ローマ人への手紙3:31ーー律法を捨ててしまう?

多分、3章を読む人の多くはこう訊くでしょう。「もし律法によって、私たちが神様に義と認められないなら、律法を捨ててしまってもいいでしょう。だって、律法は意味がないから。」

でも、パウロはこう答えました。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。(31)

「律法を確立する」というのは、どういうことでしょうか。

言い換えると、私たちが、律法に私たちを救いに導く役割があることを認めるということです。ガラテヤ人への手紙では、パウロは律法を私たちの「養育係」と呼びました。律法は、私たちに何を教えたでしょうか。律法は神様の聖さを表しました。さらに、律法は私たちの罪を表しました。

だからパウロはこう書きました。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(20)

私たちは自分の罪を意識して、救い主を必要とすると分かってきました。私たちの罪が見えなかったら、私たちが救い主を必要としないと思っていたでしょう。なぜなら、私たちはもう十分いい人で、神様がきっと私たちを受け入れると思うから。そう思うなら、私たちは、どうしてイエス様が私たちのために死ななくてはならなかったか分からないでしょう。

しかし、律法は私たちの罪を表すことはできても、その罪を取り去ることができません。

ちょっと考えてみてください。

鏡は男性のひげを表すことができます。でも、鏡はそのひげを剃ることができません。髭剃りだけがひげを剃ることができます。

そのように、律法は私たちの罪を現すことができるけど、その罪を取り去る力を持っていません。でも、神様の恵みは、髭剃りのように私たちの罪を取り去ることができます。

もうちょっと考えてみてください。もちろん鏡が私たちのひげを剃ることできないけど、鏡はもう要らないというわけでしょうか。そんなことはありません。鏡は、私たちに剃らなくてはならないところをうつすから。

そのように、律法は私たちの罪や、不完全なところを現します。私たちがそれを見ると、聖霊様は私たちを導き始めます。

例えば、聖霊様は男性たちにこう言うかもしれません。「「あなたの妻を愛しなさい」と書いてあるでしょう。では、今日どのように奥さんを愛するべきか教えます。」

または、「「許しなさい」と書いてあるでしょう。では、あなたは、だれだれさんをまだ許していないでしょう。あなたの傷はとても深いでしょう。でも私があなたを癒すから、相手を許しなさい。」

覚えていてください。律法は私たちに「自分の力によって、このルールに従いなさい」と言いません。

むしろ、律法を通して、神様は私たちの目を開いてくださいます。私たちは、神様が私たちの人生の中で何をしたいと思うか分かります。そして、鏡を見ると、私たちの反映だけではなく、私たちの天の父も見ます。そして、天の父は愛をもって、その恵みの髭剃りで私たちの罪を剃り始めます。

私たちはその髭剃りを見て、ちょっと怖いと思うかもしれません。でも、私たちが信仰をもって、神様に「はい」と言うと、神様は私たちの罪をだんだん剃ってしまいます。

あなたはどうですか。鏡を見ると、あなたの罪と失敗だけを見るでしょうか。もしかしたら、あなたの天の父を見るでしょうか。天の父はきっとあなたの人生に働いて、あなたを癒してくださいます。

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ローマ人への手紙3:27-30--誇りの余地がない

この個所では、私たちはパウロの最も大切な結論の一つを読みます。

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。

それでも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。(27-30)

簡単に言うと、恵みに関しては、人々には誇りの余地が全然ないということです。人々が完全に律法を守ることによって、神様は彼らを受け入れません。(完全に律法を守る人がいないから。)

また、神様は人種によって、人々を受け入れません。(ユダヤ人はそう思ったのに)。私たちがイエス様の十字架の働きを信じたからこそ、神様は私たちを受け入れてくださいます。

多くのクリスチャンはその真理が分からないので、二つの誤解が出てきます。

あるクリスチャンたちは訊きます。「私が何回失敗しても、どうして神様は私を受け入れられるだろうか。」

どうして彼らには、そんな疑いがあるでしょうか。なぜなら、彼らは心の中で、「私は神様の受け入れを得るのに、頑張らなくてはならない」と思うから。そして、彼らはいつも自分の努力が足りないと思います。「私は神様の愛に値しない」と思います。

でも、それがパウロのポイントです。恵みとは、私たちが神様の愛や受け入れに値しないのに、神様が私たちを愛して、受け入れるということです。

神様の前に立って、「私があなたの子供で、あなたはラッキーでしょう。私はいい子だし、あなたの国にいろいろ貢献できる。」と言える人は誰もいません。

むしろ、私たち皆は、霊的に貧しい人として、何も持たずに神様の前に来ます。ある賛美歌には、この言葉があります。

Nothing in my hand I bring,
何も持たずに、
Simply to the cross I cling;
ただ私は十字架にしがみつきます。
Naked, come to thee for dress;
私は裸で、服装を得るためにあなたのところに来ます。
Helpless, look to thee for grace.
私は心細くて、あなたを仰ぎ見て、恵みを願います。

その反面、あるクリスチャンたちが「私はいいクリスチャンだ」と思うので、彼らは「そんなに良くないクリスチャン」を見下します。パリサイ人たちのように、彼らは人々を裁くけど、彼ら自身の失敗や罪を悟らないので、恵みの必要が見えません。だから、彼らは人々に恵みを与えずに、相手を批判してばかりです。

あなたはどうですか。あなたの人生に神様の恵みが見えるでしょうか。もしかしたら、神様があなたを受け入れられないと思うので、あなたはいつも気が沈んでいるでしょうか。

もしかしたら、あなたは人々を見下して、恵みを与えることを拒むでしょうか。

「恵み」という言葉を聞いたら、どう感じるでしょうか。その言葉はあなたの心の中で響くでしょうか。何も感じないでしょうか。

恵みという言葉があなたの心の中で響くように。それだけではなく、恵みがあなたの心を治めるように。

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ローマ人への手紙3:25ー28--神様の忍耐と義

この個所ではパウロは、イエス様の十字架の働きの前の生きていた人たちについて、とても興味深いことを言います。

パウロはこう言いました。

神はこの方(つまり、イエス様)を信仰によって受けるべき、血による宥めのささげものとして公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は、忍耐を持って、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(25-26)

この個所では、パウロは神様の義について話します。パウロが言ったのは、イエス様が十字架で死ぬ前に、神様が人々が犯された罪を見逃すことによって、自分の義を明らかにした、ということです。

それはどういう意味でしょうか。イエス様が十字架で死ぬ前に、すべての人々は救われたのでしょうか。

違います。パウロは何回もはっきりと教えるのは、人々が信仰によって救われるということです。パウロは28節でそう言いました。

人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは教えているからです。(28)

そして、4章でパウロはアブラハムを指して、「アブラハムも信仰によって救われた」と言います。

すなわち、神様を信じない人たちは救われず、むしろ裁かれました。

でも、アブラハムや、モーセや、ダビデや、ほかの旧約聖書の信者たちには問題がありました。彼らはいけにえを捧げたけど、そのいけにえは、ほんとうに罪を清める力を持っていませんでした。むしろ彼らのいけにえは、イエス様の将来のいけにえを描写しました。(へブル人への手紙を解説するとき、私はもっと具体的にそのことを説明します。)

彼らは神様を信じたけど、イエス様がまだ彼らの罪のために死んでいなかったので、神様が彼らを罰することは不公平だったでしょう。

彼らが神様がメシア(救い主)を送ることを信じたので、神様はその信仰を受け入れて、彼らを義人と見なして、彼らが値する罰を猶予しました。そして、イエス様が十字架でかけられたとき、神様はアブラハムやダビデや、ほかの旧約聖書の信者たちの罪をイエス様の上に置きました。その時、イエス様は彼らの罰を受けました。だから、彼らの罪が赦されて、イエス様がよみがえられた後、彼らはイエス様と共に天国に行きました。

神様は私たちに対しても、忍耐と義を表します。私たち皆が罪を犯して、神様はすぐに私たちを滅ぼす権利を持ったけど、むしろ忍耐を表しました。神様は私たちの心に働いて、私たちの心をイエス様のために整えました。そして、私たちが神様を信じた時、神様は私たちの罪を清めてくださいました。

でも、神様の赦しを誤解しないでください。神様はただ、「あなたが悪いことをしたけど、私は優しいからその罪を赦してあげる」と言ったわけではありません。

むしろ、神様はこう言いました。「あなたの罪はひどいものでした。その罪のために、代価が支払われなくてはなりませんでした。正義が行われなくてはなりません。でも、イエスがその代価を支払ったので、正義は行われました。そして、あなたがその十字架の働きを信じたので、その信仰によって、あなたは救われました。」

でも、あなたがまだクリスチャンじゃないなら、覚えていてください。神様は忍耐強い神です。でも、神様は義の神です。神様は忍耐を表して、あなたの反応を待ちます。でも、神様は永遠に待ちません。持ち神様の恵みを受けないと、あなたは神様の義を受けます。だから待たないでください。まだ時間がある間にその恵みを受けてください。パウロはこう言いました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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ローマ人への手紙3:21-30--神様に受け入れられるのに

感じても、感じなくても、私たちのもっとも大切な必要は、神様に受け入れられることです。

私たちが神様に受け入れられることが分かってくると、私たちの人生は完全に変わります。私たちは満足や、平和や、喜びとを見つけます。さらに、私たちは、本当のいのちを見つけます。

でも、どのように私たちは神様に受け入れられるでしょうか。パウロがはっきり教えるのは、律法に従うことによって、神様に受け入れられる人は誰もいないことです。

全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ(ない)。(23)

「罪」の原語は興味深い言葉です。それはアーチェリーの専門用語です。その言葉は、「的を逸れる」という意味です。でも、その意味は、ただ的の中心を逸れるというわけではありません。むしろ、その的に全然当たらないのです。

要するに、私たちは全然完全な人ではありません。神様と比べると、私たちは全然聖い人ではありません。

ちょっと考えてみてください。仮に一日に三回ぐらいあなたは悪いことを考えたり、言ったり、言ったりしたら、ほかの人々と比べると、それはそんなに悪くないでしょう。でも、その三つの罪を365とかけてください。一年だと、それは1000ぐらいの罪です。そして、1000の罪をあなたの年齢とかけると、どうなるでしょうか。それは何万の罪でしょう。だから、裁きの日に、あなたの罪について話すのに、何時間ぐらいかかるでしょう。あなたが毎日、罪を三回以上犯せば、もっと時間かかるでしょう。

だから、私たち皆は、すでに裁かれています。神様の前に「私は、あなたに受け入れられることにふさわしい人です。私は完全にあなたの律法に従ったから。」と言える人は誰もいません。

でもいい知らせがあります。パウロはこう言いました。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証さて、神の義が示されました。(21)

どのように、私たちはその義を得られるでしょうか。パウロは続けます。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(22-25)

パウロは何を言いたいのでしょうか。この個所では、いろんなキリスト教の専門用語があります。パウロは、「贖い」について話します。「贖い」とは、何を意味するでしょうか。

「贖い」とは、奴隷の自由を買うことです。私たち皆は罪の奴隷、またサタンの国にある奴隷でした。でも、イエス様は私たちの自由を買いました。それは「贖い」の意味です。

イエス様はどのように私たちの自由を買ったでしょうか。十字架でイエス様が流してくださった血によって、イエス様は私たちの自由を買いました。パウロは「なだめのささげもの」という言葉を使います。その意味は、十字架でイエス様が私たちの罪に対する神様の怒りを受け入れたので、神様の怒りがなだめられた、ということです。イエス様の血によって、私たちの罪は覆われて、赦されたので、私たちは神様に近づくことができます。

だから、私たちの良い行動によって神様が私たちを受け入れることではなく、神様はイエス様の十字架の御業によって私たちを受け入れます。

言い換えると、イエス様の死によって、私たちは神様に義と認められます。というのは、イエス様が私たちの罪の代価を支払ったので、神様は私たちを罪人と見なさないことです。私たちが罪を決して犯したことがないかように、私たちは見なされます。

だから今、私たちは恵みによって、神様に受け入れられます。「恵」とは、私たちが値しないものに受けることを意味します。実は、私たちは神様に背を向けたので、神様の怒りに値しました。でも、今神様は私たちを息子たちや娘たちとして受け入れてくださいます。私たちがしなくてはならないのは、ただイエス様とその十字架の働きを信じて、受け入れることです。

今日そうしませんか。

イエス様、今まで、私はあなたに信頼せずに、自分の道を行きました。だから私はあなたや、周りの人々や、私自身を傷つけました。赦してください。あなたが十字架で私の罰を受けたことを信じて、感謝します。これから私があなたに信頼し、従うように助けてください。アーメン。

 

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ローマ人への手紙3:9-18--でも、ちょっと言い過ぎているでしょう。

多分、多くの人々がパウロの言葉を読むと、このように反応するでしょう。「パウロはちょっと言い過ぎでしょう。だって、「神を求める者は誰もいない?」って。私の知り合いには、たくさんの人々は神様を求めているよ。また、「善を行う者は誰もいない?」って。毎日、善を行う人を見るよ。」

その二つの異議をちょっと考えてみましょう。

パウロが「神を求める者はいない」と言うと、何を意味するのでしょうか。

ローマ人への手紙1章をもう一度読んでください。その個所によれば、人々は神様に関する知識を拒絶しました。神様は、自分自身を被造物や、人々の良心や、神様の律法を通して、私たちに現わしてくださいました。

でも人々は、神様に関する真理を偽りと取り替えました。彼らは「神様を求めている」と言うけど、神様ではないものを礼拝しました。(1:25)

多くの場合、彼らは偶像を礼拝しました。ほかの人々は聖書の教えを曲げて、違うイエス様や、違う福音や、違う聖霊に従いました。(第二コリント11:4)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私はクリスチャンです。私はカルトや別の宗教にに所属しません。私が神様を求めたので、神様は私を救ってくださいました。」

ある程度、それはそうかもしれないけどその理解はちょっと不完全です。つまり、あなたがイエス様を選ぶ前に、イエス様はあなたを選んでくださいました。(ヨハネ15:16)

また、あなたが神様を求める前に、神様はあなたを探していたのです。(ルカ19:10)

神様が先にあなたを愛して、探したので、あなたは神様を求め始めたわけです。神様があなたの目隠しを取り除いたので、あなたは神様を必要とすると分かって、神様を求め始めました。もし神様があなたをほっといていたら、あなたは決して神様を求め始めなかったでしょう。

神様が触れる前に、神様を求める人は誰もいません。もし振り返れば、どのように神様があなたに触れて、あなたの人生に働いたか分かるでしょう。

そして、パウロは「善を行う人はいない」と言うと、どういう意味でしょうか。

ちょっと想像してみてください。ケーキを作るとき、あなたは、わざと砂糖ではなく、むしろ塩を入れます。焼いたら、そのケーキはおいしそうかもしれないけど、人々はそのケーキを食べられるでしょうか。全然食べられないでしょう。そのケーキを捨てるしかないでしょう。

そのように、私たちが神様に背を向けると、私たちの良い行為は、神様にとってまずいものです。私たちは良い行為を行うかもしれないけど、その良い行為に神様に対する反抗的な態度という味をつけてしまいます。だから、神様にとっては、あなたの良い行為は無意味です。あなたが良い行為を行っても、神様は反抗的な態度を受け入れられません。

預言者イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。(イザヤ64:6)

要するに、自分の良い行動によって救われる人は誰もいません。また、「私の心がそもそも他の人々の心よりも優れたものなので、私は神様に従った」と自慢できる人は誰もいません。私たちは皆は、神様の恵みだけによって救われることができます。

私たちはローマ人への手紙を読めば、読むほど、私たちはその真理を分かって来るでしょう。

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ローマ人への手紙3:9-20--でも私は、そんなに悪くないでしょう?

多くの人々は、「いい人であっても、大勢の人々がイエス様を信じていない。どうして神様は彼らを拒絶するの?どうして、永遠の命を望みたいと思うなら、クリスチャンにならなくてはいけないだろう。例えば、ガンジーはとてもいい人だった。 殺害やレイプを犯す人が地獄に行くのは理解できるけど、どうしてガンジーは地獄に行かなくてはならないでしょうか。」と疑問に思います。

多分、あるクリスチャンたちも、そのことを疑問に思います。

でも、その考え方の問題は、私たちの「良い」というコンセプトがゆがんでいることです。

私たちは自分勝手に、「良い」を定義することができません。

また、「良い」という基準は神様の外のものではありません。神様は決して「私は「良い」という基準に従わなくてはならない」と思いません。神様自身が「良い」の基準です。だから、何が良いか知りたいと思うなら、私たちは神様を見なくてはなりません。「良い」という定義は、神様の性格から流れるから。

そして、どんな行為が良いか悪いかを知りたいと思うなら、神様がどのように人間をデザインしたか見なくてはなりません。それは神様の律法の目的です。その律法を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かるし、私たちがどのように生きるべきか分かります。

だから、私たちの「良さ」を計りたいと思うなら、私たち自身を周りの人々と比べてはなりません。彼らの人生は「良い」という基準ではないから。また、私たちの文化の基準を使ってはいけません。私たちは神様を見て、神様の性格によって私たちを計らなくてはなりません。

でも、そうすると、「良い」という基準に満たす人は誰もいません。だからパウロはこう言いました。

私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(9-12)

パウロは何を言いたいのでしょうか。

神様の前に、自分の義を誇ることができる人が誰もいないことです。神様は彼らの義を認めません。なぜでしょうか。彼らは「義」の意味さえ正しく分からないから。どうして彼らは「義」ということがちゃんとわからないでしょうか。なぜなら、彼らは神様を求めないから。むしろ、彼ら神様に背を向けます。

そして、神様に背を向けることは、一番ひどい罪です。レイプだはなく、殺害ではなく、神様に背を向けるのは一番ひどい罪です。なぜでしょうか。

なぜなら、私が以前言ったように、「良い」という定義は、神様の性格から流れるから。神様は「善」の源です。人々が善の源に背を向けるとは、「悪」の定義ではないでしょうか。善の源に背を向けると、どうなるでしょうか。あなたの心から悪が流れて、あなたは悪いことを言ったり、悪いことをしたりします。

あなたは、何回ぐらい嘘をついたでしょうか。あなたは、何回ぐらい人の悪口を言ったでしょうか。何回ぐらい苦い言葉があなたの口から流れたでしょうか。何回ぐらいあなたの言葉で相手を傷つけたでしょうか。そんな言葉は良い心から流れるでしょうか。

どれだけ、自分の悪い決断によって、あなたの人生はめちゃくちゃになったでしょうか。どれだけ、あなたは自分の行為によって、人々を傷つけたでしょうか。

どれだけあなたは、「神様のみ言葉をよく知っているけど、私は自分の道を行きます。」と言ったでしょうか。

もし、あなたが正直な人なら、あなたは上記のことを全部犯したと認めるでしょう。

だからパウロはこう言いました。

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(19-20)

ガンジーが神様の前に立って、神様が彼を裁くと、ガンジーは何も言えなくなります。なぜなら、神様がガンジーの罪を全部明らかにして、ガンジーはその罪を認めます。それだけでなく、ガンジーは「私はその罪を犯した瞬間、私が悪かったと知っていました」と認めます。

ガンジーは全然言い訳を持っていません。なぜなら、彼が聖書を全部知らなくても、彼自身の良心は彼を裁いたから。でも、ガンジーは、きっとちょっとでも聖書を読んだことがあったでしょう。

(どうしてクリスチャンにならないと聞かれたら、ガンジーはこう言いました。「あなたのキリストは好きです。クリスチャンのことは好きじゃないなです。なぜなら、クリスチャンたちはキリストと全然違うから。」でも、それは別の話です。)

とにかく、彼が聖書を読んだとき、彼の責任が増えました。なぜなら、鏡のように聖書はガンジーに自分の罪を現したから。

そのように、あなたがイエス様を拒絶すると、裁きの日に、あなたも言い訳を持たないので、神様に裁かれます。

だから自分自身をだまさないでください。「私はそんなに悪くはない」と主張しないでください。私たち皆は罪人で、神様の恵みを必要とします。裁きの日にそう認めるより、今認めた方がいいです。

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ローマ人への手紙3:8--嘘も方便でしょう?

昨日、私たちは、神様が裁く人間の態度について話しました。パウロの時代でも現代でも、人々は同じようなことを言います。でももちろん、その応用はちょっと違います。

例えば、パウロの時代に、ある人々はこう言いました。

善をもたらすために悪を行おう。(8)

パウロの時代では、その応用は「もし私たちが悪いことをすると、周りの人々は人間と神様の違いがよく分かって、神様の良さが明らかになる。だから悪いことをしよう。」ということです。

それは本当に曲がった考え方なので、パウロはその人々を叱責しました。

でも今なお、人々は似たことを言います。つまり、「嘘も方便」ということです。また、「目的は手段を正当化する。」とも言います。

ようするに、「私が悪いことをしていることをわかっているけど、私の動機は良いものだ。」ということです。

例えば、「ノンクリスチャンと結婚してはいけないと分かるけど、結婚すると、もしかしたら、その人はクリスチャンになるかもしれない。」

また、「嘘をついてはいけないと分かるけど、真実を言うと、相手を傷つけてしまいます。」

最近アメリカで、大学で大きいスキャンダルが起きました。自分の子供が大学に受け入れられるために、33の人が賄賂を使って、その子供の受験の点数が変えられました。彼らの言い訳は、「私たちは子供を愛しています。彼らの最善を望みます。」

でも、神様はそんな考え方を裁きます。神様は結果だけではなく、手段も気にします。私たちが手抜きをしようとしたら、それは大変な状態に至るでしょう。

ユダヤ人とほかのアラブ人の問題をちょっと考えてみてください。どうしてそんな問題があるでしょうか。何千年も前に、アブラハムは「目的は手段を正当化する。」と思いました。

神様はアブラハムに約束しました。「私はあなたに子供を与えます。その子を通して、全世界は祝福されます。」

でも、何年間経っても、アブラハムにはまだ子供がいませんでした。だから、アブラハムは神様を手伝おうと思いました。彼は奥さんサライの女奴隷と寝て、赤ちゃんが生まれました。

実は、それはアブラハムの奥さんの勧めでした。それにその文化では、アブラハムの行為は不思議なことではありませんでした。実は、たぶん皆がアブラハムの決断に賛成したでしょう。

でも、それは神様の望みではありませんでした。そして、今なお、ハガルの子孫(アラブ人)は、いつもサライの子孫(ユダヤ人)と戦います。もし、アブラハムがその悪い決断をしなければ、その何千年の問題は全然なかったでしょう。

あなたはどうですか。あなたは信仰によって生きているでしょうか。あなたは神様の道を行って、神様があなたを祝福してくださることを信じるでしょうか。

もしかしたら、あなたは言い訳を言って、「良い目的」のために悪いことをするでしょうか。

神様の目には、あなたの動機が良くても、悪い手段を大目に見ません。

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ローマ人への手紙3:5-8ーー呪われた考え方

この個所では、私たちは神様に呪われた考え方を見ます。もし人々がその考え方を持てば、彼らはきっと地獄に行くのです。

正直に言うと、私はそんな考え方を持つ人が存在することが信じられません。彼らはこう言いました。「私が罪を犯すと、かえって神様は喜ぶべきです。なぜなら、私の悪さによって、神様の良さが明らかになるから。きっと神様は自分の良さを明らかにしたいと思うでしょう。ならば、どうして神様は私を裁くでしょうか。」(5-8)

それはとても馬鹿な考え方なので、パウロはすぐにその議論に反ばくしました。「いったい何を言っているのですか。神様は決して罪を喜びません。神様は罪を喜ぶなら、この罪深い世界を裁くことができません。」(6)

また、ほかの人々はこう言いました。「私が罪を犯すと、善がもたらされます。私の罪によって神様の良さがますます明らかにされて、神様の栄光となります。だから、私はもっと罪を犯した方がいいです。」

パウロの答えはとても短くて、率直です。

そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。(8)

もちろん、そのように考える人はもう誰もいないと思います。でも、今なお似たことを言う人もいます。今日は、一つの議論を見て、明日はもう一つの議論を見ます。

ある人はこう言います。「御怒りを下す神は不義です。」(5)

現代の人たちは、パウロ時代の人々と、その議論を違う方法で使います。彼らはこう言います。「もし、だれかが福音を聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを罰するでしょうか。それは不公平です。」

でも、パウロはこの手紙の一章で、その議論に反ばくしました。つまり、福音を聞いていない人も、神様の存在の証拠を持っていることです。その証拠は、被造物とか、彼らの律法とか、彼らの良心です。でも、彼らは、その証拠を持っていても、神様を求めません。彼らは自分が知らないことによって裁かれません。彼らは自分が知っていることによって裁かれます。だから彼らの裁きは公平なものです。

また、多くの人々はこう言います。「どうして神様は自分を拒絶する人々を地獄に行かせれるだろうか。どうして彼らは永遠に苦しまなくてはならないでしょうか。それは不公平です。」

正直に言うと、私は地獄について話すのが嫌いです。私は、すべての人々が結局天国に行くと信じたいのです。でも、聖書はそう教えていません。イエス様自身はそう教えていませんでした。

でも地獄に関して、私は二つのことを言います。

一つ目は、人々が地獄に行く場合、実は、神様は彼らの願いを叶えてくださることです。要するに、神様を拒絶する人は、なるべく神様から遠く離れて、自分の生活を送りたいと思います。でも、結局、彼らが分かるのは、神様が愛や、喜びや、命や、すべての良いものの源であることです。つまり、神様から離れる存在は、すべての良いものから離れる存在であることです。それはどういう存在でしょうか。それは地獄です。

二つ目は、人々が地獄に行く必要がないように、神様はイエス様をこの世に送ったことです。イエス様は十字架で私たちの罪のために死にました。イエス様は救いの働きを全部してくださいました。私たちがしなければならないことは、その働きを信じて、永遠のいのちの賜物を受けることです。

どうやって、その賜物を受けらえるでしょうか。神様にこう祈れば、その賜物を受けます。「天のお父様、今まで、私は自分の道を行って、私の人生はめちゃくちゃになりました。私を赦してください。イエス様が私の罪のために死んで、よみがえられたことを信じます。だからこれから、私はあなたに信頼します。私の心の中で働いて、毎日私がイエス様のようになるように助けてください。」

その選択をすれば、私たちはいのちを知ります。その救いの道は、そんなに難しくないです。難しいのは、自分の道を捨てることです。

C.S.ルイスはこう言いました。「最終的に、人々は神様に向かって、「あなたの御心が行われるように」と言います。それとも、彼らは神様に背を向けて、神様は彼らに、「あなたの心が行われるように」とおっしゃいます。」

あなたはどうするでしょうか。

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ローマ人への手紙3:1-4--神様の真実な性格

ユダヤ人たちが2章だけを読むと、パウロが、ユダヤ人であることや、割礼を受けることに価値がないと教えていると思うかもしれません。

でも、3章では、パウロは、ユダヤ人であることや、割礼を受けることに価値があるをはっきりと教えます。彼はこう言いました。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。(1-2)

要するに、ユダヤ人である一つの益は、神様が彼らに直に自分自身を現したことです。だから彼らは、神様の御名を知ったし、神様がどんな方であるか分かりました。ほかの国民は被造物から、神様がどんな方であるか分かったけど、それしか分かりませんでした。

でも、私が以前言ったように、そんな知識を持つと、マイナス面もあります。つまり、あなたに知識がもっとあれば、神様はあなたをもっと厳しく裁くことです。

そして、残念なことだけど、ユダヤ人たちの歴史書によれば、彼らは神様を知っていたのに、神様に背を向けて、別の神々に従いました。

では、神様はユダヤ人たちに背を向けたでしょうか。ある聖書学者たちは、そう思います。彼らが言ったのは、クリスチャンたちが新しいイスラエルです。ある意味で、それは正しいです。後で私たちは読むけど、私たちは神様の家族に入りました。

でも、「神様はユダヤ人たちをあきらめてしまった」と主張するのは、言い過ぎると思います。パウロは、ユダヤ人に関して、こう言いました。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。(3-4)

あるユダヤ人たちは神様に背を向けたかもしれないけど、神様はユダヤ人たちを捨てませんでした。彼らの不真実は、ユダヤ人たちに対する神様の真実を無としませんでした。人々は自分の約束を破るかもしれないけど、神様はいつも自分の約束を守ります。だから、神様の裁きが不公平と言える人は誰もいません。

そういうわけで、ある日、すべてのユダヤ人がイエス様がメシアであることを信じるようになると思います。

でもユダヤ人じゃない人も、この個所によって、励まされることができると思います。なぜなら、ユダヤ人たちのように、私たちはしばしば不真実な人だからです。私たちは、神様が私たちの最善を望むことを信じないし、神様が私たちの最善を知らないと思うときもあります。だから、私たちは神様とその言葉を捨てて、自分の道を行きます。でも、神様は私たちのことを決してあきらめません。神様は私たちを追いかけ続けます。

だから、時々神様は私たちを懲らしめます。でも、懲らしめるときに、神様は私たちの最善を望みます。そして、私たちが何回失敗しても、神様が私たちをあきらめたことを心配しなくていいです。

パウロは別の手紙で、こう言いました。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、私たちが失敗するとき、また、私たちが転ぶとき、神様の真実な性格を覚えていてください。また神様の約束を覚えていましょう。

わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(へブル13:5)

 

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ローマ人への手紙2:25-29--本当の割礼

パウロの時代に、ユダヤ人たちの一つの問題は、神様に関して大きい誤解をもっていました。つまり、彼らは、神様が人の外見のことより、人の心を気にすることを忘れていたのです。特に彼らは、割礼を受けると、神様に義と認められると思っていました。でも、彼らは、心の中の罪を無視しました。

神様は、旧約聖書の預言者たちを通して、その問題について警告しました。預言者エレミヤを通して、神様はこう言いました。

見よ、その時代が来るーー主のことばーー。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを切り上げているすべてのものを罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。(エレミヤ9:25-26)

つまり、ユダヤ人たちが包皮に割礼を受けるよりも、神様は彼らの心を望みました。もし彼らの心が神様に属しないなら、神様にとって、その割礼は無意味です。だからパウロはこう言いました。

もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。

ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の体の割礼が無割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(25-29)

パウロは仮定的な状況について話しているようです。仮に、誰かが律法に完全に従えたとしたら、その人が割礼を受けていなくても、神様はその人を受け入れます。その反面、誰かが律法に違反すると、割礼を受けていても、神様はその人を律法に違反する者として裁きます。さらに、律法に従う者も、その割礼を受けている人を裁くことができるでしょう。

でも、もちろん割礼を受けている人と割礼を受けていない人の間で、律法に完全に従う人は誰もいません。

だからパウロはユダヤ人たちに言います。「割礼を受けても、あなたは本当のユダヤ人と呼ばれるとは限りません。割礼を受けても、あなたは神の民と呼ばれるとは限りません。割礼は、ただ物理的なものではありません。割礼は、心に関連することです。御霊による心の割礼を受ける人こそが、神様の民で、神様に受け入れられます。」

心の割礼とは、どういうことなんでしょうか。パウロはこう言いました。

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。(11)

肉の体とは、「罪深い性質」を意味します。言い換えると、私たちは罪の鎖で縛られました。でも、私たちがキリストを信じて従い始めると、イエス様はその罪の鎖を破りました。それ以前の私たちは、自分の罪深い性質に引っ張られて、その性質の情欲に従いました。

でも聖霊がその性質を割礼したので、私たちは神様に属する者です。さらに、その罪の鎖が破られたので、私たちは神様に従がう自由を受けて、正しい人生を送る力を受けてくださいました。

でも、その心の割礼は、私たちの努力によるものではありません。むしろ、私たちは信仰を持って、イエス様に心をささげて、こう言います。「イエス様、あなたを必要とします。私は自分自身を救うことができないので、私を救ってください。私はあなたを信頼します。あなたの十字架の働きを信じます。だから私の罪を赦してください。私があなたのものになるように。」

そう祈れば、あなたは神様の子供になります。その瞬間、あなたは神様に義と認められます。

あなたはどうですか。自分の心を神様にささげているでしょうか。割礼された心を持っているでしょうか。

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ローマ人への手紙2:17-24--自分自身を見ること

この個所では、パウロはユダヤ人たちに話しています。そして、彼のポイントは、律法によって、神様の前にあなたが義と認められるのを望むなら、その律法を知っていることだけでは足りないということです。あなたはその律法に完全に従わなくてはなりません。

だから、パウロはこう言います。

あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。(17-23)

つまり、あなたたちは律法を知っていて、鼻が高いです。あなたたちは、神様の律法を与えられて、神様の民と呼ばれることを誇ります。あなたたちは、すべてのことを知っていると思います。だから、あなたたちは、もし誰かが神様とその道を知りたいと思うなら、あなたたちの所に来なくてはならない、と思います。

でも、あなたたちが教える律法に従っているでしょうか。もしかしたら、あなたたちは神様の言葉を伝えた後、正反対のことをするでしょうか。

そして、パウロは彼らにこう言いました。

「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)

正直に言うと、聖書を教える人として、この個所は怖いです。私のゆえに、神様の御名が私の友だちや、同僚たちの間で汚されていることを望みません。私は偽善者になりたくないのです。

でも、私はよく失敗してしまいます。時々、私は偽善者です。正しいことをすることが難しい時もあります。また、私が説教することに従うのが難しい時もあります。説教するとき、また、このブログを書くとき、多くの場合、私は自分自身に説教しているのです。

だから結局、私には、神様の御座の前にひれ伏し、憐れみを請うことしかできません。

実は、それがパウロのポイントです。私たち皆は神様の恵みを必要とします。もし、律法によって、自分が義と認められると主張したいと思うなら、その律法に完全に従わなくてはなりません。でも、そうできる人は、だれもいません。

あなたはどうですか。あなたはどれだけ神様の恵みを必要とするか分かるでしょうか。

もし、あなたが「私は、まあまあいい人です。ほかの人よりも、私はましだと思う」と言うなら、自分自身をもうちょっと見つめた方がいいと思います。なぜなら、自分が思うほど、私たちはそんなに良い人ではないから。その真理が理解しない限り、私たちはどれだけ神様を必要とすることが正しく分かりません。

鏡を眺めると、何を見るでしょうか。

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ローマ人への手紙2:9-16ーー福音を聞いたことない人は、どうなるの?

たくさんの人はキリスト教のメッセージを聞いて、こう訊きます。「もし、ある人々が聖書のことを聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを裁くでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

この個所では、パウロはその疑問に答えます。パウロはこう言います。「悪を行う人皆が裁かれます。ユダヤ人たちは先に裁かれるけど、そのあと異邦人たち(つまり、ユダヤ人ではない人)も裁かれます。その反面、善を行う人皆は報いを受けます。ユダヤ人たちは先に報いを受けるけど、そのあと、異邦人たちも報いを受けます。」

どうしてその順番が決まっているのでしょうか。なぜなら、ユダヤ人たちは神様から直接律法を受けたから。そういうわけで、彼らの責任は重いです。

イエス様はそのことをこのように説明します。

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカ12:47-48)

パウロはそのコンセプトをもっと具体的に説明します。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。(ローマ2:12)

簡単に言うと、自分が持っている知識によって、人々は裁かれます。自分が持っていない知識によって裁かれません。

もし、ユダヤ人に与えられた神様の律法を知っているなら、その律法によって、その人は裁かれます。その律法を知らないと、彼らは別の基準で裁かれます。どんなに基準によって裁かれるでしょうか。

自分の律法が神様の律法に合う限り、彼らはその律法によって裁かれます。パウロは説明します。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(14-15)

つまり、どの国でも、どんな文化でも、すべての国民の律法には、神様の律法に合うところもあります。もちろん、その律法は神様の律法に完全に合わないけど、その律法が神様の律法に合う限り、その律法によって人々は裁かれます。

だから、文化によって、盗難の定義は違うかもしれないけど、ある人がその国の盗難に関する律法を違反すれば、その人は神様に裁かれます。

でも、神様はもう一つの基準で、人々を裁きます。それは人々の良心です。例えば、自分の文化によれば、彼女や彼氏と寝るのは大丈夫かもしれません。それでも、もし誰かが自分の良心に反して、彼女や彼氏と寝ると、彼らは神様に裁かれます。どうしてでしょうか。その罪悪感が表すのは、彼らが心の中で、自分の行為が悪いと分かっていることです。

もちろん、私たちの良心は、神様の律法を完全に反射しません。でも、その良心が神様の律法に合う限り、人々は裁かれます。

もう一つのポイントです。パウロはこう言います。

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。(13)

パウロのポイントは、律法を完全に行う人もいるというわけではありません。また、パウロは、律法によって義と認められる人もいると言っていません。パウロのポイントは、律法を知っていることだけでは足りないということです。もし律法によって義と認められたいなら、あなたは完全にその律法に従わなくてはなりません。でも私たちには問題があります。律法を完全に従う人も全然いません。ほかの記事で、私たちはその切ない真理について話します。

でも、今日の要点は、神様は公平な方だということです。神様は、あなたが持っていない知識によって、あなたを裁きません。むしろ、あなたが持っている知識によって、神様はあなたを裁きます。

だから、自分自身に聞いてください。「自分が持っている知識で、私はどうしているでしょうか。」

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ローマ人への手紙2:1-11--プライドを持つこと。恵みを軽んじること。

神様の恵みはとても素晴らしいものです。でも、恵みに対して、私たちは二つの態度を決して取るべきではありません。この個所では、私たちは、その二つの態度が見ることができます。

一つ目の態度は、プライドです。つまり、人々はこう思います。「私は神様の恵みが要らない。私はもういい人だから。でも、私の周りの人たちは。。。」

パウロは、そんな態度に関して、こう言います。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。(1-3)

ある人々は、いつも周りの人々を裁いて、相手を悪い人と呼びます。でもそれと同時に、彼は自分自身の罪や欠点を見ることができません。彼らはプライドを持って、「あいつは絶対ダメな人だけど、私は大丈夫だ」と思います。でも、パウロは彼らに言います。「あなたも同じことをするよ。どうしてあなたは相手を裁くのですか。」

例えば、私たちは相手が頑固だと思うけど、実は、私たちが彼らと話すと、私たちも頑固になります。

また、ニュース番組で、私たちは殺害者を見て、恐ろしいと思います。だから、彼らが厳しく罰されるように望みます。でも、友達や知り合いが私たちを傷つけると、私たちは縁を切って、自分の心の中で彼らを殺します。(マタイ5:21-22)

だから、パウロは私たちに言います。「あなたは相手を裁く権利を持っていません。あなたは同じことをするから。あなたも神様の恵みを必要とします。その恵みを受けないと、あなたは裁かれます。

でも、パウロはもう一つの問題について話します。ある人々は、神様の恵みを軽んじます。つまり、彼はこのように思います。「神様は私を赦してくれるので、私は好き勝手にして、あとで、神様に謝ります。」

でも、パウロはそんな人にこう言います。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(4)

つまり、神様の恵みの目的は、私たちが自分の罪にふけるわけではありません。その目的は、私たちが罪を悔い改めて、その罪を捨てることです。

でも、多くの人々は恵みを軽んじるので、自分の罪にふけって、神様や周りの人々を傷つけてしまいます。

だから、パウロはプライドを持つ人や、恵みを軽んじる人にこう言います。

あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。(5-11)

つまり、そんな態度を持てば、あなたもきっと裁かれます。

もし、プライドを持って、神様の恵みが要らないと思い、周りの人々を裁くなら、私たちの罪が暴露して、私たち自身が裁かれてしまいます。

また、神様の恵みを軽んじて、罪にふけるなら、私たちは裁かれます。

あなたはどうですか。

神様の恵みを要らないと思うでしょうか。

神様の恵みを軽んじるでしょうか。

そんな態度は裁きに至ります。だから謙遜を持って、私たちが恵みを必要とすることを認めて、神様の愛と恵みを見て、驚きましょう。

神の国では、プライドや、恵みを軽んじる態度の余裕がありません。

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ローマ人への手紙1:18-32–罪という問題

クリスチャンたちとして、私たちはよく救いに関して話します。でも、私たちは何から救われたでしょうか。どうして、私たちには救いが必要でしょうか。

この個所では、私たちはその答えを見つけます。この個所は、聖書の中で最も暗い所の一つです。なぜなら、私たちはどれだけ私たちの状態が必死か分かりますから。

パウロは、この言葉で始めます。

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(18)

「神の怒り。」

私たちは、その言葉を考えてみると、かなり怖いです。私たち皆は神様の愛について話すのが好きです。でも、神様の怒りについて話すのが好きな人は誰もいません。どうして、神様の怒りは人々に注がれているのでしょうか。

二つの理由です。それは、不敬虔と不義です。「不敬虔」と「不義」とは、どういうことでしょうか。

「不敬虔」とは、神様に背を向けることを意味します。

この個所では、パウロは、神様が自分自身をすべての人々に現したと言います。神様は自分自身をユダヤ人や、少数の特別な人々だけに現したわけではありません。神様は自分自身をすべての人々に現しました。

どのように自分自身を現したでしょうか。創造物を通して、神様は自分自身を現してくださいました。創造物のすべては、知的な創造者がおられると叫びます。

その真理を拒絶する人も「この世を見ると、知的な創造者がおられるという考え方がよくわかる」と認めます。(もちろん、それを認めた後、すぐに自分の議論や、理論の下にその真理を埋めるけど。)

とにかく、パウロのポイントは、創造物は創造者を指します。創造物を通して、私たちは神様の力や神性を見ることができます。創造物を通して、どれだけ神様が大きいか分かります。また、私たちは神様のみ心を見ることができます。私たちは神様の想像力を見ることができます。私たちは神様の美しさや、良さを見ることができます。神様は創造物を通して、そのすべてを現してくださいます。

でも、人々はどう反応するでしょうか。自分の不義によって、彼れはその真理を阻みます。

神様がおられないと議論する人の動機を見ると、多くの場合、彼らが神様に裁かれることを認めたくないと分かります。つまり、もし、神様が本当におられるなら、彼らは勝手気ままに生きることができないことです。なぜなら、いつか彼らは自分のことを神様に申し開きをしかなければならないから。

でも、人々が神様に背を向けると、その結果は何でしょうか。

(彼らの)思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり(ます)。(21-22)

偶像礼拝する人を見ると、そのことがよく見ることができます。彼らは自分の手で、偶像を造ります。つまり、彼らはその偶像の創造者です。でも、彼らは自分の手で造った偶像の前で拝み始めます。

でも、人々はいろんな「偶像」を経てます。彼らは自分の知恵や、お金や、情欲に従います。でも、その偶像に彼らの目がくらんでしまいます。

特に、彼らは何が良いか悪いか分からなくなります。また、彼らは、自分の偶像が彼らを滅ぼしていることが見ることができません。

でも、最悪なのは、彼らが神様に背を向けたので、神様が彼らに背を向けてしまうことです。神様は彼らに言います。「あなたは私の心に従わないのでしょうか。では、あなたの心が行われます。」

でもその結果は何でしょうか。24-31節を読んでください。

その結果はただ人間の不敬虔だけではなく、私たちの不義も出てしまうことです。人々は互いに傷つけ合います。私は24ー31節にあるリストを具体的に説明する必要がありません。この世界の人々を見ると、人々が神様に背を向けると、どうなるかすぐに分かります。

32節も、私たちの世界をよく描写します。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(32)

人々の心の中で、彼らは自分の罪のために罰されることに値することがよくわかります。それでも、彼らはその罪を続けるし、おまけにほかの人々が同じ罪を犯すと、その人々を応援します。

アメリのマスコミでは、そのことがよく見ることができます。人々が堂々と神様の律法に違反すると、マスコミはそのことを祝います。神様の言葉に反する法案が可決されたら、マスコミはそのことを祝います。彼らは「聖書は古臭いです。私たちは聖書の著者たちよりもよく知っている」と主張します。

だから、彼らはもう裁かれています。

それは、罪という問題です。だから私たち皆は救いが必要です。

あなたはどうですか。この世界が救いを必要とすることが分かるでしょうか。

もっと大切なのは、あなた自身が救いを必要とすることが分かるでしょうか。

 

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ローマ人への手紙1:8-17--福音

この個所では、パウロは、ほかのところで福音を述べ伝えたように、ローマでもそうするという望みを表します。もちろん、ローマ人のクリスチャンたちはもう福音を知っていたけど、私たち皆は、何回も福音のことを思い出される必要があります。さらに、私たちは福音により深く根ざす必要があるし、福音の意味合が身に染みる必要があります。

それが、この手紙の目的です。私たちが福音より深く根ざすようになることです。

14-15節は私の心を打ちました。パウロはこう言いました。

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のあるものです。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(14-15)

もちろん、キリストに呼ばれた使徒として、パウロは福音を述べ伝える義務を持っていました。でも、パウロにとっては、その召しはただの義務ではありませんでした。彼は惜しまずに福音を述べ伝えました。

私たちも同じ態度を持つべきです。私たちは喜んで福音を述べ伝えるべきです。どうしてでしょうか。私たちはどんな態度を持つべきでしょうか。

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(16)

「福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」

私たちは、その言葉の意味合いをちゃんと把握しているでしょうか。福音は人を救う神の力です。

でも、神様の望みは、ただ彼らが天国に行くことではありません。

救いとは、神様がこの世で、人々を癒すことです。罪によって、彼らの人生は壊れたけど、神様の力によって、彼らは完全な者になることができます。彼らの壊れた心が癒されることができます。彼らの壊れた結婚や人間関係は癒されることができます。でも一番大切なことは、彼らの壊れた神様との関係は癒されることです。それは救いです。福音はその救いをもたらす神様の力です。

そして、このいい知らせはすべての人のためのものです。神様がユダヤ人たちを自分の特別の民として選んだので、福音は先に彼らに伝えられました。でも、イエス様が十字架で死んで、よみがえった後、すべての人々は神様に近づくことができるようになりました。イエス様を信じる人々皆は、神様の子供として受け入れられます。

どうして、神様は私たちを受け入れられるでしょうか。

福音には、神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。(17)

「義」とは、聖書の中で、いろんなニュアンスがあります。でも、この個所では、「義」とは、神様と和解を持つことです。私たちの罪によって、私たちの神様との関係は壊れていたけど、信仰によって、私たちは神様と和解しました。

ちょっと考えると、そのコンセプトが分かりやすいです。どのように私たちの神様との関係が壊れたでしょうか。私たちは神様に信頼しなかったのです。私たちは、神様が私たちの最善を望むことを信じませんでした。私たちは神様の動機を疑いました。だから私たちは神様に背を向けて、自分の道を行き始めました。

では、どのようにその関係が修復されることができるでしょうか。私たちは神様に向かって、「これから、私はあなたに信頼する」と言います。

まず、私たちはイエス様の十字架の働きを信じなくてはなりません。それを信じないと、私たちは神様に受け入れられません。だから、私たちはこのように祈ります。「イエス様、あなたが十字架で死んだとき、あなたが私の罪のための罰を受けたことを信じます。これから、私の主になってください。」

そうすると、神様はあなたを赦してくださるし、あなたに新しい心を与えてくださいます。その新しい心のゆえ、あなたは救いのことだけではなく、すべてのことに関して、神様を信じるようになります。そして毎日あなたが神様を信じれば信じるほど、あなたは神様の声に従います。さらに、神様は自分の声に従う力をあなたに与えてくださいます。だから、あなたの行為は変わり始まるし、あなたはますますイエス様のようになります。

その結果は?あなたは変えられて、完全な者になります。それは救いです。

あなたはその救いを本当に知っているでしょうか。また、周りの人々にその救いを伝えたいと思うほど、その救いをしみじみと感じるでしょうか。

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ローマ人への手紙1:1-7--神様に愛されている。神様に呼ばれている。

それでは、今日から、私たちは新約聖書の中で最も大切な書を読み始めます。どうして、ローマ人への手紙がそんなに大切なんでしょうか。なぜなら、この手紙で、パウロははっきりと福音を説明するからです。

パウロはこの手紙を書くとき、まだローマに行ったことがありませんでした。だからほかのパウロの手紙と違って、パウロはローマの教会の問題などについて話していません。むしろ、パウロは福音を詳しく説明します。なぜなら、神様はパウロが福音を述べ伝えるように呼んだから。それがパウロの使命でした。

この手紙のあいさつで、パウロは、神様が彼を使徒として呼んだことに関して説明します。特に、パウロのミッションは、異邦人に福音を述べ伝えることです。

パウロが、プライドを持って、「神様は私を選んだ」と自慢するのは簡単なことだったでしょう。

でもパウロはこう言いました。「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。あなたがたは神に愛され、召された聖徒たちです。」(6-7)

「あなたがたも。」

私は、その言葉が大好きです。

「あなたがたも。」

パウロはローマのクリスチャンたちに言いました。「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。私たちユダヤ人たちだけではありません。私たち「特別な人」だけではありません。あなたがたも、特別な人たちなのです。あなたがたも神様に愛されているのです。あなたがたも、召された聖徒たちです。」

時々、私たちは、「どうして神様は私を愛しているだろうか」と疑問に思います。

私たちはこう思います。「私は全然スペシャルじゃないです。いったいどうして、神様は私のことを考えるだろうか。」

でも、時間が始まる前に、神様は私たちを知っていて、「あなたを愛している。あなたを選ぶ。」と言いました。

神様は私たちの過ちや、罪や、軟弱さを見たのに、「あなたを私のために選ぶ」と言いました。

それは「聖徒」の意味です。「聖徒」とは、「神様に選ばれた人、また、神様のために選ばれた人」という意味です。

私たちの多くは、「聖徒」という言葉を見ると、「え?私は聖徒なの?私は聖徒じゃないよ。」と言います。

なぜなら、「聖徒」を考えると、私たちのイメージは、完全な人ですから。

でも、あなたが「聖徒」と呼ばれる理由は、あなたがほかの人よりも聖い者であるわけではありません。むしろ、神様があなたを愛して、選んだゆえに、あなたは「聖徒」と呼ばれます。

それは恵みです。あなたがその愛にふさわしくないのに、あなたがほかの人よりも優れたものではないのに、神様はその愛をあなたの上に注いでくださいます。

そして、私たちは恵みによって愛を受けたから、神様との平和を持っています。神様が私たちを本当に受け入れるかどうか疑わなくてもいいです。もし、私たちが神様の受け入れのために働かなくてはならないなら、そんな心配があることでしょう。でも神様は恵みによって私たちを受け入れてくださいます。

この世界を造る前に、神様はもうあなたを選んで、受け入れました。もし私たちがそのことが把握できるなら、どのように私たちの人生は変わるでしょうか。私たちはもう神様の愛と受け入れを得ようと努めないし、安心できるでしょう。

天のお父様、私たちがローマ人への手紙を読むとき、私たちの目を開いてください。私たちがあなたの愛や、恵みを見えるように助けてください。あなたが私たちをもう受けれていることを把握するように助けてください。そして、私たちがあなたの愛と受け入れに安心するように助けてください。私たちがあなたの受け入れとを得ようと努めるのをやめるように助けてください。むしろ、私たちがあなたの愛を知って、安心して、あなたとの親しい関係を楽しむように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

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使徒の働き28:11-31--まだ終わっていない話

今日、私たちは「使徒の働き」の最後の話を読みます。それだけではなく、これは最後の聖書の歴史書です。残っているのは、使徒たちからの手紙や黙示録です。

でも、この書には、ちょっと不思議なエンディングがあります。実は、この書にはエンディングがないのです。

今日の個所では、パウロはとうとうローマに着いて、そこのユダヤ人たちに福音を述べ伝え始めました。いつものように、福音を信じる人もいたし、信じない人もいました。そして、あるユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶すると、パウロは異邦人たちの所に行って、彼らに福音を述べ伝え始めました。

ルカは、この話をまとめると、こう言いました。

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を述べ伝え、

主イエス・キリストのことを教えた。(30-31)

あなたは、パウロがカエサルの前に現れたとき、何を言ったか、知りたいと思わないでしょうか。また、パウロの最後の日に関して、聞きたいと思わないでしょうか。

私は聞きたいです。

でも、ルカはそれらのことについて何も言いません。

むしろ、最後のシーンでは、パウロは人々に福音を述べ伝えています。

おしまい。

どうして、ルカはこの書をそのように終えたでしょうか。私には分かりません。

でも、もしかしたら、ルカはこう言いたいのかもしれません。「この話は、まだ終わっていません。今なお、福音はこの世に広がっているのです。」

ある人は、パウロの時代のユダヤ人たちのように、自分の目をつぶり、耳を閉じて、福音を拒絶します。

でも、迫害があっても、外からの教会に対する攻撃があっても、中からの教会に対する攻撃があっても、神様は教会を守って、福音はまだこの世に広がっています。

そして、今私たちはその話に参加しています。私たちは福音を聞いて、信じるようになりました。それだけではなく、パウロのように、私たちが自分の教会から行って、聖霊に満たされて、すべての国民に福音を述べ伝えるように呼ばれました。

あなたはどうですか。

あなたは聖霊に満たされているでしょうか。

聖霊に満たされないなら、私たちは神様が命じたように福音を述べ伝える力を持たないでしょう。

日本語では、この書は、「使徒の働き」と呼ばれています。でも、この書の最初から最後まで、実際の聖霊様の働きについてです。聖霊様は自分の民を通して働いていました。

だから、もう一度イエス様の言葉をもう一度読みましょう。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全地、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

私たちは聖霊に満たされて、この世に行き、この2000年前に始まった話を続けましょう。

 

 

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使徒の働き28:1-10--聖霊様が私たちの中で働くと、

私が子供のとき、あるアクションドラマには「一人の人でも、この世を変えらえれる」というテーマがありました。

この個所では、私たちはその真理を見ることができます。でも、そのモットーをちょっと変えた方がいいと思います。それは、聖霊に満たされたら、一人の人でも、この世を変えることができます。

パウロたちはマルタという島に着いて、寒かったので火をたきました。でも、パウロが枯れ枝を集めた時、まむしは彼の手にかみつきました。それに、そのまむしはパウロの手にぶら下がっていました。

島の人々はそれを見て、こう言いました。

この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。(4)

でも、パウロがそれでも生きていたので、彼らは「この人は神様だ」と思い始めました。もちろん、パウロは自分に対する彼らの間違った考え方を訂正して、本当の神について教え始めました。

そして、パウロは島の長官プブリウスという人の家を訪問して、プブリウスの病気のお父さんのために祈りました。そのお父さんが癒されたので、たくさんの人々は、パウロのところに来ました。そして、パウロは彼らの病気を癒しました。

その結果は?

