから、パウロは生きている間に、自分の人生がキリストに栄誉を与えるように努めました。パウロが死んでも、自分の死によって、神様に栄誉を与えたいと思いました。

私たちもその態度を持つべきです。毎日、私たちはキリストの栄光のために生きるべきです。でも、その考えが全然思い浮かばない日が多いでしょう。むしろ、私たちは自分の仕事や、日常生活や、トラブルだけを考えます。私たちがこの世のことに焦点を当てすぎるので、イエス様に関する考えは全然思い浮かびません。でも、私たちはそのように生きるべきではありません。むしろ、私たちはパウロの態度を取るべきです。

私にとって生きることはキリスト(です)。(21a)

あなたはそう言えるでしょうか。もしかしたら、ほかのもののために生きているでしょうか。

もしかしたら、あなたは自分の死に直面しているかもしれない。あなたは死に直面すると、どんな態度を持っているでしょうか。パウロのように、あなたはこう言えるでしょうか。

死ぬことは益です。(21b)

この世に生きるのは、神様の賜物で、日々は私たちが神様に栄誉を与える機会です。それでも、パウロのように、あなたは天国がより良いところである確信を持っているでしょうか。パウロのように、あなたは板挟みになっているでしょうか。つまり、あなたはこの世で、イエス様に仕えて、周りの人々に触れたいと思うけど、同時に天国でイエス様と共にいたいと思うでしょうか。

もしかしたら、あなたの人生にしがみついて、自分のために生きているでしょうか。そういうわけで、あなたは死を恐れているでしょうか。

死を恐れる必要はありません。自分のために生きるのをやめて、イエス様を信じてください。あなたの罪が赦されるために、イエス様は十字架で死んでくださいました。でも、それだけではなく、イエス様は、死に対する自分の力を振るって復活しました。そして、イエス様は私たちに約束します。「わたしが生き、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14:19)

あなたの人生をイエス様にささげれば、本当のいのちを知ります。

今、それを望むなら、この祈りを祈ってください。

イエス様、私は罪人です。私はあなたに背を向け、自分のために生きていました。でも、そのように生きていたので、ほかの人を傷つけたし、自分自身を傷つけたし、さらに、あなたを傷つけました。私を赦してください。十字架で、あなたが私のために死んでくださり、感謝します。私の罪を清めてください。これから、あなたのために生きたいと思います。今から私が死ぬまで、私の人生によって、あなたがあがめられますように。イエス様の御名によって祈ります。

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ピりピ人への手紙1:12-18--喜ぶことを選ぶと

パウロは福音のためにいろんなトラブルを経験したので、愚痴を言ったとしても、驚くことはないでしょう。

もしかしたら、弱い時、パウロはよくぼやいたかもしれません。でもパウロに関する話や、パウロの手紙では、彼は決して文句を言いませんでした。むしろ、彼は喜びました。

主からの喜びは本当に不思議なものです。その喜びはその人の状況によるものではありません。むしろ、その喜びは神様との関係の実です。そして、私たちの状況に関わらず、その喜びは私たちの心から湧きあがります。

使徒の働き16章で、一つの例を見ることができます。パウロとシラスは逮捕され、牢に入りました。彼らが鞭で打たれ、彼らの足が足かせに掛けられたとき、どのように反応したでしょうか。彼らは賛美歌を歌ったり、祈ったりしました。

そして、ローマの牢で、パウロは同じことをしました。親衛隊たちはパウロを見ると驚いたことでしょう。普通の囚人たちはうめいたり、文句を言ったり、絶望して静かに泣いたりしました。でも、親衛隊たちのシフトが始まって、彼らがパウロを見ると、パウロは彼らに明かるく挨拶したり、賛美歌を歌ったり、福音を述べ伝えたりしました。だから親衛隊たちの全員は、パウロが普通の囚人ではないことがすぐにわかりました(13)。もしかしたら、ある親衛隊たちはクリスチャンになったかもしれません。

さらに、パウロが牢で大胆に福音を述べ伝えた模範のゆえ、ほかのクリスチャンたちも大胆に福音を述べ伝え始めました。

あるクリスチャンたちは、「パウロが牢に入っているので、私は頑張って、パウロの代わりに福音を述べ伝えなくてはいけません。」と思ったでしょう。

残念なことですけど、ほかの人の動機はそんなに清くありませんでした。もしかしたら、彼らはパウロの羊を盗もうと思ったかもしれません。

でも人々の動機に関わらず、パウロは喜びました。なぜなら、サタンは福音の普及を止めようと思ったけど、福音は広がり続けましたから。

でもちょっと考えてみてください。もしパウロがいつも愚痴を言ったとしたら、どうなったでしょうか。もし自分がかわいそうだと思ったとしたら、どうなったでしょうか。

たぶん、彼はだんだん絶望に落ちて、ほかのクリスチャンたちも落胆したでしょう。

でも、パウロが喜んだので、そのトラブルを乗り切って、神様は栄誉を受けました。

あなたはどうですか。どんなトラブルを通過しているでしょうか。どんな状況であっても、パウロのようにあなたは喜ぶことを選ぶでしょうか。もしかしたら「私かわいそうパーティー」を開くでしょうか。

喜ぶことを選ぶと、私たちがそのトラブルを乗り切って、神様は栄誉を受けます。

でも文句ばかりを言うと、あなたは絶望のぬかるみを重い足どりで歩いてしまいます。

あなたはどうするでしょうか。

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ピりピ人への手紙1:1-11-神様が私たちの中で行っていること

パウロはいろんな試練を経験していたけど、この手紙では、パウロの喜びをよく見ることができます。たぶん、パウロはローマの牢からこの手紙を書いたでしょう。でも、私たちは何回も「喜び」や「喜ぶ」という言葉を読みます。

パウロを喜ばせる一つのことは、ピリピのクリスチャンたちの中の神様の働きです。ピリピの教会はヨーロッパで一番最初の教会でした。パウロはピリピに行ったとき、リディアという裕福な女の人に出会いました。彼女は神様を敬いましたけど、イエス様のことを全然知りませんでした。でも、パウロがリディアとその家族に福音を述べ伝えたとき、彼らは信じて、救われました。(使徒の働き16:11-15)

でも、パウロがピリピにいる間、いろんなトラブルが起こりました。彼は逮捕されて、牢に入りました。それでも、神様は働いていました。パウロを通して、看守とその家族もクリスチャンになりました。(使徒の働き16:16-40)

それはピリピの教会の原点でした。そして、彼らはパウロを経済的に支える教会の一つになりました。

彼らがパウロの福音の働きと協力して、パウロは彼らの間の神様の良い働きを見ることができました。だから、パウロはこう書きました。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(4-6)

キリストの福音の驚くべきことの一つは、救いが最初から最後まで恵みによるものであることです。私たちが神様のことをまだ考えていないとき、神様は私たちを救うために手を伸ばしました。そして恵みによって、神様は私たちを罪の不潔な穴から引き上げ、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちを清めてくださいました。

でも、救いの働きはそれだけではありません。神様は私たちに「では、あなたを清めましたよ。これから、あなたの力で頑張ってね」と言って、私たちを放置するわけではありません。

むしろ、今なお、神様は私たちの中で働いて、イエス様がこの世に帰る時まで、働き続けます。その日、イエス様は私たちを完成させてくださいます。

どのように、神様は私たちの中で働いているでしょうか。パウロは私たちに教えます。

私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(9-11)

パウロが祈るのは、愛の実、つまり神様に対する愛と周りの人々に対する愛の実が、私たちの人生に豊かに結ばれることです。どのように、その実が成長するでしょうか。私たちが神様とその愛の素晴らしさを深く知れば知るほど、私たちの愛もより咲きます。神様に対する私たちの愛も、周りの人々に対する愛も成長します。

その愛の実を結び始めるにつれて、私たちのための神様の計画を知り始めます。私たちは良い選択だけではなく、最善の選択を選びます。そして、私たちの人生に神様の義の実をすべて結びます。

でも、パウロの言葉に注目してください。私たちの努力によって、義の実は結ばれるわけではありません。むしろ、私たちはイエス様に繋がらなくてはなりません。だから、イエス様はこう言いました。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)

では、この個所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目に、自分の罪を見ても、落胆しないでください。神様はあなたの中で良い働きを始めました。その働きは十字架で始まりました。そして、神様があなたを呼んだとき、あなたは神様のもとに来ました。それだけではなく、あなたが完成した者になるまで、神様は働き続けます。

二つ目は、私たちはイエス様に繋がるべきということです。それはあなたの人生が変わる鍵です。その鍵は、ただあなたの努力や自制ではありません。その鍵は、イエス様があなたのうちに住んでおられることです。

そして、イエス様の働きによって、神様の栄光は現れて、あなたは喜びを知ります。

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エペソ人への手紙6:10-24--一緒になって祈ること

エペソ人への手紙についての最後の記事を書くにつれて、もう一度、この手紙のテーマを皆さんに思い出させたいと思います。もう覚えているでしょう。そのテーマは一致です。

パウロは霊的な戦いについて話して、私たちがどんな武具を着るべきか教えました。そのあと、パウロはこう言いました。

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。(18-20)

もちろん、私たちは神様の武具を着るべきですけど、私たちの力がどこから来るか覚えていなくてはなりません。その力は私たちから来るのではなく、神様から来ます。そういうわけで、私たちはあらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈るべきです。

御霊によって祈るとは、どういう意味でしょうか。それは、御霊の導きに従って祈るということです。祈りの初めに、御霊に、「今日、どう祈ればいいか」と祈った方がいいです。

でも多くの場合、私たちはただ勝手に祈ります。そういうわけで、神様が私たちにどのように祈ってほしいか分かりません。

だから、祈るとき、聖霊様の導きに従ってください。聖霊様の祈りをあなたの祈りにしましょう。

良い時にも、悪い時にも祈りましょう。

あらゆる祈りによって祈りましょう。感謝の祈り。賛美の祈り。罪の告白の祈り。自分のニーズのためにも祈りましょう。

それに、一緒に立って祈りましょう。私はもう一度、言います。私たちは一人で、この霊的な戦いを戦ってはいけません。この霊的な戦いの中で、私たちは一致を守らなくてはなりません。だから互いに祈り合いましょう。また、一緒に祈りましょう。

特に、この霊的な戦いの最前線で戦っている人々のために祈るべきです。つまり、福音を述べ伝える人のために祈りましょう。神様が彼らにふさわしい言葉を与えるように祈りましょう。神様が、御霊によって、彼らに力を与えるように祈りましょう。そして、その言葉によって、人々が変わるように祈りましょう。

もしあなたが最前線で戦っているなら、あなたが一人で戦っていないことを忘れないでください。パウロのように、ほかのクリスチャンたちの祈りを頼んでください。自分の経験や問題をシェアしてください。一人で頑張らなくていいです。私たちは互いに必要とし合うから。

だからあなたがどこにいても、一緒に立ちましょう。そうすれば、勝利を得ます。

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エペソ人への手紙6:10-24--私たちの武具

前回の記事で私は言いましたが、私たちは霊的な戦いを人間的な武器で戦いません。つまり、私たちは銃や政治や、議論に頼らないということです。

誤解しないでください。政治や議論を使うのは悪くて、決してその武器を使ってはいけないとは言いません。パウロ自身は政治家たちと哲学者たちと話した時、そんな武器を使いました。

でも、その武器だけによっては、私たちは霊的な戦いに勝つことが出来ません。

攻撃が来るとき、私たちは堅く立つのには、神様の武具が必要です。その武具は何の物で成り立つしょうか。

一つ目は、真理の帯です(14a)。私たちはいつも真理を語るべきです。私たちは正直な人であるはずです。そして、私たちの回りに、人の嘘や、サタンの嘘を聞くとき、私たちは神様の真理を振るうべきです。私たちの回りに偽善者や、自分の信仰を汚す人を見るかもしれないけど、私たちは自分の正直さで知られるはずです。預言者ダニエルとその友達は、そういう人たちでした。(ダニエル書1ー6章)

そして、私たちの心を守るために正義の胸当てを着るべきです(14b)。私たちが罪を犯すと、私たちの心は汚れて、弱くなります。だから、私たちが責められても、私たちは誘惑に負けてはいけません。ダニエルとその友達は何回も責められたけど、彼らは決して自分の信仰を汚さずに、正しいことをし続けました。

また、私たちは攻撃されても、仕返しを求めてはいけません。むしろ、私たちはペテロの言葉に従うべきです。

ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(第一ペテロ4:19)

そして、足には、平和の福音の備えを履くべきです(15)。私たちがどこに行っても、神様の平和によって安心するべきです。なぜなら、どんな試練に直面しても、私たちが死んでも、救いの確信を持っているから。そして、周りの人々も神様の平和を知るように、私たちはその福音を彼らに伝えるべきです。

また、信仰の盾を取るべきです(16)。そうすれば、サタンが疑いの火矢を放つとき、私たちはその火矢を消すことが出来ます。困難の時、また、迫害の時、私たちが神様のことを疑うのは簡単なことです。「神様は、あなたは、本当にここにおられるでしょうか。どうして、こんな問題を許すでしょうか。」

でも、私たちは神様がまだこの世界を支配しているし、結局私たちが報いを受けることを信じて、安心するべきです。

そして、私たちは救いのかぶと被るべきです(17a)。毎日、私たちのうちに住んでおられる御霊によって、私たちの思いは新しくなるべきです。毎日、私たちは御霊と協力して、私たちの心や生活は変わりつつあるはずです。

最後に、私たちは御霊の剣、つまり、神様のみ言葉を取るべきです。それは、私たちのただ一つの武器です。(17b)

サタンが砂漠でイエス様を攻撃した時、イエス様はいつもサタンの嘘に対して、神様のみ言葉を振るいました。神様のみ言葉によって、私たちは真理を知っています。神様のみ言葉によって、また聖霊の力を通して、神様は私たちの思いと生活を変えてくださいます。人々が福音の光を見えるために、神様のみ言葉は人々の心貫き通します。

だから、私たちが神様のみ言葉をよく知っているのはとても大切です。あなたはそのみ言葉をよく知っているでしょうか。

また、毎日、神様の武具を着用しているでしょうか。もしかしたら、あなたはサタンの攻撃によって、すぐに倒れるでしょうか。

この暗闇の世界では、堅く立つ心構えをしているでしょうか。

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エペソ人への手紙6:10-24ーー一緒に立って、サタンの攻撃と向き合うこと

私たちは敵国に住んでいます。あなたがそれを知っているかどうか分からないけど、それは真実です。

パウロはこう言います。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(12)

「この暗闇の世界。」

言い換えると、「敵が占領しているこの世界。」

でも、その敵は人間ではありません。彼らは霊的な敵です。サタンや悪霊たちはこの世界を占領します。そういうわけで、この世界は、暗闇の世界です。

そのことを簡単に見ることができます。人々の道徳はだんだん悪化しています。以前に善と見なされたことは、悪と見なされています。逆に、以前に悪と見なされたことは、善と見なされています。

予言者イザヤはそんなことについて話しました。

わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。(イザヤ書5:20)

パウロは似たことを言いました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。(第2テモテ4:3)

そのときは来ました。それは私たちの世界です。だから、パウロは私たちに訓戒します。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。(13)

「邪悪な日」とは、どういう意味でしょうか。

多分、パウロは迫害について話しています。ある日、人々はキリスト教をもはや耐えません。アメリカでは、迫害されているクリスチャンたちはいます。カナダでは、「憎悪犯罪の律法」によって、ラジオの番組やYoutubeなどで、クリスチャンたちは検閲されています。

では、クリスチャンたちはどのように戦うべきでしょうか。

私たちは自分の力によって戦いません。パウロはこう言います。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。(10)

私たちは、銃や、政治や、議論や、ほかの人間的な武器に頼ってはいけません。むしろ、パウロは言います。

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。(11)

私はもう一度、言います。私たちは人間と戦っているわけではありません。私たちはこの暗闇の世界の霊的な力と戦っています。

でも、もう一つのことを繰り返したいと思います。パウロは個々のクリスチャンたちに話しているわけではありません。パウロは教会に対して話しています。もちろん個々のクリスチャンたちも武具を身につけて、悪魔の策略に対して堅く立つべきです。でも、教会の人たちが協力して、そうするべきです。

パウロの言葉を言い換えると、「皆さん。あなたたち皆は、悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさい。」

イエス様はこう言いました。

どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。(ルカ11:17)

もし教会は内輪で争えば、サタンに対して堅く立つことができません。だから一致というテーマはこの箇所でも大切なのです。神様は私たちをキリストの下に一つとしました。でも、サタンは私たちを分裂させたいと思います。もう内輪で戦っている教会は、団結している教会よりも、壊しやすいものです。

また、一人で立っているクリスチャンは、支え合ったり、守り合ったりするクリスチャンたちよりも、滅ぼしやすいものです。

だから、この暗闇の世界と向き合うと、どのように戦うでしょうか。分裂した教会としてでしょうか。弱い教会としてでしょうか。自分の力で、また、人間的な武器で戦うでしょうか。もしかしたら、私たちは団結して、主の力によって、霊的な武器で戦うでしょうか。

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エペソ人への手紙6:5-9--私たちがどのように仕えるか

今日の個所では、パウロは家族関係の話を終えて、もう一つの私たちのキリストとの関係の描写を与えます。

私たちが以前に学んだのは、親子の関係が私たちの天の父との関係を描写するということです。また、夫婦の関係は私たちのイエス様との関係を描写します。

でも、パウロによれば、主人と奴隷の関係も、私たちのイエス様との関係を描写します。

私たちの文化では、奴隷の関係と家族関係は全然違うものです。でも、ローマの文化では、奴隷たちはその家庭に属しました。

どうしてパウロやほかの使徒たちは奴隷制を批判しなかったか、ちょっと理解しにくいです。それでも、パウロとほかの使徒たちの言葉によって、人々がどのように奴隷たちを見なしたか変わりました。それ以前、どのように人々は奴隷を見なしたでしょうか。人々は奴隷を人間と見なさずに、自分の所有物と見なしていました。でも、パウロとほかの使徒たちの教えによって、人々は奴隷を人間として認め始めたので、奴隷制は結局なくなりました。

とにかく、パウロの言葉を見ましょう。

奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。(5-8)

先ほど言ったけど、パウロは主人と奴隷の関係を私たちのイエス様との関係に例えます。でも、夫婦関係と親子の関係と違って、主人と奴隷の関係は神様が確立したものではありません。それは人間の発明でした。

だから、パウロはコリント人のクリスチャンの奴隷たちにこう言いました。

もし、自分の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。(第一コリント7:21-23)

それでも、その手紙でも、この手紙でも、パウロは私たちをキリストの奴隷に例えます。だからパウロは奴隷たちに言います。「イエス様に従うように、自分の主人に従いなさい。それだけでなく、恐れおののいて真心から彼らに従いなさい。主人があなたを観察しなくても、心から従いなさい。」

どうして奴隷たちはそうするべきでしたか。

なぜなら、最終的に私たちがキリストの奴隷で、イエス様は私たちに報いを与えてくださいますから。

もちろん、現代では私たちは奴隷として働きません。それでも、私たちの多くは、職場で働いたり、教会でボランティア活動をしたりします。そして、私たちは同じ態度を取るべきです。私たちがキリストに仕えていることを覚えていて、良い態度を保つべきです。でも、私たちはそうしているでしょうか。

私たちはそうしない時もあります。だから、私の悪い態度を悔い改めなくてはなりません。私たちはキリストを敬って、従うように、上司たちをも敬って、従うべきです。

その反面、パウロは主人たち(または、上司たち)にこう言います。

主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。(9)

言い換えると、あなたの目下を公平に扱うべきです。もし目下が給料やボーナスに値するなら、ちゃんと与えなくてはいけません。イエス様が忠実な人に報いを与えるように、忠実な従業員に報いを与えなくてはいけません。そして、彼らを脅かしてはいけません。なぜなら、あなたも天に主人がおられるから。最終的に、あなたにも、従業員にも、一人の主人に対して説明責任があります。イエス様は目下の人をあなたに預けました。だから、彼らを扱う時に、あなたはイエス様に忠実であるべきです。

あなたはどうですか。

従業員たち。どのように神様が任命した上司に仕えているでしょうか。

上司たち。従業員を扱う時、あなたは忠実にイエス様に仕えているでしょうか。

私たちがどんな状況にあっても、私たちがイエス様を忠実に仕えるように。

 

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エペソ人への手紙6:1-4--私たちの天の父の模範に従うこと

今日の個所では、どのように私たちの人間関係が天の父との関係に映るか分かります。

5章では、パウロは私たちの神様との関係を結婚に例えます。教会がイエス様に従うように、妻は夫に従うべきです。そして、キリストが教会を愛し、教会を自分の体の一部として扱うように、夫たちも妻を愛し、自分の一部として扱うべきです。なぜなら、神様の目には、夫婦は一つになったから。

6章では、パウロは私たちの神様との関係を親子の関係に例えます。パウロはこう言います。

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。(1)

どうして、子供が自分の両親に従うのは正しいことでしょうか。なぜなら、神様は子供たちをその両親に預けたからです。その子供が成長する間、神様は子育ての責任を両親に被せます。だから、子供たちは両親の指示や戒めの理由が理解できない時も、両親に従うべきです。

もう一つの理由は、親子の関係が私たちの神様との関係の描写だからです。神様は私たちの父です。そして、私たちの両親と違って、神様はいつも何が最善であるかご存じです。だから、私たちは、神様の指示や戒めの理由が理解できない時も、神様の言葉に従うべきです。そうすればこそ、私たちは神様の祝福を得ます。

そういうわけで、パウロは言います。

「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。(2-3)

両親に対する子供の従順の生じる祝福は、神様に対する私たちの従順の生じる祝福の描写であるはずです。

生憎、すべての親子の関係はその祝福を描写しません。どうしてでしょうか。なぜなら、両親の行為は、いつも神様の性格や行為をちゃんと描写するわけじゃないから。

ある両親たちは子供たちをちゃんと懲らしめません。または、彼らの懲らしめは厳しすぎたりします。

ある両親たちは、子供を褒めずに、いつも批判します。そのやり方によって、子供のモチベーションが上がると思うから。

また、子供たちが困るとき、ある両親は彼らに共感しません。

そんな行為によって、親子の関係は壊れるし、子供たちの神様に対する考え方は曲がってしまいます。

だからパウロは両親たちに命じます。

父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。(4)

天の父が私たちを愛し育てるように、私たちも自分の子供を愛し、育てなくてはいけません。

では、二つのことを考えてみてください。

1.ご両親があなたを育てた時、どれだけその育て方は神様の性格を反映したでしょうか。彼らの模範は良くなかったとしたら、彼らから目を離して、神様に目を向けてください。あなたの両親がどれだけ失敗しても、神様は決して失敗しませんから。

2.あなたは自分の子供に神様のことをちゃんと描写しているでしょうか。彼らはあなたのうちに神様を見ることが出来るでしょうか。

私が失敗するときも多いです。だから、神様が私を変えるように祈ります。つまり、娘が私のうちに神様を見るように祈ることです。

あなたは良い両親でしょうか。

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自分の目的を果たす神(マタイ1章)

この大変な時期、牧師たちはよく言います。「神様はまだこの世を治めておられます。神様はコントロールを失なっておられません。」

でも、私たちはそう信じるでしょうか。

今日の個所で私たちが学ぶのは、そう見えなくても、神様はまだすべてのことをコントロールしておられることです。

神様は初めから、自分の計画を現わしまた。神様はアブラハムに約束しました。「あなたを通して、私はすべての国々を祝福します。」

そのあと、神様はダビデに約束しました。「あなたの子孫は永遠に王座に座ります。」

でも、神様はどのようにその約束を守ったでしょうか。神様はずっとアブラハムとダビデの子孫を祝福したのでしょうか。

いや、実は、メシアの系図を見ると、罪によって堕落する人々、また、罪によって壊れた人々が多いとわかります。

ユダとその兄弟たちは弟ヨセフを殺そうと思ったけど、神様が彼らを制止したので、結局、彼らはヨセフを奴隷として売りました。ヨセフは13年ぐらいエジプトの奴隷でしたけど、神様はコントロールを失ったというわけではありません。むしろ、神様はヨセフを用いて、ヨセフの家族だけではなく、エジプト人たちと周りの国々の人たちを飢饉から救ってくださいました。

また、イスラエル人たちの罪のため、神様は彼らを裁いて、飢饉を送りました。皆は自分の目に正しいと見えることを行なっていたけど、結局、完全に堕落する人たちになりました。その時、その壊れた社会では、ナオミと他の人たちは苦しみました。ナオミの夫と息子たちが亡くなったとき、ナオミは、「神様はコントロールを失ったのかしら」と思ったかもしれません。

でも、その苦しみを通して、神様はルツという外国人をメシアの系図に入らせてくださいました。その大変な時期に、神様はもうアブラハムに対する約束を守り始めました。つまり、アブラハムを通して、神様はイスラエルだけではなく、すべての国々を祝福し始めたことです。

イスラエルの歴史で、良い王たちもいたし、悪い王もいました。ダビデは良い王だったけど、夫として、また、父としてよく失敗したので、その家族は引き裂かれそうでした。そして、その孫レハブアム王のバカな決断によって、イスラエル王国は二つの王国に分かれました。

その結果は、内戦や、偶像礼拝、子供の犠牲、ほかのひどい罪でした。だから、最終的にイスラエル人たちはバビロンに追放されました。そのとき、神様はコントロールを失っていたでしょうか。

いや、その時でも、神様はコントロールを失っていませんでした。70年後、神様は自分の民をイスラエルに引き戻してくださいました。ある国々はイスラエル人たちに反対して、抑圧して、完全に殺そうとしました。それでも、神様はメシアの系図を守りました。

そしてイエス様が生まれました。イエス様の名前は、神様の計画と目的を表現します。「ヤハウェは救いです。ヤハウェは私たちを救ってくださいます。」(「ヤハウェ」とは、神様の名前です。)

私たちの周りのカオスの中で、その真理は私たちの希望です。

神様は、約束したことを必ず果たしてくださいます。神様の約束と計画を阻むものは、全くありません。

 

 

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エペソ人への手紙5:25-33--結婚の一致(2)

この個所で興味深いことは、パウロによれば、結婚が私たちのキリストとの関係の描写であることです。パウロはこう言いました。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストのからだの部分だからです。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(25-32)

イエス様は教会のために何をしてくださったでしょうか。イエス様は天国を去って、この世に来ました。そして、十字架で、自分のいのちを捧げました。今なお、イエス様は私たちの世話をし、私たちの物理的なニーズや霊的なニースに供え、神様の愛で私たちを養い育てくださいます。

どうしてイエス様はそうしてくださるのでしょうか。なぜなら、イエス様は自分と同じように私たちを愛してくださいますから。実は、イエス様は私たちを彼のからだの一部と見なします。

夫は同じことをするべきです。彼は親元を離れ、自分の妻と一つになります。彼は妻のために自分のいのちを捧げ、妻の世話をし、妻の物理的なニーズや霊的なニーズに供え、愛で妻を養い育てるべきです。どうして、夫はそうするはずでしょうか。なぜなら、彼は妻を自分と同じように愛するはずですから。実は、神様の目には、妻は夫の一部と見なします。

いろんな意味で、夫は妻に対してイエス様の描写であるはずです。同様に、妻はイエス様を敬い、イエス様の導きに従うように、自分の夫も敬い、夫の導きに従うべきです。

では、夫たち。あなたはどれだけイエス様のことを妻に反映しているでしょうか。自分の妻をあなたの一部として扱うでしょうか。もしかしたら、そこまで妻を敬っていないでしょうか。キリストは教会をそのように愛しています。だから私たちもそうするべきです。

妻たち。あなたはどれだけイエス様に従っているでしょうか。もしイエス様に従うのが難しいと思うなら、自分の夫に従うのはなおさら難しいでしょう。

パウロはこの話をこのようにまとめます。

それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。(33)

あなたの結婚はどうですか。あなたの結婚はイエス様と教会の関係を反映しているでしょうか。

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エペソ人への手紙5:21-33--結婚の一致

今日の個所では、パウロは結婚について話していますが、実は、パウロは以前に言ったことを違う方法に応用しています。パウロは以前に何と言ったでしょうか。それは、イエス様にあって、教会の人々は一つになったことです。私たちの間に立っていた隔ての壁が取り壊されました。

でも、多くの結婚では、夫婦は敵意を持って、彼らの間に隔ての壁はまだ立っています。(もちろん、私は違う壁について話しています。エペソ2:14では、その壁はモーセの律法でした。)

創世記3章で、私たちはその壁の元を見ることが出来ます。アダムとエバが罪を犯した後、神様はエバにこう言いました。

また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。(創世記3:16)

その言葉は、ヘブル語でも、日本語でも、カインに対する神様の言葉に似ています。

罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。(創世記4:7)

神様の言葉を言い換えると、「罪はあなたのコントールしたいと思うけど、あなたは罪をコントロールしなくてはなりません。」

そのように、アダムとエバの時代から多くの妻たちは、神様の計画に反対して、夫をコントールしようとします。でも、夫の肉体的な力によって、多くの妻たちは束縛されてしまいます。妻たちは、夫たちに対する愛ではなく、恐れによって夫に従います。残念なことだけど、妻をコントロールするため、自分の妻を虐待する夫たちもいます。だから、その妻は虐待的な関係から自由になろうとします。

その結果は、壊れた結婚です。夫婦はキリストにあって一つになるはずですけど、敵意を持って、夫婦の間に隔ての壁が立っています。

では、その解決は何でしょうか。

パウロはこう言いました。

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。(22-24)

エペソ1:22では、私たちが学んだのは、神様が教会の益のためにキリストを教会のかしらとして任命したということです。だから、私たちはイエス様に従うにつれて、祝福を得ます。

そのように、神様は妻たちの益のために夫を妻のかしらとして任命しました。だから、教会がキリストに従うように、妻も夫に従うべきです。言い換えると、妻はイエス様に従うように、自分の夫にも従うべきです。そうすれば、妻は祝福を得ます。

でも、祝福を得ない妻たちもいます。だから自分のかしらと戦います。どうして、そんなことが起こるでしょうか。

なぜなら、多くの夫たちは大切なことを忘れるからです。神様は、夫たちの益のために、夫たちを自分の妻のかしらとして任命したわけではありません。むしろ、妻の益のために、神様は夫たちをかしらとして任命しました。我々夫たちは、自分の妻を祝福するはずです。

パウロは25ー26節で、そのことをはっきりと教えます。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり。。。(25-26)

その言葉には、皮肉があります。イエス様は教会を祝福したにつれて、教会はキリストに対する祝福になりました。イエス様と教会は一つになりました。

そのように、夫たちが自分の妻を祝福するにつれて、妻が夫に対する祝福になって、神様の計画通りに、その夫婦は一つになります。次の記事で、そのことについてもっと話します。

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不確かな時代に対応すること(2)(第二ペテロ5章)

先週、私は不確かな時代に対応することについて話しました。今日の個所では、ペテロは、その話をまとめます。

私たちはどうすればよいでしょうか。

1.神の力強い御手の下にへりくだりましょう。(6)

不確かな時代には、それはどういう意味でしょうか。ペテロは私たちに教えます。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」(7)

プライドのゆえに、自分の思い煩いを神様から隠してはいけません。むしろ、神様にその思い煩いを委ねましょう。神様があなたを心配してくださるのを信じることを選びましょう。

2.私たちはサタンの攻撃に注意するべきです。サタンは、あなたを落胆させようとします。サタンは、あなたに、神様が良い方であることを疑わせようとします。

または、、サタンは、私たちに言います。「ストレスを解消しなくてはならない。じゃあ今日だけ、罪にふけって良いだろう。」

もしかしたら、サタンはあなたのストレスを用いて、夫婦の喧嘩や、子供との喧嘩や、周りの人々との喧嘩をもたらそうとするかもしれません。

サタンの手口に注意して、サタンに対抗しましょう。

3.神様の恵みの中にしっかりと立っていましょう。

恵みによって、神様はあなたの壊れた人生を直してくださいます。

恵みによって、神様はあなたがしっかり立てるように力を与えてくださいます。

恵みによって、あなたが倒れそうの時、神様はあなたを安定させてくださいます。

恵みによって、神様はあなたを強い基礎に置いてくださいます。(10)

私たちは恵みによって救われました。その同じ恵みによって、毎日、歩みましょう。

4.神様がどんな方であるかを覚えていて、礼拝しましょう。

ペテロは歌いました。「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。」(11)

神様はこの世の王です。私たちが苦しんでいても、神様がこの世をコントロールする力を失ったというわけでもありません。今なお、神様はこの世を治めています。だからニュースを見た後、テレビを消し、SNSを消し、ネットを消し、神様を礼拝しましょう。

この不確かな時代に、キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。(14)

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エペソ人への手紙5:15-21--私たちがどのように歩むこと

私は、パウロがこの個所でどのように「歩む」という言葉を使うか好きです。

「愛のうちに歩みまさい。」(2)

「光の子どもとして歩みなさい。」(8)

「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。」(15)

要するに、この人生では、私たちは一歩一歩で進めば進むほど、神様の愛を知っているはずです。そして、神様の愛は私たちを通して流れるはずです。

また、周りの人々は私たちの人生を見ると、神様の光を見るはずです。

そして、私たちは次の一歩を踏み出すたびに、私たちの選択がどこに導くか注意を払うべきです。

パウロはその教えをこのようにまとめます。

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(15-17)

言い換えると、愚かな人生を送ってはいけません。私たちはかつて死に至る人生を送っていました。その道に戻ってはいけません。また、その道を歩んでいる人と一緒に歩んではいけません。

もちろん、私たちには彼らを完全に避けることは出来ません。でも彼らがに私たちに影響を与えることを許してはいけません。むしろ、私たちが彼らに影響を与えるはずです。

そして、パウロは大体同じことを二回言います。

何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。(10)

また、

主のみこころが何であるかを悟りなさい。(17)

私は改めて強調したいのですが、パウロは個々のクリスチャンたちに話していません。パウロはキリストの統一したからだとしてのクリスチャンたちに話しています。パウロは彼らに言いました。「あなたたち皆はキリストのからだとして、知恵を持って生きなさい。あなたたちは教会として時間を賢く費やしているでしょうか。神様の教会として、機会を十分に生かしなさい。」

でも多くの場合、神様の民はそうしません。教会は暗闇の中の光ではなく、むしろ、教会は暗闇の活動に参加します。または、私たちは互いに噛みつき合ったり、食い合ったりしてしまいます。私たちはに苦々しい心を持って、ほかのクリスチャンたちを赦さずに、恨みます。

だから、パウロは、「そんな態度を捨てなさい。」と言います。「それは、神様の御心ではありません。そんなことをするとき、愚か者として生きています。あなたたちは自分の時間と機会を無駄にしています。そうせずに、キリストのからだのための神様のみこころを知りなさい。」

神様の御心は何でしょうか。

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。(18-21)

「御霊に満たされなさい」という言葉を見ると、私たちはしばしば個々のクリスチャンたちについて考えます。つまり、個々のクリスチャンたちは御霊に満たされるはずだと思います。でも、パウロが言ったのは、「あなたたちはキリストのからだとして、御霊に満たされるはずです。」ということです。

