マタイ15:29-39;マルコ8:1-21-律法主義。この世を愛すること。

私は、このブログで何回も言ったことがあるけど、牧師のメッセージを聞いても、ポッドキャストを聞いても、クリスチャンの本を読んでも、その教えを聖書と比べるべきです。実は、このブログの記事も、聖書と比べるべきです。(あなたがこのブログを読むとき、その聖書の個所も読んで、私の言葉を調べるでしょうか。)

とにかく、この個所では、どうして私たちが人々の教えを聖書と比べるのは大切なのか学びます。この個所では、イエス様は、5000人にパンを与える奇跡を繰り返します。でも、これは全然違う出来事です。人数が違ったし、パンと魚の数も違いました。

その奇跡のあと、パリサイ人たちとサドカイ人たちはイエス様のところに来た。(もしかしたら、サドカイたちの中では、ヘロデ王に従う人もいたかもしれません)。

もう一度、彼らはイエス様に天からのしるしを求めたけど、イエス様は断りました。その会話の後、イエス様は、弟子たちにこう言いました。

パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。(マタイ16:6)

(マルコによれば、イエス様は「ヘロデのパン種に十分気をつけなさい。」と言います。多分、イエス様はヘロデに従うサドカイ人たちについて話しました。)

いつものように、弟子たちは混乱しました。

「私たちはパンがない。でも、もしかしたら、私たちはパリサイ人とサドカイ人からパンを買ってはいけないのでしょうか。」

でも、イエス様は彼らを叱りました。「なぜ、パンについて話しているのですか。あなたは、私が5000人にパンを与えた時、また、4000人にパンを与えた時のことをもう忘れたのですか。私は、そんなパンについて全然話していません。」

そして、マタイはこう言います。

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(マタイ16:12)

彼らの教えは何だったでしょうか。

パリサイ人の教えは律法主義です。彼らは、自分の良い行動によって神様の国に入ることができると思いました。だから、彼らは、律法を勉強して、頑張ってその律法に従おうと思いました。

でも、彼らは神様の律法に、たくさんのルールを加えました。だから、彼らは、人々に神様が意図しない重荷をかけました。それに、パリサイ人が加えたルールを守らない人々を批判しました。

さらに、彼らは、神様の律法に反対するルールも作りました。

それだけではなく、彼らは律法の細かいことに集中しすぎたので、その律法の精神を見逃しました。だから、彼らは、間違って人々を裁きました。それに、彼らは、本当の正義と憐れみを忘れてしまいました。ほかの個所を読むと、そのことがよくわかります。

その反面、サドカイ人たちは富と力に興味がありました。だから、彼らはローマ帝国(とヘロデ王)と協力しました。それに、彼らは復活を信じませんでした。だから、彼らは永遠の物ではなく、一時的なものに集中しました。

だから、イエス様は律法主義と、この世を愛することについて警告します。どっちも、パン種のように教会に広まります。そうなると、神様は、その教会をもう用いられません。

あいにく、その時代、多くの人々は、パリサイ人とサドカイ人の教えを調べませんでした。だから、彼らは律法とルールによって圧倒されて、神様に裁かれると感じました。また、ほかの人々は永遠の物に集中せずに、一時的な物のために生きました。

あなたはどうですか。あなたは、この二つの罠に入っているでしょうか。

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マタイ15:19-31;マルコ7:31-37--人々をイエス様に連れて行くこと

この個所では、私たちはイエス様の癒しのミニストリーの人気を見ることができます。

私の心に打つのは、多くの癒されたいと思った人々は、一人でイエス様のところに行かなかったことです。むしろ、友達や家族が彼らをイエス様のところに連れて行きました。そして、イエス様は彼らを癒してくださいました。

その時代、イエス様が目と耳を癒したように、現代でもイエス様は霊的な目と耳を開いてくださいます。その時代に、イエス様が人々の体を癒したように、今イエス様は人々の心を癒してくださいます。

もちろん現代でも、イエス様は人々の体を癒してくださいます。でも、それよりも、イエス様は人々の心と魂を癒したいのです。(例えば、マルコ2:1-12を読んでみてください。)

とにかく、人々が病気の友達と体が不自由な友達をイエス様の所に連れて行ったように、私たちも苦しんでいる人々と霊的に病気な人々をイエス様に連れて行くべきです。私たち自身は彼らを癒すことができないけど、イエス様は彼らを癒すことができます。でも、私たちは、彼らが自分でイエス様のところに行くことを待つべきではありません。むしろ、私たちは、積極的に彼らをイエス様のところに連れて行くべきです。

でもこのことを覚えていてください。イエス様は、しばしば人々にこう訊きました。「わたしに何をしてほしいのか、」

また、「よくなりたいか。」

彼らが癒しを望んだら、イエス様は彼らを癒してくださいました。

そのように、私たちは人々をイエス様のところに連れていくかもしれないけど、彼らは決断をしなくてはなりません。彼らは癒しを望むかどうか決めなくてはいけません。彼らはイエス様が提供するものを受けるかどうか決めなくてはなりません。彼ら自身はそう決めなくてはなりません。

あなたはどうですか。あなたは人々をイエス様のところに連れて行っているでしょうか。

 

 

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マタイ15:21-28;マルコ7:24-30--根気、謙虚、信仰

イエス様はこの女性と話した時、何を考えていたでしょうか。彼は話した時、どんなトーンを使ったでしょうか。

ユダヤ人と向き合った後、イエス様はイスラエルから出て、ツロとシドンに行きました。その場所はイスラエルの北で、海岸が近い所でした。

イエス様は、こっそりそこに行ったけど、すぐにその人たちはイエス様がおられることを聞きました。ある一人の女性も、その知らせを聞きました。彼女はギリシャ人だったけど、その辺に生まれました。(だから、マルコの福音書によれば、彼女はカナン人と呼ばれました。)

彼女の娘が悪霊に取りつかれていたので、イエスに助けてくださるように頼みました。

主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。(マタイ15:22)

普通は、イエス様は人々と思いやりをもって話したけど、この場合、そうしませんでした。イエス様は彼女の願いを聞いたけど、彼女を無視しました。

それでも、彼女はあきらめずに、必死に叫び続けました。「主よ。私の娘を助けてください。」

だから、イエス様はの弟子たちはイエス様にこう言いました。

あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。(マタイ15:23)

それを聞いて、イエス様はその女性に向かって、こう言いました。

わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。(マタイ15:24)

イエス様は、どのようにそう言ったでしょうか。ちょっとイライラされた声で言ったでしょうか。もしかすると、ちょっと謝るような声で、そう言ったでしょうか。「ごめんね。助けたいけど、私はユダヤ人たちのために遣わされているのです。」

イエス様がどのようにその言葉を言ったか分からないけど、彼女は、まだあきらめませんでした。むしろ、彼女は、イエス様のもとに来て、ひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言いました。

でも、もう一度、イエス様は、ちょっと厳しい言葉で断ります。

子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです(マタイ15:26)

イスラエルでは、誰かを犬と呼ぶなら、侮辱でしたけど、でもイエス様は「子犬」と言いました。彼らの言語では、その「小」を付けたら、ちょっと相手を可愛がるニュアンスがありました。それでも、多分、多くの人がそれを聞くと、彼らの感情が害されたかもしれません。

でも、彼女は怒らずに、イエス様の言葉を用いて、こう言いました。

主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。(マタイ15:27)

つまり、「あなたがユダヤ人のために遣わされていることを知っているけど、彼らが要らない落ちるパンをいただいてもいいでしょうか。」

それを聞いて、イエス様は意外な褒める言葉を言いました。

ああ、あなたの信仰はりっぱです。(マタイ15:28)

イエス様が相手の信仰のために褒めることは本当に珍しいことでした。二回だけそんなことがありました。その二人目の人も異邦人でした。(マタイ8:5-13)

とにかく、イエス様はその女性の信仰を見て、感動したので、その娘を癒しました。

私たちは、その話から何を学ぶことができるでしょうか。

時々、私たちが祈るとき、私たちは神様が静かだと思います。私たちは無視されていると思います。でも、この女性のように、私たちは根気をもって、祈り続けるべきです。

もちろん、私たちはイエス様に命令できません。(時々、ある牧師たちは、そんなことを教えます。)

でも、私たちは謙虚な態度をもって、イエス様が私たちを助けることができると信じるなら、多くの場合、イエス様はその願いを叶えてくださいます。

だから、私たちは自分自身にこう訊くべきです。

1.神様が良い方で、私たちを愛してくださることを信じるでしょうか。

2.神様がその願いが叶っても、断っても、私たちは、その答えが私たちの益のためだと信じるでしょうか。

3.神様は答えるまで(「はい」でも、「だめ」でも、)私たちは祈り続けるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは根気をもって祈り続けるでしょうか。神様を信頼するでしょうか。神様があなたの願いを断っても、あなたは謙遜にその答えを受け入れるでしょうか。

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マタイ15:10-20;マルコ7:14-23--本当に不潔な者

多分、たくさんの人々はモーセの律法を読むと、どうしてユダヤ人たちが聖いものと不潔なものに関して、いろんな律法があるかと訊きます。

多分ある律法は、健康や衛生の理由のためでした。

でも、神様はユダヤ人にもっと大切なことを教えたいと思っておられたのです。つまり、あるものは、あなたを汚します。

その物理的な聖いものと不潔なものは霊的な聖いものと不潔なものの例えでした。

だから、神様が教えたいのは、「あなた完全に聖いものになるべきです。」ということです。体だけではなく、あなたの霊も聖くならなくてはなりません。

残念なことだけど、ユダヤ人たちはあまりに物理的な聖さに集中したので、神様の要点を見逃しました。

だから、イエス様が、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」と言ったとき、その弟子たちは本当に混乱しました。

子供のころから、彼らは「このものを食べてはだめです。そのものを食べてはだめです。そのものを食べると、あなたは汚されるから。」と学びました。

だから、彼らはイエス様に訊きました。「ええ?どういう意味ですか。私たちは、あるものを食べると、私たちが汚されると教えられました。」

イエス様はこう答えました。

あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。。。人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:18-23)

イエス様の意味が分かりやすいと思うので、私はこれだけを訊きます。

あなたの心に何が入っているでしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、と自制という実が入っているでしょうか。そうなら、そのものは自然にあなたの口と人生から流れます。

でも、あなたの心に悪い考え、不品行などが入ると、そのものは、あなたの口と人生から自然に流れます。そんなものは、あなたを汚してしまいます。

あなたの口から何が流れているでしょうか。あなたの人生から何が流れているでしょうか。

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マタイ15:1-9;マルコ7:1-13--私たちの人生の目安

何によって、自分の価値観が続くでしょうか。それは本当に大切な質問です。なぜなら、あなたの価値観によって、あなたはいろんな決断をしますから。

パリサイ人たちにとって、モーセの律法や、預言者の言葉はとても大切でした。でも彼らの伝統は何よりも優れたものでした。多分、彼らはそう言わなかったけど、彼らはそのように生きました。だから、時々彼らは神様の戒めを離して、自分の伝統に従いました。

だから、イエス様は彼らを責めました。

あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)

あいにく、たくさんのクリスチャンたちは、そのように生きます。彼は神様の言葉を無にして、ほかの基準に従います。

ある人は、自分の文化と伝統に従います。たとえば、彼らは仏壇で線香をあげます。

「それは文化的なことだけです。深い意味がありません。ただ日本の風習です。」

でも、そうすれば、彼らは文化と伝統のために神様の戒めを離しています。(第一コリント10:19-22)

でも、文化はほかの方法で私たちに影響を与えるかもしれません。

アメリカでは、今ある人々は「私はキリストを信じる。キリストに従う」と言うけど、「神様の目には、同性愛は良いものです」と言います。

どうしてでしょうか。彼らはますます神様に反抗する文化に従っているから。彼らは、自分の価値観をこの世の文化の目安に調子を合わせています。でもそうする上で、彼らは神様の戒めを離さなくてはなりません。

あるクリスチャンは自分の間違っている意見を離さずに、神様の戒めを離します。例えば、神様は「クリスチャンじゃない人と結婚するな」と言います。

でも、彼らは言います。「でも、私はこの人を愛している。なんとかなるだろう。」

だから、彼らは神様の戒めを捨てて、その人と結婚します。

あなたはどうですか。あなたの目安は何でしょうか。文化でしょうか。伝統でしょうか。自分の意見でしょうか。

事実は、一つの目安しかありません。それは神様のみ言葉です。

文化は変わるかもしれません。伝統は変わるかもしれません。あなたの意見も変わるかもしれません。でも、神様の言葉は決して変わりません。

イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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抜かれた?(旧約聖書が私たちに関係あるでしょうか)

普段私はこんなことをしないけど、最近、私は有名なアメリカの牧師のメッセージを聞いたので、そのことについて話したいと思います。

彼は、使徒の働き15章から話しました。私は、そのメッセージの80%ぐらいに賛成できたけど、あと20%は賛成できませんでした。

でも、彼を批判するよりも、私は、どのように旧約聖書が私たちに関係があるか話したいと思います。

多分、彼の要点は、クリスチャンになるために、私たちがユダヤ人になる必要がないことです。つまり、ユダヤ人たちは神様がモーセとイスラエル人に与えた契約に結ばれたけど、私たちは、その契約とは結ばれていません。今、クリスチャンたちの皆は(ユダヤ人でも、ユダヤ人じゃなくても)神様の恵みによって、神様の民になります。私たち皆、救い主が必要である罪人です。

多分、彼はそう言いたかったと思います。もしその牧師が、そのように説明していたら、彼を批判する人はいないと思います。でも、彼はこう言いました。

「不品行を定義するために、パウロやほかの使徒たちは旧約聖書、つまり、モーセの律法を調べませんでした。実は、彼らは罪を定義するために旧約聖書を全然調べませんでした。」

「あなたは、十戒とは全く関係ありません。あなたは、そのユダヤ人の律法、またモーセの律法に全然関係ありません。あなたは十戒に従うべきではありません。なぜなら、その律法は、あなたのためではないから。あなたが従う律法(つまり、隣人を愛する戒め)は、より優れたものです。あなたが従う律法は、もっと理解しやすいです。実は、あなたが従う律法は、あなたからもっと要求します。」

「ペテロとヤコブとパウロがクリスチャンの信仰について話したとき、旧約聖書に頼りませんでした。彼らは教会から旧約聖書の世界観や、価値観や、律法を抜きました。どうやってクリスチャンになることについて教えたとき、旧約聖書を全然使いませんでした。教会から旧約聖書の全体を抜きました。使徒たちは、クリスチャンの信仰から旧約聖書を抜いたし、私たちもそうするべきです。」

私は、この牧師の言葉を言いなおします。そうすれば、あなたには、彼の言葉と聖書の言葉の違いをはっきり見ることができると思います。彼の最後のポイントから始めましょう。

1.ペテロとヤコブとパウロは、クリスチャンになることと、ユダヤ人になることを区別しました。

ユダヤ人の世界観によれば、あなたが救われたいなら、ユダヤ人にならなくてはいけませんでした。また、モーセの律法のすべてを守らなくてはなりませんでした。だから、使徒の働き15章では、あるユダヤ人たちは「クリスチャンになりたいなら、ユダヤ人になるべきです」と言いました。でも、ペテロたちは、その考え方を捨てました。私たちも、そうするべきです。

それでも、旧約聖書は、教会とその教えにとって欠かせないものでした。だから、パウロはテモテにこう言いました。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。(第一テモテ4:13)

パウロは「聖書」と言ったけど、私たちの66書のある聖書(創世記から黙示録)について話していません。なぜなら、パウロがその言葉を書いた時、新約聖書は、まだ書かれている途中だったから。もう書かれた手紙と福音書があっても、多分テモテはそのすべてを持っていなかったでしょう。

それに、新約聖書の著者たちが「聖書」と言ったとき、その意味が「新約聖書の書」だったのは二回だけでした。(第二ペテロ3:15-16--パウロの手紙、第一テモテ5:17-18--多分ルカの福音書)。

だからパウロは「聖書」と言ったとき、だいたい旧約聖書について話していました。

ところで、その牧師の話の話では、もう一つの問題が出てきます。彼は、よく言います。

「使徒たちの信仰は特別な本(つまり、聖書)に基づいていなかった。なぜなら、彼らは特別な本を持っていなかったから。」

もちろん、使徒たちは新約聖書の全部を持ってはいなかったけど、彼はきっと旧約聖書をもって、教えました。使徒たちは、すべての教会で旧約聖書の全体を持っていたかどうかわかりませんけど、彼らの手紙でも、福音書でも、また彼らのメッセージでも、彼らは、いつも旧約聖書を引用しました。また、上記の個所では、パウロはテモテに、「旧約聖書を朗読しさい」と言いました。

この牧師は、もう一つのことをよく言います。「使徒の働きでは、ペテロたちは、いつもイエス様の復活について教えました。聖書ではなく、イエス様の復活は彼らの信仰の基礎でした。」

もちろん、イエス様の復活は、彼らの信仰の基礎でした。でも使徒の働きで、彼らのユダヤ人に対するメッセージを読んで見てください。彼らは復活だけはなく、旧約聖書も指摘しました。

「ほら、旧約聖書では、神様は、イエス様の死と復活について話しています。」

そして、パウロはコリント人に復活について話したとき、最初に旧約聖書を指摘しました。(第一コリント15:3-4)

だから、教会にとっては、旧約聖書は欠かせないものでした。でも、彼らは旧約聖書を読んだとき、ほかのユダヤ人と違うレンズを使いました。イエス様の復活の後、イエス様は彼らにそのレンズを与えました。(ルカ24:26-27、44-47)

もしあなたがそのことを疑うなら、使徒の働きと使徒たちの手紙を読んでみてください。何回も彼らはイエス様からのレンズを用いて、旧約聖書を教えました。彼らの教えには、旧約聖書は欠かせないものでした。

ところで、そのレンズは何でしたか。旧約聖書のすべてがイエス様を指していることです。イエス様の死と復活は一つの例です。

また、そのレンズのため、儀式に関る律法は私たちには、もう関係がないのです。その儀式はイエス様のことを示していました。でも、イエス様はもう来て、その律法を満たしたので、その儀式はもういりません。(へブル人への手紙8-10章を読んでください。)

ユダヤ人の民法もイエス様のことを指しています。例えば民法は聖さの大切さを教えました。また民法は、罪の深刻さを教えました。もしあなたが、民法に書かれた罰がひどいと思うなら、十字架を見てください。そこで、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

とにかく、ユダヤ人の民法の目的もイエス様を指しているので、イエス様が来た後、私たちはその律法に従う必要がありません。でも、その律法を読むとき、イエス様があなたのために何をしてくださったか忘れないでください。

2.教会で使徒たちは不品行や、ほかの罪について教えたとき、旧約聖書によって、その罪を定義しました。

私たちにとっては、「不品行」というのは、ちょっとあいまいなことかもしれないど、パウロは具体的にそれを説明しました。そして、その定義は旧約聖書の律法から来ました。パウロはこう言いました。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。(ローマ7:7)

パウロは、むさぼることについて話したけど、それは例だけでした。ほかの罪を入れてもいいです。だから、その言葉をちょっと変えてみましょう。

律法が、「姦淫してはならない。同性愛は罪です。獣と寝てはならない」と言わなかったら、私は不品行を知らなかったでしょう。

でも律法は足りませんでした。なぜなら、律法は罪を定義するけど、私たちに罪を克服する力を与えてくれないから。だから、パウロはこう言いました。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

地図は私たちの目的地を示していますが、その地図が私たちの手を取って、導くことはできません。そして、私たちが地図を読めなくて、フラストレーションを感じるとき、その地図は私たちを慰めず、助けることができません。

そのように、神様の律法は、正しいことと罪を定義することできるけど、私たちに罪と戦う力、また正しいことをする力を与えることができません。むしろ、私たちが罪を犯すと、律法は私たちを裁きます。だから、私たち皆にイエス様が必要です。

3.あなたがクリスチャンなら、あなたは十戒に従います。

「あなたがクリスチャンなら、十戒に従いなさい」と言っていません。

クリスチャンが十戒に従うのは、事実です。もちろん、あなたは完全に十戒に従うことができません。でも、聖霊様の導きと力によって、あなたはだんだん十戒に従い始めます。あなたが頑張っているから、十戒に従うというわけではないです。むしろ、毎日、聖霊様が、あなたを導いて、あなたの考え方と生き方を変えるのです。

聖霊の導きによって、私たちは律法の文字だけに従うだけではなく、その律法の精神にも従い始めます。つまり、私たちは神様を愛し、隣人を私たち自身のように愛します。それは、もちろんより優れた命令です。なぜなら、その命令には、抜け穴がないのですから。

要するに、私たちはユダヤ人になる必要はありませんが、私たちはまだ旧約聖書に強い関係があります。私たちはユダヤ人ではありませんが、私たちが教会に入れる理由は、ヤコブが教会を旧約聖書につないだから。つまり、