マルタがキリスト教を信じる国になって、今なお、キリスト教はマルタの主な宗教です。

私のポイントは?

聖霊様が私たちの中で働いたら、私たちはこの世を変えることができます。私たちはまむしを手から振り落とさないかもしれないし、人を癒さないかもしれませんけど、聖霊様が私たちの中で働くと、周りの人々は気づいて、聖霊の働きによって変えられます。

だから、毎日、御霊に満たされましょう。(エペソ人5:18)

そうすれば、周りの人々は私たちを通して神様を知るようになります。

天のお父様、私をあなたの御霊で満たしてください。私を見ると、周りの人々が私のうちに住んでおられるあなたを見るように。私を用いてください。私があなたの器になるように。私が毎日あなたの恵みのパイプラインになるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き27:21-44--嵐の中の光

イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と命じました。(マタイ5:16)

この個所では、私たちはパウロが自分の光を輝かせることを見ることができます。

大変な嵐で、船に乗る皆は絶望しました。でも、パウロは彼らに希望を与えました。彼はこう言いました。

しかし今、あなたがたに進めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。「恐れることはありません。パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、皆あなたに与えておられます。」

ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。(22-25)

そのあと、まだ空が暗くて、皆が失望するとき、パウロは彼らにこう言いました。

今日で十四日、あなたがたはひたすら待ち続け、何も口に入れず、食べることなく過ごしてきました。ですから、食事をするよう勧めます。これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。(33-34)

そして、パウロはパンを取り、皆の前で神様に感謝の祈りをささげて、食べ始めました。それを見て、ほかの人々の希望が戻って、彼らも食べ始めました。

それは自分の光を輝かせることの一つの意味です。私たちは希望のない人に希望を与えることです。

この世では、たくさんの人々は、自分の境遇のため、希望がありません。でも、イエス様は私たちの希望の源です。そして、イエス様が私たちを通して、光を輝かせると、周りの人々は希望を見つけます。

でも、もう一つの方法で、パウロは光を輝かせました。自分の言葉と行為によって、パウロは周りの人々が正しいことをするように励ました。

ある船員たちは、船からこっそり逃げ、囚人たちをほっとおいて、死なせようと思いました。

でもパウロはそれを見て、警告しました。

あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません。(31)

だから、彼らは小舟の綱を切って、その小舟が流れるままにしました。

そして、その船が座礁した時、兵士たちは囚人たちを殺そうと思いました。なぜなら、囚人たちが逃げたら、兵士たちは罰されますから。でも、百人隊長はパウロの光を見ていたので、その兵士たちを制止しました。だから結局だれも死にませんでした。

そのように、私たちの言葉や、行為を通して、私たちは光を輝かせるべきです。私たちは彼らにどのように生きた方がいいか示します。そして、私たちの模範を見ると、彼らはそのように生きるように励まされます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々のための光でしょうか。

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使徒の働き27章1-20--大多数の意見に従うこと

大多数の意見に従うのは、とても簡単なことです。特に、私たちがその意見に従いたいなら、その意見に従うのは簡単なことです。

でも、大多数の意見に従うのは、いつも正しいとは限りません。この個所では、パウロやほかの囚人たちの担当する百人隊長はそう学びました。

天気のせいで、彼らは予想以上にローマにゆっくりと進みました。でもパウロはその天気がもっとひどくなると知っていました。だから彼は、百人隊長に警告しました。

皆さん。私の見るところでは、この航海は積み荷や、船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう。(10)

神様がパウロにそう言ったか、自分の経験によってパウロがそう言ったか、私は分かりません。でも、とにかく、百人隊長は待ちたくないと思ったようです。だから、彼が船長や船主と相談して、彼らは行き続け、別の港で冬を過ごそうと思いました。

どうして、彼らはパウロのアドバイスを聞かなかったのでしょうか。もしかしたら、パウロは船員ではなかったから。だから、彼らは自分自身の判断に頼りました。もう一つの理由は、彼らがもう待ちたくなかったことです。彼らは遅れたので、遅れを取り戻そうと思いました。

でも、大多数の意見に従って、結局彼らは死にそうな状況に陥ってしまいました。

あなたはどうですか。あなたは神様の言葉に従うでしょうか。もしくは大多数の意見に従うでしょうか。周りの人々が悪いことをするとき、あなたも参加するでしょうか。または、日本の文化が神の国の文化に反対するとき、どっちの方に従うでしょうか。日本の文化でしょうか。神の国の文化でしょうか。

いつも大多数の意見に従うと、あなたは神様の言葉に反してしまうときもあります。そして、あなたは大変な状態に陥ってしまうかもしれないし、神様を悲しませてしまいます。

パウロはこう言いました。

神の御霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ人への手紙4:30)

あなたは誰について行っているでしょうか。

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使徒の働き26:20-32--捕えられた

この個所では、三つの福音に対する反応を見ます。

一つ目は迫害ということです。ユダヤ人たちは福音のゆえにパウロを迫害しました。

二つ目は、人々に私たちが頭がおかしくなっていると思われるということです。フェストゥスは、パウロの話を聞くと、そう思いました。

三つめは、人々が私たちのことや福音を軽んじることです。アグリッパは、パウロの話を聞くと、パウロが素朴な人だと思ったようです。

でも、パウロは福音を宣言し続けました。なぜでしょうか。第二コリント5章で、パウロは自分の考え方を説明しました。

私たちが正気でないとすれば(フェストゥスはそう思った)、それは神のためであり、正気であるとすれば(パウロはそう主張した)、それはあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを捕えているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。(13-14)

どうしてパウロは福音を述べ伝え続けたでしょうか。なぜなら、パウロは、キリストが私たちを愛して、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことを固く信じていましたから。キリストの愛は彼に触れて、周りの人々が彼が頭がおかしくなっていると思っても、パウロは福音を伝えなくてはならないと思いました。

私たちも同じ態度を持つべきです。イエス様が私たちのために死んでくださったことを信じて、また、本当にキリストの愛に触れられるなら、私たちは福音を周りの人々に伝えるべきです。

私たちを迫害する人もいます。私たちが頭がおかしくなっていると思われる人もいます。私たちが素朴だと思う人もいます。でもイエス様を信じて、救われる人もいます。

あなたはどうですか。イエス様の愛があなたを捕まえているので、福音を周りの人々に伝えるでしょうか。

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使徒の働き25-26--神様からの召しに従う

この個所では、パウロはフェストゥスとアグリッパ王の前に現れました。このアグリッパ王は、ヤコブを殺したり、ペテロを殺そうとしたりしたヘロデの息子でした。

とにかく、ユダヤ人たちはもう一度、フェストゥスがパウロをエルサレムに送るように願いました。フェストゥスは、そこでパウロに裁判を受けさせようと思ったけど、実は、ユダヤ人たちはパウロがエルサレムに行く途中、殺そうと思いました。パウロはその陰謀をよく知っていたので、フェストゥスがパウロにエルサレムに行くように説得しようとするとパウロは、「カエサルに上訴します」と言いました。

フェストゥスはその願いを叶えたけど、ちょっと問題がありました。パウロの「犯罪」は、ユダヤ教の法律に関するものでした。だから、フェリクスはどのようにその「犯罪」をカエサルに説明するかよくわかりませんでした。つまり、フェストゥスはユダヤ教のことがよく分からなかったし、たぶん、カエサルもユダヤ教のことがよく分からなかったということです。

だから、アグリッパ王が来ると、フェストゥスが彼と相談したので、アグリッパは、パウロの弁明を聞くと言いました。

そして、パウロはもう一度自分の証しを語りました。パウロは何回もその証しを語ったので、毎回私たちはいろんな新しい詳細を聞きます。パウロはアグリッパと話した時、イエスからの使命を説明しました。イエス様はパウロにこう言いました。

わたしは、あなたを。。。[ユダヤ人たちや異邦人たち]のところに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるためである。(17-18)

イエス様は私たちに同じ使命を与えてくださいます。

私たちは周りの人々に福音を述べ伝えるべきです。その目的は?それは、彼らが自分の罪の鎖や、自分の心の暗闇を見るためです。そして、彼らがサタンの国から解放されて、神様の国に入って、また、彼らの罪が赦されて、イエス様を信じる信仰によって、神様の子供になるためです。

その召しに関して、パウロはアグリッパ王とフェストゥスにこう言いました。

私は天からの幻に背か(なかった。)(19)

あなたはどうですか。あなたはその使命を果たしているでしょうか。あなたは周りの人々に福音を伝えているでしょうか。

 

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使徒の働き24:26-27--高潔な人

フェリクスは神様の裁きについて聞くと恐れたけど、何回もパウロを呼んで、話しました。どうしてしょうか。

フェリクスにはパウロから金をもらいたい下心があったので、何度もパウロを呼べ出して語り合った。(26)

フェリクスはパウロに何を言ったでしょうか。

「ずっと牢にいるのは大変でしょう。あなたは自分の宗教に夢中だし。牢から出たくない?福音を伝えたいでしょう?あなたの神はきっとそう望むでしょう。」

または、

「教会の人たちはあなたのことを心配しているでしょう。ところで、たくさんのクリスチャンがいるでしょうか。どんな財源があるでしょうか。確かに、彼らはあなたを助けたいと思うでしょう?」

パウロは賢い人でした。フェリクスの希望をよく知っていたでしょう。でも、パウロはどうしても自分の良心に反しませんでした。二年ぐらいフェリクスはパウロと話したけど、結局フェストゥスという人は総監になりました。

パウロが賄賂を使って、牢から出るのは、簡単なことだったでしょう。いろんな「良い」言い訳を言うことができたでしょう。でも、パウロはそうしませんでした。なぜでしょうか。

一つ目の理由は、パウロは神様を愛していたことです。そして、神様のタイミングで、パウロは自分が釈放されると信じました。でも、釈放されなくても、パウロは神様の計画が一番いいと信じました。それに、パウロはイエス様を悲しませたくありませんでした。

二つ目の理由は、賄賂を使っていたら、パウロは自分の証しを滅ぼしたことです。ちょっと考えてみてください。パウロはフェリクスに正義や節制や、来るべきさばきについて話していました。だから、パウロが賄賂を使っていたら、フェリクスはどう思ったでしょうか。「やっぱり、パウロはそのことを本当に信じていないだろう。パウロが神様の裁きについて心配するなら、この賄賂を使わないだろう。」

でも、パウロは決して賄賂を使わなかったので、彼の証しは固く立っていました。

あなたはどうですか。不便な時でも、自分の良心に従うでしょうか。

決して自分の良心に反しないでください。もっと大切なのは、神様の言葉に反しないでください。神様に信頼し続けてください。神様は、「この場合、悪いことをしても良い」と絶対言いません。だから、神様の道を行くのを決めてください。

そうしないと、神様を悲しませるし、あなたの証しを滅ぼしてしまいます。

あなたはどうですか。あなたは高潔な人でしょうか。

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使徒の働き24章ーー神様のご計画のすべてを知らせること

パウロはエペソ人たちにこう言いました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(使徒の働き20:26-27)

「神のご計画のすべて」というのは、どういうことでしょうか。この個所では、パウロの意味を見ることができます。パウロはローマの総督フェリクスの前に来て、ユダヤ人たちの言いがかりを否定しました。

その日、フェリクスは何も決めていなかったけど、そのあと、何回もパウロと話しました。その時、パウロは自分の信仰について話しました。もちろん、パウロは神様の愛や、イエス様の十字架の働きや、信仰による救いに関して話したでしょう。でも、パウロはもう一つのことについて話しました。

しかし、パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じた。。。(25a)

つまり、パウロはこう言いました。「神様の目にあなたは罪人です。悔い改めないと、あなたはきっと裁かれます。」

フェリクスの反応は?

フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする。」と言った。(25b)

福音とは、ただ「神様はあなたを愛している」と言うメッセージではありません。

福音は次のようにも言います。「深刻な問題があります。あなたが罪を犯したので、神様はあなたを裁きます。だから、イエス様に向かって、悔い改めなさい。まだ時間がある間に、イエス様とその十字架の御業を信じなさい。」

そう言わないなら、私たちは彼らに神様の計画のすべてを知らせていません。そして、彼らが地獄に行ってしまうなら、彼らの血に対して、私たちには責任があります。

もちろん、私の目的はただ彼らを怖がらせるというものではありません。福音は良い知らせです。つまり、イエス様が十字架で私たちの罰を受けたので、イエス様を受け入れると、私たちは地獄に行く必要がないのです。それに、イエス様は私たちに豊かな人生を与えてくださいます。また、私たちは神様の喜びと平和を知ります。

地獄よりも、私たちはそんなことについてフォーカスした方がいいと思います。

それでも、私たちは彼らに警告するべきです。「もしイエス様を拒絶するなら、あなたはきっと裁かれます。」

フェリクスのように、それを聞いて、恐れてしまう人もいます。彼らは「今そのことについて話したくない」と言うかもしれません。でも彼らの反応は私たちの責任ではありません。

私たちは忠実に神様のメッセージを伝えるしかできません。

あなたはどうですか。あなたは神様の計画のすべてを人々に知らせているでしょうか。

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使徒の働き23:12-35--妨害されえることができない計画を持つ神

前の記事で書きましたが、神様は自分の計画を私たちの人生に果たしてくださいます。そして、どんな力でも、その計画を妨害できません。

この個所では、その真理の一つの例を見ます。あるユダヤ人たちは、パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしない、と呪いをかけて誓いました。だから彼らは祭司長たちの協力を願いました。

彼らは誰に誓ったでしょうか。それは神様に対する誓いだったでしょうか。それは、とても皮肉的な誓いでしょう。「神様。私たちは人を殺してはならないという戒めを違反して、パウロを殺害するように誓います。」

確かに彼らは別の言葉を使ったけど、基本的に、それが彼らの誓いでした。おまけに、祭司長たちはその誓いが正しいと思ったし、そのユダヤ人たちと協力しました。

でも、彼らは神様の計画を妨害できませんでした。神様の導きによって、パウロの甥はユダヤ人たちの計画を耳にしました。そして、神様が千人隊長の心の中で働いて、その千人隊長がパウロを守ったので、パウロは無事に裁判に行くことができました。だから、ユダヤ人たちの陰謀は無駄になりました。

私はこの話を読むと励まされます。私たちが神様の心に従おうとすると、時々この世は私たちに反対するようです。実にこの世は私たちに反対するときもあります。でも結局、だれも、またどんな力でも神様の計画を妨害できません。だから、紅海でモーセの言葉を覚えていてください。

恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。(出エジプト記14:13)

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使徒の働き23:11--私たちの近くに立つ神

時々、聖書を読むと、私たちは使徒たちやほかの聖書の登場人物をスーパーヒーローと見なします。例えば、彼らは勇気を持って、恐れずに死に直面します。もちろん、そのような話もあります。シャデラク、メシャク、とアベデ・ネゴは、そんな勇気を持っていたようです。(ダニエル書3章)

でも、神様を信じた人たちがいつもそんな勇気を持っていたかどうか、私はわかりません。結局、彼らはただの人間だから。だから、今日の個所を読むと、パウロの心の中で何を考えていたかに疑問に思います。

最高法院の人たちの論争がとても激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうと恐れました。だから兵士たちはパウロを最高法院の人たちの中から引っ張り出し、兵営に連れて行きました。

その夜、パウロは寝るとき、何を考えたでしょうか。彼は恐れたでしょうか。彼は、神様からの使命をちゃんと果たせるかどうか疑ったでしょうか。

パウロが何を考えていたか私にはわからないけど、イエス様はパウロを励ましました。

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
(23:11)

二つのことが、私の心を打ちました。

一つ目は、イエス様はパウロのそばに立ったことです。

私たちの一番暗い時、私たちが試練に入っているとき、私たちが恐れ、疑うとき、イエス様はいつも私たちのそばに立っています。

二つ目は、イエス様はパウロに、「勇気を出しなさい。」と言ったことです。

もし、パウロがもう勇気を持っていたら、どうして、イエス様は「勇気を出しなさい」と言ったでしょうか。

もしかしたら、パウロの境遇のため、彼はちょっとふらふらしたかもしれません。でも、イエス様は彼を安心させて、「勇気を出しなさい」と励ましました。

時々私たちの信仰も、ちょっと揺れます。神様の道を行くとき、私たちは本当に正しい道を行っているかどうか疑います。でも、イエス様はパウロに言ったように、私たちにも言います。「勇気を出しなさい。」

どうして私たちは勇気を持つことができるでしょうか。なぜなら、私たちの人生に、神様は自分の計画を成し遂げるから。また、サタンや、ほかの世の力は神様の計画を妨害できません。

イエス様はパウロにこう言いました。

あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11)

要するに、「あなたの敵について、心配するな。あなたは私の目的を果たします。だから、しっかりして、私に信頼しなさい。」

あなたはどうですか。あなたの境遇のため、あなたは信仰をだんだん失っているでしょうか。相手があなたに反対しているので、あなたは恐れているでしょうか。

勇気を出してください。イエス様があなたのそばに立っていることを覚えていてください。そして、イエス様に信頼し続けて、従い続けてください。イエス様が自分の計画を成し遂げる確信を持ってください。そして、パウロの言葉を覚えていてください。

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピりピ人への手紙4:5-7)

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使徒の働き22:30-23:10--蛇のよ うに賢い

イエス様は弟子たちに「蛇のように賢く生きなさい」と命じました(マタイ10:16)。この個所では、パウロはそうしました。

パウロが「狼」に取り囲まれたとき、彼の賢い言葉によって、最高法院は二つに割れました。パウロは何と言ったのでしょうか。

兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。(23:6)

パウロは本当のことを言いました。パウロはイエス様の復活を信じたので、裁きを受けていました。もちろんパウロはイエス様の名前を言わなかったけど、その言葉によって、復活を信じた人たち(つまり、パリサイ人たち)と復活を信じなかった人たち(サドカイ人たち)は割れてしまいました。だから、パリサイ人たちはパウロをかばい始めました。

もしかしたら、その言葉によって、イエス様を信じるようになったパリサイ人もいたかもしれません。それが本当に起こったかどうかわかりませんけど、あるパリサイ人たちはこう叫び始めました。

この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない。(23:9)

では、私たちは、この話から何を学ぶことができるでしょうか。

誰と話しているか、よく分かってください。

あなたは、福音に大反対する人に出会うかもしれません。でも、もしあなたがその人を知っていて、特に、彼らの考え方を知っているなら、神様はあなたにどうやって彼らを説得できるかを教えるかもしれません。そして、あなたの賢い言葉によって、福音の種は彼らの心に蒔かれるかもしれません。

だから、イエス様の言葉を覚えていてください。

わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。(マタイ10:16)

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マタイ21:37-22:29--私たちの偏見に目がくらむこと

この個所では、パウロは偏見に目がくらんでいた二つのグループに直面しました。

ユダヤ人たちは、自分たちを神の民と見なしたので、神様が異邦人の罪人を救いたいと思うことに目がくらんでいました。彼らが思ったのは、異邦人たちが救われるのに、ユダヤ人のようにならなければならないことです。それでも、彼らは、神様がその異邦人を受け入れても、異邦人はユダヤ人より低いレベルにいると思いました。

だから、パウロが、神様が異邦人のところにパウロを送ったと言うと、ユダヤ人たちはそのアイデアを全然受け入れられませんでした。

その反面、ローマ人たちは、ユダヤ人たちを見下しました。だから彼らは、ユダヤ人がローマ市民になることはあり得ないと思いました。そういうわけで、裁判の前にローマ市民をむちで打つのが不法だったのに、彼らはパウロをむちで打とうと思いました。パウロが千人隊長に「私はローマ市民」だと言ったとき、最初はその千人隊長は信じてくれませんでした。でも、自分の誤りが分かると、千人隊長は本当に恐れました。なぜなら、ローマ市民をむちで打つと、千人隊長自身が罰されるでしょうから。

では私のポイントは何でしょうか。自分の偏見に目がくらんだら、私たちはいろんなトラブルに出会います。もちろん、周りの人々は怒るけど、神様は私たちをその態度のために裁きます。

神様はすべての人々を愛しています。だからイエス様は一つの特別の人種のためではなく、すべての人種のために死にました。

そして、私たちがクリスチャンになると、神様は自分の子供を平等に愛しています。

パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)

だから私たちの偏見を捨てて、人々をありのままで受け入れましょう。彼らは神様のかたちとして創造されたし、神様に愛されたし、救い主が必要です。

 

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使徒の働き21:17-36--誤解された

この話の興味深いことは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解こうとしたけど、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちとの誤解を起こしてしまったことです。

クリスチャンのユダヤ人たちとノン・クリスチャンたち両方は、パウロの教えを誤解しました。つまり、彼らは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちがモーセの律法を全く捨てなくてはならないことを教えていると思いました。だからヤコブと他の長老たちは、モーセの律法に従って、パウロが四人のユダヤ人のクリスチャンたちと一緒に清める儀式に参加するように説得しました。それに、その四人が神様に対する誓願を守るために、パウロは彼らの費用を払ってあげました。(もしかしたら、彼らはナジルの請願をしたかもしれません)。

パウロはその意見に同意しました。ある聖書学者たちは、パウロが間違えたと思います。つまり、パウロは、その儀式に参加するべきではなかったということです。

私の意見だけど、パウロは正しいことをしました。なぜなら、ユダヤ人を救うために、パウロは、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったから。(第一コリント9:19-23)

とにかく、パウロは、ユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解いたけど、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちは、まだパウロがモーセの律法に反対したと思ました。さらに、彼らはパウロが異邦人を神殿の中に連れて行ったと思いました。(ユダヤ人の律法によれば、それは禁止されていて、神殿を汚す行為です。)

とにかく、私のポイントは何でしょうか。イエス様に従って、またその言葉に従っても、私たちは周りの人々に誤解される可能性があります。教会の人々でも、この世の人々でも、あなたを誤解するかもしれません。頑張って、その誤解を解こうと思っても、あなたのことが理解できない人もいます。

では、私たちはどうするでしょうか。イエス様に従い続けることしかありません。神様が私たちに言うことに従わなくてはなりません。私たちは、それしかできません。私たちはほかの人々の反応を神様にゆだねるべきです。

もちろん、私たちは自分の行為を反省するべきです。もしかしたら、彼らの批判は全く間違えているかもしれません。でも、もしかすると、相手の批判は、ある程度まで正しいかもしれません。だから自分の行為と動機を見極めてください。そして、神様の御心がわかる限り、神様に従ってください。またパウロの態度を取ってください。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:3-5)

 

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使徒の働き21:1-16--代価がどんなに高くても

この個所を解釈するのは、ちょっと難しいです。

どうして、神様はその預言をパウロに教えたでしょうか。神様は、パウロがエルサレムに行かないように、警告したいと思ったでしょうか。もしくは、神様はパウロが試練を覚悟するのを望みましたか。

私の意見だけど、たぶん、神様は、パウロがその試練を覚悟するために、あらかじめ警告したのでしょう。

イエス様が初めてパウロに現れたときから、パウロがユダヤ人たちや異邦人たちに福音を述べ伝えるために苦しむと警告しました。(使徒の働き9:15-16)

たぶんそういうわけで、ほかのクリスチャンたちがパウロがエルサレムに行かないように願ったとき、パウロはこう答えたでしょう。

あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(13)

つまり、代価がどんなに高くても、パウロはイエス様に従おうと努めました。だから、彼らが何を言っても、彼の気は変わりませんでした。

あなたはどうですか。神様は決して、私たちがスムーズな人生を送ると約束しませんでした。また、私たちが神様に従うと、すべての人々が私たちを愛することを約束しませんでした。実は、神様は正反対なことを約束しました。(ヨハネ16:33;第二テモテ3:12)

あなたはそのことをもう知っているかもしれません。でも試練に直面すると、あなたはどうするでしょうか。

その試練が来ると、神様が恵みと勇気を与えてくださるように。

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使徒の働き20章ーー走るべき道のりを走り尽くすこと

エペソ人のリーダーたちに対するパウロの最後の話では、いくつかのことは私の心を打ちました。聖霊様はパウロにいろんな試練に直面することを警告しました。でも、パウロはこう言いました。

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(24)

パウロにとって、福音を述べ伝えることは一番大切な仕事です。彼は忠実にそうしたので、こう言うことができました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(26-27)

でも、パウロはエペソ人のリーダーたちも、自分の走るべき道のりを走り尽くすように励ましました。つまり、神様が彼らに預けた教会の世話をすることです。パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。(28-31)

パウロがはっきり言ったのは、私たちが走るべき道のりを走り尽くさないように、サタンが私たちを攻撃することです。

一つの方法は、外からの攻撃です。つまり、迫害のことです。

でももう一つの方法があります。それは教会のうちからの攻撃です。つまり、真理を曲げる人が教会に入ることです。彼らはクリスチャンに見えるけど、実は、サタンからのうそを教えます。もし彼らに従うと、私たちは違う道を行ってしまいます。

だから、パウロはエペソ人たちに言いました。「注意しなさい。迫害も偽のクリスチャン・リーダーも絶対に来ます。」

私たちも注意しなければなりません。私たちの信仰のため、親しい家族や友達の間でも、私たちを迫害する人もいます。

また、神様の言葉をよく知らないと、ネットや、本や、私たちの教会で、サタンのうそを聞くと、私たちは騙されてしまいます。

それを聞いて、ちょっと怖いと思うかもしれません。「どうすればいいか」と思うかもしれません。でもパウロは、こう言いました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(32)

つまり、最終的に、神様とその恵みだけが私たちを最後まで守ってくださいます。神様の恵みは私たちを救ってくださいます。また、神様の恵みは私たちを守ります。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、神様が与えてくださった恵みによって走りましょう。私たちは一人で、また、自分の力で走る必要はありません。そして、神様の恵みによって私たちは走るべき道のりを走り終えます。

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使徒の働き19:23-41--手で造った神々に仕えること

この個所では、手で造った神々への礼拝のため、つまり、偶像礼拝のため、暴動が起りました。でも実は、デメテリオという銀細工人にとっては、その偶像ではなく、お金が彼の神でした。

彼がパウロに反対する理由を説明した時、その最初の理由は、エペソ人がクリスチャンになると、デメテリオとその同業の者の仕事の評判が悪くなって、その売り上げが下落することです。それは、彼の一番の心配でした。そしてその後、彼は「ところで、偉大な女神アルテミスは自分の威光を失います。」と言いました。

とにかく、その二つの神を礼拝したので、彼は群衆を扇動しました。幸い、町の書記官が彼らを落ち着かせました。そうしていなかったら、パウロは殺されたし、いろんな人が怪我したし、エペソ人たちはローマ帝国に裁かれて、厳しく罰せられたでしょう。

今でも、手で造った神々によって、人々の人生はめちゃくちゃになります。

お金に対する愛によって、結婚や、人間関係がだめになるし、教会や政府で、いろんなスキャンダルがあります。また、そのお金に対する愛のため、麻薬取引は大問題で、毎年たくさんの人々は死にます。

さらに、お金に対する愛や、偶像や、ほかの偽の神々によって、人々は神様に背を向けて、死に至る道を行きます。そして、彼らが悔い改めないと、命の源から離れて、永遠に地獄で苦しみます。

あなたはどうですか。あなたは手で造った神々に仕えているでしょうか。もしかしたら、本当の唯一の神に従っているでしょうか。手で造った神々を礼拝すれば、あなたは永遠に滅びてしまいます。唯一の神だけが命を与えられます。

あなたは誰に仕えているでしょうか。

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使徒の働き19:18-20--罪を捨てること

私たちがクリスチャンになると、神様は新しいスタートを与えてくださいます。それはとてもいい知らせですね。

この個所では、神様はエペソ人にも新しいスタートを与えてくださいました。多くの人々はクリスチャンになると、罪の道から離れ始めました。例えば、魔術を行っていた人たちは、その書物を焼き捨てました。その書物はとても高価なものだったけど、焼き捨てました。

それに、彼らが皆の前でそうしたので、周りの人々は彼らの決断を知りました。

この個所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。もし、私たちの心が本当に変えられたら、私たちの行動も変わるはずです。私たちが本当にイエス様を信じるなら、痛くても私たちの罪を捨てるべきです。

例えば、今まであなたの会社の業績が良いかもしれないけど、悪徳商法を行っているとします。そうすると神様は、私たちのやり方が変わるように望みます。

もしかしたら、私たちは彼氏や彼女と寝ているかもしれません。相手があなたと絶交しかねないけど、私たちの純潔を守るべきです。

でもそうするとき、私たちの動機をはっきりと説明するべきです。私たちはただ心を入れ替えたいと思うことではなく、神様に対する感謝を持って、私たちは違う道を行っていると伝えるべきです。つまり、イエス様の十字架の働きによって、私たちは赦されて、新しいスタートをくださったことです。そして、私たちの人生は、神様の愛や喜びや、平和で満たされています。

私たちが神様の道を行くと、私たちに怒る人もいるかもしれません。私たちをあざ笑う人もいるかもしれません。でも、私たちを通して、キリストの愛に触られて、イエス様を見つける人もいます。

エペソではそんな人もいました。エペソにいるクリスチャンを通して、神様はたくさんの人の心の中で働きました。だから、

主のことばは力強く広がり、勢いを得て行った。(20)

あなたはどうですか。神様はあなたに何の罪を捨てるように命じているでしょうか。

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使徒の働き19:11-17--本当の関係を持っている?

イエス様は十字架にかけられる前に、弟子たちにこう言いました。

わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。(ヨハネ14:12)

この個所では、そういうことを見ることができます。ルカはこう書きました。

(パウロ)が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出ていくほどであった。(12)

でも、ある祭司長の息子たちはそれを見て、イエス様の名前によって、人から悪霊を追い出そうとしました。でも、悪霊は答えました。

イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。(15)

そして、その悪霊につかれている人は彼らに飛びかかり、押さえつけ、打ち負かしました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちには神様と個人的な関係が必要です。

あなたのご両親や、兄弟たちや、親友達がクリスチャンでも、あなたがクリスチャンであるとは限りません。あなた自身には、神様との関係を持っていなくてはなりません。そんな関係を持っていないと、サタンはあなたを神の子供として認めません。でも、もっと大切なのは、神様はあなたを自分の子供として認めないことです。

もしかしたら、裁きの日に、あなたは神様にこう言うかもしれません。

「え?私を知らないのですか。毎週の日曜日に私は教会に行きましたよ。うちのお父さんとお母さんはあなたを知っているし、私の友たちもあなたを知っているよ。」

でも、神様はあなたにこう言います。「おまえのお父さんとお母さんを知っているし、おまえの友達もよく知っています。でも、おまえは何者だ。」

そして、あなたは神さまから永遠に離れてしまいます。

あなたはどうですか。神様との関係を本当に持っているでしょうか。神様を本当に知っているでしょうか。

 

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使徒の働き19:8-10--いつあきらめた方がいい?

私たちの愛している人々が福音を拒絶するを見ると、本当に苦しいです。でも、私たちが諦めて、その人を神様に委ねなくてはならない日が来るかもしれません。私たちは、いつそうするべきでしょうか。今日の個所では、私たちはその答えを見つけます。

エペソにいるとき、パウロは、いつも通りにユダヤ人の会堂に行って、イエス様について教えました。パウロは三か月ぐらいそうしたけど、結局ユダヤ人たちは、心を頑なにして聞き入れず、「道のこと」(つまり、福音)を悪く言いました。(9)

パウロの反応は?

パウロは彼らから離れて、別のところに行って、人々が福音を受け入れるところに行きました。

福音を伝えるとき、私たちは相手がもっと聞きたいというのを感じるときもあります。相手がそんな心さえあれば、私たちは彼らに福音を説明し続けた方がいいです。

でも、相手が自分の心を固くしたり、敵対的な態度を取ったりすれば、私たちは相手を神様の手にゆだねて、別の人に福音について話し始めた方がいいです。頑なな心を持つ人に福音を伝え続けるのは無駄だし、実際に相手の心をもっと固くするかもしれません。

私たちは相手を信じさせることができません。聖霊様だけが人の心を変えることができます。

パウロが言ったように、私たちは福音の種を植えることができるし、水を注ぐことができるけど、神様だけが成長させることができます。(第一コリント3:6-7)

だから、もし相手が私たちの言葉を拒絶するなら、私たちはちょっとどいて、その人の心を変えることができる方に譲りましょう。

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使徒の働き19章1-7--悔い改めることだけではく

この個所では、私たちはバプテスマのヨハネの弟子たちを見ます。ある意味で、彼らはアポロに似ていたけど、ある意味ではアポロと違いました。

アポロのように、彼らはバプテスマのヨハネに従いました。でも、アポロと違って、彼らは、ヨハネが誰を指したか分かりませんでした。

ヨハネは彼らにバプテスマを授けたけど、もしかしたら、ヨハネがイエス様をメシアとして宣言する前に、彼らは別のところに引っ越したかもしれません。つまり、彼らは罪を悔い改めたけど、イエス様に従っていませんでした。

だから、パウロは彼らにイエス様について教えました。そのあと、彼らはイエス様を信じたので、イエス様の名前によって洗礼を受けて、聖霊を受けました。

今日の要点は?自分の罪を悔い改めるのは、足りないのです。

「神様に従いたい」と言っても、それは足りないです。

あなたはイエス様を信じなければなりません。

イエス様は神様への道の一つというわけでもありません。神様への道は、イエス様しかありません。イエス様との関係を持っていないと、あなたが持っているものは無駄です。

あなたはどうですか。イエス様を信じているでしょうか。イエス様をもう受け入れましたか。もしまだ受け入れていないなら、今日イエス様を受け入れませんか。

天のお父様。私の罪を認めます。私は自分の道に行ったので、あなたや周りの人や自分自身をも傷つけました。赦してください。イエス様が十字架で私の罪のために死んでくださったことを信じます。また、イエス様が三日目によみがえられたことを信じます。イエス様、私の主になってください。私の王になってください。これから、私はあなたに従いたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

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使徒の働き18章24-28--教えをあっさり受ける心

私たちが、「もう知っている」という態度を取るのは簡単なことです。

例えば、私たちは日曜日に、牧師のメッセージを聞くとき、「もう知っている」と言います。

長い間、教会に行く人にとって、その態度を取るのは、特に簡単なことです。

正直に言うと、私もそんな態度を取ったことがあります。今でも、私はそんな態度に気を付けなければなりません。

私たちが神様や聖書に関して、いろんなことを正しく理解しても、まだまだたくさんのことを学ぶ必要があります。

この個所では、アポロという人はイエス様に関して、たくさん知っていて、その理解がある程度まで正しかったけど、その知識は不完全でした。だから、プリスキラとアキラというクリスチャン夫婦はアポロを「神の道をもっと正確に説明しました。」(26)

一番大切なポイントは、アポロはあっさり彼らの教えを受けたことです。アポロは「私はもう知っている」と言って、彼らの教えを断ったわけではありません。むしろ、その教えをよく学んだので、彼のミニストリーはもっと力強くなりました。また、彼は神の国のためにもっと実を結んだでしょう。

あなたはどうですか。あなたは成熟したクリスチャンで、聖書をよく知っているかもしれません。でも、あなたはまだ教えをあっさり受けるでしょうか。あなたは謙遜な態度をもって、まだたくさんのことを知らないと認められるでしょうか。

そんな心を保ってこそ、私たちはクリスチャンとして成長し続けるし、神様のために実を結び続けます。

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使徒の働き18:1-23--私たの責任を果たすこと

パウロがいつもしたのは、福音を述べ伝えることです。どこに行っても、パウロは、イエス様がキリストであることを伝えました。(覚えていてください。「キリスト」とは、名前ではなく、肩書です。ユダヤ人にとっては、「キリスト」とは「救い主」や「王」ということです。)

どうして、パウロは福音を述べ伝えたでしょうか。一つの理由は、イエス様がパウロにそう命じたということです。そして、イエス様は一回だけパウロにそう命じたわけではありません。パウロが救われたとき、イエス様はパウロにそう命じました。(使徒の働き9:15)

そして、この個所でも、イエス様はもう一度パウロにこう言いました。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(9)

でも、パウロには、福音を伝える理由がもう一つありました。パウロは、預言者エゼキエルに対する神様の言葉を覚えていました。

わたしが、悪いものに「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:18-19)

だから、コリントで、ユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶すると、パウロはこう言いました。

あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。(6)

そのあと、パウロはエペソ人の長老たちに似たことを言いました。(使徒の働き20:26-27)

私のポイントは?

私たちが知っている人に、福音を述べ伝える責任を持っています。彼らの反応は、私たちの責任ではありませんが、私たちは彼らに真理を伝える責任を持っています。そうしないと、神様は、彼らの血の責任を私たちに問います。

イエス様は、パウロに言ったように、私たちにも言います。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(9)

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使徒の働き17:19-24--もう一つのクリスマス

2000年前に、人々は最初のクリスマスを祝いました。

でも、我々クリスチャンたちは、もう一つのクリスマスを待っています。

一番最初のクリスマスの日、イエス様は赤ちゃんとして、この世に来ました。そして、イエス様の目的は、十字架で私たちの罪のために死ぬことでした。イエス様が私たちの罰を受けたので、今は天の父は私たちを赦すことができます。

でもパウロによれば、イエス様はもう一度来ます。しかし、今度はイエス様は、この世を裁くために来ます。

パウロはこう言いました。

なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義を持ってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方(イエス)を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。(31)

イエス様を拒絶した人々皆は、永遠に罰されます。

でも、イエス様を受け入れた人々皆は、この砕かれた世界から救い出されて、すべてが新しくなります。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(へブル人への手紙9:27-28)

あなたはイエス様がもう一度来ることに準備ができていますか。どのように準備するべきでしょうか。パウロはアテネ人と私たちにこう言います。

。。。今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(30)

「悔い改め」とは、正反対の方向に行くことを意味します。つまり、自分の道を行かずに、神様の道を行き始めることです。自分自身を頼らずに、イエス様に信頼し始めることです。

そうすれば、「次のクリスマス」が来ると、あなたは準備万端です。

あなたは、準備がもうできたでしょうか。

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使徒の働き17章10-28--解き明かされて、私たちから遠く離れてはおられない

私の一番好きな歌は、このように始まります。

As little children, we would dream of Christmas morn,
私たちが小さい子供の時に、クリスマスの朝についての夢を見たものです。
Of all the gifts and toys we knew we’d find.
つまり、私たちがきっと見つけるプレゼントやおもちゃについての夢を見ました。
But we never realized a baby born one blessed night,
でも、私たちが分からなかったのは、ある祝福された夜に生まれた赤ちゃんが、
Gave us the greatest gift of our lives.
最も素晴らしい贈り物だったのです。

その夜、目に見えない神は、目に見えるようになりました。また、知られていない神は、現れて、私たちに近づきました。

パウロはその真理をアテネ人たちに伝えようとしました。彼らは、「知られていない神」のために祭壇を作りました。

だから、パウロは彼らにこう言いました。「その神は知られるようになりました。その神は自分自身を私たちに現わしてくださいました。その神はたくさんの神々の一人なわけではありません。一人の神しかおられません。

そして、その神は、この世界とその中にあるすべてのものを造りました。

その神は天地の主で、命を与える神です。

その神が自分の計画に従って、全てをなさいました。その目的は?

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。(27a)

そして、神様を求める人のために、良い知らせがあります。

確かに、神は私たちに一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27b)

イエス様のもう一つの名前は、「インマヌエル」です。

クリスマスの良い知らせは、神様が私たちに近づいたので、私たちが神様を知るようにできることです。イエス様を通して、私たちは神様と親しい関係ができます。

神様は私たちに近づきました。だから毎日、神様に近づきましょう。

 

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使徒の働き17章16-20--憤りを覚えること

私たちがこの世の悪を見ると、もう気にならなくなるのは簡単なことです。もしかしたら、最初は私たちが見た悪のため、私たちは本当にそれが気になったかもしれません。でも、時間が経てば経つほど、私たちはその悪を見ることに慣れてきました。だから、私たちはもうその悪にほとんど気づきません。

でも、パウロはそうしませんでした。彼はアテネに行ったとき、たくさんの偶像を見ました。彼の反応は?