教会が一番必要なのは、御霊に満たされることです。でも多くの場合、教会は欲張りや、恨みや、分裂的な思いに満ちています。

神様の教会が御霊に満たされ、御霊に導かれ、御霊の力によって生きているとしたら、どれだけこの世界に影響を与えられるでしょうか。

もし、神様の教会の人々は互いに引き裂き合わずに、御霊の喜びに満ちて、賛美で互いに励まし合うとしたら、どれだけこの世に影響を与えられるでしょうか。

また、もし教会の人々は恨みや分裂的な思いに満ちずに、互いに尊敬し合ったり、キリストを恐れて、互いに従い合ったりすると、どれだけこの世に影響を与えられるでしょうか。

私たちはそのように生きているでしょうか。教会として、私たちはそのように歩んでいるでしょうか。個々のクリスチャンとして、そのように歩んでいるでしょうか。

あなたはどのように歩んでいるでしょうか。

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エペソ人への手紙5:3-14--罪を軽く考えること

この世の問題の一つは、多くの人々が罪を軽く考えることです。罪に関してジョークを造ったり、自慢したりする人もいます。でも、罪は軽く考えられるものではありません。特に、クリスチャンたちは罪を軽く考えてはいけません。

そういうわけで、パウロはこう言います。

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。  また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。(3-4)

要するに、周りの人々が私たちの行為や言葉さえも批判できないほどに、私たちは清い生活を送るべきです。私たちはもう一度言います。私たちは決して罪を軽く考えてはいけません。

でも、テレビ番組や、映画について話すとき、どれだけ、私たちは、「そのドラマでは、その主人公は罪を犯していました。」と言うでしょうか。または、歌を聞くとき、どれだけ私たちは「この歌の歌詞は罪を売り込んでいます。その歌詞に従うと、人はいつか神様に裁かれます。」と考えるでしょうか。

私たちは普通にそんなことを考えないでしょう。

あなたは、「そんな考え方は真面目すぎでしょう。それがこの世のものでしょう。」と言うかもしれません。

でも、そんな態度こそが大問題です。多くのクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのように罪のことをあまりに軽く考えています。でも、パウロは私たちに思い出させます。

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。(5-6)

要するに、罪は深刻な問題です。自分の罪によって、人々は神様の怒りに値します。さらに彼らは地獄に値します。そのことを考えると、どうして、罪を軽く考えられるでしょうか。

だからパウロは言います。

ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。 何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。(7-14a)

神様は、私たちをこの世の民と違う者になるように呼びます。彼らは罪の暗闇に暮らしているのです。私たちもかつてその暗闇に暮らしました。でも、パウロによれば、今や私たちは主にあって光となりました。だから光の子のように私たちは生きるべきです。

私たちは罪の実を結んではいけません。むしろ、私たちはあらゆる善意と正義と真実の実を結ぶはずです。

だから私たちは罪を祝わずに、キリストの光で、その罪を暴露しなくてはなりません。私たちは、罪を人々を滅ぼす物として暴露しなくてはなりません。

そして、私たちは周りの人々にこう言うべきです。

眠っている人よ、起きよ。 死者の中から起き上がれ。 そうすれば、キリストがあなたを照らされる。(14b)

あなたはどうですか。罪を軽く考えているでしょうか。罪の深刻さを忘れてしまったのでしょうか。

イエス様が私たちの罪のために死ななければならなかったことを覚えていてください。イエス様は私たちと私たちの回りの人々を、罪の暗闇を出て、新しい命に入るように呼びます。あなたは、その新しい命の光で歩んでいるでしょうか。周りの人々をあなたと一緒に歩むように呼んでいるでしょうか。

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エペソ人への手紙4:25-5:2--私たちが一つになるように(2)

言葉は力のあるものです。言葉によって、人は建てあげられます。言葉によって、人は取り壊されます。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。(29)

「悪い言葉」とは、「腐っている言葉」と翻訳することが出来ます。私たちは、腐っている言葉を、いっさい口から出してはいけません。

「腐っている言葉」とは何でしょうか。31節では、私たちはいろんな例を見ることが出来ます。例えば、「無慈悲なことば」、「怒りの言葉」、「ののしりの言葉」、「悪意の言葉」などです。

そんな言葉によって、聖霊様は悲しみます。どうしてでしょうか。なぜなら、そんな言葉はキリストのからだを分裂させるから。

覚えていてください。この個所の要点は、キリストのからだの一致を保つことです。でも、私たちの言葉によって、私たちは互いにかみつき合ったり、食い合ったりしているなら、その一致を保つことが出来ません。(ガラテヤ5:15)

では、どんな言葉を私たちの口から出した方がいいでしょうか。成長に役立つ言葉や、聞く人に恵みを与える言葉です。人々がそんな言葉必要するとき、私たちはそんな言葉を語るべきです。

注目するべき点が二つあります。

一つ目は、私たちが話す前に、何を言うべきかを考えるべきということです。私たちは周りの人々を見るとき、彼らのニーズを考えるべきです。でも多くの場合、私たちはちゃんと考えずに何かを言って、相手を傷つけてしまいます。もし、私たちが相手のニーズを考えると、相手を思わず傷つけてしまうはずはないでしょう。

二つ目は、私たちの言葉は、恵み深いものであるはずということです。言い換えると、私たちの言葉は人々に恵みを与えるはずです。

私たちの口からどんな言葉が出るでしょうか。裁きの言葉でしょうか。責める言葉でしょうか。もしかしたら、恵みの言葉でしょうか。

でも、私たちの言葉だけではなく、私たちの行為も恵みを表すはずです。だから、パウロはこう言います。

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。(32)

場合によっては、そうすることは難しいでしょう。相手を親切に扱うのは難しい時もあります。相手を憐れむ気がない時もあります。相手を許すのは辛い時もあります。でも、私たちは神様の親切や、憐れみや、赦しに値しませんでした。むしろ、私たちは神様の怒りと裁きに値しました。それでも、神様は自分の憐れみと恵みを私たちに注いで、私たちの罪を赦してくださいました。

そういうわけで、パウロはこう言います。

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。(1-2)

私たちのために十字架で自分のいのちをささげた時、イエス様は、天の父にとって芳ばしい香りになりました。そのように、私たちが神様の子供として生きて、周りの人々に神様の愛と恵みを与えると、私たちは天の父にとって芳ばしい香りになります。

そして、私たちは人を愛するとき、特に難しい人も愛するとき、私たちが本当に神様の子供であることを証明します。そうするにつれて、我々クリスチャンたちはイエス様にあって一つになります。

あなたはどうですか。あなたは自分が神様の子供であることを証明しているでしょうか。あなたは毎日周りの人々を愛し、建てあげているでしょうか。

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不確かな時代に対応すること(第一ペテロ3章)

コロナウイルスで、健康的な問題や、経済的な問題と向き合って、私たちは本当に不確かな時代に生きています。

では、私たちはどのように対応するべきでしょうか。

ペテロの読み手は、違う問題に直面しました。それは迫害です。それでも、私たちがペテロの言葉を私たちの状況に当てはめることができると思います。

ペテロはこう言いました。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(8-9)

以前言ったように、ペテロは迫害と、迫害に対する私たちの反応について話しています。

でも、この大変な時期、人間関係がちょっとぎすぎすしたものになるのは簡単なことです。

また、ある人々は政府の対応に不満で、文句を言ってばかりです。

でも私たちはそうするべきではありません。むしろ、神様は私たちをほかの人々を祝福するように呼びます。

私たちの人生が大変になっても、謙虚な態度を持って、心の優しい人となるべきです。また、私たちは周りの人々に同情し、彼らを愛するべきです。

また、私たちは悪口や、呪いや、文句などを控えて、人々を私たちの言葉と行動で祝福するべきです。(10)

そしてペテロはこう言います。

人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(14-15)

ペテロは迫害について話しているので、翻訳者はペテロの言葉を「人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません」と訳しました。それはペテロが意味したものかもしれないけど、もう一つの訳し方があります。

実は、ペテロはイザヤ書8:12-14を引用していました。

イザヤが書いた時、イスラエル人たちは、アッシリヤの軍隊を怖がりました。でも、神様はイザヤにこう言いました。

この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。万軍の主、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。そうすれば、主が聖所となる。(12-14)

主を聖なる者とすることは、どういう意味でしょうか。それは、主だけを恐れるという意味です。私たちは、ほかのものよりも、万軍の主に畏敬の念を抱くべきです。

ペテロはその言葉をイエス様に当てはめます。私たちはキリストを万軍の主として認めるべきです。私たちは、すべてのものよりも、キリストを畏れるべきです。

そうすれば、私たちが人に襲われても、コロナウイルスに襲われても、イエス様は私たちの聖所となります。

私たちは、ほかの人たちが恐れるものを恐れてはいけません。私たちはコロナウイルスを恐れてはいけません。経済的な問題を恐れてはいけません。

むしろ、私たちは神様に畏敬の念を抱いて、神様を礼拝するべきです。そして、嵐の中でも、神様は私たちの聖所になります。

では、私たちは病気にならないのでしょうか。私たちは経済的な問題を経験しないのでしょうか。

実は、コロナウイルスのせいで、倒産するクリスチャンもいるかもしれません。亡くなる人もいるかもしれません。

でももしかしたら、このウイルスを通して、神様は私たちに思い出させようとしています。

「この世はあなたの家ではありません。あなたはただ寄留している人です(第一ペテロ1:1)。私はあなたのために永遠の住まいを準備している中です。また、あなたのために、永遠の遺産を準備している中です。」

それは私たちの希望です。

その希望を周りの人々にシェアしましょう。もし怒りや恐れに負けないで、むしろ、私たちが周りの苦しんでいる人たちを祝福すれば、彼らは「どうして私を祝福してくれるの?」と訊くかもしれません。

その時、ペテロの言葉を覚えていてください。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(15)

そして、あなたが希望を失いそうだったら、あなたの希望の基礎を覚えていてください。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(18)

だから、この不確かな時代に、この歌を覚えていて歌いましょう。

Because he lives I can face tomorrow.
イエス様が生きておられるので、私は明日に向かうことができます。
Because he lives, all fear is gone.
イエス様が生きておられるので、すべての恐れは消えてしまった。
Because I know he holds the future,
イエス様が将来を自分の手に持っていることを知っている。
And life is worth the living just because he lives.
イエス様が生きておられるので、私には生きがいがあります。

ーービル・グイザー

 

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エペソ人への手紙4:25-5:2ーー私たちが一つになるように

5年前に、この個所を読んだとき、パウロの言葉を再認識しました。つまり、それ以前、私はどのようにパウロの言葉を私の人生に当てはめられるかを考えたけど、実は、パウロが個々のクリスチャンたちについて話しているのではなくて、教会について話していたと分かりました。ユダヤ人と異邦人の間に立っていた隔ての壁が取り壊され、私たち皆がクリスチャンとして一つになりました。

その文脈で、パウロは今日の個所を書きました。彼のポイントは、私たちがどのようにキリストのからだの一致を保つことが出来るかということです。

25節から、パウロはそのことを強調します。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。(25)

真実を語らないと、一致を保つのは無理でしょう。友人関係でも、結婚関係でも、教会の関係でもそうです。時々、私たちは真実を軽く考えすぎます。例えば、私たちは簡単に罪のない嘘を語ります。(それは本当に罪のないだろうか。)また、兄弟か姉妹が罪を犯すと、私たちはその人の反応を恐れるので、何も言いません。でも、15節によれば、私たちは愛を持って、真理を語るべきです。その目的は、相手が成長することです。

ところで、真理を語るとき、「愛を持って」ということはとても大切なことです。ある人は、自分の正直さを自慢するけど、彼らの目的は相手を建てあげることではなく、むしろ相手を取り壊そうとすることです。それがあなたの態度なら、黙っていた方がいいです。でももし、神様の前に「私はこの人を愛して、建てあげたい」と言えるなら、どうぞ真実を語ってください。

そしてパウロはこう言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(26-27)

私たちは怒ってもいいです。でもどのようにその怒りを処理するでしょうか。あなたはただ相手に怒鳴るでしょうか。もしかしたら、その怒りを静かに自分の心に保っていて、苦々しい根を張るでしょうか。そうすれば、あなたは悪魔にあなたを操る機会を与えます。

でももう一度言います。パウロは主に教会に話しています。もし教会のメンバーたちが心の中で怒りを保つなら、サタンはその機会を利用して、教会を分裂し、壊そうとします。

パウロは続けます。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。(28)

その言葉で、大切な原則を見ることが出来ます。相手を傷つけることをやめるのは足りないのです。私たちは相手を建てあげなくてはなりません。なぜなら、私たちの目的は、キリストのからだを建てあげることだからです。

次の記事で、この話を続けるけど、とりあえずちょっと考えてみてください。

私たちの行動によって、キリストのからだの一致を保っているでしょうか。もしかしたら、私たちの行動によって、キリストのからだを分裂させているでしょうか。私たちはキリストのからだを建てあげているでしょうか。もしかしたら、キリストのからだを取り壊しているでしょうか。

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エペソ人への手紙4:17-24--私たちの目的を果たすため

「アナと雪の女王」というディズニーの映画では、エルサ女王が自分の力を現してしまって、周りの人々の恐れのゆえ、彼女は自分の王国から逃げなくてはなりませんでした。

その時まで、エルサは周りの人々から自分の力を隠しました。でも、追放された後、彼女は「ありのままの姿見せるのよ。ありのままの自分になるの」と決めました。

そして、彼女は歌います。

もう自由よ。
何でもできる。
どこまでやれるか自分を試したい。

英語では、彼女は歌います。

正しいことはない。
悪いことはない。
私にとって、もうそんなルールはもうないのよ。
私は自由だから。

でも、その「自由」は長く続きませんでした。妹のアナはエルサの所に来て、エルサがその「自由」を活用したゆえ、どれだけ自分の国をめちゃくちゃにしたかを伝えます。だから、エルサは英語の歌でこう歌います。

なんて愚かだったの….自由なんて無理。
内なる嵐から逃れる術はないのよ。
コントロール出来ない…この呪いを!
なんて恐ろしい。

そして、アナは、エルサに全てを治すことが出来ると説得しようとしたとき、エルサは答えました。「私にはできない。」

多くの人々は「ありのままで」という歌が好きだけど、エルサが結局何を悟ったか分かっている人は何人いるでしょうか。つまり、本当の自由が自分のことを理解することからは来ないということです。なぜなら、私たちのうちにあるものは、結局私たちを滅ぼしてしまうのですから。そして、私たちは自分のことを恐れてしまって、自分の問題を解決することが出来ないと分かります。

でも、多くの人々はそのことが分かりません。むしろ、パウロによれば、彼れはむなしい心で歩んでいるのです。

パウロはこう言います。

彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。(18-19)

もちろん、この言葉のすべてをエルサに当てはめることは出来ません。その映画はクリスチャンの寓話ではないから。でも、エルサの知性が暗かったので、彼女は自分が誰であるべきか分かりませんでした。彼女を拒絶した人々のため、彼女の心が頑なになったので、彼女は自分の道を行って、自由を得たと思いました。

そのように、多くの人々の知性が暗くて、彼らは自分が誰であるべきか分かりません。神様は愛を持って、自分の似姿に彼らを造ったのに、彼らは無知で、神様に対する頑ななこころを持っています。

そういうわけで、彼らは善悪という「鎖」を捨てて、自分の道を行ってしまいます。彼らは、「自分の道に行けば、自由を見つける」と思います。

でも、結局彼らは自由になりません。むしろ、彼らの人生はめちゃくちゃになって、どうすれば良いか分からなくなります。

しかし、クリスチャンとして、私たちはそのように生きるべきではありません。むしろ、私たちは古い人生を捨てるべきです。私たちは古い態度や習慣を捨てるべきです。なぜなら、その態度と習慣が腐敗しているもので、その態度と習慣に従い続けると、私たちは滅びてしまいますから。(22)

私たちは特に一つの考え方を捨てなくてはなりません。それは、神様からの独立を求める態度です。自分の道を行くことによっては、自由を得ません。むしろ、その道は呪いになって、私たちを縛ってしまいます。

だからパウロは言います。

あなたがたが霊と心において新しくされ続け(なさい)。(23)

神様が私たちの心を変えるように祈るべきです。そして、私たちは「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着るべきです。」(23-24)

私たちはそのような人であるべきです。私たちは神様のようになるべきです。

もちろん、クリスチャンたちは違う点を持っています。私たちはいろんな賜物を持っているし、自分の性格を持っています。クリスチャンになると、そのものを失いません。むしろ、エルサのように、私たちの賜物は神様が計画した通りに美しいものになります。また、神様が計画した通りに、私たちは美しい創造物になります。

でも、その美しいものになるのに、自給自足の態度を捨てなくてはなりません。神様からの独立の態度を捨てなくてはなりません。そして、私たちが誰であるべきかを覚えていなくてはなりません。それは、神様の似姿に造られた人々ということです。

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エペソ人への手紙4:7-16ーーキリストの満ち満ちた身丈にまで達すること

この世を見れば見るほど、この世がどんなにめちゃくちゃになったかに気づくでしょう。それに、私たちは、自分の人生を見ると、それもめちゃくちゃになったことを認めなくてはなりません。この世も、私たちの人生も壊れて、不完全なものです。この世と私たちの人生を癒せる方は一人しかいません。それはイエス様です。

そういうわけで、イエス様はこの世に来られました。9ー10節によれば、イエス様は人間としてこの世に来られて、私たちの罪のために死んでくださいました。そして、イエス様は死を克服して、復活して、天国に戻りました。

その目的は何でしょうか。それは、キリストがすべてのものを満たすためということです。つまり、イエス様は人を満たし、彼らの壊れた人生を癒し、彼らの渇いた心を満たすことです。そして最終的に、イエス様は、罪によって壊れた創造物を癒してくださいます。

パウロはこう言いました。

(イエス様)はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。(8)

捕虜とは誰でしょうか。もしかしたら、イエス様に敗れた悪霊たちかもしれません。でも、たぶん彼らは、イエス様が自由にした罪の奴隷だったでしょう。イエス様は彼らを自由にし、神の御国に導いて、贈り物を与えてくださいました。

その贈り物は何でしょうか。もちろん、一つ目は永遠のいのちです。もう一つのは御霊です。御霊は私たちを満たして、新しい者とします。だから、私たちはますますイエス様のようになります。三つ目は、使徒、預言者、伝道者、牧師と教師です。

使徒パウロとペテロなどは、福音を始めて宣べ伝えました。預言者たちは私たちに神様のメッセージをシェアして、私たちを訓戒し、励ましてくれます。伝道者たちは私たちをイエス様の所に導いてくれます。牧師たちと教師たちは私たちの霊的なニーズを供え、イエス様について教え、正しい道を教えてくれます。

でも、その人たちはすべての奉仕をするはずではありません。私はさっき言ったけど、彼らは神様からの贈り物でした。でもどうして、神様は彼らを私たちに与えてくださったのでしょうか。

それは、聖徒たち(つまり、すべてのクリスチャンたち)を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(12-13)

要するに、私たちは互いに建て上げ合い、互いの信仰を強め合い、イエス様のことを教え合うはずです。その結果、私たちは成熟したものになります。もちろん個々のクリスチャンたちは成熟するけど、教会の全体は成熟します。教会があらゆる点でイエスのようになるので、私たちがこの世に触れるにつれて、イエス様はすべてのものを満たします。

ちょっと注目してください。パウロが言ったのは、私たちは一人の成熟した大人になるということです。パウロは、「たくさんの成熟した大人たちになる」と言いませんでした。むしろ、「一人の成熟した大人になる」と言いました。私たちは一つのからだになります。私たちは完全で成熟したキリストのからだになります。

では、私たちはどんな人になってはいけないのでしょうか。私たちは、どんな教えの風にも吹き回されたり、もてあそばれたりする子供になってはいけません。(14)

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。私たちはただ成熟した人たちの集まりではありません。(15-16)

そうすれば、私たちは個々のクリスチャンとして、また、教会としてイエス様にあって、完全なものになります。そして、私たちを通して、イエス様はすべてのものを満たして、癒してくださいます。

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エペソ人への手紙4:1-6--教会の一致を守る事

1ー3章では、パウロは、私たちがキリストにあって一つとなったことについて話しました。モーセが受けたシナイの契約によって、ユダヤ人たちは異邦人たちから離れました。でも、イエス様の十字架によって、その隔ての壁は打ち壊されました。だから、今やユダヤ人と異邦人たちは一人のかしらの下にあります。

そのことを説明した後、パウロはこう言いました。

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。(1)

言い換えると、「神様に召された教会として、その召しにふさわしく歩みなさい。」

その召しとは、何でしょうか。それは、キリストにあって一つの体になることです。そして、その体を通して、神様は自分の知恵と栄光をこの世に現したいと思います。

この手紙の残りでは、パウロは、私たちがどのようにキリストのからだとして生きるべきか説明します。どのように、キリストのからだとして、神様の栄光と知恵を現すことが出来るでしょうか。パウロはこう言います。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(2-3)

「謙遜の限りを尽くしなさい。」

私にとって、それはとても難しいことです。私が子供の時からクリスチャンだったし、いろんなことを学んだので、プライドを持つことは簡単なことです。でも実は、私はいろんなことをまだ学んでいる途中です。私にはまだ失敗するときもあります。私にはまだ罪を犯すときもあります。だから周りの人々を扱う時、私は自分の弱さを覚えていなくてはなりません。

他の人の失敗や罪を見る時、私は謙遜を持って、柔和の心をも持つべきです。

また、神様が私に寛容を示したように、私は周りの人々に寛容を示すべきです。だから、私は彼らを軽蔑せずに、私は彼らの失敗や、弱さや、罪に対して、寛容を示すべきです。

そしてパウロは「御霊による一致を熱心に保ちなさい。」と言います。

私たちは一つです。神様は私たちを一つの教会としました。でも一致を守るために、努力が必要です。私たたちの罪深い習慣のため、一致が壊れる恐れはいつもあります。だから平和の絆を守るために、私たちはいつも注意し、積極的にその一致を守らなくてはなりません。

私たちは熱心に御霊による一致を保っているでしょうか。もしかしたら、私たちはすぐに兄弟たちや姉妹たちの罪と失敗のため、彼らを引き裂こうとしているでしょうか。パウロは私たちにもう一度思い出させます。

あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。(4-6)

簡単に言うと、私たちは一つのからだです。同じ御霊は私たちのうちに住んでおられます。イエス様にあって、同じ希望を持っています。私たちは同じ救い主に属しています。私たちは同じ信仰を持っています。私たち皆はイエス様の御名によってバプテスマを授けられました。私たちは同じ父に属します。その父は、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神です。

それが本当なら、どうして私たちは互いに引き裂き合おうとしているのでしょうか。

サタンは分裂した教会を見ると喜びます。分裂した教会は神様の知恵と栄光をこの世に現すことが出来ません。

だから、その分裂的な精神を捨てましょう。

神様は私たちを一つとしました。熱心にその一致を保ちましょう。

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エペソ人への手紙3:14-21--私たちが神様の栄光委に満たされるように

列王記第一にソロモンが建てた神殿の完成に関して、こう書いてあります。

祭司たちが聖所から出てきたとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることが出来なかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(列王記第一8:10-11)

神殿が主の栄光に満ちたように、神様の望みは、自分の教会が神様の栄光に満ちることです。だから、パウロはそのことのために祈りました。

どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力を持ってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(16-19)

パウロは一人のエペソのクリスチャンに書いていたわけではありません。むしろ、パウロはすべてのエペソのクリスチャンたちを対象に書いていました。パウロは「あなた」と言わずに、「あなたがた」と言いました。

もちろん、パウロは個々のクリスチャンたちのためにそのことを望みました。でも、その言葉を書いたとき、パウロはエペソのクリスチャンたちを一つのものとして考えました。なぜなら、キリストにあって、すべてのクリスチャンたちは一つですから。

2章では、パウロは何回も強調したし、3章と4章でも、そのことを強調しました。

パウロの祈りを言い換えると、こうなります。「神様、あなたの御霊を通して、一人一人のクリスチャンの中に働くにつれて、あなたの教会に力を与えてください。イエス様、あなたに対する彼らの信仰によって、彼らの心のうちに住んでください。天のお父様、彼らがあなたの愛に根差されるように。あなたの愛が彼らの人生の基礎になるように。そして、彼らがあなたの愛に根差すにつれて、彼らが兄弟たちと姉妹たちのお互いの愛にも根差すように。その愛に根差すにつれて、彼らがあなたの知恵と愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するように。そして、ソロモンの神殿があなたの栄光に満たされたように、彼らがあなたの満ちあふれる豊かさにまで満たされますように。」

それは、教会に対する神様の望みです。神様の望みは、私たちが神様の神殿になることです。また、私たちが神様の栄光に満ちて、その栄光をこの世に照らすことです。

でも、それは私たちの努力によって起こりません。むしろ、神様が教会に力を与えて、教会の中に働くにつれて、それは起こります。

だから、自分のことや教会を見て、落胆するとき、覚えていてください。神様は、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方です。(20)

神様は奇跡を行うことが出来ます。神様は壊れた人生や教会を栄光のあるものに変えることが出来ます。私たちがしなければならないことは、神様と協力することだけです。そして、ある日、神様は私たちのゆえ、また、十字架で流された血によって私たちを買った御子のゆえ、神様は褒められます。

だから絶望しないでください。むしろパウロの歌を歌いましょう。

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。(20-21)

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エペソ人への手紙3:12--自由と確信

どれぐらい、私たちはキリストにあって与えられた物を当たり前だと思うでしょうか。

パウロによれば、旧約聖書の預言者たちや祭司たちは神様の計画の奥義を完全に理解しませんでした。たぶん、彼らは、その奥義の半分でも分からなかったでしょう。

モーセや、エリヤや、イザヤや、エレミヤや、ダニエルなどが、現代の教会を見たとしたら、どう思うでしょうか。彼らは、クリスチャンたちが大胆に神様に近づくことを見るとしたら、本当に驚くことでしょう。でもパウロによれば、私たちは今やそんな権利を持っているのです。

私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。(12)

その預言者たちは神様に大胆に近づくことができる確信を持っていたでしょうか。彼らは神様を「アバ、父」と呼ぶ自由を持っていたでしょうか。

多分そうではありません。

彼らは神様に近づくとき、ちょっと恐れを感じたでしょう。神様の御前にいないときでも、彼らは自分の失敗や罪をよく覚えていたからです。

また祭司たちは幕屋や神殿に行って、聖所や至聖所に入るとき、本当に気をつけなくてはなりませんでした。そうしないと、彼らは殺されるかもしれないと知っていたから。その祭司たちは、クリスチャンたちが神様に自由に近づくことを見たとしたら、何を考えたでしょうか。

でも、イエス様とその十字架の働きのゆえ、私たちは罪から清められたし、イエス様の義を着ています。またイエス様を通して、私たちは確信を持って、大胆に神様に近づくことができます。

私たちを見るとき、天使たちや悪霊たちは本当に驚くでしょう。(10)

なぜなら、私たちは神様の民となりましたから。私たちは自分の義を着ず、イエス様の義を着ています。さらに、神様が私たちを喜んで受け入れているので、私たちは喜びを持って、大胆に神様の御前に来ることができます。

旧約聖書の預言者たちや祭司たちは、それを見たとしたら、どう感じたでしょうか。

あなたはそのことに驚いているでしょうか。

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エペソ人への手紙3:1-13ーー神様の恵みの務めを与えられた人(2)

私たちは神様の恵みの務めを与えられた人だけど、多くのクリスチャンたちはこう言うかもしれません。「でも、私はパウロではありません。パウロがしたことを私には出来ません。私はただの普通のクリスチャンだから。」

でも、神様はあなたをパウロになるように呼びません。あなたとパウロは、神様の恵みの務めを与えられた人だけど、あなたはパウロと違う方法でその務めを果たします。それでも、神様があなたを導くにつれて、あなたは福音を述べ伝え、周りの人々に触れるはずです。

あなたは、こう言うかもしれません。「でも、私は資格を持っていません。私はその仕事に値しません。」

実は、パウロもそのように感じました。彼はこう言いました。

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり。。。(7-8)

パウロは、自分が恵みの務めを与えられることに値しないと思いました。「私はすべての聖徒たちのうちに最も小さい人」だと言いました。なぜパウロはそう思ったしょうか。なぜなら、彼はかつて教会を迫害して、たくさんのクリスチャンたちを捕まえたり、殺したりしたから。

それでも、彼は言いました。「キリストの測り知れない富を福音として異邦人に述べ伝えるために、私は神様の恵みを与えられました。」

パウロは自分の資格を誇りませんでした。自分の賜物や才能を誇りませんでした。むしろ、「神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、福音に仕える者になりました。」と言いました。

神様はあなたをも福音に仕える者になるように呼びました。あなたも神様の恵みの務めを与えられました。なぜでしょうか。なぜなら、神様はその恵みをあなたに豊かに注ぎましたから。良いしもべになるのに、あなたは特別な資格や賜物は要りません。また、自分の知恵や力に頼る必要がありません。

むしろ、その恵みの務めを果たすのに、あなたは神様から与えられらた恵みと力に頼るべきです。その力と恵みによって、あなたはその恵みの務めをちゃんと果たすことができるはずです。

さらに、パウロによれば、神様の意図は、教会を通して、自分の多面の知恵をこの世界に現すことです。でも教会とは建物を指すのではありません。教会とは、あなたと他のクリスチャンたちなのです。あなたを通して、神様は自分の知恵を現したいと思います。

「でも、私は弱いです。私はただの一般人です。神様はどうやって私を用いることが出来るだろうか。」

あなたが弱くて、普通の人であればこそ、神様はあなたを用いることが出来ます。なぜなら、弱くて、普通の人々は神様の力に頼ることしかできないから。パウロによれば、私たちが弱い時にこそ強いのです。(第二コリント12:9-10)

さらに、パウロはこう言いました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(26-27)

自分の知恵を現すため、神様は強い人たちを募集しているというわけではありません。むしろ、神様は弱い人を募集しています。なぜなら、神様があなたの人生に何をしているかを見ると、また神様があなたを通してどのように人々に触れるかを見ると、周りの人々は驚くからでしょう。

そういうわけで、ユダヤ人の宗教的なリーダーたちはペテロとヨハネのことに驚きました。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

そのように、人々は私たちを見ると、驚くでしょう。

私たちを見ると、周りの人々が私たちがイエス様と共にいたことが分かるように。

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エペソ人への手紙3:1-13ーー神様の恵みの務めを与えられた人

2節で、パウロはこう言いました。

あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。

パウロのように、私たちは神様の恵みの務めを与えられました。神様が私たちに恵みを与えてくださった理由は、私たちがただその恵みを浴びるからではありません。周りの人々に触れるとき、私たちはその恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、パウロの恵みの務めは、私たちの務めと違うところがあります。パウロはいろんな教会を始めたり、神様の恵みに関する聖句、また、福音の奥儀に関する聖句を書いたりしました。

今なお、教会を始める賜物を持っている人がいるけど、すべての人々がその賜物を持っているというわけでもありません。そして、ある人は聖書を教える賜物を持っているけど、新しい聖句を書く賜物を持っている人は誰もいません。

でも、私たち皆は自分の賜物を用いて、恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、私たちは周りの人々に福音を宣べ伝えるべきです。さらに、私たちは神様の愛で周りの人々に触れるべきです。周りの人々は私たちを見ると、神様の恵みの務めを与えられた人々を見るはずです。

でもまず、我々クリスチャンたちは、互いにその恵を与え合うはずです。パウロはこう言いました。

それ(つまり、キリストの奥儀)は、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

神様は初めてアブラハムを呼んだとき、「すべての部族は、あなたによって祝福される」と約束しました。(創世記12:3)

でも、どのように神様がその約束を守るか何年も不明でした。しかし、パウロは「その答えは啓示されました」と言います。つまり、イエス様とその十字架の御業によって、私たち皆は、ユダヤ人でも、異邦人でも、アジア人でも、白人でも、黒人でも、男性でも、女性でも、神様の相続人になったということです。私たち皆はイエス様を通して神様の約束を受けます。

そして、神様の意図は、イエス様において成し遂げられた、永遠のご計画によって、教会を通して、神様の極めて豊かな知恵が天上にある支配と権威に知らされることです。(10-11)

教会を見ると、天使たちと悪霊たちは神様の極めて豊かな知恵を見ます。特に、彼らは神様の計画の不思議さを見ます。それは、いろんな国からの人たちは、男性でも、女性でも、神様から豊かに与えられた愛で、互いに愛し合うということです。その互いの愛によって、クリスチャンたちは、神様が彼らを造った目的を果たして、神様に栄光を反映します。

天使たちと悪霊たちだけではなく、この世界の人々はそれを見るはずです。そう見ると、彼らも神様の恵みに驚いて、魅せられます。

でも、それは実際に起こっているでしょうか。多くの場合、私たちはこの世界に対して、またほかのクリスチャンたちに対して、忠実に神様の恵みの務めを果たさないので、ノンクリスチャンはそれを見ないでしょう。

あなたはどうですか。その務めを忠実に果たすでしょうか。あなたの教会は?