この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。(使途の働き15:16-18)

もちろん、私たちは新約聖書と旧約聖書(つまり、神様との新しい契約、神様との古い契約)を混ぜません。でも、私たちは旧約聖書が私たちにまったく関係ないと言えません。むしろ、私たちは新しいレンズを用いて、旧約聖書を読みます。そのレンズは、イエス様のレンズ。

そこで、イエスは、聖書(つまり、旧約聖書)を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:45-47)

 

 

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マタイ15:1-14;マルコ7:1-15--手引きする盲人から立ち去る

この個所では、イエス様はもう一度パリサイ人たちと向き合います。イエス様の弟子たちはユダヤ人の長老たちの伝統に従わずに、手を洗わずにパンを食べました。だから、パリサイ人はイエス様とその弟子たちを批判しました。

でも、イエス様はパリサイ人たちを批判しました。なぜなら、彼らは自分の伝統のために神様の律法を犯していたからです。例えば、パリサイ人たちはユダヤ人たちにこう教えました。

「あなたのご両親が貧しくても、あなたは「私のお金を神様にささげたので、あなたを助けることができない」と言うのであれば、ご両親を助けなくてもいいです。」

でも、神様は「あなたの父と母を敬いなさい」と命令しました。

だから、イエス様は預言者イザヤの言葉をパリサイ人に当てはめました。

この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。(マタイ15:8-9)

そのあと、イエス様の弟子たちはイエス様にこう言いました。

パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。(マタイ15:12)

でも、イエス様はこう答えました。

わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。(マタイ15:13-14)

私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。あなたが誰に聞くか注意するべきです。

多くの人々は上手に話すことができます。彼らは話すときに、神様からの権威を持っているように見えます。

でも、彼らの言葉が神様の言葉に反対するなら、結局彼らのミニストリーは偽物として暴露されて、引っこ抜かれます。

この世では、そのミニストリーが栄えても、裁きの日に神様はその働きを燃やしてしまいます。そのリーダーは救われるかもしれないけど、彼らが達成したものは全部燃やされます。(第一コリント3:10-15)

だから、あなたが聞くことを調べてください。牧師の教えでも、クリスチャンの本の教えでも、ポッドキャストの先生の教えでも、ちゃんと調べてください。

その言葉が聖書に合うなら、あなたは従うべきです。でも、聖書の教えと違うと、その人の言葉を捨てるべきです。

もし、その先生は何回も聖書と違うことを教えるなら、その人から立ち去るべきです。そうしないと、彼らが落ち込む穴に、あなたも落ち込みます。

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ヨハネ6:60-71--躓かせる者

イエス様の話を聞いたとき、どうしてユダヤ人は気分を害したのでしょうか。もしかしたら、彼らはイエス様の言葉を誤解したかもしれません。つまり、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(53-56)

もし、その言葉を文字通りに解釈するなら、誰でも面食らうでしょう。でも子供のころから、ユダヤ人たちの皆は、獣や鳥を食べる前に、その血を注ぎ出しなくてはいけないと教えられました。つまり血を食べては絶対ダメだと教えられました。(レビ記17:10-14)

でもその時、イエス様は文字通りに話をしていたわけではありません。イエス様はたとえ話をしていたのです。

以前の記事で私は言ったけれでも、イエス様の肉を食べるのは、イエス様のところへ来ると言う意味です。イエス様の血を飲むのは、イエス様を信じるということです。そして、あなたがイエス様のもとに来て、信じるなら、あなたは決して霊的に飢えないし、渇きません。(ヨハネ6:35)

とにかく、もしかしたら、ユダヤ人たちはイエス様の言葉を文字通りに解釈したから、機嫌が悪くなったのかもしれません。

でも、もしかしたら、彼らはイエス様の言葉をちゃんと理解できたけど、その言葉を受け入れられなかったのかもしれません。つまり、永遠の命に至る道は、イエス様しかないことです。

今なお、人々はその言葉を聞いて、「これはひどい言葉だ。そんなことを誰が聞いておられようか」と言います。(60)

クリスチャンたちが神様への道はキリストしかないと言うと、多くの人々はむっとします。だから時々、クリスチャンのリーダーたちでも、その真理を教えるのをためらいます。

「まあ、多分イエス様は、自分がただ一つの道だと意味しなかっただろう。ほかの方法があるかのしれません。」

でも、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言ったとき、本気でそう言いました。もしイエス様のところへ行かず、信じないなら、誰も永遠の命を受けられません。イエス様を拒絶する人に対しては、裁きしかないのです。

イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(63)

つまり、「律法を守るあなた自身の努力を通して、あなたは天国に行こうと思っています。でも、その努力はむなしいものです。あなたの努力は足りないから。実は、あなたの良い行動は、神様の目には不潔な着物のようです。御霊だけがあなたたちに永遠の命を与えることができます。でも、あなたたちが私のもとに来て信じてこそ、御霊はその命を与えてくださいます。」

そして、イエス様はこう言いました。「わたしの言葉は霊的なものです。もし、あなたたちはその言葉を信じてこそ、命を与えられます。」(63)

でも、多くの現代の人々のように、多くのユダヤ人たちはイエス様の言葉を拒絶し、立ち去りました。

だから、イエス様が弟子たちに訊いたように、私たちにも訊きます。

まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。(67)

ペテロのように答えましょう。

主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。(68-69)

 

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ヨハネ6:22-65--本当のパンのために働くこと

聖書の中では、これは本当に印象的な個所の一つですけど、ちょっと難しい箇所です。

イエス様が5000人にパンと魚を与えた後、その群衆はイエス様を王にしようと思いました。だから、イエス様はすぐに立ち去りました。

彼らがイエス様を見つけると、イエス様は彼らを訓戒しました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。(26-27)

要するに、「あなたたちは私を捜していたけど、あなたたちの動機は間違っています。あなたの霊的な必要を求めずに、ただの物理的な必要を求めています。私はあなたたちにパンを与えたけど、一時的なものを優先するな。永遠の命に至るもののために働きなさい。」

そして、ユダヤ人たちはこう答えました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(28)

多分、彼らはこんな答えを予想しました。「聖書を覚えていなさい。十戒やほかの律法に従いなさい。」

なぜなら、彼らは律法学者たちとパリサイ人たちからそんなことをよく聞いたから。

でも、イエス様は意外な答えを与えました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(29)

つまり、「永遠の命を得るために私を信じなくてはなりません。ほかの方法はありません。律法によってあなたは永遠の命を得ることはできません。私を信じないなら、永遠の命を得られません」ということです。

ユダヤ人たちは、それを聞いて、ちょっと違和感があったかもしれません。だから、彼らは天からのしるしを求めました。例えば、モーセはイスラエル人に天からのパンを与えてくれました。そのしるしによって、イスラエル人はモーセが神様のしもべとわかりました。

でも、イエス様は彼らの間違った考え方を訂正しました。モーセではなく、神様はイスラエル人にパンを与えてくださいました。

それに、そのパンはただの象徴でした。つまり、神様は彼らに「まことのパン」を彼らに与えたいと思っておられました。その「まことのパン」は世の民に一時的な命を与えず、永遠の命を与えます。

そして、イエス様の次の言葉は彼らを驚かせました。

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

ところで、35節は6章のカギです。イエス様は物理的なパンについて話していませんでした。(だから、イエス様は聖餐式のパンについて話していたのではありません。)

だから、あなたがイエス様のところに来て、イエス様を信じても、あなたはまだ毎日ご飯を食べなくてはなりません。イエス様は霊的なことについて話しています。

イエス様の肉を食べるのは、イエス様のところに来るという意味です。イエス様の血を飲むのは、イエス様を信じることです。35節を読めば、そのことは明らかになると思います。

もし、イエス様のもとに来て、イエス様を信じるなら、神様の関係をもって、あなたの霊的な飢えと渇きはなくなります。

6章を読むと、そのテーマを何回も見ることができます。

イエス様はユダヤ人の問題を指摘しました。「私がまことのパンなのに、あなたたちは私のことをまだ信じません。私の奇跡を見たし、私の教えを聞いたけど、私のことをまだ信じません。」(36)

でもイエス様はこう言いました。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(37)

イエス様は続けました。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。(40)

また、

父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(45)

また、

信じる者は永遠のいのちを持ちます。(47)

また、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら(つまり、私に来るなら)、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(十字架で、イエス様は自分の体をささげたので、私たちは永遠の命を得ることができます。)(51)

また、

これは天から下って来たパンです。。。このパンを食べる者(つまり、私に来る者)は永遠に生きます。(58)

そして、イエス様はこう言いました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ(私に来て、私を信じなければ)、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(53-54)

また、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56)

最後に、イエス様こう言いました。「物理的な食べ物は、結局虚しいものです。なぜなら、そんな食べ物は永遠の命を与えることができません。でも、私の言葉を信じるなら、永遠の命を受けます。」(63)

私たちはこの個所から何を学ぶことができますか。本当の満足を求めているなら、神様との関係が必要です。でも、神様との関係を望むなら、イエス様に来て、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはなりません。

あなたも、今日そうしませんか。

主よ、私は一時的なものにうんざりしました。私はあなたに来て、あなたを信じます。私は今まであなたに背を向けていました。赦してください。あなたが私の罪のために死んでくだったことを信じます。私の主になってください。私が永遠なもののために生きるように助けてください。アーメン。

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マタイ14:22-36;マルコ6:45-56;ヨハネ6:16-21--イエス様を疑うこと

この個所を読むとき、いくつかのことが私の心を打ちます。

一つ目は、イエス様は自分の人生のバランスを保ったことです。彼は周りの人々のニーズに備えるために自分のニーズを犠牲したときもあったけど、イエス様は天の父と一緒する時間を優先しました。

もし、イエス様がその時間を優先するなら、私たちもそうするべきでしょう。

でも、イエス様は山にいる間、彼は弟子たちが海で苦しんでいることを見ました。それでも、イエス様は3時ー6時ごろまで待って、彼らのところに行きました。

そのように、時々私たちは苦しんでいるけど、イエス様は待ちます。それは、イエス様が私たちを捨てたというわけではありません。イエス様は私たちのことをまだ見守っているのです。でも、イエス様は、その試練を許します。なぜなら、イエス様は私たちにイエス様が見えなくても、私たちがどのぐらい信頼するか知りたいのですから。

弟子たちがイエス様のところから去ったとき、イエス様は「後で私は向こうで会います」と言いました。でも、弟子たちが海で苦しんだとき、イエス様の言葉を覚えていて、信じたでしょうか。

そして、イエス様は湖の上を歩いて、彼らを通り過ぎようとのおつもりでした。弟子たちがイエス様を見たとき、恐れて、イエス様が幽霊だと思いました。でもイエス様は彼らに言います。「心配しないで。私だよ。」

そして、ペテロはイエス様のところに行こうと思って、湖の上を歩き始めます。でも、彼は風と波を見たら、パニックになって沈み始めて、「主よ!助けて!」と叫びました。

イエス様は愛と恵みをもって、ペテロを救ったけど、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言いました。

でも、この話の最後を読むと、私たちは薄い信仰を持った人がペテロだけではないとがわかります。イエス様は船舟に乗り込むと、風がすぐにやんだ。弟子たちは、それを見ると、非常に驚きました。なぜでしょうか。

というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6:52)

その言葉は私の心を何よりも打ちました。彼らはパンの奇跡の本当の意味が分かりませんでした。何がわからなかったでしょうか。

1.イエス様が彼らを本当に愛して、彼らのニーズに備えることです。

2.イエス様は彼らのニーズに備える力を持っていました。

ペテロは海の上を歩いた時、最初は全然大丈夫でした。でも、彼がイエス様から目を離し、周りの波を風を見たら、困ってしまいました。

どのぐらい私たちも同じことをするでしょうか。私たちの境遇に集中して、イエス様から目を離すので、イエス様の愛と力を忘れてしまいます。だから私たちは疑って、沈み始めます。

実は、私もそうするときがあります。だから私と一緒に祈りませんか。

主よ。あなたが私のためにいろんなことをしてくださいました。私に対するあなたの良さを見ました。あなたの愛を見ました。あなたの力を見ました。でも、なぜか私は、まだ疑います。私の信仰を増やしてください。私の固い心を柔らかくしてください。私がパンの話が分かるように助けてください。私があなたの愛と力が理解できるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

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マタイ14:13-21;マルコ6:30-44;ルカ9:10-17;ヨハネ6:5-13--私たちがあまり持っていなくても

多分、私はこの話を一億回読みました。(まあ、大げさかもしれませんが)

でも、今回は新しいことを見出しました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅行から戻ったばかりで、たぶん疲れ果ていたと思います。だから、マルコの福音書では、こう書いてあります。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

でも多分もう一つの理由で、イエス様は弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがりました。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

多分、イエス様はそのことを聞いたので、自分の安全のために寂しいところに行きました。なぜなら、ヘロデ王はイエス様のことについて聞くと、イエス様を探し始めましたから。(ルカ9:9)

でも、どうしてイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがったでしょうか。

多くの場合、私たちはこのことを考慮しないけど、イエス様は100%神であっただけではなく、100%人間でした。

ヨハネとイエス様がどれだけ親しかったか分かりませんけど、彼らは従兄弟でした。もしかしたら、子供の時に、彼らは一緒に遊んでいたかもしれません。

それに、イエス様のミニストリーのはじめに、ヨハネはイエス様にバプテスマを授けました。また、ヨハネが牢にいて、本当に滅入ったとき、イエス様は彼を励ました。

だから多分、イエス様があっさり「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とは言わなかったと思います。

むしろ、多分イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。もう一つのことを覚えていてください。イエス様の弟子達の中では、2人はもともとヨハネの弟子たちだったのです。(ヨハネ1:37)

多分、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのでしょう。

でも、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々は彼らについて行って、イエス様とその弟子たちのニーズを知らずに、イエス様が彼らのニーズに備えるように迫りました。

私がイエス様なら、それを見て怒ったかもしれません。「もう出て行け。私の友達の死を嘆いていることを知らないのか?」

せめて、私は「ごめんね。あなたと一緒に時間を過ごしたいけど、今日はちょっと。明日来てくれませんか」と言ったかもしれません。

でも、イエス様は彼らを歓迎しました。(ルカ19:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと一緒にいました。

そして、だんだん暗くなってきていたので、弟子たちはイエス様のところに行って、「先生。もう遅くなってきたけど、食事するために、皆を帰らせたらどうでしょう。」と言いました。

それはその群衆を帰らせる良い言い訳でした。でも、イエス様はそうしませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言いました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」(マタイ14:16)

「でも、人が多すぎるよ。私たちは絶対できません。」

「あなたは何を持っているか。」

「少しだけしかないんですけど。」

「私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取って、祝福して、すごい奇跡を行いました。弟子たちだけではなく、その群衆も食べて満腹しました。

それだけではなく、食べ物はたくさん余りました。

私は新しいことを見たといったけど、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れて、傷ついているので、私たちは人々にあげられるものはないと考えます。

でも、神様が私たちにそうするように頼んだら、神様は相手のニーズに備えるように私たちに与えるだけではなく、私たちのニーズにも備えてくださいます。そして神様はギリギリ備えてくださらずに、豊かに備えてくださいます。

キーフレーズとは、「神様があなたに頼むとき」ということです。

神様は私たちにすべての人々のニーズに備えるように要求しません。私たちがそうしようとしたら、燃え尽きてしまします。

だから、自分自身にこう訊いてください。「私があまり与えることができないと思うけど、神様は私に彼らに対する情け深い心を与えてくださっているだろうか。神様は私にその人に仕えるように頼んでいるだろうか。もしくは、ただ「これが私の義務だ。その人に触れなくてはならない」と思うだろうか。」

もし、神様があなたに情け深い心を与えず、あなたの心に話さないなら、あなたはその人を別の人に任せた方がいいです。

でも、神様が「行きなさい」と言ったら、神様はあなたが持っているものを取って、祝福して、相手のニーズだけではなく、あなたのニーズにも備えてくださいます。

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マタイ14:1-2;マルコ6:14-29;ルカ9:7-9ーーあなたを尊敬するけど。。。

この個所では、ヘロデ王の行動は謎に満ちているようです。ヘロデが自分の兄弟の妻を取って結婚した時、バプテスマのヨハネはヘロデを厳しく責めました。もちろん、ヘロデはそれを聞いて、嬉しくなかったけど、その妻ヘロデヤに影響されなかったら、たぶん彼は何もしなかっただろうと思います。彼女はヨハネの死を希望したけど、ヘロデはそこまでしませんでした。最初は、ヘロデもヨハネを殺したがったかもしれないけど、結局彼はヨハネを逮捕して、牢に入れました。

どうして、ヘロデはヨハネを殺すことをためらったでしょうか。一つ目の理由は、ヘロデはユダヤ人の反応を恐れたことです。(マタイ14:5)

でも、もう一つの理由は、たぶん時間が経てばたつほど、ヘロデはヨハネを尊敬していたことです。なぜなら、この預言者は王に「あなたが悪い」と言う勇気を持っていたから。

マルコの福音書によれば、ヘロデはヨハネがほかの人々と違うとわかりました。つまり、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていました。

そして、ヨハネが何回もヘロデを責めたのに、また、ヨハネの言葉にヘロデは当惑されたのに、なぜかヘロデは「喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:20)

それでも、ヘロデは決して悔い改めませんでした。

そして、ヘロデの誕生日パーティーで、その娘が皆の前に踊りました。ヘロデはそれを見て喜んで、こう言いました。

おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。(マルコ6:23)

ヘロデの娘はお母さんに相談して、バプテスマのヨハネの首を頼みました。

ヘロデはそれを聞いて心が痛んだけど、自分のプライドのため、皆の前に自分の誓いを取り消せなかったので、ヨハネを殺しました。

多分、その前にヘロデはヨハネと話さなかったけど、私の想像では、ヘロデはヨハネにこう言いました。「ごめんなさい。俺はあなたのことが別に嫌いではない。実のところ、あなたを本当に尊敬している。でも、うちの娘はあなたの首ねだったのだ。」

私たちがヘロデの態度を非難するのは簡単なことだけど、どのぐらい私たちはイエス様にそんなことを言うでしょうか。

私たちがイエス様の言葉を聞くと、私たちの心がかき回されます。でも、その言葉に従わずに、私たちはイエス様とその言葉に背を向けてしまいます。なぜなら、私たちは自分のプライドや家族や、他の物を優先するから。

あなたはどうですか。教会のメッセージを聞くとき、このブログを読むとき、また、聖書を読むとき、その言葉があなたの心に染み込んで、あなたの心はなぜかあったかくなります。あなたは「この人を尊敬します。感心な方だ。」と思うかもしれません。

しかし、あなたは「けれでも。。。」と言ってしまいます。

そして、あなたは神様のみ言葉に背を向けてしまいます。

神様が送った人を尊敬することだけでは足りません。彼らが敬虔な人だと認めるのは足りません。もし彼らが神様の言葉にちゃんと伝えたら、あなたは行動しなくてはなりません。あなたは悔い改めなくてはなりません。なぜなら、いつか神様はあなたが聞いた言葉によってあなたを裁くから。

あなたはどうするでしょうか。

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マタイ10:40-42--偉い?取るに足りない?