パウロは。。。町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。(16)

その「憤り」の原語は、新約聖書の中で、もう一つの個所だけで現れます。皮肉的なことだけど、そのほかの個所では、パウロは「愛は苛立だず」と言いました。

でも、今日の個所では、パウロは憤入りを覚えました。なぜでしょうか。この偶像のせいで、多くの人々は地獄に行っていたから。サタンは彼らをだましていて、苦しめていました。だからその人々が救われるように、パウロは大胆に福音を述べ伝えました。

あなたはどうですか。

周りの悪を見ると、あなたは憤りを覚えるでしょうか。不正を見ると、憤りを覚えるでしょうか。人々が悪いことを「良いこと」と呼ぶとき、あなたは怒るでしょうか。サタンが人々の命を滅ぼすとき、あなたは怒りを感じるでしょうか。

何も感じないなら、あなたの心の中で、何かが正しくありません。聖霊様があなたの心に住んでおられるなら、あなたは悪を見ると、無関心な態度を取ってはいけません。私たちは聖霊様に導かれて、この世に塩と光になるべきです。

イエス様はこう言いました。

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、018家にいるすべての人を照らします。(マタイ5:13-15)

あなたはこの世の悪を見ることに慣れすぎて、あなたは塩気をなくした塩になったでしょうか。悪に対するあなたの無関心な態度で、隠された光になったでしょうか。

私たちがそんなものにならないように。むしろ、私たちが周りの人々に触れるほど、悪に憤りを覚えるように。

沈黙で、悪を見ずに、神様の光として、この世に行って触れましょう。

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使徒の働き17:1-15ーー私たちが聞くことを吟味すること

現代では、私たちは、いろんな情報を簡単に獲得できます。特に、インターネットでいろんなニュースや、いろんな意見が聞くことができます。

私たちの信仰に関しても、その通りです。牧師はもちろん、一般のクリスチャンでも、神様や聖書について話して、彼らをフォローする人が多いです。でも、どれだけ私たちは彼らの言うことを吟味するでしょうか。

そうしないと、私たちの信頼にふさわしくない人の意見に流されてしまいます。テサロニケ人やべレア人たちの多くは、そのような人々でした。福音の敵は簡単に、パウロとシラスに対してその人たちを扇動して、大騒ぎを起こしました。どうしてでしょうか。その人たちはパウロの敵の言葉を吟味しなかったから。むしろ、彼らはすぐにパウロの敵のうそを信じました。

でも、パウロの言葉を信じた人の間で、聞いたことをちゃんと吟味しない人もいました。ルカはテサロニケ人たちとべレア人たちと比べると、こう言いました。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(11)

よく考えてみてください。パウロはとても偉い使徒でした。でも、聖霊様はルカを通してべレア人たちを褒めました。なぜでしょうか。彼らは簡単にパウロの言葉を受けたわけではありませんから。むしろ、彼らはパウロの言葉が聖書に合ったかどうかちゃんと吟味しました。

べレア人がパウロの言葉を吟味したのがいいことなら、私たちの牧師たちの言うことをも吟味するべきではないでしょうか。私たちは、有名な牧師やクリスチャンの作家の言葉も吟味するべきではないでしょうか。

でも、多くの人々は、聞くことを吟味しません。もし相手の言葉が正しいと聞こえて、あるいは、その言葉によって彼らは嬉しくなると、その言葉をすぐに受け入れます。その結果は?神様の道から離れて、彼らは偽の教えの風に吹き回されます。(エペソ4:14)

そうしないでください。私たちが聞くことを吟味せずに、神様の道を見逃さないでください。もしろ、パウロの言葉を覚えていて、従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(第一テサロニケ5:21-22)

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使徒の働き16:11-40--自由にされた

この個所のテーマの一つは、自由にされることです。

ルデヤとその家族は罪から救われました。もしかしたら、彼女らはユダヤ人の律法の要求からも自由にされたかもしれません。

ある女性は、悪霊の力から自由にされました。

看守は、(もしかしたらほかの囚人も)自分の罪から救われました。

そして、パウロとシラスは牢の鎖から自由にされました。

いろんな意味で、パウロとシラスの経験はそのテーマをまとめると思います。

彼らは牢に座っていて、むちの傷によって痛んでいたでしょう。それでも、彼らは祈ったり、賛美の歌を歌ったりしました。たぶん最初は、ほかの囚人たちがパウロとシラスが不思議な人たちだと思ったかもしれません。でも、その祈りと賛美を聞けば聞くほど、囚人たちはパウロとシラスの信仰の真実さが分かるようになりました。もしかしたら、彼らは神様の臨在を感じて、パウロとシラスに神様について訊いたかもしれません。

たぶん看守はそれを見て、その皆がおかしいと思って、自分の部屋に帰って寝ました。でも、突然地震が起こりました。そして、

たちまち扉が全部開いてすべての囚人の鎖が外れてしまった。(26)

その言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私たちが自分自身を神様にささげると、そんなことが起こりますから。霊的な牢の扉が開いて、その囚人の鎖は外れてしまいます。もちろん、私たちの人生にそんなことが起こるけど、私たちが触れる人々の人生にも、そんなことが起こります。

パウロが囚人に、「逃げないでください」と頼んだら、逃げた人がだれもいないほど、神様の愛はその囚人たちに触れました。

それを見て、看守は叫びました。

先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。(30)

その以前、サタンは看守とその家族をずっと縛っていたけど、パウロから流れた愛と憐れみによって、彼らはサタンの鎖から自由にされました。だから彼らは喜びました。

神様はあなたの周りの人々を自由にしたいと思います。だから、2000年前に天の父はイエス様を送ってくださいました。だから、神様の愛を彼らに与えましょう。また、パウロの福音のメッセージを伝えましょう。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(31)

その言葉を信じれば、あなたの周りの人々も救われます。

 

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使徒の働き16章6-10--神様の計画が私の計画と違う時

この個所はとても興味深いです。パウロとほかの宣教師といろんなところに行こうとしたけど、聖霊様に「ダメ」と言われました。

だから多分数日間か、もしかしたら数週間ぐらい、パウロたちはちょっとフラストレーションを感じたでしょう。でも、ある日、パウロは幻を見ました。その幻で、一人のマケドニア人はこう言いました。

マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。(9)

だから、パウロたちは、すぐにマケドニアに行きました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様の御心に従っていると思いながら、あっちこっちに行くのは簡単なことです。でも私たちはいろんな障害に何回も出会って、フラストレーションを感じてしまいます。

私たちの問題は何でしょうか。多くの場合、私たちは実際に神様の御心に従っていないのです。むしろ、私たちは神様の名前によって、自分の計画を果たそうとしています。

だからミニストリーをするとき、フラストレーションを感じているなら、ちょっと静かにしてください。そして、神様を求めてください。「神様、私の計画を祝福してください」と言わずに、「神様、あなたが何をなさっているか教えてください。私がどのようにあなたの仕事に参加できるか教えてください。」と祈ってください。

そうすれば、神様は自分の御心をあなたに表してくださいます。

あなたはどうですか。あなたは実際に神様の御心に従っているでしょうか。もしかしたら、あなたは、自分の計画に神様の名前を付けているでしょうか。

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使徒の働き16:1-5--すべての人に、すべてのものとなること

この個所では、私たちはちょっと妙なことを見ます。パウロは、たくさんの所に行って、クリスチャンたちに、異邦人に関する教会の決断を伝えました。つまり、異邦人たちが割礼を受けなくていいことです。それでも、パウロはテモテに割礼を受けさせました。どうしてでしょうか。

多分、テモテが純血のギリシャ人なら、パウロはテモテに割礼を受けさせなかったでしょう。テトスというひとが純血のギリシャ人で、パウロは彼に割礼を受けさせませんでした(ガラテヤ人への手紙2:3)。それに、テトスのミニストリーの対象は、ほとんど異邦人でした。

でも、テモテの場合、そのお母さんがユダヤ人で、テモテはユダヤ人たちにも福音を伝えたいと思いました。でも、テモテが割礼を受けないと、ユダヤ人たちは彼が言うことに決して聞くはずがなかったでしょう。だから、テモテはユダヤ人に仕えたいと思うなら、割礼を受けなくてはなりませんでした。

パウロはその真理をこのように説明しました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちにはーー私自身は律法の下にはいませんがーー律法の下にあるもののようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。。。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(第一コリント9:20,22)

では、私たちはパウロの模範から何を学ぶことができるでしょうか。

できるだけ、あなたが仕える人たちに、共感するべきです。そうしないと、彼らはあなたの言うことに聞いてくれません。

日本の宣教師として、私は日本人の言語や、文化や、考え方を学ぶべきです。

でも、あなたが自分の国に住んでも、周りの人々の考え方や、生活や、楽しいことを知るべきです。そして出来るだけ、相手のことを理解して、相手に共感しようとした方がいいです。

例えば、あなたは社交的な人かもしれないけど、相手は内気な人かもしれません。その場合、最初は、彼らを大きい教会に紹介しない方がいいかもしれません。むしろ、一対一で、彼らと時間を過ごすべきです。また、もう一人か二人のクリスチャンの友達にその人を紹介した方がいいかもしれません。

もしかしたら、あなたはスポーツがあまり好きじゃないかもしれません。でも、あなたが彼らに誘われたら、一緒に行った方がいいかもしれません。

簡単に言うと、できるだけ、相手のことを理解して、相手に共感しましょう。テモテもパウロもそうしました。

あなたはどうですか。神様はどんな人をあなたの人生に置いたでしょうか。彼らが救われるために、あなたはどのように彼らをもっと知って、彼らに共感できるでしょうか。

 

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使徒の働き15:36-41--もう一つのチャンスを与えること

この個所では、私たちは、パウロとバルナバが別れることを見ます。

その理由は、マルコという若い男性です。マルコがバルナバのいとこで、パウロとバルナバが最初の宣教旅行に行くとき、マルコも行きました。でも、なぜかマルコは早く帰ってしまいました。私たちは彼の理由を知りません。もしかしたら、彼はホームシックだったかもしれません。もしかしたら、福音の敵と対立するとき、彼は恐れたかもしれません。

とにかく、どうやらパウロはマルコの言い訳を受け入れられませんでした。

だから、パウロとバルナバがもう一度宣教旅行に行こうと思ったとき、バルナバがマルコを連れて行こうと言うと、パウロはその勧めに大反対しました。バルナバは怒って、マルコと一緒にキプロスに行って、宣教の仕事をしました。でも、パウロはシラスという人と一緒に別の所に行きました。

私はパウロの気持ちがよく分かります。信頼できない人と働くのは、とても難しいです。でも、この場合、パウロは自分が説教したことを忘れてしまいました。それは恵みです。

そのあと、パウロは、そのことが分かるようになりました。マルコは、もう一つのチャンスをもらって、バルナバと一緒に忠実に仕えました。そのあと、彼はペテロと一緒に忠実に仕えました。そして、結局、彼はパウロと一緒に忠実に仕えました。

パウロはマルコに関して、テモテにこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(第二テモテ4:11)

実は、パウロとマルコは、互に恵みを与え合わなくてはなりませんでした。パウロはマルコの過去の失敗を許さなくてはなりませんでした。でも、マルコはパウロの以前のマルコに対する態度を許さなくてはなりませんでした。互いに許し合ったので、その二人は祝福されました。

あなたはどうですか。あなたをがっかりさせた人がいるでしょうか。あなたを傷つける人がいるでしょうか。

神様は何回も私たちにチャンスを与えてくださるので、私たちは周りの人々にそんなチャンスを与えるべきです。

もちろん、私たちはすぐに相手を完全に信頼するべきだと言うわけでもありません。でも、私たちの信頼を得るチャンスを与えるべきです。そして、彼らが私たちの信頼に対するふさわしさを示せば示すほど、彼らをもう一度信頼してください。

天のお父様は、もう一つのチャンスを与える方です。神様の子どもとして、私たちもそうするべきです。

 

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使徒の働き15章ーー恵みだけ

この個所では、私たちは使徒の時代の一番大切な議論を見ます。

パウロとバルナバは、異邦人たちに福音を述べ伝えたけど、あるクリスチャンたちはパウロとバルナバの教えに反対しました。

つまり、パウロとバルナバはこう教えました。

ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについてこの方によって、信じる者はみな義と認められるのです。(使徒の働き13:38-39)

でも、あるユダヤ人の信者たち、特にパリサイ派に所属している信者たちは、そのことを受け入れませんでした。もちろん、彼らは、イエス様に対する信仰によって、人々が赦されることを信じましたが、もう一つの要求を加えました。つまり、異邦人たちは割礼を受けなくてはならないし、モーセの律法を守らなくてはならないことです。

だから、

パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じた。。。(15:2)

だから、彼ら皆はエルサレムに行って、使徒たちと長老たちと、その問題について話し合いました。

最初に、パウロとバルナバは、異邦人の間に神様の働きについて話しました。でも、そのあと、パリサイ人たちは立って、「それはいいけど、彼らはまだ割礼を受け、モーセの律法を守らなくてはならない」と言い張りました。

だから、侃々諤々の議論が始まりました。

私はペテロの思いが想像できます。

ペテロは子供の時から、ユダヤ人として育ていて、ずっとモーセの律法に従いました。たぶん彼にとって、異邦人に対する神様の恵みの言葉を受け入れるのは、まだちょっと難しかったかもしれません。だから、彼はパリサイ人の意見に共感できたかもしれません。

でも、コルネリウスの家に行ったとき、ペテロ自身は、そもそもそのメッセージを異邦人に伝えました。

だから、この議論を聞きながら、ペテロは、神様からの幻をもう一度覚えていたでしょう。(使徒の働き10:11-16)

そして、たぶん彼はもう一度その幻の教訓に悩んでいました。

でも、結局ペテロは、神様がユダヤ人と異邦人を分別しないという教訓を受け入れたので、皆にこう言いました。

。。。人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をされました。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神を試みるのですか。(8-10)

それを聞いて、皆は静かになりました。バルナバやパウロの異邦人との経験よりも、ペテロの言葉は彼らの心を打ったようです。そして、ヤコブは聖書によって、ペテロの言葉を確認したので、すべての異議がなくなりました。

では、この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

恵みだけによって、私たちは救われることです。

私たちはキリストのわざに、私たちの努力を足しません。

私たちが頑張った後、神様は私たちに恵みを与えてくださるわけでもありません。

私たちの努力を神様の恵みに足して、救われるわけでもありません。

私たちはキリストの十字架の御業だけによって、救われました。

でも、ペテロのように、私たちの多くにとっては、そのコンセプトが受け入れにくいです。だから、「私はやっぱりだめだ」と思って、神様が私たちを本当に受け入れるかどうか疑問に思います。

もしかしたら、私たちは周りの人々を裁いて、「あいつはだめだ」と思うかもしれません。

でも事実は、救いに値する人は、だれもいません。だから私たちには恵みが必要です。

私たちは救いに値しないけど、十字架でイエス様の血が流されたので、私たちは義と認められるのです。神様はもう私たちを受け入れています。だから、神様が私たちを受け入れるかどうか、悩まなくていいです。

それを本当に信じているでしょうか。

パウロの言葉を覚えていてください。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2:8-9)

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使徒の働き14章ーー苦難があっても

控えめに言っても、パウロとバルナバの宣教旅行はつまらないものではありませんでした。

彼らはいろんな成功に会ったけど、いろんな試練にも会いました。ある時、パウロが石打ちにされて、死にそうになりました。だから、彼らが失望して諦めるのは簡単なことだったでしょう。

でも、そうせずに、彼らが迫害されたところにさえに戻りました。どうしてでしょうか。その所の信者たちを強めて、信仰にしっかりとどまるように勧めるためです。彼らは何を言ったでしょうか。

私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。(22)

実は、私たちがそのクリスチャンたちなら、神様の祝福に関して聞きたかったと思います。でも、パウロは、その新しいクリスチャンたちが試練に直面することを知っていました。もし、パウロとバルナバが訪れた都市の人々がパウロとバルナバを迫害するなら、きっと新しいクリスチャンたちをも迫害するでしょう。

だからパウロは、その試練の可能性をごまかしませんでした。そのクリスチャンたちはきっと苦しみを経る、と言いました。

でも、良い知らせもありました。それは、彼らが、一人でその苦しみに直面する必要がなかったことです。神様がパウロとバルナバとともにおられたように、神様はそのクリスチャンたちとともにおられるでしょう。

さらに、アンティオキアのクリスチャンたちがパウロとバルナバを神様の恵みに委ねて、送り出したように、パウロとバルナバはその新しいクリスチャンたちを主に委ねました(23,26)。パウロとバルナバが確信していたのは、そのクリスチャンたちが試練に直面しても、神様の恵みが彼らを支えることです。

そのように、あなたがどんな試練や苦難に直面しても、神様はいつもあなたとともにおられて、その恵みによって、あなたはその試練を乗り切ります。

パウロとバルナバとともにおられた神は、あなたとともにおられます。だから、どんな苦難があっても、あきらめないでください。絶望しないでください。

私はもはやいろんな危険や、苦労や、罠を乗り切りました。
恵みは私をここまで無事に導いてくださいました。
また、恵みは私を主の家に導いてくださいます。

ジョン・ニュートン

 

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使徒の働き14:1-12--ただの人間

私はこの個所を読むと、罪に落ちた、たくさんの有名な牧師の名前は思い浮かびます。たくさんの人々は彼らを尊敬したけど、その牧師たちはその尊敬をなくしてしまいました。その時、クリスチャンたち皆は、その牧師たちがただの人間だと思い出しました。

でも、私たちが牧師を偉い人とみなすのは簡単なことです。たぶん私たちには、神様が見えないので、牧師たちを私たちの模範として考えて、その人を見上げて、従おうと思います。

でも、結局彼らもただの人間です。

あなたがリーダーでも、ただの教会のメンバーでも、私たち皆はそのことを覚えていなくてはなりません。

パウロはそのことをよく覚えていました。

パウロとバルナバはリステラに行ったとき、イエス様のみ名によって、ある人をいやしました。リステラの群衆たちはそれを見ると、パウロとバルナバを神々として礼拝しようと思いました。なぜなら、彼らの神話によって、その昔、 ゼウス ヘルメスという神々が人間として、人々の間に現れたけど、多くの人々は彼らを歓迎しませんでした。そして、彼らはその人々を罰しましたから。でも、彼らを歓迎する夫婦を祝福しました。

リステラ人たちは、その話を覚えていて、パウロとバルナバにいけにえを捧げたいと思いました。でもパウロとバルナバはそれを見て、叫びました。

皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。(15)

それでも、パウロとバルナバは、群衆がいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせました。

パウロはコリントの教会で似た問題に直面しました。その教会では、コリント人のクリスチャンたちは、どのリーダーが一番偉いか議論しました。でも、パウロは彼らにこう訊きました。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(第一コリント1:13)

また、

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(第一コリント3:5-7)

一番敬虔な人さえ「偉いクリスチャンとして」として尊敬するのは、危険なことです。なぜなら、彼らはただの人間だから。

人間は失敗します。

人間は私たちをがっかりさせます。

もし私たちの信仰の基礎が神様ではなく、その人なら、彼らが私たちをがっかりさせると、私たちの信仰はどうなるでしょうか。

パウロは私たちを警告します。

しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(10-11)

あなたの信仰の基礎は何でしょうか。あなたの牧師でしょうか。有名な著者や牧師でしょうか。もしくはイエス様でしょうか。

イエス様だけが私たちがが信用できる基礎です。イエス様に信頼すると、あなたは決して失望させられることがありません。(イザヤ書28:16;第一ペテロ1:6)

 

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使徒の働き13:4-52--対立

私がこの個所を読むと、「対立」という言葉が思い浮かびます。

パウロとバルナバが福音を述べ伝えるとき、エリマという人やユダヤ人たちは彼らと対立しました。

エリマは霊的な理由を持って、パウロとバルナバと対立しました。

ユダヤ人たちが彼らと対立する理由は、嫉妬と罪から生まれました。(でも、結局、福音に反対する人々皆には、霊的な理由があります。)

パウロとバルナバは、どのように反応したでしょうか。サタンがエリマを通して直接に攻撃した時、彼らは聖霊様の力によって戦いました。霊的な力と戦うとき、私たちは自分の力で戦うことができません。なぜなら、サタンと悪霊は私たちよりも力強いから。

でも、ヨハネはこう書きました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、聖霊様の力によって、パウロとバルナバはエリマに対して勝利を得て、セルギウス・パウルスという人とその家族が救われました。

プライドを持つ嫉妬深い人たちと対立するとき、パウロとバルナバは大胆に福音を述べ伝え続けました。

そして、ユダヤ人たちの心が固くなると、パウロとバルナバは、その都市の異邦人たちに福音を述べ伝え始めました。その後、彼らは別の所に行って、その所の人々にも福音を述べ伝え続けました。

そのように、自分勝手な理由で、私たちと対立する人もいます。

また、私たちが何を言っても、イエス様をどうしても信じない人もいます。だから、結局私たちは彼らを神様にゆだねなくてはなりません。神様は彼らを裁きます。

私たちはしいて相手にイエス様を信じさせることができません。私たちができるのは、ただ福音を伝えることです。その結果は、相手と神様の責任です。

だから、人々が福音を拒絶するなら、がっかりしないでください。大胆に福音を伝え続けましょう。

私たちみなは対立と向き合います。でも、その時、パウロの言葉を覚えていましょう。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙6:9)

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使徒の働き12:24-13:3--神様の働きのために聖別されること



私は宣教師になることについて初めて考えたときのことを、よく覚えています。

私は友達と話していて、なぜか宣教の仕事について話し始めました。

そして、私は彼にこう言いました。「神様は私を宣教師として召されていないと思う。」

私の友達は答えました。「どうして、そんな確信を持っているの?神様にもう訊いたの?」

「えっと。。。。」

そして、その夜、(もしかしたらその次の夜)、私は祈っているとき、その会話を思い出しました。だから私は神様にこう言いました。

「トニーさんに、あなたが私に宣教師になってほしいかどうか訊いた方がいいと言われました。」

それを言ったとたん、ある考えが私の心に入ってきました。きっと私からの考えではないと思います。なぜなら、私には宣教師になる意図が全然なかったから。

神様は私にこう言いました。「そうです。私に訊きなさい。」

私の反応は?

「私は訊きたくない。あなたが「はい」と答えるなら、私は本当に困りますから。」

そして、私はずっといろんな言い訳を言ったけど、神様が何も答えなくて、結局私は自分の言い訳が無駄だとわかりました。

だから、私は訊きました。「じゃあ、私に宣教師になってほしいのでしょうか。」

その晩、神様は答えなかったけど、その日がターニングポイントでした。私の心はちょっと柔らかくなりましたから。

2-3年か後、私の進路に関して祈りました。そして、ほかの友たちは私にこう言いました。「神様の導きを求めているなら、すべてを神様に捧げなくてはならない。」

私は帰る途中、神様はもう一度私の心に話しました。「ブルース、あなたは、日本に絶対行かないと言う心を持っているよ。」

それを聞くと、神様が意味したものは分かりました。その前の年、私は短い宣教旅行のために日本に来ていました。そのあと、「私はやっぱり日本向きじゃないだろう」と思いました。

私は意識的に「日本に絶対戻らない」と言わなかったけど、心の中でそう決めていました。

だから、その夜、私は心のすべてをもう一度神様に捧げました。

日本の宣教師になったのは、24年前でした。

どうして、私はこのことについて話しているでしょうか。

私の経験は、サウロとバルナバの経験に似ているから。

クリスチャンたちは神様の御心を求めているとき、神様はサウロとバルナバに言いました。「行きなさい。私の目的のために、あなたたちを聖別しています。」

ところで、この個所では、私たちは聖霊様の人格を見ることができます。聖霊様自身は彼らに言いました。

さあ、わたしのためにバルナバとサウロ聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい。(13:2)

だから、クリスチャンたちがもうちょっと祈ったり、断食したりした後、サウロとバルナバは聖霊様の導きに従いました。

今でも、私はどうして神様が私を呼んだか考えているところです。私はたくさんの良いことをしたと思うけど、神様がこれからどのように私を導くか分かりません。だから私の祈りは、「次の段階は何でしょうか。」ということです。

でも、神様は私や、宣教師たちや、牧師たちだけを呼ぶわけでもありません。神様はあなたも呼んでいます。神様は自分の目的のためにあなたを聖別しました。あなたはその目的をご存知ですか。あなたは神様が望んでいることをしていますか。もし、あなたがまだそうしていないなら、以下の祈りを祈りませんか。

天のお父様、あなたの愛によって、私を救ってくださいました。でも、私自身のために生きるために、あなたは私を救ってくださいませんでした。あなたは、私があなたに仕えるように救ってくださいました。聖霊様、助けてください。私の心にあなたの目的を語ってください。私がどこに行くべきか、何をするべきか教えてください。今まで、私の時間を無駄にしてしまいったときもたくさんあります。赦してください。私に語ってください。私を満たしてください。私を導いてください。あなたの目的のために。あなたの栄光のために。あなたの御国のために。あなたのみ名のために私はここにいます。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

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使徒の働き12:1-24--破滅に至る高慢

ソロモンはこの言葉を書きました。

高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18)

ヘロデ・アグリッパの人生で、私たちはその真理を見ることができます。

ちょっとややこしいですけど、聖書の中にはたくさんのヘロデがいます。

バプテスマのヨハネを殺して、イエス様の裁判に参加するヘロデはヘロデ・アグリッパとは違う人でした。それは、ヘロデ・アンティパスという人でした。アンティパスはヘロデ大王の息子でした。

そして、ヘロデ・アグリッパはヘロデ大王の孫で、アンティパスの甥でした。イエス様が小さい子どものころに、ヘロデ大王はイエス様を殺したいと思いました。ヘロデ大王のように、ヘロデ・アグリッパは暴力的な人でした。

ヘロデ・アグリッパはヤコブを殺したし、ペテロをも殺そうとしました。神様がペテロを救い出した後、アグリッパはペテロの番兵たちを殺しました。

ヘロデは権力者で、高慢な人でした。だから、ヘロデがツロとシドンの人たちに怒ったとき、彼らは謙遜にヘロデのところに行って、和解を願いました。

ヘロデの演説を聞いた時、彼らは叫んだ。

神の声だ。人間の声ではない。(22)

ヘロデが神様を認めず、その言葉を受け入れたので、天使はヘロデを打って、ヘロデは死にました。

神様が大嫌いなものの一つは、プライドです。なぜなら、私たちのプライドは、神様と私たちの間に立っている壁ですから。そのプライドによって、私たちは神様を必要としないと思って、神様から離れて生きようとします。

私たちのプライドは、私たちと他の人々の間にも立っている壁です。私たちのプライドのせいで、どれだけ私たちは自分の友人関係や、家族や、結婚や、ほかの人間関係を壊すでしょうか。

さらに、ヘロデの場合のように、私たちが悔い改めないと、プライドは私たちを破滅に至らせます。もし私たちがプライドを持って、「神様、あなたを必要としない」と言い続けるなら、神様は結局私たちの願いを叶えます。つまり、私たちは永遠に神様から離れて生きます。でも、神様から離れるなら、私たちは、命や、愛や、喜びや、平和からも離れてしまいます。なぜなら、その物の源は神様ですから。最終的に、ヘロデはそのことを学びました。

あなたはどうですか。あなたのプライドは、あなたと友達や、妻や、夫や、同僚や、教会の人々の間に立っている壁でしょうか。あなたのプライドは、あなたと神様の間に立っている壁でしょうか。

ペテロはこう書きました。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。(第一ペテロ5:5-6)

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使徒の働き12章1-19節ーー私たちの祈りに対する神様の反応。神様に対する私たちの反応

いろんな意味で、この話はとても興味深いです。一番面白いのは、天使がペテロを牢から救い出して、ペテロがマリアの家に行ってノックすると、ロデという召使いは興奮しすぎたので、ペテロは外で立っているままにされて、ほかのクリスチャンたちにその良い知らせを伝えたことです。

でも、この話を読むと、私はこう思いました。

「どうして神様はペテロを助けたけど、ヤコブを助けてくださらなかっただろうか。」

私たちはその答えを知りません。

クリスチャンたちはヤコブのためにも祈ったでしょう。そして、クリスチャンたちがペテロのために祈ったとき、もっと信仰を持っていたから神様が答えてくださったというわけでもありません。なぜなら、ロデが彼らにペテロが外にいると言ったとき、彼らはロデを信じてくれなかったから。もし強い信仰を持っていたら、彼らはすぐにドアを開けていましたでしょう。でも、そうせずに、彼らはロデが狂っているかどうかずっと疑問に思いました。

私たちは、クリスチャンたちの不信仰を批判できないと思います。なぜなら、彼らがヤコブのために祈ったのに、ヤコブは殺されましたから。彼らがヤコブのために祈ったとき、たぶん彼らの信仰はとても強かったと思います。なぜなら、その以前、神様は使徒たちを敵から救いだしてくださったから。(使徒の働き5章)

でも、神様はヤコブを救い出さずに、ペテロを救い出してくださいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

1.私たちがたくさんの信仰を持っても、神様は私たちの祈りに叶えてくださらない時もあります。時々、私たちの願いは神様の御心に合いません。だから自分の目的を果たすために、神様は私たちの願いを断ります。

その時、私たちはどう反応するでしょうか。

がっかりしても、私たちは神様に信頼し続けるでしょうか。神様の方法が最善だと信じ続けるでしょうか。また、私たちはがっかりしても、祈り続けるでしょうか。

この話のクリスチャンたちはそうしました。彼らががっかりしても、彼らの信仰をあきらめませんでした。彼らは神様に対する苦々しい思いを持っていませんでした。

むしろ、次の問題が来た時、彼らはすぐに祈り始めました。そして、彼らの弱い信仰なのに、神様の恵みによって、ペテロは救われました。

それは私の次のポイントです。

2.私たちの信仰や、不信仰は神様を限定させません。もちろん神様は私たちの信仰を望みます。でも、私たちの信仰が弱い時、神様はその不信仰によって限定されません。神様は恵み深い方で、私たちに値しないことも与えてくださいます。

でも私たちは神様のところに行き続け、神様が良い方であることを信じ続け、また、神様が最善のことを知って、することを信じ続けなければなりません。

神様は私たちの願いをいつも叶うわけではないけど、神様はそんな信仰をいつも祝福します。なぜなら、そんな信仰は神様を喜ばせるから。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

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使徒11:22-30--聖霊と信仰に満ちている人

バルナバはとても素敵な人でした。使徒の働き4章で、バルナバは、自分の土地を売って、貧しいものを助けるために、その代金を教会に捧げました。

そして9章では、使徒たちと他のクリスチャンたちがサウロを疑って、恐れたとき、バルナバは彼の肩を持ちました。

そして、この個所では、バルナバは異邦人たちに触れ始めました。クリスチャンたちが異邦人たちの中で実を見始めると、使徒たちはバルナバを彼らに遣わしました。

そして、23節にこう書いてあります。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。

そのあと、バルナバはサウロを呼んで、アンティオキアの信者たちに仕えました。(その場所で、信者たちは初めてクリスチャンと呼ばれました)。そして、大飢饉が起こる預言を聞いたら、バルナバとサウロはアンティオキアで救援のものを募集して、エルサレムまで持って帰って、そこの苦しんでいるクリスチャンたちを助けました。

でも24節は私の心を打ちます。

(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(24)

私はそんな人になりたいと思います。立派な人になりたいです。前にも言ったと思うけど、「バルナバ」とは、彼のニックネームでした。彼らの本名はヨセフでした。でも皆に好かれたので、彼は「バルナバ」、つまり、「慰めの子」と呼ばれました。

どうしてバルナバはそのように生きていたでしょうか。なぜなら彼は聖霊と信仰に満ちている人でしたから。

聖霊に満ち溢れたので、彼の人生から実を豊かに結びました。彼の心から愛が流れました。彼は人々を信じていました。他の人々がある人を信じてくれなくても、バルナバはその人を信じました。彼は惜しげもなく自分のお金と時間を人に与えました。さらに、彼の言葉によって、たくさんの人々は励まされました。

彼の信仰は、ただイエス様を信じるだけでもありませんでした。その信仰は、彼の人生のすべての面に浸透しました。周りの人々は、その信仰に気づきました。その結果は?

こうして、大勢の人たちが主に導かれた。(24b)

私はそのことを望みます。人々が私の人生を見て、イエス様に魅せられるほどに、私は聖霊と信仰に満ちる人になりたいと思います。

「私の信仰は個人的なものです。だから私の信仰についてあまり話さない」と言う人もいます。

ある人は、聖霊に満ちることが、ただ自分の益のためだと思います。彼らは祝福されたいと思います。

でも私たちは本当に聖霊と信仰に満ちているなら、私たちの人生は完全に変わります。

私たちの考え方が変わります。

私たちの生き方が変わります。

神様の愛は、私たちから流れて、人に触れるので、彼らは神様に魅せられます。

あなたはどうですか。あなたは聖霊と信仰に満ちているでしょうか。

天のお父様、あなたの御霊で私を満たしてください。私の信仰を増やしてください。私の人生を完全に変えてください。あなたの愛が私から流れて、人に触れますように。そして彼らがあなたの御国に入りますように。

私は自分自身を変えることができません。

でも、あなたは私を変えることができます。

毎日、私を満たしてください。

アーメン。

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使徒の働き11章ーー神がなさることを妨げること

ペテロはコルネリウスの家から帰ってきたら、教会の大騒ぎに臨みました。なぜなら、ペテロは教会のリーダーなのに、異邦人をもてなしたし、異邦人の家を訪れたから。さらに、その異邦人はローマの百人隊長でした。

だから、ペテロが家に入ると、彼らはペテロを囲んで、責め始めました。

あなたは、割礼を受けなていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした。(3)

そのユダヤ人たちにとって、ペテロの行為は怪しからんでした。なぜなら、ペテロはわざわざその異邦人と付きあって、自分自身を汚したから。

でもペテロは、何が起こったか説明しました。ペテロは、神様からの幻や、コルネリウスへの天使の戒めや、どうやって聖霊様はその異邦人たちを満たしたかを説明しました。

そしてペテロは彼らにこう言いました。

ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じた時に、私たちにくださったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。(17)

「どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」

どれだけ私たちは神様がなさることを妨げるでしょうか。

もしかしたら、私たちの偏見のせいで神様の働きを妨げるかもしれません。

また、神様が新しい方法で働くけど、私たちはその新しい方法に慣れていないので、その働きを妨げます。

もしかしたら、神様の働きは私たちの伝統に反対するかもしれません。

もしかしたら、私たちのプライドや、固くなな心のせいで、私たちはその働きを妨げるかもしれません。

「私の考え方が間違っている」と認めるのは、とても難しいです。

また、「神様はその人を用いることができる」と認めることは難し時もあります。

でも謙遜な態度をも持たないと、私たちは神様の働きを妨げてしまうかもしれません。

最終的に、私たちはパウロの戒めに従うべきです。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(5:21-22)

もちろん、新しいものが神様から来るかどうか吟味しなくてはなりません。でも、私たちは自分の心も試すべきです。私たちの考え方も試すべきです。私たちのプライドも試すべきです。

そのエルサレムにいるユダヤ人のクリスチャンたちはそうしなくてはなりませんでした。

彼らの結論は?

人々はこれを聞いて沈黙した。そして、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(18)

そして、彼は神様の働きを妨げずに、その仕事に参加し始めました。(19-26)

あなたはどうですか。あなたは神様がなさることを妨げているでしょうか。もしかしたら、あなたは神様の働きを見て、喜んで、その仕事に参加するのでしょうか。

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使徒の働き10:9-48--隔ての壁を打ち壊すこと

ユダヤ人たちが異邦人たちに福音を伝えるために、神様はとても大きい壁を打ち壊さなくてはなりませんでした。

皮肉なことだけど、一つの壁は神様の律法から来ました。それは清いと汚れたものに関する律法でした。

レビ記を読むと、あなたはそんな原則を何度も見ます。

「このものに触れるな。そうすると、あなたは不潔になるから。でも、この儀式をすると、あなた清められます。」

また、

「この動物を食べてはだめです。あなたにとって、それは汚れたものです。でも、あの動物は清いものなので、食べていいです。」

その律法の目的は何だったでしょうか。その目的は、大切なことの一つをユダヤ人に教えるためです。それは、神様が聖い方だということです。だから、神様との関係を望むなら、あなたも清くなくてはなりません。

でも、ユダヤ人のクリスチャンは、大切なことが分かりませんでした。それは、その汚れたものや清いものに関する律法は、(また、全ての儀式的な律法は)、彼らの神様との関係の描写であることです。

でも、イエス様がもう来ていましたので、彼らはその描写が要らなくなりました。なぜなら、イエス様にあって、本体は来ましたから。

とにかく、教会が生まれた後、クリスチャンたちの間に、この議論がありました。ユダヤ人の儀式的なルールに従うべきと言い張る人もいたし、そのルールに従わなくてもいいと言い張る人もいました。

コルネリウスに出会う前に、ペテロとほかのユダヤ人たちは、まだそのルールに従うべきだと思いました。

でも、神様は、その壁をぐっと打ち壊しました。神様はペテロに幻を示しました。その幻で、ペテロはいろんな汚れた動物を見ました。そして、神様はペテロに、「立ち上がり、屠って食べなさい。」

ペテロは面食らいました。もしかしたら、ペテロは、神様がペテロの忠実さを試していると思ったかもしれません。だからペテロは答えました。

主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(14)

でも、神様はペテロを厳しく叱責しました。

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(15)

ペテロがそのポイントがちゃんと理解するために、神様はその幻をペテロに三回繰り返しました。

そのあと、コルネリウスのしもべたちが来て、神様はペテロにこう言いました。

見なさい。三人の人があなたがを訪ねて来ています。さあ、下に降りていき、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。(19-20)

その幻を見ていなかったら、ペテロはコルネリウスのしもべたちと一緒に行くことを断ったでしょう。なぜなら、異邦人の家に入って、一緒に食べると、ペテロは汚れた者になったから。でも、ペテロはその幻を覚えていたので、彼らと一緒に行きました。

ペテロがコルネリウスの話を聞いて、また、聖霊様がコルネリウスとその家族を満たすことを見ると、教会は全く変わりました。それは教会のターニングポイントでした。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コルネリウスに対するペテロの言葉を覚えていてください。

神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか、汚れた者であることが言ってはならないことを、示してくださいました。(28)

もちろん、現代では、私たちはユダヤ人の儀式に従うべきかどうか議論しません。

でも、どれだけ私たちはほかの人を見下すでしょうか。

どれだけ私たちは、「その人は救いに値しない」と思うでしょうか。

また、彼らの人種や身分によって、どれだけ私たちは人を軽蔑するでしょうか。

また、相手からの傷のため、どれだけ彼らは神様の赦しに値しないと思います。

イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。だから、私たちには、「あいつが汚れたものだ」と言う権利はありません。

もちろん、コルネリウスのように、その人は罪で汚れています。でも、イエス様は、どんな人でも清めることができます。

福音をその人に伝えると、私たちはペテロのようにびっくりするでしょう。なぜなら、聖霊様はその人も満たすかもしれないから。

あなたはどんな偏見を持っているでしょうか。どんな人に対する苦々しい思いを持っているでしょうか。

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使徒の働き10章--福音を聞いていない人

クリスチャンが「天国への道はただ々一つしかありません。それはイエス様です。」と言うと、多くの人々はこう訊きます。「でも、イエス様のことを聞いていない人はどうですか。彼らは地獄に行くのですか?」

だから、多くのクリスチャンは、別の道もあるかどうか疑問に思います。でも、聖書によれば、ほかの道はありません。この話でも、その真理を見ることができます。

エチオピアの高官のように(使徒の働き8章)、コルネリウスという百人隊長は神様を畏れていました。

コルネリウスは貧しい者を助けたし、本当の神に祈りました。多分、彼はイエス様のことを聞いたことがあったけど、イエス様が救いの道であることを知らなかったようです。

だから、神様はコルネリウスに天使を遣わしました。もちろん、コルネリウスは怖がりました。「どうしてこの天使が来たんだろう?私の罪のために私を殺すんだろうか。」と思ったかもしれません。

でも天使はこう言いました。「あなたの祈りと施しは神の御前に上がって、覚えられています。さあ、あなたはもう救われましたよ。あなたは神様との平和を持っています。だから安心してください。」

天使は本当にそう言ったでしょうか。もし福音を聞いていない人が別の方法で救われることができるなら、天使はそう言っていたでしょう。

でも天使はそう言いませんでした。むしろ、コルネリウスの祈りと施しについて話した後、天使は、こう言いました。

さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。(5-6)

どうして天使は、コルネリウスにそのことをするように命じたでしょうか。コルネリウスが福音を聞いて、救われるためです。だから、コルネリウスは、その命令に従って、人を遣わして、ペテロを招きました。

ペテロは来て、コルネリウスの話を聞くと、こう言いました。

これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。(34-35)

そして、ペテロはコルネリウスを祝福して帰りました。

ペテロは、本当にそうしましたか。

違います。ペテロは福音を延べ伝えました。コルネリウスとその家族は福音を信じて、聖霊様に満たされました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

天国への道は一つしかありません。それは福音を聞いて、信じることです。神様はこの話を通してそのことを明らかにします。

でも、福音を聞いていない人はどうですか。彼らが神様に示されたことに反応すると、神様は彼らに反応します。

コルネリウスは、ユダヤ人から神様について聞いて、その真理に反応しました。エチオピアの高官も反応しました。

だから、もし福音が届いていない国に、ある人が神様の創造を見て、創造者が存在することを認めて、「創造者、自分自身を私に現わしてください」と願うと、神様はそうしてくださいます。神様は正義の方だから。また、神様は忠実な方だから。

どのように神様は自分自身をその人に現すでしょうか。神様は天使を遣わすかもしれません。もしかしたら、人を送るかもしれません。この話では、神様はその両方をなさいました。

私は宣教師のニュースレターで、そのような話を読みました。ある人は、「いと高き神」を信じたけど、その神に関して何も知りませんでした。だから彼は二十年間、毎日祈りました。「神様、あなたのことを知る人を私に遣わしてください。」

そして、宣教師が来ると、彼はすぐに信じました。

神様は正義の方です。だれかがほんとに神様を求めると、神様は必ずその人に福音を聞くチャンスを与えてくださいます。

だから、別の方法がある考え方を捨てましょう。他の道はありません。だから主の命令に従って、福音を世界果てまで持っていきましょう。

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使徒の働き9:3-43--人を癒す神。人を復活させる神。

この個所では、私たちは二つの素晴らしい話を読みます。アイネアとタビタに対するペテロの言葉は特に印象的です。

アイネアは八年間床についていた人でした。多分、彼は回復の希望が全くありませんでした。でもペテロは、彼にこう言いました。

アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。(34)

彼はたちまち癒されて、立ち上がりました。

タビタは死んでいたけど、ペテロは彼女にこう言いました。

タビタ、起きなさい。(40)

彼女は目が覚めて、復活しました。

ペテロの言葉はとても単純でした。でも、現代でも、人々はその言葉を聞く必要があります。

イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。もちろん、イエス様は体的な問題を癒すことができます。でも、多くの人々は感情的な問題や、霊的な問題もあります。彼らは過去からの傷もあるし、現在の傷もあります。彼らは「イエス・クリストがあなたを癒してくださいます」という言葉を聞く必要があります。アイネアを癒してくださったイエス様は彼らをも癒すことができます。

起きなさい。復活しなさい。多くの人々は自分の人生を見ると、なくなった希望しか見えません。彼らは離婚しようと思っています。彼らの将来性はなくなった。だから、彼らはイエス様が死んだものを復活させることができることを聞く必要があります。彼らは、イエス様が彼らの結婚や、将来性や、希望を復活することができることを聞く必要があります。だから私たちは彼らに、「起きなさい。神様に向かうと、神様はあなたを復活させてくださいます。」と伝えなくてはなりません。

人々はその二つのメッセージを聞く必要があります。この世の死にかけている人々にそのメッセージを伝えましょう。

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使徒の働き9章9:26-31--人々を信じること

前回のように、この話を読んだとき、私は、サウロがクリスチャンになった後にサウロに対するエルサレムのクリスチャンたちの反応を想像しました。彼らはサウロに会ったとき、どう反応しただろうか。つまり、彼らが前回サウロを見たとき、サウロはユダヤ人たちがステパノを殺すことに賛成したし、サウロ自身はたくさんのクリスチャンたちを迫害していました。

サウロはエルサレムに戻ったとき、彼はまずこっそりクリスチャンたちと話そうとしたでしょうか。もしかしたら、サウロは神殿に行って、使徒たちを見て、「こんにちは。私はクリスチャンになったよ」と言ったでしょうか。

何年か前、私はある有名なアメリカの牧師ラウル・リースという人のあかしを聞きました。クリスチャンになる前は、彼はとても暴力的な人でした。彼が自分の奥さんをしばしば虐待したので、結局、彼女は彼と離婚しようと決めました。その日、彼はかなり早く家に帰ってきて、奥さんのパックした荷物を見ました。彼女はクリスチャンで、ちょうどその時は教会にいましたが、家に帰ると逃げようと計画していました。

その荷物を見ると、リースさんは奥さんと子供たちを殺そうと思いました。さらに、彼らを殺したあと、自殺しようと思いました。でも待っている間、彼はテレビをつけてみると、ある牧師が話していました。その牧師が神様の愛について話していて、リースさんはそれを聞いて、泣き始めて、イエス様を主として受け入れました。彼はとても嬉しくて、家を出て、奥さんを探しに行きました。

でも、彼は奥さんを見つけられなかったので、帰りました。帰ると、彼は奥さんが泣いていることを聞きました。(そのクリスチャンの番組を見る前、リースさんはいろんなものや家具をあっちこっちに投げてしまっていました。)

ドアのカギがかけていたので、リースさんはノックしました。ドアチェーンがついたまま、奥さんはドアを開けて、「何が欲しいの」と訊きました。

彼は答えた。「私はクリスチャンになったよ。」

彼女の反応は?

彼女はそのドアをバタンと閉めました。

でも最終的に、彼女はリースさんを入らせました。1-2年間ぐらいかかったけど、彼女はリースさんをずっと見ていて、だんだんリースさんが本当に変わったことを信じるようになりました。

それはサウロに対する使徒たちの反応でした。サウロは「私はクリスチャンになったよ」と言ったけど、彼らはサウロを信じてくれませんでした。むしろ、彼らはドアをバタンと閉めました。

でも、リースさんの奥さんのように、バルナバはそのドアを開けてくれました。もしかしたら、その以前、バルナバはダマスコでサウロに会ったかもしれません。それとも、バルナバはダマスコにいる友達がいて、その友達がサウロの話を確認したかもしれません。

だからバルナバはサウロの肩を持って、使徒たちに「私はサウロの話を信じるよ。彼は本当に変わりました。」と言いました。

たぶん、使徒たちが本当にサウロを受け入れるのは時間がかかりました。でも、彼らはサウロをずっと見っていて、神様がサウロの人生に働くことが分かってきました。だから結局、彼らもサウロのことを信じるようになりました。

私の要点は何でしょうか。最悪な人でも、キリストに出会うと、変わることができます。だから私たちは彼らに自分のことを証明するチャンスを与えなくてはなりません。

あなたを傷つける人がいるかもしれません。でも、彼らはクリスチャンになって、「私は新しい人になったよ」と言います。それでも、あなたは相手を信じずに、避け続けます。私はその反応がよくわかります。

でも、バルナバのように私たちは彼らにチャンスを与えなくてはなりません。あなたが最初から相手を完全に信じなくてはならないと言うわけではありません。あなたが自分の心を守って、待って、相手をずっと見た方がいいと思います。そして、神様が彼らの人生の中で働いていることを見て、だんだん自分の心を開いてください。

なぜなら、神様は恵みによって、あなたにたくさんのチャンスを与えてくださったから。神様の子どもとして、私たちは周りの人々にそのチャンスを与えるべきです。

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使徒の働き9:19-25–イエス様があなたの人生を変えてくださると

この個所を読んだとき、私はダマスコの人々のサウロに対する反応を想像しました。

サウロはクリスチャンになった後、諸会堂に行って、説教するように頼まれました。多分、諸会堂のリーダーたちはサウロがクリスチャンを責めるメッセージをすると思いました。なぜなら、サウロがダマスコに来た目的はクリスチャンたちを捕まえることですから。

だから、サウロがイエス様が神の子、またイエス様がメシアであることを教え始めたとき、諸会堂のリーダーたちのショックを想像してください。

彼らは何を考えたでしょうか。多分最初は、彼らはぎょっとして、サウロがそんなことを教えるのが信じられなかったことでしょう。

もしかしたら、彼らは「サウロはクリスチャンになったことをふりして、クリスチャンたちをだまそうと思っているだろうか。まさか、サウロは自分が言っていることを本当に信じてはいないのでは?」と思っていたかもしれません。

だから、彼らはちょっとサウロと議論しはじめました。もしかしたら、彼らはサウロが弱い議論を与えると思ったかもしれません。でも逆に、サウロは彼らをやり込めてしまいました。だから最終的に、彼らは、「サウロは本当にイエス様のことを信じるようになった」と分かってきました。

彼らの反応は?彼らはサウロを殺そうとしました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがイエス様に従い始めると、私たちの家族と知りの間で、喜ばない人もいます。彼らは私たちの変化した人生を見ると、最初はぎょっとして、何も言わないかもしれません。彼らは、「ただある一つの時期を通過しているだけだ。」と言うかもしれません。

でも、私たちがイエス様に従い続けると、彼らは私たちに反対し始めるかもしれません。

そんなことが絶対に起こると言えないけど、その可能性もあります。でも、家族や共たちがあなたの信仰に反対するなら、それは本当に苦しいことです。

だから、イエス様は私たちに警告しました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。

もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対してに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネ15:18-21)

イエス様は、私たちがイエス様に従うと、すべての人々が私たちを愛することを、決して約束しませんでした。イエス様が約束したのは、イエス様が私たちをいつも愛して、私たちと共におられることです。(ヨハネ14:21,23)

さらに、イエス様は、私たちの家族や共たちが私たちを拒絶すると、私たちがイエス様にある新しい兄弟たちと姉妹たちを見つけることを約束しました。

だから失望しないでください。むしろ、この言葉を覚えていてください。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル人への手紙12:2-3)

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使徒の働き9:1-19--福音を伝える行くように選ばれました

昨日私は、「使徒の働き」の三つの話が、人を救うためにどうやって神様の選択と人の選択と、私たちが行って福音を伝える必要とが一緒に働くのかを説明しました。

この話は、二つ目の話です。

あるパリサイ人サウロは、キリストに対して頑なな心を持っていて、キリスト教を潰そうと思いました。もし、神様がサウロを放置していたら、サウロは地獄に行ったでしょう。でも、神様はサウロの人生に働きました。どうしてでしょうか。神様はサウロを救うことを選びました。神様がアナニアと話した時、私たちは神様の選択が見ることができます。

神様がアナニアに、「サウロの所に行って、助けなさい」と命じた時、アナニアは「え?本当に?あいつはクリスチャンたちを殺そうと思っているのに。」と答えました。

神様の答えは?