あなたを見ると、周りの人々は神様の愛と恵みがあなたから彼らに、またほかのクリスチャンたちに流れることを見るでしょうか。

 

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エペソ人への手紙2:11-22--受け入れられました。

キリスト教が始まったとき、異邦人に対するクリスチャンのユダヤ人たちの考え方はど

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隔ての壁の警告

れだけ変わったのかは驚くべきことです。それ以前、ユダヤ人たちは、神様との関係は彼らだけに属するものだと考えていました。もし、異邦人が神様との関係を望むとしたら、ユダヤ教に従わなくてはなりませんでした。だから、神殿の中庭に「隔ての壁」がありました。異邦人の庭まで、異邦人たちは入って、礼拝することができました。でも、隔ての壁に、この言葉は記されていました。「これより中に入る異邦人は、死刑に処す。」

パウロはエペソ人たちにその問題を思い出させました。

そのころ(異邦人たちがクリスチャン人なる前)は、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。(12)

神様のアブラハムとの契約やモーセとの契約によって、ユダヤ人たちは神様との特別な関係を持っていました。また、神様はユダヤ人たちに、「メシアが来て、あなたを救う」と約束してくださいました。

でも異邦人たちは部外者でした。彼らは神様との関係を持っていなかったし、その約束は彼らに当てはまりませんでした。だから、彼らは神様から離れて、救いの希望を持っていませんでした。

言い換えると、神の国の門は、異邦人に対して閉まって、鍵をかけられました。さらに、「部外者たちは、立ち入り禁止」と記される看板が貼りました。実は、私たちも同じ状態にありました。

でも、パウロは続けます。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。(13-17)

パウロによれば、十字架の御業によって、イエス様は隔ての壁である敵意を打ち壊しました。

でも、パウロは「隔ての壁」と言うと、物理的な壁について話していません。むしろ、パウロはモーセの律法について話していました。

イエス様が十字架で死ぬ前、その律法はユダヤ人と異邦人の間の大きい壁でした。ユダヤ人たちは律法を守る人だったけど、異邦人たちは律法を守らない人でした。でも、実は、ユダヤ人も、律法を完全に守ることができませんでした。だから、ユダヤ人に対しても、異邦人に対しても、律法は大きな壁でした。神様に近づくことができる人が誰もいませんでした。

でもキリストが’来るとき、彼は律法を完全に守ったし、私たちの罪の罰を十字架で支払ってくださいました。だから、神様と私たちの間の壁だけではなく、ユダヤ人と異邦人の間の壁も無くなりました。クリスチャンにとって、「外」と「内」というコンセプトが無くなりました。むしろ、イエス様を信じるユダヤ人たちと異邦人たち皆は、一つになりました。

イエス様を信じるユダヤ人たちと異邦人たち皆には、天の父に対するアクセスがあります。私たちは別々の道で天の父に近づくわけでもありません。むしろ、私たちは同じ御霊を受けて、その御霊を通して、天の父に近づきます。神の国に、市民と外人の区別はありません。むしろイエス様を信じる人たち皆は市民になります。そして私たち皆は、神様の相続人の権利をすべて持っています

だから今、私たち皆は、神様が住んでおられる一軒の宮となります。私たちを通して、神様は自分自身をこの世に現わします。イエス様は私たちの要の石だし、使徒と預言者の言葉は私たちの土台です。

だから教会の兄弟たちと姉妹たちを見ると、私たちは彼らをそのように見なすでしょうか。もしかしたら、彼らの人種や、性別のゆえ、私たちは彼らを二流市民と見なすでしょうか。また、違う理由で、彼らを見下すでしょうか。

私たち皆は、イエス様に対する信仰によって、神様に受け入れられました。だから敵意と壁を捨てましょう。

むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ15:7)

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エペソ人への手紙2:10--神様の作品

私は、今日の個所が大好きです。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(10)

ある英語の聖書は、「作品」を「傑作」と翻訳します。

神様は暇して、いい加減に私たちを造ったわけではありません。神様は愛と喜びを込めて、私たちを造ったわけです。神様が自分の計画通りに私たちを造りました。私たちを見ると、神様は誇ります。

でも、私はもう一つの語句に注目しました。それは、「イエスにあって造られた」ということです。

私はこの語句を以前に読んだとき、パウロが、私たちがお母さんの子宮にいるときについて話していると思いました。でも今回、「イエスにあって」という言葉を読むと、パウロが違うことについて話しているだろうと気づきました。

もちろん、私たちのお母さんの子宮の中で神様は私たちを造りました。でも、私たちがクリスチャンになると、イエス様にあって、神様は私たちを新しい創造物にします。

だからパウロはこう言いました。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

神様が私たちを新しく造ったとき、神様の意図は、私たちがもう一度、罪に落ちて、自分自身のために生き続けるというわけではありません。むしろ、神様の望みは、私たちが神様があらかじめ整えてくださった行為に歩むことです。

言い換えると、私たちを新しく造る前、神様は私たちのための計画をもう持っていました。神様は私たちのための仕事を整えました。神様は私たちが触れるべき人々を整えました。

だから、私たちは毎日、こう祈るべきです。「神様、今日、あなたの計画は何でしょうか。私に何をしてほしいでしょうか。私に誰に触れてほしいでしょうか。」

でも多くの場合、私たちはそのように全然考えません。だから私たちは、神様が整えたことを見逃すでしょう。私も神様が整えたことを見逃したことがあるでしょう。

私たちはそのように生きないように。今日は、ただ普通の日ではありません。むしろ、神様は、あなたのために何かを計画して、整えました。だから、神様が整えたことを捜しましょう。

 

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エペソ人への手紙2:1-9--神様の恵みの不思議さ

1章では、パウロは、エペソ人たちがキリストにあって何を持っているかを把握するように祈りました。

2章では、パウロはその真理をエペソ人たちにはっきりと説明します。

ところで、神様の言葉を伝えるとき、私たちもそうするべきです。私たちは、神様が相手の霊的な目を開くように祈るべきです。その後、神様の言葉を相手にはっきりと説明するべきです。

とにかく、今日の個所では、私たちは神様の恵みの不思議さを見ます。私たちは自分の罪の中に死んでいました。私たちは霊的な命を全然持っていませんでした。私たちはサタンの道を歩み、神様に背いていました。私たちには、神様を喜ばせる気が全然ありませんでした。むしろ、私たちは自分自身を喜ばせるために生きていました。私たちは生まれた日から、そんなこころを持っていました。だからパウロはこう言いました。

私たちもみな。。。ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(3)

私たちは生まれた日から、神様に背く心を持っていたので、神様のみ怒りを受けるべきでした。

パウロの時代のユダヤ人たちのように、ある人は、神様を信じる家族に育てられて、神様のみ言葉をよく知っているので、自分が神様に受け入れられると思います。

でもパウロは、ユダヤ人に関して、こう言いました。「神様に背く私たちの心のため、私たちも神様のみ怒りを受けるべきでした。私たちは律法を持っていたのに、その律法を守ることが出来ませんでした。」

そのように、たくさんの人たちは教会に行ったり、聖書を読んだりしました。彼らはほかの人よりも良い人かもしれません。でも、彼らは神様の律法を完全に守ることが出来ないので、神様のみ怒りを受けるべきです。だからローマ書で、パウロはこう言いました。

そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることが出来ず。。。(ローマ書3:22-23)

神様はそれを見ると、私たちを見捨ててしまったでしょうか。神様は、もう呆れて「彼らはもうだめだ」と言ったでしょうか。

違います。むしろ、パウロはこう言います。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。(エペソ2:4-7)

私たちは死んだものでした。死んだものは何ができるでしょうか。何もできません。でも、神様は私たちをよみがえらせました。神様は自分に反応できる心を私たちに与えてくださいました。そして、私たちが信仰を持って、神様に向かうと、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。

神様は罪の泥から私たちを引き上げて清めてくださいました。だから私たちは神様の目に完全な人になりました。

神様がそれだけをしてくださったとしたら、私たちはその恵みの不思議さに驚いたでしょう。でも、神様はそれ以上のことをしてくださいました。神様は私たちをイエス様と共に天上に座らせてくださいました。さらに、神様は私たちを養子にして下しました。ある日、神様の相続人として、私たちはイエス様と共に君臨します。

どうしてでしょうか。なぜなら、神様は自分の恵みを現せたいと思いましたから。神様は私たちがその恵みを褒めるように望みました。

パウロはこの話をこのようにまとめます。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(8-9)

神様の恵みの不思議さはこうです。私たちは救いを求めなかったし、その救いに値しなかったのに、神様が私たちを救ってくださったことです。

私たちの救いは神様から来ました。私たちの信仰も神様から来ました。「私は救いに値する」と自慢できる人がいません。救いは最初から最後まで神様の賜物です。

また、神様の恵みの不思議さはこうです。神様はただ私たちを救ったことではありません。神様は私たちを養子にしました。神様は私たちを自分の相続人にしました。

毎日、その恵みを驚き、褒めましょう。

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エペソ人への手紙1:15-23--私たちが本当に分かれば良いのに

どれだけ私たちがキリストにあって祝福されているか分かるでしょうか。たぶん、私たちはその真理をあまり把握しないでしょう。

もちろん、私たちは神様の愛と恵みについて聞いて、信じています。でも、神様の愛と恵みを本当に把握するでしょうか。私は三十年以上のクリスチャンだけど、今なお、その愛や恵みの真理のプールの浅いところだけを歩いています。

もしかしたら、そういうわけで、パウロはエペソ人たちのためにこのように祈りました。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(17-19)

パウロは、エペソ人のクリスチャンたちが神様を知るように聖霊様を与えられたと言います。もちろん、彼らは、ある程度まで神様を知っていたけど、聖霊様は神様をもっと知るように知恵と啓示を与えてくださいました。聖霊様がいらっしゃらないと、私たちは神様を知る限界にすぐにぶつかります。

でもパウロは違う手紙で、こう書きました。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(第一コリント2:10-11)

要するに、聖霊様を通して、私たちは本当に神様を知ることが出来ます。神様についての事実だけを知るだけではなく、神様自身を知ることが出来ます。

もちろん、私たちは完全に神様を知ることが出来ません。神様の深さを探るのは永遠にかかるでしょう。天国に着いても、私たちは毎日、神様について新しいことを知るでしょう。

でも、聖霊様が私たちのうちに住んでおられて、天の父のことを私たちに現わすので、私たちは神様をだんだん知るようになります。

しかし、聖霊様は私たちに神様だけについて教えるわけではありません。パウロはこう言いました。

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(第一コリント2:12)

神様は私たちに何を与えてくださいましたか。私たちは上記の祈りでその答えを読みました。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:18-19)

私たちは、神様が私たちに与えてくださった希望を知っているでしょうか。この世界が暗いかもしれないけど、この世界以上のものがあるという希望を持っているでしょうか。

また、イエス様はすべてを統治する希望を持っているでしょうか。もちろん、霊的な世界で、イエス様はすべてを統治しています。なぜなら、十字架でイエス様はサタンを破りましたから。でも私たちは、ある日、すべての人が跪き、「イエス様は主」と認める希望を持っているでしょうか。私たちは、イエス様が最後の敵、つまり死を破る希望を持っているでしょうか。

また、私たちは、神様が私たちに豊かに与えてくださる愛を知っているでしょうか。

神様が私たちを神様の栄光に富んだ資産と呼ぶことを知っているでしょうか。(新改訳の別訳です。18節の脚を参考してください。)

神様が、私たちが罪や、病気や、死から解放された復活した体を受ける日を楽しみにすることを、私たちは知っているでしょうか。

私たちは神様の力をアクセスできることを知っているでしょうか。その力は、イエス様を復活させました。その力は私たちを毎日清めます。その力によって、私たちは新しい栄光のある体を受けます。その力によって、私たちの問題や戦いを乗り越えることが出来ます。

最後に、私たちは、自分がイエス様にあって誰であるか知っているでしょうか。私たちはイエス様の体の一部です。私たちはこの世に行って、イエス様の臨在を拡げるように呼ばれました。私たちはすべての所を神様の恵みと愛で満たすように呼ばれています。

あなたはこのすべてが分かっているでしょうか。分かったとしたら、どれだけ私たちの人生は変わるでしょうか。

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エペソ人への手紙1:1-14--神様の愛によって選ばれて、祝福されたこと。

エペソ人への手紙1-2章を読むと、私は、神様がイエス様を信じる私たちに何を与えてくださったかという不思議さをもう一度、感じます。

パウロは、この手紙を賛美の言葉で始めます。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(3)

私たちはどのように祝福されたでしょうか。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ。。。(4-8)

それは素晴らしいことでしょう。パウロによれば、神様はこの世を造る前、もう計画を持っていました。神様は、私たちを神様の御前に聖なる、傷のない者になるために選びました。私たちが罪深く、反抗的な人になることをよくご存じだったのに、神様は私たちを選びました。

そういうわけで、神様は私たちを救って、養子にする計画を立てました。私たちの罪が赦されるように、神様はイエス様を送りました。イエス様は十字架で死んで、私たちの罪の罰を受けてくださいました。イエス様の血よって、神様は、罪の奴隷である私たちを自由にして、自分の愛されている息子たちや娘たちとして私たちを養子にしました。

さらに、「聖霊様は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(14)

聖霊様は私たちを守り、サタンが私たちの神様との関係を破る努力を阻んでくださいます。また、聖霊様の臨在と、聖霊様の私たちの人生の中の働きは、天国の片鱗です。なぜなら、天国に行くと、私たちは神様の御業を見るし、神様のみ顔も見るから。

どうして、神様は私たちをそのように祝福してくださるでしょうか。それは、私たちの良い行為の報いでしょうか。違います。神様のみこころの良しとするところに従って、そうしてくださいました。

神様は選んだとき、誰を救うか、救わないか、無作為に決めたわけではありません。むしろ、パウロによれば、神様は愛を持って、私たちを選びました。私たちがその愛に値しなかったのに、神様は愛を持って、私たちに恵みを豊かに与えてくださいました。

どうして神様が私たちを選んだか、私たちは決して分からないでしょう。でも、神様は自分の理由を持って、私たちを愛してくださいました。

そういうわけで、救いの栄光は私たちに属しません。むしろ、この個所で、三回パウロは言います。「このすべては、神様の栄光のためです。」(6,12,14)

簡単に言うと、私たちは神様の素晴らしい計画の一部分です。そのプランは、神様がこの反抗的な罪深く、めちゃくちゃな世界をイエス様の支配下に一つに集めることです。

正直に言うと、私はこの真理の素晴らしさをちゃんと伝えることが出来ないと思います。

神様とその恵みの素晴らしさをちゃんと伝える言葉はないと思います。

だから、私はもう黙って、そのことをもうちょっと噛み締めると思います。

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ガラテヤ人への手紙6:11-18ーー大事なのは。。。

今日の個所で、パウロは、この手紙に以前に言ったことをまとめます。特に、彼は何が大事か、何が大事ではないかについて話します。パウロによれば、

  • 周りの人々が私たちについて考えるのは大事ではありません。彼らの感心は大事ではありません。(12)
  • 律法に従うための私たちの努力は大事ではありません。なぜなら、律法によって義と認められたいと思うなら、律法を完全に従わなくてはならないけど、そんな人はいないから。(13a)
  • 神様のために私たちができることについてのプライドは、大事ではありません。特に、神様が何を望むかを誤解するなら、自分のプライドは、無駄なものです。(13b)
  • 割礼を受けているかどうか、大事ではありません。心に影響を与えない儀式や宗教的な修行は無意味です。(15a)

私たちはこのすべてのものに対して死んだはずです。また、このすべてのものは、私たちに対して死んだはずです。(14)

その反面、大事なのは一つしかないのです。それは、イエス様の十字架の御業によって、私たちが新しい創造物になったということです。(14-15)

自分の努力によって、私たちが変わるわけではありません。むしろ、聖霊様の力によって、私たちは全く変わります。大事なのは、その真理です。

パウロはこう言いました。

この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(16)

ユダヤ人のクリスチャンたちはガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「割礼を受けて、モーセの律法に従うと、神のイスラエルに属します。」

でもパウロは言いました。「その考え方は間違っています。イエス様に対する信仰によって、また聖霊様の力によって、あなたたちは変わって、神様の民になります。」

その真理が分かると、どうなるでしょうか。あなたは平和を知ります。自分の力によって神様の律法に従う努力のストレスは、なくなります。また、神様の憐れみをだんだん分かるにつれて、自分が裁かれる恐怖はなくなります。

あなたはどうですか。自分の力によって、クリスチャン生活を送ろうとしているでしょうか。聖書のルールによって、いいクリスチャンになろうと思っているでしょうか。もしかしたら、あなたが受けた恵みによって、休んでいるでしょうか。あなたは毎日、聖霊様と歩み、その導きに従っているでしょうか。

パウロのように、私はあなたのために祈ります。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。(18)

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ガラテヤ人への手紙6:7-10--私たちが蒔く種

私は良い農家にはなれなかっただろうと思います。子供のころ、私はみかんの種か、リンゴの種を蒔いたけど、すぐに成長して欲しいと思っていました。1-2日間で何も見なかったので、私はすぐに諦めました。農業を営むのには忍耐が必要ですけど、私には忍耐が全然ありませんでした。

とにかく、ある意味、私たち皆は種を蒔きます。そして、私がかつて蒔いた種とは違い、結局、私たち皆は蒔いたものを刈り入れます。

パウロはこうい書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(7-8)

ガラテヤの教会や、ほかの教会でも、ある人々はパウロの教えを曲げました。パウロは恵みによる救いを教えたので、彼らは言いました。「パウロの意味したものは、私たちが好き勝手に生きてもいいということです。あえて罪を犯しても、赦されるから。」

でも、パウロは答えました。「神様は素朴な方ではありません。あなたちは神様をバカにすることができません。神様はあなたたちの心と行為をよくご存じです。あなたたちがイエス様を信じることを主張するのに、自分勝手に生きるなら、神様は本当のところがよく分かるでしょう。だから、この世界では、あなたたちは自分の罪の結果を何とか避けることができても、裁きの日に、神様に裁かれるとき、あなたは滅びます。

その反面、あなたが本当に神様を愛し、聖霊様を喜ばせようとすると、永遠の命を刈り取ります。」

そして、パウロは私たちを励まします。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(9)

私たちの神様の働きの成果をすぐに見ないと落胆するのは簡単なことです。私たちはファストフードの社会にいて、すぐに結果を見たいのです。でも種が成長するのに、時間がかかります。一朝一夕で成長しないでしょう。

そのように、聖霊を喜ばせる種はすぐに成長しない時もあります。時々、私たちの一生をかけてもその実を見ないこともあるでしょう。

でも、パウロは私たちを励まします。「その種はかならず成長します。あきらめるな。失望するな。蒔いたものから成果を刈り入れます。さらに、永遠の命を刈り入れます。」

では、私たちはどうしたらいいでしょうか。パウロは言います。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(10)

聖霊を愛して、喜ばせる方法の一つは、周りの人々を祝福することです。神様は私たちを、家族や、友達や、同僚や、クリスチャンの兄弟たちと姉妹たちに対する祝福になるように呼びます。

そうすると、神様は、私たちがその実を刈り入れると約束します。

あなたはどのような種を蒔いているでしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙6:6--自分を支えてくれる人を支えること

牧師たちの仕事はかなり大変です。神様から命じられないと、私は牧師になろうと思わないでしょう。

牧師たちは日曜日のメッセージを準備するだけではなく、教会のメンバーの問題をも扱わなくてはなりません。その重荷を担ぐとき、彼らは相手の不平も聞かなくてはなりません。すべてのメンバーが教会とその牧師に満足する教会は、どこにもないでしょう。

私たちの牧師たちは自分の負担をも持っています。もちろん、イエス様は彼らに、教会を導く負担を与えました。それに、彼らは自分の家族を支える責任をも持っています。だから、人の不平や批判を聞くと、その負担が急に重すぎて、牧師は担ぐことが出来なくなるでしょう。

パウロには、そのことがよく分かったと思います。だから彼は、「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」と言った後、こう言いました。

みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。(6)

要するに、私たちの牧師たちは私たちに霊的な栄養を与えてくれて、私たちを霊的に支えてくれるけど、彼ら自身も支えられる必要があります。だから、できるだけ、私たちは彼らを支えるべきです。

もちろん、彼らが自分の家族をちゃんと支えるために、私たちは牧師たちを経済的に支えるべきです。そうすれば、彼らは神様から委ねられた仕事をちゃんとできるでしょう。でも、それだけではなく、彼らは私たちの祈りと励ましの言葉が必要です。

私たちの牧師たちを超クリスチャンと見なすのは簡単なことです。だから私たちは、彼らがただの人間で、私たちの支持が必要であることを忘れてしまいます。私も忘れる時があります。

だから意図的に彼らを支えましょう。私たちは彼らのために祈っていることを彼らに伝えましょう。彼らにメールをして、または、電話して、励ましの言葉を与えましょう。言い換えると、牧師に対して、祝福になりましょう。

あなたはどうですか。あなたは、牧師に対して祝福でしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙6:3-5ーー神様から委ねられた仕事に集中すること

信じられないことだけど、25年前ぐらい、私は日本に引っ越しました。その25年で、神様が私を通して人に触れることを見ました。でも、それと同時に私はどれだけ成し遂げたか疑問に思います。神様は私からもっと期待したのでしょうか。私はよくわかりません。

私が自分自身をほかの人とその働きと比べて、落胆するのは簡単なことです。なぜなら、彼らは私よりも神様のためにいろんなことを成し遂げたから。

それを考えると、私は謙遜な態度を持つべきです。

だから、今日の個所を読んで、噛み締めると、私はいろんなことを考えました。

パウロはこう言いました。

だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。(6:3)

それを読むと、私たちは謙遜になることしかできません。なぜなら、私たち皆は何者でもないですから。私たちは何者かであると思いたいけど、私たちは実際に取るに足りないしもべです。私たちはなすべきことをするだけです。(ルカ17:10)

もし、私たちは何者かであると思うなら、自分自身を騙しています。だから私たちは自分自身にこう訊くべきです。「私はちゃんと自分の役割を果たしているでしょうか。」

パウロはこう言います。

それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。(4-5)

私たち皆は神様のしもべだし、神様は私たちにそれぞれの役割を与えてくださいました。だから、私たちは自分自身をほかの人に比べるのは無駄です。むしろ、私たちは神様から委ねられた仕事に集中するべきです。

そして、私たちが神様のために何かできるなら、自分が偉いか、自分がほかの人よりも優れた者だと思ってはいけません。むしろ、私たちはイエス様が、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言ってくれるように望むべきです。

だから自分自身をほかのクリスチャンと比べようと誘惑されるとき、ペテロに対するイエス様の言葉を覚えていましょう。

あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(ヨハネ21:22)

あなたは何に集中しているのでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙5:13-6:2--御霊の実と私たちの人間関係

神様との関係について考えるとき、私たちはこのような質問をよく訊きます。「私は毎日、聖書を読んでいるだろうか。毎日祈るだろうか。毎週の日曜日に教会に行くだろうか。」

でも、私たちが神様との関係と、自分の霊的な健康について考えるとき、大切な尺度は、私たちの人間関係です。

今日の個所では、その真理を見ることが出来ます。割礼やモーセの律法の従順の議論のせいで、ガラテヤの教会で、いろんな人間関係の問題が続出したようです。つまり、嫉みや争い、憤りや、党派心や分裂などが出たのでした(20-21)。だからパウロは、彼らに警告しました。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(15)

そして、パウロは、私たちの人間関係では、私たちが御霊の実を結ぶはずだと言います。例えば、愛、寛容、親切、善意、誠実などです。(22-23)

前回の記事で、私たちはガラテヤ人へのパウロの訓戒を見ました。「あなたたちは、古い生き方を十字架につけたのでしょう。その生き方に戻ってはいけません。自分の罪深い心に従ってはいけません。むしろ、御霊によって進みなさい。でも、もしあなたたちは、うぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬みあったりすると、聖霊様の導きに従うことが出来ません。(24-26)」

では、どのように私たちは互いに扱い合った方がいいでしょうか。6章では、パウロは実用的な勧告を与えます。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(6:1)

律法主義的なクリスチャンには二つの問題がありがちです。それらはプライドと、相手を責めることです。プライドによって、私たちは「私は良い人だ」と主張します。そして、人を責めるとき、私たちは彼らに「おまえはだめだ」と言います。

もしかしたら、ガラテヤの教会で、罪に陥れた人がいるとき、ほかのクリスチャンたちは狼の群れのようにその人を攻撃したかもしれません。

でも、パウロは彼らに訊きました。「あなたたちは本当に御霊の人でしょうか。御霊はあなたたちを本当に導いているでしょうか。あなたたちは御霊の実を結んでいるでしょうか。御霊の実は、柔和、親切、寛容と愛です。そんな態度を持って、その人を扱うべきです。その人を滅ぼそうとしてはいけない。その人を正してあげなさい。

そうするとき、謙遜な態度を持ちなさい。あなたたちも弱い人であることを認めなさい。あなたが罪に陥れる可能性もあることを認めなさい。だから、相手の罪だけに集中するな。自分自身も罪に落ちないように気をつけなさい。」

そして、パウロはこう言いました。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(2)

パウロが意味したものは、あるクリスチャンが罪悪感の重荷を担ぐとき、また罪と戦う時、私たちがその人を支えて、励ますべきということです。

パウロの言葉を言い換えると、「キリストの律法を守りたいと思うでしょうか。罪と戦っている人を食うな。その人を励ましなさい。その人のために祈りなさい。」

もちろん、罪だけではなく、クリスチャンがほかの問題もあるとき、私たちはその人を支えて、励ますべきです。

それは、御霊の人です。その人は、ただ聖書を読み、祈るというわけではありません。むしろ、彼らの人間関係では、実を豊かに結びます。

私は自分がそのような人かどうか分かりません。でも、そのようなに人になりたいと思います。あなたはどうですか。

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ガラテヤ人への手紙5:16-26--全く新しい生き方

前回の記事では、罪の豚小屋から自由にされた私がその豚小屋に戻らないことについて話しました。でも、もう一度、パウロは繰り返します。私たちは自分の力によって律法を守ろうという態度を通して、その豚小屋を避けることが出来ません。むしろ、パウロはこう言います。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。(16-17)

パウロはこうは言いませんでした。「自分の力によって律法を守るとしたら、肉の欲望を満たさないでしょう。」

むしろ、パウロは「御霊によって歩みなさい」と言います。要するに、私たちは毎日、聖霊様の力と導きによって歩まなくてはいけません。

だから、私たちは毎日、聖書を読み祈った後、神様に「じゃあ、行ってきます。またね。」とは言いません。

むしろ、私たちはこう祈るべきです。「聖霊様、私とともに歩んでください。一日中、私があなたの御声が聞こえるように。私があなたの導きに従うように助けてください。」

そうすれば、私たちは罪深い心の欲望を満たしません。なぜでしょうか。私たちの罪深い心がの望むのは、聖霊様が望むのと正反対なことです。私たちの古い態度や習慣は、聖霊が私たちの人生にしたい事とは、まったく違うことです。だから今なお、私たちは罪と戦います。パウロはローマ7:14-25で、その戦いについて話します。

でも、毎日、毎秒、私たちは聖霊様の声を聞き、従うことを学ぶにつれて、私たちはもはや古い道を行かずに、むしろ、聖霊様は私たちを全く違う道に導いてくださいます。

だから覚えていてください。律法の下にいる人生は、聖霊様によって生きる人生と全く違うものです。パウロはその真理をはっきりと伝えます。

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18)

その二つの道は、どのように違うのでしょうか。

律法の下にいる場合、私たちは自分の力で生きなくてはなりません。つまり、私たちは自分の力で、律法に従わなくてはならないということです。

でも、聖霊様によって生きる場合、私たちは聖霊様の力によって生きます。

また、律法の下にいる場合、私たちはいつも裁かれている感じを持っています。

でも、聖霊様によって生きる場合、私たちは「アバ、父」と叫びます。

そして、聖霊様によって生きる人生は、罪の支配下にある人生とは、全く違うものです。パウロは、いろんな罪をリストアップましたが、そのリストの内容はひどいものです。(19-21)

パウロによれば、そんな罪を犯す人は神の国を相続できなません。

でも、そのあと、パウロは、聖霊様が住んでおられる人について話します。そんな人は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持つ人です。(22-23)

ここでは二つのことに注意してください。

その実はあなたの人生では未成熟かもしれないけど、成長しているはずです。あなたの今の人生は、以前の人生と比べると、少なくとも少しは違うはずです。

二つ目は、パウロが「あなたの努力の実は、愛、喜び、平安などです。」と言わないことです。むしろ、「御霊の実は、愛、喜び、平安など」と言います。

あなたは、まことのぶどうの木、つまりイエス様にとどまると、その実を結び始めます。(ヨハネ15章)。その関係を持っていないと、あなたはその実を結びません。

だから、私たちは律法を守る事に集中するべきではありません。むしろ、イエス様と聖霊様と共に歩むことに集中するべきです。

パウロはこう言います。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(24)

本当のクリスチャンたちは、神様に対する頑なな反抗的な心を十字架につけました。彼らは罪深い心に屈服しません。彼らは罪と戦うかもしれないけど、その罪を抱きません。

だから、パウロは私たちに訓戒します。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(25)

あなたは、神様があなたに与えてくださった聖霊様から永遠の命を受けました。それでも、今、あなたは自分の力によってクリスチャン生活を送ろうとしているでしょうか。

もしかしたら、毎日、あなたは、神様についていき、御声を聞き、神様の力によって、その導きに従っているでしょうか。

あなたはどのよう生きているでしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙5:13-15--豚小屋に戻ること

この手紙では、パウロは、救いを得るために神様の律法にも出らなくてはならないと思う人たちに話していました。もちろん、パウロは彼らに同意できなかったけど、彼らの心配の一つには共感できました。それは、もし、私たちがもはや律法の下ではないなら、私たちはやりたい放題の生活を送っても良いだろうという考え方です。

あるガラテヤ人たちは「もし、私たちが律法の下ではないなら、自分のために生きてもいいだろう。彼氏と寝てもいいし、商売女と寝てもいいだろう。どんな罪を犯してもいいだろう。」と思いました。

だから、パウロは、その考え方について話します。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(13)

パウロは言いました。「あなたがたは自由を与えられるために召されました。」

でも、神様は私たちを何から自由したのでしょうか。もちろん、私たちを律法から自由にしました。神様の子として神様に受け入れられるために、私たちが律法に完全に従う要求はありません。また、神様の子供として、私たちが失敗しても、神様の裁きからは自由の身です。

しかし、神様は私たちをもう一つのものから自由にされました。それは、私たちを滅ぼす罪深い生活です。クリスチャンになる前、私たちは罪の豚小屋に暮らしていました。私たちは自分の罪深い心に従いました。

罪深い心とは、どんなものでしょうか。その心は神様に反抗して、自分のために生きます。でも、その罪深い心に従ったので、私たちの人生はめちゅくちゃになりました。私たちの結婚や、ほかの人間関係や、健康などはめちゃくちゃになりました。

でも、私たちを自由にするために、キリストは死にました。イエス様は心の手術を行いました。イエス様は、私たちの石の心を取り除き、肉の心を与えてくださいました。(エゼキエル書36:26)

要するに、イエス様は、私たちの反抗的な心を取り除き、神様に従いたい心を与えてくださいました。そして、私たちがイエス様に従うにつれて、イエス様は私たちを滅ぼす罪から自由にします。

それでも、私たちの中で、その罪深いの名残はまだ残っています。つまり、罪深い態度や習慣がまだ残っています。私たちは生きる限り、その態度や習慣と戦います。でも、パウロは、「その古い態度と習慣に屈服するな」と言います。「あなたは豚小屋に暮らしていた時、惨めな人生を送ったでしょう。どうしてその豚小屋に戻りたいと思うでしょうか。むしろ、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

律法と罪からの自由の喜びとを本当に知りたいと思うでしょうか。愛を持って、人に仕えましょう。神様の愛を楽しむにつれて、その愛を周りの人々に与えましょう。私たちは、神様から受けた祝福を周りの人々に与えるためにデザインされました。そうすれば、喜びを知ります。豚小屋に戻るのは、喜びに至りません。

そして、パウロは言います。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(14)

言い換えると、あなたは本当に律法に従っているかどうか心配しているなら、愛を持って、人々に仕えなさい。あなたは自分の自由をそのように使ったら、自然に律法に従います。

その反面、もし、私たちは豚小屋に戻ると、その結果は何でしょうか。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(15)

あなたはどうですか。イエス様からの自由の喜びを知っているでしょうか。もしかしたら、豚小屋に戻ったのでしょうか。あなたはどうするでしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙5:7-12--十字架の躓きを捨てること

この前私は言ったのですが、多くの人々は、クリスチャンたちのことを偏狭だと思います。なぜなら、私たちはキリストの十字架の御業だけによって、人が救われると信じるから。パウロは、その真理を「十字架の躓き」と呼びます。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、その十字架の躓きを捨てようとしていました。でも、彼らの動機は、現代の人たちの動機と違いました。

そのユダヤ人のクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちの意見を気にしました。ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、十字架のメッセージに気を悪くしました。なぜなら、福音は、信仰によってイエス様に来る人々をすべて歓迎するから。クリスチャンたちは、割礼を受けなくていいし、律法の細かいルールに従わなくてもいいのです。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、二つの理由で気を悪くしました。一つ目は、彼らがモーセの律法を真剣に考えたことです。その律法によって、彼らは神様の民と認められました。でも、パウロによれば、神様の民になる方法は、律法に従うことではなく、イエス様に対する信仰です。だからパウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(3:28)

簡単に言うと、ユダヤ人たちが誇る神様の律法によって、人は神様の民になりません。むしろ、イエス様を通して神様に来る人は皆、神様の民と認められます。

でも、ユダヤ人たちは自分のプライドを捨てたくなかったので、その真理を受け入れられませんでした。それは、彼らがイエス様の十字架に気を悪くする二つ目の理由でした。彼らは、神様の選ばれた民として誇りました。神様が彼らだけに律法を与えたので、彼らは自分がほかの国民よりも正しい人たちだと思っていました。もちろん、その律法を完全に守ることは出来なかったけど、彼らはまだその誇りを感じていました。

そのように、プライドは人とキリストを隔てる大きな壁です。彼らは自分の宗教を誇ります。彼らは自分の義を誇ります。だからクリスチャンたちが、「あなたの宗教は足りません。あなたの義は足りません」と言うと、ノンクリスチャンは怒ります。

でも、彼らは自分の宗教や、義にしがみついたら、彼らは神様に近づくことができません。むしろ、彼らは神様から離れています。

パウロは、「割礼が必要だ」と教えた人に関して、こう言いました。

しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、裁きを受けます。。。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除(つまり、去勢)してしまえばよいのです。(10,12)

その以前、パウロは、偽福音を宣べ伝える人が神様に呪われると言いました。(1:8-9)

この個所では、パウロは皮肉を使って、同じことを繰り返します。「もし、割礼を受けたいと思うなら、去勢された方がいいでしょう」。

ユダヤ人たちはパウロの言葉を聞くと、面食らうでしょう。なぜなら、モーセの律法によれば、去勢された人は、主の集会に加わってはならなかったから。(申命記23:1)

でも、それがパウロのポイントでした。「あなたが割礼を受ければ、あなたは主の集会に加わってはなりません。あなたは本当の神様の民ではありません。」

そのように、イエス様の十字架を拒絶し、自分の宗教と義によって救いを得ようとする人は神様とその民から離れています。もし、あなたがクリスチャンのユダヤ人たちのように、ほかの人を喜ばせるために福音を薄めるとしたら、あなたも、神様とその民から離れるかもしれません。

十字架は、たくさんの人々にとって、躓きです。でも、私たちは彼らを喜ばそうとしてはいけません。相手が怒っても、私たちは福音をちゃんと伝えなくてはいけません。

だから自分自身に訊くべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのでしょうか。神様でしょうか。周りの人たちでしょうか。」

パウロの言葉を覚えていましょう。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(1:10)

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ガラテヤ人への手紙5:7-9ーー割り込まれた

私が大嫌いな事の一つは、私が運転するときに、急に私の車線に割り込む人です。私は、せめて急ブレーキをかけなくてはなりません。最悪の場合、私はすぐに違う車線に行かなくてはなりません。

今日の個所では、パウロはそのような例えを使います。ガラテヤ人たちはクリスチャンのレースで、ゴールに向かって、恵みによって走りました。でも、急に、ユダヤ人のクリスチャンたちが割り込んで、ガラテヤ人たちがそのゴールに着く邪魔をしました。おまけに、ガラテヤ人たちは、恵みの道から逸れて、律法の道を走り始めました。だからパウロはガラテヤ人たちに言いました。

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。

要するに、「あなたたちはよく走ったていのに、どうして、恵みの道を逸れて、律法の道を走り始めたのですか?それはイエス様の導きではありません。イエス様は、あなたたちがイエス様に対する信仰によって恵みの道を走るように呼びました。」

そしてパウロはこう言いました。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。(9)