イエス様がどのようにこの話をまとめるか、本当に興味深いです。イエス様は弟子たちに、「あなたを受け入れるものは、私を受け入れる」と言います。

そのように、福音のために私たちを拒絶する人は、イエス様をも拒絶しました。

つまり、相手があなたを拒絶しても、自分を責めないでください。彼らの拒絶は痛いかもしれません。とくに、あなたがその人を愛しているなら、その拒絶は痛いかもしれません。でも、あなたが悪いというわけではありません。むしろ、彼らはあなたが代表する方を拒絶しています。

でも、イエス様はこの原則を違う方法で用います。

つまり、預言者を受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また義人を受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。

たぶん、イエス様は弟子たちのニーズに備える人々について話しています。その人々は弟子たちの食料などに備えるなら、弟子たちの報いを受けることになります。

どうしてイエス様は、弟子たちにそう言ったでしょうか。多分、イエス様は弟子たちに、こう教えたかったのだと思います。

「もちろんあなたの仕事は大切です。しかし、ほかの人々を見下すな。なぜなら、その人々も神様の仕事をしているから。そして、あなたのニーズに備える人々は、あなたのように名誉を受けるべきです。」

弟子たちは「霊的な仕事」をしているかもしれないけど、ほかの人々は弟子たちの奉仕を支える仕事をしています。彼らがいないと、弟子たちは自分の仕事ができませんでした。

私たちの多くは、牧師や、教師や、ワーシップリーダーたちを偉い人と見なします。でも、私たちは背景で働いている人々に気づきません。例えば、彼らは、礼拝のために椅子を並べるし、マイクとスピーカーをセットします。彼らも栄誉をうけるべきです。そして、裁きの日、神様は彼らに牧師や、ワーシップリーダーのような報いを与えてくださいます。

要するに、神様が彼らを褒めるなら、私たちも彼らを褒めるべきです。

さらに、イエス様はこう言いました。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(42)

それを言ったとき、イエス様は小さい子供を抱いていたでしょうか。もしかしたら、イエス様は弟子たちを小さいものと呼んだのでしょうか

もしイエス様は小さい子について話すなら、覚えていてください。神様にとっては、キリストに属する小さい子供を世話することは本当に大切な仕事です。

もしイエス様が弟子たちや預言者について話すなら、覚えていてください。彼らも小さいものです。だから、あなたがリーダーなら、偉そうな態度を取ってはいけません。

あなたは「偉い人」でしょうか。覚えていてください。神様にとって、ほかの人々の神の国の仕事も大切です。神様は人の前でする仕事も、裏方でする仕事も同じように褒めます。だから、そんな人をも褒めましょう。

あなたは「取るに足りない」立場にでしょうか。覚えていてください。あなたが忠実に仕えると、神様は「偉い人」のように報いを与えてくださいます。

なぜなら、神様の目には私たち皆は貴い人々だし、忠実な者に報いを与えてくださいますから。

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マタイ10:32-39--人々を分かつ剣

イエス様が迫害の話をまとめる言葉を聞くと、あなたは違和感があるかもしれません。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(34-36)

イエス様は平和の君だと呼ばれます。どうしてイエス様は、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たと言ったのでしょうか。どうして、イエス様が剣のように家族を分かつと言ったでしょうか。

もちろんイエス様は平和の君です。もちろんイエス様がこの世に戻ってすべてを治めるとき、平和をもたらします。でもその時間はまだ来ていません。

だから、イエス様は自分の警告を繰り返します。つまり、あなたがイエス様に従うと、あなたの家族でもあなたを拒絶するかもしれません。

日本では、私はそんな状態を見たことがあります。ある女性は本当に苦しんでいました。なぜなら、そのお父さんに、「あなたがクリスチャンになりたいなら、この家から出て行け。あなたはもう俺の娘じゃない。」と言われたから。

イエス様はに従うなら、家族の争いに至るかもしれません。その時、私たちはどうすればいいでしょうか。

私たちは信じ続けながら、その信仰を隠すでしょうか。ある人々は、そうしようとしましたけど、彼らの嘘がばれると、その問題はもっと大変になりました。さらに、イエス様はこう言いました。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(32-33)

もし、あなたが愛している人たちの前でイエス様を否定するなら、あなたは本当にイエス様を愛し、イエス様に従うと言うことができるでしょうか。あなたの一生、イエス様をずっと否定するなら、あなた自身がクリスチャンだと言えるでしょうか。

もちろん、私たちが弱い時もあります。ペテロも弱い時がありました。だから、彼はイエス様を三回否定しました。

でも、最終的に、ペテロは自分の信仰のために十字架で死にました。

イエス様はこう言いました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(37-39)

要するに、あなたにとっては、イエス様が、何にもまして大切なものになるべきです。あなたがどんなに苦しんでも、イエス様をすべてよりも優先しなくてはいけません。もし家族の平和を守るために、あなたがイエス様を否定するなら、最終的に彼らは地獄に行きます。でも、キリストのためにその家族の平和を手放すなら、もしかしたら、いつか彼らはイエス様に従うようになるかもしれません。

この言葉は実践しやすいものではありません。でも、あなたの家族があなたを拒絶しても、あなたにはほかの家族があります。そして、あなたが苦しむときに、彼らはあなたを愛し、支えます。なぜなら、教会とは建物ではなく、神の家族ですから。

だから、家族の平和を守るためにあなたの信仰を否定しないでください。イエス様を否定しないでください。むしろ、イエス様を他の何物よりも優先しましょう。そうすれば、本当の平和を見つけます。

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マタイ10:14-31-迫害が来ると

迫害。

それはかなり嫌な言葉でしょうね。迫害については全然話したくありません。でも、聖書では、「迫害が来る」という警告は何回も出てきます。

パウロはこう言いました。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(第二テモテ3:12)

「もしかしたら、迫害を受けるかもしれません」と書いてありません。「確かに迫害を受けます」と書いてあります。

前回の記事でも言いましたが、あなたがイエス様のようになりたいなら、必ずあなたを憎む人もいます。迫害は憎みの次の段階です。

だから、イエス様は弟子たちにも、私たちにも警告しました。イエス様は私たちのことを、狼の中の羊と呼びました。

迫害に関して、イエス様はどんな指示を与えてくださるでしょうか。

まず、気をつけなさい、ということです。あなたの信仰のためにあなたを攻撃する人もいます。イエス様は体に対する攻撃について話したけど、心に対する攻撃もあります。あなたの信仰のために、言葉を通してあなたを攻撃する人もいます。

その人を良く知っていてください。そして、感情的な危険があれば、また、物理的な危険があれば、すぐに逃げてください。福音を伝えた後、あなたの役割を果たしたから。もし、彼らがあなたの言葉を拒絶するなら、イエス様はこう言いました。

あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(14)

それがちょっとおかしい表現に見えるけど、その文化では、異常なことではありませんでした。

ユダヤ人たちは外国を出た時、彼らはそうしました。なぜなら、そのちりをイスラエルに持っていくと、イスラエルは不潔になると思いましたから。

だからイエス様の意味したのは、「相手が福音を拒絶するなら、彼らが汚れたものになったことを伝えなさい。彼らは裁かれるけど、それは彼らのせいであることを伝えなさい。」ということです。

そして、立ち去りなさい。あなたの役割を果たしたので、彼らの暴力や酷い言葉をずっと受ける必要がありません。

でも一度迫害されると、私たちが将来の迫害を恐れるようになることは簡単なことです。だから、ほかの人々に福音を伝えることをためらうかもしれません。

でも、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(26-27)

つまり、「私があなたに教えたことは最終的にみんなの前に現れます。迫害でも、その言葉を止めることができません。だから恐れるな。大胆にその言葉を伝えなさい。」

そして、イエス様はこう言いました。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(28)

あなたの魂を滅ぼす方はサタンではありません。それは神様です。サタンは地獄の囚人になります。(サタンはまだ地獄にいないですが。)サタンは地獄の支配者ではありません。

でも覚えていてください。多くの人々が神様を拒絶したので、毎日彼らは死んで、地獄に行っています。不潔なものが天国に入らないので、神様は彼らを地獄に送らなくてはなりません。もし、私たちが彼らを愛しているなら、私たちの迫害の恐れを捨て、大胆に福音を延べ伝えるべきです。

そして、イエス様は私たちを慰めてくださいます。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(29-31)

つまり、迫害が来ても神様はあなたのことを決して忘れません。あなたを助けてくださいます。

そして、もしイエス様のために死ななくてはならないなら、神様があなたと共におられて、あなたはすぐにイエス様の顔を見ます。

だから迫害を恐れないでください。むしろ、私たちが与えられた命の言葉を大胆に伝えましょう。

 

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マタイ10:1-25-すべての人々に好かれること

今日、イエス様の弟子たちに対する指示をもう少し見ていこうと思います。

7-8節は私の心を打ちました。イエス様は弟子たちに、「病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」と言った後、こう言いました。

あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(8)

つまり、あなたはただで神様の恵みを受けたので、その恵みを周りの人々にただで与えるべきです。神の国はお金を儲けるためではありません。

牧師や宣教師が、自分の働きのためにお金をもらってはだめというわけではありません。実は、イエス様は「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです」と言いました。

でも福音を伝える目当ては、お金をもらうことではありません。むしろ、私たちが受けた貴重なものを周りの人々に与えたいのです。

しかし、もう一つのことは私の心を打ちました。イエス様は彼らに何回も警告します。「すべての人々はあなたを受け入れません。あなたが神様の仕事をして、彼らに神様のみ言葉を伝えているのに、彼らはあなたを必ずしも愛するわけでもないです。

むしろ、弟子たちを憎み、拒絶する人がいるとイエス様は警告しました。だから、弟子たちが奉仕するときに、その友達にも、家族にも注意するべきでした。

それはちょっと言いすぎみたいでしたけど、その時代ではそうではありませんでした。特にサウロの時代、クリスチャンたちは厳しく迫害されました。もし、彼らがすべての人々を信頼したら、殺されたでしょう。サウロのように彼らの家族や、友達はクリスチャンを迫害するのは、神様の御心だと思ったからです。

だから、イエス様は彼らに「蛇のようにさとくなりなさい」と言いました。要するに、行動する前にちゃんと考えなさい。相手がどんな人かちゃんと考慮しなさい。相手のことが信頼できるかどうか、よく見極めなさいということです。

でも、イエス様はつづけました。「鳩のようにすなおでありなさい。」(10-16)

あなたが裏切られるとき、あなたの愛が冷めないように気を付けてください。相手を憎むまず。復讐の態度を捨てなさい、ということです。

私たちもイエス様の言葉を覚えているべきです。あなたがイエス様に従うなら、あなたを憎む人もいます。多分あなたの家族や友達はあなたを殺さないけど、彼らはあなたを拒絶するかもしれません。

イエス様は弟子たちにこう言いました。

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。(24-25)

私は前にも言いましたけど、イエス様は完全の愛を持った方でした。彼の人生は完全でした。それでも、イエス様を憎む人もいました。イエス様を「悪魔」と呼ばれました。そして、彼らはイエス様を殺してしまいました。私たちがイエス様に従うなら、私たちはすべての人々からの愛を期待することができると思うでしょうか。

だから、自分が愛されるように努力するのはむなしいことです。むしろ、イエス様のようになるように努力してください。なぜなら、あなたのためにイエス様は自分の人生を十字架でささげたから。

 

 

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マタイ10-11;マルコ6:6-13、30;ルカ9:1-6、10ーー弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様は弟子を作ったとき、彼らに霊的な指示だけではなく、実用的な指示を教えてくださいました。

最初、イエス様はずっと彼らに霊的な真理を教えていました。例えば、山上垂訓と平地の説教を教えました。さらに、イエス様は彼らにたくさんのたとえ話などを教えました。

でも、奉仕をするのに送ったとき、イエス様は実用的な指示も教えました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところに行かずに、ユダヤ人の町だけに行くべきでした。どうしてでしょうか。なぜなら、パウロが言ったように、福音は先にユダヤ人のためだったから。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒したし、教えたけど、彼らに福音を延べ伝える時間はまだ来ていませんでした。

イエス様はほかの指示を弟子たちに与えました。

イエス様は、彼らが何を持った方がいいか、持たない方がいいか教えました(マタイ10:9-10)。

彼らがどこに泊まるか教えました。(マタイ10:11-13)

彼らが拒絶されるなら、また、迫害されるならどうしたらいいか教えました。(マタイ10:14,23)

そして、イエス様は彼らに厳しく警告しました。「信頼できない人もいますよ。気をつけなさい。もちろん、悪いことをしてはいけない。でも、賢く相手を扱いなさい。」(マタイ10:16-17)

でも、その時にイエス様は霊的なことについても教えました。

例えば、神様はスズメの必要に毎日備えるので、きっと彼らの必要に備えるし、彼らを守るということです。なぜなら、神様は彼らをスズメよりも愛し、大事にしてくださるから。だから、彼らは神様を信頼するべきでした。(マタイ10:9-10;29-31)

また、彼らは神様をすべてよりも愛するべきでした。イエス様は彼らにこう言いました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私は何を言おうとしているでしょうか。私たちは人々を奉仕のために訓練するとき、彼らに霊的なことと実用的なことを教えるべきです。

もちろん彼らはミニストリーや日常生活に関する霊的な原則を学ぶべきです。

でも、彼らにどのようにミニストリーをするべきか教えるべきです

イエス様はそうしました。まず、弟子たちはイエス様がどうやってミニストリーをしたか見ました。そして、イエス様は少しだけ指示して、弟子たちを送りました。

弟子たちが帰ると、彼らが何が起こったかイエス様に知らせて、イエス様はフィードバックを与えました。私たちはそのように人々を訓練するべきです。

もちろん、彼らが私たちとまったく同じようにミニストリーをするべきというわけでもありません。でも、私たちが基本的なことを教えた後、彼らはその基礎の上に神様の導きによって、自分のミニストリーを立てるべきです。

残念ですけど、多くの人々は訓練の一種しか与えません。

例えば、彼らは霊的な訓練を与えるけど、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えないので、その弟子が大失敗して、そのミニストリーはすぐに倒れます。

その反面、彼らはミニストリーに関する実用的な指示を与えるので、最初はそれはうまくいくけど、その弟子はプライドや、罪や、ほかの霊的な落とし穴によって、倒れてしまいます。だから、そのミニストリーもすぐに倒れてしまいます。

だから、弟子たちを訓練するとき、そのミスをしないでください。霊的な訓練も、実用的な訓練も与えましょう。そうすれば、神様は彼らと私たちを用いて、神の国は成長します。

 

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マタイ10:1-4;マルコ6:6-7;ルカ9:1-2--畑になる毒草

この個所を読むと、なぜかユダは私の目につきます。

この個所では、イエス様は弟子たちを呼んで、イスラエル人に奉仕するように送りました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒す力を与えてくださいました。でも彼らの一番大切な仕事は福音を延べ伝えることでした。

マタイは、その弟子たちの名前をリストアップした時、最後にこう言いました。「イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ12:4)

ちょっと考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病気の人々を癒しました。ユダも福音を延べ伝えました。しかし結局、彼はイエス様を裏切りました。

どうしてユダはいろんな素晴らしいことをしたのに、イエス様を裏切ったでしょうか。その理由は、わかりにくいです。

でもユダは、イエス様の「畑にある毒麦」というたとえ話の例でした。(マタイ13:24-30;36:-42)

実は、毒麦と麦の見かけはとても似ています。だから、農夫は毒麦を引っこ抜こうとするなら、同時にうっかり麦も引っこ抜きます。だから、農夫は収穫まで待ちました。その時、彼は麦と毒麦を分別しました。

その毒麦のように、ユダは信者のように見えました。彼はほかの弟子たちと一緒に勉強しました。また、ほかの弟子たちのように、彼は悪霊を追い出したし、人々を癒したし、福音を延べ伝えました。

でも、彼は決して自分の心をイエス様にささげませんでした。私のただの推測だけど、もしかしたら、自分の益のために、ユダはイエス様を利用しようと思っていました。でも、彼とイエス様のビジョンが全然違うとわかって、イエス様を利用できないとわかったから、イエス様を裏切りました。

現代でも、教会にそんな人がいます。彼らはクリスチャンのように見えます。彼らはクリスチャンのように聞こえます。彼らは奉仕さえするかもしれません。でも、彼らは本当に心をイエス様に捧げていません。

あなたはどうですか。あなたの心をイエス様に捧げていますか。あなたの人生は本当にイエス様の物でしょうか。

もしくは、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。ふりをしないでください。あなたは牧師や、教会のメンバーたちをだますかもしれないけど、神様をだますことができません。そして、裁きの日、あなたは暴露されます。

その毒麦にならないように。あなたの心をイエス様に捧げてください。クリスチャンのふりをしても、あなたの人生は虚しくなるし、あなたは裁かれます。

 

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マタイ9:35-38--収穫を見ること

この個所から、私たちはイエス様のミニストリーに関して学ぶことができます。

1.イエス様は出て行きました。

イエス様は福音を延べ伝えるため、また、病気な人や傷ついた人々に触れて癒すためにいろんなところに行きました。

2.イエス様は見ました。

多くの場合、私たちは人々を見るけど、彼らのことに本当に注目しません。私たちは自分の考えや、自分の計画にのめり込みすぎるので、周りの人々に注目しません。

もしくは、私たちは彼らの見かけに注目します。彼らの見た目や、行動を見るけど、彼らの心の痛みと悲しみに注目しません。でも、イエス様はそのすべてに注目しました。

3.イエス様は彼らを見て、かわいそうに思われました。

イエス様は行って、見ただけではなく、人々を見るとき、彼らをかわいそうに思われました。なぜなら、彼らを縛り付けるサタンの鎖を見たから。また、サタンが彼らを苦しめることを見ました。彼らは弱り果てて倒れている羊のようでした。彼らは迷っていて、命の道をよく知らなかったので、イエス様は悲しみました。

イエス様の弟子として、私たちはイエス様の態度を取るべきです。私たちは教会の外に行って、周りの人々を見て、彼らを憐れむべきです。

イエス様は弟子たちに言いました。

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(37-38)

この個所を読むと、私はいつもある歌を思い出します。

See the fields,
畑を見てください。
Ripe and white as snow,
雪のように、白くなって、刈り入れるばかりになっています。
Up from the seeds of faith we planted long ago.
あれらは昔に蒔いた種から成長しました。

So many the hearts in season,
もう準備できた心がいっぱいあります。
With every prayer they’ve grown.
人々のすべての祈りのおかげで、その種は成長した。
He has made them ready,
神様はその人々の心を整えました。
But we must bring them home.
でも、私たちは彼らを刈り入れなくてはなりません。

Time like a free wind,
時間は風のように
So quickly slips away.
すぐに行ってしまいます。
Too soon today’s tomorrow,
「明日」とは
Too soon a yesterday.
すぐに「昨日」になります。

So little time for the reaping,
刈り入れる時間が少ないけど
And laborers are few,
働き手が少ない。
Lift your heads to the fields of white,
目を上げて畑を見なさい。
The work that we must do.
するべきの仕事を見なさい。

Lord of the Harvest,
収穫の主
Place your fire in me.
私の心にあなたの炎をつけてください。
Servant you need now,
あなたはしもべが必要でしょうか。
Servant I will be.
私はそのしもべになります。

Give me the eyes of your Spirit,
あなたの御霊の目を私に与えてください。
Your heart of compassion to know.
私があなたの憐れみ深い心を知るように。
Lord of the Harvest,
収穫の主。
Show me where to go.
私がどこに行けばいいか教えてください。

Wherever you may lead me, Lord of the Harvest, I’ll go.
収穫の主、あなたがどこに行っても、私はついていきます。

–ポール・スミス、ジェームズ・ニュートン・ハワード

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マタイ13:53-58;マルコ6:1-6--私たちが愛している者が私たちのあかしを拒絶するとき

私は前にも言いましたが、聖書では、イエス様は二回驚きました。一回目は、イエス様は百人隊長の信仰を見て、驚いた時です。(マタイ5:8-13)

二回目のは、この話です。イエス様はもうイスラエル中で有名な人になりました。福音書によればその時、イエス様は二回地元に戻りました。(多分ほかの戻った時もあったけど、聖書では書いてありません)。

とにかく、地元に戻ると、人々はイエス様の奇跡や知恵を認めたけど、イエス様を預言者やメシアとして受け入れることを拒みました。

どうしてでしょうか。たぶん、彼らはずっとイエス様をただの大工として考えたから。それ以前、イエス様は何回も彼らのために食卓や、いろんなものを作ってくれました。その時、彼らは、「ああ、イエス様は素晴らしい預言者だ」とは思いませんでした。彼らにとっては、イエス様はただの大工でした。

おそらく、そのおじいさんたちとおばあさんたちにとっては、イエス様を昔にその近所で遊んだ子供として考えました。その時、イエス様は近所の子供たちと一緒に遊んだし、その家を訪ねて、一緒に食べたりしました。

だから、彼らにはイエス様に教えられるのを想像できませんでした。「この人が、私を教えるなんて。」と思ったかもしれません。だから、イエス様が教えた時、彼らはむっとさしました。

だから、イエス様は彼らに言いました。

預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。(マルコ6:4)

私たちはこの話から何を学ぶことができますか。

1.神様は意外な人を通して話すことができます。でも、私たちが彼らを見下すと、神様の声を見逃すかもしれません。

時々、彼らは若いし、未経験者です。時にあまり教養のない人だったりします。だから私たちは彼らを見下します。でも基本的に、私たちは神様が彼らのことをちょっと軽んじると思うので、私たちも彼らのことを軽んじます。だから、私たちは彼らの言葉を受け入れません。

でも、神様は若い人、年取った人、教育のある人、教育のない人も用いて、私たちに語ることができます。神様はあなたが尊敬する牧師も用いることができるし、あなたがイライラさせられる妹さんや弟さんも用いることができます。もし、彼らが自分の人生を神様にささげて、聖霊様が彼らの中に住んでいるなら、神様は彼らを通して私たちに語ります。

でも、私たちは謙虚な心を持っているでしょうか。私たちは彼らの見かけだけを見ずに、彼らにおられる聖霊様を見ることができますか。

2.時々、以上の理由で、周りの人々はあなたのあかしを拒絶するかもしれません。イエス様にはそんな経験があったので、不完全な私たちが拒絶されるなら、びっくりすることではないでしょう。

私たちには相手の反応がコントロールできません。彼らに無理やりに信じさせることができません。

あなたの責任は、神様があなたに何をくださったか、また、神様が何をしてくださったか教えることです。そして、彼らがあなたのあかしを拒絶するなら、彼らのために祈るべきです。