行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。(15)

昨日私は言ったけど、神様の答えは「仮に、神様が救いのためにもう人々を選んだとしたら、私は何もしなくていい。人々に福音を伝えなくてもいい。」という考え方を否定します。

アナニアがそんなことを神様に言うのが、想像できますか。

「じゃあ、あなたがサウロをもう選んだので、私はサウロのと所に行く必要がないでしょう?」

アナニアがそんな馬鹿なことを言っていたら、神様はどう答えたでしょう。多分、神様はアナニアにとても怒っていたでしょう。どうしてでしょうか。神様はアナニアに「行きなさい」と命じたから。

そのように、神様は私たちに「行きなさい」と命じます。

もちろん、神様は私たちの助けは要りません。でも、多くの場合、神様は私たちを通して人を救うことを選びます。神様は私たちに御国のカギを渡しました。もし私たちが行かず、福音を伝えないと、天国の門は人々にずっと閉まったままでしょう。

この話とつの話を読むとき、ちょっと注意してください。イエス様はサウロと直接話したし、天使は直接コルネリウスという百人隊長に現れたけど、神様は自分の民をその二人と話すように遣わしました。

そのように、神様は私たちが行って福音を伝えることを求めます。

ピリポは、神様にエチオピア人のところに行くように選ばれました。

アナニアは、神様にサウロのところに行くように選ばれました。

そしてサウロは、ユダヤ人たちや、異邦人たちのところに行って福音を伝えるように選ばれました。

あなたも、この世の民に行って福音を伝えるように選ばれました。

ある人はこう訊きました。

「God」という言葉の最初の二つの文字は何でしょうか。「Go」。

「Satan」(サタン)という名前の最初の三つの文字は何でしょうか。「Sat」。

私たちはずっと座らずに、この世の民の所に行って、福音を伝えましょう。

 

 

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使徒の働き8:26-40--私たちが行かないと

使徒の働きの三つの話では、私たちは、神様が人を救うのを選ぶ事と、その人の選択と、私たちが神様の証人として福音を伝える責任が一緒に働くことを見ます。

多くの人々は、神様の選択と人の選択に、どんな関係があるか疑問に思います。つまり、もし、ただ神様の選択によって、人々が救われたら、どうして神様が選んでくださらない人は裁かれるでしょうか。また、仮に神様がある人を選んだとして、どうして私たちはその人に福音を伝えなくてはならないでしょうか。

私はすべての疑問に答えられらないけど、その三つのことが真実であることは確実です。

この話の登場人物の一人はエチオピアの高官でした。彼はイスラエルの神に関して聞いたので、神様を礼拝するために、エルサレムを訪れていました。

ちょっと注意してください。ルカによれば、その人は神様を信じて礼拝したけど、神様は「その人はイエスのことを知らないけど、大丈夫です。彼が私のことを知って、頑張って私を礼拝しているので、それで十分です。」と言いませんでした。

むしろ、神様は天使をピリポに遣わしました。その天使はピリポにどこに行くべきか教えたし、ピリポがそのエチオピア人を見ると、聖霊様は「その人のところに行きなさい」と言いました。

そうすると、ピリポはそのエチオピア人がイザヤ書53章を読んでいることを聞きました。特に、その人はイエス様に関する預言を読んでいました。だから、ピリポはその人に聞きました。「あなたは、読んでいることが分かりますか。」(30)

そのエチオピア人の答えは、私の心を打ちました。

導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか。(31)

それを読んだとき、私はパウロの言葉を思い出しました。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ書10:14)

その答えは?彼らにはできません。もちろんそのエチオピア人にはできませんでした。だから、彼はピリポが馬車に乗るように誘いました。そして道中、ピリポは福音を説明しました。福音を聞くと、そのエチオピア人はイエス様のことを信じて、洗礼を受けました。そして、彼は福音のメッセージをエチオピアに持って帰りました。現代のエチオピアのクリスチャンたちの起源は、その一人のエチオピアの高官でした。

ここで、三つの注意事項があります。

1.救われるために、人々は福音を聞き、信じなければなりません。もし神様を畏れる人が福音を聞く必要がないなら、神様はわざわざピリポをそのエチオピア人に遣わさなかったでしょう。

パウロは、この質問も訊きました。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(ローマ10:15)

答えは同じです。彼らにはできません。でも、神様がピリポを遣わしたように、神様は私たちを周りの人々に遣わしてくださいます。

2.神様は間違いなくそのエチオピア人を救うことを選びました。ピリポが来るまで、その人は福音を聞く機会がなかったから、地獄への道を行っていました。でも、神様は働いて、福音を聞くチャンスを与えてくださいました。神様がそうしないと、その人は滅びたでしょう。

3.その人は福音を信じることを選ばなくてはなりませんでした。彼は信じたので、救われました。

どのように、この三つのことは一緒に働くでしょうか。どうやってその三つのことをバランスを取るでしょうか。私にはわかりません。でも、神様はよくご存じなので、私はそれを神様に任せます。

では、私の要点は何ですか。

行きなさい。

そのエチオピア人のように、多くの人々は地獄への道を行っています。そのエチオピア人のように、多くの人々はイエス様に関して聞かなくてはなりません。さらに、神様がピリポを遣わしたように、神様は私たちをも遣わします。

だから、イエス様の言葉を覚えていましょう。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

 

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使徒の働き8:9-24ーー賜物

多くの人々がキリスト教に関する分からないことの一つは、私たちが持っているもののすべてが神様からの賜物であることです。私たちの持ち物や、私たちの命さえ神様からの賜物です。でも私たちの一番素晴らしい賜物は、私たちの救いです。神様は私たちを罪の刑と力から救ったし、聖霊様を通して私たちのうちに住んでおられます。

私たちがその受けた恵みを実感すると、私たちの人生は全く変わります。どんな状況に入っていても、私たちは神様の愛が分かるし、私たちがどれだけ祝福されるか分かります。

でも今日の話では、シモンという人は、その教訓を決して学びませんでした。ピリポが来る前、シモンは力と名声を持っていました。彼は本当の奇跡を行っていたけれど、その力は神様からきたものではありませんでした。とにかく、その力を持ったから、彼は自分が偉大な人だと誇って、サマリアの人々もそう信じました。

でもある日、ピリポが来ました。彼は一般人だったけど、聖霊様に満たされていました。そして、シモンのわざと比べると、ピリポの奇跡の方が優れたものでした。だから、サマリア人たちはシモンに背を向けて、ピリポの言葉に聞いて、最終的に主を信じるようになりました。

シモンもイエス様を信じるようになりました。でも、彼が本当にクリスチャンになったかどうかわかりません。もしかしたら、本当にクリスチャンになったかもしれませんけど、彼の態度と行為は違うことを伝えます。

控え目に言っても、彼は恵みがさっぱり分かりませんでした。つまり、私たちは神様の恵みを稼ぐことができないことです。私たちはただ感謝をもって、その恵みを受けることができます。

だからシモンが、ペテロとヨハネが手を置くことで御霊が人々に与えられるのを見ると、シモンもその力が欲しくて、ペテロとヨハネから、その力を買おうと思いました。

でもペテロは答えました。

おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ。もしかしたら、心に抱いた思いが赦されるかもしれない。おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ。(20-23)

私たちが神様の恵みが正しく分からないと、どうなるでしょうか。

1.私たちは傲慢になります。私たちが神様から受けたものに値すると思い始めます。そして、ほかのクリスチャンが自分が持っていないものを持っているなら、私たちはうらやましくなるし、苦々しい思いを持ちます。

シモンはそのような人でした。ピリポが来る前、シモンは有名人でした。でもピリポやペテロやヨハネと比べると、彼は全然特別ではありませんでした。彼はもう一度有名人になりたいと思いました。彼は自分の名声を失って、苦々しい思いを持ちました。彼はヨハネとペテロとピリポを妬みました。だから彼は神様の賜物を買おうと思いました。神様の栄光のためではなく、自分の栄光のためです。

あるクリスチャンたちも、シモンと同じ問題を持っています。でも、ほかのクリスチャンたちは正反対の問題を持っています。

2.私たち自身は、全然価値がないと思います。私たちが悪すぎて、神様さえも私たちを救うことができないと思います。また、私たちが神様の賜物を受けることに値しないと思います。

シモンが本当のクリスチャンだったら、ペテロに叱責された後、正反対の問題に落ち込んだかもしれません。ペテロが彼を厳しく叱責したので、シモンは直接に神様の前に来て、赦しを願うことができないと思ったかもしれません。だから、彼はペテロに、「私のために祈ってください。」

でもへブル人への手紙の著者はこう言いました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:15-16)

神様の恵みに値する人は、誰もいません。だから神様から受けた賜物によって誇らないでください。周りの人賜物を妬まないでください。

でも同時に、私たちが神様の賜物を受けることに値しないのに、神様は喜んで良い賜物を自分の子どもに与えることを覚えていてください。

これから、恵みの意味を学びましょう。

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使徒のは働き8:1-8--喜びを広げること

この個所では、クリスチャンたちはエルサレムを出て、キリストからの喜びを広げ始めました。でも、彼らはエルサレムからちょっと押し出されなければなりませんでした。

ステパノが殺された後、サウルというパリサイ人はクリスチャンたちを迫害し始めました。

皮肉なことだけど、サウロはキリスト教をつぶそうと思ったけど、その迫害によって、キリスト教は広まって、たくさんの新しい教会が生まれました。それに、クリスチャンになった後、サウロが宣教しとしてその教会を訪ねて強めたり、たくさんの新しい教会を始めたりしたので、キリスト教はローマ帝国に浸透しました。

でも、使徒たちが初めからするべきことをちゃんとしていたら、神様はその迫害を許したでしょうか。イエス様は彼らに命令しました。

あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

そしてイエス様は天国に帰る直前に、弟子たちにこう言いました。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

でも、聖霊様が彼らの上に臨んだ後、使徒たち皆がエルサレムにとどまり続けました。もしイエス様が命令したように、彼らがエルサレムを出ていたら、教会は迫害されたでしょうか。また使徒たちは隠れなくてはならなかったでしょうか。そうかもしれないけど、もしかしたら、彼らはそのトラブルを避けていたかもしれません。

迫害が来ても、使徒たちはエルサレムにとどまり続けました。どうしてでしょうか。私は分かりません。彼らは自分の勇気を教会の人たちに示したいと思ったかもしれません。でも主の命令に対する彼らの不従順は続きました。

しかし、ほかのクリスチャンたちはエルサレムを出ました。執事の一人ピリポは、サマリアに行きました。イエス様はサマリアに行ったことがあったけど、多くのユダヤ人たちはサマリアを避けました。なぜなら、彼らはサマリア人たちを軽蔑したから。でも、ピリポはイエス様の模範に従って、サマリアで福音を述べ伝えたり、奇跡を行ったりしました。その結果は?

その町には、大きな喜びがあった。(8:8)

自己中心になるのは簡単なことです。私たちが自分のことだけを考えるのは、簡単なことです。でも、イエス様が望むのは、私たちが受けた喜びを周りの人々に分け合うことです。

多くの人々は苦しんでいて、イエス様を必要とします。だから、毎日私たちが聖霊に満ち溢れるように。そうなら、私たちが周りの人々に触れると、彼らは聖霊に触れられて、変えられます。

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使徒の働き6-7--神様を拒絶するパターン

この個所では、私たちは教会の最初の殉教者を見ます。それはステパノでした。6章では、使徒たちはやもめの世話するために7人の執事を任命しました。ステパノはその執事の一人です。

でも、彼がイエス様のみ言葉を述べ伝えたとき、宗教的なリーダーたちは彼と対立しました。ステパノは逮捕されて、最高法院の前に立たなくてはなりませんでした。そこで、いろんな証人はステパノに言いがかりをつけました。

ステパノは自分のことを弁解したとき、イスラエルの歴史を詳しく話しました。彼のポイントは?ユダヤ人たちが何回も、彼らを救うために神様が遣わした人々を拒絶したことです。

ヨセフの兄弟たちはヨセフを奴隷として売りましたけど、何年か後、飢饉のとき、ヨセフは彼らを救いました。

イスラエル人たちはモーセをも拒絶しました。モーセが王子の時に、彼らはモーセを拒絶したし、エジプトから出た後にも、彼らはモーセに反対しました。

彼らは神様が約束した地に入った後も、そのパターンは続きました。彼らは預言者たちの言葉を拒絶したし、偶像を礼拝しました。

そして、彼らはイエス様を拒絶して、殺しました。

それでも、彼らはまだ、「私たちは神様の民だ」と言い張りました。なぜなら、彼らは神殿で神を礼拝したから。

でも、ステパノは彼らにこう言いました。

しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。 ーー主の言葉ーー 私の安息の場は、いったいどこにあるのか。わたしの手が造ったものではないか。」(48-50)

ようするに、「もし、あなたたちがあなたを救うために神様が遣わした方を拒絶するなら、あなたの神殿は無意味です。」ということです。

最高法院の人たちの反応は?彼らの先祖のパターンに従いました。彼らはステパノを殺しました。

あなたはどうですか。あなたの人生のパターンは何でしょうか。あなたは宗教的な人かもしれません。あなたは毎週教会に行って、いろんな良いことをするかもしれません。

でも、イエス様をあなたの主と神として拒絶するなら、また、あなたに福音を伝える人を拒絶するなら、あなたの良い行為は神様の目には無意味です。むしろ以前、神様とそのメッセンジャーを拒絶した人のように、あなたは裁かれます。

救いへの道は一つしかありません。それはイエス様です。今日、あなたはイエス様を受け入れませんか。

天のお父様、私は罪を犯しました。私は自分の道を行って、あなたが遣わしてくださったイエス様を拒絶しました。赦してください。イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださり、感謝します。私の主と救い主として、あなたを受け入れます。あなたの御霊で私を満たしてください。毎日私がどのように生きた方がいいか教えてください。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

 

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使徒の働き6章1-7--牧師たちやリーダーたちができないこと

一番最初の教会は、成長するときに苦労しました。この個所では、一つの例を見ることができます。

教会の一つの役割は、貧しいメンバーたちのニーズに備えることでした。でも、教会がだんだん大きくなったので、そのミニストリーのための責任は大分増えました。

最初は、使徒たちはその寄付を集めて、食料を配給しました。だから、バルナバとアナニアは自分の畑を売った後、その代金を使徒たちに与えました。

でも、クリスチャンたちの人数が多すぎるようになって、使徒たちはその仕事をちゃんとできなくなりました。さらに、ヘブル語を使うユダヤ人のやもめたちは、食糧をちゃんともらったけど、グリシア語を使うユダヤ人のやもめたちは、何ももらっていませんでした。どうしてでしょうか。使徒たちがそのギリシア語を使うやもめをあえて差別したとは思いません。でも、たぶん彼らは忙しすぎたので、その仕事をちゃんとしなかったのでしょう。

では、彼らの解決は何だったでしょうか。

私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専門します。(2-4)

彼らはそうしたので、神様のことばはますます広まっていき、教会は急増し続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。一つのことです。

牧師たちやリーダーたちは、教会の役割のすべてを自分で果たすことができません。

でも、多くの場合、私たちはミニストリーのすべてをプロの人に任せてしまいます。しかし私たち皆がキリストの体です。私たち皆は自分の役割を果たすべきです。でも、自分の役割を果たすのに、私たちは聖霊に満たされなくてはなりません。

教会の仕事がちゃんとできなかったとき、多くの人々は文句を言ったり、リーダーたちを批判したりします。でも、私たちは毎日聖霊様に満たされて、自分の役割を果たすと、リーダーたちの重荷を取り去ることができます。そして、彼らは神様からの仕事に集中できるし、その仕事がちゃんとできるようになります。

私たち自身は自分の役割をしているでしょうか。

もう一つのポイントがあります。牧師たちは自分自身に訊かなくてはならないのは、「神様は、私に何をしてほしいだろうか?」ということです。そして、その役割を果たすために、彼らは何の役割を手放さなくてはならないか考えなくてはなりません。また、彼らは聖霊様に満たされている人々を育てなくてはなりません。そうすれば、そのメンバーたちは、牧師やリーダーができない役割を果たすことができます。

牧師たちやリーダーたちはミニストリーの役割のすべてをすることができません。私たち皆は(牧師でも、一番新しいクリスチャンでも)そのこと学ぶと、神様の教会は成長することができます。でも、そのことを学ばないと、神の国は広がらなくなります。

あなたはどうですか。あなたの役割を果たしてるでしょうか。

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使徒の働き5:12-42--止められない

この個所を読むとき、「止められない」という言葉が思い浮かびます。使徒の働きではなく、聖霊様の働きは止めれらないことです。

使徒たちはいろんな奇跡を行ったり、福音を述べ伝えたりしたので、神の国に入る人はますます増えました。

祭司長たちはそれを見て、使徒たちを妬みました。もしかしたら、彼らはこう思ったかもしれません。「私たちが祭司長で、神様の代表者なのに、どうして神様は私たちではなく、イエス様の弟子たちを通して働いているのだろうか。」

でも、たぶん彼らの心の中で、その答えを知っていたでしょう。彼らは使徒たちを責めた時、こう言いました。

おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人(つまり、イエス様)の血の責任をわれわれに負わせようとしている。(28)

彼らはイエス様の死の責任を逃れたいと思いました。なぜでしょうか。多分、復活の後、彼らは「私たちは間違えたのだろうか?まさかイエス様が本当にメシアだったのだろうか。」と思ったでしょう。

もちろん多くの祭司長たちやパリサイ人たちの気は変わりませんでした。でも、7節によれば、イエス様がメシアであることを信じるようになった祭司たちもいました。

とにかく、最高法院の人たちはもう一度使徒たちを逮捕して、彼らを責めました。使徒たちが、もうイエス様の名によって教えないように命じれたのに教え続けたから。

でもペテロの答えは驚くべきです。

人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。(29-32)

21世紀のクリスチャンにとって、その言葉は別に不思議ではありません。

でも、その言葉で祭司たちとサドカイたちは面食らったでしょう。彼らは宗教的なリーダーたちだけど、復活を信じませんでした。さらに、ペテロは、復活したイエス様を通して、神様がイスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えると言いました。

そして、彼らは、聖霊様の働きが彼らの言葉の真実さの証拠だと言いました。

バプテスマのヨハネが来るまで、聖霊様の働きを見ていた人は、400年間も誰もいませんでした。でも、使徒たちによれば、聖霊様は、預言者たちや祭司たちだけではなく、イエス様を信じる人のすべての上に注がれています。

さらに、使徒たちは、聖霊様に満たされているはずの祭司たちにそのことを言いました。

だから、祭司たちやほかの最高法院の人たちはその言葉を受け入れることができませんでした。彼らは使徒たちを殺そうと思ったけど、ガマリエルというパリサイ人は立って、こう言いました。

この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。(38-39)

私は前にも言ったけど、祭司長たち自身は、自分が間違えていたかどうか疑問に思い始めていたでしょう。ガマリエルの言葉に彼らの反応はその疑いを現します。もし彼らは、間違えなくイエス様が偽のメシアだと思ったら、使徒の働きは神様から出たものの可能性を受け入れることができませんでした。

でも、その疑いがあったので、使徒たちを釈放しました。そして、使徒たちは、イエス様がメシアであることを教え続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。神様の民が聖霊様に満たされたら、聖霊様の働きは止められないのです。私たちは社会情勢を見ると、絶望するかもしれません。迫害を見ると、私たちは本当に苦しむかもしれません。でも、相手が私たちを苦しめても、私たちが聖霊様に満たされるなら、神様が私たちを用いて、神様の国は広がります。

だから失望しないでください。むしろ聖霊様の力によって、大胆に神様からの使命を果たしましょう。

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使徒の働き5章1-11--罪の深刻さ

使徒の働きの話の中で、これは最も衝撃的な話かもしれません。でも、この話は罪の深刻さを現します。

バルナバという人は、自分の畑を売って、その代金を使徒たちに与えました。そのお金は貧しいクリスチャンたちを助けるためでした。

多分、使徒たちやほかのクリスチャンたちはそれを見て、バルナバを褒めました。(実は、バルナバの本名はヨセフでした。ヨセフがその代金を与えた後、ほかのクリスチャンたちは、ヨセフを、バルナバ(つまり、「慰めの子」と呼び始めたかもしれません。)

アナニアとサッピラというクリスチャンたちが皆の反応を見たので、彼らも自分の土地を売り払って、その代金の部分を使徒たちに与えました。でも問題がありました。彼らは気前がいい人たちに見えたけど、彼らの動機は悪かったのです。

問題は彼らが代金の部分だけを与えたわけではありませんでした。ペテロによれば、それは彼らの選択でした。もし50%を与えても、それは大丈夫だったでしょう。もし、10%しか与えなくても、それでも大丈夫だったでしょう。

後でパウロは献金に関してこう書きました。

一人ひとり、いやいやながちでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

簡単に言うと、神様は私たちがどれぐらいお金をささげるか気にしません。神様が気にするのは、私たちの心がどれぐらい神様に属することです。

アナニアとサッピラの心がどれだけ神様に属したか分からないけど、やっぱり100%ではありませんでした。彼らはお金に執着しました。また、彼らは、周りの人々の感心を慕い求めました。

だから、彼らはうそをつきました。ペテロだけにうそをつくわけではありません。教会の人たちだけにうそをつくわけではありません。彼らは神様にうそをつきました。

もしかしたら、それが単なるうそわけではなかったかもしれません。もしかしたら、彼らはモーセの律法に従って、誓いを言って、その代金を捧げたかもしれません。(レビ記27:28)

だから、彼らがその代金の部分を自分自身のために取っておいたら、その誓いを破ったでしょう。神様はその罪を深刻に考えたので、アナニアとサッピラを打って殺しました。

あなたは、その刑が厳しいと思うかもしれません。もちろん、それは厳しい刑でした。

でも覚えていてください。私たちは、ある罪のことを小さいと思うかもしれないけど、神様にとっては、その罪は凄く深刻なことです。

もしかしたら、アナニアとサッピラは、「これはとても小さい嘘です。誰も傷つかないし。」と思ったかもしれません。

でも、小さい罪は私たちの心の情勢を現します。アナニアとサッピラの罪は、彼らの偽善や、欲張りや、嫉妬や、プライドを現しました。

さらに、私たちにとっては、小さい嘘をつくのは些細なことだと思うかもしれないけど、イエス様がその罪のために死んだ必要があったほどに、その罪は深刻なことでした。

あなたは「些細な」罪を犯すでしょうか。神様の目には、その罪は全然些細なことではありません。だから自分の心を探ってください。

その罪は、あなたの心の情勢に関して、何を現すでしょうか。

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使徒の働き4:32-37--一致、力、と恵み

教会はどういうものであるべきでしょうか。この個所では、私たちは良い模範を見ることができます。

一致

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。(32)

現代の教会はそんなことを言えるでしょうか。2000年前のクリスチャンたちは、自分たちの心と思いを一つにしました。彼らは自分の所有しているものを自分のものと言うことさえしませんでした。彼らは、自分の物が主のものだと見なしました。だから、兄弟たちや姉妹たちに必要があれば、彼らはそのニーズに備えました。それゆえ、クリスチャンたちの間では、飢える人がいませんでした。

でも、今は、多くのクリスチャンはそのように考えません。十一献金のメッセージを聞くと、彼らは「でも、それは私のお金だ」と言います。「十一献金は旧約聖書の時代のためでした。それは私に関係ないです。」

正直に言うと、十一献金は旧約聖書の時代のためだと思います。でも、「あなたのお金」は、実際にあなたのものではありません。神様があなたに才能や健康なからだを与えたので、あなたはお金を稼ぐことができます。だから、実は、そのお金は神様のものです。

使徒の働きの時代に、クリスチャンたちがそれを認めたので、彼らは神様に与えてくださったことを惜し気もなく分け合いました。その結果は。。。

恵み

大きな恵みが彼ら全員の上にあった。(33b)

もちろん神様は直接私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを赦してくださるし、いろんな祝福を与えてくださいます。でも神様は、私たちがその恵みのパイプラインになるように望みます。私たちは、自分が受けた恵みを周りの人々にシェアするべきです。でも、私たちが自己中心で、その恵みをシェアすることを拒むなら、そのパイプラインは詰まるようになります。

その反面、私たちが自分自身から目を離して、周りの人々を愛するなら、教会の中で恵みは豊かに溢れます。

ちから

使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし(ました)。(33a)

その力によって、彼らはいろんな奇跡を行ったし、彼らの証しがその世界を全く変えてしまいました。

その同じ御霊は現代でもそんなことができます。だから私たちはそのために祈るべきです。癒しの奇跡だけではなく、変えられた人生という奇跡のために祈るべきです。つまり、聖書を伝える人が話すとき、私たちは、聖霊様が彼らを通して働くように祈るべきです。聖霊様の力が抜けたら、牧師のメッセージは無意味なものとなってしまいます。だから、聖霊様が私たちの牧師たちを満たして、彼らを通して話すように祈りましょう。

でも、それだけでなく、聖霊様が私たち自身を満たして、私たちを通して働くように祈りましょう。なぜなら、私たちも神様の祭司たちですから。

一致、恵み、と力。2000年前の教会のように、現代の教会がその三つのことで満ちるように。

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使徒の働き4:1-31--御霊に満たされ続くこと

この個所を読むと、二つのことに気づきました。

最初に、御霊に満たされることはただ一回の経験ではありません。むしろ、神様の民は何回も御霊に満たされました。この個所で私たちはそのことを見ることができるし、使徒の働き中にそのことを何回も見ることができます。

二つ目のポイントは、御霊に満たされるのは、特別な目的があることです。この個所では、私たちは二つの目的を見ることができます。つまり、大胆さと力ということです。

ルカは最高法院の人たちに関してこう言いました。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(13)

ちょっと考えてみてください。ペテロとヨハネは逮捕されて、徹夜で禁固されました。だから、彼らが最高法院の前に出させられたとき、宗教的なリーダーたちは彼らが怖がると予想しました。でも、ペテロとヨハネは大胆にイエス様のことを伝えたり、聖書を引用したりしました。さらに、彼らはこの驚くべきことを言いました。

この方(イエス様)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(12)

彼らは世間一般の漁師でした。彼らは特別な宗教的な教育を受けていませんでした。でも、彼らは力と大胆さをもって、そのことを伝えました。さらに、そのリーダーたちが彼らをどんなに迫害しても、ペテロとヨハネを黙らすことはできませんでした。

それに、そのリーダーたちはまだイエス様の空っぽなお墓を説明できなかったし、その癒された足の不自由な人の奇跡を否定できなかったので、ペテロとヨハネの言葉に反ばくできませんでした。

だから協議した後、彼らはもう一度ペテロとヨハネを脅かして、イエス様の名によって語ることも教えることも禁止しました。

でも、ペテロとヨハネはもう一度大胆に答えました。

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。(19-20)

そのリーダーたちはそれを聞いて、その二人をもっと脅かしたけど、結局彼らを釈放しました。

ペテロとヨハネはほかのクリスチャンたちに会ったとき、一緒に祈りました。特に、全ての人々がイエス様がメシアであることを知るように、神様がクリスチャンたちに大胆さと力を与えるように祈りました。

そのあと、

集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。(31)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、私たちがイエス様のためにこの世に影響を与えたいと思うなら、私たちの中の聖霊の臨在が必要ということです。私たちはただの一般人かもしれないけど、聖霊を通して、私たちが大胆さと力を持つので、神様は私たちを通して素晴らしいことができます。

でも、どれだけ私たちはその大胆さと力を欠くでしょうか。私はその感じがよくわかります。私は自分の欠点と弱さを知って、自信を持たないときも多いです。

だから、私たち皆は、聖霊に満たされ続かなくてはなりません。私たちは御霊の器だけど、いろんなひびがあります。私たちが疲れるときもあります。私たちがこの世のものにのめり込んでしまうときもあります。私たちが絶望するときもあります。だから毎日、さらに毎秒、私たちは神様の仕事をするために聖霊様に満たされなくてはなりません。

聖霊様、私はあなたが必要とします。だから毎日私を満たしてください。この世の民はあなたが本当に必要とします。だからあなたの仕事をするために、私を力と大胆さで満たしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き3:17-26--祝福を受けることができる前

多くの人々は、神様からの祝福を望みます。

実は神様は、自分の子どもに贈り物を与える父です。神様の子どもとして、私たちは祝福を期待することができます。

でも、その祝福を受ける前に、私たちがすべきことがあります。ペテロはユダヤ人たちにこう言いました。

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。。。モーセはこう言いました。「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。その預言者に聞き従わない者は誰でも、自分の民から断ち切られる」。。。神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなた方一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(19-20、22-23、26)

ようするに、「モーセ自身が、モーセのような一人の預言者が来ると言いました。そしてモーセは、あなたがたがその預言者に聞き従わなければならないと言いました。そうしないと、あなたがたは自分の民から断ち切られます。そして、その預言者はもう来ました。イエス様がその預言者でした。だからイエス様の言うことを聞いて、悔い改めなさい。あなたを祝福するために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。でも、まずあなたたちが悔い改めなくてはなりません。そうすれば、イエス様があなたたちの罪をぬぐい去るし、回復の時、また祝福の時は来ます。」ということです。

ペテロはその言葉をユダヤ人たちに言ったけど、その言葉は私たちにも当てはめられます。

神様はまずイエス様をユダヤ人たちのために遣わしたけど、神様は私たちのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そして、イエス様がユダヤ人たちを祝福するように、私たちをも祝福してくださいます。

でもその前に、私たちは悔い改めなくてはなりません。私たちは自分の道を行き続けることができません。私たちはイエス様に聞き従わなければなりません。そうしないと、私たちは決して神様からの祝福を知ることができません。おまけに、私たちは神様の民から断ち切られて、神様の国に入ることができません。

多くの人々は神様からの祝福を望むけど、自分の道を行き続けたいと思います。自分勝手の条件で、その祝福を望みます。でも、その祝福を望むなら、自分勝手の条件ではなく、神様の条件に従います。

もちろん救いはその通りです。自分勝手な条件では、救いを得られません。つまり、あなたの良い行為を通して、その救いを得られないことです。むしろ、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはなりません。ただイエス様に対する信仰を通して、あなたは神様に義と認めれらます。

でも、私たちの救いを得た後、同じ原則で私たちは生き続けます。もし、私たちは自分の道を行くなら、神様からの祝福を期待することができません。私たちは神様の道を行かなくてはなりません。

では、私たちは何とかその祝福を稼がなくてはならないでしょうか。違います。私たちは決してそんなことができません。

でも、神様は私たちの信仰を望みます。私たちは神様に従うほどに、神様を信じるでしょうか。それなら、私たちはその祝福を知ります。

ノアが箱舟を作ったとき、その教訓を学びました。

アブラハムがカナンに行ったとき、その教訓を学びました。

ダニエルが王の食べ物を拒絶したとき、その教訓を学びました。

聖書の時代でも、現代でも、多くの人々はその教訓を学びました。

あなたは神様からの祝福を望んでいるでしょうか。

あなたはどれだけ神様を信じるでしょうか。自分の道をやめて、神様の道を行くほどに、神様を信じるでしょうか。

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使徒の働き3:11-16--私たちじゃない

ペテロとヨハネが癒してくれた乞食が歩いたり、飛び跳ねたり、大きな声で神様を賛美したりすると、周りの人々は本当に驚きました。その人は40年間ぐらい歩くことができなかったから。でも、すぐに、彼らはペテロとヨハネをもぽかんと見つめ始めました。

でも、ペテロは彼らにこう言いました。

イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や、敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。。。このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。(12,16)

ペテロの言葉の中に、私たちは本当に大切なことを見ます。

私たち自身は、自分の人生の中心ではありません。大切なのは、私たちではありません。大切なのは、私たちができることではありません。

大切なのは、イエス様です。大切なのは、イエス様が十字架で行った御業です。大切なのは、今イエス様がしていることです。

ペテロが高慢な態度で、「私たちを見て。凄いでしょう?神様は私たちに素晴らしい力を与えてくださった。私たちは本当に恵まれているでしょう?」と自慢するのは、簡単だったでしょう。

でもそうせずに、ペテロはイエス様を示しました。ペテロとヨハネではなく、イエス様がその人を癒したと指摘しました。

また、ペテロが言ったのは、その奇跡を見た人がペテロとヨハネを信じて褒めるべきではなく、イエス様を信じて褒めるべきだということです。なぜなら、イエス様が彼らのために死にましたから。モーセとほかの預言者たちはイエス様を指して、イエス様に聞きなさいと言いました。

でも、多くのクリスチャンたちはイエス様に焦点を当てずに、自分自身に焦点を当てます。彼らは自分の霊的な賜物に焦点を当てます。自分ができることに焦点を当てます。自分がもらった誉れに焦点を当てます。でも、そうすれば、彼らは自分のいのちの目的を見逃します。

それはイエス様を知って、周りの人々にイエス様を指すことです。

でも、自分自身に焦点を当てると、私たちは、神様が私たちに与えたい命や喜びを知ることができません。

あなたはどうですか。あなたは何に焦点を当てるでしょうか。何のために生きているでしょうか。誰のために生きているでしょうか。

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使徒の働き3:1-10--神様の仕事に参加すること

正直に言うと、神様が私に人に触れる機会をよく与えてくださるのに、私は何回もその機会を逃してしまいます。どうしてでしょうか。なぜなら、私は自分の予定に集中しすぎるから。

例えば、私は買い物に行って、誰かに巡り合うけど、私は挨拶しかしないで、すぐに買い物に戻ります。時々私は本当に時間がないかもしれないけど、どうして私はその人と約束をしなかっただろうか。むしろ、多くの場合、私は心の中で言い訳を言って、すぐに行ってしまいます。

今日の個所では、乞食を通り過ぎる時、ペテロとヨハネがそんな言い訳を言うのは簡単だったでしょう。なぜなら、彼らは神殿に行っているところだったから。彼らは神様を礼拝する予定がありました。だから、その乞食と話す時間がなかったでしょう。さらに、彼らはお金が全然ありませんでした。

だから、その乞食を無視するのは、本当に簡単なことだったでしょう。

また、「ごめん。お金がない」と言って、行き続けることは簡単なことだったでしょう。

でもそうせずに、彼らは止まって、その人を見つめました。

そして、彼らができないことが気にせずに(つまり、お金ををあげること)、彼らは聖霊様ができることを指しました。

ペテロはこう言いました。

金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。(6)

そして、ペテロはその乞食の手を取って立たせました。いきなりその乞食は歩いたり、飛び跳ねたり、神様を賛美したりしたので、みんなは驚きました。

あまたはどうですか。あなたは、自分の予定に集中しすぎるので、聖霊様が何をしたいか見ることができないでしょうか。

あなたの限界に集中しすぎて、聖霊様ができることを見ることができないでしょうか。

毎日聖霊様の導きによって、歩みましょう。聖霊様が何をするかを見て、聖霊の導きによって、その仕事に参加しましょう。

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使徒の働き2:42-47--一つになって、一つにする

今日、私はこの個所を括ろうと思うけど、44節と46節では、「一つになって」と「心を一つにして」という言葉は、私の心を打ちました。

その言葉は、42節の関係があると思います。つまり、クリスチャンたちは交わりに専念しました。

彼らがほかのクリスチャンとの関係を大事にしたので、彼らは積極的に一緒に時間を過ごそうと努めました。でも、ただ宮に集まったわけではなく、彼らは自分の家にも集まりました。そして、一週間に一回だけではなく、毎日集まりました。さらに、彼らは本当に互いに愛し合いました。だから、彼らはいつも貧しい兄弟たちと姉妹たちを助けました。

そして、彼らは自分の心を一つにしました。

では、彼らは決してケンカしなかったでしょうか。それは違うと思います。

彼らはいつも同意したでしょうか。たぶんそうではないでしょう。

でも、最終的に彼らは、相手の違いを見逃して、相手を兄弟たちと姉妹たちと見なすことができました。彼らはお互いを必要だと認めました。さらに、彼らはその関係に専念しました。

クリスチャンたちは新しい夫婦にアドバイスを与えるとき、しばしばこう言います。「大変な時にも、この関係を守ろうと努めなさい。相手に対するコミットメントは、とても大事なのです。だから喧嘩するときにも、傷つけられる時にも、頑張って、その関係を守りなさい。」

もちろん、それはそうです。

でも、どれだけクリスチャンはほかのクリスチャンと喧嘩して、その関係を捨てるでしょうか。

神様は私たちに「兄弟たちや姉妹たちとの関係を守りなさい。私はあなたからそんなコミットメントを望みます。」と言うけど、私たちは全然そのことを考えません。辛い時にも、私たちが喧嘩する時にも、私たちが傷ついたときにも、神様はそんなコミットメントを望みます。

結婚のように、クリスチャンの交わりは、コミットメントが必要です。また苦労が必要です。でも、そんなコミットメントを持てば、報いは素晴らしいです。

そんなコミットメントがあれば、私たちは祝福されます。さらに、この世の人々は、私たちの互いの愛を見て、イエス様に魅せられます。使徒の時代に、そんなことが起こりました。

神様の民の愛と一致によって、また、彼らの間の神様の働きによって、教会が成長しました。ルカはこう書いた。

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

確かに、教会の中には、いろんな問題があります。教会が人間から成り立つ限り、問題があるはずです。なぜなら、イエス様は完全な人々のために来たのではなかったからです。イエス様は霊的な病気な人々のために来ました。また、壊れた人々のために来ました。

牧師たちやほかのリーダーたちが失敗するときもあります。

教会で、人は人を傷つけるでしょう。

それでも、その関係にコミットメントを持つでしょうか。あなたのプライドを脇へ置いて、苦労して、人間関係の問題に取り組むでしょうか。イエス様のためにそうしませんか。

主の言葉を覚えていましょう。

私はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

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使徒の働き2:42-47--一緒に祈ることに専念する

正直に言うと、最近の記事を考えたとき、私が教会をやめた人に対して厳しすぎただろうかと思いました。私はちょっとわかりません。

誰かに傷つけらて、教会をやめた人もいることをよく知っています。だから、ある程度まで、私は彼らに共感できます。

でも教会をやめるのは、良い解決ではありません。

相手を許すことは、大変だし、とても難しいことです。でも、私たちが本当にイエス様を愛し、従いたいと思うなら、その教訓を学ばなくてはなりません。なぜでしょうか。

一つ目の理由は、苦々しい思いや怒りを抱いて、相手を許さないと、私たちは聖霊様を本当に悲しまらせることです。(エペソ人への手紙4:29-32)

もちろん、あなたが聖霊様を悲しませるなら、天の父とイエス様をも悲しませます。

二つ目の理由は、私たちが許さないと、私たちはこの世の人に、どんなメッセージを伝えているでしょうか。私たちは彼らと全然違いません。

とにかく、傷ついた人にちょっと共感できるけど、私は神様のみ言葉に頑なな心を持つ人に全く同意できません。

また、キリストのからだ(つまり、教会)が要らないと思う人と全く同意できません。私はパウロの言葉を使うけど、彼らは手と足に、「私はあなたを必要としない」と言います。(第一コリント12:21)

しかし、パウロでも、そんなことを言いませんでした。

ちょっと考えてみてください。

パウロはローマ帝国中に神様のために働いて、福音を述べ伝えました。だからパウロは毎週同じ教会に行くことができませんでした。彼は一つの教会に関して、「これはマイ・チャーチ」と言えませんでした。

それでも、パウロはクリスチャンの交わりに熱心を持っていました。彼はいつもほかのクリスチャンたちと時間を過ごしたいと思いました。(ローマ1:10-12;第二コリント1:15-16;ピリピ1:8)。

どうしてでしょうか。パウロは彼らを祝福したいと思ったから。(ローマ1:11;第二コリント1:15)。

パウロは、彼らがパウロを必要としたと認めました。

さらに、パウロ自身が彼らを必要としたと認めました。

特に、パウロは彼らの祈りが必要でした(エペソ6:19-20;コロサイ4:3;第一テサロニケ5:21;第二テサロニケ3:1-2)。

また、パウロは彼らの励ましが必要でした。(ローマ1:12)

「私は、教会を必要としない」と言う人は、とてもわがままだし、高ぶっています。

どうして私は彼らを「高ぶる」と呼ぶでしょうか。私たちはお互いを必要としますから。

どうして私は彼らを「わがまま」と呼ぶでしょうか。仮に、彼らが私たちを必要としないと思っても、私たちは彼らを必要としますから。私たち皆は、キリストの体に役割を持ちます。

とにかく、使徒の働きの個所に戻りましょう。この個所によれば、そのクリスチャンたちは祈りに専念しました。

でも、この個所によれば、彼らは自分の部屋で、一人で祈っていたわけではありません。もちろん彼らはそうしましたけど、ルカのポイントは、彼らが一緒に祈っていたことです。

(ところで、ルカは使徒の働きを書いたでしょう。(ルカの福音書1:1-4;使徒の働き1:1-2))

どうしてほかのクリスチャンと一緒に祈ることも大切なのでしょうか。

一番の理由は、そうすれば、私たちは自分の心を神様の御心に調子を合わせるし、私たちは相手の心にも調子を合わせることです。イエス様は、私たちが一つになるように祈りました。(ヨハネ17:20-21)

一緒に祈ると、私たちは一つになります。

教会の初めから、一緒に祈ることはクリスチャンたちの習慣でした。(使徒の働き1:14)

クリスチャンたちが一つになると、私たちは神様の国のために素晴らしいことができます。

でも、私たちが喧嘩したり、「あなたを必要としない」と言ったりすると、私たちは弱くなって、何もできません。サタンはそれを見て、きっと喜ぶでしょう。

だから、そんな考え方を捨てましょう。キリストの教会として、一致を求めましょう。

全てのことに同意しなくてもいいです。

私たちのミニストリーのやり方は違うかもしれません。それでもいいです。

でも、私たちの愛を伝えましょう。また、「あなたを必要とする」と伝えましょう。

そうすると、サタンの国は崩れて、私たちの人生にイエス様はほめられます。また、天の父もほめたたえられます。

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使徒の働き2:42-47--主の体を軽んじること

教会をやめた人について考えると(前回の記事を読んでください)、私はもう一つのことが思い出しました。それは聖餐式のことです。残念なことですが、多くのクリスチャンたちは聖餐式が何を意味するか、何を象徴するか深く考えません。

使徒の働き2:42では、ルカは使徒の時代のクリスチャンについてこう書きました。

彼らはいつも。。。パンを裂き「ました」。

もしかしたら、ルカは、彼らがただ一緒に食べたことを、意味したかもしれません。でも第一コリント11章によれば、教会では、しばしば聖餐式はその食事の時間の部分でした。

聖餐式とは、何でしょうか。それは十字架のことを思い出すこと。その前の晩、弟子たちと食べた時、イエス様はパンを裂いて、こう言いました。

これはあなたあたのための、わたしのからだです。私を覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:24)

そして、イエス様は杯を取って、こう言いました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

一つのことに注意してください。聖餐式は、クリスチャンたちが一緒にすることです。私たちはそのパンを裂いて、分け合います。どうしてでしょうか。

理由の一つは、私たち皆はキリストの体に属するから。イエス様を信じる人々のすべてのために、イエス様は十字架で死んでくださいました。イエス様は、あなたが好きなクリスチャンだけのために死んだわけではありません。

ちょっと考えてみてください。最初の聖餐式で、その瞬間、弟子たちが本当に互いに愛し合っていたでしょうか。

そのさっき、彼らは、弟子たちの中で誰が一番か議論したばかりです。弟子たちの間で、皆の足を洗ってあげる人が誰もいなかったので、イエス様はそうしなくてはなりませんでした。

また、彼らの人格を考えてください。例えば熱心党員と呼ばれていたシモンとマタイを考えてください。イエス様に出会う前に、シモンはローマ帝国に逆らおうと思いました。でもイエス様に出会う前、マタイはローマ帝国のために働いていました。彼らは本当に親友だったでしょうか。

そんな難しい関係があったので、イエス様は彼らに命じなくてはならなかったでしょう。「互いに愛し合いなさい」。もし彼ら皆がとても親しい関係を持っていたら、イエス様はそのことを言う必要がなかったでしょう。

でも聖餐式を一緒にするとき、彼らは思い出しました。「私たち皆はイエス様に属します。私たち皆は、イエス様にあって、一つです。」

だから、パウロはコリント人たちに怒りました。彼らはいつもケンカして、どっちのリーダーが一番偉いか議論していました。それに彼ら皆はキリストの体に属していたのに、金持ちは、貧しい人々を見下しました。でも彼らを見下すことで、実は、金持ちはイエス様の教会を軽んじました。(第一コリント11:22)

だから、パウロはこう言いました。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(第一コリント11:27)

主のからだと血に対して罪を犯すとは、どういう意味でしょうか。その人々は、イエス様の捧げた血とからだを軽んじて、罪を犯しました。

彼らは基本的にこう言いました。「イエス様、あなたがその人のために死んでくださったことをよく知っています。でも私は、そのことに気にしません。私自身は、その人と全然関係ないのです。」

そんな態度を持つと、あなたは、主のからだ、つまり主の教会に罪を犯します。なぜなら、あなたがそのクリスチャンが好きでも嫌いでも、その人はイエス様のからだに属するから。

だから、相手に怒るとき、相手が嫌いな時、相手と争う時、聖餐式に参加すると、あなたの相手に対する態度を考え直さなくてはなりません。

だからパウロはこう言いました。

だれでも、自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい。(第一コリント11:28)

この個所の文脈に従えば、それは、あなたが兄弟たちや姉妹たちとの関係を吟味しなくてはならない、という意味です。

残念なことですけど、教会をやめる人々はそうしません。もし彼らがまだ聖餐式に参加するなら、彼らが好きな人だけと一緒にします。彼らの悪い人間関係を全然吟味しません。彼らは相手と和解を求めません。むしろ、彼らはその人を避けます。でもそうすれば、彼らはキリストのからだと血を軽んじてしまいます。

あなたは、「私はまだクリスチャンだけど、教会をやめた」と言うなら、自分自身にこの質問を訊いてください。

「一対一で、私がやめた教会の人の皆と聖餐式をする機会があれば、私はその機会を利用するだろうか。そのとき、私たちはこう言えるでしょうか。「イエス様と天の父が一つであるように、私たちは一つです。私たちの一致によって、この世は、天の父がイエス様を遣わしたことがよく分かるでしょう。」」(第一ヨハネ17:21-23)

あなたがまだ教会に行っても、どのように聖餐式をするでしょうか。兄弟たちや姉妹たちとの関係は良いでしょうか。もしくは、あなたはイエス様のからだと血を軽んじるでしょうか。覚えていてください。イエス様はあなただけのためではなく、あなたが軽蔑するクリスチャンのためにも死んでくださいました。だから、その関係を吟味して、その人に対するあなたの態度を考え直すべきです。

 

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使徒の働き2:42-47--クリスチャンの交わりに専念すること

この記事は前回の記事の続きです。その記事で、私は教会をやめる人について話しました。彼らの一つの文句は、彼らが教会で訓戒されることを飽きたことです。また、彼らは「もう知っている」と言う態度を持ちました。

今日もっと大切な問題について話したいと思います。多分、多くの人々が教会をやめる理由は、説教ではなく、人間関係です。つまり、人々はリーダーたちやほかの教会のメンバーたちと気が合わないことです。

私の友達の掲載した記事を読んだとき、私はちょっと混乱しました。その記事のインタビューされたクリスチャンの一人は、「人間関係の問題のせいで、私は教会をやめるわけではありません。私はかッとして、急にやめたわけではありませんでした。私は、教会をやめる決断をじっくり考えました。」と言いました。

でも、その記事に、その人のやめる理由は書いてありません。

その人は、人間関係の問題を控えめに言います。でもその記事(とコメント欄)を読むと、はっきりするのは、多くの場合、人間関係の問題が教会をやめる問題の根本だということです。

ある人々は、教会の方向に関して、リーダーたちに賛成できませんでした。

ある人々は、彼らに対するリーダーたちの行動を批判しました。

ある人々は、教会の愛の欠乏に関して文句を言いました。

だから、彼らは教会やめてしまいました。

でも、使徒の時代、クリスチャンたちはそうしませんでした。

新改訳では、翻訳者たちは「守り」(別訳、「専念」)という言葉を使徒たちの教えだけに繋ぎます。でもほとんどの英訳では、翻訳者は「専念」という言葉を「使徒たちの教え」だけではなく、交わりや、パンを裂くことや、祈りに繋ぎます。

だから、私たちはその個所をこのように翻訳できます。「彼らはいつも。。。(クリスチャンの)交わりに専念していました。」

つまり、彼らはクリスチャンの交わりに熱心を持っていました。

私の友達の一人は、その記事を読んで、こう言いました。「まあ、私はもう教会に行かないけど、クリスチャンの友達がいて、私たちは霊的な成長や、個人的な成長のために、互いに励まし合いますよ。」

彼らが本当にそうしたら、いいことだと思います。でも、具体的に彼らは何を意味するでしょうか。彼らは一週間に一回ぐらい電話するでしょうか。一か月に一回?一年に一回?