この個所の伝統的な解説は、ガラテヤ人たちが気を付けないと、そのユダヤ人のクリスチャンたちの教えがすぐに教会に浸透することです。

でも、もう一つの応用があると思います。

もし、私たちは神様が私たちを受け入れるように私たちが律法に従わなくてはならないという教えの種を受け入れると、結局その考え方は、私たちの考え方や生き方を支配してしまいます。だから、私たちが神様の愛に値しないのに、神様に受け入れらるという喜びを失います。むしろ、私たちが律法を完全に守ることが出来ないと分かって、落胆してしまいます。または、私たちはちゃんと律法に従っていると思うので、プライドを持ち始めます。

ガラテヤ人の問題は、スター・ウォーズのヨダの言葉を連想します。「もし暗い道を歩き始めると、その道はああなたの運命を支配します。その道はあなたを食い尽くしてしまいます。」

結局、ヨダの言葉は間違っていました。アナキン・スカイウォーカーは最終的にその道から脱出しました。でも、そうする前、彼は自分の人生をめちくちゃにしました。

だから、パウロはガラテヤ人たちに警告しました。「割礼を受けるな。そうすると、律法に従うあなたの義務は、そこまで止まりません。むしろ、あなたは、ほかの律法を全部守らなくてはいけません。毎日、毎秒、あなたはその律法を完全に守られるかどうか心配しなくてはいけません。その心配があなたの思いを支配して、あなたのための神様が望んだ自由と喜びを知りません。」

あなたは、その道を脱出するかもしれないけど、その日まで、あなたのクリスチャン生活はめちゃくちゃになってしまいます。さらに、その律法主義の生活によって、あなたは周りの人々を裁き始めると、彼らの人生をもめちゃくちゃにするかもしれません。

あなたはどうですか。あなたは毎日、神様の恵みによって歩んでいるでしょうか。もしかしたら、プライドによって歩んでいるでしょうか。または、神様の裁きを感じて、いつも罪悪感を感じるでしょうか。ほかの人があなたを割り込むことを許さないでください。

神様が自分の子供としてあなたを受け入れたことを覚えていてください。そう覚えていると、神様の計画通りに、あなたは神様の子供として、自由と喜びを知ります。

 

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ガラテヤ人への手紙5:2-10--キリストから離れ、恵みから落ちてしまうこと

多分、人々はこの記事のタイトルを読むと、こう考えるでしょう。「キリストから離れる?恵みから落ちてしまう?それは何と酷いことだろう。」

アメリカでは、ノン・クリスチャンでも、「恵から落ちてしまう」という表現を使うことがあります。それを言うと、彼らが意味するものは、ある尊敬されていた人が酷いことをしたので、その評判が失墜するということです。

でもこの個所では、パウロは殺害や、レイプや、賄賂や、ほかの酷い犯罪について話しているのではありません。むしろ、パウロは律法主義のことについて話しています。つまり、私たちが律法によって神様に義と認められようとすると、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまうことです。

パウロは彼らに警告しました。

よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。(2-3)

要するに、「律法主義の考え方を受け入れるとしたら、すべての律法を完全に守らないと、あなたは神様に義と認められません。割礼を受けるのは足りません。旧約聖書に書いてあるすべての律法に従わなくてはなりません。さらに、あなたが律法によって神様に義と認められようと思うなら、キリストの死はあなたに何の益もありません。」

ユダヤ人のクリスチャンたちが教えたのは、キリストの死を信じ、頑張って律法に従うと、ガラテヤ人たちが義と認められるということです。でも、その考え方は間違っていました。一つの救いの方法は、人が完全に律法を従わなくてはなりません。もう一つのは、イエス様を信じて、イエス様の義を受けることです。ほかの方法はありません。

だからパウロは、ガラテヤ人たちにこう言いました。

律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4)

律法によって神様に義と認められようとすると、あなたは実際にイエス様に背を向けているのです。あなたは基本的にイエス様にこう言っているのです。「あなたの十字架の働きは私には足りないと思います。」

でも、その態度によって、あなたはイエス様の働きに唾を吐くことになるでしょう。

モルモン教によれば、あなたが頑張って良いことをすれば、神様はあなたに恵みを与えてくださって、あなたは救われます。でも、あなたの救いを得るために、あなたが自分の行為に頼ると、パウロによれば、あなたは恵みを受けずに、むしろ、恵みから落ちてしまいます。

パウロは続けます。

私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(5)

私たちはまだ罪を犯しています。それでも、私たちはイエス様の十字架の働きによって義と認められます。でも、それだけではなく、なおさらいい希望を持っています。それは、イエス様が帰る日、私たちは変えられて、本当に義人になり、もう罪を犯さないことです。

ローマ8:23で、パウロは、私たちが新しいからだを受ける日を待ち、うめく、と言います。なぜ私たちはうめくのでしょうか。

一つの理由は、私たちがもう病気や死と向き合わなくていいということです。でも、もう一つの理由は、私たちがもう罪との戦いを経験しないということです。その日、私たちは本当に罪から自由にされます。それは、私たちの義の希望です。その希望を持っている人は罪に耽りません。むしろ、その人は自分を救ってくださった方を喜ばせたいと思います。それは、自分の救いを得るためではありません。むしろ、その救いをもう得たことを喜びます。

だから、パウロはこう言います。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6)

あなたはどうですか。あなたはまだ神様の好意を得ようと思っているでしょうか。それが、あなたの神様を喜ばせる動機でしょうか。もしかしたらあなたは、もう神様に義と認められたことを知り、あなたが罪から自由にされる日を楽しみにするでしょうか。その希望によって、あなたは神様を愛し、喜ばせたいと思うでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙4:21-5:1--約束の子供

この個所では、パウロはアレゴリーを通して、とても大切なポイントを教えます。それは、律法の従順ではなく、神様の約束によって、私たちが神様の子供になることです。

その真理を教えるのに、パウロは、ハガルとサラのことについて話します。(その話は創世記16ー21章に書いてあります。)

神様はアブラハムに息子を与えるように約束しました。でも、何年たっても、子供が生まれなかったので、アブラハムとサラはその約束をちょっと疑うようになりました。だから、サラは、アブラハムがサラの奴隷ハガルと寝て、その息子を相続人にしようと勧めました。私たちの時代、それはショッキングなお勧めだけど、その時代それは常識でした。

だから、アブラハムはハガルと寝て、イシュマエルが生まれました。でも、イシュマエルは神様の約束と力によって生まれませんでした。むしろ、イシュマエルは人間的な努力によって生まれました。

そのあと、サラも赤ちゃんを産みました。それはイサクでした。その時、サラはもう90歳でしたので、その出産は本当に奇跡でした。それは神様の御業でした。そして、神様はアブラハムに言いました。「イサクを通して、私はあなたを大いなる国民とします。」

そして、パウロは、ハガルとイシュマエルを律法によって義と認められようとする人に例えます。彼らは神様の約束と御業によって、神様の祝福を受けようと思いません。むしろ、自分の努力によって、神様の祝福を得ようと思います。

でも、その考え方には、大きな問題があります。奴隷の子供も奴隷です。だからハガルの子供は、つまり、自分の努力によって義と認められようとする人は、結局、罪と死の律法の奴隷になってしまいます。律法は人々を救うことが出来ません。律法ができるのは、ただ人の罪を指摘することです。(4:24-25)

その反面、恵みによって義と認められる人はイサクのようです。彼らは、神様の約束と御業によって、神様の子供と相続人になります。そういうわけで、私たちは、もはや罪と死の奴隷ではありません。私たちは自由にされて、いと高きの神の子供になりました。(4:26-28)

でも、人間の努力によって生まれたイシュマエルが、神様の約束によって生まれたイサクを迫害したように、あるユダヤ人のクリスチャンたちはガラテヤ人のクリスチャンたちを迫害しました。彼らはガラテヤ人たちを律法の奴隷としようとしていました。「そうしないと、あなたは本当のクリスチャンではない」と言い張りました。(4:29)

だから、パウロは厳しく話します。

しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」(4:30)

つまり、「その偽教師たちを追い出しなさい。彼らは奴隷の子供で、遺産を決して受けません。彼らには、あなたと関係がありません。彼らはあなたたちを退けようと思うけど、実は彼らは退けられました。」ということです。

そして、パウロは新たに強調します。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(4:31)

そして、パウロは彼らに訓戒します。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(5:1)

その真理を忘れないでください。イエス様は私たちを律法から自由にしました。その目的は、もう一度、私たちを律法の下に置くことではありません。むしろ、イエス様の目的は私たちが永遠に律法から自由にされることです。だから、神様の子供をとして、私たちは神様の愛に値するかどうか心配せずに、神様が私たちを受け入れている確信を持つことが出来ます。

あなたはどうですか。神様の子供として、平和と喜びを持って、生きているでしょうか。もしかしたら、宗教のルールの重荷を担ぎながら、奴隷のように生きているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙4:14-20ーー何に対して、熱意を持っているか

今日の個所では、私たちは、二つ種類の熱意を見ることが出来ます。一つ種類は、良い結果に至ります。でも、ほかの種類は、悪い結果に至ります。

以前は、ガラテヤ人たちはパウロに対して熱意を持ちました。パウロが宣べ伝えた福音によって、彼らの心が喜びに満ちたので、彼らはできるだけパウロを助けたいと思いました。(14-15)

また、パウロはガラテヤ人たちに対して熱意を持っていました。パウロのすべての言葉でその熱心さを見ることが出来ます。特に、ガラテヤ人たちがユダヤ人のクリスチャンたちに騙されたとき、私たちはパウロの悲しみを見ることが出来ます。彼はこう言いました。

私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。(19-20)

パウロがガラテヤ人に対する熱意を持ったので、彼らがパウロを敵と見なしても、彼は率直に真理を語りました。

それは良い熱意です。

その反面、ユダヤ人のクリスチャンたちの熱意もありました。パウロは彼らに関して、こう言いました。

あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。17)

「彼らはあなたがたを私から引き離して」という文書では、翻訳者たちは「私から」という言葉を入れました。実は、ユダヤ人たちがガラテヤ人たちを何から引き離すかちょっと微妙です。私の意見では、新改訳2017の脚注の別訳はもっと正しいと思います。それは、

「彼らはあなたがたを福音の恵みから締め出しようとしています。」

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤ人たちに言いました。「あなたたちは私たちのグループに本当に属していません。あなたたちは本当のクリスチャンではありません。あなたたちはキリストに受け入れられたいと思うなら、私たちの教えに従わなくてはなりません。」

でも、その教えによって、彼らはガラテヤ人たちを律法の下に縛って、ガラテヤ人たちの喜びと祝福を奪いました。

簡単に言うと、彼らはガラテヤ人たちに対して熱意を持ったけど、彼らはガラテヤ人たちの最善を望まなかったのです。

だから、パウロはガラテヤ人たちに言いました。

善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。(18)

要するに、「熱意を持ちなさい。それは良いことです。あなたたちが私に対して熱意を持って、あなたたちの喜びによって、私を愛して、私の面倒をしてくれた時、その熱意は良いことでした。私も、あなたたちに対して熱意を持っています。私は、あなたたちのうちにキリストが形作られるように望みます。あなたたちがもっともっとキリストのようになるように望みます。

でも、この人たちは、あなたたちの最善を望んでいません。そして、彼らに対するあなたたちの熱意によって、あなたたちは自分の喜びと祝福を失いました。」

だから、私たちは自分自身に二つの質問を訊くべきだと思います。

私たちの回りに、熱意を持っているカリスマ的なリーダーたちがいるかもしれません。でも、彼らは私たちをどこに導いているでしょうか。彼らによって、私たちは神様に近づいているでしょうか。もしかしたら、彼らの教えによって、私たちの喜びと祝福が奪われていませんか。

真理が痛くても、彼らは私たちにその真理を教えているでしょうか。もしかしたら、彼らは私たちを間違っている道に導いているでしょうか。

二つ目の質問は、あなたは何に対して熱意を持っているでしょうかということです。イエス様に対する熱心を持って、イエス様をもっと知りたいと思うでしょうか。キリストが周りの人々のうちに形作られるように祈っているでしょうか。あなたは、彼らが神様の喜びを知るように望んでいるでしょうか。もしかしたら、あなたの熱意はあなたを間違った道を導いているでしょうか。

熱心によって、パウロは教会を迫害したことがありました。熱意によって、ガラテヤ人たちは律法の下の人生に戻りました。

あなたの熱意は、あなたをどこに導いているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙4:14-16ーーどのように私たちの喜びと祝福を失うか

この手紙で、私たちは、パウロがどれだけガラテヤ人たちのことに困惑したか、見ることが出来ます。

ガラテヤに初めて来たとき、パウロは何か肉体的な問題を持っていました。その問題のため、パウロはガラテヤ人たちに面倒をかけたけど、彼らはパウロを喜んで歓迎しました。どうしてでしょうか。なぜなら、パウロが宣べ伝えた福音は彼らを罪から自由にして、新しい命を与えたから。福音を聞いたとき、彼らは神様の喜びと祝福に満ちました。

そういうわけで、彼らはパウロのことを心配して、彼らの愛はパウロに溢れ出しました。彼らは、できるだけパウロを助けたいと思いました。パウロは彼らに関して、こう言いました。

私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(15)

でもユダヤ人のクリスチャンたちの影響によって、すべては変わりました。彼らの喜びはなくなったし、彼らはパウロのことを勘ぐり始めました。彼らは、パウロが福音をちゃんと教えたかどうか疑いました。パウロが福音から大切な真理を抜いたかどうか疑問に思いました。だからガラテヤ人たちは自分の救いをも疑いました。

そういうわけで、パウロは彼らに訊きました。

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。。。私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。(15-16)

「幸い」という言葉は、「祝福」という意味もあります。つまり、ガラテヤ人たちは信仰によって受けた神様の尊い賜物を失ったことです。

どのようにその賜物を失ったでしょうか。

彼らは古い宗教的な修行や、儀式に戻ったのです。

救いを得るために、彼らは自分の行為や努力に頼ったので、彼らに対して、イエス様の十字架の御業の価値はなくなりました。

気を付けないと、私たちはガラテヤ人たちのようになるかもしれません。私たちのクリスチャン生活がルールに基づいているものになると、私たちは自分の喜びと祝福を失うでしょう。むしろ、私たちは神様の好意を得るように頑張り始めます。

そして、結局、二つの結果が出ます。

一つ目は、私たちは成功していると思って、プライドを持つことです。

二つ目は、私たちはそのルールを完全に守ることが出来ないと分かって、滅入ることです。

でも、成功したと思っても、失敗したと思っても、私たちは神様の喜びと祝福を失ってしまいます。

しかし、私たちの救いが恵みによるものであることを悟ると、私たちは謙遜な態度、また感謝な態度を持ちます。

私たちは神様の恵みに値しないと分かるので、謙遜になります。私たちは神様の裁きに値したのに、神様が恵みと憐れみを私たちに浴びたことを分かります。

さらに、その恵みと憐れみによって、私たちは喜びと感謝に満ちます。だから、私たちは神様の祝福を受けるだけではなく、その祝福は私たちを通して、周りの人々に流れます。

あなたはどうですか。プライドに満ちるクリスチャン生活を送っているでしょうか。失敗と失望に満ちるクリスチャン生活を送っているでしょうか。もしかしたら、喜びと祝福に満ちるクリスチャン生活を送っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙4:8-12--無駄な宗教に戻ること

多くの人々は救いに関して、どうしてクリスチャンたちがそんなに偏狭なのか疑問に思います。つまり、どうしてクリスチャンたちは、イエス様以外には神様への道がないことと言い張るでしょうか。

私は、ほかの宗教にも良い点をもあると認めます。多くの宗教は、悪に反対し、良いことをするのを促します。何が良いか、悪いか、という宗教の教えは全く同じと言えないけど、似たところは多いです。

でも問題は、宗教とその儀式は、神様のことを描きます。ユダヤ教の場合、その描写は結構良いです。なぜなら、神様自身はユダヤ人に、律法と儀式を通して自分に関する描写や、キリストに関する描写を与えてくださいましたから。

でもほかの宗教の描写は、神様がどんな方であるかほとんど分からないほどに、とても歪んでいます。そういうわけで、その宗教の律法や儀式は人々を神様に近づけることができません。

ユダヤ教は、ほかの宗教よりもいいけど、ユダヤ教の律法と儀式でも、イエス様と救いの現実ではなく、描写だけです。ユダヤ教の儀式や、祭りや、犠牲などは、イエス様とその十字架の犠牲を描写するけど、ただの描写です。イエス様とその十字架の犠牲は、現実です。

そういうわけで、ユダヤ教の儀式や、祭りや、犠牲などは、人を救う力を持っていません。そして、もし神様が立てた儀式や祭りや、犠牲は人々を救うことが出来ないなら、なおのこと、ほかの宗教のものも人を救うことが出来ないでしょう。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(9-11)

パウロは、ガラテヤ人たちのかつて神や、修行について話します。パウロは言いました。

「あなたたちが救われる前、本来神ではない神々の奴隷でした。あなたたちを救うことが出来ない儀式や祭りを祝うように強制されました。でも今は、あなたたちは知っているでしょう。あなたたちは神様を知っているし、神様に知られているでしょう。神様の子供として、神様と親しい関係を持っているでしょう。

それなら、どうしてあなたたちは弱くて、力のないものに戻っているのですか。あなたたちのかつて神々や修行に戻っていないかもしれないけど、今や、自分の救いを得るために、ユダヤ教の儀式と修行に従い始めています。でも、あなたたちのかつて儀式や修行と同じく、ユダヤ教の儀式や修行には、力が全然ありません。

その儀式や修行は神様を知り方の初歩でした。その目的は、あなたが自分の罪と救い主の必要を理解することです。でも、それ自体は、あなたたちを救うことが出来ません。むしろ、それを通して、あなたたちが分かるのは、自分がその律法を完全に守ることが出来ないので、裁きに値することです。それは惨めなことでしょう。そのことを知っているはずのに、どうして、そのものに戻りたいのですか。」

そして、パウロは言いました。「考えてみてください。私はあなたのようになったでしょう。私はあなたたちと共に食べるし、あなたたちの食べ物を食べて、ユダヤ教の習慣を破りました。だから私のようになってください。宗教のルールではなく、むしろ、キリストへの信仰によって、生きてください。」

パウロは私たちに同じことを言います。私たちはキリストの描写に従わないように。つまり、ユダヤ教の律法と儀式に従わないでください。なぜなら、そのものには私たちを救う力がないから。むしろ、イエス様自身に従いましょう。そして、イエス様の十字架の働きを覚えていて、神様の子供として、神様との関係を喜びましょう。

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ガラテヤ人への手紙3:26-4:7--養子の縁組の不思議さ

神様が私たちを養子にするのは驚くべきことです。

神様は、私たちをペットとして受け入れることが出来ました。

神様は、私たちを人間として認めながら、私たちと知り合いの関係を作ったことが出来ました。

神様は、私たちをただのしもべや奴隷として受け入れることが出来ました。

神様は、私たちを友達としてさえ受け入れることが出来ました。

でも神様は、もっと素晴らしいことをしてくださいました。神様は私たちを養子にしたので、私たちは神様の子供になりました。

パウロはこう言いました。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。(26-27)

パウロによれば、私たちは信仰によって神様の子供になりました。文字通りパウロが言ったのは、私たちが神様の息子たちになったということです。

もちろん、パウロは、女性のクリスチャンたちが男性になったと言っているわけではあrません。むしろ、パウロはとても驚くべきことを教えたいと思いました。そして、ガラテヤ人たちはそれを聞いて、たぶんショックを受けました。

どうしてでしょうか。

その時代、息子たちだけが遺産を受ける権利を持ちました。でも、パウロによれば、今やすべてのクリスチャンたちは、男性のクリスチャンでも、女性のクリスチャンでも、その遺産を受ける権利を持っていることです。

さらに、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(28)

それ以前、ユダヤ人たちは異邦人たちを部外者として扱いました。さらに、彼らは女性たちを見下しました。もちろん、奴隷の立場は良くなかったでしょう。でも、パウロによれば、神様の目には、イエス様に属する者は皆、天の父にも属しますし、神様の子供になりました。私たち皆、イエス様の義の服を着ているし、私たちの身分はイエス様にあります。

ガラテヤ人たち(私たちも?)がそのポイントが把握しなかったかもしれなかったので、パウロは私たちをその時代の子供に例えました。その時代、子供はある意味奴隷のようでした。要するに、その子供は相続人なのに、まだその遺産を受けていませんでした。むしろ、父がその子供を公式的に自分の相続人として認めるまで、その子供は後見人や管理人の下にありました。(4:1-2)

そのように、神様に養子にされる前、私たちは奴隷のようでした。私たちは天の遺産を受ける権利を持っていなかったし、律法は私たちの管理人でした。律法は私たちに、「こうしなさい。ああしなさい。」と命じました。その戒めによって、私たちは大体正しい道を歩んだけど、その律法を完全に守らなかったので、神様の相続人として認められなかったし、その権利を全然持っていませんでした。(4:3)

でも、神様は公式に私たちを養子にして、自分の相続人にしたとき、すべてのことが変わりました。

最初に、神様はイエス様の十字架の働きを通して、私たちを贖いました。つまり、神様は自分のものとして、私たちを買ったことです。そして、私たちは神様を信じたとたん、神様は私たちを公式的に養子にしました。(4-5)

それだけではなく、神様は御子の御霊を私たちの心に遣わされました。その御霊は叫びます。「アバ、父よ。」

要するに、三位一体の神様は私たちとの新しい関係を祝います。

私たちは愛されているペットではありません。私たちはただの知り合いではありません。私たちは単なるしもべや、奴隷ではありません。私たちはただの友達ではありません。

むしろ、私たちは王の息子たちと娘たちです。

だからぷパウロはこう言いました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(7)

あなたは、自分のことをどのように見なすでしょうか。どのように神様を見なすでしょうか。神様があなたの父で、自分が神の子供であることを把握するでしょうか。神様はそのように私たちを認めます。だから、私たちもそのように考えるべきです。

自分が取るに取らない者として、考えないでください。あなたは価値があります。あなたは王の子供です。

だから、そのように生きましょう。

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ガラテヤ人への手紙3:22-25--律法は何のものか。律法は何をするか。(3)

前回の記事で私たちが見たのは、律法がもう一つの神様が作った救いの道ではないことです。むしろ、律法の目的は、私たちをキリストに導くことです。パウロはその真理をもっと具体的に説明します。

しかし、聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(22-23)

パウロはローマ人への手紙7ー8章で似たことを書きました。その個所でパウロが言ったのは、律法が現れる前、人々が罪とは何か分からなかったことです。彼らは、自分のふるまいが神様を喜ばさないと知らずに、自分の人生を幸せに送りました。そして、神様は、律法を現して「あなたはこのように生きるべきです。」と言いました。

でも、人々はその律法を見た時、「ああ、そうか。知らなかった。ごめんなさい。これこら、あなたの道を歩みます。」と言いませんでした。むしろ、彼らの神様への態度はより反抗的になりました。

悔い改める人もいたけど、神様を喜ばせたいと思っても、律法を完全に守ることは出来ませんでした。彼らがまだ罪深い心を持っていたので、律法を完全に守るのは不可能でした。言い換えると、彼らはまだ罪の奴隷でした。

それでも、キリストが来るまで、律法はある程度、人の罪を制止しました。だから、パウロは言いました。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(23)

ようするに、律法は旧約聖書の信者たちの罪を完全に止めませんでしたけど、その罪を少し制止しました。だからパウロはこう言いました。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認めらえるためです。(24)

パウロの時代にはは、養育係は少年の人生、特に少年の道徳を監視しました。その少年がどこに行っても、養育係も行って、その少年がトラブルに巻き込まれないように見張りました。登校するとき、養育係はその少年を連れて行って、先生に預けました。

律法は旧約聖書の信者たちのために同じことをしました。律法は、彼らが罪に巻き込まれないように監視しました。(でも、もちろん、彼らはまだ罪に巻き込まれる時もありました。)

そして、律法は彼らを本当の先生、つまり、イエス様へと導きました。でも、どのように律法は彼らを導いたでしょうか。

律法を通して、神様は救い主に関する描写をたくさん与えました。例えば、全焼のいけにえとか、過ぎ越しの祭りとか、贖罪の日は、イエス様の描写でした。

もちろん、それ自体は、信者たちを救うことが出来ませんでした。でも、その描写を通して、イエス様の時代まで、モーセやほかのイスラエル人たちは神様に従い続けました。そして、イエス様が現れたとき、神様を愛した人は、その描写を覚えていて、イエス様とその十字架の働きの意義を理解して(ヨハネ5:39,46)、イエス様を信じました。

もう一度言います。律法自体は彼らを救うことが出来ませんでした。でも律法によって、彼らはイエス様を信じるようになりました。もちろん、旧約聖書の信者たちはイエス様を知りませんでした。だから神様のプランを具体的に知りませんでした。でも彼らは、そのイエス様の描写を信じたので、救われました。彼らは、律法の従順によって救われませんでした。彼らの信仰によって、救われました。

パウロはその真理をこのようにまとめます。

しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(25)

イエス様がもう来られたので、その描写が明らかになって、私たちが信じることはもう微かなものではありません。モーセとほかの旧約聖書の信者たちと異なって、私たちには、もう微かな描写はいりません。キリストにあって、私たちは本当のものを持っているので、律法という養育係がいりません。

むしろ、私たちの救いのためにイエス様だけに信頼します。そしてイエス様が私たちに与えてくださった聖霊様を通して、私たちは自然に神様を喜ばせ始めます。

だから、いろんなルールに従うことに焦点を当てないでください。むしろ、感謝を持って、十字架を仰いで、聖霊様の導きによって歩みましょう。それが本当のクリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙3:15-25--律法は何のものか。律法は何をするか。(2)

前回の記事では、私は、律法が何をしないかについて話しました。つまり、律法は神様の約束に取って変わらないことです。

神様のアブラハムとの契約は、神様の約束による一方的なものでした。その契約は、アブラハムやその子孫の行いによりませんでした。そういうわけで、律法は、その契約に取って代るものではありません。

パウロはその真理をさらに説明します。

(律法は)御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束を与えになった神は唯一の方です。(19-20)

モーセが十戒を受けるためにシナイを登ったとき、イスラエル人たちは神様に怯えるほどに、こう言いました。

あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。(出エジプト記20:19)

だから、モーセは神様に近づきましたけど、イスラエル人たちは神様から遠く離れて立ちました。(出エジプト記20:21)

イスラエル人たちへの神様の言葉は、モーセを通して語られました。神様はモーセに言いました。「イスラエル人たちは、これとこれとこれをしなければなりません。そうすれば、彼らは生きます。そうしないと、彼らは死にます。」

そして、モーセはその指示をイスラエル人に伝えました。

でも、ちょっと考えてみてください。どうして神様は仲介者(つまり、モーセ)が必要でしたか。なぜなら、律法は双方向の契約だったから。神様には、満たさなくてはならない義務があったし、イスラエル人たちにも、満たさなくてはならない義務がありました。そして、イスラエル人たちが自分の義務を満たさないと、神様が約束した祝福は無効になりました。

最終的に、それが起こりました。イスラエル人たちが何回もその契約を破ったので、神様はその契約を無効にしました。その契約はとても壊れやすいものでした。

でも、パウロはこう言いました。「しかし約束を与えになった神は唯一の方です。」

要するに、神様はアブラハムとその子孫と契約を結んだとき、義務を果たさなくてはならない当事者は神様だけでした。祝福を得るため、アブラハムは何もしなくて良かったのです。だからアブラハムとの契約は、イスラエル人たちとの契約は全く違いました。アブラハムとの契約は無効とすることが出来ないものでした。なぜなら、その契約は、私たちの行動ではなく、神様の行動によりましたから。

簡単に言うと、壊れやすい契約は、無効とすることができない契約に取って代わることはできません。

それでは、律法とは何でしょうか。(19)

それは論理的な質問でしょう。

パウロは答えます。

それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すために付け加えられたもので(す)。。。(19b)

要するに、キリストが来るまで、律法は一時的に罪を扱う方法でした。モーセの時代から、イエス様が来られるまで、何百年も経ちました。その間、神様は罪を扱わなくてはなりませんでした。だから神様は律法を使いました。

でも、パウロは大切な質問を訊きます。

それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。(21)

言い換えると、律法はもう一つの救いの道でしょうか。

答えは?

決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることが出来る律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。(21b)

要するに、もし律法がもう一つの救いの道だとしたら、イエス様が来られる必要がなかったでしょう。なぜなら、私たちが律法に従うと、救われるからです。

でも、律法を完全に守ることが出来る人はいないので、律法には、いのちを与える力がありません。むしろ律法は、私たちを罪から救うことが出来る方に導きます。

次の記事で、そのことをもっと説明します。

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ガラテヤ人への手紙3:15-25--律法は何のものか。律法は何をするか。

多くの人々は十戒や、ほかの旧約聖書の律法を見ると、こう思います。「律法によって、私は義と認められるだろう。永遠の命を望むなら、その律法に従うべきだろう。」

でもその考え方は、律法が何のものか、何のものではないかの誤解です。また、その考え方は、律法が何をするか、何をしないかの誤解です。

だから、パウロは具体的に律法のことを説明します。

人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。(15-17)

パウロによれば、契約がいったん結ばれたら、私たちは簡単にその契約を無効にすることが出来ません。この個所では、パウロが言う「契約」とは、たぶん遺言に関して話しているでしょう。人が遺言を書いて、死んだ後、私たちはその遺言を簡単に無効にすることが出来ません。どうしてでしょうか。なぜなら、それは一方的な契約ですから。つまり、一人の人だけが、その契約の条件を作りました。そして、その人の約束に従って、契約の条件が実行されます。

神様はそのような契約をアブラハムと結びました。その契約はアブラハムの行為に基づいていませんでした。むしろその契約は、ただ神様の約束に基づいていました。

創世記15書では、神様はアブラハムの子孫に関して、いろんな約束をしました。そして、神様は、煙の立つかまどと、燃えているたいまつとして現れて、アブラハムに対する約束として、切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。私たちの文化では、それはかなり不思議なことですけど、彼らの文化では、人々はそのように契約を結びました。(その時代、印鑑などがありませんでした。)

普通は、契約を結んだ二人が、その切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。その意味合いは、「私がその契約を守らないと、私がその動物のように殺されるように」ということです。

でも、神様とアブラハムの契約では、アブラハムはその切り裂かれた動物の間を通りすぎませんでした。神様だけが通り過ぎました。それは一方的な契約でした。

そして、パウロによれば、その契約はアブラハムだけのためではありませんでした。その契約はアブラハムの子孫、つまり、イエス様のためでした。

創世記12:7、13:6、15:18でのアブラハムへの神様の約束に関するパウロの解釈はとても興味深いことです。「子孫」と言うと、一人の子孫について触れる時もあるけど、たくさんの子孫について触れる時もあります。創世記では、神様はそもそもアブラハムの多くの子孫について話したようです。でも、パウロによれば、もちろん、その契約の祝福はアブラハムの本当の子孫の皆のためでしたけど、その契約の祝福は特にイエス様のためでした。そして、イエス様を通して、アブラハムのほかの子孫は祝福されます。

でも、パウロは一つのことをはっきりと教えます。律法は神様の約束の条件を改めません。その約束はアブラハムの行為によりませんでした。だから、神様の約束は、私たちの律法に従う能力によりません。どうしてでしょうか。パウロは説明します。

相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。(18)

要するに、神様の祝福が律法の従順によるとしたら、その祝福はもはや神様の約束による一方的な契約に基づいていません。むしろ、その祝福は律法の従順によります。

でも、神様が祝福の約束を与えた時、その条件はありませんでした。神様の契約は、恵みによる一方的なものです。その契約が一方的なものだったので、神様は簡単にその契約を無効とすることが出来ません。神様は自分の約束を守らなくてはなりません。なぜなら、それが神様の性格だから。神様は、自分が約束したことをやり遂げます。

だから覚えていてください。律法は、神様の約束に取って代わるものではありません。アブラハムとその子孫に神様が約束した祝福は神様の律法の従順に基づいていません。

では、律法の目的は何でしょうか。次の記事で、私はそのことについて話します。

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ガラテヤ人への手紙3:6-14--アブラハムの本当の子孫

パウロはこの個所を書いたとき、ヨハネの福音書8章でのイエス様とユダヤ人たちの議論について考えたでしょうか。私は分からないけど、パウロは同じことについて話します。つまり、アブラハムの本当の子孫は誰であるかということです。

ユダヤ人たちは、自分自身をアブラハムの本当の子孫と見なしました。なぜなら、アブラハムは実際に彼らの先祖だったし、彼らは、神様がモーセに与えてくださった律法を持って、従おうとしましたから。

だから、イエス様は彼らに、「もし私の教えを信じ、従うなら、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする」と言うと、彼らはびっくりして答えました。

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。」(33)

そして、イエス様とユダヤ人たちは、アブラハムの本当の子孫に関して、長い間、議論しました。

イエス様は彼らに言いました。「あなたはまだ罪を犯しているでしょう。あなたたちは、アブラハムの子供として、もう自由だと主張するけど、あなたたちは、まだ罪の奴隷です。私は、あなたたちを罪から自由にする者です。私があなたたちを自由にした後、あなたたちは本当に神様の子どもになります。」(ヨハネ8:34-36)

ユダヤ人たちは、それを聞いても、自分がアブラハムの子孫であることを言い張り続けましたので、イエス様は彼らにこう言いました。

彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。(39-40)

要するに、神様の言葉を聞いたとき、アブラハムはすぐにその言葉を信じました。信仰によって、その言葉を受け入れたので、彼は救われました。そういうわけで、彼は神様の子供と呼ばれました。でもユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、イエス様の言葉を信じなかったので、自分たちがアブラハムの本当の子孫ではないことを証明しました。

今日の個所では、パウロは、そのことを教えます。彼はこう言いました。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(6-9)

パウロによれば、アブラハムは律法の従順のゆえ、神様に義と認められたというわけではありません。なぜなら、その時、律法はまだ存在しませんでしたから。それに、アブラハムも罪を犯したことがありました。でも最終的に、アブラハムは神様とその約束を信じたので、神様に義と認められました。

アブラハムの本当の子孫の皆は、アブラハムと同様に生きます。私たちは失敗するときもあります。私たちは罪を犯すときもあります。

私たちは、神様の律法を完全に守ることによって、神様に義と認められません。むしろ、私たちはイエス様を信じるので、神様に義と認められます。

実は、私たちが自分の正しい行為によって義と認められようと努めると、パウロによれば、私たちは呪われます。

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。(10)

でも、良いニュースは、イエス様は私たちの代わりに呪われたということです。パウロは説明します。

キリストは、ご自分が私たちのために014のろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(13)

十字架で死んだとき、イエス様は律法の呪いをすべて受け、私たちに対する神様の怒りを受けました。そして、パウロによれば、イエス様は私たちを贖い出してくださいました。言い換えると、イエス様は罪の奴隷という私たちをサタンの国から買って、私たちを解放してくださいました。だから、私たちも、アブラハムが受けた救いの祝福を受けることが出来ます。私たちがしなくてはならないのは、ただ神様の約束を信じることです。

パウロは自分の議論をこのようにまとめます。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(11)

あなたはどうですか。あなたはアブラハムの本当の子孫でしょうか。イエス様を信じるでしょうか。もしかしたら、自分の良い行為によって、神様に義と認められるように努力しているでしょうか。神様を信じずに、自分の資格によって義と認められようと努める人は誰も救われません。