人々の心を変えられる方は一人しかいないです。それは神様です。

だから拒絶されても、がっかりしないでください。謙虚な態度を取り続けてください。そして、ほかの人と話すとき、神様が話すかどうか見てください。そうすれば、あなたが予想するよりも神様の声が聞こえます。

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マタイ9:27-34--イエス様ができること。イエス様がしないこと。

この個所を見ると、私たちはイエス様が何ができるか、またイエス様が何をしないのか見ることができます。

イエス様は、盲人や口のきけない人を癒すことができます。

でも、イエス様は自分のことを人々に無理やり信じさせません。

イエス様は盲人たちにこう訊きました。

わたしにそんなことができると信じるのか。(28)

彼らは「そうです。主よ。」と答えたら、イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言いました。(29)

つまり、彼らが本当に信じなかったら、彼らは癒されませんでした。

実は、私たちが信仰を持っていなくても、イエス様は私たちを癒すことができます。ある日、相手がイエス様のことよく知らなかったので、その人は全然信仰を持っていませんでした。それでも、イエス様はその人を癒してくださいました。(ヨハネ5:1-15)

でも、多くの場合、イエス様は人々の信仰を要求しました。

この話では、その二人の盲人たちは信じたので、癒されました。

でも、次の話では、イエス様が口のきけない人を癒した時、多くの人々は驚いたけど、パリサイ人たちはまだイエス様を信じないで、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(34)

イエス様がどんな奇跡やしるしを行っても、パリサイ人は信じることを拒みした。

イエス様は彼らの信仰を求めたけど、彼らに無理やり信じさせませんでした。

そのように、イエス様は私たちに無理やり信じさせません。

イエス様は私たちに聖書を与えてくださいました。イエス様は神様があなたの人生にどのように働いたか指摘し、あなたが神様に従う時、その祝福を思い出させます。

でも、私たちは毎日自分自身に訊くべきです。「私は神様を信じるだろうか。私は神様を信じるので、神様の道を行くだろうか。」

そうすれば、神様からの祝福と癒しを見つけます。

そうしないと、パリサイ人のように、あなたは神様の祝福と癒しを決して知りません。

あなたはどうしますか。

 

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マタイ9:18-26;マルコ5:21-43;ルカ8:41-56ーー人々を清める神、人々を復活させる神ーー

旧約聖書を読んでいると、聖いものと汚れたものという話がよく出てきます。

つまり、ユダヤ人たちにとって、触ってもいいものと、触ってはならないものがいっぱいありました。例えば、死骸は汚れたものです。また生理の時に、女性たちも汚れたものでした。もし、その者に触ると、あなたも汚れたものになりました。

前にも言いましたけど、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れたら、イエス様が汚れたものにならなかったことです。むしろ、その汚れたものは聖い者になりました。

この個所では、私たちにはそんなことを見ることができます。

一人は、十二年の間長血をわずらっている女でした。もしかしたら、それは生理的な問題でした。だから、一か月一回だけではなく、その女性はいつも汚れたものとみなされました。彼女はたくさんのお医者さんに診てもらったけど、全然治りませんでした。

だから、彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。なぜなら、彼女はその服に触れば、きっと治ると思ったからです。

どうして、彼女は直にイエス様に頼まなかったでしょうか。多分、彼女は自分の病気で、恥ずかしかったから。彼女が「汚れたもの」とみなされたから、イエス様が彼女を拒絶すると思ったかもしれません。

でも、彼女が治った拍子に、イエス様は訊きました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女は自分の行動を認めるまで、イエス様は待っていました。なぜイエス様は彼女の返事を持っていたでしょうか。多分二つの理由がありました。

一つ目は、彼女が本当に癒された確信を与えたかったことです。つまり、彼女にその病気はもう再発しないことを伝えたかったのです。

二つ目は、イエス様は周りの人々にその癒しについて知らせたかったことです。12年間、彼らはその女性を除け者にしました。でも、彼女が聖いものになったことを伝えたいと思われました。

そのあと、イエス様は会堂管理者のひとりでヤイロという者の家に行きました。なぜなら、彼の娘は死にかけていたから。でも、その家に着く前、ヤイロの家から人が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。」と言いました。

でも、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言いました。

そして、イエス様はその娘のところに行って、愛をもって、こう言いました。「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」

その言葉を言った拍子に、彼女は起きました。

この話から、私たちは何を学ぶことができますか。

私たちの罪によって、私たち皆は「汚れたもの」になりました。あなたは汚すぎて、もうきよめられないと思うかもしれません。神様があなたをもう赦すことができないと思うかもしれません。

あなたの罪のため、もう希望がないと思うかもしれません。あなたの結婚や、家計はダメになったかもしれません。もう将来性もないと思うかもしれません。

でも、その女性を癒した神、また、その女の子を復活させた神はまだ生きているので、あなたを清めて、新しい命を与えることができます。

一つの言葉で、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もし、イエス様に向かって、イエス様とその十字架の働きを信じたら、イエス様はあなたを癒してくださいます。

だから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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マタイ8:28-34;マルコ5:1-20;ルカ8:26-39ーー解放された

これは本当に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に着きます。そのとき、彼らは二人の悪霊につかれた人に出会います。(マルコとルカは一人だけについて話すけど、私はどうしてか分かりません。もしかしたら、一人だけがイエス様を信じたかもしれないけど、それはただの推測です。)

多分、イエス様と弟子たちが浜辺へこぎ寄せた拍子に、彼らは変な叫びを聞きました。そして、急に裸の二人の男性たちは走り近づきました。多分、彼らには腕と足に壊れた鎖をつけています。そして、弟子たちが彼らを注意深く見ると、その二人のたくさんの傷に気づきます。なぜなら、その二人は、何回も自分自身を傷つけたから。

あなたがその二人を見たら、どう感じたでしょうか。多分私はとても恐れたでしょう。

でも、イエス様は冷静に、悪霊たちがその二人から去るように命令します。

最初は、その悪霊たちは去らずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

しかし、イエス様がもう一度「出て行け」と言ったから、その悪霊たちはイエス様に頼みます。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様は「行け」と言ったので、その悪霊たちはその豚に入って、その豚は湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死にました。

その二人は解放されたけど、町中の人たちがその二人を見ると、町中の人たちは喜ばずに、逆に恐れました。

だから、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」、と願いました。

私たちはこの話から何を学ぶことができますか。

一つ目は、悪霊は存在することです。そして、悪霊は本当に危ないです。ある人々はタロットカードやウィジャ板を使って、「これはただの遊び」と思います。でも、そのものを使ったら、私たちは悪霊の影響を受けやすいです。

ある牧師はこう言いました。悪霊の世界に導くドアがあるけど、そのドアに一つの取っ手しかありません。私たちだけがそのドアを開けることができます。でも、そのドアを開けたら、悪霊は私たちの人生に入ることができます。

タロットカートや、ウィジャ板や、占い師などはそんなドアです。

さらに、その悪霊は私たちの益を望みません。時々、彼らは光の天使に変装するけど、実は、彼らは私たちを滅ぼしたがります。今日の箇所では、悪霊がその二人の人々、またその豚をどのように扱ったか見てください。それは悪霊の意図を現します。タロットカートや、ウィジャ板や、占いは楽しそうかもしれないけど、悪霊はそのもの裏だし、あなたを滅ぼしたがります。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がありません。彼らは力があるけど、イエス様は彼らよりも力強いから。また、悪霊に対して、イエス様は権威を持っています。

それでも、オカルトから逃げてください。いつか、イエス様と弟子たちのようにあなたは悪霊と向き合うかもしれないけど、悪霊を求めないでください。

でも、この話からもう一つのことを学ぶことができます。

最初は、罪は楽しそうかもしれないけど、最終的にその罪はあなたを治めてしまいます。

どうして悪霊がその二人に入ったから分からないけど、確かに彼らは神様を求めていませんでした。そして、悪霊にドアを開けたら、その悪霊が彼らに入ってしまって、その二人はもう自分自身をコントロールことができません。悪霊たちは彼らをコントロールし始めました。

そのように、最初は私たちは罪を選ぶかもしれないけど、結局その罪は私たちを治めます。そしてこの話のように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。神様が私たちに恵みを与えずに、私たちが決して悔い改めないと、私たちは最終的に滅びます。

でも、イエス様は私たちを解放する力があります。もし、私たちが悔い改めたら、イエス様は私たちを赦して、私たちが罪を克服するように助けてくださいます。

しかし、ある人々は私たちの変化を見ると、嬉しくないかもしれません。

この話では、町中の人たちは嬉しくありませんでした。だから、彼らはイエス様が立ち去るように願いました。

その悪霊につかれた人たちは怖かったけど、町中人たちは彼らが解放されなかったら、良かったと思ったみたいです。

あなたの周りの人々はあなた変化を見ると、そのように感じるかもしれない。

でも、イエス様は私たちを彼らに送ります。イエス様は彼らに言ったように、私たちにもこう言います。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにどんなことをしてくださったかを周りの人々に伝えませんか。そうすれば、彼らも解放されるかもしれません。

 

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マタイ8:23-37;マルコ4:35-41;ルカ8:22-25ーー私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら良いのにと思います。私が自分の状況をコントロールできないとき(実は、コントロールできる時って本当にあるでしょうか?)、私はパニックにならず、イエス様に信頼した方が良いでしょう。私は信仰を持って、イエス様が私を愛して、私のニーズに備えてくださることを信じた方が良いでしょう。

イエス様、何回も私はあなたを信頼しません。何回も、恐れや心配が私を治めます。赦してください。

あなたが私を愛してくださるのに、どうして私は自分の状況を恐れるでしょうか。

私を変えてください。私があなたに信頼するように助けてください。あなたの完全の愛が私の心から恐れと心配を追い出すように。アーメン。

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マタイ13:51-52--私たちが知っていることを教えること

「あなたがもらったものをどうしましたか。」

裁きの日に、神様が私たちにその質問を訊くと思います。この個所では、イエス様が同じ質問を弟子たちに訊いたと思います。

イエス様は彼らにこう訊きました。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。(50)

彼らが「はい」と答えると、イエス様はこう言いました。

だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。(52)

この個所から私たちが二つのことが学ぶことができると思います。

1.神の国に関する知識は宝のようです。(ギリシャ語で、「倉」という言葉は、「宝」という意味もあります。マタイ13:44では、その同じ言葉は新改訳で「宝」と翻訳されます。)

だから、私たちはその知識を軽んじたらだめです。

2.私たちが問題に直面するとき、また、周りの人々が問題に直面するとき、私たちはその宝を出すべきです。

私たちは神の国に関する知識をもって、宝を持っています。

例えば、神様は人々をすばらしい値うちの真珠とみなします。だからイエス様は、すべてを捨てて、十字架で私たちを買いました。

また、私たちが見る悪は永遠に続かないと知っています。ある日、その悪は取り除かれて、裁かれます。

また、今でも、神様はこの世に働いています。そして今、神様が蒔いた種は、小さいかもしれないけど、私たちがその過程がわからなくても、その種は成長します。サタンでも、その成長を止めることができません。

そして、その木(つまり、神の国)の下に私たちは平和と喜びを見つけます。

でも、神様はこの世に働くだけではなく、私たちの人生にも働いています。

あなたがその宝を出すと、始めて聞く人もいるし、何回も聞いたことある人もいます。

でも、この世の人々を見ると、その宝をすぐに出しましょう。なぜなら、多くの人々は愛や、希望や、人生の目的にあこがれるから。そして、私たちが持っている宝だけは、その飢えに満たすことができます。

さらに、ある日、神様はあなたに訊きます。「私はあなたに素晴らしい宝を与えたけど、どうしましたか。周りの苦しんでいた人々に与えましたか。」

あなたはどう答えるでしょうか。

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マタイ13:47-50ーー迫っている裁き

福音では、イエス様は天国について話したけど、イエスは天国についてよりも地獄について教えました。この個所では、イエス様は迫っている裁きについて話します。

以前にも言いましたが、この世の悪を見ると、私たちはよくフラストレーションを感じて、どうして神様が何もしないか疑問に思います。

でも、この個所では、イエス様はその日がきっと来ると言います。すべての人々は、死んだ者の魂でも、まだ生きている者でも、神様の前に立って、裁かれます。

その日、神様は悪者と正しい者を分別します。正しい者は報いをもらって、永遠に神様と一緒にいます。でも、悪者に関して、イエス様はこう言います。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(49:50)

どうして、イエス様はこのことを教えましたか。一つの理由は、私たちに希望を与えるためです。つまり、この世の悪は永遠に続かないことです。この邪な世界で、私たちにはそんな希望が必要だと思います。

でも、二つ目の理由は私たちを警告するためです。つまり、神様の忍耐は永遠に続かないことです。

神様は誰も滅びるように望まないけど、彼らがあえて神様とその福音を拒絶したら、神様は彼らの願いを果たします。つまり、彼らは永遠に神様から離れて生きます。

しかし、その日が来ると、彼らは神様から離れた存在が惨めな人生だと悟ります。だから、彼らは永遠に絶望して苦しみます。

多くの人々は神様が彼らの喜びを盗もうとしていると思うので、神様から逃げます。でも、事実は、神様から離れていると、喜びが全然ありません。

だから、この邪な世界を見ると、覚えていてください。裁きの日が迫っています。あなたはもう準備したでしょうか。つまり、信仰によって神様の救いを受け入れましたか。

もし、あなたはもう準備したら、自分自身にこう訊いてください。「私が愛している人々は準備しているだろうか。」

彼が準備していないなら、どうしても、彼らに福音を伝えてください。

地獄は現実です。イエス様はそう教えました。あなたは信じているでしょうか。あなたは信じているので、福音をあなたが愛している人々に伝えているでしょうか。

 

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マタイ13:44-46--救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいた時、木の下で埋coins-2-way_2834423bまっていた缶を見つけました。それは、ただのごみみたいだったけど、注深く見ると、缶に入ったものは古い金貨でした。その金貨は1800年代のものでした。そして、彼らが庭でさらに探してみると、金貨が入った缶をいくつか見つけました。その金貨の価値は10億万円ぐらいでした。私もそんな宝物を見つけたらいいのにねえ。

この個所では、イエス様のたとえ話は上記の話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性は畑に隠された宝を見つけました。でも、その畑が自分のものではなかったので、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物を全部売り払って、その畑を買いました。

二つ目の話では、商人は真珠を探していて、良いのを見つけました。でも、その真珠はとても高かったので、彼は自分の持ち物を全部売り払って、その真珠を買いました。

その二つの話を読むとき、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、宝を見つけた人の喜びです。二つ目は、その人がどうしても、その宝物を買おうと思ったことです。

多くの人々はこの話を読むとき、キリストを見つける人の喜びを考えます。イエス様との関係がすごい価値があるので、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる気があります。彼らはイエス様に従うのに、自分の家や、家族や、持ち物を捨てます。(マルコ10:29)

それはちょっと痛いかもしれないけど、彼の喜びはその苦しみよりも優れたものです。

でもこの話では、もう一つの解釈があります。つまり、私たちは宝ものです。私たちは真珠です。そして、イエス様は探している人です。

私たちは自分の罪のため、迷ったし、霊的に死んだものでした。でも、イエス様が私たちを探していて見つけた時、イエス様は喜びを持って、すべてを売り払って、私たちを買いました。イエス様は天国を去って、自分の栄光を天国に残して、人間になりました。

この世にいる間に、お腹がすいたときもあったし、喉が渇いたときもあったし、疲れた時もあったし、痛んだ時もありました。そして、イエス様は十字架で、苦しくて死んでしまいました。

どうしてでしょうか。イエス様にとって、私たちがすばらしい値うちの真珠だから。私たちは埋まった宝物です。私たちは汚いし、錆びたけど、イエス様の目では、私たちには高い価値があったから。だから、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買いました。

それでは、私たちはどのように反応しましょうか。

パウロはこう言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だから毎日、私たちを愛している救い主をほめたたえましょう。

 

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マタイ13:34-35; マルコ4:33-34–良い先生の特質

私は20年間以上英語を教えてきたし、多分30年間ぐらい聖書を教えてきました。

でも、私にイエス様の教える技術レベルに決して達成できないと思います。イエス様は本当に最も熟練した先生でした。

どうして、イエス様はそんなに素晴らしい先生でしたか。彼の教え方は素晴らしかったから。イエス様はどのように教えたでしょうか。

この個所によれば、イエス様はいつもたとえ話を用いました。どうして、たとえ話を用いたでしょうか。

前にも言ったけど、たとえ話を通して、イエス様は誰が本当に学びたがったか区別できましたから。学びたい人たちは、いつも質問を訊きました。訊かない人たちは、その話を楽しんだかもしれないけど、その話の意味が分かりませんでした。

でもイエス様に訊く人にとっては、その話は分かりやすくなったし、覚えやすかったのでした。

それは、良い先生の特質の一つです。彼らが霊的な真実を説明するとき、だれでもその真理が理解できるようになります。

ある先生は、自分の教育や、霊的な知識によって会衆を感動させたがるので、誰も分からない術語を用います。もしくは、彼らは会衆がすぐに忘れてしまうギリシャ語やヘブル語を紹介します。

会衆は感激して、「それは深いメッセージだったね。本当に学問的なメッセージだったね。」というかもしれないけど、結局彼らはこう言います。「いったいどんな話だったんだろうか。その意味はよく分からなかった。」

でも、イエス様がシンプルな言葉を用いたので、誰にも理解できました。

だから、そのたとえ話とシンプルな言葉のため、その会衆はイエス様の教えにのめり込みました。会衆にとっては、つまらない話をずっと聞くのは本当に最悪なことです。イエス様はそんな話を全然しませんでした。

イエス様は会衆のレベルがよくわかりました。マルコによれば、イエス様は、「彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。」(マルコ4:33)

要するに、イエス様は彼らが理解できないことを教えませんでした。

へブル人への手紙の著者は、赤ちゃんに堅い食べ物をあげるのはだめだ、と言いました。その赤ちゃんが固い食べ物が食べられるまで、彼らにミルクをあげなくてはなりません。彼らがもうちょっと成長したら、固い食べ物をあげてもいいです。(へブル5:11-14)

最後のポイントだけど、イエス様は弟子たちの質問に答えてくださいました。マルコはイエス様に関して、こう言いました。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(4:34)

普通は、イエス様は弟子たちの質問を待ちました。そして、イエス様はその質問に答えてくださいました。

イエス様と違って、私たちにはいつも答えがないかもしれません。でも、その質問を通して、私たちはもっと勉強し、先生として成長します。

あなたは教会の先生じゃないかもしれません。でも、私たち皆は教える機会があります。私たちの子供を教える機会があるし、私たちのもとに神様に導かれた人を教える機会があります。

だから、イエス様のような先生になるように努力しましょう。

 

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マタイ13:33;ルカ13:20-21--変えられた

私はパン屋ではないけど、多分だれでも、この個所のたとえ話を理解できると思います。もう一度、イエス様は神の国について話しています。

パン職人はパンを焼くとき、その生地にパン種を入れます。そのパン種は何をするでしょうか。最初に、そのパン種は生地に広がります。そして、そのパン種は生地を変えます。パン種が入らないと、そのパンは平たくて、固いものになります。でも、そのパン種のおかげでそのパンはふわふわになって、おいしくなります。

神の国はそのようなものです。

まずは、私たちは福音の種を人々の心に蒔きます。そして、ある人々は信仰によって、福音を受け入れます。その福音は彼らの魂に広まりつつあって、最終的に彼らは全く新しい人になります。

彼らの考え方が変わるし、その行為も変わるし、彼らのすべては新しくなります。

だからパウロはこう言いました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (第二コリント5:17)

神の国はそのようなものです。

私たちはこの世界を政治的な方法を通して変えられません。新しい律法によって、この世界は変わりません。誤解しないでください。もちろん、民主的な社会で、私たちは自分の権利を行使して、変化のために戦うべきです。

でも、新しい律法によって、私たちが人々の心を変えると思ったら、私たちは自分自身をだましてしまいます。

同性愛に反対する新しい律法があっても、そんな振る舞いは止まりません。中絶に反対する新しい律法があっても、中絶する人もいます。

神様の国はたちまちこの世に現れません。聖霊様は人々を一人ずつ変えます。まず、聖霊様は私たちの心を変えてくださいます。そして、私たちを通して、聖霊様はほかの人々に触れて変えます。そして、だんだん神様の国は広まって、国々が変わり始めます。

だから、私たちは自分自身にこう聞くべきです。私たちは福音をもって、何をしているでしょうか。あなたがその福音を受け入れて、あなたの人生は変えられているでしょうか。そして、あなたは周りの人々にその福音を延べ伝えているでしょうか。そうすれば、聖霊様は彼らの心にも働き始めます。

だから毎日祈りましょう。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

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マタイ13:31-32;マルコ4:30-32;ルカ13:-18-19--小さいものから始まること

私は、イエス様が自分の説教で用いた生き生きとした描写が大好きです。

この話では、イエス様は神様の国をからし種と比べます。その種はとても小さいものだけど、大きい木になるので、鳥はその枝に巣を作ります。

イエス様の要点は何でしょうか。たいていは、神様の国は最初から大きなものとして始まりません。逆に、小さいものとして始まります。

特に、多くの場合、神様は自分の国を建てるために、取るに足りない人々を選びます。

例えば、マリヤは貧しい十代の女性でした。ヨセフはただの大工でした。

そして、イエス様が来た時、大きい軍隊を導く王として来ませんでした。父ヨセフのようにイエス様は大工でした。

イエス様は弟子たちを選んだ時、漁師や、ローマ帝国と協力した収税人や、ローマ帝国を憎んだ愛国者を選びました。

キリスト教が始まったとき、割と取るに足りない都市で始まりました。世界では、エルサレムよりも主要な都市があったけど、神様はエルサレムを選びました。

でも、その取るに足りない都市から、クリスチャンたちは世界中に行って、福音を延べ伝えました。

私たちにはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたが取るに足りない人だと思うかもしれません。神様が天の国のためにあなたを用いることができないと思うかもしれません。でも、世界の目ではあなたが取るに足りないので、神様は喜んであなたを用います。神様の国には、たくさんの「取るに足りない人」がいます。

でもあなたのような人を通して、神様の国は広まって、この世の人々に触れます。

パウロはこう言いました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26-29)

神様の目には、あなたが取るに足りない人だと思わないでください。小さいものを通して、神様の大仕事は達成されるから。

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マタイ13:24-30,36-43--どうして悪があるの?