彼らはその友達と時間を過ごし、互いに話し合い、励まし合い、もし必要があれば、訓戒し合うでしょうか。彼らにとって、そのことをするのは、優先度が高いでしょうか。

彼らは一緒に祈ることに専念するでしょうか。

彼らは一緒にパンを裂くでしょうか。

もしかしたら、彼は先に仕事や、家族や学校を優先して、時間があれば、ほかのクリスチャンとの時間を割くでしょうか。

でも、使徒の時代のクリスチャンたちは交わりを優先しました。

信者となった人々はみな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(ました)。。。(44-46)

彼らは交わりに熱心を持ったので、毎日宮に集まりました。彼らは家々に時間を過ごしました。そして、他のクリスチャンたちのニーズを満たしました。

その結果は?

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

どうして、教会は成長したでしょうか。イエス様は私たちにその理由を説明します。イエス様は弟子たちにこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(35)

ちょっと注意してください。イエス様は「あなたがたがすべての人々に対する愛があるなら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」と言いませんでした。

イエス様は「互いに間に愛があるなら。。。」と言いました。

もちろん、私たちは教会の外の人を愛するべきです。また、私たちはいつも教会の人たちを愛することに焦点を当ててはいけません。私たちは教会の外にいる人に触れるべきです。

でも、この世の人々が私たちを見るとき、私たちが喧嘩したり、怒り合ったり、許し合わないし、苦々しい思いを持つことを見るなら、彼らはどう思うでしょうか。

この会話をちょっと想像してください。あなたは友達にイエス様のことをずっとシェアして、彼らは「じゃあ、あなたの教会に行きたいと思うけど」と言います。でも、あなたは「実は、私はもう教会に行かない」と言います。彼らが「どうして」と訊いたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「まあ、人間関係の問題があって。。。」

「ちょっとリーダーたちと教会の方向に関して喧嘩してしまったので。。。」

相手はそれを聞いて、どう反応するでしょうか。イエス様が教会を愛して、その教会のために死んだのに、あなたがその教会の悪口を言ったら、彼らはクリスチャンになりたいと思うでしょうか。

第一ヨハネ4:20をちょっと言い直して、あなたの心にぐっと来るかもしれません。

「神を愛すると言いながら兄弟と交際することを拒むなら、その人は偽り者です。見える兄弟と縁を切る者に、目に見えない神を愛することはできません。」

もし、教会の兄弟たちや姉妹たちと交際することを拒むなら、あなたが神様を愛することを主張できるでしょうか。もしその縁を切るなら、あなたは本当に神様を愛することを主張できるでしょうか。

友達を愛するのは、簡単なことです。

兄弟たちや姉妹たちが欠点があっても、あなたは彼らを愛するでしょうか。

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使徒の働き2:42-47ーーみ言葉に専念すること

数年前、私の友達はFacebookで記事を掲載しました。そのタイトルは、「教会をやめた人」でした。

その話では、ある敬虔なクリスチャン、つまり、聖書をよく勉強したクリスチャン、惜しげもなく献金をささげたクリスチャン、また、熱心に人々を導いたクリスチャンが、教会をやめてしまったということでした。

その人は自分の信仰は捨てなかったようです。でもその人は教会をやめました。その人は、「教会の中で、私は最も積極的な人の一人だったし、最も忠実な人の一人だった」と言ったのに、教会をやめました。

その人はいくつかの理由を与えていましたので、私は以後数日にわたって、そのことについて話したいと思います。

正直に言うと、私が愛している人々がその著者の意見に同意すると言うと、私は本当に悲しみます。

その著者の一つ目の理由は、「私は牧師のメッセージを何百も聞いたので、もう分っているし、訓戒されるのは、もう嫌です。」と言うことです。

でもこの個所では、教会の模範、また、クリスチャンの生活の模範を見ます。

今日、一つのことに焦点を当てたいと思います。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り[ました]。(42)

新改訳で、「使徒たちの教えを守る」と書いてあるけど、その「守る」と翻訳された言葉はいろんな意味があります。だから、翻訳者は、使徒の働き1:14で、その言葉を「専念する」と訳しました。(それは、第3版です)。また、使徒の働き6:4で、彼らはその言葉を「励む」(第3版)、また、「専念する」(第4版)と訳します。

要するに、私たちはこの個所をこのように翻訳することができます。「彼らはいつも使徒たちの教えに専念しました。」

多くの英語の聖書では、42節はそのように翻訳されています。

とにかく、そのクリスチャンたちは、神様の言葉に熱心を持っていました。彼らはその言葉を知りたいと思いました。彼らはその言葉に従いたいと思いました。

だから、「訓戒さられるのはもう嫌だ」と言う人に、私はこう訊きたいと思います。

「あなたはみ言葉にどれだけ専念するでしょうか。聖書が本当に神様のみ言葉であること信じるでしょうか。その使徒の働きの時代のクリスチャンのように、あなたはみ言葉に対する強い熱心を持っているでしょうか。

もしくは、あなたは、聖書にある教えがもう古臭いと思うでしょうか。その教えがあなたの人生に関係ないと思うでしょうか。」

もちろん、説教するときに、人を見下す牧師もいます。彼らは「もうたどり着いた」という態度を表現するかもしれません。その場合、私は、教会をやめた人の文句が分かります。でも、それは本当の問題でしょうか。

ちょっと自分自身に、この質問を訊いてください。

「私が聖書を読んで、聞きたくないことを見ると、私は訓戒される感じがするだろうか。」

残念なことだけど、多くのクリスチャンたちが聖書を読むとき、好きな個所だけを読みます。でも彼らが聞きたくない言葉のある個所を避けてしまいます。そういうわけで、教会に行くとき、「私は訓戒されている」と感じます。

でも、私たちがクリスチャンなら、み言葉に専念しなくてはなりません。励ましや慰めの言葉でも、挑戦や訓戒の言葉でも、私たちはその言葉に専念するべきです。

「何百のメッセージを聞いていたし、もう分っている」という文句に関して、私たち自分自身に同じような質問を訊くべきだと思います。

「聖書を読むとき、私はもう何も学んでいないだろうか。もう全部読んだので、知っているだろうか。もしくは、神様はその言葉を通して私にまだ話しているだろうか。」

正直に言うと、私は、もう全部読んだ事があるし、メッセージの内容を聞いたことある、という感じはよくわかります。それでも、二つのことを言いたいと思います。

一つ目は、私が40年来のクリスチャンだけど、私はまだ学んでいることです。私が聖書を読むとき、また日曜日のメッセージを聞くとき、神様は私に新しいことを示すときもあります。その時、私は本当に興奮します。

二つ目は、あなたは同じことを何回も聞いたことあるかもしれないけど、その言葉に従っているでしょうか。その言葉はあなたの頭からあなたの心に移動したでしょうか。

例えば、あなたは許しのメッセージを何回も聞いたことあるでしょう。でも、あなたを傷つけた人をもう許してあげたでしょうか。あなたは怒りと苦々しい思いを手放すことの大切さに関して聞いたことあるけど、その怒りと苦々しい思いをもう手放したでしょうか。

要するに、あなたの人生に、神様の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、あなたの心の思いやはかりごとを見分けているでしょうか。(へブル4:12)

もしくは、その言葉はあなたの左の耳に入るけど、右の耳から出ていくでしょうか。

もちろん、私はあなたの経験をよく知りません。教会をやめた人の経験をも知りません。

もし、あなたの牧師がいつも皆さんを見下しながら、説教するなら、あなたは別の教会に行った方がいいかもしれません。

でも、それは本当の問題でしょうか。

もしくは、問題は神様のみ言葉に対するあなたの態度でしょうか。

 

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使徒の働き2:38--福音のメッセージ

この個所では、私たちは一番最初の本格的な福音の説教を読みます。

その以前、すべての説教はイエス様の死と復活の前に伝えられました。だから、その説教はまだ不完全でした。

でも、ペテロがこの説教をしたとき、イエス様はもう旧約聖書にある救いに関する預言を全て成就していました。だから、ペテロは群衆に宣言しました。

神が今や主ともキリストともされたこのイエスをあなたがたは十字架につけたのです。(36)

それを聞いて、心を刺され、群衆は答えました。

「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37)

ペテロは彼らに言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして、遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

簡単に言うと、それは福音のメッセージです。

まず、私たちの罪を悔い改めなくてはなりません。私たちはもう自分の道を行かずに、神様の道を行き始めなくてはなりません。私たちは自分の道を行ったので、神様や、周りの人々や、私たち自身をも傷をつけました。私たちはそのことを認めなくてはなりません。

「主よ。私の道を行くのがもう飽きました。その道を通して、私は本当に苦しみました。でも、あなたが私を愛してくれたので、あなたは十字架で私の罰を受けてくださいました。だから、これから私はあなたに従いたいと思います。私はあなたを信頼し、従がいます。」

バプテスマは、その決断のしるしです。バプテスマを通して、あなたはこう言います。

「私の古い生活に対して死にます。「私の道」に対して死にます。そして、私は新しい人としてよみがえります。イエス様の血によって、私の罪は清められたし、聖霊の力によって、私はこの新しい人生を送ります。

御霊という約束は一番良い賜物です。なぜなら、聖霊様は神であり、私たちのうちに住んでおられるから。私たちはもう神様から離れていません。私たちは神様と親しい関係を持っています。そして、私たちが神様と歩めば歩むほど、聖霊様は私たちに傷をいやし、私たちを新しくします。そして、神様が私たちのための計画した人生を見つけます。実は、神様はそもそも私たちを造る前に、そのプランをもう考えていました。

永遠の命は、天国では始まりません。永遠の命は今から始まります。

それは福音のメッセージです。そのメッセージを信じ、受けていましたか。もし、上記の祈りを始めて祈ったら、どうぞ私にコメント欄に伝えてください。

 

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使徒の働き2:1-41--この同じ御霊

私にとって、聖霊様が来て、教会を力で満たす日はちょっと想像しにくいです。激しい風が吹いてきたような響きを聞いて、炎のような舌が一人ひとりの上に留まるのを見るのはとても不思議なことでした。

そして、御霊で満たされて、彼らはエルサレムの道に行って、学んでない言語で神様を賛美しました。周りの国々からのユダヤ教の改宗者たちが、その賛美を自分の言語で聞いて、とても驚きました。私が彼らなら、私もびっくりしただろうと思います。「不思議だな。これは何だろう?」

でもペテロはこう言いました。

これは、預言者ヨエルによって語られたことです。「神は言われる。終わりの日に、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、私のしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する。。。」(16-18)

そしてペテロが福音を伝えて、その日に3000人の人々は救われました。

そんな話を読んで、多くのクリスチャンは訊きます。「どうして、現代ではそんなことが起こらないのだろうか。どうして現代に聖霊様はそのように働かないだろうか。」

でも、聖霊様が現代でもそのように働くと思います。ペテロはこう言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

ペテロによれば、聖霊という賜物はペテロの世代だけのためではありません。ペテロは、彼らの子孫のにも聖霊様を与えられる、と言いました。それだけではなく、聖霊様をすべての国民に、与えられると言いました。つまり、主が召してくださったすべての人々は聖霊様を受けます。

14年前、私の牧師の人生がめちゃくちゃになっていたとき、神様は彼に夢を見させました。その夢によって、私たちの教会は始まりました。

私が振り返ると、神様は何回も私の周りの人々を通して、私に話しました。

私の人生のために神様の御心を求めていた時、ある日、私の祈りを知らずに私の友達はいきなりこう言いました。「ブルース、なぜか私はあなたが事務職をすることが想像できません。あなたがミニストリー向きだと思うけど。」

それに、神様が私に直接話したり、私の人生にいろんなことをしたりしたので、私は快適なハワイの生活を捨てて、日本に引っ越しました。

私は確信をもって、聖霊のおかげで私は日本に来ていると言えます。

実は、私は聖霊様の導きがもっともっと必要です。

正直に言えば、私はよく自分の力と知恵によってミニストリーをします。でもそのようにもう生きたくないです。2000年前にクリスチャンたちが聖霊様で満たされたように、私も聖霊様に満たされたいのです。あなたはどうですか。

天のお父様。あなたの御霊で私を満たしてください。あなたは2000年前に御霊を送るのを約束しました。そして、御霊があなたが召してくださった人々のすべてのためだと約束しました。

あなたが私の人生に働くことを見たことがあります。でも、それをもっと経験したいです。私はあなたが必要です。あなたの知恵と力が必要です。だから私を満たしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き1:12-26--私たちの心を知っている神

この個所では、マッティアは使徒として選ばれて、ユダの務めを引き継ぎました。

ある人々は、ペテロや、ほかの弟子たちが勝手にマッティアを任命したと思います。つまり、神様はマッティアではなく、パウロを選びたいと思いました。だから、その人たちによれば、イエス様がパウロに現われて、パウロを使者として任命した時、実は、パウロはユダの務めを引き継いだそうです。

私はかつてそう考えいていたけど、今はそう思いません。なぜなら、第一コリント15:5で、パウロはマッティアを12人の使徒の一人として認めていたから。イエス様が復活した後、ユダに現れなかったので、パウロはマッティアについて話していたでしょう。それに、パウロが使徒として任命されたのに、彼はこう言いました。「私は使徒の中では最も小さいものです。私は使徒と呼ばれるに値しないものです。」(第一コリント15:9)

もう一つ注意事項があります。それはユダの死です。マタイの福音書27章によれば、祭司長はユダが返したお金を取って、畑を買って、ユダは出て行って首を吊りました。

でも、使徒の働きによれば、ユダは地所を買って、真っ逆さまに落ちて、体が真っ二つに裂けました。どうやって、その二つの話を調和できるでしょうか。

アケルダマ(その畑の名前)はベン・ヒノムの谷にあります。たぶん、ユダは崖の上で首を吊ったでしょう。そして、ユダの死体が腐敗し始めている間に、その綱は切れたかもしれません。だから、その死体は谷に落ちて、その畑に着地しました。それを聞いて、祭司長たちはユダの代わりに、その畑を買ったでしょう。なぜなら、彼らは「そのお金は血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」と言ったから。(マタイ27:6)

でも、それは今日の要点ではありません。

興味深いことは、使徒たちが、ユダが彼らと同じ務めを割り当てられていたと認めたことです。つまり、ユダは他の弟子たちと一緒に宣教旅行に二回行って、福音を述べ伝えたり、悪霊を追い出したり、病気の人々を癒したりしたことです。(ルカ9-10)

でも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。ユダがいろんな素晴らしいことをしたのに、彼の心は本当にイエス様のものではありませんでした。だから、彼は最終的に暴露されて、追い出されました。

そのあと、神様に属する心を持つ人は、ユダの務めを取りました。

私は何を言いたいと思っているでしょうか。

私たちがミニストリーをしているなら、毎日自分の心を探らなくてはなりません。私たちの動機を見抜かなくてはなりません。私たちの心が本当に神様のものかどうか試さなくてはなりません。

私たちはイエス様の名前によって、いろんな良いことをすることができます。私たちのミニストリーを通して、人々は救われるかもしれません。

でも、神様は私たちの心をご存知です。もし私たちの心が神様の目にかなわないなら、最終的に神様は私たちの務めを取り去って、別の人に与えます。

でも、もっと酷い可能性があります。

もしかしたら、私たちはイエス様にこう言います。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか。(マタイ7:22)

でも、イエス様は私たちにこう答えます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

あなたの心はどうですか。あなたは本当に自分の心をイエス様にささげたでしょうか。

もしかしたら、良いクリスチャンのふりをしているでしょうか。そうなら、結局あなたの勤めが取り去られて、ほかの人に与えられます。

あなたの心は、誰のものでしょうか。

 

 

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使徒の働き1:9-11--イエス様の戻りを待つこと

イエス様が天に上っていくことを見るのは、本当に驚くべき光景だったでしょう。だから私は、どうして弟子たちが口をぽかんと開いて、イエス様が見えなくなるまで空を見つめたことがよく理解できます。私が弟子なら、同じことをしたでしょう。

でも、二人の天使が現れて、こう言いました。

ガラリヤの人たち、どうして天を見上げて、立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(11)

その言葉で、私たちは二つのことを学びます。

一つ目は、私ちの希望の理由です。この世はめちくちゃだし、だんだんもっと悪くなるけど、イエス様はきっとこの世に戻ります。その日、イエス様はすべてを新しくします。

二つ目は、イエス様が戻るまで、私たちに大仕事があることです。多分、天使たちが意味したものは、「ずっとここにぽかんとして立っているな。イエス様が言ったことに従いなさい。」ということです。

弟子たちはまずエルサレムに行って、聖霊を待つべきでした。ミニストリーをしたいと思うなら、私たちも同じことをするべきです。前回の記事で私は言ったけど、私たちができることには限界があります。でも聖霊様に満たされる人は、この世を変えることができます。

だから、この世を見るとき、ただ愚痴を言わないでください。ただ天国を仰いで、イエス様の戻りを待たないでください。むしろ、聖霊に満たされて、神様が言うことに従いましょう。

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ルカ24:46-53;使徒の働き1:1-8--世界を変える力

それでは、これは福音書に関する最後の記事です。さらに、今日から使徒の働きの話を始めます。

以前私が気づいたかどうかわからないけど、多分、使徒の働き1:4で、ルカはルカの福音書24:49に参照したでしょう。その個所では、イエス様は弟子たちに「聖霊様が来るまで、エルサレムで待ちなさい」と命令しました。

とにかく、40日間ぐらい後に、イエス様は弟子たちにベタニヤ、つまりオリーブ山に連れて行きました。

オリーブ山で立っていた時、弟子たちはゼカリヤの預言を覚えていたかもしれません。ゼカリヤの預言によれば、国々がイスラエルを征服した後、主はオリーブ山に来て、その国々と戦って、世の王になります。(ゼカリヤ書14)

もしかしたら、彼らはその預言を思い出したかもしれないので、イエス様に訊きました。

主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒の働き1:6)

でも、イエス様は答えました。

いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威を持って、定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:7-8)

多くの人々はイエス様がいつ戻るか気になります。もちろん、イエス様の戻りのしるしに注意した方がいいと思います。でもそれよりも、イエス様が戻るまで、私たちはイエス様からの受けた使命を考えなくてはなりません。それは何でしょうか。それは、福音を宣べ伝えることです。私たちはイエス様の証人となるべきです。

イエス様の証人になるのは、どういうことでしょうか。

基本的に、私たちが見たことや、聞いたことや、知っていることを伝えることです。イエス様があなたの人生に何をしてくださったことを伝えるべきです。あなたが教会で学んだことや、聖書から学んだことを周りの人々に伝えるべきです。私たちはそうすれば、この世を変えます。

でも、私たち自身の中には、世を変える力がありません。私たちの言葉自体は、人の心を変える力がありません。むしろ私たちに住んでおられる聖霊様が、自分の力によって、この世を変えることができます。でも、私たちの力によっては、私たちは何もできません。

だからイエス様は弟子たちに、「よし。あなたたちが、もう知るべきことをもう全部知っているので、行きなさい。この世を変えなさい」と言っていませんでした。

むしろ、イエス様は彼らに言いました。「聖霊様のために待ちなさい。聖霊によるバプテスマを受けるとき、あなたは力を受けます。そのあと、行きなさい。」

私たちはしばしば自分の力と知恵によってミニストリーをしようとします。そうすると、私たちは、いろんなことを成し遂げるかもしれません。でも、私たちが本当にこの世界を変えたいと思うなら、聖霊によるバプテスマが必要です。私たちは聖霊様の力に満たされるべきです。なぜなら、人間的な力や知恵には限界があるから。でも、神様には、限界がありません。

聖霊様、私を満たしてください。私はしばしば、自分の知恵によって、私の力によってミニストリーをしようとしています。でも、あなたを離れては、私は何もすることができません。私がもう自分の力や知恵に生きるのは、もう飽きました。だから聖霊様、私を満たしてください。私があなたのためにこの世に影響を与えるために力を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイ28:20--私たちと共におられる方

私たちはもうすぐ福音書を読むのを終えます。私の予想以上に時間がかかったけど、楽しめました。

とにかく、イエス様は弟子たちに指示を与えた後、こう言いました。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(20)

イエス様はすぐに天国に戻ろうと計画しました。そして、イエス様が天国に戻った後、弟子たちは大仕事をしなくてはなりませんでした。それは神の国を広げることです。

もちろん、その仕事をするのには、喜びが伴いました。でも、イエス様が知っていたのは、弟子たちがきっと迫害や苦しみを経験することです。最終的に、弟子たちの多くは自分の信仰のために死にました。でも、イエス様は彼らに約束しました。「あなたは私を見なくなります。それでも、私はあなたと共にいます。あなたたちを捨てて孤児にしません。むしろ、私はあなたたちに聖霊様を与えます。そして聖霊様はあなたたちと共に住み、あなたたちのうちにおられます」。(ヨハネ14:16-20)

イエス様は私たちに同じことを約束します。私たちがどこに行っても、何をしても、どんな喜びや、苦しみを経験しても、イエス様は私たちを決して見捨てません。イエス様は今私たちと共におられます。そして永遠まで私たちと共におられます。

イエス様、あなたが私と共におられてくださり、感謝します。私が何回も失敗しても、あなたは私を決して見捨てません。私があなたの臨在をもっと知るように助けてください。私にあなたの声が聞こえるように助けてください。私の人生に働いてください。また、私を通して働いてください。毎日、私があなたに近づくように。あなたをもっと知りたいです。アーメン。

 

 

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マタイ28:16-20--弟子を作ること

数年前まで、私は、マタイ28:16-20の出来事と使徒の働き1章の出来事が全然違う時に起こったことに気づいていませんでした。マタイの出来事はガリラヤで起こりました。使徒の働きの出来事はオリーブ山で起こりました。

もしかしたら、ガリラヤでイエス様は11人の弟子たちだけではなく、500人の弟子たちにも現れたかもしれません。(第一コリント15:6)

だから、ガリラヤに来た時、「疑う者たちもいた」。(17)

つまり、11人の弟子たちは、もうよみがえられたイエス様を見ていたけど、その500人はまだイエス様を見ていなかったことです。

とにかく、イエス様に会うと、彼らの疑いがなくなりました。そしてイエス様は彼らにこう言いました。

わたしには天においても地においてもすべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(18-20)

イエス様が単に「福音を述べ伝えなさい」と言わなかった意義があると思います。(もちろん彼らには福音をの述べ伝える役割もありました。)

イエス様は彼らに「弟子を作りなさい」と言いました。その弟子たちは自分の弟子を作るわけではなく、イエス様の弟子を作るべきでした。弟子を作る方法は何だったでしょうか。

彼らは新しい信者にバプテスマを授けました。バプテスマは、彼らがイエス様に従うことを決めたしるしでした。私たちもバプテスマを受けるとき、私たちがキリストに属することを表現します。バプテスマの水はお墓の象徴です。そして、私たちがその水に入ると、私たちは「イエス様が死んで、よみがえられたように、私は自分の古い生活に対して死んで、新しい人としてよみがえります。そして、私の体が死ぬとき、私はよみがえって、イエス様と共に永遠にいます。」と言っています。

時々日本では、ノンクリスチャンの親たちは、クリスチャンの息子や娘にこう言います。「教会に行っても良いけど、バプテスマを受けてはだめです。」

だから、その息子と娘は本当に困ります。「私の家族を怒らせてでも、洗礼を受けた方が良いだろうか。」

実は、使徒の時代にも、多分ユダヤ人たちも同じプレッシャーと向き合ったでしょう。でもイエス様の弟子になりたいなら、私たちはイエス様をすべてよりも優先しなくてはなりません。洗礼を受けるときに、あなたは皆の前でその決断を宣言します。

イエス様は弟子作りについてもう一つのことを教えました。彼らは、新しい弟子たちにイエス様の戒めを教えなくてはなりませんでした。さらに、彼らは新しい弟子たちがその戒めを守るように教えなくてはなりませんでした。

たくさんのクリスチャンたちがそれを聞いて、違和感があります。

「だって、それは律法主義でしょう?私たちは恵みによって救われたでしょう?」

もちろん、私たちは恵みによって救われました。もちろん、私たちはキリスト教をルールの制度として教えるべきではありません。

でも、私たちが弟子たちに教えなくてはならないのは、神様が彼らを本当に愛していることです。また、神様は私たちの最善を望みます。だから、もし私たちの救いのために神様を信じるなら、神様の道が一番良いと信じるのは当たり前でしょう。私たちはその道を行くべきでしょう。

さらに、私たちは神様を本当に愛しているなら、神様を喜ばせることをするべきでしょう。

簡単に言うと、私たちは、人々が神様に近づくように教えるべきです。私たちは、彼らが毎日神様をもっともっと愛し、信頼するように教えるべきです。

残念なことですけど、多くの教会はそのことを教えません。だから、教会の中で、たくさんの赤ちゃんのクリスチャンがいます。彼らは決して成長しません。彼らは「神様を愛している」と言うけど、決して神様に信頼することを学んでいません。だから、彼らの人生はめちゃくちゃになります。

だから、私たちは福音を述べ伝えるだけではなく、弟子を作りましょう。イエス様を愛し、信頼し、従うクリスチャンを育てましょう。そうすれば、彼らはイエス様の恵みと知識において成長します。

 

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ヨハネ21:18-23--イエス様から目を離さないこと

あなたがどうやって死ぬかを聞くのがとても恐ろしいことでしょう。だから、イエス様がペテロの死を預言した後、多分二人とも無言で歩きました。ちょっと気まずい沈黙だったでしょう。

とにかく、結局ペテロは、ヨハネが彼らについていっていることに気づきました。だからペテロはイエス様に訊きました。

主よ。この人はどうなのですか。(21)

つまり、「彼もあなたのために死ななくてはならないでしょうか。」ということです。

でもイエス様は答えました。

わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(22)

主に仕えるとき、私たちはしばしば自分自身を周りの人々と比べるでしょう。時々、私たちは彼らの才能や霊的な賜物がうらやましくなります。時々、私たちは自分の才能や賜物を誇るので、周りの人々を見下します。

時々、神様は私たちを呼ぶけど、ペテロのように私は訊きます。「どうして私でしょうか。あいつを遣わしたら。」

でも、イエス様は私たちに同じ答えを与えます。「彼らのことを気にしないで。あなたにかかわらないから。あなたは、私に従いなさい。周りの人々から目を離しなさい。あなた自身を彼らと比べるな。私から目を離さないで、私に従いなさい。

正直に言うと、それは難しいです。私たちの目はすぐに周りの人々に行きますから。私たちの心は、すぐに自分自身を周りの人々と比べます。今なお私はそうします。

でも、神様のために実を結びたいと思うなら、私たちは周りの人々から目を離してはいけません。むしろ、私たちはイエス様から目を離さないで仕えるべきです。

あなたはどうですか。何を見つめているでしょうか。自分自身でしょうか。周りの人々でしょうか。もしかしたら、イエス様しょうか。

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ヨハネ21ーー私たちを信じてくれる神

これは聖書の中で私が大好きな話の一つです。主人公はペテロです。自信満々なペテロです。大胆なペテロです。でも、ペテロがイエス様を知ることを三回否定したので、その自信や、大胆さをなくしました。多分彼は自分が信じられなくなったでしょう。

復活の後のペテロとイエス様の最初の会話を本当に読みたいです。残念なことですけど、福音書にはその会話が書いてありません。

ペテロはイエス様のお墓に行ったときに、イエス様の死体を見つけられなかったので、本当に混乱したでしょう。「ヨハネはイエス様がよみがえられたと思ったけど、それは本当だろうか。」

たぶん、ペテロはこう思ったでしょう。「実はある意味、それが本当じゃないといいなあ。だって、どうやって私はイエス様と向き合えるだろうか。」

でも、突然イエス様はペテロの前に現れました。ペテロはどう反応したでしょうか。ショックでしょうか。喜びでしょうか。そうかもしれません。

でも、もしかしたら、ペテロはイエスのもとにひれ伏して、泣きながら何回も「ごめんなさい。どうか赦してください。」と請うたかもしれません。

多分イエス様はペテロにこう言いました。「大丈夫です。赦してあげるよ。私はあなたのような人々のために十字架で死んだよ。私はまだあなたのことを愛しているよ。」

多分、それを聞いてペテロは慰められたでしょう。でも、すぐに疑いが浮かんだかもしれません。「まさかイエス様は本当に私を赦してくれたか。イエス様は私を赦してくれても、自分の弟子として私をもう受け入れられないだろう?私の失敗は大きすぎるだろう。」

そして、数日が経って、ペテロがイエス様に会わなかったので、もう一度気が沈んだかもしれません。「やっぱりだめです。イエス様は「赦してあげるよ」と言ってくれたけど、私はもうイエス様の弟子として続けられないだろう。私の元の生活に戻った方がいいかなあ。」

だから、ペテロは他の弟子たちに、「私は漁に行く」と言いました。

彼らは多分ちょっと退屈していたから、ペテロと一緒に行きました。でも、夜通し漁したのに、何も捕れませんでした。

もしかしたら、ペテロは気がもっと沈んだかもしれません。「私はもう絶対ダメだな。魚を捕ることすらできない。」

でも、彼らは岸辺から声を聞きました。「おい!食べる魚がないみたいだね。船の右側に網を打ったら。」

弟子たちがそうしたら、急に彼らの網に魚がいっぱいいました。それを見ると、ヨハネは叫びました。「あれは主だ!」

ペテロはヨハネの言葉を聞くと、すぐに湖に飛び込んでイエス様のところに泳ぎました。ペテロが着いたら、たぶんイエス様は笑いながら、「ペテロ。何をしているの。他の弟子たちを助けなさい。」と言いました。

ペテロは船に戻って、彼らはその魚を岸辺まで持って来ました。彼らが着いたとき、イエス様は彼らのために魚をもう焼いてくれていました。

彼らが食べながら、たぶん皆は笑ったり、いろんなことを話したりしたでしょう。でも、皆が食べた後、イエス様はペテロに言いました。「ペテロ。ちょっと話があるんだけど、おいで。」

それを聞いて、たぶんペテロははらはらしていたでしょう。「やっぱり。イエス様は私を責めて、捨てるだろう。イエス様の弟子としての私の人生は終わりだなあ。」

だからおどおどして、彼はイエス様と一緒に散歩しました。

もしかしたら、無言で彼らは何分も散歩したでしょう。そしてイエス様はペテロに訊きました。

ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。(15)

新改訳では、「この人たちが愛する以上に」と書いてあるけど、実はイエス様の言葉はもっとあいまいでした。イエス様が言ったのは、「これらよりも、私を愛していますか。」ということです。

多くの聖書学者によれば、たぶんイエス様は他の弟子たちについて話していました。だから、新改訳では「この人たちが愛する以上に」と書いてあります。

でも、私がペテロの答えを考えると、その解釈を受け入れられません。ペテロは、「はい。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と言いました。

ペテロは自分の失敗をよく覚えていたのに、どうして「はい」と答えられたでしょうか。

だから、私には違う意見があります。もしかしたら、彼らが歩きながら、彼らはペテロたちの船や、網や、魚を見たかもしれません。だから、もしかしたから、イエス様が意味したものはこうかもしれません。「ペテロ、このものよりも私を愛していますか。私はちょっとだけ去ったけど、あなたはすぐに元の生活に戻りました。あなたは本当にこのものよりも私を愛しているのでしょうか。」

その質問に対して、ペテロはきっと答えられました。「はい。あなたを愛しています。」

イエス様は答えました。

わたしの子羊を飼いなさい。(15)

彼らはもうちょっと歩き続けて、イエス様はもう一度訊きました。「私を本当に愛しているでしょうか。」

ペテロはもう一度「はい」と答えたので、イエス様は言いました。

わたしの羊を牧しなさい。(16)

彼らはもうちょっと歩き続けて、イエス様はもう一度聞きます。「ペテロ、私を愛しているでしょうか。」

イエス様はそれを聞いて、ペテロの心を痛めました。だから、ペテロは答えた。

主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。(17a)

イエス様は答えました。

わたしの羊を飼いなさい。(17b)

そしてイエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(18)

イエス様はペテロの死を預言しました。何年か後、ペテロはイエス様を信じることのゆえに十字架で死にました。

どうしてイエス様はペテロにそのことを伝えたでしょうか。多分、イエス様はこう言いたいと思いました。「ペテロ、私はあなたの大失敗したをよく知っている。でも、私はまだあなたのことを信じているよ。実は、将来にあなたは同じような試練と向き合います。その時、あなたは、私を否定するか、私のために死ぬか選ばなくてはなりません。でも、今度はあなたは死ぬことを選びます。」

そしてイエス様はペテロに言いました。

私に従いなさい。(19)

ペテロのように、私たち皆には失敗するときもあります。だからペテロのように、私たちは、神様がまだ私たちを用いられるかどうか疑問に思います。「私は大失敗した。神様は私なんて受け入れられるだろうか。」

もちろん神様はあなたを受け入れて、あなたをまだ用いられます。なぜなら、神様は現在のあなただけを見ないから。神様はあなたが将来に何になるかよくご存じです。神様はあなたのことを信じてくれます。

だから、自分の力に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。神様があなたを受け入れ、あなたのことを信じることを覚えていて、安心してください。そして、行って、イエス様に従ってください。

 

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ヨハネ20:24-31--イエス様を見たことがないのに

「百聞は一見にしかず。」

私たちはそれを言うけど、時々何を見ても、信じない人もいます。

パリサイ人たちと祭司長たちはイエス様の奇跡を見たけど、まだイエス様がメシアであることを信じませんでした。例えば、ラザロが復活したけど、彼らはラザロを殺そうと思いました。なぜなら、人々はその奇跡によって、イエス様のを信じるようになったから。

彼らの問題は何だったでしょうか。彼らが信じたくなかったことです。もし何かを信じたくないなら、あなたはいつもどうして信じられないかの言い訳を作られます。

でもトマスは本当にイエス様の復活を信じたいでした。それでも、彼らはなぜか自分自身を説得できませんでした。だから、彼はほかの弟子たちにこう言いました。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。(25)

だから、イエス様が鍵がかけられた部屋に奇跡的に入って、トマスのぽかんと顔を見た時、多分イエス様は微笑みながら、こう言いました。

あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27)

トマスの反応は?

私の主。私の神よ。(28)

イエス様は答えました。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(29)

つまり、「あなたの信仰は、あなたが見たものによるでしょうか。とりあえず、それはいいけど、あなたが見ないままでも信じるなら、本当の祝福を知ります。」ということです。

アブラハムもその祝福を知りました。アブラハムは神様が彼をどこに導いているかよくわからなかったけど、アブラハムは自分の地元を去って、神様に従いました。なぜなら、アブラハムは神様の約束を信じたからです。

ノアもその祝福を知りました。神様が洪水が発生すると言ったから、ノアは大きい箱舟を作りました。

ダビデもその祝福を知りました。神様がダビデが王になると約束したから、サウロ王が何回もダビデを殺そうとしても、ダビデは仕返しを求めませんでした。そして、神様のタイミングで、ダビデは王になりました。

マリアもその祝福を知りました。彼女は天使のメッセージを信じて、イエス様の母になりました。

聖書の時代から現代まで、たくさんの人々は神様を信じて、祝福されました。

でも、それは盲信ではありません。

イエス様が生まれる何百年前に、いろんな預言者はたくさんのことをイエス様に関して預言しました。

また、イエス様に出会った人は自分の経験を書きました。ヨハネはこう書きました。

イエス様は弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(30-31)

それに、私たちは教会の有名人の経験も見ます。例えば、オーガスティンや、マルティン・ルターや、ジャン・カルヴァンは神様の御国のために素晴らしいことをしました。

今なお、教会で私たちはたくさんのクリスチャンに出会います。神様は彼らの人生の中で働いて、福音を通して彼らの人生を変えてくださいました。

また私たち自身も、イエス様に出会って、自分の目で神様の働きを見ます。

でも、私たちは一つの選択をしなくてはなりません。

「主よ。私はあなたを見たことがありません。それでも、あなたを信じます。」

そして、私たちがイエス様を信じて従うと、イエス様はますます自分自身を私たちに現わしてくださいます。そして私たちも祝福を知ります。

ペテロはこう言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1:8-9)

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ルカ24:36-49;ヨハネ20:19-23ーー満たされて、遣わされた

イエス様が復活した日曜日に、11人の弟子たちの間で、たくさんの混乱や不信があったらしいです。彼らが集まったとき、マリアやほかの女性たちや、エマオに行ってきた弟子たちや、ペテロは、「主を見た。」と言い張りました。それでも、ほかの弟子たちはその話を信じませんでした。

そして、イエス様は急に現れました。もちろん、彼らは驚いて、最初は幽霊を見ていると思いました。

でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。」と言いました。

私たちはその言葉を聞いて、「やっぱり弟子たちが怖がったので、イエス様は彼らを慰めようとしました」と思うかもしれません。

でも実はその時代、その言葉は「こんにちは」のようなとても普通の挨拶でした。

だからもしかしたら、最初は、イエス様はとてもカジュアルな態度を持って、普通の挨拶としてその言葉を言ったかもしれません。でも、彼らは怖がったので、イエス様はもっと真剣に、「安心してください。わたしだよ。」と言って、彼らを励ましました。

そして、イエス様は自分の手と足を見せたり、魚を食べたりした。多分、皆はイエス様の傷跡に触りました。そのあと弟子たちの皆は説得されて、喜びました。

そして、イエス様は彼らに預言者たちがイエス様の死と復活を預言したことを教えました。また、イエス様自身が以前言ったことを彼らに思い出させました。

そのあと、イエス様は彼れにこう言いました。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)

また、

あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:48-49)

そして、イエス様は彼らに息を吹きかけて言いました。

聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。(ヨハネ20:22-23)

それを読んで、私は別の聖書の話を考えます。エデンで、神様がアダムに息を吹きかけて、アダムは物質的な命を受けました。でも、この個所では、弟子たちは霊的な命を受けました。

聖霊様は、救いのしるしとして、彼らに入りました。そしてイエス様が以前約束したように、聖霊様は彼らにいろんなことを教えたし、彼らがどこに行っても聖霊様は彼らと共におられました。さらに、聖霊様は、彼らがイエス様からの使命を果たすために力を与えてくださいました。だからそのあと、彼らはあらゆるところに福音を広げました。

そのように、私たちがイエス様を救い主と主として受けると、イエス様は私たちに息を吹きかけて、霊的な命を与えてくださいます。聖霊様も、私たちに入って、私たちを導いてくださいます。さらに、聖霊様は私たちに力を与えてくださるので、イエス様からの使命を果たすことができます。

だから、私たちは独りぼっちではありません。私たちは自分の力と努力によって、神様を喜ばせ、神様の目的を果たす訳ではありません。

むしろ神様自身は私たちに住んでおられる聖霊様を通して、私たちを満たして、命と敬虔をもたらすすべてのものを私たちに与えてくださいます。(第二ペテロ1:3)

私たちの主な仕事は、福音を広げることです。私たちは、悔い改めてイエス様を受ける人に、「あなたの罪は赦された」と宣言できます。でも、神様の救いを受けない人に、私たちは将来の裁きについて警告します。

神様は御国のカギを私たちに与えてくださいました。福音を伝えたら、私たちが御国を門を開けて、周りの人々は入る機会があります。

だから聖霊に満たされて行きましょう。死にかけている世に、御国の門を開きましょう。

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ルカ24:13-35--鈍い心

いつイエス様がペテロに自分自身を現したかによって、この話では、私たちはイエス様の復活の後の第三目か第四目の現れを見ます。

この話では、二人の弟子たち(しかし12人の弟子に所属していませんでした)は、エマオという村に向かっていました。もしかしたら、エマオは彼らの出身地だったかもしれません。彼らが歩きながら、女性たちの話や、ペテロとヨハネの話について話しました。でも、彼らはまだイエス様が復活したことを信じなかったらしいです。

そしてイエス様は突然現れました。でも、彼らはイエス様を認識できませんでした。聖書によれば、彼らの目はさえぎられていました。(16節)

つまり、彼らはイエス様を見ることができたけど、イエス様は彼らがイエス様のことを認識するように許しませんでした。もしかしたら、イエス様はお墓の外で、マリアに同じことをしていたかもしれません。

とにかく、イエス様は彼らに訊きました。

歩きながら語り合っているその話は何のことですか。(17)

多分その二人はとても驚いたでしょう。「知らないのですか。君はエルサレムにいていたわけじゃないのですか。何が起こったか知っているでしょう?」

でも、イエス様は何も知らないふりをして、答えた。

「どんなことですか。」(19節)

そして、その二人は自分の混乱と悲しみを打ち明けました。つまり、彼らが、イエス様がメシアで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると思ったのに、イエス様は十字架で死んだことです。それに、彼らはイエス様がよみがえられた話を聞いたけど、その話を信じられるかどうかわかりませんでした。

それを聞いて、イエス様は彼らを叱責しました。

ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(25-26)

そして、イエス様は、苦しんでいるメシアが私たちの罪のために死んでくださって、よみがえられたという始めての説教を教えました。

彼らがエマオに着いたら、イエス様はもっと先まで行きそうな様子でした。でも、彼らの心がかき回されたので、イエス様に頼みました。

一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。(29)

そして、イエス様が彼らと食卓に着くと、イエス様はパンを取って、神様をほめたたえ、裂いて、渡されました。(30)

もしかしたら、それを見ると、彼らはイエス様が5000人にパンと魚を与えてくださった出来事をを覚えていたかもしれません。そして、彼らの目が開かれて、イエス様を認識しました。でもその瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。

そして彼らは話し合いました。

道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。(32)

そして、彼らは11人の弟子たちのところに行って、イエス様が復活したことを伝えて、女性たちとペテロの話を確認しました。

それでは、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

どれぐらい私たちは、神様の言葉に対して、鈍い心を持っているでしょうか。

私たちはイエス様が私たちの罪のために死んで、よみがえられたことを信じるかもしれないけど、イエス様のほかの言葉を本当に信じるでしょうか。

なぜ私たちの心が鈍くなるのでしょうか。

もしかしたら、その二人の弟子のように、私たちの過去の経験を振り返って、失望するかもしれません。または、私たちの人生は希望通りに進んでいないかもしれません。

だから、私たちは神様に疑問を持ちます。「あなたの言葉は真実なのしょうか。あなたは本当に私とともにおられるのでしょうか。私のニーズを本当に備えてくださるのでしょうか。あなたは私を本当に愛しているのでしょうか。」

私もそんな疑いを持ったことがあります。

もしかしたら、私たちは神様の道を疑って、自分の道を行きたいと思うかもしれません。私たちは神様の道が無駄だと思いますから。

私はノンクリスチャンと結婚するクリスチャンをたくさん知っています。彼らの理由は、良いクリスチャンの伴侶を見つけることができなかったことです。でも多くの場合、あとでその決断を後悔してしまいました。

私たちがイエス様の言葉を信じないので、その二人の弟子たちのように、私たちは失望した人生、悲しみの人生を送ってしまいます。

でも、良い知らせがあります。イエス様は私たちのことを決してあきらめないのです。イエス様はまだ私たちと共に歩んでいます。

もし私たちが自分の心を開いて、すべてを打ち明けると、イエス様は自分の言葉を私の心に注いて、私たちを癒して、新しい希望を与えてくださいます。

だから私たちの鈍い心を捨てましょう。私たちの心を開いて、イエス様を信じましょう。

聖書はこう言っています。「この方(イエス様)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

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マタイ28:1-20;マルコ16:1-8;ルカ24:1-12;ヨハネ20:1-18--いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活に関して、二つの注意事項を言いたいと思います。

一つ目は、私がマルコ16:9-20を飛ばすことです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはその言葉を書いていなかったから。

どうして、マルコは具体的にイエス様の復活に関して話さなかったでしょうか。私は三つの意見を聞いたことがあります。

一つ目は、その福音を終える前にマルコが亡くなったことです。

二つ目は、元のエンディングはなぜかなくなったことです。

三つ目は、もしかしたら、使徒の時代に、教会で牧師がマルコの福音書を読んだ後、イエス様の復活を見た人々が自分のあかしを伝えたかもしれません。

とにかく、マルコが亡くなった後、現在のエンディングが加わったらしいです。

私の二つ目の注意事項は、イエス様の復活に関して、四冊の福音書の話を統合するのはとても難しいことです。だから、できるだけ、私はその復活の話の順番を伝えようとするけど、それはただ私の意見です。

でも、どの福音を読んでも、基本的な事実は同じです。女性たちがイエス様のお墓に着いたとき、そのお墓はもう空っぽでした。そして、天使たちが来て、イエス様の復活を女性たちに伝えました。そのあと、イエス様がマリアとほかの女性たちに現れて、その女性たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷なら、証人の証言がちょっと違っても、その四つの事実を認められます。

それでは、私はここに簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様のお墓に行ったけど、イエス様の死体がありませんでした。

2.マリアがお墓に入って、イエス様の死体がなかったと分かると、すぐに弟子たちに伝えるのに帰りました。

3.しかし、ほかの女性たちは残っていて、多分何が起こったか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が来て、一人の天使はイエス様が復活したという良い知らせを伝えました。

4.そして、女性たちは弟子たちに伝えるために、帰りました。彼らは急いだので、止まらないで、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.そのうちに、マリアは弟子たちにイエス様の死体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)だから、ペテロと(多分)ヨハネはお墓を調べに行きました。マリアは彼らと共にお墓に戻りました。彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家にきて、残った弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネはお墓に着いて、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活したと信じたらしいけど、ペテロはまだ疑ったようです。たぶん、彼らは帰っている間にそのことを議論したでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネがお墓に行ったときに、走ったので、もしかしたら、マリアは遅く着いたかもしれません。だから、マリアがやっと着いたとき、ペテロとヨハネがまだいたかどうか私は分かりません。そして、イエス様はマリアのところに来て、彼女を慰めました。そのあと、彼女はすぐに弟子たちのところに帰りました。(ヨハネ20:12-18)

8.彼女が帰っている間、イエス様はほかの女性たちのところに来ました。もしかしたら、彼女らは帰っている途中だったかもしれません。もしかしたら、彼女らはちょっと失望していたかもしれない。なぜなら、弟子たちは彼女らの話を信じなかったから。でも、イエス様が彼女らを励ましたので、彼女らはもう一度弟子たちのところに戻りました。そのころ、マリアも来たので、弟子たちはマリアとその女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかわからないけど、それが私の推測です。

とにかく、マリアのことをちょっと考えてみましょう。私がこの話を想像すると、イエス様のお墓の外で、マリアが悲しんで、絶望しているというイメージを見ます。私の意見が正しいなら、彼女は他の女性たちの天使の経験をまだ聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の死体がなくなったことです。

そして、マリアはそのお墓に入ったら、二人の天使を見ました。でも、ほかの女性たちの話をまだ聞いていないので、マリアはその天使たちを認識しませんでした。だから、その天使たちが「なぜあなたは泣いているのですか」と訊くと、マリアは単に、「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません」と答えました。

もしかしたら、天使たちがイエス様の復活を伝えようと思った瞬間、イエス様は来たかもれしれません。

最初は、マリアはイエス様のことも認識しなかったけど、イエス様はマリアの名前を言いました。

「マリア。」

それを聞いて、マリアの悲しみの涙は、たちまち大喜びに変わりました。

どれだけ私たちはマリアのようでしょうか。私たちは苦しんでいて、神様がとても遠いと思います。私たちは祈るけど、その祈りは天井に当たって、神様に届かないようです。私たちは神様を求めようとするけど、神様を見つけられません。神様が死んだようです。

でも、実は神様は私たちと共におられます。マリアのように私たちは神様を見ないかもしれないけど、神様はおられています。そして、一番ふさわしい時に、神様は自分自身を現してくださいます。

だから諦めないでください。私たち皆は悲しみの時を経験します。私たち皆は、神様が遠いと思ったことがあります。でも神様はインマヌエルです。つまり、「神様は私たちと共におられる」ということです。