あなたの救いは何に基づいているでしょうか。自分の努力に頼っているでしょうか。神様に頼っているでしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙3:1-5--信仰によって始まり、信仰によって歩み続けること

クリスチャンになった後、良いクリスチャンになるのに、キリスト教のルールに従わなくてはならないと思う人がたくさんいます。なぜなら、私たちの社会では、学校のクラブとか、会社とか、家族でも、従わないといけないルールがあるし、果たさなくてはならない義務もありますから。

だから、クリスチャンになると、多くの人はこのように考えます。「ルールは何だろうか。クリスチャンとして、私は何をしなければならないだろうか。毎日、聖書を読まなくてはいけないだろうか。毎日、何分(何時間?)ぐらい祈らなくてはならないだろうか。教会で、どのように仕えるべきだろうか。」

そして、彼らはそのルールに従わないと、罪悪感を感じ始めます。自分が悪いクリスチャンだと思いますから。

おまけに、周りのクリスチャンたちは、その新しいクリスチャンにいろんなルールを教え始めます。「本当のクリスチャンはお酒を飲みません。本当のクリスチャンはけっして教会をサボらない。本当のクリスチャンは什一献金をささげなくてはなりません。」

ガラテヤの教会で、そんな問題が出現しました。ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「もちろん、クリスチャンになる最初のステップは、イエス様を信じることです。でも、そのあと、割礼を受けなくてはなりません。また、豚肉や、ほかの「汚れた食べ物」を食べてはいけません。安息日をちゃんと守ることも忘れてはいけません。」

その人たちが権威を持ったかのように話したので、ガラテヤ人たちは彼らを信じました。そういうわけで、パウロは困惑して、叫びました。

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(1)

そして、パウロは彼らに訊きました。

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2)

また、

あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。(5)

その明らかな答えは、ガラテヤ人たちが聖霊様の賜物や、神様からのほかの祝福を、神様の律法の従順ではなく、むしろ、彼らが聞いた福音を信じることによって、受けたということです。

だから、パウロは彼らに訊きました。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。(3)

要するに、私たちのクリスチャン生活が、信仰によるものとして始まって、それから、ただルールに従うものになるわけでもありません。むしろ、私たちは毎日、信仰によって生き続けます。また、私たちのクリスチャンの生活は恵みによって始まり、恵みによって続くものです。

私たちのクリスチャン生活は、ただ神様のルールに従おうとするものではありません。私たちの焦点は、神様のルールに従うことではありません。

むしろ、私たちは、毎日イエス様に焦点を当てなくてはなりません。私たちは、毎日イエス様と一緒に歩み、その声を聞き、イエス様を信じ、イエス様が言うことに従います。

そして、私たちがイエス様を信じ、信仰によって踏み出すと、イエス様が自分の言葉に従う力を私たちに与えてくださいます。それはクリスチャンの生活です。もう一度、私は言います。クリスチャンの生活は、ルールに従うものではありません。

あなたはどのようにクリスチャンの生活を送っているでしょうか。あなたの焦点は、頑張って、いろんなルールに従うことですか。私たちがそのルールを完全に守ることが出来ないので、ただ罪悪感に至ります。

だからイエス様に焦点を当ててください。イエス様に近づくように学んでください。イエス様の声を聞くように学んでください。イエス様の導きに従うように学んでください。それは信仰によって生きる人生です。それは、クリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙2:21ーー人が自分の努力によって救われると教える福音の問題

この個所では、パウロは福音をユダヤ人のクリスチャンたちの攻撃から守ろうとしていました。彼らが主張するのは、パウロが宣べ伝える恵みの福音は、罪に導くものだということです。

でも、パウロは自分が伝えた福音を擁護するだけではなく、相手の福音を責めます。彼はこう言いました。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(21)

簡単に言うと、もし、私たちが神様に義と認められるのに、律法を守らなくてはならないとしたら、どうして、イエス様は死ななくてならなかったでしょうか。神様は古い体制を続けて、イエス様が死ぬ必要がなかったしょう。でも、その必要がなかったとしたら、どうして神様は、イエス様が殴られたり、鞭で打たれたり、十字架でかけられたりすることを許したのでしょうか。イエス様がその苦しみを受けたのに、どうして神様は、もう一度、私たちを律法の下に置くのでしょうか。それはバカな話でしょう。

でも、今なお、多くの人々はそのように考えます。特に、カルトの人たちは言います。「もちろん、イエス様はあなたの罪のために死んだけど、彼は、あなたの罪の代価を完全に支払うことが出来ませんでした。あなたは、自分の救いのためにまだ働かなくてはなりません。」

でも、パウロはその考え方に反ばくします。「その考え方は、ばかばかしいです。自分の努力によって、救いを得ることは出来ません。あなたがそうできるとしたら、神様はイエス様を十字架に送らなかったでしょう。」

その議論によって、パウロは、イエス様が神様への多くの道の一つである考え方に反ばくします。もし、仏教や、ヒンズー教や、ほかの宗教によって、人が神様に義と認められるとしたら、神様はその道を用いたでしょう。もし、ほかの道があったとしたら、どうして神様は、イエス様が十字架で苦しむことを許したでしょうか。それは意味をなさないでしょう。

だから、天国へのほかの道があるという考え方を捨てましょう。また、私たちが自分の努力によって、救いを得られるという考え方を捨てましょう。

ほかの道がなかったので、イエス様は十字架で死にました。ほかの道があると言い張って、イエス様の十字架に唾を吐かないように。

 

 

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ガラテヤ人への手紙2:19-20--私たちが義と認められるように

前回の記事で、私たちが見たのは、あるユダヤ人のクリスチャンたちが、パウロの福音では、キリストが罪に仕える者となることだと主張したということです。だから、パウロや、ほかのクリスチャンが罪に落ちることを見ると、彼らはすぐに言いました。「ほら、それは、恵みの福音の結果です。あなたは世の罪人のようになりました。」

でも、パウロが言ったのは、仮に律法を再び建て、人たちが救われるために律法に従うべきだと宣べ伝えるとしても、人々はまだ罪に落ちてしまう、ということです。言い換えると、律法は罪のない人を生み出したことがありません。律法ができるのは、ただ人々の罪を指摘し、私たちが救い主を必要とすることを現すことです。

では、私たちは律法によって義と認められないなら、どのように義と認められるでしょうか。パウロは私たちに教えます。

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(19-20)

パウロが意味したものは何でしょうか。「律法によって律法に死にました」というのは、どういう意味でしょうか。さらに、どうして、そのコンセプトはそんなに大切なのでしょうか。

ローマ書7章では、パウロが教えるのは、人が生きる限り、律法の管轄下にあることです。(ローマ書7:1)

例えば、私が生きる限り、税金を払わなくてはなりません。私は税金の律法の管轄下にあります。でも、私が死んだとたん、その律法の管轄下にありません。もちろん、政府は私の妻から、私が支払わなくてはならない税金を求めます。でも、政府の人たちは私の死体から税金を要求できません。私はその律法に死にました。その律法は私に対して力がありません。

そしてローマ書7:4では、パウロは、私たちはキリストのからだを通して、律法に対して死んでいると教えます。それは、ガラテヤ書2:20に相当します。つまり、「私はキリストとともに十字架につけられました。」ということです。

でも、それはどういう意味でしょうか。

私たち皆が罪を犯したので、律法は私たちの死を要求しました。でも、この世に来た時、イエス様は律法の管轄下にある人として来ました。そして、イエス様は、その律法を完全に守りました。それでも、イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を受けました。イエス様が死んだとき、神様は私たちの罪をすべてイエス様に置きました。(イザヤ53:5-6;第二コリント5:21)

神様はイエス様を見るとき、イエス様だけではなく、私たち皆を見ました。

例えば、イエス様が死んだとき、神様はイエス様を見て、こう言いました。「それはブルースです。彼は今や死にました。律法は、彼を自分の罪のために処刑しました。」

また、イエス様を見るとき、神様は言いました。「それは聡子です。彼女は今や死にました。律法は、彼女を自分の罪のために処刑しました。」

「私はキリストとともに十字架につけられました。」とは、そういう意味です。

でも、キリストとともに死んだとき、何が起ったでしょうか。律法の私たちに対する力はなくなりました。私たちはその律法に死にました。

だから、「律法を守らないと、神様は私を罰する」と心配しなくていいです。私たちは自分の力で頑張って、律法を守ろうと努める必要がありません。何回も失敗するとしても、私たちは裁かれている心配する必要がありません。

むしろ、私たちは、キリストが自分の人生を私たちを通して生きることを見始めます。毎日毎日、イエス様が私たちを導いてくださることを見ます。聖霊様を通して、イエス様はどの道を行くべきか教えるし、その道を歩む力を与えてくださいます。

だからクリスチャンの生活は、自分のことを変えることではありません。むしろ、クリスチャンの生活は、毎日イエス様の声を聞き、信頼することを学ぶことです。そうすれば、するほど、私たちは神様を喜ばせる人生を送ります。私たちは自然に律法に従い始めます。

あなたはどうですか。たくさんのルールを守って、神様に義と認められるように努力しているでしょうか。あなたの失敗に落胆しているでしょうか。

もしかしたら、あなたのために自分の命をささげたイエス様の愛を知っているでしょうか。あなたは、神様のみ前にリラックスできて、その関係を楽しみ、毎日どのように神様と歩むかを学んでいるでしょうか。神様との愛の関係、また信頼関係を持っているでしょうか。

それはクリスチャンの生活です。

それは、あなたの生活でしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙2:15-18--罪に仕える者なのか

ある人たち、特にカルトに属する人たちがしばしば言うのは、クリスチャンが律法の従順による福音ではなく、恵みによる福音を伝えるので、実は、そのクリスチャンがあえて罪を犯すように促がされることです。

彼等の議論はこうです。「律法の従順ではなく、恵みだけによって救われるとしたら、どうして律法に従うべきでしょうか。うそをついたり、姦淫したり、ポルノを見たりしても、まだ救われるでしょう。もし、恵みだけによって救われるとしたら、罪を避ける理由は何なんでしょうか。」

実は、そのことを疑問に思うクリスチャンもいます。もし、ルールによって救われていないとしたら、やりたい放題の生活を送ってもいいでしょうか。むしろ、クリスチャンの生活を送りたいなら、ルールに従うべきではないでしょうか。ルールに従わないと、この世の人々のようになるでしょう?

あるユダヤ人のクリスチャンたちは、そのようなことをパウロやガラテヤ人のクリスチャンたちに言いました。「もし律法を捨てると、あなたたちは不信者のようになるでしょう。」

そして、彼らはパウロやガラテヤ人たちがモーセの律法に違反したり、罪を犯したり(クリスチャンたちの皆は、たまに罪を犯すでしょう)、することを見ると、「ほら。私たちが言った通りでしょう。あなたたちは不信者のようにふるまっている。あなたたちが教えている恵みの福音によって、あなたはキリストを罪に仕える者にします。」と言いました。

でも、パウロはペテロとほかのユダヤ人のクリスチャンたちにこう言いました。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。(15-16)

要するに、「ペテロ、私たちは、異邦人ではなく、ユダヤ人です。でも、モーセの律法によって、人々が神様に義と認められることが出来ないことを認めるでしょう。律法に従うことによって、義と認められる人は誰もいないでしょう。」

どうしてでしょうか。なぜなら、律法に完全に従う人が誰もいないから。でも、律法によって義と認めてれられたいなら、律法に完全に従わなくてはなりません。

だからパウロはペテロに言いました。「異邦人だけではなく、私たちも義と認められたいと思うなら、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはならないと分かります。」(16)

そして、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちの異議について話します。

しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。(17a)

要するに、ある人たちはクリスチャンたちを指して、こう言っていました。「あなたたちがイエス様に属すると主張するけど、あなたはまだ罪を犯しています。あなたの福音は罪を促すでしょう。あなたのキリストは罪に仕える者でしょう。」

でもパウロは答えました。

決してそんなことはありません。(17b)

そしてパウロは説明します。

もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。(18)

パウロが意味したものは何ですか。たぶん、パウロはこう意味しています。「仮にあなたの希望の通りに、私は律法を再び建て、異邦人たちに「あなたたちはクリスチャンになるためにモーセの律法に従わなくてはならない」と言うとしたら、彼らは罪を犯さなくなるでしょうか。律法に従おうとしているあなたたちは、もう罪を犯さないでしょうか。いいえ、あなたは律法に従おうとしても、まだ罪を犯すでしょう。だから律法を再び建てると、結果は何でしょうか。私たちはもう罪を犯さないというわけではありません。むしろ、私たちはもう一度分かります。「私たちは罪人なので、救い主が必要です。」」

では、私たちはこの個所から何を学ぶことが出来るでしょうか。神様の律法の従順によって私たちが義と認められるコンセプトを捨てなくてはなりません。律法によって、私たちは義と認められないから。律法ができるのは、ただの私たちの罪を指摘することです。

だから、神様に義と認められたいなら、唯一の方法しかありません。それは、イエス様を信じることです。次のブログで、そのことについてもっと話します。

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ガラテヤ人への手紙1:11ー2:16--福音のために戦うこと

今日の個所では、私たちは福音のためのパウロの戦いを見ます。

最初に、パウロはエルサレムに行きました。なぜなら彼は、ほかの使徒たちと同じ福音を伝えているかどうか確認したいと思いましたから。つまり、律法の従順ではなく、恵みによって人は救われることです。

その時、あるユダヤ人のクリスチャンたちは、パウロの弟子テトスが本当のクリスチャンなら、割礼を受けなくてはいけないと言い張りました。でも、パウロはその事に関して、こう言いました。

私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服することはありませんでした。(2:5)

ほかの使徒たちはパウロの肩を持ったので、パウロが異邦人に恵みの福音のメッセージを伝えるように促しました。(2:7-9)

でも、そのあと、パウロはこの問題に関して、ペテロに反対しなくてはなりませんでした。その以前、ペテロのコルネリウスとの経験の故、異邦人をクリスチャンとして受け入れました(使徒の働き10ー11章)。さらに、ユダヤ人の律法に反しても、ペテロは異邦人たちと食べたり、彼らの食べ物も食べ始めました。

でも、エルサレムの教会からのユダヤ人のクリスチャンたちがペテロを怪しく見るとき、ペテロは異邦人たちからちょっと離れて、ユダヤ人だけと食べ始めました。ほかのユダヤ人のクリスチャンたちがペテロの模範に従ったので、偽福音によって、その教会は分裂する危機にありました。

だから、パウロは福音のためにもう一度、戦いました。

「ペテロ!いったい何をしているの?あなたはユダヤ人なのに、今まで、異邦人と喋ったり、彼らのように食べたりしました。なぜなら、律法の従順ではなく、キリストに対する信仰によって私たちは救われることを知りましたから。あなたはそれが分かっているでしょう?律法を完全に守る人が誰もいないので、律法によって救われる人もいません。それを知っているのに、なぜこのような行為をしているのでしょうか。」(2:14-16)

どうして、パウロはそんなに熱心に福音のために戦ったでしょうか。なぜなら、その福音によって、彼は救われたから。その福音は、パウロや、ほかの人によるものではありませんでした。パウロが死に導く道を行っていたのに、福音はパウロを止めて、命の道に導いてくれました。

でもパウロは福音を受けることに値しませんでした。パウロが律法を完全に守って、救いに値したから神様は彼に福音を伝えたわけではありません。それどころか、パウロは教会を迫害し、たくさんのクリスチャンたちを殺しました。

でも実際は、パウロが生まれる前に、神様は恵みによって彼を呼びました。その恵みによって、神様は喜んでパウロにイエス様のことを現しました。さらに、神様は、パウロがその恵みの福音を異邦人たちに伝えるように呼びました。(1:11-16)

そういうわけで、人々がそのパウロを救った福音を攻撃した時、パウロは戦いました。

私たちも、そうするべきです。福音を通して、私たちはいのちを受けました。私たちが生まれる前に、神様は自分の目的のために私たちを選んで、呼びました。神様は、私たちの良さのゆえに、呼んだわけではありません。神様は、私たちの資格のゆえに呼びませんでした。むしろ、恵みによって、神様は私たちを呼びました。だから、神様は、私たちが周りの人々にその福音を伝えるように呼びます。そして、福音が攻撃されるとき、私たちはその福音を擁護しなくてはなりません。

あなたは福音に関して、どれだけ情熱を持っているでしょうか。

あなたはどんなにすばらしい賜物を与えてくださったか分かるでしょうか。あなたに溢れられた恵みが分かるでしょうか。その恵みが分かれば、福音のために戦いましょう。その福音を擁護しましょう。福音を攻撃する人が私たちの敵ではないことを覚えていてください。むしろ、彼らも、私たちを救った福音を知る必要があることを覚えていましょう。

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ガラテヤ人たちへの手紙1:10--人たちを喜ばせる福音

クリスチャンたちが認めなくてはならないのは、多くの人にとって、福音が腑に落ちないということです。だから、人々に福音を受け取りやすくするため、クリスチャンたちは時々福音のメッセージを薄めたり、オブラートに包んだりします。

「イエス様は、自分が神様への唯一の道だと主張したけど、たぶんちょっと大げさに言ったでしょう。たぶん、神様が受け入れるイエス様を信じない敬虔な人がいるでしょう。」

「神様の御心は、私たちがこの世で決して苦しまないことです。神様の御心は、あなたが繁盛して、健康的な生活を送ることです。」

「聖書によれば、その行為は罪だけど、それは当時の律法です。私たちはその律法の下にありません。大切なのは、私たちが人をありのままで受け入れることです。」 (もちろん、私たちは恵みによって救われたけど、私たちはあえて、悔い改めずに罪を犯しながら、自分がクリスチャンであることを主張することが出来ません。)

ガラテヤ人の場合、恵みは薄められました。あるユダヤ人のクリスチャンたちによれば、ガラテヤ人たちは恵みだけによって救われたというわけでもありませんでした。むしろ、彼らは割礼を受けなければならないし、ある種の食べ物を食べてはいけないし、ほかの儀式的な律法に従わなくてはいけませんでした。

どうして、そのユダヤ人たちは福音を薄めたでしょうか。たぶん、彼らは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちがクリスチャンに関して何を考えることを気にしましたから。つまり、もしクリスチャンたちが恵みだけによる救いを宣べ伝えると、ユダヤ人のクリスチャンたちが良いユダヤ人と認められないでしょう。だから、ユダヤ人の家族や友達は彼らを退けるかもしれないでしょう。そういうわけで、彼らはユダヤ人にとってもっと受け入れやすい福音を採用しました。

今なお、あるクリスチャンたちは、そのようなことをします。周りの人々にとって福音がもっと受け入れやすくなるように、クリスチャンたちは福音を薄めます。

でも、パウロはこう言いました。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(10)

要するに、「福音を宣べ伝えるとき、私は、周りの人たちが福音に同意するかどうか気にしません。私は彼らを喜ばせたいと思いません。むしろ、私は神様を喜ばせたいと思います。」

そういうわけで、パウロは戦って、福音の単純さと純度さを擁護しようとしました。だからペテロが福音を薄めた時、パウロは彼に反対しました。(ガラテヤ書2:11-14)

あなたはどうですか。あなたは福音を薄めているでしょうか。もしかしたら、あなたは福音を正直に伝えるでしょうか。私たちが周りの人々の意見を気にする限り、私たちは神様を喜ばせることが出来ません。また、薄めた福音を伝えると、私たちは神様を喜ばせることが出来ません。

あなたはどんな福音を宣べ伝えているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙1:1-9--神様から離れること

多くの人々は、キリスト教をルールが多い宗教と見なします。だから、彼らが神様に受け入れられるために、そのルールに従わなくてはいけないと考えています。実は、多くのクリスチャンたちもそのように思いがちです。でも、聖書は、そのことを本当に教えているでしょうか。

この手紙では、パウロは困っている教会に書きました。その教会はガラテヤという都市にありました。(それは現代のトルコにあります。)

パウロは最初の宣教旅行の時、その地域でたくさんの教会を始めました。最初は、その教会は栄えていました。でも、すぐにパウロは悪い知らせを聞きました。それは、ガラテヤの教会で、あるユダヤ人のクリスチャンたちは、異邦人のクリスチャンたちに、「本当のクリスチャンになりたいなら、おまえはモーセの律法に従わなくてはいけない。ただイエス様を信じることだけでは足りません」と言いました。

特に、そのユダヤ人たちは、異邦人たちが割礼を受けなくてはならないと言い張りました。

そのユダヤ人たちのせいで、ガラテヤの教会の人たちは混乱して、その偽福音を信じ始めました。そういうわけで、パウロはこの手紙を書きました。

この手紙の最初から、パウロは、自分が彼らに述べ伝えた福音を思い出させました。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(3-5)

その言葉によって、パウロは、ガラテヤ人たちがどのように恵みと神様との平和を受けたか思い出させます。どのようにガラテヤ人たちは、それを受けたでしょうか。それは律法を通してだったでしょうか。割礼を通してだったでしょうか。違います。

むしろ、神様は救いの道を計画し、イエス様は十字架で、私たちの罪の罰を受けました。救いのすべてが神様の働きなので、私たちは自分の救いを手柄にすることが出来ません。むしろ、私たちの救いの栄光のすべては神様のものです。

それは、パウロがガラテヤ人たちに述べ伝えた福音でした。

でも、今や、パウロは彼らにこう言いました。

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。(6-7)

パウロの言葉は私の心を打ちました。律法による福音を受け入れたゆえ、ガラテヤ人たちは神様から離れました。彼らは、神様を喜ばせていると思いました。そのルールの従順によって、彼らは神様に近づくと思いました。でも実は、彼らは神様に背を向けてしまいました。

彼らは神様に基本的にこう言いました。「イエス様の十字架で支払われたあなたの恵みによる救いの計画を拒絶します。私たちは、この教師の教えに従って、あなたの救いの計画にほかの要求を追加します。」

言い換えれば、ガラテヤ人たちは、もはや自分の救いを神様とその恵みに基づいていませんでした。むしろ、彼らは、その偽教師たちを信じて、律法に従う自分の努力に頼り始めました。

だから、パウロは彼らに厳しく警告しました。

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。(8-9)

つまり、「あなたが受け入れた福音は、実際に福音ではありません。もし天使でも、私たちでも、私たちが最初に述べ伝えた福音と違うことを教えれば、その人は地獄に値します。」ということです。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは神様から離れているからです。そして、ルールによる福音に従う人も、神様から離れています。

あなたはどんな福音に従っているでしょうか。あなたが従っている福音によれば、イエス様を信じることは足りないでしょうか。その福音によれば、救われるために、あなたはたくさんのルールに従わなくてはいけないでしょうか。

もしかしたら、あなたは十字架に向かって、あなたの救いのためにイエス様だけを信じるでしょうか。

私たちが偽福音従って、神様から離れないように。むしろ、神様を信じて、また、イエス様の十字架の働きを信じましょう。

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コリント人への手紙第二13:5-13--人々のための神様の最善を望むこと

この手紙の最後では、私たちは、コリント人に対するパウロの希望を見ます。それは、神様の御心が彼らの人生に行われるということです。

最初に、パウロは彼らに挑戦しました。

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。(5)

私たちが本当にクリスチャンかどうか、どのようにわかるでしょうか。使徒ヨハネは三つの知る方法を与えます。

一つ目は、本当のクリスチャンたちがイエス様についての真理を信じることです。(第一ヨハネ2:22-23)

二つ目は、本当のクリスチャンたちがイエス様の言葉に従順ということです。(第一ヨハネ2:3-4)

三つ目は、本当のクリスチャンたちが神様を愛するし、クリスチャンの兄弟たちと姉妹たちを愛することです。(第一ヨハネ4:7-8)

もちろん、私たちの愛とイエス様に対する従順は決して完全なものではありません。でも、私たちの人生にそのものは、だんだん成長するはずです。そして、クリスチャンたちは失敗すれば、すぐに悔い改めるはずです。

パウロは、コリント人たちがその三つのテストを合格するように祈りました。特に、パウロは、コリント人たちの悔い改めによって、彼らが自分の信仰の本物さを証明するように祈りました。

パウロは彼らにこう言いました。

私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。(7a)

どうしてパウロは、そのように祈ったでしょうか。

それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく(7b)

つまり、パウロの希望は、周りの人々が、「パウロは偉いリーダーでしょう。彼の弟子を見てごらん」と言うことではありませんでした。

むしろ、

私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。(7c)

パウロが意味したものは何ですか。

コリント人たちが悔い改めないとしたら、パウロには彼らを厳しく訓練する意図がありました。もちろん、コリント人たちが悔い改めるなら、その必要がなかったでしょう。でも、パウロが彼らを厳しく訓練しないとしたら、パウロの批判者は、「パウロは甘過ぎる。彼は本当のリーダーじゃない。」と主張するでしょう。

でも、パウロは批判者の言葉を気にしませんでした。パウロが望むのは、コリントたちが悔い改めて、善を行うことです。

だから彼はこう言いました。

私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。(9)

パウロがコリント人たちに厳しく訓練しないゆえ、パウロの批判者は、彼が弱いと思ったかもしれません。でも、パウロは、そのことも気にしませんでした。パウロの希望は、コリント人たちが強くなることだからです。

だから、パウロは、彼らが完全な者になるように祈りました。別訳で、パウロは、彼らの神様との関係、また、彼らのパウロとの関係が修復されるように祈りました。

そして、パウロは彼らにこう言いました。

そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったときに、主が私に授けてくださった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになるためです。この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません。(10)

言い換えれば、「私は、あなたのために神様の最善を望みます。あなたたちが建てられるように、神様は私を送りました。」ということです。

だから、パウロは彼らにもう一度挑戦しました。

最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。(11a)

なぜでしょうか。

そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。(11b)

そして、パウロはこの手紙この言葉で終えました。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともに。(13)

それは、コリント人たちに対するパウロの希望と祈りです。それは、周りの人々に対する私たちの希望と祈りのはずです。

人々が罪を犯すとき、特に彼らが反抗的な態度を取るとき、私たちは彼らを厳しく訓練しなければなりません。でも、私たちの目的は、彼らの神様との関係の修復です。なぜなら、私たちは彼らのために神様の最善の望むから。

あなたはどうですか。あなたは、ほかの人のための神様の最善を望むでしょうか。

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コリント人への手紙第二13:1-4--イエス様が帰ると

この個所では、パウロはコリント人たちに警告するけど、私たち皆にも警告します。

パウロはこう言いました。

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。

私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(1-4)

以前にコリントに行ったとき、パウロは自分の権威を振るわず、コリント人たちの罪深い態度を悲しみました。しかし、パウロが彼らのために自分の人生を犠牲にしたのに、コリント人たちはパウロを拒絶しました。

でも、パウロは彼らに警告しました。「私は弱い人として来ません。むしろ、私は神様の力を持ち、神様から受けた権威を振るって、あなたたちを裁きます。」

そして、パウロはこう言いました。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2)

イエス様は同じようなことを私たちに言います。イエス様は前回この世に来た時、ある意味で、弱い人として来ました。彼は貧しい大工、また巡回説教者として来ました。彼は勝利する王ではなく、十字架で付けられた救い主として来ました。

でも、神様の力によって、イエス様はよみがえられした。そして、ある日、イエス様は、この世に戻ります。その日、イエス様は弱い方としてではなく、力を持つ方として戻ります。さらに、イエス様は自分を拒絶する人をもう赦しません。逆に、イエス様は彼らを裁きます。

多くの人々は、イエス様を私たちを愛している神の子と見なします。また、その愛を示すため、イエス様がすべてを犠牲にしたことだけを考えます。もちろん、それはそうです。

でも、多くの人は、大切なことを忘れがちです。それは、この世に戻るとき、イエス様が私たち皆を裁くことです。イエス様は、自分を拒絶する人に、もう憐れみを与えません。

その日、イエス様が、すべての人々に、ただ神の羊だけではなく、ユダのライオン、また、永遠にこの世を治める王と認められます。そして、イエス様の正当な統治に逆らう人はイエス様の怒りを知ります。(ルカ19:11-27)

だから、私たちは皆は自分自身にこう訊くべきです。私たちはイエス様の権威に従うでしょうか。もしかしたら、私たちはイエス様に逆らい続けるでしょうか。神様は我慢強い方です。でも、その我慢は永遠のものではありません。

だから、神様の辛抱を試さないでください。むしろ、私たちがまだできる限り、神様の恵みと憐れみを受け入れましょう。

 

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コリント人への手紙12:11-20--ほんとのリーダーの特徴(2)

この前、私はリーダーの特徴について話しました。この個所では、リーダーの特徴をさらにいくつか見ることが出来ます。

一つ目は、彼らが思うべき限度を超えて思い上がらないことです。むしろ、自分のことを慎み深く考えるべきです。(ローマ12:3)

言い換えると、彼らは、自分のことをキリストのしもべとして正しく判断して、謙遜を持って、自分の得手不得手が分かることです。

パウロを批判したリーダーたちに関して、パウロはこう言いました。

私は、たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少しも劣るところはなかったのですから。(11)

パウロは、自分のことをよく知っていました。彼はキリストから呼ばれた使徒でした。彼はしるしと不思議と力あるわざによって、使徒の資格を証明しました。それに、彼はたくさんの教会を始めました。そして、彼は印象的な説教者じゃなかったのに、彼の言葉には力がありました。

それでも、パウロは自分自身を使徒の中では最も小さい者と呼びました。なぜなら、彼はかつて教会を迫害したからです。(第一コリント15:9)

また、彼は自分の弱さを認めて、自分の力によって何もできないことをも認めました。(第二コリント12:7-10)

本当のリーダーは自分自身をそのように考えるべきです。彼らは、キリストにあって、自分の身の丈を理解するべきです。また、彼らの人生やミニストリーに、神様の恵みを必要とすることを認めるべきです。

本当のリーダーたちは人々を愛します。彼らはただ人々を利用するわけでもありません。

パウロはこう書きました。

私は、あなたがたのところに三度目の訪問をする準備ができていますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたが持っている物ではなく、あなたがた自身なのです。子が親のために蓄える必要はなく、親が子のために蓄えるべきです。私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか。(14-15)

パウロは、コリント人たちの最善を望みました。そして、霊的な親のように、大きな代価を払わなくていけなくても、パウロは、彼らが霊的に栄えるように望みました。本当のリーダーは、そのように考えます。

本当のリーダーは、いつも誠実にふるまいます。あるコリント人たちは、パウロが彼らをだまし、酷使すると咎めました。皮肉ですけど、その理由は、パウロが自分のミニストリーを支えるために、彼らのお金を受け取らなかったことです。どうして、彼らはそんなことを言ったか分かりません。もしかしたら、彼らが言ったのは、「パウロは自分のミニストリーのためにお金が要らないと言ったのに、今エルサレムの人たちのためにお金を収集していると主張します。それは嘘だろう。」ということです。

でも、パウロは自分の人生、また、コリント人たちに送った代表者たちの人生を指した時、その誠実さを証明することが出来ました(17-18)。

すべてのリーダーたちは、そうできたらいいのに。

最後に、本当のリーダーたちは、教会の人の罪を悲しみ、その問題を扱います。パウロの心配は、自分がコリント人たちの罪を厳しく扱わなくてはならないということです。彼はそうしたくなかったし、そのことを悲しんだけど、そうする覚悟をしました。(20-21)

本当のリーダーたちは、そうするべきです。彼らは罪を見ると、無視することが出来ません。

パウロはそのようなリーダーでした。あなたはどうですか。

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コリント人への手紙第二12:7-10--自給自足の問題

私の両親は、私が自給自足できるように育てました。私は親元を離れた何年後、父は私にこう言いました。「私がうれしいのは、おまえのお兄さんとお姉さんとおまえが決して私たちにお金をねだらないことだよ。」

親子の関係に関しては、自給自足は良いことだと思います。私たち皆、成長して、両親から独立しなくてはなりませんから。

でも、神様との関係に関して、自給自足は決して良いことではありません。私たちが神様から独立することを宣言できるときはありません。なぜなら、私たちはいつも神様を必要としますから。この人生を送るのに、私たちはいつも神様の力が必要です。私たちの仕事や人間関係やミニストリーで、私たちは必ず神様を必要とします。

自給自足の問題は、私たちの人生に神様の力を本当に経験しないことです。私たちは神様からの独立を求めると、神様の力をアクセスできなくなります。

パウロはその真理を学んだので、コリント人たちにその真理を教えようと思いました。

パウロには、素晴らしい霊的な経験がありました。彼は天国を見ました。だから、パウロにとって、「私はクリスチャンとしてたどり着いた。もう神様の助けを必要としないだろう。私は霊的に成熟しているので、自分の力でこの人生を送ることが出来るだろう」と考えるのは簡単なことだったでしょう。

だから、パウロが高慢にならないように、神様は彼の肉体に「とげ」を与えました。もちろん、それは文字どおりのとげではありませんでした。でも、そのとげが何だったか、パウロは説明していません。もしかしたら、それは健康問題だったかもしれません。(多くの人は、パウロに目の疾患があったと考えています。)でも、もしかしたら、それは霊的な問題かもしれません。とにかく、パウロは三度、主に願いました。「このとげを私から去らせてください。」

でも、神様は答えました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(9)

要するに、「この問題を取り去らなくていいです。なぜなら、あなたは、私の恵みを持っていますから。そして、あなたの弱さのうちに、私の力は完全になります。」

神様が意味したものは何ですか。

私たちは弱い時、自分の力に頼らず、神様の力に頼らなくてはなりません。私たちが自分の力に頼る限り、神様の力は私たちの人生において完全になりません。

だから、パウロはこう言いました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(9b-10)

どうして、パウロは自分の弱さを誇ったでしょうか。なぜなら、その弱さのゆえ、パウロは神様にもっと頼らなくてはなりませんでしたから。そういうわけで、パウロは以前にもまして、神様の力を知りました。それだけではなく、パウロの神様との関係は必ずより親しくなったでしょう。

あなたはどうですか。自分の力によって人生を送ろうとしているでしょうか。そうすれば、あなたは神様の力を経験しないし、神様との親しい関係を経験しません。

私は神様の力、また神様との親しい関係を両方、持ちたいと思います。

だから、自分の自給自足を誇らないでください。むしろ、毎日、神様の力に頼ることを学びましょう。

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コリント人ヘの手紙第二12:1-6--霊的な経験よりも大切なもの

たぶん、コリント人の偽教師たちが自分の啓示や幻を誇ったので、パウロは自分の優れた霊的な経験を誇り始めました。彼は天国に行って、神様の御前に立ちました。(それが本当に起こったか、ただの幻か、パウロは知りませんでした。)

でも、その経験について話した後、パウロはこう言いました。

しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。(6)

パウロの意味したものは何でしょうか。

私たち皆に、霊的な経験があります。もちろん、私はその経験の大切さを疑いません。でもその経験によって、私たちは自分の霊的な偉さを自慢してはいけません。

私たちの霊的な成熟さは、私たちの毎日の言葉や行動に証明されます。周りの人々は、そのことに気づくはずです。彼らは、私たちの霊的な経験ではなく、むしろ神様が私たちを通して、話したり、働いたり、人に触れることに気づくはずです。そしてそれは、私たちの栄光のためではなく、神様の栄光のためです。