多くの人々は、どうして神様がこの世に悪を許すか、疑問に思います。

このたとえ話では、イエス様は一つの理由を与えてくださいます。

私たちがわからなくてはならないのは、神様がこの世の悪の源ではないのです。神様は聖なる方です。神様は決して悪いことをしません。神様は良い種だけを蒔きます。

でも、私たちには敵がいます。サタンも人々の心に種を蒔きます。その種が人々の心に毒麦になって、その人々は周りの人々を傷つけるし、いろんな被害を起こします。

イエス様は彼らを引っこ抜くことができるけど、そうすれば、神様が救いたい人に悪い意味でかかわります。

どうしてでしょうか。私はちょっとわかりません。でも、例えば、ある人々は神様に関して、本当に無関心です。時々、苦難がないと、彼らは決して神様に向かいません。それは天災かもしれません。もしかして、犯罪によって、彼らは本当に傷つくかもしれません。でも、その苦しみを通して、彼らは神様に向かって、救われます。でも、その苦しみがなければ、神様はその人が決して救われないとご存知です。だから、神様はその毒麦が残ることを許します。

簡単に言うと、神様には、私たちに見えないことが見えます。神様は私たちが知らないことをよくご存じです。

でも、覚えていてください。裁きの日がきっと来ます。人を殺す人のために裁きが来ます。女性をレイプする人のために裁きが来ます。神様に反抗する人のために裁きが来ます。その日、すべての人々は、神様に仕える人と神様を拒絶する人の違いがよく分かります。

だからこの邪な世界を見ると、絶望しないでください。裁きの日を待ち望んでください。その日は、正義が来ます。そして、すべての人々は神様の知恵と正義が分かります。

 

 

 

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マルコ4:26-29--国の種

このたとえ話には、前回のたとえ話と大体同じ意味がある思います。前にも言いましたが、私たちは神様の言葉を人々の心に蒔くかもしれないけど、神様だけが、その種を成長させることができます。

例えば、私たちが福音を伝えるとき、相手は無関心かもしれません。または、彼らは本当に怒るかもしれないです。でも私たちが意識しなくても、その種は根を張っています。

私たちの力がなくても、神様は聖霊様を通して、相手の心の中に働き始めます。神様は状況やほかの人々を用いて、その人を近づけてくださいます。そして、いつの間にか、その人はあなたのところにきて、微笑んで言います。「イエス様のことを教えてくれて、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、私はクリスチャンになりました。」

でも、このたとえ話はまた別の解釈ができると思います。

時々、私たちはこの世を見て、フラストレーションを感じます。「神様の国は本当に来るだろうか。そう見えないなあ。この世界はだんだん悪くなりつつあるから。」

でも、このたとえ話では、私たちはいくつかのことを見ることができます。

イエス様とその弟子たちを通して、神の国の種はもう蒔かれました。今なお、人々の心にたくさんの種が蒔かれています。そして、その種は成長しています。

でも多くの場合、私たちは全然気づきません。でも、私たちが振り返ると、どれだけその福音の種が成長したか分かるようになります。

イエス様が天国に戻って以来、どれだけ福音が広まったか考えてください。一つの都市から、世界中に広まりました。今なお、その福音は広まっています。

そして、神様の国が克服するのは確かなものです。だれも、その成長を止めることができません。ソ連はそう学びました。福音を滅ぼそうと思ったほかの国々も、そう学びました。

だから、最終的に神様の国が来て、すべての人々はその国を見ます。その日、イエス様は、すべてを治めます。そして裁きの日に、イエス様に従う人は報いを受けるし、自分の道を行く人々は滅びます。

だから、私たちはどうすればいいでしょうか。

1.希望を持って、待つべきです。周りの悪を見ると、失望するのは簡単なことです。でも、勇気を持ってください。神様の国は来ています。今でも、その国は成長しているし、だれもその国の成長を止められません。だから、フラストレーションを感じても苦しみを経験しても、待ち望んでください。この邪な世界はいつまでも続きません。そして、裁きの日には、あなたは報いをきっと受けます。

2.ちゃんと準備していてください。いつイエス様が戻るかわからないけど、その日まで、私たちは天の父の用をしなくてはなりません。いつイエス様が戻るのはあまり大切ではありません。大切なのは、イエス様が戻るとき、私たちがちゃんと準備していることです。

あなたはどうですか。あなたは準備しているでしょうか。

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-20;ルカ8:1-15--種を蒔くこと

前回、この個所について話したけど、今日、同じ個所からもう一つのことについて話したいと思います。

この話を見ると、私は農夫がイエス様だとよく思います。それはそうかもしれないけど、イエス様は農夫について話したとき、私たちについて考えたかもしれない。イエス様がこの世におられる時間は、かなり短いものでした。もちろんその時、イエス様は神様の御言葉を人々の心に蒔いたけど、今、私たちが種を蒔く人たちです。

だからこのたとえ話から、本当に大事なことを学ばなくてはならないと思います。

時々、私たちが神様の御言葉を蒔くとき、その種は固い心に落ちます。相手がその言葉を聞いてもわからないので、サタンはその言葉を取ってしまいます。

ほかの人々がその言葉を聞いて、喜んで受け入れ、自分の信仰を宣言するので、私たちはとても嬉しくなります。でも、困難や迫害が来ると、彼らはすぐにその信仰を捨ててしまいます。

またある人は、その言葉を信じて、クリスチャンとして成長し始めます。でも、彼らの仕事は彼らの神様との関係を塞いでしまいます。もしかして彼らは、お金や、持ち物を考えすぎます。彼らは教会に行くかもしれないけど、もう成長しません。また、彼らは霊的な実を結びません。

でもある人は、その言葉を聞いたとき、神様の国のために、たくさんの実を結び始めます。

私のポイントは何でしょうか。その結果は私たちの責任ではありません。私たちは相手の心を形成できません。では、私たちにできるのは何ですか。

種を蒔くことができます。また、水を注げます。そして、祈れます。パウロはこう言いました。「植える人もいるし、水を注ぐ人もいるけど、成長させたのは神です。」(第一コリント3:6-7)

あなたの蒔いた種が成長しないし、実を結ぶないため、あなたはがっかりしたことがあるでしょうか。あなたには、その結果がコントロールすることができません。

あなたにできるのは、種を蒔いて、水を注ぐことです。そのあと、その人を神様に任せるしかありません。

あなたはどうですか。その種を周りの人々に蒔いているでしょうか。

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-20;ルカ8:1-15--私たちの心の状態

以前、イエス様はいろんなたとえを用いましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫はたくさんの種をあっちこっちに蒔きました。たぶん、もっと効率的な方法があったけど、その時代、農夫たちはそのように種を蒔きました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人です。でもあいにく、その人はその言葉がわからないし、その言葉を理解しようと全然思いませんでした。

私は前にも言いましたが、たとえ話によって、本当に学びたいと思った人とエンターテインメントを望む人とは区別されました。イエス様の弟子たちのような人々は学びたがったので、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。ほかの人々はわからないままで帰りました。彼らは、イエス様の話を聞くのを楽しんだかもしれないけど、そのたとえ話の意味を理解しなかったし、理解しようと思いませんでした。だから、サタンがその言葉を取って、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

ほかの種は岩地に落ちました。岩地というのは、石灰岩の上に土の薄いところです。その土は薄かったので、すぐに生えたけど、日が上がると、根がないためにすぐに枯れました。こういう人は、「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受けます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったでしょうか。たぶんそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったから。もしかすると、彼らには感情的な経験だけがありました。でも、その感情がなくなったら、またその「信仰」のために迫害が来たとき、彼らはすぐにキリストに背を向けました。

ほかの種は、いばらの中に落ちました。でも「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。 」(マルコ4:7)

そういう人は、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。 」(4:19)

多くのクリスチャンは、そのように生きます。彼らはこの世を愛しすぎるので、彼らのイエス様に対する愛を忘れてしまいます。

最後に、ある種は、良い地に落ちたから、たくさんの実を結びました。そんな人は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、ずっと覚えています。だから、彼らは神様の国のためにたくさんの実を結びます。

あなたはどんな心を持っているでしょうか。

あなたは神様の言葉がわからないとき、その言葉を置いておくだけでしょうか。もしくは、その意味を求めるでしょうか。あなたは誰かに尋ねるでしょうか。私たちは質問するときに、成長します。でも、私たちが決して聞かないと、私たちは全然成長しません。そしてサタンは神様が蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、感情的な経験だけを求めているでしょうか。感情は行ったり来たりします。もしあなたの感情に基づいて、信仰を建てようと思うなら、その信仰はすぐに崩れます。むしろ、あなたの信仰をイエス様とそのみ言葉に基づいて建てなくてはなりません。

あなたは、毎日何を求めているでしょうか。すべてよりも、神様を求めているでしょうか。もしくは、お金や、快楽や、持ち物を求めているので、もう神様のために時間がないでしょうか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めていないでしょうか。

もしくは、あなたは、神様のみ言葉を聞いて、理解しようと思うでしょうか。その言葉を受け入れ、信じ、覚えているので、実を結んでいるでしょうか。

あなたの心の状態はどうでしょうか。

 

 

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-25;ルカ8:1-18--聞く目、見る目

イエス様の口癖の一つは、「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。

福音書では、イエス様はそう言ったし、黙示録でも、そう言いました。

でも、イエス様が意味したものは何でしたか。

ある日、イエス様がたとえ話で話したあと、弟子たちは「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」と訊きました。

イエス様はこう答えました。

あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:11-15)

「あなた方に天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」という言葉は、ちょっと不公平みたいかもしれません。どうして、イエス様はそんなことを言ったでしょうか。

ちょっと考えてみてください。

だれにも、イエス様のたとえ話を聞くことができました。そして、そのたとえ話の意味はちょっと漠然としていたかもしれなかったけど、イエス様は、いつかその意味が現れるように意図しました。結局、そのたとえ話は真理を照らします。

イエス様はこう言いました。

隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。(ルカ8:17)

だから、弟子たちがイエス様のたとえ話の意味を求めると、イエス様は説明してくださいました。そして、最終的に彼らは、教会の人々にその意味を説明しました。

でも、すべての人々は、真理を本当に知りたがるでしょうか。彼らは答えを求めているでしょうか。

もしくは、彼らはエンターテインメントだけを求めているでしょうか。

イエス様のたとえ話は、神様の真理を求める人とエンターテインメントを求める人を区別しました。

現代の教会の問題は、多くの人々が神様の真理を求めるよりも、エンターテインメントを求めていることです。

だから、彼らは歌を歌うかもしれないし、牧師のメッセージを聞くかもしれないけど、その言葉は彼らの心を貫きません。そして万が一、心を貫く言葉が来て、違和感を感じるなら、彼らは聞くことを止めて、別のことについて考え始めます。

あいにく、彼らがそうし続けるなら、結局彼らは神様の声が聞こえなくなります。彼らの上に、マタイが引用したイザヤの預言は実現します。彼らは見るけど、本当に見えません。彼らは聞くけど、本当に聞きません。むしろ、彼らは自分の目と耳を神様の真理に閉じます。

だからイエス様は私たちに警告します。「神様の真理を聞くとき、あなたの聞き方に注意しなさい。その言葉にちゃんと思いを巡らしなさい。もし、その言葉をちゃんと聞いて、その言葉に従うなら、神様はもっと教えてくださいます。でも、そうしないと、あなたが学んだことを忘れるし、結局神様はもうあなたに話しかけません。(マルコ4:24;ルカ8:18)

でも、イエス様は弟子たちにこう言いました。

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17)

あなたはどうですか。あなたには見る目と聞く耳があるでしょうか。

 

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ルカ11:27-28--祝福を得るため

私たち皆は神様の祝福を知りたいものです。でも、どのようにその祝福を得られるでしょうか。

イエス様が群衆に話したとき、ある女性はこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(27)

でも、イエス様はこう答えました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて話すのが好きです。

もちろん、神様の恵みがないなら、だれも神様の恵みを受けられません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないから。

しかし、神様の祝福を受ける鍵は、信仰を持つ従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれないけど、従順な心を持たないなら、その言葉は無意味です。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、神様の言葉に従います。

だから、一番大切な質問は、「あなたは神様に本当に信頼しているでしょうか」ということです。あなたがその言葉に従うなら、祝福されると信じますか。

例えば、結婚する日まで、彼か彼女と寝ないなら、あなたの結婚はもっと祝福されると信じるでしょうか。

あなたが献金をささげるなら、あなたの経済が悪くなることはなく、祝福されると信じるでしょうか。

あなたが主に従うように、自分の夫に従うなら、または、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたが自分の妻を愛するなら、あなたの結婚が祝福されると信じるでしょうか。

もしくは、あなたはその言葉が理想的すぎると思うでしょうか。

もし、本当の祝福を見つけたいなら、神様に信頼することを学ばなくてはなりません。あなたは神様の道が一番良いと信じなくてはなりません。

そして、その言葉に従わなくてはなりません。

それは簡単でしょうか。そうではありません。でも覚えていていください。神様の恵みによって、私たちは神様を信じ始めました。そのように、神様の恵みによって、私たちは神様の言葉に従う力を持っています。

私たちが神様に頼みさえすれば、神様は私たちにその力を与えてくださいます。イエス様はこう言いました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

あなたはどうですか。あなたは神様に信頼して、従うでしょうか。

 

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マタイ12:38-45;ルカ11:24-36--私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人がイエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出す、と言っていたので、イエス様は彼らの不信を責めました。だから、彼らはイエス様からしるしを求めました。でも、イエス様がしるしを示しても、たぶん彼らはまだ信じなかったでしょう。だからイエス様は断りました。

どうして私は、彼らがしるしを見ても信じなかったでしょうと思うでしょうか。なぜなら、イエス様は彼らにヨナをしるしを与えたから。

つまり、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出たことです。でも、イエス様がよみがえられたとき、パリサイ人たちは、まだイエス様のことを信じませんでした。

だからイエス様は、もう一度彼らの固い心を責めました。つまり、イエス様は、ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)がいつか彼らを裁くと言いました。なぜなら、彼らはヨナとソロモン王のメッセージを聞いたとき、悔い改めたから。でも、イエス様がソロモンとヨナよりも優れた方なのに、パリサイ人はあえて信じませんでした。

だから、イエス様は彼らに例えを伝えました。そのたとえを通して、イエス様は、彼らがイエス様を信じない結果、また、聖霊を拒絶する結果を教えました。

イエス様はこの世に来た時、地獄の力を克服しました。例えば、その時、イエス様はたくさんの悪霊を人々から追い出しました。でも、イエス様はイスラエル人とパリサイ人に警告しました。

「私が悪霊を追い出すし、地獄の力を克服するし、私の賜物、つまり、御霊を与えるのに、もし、あなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻るので、あなたの状態は前よりも悪くなります。」

どうしてでしょうか。なぜなら、あなたが神様の力を味わって、あなたを救うことができる方に触れられたのに、あなたはその方を拒絶したから。

そして、イエス様は山上の垂訓のたとえを繰り返します。それは、体のあかりが、あなたの目であることです。もちろん、それは物理的な真理です。でも物理的な真理だけではなく、それは霊的な真理です。

イエス様は私たちにこう訊いています。「あなたは何を見ているでしょうか。神様が話すときに、その真理が見えるでしょうか。私を見るとき、私がだれか分かるでしょうか。」

私たちがちゃんと見ることができるなら、私たちの人生は光で満ちます。でも、ちゃんと見えないなら、私たちの人生は暗闇で満ちます。だから、イエス様は私たちに警告します。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうですか。あなたは、イエス様をあなたの主と救い主として受け入れているでしょうか。御霊をあなたの人生に歓迎しているでしょうか。

もしあなたの心を神様に固くするなら、あなたはサタンの破壊的な働きを受けやすいです。

でも、あなたがあなたの心を御霊に開いたら、命を見つけます。

もしそれをしたいなら、この祈りを祈っていください。

イエス様、あなたが神であることを信じます。あなたが私の罪のために死んで、よみがえられたことを信じます。私の罪を赦してください。私の主になってください。聖霊様、私を満たしてください。私の人生をあなたの光で満たしてください。そして、周りの人々には私を通してその光が見えるように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書12:33-37–私たちの口から出る言葉

私は汚い言葉を聞くとき、本当に気になります。特に、クリスチャンが汚い言葉を使う時、私は気になります。なぜなら、私たちの心は、心の内容を表現するから。

パリサイ人が「イエス様が悪霊につかれている」と言ったとき、イエス様は、こう答えました。

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:33-37)

つまり、彼らの堕落した言葉は、彼らの堕落した心を現わしました。

だから、イエス様は私たちの無駄言葉でも、裁かれると言いました。私たちの言葉は心の状態を現わすから。

私たちの心が良い実で満ちているなら、良い言葉は私たちの口から流れます。

でも、私たちの心が腐っているもので満ちているなら、腐っている言葉が私たちの口から流れます。

だから、あなたの口から腐っている言葉が出るなら、びっくりしないでください。

その言葉はあなたの心を現すから。そして、もし、そんな腐っているものが入っていたら、自分の心を探り、悔い改めなくてはなりません。

苦々しい心を持っているなら、苦々しい言葉が口から出ます。汚れている心を持っているなら、汚い言葉が出ます。

あなたの心には、何が入っているでしょうか。あなたの口から、何が出ているでしょうか。

 

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マタイ12:22-32;マルコ3:22-30;ルカ11:17-23–自分の心を固くする危険性

この個所では、イエス様はもう一度パリサイ人たちに出くわします。その時、目も見えず、口もきけない人がイエス様のところに連れて来られました。この場合、その原因は悪霊でした。だから、イエスがその悪霊を追い出したあと、その人は目が見えるようになり、話せるようになりました。

周りの人々は驚いたけど、パリサイ人は、その奇跡がベルゼブル(つまり、サタン)の力によって行われたと言いました。

ところで、パリサイ人は決して、イエス様の奇跡を否定しませんでした。イエス様の力がどこから来たか疑っただけです。

現代の人々だけがイエス様が奇跡を行ったかどうか疑います。なぜなら、2000年前に起こったことは、疑いやすいから。でも、目の前の起こったことは、もっと否定しにくいです。それはパリサイ人たちの問題でした。彼らはイエス様のことが嫌いだったけど、イエス様の奇跡を否定できませんでした。

パリサイ人の態度は私の要点を描写します。私は前にも言ったんですけれども、何を見ても、あえて信じない人もいます。彼らは信じられないというわけではありません。むしろ、彼らは信じたくありません。だから、彼らは自分の心を固くして、神様の存在を否定するように、できるだけ神様の御業をごまかします。

だから、パリサイ人は、イエス様が汚れた霊につかれているし、サタンの力によって悪霊を追い出すと言いました。

でも、イエス様は、彼らに二つのことを言いました。

一つ目は、サタンが自分自身に戦うなら、サタンの国は立ち行くことができないということです。

二つ目は、イエス様がその悪霊を追い出したので、イエス様がサタンの味方ではないことを証明したことです。イエス様がサタンの国を攻撃したので、その悪霊は逃げたし、イエス様はサタンを縛って、人々を自由にしました。

そして、イエス様はパリサイ人たちに警告します。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)

マルコはイエス様の言葉を解釈しました。

このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコ3:30)