そして、イエス様を復活させた同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びに変えてくださいます。

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マタイ28:11-15--説得されることを拒む人

私は祭司長たちとパリサイ人たちの頑なな心なんて、信じられません。イエス様のお墓を警備するために、彼らが対策を練たのに、そのお墓は空っぽになりました。彼らでも、その事実を認めなくてはなりませんでした。

彼らは番兵たちの話を聞いて、地震と天使のことを知りました。

さらに、彼らはきっと、ほかの復活された人々に関して聞いたはずです。(マタイ27:52-53)

でも、その証拠を見ても、彼らはまだイエス様がキリストであることを信じませんでした。だから、弟子たちがイエス様の死体を盗んだ噂を広げるために、彼らは番兵たちにお金をあげました。自分が律法をちゃんと守ると自慢する人なのに、彼らはそんな嘘を広めました。

その行為によって、彼らはイエス様の言葉の正しさを証明しました。ラザロのたとえ話で、イエス様はこう言いました。

モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、誰が死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。(ルカ16:31)

イエス様とほかのユダヤ人たちがよみがえられたのに、パリサイ人たちや祭司たちはどうしても信じませんでした。

今なお、そんな人もいます。あなたは彼らに神様の存在の証拠を示して、聖書やイエス様に関する彼らの疑問に答えるかもしれません。

また、彼らは自分が説明できないことを見るかもしれません。例えば、彼らはクリスチャンの知り合いのがんが癒されることを見るかもしれません。それでも、彼らはどうしても信じません。

最終的に、どうしてもイエス様を信じない人がいます。彼らが信じることができないわけではなく、彼らは信じたくないのです。そして、神様が彼らに恵みを与えてくださらないなら、彼らは決して信じないでしょう。

それでは、私は何を言いたいのでしょうか。

祈ってください。神様だけが彼らの目を開けるから。パウロはこう言いました。

それでもなお私たちの福音に覆いがかかっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いがかかっていると言うことです。彼らの場合は、この世の神が(つまり、サタン)、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(第二コリント4:3-4)

それでは、私たちは何を祈るべきでしょうか。キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、神様が彼らの心を照らしてくださるように祈るべきです。(第二コリント4:6)

パウロ自身はそのように救われました。彼は霊的な盲目で、真理を拒絶したけど、神様は文字通りに、また、比喩的に光をパウロに照らしてくださいました。その光によって、パウロの人生は全く変わりました。

あなたが愛している人々の頑なな心を見て、失望しているでしょうか。あなたは彼らの心を変えることができません。あなたは何を言っても、何をしても、その心を変えることができません。でも、神様はそんな力を持っています。

だから諦めないでください。祈ってください。熱心に祈ってください。そして、神様の恵みによって、彼らは救われるかもしれません。

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マタイ27:62-66;28:1-4--だれも妨害できない神様の計画

ちょっと考えてみると、これはかなり面白い聖書の話です。

パリサイ人たちや祭司長たちは弟子たちがイエス様の死体を盗んで、イエス様がよみがえられたと宣言することを心配しました。だから彼らは、ピラトがイエス様の墓を警備するように頼みました。

ピラトは同意して、番兵を送りました。

でも三日目に地震が起こって、天使はイエス様の墓を覆った石を脇に転がし、その石の上に座りました。番兵たちはそれを見て、気を失いました。

パリサイ人たちと祭司たちの混乱とフラストレーションを想像してください。多分、彼らは互いに訊き合いました。「どうして私たちはその番兵を頼んだでしょうか。どうやって、空っぽなお墓を説明できるでしょうか。番兵たちが寝ちゃったと信じる人もいないはずだし、弟子たちが番兵たちをやっつけたと信じる人もいないはずです。どうしたらいいでしょうか。」

この話から私たちは大切なことを学ぶことができると思います。

人々は、神様の計画を妨害するため、また自分の目的を果たすためにいろんな計画を立てることができます。でも、最終的に、彼らは神様の計画が妨害できません。神様の目的は堅く立ちます。

多くの人々は人間の自由意思と神様の主権に関して、疑問に思います。私はすべての答えを持っていないけど、この個所で、私たちがその答えの部分を見ることができると思います。

自分の自由意思で、パリサイ人たちと祭司長たちは番兵を頼みました。神様はその選択の邪魔をしませんでした。でも、彼らの選択の後、神様は自分の選択をしました。

神様はイエス様を復活させて、石を転がして、番兵たちを怖がらせました。

そのように、神様は私たちの選択を許してくださいます。でも、そのあと、神様は自分の選択をします。だから私たちは神様の計画が妨害できません。

パリサイ人たちと祭司たちは、イエス様のお墓で神様の計画を止められませんでした。そしてこの先決して、神様の計画が妨害できる人は誰もいません。

だから確信をもって、神様をほめたたえましょう。なぜなら、神様はすべてのことをコントロールしているし、神様は計画はきっと果たしますから。

 

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マタイ27:32-61;マルコ15:24-47;ルカ23:32-56;ヨハネ19:18-42--聖書が成就するため

この個所を読んではっきりすることは、イエス様の死が偶然ではなかったことです。また、イエス様の死は、神様の間違いではありませんでした。むしろ、この時間が始まる前から、神様は私たちの救いを計画しておられました。

皮肉なことは、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めると、イエス様はそのしるしを与えたんだけど、彼らはそのしるしが認識できなかったことです。彼らはイエス様が十字架から降りるように挑戦したけど、イエス様は預言を指しました。

だから、イエス様は叫びました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼んでいたと思いました。でも、実はイエス様は彼らに詩篇22篇を指していました。なぜでしょうか。なぜなら、十字架でイエス様はダビデの書いたことを成就したから。

十字架でイエス様は侮辱されて、軽蔑されました。実は、祭司長たちは思わずダビデの詩篇を引用しました。22篇で、ダビデの敵はこう言いました。

主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)

祭司長たちはイエス様に関して、こう言いました。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)

ダビデの時代、十字架という刑罰はまた存在していませんでした。それでも、ダビデは十字架の死について生々しい描写を与えました。ダビデはこう言いました。

水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)

実際、十字架にかかった人の骨んの関節はしばしば外れたそうです。

そして、ダビデはこう言いました。

心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)

ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺すと、血と水が出てきました。現代の医者によれば、その血と水が出るのは、心不全のしるしです。

ダビデは、イエス様が喉が渇くことをも預言しました。

舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)

また、ダビデはイエス様の手と足が刺されたことを預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬(またはライオン–>13節を読んでください)の歯の描写を使ったけど)。

犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)

それに、十字架でかかった人は自分の胸郭を見ることができました。

ダビデはそんなことについても話しました。

私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)

またダビデは、兵士たちがイエス様の服のために賭けたことを預言しました。

彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)

そのらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていたけど、そのことが認識できませんでした。

ヨハネはほかの聖書の個所も参考します。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指します。

さらに、イザヤ書53章は具体的にイエス様のことを指します。

イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)

証人たちがイエス様に言いがかりをつけたのに、イエス様は何も言いませんでした。(7節)

イエス様は自分の敵のためにとりなしをしました。(12節)

イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたけど、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)

そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)

だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に天の父はイエス様の死、また私たちの救いを計画しました。

だから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払った代価のために天の父をほめたたえましょう。

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マタイ27:45-54;マルコ15:33-39;ルカ23:44-49;ヨハネ19:28-30--全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年私は税務署に行って、確定申告を提出して、一か月後に、税務署がちょっとお金を返してくれます。しかし、すぐに私は市民税や県民税も支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで支払います。もちろん分割払いで支払ってもいいけど、一括払いの方がいいと思います。そのあと、次の年まで、もう税金のことを考えなくていいから。

十字架で、イエス様の最後の言葉はその税金を支払うイメージを描写しました。

12時に、闇が全地を覆いました。15時頃まで、ずっと暗いままでした。その時、たぶん神様は私たちの罪を全てイエス様に負わせたでしょう。その暗闇は罪の描写でしょう。罪によって、霊的な暗闇はこの世に来たけど、天の父はその罪をイエス様に負わせました。

そして、15時ごろにイエス様は叫びました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

多分その瞬間、天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせて、イエス様に背を向けたでしょう。それなら、天の父のイエス様との関係は初めて壊れたでしょう。そしてイエス様は私たちが値する罰を経験しました。つまり、イエス様は天の父から離れたのです。

イエス様は完全の愛の源、喜びの源、また命の源から離れました。

そんな生活は地獄です。イエス様は実際に地獄に行かなかったけど、その意味で、地獄を経験しました。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死ぬ直前に、イエス様は天を仰いで、祈りました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代に、ユダヤ人たちが税金を払ったとき、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のための負債は全部支払われました。

その結果は?私たちは神様と新しい関係ができます。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を上から下まで真っ二つに裂けました。(マルコ15:38)

なぜでしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう言いました。「私たちの間の障害は破れました。イエス様を通して、あなたには私にアクセスがあります。」

イスラエル人と違って、私たちは神様から遠くて立たなくてもいいです。(出エジプト記20:18-21)

むしろ、私たちは神様に近づいてもいいです。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

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ヨハネ19:25-27--私の苦しみを脇へ置くこと

私たちがどれだけわがままであるか知りたいなら、悲しんでいるときに、私たちがどう反応するかを見るべきです。私たちが試練に直面するとき、私たちが苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身に焦点を当てるでしょうか。

自己憐憫に浸るのは普通の反応だと思います。

「どうして私はこんな試練に向き合っているだろうか。いつまで私は苦しまなけてはならないのか。」という質問は普通だと思います。

でも、私たちが十字架を見るとき、イエス様は、自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てました。イエス様は一人の犯罪人を憐れんだし、敵のために祈ったし、このシーンでは、私たちは、マリアに対するイエス様の愛を見ます。

マリアは十字架のもとで泣いていました。マリアの長男はひどい罰を受けて、死にかけていました。マリアのほかの子どもたちは十字架の近くいなかったらしいです。もしかして、彼らはイエス様が狂って(マルコ3:21)、イエス様が彼らの家族に恥をかかせたと思ったかもしれません。

だから、他の息子たちや娘たちはおらず、マリアは十字架のもとで泣きました。家族からの慰めはありませんでした。だから、イエス様は愛している弟子(多分ヨハネ)を見ると、マリアにこう言いました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(26)

(その時代、「女の方」というのは、とても丁寧な表現でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言いました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のところに引き取りました。

イエス様は自分の苦しみだけを考える権利を持ったでしょう。彼は無実でした。イエス様はその苦しみに値しませんでした。それでも、彼は自分の苦しみをわきへ置いて、周りの人々を見て、愛を示しました。

あなたはどうですか。

私のかつて牧師の奥さんは本当に素晴らしい人でした。私が知り合った人の中で、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるまで、そのような人でした。彼女ががんにかかって、だんだん健康が悪くなってきたので、結局自分のベッドにずっといて、ほかの人々が彼女の世話をしなくてはなりませんでした。それでも、彼女は自己憐憫に浸りませんでした。最後まで、彼女は彼女の世話する人にイエス様の愛で触れようとしました。

もちろん彼女は完全な人ではありませんでした。多分、気が沈んだときもあったでしょう。でもイエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置いて、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。もしかしたら、あなたは自分の苦しみを脇へ置いて、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しむときに自分自身に焦点を当てる心は、苦しみにとどまります。でも自分の苦しみを脇へ置いて、周りの人々のニーズを見る心はその苦しみの上に上がって、もう一度喜びを見いだします。

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マタイ27:38、44;マルコ15:27,32;ルカ23:32-33、39-43;ヨハネ19:18--神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは十字架の有名の話の一つです。イエス様の隣に、二人の犯罪人も十字架にかけられました。そして、ルカはその二人に関して、こう言いました。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉は、私の心を打って、私はこう思いました。「どれぐらい人々は自分の罪のために苦しんで、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪いことをしたので、罰を受けていたけど、悔い改めずにその罰に関してぼやいていました。もしかしたら、自分の行為が正しいと思ったので、彼はイエス様に叫びました。「あなたは本当にキリストだろうか。私はこの罰に値しない。私を救え。」

他の福音書によれば、最初は、もう一人の犯罪人もイエス様ののしりました。でももしかすると、イエス様は答えずに、情けを持って、彼れらを見たかもしれません。だから、だんだん二人目の犯罪人は静まりました。彼が分かったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を取ろうとしたけど、イエス様が自分の尊厳を保っていたことです。さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持つのを見ました。

もしかすると、その犯罪人は、イエス様の奇跡を見たことがあったし、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見て、始めて「やっぱり私は悪かった。私はいろんな言い訳を言ったけど、それはただの言い訳だった。私はきっとこの罰に値する。」と認めたかもしれません。

だから、ほかの犯罪人はイエス様をののしり続けると、彼は言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向いて、願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像だけど、たぶんイエス様は初めて十字架で微笑んだかもしれません。そしてイエス様は答えました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていても、命を見いだしました。

私は前にも言いましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のようです。彼らは悪いことをするけど、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めずに神様をののしります。

多くの人々は、どうして神様が地獄で人々を永遠に罰するか疑問します。

多分一つの理由は、地獄で誰も悔い改めないことです。むしろ、彼らは永遠に神様をののしります。彼らは自分の行為が正しかったと言い張ります。彼らの心で、自分の悪さを理解するけど、彼らは自分の罰について文句を言います。

地獄では、人々は自分が悪いのが分かるし、その罰に値するのも分かるけど、そのことをどうしても認めません。

でも自分の罪を認めて、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように、赦されて、命を見いだします。

でも、その時間は今です。あなたが死んだ後では、手遅れです。だからパウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうですか。イエス様の前にへりくだって来るでしょうか。イエス様からの救いを受けたでしょうか。

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ルカ23:34--彼らをお赦しください

多くの人々にとって、相手を許すのはとても難しいことです。なぜなら、私たちの心に深い傷を持っているから。そして、その傷が深ければ深いほど、癒しの期間は長くなります。

もし、指が針で刺されたら、癒しは早いです。でも、相手があえてあなたの背中をナイフで刺したら、その癒しはすごく時間かかるでしょう。

だから敵に対するイエス様の反応は本当に驚くべきものです。十字架で、イエス様は言いました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(23:34)

イエス様の言葉をちょっと考えてみてください。もし、相手が自分が何をしているのか分からなかったら、その人を許すのはもっと簡単なことです。多くの場合、彼らは何をしていたか分かると、すぐに謝るでしょう。そんなことを割と許しやすいです。

でも相手があえてあなたを傷つけるなら、それはとても許しにくいでしょう。

それでは、パリサイ人たちと祭司長たちの場合はどうでしょうか。彼らはイエス様に「あれ?イエス様、私たちの行為によって、あなたは十字架で付けれらているのですか。ごめんなさい。あなたを助けましょう。」と言ったでそうか。

そうではありません。もともと、彼らはあえてイエス様を殺そうと思っていました。彼らが代金を払ったので、ユダはイエス様を裏切りました。最高法院の前の裁判のため、彼らは嘘をつく証人を呼びました。そして、彼らはピラトとヘロデにイエス様についていろんな嘘をつきました。彼らの勢力によって、ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫びました。それだけではなく、イエス様が十字架にかかっている間、彼らはイエス様をからかいました。

いったいイエス様は「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と言えたでしょうか。彼らはよく知っているはずだったのに。

でも、彼らは実際に知りませんでした。彼らは自分の嫉妬に目がくらんでいました。彼らは自分のプライドや罪に目がくらんでいました。サタン自身が彼らの思いをくらませました。

実は、私たち皆は、以前霊的に盲目でした。

人々があなたをあえて傷つけても、その理由は彼らも霊的に盲目だからです。

もしかしたら、彼らはあなたにどんなダメージを引き起こしたか分からないかもしれません。

もしかすると、彼らは、神様の目には、あなたには価値があることを知らないかもしれません。

もしかしたら、彼らは自分の傷を持つので、思わずあなたを傷つけるかもしれません。彼ら自身は自分の行為が分からないかもしれません。

ある男性は、家族を虐待したお父さんを何年も許すことができませんでした。でも神様は彼に、そのお父さんも虐待されていたことを現わしました。その癒されていない傷のため、そのお父さんは大人になると、自分の家族にいろんな酷いことをしてしまいました。

その息子がお父さんの傷が分かると、お父さんに共感して、許すことができました。

私たちが相手を許せないとき、そんなことのために祈るべきです。つまり、私たちが自分の傷から目を離して、私たちを傷つける人のことがわかるように祈るべきです。

イエス様は十字架でそうしました。イエス様は自分の傷から目を離して、彼を憎む人々のニーズを見ました。その敵は決して悔い改めなかったけど、イエス様は彼らを赦してくださいました。

神様の助けによって、あなたが相手の傷が分かるようになります。それでも、彼らは決して悔い改めないかもしれません。でも、あなたが彼らのことが分かるようになれば、あなたは変わります。あなたは自分の傷に焦点を当てずに、相手の傷に焦点を当て始めます。神様があなたの心に彼らに対する愛と情けを注いで、あなたは彼らを赦すことができるようになります。

あなたが許せない人がいるでしょうか。あなたがその人のことが分かるように祈ってください。彼らの傷が分かるように祈ってください。そして、イエス様のように祈ってください。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

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マタイ27:33-37;マルコ15:22-26;ルカ23:38;ヨハネ19:18-22--神様が書かれたこと

ピラトと祭司長たちの会話はとても興味深いです。ピラトは十字架の上にイエス様の罪状書きを掲げました。イエス様の「犯罪」は?

「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。

祭司長たちはすぐにピラトの所に行って、抗議しました。彼らは「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください。」

でもピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」(ヨハネ19:21-22)

今なお、多くの人々はユダヤ人たちのような態度を取ります。彼らはイエス様を王として認めたくないのです。彼らは、イエス様が神の子だと認めたくないのです。また、彼らは、イエス様だけが神様への道だと認めたくないのです。

だから、彼らはクリスチャンたちにぼやきます。

「イエス様は自分が王や、神の子や、神様への道と自称したかもしれないけど、私はそう信じない。」

でもピラトと違って、私たちは私たち自身よりも優れた権威を持つ方に指すことができます。私たちは彼らにこう言えます。

「神様が書いたものは決まっています。あなたはその言葉を変えられません。あなたは神様に自分の御心を変えさせることができません。神様の言葉は永遠に立ちます。あなたの不信は、神様の言葉を変えません。」

人々はそんな言葉を聞きたくないでしょう。祭司長たちはピラトの言葉を聞いて、とても怒ったでしょう。でも、相手がその言葉が好きかどうかは構いません。なぜなら、神様の言葉は正しいから。だから人々は選択しなくてはなりません。

彼らは自分の心をその真理に合わせるでしょうか。もしくは、彼らはその真理を彼らが信じたいことに曲げようとするでしょうか。

でも、もし彼らが真理を曲げようとしたら、結局真理ではなく、彼らの人生は砕かれます。

イエス様は自分自身に関して、こう言いました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たち(つまり、祭司長たちや、ほかの宗教的なリーダーたち)が捨てた石(つまり、イエス様)、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」。。。また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42,44)

祭司長たちはイエス様を拒絶したので、彼らの世界は砕かれました。エルサレムは倒れて、神の神殿は破壊されて、おまけに、裁きの日に、彼らは自分の罪のために裁かれます。

イエス様を拒絶する人々の皆に同じことが起きます。神様が書いたことは決まっているから。

あなたはその言葉を聞いて、どうするでしょうか。

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ルカ23:27-31--イエス様の心

イエス様の心を見て、私はいつも驚きます。

この個所では、私たちはイエス様を十字架に導いた憐れみ深い心を見ます。

イエス様は丘をの登ったとき、泣いている女性たちを見て、こう言いました。

エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。なぜなら人々が、「不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山々に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言い、丘に向かって「私たちをおおえ」と言い始めます。生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。(28-31)

イエス様は自分の境遇を無視して、ユダヤ人たちがイエス様を拒絶した結果を預言しました。つまり、「私が神様のいのちで満ち溢れているのに、ローマ人たちが私にこうするなら、彼らは霊的に枯れた人々に対してどうするでしょうか。ローマ人たちがあなたたちを迫害して、あなたたちは死を望みます。そのとき、あなたたちは子供のいない人々をねたみます。」

35-40年後に、イエス様の言葉は成就しました。ローマの軍隊はエルサレムを破壊しました。

でも、私の心を打ったのは、イエス様がそのことを望まなかったことです。ユダヤ人たちがイエス様を憎んだのに、イエス様は彼らの破壊を望みませんでした。むしろ、イエス様が彼らの救いを望みました。

それに、イエス様は私たちの救いを望んでいます。

だから、イエス様は十字架に行きました。イエス様は、自分自身だけを見ずに、私たちと私たちのニーズを見てくださいました。

そのことを考えていると、この讃美歌を思い出します。

And can it be that I should gain an interest in the Savior’s blood?
どうして、救い主の血によって、私は益を得ただろうか。
Died He for me, who caused His pain—
私がイエス様の苦しみを引き起こしたのに、イエス様は私のため死んでくださいました。
For me, who Him to death pursued?
イエス様の死は、私こそのせいでした。

Amazing love! How can it be,
すばらしい愛。そんなことがあり得ようか。
That Thou, my God, shouldst die for me?
私の神なのに、どうしてあなたは、私のために死んでくださっただろうか。
Amazing love! How can it be,
すばらしい愛。そんなことがあり得ようか。
That Thou, my God, shouldst die for me?
私の神なのに、どうしてあなたは、私のために死んでくださっただろうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

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マタイ27:31-32;マルコ15:20-21;ルカ23:26;ヨハネ1916-17--私たちがイエス様の十字架を背負わなくてはならなかったら

クレネのシモンという人に関して、私たちはほとんど知りません。マルコによれば、彼はルフォスという人の父でした。ローマ書16:13では、パウロはルフォスという人に挨拶したので、ある聖書学者たちは、マルコの福音書のルフォスが同じルフォスだと考えています。

多分、シモンは北アフリカのユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを祝うために初めてエルサレムに巡礼したのでしょう。でも、エルサレムに着いてみると、彼は予想以上のことを見ました。シモンは、本当の過ぎ越しの子羊が彼の罪のために殺されるのを見ました。(第一コリント5:7)

でもその前に、シモンはイエス様の十字架を背負わなくてはなりませんでした。最初は、イエス様は自分の十字架を背負ったけど、肉体的な苦しみ(イエス様はむちで打たれて、たくさんの血を流しており、軍人の拳で殴られました)や、精神的な苦しみ(イエス様が愛した者たちはイエス様を裏切ったり、捨てたりしました)のため、その十字架の重さに耐え切れなくなり、イエス様は倒れました。イエス様はその十字架を背負うことができなくなりました。だからシモンは代わって、その十字架を背負いました。

それを読んで、私はこう思いました。もしイエス様がゴルゴタで「もういいです。私はもうこの苦しみに耐えられない。あなたはこの十字架を背負いなさい。あなたはこの十字架で死になさい。あなたはこの十字架に値するでしょう?私には罪を犯したことがない。罪を犯したのはあなたです。」と言ったら、私たちはどうなったでしょうか。

ある意味、シモンはそれをちょっと経験しました。イエス様は十字架を背負えなかったので、シモンは自分の十字架を背負わななくてはなりませんでした。実は、それは本当はイエス様の十字架ではありませんでした。それはシモンの十字架でした。なぜなら、イエス様は罪を犯していなかったけど、シモンはたくさんの罪を犯したから。

あとになって、シモンはその真実を理解したでしょうか。

「私は実際にイエス様を助けていませんでした。私こそが、その十字架に値しました。実は、その十字架を背負ったとき、イエス様は私を助けようと思いました。私はその十字架で死ぬことに値したけど、イエス様が私の代わりに十字架で死んだので、私は罪から救われました。でも、イエス様が十字架をもう耐えられなくなっていたら、私はどうなっただろう。私はどこにいるだろうか。」

その答えは?地獄です。なぜなら、私たち皆は地獄に値するから。

でも、イエス様は十字架を背負ってくださいました。イエス様は十字架で私たちが値する罰を受けて、死んだほどに、私たちを愛していました。だから、私たちの罪は赦されて本当の命を見つけることができます。それは、私たちを愛する神様との関係を持つ人生です。

だから、十字架を当たり前のものだと思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちのために十字架で死んだ者を仰ぎましょう。

Jesus Christ,
イエス・キリスト
Praise your name,
あなたの名前をほめたたえます。
Lord I sing without shame.
主よ。私は恥じずに歌います。

You bore the cross.
あなたは十字架を背負ってくださいました。
So much love.
あなたは私をそんなに愛していました。
All my life, all I need is you.
私の一生、私が必要なのは、あなたしかない。

ーージェームズ・ガブリエル

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マタイ27:22-26--イエス様の血が私たちの上に

全ての福音書を読むと、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫びは、私の心に響きます。

イエス様はそれを聞いて、本当に悲しんでいたでしょう。なぜなら、イエス様がその人々を本当に愛していたのに、彼らはそんなひどい言葉を叫んだから。

ピラトはその言葉を聞いて、諦めて、群衆の前に手を洗って言いました。

この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。(24)

その群衆はそれを聞いて、答えました。

その人の血は私たちや私たちの子供らの上に。

最終的にユダヤ人たちはその行為のために苦しみました。彼らが自分のメシアを拒絶したので、西暦70年に、タイタスというローマの将軍が、エルサレムを破壊して、多くのユダヤ人たちとその子供たちは殺されました。もちろんタイトスが刀を振るったけど、それはユダヤ人に対する神様の裁きでした。

でも、ピラトと群衆の言葉に思いを巡らすと、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、私たち皆はイエス様の死の責任を持っていることです。イエス様は私たちのために死にましたから。私たちが神様を拒絶していなかったら、また、罪を起こしていなかったら、イエス様が死ぬ必要がなかったでしょう。だから、イエス様の血は、その時代のユダヤ人だけではなく、私たち皆の上なのです。

パウロはこう言いました。

全ての人は罪を犯し「ました」。(ローマ3:23)

だから、ピラトと違って、「私には責任がない」と言える人がいません。私たち皆は責任を持っています。

でも実は、「イエス様の血は私たちの上に」という言葉に、もう一つの意味を付けられると思います。(これは私の二番目のポイントです。)

もちろん、群衆の意味したものは、「イエス様の死は私たちの責任だ」ということです。でも、皮肉なことは、イエス様の血は私たちを覆って、私たちの罪をきよめてくださることです。私たちがイエス様を信じたら、その血は私たちの罪を覆って、神様の目に、私たちは義人と認めれます。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体をきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:12-14)

だから、私たちの救い主に叫びましょう。「あなたの血が私たちの上に。私たちは罪を犯したので、あなたの死の責任を持っています。でも、あなたの血が私たちの上になるように。あなたの恵みと憐れみによって、私たちをきよめ、赦し、完全にしてください。」

 

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ヨハネ19章14-19--あなたの王は誰でしょうか

ピラトと祭司長たちの会話を見ると、私たちは聖書の話の中で、最も大きい皮肉の一つを見ます。

ピラトは神様のことを全然知らなかったけど、彼は祭司たちとほかのユダヤ人たちに叫びました。「見よ。お前たちの王だ。」

ピラトは100%正しかったのです。イエス様は、ユダヤ人たちの王でした。

でも、世間一般の人々よりも、神様をよく知っているはずのこの祭司長たちは主張しました。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」

ピラトは、「カエサルのほかには、私たちに王はない」と言うべき人だけど、彼は「イエス様は王だ」と言いました。

その反面、「イエス様は王」と言うはずのユダヤ人たちは、むしろ、「カエサルは王」だと言い張りました。

祭司長がそう信じなくても、彼らは「神は王だ」と言うはずでした。でも、彼らは怒り過ぎて、考えずに「カエサルは王」だと叫んでしまいました。

あなたはどうですか。あなたの王は誰でしょうか。

あなたは祭司長と違って、「イエス様は王だ」と言うかもしれないけど、あなたの行為は同じことを伝えるでしょうか。

もしかしたら、周りの人々はあなたの行為を見ると、「あなたの王はあなたの会社」だと言われるでしょうか。なぜなら、あなたにとっては、仕事は一番大切だから。

もしかしたら、「あなたの家族はあなたの王だ」と言われるでしょうか。

もしかすると、「あなたの趣味はあなたの王だ」と言われるでしょうか。

日本では、とても大きい神は、文化という神です。

多くのクリスチャンの間でも、文化は王として支配します。

日本の文化の要求に従うプレッシャーはとても強いです。

だから、彼らは家族の平和を守るため、彼らは自分の信仰を曲げてしまいます。

また、自分のキャリアを守るため、彼らは教会に行くのをやめます。

もし誰かがあなたの人生を見て、「これはあなたの神」だと言ったら、何を指すでしょうか。

あなたの仕事でしょうか。

あなたの文化でしょうか。

あなた自身でしょうか。

もしかしたら、神を指すでしょうか。

もっと大切なのは、あなたの答えです。もし自分自身の人生を見ると、あなたは正直に「神様は私の神」だと言えるでしょうか。

もしかしたら、別のものを指すべきでしょうか。

あなたの王は誰でしょうか。

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ルカ23:7-10--イエス様が答えてくださらない人

この個所では、私たちはイエス様に対するヘロデの反応を見ます。でも、もっと正しく言うと、私たちはヘロデに対するイエス様の反応を見ます。

このヘロデはバプテスマのヨハネを殺しました。そして、彼がイエスについてはじめて聞いた時、イエス様が実はよみがえったヨハネかどうか疑問に思いました。(マタイ14:12;ルカ9:7-9)

だからヘロデはイエス様に会ってみたいと思いました。パリサイ人によれば、ヘロデはイエス様を捕まえたいと思いました。(ルカ13:31-33)

でもこの話では、ようやくヘロデはイエス様に会いました。彼はイエス様が奇跡を行うように頼んだり、イエス様にいろんな質問を訊いたりしたけど、イエス様は何も答えてくれませんでした。

どうしてでしょうか。たぶん、イエス様が分かっていたのは、イエス様が何を言っても、ヘロデがイエス様を信じないし、従わないことです。

ヘロデは何回もバプテスマのヨハネの言葉を聞いて、「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」けど、どうしても悔い改めませんでした。(マルコ6:20)

ヘロデは同じ方法でイエス様を扱いました。ヘロデにとっては、イエス様は興味深い人でした。もしかしたら、イエス様が何か芸をしてくれると思ったかもしれません。

でも、ヘロデはイエス様のことを重視しませんでした。ヘロデはイエス様に従おうと全然思っていませんでした。だから、イエス様は何も答えてくれませんでした。

この話は、私たちに対する警告です。もし私たちがイエス様に対する頑なな心を持っていれば、イエス様は私たちに言うことが何もありません。

イエス様は、私たちの魔神ではありません。私たちはイエス様のことを軽く考えてはなりません。

イエス様は私たちの神です。

イエス様は私たちの王です。

イエス様は私たちの主です。

あなたはどうですか。あなたはイエス様のことをどのように考えるでしょうか。

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マタイ27:11-26;マルコ15:1-5;ルカ23:1-25;ヨハネ18-19--私たちには、基礎がないと

前にも言いましたが、この福音の個所を統合するのはちょっと難しいです。以下は私の個人的な意見ですが、どうぞ福音を読んで、自分の結論を導いてください。

  • 祭司長たちや、最高法院の代表たちはイエス様をピラトの前に連れて行って、最初の告発をしました。(ルカ23:1-2;ヨハネ18:29-31)
  • ピラトは初めてイエス様と話します。(ヨハネ18:33-38で、その話の詳しいことがあるけど、ほかの福音書では、小さい要約しかありません)。
  • ピラトはイエス様が無実だと宣告するけど、ユダヤ人のリーダーたちがその判断に抗議したので、ピラトはイエス様をヘロデに送りました。(マルコ15:3-5;ルカ23:4-12)
  • ヘロデがピラトにイエス様を送り返して、ピラトはもう一度イエス様が無実だと宣告しました。(ルカ23:13-17)
  • そして、ピラトはユダヤ人たちに「私はイエス様かバラバ(という犯人)を釈放しようと思っているが、どっちの方を釈放した方がいいか」と訊きます。でもユダヤ人たちバラバの釈放を願いました。(すべての福音書)
  • ピラトはバラバを釈放したけど、イエス様を殺さずに、むちで打つように命令しました。(マルコ15:16-20;ルカ23:21;ヨハネ19:1-7)
  • ピラトはもう一度ユダヤ人を説得するようにしたけど、結局イエス様が十字架で殺されるように命令しました。(ヨハネ19:7-14)

その背景を踏まえて、以後数日にわたって、私は全ての主人公について話そうと思います。

今日、私はピラトについて話したいと思います。

歴史書ではピラトについて読めるけど、私は聖書の話だけを参考したいと思います。

この話を読むと、私はピラトに関してこう思いました。

「難しい決断しなければならないとき、またどうやって自分の人生を送ればいいか考えるとき、ピラトには強い基礎がなかった。」

ピラトが初めてイエス様を尋問するとき、彼はまずイエス様が本当に反逆者かどうか見極めたいと思いました。だから、彼は直接に聞きました。「お前は王なのか。」

イエス様は自分が王だと主張したけど、「私の国はこの世のものではありません」と言ったので、ピラトはイエス様がローマ帝国の脅威ではないと分かりました。ピラトにとっては、それは一番大切なことでした。

でも、イエス様は続けて、ピラトの世界観に異議を唱えました。イエス様はこう言いました。

わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(ヨハネ18:37b)

要するに、「ピラト、あなたは真理の味方でしょうか。あなたは真理を愛しているでしょうか。真理はあなたの基礎でしょうか。そうならば、あなたは私の言葉を聞き、従わなくてはなりません。

私たち皆はイエス様の質問と向き合わなくてはなりません。私たちの人生の基礎は何でしょうか。その基礎は真理でしょうか。イエス様が真理であることを信じるでしょうか。

ピラトはその疑問と向き合いました。彼の反応は?

真理とは何なのか。(ヨハネ18:38)

私はピラトの声を本当に聞きたいです。

彼は怒って、「あなたは自分が誰だと思うのか?全ての人々よりも、あなたは真理をよく知っていると思うのか。」と訊いていたでしょうか。

もしかしたら、皮肉っぽい声で話して、「真理?本当の真理はないのだ。真理とは、力を持つ人が言うことです。」と言いたかったのかもしれません。

もしかすると、絶望を感じて、「真理が本当に存在するだろうか。真理が存在しても、私は見つけられるだろうか。」と言いたかったのかもしれません。

ピラトが意味したものが、私は分からないけど、結局彼は真理の存在を拒絶しました。また、イエス様を真理の源として拒絶しました。その結果は?

彼が決断するとき、確固とした基礎がありませんでした。むしろ、彼は周りの人々の言葉や彼らからのプレッシャーに影響を与え受けました。

彼は暴動の脅威に直面しました。(マタイ27:24)

また、ユダヤ人のリーダーたちは、ピラトの行為をカエサルに伝えると脅しました。(ヨハネ19:12)

そのプレッシャーを感じて、ピラトは自分の恐れに負けて、悪い決断をしました。彼の決断が悪いとよく知っていたのに、その決断をしました。

私たちにも同じようなことが起きるかもしれません。もし私たちが真理を私たちの基礎にしないと、もし私たちがイエス様を私たちの基礎にしないと、周りの人々の意見で、私たち自身の恐れによって、私たちは決断します。そして、私たちは悪い決断をするのが落ちです。

あなたはどうですか。決断するときに、あなたの基礎は何でしょうか。あなたの人生の基礎は何でしょうか。神様の知恵を求めているでしょうか。神様の言葉が真理であることを信じるでしょうか。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたのうちに、知恵にかけている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱くもので、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。(ヤコブ1:5-8)

 

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マタイ27:1-10--死をもたらす悲しみ

この話では、私たちはイスカリオテのユダの死を見ます。

イエス様が死刑を宣告されたことを見て、ユダは後悔して、祭司長たちと民の長老たちの所に行って、こう言いました。

私は無実の人の血を打って罪を犯しました。(4)

そして、彼はもらったお金を返そうとしたけど、祭司長たちや長老たちがそのお金を受けることを拒んだので、ユダはそのお金を神殿に投げ込んで、立ち去りました。そして、彼は首を吊りました

コリント人への手紙第二7章で、パウロは二種類の悲しみについて話しました。パウロはこう言いました。

神様のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(7:10a)

ペテロはそんな悲しみを経験しました。彼はイエス様を知ることを三回否定して、本当に悲しみました。でも、彼は悔い改めたので、赦されて、イエス様の弟子としての立場に戻りました。

その反面、ユダは決して悔い改めませんでした。もちろん彼は自分の行為の結果を後悔しました。でも、神様からの赦しを求めずに、ユダは自殺してしまいました。パウロはそんな悲しみを「死をもたらす悲しみ」と呼びました。(第二コリント7:10b)

残念なことだけど、たくさんの人はユダのような悲しみを経験します。彼らが自分の行為の悪い結果を見るけど、赦しの希望がないと思います。その行為がひどすぎて、神様が彼らを赦せないと思います。

私たちはそんな人のために何をしているでしょうか。

祭司長たちはユダに神様からの赦しを知ることを助けてくれるはずだったけど、そうしてくれませんでした。むしろ、彼らはユダの悲しみを見て「で?もしあなたが悪いことをしたら、それは自分の責任です。私たちには関係ない。」と言われました。

もちろん、祭司長たちは罪深い心を持って、ユダを助けることができませんでした。ユダを助けるのに、彼らは自分自身の罪を認めなくてはならなかったでしょう。でも彼らは自分の罪を認めたくありませんでした。

皮肉なことだけど、そのお金が「血の代価」だから、彼らはそのお金を神殿の金庫に入れられないと思いました。実は、彼らは自分の罪が分かったからでしょう。

とにかく、神様の祭司として、私たちは、彼ら自身の罪で苦しんでいる人々を助けるべきです。私たちはそうしているでしょうか。私たちは、彼らが悔い改めると、神様が彼らを赦してくださることを、彼らに伝えているでしょうか。

もしかすると、彼らが苦しんでいることを私たちは喜んでいるでしょうか。私たちは彼らに「それはあなたの責任だよ。身から出た錆だよ。私の助けを求めるな。」と言うでしょうか。

イエス様はペテロにそんなことを言う権利を持っていました。イエス様は、ペテロだけにではなく、すべての弟子たちにそう言えたでしょう。でも、その代わりにイエス様は彼らに恵みを与えてくださいました。イエス様は神様からの赦しを示しました。だから、彼らが悔い改めて、彼らの人生は全く変わりました。

イエス様は、私たちが周りの人々のためにそうするように望みます。あなたはそうしているでしょうか。

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マタイ26:57-68;マルコ14:53-65;ルカ22:63-71--番大切な質問

イエス様の裁判はいろんな意味で本当にひどいものでした。

一番の理由は、祭司たちと最高法院はイエス様が無実だとよくわかっていたことです。でも、彼らはイエス様をねたみ、憎んだので、必死にイエス様を殺す理由を探していました。

神様の律法によれば、彼らが人を告発したいと思ったら、二人の証人のあかしは同意しなくてはなりませんでした。でも、彼らは証人たちを何人も尋問したとき、証拠に同意する二人の証人を見つけることができませんでした。

ようやく、彼らは同意する証拠を持っている証人たちを見つけたと思いました。その二人によれば、イエス様は神殿を壊して、新しいのを建てると言いました。実は、イエス様の意味したものは、「あなた方がこの神殿を壊しても、私は神殿をよみがえらせる」ということです。それに、イエス様はヘロデの神殿について話していませんでした。むしろ、イエス様は自分の死と復活について話しました。(ヨハネ2:19-21)

それでも、大祭司はその証人たちを詳しく尋問すると、彼らの証言の中では、矛盾があったので、その証言はダメになりました。

大祭司はフラストレーションを感じて、イエス様を直接尋問しました。イエス様が黙っていたので、大祭司は叫びました。

私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。(マタイ26:63)

それは一番大切な質問です。イエス様は誰でしょうか。イエス様は本当に神の子でしょうか。イエス様は本当にキリストでしょうか。(ところで、「キリスト」というのは、名前ではなく、肩書です。簡単に説明すると、キリストとは、「神様が約束した王」を意味します)。

そうなら、私たちの人生をイエス様に捧げるべきです。さらに、いつかイエス様は私たちを裁きます。だからイエス様は彼らに警告しました。

あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。(マタイ26:64)

イエス様はダニエル書7章を参照しました。ダニエルによれば、すべての力と権威と栄光がメシアに与えられて、メシアと戦う人が裁かれることです。

祭司たちと最高法院をそれを聞いたとき、どう反応したでしょうか。彼はイエス様とその言葉を拒絶しました。イエス様が彼らのメシアで、神の子であることを信じることを拒みました。

むしろ、彼らはイエス様を神を冒涜で告発して、死刑を宣告しました。

多くの人々は、そのように反応します。彼らは福音を聞いて、イエス様の主張がよくわかります。それでも、彼らはイエス様を拒絶します。むしろ彼らは、彼らのために十字架で死んでくださった方を踏みつけます。だからへブル人への手紙の著者によれば、彼らはいつか裁かれます。(へブル10:28-30)

でもイエス様を信じ、受け入れる人は、神の子どもとなる特権をもらいます。(ヨハネ1:12)

あなたはどうするでしょうか。イエス様はを拒絶するでしょうか。イエス様を受け入れるでしょうか。

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ヨハネ18:12-14;19-24--私たちに真実を言う人を打つこと

この個所では、私たちはイエス様の最初の裁判を見ます。アンナスという人は裁判官でした。カヤパという人が大祭司になる前、アンナスは大祭司だったけど、ローマの帝国は彼を退けて、その代わりにカヤパを大祭司にしました。それでも、ユダヤ人のリーダーたちは、まだアンナスを尊敬して、もしかしたら、カヤパが大祭司なのに、アンナスの影響はまだとても強かったでしょう。

とにかく、アンナスはイエス様に自分の弟子たちのことや教えについて尋問しました。でも、イエス様は直接答えずに、言いました。

わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。(20-21)

要するに、「あなた方は律法を尊重すると主張しているでしょう。では、その律法に従いなさい。律法によれば、あなたがたは私を告発したいと思うなら、証人が必要です。証人たちはどこでしょうか。」ということです。

でも、イエス様がそう言ったとき、下役の一人はイエス様を打って、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言いました。

しかし、イエス様は答えました。

わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。(23)

アンナスはそれを聞いて、やり込められました。なぜなら、イエス様は正しかったから。だから、彼はイエス様を正式な裁判のためにカヤパに送りました。

でもイエス様の質問は、私に考えさせます。人々が私に真理を伝えるとき、私はどのように反応するだろうか。特に、その真理が私の罪を指摘する時、私はどう反応するだろうか。

アンナスのように私は高慢して、自分の悪さを認めないだろうか。アンナスの下役のように、私はその人を攻撃するでしょうか。

もしかすると、私はその真理を受け入れるだろうか。

真理を聞くのがつらい時もあります。正直に言うと、私が頑固なので、神様は私に「ブルース。その人の言葉を聞きなさい」と言うときもあります。

それでも、時々私はその真理と戦います。私の悪さを認めたくないから。私は自分の道を行き続けたいと思います。

でも、キリストの弟子として、私たちはそのように生きてはいけません。私たちは真理を愛するべきです。耳に痛くても、その真理を愛するべきです。

だからヤコブの言葉に従いましょう。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:21-22)

人々があなたに真理を伝えると、あなたはどう反応するでしょうか。

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マタイ26:69-75;マルコ14:66-72;ヨハネ18:15-18;25-27--自分の心を見極めること

イエス様の裁判を見る前に、ちょっとペテロの話を見たいと思います。この話に関しては、福音書を統合するのはちょっと難しいです。でも私はその話をちゃんと理解するなら、ペテロは実際にイエス様を知ることを4回否定したけど、証人たちの前では三回否定しました。

最初の否定は、大祭司の家の中庭で起こりました。もう一人の弟子(もしかしたらヨハネかもしれないけど、もしかしたら12の弟子たちのグループの外の弟子かもしれない)が大祭司をよく知っていたので、中庭に入って、彼がペテロのことを保証したので、ペテロも入ることができました。(ヨハネ18:15-16)

でもこの話に、あるしつこい女性が登場します。彼女が門番なので、ペテロが入ったとき、彼女は訊きました。

あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。(ヨハネ18:17)

ペテロは、「違う」と答えました。

そしてペテロは彼女から逃げたけど、彼が火に当たっているとき、彼女は彼について行って、彼をじっと見つめて、言いました。

あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。(マルコ14:67)

そして、大きな声で、彼女は皆に叫びました。

この人も、イエスと一緒にいました。(ルカ22:56)

それを聞いて、彼らはペテロに訊きました。

あなたもあの人の弟子ではないだろうね。(ヨハネ18:25)

ペテロは答えました。

弟子ではない。何を言っているのか分からない。理解できない。(ヨハネ18:25b;マルコ14:68)

そして、ペテロはすぐに前庭の方に来ました。でもじきに、その同じ女性はほかのしもべと一緒にペテロと向き合いました。もしかしたら、その友達は以前にペテロとイエス様を見たことがあったかもしれません。そして、門番はペテロを指して、「この人はあの人たちの仲間です。」と言いました。(マルコ14:69)

そして、その友達も、みんなの前で言いました。

この人はあの人たちの仲間です。(マタイ26:71)

その中庭にいる一人の人はそれを聞いて、ペテロを見ました。彼もペテロを認識して、叫びました。

あなたも彼らの仲間だ。(ルカ22:58)

ペテロはそれを聞いて、誓いました。「いや、違う。そんな人は知らない」(マタイ26:72;ルカ22:58b)

それを聞いて、たぶん皆はちょっと静まったけど、1時間後、ほかの大祭司のしもべが通りかかって、ペテロを見ました。おまけに、彼はペテロに耳を切り落とされた人の親類でした。だから彼は言いました。

あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。(ヨハネ18:26)

ペテロはそれを否定しようとすると、もう一人の人は叫びました。

確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。ことばのなまりで分かる。(マタイ26:73;マルコ14:70)

それを聞いて、ペテロはパニックになって、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と叫びました。(マタイ26:74)

そして、鶏が鳴きました。

その瞬間、ペテロは大騒ぎを聞いて、イエス様がピラトのところに連れて行かれていることを見ました。そして、イエス様は振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは自分が何をしたかわかって、外に出て行って、激しく泣きました。

それは私の福音の統合です。(ちょっと間違いがあるかもしれないけど。)

とにかく、私たちはその話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがペテロを批判するのは簡単なことです。私たちは彼の臆病と偽善を批判することができます。でもそうする前に、まず私たちは自分の心を見つめた方がいいと思います。

実は、私がペテロなら、私はもっと勇気を持っていたかどうかわかりません。

私は十代の時、同じようなことをしましたから。私の友達が私に「君はクリスチャンですか」と訊いたら、私はその質問を逃れようとしました。私はなぜか「はい」と答えられませんでした。

いまだに、私はそのことを考えて、恥ずかしいです。

さらに、私はほかのクリスチャンが別の罪に落ちることを見たことがあります。特に、彼らは性的な罪に落ちます。でも、私もそのような誘惑によく直面して、私は気を付けないと、その罪に落ちるかもしれません。私は弱いから。神様の恵みだけによって私は立っています。

私たちがほかの人々が罪に落ちることを見ると、そのことを覚えていなくてはなりません。私たち皆は弱いものです。私たち皆は罪に落ちるかもしれません。だから、相手を裁く前に、その人を憐れんで、彼らの回復を求めましょう。

パウロの言葉を覚えていましょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ人への手紙6:1)

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マタイ26章47-56;マルコ14:43-52;ルカ22:47-53;ヨハネ18:1-12--力と権威、憐れみと恵み

この個所では、イエス様の中に、三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。イエス様は敵に取り巻かれたのに、イエス様はその事情に力を持っていました。イエス様が立ち上がって、敵と向き合うとき、イエス様は、「だれを捜しているのか」と訊きました。彼らが、「ナザレ人イエスを」と言ったら、イエス様は「わたしがそれ だ」と答えました。(ヨハネ18:4-5)

日本語では、かなり見にくいけど、実はイエス様はそれを言うとき、神様の名前を使いました。(出エジプト3:13-14;ヨハネ8:58)

とにかく、イエス様の敵がその言葉を聞くと、彼らは地に倒れました。その瞬間、彼らはどれだけ恐れたでしょう。

だから、イエス様はもう一度聞きました。「誰を探してるのか。」(ヨハネ18:6-7)