あなたには素晴らしい霊的な経験があるでしょうか。それは良いことです。でも本当の霊的な経験はただウキウキする感じで済むわけではありません。むしろ、その霊的な経験によって、私たちの毎日の言葉と行動が変わるはずです。

あなたの霊的な経験は、どのようにあなたの毎日の行動や言葉を変えたでしょうか。

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コリント人への手紙第二11:16-33ーー本当のリーダーの特徴

このパウロと偽使徒についての話では、私たちは本当のリーダーの特徴を見ることが出来ます。つまり、本当のリーダーが何をするべきか、何をするべきではないかということです。

本当のリーダーには、自分のことを自慢する必要がありません。パウロは自分のことを自慢したけど、それはコリント人たちの弱さのためです。つまり、彼らは偽使徒の資格に感動しすぎたからです。パウロは何回も、自分のことを自慢するために自分自身を責めました。でも、コリント人の尊敬を得るため、彼は偽使徒と同じく、自分の資格について話さなくてはいけませんでした。

でも普通は、本当のリーダーは、そうするべきではありません。本当のリーダーは、自分の才能や、賜物や、ミニストリーすべては、イエス様から来ると認めます。だから、彼らは自慢せずに、謙遜な態度を持って、人々を導きます。

羊が罪を犯すとき、本当のリーダーはその羊を厳しく懲らしめなくてはならないかもしれません。でも、そのリーダーは暴力を振るわないし、羊の弱さに付け込みません。その反面、偽使徒たちはコリント人たちを「奴隷にして、食い尽くし、強奪し、その頭をたたきました。」(20)

生憎、今なお、あるリーダーたちは自分の立場を乱用します。でも、パウロによれば、本当のリーダーは、自分に反対する人たちに柔和に教え導きます。(第二テモテ2:25)

さらに、本当のリーダーは、羊を本当に愛しています(28-29)。

だから、リーダーは信仰の弱い人を励まします。私たちの大祭司イエス様のように、リーダーたちは羊の弱さに共感します。(へブル書4:15)

そして、誰かが羊を躓かせたら、リーダーはイエス様のように憤ります。(マルコ9:42)

最後に、福音のために、本当のリーダはいろんな苦しみを自ら望んで堪えます。パウロは豪華な人生、また心地よい人生を要求しませんでした。むしろ、パウロは、迫害や、いろんな難、眠らず夜や、飢え渇きを経験しました。(23-27)

それらは、本当のリーダーの特徴です。

あなたは教会のリーダーでしょうか。あなたは牧師でしょうか。日曜学校の先生でしょうか。バイブルスタディーのリーダーでしょうか。あなたはパウロのようなリーダーでしょうか。

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コリント人への手紙第二11:1-15ーー別のイエス様、異なる霊、異なる福音

この個所では、私たちは切ない真理を学びます。それは何でしょうか。人々が、自分がイエス様の代表者だと主張するとき、また、自分が御霊を持っていると主張するとき、また、福音を伝えると主張するとき、私たちは吟味せずにその主張を受け入れてはいけません。

なぜでしょうか。コリント人たちに対するパウロの言葉で、その理由を見ることが出来ます。

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(3-4)

パウロの心配は、コリント人たちがエバのように騙されて、キリストから離れてしまうことです。どうしてそんなことが起り得るのでしょうか。

彼らが別のイエスや、異なる霊や、異なる福音に騙されるからです。

あなたはこう言うかもしれません。「ちょっと待って。ただ一つのイエス、ただ一つの聖霊、また、ただ一つの福音だと思ってたけど。」

それはそうです。でも、それと同時に、偽のイエス、偽の御霊、偽の福音がたくさんあります。人を欺く働き人、また、キリストの使徒に変装する偽使徒たちは、その偽の福音を教えます。(13)

パウロによれば、私たちはそのことに驚くべきではありません。なぜでしょうか。

サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。(14-15)

パウロは、自分の時代で、そのことをもう見ていました。ある人々がコリント人の教会で、パウロの教えに反対したし、パウロ自身にも反対したので、そのクリスチャンたちは混乱してしまいました。

また新約聖書の中では、偽教師がうそを教える例をたくさん見ることが出来ます。

ある人は、別のイエス様について教えました。彼らによれば、そのイエス様は人間としてこの世に来ていませんでした。(第二ヨハネ1:7)

彼らは異なる霊の力によって教えたので、ヨハネは教会にこう警告しました。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(第一ヨハネ4:1)

彼らは異なる福音を宣べ伝えました。彼らによれば、本当のクリスチャンたちはユダヤ人の律法に従わなくてはなりません。(ガラテヤ人への手紙を読んでください。)

今なお、偽のイエスがいます。モルモン教によれば、イエス様はサタンの兄弟です。また、モルモン教によれば、イエス様は数百万の神々の一人です。

エホバの証人によれば、イエス様は実際に御使いのかしらミカエルです。

偽の聖霊もいます。エホバの証人によれば、聖霊様は人格のない力です。モルモン教によれば聖霊様は、イエス様のように数百万の神々の一人です。

偽の福音もあります。エホバの証人とモルモン教によれば、救いは信仰と恵みだけではなく、私たちの良い行動に基づいています。

もちろん、エホバの証人たちや、モルモンの人たちは優しい人です。彼らは誠実な人です。私たちよりも、彼らは敬虔な人に見えるかもしれません。でも、彼らは別のイエス、異なる霊と福音を伝えるので、自分が偽教師や偽クリスチャンであることを証明します。でも、彼らの言葉が良いものに聞こえるので、たくさんの人たちは騙されてしまいます。

誤解しないでください。彼らが意図的に人々を騙そうとしているわけではありません。彼ら自身が騙されました。でも私たちは騙されないように、「私はイエス様を信じる。福音を信じる」と主張する人を吟味せずに信じてはいけません。むしろ、私たちは聖書によって、彼らの教えを吟味するべきです。なぜなら、聖書こそが真理の基礎ですから。

子供のように考えないでください。すぐに騙されないように。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。テサロニケ第一5:21

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コリント人への手紙第二10:7-18ーーどのように自分自身を評価するか。どのように周りの人々を判断するか

この個所では、パウロは、まだ自分を軽蔑するコリント人たちを扱っています。

彼らはパウロを見ると、パウロの外見から判断しました。どうやら、パウロはそんなにハンサムではなかったし、彼の話し方もそんなに印象的ではありませんでした。だから、あるコリント人たちはパウロに関してこう言いました。

「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」(10)

でも、パウロは彼らに言いました。あなたたちはうわべのことだけを見ています。(7)

パウロは、クリスチャンやキリストのしもべでとして、立派な人でした。でも、彼らはパウロの外見や話し方に集中しすぎたので、そのことを悟りませんでした。だから、彼らはパウロとその弱さを軽蔑しました。

そういうわけで、パウロは彼らに警告しました。

そのような人は承知していなさい。私たちは、離れて書く手紙のことばどおりの者として、そちらに行ってもふるまいます。(11)

ようするに、「私たちはただ喋っている人ではありません。私たちは自分の言葉に従って行動します。私たちがコリントに来ると、あなたたちはまだ悔い改めていないなら、そのことを知ります。」

私たちは周りの人々を見るとき、外見から判断してはいけません。なぜなら、彼らの外見以上に、優れた人かもしれませんから。そして、神様の力によって、私たちが予想以上に、彼らはいろんな奉仕ができるでしょう。でも、私たちは彼らの外見から判断して、彼らの弱さを軽蔑するなら、その人を見損なうでしょう。さらに、私たちは神様の似姿に造られた人を軽蔑してしまいます。また、私たちは神様の目的のために造られた人を軽蔑してしまいます。神様はそんな態度を軽く考えません。

でも、私たちは自分自身をどのように評価するかをも考えるべきです。パウロは自分の批判者についてこう言いました。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。(12)

要するに、自分自身を周りの人々と量ったり、比較したりすることはバカなことです。なぜでしょうか。なぜなら、私たちは人間的な標準ではなく、神様の標準によって量っているから。私たちは自分自身を人間的な標準によって量ると、神様が立てた的を全く逸れるでしょう。

それに、当たり前のことですけど、ほかの人の業績を自分の手柄にしてはいけません。自分ができたことを誇りすぎるのは悪いですけど、ほかの人の業績を自分の手柄にするのはなおさら悪いことです。パウロには、そんなことをしたことがありませんでした。(13-16)

そして、パウロは私たちが誇るべきことについて話します。

誇る者は主を誇れ。(17)

パウロが意味したものは何ですか。主は、預言者エレミヤを通して、こう言いました。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり(ます)。(エレミヤ書9:24)

要するに、私たちは自分自身のことや、自分の業績に焦点を当ててはいけません。むしろ、私たちは神様に焦点を当てて、神様をもっと知ろうと努めるべきです。神様を本当に知っている人には誇られる事があります。なぜなら、彼らは正しいものに焦点を当てていますから。彼らは周りの人々を喜ばせようと努めず、神様を喜ばせようと努めているのです。そんな考え方は知恵です。だからパウロはこう言いました。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(18)

あなたはどうですか。周りの人々をどのように判断するでしょうか。彼らの外見から判断するでしょうか。

自分自身をどのように評価するでしょうか。自分自身を周りの人々と比べているでしょうか。人間的な標準で自分自身を量っているでしょうか。もしくは、神様の標準で量っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二10:1-8ーー要塞を打ち倒す力

私たちは、この世を見れば、見るほど、サタンが自分の要塞を私たちの文化に建てていることが分かります。アメリカの最後の10-20年間ぐらいでは、道徳観が悪化しつつあります。また、日本では、サタンの強い霊的な要塞のせいで、多くの人は霊的な暗闇に暮らしています。

あるクリスチャンたちは、それを見て失望し、あきらめたいと思います。

ほかのクリスチャンたちは、サタンが私たちの文化の中で行ったことに怒ります。だから、この世の人々のように、彼らは怒りと憎みを持って、暴力的な態度で撃退しようとします。

でも、私たちは、そのように戦ってはいけません。それは、正しいサタンの要塞を打ち倒し方ではありません。

パウロはコリンントの教会で、いろんな要塞に直面しました。偽教師に建てれらた要塞、分裂の要塞、また、神様とパウロに対する反抗的な態度という要塞がありました。

パウロはどのように反応したでしょうか。

彼は、柔和さと優しさをもって、反応しました。彼に反対する人たちを倒す態度を取りませんでした。むしろ、柔和な心を持ちました。

もちろん、パウロは強気になる時もありました。だから、彼は、コリント人たちにこう言いました。「あなたがたが悔い改めないと、私は強気にふるまう、また、大胆にふるまいます。」

でも、それは彼の希望ではありませんでした。

しかし、大胆にふるまわなくてはいけない時も、パウロは彼らを倒すように望みませんでした。むしろ、パウロは彼らを建てあげたいと思いました。

そして、パウロは、サタンの要塞を攻撃する方法について話しました。彼は言いました。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。(3)

あるクリスチャンたちは「毒を以て毒を制す」という態度を取ります。

または、彼らは、社会の悪化を制止するため、政治の方法を使うべきだと思います。

誤解しないでください。クリスチャンとして、私たちは政治に参加するべきです。政治から手を離してはいけません。でも、政治を通して、人間の心を変えることが出来ると思うなら、私たちは間違っています。私たちの社会にクリスチャンの価値観を入れると、社会の状態は良くなるかもしれないけど、政治には人の心を変える力はありません。

もし長期的変化を望むなら、個々のクリスチャンたちは周りの人々に触れるべきです。また、神様から与えられた霊的な武器を使わなくてはいけません。

パウロはこう言いました。

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。(4)

その武器は何でしょうか。基本的に、それは神のみ言葉と祈りです。私たちは人々に神様の言葉を伝え、彼らのために祈るべきです。聖霊様は私たちの中で、また私たちを通して働くにつれて、私たちは人を変えられるみ言葉や祈りの力を見ます。

聖霊様を通して、

私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。(5)

最終的に、私たちの政治や、議論などは人の心を変えることが出来ません。むしろ、神様こそが人の心を変えることが出来ます。

だから私は二つの質問を訊きます。

1.私たちは、サタンの要塞を倒す戦いに参加しているでしょうか。

2.そうならば、どんな武器を持って、戦っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二9:11-15--私たちが神様に栄光を与えられるように

前回の記事で、私はこのことに触れましたが、もうちょっと話したいと思います。つまり、神様の民の寛大さによって、彼らは神様に栄光を与えることです。パウロはこう書きました。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。

この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。

そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。(11-14)

この個所の一つのテーマは、私たちの寛大さによって、周りの人々は神様に感謝することです。彼らは、自分のニーズが供えられたゆえだけではなく、神様が私たちを通して働くのを見ることが出来るゆえ、神様に感謝します。彼らは、この上なく豊な恵みが私たちの人生に溢れることを見るし、その恵みが彼らの人生にも溢れ出すことも見ます。

残念なことですが、多くの人々はクリスチャンたちを見ると、偽善者を見ます。また、人を愛さない人を見ます。また、冷淡な人を見ます。でもイエス様の恵みに触られた寛大なクリスチャンを見ると、彼らは天の父を垣間見ます。その天の父は、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。」(マタイ5:45)

だから、私たちを見ると、彼らは神様に栄光を与えるし、神様に近づくでしょう。

イエス様はこう言いました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

光を輝かせる方法の中で、最も良い方法の一つは、人々に惜しみなく与えることです。

私たちがそうすると、ノン・クリスチャンだけではなく、クリスチャンたちも励まされます。彼らは、神様が彼らを見捨てずに、愛することが分かります。ほかのクリスチャンが自分の信仰によって生きることを見て、彼らも自分の信仰によって生きるように励まされます。

そして、パウロのように、彼らはことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(15)

その賜物によって、人々は変えられて、神様から与えられた愛を周りの人々に与え始めます。

あなたはどうですか。あなたの寛大さによって、人々は神様に栄光を与えているでしょうか。彼らは、あなたの人生に神様を見て、感謝するでしょうか。

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コリント人への手紙第二9:8-11--恵みが溢れている人生

「恵みが溢れている人生」という記事のタイトルを読んだとき、あなたは何を考えたでしょうか。

神様から与えられた恵みを考えたでしょうか。もちろんこの記事で、そのことについても私は書きますが、それだけについてではありません。

パウロはこう書きました。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(8)

私は、この個所が大好きです。パウロによれば、神様は私たちに恵みを溢れるばかりに与え、私たちのニーズに備えることが出来ます。でも、その恵みを豊かに与える目的は何でしょうか。それは、私たちがすべての良いわざに溢れるためです。つまり、私たちは受けた恵みによって、周りの人々に恵みを豊かに与えることが出来るということです。

そして、パウロは詩篇112篇を引用します。

「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。(9)

どうしてか分からないけど、この言葉を以前に読んだとき、パウロがイエス様について話しているのだと思いました。もしかしたら、私はその個所でエペソ書4:8を連想したかもしれません。

でも実は、その詩人は義人とその寛大さについて話します。その人は主に信頼するので、未来を恐れません。だから、その人は惜しみなく貧しい人を助けるし、良いわざに溢れます。

だからパウロは続けます。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(10-11)

要するに、私たちは、神様が私たちのニーズに備える確信を持つことが出来ます。さらに、私たちが周りの人々にお惜しみなく与えるようになるほどに、神様が私たちの財源を増し加える確信を持ちます。

でも私たちは、自分の経済に関して、本当に神様に信頼するでしょうか。私はそのことをまだ学んでる途中です。

その詩篇112篇の義人のようになりたいです。私の人生に神様の恵みが溢れるように祈ります。でも、その恵みを自分のために持ちたくないです。むしろ、その恵みにあふれて、周りの人々に触れて祝福したいです。そして,私の人生のゆえ、彼らが神様に栄光を与えるように望みます。

あなたはどうですか。あなたの人生は恵みに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第二9:6-7--献金の原則

この個所では、私たちは二つの献金の法則を見ます。

パウロはこう言いました。

私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(6)

もちろん、それは、人生のすべてのことに関する大切な原則です。

例えば、あなたは自分の結婚にわずかだけ蒔くと、わずかだけ刈り入れます。つまり、自分の結婚に時間や努力を怠ると、その結婚から得られるものは些細なものになります。そして、その結婚は枯れて、死んでしまうかもしれません。

でも、その結婚に豊かに蒔くと、大きな祝福を刈り入れます。

子育てに関しても、その原則は大切なのです。もし、自分の子供に対してわずかしか種を蒔かないでいれば、彼らが成長しても、あなたとの親しい関係をあまり望まないでしょう。でも、子供に豊かに蒔くと、彼らが成長しても、あなたたちは親しい関係を持つでしょう。

でも、この個所では、パウロは献金について話しています。多くのクリスチャンたちは、「十一献金が新約聖書の教えではないので、どうして捧げるべきだろうか。」と考えます。

でも、教会にわずかにしか蒔かないと、その結果はどうなるでしょうか。もちろん、牧師は自分の家族を支えるために、アルバイトもしなくてはならないでしょう。そういうわけで、彼は教会の人たちに仕える時間は大分減るでしょう。

また、教会はその近所の人たちに触れるために、あまり財源がないでしょう。また、教会には、あなたの家族に仕える財源がないでしょう。

でも、あなたが豊かに教会に蒔くと、教会はあなたや、家族や、近所の人たちに大きな祝福になるでしょう。

だから、自分の牧師や教会があまり機能していない、とあなたがぼやいているなら、自分自身にこう訊くべきです。「私は豊かに教会に蒔いているだろうか。」

パウロは続けます。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(7)

献金するとき、私たちは「献金しなくてはならない」という態度を取るべきではありません。私たちは強いられる感じを持って、献金するべきではありません。

むしろ、私たちは喜びに満ちる心をもって、惜しみなく献金するべきです。「神様、あなたがいろいろなことをしてくださり、ありがとうございます。あなたはイエス様を送ってくださいました。それは本当に素晴らしい賜物でした。だから、この献金を通して、私の感謝を表したいのです。」と言う心を持って、献金するべきです。

そんな態度を持つと、あなたの献金が多くても、少なくても、神様はその献金を喜んで受け入れます。

ルカの福音書21:1-3では、やもめの献金はとても少ない額でした。でも、彼女は心から捧げたので、イエス様はその献金を金持ちの多額の献金よりも喜びました。

あなたはどうですか。どんな態度を持って献金するでしょうか。

あなたはわずかに蒔いているでしょうか。あなたは豊かに蒔いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二9:1-5--私たちは周りの人々に影響を与える立場を持つとき

私たち皆は、家で、教会で、また職場で、周りの人々に影響を与えます。

もしかしたら、ロールモデルになろうと思わなかったけど、その立場を持っているかもしれません。もしそうなら、私たちは彼らに、また神様に、その役割を果たす責任を持っています。

コリント人たちはエルサレムの人たちの苦しみについて聞いたとき、助けようと思ったので、その願いをパウロに伝えました。パウロはそれを聞くと喜んで、マケドニア人たちにそのそのニュースを伝えました。そして、マケドニア人たちがそれを聞くと、彼らも助けたいと思いました。だから、あるマケドニア人たちがパウロとともにコリントの経由でエルサレムに行くように決まりました。

でも、パウロには、あることが思い浮かびました。「コリント人たちは、もうその献金を整えただろうか。まさか、まだしていないだろうか。」

だから、パウロはこの手紙を書いたとき、彼らが約束通りに、その献金を整えるように促しました。パウロは彼らにこう書きました。

そうでないと、もしマケドニアの人々が私と一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。(4)

コリント人たちは予想しなかったけど、彼らの熱心によって、マケドニア人たちも献金するように鼓舞されました。だから、マケドニア人たちの霊的な先輩であるコリント人たちがちゃんと準備していなかったとしたら、マケドニア人たちはとってもがっかりしてしまったでしょう。

もちろん、私たちは完全な人たちではありません。私たち皆は失敗するときもあります。クリスチャンたちは、イエス様その人を見習うべきです。

それでも、そうしないクリスチャンもいます。イエス様自身も、そのことを認めました。だから、彼はこう言いました。

私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方が良いのです。つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイ18:6-7)

だから注意しましょう。私たちがすることは、私たちを見上げる人に影響を与えることを覚えていてください。神様の恵みによって、私たちの模範によって、人が失望して、神様から去らないように。むしろ、私たちの模範によって、彼らが神様に従うように鼓舞されますように。

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コリント人への手紙第二8:16-24--キリストに栄光を与える人

この個所では、パウロはエルサレムの貧しい者たちのために献金を収集する手順について話します。なぜなら、パウロはコリント人たちに、その手順の中で怪しいことがないと安心させたい、と思いましたから。

だから、パウロは、その献金を預かる担当の人たちについて話します。

一人はテトスでした。もう一人は、福音を宣べ伝えることで知られました。また、もう一人は、主の奉仕をする熱心で知られました。彼らに関して、パウロはこう言いました。

テトスについて言えば、彼は私の仲間であり、あなたがたのために働く同労者です。私たちの兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。(23)

それは素晴らしい誉め言葉です。その三人はキリストの栄光です。

それはどういう意味でしょうか。彼らは、自分の人生によって、イエス様の御名に栄光を与えたことです。

イエス様に対する彼らの熱心によって、彼らはイエス様の御名に栄光を与えました。また、福音を宣べ伝える働きによって、彼らはイエス様の御名に栄光を与えました。さらに、周りの人々に対する彼の愛と情けによって、イエス様の御名に栄光を与えました。

その言葉を読むと、私は自分自身に訊きます。私はキリストの栄光だろうか。私の言葉と行動によって、イエス様に栄光を与えるだろうか。イエス様に対する熱心を持っているだろうか。周りの人々にイエス様の言葉を伝えているだろうか。彼らに対する神様の愛と憐れみは私の心に溢れているだろうか。

私はそう望みます。もちろん、私は完全な人ではありません。でも、イエス様の御名を汚したくないです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の栄光でしょうか。イエス様の御名に栄光を与えるでしょうか。

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コリント人への手紙第二8:9--私たちの恵みの模範

私たちは本当に神様の恵みを把握するでしょうか。その恵みを本当に把握するなら、どれぐらい、自分のお金をささげること、自分の時間をささげること、自分の人生をささげることに関する私たちの態度は変わるでしょうか。

パウロはコリントたちにこう言いました。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

恵みとは、どういうものでしょうか。それは、神様の祝福に値しない者に祝福することです。イエス様は恵み深い方で、その恵みに値しない私たちを祝福してくださいました。イエス様が何をしてくださったかを考えてみてください。

イエス様は、天国では富んでおられました。富んでおられるとは、お金や金と銀をたくさん持っていたという意味しません。天国では、そんなものは価値がないのです。でも、イエス様は天の父の栄光を持っていたし、天使たちから礼拝されました。彼は天の父の王座の右に座っていて、何も欠けていませんでした。さらに、イエス様はすべてを治めて、イエス様にあって、万物は成り立っていました。(コロサイ書1:15-18)

それでも、イエス様は自分の栄光を捨てて、天国を去って、人間としてこの世に来ました。イエス様は王として来ませんでした。金持ちとして来ませんでした。むしろ、貧しい大工として来ました。そして、自分の奉仕を始めた時、イエス様には、枕する所もありませんでした。(ルカ9:58)

そして、自分の人生の終わりには、イエス様は礼拝されず、むしろ、ののしられました。王座に座らず、十字架にかけられました。栄光をもって治めずに、恥で十字架にかけられました。

どうしてでしょうか。

それは、私たちが富む者となるためです。イエス様の十字架の御業によって、私たちの罪の債務は支払われました。そういうわけで、いつか私たちは御国でイエス様と共に治めます。(ローマ書8:17)

イエス様は惜しみなくその恵みを与えてくださいました。

だから、私はもう一度聞きます。

あなたは本当にその恵みを把握しているでしょうか。

その真理を実感しているでしょうか。そうであれば、私たちの人生に影響を与えられるはずです。

イエス様が惜しみなく私たちを恵まれたように、私たちは周りの人々に惜しみなく恵みを与え始めます。

正直に言うと、私もその真理をもっと深く実感する必要があります。

あなたはどうですか。イエス様の恵みを把握しているでしょうか。その恵みはあなたから周りの人々に溢れ出しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二8:7ーー恵みのわざにあふれること

この個所では、パウロはコリント人たちにこう言います。

あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。(7)

コリント人たちは、霊的な賜物や、熱心や、愛の豊かさで知られました。

でもパウロはこう言います。「信仰や、言葉や、知識や、熱心や、愛に溢れることはいいけど、恵みのわざに溢れなさい。つまり、人のニーズに備える恵みのわざに溢れなさい。」

多くのクリスチャンたちは、信仰に溢れたいし、キリストのために福音を伝えたいし、イエス様に関する知識に溢れたいし、熱心と愛に溢れたいと思います。でも、私たちは人のニーズに備える恵みのわざに溢れたいと思うでしょうか。もしかしたら、そんな人は少ないかもしれません。でも、神様は、私たちのためにそのことを望みます。神様は、私たちが人々に与えて、彼らに触れるように望みます。

それはパウロの主な意図です。「この恵みのわざ」とは、エルサレムにある苦しんでいるクリスチャンたちに与えることを意味しました。

でも、神様は、私たちがすべての恵みのわざに溢れるように望みます。私たちが周りの人々に恵みの言葉を伝えるように望みます。私たちが親切なわざを行うように望みます。私たちが人を許すように望みます。また、私たちが苦しんでいる人を憐れむように望みます。

私たちは恵みに満ちた人であるべきです。なぜなら、神様は恵みに満ちる方ですから。神様の子供たちとして、私たちは天の父の真似をするべきです。

あなたはどうですか。あなたは恵みに満ちている人でしょうか。あなたは恵みのわざに溢れているでしょうか。

 

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コリント人への手紙第二8:6-12--始めたことを成し遂げること

この個所が真理に富んでいるので、この個所について、もういくつかの記事を書こうと思います。

パウロはこの個所を始めたように、終えます。彼は基本的にこう言います。「あなたがた始めたことをちゃんと成し遂げなさい。」

コリント人たちは、エルサレムにある貧しいクリスチャンたちについて聞いた途端、「私たちは助けたい」と言いました。彼らの模範のため、マケドニアのクリスチャンたちも、助けたいと思いました。

だからパウロはコリント人たちに言いました。「あなたがたが助けたいことは良いけど、あなたが始めたことを成し遂げなさい。あなたの熱意を忘れず、あなたの良い計画が無駄なものにならないように。自分の約束を守りなさい。これから、その献金を集めなさい。そうすると、私たちが着いた頃に、その献金はもう整えているはずです。もし良い心を持てば、献金の金額はあまり大切ではありません。なぜなら、神様が望むのは、あなたの心ですから。」

あなたはどうですか。あなたは自分が始めることを成し遂げるでしょうか。人々を祝福する計画を成し遂げるでしょうか。もしかしたら、あなたの熱意が冷めて、その計画を忘れてしまうでしょうか。私たちがそうならないように。むしろ、自分の約束を守り、神様が私たちに与えた良い計画を成し遂げましょう。

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コリント人への手紙第二8:1-5ーー人に何かをあげること

気前のいい心。人に何かあげること。

正直に言うと、私はまだそんな心を持てるように努めているのです。もしかしたら、私が末っ子のせいかもしれません。もしかしたら、私の罪深い心のせいかもしれません。でも、人にあげることは、私に苦手です。でも、私はそんな心を持つべきです。なぜなら、すべてのクリスチャンたちは、そんな心を持っているはずですから。

マケドニア人たちは、そんな気質を持っていました。パウロによれば、彼らの激しい試練の中にあっても、また、彼らの貧しい状態にあっても、マケドニアのクリスチャンたちは、エルサレムにある苦しんでいるクリスチャンたちのために、献金させてもらうように願いました。

たぶん、パウロは、彼らに言いました。「大丈夫です。あなたたちの経済も大変だし、ほかの教会の人々が献金しているので、それは、もう十分だと思います。」

でも、マケドニア人たちは「聖徒たちを支える奉仕の恵み」に参加させてもらうように願いました。彼らはその奉仕を恵みと見なしました。

私たちが苦しんでいるとき、自分のことに焦点を当てるのは簡単なことです。私たちは自分自身だけについて考えて、どのように自分の試練を乗り越えられるか考えます。でもマケドニア人たちは、そのように考えませんでした。むしろ、彼らに関して、パウロはこう言いました。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。(5)

それは、ささげることの定義です。私たちはまず自分自身を神様に献げ、そして、ほかの人にも委ねることです。イエス様はその原則をこのように教えました。

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)

また、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(22:39)

だから、あなたはケチな態度を持っているなら、自分自身にこう訊くべきです。「私は、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、主を愛しているだろうか。私は隣人を自分自身のように愛しているだろうか。もしかしたら、神様よりも、また隣人よりも、お金を愛しているだろうか。」

もう一つの大切な質問は、「私は、自分のことしか見ることが出来ないほど、自分の問題に焦点を当てているだろうか。もしくは、マケドニア人たちのように、私は、自分の問題だけでなく、ほかの人たちのニーズをも見ることが出来るだろうか。」ということです。

あなたの心を見ると、何が見えるでしょうか。

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コリント人への手紙第二7:8-10--二つ種類の悲しみ

サタンの名前とは、「責める方」を意味します。サタンは、その名の通り、いつも人を責めます。彼は、私たちの罪を指して、私たちを惨めな人と呼びます。

実は、サタンの咎めの中で、本当のことも含んでいます。彼は私たちに「あなたはだめだ。あなたの罪を見てごらん。あなたは神様から何も値しない。どうして神様はあなたのような人を愛することが出来るだろうか。」

そして、サタンは、罪悪感の重荷で、私たちを押し潰そうとします。

でも、あなたは神様の子供なら、その声が神様の声ではないことを理解してください。

もちろん、私たちが罪を犯すと、神様は私たちが悲しむように望みます。でも、神のみこころに添った悲しみは、世の悲しみとかけ離れているものです。パウロはこう書きました。

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(8-9)

パウロの言葉によって、コリント人たちは罪悪感を持っていました。その言葉によって、彼らは悲しみました。でもその悲しみは、ひと時だけでした。

パウロの意図は、彼らを滅ぼすことではありませんでした。パウロは、その訓戒によって、彼らが長期の害を受けることを意図しませんでした。むしろ、パウロは、彼らが悔い改めて、彼らと神様との関係は、またパウロとの関係は修復するように望みました。

だから、パウロは、神のみこころに添った悲しみと世の悲しみの違いをはっきりと区別します。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10)

世の悲しみによって人々は一生、後悔をもって、自分の罪が赦される希望がないと思うし、将来の希望もなくなります。そういうわけで、彼らの悲しみと罪悪感は彼らを押しつぶします。

その反面、神のみこころに添った悲しみによって、悔い改めに至ります。そして、その人たちが知っているのは、自分が何の酷い罪を犯していても、彼らは神様から赦されたことです。だから、彼らはその悲しみと後悔を捨てて、イエス様の手をつないて、神様が整えた将来に歩みます。それはどんな将来でしょうか。それは、希望と命に満ちている将来です。

あなたはどうですか。罪を犯すと、あなたの悲しみは、世の悲しみでしょうか。その悲しみによって、あなたは罪悪感に押しつぶされているでしょうか。

もしくは、その悲しみは、あなたをイエス様のみもとに導くでしょうか。その悲しみは、悔い改めと命に導くでしょうか。

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コリント人への手紙第二7章--本当の愛

私たちは6ー7章を読むと、コリント人たちに対するパウロの愛をもちろん見ることが出来るけど、その愛は、私たちに対する神様の愛をも反映します。

パウロはコリント人たちに願いました。

私たちに対して心を開いてください。(2)

あるコリント人たちは自分の心をパウロに閉じていました。だから、パウロは彼らに「心を開いてください。」と願いました。

そのように、神様は、私たちが神様に心を開くように願います。私たちが不信者たちとつり合わないくびきをともにせずに、神様と親しい関係を持ち、一緒に歩むように願います。

どうして、神様はそのことを望むのでしょうか。なぜなら、私たちは神様の息子たちと娘たちですから。

パウロはコリント人たちに対して、そんな愛を持っていました。パウロは自分自身を彼らの霊的な父と呼びました。(第一コリント4:15)

だから、彼らの霊的な父として、パウロは、私たちに対する天の父のような愛をコリント人たちに与えました。言い換えると、パウロは彼らに本当の愛を示しました。

本当の愛とはどんなものでしょうか。

パウロは説明します。

私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。(2b)

すべてのクリスチャンのリーダーたちがそう言えたらいいのに、と思います。つまり、リーダーたちがあえて人を傷つけないことです。また、彼らの教えが人々を聖い人生に導くことです。また、彼らが人々の弱さに付け込めないし、そのお金をだまし取らないことです。パウロは、そう主張することが出来ました。

そして、パウロは続けました。

前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。(3b)

本当の愛は、どんな状況でも相手とともに立ちます。死に直面するときも、本当の愛は忠実なものです。

そしてパウロはこう言いました。

私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。(4)

愛は、人々のことを信じます。コリント人たちとの人間関係の問題があっても、パウロは彼らのことをテトスに誇りました。彼はテトスにこう言ったようです。「コリント人たちのことを信じます。彼らが本当に神様の民であることを信じます。だから、私たちの言葉が辛くて、聞きにくいのに、結局、彼らがその言葉を受け入れて、悔い改めることを信じます。」(14)

だから、パウロは彼らに愛を示して、彼らを訓戒しました。必要があれば、本当の愛は人を訓戒しますから。

人を訓戒することを避ける人もいます。なぜなら、相手を愛していないように見えることを心配するから。実は、愛を持たずに真理を伝える人もいます。彼らは正直にしたいというよりも、残酷に行う興味があるのです。

でも、それはパウロの意図ではありませんでした。パウロの望みは、コリント人たちが悔い改めることでした。彼らが害を受けるように望みませんでした。むしろ、彼らが成長するように望みました。(9-10)

結局、パウロの願いはかないました。

時々、私たちが人を訓戒する理由は、相手の心を見抜くことです。パウロはこう言いました。「あなたを訓戒した時、それは不正を行ったひとのためでも、被害者私のためでもなかったのです。むしろ、あなたの心を見抜きたいと思いました。そして、あなたの悔い改めによって、あなたの心にあるものは明らかになりました。(11-12)

でも、パウロが彼らのこと信じなかったので彼らを試すべきだと思ったというわけではありません。むしろ、パウロは彼らを信じたので、彼らが必ず悔い改めることを思いました。

それは愛です。パウロのコリント人に対する愛はそんなものでした。神様の私たちに対する愛もそんなものです。

だから、私たちも、そんな愛を持つべきです。

あなたは、そんな愛を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二6:14-7:1--くびきを外すこと

この個所について、最後に二つのことを言いたいと思います。

一つ目は、あなたがノン・クリスチャンと結婚しているなら、私は彼らと離婚しなくてはいけないとは言っていないことです。それでも、あなたが神様の言葉に反してその人と結婚したなら、その反抗的な態度のために神様の赦しを願うべきです。

でも、悔い改めた後、神様はその結婚であなたを用いることが出来ます。コリント人への手紙第一でパウロは言いましたが、もし、配偶者がまだあなたと一緒に住み続けたいと思うなら、そうするべきです。その理由は?