つまり、パリサイ人は自分の心をあまりにも固くしたので、神様が何をしていたかもう分らなくなりました。それに、彼らは神様の御業がサタンから来たと言いました。

それは自分の心を固くする危険性です。長くそうすれば、最終的にあなたは聖霊の声が聞こえないし、神様の御業を見ても、認識できなくなります。あなたがそのようになってしまったら、あなたには、もう救いの希望がないです。だから、イエス様は、その態度を「赦されられない罪」と呼びました。彼らの心が固すぎたので、彼らには救いの希望がなくなったからです。

モーセの時代、パロもその罪を犯しました。だから彼は滅びました。

いつ人はそのところに至るでしょうか。神様だけがご存知です。ある人々の心が固すぎるように見えるかもしれないけど、結局彼らは救われるかもしれない。使徒パウロはそういう例です。

時々、クリスチャンは「私は赦されられない罪を犯したかなあ」と心配します。でも、あなたが心配しているなら、たぶんその罪を犯していません。もし、自分の罪が分かって、神様に対いして柔らかい心をもって悔い改めたら、心配しなくていいと思います。

自分の心を固くする人たちだけが心配した方がいいです。

どのように柔らかい心を保つことができるでしょうか。謙遜な態度をもって、罪を犯すなら、すぐに悔い改めるべきです。そして、毎日、イエス様のように、天の父の心を求めて、従うべきです。

あなたはどうですか。どんな心があるでしょうか。

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マタイ12:46-50;マルコ3:20-21、31-35;ルカ8:19-21ーー家族よりも親しい関係

私たちが愛している人々が私たちのことが理解できないのは、本当に苦しいことです。イエス様は12歳の時、神殿でそう感じました。その時、イエス様の両親は彼のことが理解できませんでしたから。

この個所でも、イエス様の家族はイエス様のことが理解できませんでした。イエス様は神様の仕事を頑張ってしたので、食べる時間がありませんでした。だから、イエス様の家族は、「イエスの頭がちょっとおかしくなったのか。」と思いました。

だから彼らはイエス様を連れ戻しに出て来ました。でも、イエス様の兄弟たちだけではなく、母マリヤも一緒に来ました。たぶん、マリヤはイエス様が気が狂ったとは思わなかったけど、おそらくイエス様の健康を心配したのでしょう。

とにかく、大勢の人々がいて、彼らはイエス様のところまで来られなかったので、伝言を送りました。

イエス様は彼らの意図が分かったので、彼らのところに行きませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12:48-50)

また、

わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。(ルカ8:21)

時々、あなたが愛している人々は、あなたが神様の御心に従わないように説得しようとします。時々、彼らは、あなたが気が狂っていると思うかもしれません。時々、彼らは、あなたがやりすぎていると思います。

でも、覚えていてください。私たちは彼らを喜ばせるように生きるのではなく、神様を喜ばせるために生きています。私たちは、神様の声を聞いて、神様の御心に従うべきです。

もちろん、私たちにはバランスが必要です。私たちは家族を愛して、敬うべきです。

そして、神様が私たちに期待している以上にも、してはいけません。なぜなら、私たちは燃え尽きるから。

それでも、私たちは神様を家族よりも愛するべきです。神様の私たちに対する希望は、家族の私たちに対する希望よりも大切なのです。

神様をすべてよりも大切にするでしょうか。もしくは、あなたの家族はあなたを神様の御心から引っ張っているでしょうか。

ところで、そういうわけで、クリスチャンと結婚した方がいいです。なぜなら、そうしないと、神様の希望があなたの妻か夫の希望に反対する時、大問題になるから。また、もしあなたの妻か夫が「私はクリスチャンだ」と言っても、彼らが神様と共に歩んでおらず、神様に従わないなら、大問題になります。

だから、自分の心を神様にささげた人と結婚しましょう。そして、私たちのために死んで、復活された方に、私たちの心と思いと力をささげましょう。

あなたの心は誰の物でしょうか。

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ルカ8:1-3--祝福されて、周りの人々を祝福すること

この個所は、とても短いけど、私たちが大切なことを学ぶことができると思います。

この話では、イエス様はあっちこっちに行って、福音を延べ伝えました。もちろん弟子たちはイエス様と一緒に行ったけど、三人の女性たちもついていきました。それは、マグダラの女と呼ばれるマリヤと、ヘロデ王の執事の妻ヨハンナと、スザンナという人でした。

私たちは、その三人についてあまり知らないけど、彼女らはイエス様に触れられました。イエス様はマリヤから七つの悪霊を追い出したし、ヨハンナとスザンナの病気を癒したか、彼女らから悪霊を追い出しました。要するに、その三人はイエス様に祝福されました。

だから、彼女らは感謝を持って、イエス様について行き始めました。それだけではなく、彼女らは経済的にイエス様のミニストリーをサポートし始めました。

私たちは、この話で何を学ぶことができますか。私たち皆はイエス様に祝福されました。一番大きな祝福は、イエス様が私たちの罪のために死んでくださったことです。でも、もしかして、イエス様はあなたの結婚や、家族を修復したかもしれません。あなたの過去の傷を癒したかもしれません。

もちろん、祝福を受けるのは、良いことです。でも、あなたは周りの人々を祝福しているでしょうか。あなたはいつも祝福をもらっているばかりでしょうか。もしくは、周りの人々に祝福を与えているでしょうか。

あるクリスチャンはこう思います。「どうして十一献金をささげるべきでしょうか。それは新約聖書の教えではありません。」

それはそうかもしれないけど、クリスチャンとして、私たちは気前がいい人になるように呼ばれました。(第二コリント8:7)

どうしてでしょうか。神様は、ただ私たちが恵みで満ちた器になるように望みませんから。神様は私たちが恵みのパイプラインになるように望みます。つまり、神様の恵みが私たちを通して流れて、周りの人々に触れるように望みます。

もちろん、それは教会を経済的にサポートすることですけど、それだけではありません。私たちの人生を神様にささげて、周りの人々に仕えるべきです。

あなたはどうですか。あなたはただの恵みで満ちた器でしょうか。もしくは、あなたは恵みのパイプラインでしょうか。

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ルカ7:36-50--あなたの愛はどこでしょうか。

この個所を読むと、私はこう思います。「どれだけ、私はイエス様を愛しているだろうか。」

この話では、私たちは二人の人たちを見ます。一人は罪深い女性でした。私たちは彼女の罪を具体的に知らないけど、すべての人々が、その罪をよく知っていたらしいです。だから、彼女は売春婦だったかもしれない。でも、それはただの推測です。

その反面、シモンというパリサイ人がいました。彼は「正しい人」でした。彼は正しいことを言ったり、正しいことをしたりしました。要するに、彼の人生は順調に行っていました。

とにかく、シモンは食事にイエス様を誘いました。そして、彼らが食べている間に、その女性は泣きながら、シモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足に落ちたので、彼女は自分の髪の毛で、その足を拭い、香油を塗りました。

シモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑です。その女性に対する軽蔑だし、イエス様に対する軽蔑です。

シモンはこう思いました。

この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(39)

でも、イエス様はシモンに向かって、たとえ話を伝えました。その話では、一人の人はち少しお金を借りて、もう一人の人は多額のお金を借りましたが、結局二人とも、そのお金を返せませんでした。だから、金貸しは、その借金を赦しました。

そして、イエス様はシモンにこう訊きました。

では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)

多分シモンは「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある問題だろうか。」と思ったかもしれないけど、結局、彼はこう答えました。

よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)

そして、イエス様は「あなたの判断は当たっています」と言いました。

でも、イエス様の次の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。

「実はね、普通の(ユダヤ人の)マナーだけど、お客さんが来ると、良い主人は足を洗う水を与えるし、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。でも、あなたは私のために何もしてくれなかった。その反面、この女性が来たとき、彼女は私の足を涙で洗ったし、私の足に口づけしました。それに、この高い香油で、私の足を塗りました。」

要するに、「シモン、あなたの愛はどこでしょうか。この女性は私を愛しています。彼女の行動を通して、神様の赦しのために自分の感謝を示しました。彼女がどれだけ赦されたか分かるので、彼女の愛はとても深いです。でも、あなたは、自分がどれだけ赦しが必要か分からないので、あなたには愛がほとんどないのです。それにあなたは、私のことを軽んじて、いや、私のことを軽蔑してしまいました。」

そして、イエス様はその女性に向かって、こう言いました。

あなたの罪は赦されています。(48)

多分、周りの人々がそれを聞いて、面食らいました。神様だけが罪を赦すことができるから。

でも、イエス様は、続けました。

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)

あなたはどうですか。あなたの愛の深さはどれぐらいですか。あなたは、シモンのように、自分の罪の悪さが分からないので、また、どれだけあなたが赦されたか分からないので、イエス様のことや、その十字架の働きを軽んじるでしょうか。

私たちが神様の赦しを理解しないままでいると、二つの結果が導き出されます。

1.私たちは独善的な態度を取って、周りの人々を軽蔑して、裁きます。

2.私たちの神様に対する愛は本当に薄くなります。

でも、私たちが神様の愛がちゃんと理解すれば、私たちの心は神様に対する愛と感謝で満ちます。そして私たちは、その愛と憐れみを周りの人々に与え始めます。

あなたは、どんな心を持っているでしょうか。

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マタイ11:25-30--イエス様から学ぶこと

私はハワイ大学から卒業して以来、学校に戻る気がありませんでした。でも、振り返ると、私は修士の学位などを得たらいいのになあと思います。

しかし、学校は大変です。たくさんの宿題や、試験があるから。

でも、クリスチャンとして、イエス様は私たちを学校に出席ように呼びます。あなたが神学校に出なくてはならないと言うわけではありません(しかし、神様はあなたをそうするように呼ぶかもしれません)。でも、私たちはイエス様の学校に出るように呼ばれます。

イエス様はこう言いました。

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。(29)

イエス様の時代、多くのラビたち(つまり、先生たち)は弟子たちをそんな言葉を使って呼びました。

イエス様の学校で、私たちは何を学ぶでしょうか。私たちは天の父がどういう方であるか学びます。イエス様はこう言いました。

それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(27)

多くの人々は神様を知りたがるけど、どうやって神様を知るか分かりません。どうすれば、目に見えない神を知ることができるでしょうか。もし神様が自分のことを現わさないなら、それは無理です。

でも、イエス様はを通して、神様は自分自身を現わします。イエス様は天の父がどんな方であるか教えてくださいます。それに、イエス様の人生を見ると、天の父の性格が見えます。イエス様はこう言いました。

わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)

イエス様の性格を見ると、天の父の性格を見ることになります。イエス様の言葉を聞くと、私たちは天の父の言葉を聞くことになります。

さらに、イエス様を通して、私たちは、神様が私たちがどのように生きるように望むか分かります。それは、「しなさい」と「そうするな」というリストに従う生活よりも、優れた人生です。パリサイ人は、そんな生活を送りました。彼らの「しなさい」と「そうするな」というリストはすごく長いものでした。

でも、彼らの模範に従う人は重荷を背負われました。彼らは神様の愛と恵みを見つけませんでした。むしろ、彼らは裁きを見つけました。自由を見つけずに、彼らが守れない多くのルールに縛られました。

でも、イエス様は私たちにこう言います。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(28-30)

イエス様はルールの興味があまりないです。イエス様は私たちが神様に近づくように望みます。また、イエス様は私たちが周りの人々を愛するように望みます。

そして、私たちが弱い時に、イエス様は私たちを強めてくださいます。私たちが知恵がないなら、イエス様は私たちに教えてくださいます。私たちが転ぶと、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。私たちが失望するときに、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

だから、イエス様の教えは重荷ではありません。むしろ、その教えは私たちを自由にします。

イエス様の学校に入る資格は何でしょうか。それはへりくだっている心です。また、イエス様から学びたいと願う心です。

イエス様の時代、たくさんの宗教的な人は、そんな心を持っていなかったけど、イエス様の弟子たちは、そんな心を持っていました。だからイエス様はこう言いました。

天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(25-26)

あなたはどうですか。イエス様の学校に出たいと思いますか。イエス様から学びたいでしょうか。

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マタイ11:20-24--信じられない?もしくは、信じたくない?

多くの人々が「私は神様が存在することを信じられません」と言います。

そして、彼らは自分の理由をリストアップします。でも多くの場合、彼らが信じられないわけではない。むしろ、彼らは信じたがらないのです。

彼らは周りの自然を見るし、周りの人々の人生に神様の働きを見るし、時々、自分の人生にも神様の働きを見るけど、神様のことを信じたがりません。どうしてでしょうか。

なぜなら、神様が存在するなら、彼らは自分の人生が自分のものではないと認めなくてはならないから。彼らは、自分勝手に生きてはいけません。それに、彼らは、神様の前に自分のことを申し開きをしなくてはなりません。

だから、彼らは、もっと証拠を要求します。でも、その証拠を与えられても、彼らはもっと証拠を要求します。神様自身が自分のことを明確に現わしても、たぶん彼らは自分自身にそれが幻覚であることを説得します。「もしくは、お酒を飲みすぎたかな」と思うかもしれません。

イエス様の時代に、イスラエル人は、そのように反応しました。イエス様が奇跡を行っても、病気な人を癒しても、死者を復活させても、まだ信じない人々もいました。むしろ、もっと奇跡を頼みました。だから結局、イエス様は彼らに、「もうしない」と言いました。(マルコ8:12)

さらに、イエス様は信じない人々を裁きました。

ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:21-24)

この言葉で、イエス様は私たちに何を教えていますか。神様が私たちに示せば示すほど、また、神様が私たちに話せば話すほど、私たちは責任を持ちます。そして、神様を拒絶し続けるなら、私たちは厳しく裁かれます。

だから、あなたが本当に信じたがらないなら、「しるしをもっと示してください」と祈るのはとても危険です。そのしるしを示されると、あなたには責任があるから。

ある日、私たち皆は神様の前に立ちます。その日、神様は私たちの神様を信じない言い訳を取り除いて、私たちの下心を現わします。

その日、あなたはわかります。あなたが信じられなかったわけではなく、あなたが信じたがらなかったとわかります。そして、あなたは裁かれます。

だから、あなたの言い訳を捨ててください。あなたのプライドを捨ててください。あなたの主としてイエス様に従うなら、あなたは祝福されます。この世界でも祝福されるし、永遠の世界でも祝福されます。

ペテロはこう言いました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(第一ペテロ5:6)

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マタイ11:16-19;ルカ7:31-35--すべての人々を喜ばせようと思うこと

英語では、こんなことわざがあります。「You can please some of the people some of the time, but you can’t please all of the people all of the time.」

つまり、「あなたは、たまにある人々を喜ばせるかもしれません。でも、あなたは、いつもすべての人々を喜ばせることができません。」

イエス様に対しても、そのことわざは本当でした。イエス様は完全な人でした。イエス様のすべての行動は完全でした。イエス様は完全に人々を愛していました。

それでも、イエス様は、すべての人々を喜ばせませんでした。それに、イエス様はすべての人々を喜ばせようと全然思いませんでした。

実は、イエス様は、自分の批判者たちの偽善を指摘しました。彼はこう言いました。

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。(マタイ11’16-19)

要するに、バプテスマのヨハネが来て、禁欲生活を送ったとき、パリサイ人たちなどは、「その人の言うことを聞くな。彼は頭がおかしい。」と言いました。

でも、イエス様が来た時、イエス様は罪人と食べたり飲んだりしたから、パリサイ人たちなどは、「その人の言うことを聞くな。彼は食いしん坊の大酒飲みです。」と言いました。(もちろん、イエス様は食いしん坊の大酒飲みではありませんでした。)

というのは、パリサイ人たちは、ヨハネとイエス様をその生活のために拒絶したのではなかったのです。むしろ、彼らはヨハネとイエス様のメッセージを受け入れませんでした。

多くの人々は、そのパリサイ人たちのようです。私たちがイエス様の言葉を伝えるとき、彼らはちょっと居心地が悪くなります。だから、そのメッセージを汚すために、彼らはそのメッセンジャーの評判を汚そうと思います。だから、できるだけ、彼らは批判できることを探します。あなたは、そんな人を決して喜ばせることができません。

私の要点は何でしょうか。そんな人を喜ばせようと思わないでください。賢い人は、すべての人々を喜ばせようと思いません。賢い人は、一人だけを喜ばせようと思います。それは神様です。そうすれば、彼らは、神様のために実を結びます。

イエス様はこう言いました。

知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。(ルカ7:35)

それはどういう意味でしょうか。相手があなたを批判しても、あなたの結んだ実を通して、あなたの知恵の正しさを証明するのです。

だから、すべての人々を喜ばせようと思わないでください。イエス様はそうできませんでした。あなたもできません。だから、あなたを呼んだ方を喜ばせるように集中してください。

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マタイ11:7-15;ルカ7:24-30--私たちのための神の目的を拒否する

私たち皆は偶然ではなく、神様の目的のために造られました。

その目的は何でしょうか。私たちが神様との関係のために造られたことです。また、私たちは人間関係のために造られました。私たちは周りの人々に触れるし、私たちは彼らに触れられるように造られました。

最後の目的は、私たちは神様から受けた才能や賜物を通して神様の心を行うように造られたことです。

あいにく、多くの人々は、ずっとその目的を知らずに生活を送ります。どうしてでしょうか。なぜなら、彼らは彼らのための神様の目的を拒絶し、自分自身のために生きるから。

パリサイ人たちと律法学者たちは、そのように生きました。イエス様は、バプテスマのヨハネの仕事を神様からのものであることを認めたけど、ルカは、パリサイ人と律法学者に関してこう言いました。

。。。パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。(ルカ7:30)

ヨハネのメッセージはこうでした。

1.悔い改めなさい。その悔い改めのしるしは、バプテスマです。

2.メシア(つまり、救い主、または、王)はすぐに来ます。自分の心を整えなさい。

でも、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の義を誇りに思ったので、自分が悔い改める必要を見ませんでした。

それに、神様が自分自身を現したとき、つまり、イエス様が来たとき、彼らはイエス様を拒絶してしまいました。それだけではなく、彼らはイエス様を十字架で殺してしまいました。だから、マタイは、こう言いました。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)

バプテスマんのヨハネでの時代に、王イエス様が来たのに、パリサイ人たちと律法学者たちは、その王国を激しく攻めてしまいました。彼らが神の王国を守ると思ったのに、実は、彼らは、神様の王国を責めました。だから、彼らは神様の彼らに対する御心を逃しました。

でも、ルカは、ほかの人々に関して、こう言いました。

ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。(7:29)

その人たちはへりくだって、神様の道が正しいと認め、悔い改め、最終的にイエス様を王として受け入れたので、彼らは神様の王国に入りました。また、彼らは神様の彼らのための目的に戻りました。

あなたはどうですか。神様のあなたのための目的に従っているでしょうか。最初の段階は悔い改めです。あなたが最善のことを知らないから、神様の道を受け入れる態度を取るべきです。特に、イエス様が真理であり、道であり、命であることを認めなくてはなりません。簡単に言うと、イエス様をあなたの主として受け入れるべきです。

今、そうしませんか。

主よ。私はずっと自分の道を行って、あなたの目的を逃してしまいました。赦してください。私の罪のために、あなたが十字架で死んでくださり、よみがえられたことを信じます。私の主になってください。これから、私はあなたに従いたいです。あなたの御心に従いたいです。私をあなたに近づけてください。また、あなたの御心を示してください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

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ルカ7:11-17--こちらに来ておられる神。私たちの近くにおられる神。

「神様はどこだろう?」

悲劇の中にいるとき、たくさんの人々は、そう訊きます。多分、この個所にあるやもめは、そう訊いたかもしれません。彼女の主人は、もう亡くなったし、突然その息子も亡くなりました。彼らは彼女が愛する家族というだけではなく、彼らしか、彼女を経済的にサポートしてくれる人がいませんでした。その時代、旦那や、息子がいないなら、彼女は貧乏になる可能性が高かったのです。

だから、その葬式で泣きながら、たぶん彼女はこう訊きました。「神様。あなたはどこにおられるでしょうか。私たちのことを本当に愛してくださるでしょうか。どうして、あなたは、そんなことを許したのでしょうか。」

そして、神様は来ました。

死骸を運んでいる群衆は、命の源を取り囲む群衆に出会いました。

そして、イエス様は、その泣いているお母さんを見たとき、彼女に同情しました。

イエス様はそのお母さんに近づいて、「泣かなくてもよい」と言いました。そして、イエス様は、その息子を復活させました。

皆はその奇跡を見るとき、多分最初は度肝を抜かれました。でも、すぐに彼らは喜びを持って、叫びました。

大預言者が私たちのうちに現われた。。。神がその民を顧みてくださった。(16)

神様はどこでしょうか。神様は、もう来ておられます。それに、神様は私たちの近くにおられます。あなたには、神様が見えないかもしれません。あなたには、神様の臨在を感じられないかもしれない。でも神様は、ここにおられます。

神様は、あなたの涙を見ます。あなたの悲しみをご存知です。あなたのことを愛しています。

神様は、その愛を2000年前に証明しました。罪で壊れた世のために、イエス様は十字架で死にました。そして、イエス様の復活を通して、神様は私たちの問題に取り組む力を持つことを証明しました。そして、イエス様はそのナインのやもめを助けたように、私たちをも助けてくださいます。私たちがしなくてはならないのは、ただイエス様に頼むことだけです。