彼らの自信が消えてしまって、彼らはおどおどして答えました。「ナザレのイエスを、」

彼らがイエス様の返事を待っている間、彼らはまた地に倒れる覚悟をしたでしょう。でもイエス様は答えました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕まえに行っても、彼らはだれが本当の力を持っているかよくわかりました。それは彼ら自身ではなく、イエス様ということでした。

2.イエス様の憐れみ。その敵はまだおどおどしたので、たぶん弟子たちはその恐れをいいことに、彼らを攻撃しようと思いました。だから弟子たちの一人は叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロはその敵の一人を攻撃して、右の耳を切り落としました。(もしかしたら、ペテロはその人の頭を切ろうと思ったけど、誤ってその耳だけを切り落としてしまったかもしれません。)

でも、イエス様は彼らを叱責しました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

古い讃美歌で、こんな歌詞があります。

イエス様は、自分自身を自由にするため、またこの世界を滅ぼすため、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実はその作詞家は間違えていました。12軍団というのは、4万8千人から7万2人ぐらいということです。

とにかく、イエス様はその敵だけではなく、この世界の人々を滅ぼすことができました。でもイエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さずに、むしろ彼らの命の代わりに、自分の命を捧げました。

3.イエス様の恵み。憐れみというのは、相手が値する罰を与えないことです。恵みは、相手が値しないものを与えることです。この話では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを与えてくださいました。イエス様は彼の耳をいやしてくださいました。(ルカ22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。もっと正しく言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちの霊的な癒しをもたらしてくださいました。イエス様の恵みによって、私たちの罪が赦されて、私たちは永遠の命を得ることができます。私たちがしなくてはならないのは、一つのことしかないことです。それはイエス様のことを信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

 

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マタイ26:36-46;マルコ14:32-42;ルカ22:39-46-私の心と神様の心が違うとき

時々、私たちは試練と苦しみに直面します。例えば、私たちは重い病気にかかったり、私たちの信仰のために家族の問題が出たり、ミニストリーの問題があったりすると、私たちは神様の助けを願います。

時々神様は私たちの祈りに叶えてくださって、素晴らしい方法で私たちの状況を変えてくださいます。

でも、時々神様は私たちの祈りを断ります。この個所では、私たちはそのような返事を見ます。

イエス様は同じことを三回祈りました。最初にイエス様はこう祈りました。

わが父よ、できることなら、この「十字架の苦しみの」杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)

イエス様はその祈りを冷静に言っていませんでした。イエス様は地面にひれ伏し、祈りました。(マルコ14:35)

それに、イエス様はストレスをすごく感じて、彼の汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ22:44)

私たちがイエス様を想像する時は、落ち着いたイエス様を思い浮かべるでしょう。でもこの時、イエス様は全然落ち着いていませんでした。

天の父はイエス様の感情をよくご存じでした。天の父はイエス様を本当に愛していました。でも天の父はイエス様の祈りを断りました。

イエス様はそれが分かったので、こう祈りました。

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

それでも、たぶんイエス様は別の方法のために祈り続けたでしょう。

でも、天の父はその祈りを断りました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あるクリスチャンたちが言うのは、もしあなたが信仰を十分持っていれば、神様があなたの祈りに叶えなくてはならないことです。

でもそうなら、私たちはイエス様の信仰が足りなかったと言わなくてはなりません。私たちは神の子を責めるでしょうか。

実は、私たちの心が神様の心と違うときもあるわけです。神様は魔人ではありません。私たちは自分の心に神様の心をしいて合わせることができません。むしろ、私たちは自分の心を神様の心に合わせなくてはなりません。

イエス様はそうしました。イエス様は天の父がイエス様の願いに叶えると言い張りませんでした。むしろ、イエス様は自分の心を天の父の心に合わせました。私たちもそうするべきです。

そして、天の父が私たちの祈りを断るなら、イエス様のように、私たちは立ち上がって、天の父の御心に従うべきです。

でも、そうすると、自分の力だけで神様の御心に従う必要がなくなります。あなたは、一人でその試練に直面する必要はありません。

イエス様は一人で、自分の試練に直面しませんでした。イエス様の苦しみと苦痛の中で、天の父はイエス様を励まして強めるために天使を送ってくださいました。天の父はあなたのために同じことをしてくださいます。

それだけではなく、聖霊を通して、神様は自身は私たちを慰めてくださいます。聖霊様が私たちの助け主なので、私たちが苦しむときに、聖霊様は私たちを慰めてくださいます。(ヨハネ14:16)

だから、パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26-28)

では、神様は私たちの祈りを断ると、私たちはどうしたらいいでしょうか。神様に信頼するべきです。神様の方法があなたの方法よりも優れていることを信じるべきです。あなたがその試練に直面している間に、神様があなたを助けてくださることを信じるべきです。そして、立ち上がって、神様の御心に従い続けるべきです。

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マタイ26:36-46;マルコ14:32-42;ルカ22:39-46;ヨハネ18:1--弱い

サタンが優しい方だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや、精神的な弱さを見ると、すぐに攻撃します。

この個所では、私たちはそれを見ることができます。イエス様と弟子たちがゲツセマネについた時、イエス様は彼らに警告しました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはもう精神的に疲れ果ていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、彼らは、イエス様が裏切られることと、イエス様が彼らを去っていくことを受け入れられなかったということです。

だから、彼らは肉体的に、また精神的に、また霊的に弱くなりました。(ルカ22:45)

だから、イエス様が彼らに「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言ったのに、彼らは寝てしまいました。イエス様が何度も彼らに警告したり、頼んだりしたのに、彼らは1度だけではなく、3度も寝てしまいました。

その結果は?イスカリオテのユダとユダヤ人たちのリーダーたちが来ると、彼らは逃げてしまいました。

でもイエス様はもっとつらい試練に直面しました。イエス様は十字架を背負い、十字架ですべての人々の罪を背負いました。その時、天の父はイエス様に背を向けました。

この個所で、私たちはイエス様の祈りをちょとしか見ません。でもイエス様の最初の祈りは一時間ぐらいかかったし、もう二回祈りました。イエス様が祈るとき、苦しみすぎて、イエス様の汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ22:44)

さらに、その時、弟子たちが寝ていたので、イエス様には精神的なサポートがありませんでした。

でも、イエス様が弱い時に、天の父はイエス様を強めてくださいました。それに、天の父はイエス様を支えるために天使を送ってくださいました。(ルカ22:43)

だから、捕まえられたとき、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟をしました。

どうして弟子たちがちゃんと目を覚ましていて祈ることができなかったけど、イエス様はできたでしょうか。たぶんイエス様は生前は、毎朝、目を覚まして祈る修行をしたから。朝だけではなく、夜もそうしました。(マルコ1:35;マタイ14:23)

だからイエス様の一番弱い時に、イエス様は自然に自分自身を訓練したように反応しました。

その弟子たちは、自分自身を訓練しなかったので、弱い時に、彼らは失敗しました。

あるアメリカの有名なアメフトの監督は自分の選手たちと一緒に試合のビデオを見るとき、相手のチームの選手について話しました。そのチームの一人は何回も同じミスをしてしまいました。だから、その監督はこう言いました。

「その選手が練習するとき、自分のテクニックに関して、ちゃんと気が付かなかったのだろう。たぶん、彼はこう思った。「正しいやり方をもうよく知っている。だから、今ちゃんとしなくても、試合の時、私はちゃんとできる。

でも、あなたが疲れ果ててしまうと、あなたは思わず反応するだけだ。そして、あなたが自分自身を訓練するように、あなたは反応するものだ。」

霊的な世界でも、その原則は同じです。もし、あなたが「私が困ったとき、私がするべきことをよく知っている。ちゃんと祈る。」と言うけど、あなたが毎日その訓練をしないと、あなたが肉的に疲れた時、また精神的に疲れた時、あなたはちゃんと祈ることもできないでしょう。そして試練が来ると、弟子たちのようにあなたは自分の弱さに負けます。

でも、イエス様のように、あなたは毎日神様を求め、目を覚まして神様と話すと、試練に直面すると、あなたはするべきことができるし、固く立つことができます。

あなたはどうですか。あなたは毎日目を覚ましていて、神様と話すでしょうか。

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

 

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ヨハネ17:20-23--私たちに対するイエス様の望み

クリスチャンたちが本当にイエス様が私たちに対する望みを知っているかどうか疑問に思います。

以前の記事で、私たちは、イエス様が私たちとの親しい関係を望まれることを見ました。永遠の命とは、イエス様に近づき、イエス様を知り、イエス様に知られることです。

でも、イエス様はほかのことも望みます。イエス様は私たちと兄弟たちと姉妹たちが一つになることを望みます。

イエス様はこう祈りました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(20-23)

イエス様は、私たちがイエス様と天の父のような関係を持つことを望みます。イエス様と天の父が一つであるように、私たちも一つになるべきです。でも、それはどういう意味でしょうか。

一つの意味は、目的の一致とういうことです。私たちが同じ目的をもって、一緒に働くことです。その目的は、福音を伝えることです。

でも、もう一つの意味は、私たちが互いに人を自分よりすぐれた者と思うことです。私たちは自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みます。(ピりピ2:3-4)

でも多くの場合、私たちはそうしません。だから、ノンクリスチャンたちが私たちの教会に入ると、彼らは喧嘩を見たり、苦々しい心を見たりします。彼らは、教会の外でそんなことを見ることができるので、あきれて、すぐに出てしまいます。それでも、その教会の人たちは自分のことに夢中で、何が起こったか気づいていないでしょう。

イエス様はそれを見ると、本当に悲しみます。

周りの人々に対するあなたの行動と態度のため、どれだけあなたはイエス様を悲しませるでしょうか。あなたの苦々しい思いや、恨みや、陰口を持つ心のため、どれだけイエス様は悲しむでしょうか。

そうすると、イエス様だけではなく、私たちも苦しみます。

おまけに、ノンクリスチャンは暗闇の中で躓き続けます。なぜなら、彼らは教会の中で光がないと思うから。

あなたはどうですか。あなたとほかの教会のメンバーたちは一つでしょうか。

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ヨハネ17:16-19ーー聖別された。聖別されている途中。

「聖別」。

日本では、人々がその言葉をよく言うかどうかわからないですけど、英語では、「Sanctification」という言葉は「Christianese」、つまり、「教会だけで使われている言葉」という言葉です。

聖書では、「聖別」という言葉を読むし、教会の説教でその言葉を聞くかもしれないけど、その言葉はどういう意味でしょうか。

基本的に、二つの意味があります。

一つ目は、神様の目的のために、ほかのものから選り別けられることです。

二つ目は、清められることです。

イエス様が弟子たちのために祈ったとき、その二つの意味を見ることができます。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(17:16-19)

まずは、19節を見てみましょう。イエス様が言ったのは、弟子たちが(また私たちが)聖別されるために、イエス様が自分自身を聖別したということです。

要するに、天の父の目的のためにイエス様が自分自身を選り別けて、この世に来て、十字架で死んだことです。その働きによって、イエス様は私たちを聖別しました。つまり、イエス様は私たちの罪を清めて、私たちを天の父のものにしたことです。

だから私たちがこの世にいるのに、私たちはもはやこの世のものではありません。私たちの考え方や、生き方は、この世の民の考え方や生き方と全然違います。だから彼らは私たちのことが理解できないし、私たちを憎む人もいます。

それでも、その聖別される過程は、今でもなお続いています。

神様の言葉と働きを通して、私たちは罪が何かわかるし、その罪を憎み始めます。そして、私たちが罪を犯すとき、神様の言葉が私たちの心を打つので、私たちは悲しんで、悔い改めます。そのように、神様は私たちをきよめ続けています。

そして、神様の言葉を通して、私たちは神様の御心を知るようになります。神様は、私たちがどのように生きるべきか教えるし、どのように神様の国の目的をもたらすか教えてくださいます。その言葉を聞き、従うと、私たちは毎日もっともっと神様の目的のために聖別されて、用いられます。

だから、ある意味で、私たちはもう聖別されました。なぜなら、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちの罪は清められたから。

でも違う意味で、私たちは毎日まだ聖別されている途中です。

イエス様が私たちが聖別されるように祈っているので、私たちもそう祈りましょう。

イエス様、毎日私をもっともっと聖別してください。私がもっともっとあなたのようになるように。私が罪を憎み、天の父の仕事に参加するように。

私が失敗するとき、私を赦し、引き上げてください。毎日、私をきよめてください。毎日、私があなたのものになるように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ17:11-15ーー私たちが敵対的な世にいるのに。。。

この個所では、イエス様が私たちに対する愛を持って、私たちのために祈ってくださることを見ることができます。

覚えていてくさい。イエス様は本当に私たちのために祈ってくださいます。

私たちはしばしば周りの人々のために祈るけど、私たちの大祭司イエス様は私たちのために祈ってくださいます。特にイエス様は、天の父が私たちを守ってくださるように祈ります。

もちろん、この個所でイエス様は弟子たちのために祈っていました。でもイエス様が私たちのためにも祈っていることを信じます。なぜなら、イエス様が弟子たちを敵対的な世に送ったように、私たちをも敵対的な世に送るから。そして、弟子たちが霊的な戦いに直面したように、私たちも霊的な戦いに直面します。

だから、イエス様はこう祈りました。(今でも、イエス様が私たちのためにこのように祈ると思います。)

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。。。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(11,14-15)

あなたが霊的な攻撃に直面するときもあります。

福音のために、あなたを憎む人もいます。

あなたが迫害されるときも来ます。

でも、イエス様が私たちのために祈ってくださるので、天の父はサタンの攻撃に限定を置いてくださいます。そして、神様の力に頼ると、私たちは耐えられない試練を経験しません。

だからどんなにつらい試練に直面しても、堅く立ちましょう。なぜなら、神様は私たちとともにおられるから。

そして、あなたはきっとその試練を乗り切り、勝利を得ることを覚えていてください。なぜなら、イエス様はあなたのために祈ってくださっているから。

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ヨハネ17章ーー永遠のいのちとは

「永遠のいのち」と聞いたら、多くの人々は天国で永遠の幸せを持つことについて考えます。もちろんそれはそうですけど、なぜか多くの人々は神様抜きの存在を想像します。

彼らは神様が天国におられることが分かるかもしれないけど、天国で私たちは神様を本当に知るし、また私たちが神様に知られるということを、あまり考えません。だから、この世にいる間、彼らは神様がおられないかのように生きています。

ノンクリスチャンだけではなく、クリスチャンでもそのように生きています。彼らは日曜日に教会に行って、讃美歌を歌ったり、メッセージを聞いたりします。もしかしたら、平日でも、彼らはたまに聖書を読んで、祈るかもしれません。でもそれ以外に、彼らは神様がおられないかように生きます。

仕事や、家族や、趣味は良いことだけど、私たちはよくそれらにはまりすぎて、私たちの神様との関係に時間を投資しません。でも私たちの命、特に、永遠の命とは、神様との関係ということです。

イエス様はこう祈りました。

永遠のいのちとは、唯一の誠の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(3)

もちろん私たちは永遠に生きるけど、イエス様は、永遠のいのちとは、永遠に生きることだと言っていませんでした。

もちろん天国で私たちは幸せになるけど、イエス様は、永遠のいのちとは、幸せな人生を送ることだと言っていませんでした。

むしろ永遠のいのちとは、神様を知ることです。また、永遠のいのちとは、イエス様を知ることです。

永遠のいのちとは、天の父とイエス様のことについて知ることではありません。永遠のいのちとは、天の父とイエス様を親しく知ることです。

イエス様はこう祈りました。

彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。。。父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。。。わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。(21,23,24,26)

だから私たちの人生の目的は、神様を知ることです。

私たちの人生の目的は神様に近づいて、神様を親しく知って、神様に親しく知られることです。

だから永遠の命は、ただの将来のことではありません。永遠の命は、今から始まります。イエス様によれば、今なお、イエス様が天の父を現しているし、将来にも現わし続けてくださいます。

だから私たちが天国に行くと、新しいことを始めません。むしろ天国は、私たちがこの世で始めたことの続きです。

だから、あなたが天国に着くと、あなたと神様が、まだただの知り合いの関係を持つなら、かなり情けないことではありませんか。天国に着くと、あなたはまだ神様をほとんど知らないなら、かなり情けないことではありませんか。

でもこの世に、神様と親しい関係を作ったら、天国に着くと、あなたはどれぐらい喜ぶでしょうか。もしこの世で、あなたが毎日神様と話したり、神様の声を聞いたり、あなたの人生の中で神様の働きを見たり、あなたを通して神様が周りの人々に触れることを見たり、するなら、あなたがやっと神様の顔を見ると、あなたはどんなに幸せになるでしょうか。

私はそんな喜びを知りたいです。多分、毎日私はそのように生きていないけど、そのように生きたいです。あなたはどうですか。

主よ。あなたをもっと知りたいです。私はあなたと親しい関係を持って、天国に行きたいです。だから、自分自身を私に現わしてください。私も、自分の心をあなたに開きます。毎日、毎秒、あなたが私のうちにいるように。また、毎日、毎秒、私があなたのうちにいるように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ16:16-33--平和を喜びを見つけるのに

この個所をを読むと、イエス様の言葉に弟子たちが頭を抱えていることが分かります。なぜなら、イエス様は去って行くと言ったから。彼らがその言葉に拘ったので、イエス様のほかの言葉はかすんでしまいました。

聖霊様のことや、将来の祝福のことについてのイエス様の言葉を聞かずに、彼らは繰り返して思いました。「イエス様は去って行きます。私たちはどうしようか。」

だからイエス様は彼らを励ましながら、彼らに警告しました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(20-22)

イエス様の死と復活で、その言葉は成就しました。イエス様が十字架で付けられたとき、イエス様の敵は喜んだけど、弟子たちは絶望しました。でも弟子たちが、よみがえられたイエス様を見ると、彼らの悲しみは喜びに代りました。だから、彼らが迫害やいろんな苦しみに臨んでも、彼らの喜びを奪い去ることができる者はありませんでした。そして、その喜びを持って、彼らはこの世を変えました。

でもイエス様の言葉は私たちにも当てはめられると思います。イエス様がこの世に戻るまで、私たちはいろんな試練に臨みます。今は、私たちの悲しみの時間です。

パウロはこう書きました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ人への手紙8:22-23)

でもイエス様がこの世に戻ると、私たちはイエス様を顔と顔を合わせて見ると、私たちは喜ぶし、私たちの喜びを奪い去ることができる者はありません。

でもイエス様が戻るまで、イエス様がの十字架の働きの故に、私たちは神様に近づくことができます。

だからイエス様のみ名によって、私たちが天の父に何でも求めることができて、与えてくださいます。そして、私たちの喜びは満ち溢れるようになります。(ヨハネ15:23-24;26-27)

時々私たちがイエス様の言葉の例外を教えすぎると思います。

もちろん私たちの祈りは神様の心に応じなくてはなりません。

もちろん、私たちが間違って蛇を頼むと、神様は断る権利を持っています。

でもその例外に拘り過ぎると、私たちは神様から何も求めなくなってしまいます。天の父は私たちにためらわずに訊いてほしいのです。

どれだけ私たちは聞かないので、神様からの祝福を逃すでしょうか。どれだけ私たちが心の願いを神様に頼まないので、私たちの喜びは不完全でしょうか。

だから、願いましょう。

パウロの言葉を覚えていてください。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8:26-27)

時々、私たちは弱いので、何のために祈るべきか分かりません。時々私たちは悪いことのために祈ってしまいます。でもその時、聖霊様は私たちのためにとりなしてくださって、私たちの益のために祈ってくださいます。だから、パウロはこう言いました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

だから、この三つのことを覚えていて安心しましょう。

  • 私たちの事情がどんなに悪くても、イエス様はこの世に戻って、すべてを癒してくださいます。
  • 神様が私たちを愛しているので、私たちは何を頼んでもいいです。そして、聖霊様は私たちのためにとりなしてくださって、良いことだけを与えてくださいます。
  • 神様は自分の計画に従って、すべてのことを私たちのために全てのことが共に働いて益となります。

その三つの言葉を覚えていると、イエス様の言葉はあなたの心にもっと強く響くでしょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(33)

 

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ヨハネ16:5-15--御霊の働き

聖霊様は誰でしょうか。今なお、多くのクリスチャンたちは聖霊様に関して混乱しています。

でも一つのことを覚えていてください。聖霊様は「物」ではなく、聖霊は「者」です。

聖霊様はただの力ではありません。聖霊様は人格を持っています。

だから、イエス様は聖霊様について話すとき、聖霊様を「助けぬし」と呼びました。そのギリシャ語の言葉はちょっと翻訳しにくいです。ある意味では、聖霊様は弁護士みたいです。サタンが私たちを責めようとすると、聖霊様は私たちを弁護したり、私たちに助言を与えたり、助けたりしてくださいます。人格のない力は、そんなことができないでしょう。

だから、そのことを理解して、覚えていてください。聖霊様は人格を持つ方です。

サタンが私たちを責めるとき、天の父のみ前にイエス様と共に聖霊様は私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちがどう祈ればいいか分からないとき、聖霊様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ8:26-27,34)

私たちが神様が本当に私たちを愛するかどうか疑問に思う時、聖霊様は私たちに「あなたは神様の子どもだよ」と思い出させてくださいます。(ローマ8:15-16;第一ヨハネ3:24)

でも、イエス様は聖霊様についてもっと教えます。

その方(聖霊様)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。(8)

時々私たちは、人々の心を変える責任があると思います。もちろん、私たちは福音の種を蒔き、水をやる責任があります。でも聖霊様だけがその種を成長させることができます。聖霊様だけが人々の心を変えることができます。

人々がイエス様を拒絶するとき、聖霊様は彼らの罪を明らかになさいます。(ところで、この個所では、罪とは、一般的な悪いことをすることよりも、イエス様を拒絶することです。)

イエス様が天国に戻ったので、私たちはイエス様の義の模範を見ることができません。だから、聖霊様は私たちに何が良いか教えるし、イエス様を救いの道として指摘します。

そして、聖霊様は人々を将来の裁きについて警告します。サタンはもちろん裁かれるけど、キリストを拒絶する人も裁かれます。

最後に、聖霊様は私たちを全ての真理に導いてくださいます。私たちが聖書を読むとき、聖霊様は私たちにその言葉の意味を教えてくださいます。はじめて聖書の言葉を読むとき、私たちがその意味が分からないかもしれないけど、後で私たちがその言葉が必要なとき、聖霊様は私たちにその言葉を思い出させて、その意味を説明してくださいます。

もう一つのことを気づいてください。つまり、天の父とイエス様と聖霊の交流に気づいてください。天の父が知っていることは、イエス様も知っています。イエス様が知っていることを、正しい時に聖霊様は私たちに現わしてくださいます。天の父とイエス様と聖霊様は一人の神で、一緒に調和して働きます。

それでは、私たちに対して、この真理はどんな意義があるでしょうか。

イエス様は私たちの益のために天国に戻ったと言ったとき、本気でそう言いました。なぜなら、聖霊を通して、神様自身はイエス様を信じる者の中に住んでいるから。聖霊様は私たちを通して、周りの人々をイエス様に近づけます。聖霊様は私たちを弁護士し、私たちのためにとりなしてくださいます。聖霊様は私たちを教えたり、導いてくださいます。また、聖霊様は私たちを慰めてくださいます。

イエス様、聖霊様を私たちに与えてくださり、感謝します。聖霊のゆえに、あなたは本当にインマヌエル、「私たちと共いに神」です。聖霊様、毎日私たちを導き、教え、助けてくださいますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ15:18-6:4ーー職業上の危険

私が初めて日本に来た時、私は教会で英会話の授業を教えました。

その時、牧師のお嬢さんはキリスト教の幼稚園で働いていました。でもある日、一人の子供が彼女の手をハサミで刺しました。幸いに、そのハサミの刃の先端が丸かったので、彼女は大丈夫でした。

でも、あとで、彼女は私に言いました。「私の幼稚園は英語の先生が必要です。そこで働きませんか。」

私はそのハサミの話を覚えていたので、断りました。そんな職業上の危険に全然興味がないから。:)

でもクリスチャンとして、私たちはある「職業上の危険」を避けることができません。もし、私たちがイエス様のことを伝えるなら、私たちに怒る人がきっといるでしょう。私たちを憎む人もいるでしょう。

イエス様はこう言いました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(18-21)

イエス様は完全な愛でした。イエス様は完全な人生を送りました。それでも、人々は彼を憎みました。

私たちはイエス様の運命を避けると思うことができるでしょうか。

もちろん、すべての人々が私たちを憎むというわけではありません。私たちがイエス様の真理を教えると、私たちを愛する人もいます。でも、私たちがイエス様のメッセージを曲げることを拒まなければ、時々、相手の反応は敵対的になってしまいます。

残念なことだけど、そういうわけで、たくさんのクリスチャンはそのメッセージを曲げてしまいます。なぜでしょうか。彼らは憎まれたくないから。闘争が欲しくないから。

私の言葉を誤解しないでください。私たちはあえて闘争を求めてはいけません。私たちがイエス様のメッセージを正しく伝えるなら、ある人が私たちを憎むことは当たり前のことです。自然に闘争が起こります。でもそんなものは私たちの目的ではありません。

でも、イエス様のメッセージを伝える時、私たちは闘争に腰が引けてはいけません。むしろ、私たちは「神様の計画のすべてを、余すところなく」知らせなくてはなりません。(使徒の働き20:27)

イエス様は決して闘争に腰が引けませんでした。まして、私たちはなおさらです。

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ヨハネ15:12-17--愛の戒め

我々クリスチャンが「互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めの意味合いがわかるかどうか、私は疑問に思います。

一つの意味合いは、愛がただの感情ではないことです。

神様でも、私たちに自分の感情を変えるように命令できません。

例えば、私はあなたに、「私に怒りなさい」と言っても、あなたが怒る理由がないと、私に怒ることにならないでしょう。でも私があなたを殴ると、もちろんあなたはすぐに怒るでしょう。なぜなら、怒りは感情ですから。私たちの状況によって、私たちの怒りは出ます。

また落ち込んでいる人に、「元気になりなさい」と言っても、その人は急に嬉しくならないでしょう。私たちの状況によって、私たちは嬉しくなるから。

でも、イエス様は私たちに命令します。「互いに愛し合いなさい。」

もし愛がただのセンチメンタルな感情なら、イエス様は私たちに「愛し合いなさい」と命令できませんでした。なぜなら、私たちの愛は周りの人々との関係によるから。もし仲良しだったら、その人を愛せます。でもそうでないと、愛せません。

では愛とは、どんなものでしょうか。愛とは、私たちが相手を高い価値のある人とみなすことです。そして私たちがその態度をもって、相手を扱うことです。

イエス様はそんな愛の最高の表現を説明します。

人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きいな愛は誰も持っていません。(13)

つまり、最高の愛とは、私たちは自分自身よりも相手を大事にすることです。

イエス様は私たちにそんな愛を示してくださいました。イエス様が天国を出て、この世に来て、私たちの罪のために死んでくださるほどに、私たちを愛してくださいました。私たちに値した罰を受けるほどに、イエス様は私たちを愛してくださいました。

だから、イエス様が私たちを大事にしたように、私たちも周りの人々を大事にするべきです。私たちが彼らのために命を捨てるほどに、私たちは彼らを愛するべきです。

「でも、それは無理でしょう。あなたは私が毎日どんな人を扱わなくてはならないことが知らないでしょう。私自身を彼らのために犠牲にするべきでしょうか。そんなに彼らを大事にするべきでしょうか。」

はい、そのとおりです。

でもそうするのに、私たちは新しい心が必要です。でも、私たちがぶどうの木に繋がってこそ、その変化がありえます。

あなたが神様の愛を受けると、あなたの失敗と罪にもかかわらず神様があなたを愛してくださることが分かります。その神様の愛が分かると、相手の失敗と罪にもかかわらず、あなたは彼らを愛せるようになります。でも、イエス様に繋がらずに、神様の愛をいつも受けていないなら、相手にそんな愛を示すのは無理だともいます。

あなたの周りに、愛しづらい人がいるでしょうか。正直言うと、私の周りにはそんな人がいます。

でも、愛はただの感情ではありません。愛は選択です。でも私たちに対する神様の愛が分からないと、私たちにはそんな選択ができません。

だから、神様に近づきましょう。私たちが神様の愛に根ざすように。そうすると、神様の愛が私たちを通して流れて、私たちは愛の実を結びます。

この世はそんな愛を必死に探しています。

あなたはどうするでしょうか。

 

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ヨハネ15:7-17--私たちが実を結ぶように祈ること

この個所では、イエス様はとても驚くべき約束をします。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(7)

このイエス様の言葉を読むと、多くの人々は「では、私が長者になるように祈ろう」と考えます。

でも、イエス様の言葉を注意深く読んでください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら。。。」

前回の記事で、私はイエス様にとどまることについて話しました。それは、イエス様に信頼する人生を送ることです。つまり、私たちがイエス様が私たちの最善を知り、私たちの最善を求めることを信じるということです。

でも完全に神様に信頼する人は、お金に執着するでしょうか。それはありえないと思います。

お金や、持ち物や、一時的なものを求めるよりも、その人は何を追求するでしょうか。その人は神様との関係を追求します。また、その人は神様の国のために、周りの人々に触れたいと思います。要するに、その人が神様のために実を結びたいと思うことです。

だから、イエス様は8節で、こう言いました。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(8)

私たちが何でも欲しいものを求めるという教えの文脈は、私たちがイエス様のために実を結ぶことです。

イエス様はつづけます。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(16a)

そう言った後、イエス様はもう一度言います。

また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(16b)

実を結ぶ一つの方法は何でしょうか。他のどんなことよりも、イエス様はこう望みます。

あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。(17)

こうすれば、私たちは周りの人々に神様の性格を現わし、この世に触れます。そのように、私たちは実を結びます。それだけではなく、私たちは永遠に残る実を結びます。

もし、私たちが変えられた心を持つなら、つまり、一時的なものではなく、永遠の物に焦点を当てる心を持つなら、神様は喜んで私たちの祈りをかなえてくださいます。なぜなら、私たちがもっと実を結ぶから。

あなたはどうですか。あなたはイエス様にとどまっているでしょうか。あなたは何よりも、イエス様を喜ばせたいと思うでしょうか。あなたはイエス様に仕えて、この世に触れたいと思うでしょうか。もしかして、あなたは一時的なものにまだ執着しているでしょうか。

あなたの心の状態はどうでしょうか。

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ヨハネ15:1-11--イエス様のとどまる必要

前回の記事で、私は私たちの人生の中の天の父の働きについて話しました。つまり、私たちの義、私たちの実は自分の努力からではなく、天の父の働きから来ることです。イエス様のみ言葉を通して、天の父は私たちを清めてくださいます(3)。

また、私たちが失敗したり、罪を犯したりするとき、天の父は私たちを上げて、実を結べるように私たちを刈り込んでくださいます。

それでは、私たちの実が天の父の働きを通して来るなら、私たちは何もしなくていいでしょうか。

そういうわけではありません。私たちがしなければならないことは一つあります。私たちはイエス様にとどまらなくてはなりません。

それはどういう意味でしょうか。私たちはイエス様との親しい関係を保つべきです。

私たちはイエス様を私たちの人生の中心にするべきです。

また、イエス様と時間を過ごすべきです。

私たちはイエス様の言葉を聞くべきです。そして、その言葉に従うべきです。

イエス様はこう言いました。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(9-10)

以前の記事で私は言ったけど、イエス様は、ただ「私の言葉に従いなさい」と言っているわけではありません。イエス様は、「私に信頼しなさい。私は愛しているから。あなたの最善を望みます。」と言っています。

相手に信頼できないなら、その人との関係を作るのはとても難しいです。

もし私たちが神様に「あなたに信頼できない」と言うと、その関係には距離があります。

でも、私たちが神様を信じ、神様の言葉に従えば従うほど、私たちの神様との関係は親しくなります。

私たちは神様に信頼するから、その言葉に従います。そうすれば、私たちは神様からの祝福を見て、神様が私たちの最善を望むことを悟ります。だから私たちは神様をもっと愛して、信頼するので、喜んで神様の言葉にますます従います。そして私たちは神様からの祝福をもっともっと見るので、私たちはますます神様を愛し、信頼します。

そんな神様との関係によって、私たちは多くの実を結びます。

でも、私たちが決して神様を信じることを学ばないと、どうなるでしょうか。私たちは決して実を結びません。

イエス様はこう言いました。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。(15:4-6)

あなたはどうですか。あなたは神様と共に歩み、神様を愛し、信頼するでしょうか。そうしてこそ、あなたは実を結べます。その関係がないなら、あなたが何をしても、神様を喜ばせることができません。そして、その不信を捨てないと、ユダのように、あなたは枯れて燃えてしまいます。

でも、神様と歩むと、あなたは実を結び、喜びを知ります。

イエス様はこう言いました。

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11)

どうやって、神様との信頼関係を始めるでしょうか。まず、あなたの救いのためにイエス様に信頼するべきです。ヨハネはこう書きました。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ(ること)。。。それが神の命令です。(第一ヨハネ3:23)

もしあなたがまだそんな関係がないなら、今日その関係を始めませんか。

イエス様、今まで私はあなたのことを知っていたけど、あなたを完全に信頼していなかったので、自分の道を行きました。赦してください。あなたが私の罪のために死んでくださって、よみがえられたことを信じます。私の救い主と主になってください。毎日私があなたを信頼し、従うように助けてください。私を近づけてください。あなたのために私は実を結びたいです。イエス様のみ名によって祈ります。

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ヨハネ15:1-2--上げられて、刈り込まれた

キリスト教をほかの宗教と比べると、一つの大きい違いは、私たちの義が自分の努力によらないことです。むしろ、神様が私たちの心を変えてくださるので、私たちのふるまいは変わり始まります。

旧約聖書で、神様はそのコンセプトをはじめて教えました。神様はエレミヤを通して、こう言いました。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。。。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31,33)

そして、エゼキエルを通して、神様はこう言いました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル36:26-27)

そして、今日のヨハネの個所では、イエス様は神様の働きをもっと説明します。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(1-2)

イエス様によれば、天の父は実を結ばない枝を取り除き、実を結んでいる枝をもっと多く実を結ぶように刈り込みます。

神様が実を結ばない枝を取り除くというのはどういう意味でしょうか。

私は、そのクリスチャンが自分の救いをなくすわけではないと思います。他の聖書の個所はそのアイデアを否定するから。

二つの可能性があると思います。

イエス様はイスカリオテ・ユダのような人について話しているかもしれません。ユダはイエス様のところに来て、いろんなことを学びました。実際に、彼は弟子になりました。でも結局、彼は実を結びませんでした。彼はイエス様を本当に信じるようになりませんでした。だから、彼は取り除かれました。

今なお、多くの人々は教会に行って、聖書からいろんなことを学びます。でも彼らは本当にその言葉を信じるようになりません。だから彼らは取り除かれます。

しかし、もう一つの可能性があります。

「取り除く」と言う言葉は、「上げる」と翻訳できます。もしかしたら、イエス様が意味したものは、天の父は実を結ばない枝を日照にさらすように上げるということです。だから、その枝はもっと栄養素を得て、健康になり、実を結び始めます。

そのように、神様は私たちの罪と失敗から私たちを引き上げて、私たちが実を結ぶように、私たちの心中で働きます。そして、私たちが実を結び始めると、神様は私たちの実の成長を阻止するものを刈り込みます。

神様はペテロのためにそうしてくださいました。

ペテロはイエス様を裏切って、本当に落ち込んでいました。でも、イエス様は彼を引き上げて、励ましてくださいました。

イエス様はペテロが自分自身を変えるために待ちませんでした。むしろ、イエス様はペテロの所に行って、彼の心の中に働きかけて、その憂鬱からを引き上げて、彼が進めるように挑戦しました。

しかしペテロが実を結び始めると、イエス様は、「では、私の働きは終わりだ」と言いませんでした。むしろ、イエス様はペテロの偏見を刈り込んだので、ペテロがかつて見下した異邦人に福音で触れ始めました。(使徒の働き10-11)

でも、その過程はまだ終わっていませんでした。ペテロはもう一度失敗すると、イエス様はもう一度ペテロを引き上げて、もっと刈り込みました。(ガラテヤ人への手紙2:11-14)

あなたはどうですか。あなたのクリスチャン生活を見ると、失望するでしょうか。

神様があなたを責めないことを覚えていてください。神様があなたのことをあきらめないことを覚えていてください。

むしろ、あなたが完全になるまで、神様はあなたの心の中で働き続けます。

だから、神様から逃げないでください。むしろ、神様に近づいてください。神様にとどまってください。そうすれば、あなたは実を結びます。

 

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ヨハネ15:1-17--実を結ぶために選ばれました

この有名な個所で、イエス様は私たちと神様との関係をすばらしい描写で表します。

イエス様は自分自身を「ぶどうの木」と呼びます。

旧約聖書では、神様はイスラエルをぶどうの木と呼びました。イスラエル人が神様のために実を結んで、その実を通して、周りの国民は神様に近づくはずでした。でも、彼らの不従順のため、悪い実ばかりを結んだので、神様は彼らを裁きました。(イザヤ5:1-7;エレミヤ2:21)

だから、イエス様は自分自身を「ぶどうの木」だけではなく、「まことのぶどうの木」と呼びました。なぜなら、イエス様の実を通して、人々が神様に近づくだけではなく、イエス様の働きを通して、彼らは救われるから。

そして、イエス様は私たちを「枝」と呼びます。16節に、イエス様はこう言いました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(16)

実を結ぶのは、どういう意味でしょうか。一つの意味は、神様に変えられた人生ということです。

パウロは私たちのかつて罪深い人生について話した後、こう言いました。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)

つまり、私たちが本当にクリスチャンになったら、私たちの人生はそのことを証明するはずだということです。私たちの古い人生と比べると、私たちの生き方と考え方は変わるはずです。

そして、私たちの人生が変われば変わるほど、私たちは周りの人々に影響を与え始めます。彼らは私たちの中に神様を見て、神様に近づいて、救われます。

それはイスラエルのための神様の最初の計画でした。でも今は、それは私たちのための神様の計画です。

ペテロはこう言いました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(第一ペテロ2:9)

あなたは実を結ぶために選ばれました。あなたはその実を結んでいるでしょうか。

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ルカ22:35-38--敵対的な世に直面すること

イエス様と弟子たちが二階の大広間を出ると、イエス様は彼らにこう訊きました。

わたしがあなたがたを財布も袋も履物も持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。(35)

その以前、イエス様は弟子たちをイスラエルの各地に福音を延べ伝えるために二回遣わしました。(ルカ9-10)

その時、イエス様は、彼らが何もを持たずに、彼らが行く都市にいる人のもてなしに頼りなさいと命令しました。

イエス様の人気さの最中で、人々は弟子たちのニーズに備えてくれました。時々、弟子たちは敵対的な人に出会ったけど、弟子たちを歓迎する人にも出会いました。(ルカ22:35b)

でも、彼らの事情は変わりました。イエス様は「不法な者たちとともに数えられた」ので、彼らにたいする敵対的な人は増えました。(37-38)

以前に弟子たちを歓迎した人は、もはや彼らを歓迎しません。だから、イエス様は弟子たちに警告しました。

しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。(36)

つまり、「これから、私についていくと、とても危険です。だから用心しなさい。」ということです。

弟子たちは答えました。

主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります。(38)

要するに、「心配しないでください。誰かが私たちを攻撃したら、私たちは彼らを撃退できます。」ということです。

実は、ゲツセマネでペテロはそうしようとしました。

イエス様は答えました。

それで十分。(38)

私は分からないけど、もしかしたら、イエス様がそれを言ったとき、ちょっとイライラしたかもしれません。なぜなら、イエス様のポイントは、暴力を暴力で戦うということではなかったから。むしろイエス様のポイントは、「敵対する人に出会うために自分の心を整えなさい」ということです。

イエス様は私たちに同じことを言います。

後でヨハネの福音書で私たちは読みますが、イエス様は弟子たちに(また私たちに)警告しました。「私のために、人々はあなたを憎みます。彼らはあなたを迫害します。その時、驚いてはいけません。」

もちろん私たちはノンクリスチャンを愛し、福音を伝えるべきです。でも、同時に私たちは注意するべきです。イエス様のために、私たちを憎む人もいます。私たちを裏切る人もいます。私たちを傷つける人もいます。私たちが愛している者もそうするかもしれません。

だから、イエス様の言葉を覚えていてください。

いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい。(マタイ10:16-17)

 

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ヨハネ14:15-31--捨てられていない

最近まで、私の娘はよく私と妻の部屋に来て、私たちのベッドに登って、私たちの間で寝たものです。

私たちが「どうしてここに来たの?」と訊くと、彼女は「寂しかった」と答えました。

多分、私たち皆、寂しがったことがあります。

イエス様が「わたしは去って行く」と言うと、弟子たちはそう感じたでしょう。でもイエス様は彼らに言いました。

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。

世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(16-21,23)

イエス様の言葉では、私たちは三位一体を見ることができます。また、その言葉を通して、私たちは大切な真理を学びます。三位一体である神様は私たちと共におられます。

イエス様が約束したのは、もう一人の助け主、つまり聖霊様を送ってくださることです。そして、聖霊様は私たちに教えるし、イエス様の言葉を思い出させてくださいます。

そして、イエス様は、ご自分自身が私たちの所に来ると約束しました。イエス様は私たちを捨てて孤児にはしません。

最後に、イエス様は、天の父が私たちの所に来て、私たちと共に住むと約束しました。

でも、私たちが覚えていなくてはならないことがあります。私たちは神様の言葉に従わなくてはなりません。だから、前回の記事の教訓はとても大切だと思います。

つまり、私たちが神様の言葉に従うほどに、神様を信じるだろうかということです。だから14章の最初で、イエス様はこう言いました。

神を信じ、またわたしを信じなさい。(1)

神様を信じないなら、神様との関係ができません。

また、私たちは神様を本当に愛しているでしょうか。私たちがが神様を喜ばせたいと思うほどに、神様を愛しているでしょうか。私たちが罪を避けたいと思うほどに、神様を愛しているでしょうか。

もし私たちは神様を信じ、愛し、従うなら、神様の臨在をよく知ります。だから、良いときも、悪いときも神様からの平和を知ります。

イエス様は弟子たちにこう言いました。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27)

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ヨハネ14:15-31--私たちが本当にイエス様を愛しているなら

この個所を読むと、多くの人々はびっくりするでしょう。

イエス様はこう言いました。

もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(15)

ちょっと考えてみてください。もし、あなたの彼女や、彼氏や、夫や、妻が、「もしわたしを愛してるなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言うなら、あなたはどう反応するでしょうか。

多くの人々は「いやだよ」と答えて、その人と絶交するでしょう。

でも私たちのイエス様との関係について、二つ目のことを覚えていてください。

一つ目は、イエス様がただ私たちの救い主だけではなく、私たちの主ということです。でもイエス様は、自分の歪んだ喜びのために、私たちの人生を惨めなものにしようと思っていません。むしろ、イエス様は私たちを愛して、私たちの最善を望みます。さらに、イエス様は私たちの創造者なので、私たちの人生のデザインをよくご存じます。だから、イエス様の言葉に従えば、私たちの人生はうまくいきます。

だから、「私の言葉に従いなさい」と言うよりも、イエス様はこう言っています。「私を信じなさい。あなたが私を愛しているなら、私を信じなさい。あなたの最善をよく知って、望むから。」

残念なことだけど、私たちの経験では、多くの人々が私たちに「こうしなさい、ああしなさい」と言うとき、彼らは私たちの最善を求めずに、自分の最善を求めています。

だから、神様が「私を信じなさい。あなたの最善を求めているよ。」と言うと、私たちはその言葉を疑います。

それは新しい問題ではありません。エデンの時代でも、そんな問題が発生しました。神様はアダムとエバに言いました。「私を信じなさい。あなたの最善を求めているよ。だから、善悪の知識の木の実を食べるな。あなたが悪を知ると、本当に苦しむから。」

でも、サタンがエバをだましたので、彼女は神様の意図を疑いました。彼女は思いました。「神様は私の最善を望まないだろう。神様は私にこの良いものを与えてくれないだろう。」

今なお、多くの人々はそのように考えます。

もう一つのことを覚えていてください。

私たちが罪を犯すと、神様は傷つきます。神様はきよい方なので、罪を見ると、本当に悲しみます。

あなたは神様を本当に愛しているでしょうか。神様を悲しませたいと思うでしょうか。もしくは、あなたは神様を喜ばせたいと思うでしょうか。

ちょっと考えてみてください。もしあなたの妻や夫を愛しているなら、あなたはあえてその人を傷つけるでしょうか。「私はこうすると、相手をきっと傷つけるけど、私は気にしない。」と言いうでしょうか。

もちろんその態度を取らないでしょう。むしろ、あなたは相手を喜ばせたいと思います。

そのように、私たちは神様を愛するべきです。もし私たちが本当に神様を愛すると、神様を悲しませずに、神様を喜ばせたいという態度を取るべきです。

イエス様はこの世に生きている間に、そんな態度を取りました。イエス様は天の父を愛し、信じたので、いつも天の父の言葉に従いました。十字架まで、天の父の言葉に従がいました。なぜでしょうか。なぜなら、イエス様は天の父が私たちの最善を求めていることを信じたから。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。

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ヨハネ14:12-14ーーすばらしい約束

この個所では、イエス様はすばらしい約束をしました。多分、その約束を聞いて、あなたは、「マジで?イエス様は本気なの?」と言うかもしれません。

イエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(12)

イエス様はいろんな驚くべきことを行いました。イエス様は病気な人を癒したし、死者を復活させたし、何千人にも教えたし、福音を通して彼らに希望を与えてくださいました。

イエス様を信じる人もそんなことをするでしょうか。さらに大きいなわざを行うでしょうか。

もしかしたら、あなたは使徒の働きを読んで、イエス様が弟子たちだけに関して話したと思うかもしれません。なぜなら、彼らはイエス様が行ったような奇跡を行ったし、福音をイスラエルだけではなく、全世界に延べ伝えたから。

でも、イエス様は「わたしを信じる者」と言いました。弟子たちだけではなく、イエス様を信じる者だと言いました。新約聖書の時代に生きていた人だけではなく、イエス様を信じる者がさらに大きなわざを行うと言いました。

どうしてイエス様はそんなことが言えたでしょうか。なぜなら、イエス様は天の父のところに帰って、私たちに聖霊を送ったから。その聖霊様が私たちの心の中に住んでいるので、聖霊様の力を通して、私たちはこの世を変えることができます。

それでは、私たちはイエス様のように病気な人を癒すし、死者を復活させるでしょうか。

時々、私はこう疑問に思います。「どれだけ私たちは私たちの不信のため、神様の働きを制限するでしょうか。」

私は発展途上国のクリスチャンのすばらしい話を聞いたことあります。彼らが「現実」を考えずに、イエス様の言葉を聞いて信じたので、神様は素晴らしい奇跡を行いました。

正直に言うと、私はしばしば懐疑的な態度を持っています。時々、私は日本でも癒しの話を聞くけど、私は「その人は本当に癒されているだろうか。どれぐらいその人の良い健康はそのように続けるだろうか」と思います。

それでも、私は神様が現代でも働いていると信じます。この瞬間でも、神様が働いていると信じます。

私たちがイエス様の言葉をもっと信じたほうがいいと思います。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(13-14)

もちろん、私たちがスポーツカーのために祈れば、イエス様がきっとその祈りに答えるというわけではありません。でも、私たちの栄光を求めずに、むしろ神様の栄光を求めると、また、自分の願いではなく、神様のみこころ求めば、多くの場合、神様は私たちの祈りに答えてくださいます。さらに、神様は、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行ってくださいます。(エペソ3:20)

神様は私たちを通してこの世に触れたいと思います。でも、神様が私たちを用いることができると思いますか。あなたの不信や、懐疑を捨てて、神様に「あなたの御心が行われるように」と祈るでしょうか。

主よ。あなたの言葉を信じるのは難しいです。その言葉はありえないみたいです。でも、私の信仰を増やしてください。私をあなたの御霊で満たしてください。あなたの教会を御霊で満たしてください。この世の民は死にかけています。あなたは彼らに命を与えたいと思います。だから、私が不信と懐疑を捨てるよう助けてください。私がすべてをあなたにささげるように助けてください。あなたの栄光のために私を用いてください。アーメン。

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ヨハネ14:7-11ーー神様を見ること。神様を知ること。