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。(第一コリント7:14)

その言葉を誤解しないでください。神様は彼らの救いを約束しているわけではありません。でも、その結婚が継続している間、聖霊様はあなたを通して働いて、配偶者と子供たちに触れることができます。もちろん、その場合、彼らが救われる可能性はより高いものです。

簡単に言うと、あなたは彼らに影響を与えることができます。でも、最初に、自分の神様との関係に注意するべきです。もし神様との関係があなたの罪によって壊れたら、神様はあなたを用いることが出来ません。もしあなたが悔い改めていない罪を持っていると、神様はあなたを通してあまり働くことができません。

でも、あなたはノン・クリスチャンと結婚したことを後悔し始まめも、あきらめないでください。神様はあなたを通して、その状態を変えることが出来ます。

以前の記事で私は言いましたが、不信者とつり合わないくびきをともにするとは、結婚関係に限りません。

もしかしたら、ノン・クリスチャンの友達はあまりにもあなたに影響を与えているかもしれません。

あなたが大人なのに、あなたのご両親たちはあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

また、あなたの彼氏や、彼女はあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

そして、その影響によって、あなたの神様との関係はうまくいっていないかもしれません。

どうすれば良いでしょうか。控え目に言っても、それはかなり難しい状態です。でも、柔和な態度をもって行動するべきです。

最初に、彼らに対するあなたの愛をもう一度言い表すべきです。でも、彼らが行っている道があなたのと違って、あなたは神様の道を行かなくてはならないと伝えてください。

そして、その関係によって、あなたは彼らと絶交するか、彼らがあなたに影響を与えられないほどに、距離を保つべきです。

その距離は物質的な距離かもしれない。例えば、あなたは実家を去って、自分のアパートを借りたりしないといけないかもしれません。

または、あなたはただその人とあまり時間を過ごさないことです。

あなたの決断を理解する人もいます。ある人は理解してくれません。でも、彼らがあなたに影響を与えている限り、あなたはちゃんと神様に従うことが出来ません。だから、そのくびきを外してください。イエス様に従い始めてください。

そうすれば、神様が約束した祝福を知ります。

わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。(16-18)

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コリント人への手紙第二6:14-7:1ーー不信者とつり合わないくびきをともにすること(3)

次の個所に進む前に、私は、この個所に関する多くの人々が教える応用を話すべきだと思います。つまり、ノン・クリスチャンとデートするとか、結婚することです。

ノン・クリスチャンとデートしてはいけないと教える人もいます。

私はそこまで言わないけど、多くの場合、ノン・クリスチャンとデートするのは、良くないアイデアだし、罪に導く可能性が高いです。

クリスチャンがノン・クリスチャンとデートするのは、良い結果が出た時もあるけど、大多数の場合、その結果は悪かったのです。

ノン・クリスチャンとデートするとき、一番大切な質問は、「誰が誰に影響を与えているでしょうか」ということです。

あなたの影響よって、その人は神様に近づいているでしょうか。もしかしたら、相手の影響によって、あなたはだんだんイエス様から離れてきているでしょうか。

あなたの影響によって、相手は神様をもっと知りたいのですか。もしかしたら、相手の影響によって、あなたは自分の純潔を捨てているでしょうか。

相手とデートするために、あなたは礼拝をサボるときもあるでしょうか。

相手と時間を過ごしすぎて、あなたはほとんど聖書を読まないし、祈らないでしょうか。

あなたは相手と寝る誘惑に負けているでしょうか。

もし、「はい」と答えると、相手と絶交した方がいいです。

それは厳しい勧告でしょう。どうして、そんな関係に入っている間、クリスチャンたちにその勧告は受けく入れにくいでしょうか。

なぜなら、その関係の問題は、知識的なものだけではなく、感情的なものになりますから。

結婚の話ですけど、私たちは異性の人と肉体的に一つになるように造られただけではなく、感情的にも一つになるように造られました。

あなたは相手に付き合うと、その感情的な結びは始まります。

「その人が好き!その人は私のことが好き!」

彼女か彼氏を持つ人皆は、その幸せを知っています。そして、その関係が続いている間、その感情は強くなります。

相手に対する強い感情があっても、自分の価値観と信じることを守ることが出来るでしょうか。それはとても難しいことです。

彼氏か彼女からのプレッシャーに直面するとき、自分の価値観と信じることを守ることができるクリスチャンは少ないです。

そのクリスチャンが強くても、相手と絶交しなければならないとき、必ず失恋するでしょう。

パウロは全然違う状態について話していたけど、その言葉をノン・クリスチャンとデートする状態に適応したいと思います。

「ノン・クリスチャンとデートする人たち、また、ノン・クリスチャンと結婚する人ちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。」(本来の言葉は、第一コリント7:28からです)。

相手がクリスチャンになる可能性はあるでしょうか。もちろんその可能性があります。でも、あなたのために死なれたイエス様に不忠実になる可能性はかなり高いです。残念なことですけど、私はそんな人を何回も見たことがあります。

クリスチャン女性がノン・クリスチャンとデートするのは、倍ぐらい難しいことです。聖書によれば、男性の方が結婚の関係を導くべきです。だから、デートしている間、そのカップルはそんな関係を練習した方がいいです。でもクリスチャンの女性は、ノン・クリスチャンの男性の導きについていくと、特に、彼氏の霊的な導きについていくと、それは不信者とつり合わないくびきをともにすることでしょう。その反面、クリスチャン女性がそうしないと、その関係はちょっとおかしく感じるでしょう。なぜなら、神様の計画によれば、男性の方が導くべきですから。でも、やっぱりクリスチャンの女性はノン・クリスチャンとデートするとき、彼氏の霊的な導きについて行ってはいけないです。

そして、クリスチャンがノン・クリスチャンと結婚するのは罪です。なぜなら、神様の命令に逆らい、彼らは不信者とつり合わないくびきをともにしたから。

だから、ノン・クリスチャンと付き合おうと思うと、気を付けなくてはなりません。その関係では、相手に関する感情は強くなると、罪に落ちるのは簡単なことになりますから。

あなたはどうですか。あなたは不信者とつり合わないくびきをともにしているでしょうか。

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コリント人への手紙第二6:14-7:1ーー不信者とつり合わないくびきをともにすること(2)

前回の記事で、私たちは不信者とつり合わないくびきをともにしない大切さについて話しました。つまり、ノン・クリスチャンの影響によって、あなたが清い人生を送れず、神様に忠実に仕えないなら、その人からちょっと距離が必要ことです。

どうしてでしょうか。パウロはこう言いました。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。(6:14-16a)

簡単に言うと、不信者たちと私たちの考え方や価値観に関しては、大幅の差があって、その穴に橋をかけることが出来ません。その理由は、私たちが違う方に属しているからです。

要するに、私たちは生ける神の宮なのです。神様は私たちのうちに住んでおられます。

逆に、彼らは偶像の宮です。彼らは仏壇で拝まないかもしれないけど、彼らの心の王座から神様を追い出して、違うものをその王座に置きました。例えば、個人の幸せとか、お金とか、持ち物などをその王座に置きます。そして、神様の考え方が、その偶像の邪魔になると、彼らは神様を追い出して、自分勝手に生きます。

彼らがそうするなら、どうして、私たちは彼らの影響を受けるでしょうか。彼らはサタンのうそを受け入れました。「あなたがたが神のようになります。」(創世記3:5)

エバに言ったように、サタンは彼らに言います。「あなたには神様の勧告は要りません。あなたは十分に賢い者です。幸せを得るために、神様の所に行かなくてもいいです。ほかのものによって、あなたは幸せになるでしょう。神様のために生きずに、自分のために生きた方がいいです。」

でも、サタンのうそを信じると、彼らは実際にサタンのために生きていて、周りの人々にもサタンに従うように促します。

でも、神様は自分の子供になるように私たちを呼びました。神様は私たちがこの世の人々と違う人になるように呼びます。神様は私たちが聖なる人になるように呼びます。

だからパウロはこう言います。

神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」(6:16b-18)

そしてパウロはその話をこのようにまとめます。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(7:1)

私たちは神様との素晴らしい関係を持つように呼ばれました。でもそんな関係を望むなら、私たちは罪から自分を清めるべきです。そうするために、時々、私たちは自分に悪い影響を与えられる人から距離を保たなくてはなりません。

あなたはどうですか。神様に対する愛と恐れによって、あなたは清い人生を送っているでしょうか。あなたの人生は神様の奉仕のためでしょうか。

もしかしたら、あなたがこの世に溶け込んでいるほどに、周りの人々から影響を与えられているでしょうか。

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コリント人への手紙第二6:14ーー不信者とつり合わないくびきをともにすること(1)

聖さ。

多くの人々は、「聖い人」を聞くと、神様の栄光で輝いている人を思い描きます。

でも、「聖さ」には、二つのコンセプトが含んでいます。それは清い人生を送ることと、神様の奉仕のためにこの世の人のうちから分けられることです。

クリスチャンとして、私たちはそのような人生を送るべきです。私たちは、周りの人々が私たちがクリスチャンであることが分からないほどに、この世に溶け込んではいけません。彼らが私たちを見ると、私たちの態度や行動が彼らのと違うと分かるはずです。

でも、多くのクリスチャンたちはこの世に溶け込んでしまいます。一つの理由は、彼らが、自分が神様のためにほかの人のうちから分けられるというマインドセットを持っていないことです。むしろ、彼らはこの世の民から影響を与えられました。

だからパウロはこう言いました。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。(14)

それはどういう意味でしょうか。その描写は申命記から来ます。神様はこう言いました。

牛とろばとを組にして耕してはならない。(申命記22:10)

その律法の前後では、神様は、二つ種類のものを混ぜることを禁止したことです。だから、二つ種類の種を同じぶどう畑に蒔いてはいけなかったし、衣服を作るとき、羊毛と亜麻糸とを混ぜてはいけませんでした。

どうして、神様はそんな律法を制定したでしょうか。神様はイスラエル人たちに清さについて教えたいと思ったから。その律法によって、ユダヤ人は、自分が清い人にならなくてはならないことを学びました。

どうして、パウロは服や種の描写を使わなかったのでしょうか。たぶん、パウロは清さ以上の応用を見ることが出来たでしょう。

牛とろばが組にされた時、ろばは牛に大きい影響を与えることが出来ました。牛は前に進もうとしたしれないけど、もし、ろばが頑固で、進みたくないと思ったとしたら、牛が進むのは大変なことになりました。

また、ろばが違う方向に行きたいと思ったとき、牛には選択がありました。その牛はろばの導きに従うことが出来ました。もしくは、牛は、ろばを強制に正しい方向にさせようとすることができました。

多分、パウロのポイントは、クリスチャンじゃない人が私たちに影響を与えるほどに、彼らと組みしてはいけないことです。

例えば、クリスチャンの企業者は、悪徳商法をする人と組みするなら、大変なことに巻き込まれるでしょう。

または、私たちは、アドバイスを求めると、ノン・クリスチャンの友達から影響を与えられます。もちろん、ノン・クリスチャンのアドバイスがいい時もあります。でも、時々、彼らのアドバイスは良いに聞こえるけど、聖書に反対します。

「彼女と一緒に住めばいいじゃない。彼女を愛しているんでしょう?」

「時々、成功するために、ルールを曲げなくてはなりません。」

彼らはあなたの最善を求めているかもしれないけど、彼らが神様のみ言葉を知らないので、あなたを罪に導くことが出来ます。

それはいけないことです。私たちはノン・クリスチャンに影響を与えるはずです。私たちが彼らから影響を与えられるはずがありません。

では、私たちはその縁を切るべきでしょうか。もちろんそうではありません。

でも、自分の人間関係を見ると、私たちは自分自身にこう訊くべきです。「彼らは私にあまりにも影響を与えているだろうか。彼らの影響によって、私は自分の純潔を捨てているのではないか。私は神様のために聖別しているはずだけど、彼らの影響によって、私はそのように生きていないのではないか。」

あなたが「はい」と答えるなら、その人から、ちょっと距離が必要です。

次のブログで、この話を続けます。

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コリント人への手紙第二6:11-13ーー何にしがみついているでしょうか。

ある聖書学者たちは、この手紙が、元は二枚の手紙だと考えています。この手紙を読むと、私は彼らの理由が分かるけど、たぶん、この手紙がいつも一枚のものだっただろうと思います。

どうして、ある学者たちはこの手紙のことを、まとめている手紙だと思うでしょうか。この手紙の最初の部分では、パウロとコリントのクリスチャンたちがもう仲直りしたみたいです。でも、そのあとのパウロの言葉を見ると、彼らはまだ人間関係の問題が残ったようです。

もしかしたら、パウロはその教会の多数の人たちと仲直りしたけど、あるコリント人たちはまだパウロの使徒としての資格を疑ったかもしれません。どうして、彼らはパウロの資格を疑ったでしょうか。パウロはこう言いました。

コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。(11-12)

要するに、「私たちは正直でいたし、あなたを愛していたけど、あなたたちの愛は控えられました。私たちがあなたたちをどう扱ったかのゆえに、あなたたちは自分の心を閉じました。私たちがあなたたちの中の罪人と偽使徒たちを懲らしめたので、私たちを厳しすぎると思うかもしれません。私たちが自分の心をあなたに閉じたと思うかもしれません。でも実は、あなたたちがしがみついている物のゆえ、自分の心を私たちに閉じてしまっているのです。

あなたたちはまだ、自分の罪を持ち続けています。偽使徒との関係を持ち続けています。あなたの心の中で偶像を持ち続けています。そして、私たちがそのことのゆえに、あなたたちを懲らしめたとき、あなたたちは自分の心を閉じました。あなたたちはそれから手を離さないので、自分の心を開くことが出来ません。」

あなたはどうですか。あなたは何にしがみついているでしょうか。

時々、人々は教会とクリスチャンの交わりを捨てます。または、彼らの親しい兄弟たちと姉妹たちとの関係は壊れてしまいます。なぜなら、その人が罪を犯したとき、兄弟や姉妹はその人を訓戒しようとしましたから。でも、その訓練のゆえ、その人は退けられたと感じるのです。

時々、周りのクリスチャンたちに訓戒されるのは難しいことです。残念ですけど、時々、訓戒するとき、クリスチャンたちは柔和を持たずに、厳しすぎる訓戒をします。(ガラテヤ6:1)

もしかしたら、コリント人たちを訓戒した時、パウロも厳しすぎたかもしれません。パウロも罪人で、ある時、マルコに関する態度は厳しすぎました。(使徒の働き15:36-39)

彼は厳しすぎたかどうかわかりませんけど、パウロは本当にコリント人たちを愛していました。でも、パウロの訓戒のため、また、コリント人たちがしがみついた悪い物のため、彼らには、パウロの愛が見えなかった。だから彼らは自分の心をパウロに閉じました。

あなたはどうですか。兄弟たちと姉妹たちの訓戒が辛くても、あなたは自分の罪を認め、その罪から手を離すでしょうか。その罪を愛しすぎて、あなたを愛している兄弟たちと姉妹たちを捨てるでしょうか。

簡単に言うと、あなたはどのように訓戒に反応するでしょうか。

 

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コリント人への手紙第二6:3-10ーー私たちのミニストリーが決してそしられないように

私たちは、牧師や宣教師ではないかもしれないけど、私たち皆がキリストの奉仕に参加するように呼ばれています。5章でパウロが言ったのは、私たち皆はキリストの使節と呼ばれていることです。私たちは和解のメッセージを周りの人々に伝えるべきです。

でも、私たちのミニストリーがそしられるのは簡単なことです。私たちの行為や言葉のせいで、私たちのあかしを拒絶する人もいます。

そういうわけで、パウロはこう書きました。

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(3-4)

周りの人々に、私たちはどのようにつまずきを与えるでしょうか。私たちの人生によって。私たちの態度と行為によって。

だから、どのシチュエーションに直面しても、パウロは忠実にイエス様に仕えました。いろんな苦難を経験しても、パウロは、「大いなる忍耐を働かせて、また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛によって」行動しました。(4-6)

パウロの言葉をちょっと考えてみてください。苦難の時、どれぐらい私たちは不平を言い、辛抱を失い、自己中心になり、周りの人々を愛しないので、私たちのあかしがそしられるでしょうか。

でも、周りの人々がパウロを褒めても、パウロをそしっても、また、パウロが喜んでも、苦しんでも、彼はいつも忠実にイエス様に仕えました。

彼は聖霊の力によって歩み、左右の手に義の武器を持ちました。片手に、神様のみ言葉を持ち、片手に信仰の大盾を持っていました。

私たちは同じことを主張することができるでしょうか。私たちの行為や態度によって、私たちのミニストリーが決してそしられないように。むしろ、毎日、私たちは真実と、愛と、純潔と、忍耐を持って歩みましょう。さらに、聖霊の力と慰めによって歩みましょう。そうすれば、私たちはこの世に影響を与えるでしょう。

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コリント人への手紙第二5:16ー6:2--和解のメッセージ

いろんな試練や苦しみに直面するとき、クリスチャンたちは、神様が彼らをならべく早く天国に連れてくるように願うときもあります。どうして、神様はそうしてくれないでしょうか。

いろんな理由があるけど、一番大きな理由は、私たちがこの世でまだ役割を果たさなくてはならないことです。16節でパウロが言ったのは、私たちがもはや人間的な標準で人々を考えないことです。むしろ、私たちは神様の標準で人々を考えるべきです。どのように神様はこの世の人々を考えるでしょうか。

彼らが神様の似姿に造られたので、神様の目には、彼らは尊い者です。

でも、クリスチャンに関しては、神様は私たちをキリストの使節と見なします。

ローマの帝国では、二つ種類の属州がありました。ある属州は、ローマ帝国の支配を喜んで受け入れました。そんな属州は元老院の支配下にありました。でも、ある属州は、ローマ帝国の支配に関して、敵対的な態度を持っていました。そんな属州は直接にカエサルの支配下にありました。そして、平和を保つため、カエサルはその属州に使節を送りました。

それがパウロの例えです。この世の人々皆は、神様の似姿に造られたけど、大多数は神様に敵対的な態度を持ち、反抗します。

でも神様の使節として、私たちはどのようなメッセージを伝えるでしょうか。それは、敵対的なメッセージでしょうか。いいえ、そんなことではありません。むしろ、私たちは和解のメッセージを伝えます。私たちはキリストに代わって願います。

神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(20-21)

それは福音のメッセージの中心です。神の御子イエスは、この世に来て、完全な人生を送りました。彼は決して悪いことをせず、悪い思いを考えず、神様が命令したことに逆らいませんでした。天の父が、「その良いことをしなさい」と言ったら、イエス様はいつもそうしました。

でも、悪いことを全然しなかったのに、イエス様は十字架にかけられました。その時、神様が私たちのすべての罪をイエス様において、イエス様は私たちの罰を受けました。

イエス様の十字架の御業のゆえ、私たちがイエス様を信じると、神様はもはや私たちを罪人と見なしません。むしろ、イエス様の義は私たちを完全に覆います。だから神様が私たちを見るとき、その義しか見ません。

パウロの言葉を使えば、私たちは義と認められます。神様は私たちに関して、「無罪の人」だと宣言します。

さらに、神様は、イエス様の義の御業を、私たちの義のわざと認めてくださいます。

その和解の賜物を受けるために、私たちはどうすれば良いでしょうか。ただ、そのメッセージを信じて、受け入れることです。

それは私たちの和解のメッセージです。でも、もう一つの要素があります。私たちはそのメッセージの緊急性を理解しなくてはなりません。パウロによれば、私たちは彼らに懇願するべきです。「今機会を見逃さないでください。待たないでください。」(6:1)

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(6:2)

人々は、自分がいつ亡くなるか分かりません。悲しいことですけど、人々が心を頑なものにして、待てば待つほど、そのメッセージを受けて入れるのは難しくなります。

ある歌はその願いをこのように伝えます。

Tomorrow.
明日ですか。
Forget about tomorrow.
その決断を明日まで伸ばさないで、
Won’t you choose the Lord today.
今日、主を受け入れませんか。
For your tomorrow could very well begin today.
「明日、私たちの人生をイエス様に捧げる」と思うかもしれないけど、あなたの新しい人生は今日から始まることができます。

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コリント人への手紙第二5:17ーー新しく造られた者

聖書の中で、これは私の最も好きな個所の一つです。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(17)

ある英語のスタディー・バイブルの解説が大好きです。「私たちは改心させられなかった。私たちは更生させられなかった。また、私たちは再教育されなかったのです。むしろ、私たちはキリストと一つになって、新しく造られました。」

でも、多くの人々はそんな誤解を持っています。彼らは、神様が私たちを救った目的が、私たちが良い人になることだと思います。

でも、それは神様の目的ではありません。むしろ、神様の目的は、私たちが全く新しく造られた者になることです。

この世界の考え方によれば、私たちは自分自身を改心することが出来るし、更生することが出来るし、再教育されることが出来ます。もちろん、ある程度までは、私たちはそんなことが出来ます。でも、私たちの人生に本当の変化を望むなら、その変化は人間の努力や知恵から来るものではありません。むしろ、神様だけが私たちの心とふるまいを変えることが出来ます。

聖書の話を見ると、ユダヤ人たちは何回も自分自身を更生しようと思いました。でも彼らはいつも自分の罪にもう一度落ちてしまいました。士師記では、そのパターンを何回も見ることが出来ます。

神様は、彼らを再教育するために、祭司たちや、預言者たちや、士師たちを送りました。さらに、世の中で最も賢い人ソロモンは彼らを治めました。でも、ソロモンは、自分の知恵によって、彼らの心を変えることが出来なかっただけではなく、彼自身が堕落と罪に落ちてしまいました。

ユダヤ人たちはエジプトから救い出された後、40年かけて砂漠で更生させられました。何百年も後、彼らの罪のゆえに、バビロンで70年ぐらいもう一度更生させられなくてはなりませんでした。

結局、物事はほとんど変わりませんでした。もちろん、ある程度まで、彼らは変わりました。バビロンの後、彼らは偶像礼拝を捨てました。

でも、彼らのメシアであるイエス様来ると、彼らはイエス様を拒絶し、十字架にかけました。今なお、多くのユダヤ人たちはイエス様をメシアとして認めません。

だから、人々が必要なのは、ただの改心ではありません。ただの再教育ではありません。ただの更生ではありません。むしろ、彼らは全く新しく造られた者にならなければなりません。

でも、その変化はキリストだけを通して来ます。キリストだけを通して、人々が、神様がもともと計画した通りの人間になります。つまり、人々が神様の似姿を得ることです。

私は、C.S.ルイスの「朝びらき丸 東の海へ」の登場人物ユースチスという少年の話が大好きです。彼は、自分の勝手な態度と欲張りによって、竜になり切りました。竜になった後、ある程度まで、彼の心はちょっと改心して、また更生しました。でも、彼はまだ竜の形を持っていました。

そして、ある日、彼はアスランというライオンに出会いました。(ナルニアの物語で、アスランはキリストの象徴です。)

アスランは彼に言いました。「その湖に行って、泳ぎなさい。でもそうする前に、裸になりなさい。」

もちろん、ユースチスは竜で、服を持っていませんでした。でも、彼は自分の竜の皮膚を剥がそうとしました。その皮膚を剥がしてから、湖に入ろうと思ったけど、まだ竜の皮膚の層が残っていることに気づきました。もう二回、ユースチスは、その皮膚を剥がそうとしました。でも、まだ皮膚の層が残りました。結局、アスランは彼に言いました。「私は、その皮膚を剥がさなくてはなりません。」

アスランがその皮膚を剥がした時、ユースチスがアスランの爪が心臓まで届いたと思ったほどに、痛かった。そして、アスランがユースチスを湖に投げ入れて、そのすぐあと、ユースチスは自分がもう一度少年になり切ったことに気づきました。

ユースチスのように、私たちは自分自身を改心し、再教育し、更生しようとすることが出来ます。でも、所詮、私たちが必要なのは、新しく造られた者になることです。

C.S.ルイスがユースチスについて言ったように、新しく造られた者になる後、私たちは変わり始めます。

あなたはどうですか。自分の努力で自分自身を変えようと思っているでしょうか。あなたの努力によって、ただの竜よりはよい竜になれるかもしれません。でも、神様がもともと計画した通りの人間になりたいと思うなら、あなたは新しく造られた者にならなければなりません。それを望むなら、祈りませんか。

イエス様、私の罪によって、私たちの人生はめちゃくちゃになりました。鏡をのぞくと、私が見えることがあまり好きではありません。私は自分自身を更生しようとしたけど、無駄でした。だから私はあなたに向かいます。あなたが私の罪のために死んだことを信じます。私の罪を赦してください。私を新しく造られたの者にしてください。私をあなたの似姿にしてください。アーメン。

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コリント人への手紙第二5:16ーー真新しい視点

パウロはクリスチャンになると、真新しい視点を受けました。

救われる前、彼はクリスチャンたちを迫害していました。その時、パウロは神様の御心に従っていると思っていました。でも救われると、彼はすべてのことを再認識しました。

パウロはイエス様の本当の姿を見た時、また、キリストが彼のために十字架で何をしたか分かってきたとき、彼の生きがいが変わりました。彼はイエス様を愛し始めたので、イエス様に関するパウロの考え方も、周りの人々に関する考え方も変わりました。

だから、彼はこう書きました。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(16)

クリスチャンになる前、パウロはイエス様をただの人間と見なしました。実は、パウロはキリストを神様を冒涜する人と見なしました。キリストが神様から呪われる人と考えていました。さらに、パウロは、クリスチャンたちは異端児だと思いました。彼は異邦人たちを部外者と見なしました。

でも、クリスチャンになると、パウロは彼らを再認識しました。彼らが神様の愛する民だと分かってきました。

そのように、私たちがクリスチャンになると、キリストに関する考え方だけではなく、周りの人々に関する考え方も変わるはずです。私たちは彼らをこの世の目安で判断してはいけません。

この世は、人々を美や、知性や、富や、かっこよさによって評価します。そして、この世は、そんなものを持っていない人を捨てます。

でも、私たちがそうするなら、大切なことを忘れてしまいます。彼らは神様の似姿に造られているからです。

もちろん、彼らを見ると、その似姿がとても歪んでいると思うかもしれません。でも彼らは神様の似姿に造られました。だから、神様は彼らを大事にします。そういうわけで、神様は、あなたのためだけではなく、彼らのためにもイエス様を十字架に送って下さいました。

そうなら、どうして私たちは彼らを軽蔑することが出来るでしょうか。

正直に言うと、私にとって、その考え方を取るのは難しい時もあります。ある人は、愛しにくいですから。でも、神様は彼らを愛しています。もし、私が彼らを愛せないなら、それは私のせいです。もし彼らを見るとき、私が神様の似姿を認識できないなら、私の霊的な目は悪いです。

あなたはどうですか。愛しにくい人を知っているでしょうか。私と一緒に祈りませんか。

主よ。あなたにあって、私は新しく造られた者です。私はあなたが誰であるか分かるようになりました。そのように、私が周りの人々が誰であるか分かるように、私の目を開いてください。つまり、私は彼らをあなたの似姿に造られた人として見るように助けてください。私が彼らを私の愛に値する人として見るように助けてください。私の悪い態度を赦してください。私を変えてください。私に新しい目を与えてください。あなたの目を与えてください。私があなたのように愛するように助けてください。アーメン

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コリント人への手紙第二5:11-15ーー捕らえている

あなたは何のために生きているでしょうか。どうして、それのために生きているでしょうか。

パウロにとって、その答えは明らかでした。それは、裁きの日が来ることです。その日、彼だけではなく、すべての人々は裁かれます。(10)

だから、彼はこう書きました。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。(11a)

神様の前に立つのは、本当に恐ろしいことです。私たちがクリスチャンで、自分の罪のために裁かれないと分かっているのに、裁きは恐ろしいことです。でも、イエス様を信じない人にとっては、何百万倍も恐ろしいことです。だから、パウロは、「人々がまだ悔い改めることができる間、私たちは彼らを説得しようとしています。」と言います。

彼は以前にそう言ったけど、もう一度言います。「私たちは神様の前に誠心誠意をもって、福音を宣べ伝えます。なぜなら、神様は私たちの行動だけではなく、私たちの動機も裁くからです。」(11b-12)

パウロの動機は何だったでしょうか。迫害されていても、どうして彼は福音を伝えようと思ったでしょうか。

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(13-15)

パウロによれば、キリストの愛が彼を捕えました。実は、その「キリストの愛」という表現には、2つの訳し方があります。一つ目は、パウロとこの世の人々に対するキリストの愛ということです。たぶん、それはパウロの主な意味でしょう。でも、もう一つの訳し方は、キリストに対するパウロの愛と言うことです。その個所では、両方のコンセプトを見ることができます。

14節では、パウロは、「キリストはすべての人のために死んだ」と言いました。どうして、イエス様はそうしたのでしょうか。どうしてイエス様は天国を去って、十字架に行ったのでしょうか。私たちに対するイエス様の偉大な愛ですから。

そして、その愛に反応するなら、私たちはもう自分自身のために生きません。むしろ、私たちは自分の古い生活を葬って、イエス様のために生き始めます。

だからヨハネはこう書きました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

あなたはどうですか。自分のために生きているでしょうか。神様のために生きているでしょうか。

あなたが神様のために生きているなら、なぜでしょうか。それは裁きの恐れのためでしょうか。もしくは、イエス様があなたを愛しているので、あなたはイエス様を愛しているのですか。

あなたがどうしても周りの人々にイエス様の愛をシェアするほどに、イエス様の愛はあなたの心から流れているでしょうか。

あなたは何のために生きているでしょうか。また、なぜでしょうか。

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コリント人への手紙第二5:1-10ーー私たちがうめいているのに

この個所では、パウロは、どうして試練の中で彼が希望を持っていたのをさらに説明します。彼はこう言いました。

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(1)

4章では、パウロは私たちの体を土の器と比べました。5章では、パウロは私たちの体を幕屋と比べます。パウロのポイントは、私たちの体は、幕屋のように一時的なものだし、壊れやすいものということです。でも、私たちの体が滅びても、私たちは希望を持っています。なぜなら、私たちはより丈夫な永遠の住まいをもらうからです。

パウロは第一コリント15章の話に触れています。つまり、私たちが復活すると、その新しい体は決して病気にならないし、死なないのです。それでも、パウロはこう言いました。

私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。(2-4)

要するに、私たちは死んだ後、ただの霊のままではなく、むしろ新しい体をもらう希望を持っています。でもその日が来るまで、私たちはうめきます。この体を持っている間、私たちは苦しんで、新しい体を切望します。なぜなら、その新しい体を受けると、私たちの弱さと苦しみがなくなるから。

どうして、私たちの苦しみの中で、その希望を持ち続けられるでしょうか。なぜなら、神様がその新しい体を約束したから。パウロはこう言いました。

そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。(5)

簡単に言うと、神様は最初から私たちにキリストにある新しい命を与えることを計画しました。そして、そのことを保証するために、神様は私たちに聖霊様を与えてくださいました。毎日、聖霊様は私たちにささやきます。「あなたは神の子供です。」

また、毎日、聖霊様は私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。私たち聖霊様の働きを見て、聖霊様の声を聞くので、希望を持っています。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。(6-7)

私たちはイエス様から離れているけど、それはただ短い間です。しばらくして私たちはイエス様の顔を見ます。だから私たちはそのことを覚えていて、毎日信仰によって歩みます。信仰によって歩むと、私たちの日常生活は全く変わります。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(9-10)

私たちは、いつかイエス様の顔を見て、そのとき、私たちが裁かれることを知っているので、どのようにイエス様を喜ばせるかを考えます。私たちの目的は、自分自身を喜ばせずに、イエス様を喜ばせることです。

だから試練と苦しみの中でうめいても、私たちの希望を覚えていましょう。ある日、私たちは主とともにいて、すべてのものは新しくなります。だから、毎日イエス様をどのように喜ばせるかを考えましょう。そうすれば、裁きの日に、私たちは恥じ入ることはないでしょう。

あなたはどのように生きているでしょうか。ただ一時的なことを考えているでしょうか。もしくは、永遠のことを考えているでしょうか。

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コリント人への手紙第二4章--私たちの希望を失わないように

パウロが4章を始めたように、終えます。それは希望のメッセージです。パウロはいろんな試練に直面したので、希望を失うのが簡単なことだったでしょう。

彼はあらゆることで苦しんでいたし、外には戦いが、内には恐れがありました。(7:5)

私たちにも、そんな経験があったことでしょう。私たちはいろんな試練に直面するだけではなく、自分の感情と戦わなくてはなりません。私たちは自分の恐れや、フラストレーションや、悲しみや、苦しみと戦わなくてはなりません。

自分の大変な状況のため、パウロは途方に暮れた時もありました。

自分の信仰のため、彼は迫害され、また、石打ちにされました。

さらに、このコリントの教会でいろんな問題があって、時々、パウロは、自分の努力が無駄なのではと疑問に思いました。

それでも、パウロは希望を持っていました。彼は途方に暮れても、神様を求めると、脱出の道を見つけることが出来ると知っていました。(第一コリント10:13)

彼が迫害されても、神様に見捨てられなかったことを知っていました。

また、彼が倒れても、滅びないと知っていました。

どうして、自分の状況なのに、パウロはそんな希望を保つことが出来たでしょうか。

なぜなら、パウロは、神様が計画を持っている確信を持っていましたから。彼は1節にこう言いました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(1)

パウロは、神様が彼にそのミニストリーをゆだねたことを知っていました。そして、神様の与えたミニストリーが無駄なものではなかったと知っていました。むしろ、そのミニストリーを通して、神様が自分の目的を果たすと信じました。

さらに、パウロはそのミニストリーを預かることに値しなかったと知っていました。なぜなら、以前、彼はイエス様とその教会を憎んでいたから。でも憐れみによって、神様はパウロに真理を与えてくださいました。実は、神様はパウロにこう言いました。「あなたは私の名のために苦しみます。」(使徒の働き9:16)

だから、パウロは、自分の苦しみが神様を驚かさないと知っていました。神様はパウロに「え?そんな大変なことは全然予想しませんでした。ごめんね。」とは言いませんでした。

むしろ、神様は、パウロが経験する試練のすべてをあらかじめ知っておられました。だから、パウロはこう信じました。パウロを自分の罪の暗闇の中から救い出して、命の光に導いた憐れみは、試練の暗闇から救い出して、栄光の光に導きます。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(16-18)

要するに、私たちが苦しんでも、私たちが肉体的に、また精神的に崩れるように感じても、神様は毎日私たちの人生に働いています。その試練を通して、神様が私たちをイエス様と同じかたちに変えるので、私たちは神様の栄光を反射します。(3:18)

では、試練の中で、どのように希望を保つことが出来るでしょうか。私たちのトラブルに焦点を当てずに、目に見えない方に焦点を当てるべきです。私たちは神様の目的を知らないかもしれないけど、神様が良い計画を持つことを信じるべきです。

また、私たちの試練は永遠に続かないことを覚えていなくてはなりません。神様がその試練を乗り越えるのを助けると信じるべきです。そして、私たちがあきらめないでいると、結局神様の中にも、私たちの中にも、私たちの状況の中にも、神様の栄光を見ます。

パウロはこう言いました。

私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど、重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(17)

それを覚えていましょう。神様はあなたの試練に驚いていません。神様は計画を持っています。だから神様に信頼してください。神様が自分の目的をもたらすことを信じてください。そうすれば、希望を保つことが出来ます。