ダビデはこう言いました。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34:18)

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マタイ11:1-6;ルカ17:18-24--疑いと戦うこと

私が聖書にあるヒーローも自分の疑いや恐れと戦うことを読むと、私はなんだか安心します。なぜなら、私は独りぼっちではないことが分かるからです。

バプテスマのヨハネも自分の疑いと恐れに戦いました。彼は神様のために本当に大切な仕事をしました。彼は、人々が悔い改めるように呼んで、イエス様の道を準備しました。でも、急にその仕事は終わりました。

ヘロデ王は自分の弟の妻と結婚したので、ヨハネはヘロデを責めました。ヘロデ王は怒って、ヨハネを捕まえて、牢に入れてしまいました。

多分、最初は、ヨハネは確信をもって、喜んで宣言しました。「メシアは来た。イエス様は私たちをこのいわゆる王や私たちの敵から救い出します。」

でも、時間が経っても、イエス様はいろんな素晴らしいことをしたけど、政治的なことに全然興味がなさそうでした。ヘロデ王は、まだガリラヤを治めていました。ローマ帝国はまだ立っていました。そして、ヨハネは、まだ牢にいました。

そして、時間が経てばたつほど、たぶん、ヨハネの確信がだんだん弱くなりました。もしかして、ある日、その確信は全くなくなったかもしれません。

「イエス様は本当にメシアだろうか。私は間違えただろうか。私はちゃんと神様の声を聞いただろうか。」

そして、ある日、ヨハネの弟子たちは、ヨハネのところにきて、おそらくヨハネにイエス様のことを話しました。もしかして、それを全部聞いた後、ヨハネは、静かに座りました。そして、その弟子たちに、こう頼みました。「ちょっと伝言を伝えてください。つまり、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」」

その弟子たちは、イエス様に近づいたとき、どう感じたでしょうか。ヨハネの失望を見て、彼らも疑い始めたでしょうか。とにかく、彼らはヨハネの伝言を伝えました。

イエス様はどのように反応したでしょうか。彼は怒りませんでした。イエス様は、ヨハネの薄い信仰を責めませんでした。むしろ、イエス様は、同情を持って、その弟子たちを見つめました。そして、イエス様は周りの病気な人、苦しんでいる人を見つめました。そして、イエス様は彼らを癒し始めました。目の見えな人も、耳が聞こえない人も、足の不自由な人も、病気な人も、イエス様はその皆を癒してくださいました。

そして、イエス様はもう一度ヨハネの弟子たちに向かって、こう言いました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4-6)

時々、ヨハネのように、私たちは疑いと戦います。私たちは「イエス様が本当におられるだろうか」と疑問に思います。

私たちは自分の事情を見て、また、この世界を見ます。そして、私たちは、「私の信仰は本当の物だっただろうか。イエス様は私の信仰に値する方だろうか。もしくは、私の信仰は無駄なものだろうか。イエス様に従うのは本当に価値のないものだろうか。」

良かったのは、イエス様は私たちを疑いのために責めないことです。でも、イエス様は私たちに思い出させます。「私のしたことを覚えていてください。私はあなたを助けたことがあるでしょう。私はあなたを癒したでしょう。私はまだいるよ。私はまだあなたの人生で働いているよ。」

でも、それだけではなく、十字架を覚えていてください。その十字架はイエス様の愛を証明するから。そして、イエス様の復活によって、私たちはイエス様はが私たちを助ける力を持っている確信できます。

あなたは決して、イエス様に躓かないように。むしろ、イエス様が私たちが立つことができる土台になるように。その土台は私たちの下に決して崩れません。

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マタイ8:5-13;ルカ7:1-10–恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話をまるごと見ることができます。

ルカの福音書によれば、百人隊長がイエス様の助けを頼んだとき、実は百人隊長の代わりにユダヤの長老たちは頼んでくれました。彼らはこう言いました。

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長にイエス様の助けをいただく資格があると言ったけど、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、または、神様から何かをいただくために私たちには「資格」が必要だと思います。

でも、恵みはそういうものではありません。恵みというのは、「あなたに資格がないのに、私はあなたに永遠の命や、あなたのほかのニーズを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だから私たち自身にこう訊くべきです。「私は神様に訊く信仰を持っているだろうか。」

時々、私たちは、信仰を持たずに、皮肉っぽくなります。私はそんな時もあります。なぜなら、時々私たちは祈るとき、神様はなぜかその祈りを断るから。

だから、私たちは疑問に思います。「祈りには本当に価値があるだろうか。神様は、本当に答えてくださるだろうか。神様は、私を助ける力を持っているだろうか。神様は、私のことを本当に愛してくださるだろうか。」

でも、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は、私の最善をよくご存じです。それに、神様は、私を助ける力を持っています。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長は、そんな信仰を持っていました。彼はこう思いました。「私はローマ人です。ユダヤ人は普通ローマ人を憎む。私には、イエス様の助けをいただく資格がない。でも、きっと、イエス様が私を助ける力を持つし、きっとイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だから頼みましょう。」

だから、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚く時は珍しいことです。聖書では、二回だけあります。イエス様の地元の人たちがイエス様を信じなかったとき、イエス様は驚きました。(マルコ6:6)

でも、この話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て、驚きました。イエス様は、彼に関してこう言いました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、私たちがもう一つの大事なポイントを学べると思います。この百人隊長のように、恵みが必要だと認め、イエス様を信じる人は、神の国に入れます。私たちの家系の資格によって入ることができません。私たちの良い行いによって入ることができません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはなりません。「私には、あなたから何かをいただく資格がないです。でも、あなたを信じます。あなたの十字架の働きを信じます。あなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

 

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マタイ7:24-27;ルカ6:46-49--何の土台に私たちの人生を建設するか

今日で、山上の垂訓と平地の説教の話が終わります。

どっちも同じように終わります。つまり、イエス様は、その聞き手に挑戦します。イエス様は彼らに訊きます。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

要するに、「あなたが私を「主」と呼んでも、私の言葉に従わないなら、私は本当にあなたの主でしょうか。」

ある人はその言葉をこのようにまとめました。「イエス様があなたの人生のすべての主じゃないなら、イエス様は全然あなたの主ではありません。」

それはそうです。もしかすると、イエス様は、あなたの主です。もしかすると、イエス様は、あなたの主ではありません。ほかには可能性がありません。

そして、イエス様は、本当に有名なたとえを言います。つまり、「岩の上に強い土台を持つ建てられた家」と「土台なしで砂の上に建てれた家」です。

もし、私たちがイエス様の言葉を聞き、従うなら、私たちは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています」。

その安定な土台のおかげで、人生の嵐が来ても、私たちの家はびくともしません。

でも、私たちがイエス様の言葉を聞いても、従わないなら、私たちの人生を砂の上に建てています。

砂はどのようなものでしょうか。砂はいつも移り行きます。この世の考え方も、砂のようにいつも移り行きます。道徳敵価値観や、常に移り変わります。50年前に悪いと見なされたことは、今、良いことと見なされています。良いと見なされたのは、今次代遅れの考え方と見なされています。

でも、私たちが移り変わる砂に人生を建てるなら、私たちの土台が不安定なので、人生の嵐が来ると、私たちの人生は崩れます。

あなたはどうですか。岩の上にあなたの人生を建てているでしょうか。あなたは、イエス様の言葉を聞くだけではなく、その言葉に従っているでしょうか。もしくは、あなたはこの世と調子を合わせていますか。あなたの人生を移り行く砂の上に建てているでしょうか。

イエス様は、あなたの主でしょうか。

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ルカ6:43-45--あなたの心にあるもの

聖書を読むとき、私が気づいているのは、イエス様はしばしば同じたとえを使うけど、違う応用を教えることです。マタイの福音書では、悪い実を結ぶ木と良い実を結ぶ木について話すとき、イエス様はそのたとえを偽預言者に当てはめます。つまり、私たちは、預言者(または、牧師や、クリスチャンの著者)の実(その教えとその人の行動)を見分けなくてはなりません。

でも、ルカの福音書では、イエス様は、そのたとえを通して、私たちが自分の心を探るように挑戦します。この個所では、そのたとえについて話す前に、イエス様は、人々を裁くこと、人々を責めること、また、人々を許すことについて話しました。

そのことについて話した後、イエス様はこう言いました。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(43-45)

イエス様は何を言っているでしょうか。イエス様は、私たちがどんな木であるか訊いています。私たちの心の中には、何が入っているでしょうか。相手を裁くことでしょうか。相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。

どうやって、私たちの心にあるものを見分けられるでしょうか。自分の口から出る言葉を見ると、見分けられます。なぜなら、私たちの口は、心に満ちているものを話すから。

もし心の中で、私たちは相手を裁き、責めるなら、そんな言葉が私たちの口から出ます。もし、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、そんな言葉が私たちの口から出ます。

イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心です。でも恵み深く、相手を許す心は良い木です。

だから、私たちは自分自身にこう聞くべきです。「私たちの口から何が出ているだろうか。」

私たちはいつも相手を批判し、責めているでしょうか。もしくは、私たちの言葉は恵み深いでしょうか。私たちの言葉は、私たちがどんな木であるかを表します。

あなたはどんな木でしょうか。

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マタイ7:15-23--教えを見分けること

イエス様は、救いに至る狭い門に入りなさいと言った後、私たちにこう警告します。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。(15)

多くの人々は、「預言者」と聞くと、「将来のことを預言する人」を考えます。でも本当の預言者には、ほかの役割もありました。彼らは、神様からの言葉を人々に宣言しました。旧約聖書では、イザヤや、エレミヤや、エゼキエルや、ダニエルがそうしていました。

でも、旧約聖書を読むと、あなたは、イエス様が言ったような偽預言者を見ることができます。彼らの見かけは良かったし、上手に話せたし、霊的な人々に見えました。でも実は、彼らの言葉は、地獄から来たものでした。そして彼らは、周りの人々を滅びに至る門に導きました。

残念なことですが、現代でも、そういう人がいます。彼らは「主はこう仰せられる。」と言うけど、実は、彼らは神様の言葉をゆがめています。

それでは、どうやって私たちは、本当の預言者に偽預言者と見分けられますか。イエス様は、こう言いました。

同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(17-20)

要するに、私たちは彼らの結んだ実を見なくてはなりません。

それはどういう実でしょうか。

1.彼らの人生です。つまり、彼らは自分が伝えていることに従うでしょうか。もしくは、彼らは偽善者でしょうか。

もちろん、彼らは神様のみ言葉に完全に従うことができません。でも、彼らの信仰は、成長し続けているでしょうか。彼らは、だんだんイエス様のようになっているでしょうか。また、彼らは、自分の罪との戦いについて正直に話していますか。

2.彼らの教え。彼の口から何が出ているでしょうか。その言葉は、聖書に合っているでしょうか。もしくは、聖書に合っていないでしょうか。

説教者として、彼らには正確に聖書を教える責任があります。パウロはこう言いました。

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(第一テモテ2:15)

それは、説教者の責任です。

でも、聞き手として、私たちには、説教者の言葉を見分ける責任があります。使徒の働きでは、ベレヤ人たちは、そうしました。彼らは、ただパウロの言葉を聞き、受け入れたのではありませんでした。彼らは家に帰るとすぐに、パウロの言葉を聖書と比べました。そして彼らは、パウロの言葉が聖書と合っていると確認し、パウロの言葉を信じて、受け入れました。(使徒の働き17:11-12)

私たちはベレヤ人の模範に従うべきです。私たちは、牧師たちと説教たちの言葉を見分けなくてはなりません。彼らの教えが聖書に合うと、その言葉を信じて、従うべきです。でも、その教えが聖書に合わないなら、その教えを捨てなくてはなりません。

多くの牧師や伝道師は「イエス様は主」だと告白します。裁きの日に、ある人はイエス様の前に来て、こう言います。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。(22)

でも、イエス様は彼らにこう言います。

わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。(23)

残念なことですが、彼らに従う人たちも、地獄に行きます。なぜでしょうか。なぜなら、彼らは、その先生たちの教えを見分けませんでしたから。

あなたはどうですか。あなたは、教会で聞いたことを見分けるでしょうか。クリスチャンの本の教えも見分けるでしょうか。もしくは、見分けずに、その教えを信じるでしょうか。

 

 

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マタイ7:13-14--心の広いのは悪い時

日本では、よくわからないけど、西洋で、クリスチャンに対してよく言われた文句は、「あなたたちの心は本当に狭い」ということです。

彼らは、いつもこう言います。「あなたの心がもっと広ければいいのに。」

特に、彼らはこう尋ねます。「どうしてイエスだけが天国への道だと言うのですか。」

でも、場合によっては心が広ければいいというものではありません。例えば、数学です。もし、児童が試験で「2+2=10」と書いたので、先生が「X(バツ)」と書いたら、児童はこう言えません。「先生。心がもっと広くなった方がいいと思います。10でも4でも、別に違いがないでしょう?」

治療に関しても、そんな考え方はだめです。ちょっと想像してください。

あなたの腎臓の一つが悪いので、摘出しなくてはなりません。あなたは麻酔をされて、そのあと起きたら、腎臓が両方まだ残っていて扁桃腺が摘出されていました。あなたは混乱して、こう訊きます。「先生。どうして、私の扁桃腺を摘出したのですか。」

「いや、心が広くなった方がいいよ。腎臓を摘出か、扁桃腺を摘出か、大体同じでしょう?」

それはバカな話ですよね?

でも、永遠の命は、もっと大事な話です。もし数学や治療の場合、広い心では何の意味もないなら、なおのこと、永遠の命の場合、広い心でいてはだめでしょう。

だから、イエス様はこう言いました。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)

イエス様の言葉によれば、私たちは、自分の条件を作って、神様に近づくことができません。あなたが神様に近づきたいなら、神様の条件を満たすべきです。

ある人はこう言いました。「あなたは自分の道で地獄に行けるけど、天国に行きたいなら、神様の道を行かなくてはなりません。」

神様の道は何でしょうか。イエス様はこう言いました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

ちょっと考えてください。もしほかの道があったら、どうしてイエス様は、十字架で苦しんで、死ななくてはなりませんでしたか。もし、ほかの方法があったら、十字架は必要なかったのです。

もしほかの方法を求めると、あなたは、イエス様のいけにえに唾を吐いています。あなたは、「イエス様、あなたはバカだね。救いのために、もっと良い方法があったから。」と言っています。

誤解しないでください。心が広いがいい時もあります。でも、永遠の命に関しては、そのように考えてはいけません。

あなたはどうですか。あなたは自分なりの条件を作って、永遠の命を求めているでしょうか。もしかして、神様の条件を満たしていますか。つまり、イエス様をあなたの救い主と主として、受け入れるでしょうか。

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マタイ7:12;ルカ6:31--罪を避けるだけではなく、良いことをすること

マタイの福音書では、「黄金律」の書いてあるところが、ちょっとおかしいと思います。特に、「それで」という言葉で始まるから。普通は、「それで」があれば、その言葉は、前の言葉を指摘しています。でも、私にはその関係が見えません。1-6節に関係があると思うけど、7-10節の関係は、ちょっとわかりづらいです。

とにかく、ルカの福音書では、「黄金律」の書いてあるところが、もっと自然だと思います。その個所では、「敵を愛しなさい。あなたのことを憎む人に親切にしなさい。あなたを呪う人を祝福しなさい。あなたを傷つける人のために祈りなさい。侮辱されても、相手を侮辱するな。自由に相手に与えなさい。」と言ったすぐ後、イエス様は、その話をまとめて、こう言いました。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ6:31)

ほかの文化でも、同じようなことわざがあります。例えば、孔子はこう言いました。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」

そのことわざと黄金律の違いは何でしょうか。

実は、イエス様の言葉に従うのは、もっと難しいです。あなたは積極的に相手に親切にしなければならないから。

相手を傷つけるを避けるのは、そんなに難しくないです。もし、彼らに決して接さないなら、彼らを傷つけることはありません。

でも、彼らに接することが全くないなら、彼らに親切にするのは無理です。あなたは積極的に何かをしなくてはなりません。彼らがあなたを憎んでも、あなたを侮辱しても、あなたを利用しても、あなたは彼らに親切にするべきです。

それは難しいです。でも、それが神様の望みです。

神様の子供として、私たちが罪を避けるだけでは足りないです。私たちは、積極的に良いことをするべきです。私たちは、山の上にある隠れられない町になるべきです。私たちは、この世を味付けする塩になるべきです。もし、私たちが憎む人を愛するなら、私たちは、その町、また、その塩になります。

なぜなら、この世は、そのような愛が分からないし、できません。

でも、イエス様に繋いでいるクリスチャンはそうできます。なぜなら、イエス様の愛は彼らの心に注がれて溢れるから。そして、その愛は自然に相手に接します。

あなたはどうですか。あなたはただ罪を避けているでしょうか。もしくは、あなたの心はイエス様の愛で満ちて、その愛を通して、あなたは周りの人々に触れているでしょうか。

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マタイ7:7-11;ルカ11:1-13--惜しげなく良いものを与える天の父

アメリカでは、ある牧師や、伝道師は、「もし、あなたが何かを欲しがっているなら、あなたがイエス様のみ名によって願うと、神様はその祈りをかなえなくてはならなくなるのです。」と教えます。

彼らにとっては、神様はアラジンの魔人みたいです。でも、神様は魔人ではありません。神様には私たちの願いをかなえる必要がありません。

注意するべきの言葉の一つは、「良いもの」です。つまり、神様は求める者たちに「良いもの」を下さいます。(マタイ7:11)

でも、時には、私たちは神様に何かを祈るけど、神様は、その願いがよくないとご存知です。私たちはパンを願っていると思うけど、実は、私たちは石を願っています。また、私たちは魚を願っていると思っているけど、実は、私たちは蛇を願っています。その場合、神様は石を与えてくださるでしょうか。蛇を与えてくださるでしょうか。きっと、そんなものを与えてくださいません。なぜなら、神様は良いお父さんだから。

だから、私たちは大胆に神様に祈ることができます。もし、私たちが良いものを祈ると、神様は最も良いタイミングでその祈りをかなえてくださいます。でも、もし私たちが悪いものを求めるなら、神様はその祈りを断ります。

だから、イエス様はこう教えました。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

多くの場合、私たちが求めないので、神様から与えられません。時々、私たちはこう思います。「これは自分勝手な祈りだろうか。ほかの物を祈るべきじゃないか。きっと、もっと大切なものを祈るべきだろう。」

二つのことを覚えていてください。

1.私たちは想像するよりも、神様は気前がいい方です。神様は私たちを愛しているので、良いものを私たちに与えてくださいます。

ルカの福音書では、イエス様はちょっと面白い話を伝える。ある人は寝ようとしていたけど、隣人が思い切ってその人をたたき起こして、ずっと「パンをちょうだい」と叫んだので、結局その人は「しつこいなあ」と思いながら、その隣人にパンを与えました。

イエス様は神様がそんなイライラされた態度を取ると言っているどころか、イエス様はこう言っています。「その人が疲れて、隣人のしつこさにイライラされても、相手にパンを与えられるなら、なおのこと、 あなたを愛している天の父は、喜んであなたの祈りに答えないことがあるでしょうか。」

2.神様は私たちが神様をもっと知るように望んでいます。私たちが神様をもっと信頼するように望んでいます。私たちが神様の私たちに対する良さを知るように望んでいます。祈りは、その神様を知るプロセスの部分です。私たちは祈れば祈るほど、神様の御心をもっとわかるようになります。私たちは何が「良いもの」か、「悪いもの」か区別できるようになります。そして、かなえられた祈りと断れた祈りによって、私たちは神様の判断と知恵を信頼するように学びます。

でも、私たちは求めないと、そのことを全然学ぶことができません。

だから、求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうすれば、あなたが期待するよりも、たくさんのドアが開かれます。それに、神様のことをもっと知り、その御心を知るので、もっと神様との親しい関係ができます。

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マタイ7:6--相手に無駄に話すこと

前回の記事で私は書きましたが、イエス様は私たちが偽善的に裁くなと注意したけど、イエス様は私たちが罪を犯す人に叱責するべきだともおっしゃいました。でも、相手を叱責するとき、もう一つのことに注意するべきです。つまり、あなたは誰を叱責しているでしょうか。

イエス様はこう言いました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(7:6)

イエス様が意味したものは何でしょうか。あなたが相手を叱責しても、聞いてくれない人もいるということです。その場合、あなたは無駄に話しています。なぜなら、彼らは神様からの言葉を聞きたがらないし、あなたが叱責しようとしたら、彼らはあなたを攻めるから。だから、イエス様は、そんな人に何も言わない方がいいと言います。

ソロモンも大体同じことを言いました。

あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。(箴言9:8)