どうやって私たちは神様を知ることができるでしょうか。どうやって私たちは、神様がどんな方であるか知ることができるでしょうか。

神様が目に見えない方だから、もちろんその疑問には一つの答えしかありません。神様は自分自身を私たちに現わさなくてはなりません。

最初は、神様は自分自身を幻や、夢や、天使や、預言者を通して現わしました。

そして、イエス様はこの世に来ました。でも、イエス様は単なる人間ではありませんでした。イエス様自身は神でした。そして、イエス様は私たちの間に生きていました。だから、イエス様はこう言えました。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。(7)

ピリポがそれを聞いて、「私たちに父を見せてください」と言うと、イエス様はこう答えました。

ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(9-11)

イエス様の言葉を誤解しないでください。天の父とイエス様は同じ方ではありません。天の父はイエス様ではありません。イエス様は天の父ではありません。でもパウロはこう書きました。」

御子は、見えない神のかたちであり「ます」。(コロサイ人への手紙1:15)

イエス様を通して、私たちは天の父の「かたち」を見ます。(もう一度繰り返すけど、誤解しないでください。神様は霊なので、物質的なかたちを持っておられません。)

イエス様の言葉を聞くと、私たちは天の父の言葉を聞きます。

いろんな状況に対するイエス様の反応を見ると、私たちは天の父の反応を見ます。

だから、天の父を知りたいと思うなら、イエス様を見てください。

ちょっと考えてみてください。周りの人々が私の娘を見ると、彼らはしばしば「ブルース、お嬢さんはあなたに似ているね。」と言います。

そして、彼女が成長すると、彼女の行動や考え方は、私に影響されます。彼女を見ると、あなたは私についていろんなことを学ぶことができます。それは親子の常です。

それでも、彼女は私の不完全な反映です。でも、イエス様は天の父の完全な反映です。

それでは、私のポイントは何でしょうか。

神様を知りたいと思うでしょうか。イエス様を見てください。

神様の考え方を知りたいと思うでしょうか。イエス様の言葉を読んでください。

いろんな状況に対する神様の反応を知りたいと思うでしょうか。イエス様の反応を見てください。

私たちは神様がどんな方であるか想像しなくてもいいです。私たちはもう知っています。なぜなら、神様はこの世に来て、人間になったから。

だから、神様との関係を求めましょう。そうすれば、神様をきっと見つけます。

ヤコブはこう言いました。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)

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ヨハネ14:4-6--天の父のもとへの道

多くの人々はこの個所を読むと、腹が立ってしまいます。なぜなら、イエス様の言葉を受け入れにくいから。だから、彼らはその言葉を拒絶します。

イエス様は何を言ったでしょうか。

ちょっと背景を説明すると、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたのために場所を用意しに行く」と言っていたばかりでした。そして、イエス様は彼らにこう言いました。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネ14:4)

でもトマスはイエス様の言葉が分からなかったので、当然の質問を訊きました。

主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(14:5)

イエス様はこう答えました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(14:6)

イエス様は「私は父のみもとへの道を教えます」と言いませんでした。

イエス様は「父のみもとに行くのに、あなたがたが何をするべきか教える」と言いませんでした。

イエス様は「私が父のみもとへの道だ」と言いました。「もし天国に行って、天の父を会いたいと思えば、わたしを通して行かなくてはなりません。」

それは驚くべき主張です。

でも、ちょっと考えてみてください。

もしアメリカ大統領に会いたいと思えば、あなたは勝手にホワイトハウスのオーバルオフィスに入ることができません。あなたは招待状が必要だし、それを持っていて、誰かが扉であなたを出迎え、大統領のところに連れて行ってくれます。その人がいないと、あなたは大統領に決して会うことができません。その人は、大統領のもとへの道です。

そのように、イエス様は天の父のみもとへの道です。でも、イエス様はただの天国のスタッフではありません。イエス様は神の子です。イエス様が十字架で死んで、私たちの罪の代価を払ったことによって、私たちは神様との関係ができます。

イエス様は私たちを天の父のみもとに連れて行って、大祭司として私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8:34;へブル10:19-22)

でも、イエス様の十字架の働きがなければ、また、イエス様が私たちとともにいなければ、私たちは天国に行けないし、天の父に会うことができません。

イエス様はトマスにもう一つのことを言いました。「私は真理です。」

多くの人々は真理を求めています。

でも最近、多くの人々は、真理が実在していないと思います。特に霊的な真理がないと思います。

でも、イエス様は「私は真理だ」と主張します。「私の言葉は真理です。真理は相対的なものではありません。私の言葉は完全な真理です。私から離れたら、あなたは真理を見つけることができません。」

さらに、イエス様は「私は命だ」と主張します。

多くの人々は、人生の意義を求めています。彼らは意義のある人生を求めています。彼らは生きがいのある人生を求めています。最終的に、彼らは死後の命を求めています。

だから、イエス様は言います。

「私は命です。命の意義を求めているでしょうか。私の所に来なさい。意義のある人生を求めているでしょうか。生きがいのある人生を求めているでしょうか。あなたは、お金や、家族や、持ち物や、力や、結婚や、子供などを通してそんな人生を獲得しようとするかもしれないけど、それらはあなたに命を与えることができません。最終的に、あなたの心は空っぽになります。私だけを通して、あなたは生きがいのある人生を見つけることができます。

また、もし死後の命を見つけたいと思うなら、仏や、ムハンマドや、ほかの宗教的なリーダーを通して、そんな命を見つけることはできません。私だけを通して、あなたの罪が赦されて、あなたは永遠の命を得ることができます。」

でも、多くの人々はそれを信じたくないのです。なぜなら、彼らは自分の宝ものを捨てなくてはならないかもしれないから。また、彼らはもう自分勝手に生きることができないから。

だから、彼らはイエス様が嘘つきだと言います。または、イエス様が間違えたと言います。または、イエス様が正しく引用されなかったと言います。

でも本当の命を見つけたいと思うなら、イエス様だけにあって、そんな命を見つけることができます。

真理は相対的なものではなく、確かな物です。イエス様だけにあって、真理を見つけることができます。

また、あなたが天国に行って、天の父に会いたいと思うなら、イエス様はあなたの隣におられなければなりません。

だからイザヤの言葉を聞いて、従ってください。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しきものは自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6-7)

 

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ヨハネ14:1-3--私たちのために用意されたもの

前回の記事で私が言ったように、最後の晩餐で、弟子たちはイエス様の言葉で衝撃を受けて悩んでいました。なぜなら、イエス様は「私が行くところに、あなたは今ついて来ることができない」と言ったから。おまけに、イエス様は、彼ら皆がつまずいて、イエス様を見捨てると言いました。さらに、ペテロが一番勇気のある弟子みたいだったのに、イエス様は、ペテロが「イエスを知らない」と三度言う、と言いました。

イエス様は彼らの心をよくご存じだったので、彼らを励まして、こう言いました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(14:1)

要するに、「悩まないでください。こんなことは酷いかもしれないし、たぶんあなたたちはそんなことが想像つかないかもしれません。でも、天の父はまだすべてのことをコントロールしています。天の父を信じなさい。また、私を信じなさい。」ということです。

そして、イエス様は彼らに未来のことをちょっと見せて、どうしてイエス様が行かなくてはならないか説明しました。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(14:2-3)

イエス様は私たちに3つの約束をします。

1.もし私たちがイエス様を救い主として受け入れば、イエス様は天の父の家に私たちのために場所を用意しています。イエス様がどんな場所を用意するか分からないけど、きっとそれが豪華な場所だと思います。イエス様は卑しい場所を作るはずはないです。

クリスチャンの歌手キース・グリーンは興味深い歌詞を書きました。

「あなたは6日間で天地を作ったけど、父の家を2000年以上構築中です。」

2.イエス様はもう一度この世に戻ります。弟子たちはイエス様が去ると聞いて、パニックになりました。でもイエス様は、「私がきっと戻る」と言いました。最初に、イエス様は彼らに聖霊を送ると約束しました。そして、イエス様自身はいつか戻ると約束しました。

3.そして、イエス様が戻ると、イエス様がいるところに、私たちもいるようになります。

パウロはこう言いました。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらの言葉をもって、互いに励まし合いなさい。(第一テサロニケ4:16-18)

でも、ちょっと考えてみてください。その会話の数時間後に、弟子たちはつまずいて、イエス様を見捨てました。イエス様はそんな人々に、その素晴らしい約束をしました。どうしてイエス様は彼らにそんな約束をしたでしょうか。

なぜなら、イエス様は彼らをあきらめずに、彼らの心と人生に働き続けようと計画したから。

そのように、イエス様は決してあなたのことをあきらめません。あなたがどんなに苦しんでも、あなたがどんなに失敗しても、イエス様はあなたのために場所を用意しています。だから絶望しないでください。むしろ、立ち上がって、歩き続けましょう。

Why should I worry?
どうして私は悩んでいるでしょうか。
Why should I fret?
どうして私は心配しているでしょうか。
‘Cause I’ve got a Mansion Builder.
私には、豪邸を作ってくれる方との関係があります。
Who ain’t through with me yet.
その方は、私のことを決してあきらめない。

–Second Chapter of Acts

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マタイ26:31-35;マルコ13:27-31;ルカ22:31-34;ヨハネ13:36-38--私たちの弱さを知っておられる神。私たちを受け入れる神。

イエス様が弟子たちに「わたしが行くところにあなたは今ついて来ることができません」と言うと、彼らはもちろん悩んでいました。イエス様が彼らの先生だったので、彼らはイエス様が彼らのそばにおられない人生が想像できませんでした。

だから、いつものようにペテロは皆が考えることを言い出しました。

主よ。なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちを捨てます。(ヨハネ13:36-37)

イエス様の答えを聞いて、ペテロとほかの弟子たちは衝撃を受けました。

わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。(ヨハネ13:38)

そして、イエス様はペテロにこう言いました。

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)

でも、もう一度ペテロは言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)

しかし、イエス様はもう一度繰り返しました。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたし知らないと言います。」(ルカ22:34)

もしかしたら、ほかの弟子たちがそれを聞いて、「まさかペテロは裏切り者だろう。さっきイエス様は、私たちの間に裏切り者がいるを言ったけど、それはペテロだろうか」と思ったかもしれません。

ペテロもそう疑問に思ったかもしれない。

だから、イエス様は続けました。

あなたがたはみな、つまずきます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:27-28)

でも、ペテロは主張し続けました。

たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)

だから、イエス様はもっと具体的に、また、もっと強く宣言しました。

まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。(マルコ14:30)

それでも、ペテロはイエス様の言葉を信じませんでした。そして、ペテロとほかの弟子たちは「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました。(マルコ14:31)

でも、最終的に、イエス様が預言した通りに、彼ら皆はつまずきました。イエス様が捕まえられたとき、彼らは逃げたし、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。

わたしのポイントは何でしょうか。私たちが自分自身を知っているよりも、イエス様は私たちのことを知っておられます。私たちが知らなくても、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。それでも、イエス様は私たちを受け入れます。

それがこの話の最も驚くことだと思います。イエス様は決してペテロを責めませんでした。むしろ、イエス様はペテロを励ました。「わたしはあなたのために祈っているよ。あなたはつまずくけど、あなたはきっと立ち上がります。だから、立ち上がったら、ほかの弟子たちを励ましなさい。」

そのように、イエス様は私たちの弱さをよく知っていおられます。でも、イエス様は私たちを責めません。むしろ、私たちの大祭司として、イエス様は毎日私たちのために祈ってくださいます。私たちが転ぶと、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。そして、私たちを引き上げると、イエス様は私たちに「他のつまずいていた人を憐れんで、励ましなさい。」

だから、私たちが失敗しても、私たちが弱くても、この言葉を覚えていて下さい。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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ヨハネ13:31-35--全ての人が認めるように

ユダが部屋から出た後、イエス様は残りの弟子たちに向いて、十字架の前の最後のメッセージを始めました。この傲慢なよく喧嘩するグループに、イエス様はこう言いました。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(34:35)

覚えていてください。この前、この弟子たちは彼らの間に誰が一番偉いか議論していました。彼らのプライドのゆえ、誰もほかの弟子たちの足を洗う気は全然ありませんでした。

だから、イエス様はこの大切の教訓が彼らの心にぐっと来るように望みました。つまり、彼らがお互いに愛し合うことです。

ちょっと気づいてください。イエス様は、「すべての人々を愛しなさい」と言いませんでした。もちろん、イエス様はそのことも望んだけど、そう言いませんでした。

むしろ、イエス様は「お互いに愛し合いなさい」と言いました。

どうしてでしょうか。

その互いの間に愛によって、全ての人はその十一人がイエス様の弟子たちであることを認めるから。

今なお、多くの教会は、そのお互いの愛が欠乏しています。私たちは弟子たちのようにプライドを持って、よく喧嘩します。だから、ノン・クリスチャンたちが教会に入ると、彼らは「イエス様に従う者はこういうものだろうか。イエス様はこんな人を育てるだろうか。それなら、私はイエス様とその教会に興味ない」と思います。

何年か前、私はある教会に行ったけど、賛美の時間、なぜかワーシップ・リーダーは部屋の後ろに座ったままで、渋い顔をしていました。だから、ほかの人がビギナーなのに、頑張ってギターを弾き、歌わなくてはなりませんでした。だからその日、礼拝の雰囲気はとても悪いものでした。

後で私が分かったのは、礼拝の前にそのワーシップ・リーダーがほかのリーダーと喧嘩していたということです。

でも、一番悪いのは、その日に新しい人が来ていたということです。彼女はその悪い雰囲気に気づいたので、その教会に決して戻りませんでした。

もし、私たちが互いに愛し合えないなら、どうやって私たちは教会の外の人を愛することができるでしょうか。

もし、私たちがこの世の人々のようにふるまえば、どうやって、彼らは私たちの中にイエス様を見ることができるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは周りのクリスチャンたちの態度を変えることができないけど、神様の助けによって自分自身の態度を変えることができます。周りのクリスチャンに対するあなたの態度はどうですか。

あなたは彼らを見下すでしょか。彼らを批判するでしょうか。彼らの欠点についていつも文句を言うでしょうか。もしくは、あなたがイエス様に愛されたように、彼らを愛しているでしょうか。

今度の日曜日、あなたは教会に行くとき、イエス様の言葉を覚えていてください。その言葉に思いを巡らしてください。そして、あなたが周りのクリスチャンを愛せるように、神様の助けのために祈ってください。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(34:35)

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マタイ26:26-29;マルコ14:22-26;ルカ22:14-20--十字架の描写

旧約聖書の中で、キリストを描写する話はいっぱいあります。この個所では、イエス様はその描写を成就します。

イエス様と弟子たちは最後の晩餐で過ぎ越し祭りを祝っていました。そして、彼らは最初のぶどう酒の杯を取って飲んだ後、イエス様は袋からマッツァーというパンを一枚を出しました。実は、その袋にはマッツァーが三枚ありました。

どうして三枚あったのでしょうか。あるユダヤ人によれば、そのマッツァーはアブラハムとイサクとヤコブを描写します。他のユダヤ人によれば、そのマッツァーは祭司たちとレビ人と普通のイスラエル人を描写します。

とにかく、イエス様は第二目のマッツァーを出して、裂き、弟子たちに与えました。そして、過ぎ越しの祭りの食事で、イエス様は初めてその伝統の本当の意味を説明しました。

これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。(ルカ22:19)

現代のユダヤ人のクリスチャンによれば、その三枚のマッツァーは天の父、御子、と聖霊を描写します。

そして、そのマッツァーを通して、私たちはイエス様のことを学びます。

第二目のマッツァーが袋から取られたように、イエス様は天国を出て、私たちの間に生きていました。

マッツァーの中には、パン種は入っていませんでした。聖書では、パン種は罪を描写しました。だから、マッツァーはイエス様の罪のない性格を描写しました。

そして、マッツァーが膨らまないように、人々は焼く前にそのマッツァーを刺しました。そのように、イエス様はも私たちの罪のために刺されました。

また、マッツァーが裂かれたように、十字架でイエス様の体も裂かれました。

そのマッツァーを食べたあと、イエス様は次のぶどう酒の杯を取りました。それは贖いの杯と呼ばれました。それを見て、ユダヤ人たちは過去を顧みて、どうやって、神様が彼らを奴隷の人生からを解放してくださったか覚えていました。

でも、今回イエス様は弟子の思いを未来に指しました。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、私の契約の血です。(マタイ26:28)

ルカの福音書によれば、それは「新しい契約」でした(ルカ22:20)。「新しい契約」とは、どういう意味だったでしょうか。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出した後、彼らと契約を結びました。それは、彼らが神様の律法に従えば、神様は彼らの神となって、彼らは神の民となるということです。でも、結局問題が発生しました。だれもその律法に完全に従うことができませんでした。

だから、エレミヤ書で、神様は新しい契約を作ると言いました。でも、その契約は人々の努力によるものではありませんでした。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうであるーー主のことばーー。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだーー主のことばーー。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(エレミヤ31:33-34)

この契約では、神様はいくつかの約束をしました。

一つ目は、私たちが神様に従えるように、神様が私たちの心を変えてくださることです。

二つ目は、私たちは神様との新しい関係を持つことです。神様と私たちの間に、私たちは祭司たちや牧師たちが要りません。私たち皆は神様との親しい関係が持っています。

三つ目は、神様は私たちの罪を赦してくださることです。神様はもはや私たちの罪を思い起こしません。

だからイエス様が意味したものは、「新しい契約は来ています。私の注がれた血によって、あなたたちの罪が赦されて、あなたたちは新しい命を得ます。」ということです。

イエス様と十字架の働きを覚えていて、へブル書の著者の言葉に従いましょう。

心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。(へブル10:22-23)

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マタイ26:20-25;マルコ14:17-21;ルカ22:21-23;ヨハネ13:18-30--裏切り

福音書を統合すると、一つの疑問は、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。

ルカはユダが参加したことを暗示するようですけど、他の著者によると、ユダは参加しなかったようです。

私の意見だけど、恐らくユダは聖餐式に参加しなかったと思います。多分、ルカは最後の晩餐の出来事を年代順位に伝えなかったと思います。

とにかく、この個所では、イエス様は裏切り者ユダを扱います。この話では、興味深い点がいくつかあります。

ヨハネは、(多分「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネでしょう)イエス様の隣に座ったlast supperようです。でも、ユダもイエス様の隣に座ったようです。なぜなら、すべての弟子たちはユダに対するイエス様の言葉を聞いたはずはないですから。彼らがイエス様がユダを裏切り者として指摘するのを聞いていたら、彼らはユダを責めたことでしょう。

たくさんの最後の晩餐の絵画と違って、だれも椅子に座らなかったでしょう。彼らは低いカウチに座りました。そして、彼らは横になって、左の肘に休みました。だから、彼らの頭には、隣の人の胸のところにありました。

だから、たぶん、イエス様の右にヨハネは座りましたし、イエス様の左にユダは座ったようです。

私が以前言ったように、イエス様の隣に座るのは光栄に思われることでした。だから、イエス様はユダをその左に座らせることによって、ユダに光栄を与えました。

それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。

だから、イエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)

弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人は、イエス様に訊きました。「まさか私じゃないでしょう。」

ユダ自身もイエス様にそう訊きました。

もしかしたら、ユダはイエス様を全くだましたと思ったかもしれません。でも、イエス様は答えた。「はい。あなたですよ。」

ユダのショックを想像してください。彼の秘密はばれました。もしかしたら、彼はイエス様が皆の前でユダを暴露して、ユダが殺されると思ったかもしれません。

多分そのときぐらい、ペテロはヨハネに訊いたでしょう。「イエス様が誰について話しているか、訊いてごらん。」(ヨハネ13:24)

イエス様はヨハネに答えました。

わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)

実は、その時代に、パン切れを浸して与えるのはもう一つの光栄を与え方でした。

だからイエス様がそのパン切れを浸して、ユダに与えたら、たぶんヨハネ以外の他の弟子たちは「すごいな。私たちが思ったより、ユダは偉いな。」と思ったでしょう。

ユダ自身は驚いたでしょう。彼は一瞬イエス様の言葉を誤解していたと思ったかもしれません。

でも、イエス様は彼に言いました。

あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)

ユダはそれを聞くと、イエス様が彼の心をよく知っていたことが分かりました。そして彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵の所に行きました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは私たちをわざと傷つけます。そのとき、私たちが苦々しい思いを持って、彼らを軽蔑するのは簡単です。

でも、イエス様がユダを神様に造られた人間として尊敬したように、私たちも、裏切り者を神様に造られた人間として、尊敬するべきです。

それでも、私たちは彼らの性格をよく知っているべきです。彼らの性格に関して、私たちは自分自身を騙してはいけません。そして、できるだけ、私たちは自分自身を守るべきです。

イエス様の人生を見ると、イエス様にはその習慣がありました。人々がイエス様を殺そうと思ったとき、イエス様はすぐに逃げました。ユダの場合だけ、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、イエス様の時間がやっと来たから。イエス様がこの世に来る目的は私たちの罪のために死ぬことです。

でも一般的に神様は、私たちが相手からの虐待を受けることを要求しません。だから、できるだけ、その人を避けてください。

もしなぜかその人を避けれらないなら、あなたの「盾」をいつも使ってください。つまり、彼らがいるとき、気を付けてください。もし、彼の性格をよく知っていて、自分の心を彼らの言葉や行為のために整えるなら、自分自身を守ることができます。

それでも、私たちは相手を許すべきです。さらに、私たちは彼を神様に造られた人間として尊敬するべきです。ペテロはこう書きました。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)

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ヨハネ13:6-11--私たちの足が洗われること

この話から、私はもう一つのポイントを言いたいと思います。

イエス様がペテロの足を洗おうとすると、ペテロはこう言いました。

決して私の足を洗わないでください。(8a)

イエス様が答えました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(8b)

そして、いつものように、ペテロは言い過ぎました。

主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。(9)

でも、イエス様は答えました。

水浴した者は、足以外は、洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたががたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。(10)

イエス様が意味したものは何ですか。「ペテロ、あなたが私を信じたので、あなたはもうきよいです。でも、毎日、あなたはこの人生を送ると、あなたの「足」は罪で汚れます。私はそれだけを清める必要があります。」

イエス様は私たちに同じことを言います。私たちがイエス様の前に来て、イエス様とその十字架の働きを信じると、イエス様は私たちの過去の罪のすべてをきよめてくださいます。

それでも、毎日私たちの心は罪で汚れます。私たちは自分の罪で、神様や、周りの人々を傷つけます。また、私たちの罪で、私たち自身も苦しみます。でも、私たちが救いをなくしたわけではありません。私たちはまだ神の子供です。

でも、毎日私たちはイエス様の前に来て、「私を赦してください。私の心を清めてください。」と祈らなくてはなりません。それは昔の罪のためではなく、当日の罪のためです。

ヨハネはこう書きました。

もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

正直に言うと、私の足を洗われるために、私はイエス様の前にもっと行かなくてはなりません。毎日私が罪を犯しても、私はよく反省せずに、告白しません。だから、その罪は私と神様との壁になります。

だから、毎日、イエス様の前に来て、私たちの罪を告白しましょう。イエス様の赦しを願いましょう。そうすれば、イエス様は真実な方なので、私たちをきよめてくださいます。

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ヨハネ13:1-17--私たちの模範

聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きに関して、いろんな生々しい描写を与えてくれます。

まず、神様はアダムとエバに、誰かが蛇の頭を踏みつけて潰すけど、そうするときに、その人の足は打たれる、と約束しました。(創世記3)

他の描写は、神様がアブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと命令したという話です。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に神様は彼を止めました。(創世記22章)

そして、神様の律法では、いろんないけにえや捧げものがイエス様を指していました。

それだけではなく、預言者イザヤはイエス様についていろんなことを預言したし(特に、イザヤ53章)、ダビデの詩篇もイエス様を指しました。(例えば22篇)

でも、イエス様が十字架で死ぬ前にもう二つの描写を与えてくださいました。一つ目のは、もちろん聖餐式です。(別の記事で、私はそのことについて話します。)

でも、二つ目のは、この個所にあります。それはとても美しい描写だと思います。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(4)

それは何の描写でしょうか。パウロはこう言いました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ5-7)

イエス様は神だったけど、ご自分を空しくしました。もちろん、イエス様はまだ神だったけど、栄光の上着を脱ぎ、人間になりました。それだけではなく、イエス様は王として来ないで、しもべのかたちをとりました。

パウロはつづけました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)

イエス様が自分自身を低くして、弟子たちの足を洗ったように、イエス様が自分自身を低くして、十字架で死んだので、今私たちの罪はイエス様の血によって洗われます。

だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようと思ったとき、イエス様は言いました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)

要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私がはあなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。私があなたの罪を清めないと、あなたは私と関係ないことになります。」ということです。

イエス様は彼らの足を洗うと、上着を着て、もう一度自分の席に戻って、彼らの主としてふるまいました。そのように、パウロはこう言いました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)

イエス様が弟子たちに訊いたように、私たちにも同じ質問を訊きます。

わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)

あなたは分かっているでしょうか。あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨てたか、また何をささげたか分かりますか。それが分かっているなら、イエス様はあなたにこう言います。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)

イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべでした。そして、イエス様は私たちにイエス様のようになるように呼びます。あなたもしもべでしょうか。

 

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ルカ22:24-30;ヨハネ13:1-17--本当のリーダーシップ

私は以前にも言いましたが、四つの福音書を統合するのは時々難しいです。多くの場合、著者たちは出来事を年代順位に伝えないし、時々話を伝える途中、ちょっと脱線するときもあります。最後の晩餐について読むと、私はそんな感じがします。

弟子たちが食べている時に、彼らは自分たちの中で、誰が一番偉いか議論していました。どうして、彼らがそのことについて話し始めたか分からないけど、もしかしたら、彼らが過ぎ越しの祭りを祝うために、二階の大広間に入ったとき、彼らは一人一人の席に関してケンカし始めたかもしれません。なぜなら、その文化では、イエス様の右に座っている人は最も偉い弟子と見なされたし、イエス様の左に座っている人は2番目だったということだから。そして、イエス様から遠く離れて座れば座るほど、弟子の地位は低くなりました。

だから、彼らは誰がイエス様の隣に座るべきかケンカしていたかもしれません。

もしかしたら、ペテロはこう言ったかもしれません。「俺はおまえたちのリーダーだよ。俺がイエス様の右に座るのは当たり前じゃん。」

そしてヨハネはこう言ったかもしれません。「でも、イエス様は俺の方が好きだよ。」

または、ユダは、「でも、俺はお金の担当でしょう。俺は一番偉いよ」

何分ぐらいイエス様がその喧嘩を見たか分からないけど、ようやく弟子たちはぼやきながら座りました。そして、イエス様はショッキングなことをしはじめました。

こんな状態では、食事の前に誰かが他の人々の足を洗う習慣がありました。その時代、皆はサンダルを履いていて、未舗装の道路を歩いたので、彼らの足はすぐに汚くなりました。普通は、しもべが弟子たちの足を洗ったはずだけど、しもべがいない場合、一番年下の人は弟子たちの足を洗ったはずです。だから、たぶんヨハネがそうするべきでした。でも、彼は何とかイエス様の隣に座ることができたので(ヨハネ13:23)、その席を譲って、しもべの仕事をすることが嫌でした。そして、その大喧嘩の後、ほかの弟子たちもそうする気はありませんでした。

イエス様は彼らを責める権利がありました。でも、その代わりに、イエス様は彼らに愛を示しました。

イエス様は、席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、彼は弟子たちの足を洗って、拭きました。

それを見て、弟子たちは恥ずかしかったでしょう。特に、イエス様がその仕事をしているのは、彼らのせいでした。彼らの中で、誰もその仕事をしたくなかったから。

イエス様はその仕事をし終わってから、座り、彼らに訊ねました。

わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(ヨハネ13:12-14)

イエス様は続けました。

異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。(ルカ22:25-27)

そして、イエス様は結論しました。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:15-17)

イエス様は彼らに何を教えたいと思ったでしょうか。イエス様は彼らを大きい責任を持つために選びました。ある日、イエス様は彼らに王権を委ねます。彼らはイスラエルの十二部族を治めます。また、彼らはイエス様の国でイエス様の食卓に着いて食べたり飲んだりします。

でも、イエス様が以前言ったように、リーダーシップとは、ただ人々に命令することというわけではなりません。本当のリーダーは人々に仕えます。だからイエス様は弟子たちの足を洗いました。そして、イエス様は私たちの罪のために死にました。

だから、私たちリーダーたちも同じことをするべきです。リーダーシップの祝福は、私たちの権利にありません。リーダーシップの祝福は、人々に命令することではありません。むしろ、リーダーシップの祝福は、イエス様と同様に人々に仕えることです。それが、本当のリーダーシップです。

あなたはリーダーシップをどのように定義するでしょうか。それは、人々があなたに仕えることですか。もしくは、あなたが人々に仕えることでしょうか。

 

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マタイ26:1-19;マルコ14:12-16;ルカ22:7-13ーー主のために部屋を整えること

この時から、イエス様は群衆の前にもう現れません。皆の前で、教えたり、奇跡を行ったりしません。イエス様は、もうすぐ自分が十字架で死ぬことをよく知っていました。でも、その前にイエス様は弟子たちと一緒に最後の食事をしようと思いました。

この話はちょっと微妙です。イエス様は奇跡的に、ある男性が都市で水がめを運ぶことを知っていたでしょうか。(その時代、女性たちだけがそんなことをしていました。)もしくは、その前にイエス様は、マルコ(それは、マルコの福音書のマルコ)の父と相談して、その合図を前もって決めたのでしょうか。

私は分からないけど、結局イエス様の弟子たちがその家に入るとき、その家の二階の大広間の席などはもう用意されていました。

興味深いのは、イエス様が生まれた時、宿屋に場所がなかったことです。でも、イエス様が死ぬ前に、イエス様のために用意された部屋があったということです。

あなたの心の状態はどうですか。あなたの心はイエス様のために用意されているでしょうか。

もしくは、あなたの心の中で、罪や自分の情欲が散らっているので、イエス様はあなたを用いることができないでしょうか。

イエス様、私の心の中で、あなたのためにいつもスペースがあるように。また、私の罪を清めてください。私を通してあなたの目的を果たしてください。私の人生をあなたの栄光のために用いてください。アーメン。

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マタイ26:1-16;マルコ14:1-11;ヨハネ12:1-11--本当の愛。偽の愛。

この話では、私たちはイエス様に対する二人の人の愛を見ます。でも、彼らの愛は全く違うものでした。

マリアの愛は、心から来ました。でもユダの「愛」は自分勝手な物でした。

イエス様はベタニアという町に行きました。その時、イエス様はシモンという人の家を訪ねました。その弟子たちとラザロとその姉妹たちマリアとマルタも来て、一緒に食事しました。

食べた後に、マリアはとても高価の香油をもって、イエス様の頭に注ぎ、足に塗って、自分の髪でその足をぬぐいました。

ユダはそれを見て、言いました。

どうして、子の香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(ヨハネ12:5)

他の弟子たちも同意して、同じことを言ったようです。

でも、ヨハネはユダの動機を説明します。

彼がこの言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(12:6)

でも、イエス様は答えました。

彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために、良いことをしてくれたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:6-9)

この言葉に対するユダの反応は何だったでしょうか。彼はイエス様を引き渡すために、祭司長たちのところへ行って、彼らから銀貨30枚をもらいました。

私たちはユダの動機が分かりません。でも、それがイエス様の叱責のためではないと思います。多分、もっと深い理由があったでしょう。もしかしたら、彼の愛は相手から何をもらえるかによったかもしれません。だから、もし自分のためにお金を盗むことができる限り、彼は喜んで貧しい者にお金をあげました。また、イエス様が王になりそうだと思う限り、ユダはイエス様に喜んで従いました。

でも何回も、イエス様は、王になることについてではなく、自分の死について話しました。もしかしたら、ユダはその話にうんざりして、「もし、死にたいと思うなら、死ね」と思ったかもしれません。だから、彼はイエス様を裏切りました。

でも、マリアは心からイエス様を愛しました。そして、ユダと違って、マリアはイエス様から何をもらえるかと思わず、イエス様に貴いものをささげたいと思いました。

私はヨハネの生々しい描写が大好きです。

家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

イエス様に対する私たちの愛は、そのようなものであるべきです。この世は、イエス様に対する私たちの愛の香りでいっぱいになるべきです。私たちの愛が明らかになれば、周りの人々はその愛を見逃さないはずです。

ユダがマリアを責めたように、私たちを責める人もいます。でも、イエス様にとって、私たちの愛は香油みたいなものです。

あなたはどうですか。あなたの愛は自分勝手なものでしょうか。イエス様から何をもらえるかしか考えないでしょうか。もしかしたら、あなたの愛は、イエス様にとって、また、この世界によって、すばらしい香りでしょうか。

 

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マタイ25:31-46--どうやっ て兄弟たちと姉妹たちを扱うか

イエス様は、この世の終わりに関する話をこのたとえ話で終えます。「大きいな患難」について話した後、イエス様は最後の裁きについて話します。その時、神様は国々を裁きます。そして、飼い主が羊をやぎからより分けるように、神様は人々をより分けます。

そのたとえ話の文脈を考えたら、たぶんイエス様が意味したものはこうです。大きな患難の時、たくさんのクリスチャンは迫害されるし、苦しみます。その時、ある人はイエス様を信じ、愛するので、そのクリスチャンたちを助けます。だから、イエス様は彼らを祝福し、神様の国に歓迎します。でも、クリスチャンを迫害する人、また、クリスチャンの苦しみに目をつぶる人は裁かれます。

でも、この話がほかの応用があると思います。大きいな患難はまだ来ていないけど、私たちがどのように兄弟たちや姉妹たちを扱うかによって裁かれます。

イエス様はこう言いました。

さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた、御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」(34-36)

その人々がイエス様に、「いつ私はそんなことをしたのでしょうか」と訊いたら、王は答えます。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。(40)

でもその兄弟たちを助けない人に、王はこう言います。

まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。(45)

私たちの兄弟たちや姉妹たちが苦しむときに、私たちはどうするでしょうか。神様の愛をもって、彼らに触れるでしょうか。私たちがそうすれば、実は私たちはイエス様に触れます。

でも私たちが彼らに目をつぶれば、実は私たちはイエス様に目をつぶってしまいます。だから私たちは裁かれます。

ヨハネはこう言いました。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子供たち。私たちは、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:16-18)

イエス様は私たちにたくさんのものを与えてくださいました。私たちに命を与えるために自分のいのちを捨てました。どうして私たちは隣人のためにそうしないでしょうか。

イエス様に目をつぶらないでください。イエス様は私たちの兄弟たちと姉妹たちのために死んでくださるほどに、彼らを愛しました。だから、彼らに手を伸ばして、触れましょう。

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マタイ25:14-30--忠実に仕えること

この個所の二つ目のたとえ話はイエス様が以前に教えた点を指します。つまり、イエス様がこの世に戻るまで、私たちは、神様が私たちに委ねた仕事を忠実にしなくてはならないということでです。

この話では、ある人は3人のしもべにお金を預けて、「このお金を投資しなさい」と指示しました。彼は最初のしもべに5タレントを預けました。(1タレントの銀は26-36キロぐらいでした。)そして、2番目のしもべに2タレントを預けて、3番目のしもべに1タレントを預けました。どうして、その主人はしもべたちに違う量を与えたでしょうか。その主人は、しもべたちのそれそれの能力に応じて、その銀を預けました。

そのように、神様は私たちに才能と財源を与えてくださいます。でも、私たちは同じものを与えられません。神様は、私たちに違う才能を与えて、その才能によって、何の資源を与えるか決めます。

また、この話のように、神様は私たちがその才能と財源をちゃんと使うことを要求します。もし、私たちが忠実にそうすれば、神様は私たちにこう言います。

よくやった。良い忠実なしもべだ。お前はわずかなものに忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(21)

この話では、主人は二人のしもべにそう言いました。でも、もう一人のしもべは、その銀を投資せずに、地面に穴を掘り、その銀を隠しました。だから、その主人が戻ると、そのしもべはその預かった銀だけを返しました。

どうして彼はそうしたでしょうか。多分彼は自分の主人を敬わなかったから。彼は主人が不公平だと思いました。つまり、主人が何もせずに、働き手の労働のゆえに儲かるということです。そして、しもべがその銀を投資しても、主人が彼に報いをちゃんと与えてくれないと考えました。

多くの人々は神様をそのように考えます。彼らは神様をちゃんと重んじません。彼らは、神様が不公平だし、厳しすぎると思います。だから、彼らは、神様の国のために自分の才能や財源を投資をせずに、神様を責めます。でも、彼らの神様に対する文句は言い訳だけです。実は、彼らは自分自身のために生きたいと思っています。

主の日が来る前、つまり、イエス様がこの世に戻る前に、多くの人々はそのように思います。その時代、地震や飢饉や、戦争や、疫病が発生します。それを見て、人々は自分の罪を悔い改めずに、神様を責めます。

でも、イエス様が戻ると、彼らは自分の言い訳と批判が間違っていたとわかります。むしろ、神様が公平な方なのに、彼らは自分がわがままだし、怠けものだし、罪深いということが分かります。だから、彼らは裁かれます。

信仰の部分は、神様が良い方であることを信じることです。私たちはいろんな災いを見るかもしれないけど、神様は悪くありません。私たちは不正を見るかもしれないけど、神様は不正な方ではありません。むしろ、この世の問題は私たちのせいです。でも、私たちの責任を認めずに、神様を重んじないで、神様を責めれば、私たちはいろんな言い訳を作って、私たちが任せれらたものを忠実に使いません。

あなたはどうですか。あなたは神様についてどう思うでしょうか。あなたの人生を通して、神様を重んじるでしょうか。また、神様があなたに任せたものを忠実に用いて、あなたはこの世に触れているでしょうか。

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マタイ25:1-13--準備すること

25章では、二つのたとえ話を通して、イエス様は先に教えたことを重視します。つまり、私たちが目を覚まして、イエス様の戻りを待ち望まなくてはならないし、イエス様が命令したように私たちは忠実に仕えなくてはなりません。

この一つ目の話では、多くの人々がすべての細かいことも解釈したいので、時々彼らは言い過ぎると思います。

でも、この話の要点は、私たちは目を覚まして、準備して、イエス様の戻りを待ち望むことです。なぜなら、私たちが予想しないうちに、イエス様は戻るから。

この話では、住人の娘はそれを学びました。花婿が花嫁の家に行って、そしてその二人が帰ると、婚礼の祝宴が始まる予定があったので、皆は待っていました。でも、なぜかその二人は遅れたので、彼らがやっと来た時、10人の娘たちは寝ていました。その娘たちが起きると、彼らのともしびは消えそうだったので、彼女らは油がもっと必要でした。5人の娘たちは余分な油を持っていたので、そのともしびを整えました。でも、ほかの5人たちは余分な油を持っていなかったので、油を買いに行かなくてはなりませんでした。

でも、彼女らが帰ると、家の戸が閉じられたので、彼女らは入ることができませんでした。

イエス様の要点は何だったでしょうか。ある人々は花婿の戻りのために準備していたと思ったけど、実は彼女らはちゃんと準備していませんでした。でも、ある人々は、ちゃんと準備していました。ちゃんと準備した人々は婚礼の祝宴に参加できたけど、準備していない人々は参加できませんでした。それに、彼らは家に入ることもできませんでした。

イエス様が戻るとき、多くのユダヤ人はその愚かな娘のようです。彼らはメシアのためにずっと待ち望んでいます。あるユダヤ人はちゃんと準備しています。つまり、彼らがイエス様をメシアとして認めて、聖霊に満たされたので、イエス様が戻ると、神の国に入ることができるということです。

でも、あるユダヤ人たちはちゃんと準備していると思うけど、実は準備していません。そしてイエス様が戻ると、彼らはそのことが分かります。その時、彼らはやっと、イエス様がメシアだとわかります。でも、彼らは手遅れで、神の国に入ることができません。

ユダヤ人たちだけではなく、ユダヤ人ではない人もそれを経験します。

多くの人々は自分がクリスチャンと言い張ります。でも、彼らは本当にイエス様を主と救い主として受け入れていません。彼らの見かけが敬虔であっても、彼らは敬虔の力を否定する者です。(第二テモテ3:5)

彼らはイエス様に従うと言うけど、自分自身のために生きています。

だから、イエス様が戻ると、彼らは自分の心が整っていないとわかって、神の国に入ることができません。

あなたはどうですか。イエス様の戻りのために準備しているでしょうか。一つの道しかないのです。パウロはこう言いました。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)

あなたはどうするでしょうか。

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マタイ24:36-51;マルコ13:32-37;ルカ21:34-36--いつも整えた心を持つこと

多くのクリスチャンたちは、いつイエス様が戻るか気になります。だから、多くのクリスチャンたちはいつイエス様が戻るか予測しようとしました。私が高校生の時、ある本が出版しました。そのタイトルは「1988年にイエス様がきっとこの世に戻る88の兆候」でした。

もちろん、イエス様は1988年に戻りませんでした。でもその著者はがっかりせずに、ほかの本を書いて、もう一度イエス様の戻りを予測しました。

なぜか、その著者のように、多くのクリスチャンたちはイエス様の言葉を無視します。

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。(マルコ13:32)

神様は自分の計画を立てました。でも神様は、私たちに、いつイエス様が戻るか教えてくださいませんでした。

でもイエス様は自分の戻りに関するしるしを教えました。また、私たちに「目を覚ましなさい。自分の心を整えなさい」と警告しました。イエス様はこう言いました。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)

残念なことだけど、多くのクリスチャンはその言葉も無視します。

前回の記事でも私は言いましたけど、イエス様はこの個所で同じことを四回繰り返すので、私も繰り返してもいいと思います。

多くのクリスチャンは、いつイエス様がクリスチャンたちを集めて、天国に連れていくか議論します。大きな患難の前にイエス様は私たちを集めるでしょうか。その患難の途中で、私たちを集めるでしょうか。その患難の後に私たちを集めるでしょうか。

私はその疑問が大切ではないとは言いません。でも、いつイエス様が戻るかという疑問よりも、イエス様が戻るときに私たちの心がもう整ったかという疑問は、もっと重要です。もし、あなたの心がいつも整っているなら、イエス様がいつ戻っても、あなたはびっくりしません。

それがイエス様のポイントです。だから、イエス様の戻りの細かいことについて議論する前に、自分自身にこの質問を聞いてください。

「もし、イエス様が今日戻っても、私の心は整っているだろうか。私はイエス様の御心に従っているだろうか。もしイエス様が今日戻るなら、私に何を言うだろうか。」

それは一番大切な質問です。

では、あなたの心はもう整ったでしょうか。

 

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マタイ24章;マルコ13章;ルカ21:5-38--私たちの主が戻るまで

この個所では、イエス様は、自分が帰るまでどんな出来事が起こるか説明します。そして、イエス様の言葉によれば、この世界はだんだん悪くなる一方です。実は、最終的にとても大変な状態になります。戦争があったり、地震やいろんな災害が発生したりします。そのトラブルのゆえ、偽の預言者が現れて、希望のメッセージを伝えるけど、彼らはたくさんの人々をだましてしまいます。

おまけに、反キリストも現れます。

その結果は?迫害です。特にユダヤ人たちもイエス様に従う人も迫害されるので、多くの人々は自分の信仰を捨ててしまいます。今、多くの人々は自分がクリスチャンであると言い張るけど、イエス様に従わずに自分の道を行きます。でも、迫害の時代が来ると、そんな「クリスチャン」はいなくなると思います。迫害される前に、彼らが自分の「信仰」を捨てると思います。

そして、周りの邪のゆえ、多くの人の愛が冷えます。信頼関係は少なくなるし、人々は周りの人々、特にクリスチャンたちを裏切り始めます。そして、ほかの災害が発生するので、人々はもっと怖がります。でも、この災いのピークを迎えると、イエス様が現れて、邪悪なものを終わらせて、神の国はやっと来ます。

その言葉を言った後、イエス様は私たちを励ますけど、私たちに警告もします。

最初の警告は、偽のキリストが来ることです。イエス様がこの世に戻ると、イエス様が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るので、全世界はイエス様を一斉に見ます。だから、噂を信じてはいけません。しるしや不思議を行う偽のキリストも現れます。でも、その人を信じてはいけません。なぜなら反キリストも、しるしや不思議を行い、たくさんの人々をだますから。(第二テサロニケ2:3-9)

そして、イエス様は、私たちがその大変の試練に直面しても希望を失わずに、イエス様を待ち望み、神様の御心に従いつつけるように励まします。イエス様はこう言いました。

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(ルカ21:28)

要するに、迫害や災害などが起こっても、思い悩まないでください。絶望しないでください。なぜなら、その出来事はイエス様の戻りのしるしだから。

でもイエス様は私たちに警告します。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカ21:34)

その試練が来るとき、周りの不正を見ると、絶望に落ちるのは簡単です。だから、イエス様は、私たちが絶望に落ちないように気をつけなさいと言いました。

また、邪悪なものを見るとき、私たちは皮肉的な心を持つことに注意しなくてはなりません。「イエス様は帰らないなあ」と思い始めてはいけません。むしろ、イエス様を待ち望み続けましょう。また、イエス様に仕え続けましょう。そうすれば、あなたは報いを得ます。でも、そうしないと、あなたは懲らしめられます。(マタイ24:46-51)

もしかしたら、あなたは、「この話は私に関係ない」と思うかもしれません。なぜなら、その試練が来るとき、また、反キリストが来る前にあなたがもうイエス様とともにいると思うから。

前にも私が言ったように、私もそれを信じたいです。でも、もし反キリストを見て、あなたが間違えたことが分かるようになるなら、この言葉を覚えていてください。

そして、どんな試練に直面しても、どんなに苦しんでも、主が戻るまで、イエス様を待ち望み、忠実に仕えましょう。

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マタイ24:1-35;マルコ13:1-31;ルカ21:5-33--将来を現すしるし

前回の記事では、私はこの個所はとても難しいと言いました。一つの理由は、マタイとマルコとルカは同じ話を伝えるけど、その話を統合するのが難しいということです。

イエス様が神殿が破壊されると言ったとき、弟子たちは衝撃を受けて、いつそれが起こるか訊きました。また、世の終わるときのしるしがどのようなものか訊きました。

彼らの視点を考えてみてください。その質問を訊いたとき、彼らはまだイエス様が十字架で死ななくてはならないし、よみがえられなくてはならないことが分かりませんでした。さらに、よみがえられた後にイエス様が天国に帰らなくてはならないことがさっぱりわかりませんでした。だから、彼らがイエス様が来られることに関して訊いたとき、その質問は、いつイエス様が天国から戻るかという意味ではありませんでした。たぶん、彼らが意味したものは、いつイエス様が自分の国を建てるかということでしょう。

彼らは子供の時から、「主の日」に関して、何回も聞いたことがありました。その日、主は国々を裁き、イスラエルは王国としてもう一度確立されます。

でも、イエス様は彼らに神殿が破壊されると伝えました。その前だと、確かに主の日が来ることはないでしょう。

それに、その週の初めに、イエス様と弟子たちがエルサレムに着いたとき、多くの人々は「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」と叫びました。

だから、弟子たちは本当に混乱していました。

とにかく、ルカによれば、イエス様は、将来に偽のキリストが来たり、戦争や、いろんな災害が発生したりすると言いました。でも、それが起こる前に、イエス様は、彼らが迫害されるし、殺されると言いました。使徒の働きを読めば、それを見ることができます。

また、彼らが捕まえられたとき、イエス様が約束したように、聖霊様が彼らに何を言うべきか教えたので、彼らの敵は彼らのあかしをどうやって反ばくするかわかりませんでした。

そしてイエス様は彼らに、「軍隊がエルサレムを取り囲むとき、すぐに逃げなさい」と警告しました。なぜなら、エルサレムは破壊されて、人々は捕虜になるから。イエス様が言ったのは、妊娠している女性たちにとって、その日がとてもひどい時になるということです。

西暦70年に、イエス様の預言は成就しました。そのとき、ほとんどのクリスチャンたちはイエス様の警告を覚えていて、逃げましたけど、ほかのユダヤ人たちはエルサレムに残りました。なぜなら、彼らはエルサレムが一番安全なところだと思ったから。でも、イエス様が言った通りに彼らは殺されたり、捕虜になったりしました。

そして、マタイとマルコは、「荒らす忌まわしいもの」について話します。ダニエルはその出来事を預言しました。アンティオコス4世エピファネスという人はダニエルの預言を成就しました。彼は