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コリント人への手紙第二4:5-15--私たちが誰のことを宣べ伝えるか

周りの人々は私たちを見ると、どんな人だと思うでしょうか。

多くの場合、私たちの立場や、実績によって人々を感動させたいと思います。正直に言うと、私はいつもその誘惑と戦わなくてはなりません。

私たちは誰でも、周りの人々に認められたいと思います。でも、周りの人々からの栄誉を得るために生きると、私たちのための神様の目的を逃します。

パウロはこう書きました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。(5)

パウロは自分自身を売り込もうと思いませんでした。彼は自分の立場や実績によって人々を感動させようと思いませんでした。むしろ、パウロはイエス様のことを宣べ伝えていました。パウロは周りの人々をイエス様の所に導きました。

自分のことに関してパウロは、イエス様が命じた態度を持ちました。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17:10)

だからパウロは自分自身を指しても、基本的にこう言いました。「私は取るに足りないものです。大切な方はイエス様なのです。」

彼は、コリント人たちにこう言いました。

私たちは、この宝(つまり、神の栄光を知る知識)を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(7)

つまり、「私たちはただ宝の器だけです。さらに、私たちは弱くて、壊れやすい器です。」ということです。パウロは進めました。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。また、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(8-11)

要するに、「私たちは弱くて、私たちはもう潰されたはずです。外には、戦いが、内には恐れがありました(7:5)。私たちは途方に暮れたし、迫害され、倒されました。私たちはいつも死の危機に瀕します。私たちがまだ生きている理由は、私たちの偉さではなく、むしろ、私たちのうちにおられるイエス様の偉さです。それに、私たちの試練の中で、イエス様のいのちは私たちの弱いからだを通して輝きます。」

それは私たちのための神様の目的です。神様が望むのは、イエス様が私たちの人生を通して輝くことです。また、その光が私たちの周りの人々の心を照らして、彼らも救われることです(6)。

だからパウロはこう言いました。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。(12)

私たちは自分自身にこう訊くべきです。「私はだれのために、また何のために生きているだろうか。私の動機は何だろうか。」

パウロにとって、その答えは、はっきりしたものでした。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。(13-14)

パウロは、イエス様が私たちのために死んで、よみがえられた確信を持っていました。また、パウロは、神様がパウロだけではなく、そのミニストリーによって、パウロが触れた人々も復活させる確信を持っていました。そういうわけで、パウロは福音を宣言しました。

あなたはどうですか。イエス様があなたのために死んで、よみがえられたことを信じるでしょうか。あなたは、自分だけではなく、イエス様を信じる家族や、友達や、知り合い皆も、復活することを信じるでしょうか。

あなたの人生は、あなたが信じることを現します。私たちは、自分のことを売り込もうと思っているでしょうか。もしくは、私たちは彼らをイエス様に導いているでしょうか。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。もしくは、私たちは神様に栄光を与えようと思っているのでしょうか。

毎日、パウロの態度を持ちましょう。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。(15)

 

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コリント人への手紙第二4:1-6--私たちの役割。神様の役割。

福音を宣べ伝えるとき、多くの人々は相手の反応が気になります。

それは当然のことだと思います。なぜなら、私たちは彼らの救いを望みますから。さらに、私たちは自分が好かれるように望みます。

もちろん一つ目の望みは大切なんだけど、二つ目の望みは二次的なものです。だから、その希望は福音の宣言を阻止してはいけません。

パウロはこう書きました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(1)

「落胆することがありません」と言うと、たぶん、パウロの意味したものは、「人々が福音を拒絶しても、私は落胆しない」ということです。

もちろん、人々が福音を拒絶すると、悲しいことです。さらに、人々が福音のために私たちを退けると、落胆するのはたやすいことです。

でも、パウロはこう言います。

かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(2)

つまり、「福音を宣言すると、私たちは正直にふるまいます。私たちは人をだまそうとするわけではありません。」ということです。

さらに、パウロは「私たちは神のことばを曲げない」と言いました。

「曲げる」という言葉は興味深いものです。普通は、その言葉は、ワインを売る人が自分の商品を水で薄めるという意味でした。

言い換えると、パウロは「私たちは神様の言葉を薄めません。人が福音をもっと簡単に受け入れるため、私たちは福音を絶対変えません。むしろ、私たちは正直にその真理を伝えます。」と言いました。

時々、相手が福音を受け入れるため、また、私たち自身を受け入れるため、私たちは福音のメッセージを変えるように誘惑されます。でもパウロにとって、それはいけないことでした。むしろ、彼は福音をはっきりと伝えました。そして、彼は相手に言いました。「これは福音です。あなたはどうしますか。」

神様は、私たちがそうするように呼びます。人々に信じさせることは私たちの責任ではありません。真理をちゃんと語ることは私たちの責任です。

パウロはこう言います。

それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(3-4)

パウロが意味したものは、もし私たちがちゃんと福音を伝えても、相手が真理が見えない場合、私たちは自分自身を責めなくていいということです。なぜなら、サタン自身は彼らの思いを暗くしましたから。

では、私たちはどうしたらいいでしょうか。私たちはその人を神様の手に委ねるべきです。私たちはそれしかできません。パウロはこうい書いた。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。(6)

世界が造られたときに神様こそが光を暗闇の中ですべてを照らしたように、神様こそが暗闇の中にある人の心を照らすことができます。だからある人が福音を拒絶すると、その人のために祈ってください。それは、私たちの役割です。その結果は、神様の役割です。

だから、相手がもっと簡単に福音を受け入れるために、福音のメッセージを決して曲げないでください。むしろ、その真理をちゃんと語って、その人のために祈りましょう。そして、神様が彼らの心の中で働くことを待ちましょう。そうすれば、神様の御心なら、神様のタイミングで、私たちは実を見るでしょう。

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コリント人への手紙第二3:7-18--どうして私たちは決して恥る必要がない

前回の記事で、このトピックにちょっと触れたけど、今日、そのことをもうちょっと深く考えたいと思います。

モーセはシナイから降りて、十戒を持った時、彼の顔は主の栄光で輝いていました。

最初は、イスラエル人たちが怖がりましたので、モーセは自分の顔に覆いをかけました。でも、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。もしかしたら、モーセはその栄光が消え去ることで恥ずかしかったからかもしれません。つまり、その時自分の罪によって、その栄光が消え去っていることが分かったのです。

その話を通して、私たちは律法の問題を見ました。律法は、神様がどんな方であるか、また私たちに対する神様の意志を現すけど、律法は私たちを変える力を持っていません。私たちはまだ罪深いので、律法で裁かれます。

でも、パウロによれば、私たちの状態は変わりました。私たちがイエス様を信じると、モーセの栄光より優れた栄光を見つけます。どうしてでしょうか。なぜなら、その律法は、石の板や、紙に書き記していませんから。

むしろ、私たちがクリスチャンになると、聖霊様はその律法を私たちの心に書き記しまし、毎日私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。毎日、私たちは栄光から栄光へと変えられています。私たちの栄光は消え去っていません。むしろ、その栄光はだんだん増えていきます。

だから、パウロは私たちにこう言います。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(12-13)

神様が私たちに賜った栄光が消え去ることを心配することはありません。むしろ、私たちがイエス様の同じかたちになるまで、神様が私たちの中で働いていることを確信することが出来ます。その時、私たちは神様の栄光で輝きます。

そういうわけで、パウロは、私たちが自由を持っていると言います。(17)

神様は私たちを罪悪感から自由にしました。

神様は私たちを罰の恐れから自由にしました。

神様は私たちを律法の力から自由にしました。私たちには自分の力で律法を守る必要はもうありません。

モーセはそんな自由を知りませんでした。彼は律法の管轄下にありました。だから、全焼のいけにえを何度もささげても、彼は罪悪感と恥を感じました。(へブル10:2-4)

彼は裁きの苦しみも経験しました。自分の罪のため、彼は神様がイスラエル人に約束した土地に入ることが出来ませんでした。だから、モーセの顔で律法の栄光が消え去りつつあるとき、彼は覆いを外しませんでした。

でも、私たちには、その必要がありません。私たちの覆いを外して、周りの人々に私たちの顔を見せましょう。私たちがどんな人であるかを見せましょう。私たちは恵みによって救われた人々です。私たちは完全な人々ではないけど、毎日、私たちはイエス様と同じかたちに変えられています。

だから、ペテロの言葉を覚えて、生きましょう。

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:6)

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コリント人への手紙第二3:7-18--神様の律法を正しく分かること

多くのクリスチャンたちは、クリスチャン生活をいろんなルールを守るものと見なします。多数のノン・クリスチャンたちも同じ考え方を持っているでしょう。でも、クリスチャンとして、私たちの栄光はルールにあるものではありません。なぜでしょうか。

パウロは、律法に関してこう書きました。

石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。(7-11)

律法が来るのは、本当に栄光のあることでした。なぜなら、律法を通して、私たちは神様がどんな方であるか、また、私たちに対する神様の意志を見ることが出来ますから。律法が来る前、人間たちはそのことを知らなかったけど、律法を通して、その真理は明らかになりました。

でも、律法に関して、問題がありました。律法を完全に守る人が誰もいないので、その律法は私たちの死に至らせました。そういうわけで、その栄光はすぐに消え去りました。モーセの顔でも、その栄光はすぐに消え去りました。

モーセがシナイ山から降りて、十戒を持った時、彼の顔は神様の栄光で輝きました。イスラエル人たちはそれを見て怖がったので、モーセは顔に覆いをかけました。でもパウロによれば、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。もしかしたら、モーセは恥ずかしかったかもしれません。もしかすると、彼がこう思ったかもしれません。「私がもっと清い人なら、その栄光は消え去らないだろう。」

そうだったかもしれません。

私はもう一度言います。律法の問題は、律法を完全に守る人が誰もいないことです。そういうわけで、律法は誰にも命を与えることが出来ません。律法は私たちをキリストと同じかたちに変える力を持っていません。

それでも、多くの人々は、律法を守ると、神様が彼らを受け入れると思います。パウロによれば、彼らが律法を読むと、覆いは彼らの心にかけられます。(14-15)

だから、彼らは律法に関する真理を見ることが出来ません。つまり、律法の栄光がもう消え去ったのです。だから、彼らはまだ、律法が栄光に満ちていると思って、その律法を通して、彼らが神様に受け入れられると思います。そういうわけで、彼らは頑張って律法を守ろうとします。でも実際は、律法は彼らの罪を指摘して、裁きます。

しかし、覆いが取り除けられると、私たちに分かったのは、律法の栄光がなくなったことです。そして、私たちは本当に栄光のある物を探し始めます。それは何でしょうか。それは、御霊の務めです。イエス様の働きによって、聖霊様の務めは始まりました。十字架で、イエス様は私たちの罪の代価を支払いました。

だから、私たちが信仰をもって、自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の主とすると、聖霊様は私たちの心を変え始めます。そして私たちは日々栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられます。

「栄光から栄光へと。」

律法の栄光と違って、御霊の務めの栄光は決して消え去りません。御霊の務めの栄光は律法の栄光より優れたものですから。

だから律法の目的を正しく理解しましょう。律法を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かったし、私たちに対する神様の意志が分かりました。でもその栄光はもう消え去りました。だから、新しい心を持ちたいと思うなら、律法と自分の努力に頼らないでください。

むしろ、毎日、聖霊と歩むことを学びましょう。そうすれば、私たちは周りの人々に天の父の栄光を反映します。

 

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コリント人への手紙第二3章ーーキリストの手紙

私は年寄りなのかもしれません。私は手紙を書くことや、受け取るることをまだ覚えていますから。

私は大学生の時、メールを送ったり受け取ったりしたけど、その時代、メールはまだあまり普及していませんでした。だから、日本に来るとき、私は家族に航空書簡を送りました。(航空書簡を知っている人がまだいるでしょうか。)

今なお友達からの手紙をまだ持っているけど、最近手紙を全然もらっていません。

とにかく、パウロは私たちを「キリストの手紙」と呼びます。パウロはコリント人たちにこう言いました。「私のミニストリーの妥当性を証明するため、あなたたちからの推薦状は要りません。」

むしろ、

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(2-3)

私たちが、すべての人に知られ、また読まれているキリストの手紙であることは、どういう意味でしょうか。

それは、人々が私たちを見ると、私たちはの人生を通して、彼らがイエス様が生きていて、この世で働いていることが分かることです。

なぜなら、私たちを見ると、彼らは、イエス様が私たちの人生の中で働いて、私たちを変えていることを見ることが出来ますから。

モーセの時代、神様は律法を通して、自分がどんな方であるかをユダヤ人たちに現わしました。特に、十戒を通して、神様は自分の性格を現したし、私たちがどのように生きるべきかを現しました。

でも、その石の板は彼らのためにそれしかできませんでした。つまり、その石の板はユダヤ人たちに(また、私たちに)、心を変える力までは与えることができませんでした。

でも、私たちはクリスチャンになると、神様は自分の律法を私たちの心に書き記します。その律法はただ私たちにどのように生きるべきか教えるだけではありません。むしろ、聖霊様が私たちの心を変えています。毎日、聖霊様は私たちにささやきます。「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ書30:21)

そして、聖霊に従うにつれて、私たちは主の栄光を映し始め、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられます。(18)

要するに、私たちはちょとずつ踏み出すと、私たちはますますキリストのようになりつつあるのです。私たちが次の栄光の段階に到達すると、周りの人々は分かります。「イエス様は本当に生きておられます。そのクリスチャンを通してそれが見ることが出来ます。そのクリスチャンを通して、イエス様がどんな方であるか分かります。」

そのように、私たちは彼らへのイエス様の招待状になります。イエス様は彼らに言います。「私の所に来なさい。そうすれば、そのクリスチャンのように、あなたも本当の命を知ります。」

毎日、イエス様の手紙になりましょう。神様が自分の言葉を私たちの心に書きしるして、周りの人々がその栄光を見て、神様を知るように。

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コリント人への手紙第二2:16b-3:6 ーー 私のような人は人々に影響を与えることができるでしょうか。

時々、私たちは前回の記事のような聖書の個所を読んで、「私たちはキリストの香り」とか、「私たちは神様の祭司たち」ということを読みます。でも、それを読むと、私たちは疑問に思います。「どのように私は神様の祭司になることができるだろうか。どのようにキリストの香りを放つことができるだろうか。私は特別な資格を持っていない。神学校に行ったことがないし。私は牧師や宣教師ではないし。私はただ普通のクリスチャンなのに。」

でも実際は、キリストのために人に影響を与える資格を持っている人は誰もいません。あなたは神学校を行ったかもしれないし、ミニストリーの経験をたくさん持っているかもしれないけど、その教育と経験はあなたに人の心を変える力を与えません。神様だけが、人の心を変えることができます。パウロ自身も、そのことを理解していました。

パウロは、私たちが周りの人々にとってキリストの香りだと言った後、こう訊きました。

このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(2:16b)

その答えは当たり前です。その務めにふさわしい人は誰もいません。自分の知恵と力によって、私たちは人々の心を変えることができませんから。私たちはただパウロの模範に従うことができます。

誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(2:17b)

私たちはそれしか何もできません。私たちは神様から与えられた大宣教命令を果たさなくてはなりません。私たちは誠実を持って、周りの人々に話すべきです。なぜなら、神様は私たちを見ています。そして、私たちはその結果を神様の手に委ねます。私たちが自分の役割を果たすと、神様は自分の役割を果たします。

だからパウロはこう書きました。

私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(4-6)

パウロは、はっきり言います。私たち自身には、人に影響を与える資格を持っていません。むしろ、私たちの資格は神様から与えられるものです。私たちが神様に仕えるとき、神様は私たちに必要な資格を与えてくださいます。そういうわけで、私たちは確信を持つことができます。私たちは自分の賜物や能力に頼りません。むしろ、私たちは、その能力と賜物を与えてくださった神に頼ります。神様だけが、最も頑なな心を変えることができます。

その真理を覚えていましょう。私たちは人の心を変えることができないけど、神様はできます。そして、神様が命じたことを忠実にすると、私たちは人々に影響を与えることができます。

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コリント人への手紙第二2:14-16--いのちに至らせる香り、死に至らせる香り

私たちはクリスチャンであるがゆえに、すべての人々から愛されるということにはならないものです。イエス様は完全な人だったけど、彼を嫌う人もいました。どうしてでしょうか。

イエス様から出た香りのためです。

この個所では、パウロは興味深いことを言います。

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(14-16)

パウロの描写では、ローマの将軍が勝利のパレードで自分の軍隊を導くことです。彼らの後ろに祭司たちは香りのある香を道路に撒きました。

勝利をお祝いする人たちにとって、その香りは命と勝利の匂いでした。でも捕虜たちにとって、その香りは自分の死の香りでした。

そのように、私たちは祭司として、私たちの将軍について行って、その十字架の勝利をお祝いします。そして、私たちがキリストを知る知識の香りを放つとき、救われる人にとって、つまり、私たちのメッセージを聞いて信じる人にとって、私たちは最終的な勝利と命の香りです。

でもほかの人たちが私たちのメッセージを聞くと、彼らにとって、私たちは死の匂いです。どうしてでしょうか。私たちは彼らの罪を指摘し、その罪がどこに導くか教えますから。つまり、その罪は地獄に導きます。

彼らはそのメッセージが嫌いです。彼らは自分の罪の悪さを認めたくありません。彼らは自分の罪のために裁かれることを聞きたくありません。だから彼らにとって、イエス様は死から出て死に至らせる香りです。さらに、イエス様が私たちのうちにいるので、私たちからも、同じ香りが出ます。

私は、有名な宣教師ジム・エリオットの言葉が大好きです。

「天のお父様、私が危機に至る人間になるように。つまり、人々が私たちに出会うと、彼らがあなたに関して決断しなくてはならないように。私がただの一つの道路の距離を示す標識にならないように。むしろ、私が分かれ道になるように。人々が私のうちにキリストに出会うと、彼らは神様に近づくか、神様から離れるかの選択をしなくてはならないように。」

あなたはどうですか。人々があなたに出会うと、キリストの香りを匂わせるでしょうか。また、彼らはあなたのうちにいるイエス様に出会うと、イエス様に従うか、イエス様を拒絶するかの選択をしなくてはならないでしょうか。

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コリント人への手紙第二2:5-11--相手が悔い改めると

人々が私たちを傷つけると、恨みを抱くのは簡単なことです。相手が謝っても、私たちはその人を許したくない時もあります。または、私たちは相手を許してあげると言うけど、心の中でその恨みを手放すことを拒みます。相手が私たちの恨みをまだ感じるので、私たちと話すとき、相手はまだ不安を感じます。

教会のリーダーたちが罪を犯すメンバーを訓練するときも、同じようなことが起こるかもしれません。その人が悔い改めても、リーダーたちもほかのメンバーたちも、その人を勘ぐって、ちょっと敬遠します。

もしかしたら、彼らはこう考えるかもしれません。「相手をすぐに受け入れてはいけません。彼らをもう少し悲しませた方がいいです。そして、その人が十分悲しんでいたと思ったら、彼らを受け入れましょう。」

でもパウロはそんな訓練を教えませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。(6-8)

「あの処罰で十分」とは、どういう意味でしょうか。たぶん、パウロの意味したものは、処罰がその目的を果たしたことです。つまり、その人は悔い改めたことです。そして、人が悔い改めると、その人を処罰し続ける必要がありません。むしろ、私たちはその人を許して、慰めるべきです。神様が彼らを赦したと伝えるべきだし、私たちも許したことを伝えるべきです。そして、その人に私たちの愛を確認するべきです。

もちろん、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちがその罪を悲しむように望みます。でも、二つの種類の悲しみがあります。悔い改めに導く悲しみもありますし、死に導く悲しみもあります。悔い改めに導く悲しみは良いことです。でも、私たちがその人を許さないと、相手が悲しみすぎて、死に導くかもしれません。それは神様の望みではなく、むしろサタンの望みです。

サタンの欲望は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりすることです。だから、私たちが相手を許さずに、その人があまりにも悲しむと、私たちは神様と協力せずに、むしろサタンと協力しているでしょう。

あなたはどうですか。誰かがあなたを傷つけたでしょうか。または、教会の中で、ある人がひどい罪を犯したでしょうか。その人は悔い改めたでしょうか。そうすれば、神様と協力して、その人を許して、受け入れましょう。

イエス様の言葉を覚えていてください。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカ6:36)

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コリント人への手紙第二1:23-2:4--兄弟たちと姉妹たちと向き合わないといけないとき

兄弟たちや姉妹たちが罪を犯すとき、その人に向き合うのは、かなり大変なことです。もし「それが楽しい」と思う人がいれば、その人はそうしてはいけないと思います。

でも、その必要があるときもあります。その時、パウロの人生と言葉で私たちは良い原則を見ます。

パウロはこう書きました。

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。(1:24)

人と向き合う時、それはとても大切な態度です。彼らと話すとき、「あなたは私の言葉に従わなくてはいけない」という態度を持つべきではありません。

むしろ、私たちはこのような態度を持つべきです。「あなたのことを愛しています。あなたがこの罪を乗り越えるために私は助けたいのです。あなたが本当の喜びを知って、信仰に固く立つように望みます。」

でも多くの場合、私たちが相手を責める態度をもつので、彼らは私たちの中にイエス様の愛を見ることが出来ません。

でも、パウロの態度は違いました。彼はこう言いました。

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。(2-4)

この言葉には、プライドや傲慢がありません。むしろ、パウロはコリント人たちに対する愛を表しました。

それに、彼らと向き合うとき、パウロは彼らが悔い改める強い希望を持っていました。

時々、私たちは人々と向き合う時、私たちはその希望を持たずに、ただ怒りをぶつけて、彼れらを責めてしまいがちです。パウロの態度は違いました。彼はこう言いました。

あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。(3)

つまり、「その前回の手紙の目的は、私たちは今度会う時に苦しい訪問にならないように。あなたのことを信じているので、そんなことを書きました。私は、あなたたちが悔い改めて、私たちはもう一度一緒に主の喜びを知る希望を持っていました。」ということです。

私たちは人と向き合うと、「あなたらしい」と言わずに、「あなたらしくないよ。正しい道に戻りましょう。」という態度を持つべきです。

最後に、相手と向き合うべきの時もあるけど、神様が相手の心の中で働かせるべきときもあります。パウロが最初コリント人たちに向き合ったとき、彼らは怒っただけでした。パウロはすぐにもう一度向き合おうと思ったけど、結局後回しにしました。どうしてでしょうか。

私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。。。そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。(1:23、2:1-2)

だから、彼はコリントに行かずに、その代わりに手紙を送って、彼らが悔い改めるように願いました。(2:3)

時々、それは一番良い方法です。彼らに愛を伝えるけど、彼らを神様の手に委ねることです。

だから、人と向き合う時、そんな態度を持ちましょう。そして神様の恵みによって、彼らに人生に良い実が結ばれるでしょう。

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コリント人への手紙第二1:18-22--私たちが神様信頼できる理由

試練の時、神様に対する私たちの信仰を失うのは簡単なときがあります。パウロはそんなときがあったでしょうか。特に、彼は非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどのとき、その信仰を失う危機にあったでしょうか。(8)

でも結局、その試練を通して、パウロたちは神様に頼ることを学びました。(9)

どうして、彼らはその信仰を保つことが出来たでしょうか。また、どのように私たちは自分の信仰を保つことが出来るでしょうか。

パウロはこう書いきました。

神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。(18)

その言葉の中で、私の心を打つことの一つは、神様が真実な方であることです。試練の中で振り返ると、私たちはその真理が分かるはずです。でも、私たちの人生だけを振り返らずに、昔のクリスチャンと現代のクリスチャンの人生をも見ると神様の真実さが分かります。さらに、私たちの罪のためにイエス様を送ったとき、神様は自分の約束を守ることで、自分の真実さを証明しました。

パウロは、「私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。」と言いました。

要するに、福音は私たちが頼ることが出来るものです。そのメッセージは決して変わりません。神様は私たちに、「イエスを信じれば、あなたは救われる」と約束したので、天国の門で、急に「やっぱりだめです。私の気が変わりました。入ってはいけません」とは決して言いません。ほかの人は自分の約束を破るかもしれないけど、神様の約束は変わりません。神様は真実な方だから。

だからパウロはこう言いました。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ3:4)

パウロは続けます。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(19-20)

要するに、この常に変わりつつある世界でもイエス様は決して変わりません。言い換えると、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(へブル13:8)

イエス様にあって、神様の約束はすべて確認されていました。イエス様は、良い知らせを宣べ伝え、病気の人を癒し、私たちの罪のために死んだとき、メシアについての預言を満たしました。そして、ある日、イエス様は永遠の国を開始して、残りの預言を満たします。

だから、私たちは神様の他の約束を信じることが出来るのは、なおさらです。つまり、試練の時、神様が私たちと共におられる約束です。また、この試練がただ一時的なことだけという約束です。また、私たちは勝利を得て、その試練から私は金のように、出て来るという約束です。

だから、イエス様に会って、私たちは「アーメン。あなたがそれらのことを約束したので、必ずそれらの約束を守ると信じます。」と言えます。

でもパウロはさらに言います。

私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。(21-22)

神様は私たちに聖霊という油を注ぎました。神様は自分の目的のために私たちを聖別しました。さらに、神様保証の証印を私たちに押しました。その証印を通して、神様は宣言します。「この人は私のものです。私のひとり子の血によって、この人を贖いました。」

そして、聖霊様は神様がすべての約束を守る保証です。

だからどんな試練に直面しても、神様に信頼しましょう。ほかの人々は私たちをがっかりさせるかもしれないけど、神様は真実な方です。

あなたはどうですか。神様に信頼するでしょうか。

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コリント人への手紙第二1:12-2:4--人々が私たちのことを誤解し、責めるとき

この手紙を読むにつれて、パウロとコリント人たちの関係が大変だとはっきり分かるようになります。

コリント人たちはパウロが以前に送った手紙を読んだとき、パウロの言葉に気を悪くしたようです。彼らは、パウロが頼りない人だと思ったようです。さらに、ある人たちは、パウロが二枚舌を使う人だし、彼らを操ろうとしていると言ったようです。その理由の一つはパウロは以前、彼らを訪れると約束したけど、そのプランを土壇場でキャンセルしたことです。

そういうわけで、パウロはなぜそのプランをキャンセルしたか説明しなくてはなりませんでした。主な理由は、あるコリント人たちがパウロのリーダーシップに反対したようです。多くの聖書学者たちは、パウロがコリント人への手紙第一書いた後、彼はコリントの教会を訪問したけど、その時、パウロがコリント人たちを苦しませたと考えています。つまり、パウロは自分に反対したコリント人たちと向き合って、彼らの罪を指摘しなくてはなりませんでした。その結果、パウロとコリント人たちの関係が壊れたようです。

パウロはすぐにコリントの教会に戻るとしたら、もう一つの大喧嘩に至ると分かりました。なぜなら、以前の問題はまだ解決していなかったから。だから、パウロは彼らにもう一つの手紙を書いて、彼らが悔い改めるように訓戒しました。そして結局、多数のコリント人たちは悔い改めました。(7:6-13)

でも、あるコリント人たちはまだ、パウロが頼りなくて、二枚舌を使う人だと責めました。(1:7,7:2)

私たちはどのようにそんな人を扱うでしょうか。私たちを誤解して、私たちに言いがかりをつける人をどのように扱うべきでしょうか。

パウロの模範を見ると、良い方法を見ることが出来ると思います。パウロはこう書きました。

私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(1:12)

一番大切なのは、神様の前に潔白な心を保つことです。自分に反対する人を扱う時、私たちは純真さと誠実を持っていなくてはなりません。

相手が私たちを責めても、私たちを悪く扱っても、私たちは純真と誠実をもって反応するべきです。

私たちがしてはいけないのは、この世の知恵で反応することです。ヤコブはそのような知恵を説明します。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。(ヤコブ3:14-15)

むしろ、私たちは神様の恵みから流れる知恵で彼らを扱うべきです。神様の知恵はどんなものでしょうか。ヤコブはそれも定義しました。

ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。(ヤコブ3:16)

パウロはそのような知恵を振るいました。その結果、多くのコリント人たちはパウロのことを理解しました。

自分にまだ信頼していなかった人たちに、パウロは自分の言葉に隠された意図や、隠された意味がないと主張しました。また、パウロは、彼らがいつかパウロのことを完全に理解するようになる希望を伝えました。(1:13-14)

でも、その日まで、パウロは純真や誠実や、恵みをもって生き続けると言いました。

あなたはどうですか。人々はあなたを誤解して責めるとき、どう反応するでしょうか。パウロのように反応しましょう。純真や誠実や、恵みをもって反応しましょう。

 

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コリント人への手紙第二1:10-11--私たちの祈りの大切さ

私たちの祈りは、本当に効果的なものでしょうか。もしくは、私たちが祈ろうが祈るまいが、神様は自分がしたいことをするのでしょうか。

その疑問に関して、パウロは意見を持っていました。彼はこう言いました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。(10-11)

パウロは、コリント人たちの祈りの効果を信じたので、彼らの祈りを願いました。彼は彼らを励ました。「あなたの祈りには、本当に効果があります。」

どうして神様は私たちの祈りを望むのでしょうか。どうして、多くの場合、神様は行動する前に私たちの祈りを待つのでしょうか。

多分一番大切な理由は、神様が私たちとの関係を望みますから。さらに神様は、私たちが神とともに働く者になるように望みます。

私たちが祈り始めると、特にほかの人々のために祈り始めると、何が起こるでしょうか。

1.私たちは自分自身だけに焦点を当てずに、周りの人々のニーズを見始めます。私たちはそうすれば、神様は喜びます。なぜなら、私たちは神様のようになっているから。では、私たちの祈りによって、神様が人々の人生に働く可能性は高くなるでしょうか。聖書は、そんなことを教えるようです。例えば、ヤコブはこう書きました。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。(2)

イエス様自身はこう言いました。

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:24)

2.神様が私たちから何を望むか分かるようになります。私たちが祈るにつれて、神様は私たちの心にどのように周りの人々に触れることが出来るかささやきます。

大変な日の終わりに、イエス様の弟子たちはイエス様にこう言いました。「群衆を帰らせてください。もう遅くて、彼らはお腹が空いたでしょう。」

多分、彼らは主に群衆のニーズを考えていなかったでしょう。彼らはずっと群衆たちに仕えていたので、もう休みたいと思ったのでしょう。でも、イエス様は彼らに「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」と言いました。(マタイ4:16)

彼らはパンと魚を持っている少年を見つけて、その食べ物をイエス様に持ってきました。そしてイエス様は素晴らしい奇跡を行いました。

そのように、私たちが人のニーズを見て、祈り始めれば、イエス様は私たちにどのようにイエス様の仕事に参加できるか教えます。

3.神様はその祈りを応えるので、私たちは神様の良さが分かるようになります。そういうわけで、私はさらに祈るように励まされます。

4.あなただけではなく、ほかの人も神様の良さを見て、励まされます。パウロはこう言いました。

そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。(11b)

だから、祈りの大切さを疑わないでください。そして、神様の仕事に参加して、周りの人々のために祈りましょう。

神様は、あなたが誰のために祈るように望むでしょうか。

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コリント人への手紙第二1:6-7--自分のことに焦点を当てないこと

この個所を読むと私は、パウロがキリストの模範に従っていたことに気づきました。

もし、イエス様はただ快適な生活を送ることに関心があったとしたら、この世に来なかったでしょう。彼は飼葉おけに寝ていなかったでしょう。彼は貧しい大工の家で成長していなかったでしょう。枕する所もない日を経験しなかったでしょう。彼は十字架に行かなったでしょう。でも、イエス様はそのすべてを経験しました。どうしてでしょうか。

それは私たちの慰めと救いのためです。私たちの罪のゆえ、また、この世の悪の故、私たちは惨めでした。さらに、私たちは破滅への道を歩んでいました。イエス様はそれを見て、天国の楽な生活を捨てて、私たちのために苦しみました。

パウロはイエス様の模範を見て、従いました。コリント人たちやほかの人々のためにパウロは遭難や、禁固や、飢えや迫害を経験しました。なぜでしょうか。パウロは自分の楽な人生に焦点を当てませんでしたから。むしろ、彼は周りの人々の苦しみとニーズを見ました。

パウロは慰めを受けたときにも、彼はただ自分のことに焦点を当てませんでした。むしろ、パウロの希望は、コリント人たちがパウロの経験を見ると、励まされることです。つまり、彼らはこの世の試練は大変だけど、一時的なものだと分かるようになることです。なぜなら、パウロも安心と神様の喜びを知りましたから。だからコリント人たちは自分の試練の中で、自分たちが結局慰められる希望を持っていたでしょう。そして、その希望によって、彼らは耐える勇気を持ったでしょう。

自己中心になることは簡単なことです。神様の愛をスポンジのように吸収して、楽な人生を望むことは簡単なことです。

でも、神様は、私たちがそんな態度を取るのを望みません。むしろ、神様は、私たちがイエス様の模範に従い、私たちが苦しまなくてはならなくても、自分の楽な人生を捨て、周りの人々の救いのために働くように望みます。

でも、私たちがイエス様の目を持たないと、私たちは決してそんなことをしないでしょう。イエス様は周りの人々の苦しみを見ました。だから彼は十字架に行きました。あなたはイエス様の目を持っているでしょうか。

イエス様、私はしばしば自分勝手な生活を送ります。私はただ自分の快適な人生や、満足のために生きます。赦してください。私の回りでは、たくさんの人々は苦しんでいます。彼らは、あなたを必要とします。私があなたの目で彼らを見るように助けてください。私は彼らの心を見極めるように助けてください。彼らのニーズを見るように助けてください。あなたの憐れみ深い心を私に与えてください。あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神、あなたの憐れみや慰めが私を通して周りの人々に流れるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

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コリント人への手紙第二1:3-5ーースポンジではなく、パイプラインになるように呼ばれること

クリスチャンになると、一つの益は、神様からの祝福です。その祝福の一つは、試練の中の神様の慰めです。

でも、私たちがスポンジになるのは、簡単なことです。私たちは神様からの愛と慰めを吸収します。もちろん、私たちには、神様の愛と慰めが必要なときもあります。でも、神様は、私たちがただのスポンジになるのを望みません。むしろ、神様は、私たちが周りの人々に対して祝福のパイプラインになるように望みます。

パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。(3-4)

神様が私たちを慰める目的の一つは、私たちが受けた慰めを周りの苦しんでいる人々に与えることです。

だからパウロはこう言いました。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(5)

ある意味、イエス様の苦しみは、私たちの人生に注がれました。もちろん私たちは自分の罪のために支払っていません。イエス様はその代価をもう支払いましたから。でも、私たちがイエス様のために苦しむときもあります。私たちは迫害されるときもあります。私たちは試練に直面するときもあります。

でもその苦しみや試練を通して、神様は自分の御国を拡げるし、私たちの性格を形成します。だからペテロはこう言いました。

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(第一ペテロ1:7)

だから、イエス様の苦しみは私たちの人生に注がれるかもしれないけど、イエス様の慰めも私たちの人生に注がれます。さらに、その慰めは私たちの人生からほかの人に溢れ出し始めます。

神様はただ私たちを慰めで