その真理を福音を伝えることに当てはめられます。あなたが福音を伝えるとき、あなたをあざける人もいます。そんな人は、神様の手に委ねた方がいいです。あなたは自分の役割をもう果たしましたから。その責任は相手のものになりました。あなたには、福音の真珠を彼らに投げ続ける必要がないのです。

福音をあざける人を見ると苦しいです。神様のみ言葉に心を固くする人を見ると辛いです。でも、あなたがそのみ言葉を伝えて、相手がその言葉を拒否したら、あなたはその人のために祈るしか何もできません。あなたではなく、神様だけが相手の心を変えることができます。

あなたは誰に真珠を投げているでしょうか。

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マタイ7:3-5;ルカ6:39-42--偽善的な裁き

子供の時、私は「Isaac Air Freight」というクリスチャンのコメディーグループが大好きでした。彼らは、たくさんのパロディーをやっていました。一つのは、「60 Minutes」というアメリカの有名なニュース番組のパロディーでした。

その時、リポーターは「木こりさん」という夫婦をインタビューしました。彼らはクリスチャンだったけど、珍しい「特徴」がありました。彼らの目からは、丸太が出ていました。だから、彼らは、いつも周りの物を倒してしまいました。それに、彼らはいつも他の人々について文句言ったり、裁いたりしました。

インタビューの時、彼らは何回もその丸太でリポーターに当たりそうでした。でも、そのリポーターが彼らにその丸太について尋ねた時、彼らは「へ?丸太って?」と答えました。

でもリポーターは言い張りました。「あなたの目に、でかい丸太がありますよ。あなたは、いつも周りの物を倒してしまっているよ。」

「さあ、今まで全然気づいていないけど?」と、彼らは答えました。

多くのクリスチャンたちは、その木こりさんたちのようです。彼らは自分の欠点を見ずに、いつも相手を批判します。

でも、イエス様は私たちにこう言います。「あなたは批判を通して、相手を助けていると思っているけど、あなたには自分の欠点が全然見えていません。でも、相手の問題は、ちりだけです。あなたの問題は梁ですよ。あなたは盲人なのに、そのことを知りません。もし盲人であるあなたが、ほかの盲人を導こうと思うなら、あなたたちは穴に落ち込んでしまいます。

あなたは愚か者の先生だと思います。あなたの生徒たちも、あなたのようになります。彼らは、あなたの欠点を学びます。でも、あなたは自分の欠点を全然知りません。」

だから、イエス様は、この話をこのようにまとめます。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。(ルカ6:42)

イエス様の要点は何でしょうか。それは謙遜だと思います。

多くの人々は、自分の目にプライドという梁を持っています。

誤解しないでください。時々、私たちは兄弟たちと姉妹たちに彼らの罪について話すべきです。それはイエス様の命令です(マタイ18:15)。使徒たちも、その命令を繰り返しました(ガラテヤ人への手紙6:1)。

でも、そうするとき、私たちはどんな態度を取るべきでしょうか。プライドの態度を取った方がいいでしょうか。「私はあなたに優れたクリスチャンだよ」という態度でしょうか。

違います。

へりくだる態度を取るべきです。あなたにも神様の恵みと憐れみが必要という態度を取るべきです。

だから、相手を責める前に、神様にこう聞くべきです。「神様、私の罪は何でしょうか。私の目に何の梁が入っているでしょうか。私はプライドを持っているでしょうか。私は相手を許せないでしょうか。私は相手を責めるけど、私もその同じ欠点を持っているでしょうか。」

そして、神様があなたの欠点を見せるなら、悔い改めてください。

もし自分の弱さを知らないなら、もしどれだけあなたに神様の憐れみが必要か分からないなら、多分相手と話すことを待った方がいいです。

そうしないと、彼らは自分の罪を悔い改めるかもしれないけど、あなたからもっと酷いことを学びます。特に、彼らはプライドと偽善を学びます。

イエス様はこう言いました。

弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)

あなたの目に、どんな梁があるでしょうか。

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マタイ7:1-2;ルカ6:36-38ーー相手を裁くと

相手の欠点を見て、裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行為を裁くのは簡単なことです。特に、私が傷ついたとき、相手を裁くことは簡単なことです。

ルカの個所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむ教えの後に言っていました。だから、私たちを侮辱する人、また私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言いました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

そのすぐ後、イエス様は相手を裁くことについて話します。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではないから。それは、神様の責任です。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言います。

実は、相手を許すのは、相手のためよりも、あなたのためです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないと、あなたは過去の傷に縛り付けられるから。あなたは、神様が望んでいるあなたのための未来に進むことができません。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言います。そうすれば、相手は変わるかもしれないけど、それは神様の約束ではありません。(イエス様が十字架でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈ったけど、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

それに、私たちは、主の祈りを思い出すべきです。つまり、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

そうしないなら、もし、むしろ私たちが私たちの受けた傷のために相手に裁きを注ぐなら、イエス様はこう警告します。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この個所を読むとき、イエス様が献金について話していると思います。でも、イエス様は献金について全然話していません。この個所の前後は、裁きと憐れみについてです。

このイエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れることを描写しています。でも、私たちは簡単に想像がつかないので、別のたとえを使いましょう。

ちょっとごみ袋を考えてください。ごみの日に、どうやってごみを入れるでしょうか。

まず、私たちはごみを入れます。でも、もしそのごみ袋がちょっと一杯になるなら、私たちはどうするでしょうか。ちょっと袋を揺すると、そのごみはもっと下に行きます。そして、ごみをもっと入れられます。

でも、最後のほうでは揺すっても、ごみは袋の下にいきません。だから、そのごみをもと上から手で押します。そうすれば、もうちょっとごみを入れられるようになります。でも、限界になったら、ごみは袋から溢れます。

イエス様が言ったのはこうです。「もし、相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注いでしまいます。そして、あなたにもっと裁きを注ぐために、神様はもう注いでいた裁きを揺すって、押します。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注ぎます。

その反面、もし、憐れみと許しを相手に注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるまで注ぎます。」

あなたは自分自身に何を注がれるように望むでしょうか。

 

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マタイ6:25-33;ルカ12:22-34--心配

私は、この個所が頭の中でよく分かっているけど、この真理を本当に実感するかどうか分かりません。

今は、私はあまり心配がありません。でも、5年前、私は仕事や、家計についてよく心配しました。

その時、この個所を読んだとき、私はこう思いました。「これは理にかなっている。神様は鳥も世話するし、花も世話する。だから、きっと神様は、私のことを世話してくださるだろう。」

それでも、私は心配し続けました。「どうやって、お金を節約できるだろうか。もっといい仕事が見つけられるかなあ」

でも、私は振り返ると、神様の忠実さと良さを見ることができます。だから、私はこれから心配する必要がないでしょう。

しかし、将来トラブルが来ると、私はどう反応するでしょうか。

時々、私が幾分コントールできる問題に直面します。でも、私が全然コントロールできない問題に直面するときもあります。

その時、私の心はこう言います。「もう、あなたができたことをやったでしょう?もう心配せずに、そのことを神様の手に委ねましょう。」

でも、別の部分では心配し続けます。

私に対するイエス様の言葉が想像できます。「信仰の薄いブルース。この世の人々は、こんなものを求めているけど、あなたの天の父があなたのことを愛していることを知らないでしょうか。あなたのことを世話することを知らないでしょうか。だから、このものごとから目を外して、天の父に焦点を当てなさい。天の父にあなたの心配を委ねなさい。そうすれば、また、すべてよりも神の御国を第一に求めれば、天の父は、あなたのことをきっと世話してくださいます。」

天のお父さん。あなたは、私のことを愛してくださることをおっしゃいました。それを信じています。でも、私の信仰を増してください。私の信仰は薄いので、私はよく心配します。でも、あなたは今まで、私にあなたの忠実さを示してくださいました。私には、あなたのことを疑う理由が全然ありません。どうして、私が疑う時があるでしょうか。私が自分の心配を外すように助けてください。あなたの光で、私の問題が力のない影のようになるように。

私があなたに焦点当てるように助けてください。私があなたを信頼できるように助けてください。アーメン。

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マタイ6:19-24;ルカ11:34-35-私たちがちゃんと照準を合わせること

前回の記事で私が言ったのは、私たちがいつも、「この罪を避けなちゃ、この罪を避けなちゃ」と考えると、多くの場合、私たちがその罪に落ちてしまうことです。もっといい方法は、神様に焦点を当て、ついていくことです。

でも、誘惑だけに関してではなく、すべてのことに関して、その態度を持った方がいいです。この個所では、イエス様は、私たちが何に照準を合わせるか話します。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19-21)

そして、イエス様はこう言いました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(24)

私たちは自分自身にこう訊くべきです。「私は何に照準を合わせているだろうか。」

多くの人々は、一時的なものに照準を合わせます。つまり、お金や、持ち物を得ることに照準を合わせます。

でもイエス様はこう言います。「そんなものは結局なくなります。あなたは永遠のものに照準を合わせるべきです。」

それでは、永遠のものというのは何でしょうか。

二つの永遠のものしかありません。神様との関係と、ほかのイエス様を信じる人との関係です。

私たちは、天国にこの地からほかのものを持っていくことができません。だから、この世に生きている間、その二つのものに焦点を当てなくてはなりません。

私たちは神様との関係をもっと親しくするように働くべきです。また、イエス様を知らない人に福音を延べ伝えるべきです。そして、クリスチャンの兄弟たちと姉妹たちとの関係を強めるように働くべきです。

そうすれば、あなたは天国に宝を蓄えます。神様との関係と私たちが愛している人々との関係よりも、もっと素晴らしい宝があるでしょうか。

でも、多くの人々は、クリスチャンでも、お金を儲けることに焦点を当てます。または、この世のものを獲得することに焦点を当てます。でも、イエス様は「あなたはそれができない」と警告します。

神様はあなたの心の半分を望みません。神様があなたの心の半分だけを持てば、あなたの奉仕を受け入れません。私たちはお金に仕えるかもしれません。私たちは神様に仕えるかもしれません。でも、両方に仕えることができません。

だから、イエス様は私たちに訊きます。「あなたはどんな目を持っているでしょうか。あなたは、物の実の価値はちゃんと見えますか。あなたは何が本当に大切かわかるでしょうか。そうなら、あなたの全身も明るいです。あなたは生きがいがある人生を送ります。また、あなたは、神様があなたのために意図した人生を知ります。それは、神様との関係と人間関係の中心の人生を知ります。

でも、そんなことが見えないなら、あなたは暗闇に満ちた人生を送ります。あなたは、いつも不満だけど、どうして自分がそう感じるか決して分かりません。あなたは、いつもお金や、ほかのものを捕まえようとするけど、結局あなたの心は空っぽになります。」

だからイエス様はこう言います。

もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:23)

また、イエス様は私たちに警告します。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11;35)

あなたはどうですか。あなたは何に照準を合わせているでしょうか。

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マタイ6:13;ルカ11:4ーー日常の霊的な戦い

毎日、私たちは霊的な戦いに直面します。だから、イエス様は私たちがこのように祈るべきだと教えました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

私たちは邪な世界に生きています。ここは、サタンの住まいです。そして、サタンは私たちに対して悪意を持っています。彼は、どうしても私たちを倒したがります。

つまり、サタンは私たちの心の中で働いています。彼は、私たちを誘惑して、私たちが肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に負けるように働きます。(第一ヨハネ2:16)

だから、私たちは神様の導きを祈るべきです。つまり、私たちが罪に焦点を当てずに、神様に焦点を当てるように祈るべきです。

私たちは誰でも、誘惑に負けやすいところがあります。私たちは、その弱い点にちゃんと注目した方がいいです。できるだけ、その誘惑から逃げた方がいいです。でも、していけないことに注目しすぎたら、結局、その誘惑はもっと強くなります。

でも、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、私たちは自然に誘惑から離れます。罪を避けるのは足りないです。神様に従わなくてはいけません。

でも、私たちを誘惑するだけではなく、サタンは私たちを滅ぼしたがります。サタンが人々を通して私たちを攻撃するときもあります。

サタンが私たちにうそをつくときもあります。「あなたはもうだめだ。神様があなたのことを愛するはずはない。あなたは、もう失敗しすぎたから。神様はもうあなたを赦さない。」

だから、イエス様は私たちに「悪からお救いください」、と祈りなさいと言います。(もう一つの翻訳のし方は「悪者から、つまり、悪魔からお救いください」)。

私たちは私たちを憎むサタンと戦います。だから、ペテロはこう言いました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

神様がサタンの私たちに対する影響を制限するように、祈りましょう。

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マタイ6:12,15--オプションじゃない

多くの人々にとっては、この個所は本当に受け入れにくいです。イエス様は、このように祈るように教えます。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(6:12)

そして、イエス様は続けます。

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。(6:14-15)

それは、本当に厳しい言葉です。そして、ほかの個所ではイエス様はその言葉をもっと具体的に説明します。

でも、その祈りをちょっと見てみましょう。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

多くの人々は、この祈りをしばしば祈るけど、彼らが何を言っているか真剣に考えません。

でも、この祈りを想像してください。「主よ。私は姉に本当に怒っています。彼女は私を本当に傷つけた。私は絶対許せない。だから、主よ。ちょっとお願いがあります。私が姉を許さないように、私を赦さないでください。」

それはバカな祈りだけど、あなたが主の祈りを祈る時、実はあなたは、そう言っています。「私が相手を許すように、私を赦してください。でも、私が相手を許さないなら、私を赦さないでください。私が怒りと苦さを彼らの上に注ぐように、私にもあなたの怒りと裁きを注いてください。」

神様の目には、許しはオプションではありません。もし、あなたが相手を許さないなら、あなたは神様からの赦しを期待できません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、あなたが神様からの赦しに値しなかったのに、神様はあなたを赦せるために高い代価を支払ったから。その代価は、御子イエスの命でした。

あなたはどうしても、神様からの赦しを買うことができませんでした。あなたはどうしても、あなたの罪のために償いをするわけがありませんでした。でも、神様はあなたを憐れんでくださいました。

神様が私たちを赦したなら、どうして私たちは相手を許せないでしょうか。

もし、あなたが相手を許せないなら、あなたは本当に神様の赦しを理解できません。あなたが言っているのは、「私の罪はそんなに悪くなかったのです。だから神様は私を許してくれました。」ということです。つまり、あなたは自分の罪を控えめに言って、軽いものと見なします。

でも、あなたの罪のため、あなたは地獄に行くことに値しました。あなたの罪があまりにも悪かったので、イエス様は十字架でその罪のために死ななくてはなりませんでした。あなたは、それを本当に信じているでしょうか。

そうすれば、どうして、「私の罪は、そんなに悪くない」という態度を取られるでしょうか。

もし、あなたが相手を許せないなら、あなたの罪をあまりにも軽く考えます。もしあなたの罪の悪さがちゃんと分かれば、相手を許せないはずはありません。

だから二つのことを考えてください。

1.あなたは、どれだけ真剣に自分の罪の酷さを考えるでしょうか。その罪によって、あなたが地獄に値することを信じるでしょうか。

2.神様があなたの酷い罪を赦してくださったら、どうして、あなたはあなたに対する犯された酷い罪を許せないでしょうか。

許すことは簡単なことでしょうか。多くの場合、許すことは本当に難しいです。もし、あなたが深い傷を受けたら、自分の力で、許すことは、難しいです。もしくは、無理です。でも、神様の恵みと憐れみによって、あなたが赦されたように、神様の恵みと憐れみによって、あなたは相手を許す力をもらいます。

でも、自分自身に一つの質問を訊くべきです。「私は今、相手を許せないかもしれないけど、私は神様が私の心を変えてくださることを望むだろうか。」

もし、「はい」と言えば、このように祈ってください。

主よ。私は本当に傷ついて、今相手を許せない意思も全然ありません。でも、私があなたの憐れみに値しなかったのに、あなたは私を赦してくださいました。私を赦せるために、あなたは高い代価を支払いました。私がその真理をもっと深くわかるように。私がその真理をしみじみと感じるように助けて臭い。そして、相手を許す気を与えてください。私の心を変えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

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マタイ6:11;ルカ11:3--私たちのニーズのために祈ること

私にとって驚くべきことは、この宇宙を支配する神は、私のことを愛していることです。また、私がつまらないものに関して祈っても、神様は私の祈りをよく聞きます。

イエス様は、そう教えました。彼は、こう言いました。

だから、こう祈りなさい。。。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:9,11)

イエス様が「心配」に関して話すとき、この祈りをもっと具体的に説明します。つまり、イエス様によれば、神様は私がすべての人生のための必要を持つかどうか、気にかけておられます。つまり、食料、衣類、寝る場所です。もちろん、こんなものを買うためには、お金が必要です。また、お金を得るために、仕事も必要です。

私たちは、そんなことをよく心配します。

でも、神様は「そんなことについて心配するな」と言います。こんな心配は、私たちの心を支配してはいけません。むしろ神様は、私たちが天の父が私たちを愛してくださり、私たちのニーズに備えてくださることを信じるように望みます。だから私たちは、そのニーズについて祈ったあとは、神様の手に任せるべきです。

でも、どれだけ私たちは祈らずに、心配するでしょうか。私がそうする時もあります。

私たちは、自分自身にこう聞くべきです。「私の天のお父さんが本当に私のことを愛してくださることを信じているだろうか。私の天のお父さんが私のニーズに備えることを本当に信じているだろうか。」

もし、そのことを本当に信じたら、私たちの心配はすぐになくなるでしょう。

あなたはどうですか。あなたは、ただ心配しているでしょうか。もしくは、あなたは祈っているでしょうか。

主よ。あなたは私のニーズをよくご存じです。私の将来に関する心配をよくご存じです。でも、あなたが私のことを愛していることを信じます。頭では、そのことを知っています。でも、そのことは私がしみじみと分かるように助けてください。私が無駄な心配を捨てるように助けてください。むしろ、私があなたの平安を知るように助けてください。アーメン。

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マタイ6:10;ルカ11:2--神の御国。神の御心。

私は、英語のブログでこの個所について書いたのは、4年前でした。その英語の記事を読むとき、本当に懐かしいと思いました。また、振り返ると、私は神様の良さを見ることができます。

その日、私は本当にフラストレーションを感じていました。その時、私の家計は悪くなかったけど、理想的ではありませんでした。そして、もっと良い仕事を得る機会がありました。でも、面接の日が平日なので、休暇を取らなくてはなりませんでした。しかし、なぜか私が勤めていた派遣会社は、そのリクエストを断りました。だから私は、「どうしようかなあ」と思いました。

結局、神様の恵みによって、その面接に行くことができました。私が派遣された中学校の教頭先生の援助のおかげで、派遣会社に私が面接に行かせるように説得できました。

その面接に合格して、今ではもっと良い学校に勤めています。

とにかく、この話と、この個所の関係は何でしょうか。この個所では、私たちはこう祈ります。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

正直に言うと、その朝、私は本当にストレスを感じていました。私の派遣会社が不公平だと思いました。(その以前、英語のブログの記事では、私は不公平な世界に関して、書いたのに)。

私が以前言った通りに、私は自分の状況をコントロールできませんでした。私の態度だけをコントロールできました。でも、それは本当に難しいことでした。

でも、最終的に、私はこう祈りました。「主よ。あなたのみこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。天で、あなたの御心は完全に行われます。この地で、特に、この状況で、あなたの御心が完全に行われますように。私がこの仕事を得るのが、あなたの御心なら、それは良いです。あなたの御心でないなら、私がそのことを受け入れられるように助けてください。」

でも、それだけではなく、私は「御国が来ますように。」とも祈りました。私にとって、その仕事を得るのは、本当に大切なことでした。でも、それよりも、神様の御国は断然大切なことでした。その時、私が考えていたのは、「この仕事を得れば、もちろん、給料が上がるけど、一番大切なのは、私の時間が増えて、私が神の御国のためにもっと何かできることです。」ということです。

その日、この個所を読んだけど、6章の終わりまで読み続けました。なぜなら、この個所では、イエス様は「自分のいのちのことを心配したりしてはいけません」と言っていたから。その日、私は本当にその言葉を聞く必要がありました。そして、この個所の終わりで、イエス様はこう言いました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

今、私が振り返ると、イエス様はその約束を守りました。

それでも、私は時々物事を心配します。

でも、神様の恵みによって、私は祈ります。「私の人生では、またこの地で、あなたの御国が来ますように。みこころが行なわれますように。」

4年前、私はこう祈りました。

「主よ。あなたは、私のストレスをよくご存じています。私の心配もよくご存じています。でも、あなたはこの全地の主です。あなたは、私の雇い主の主です。でも、もっと大切なのは、あなたは私の主であることです。あなたの御心が行われますように。私の仕事の状況で、あなたの御心が行われますように。私の将来で、あなたの御心が行われますように。私がすべてよりもあなたの御国に焦点を当てるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。」

(もし、あなたが英語ができるなら、この記事の原文はここです。」

 

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マタイ6:9;ルカ11:2--私たちの誉れにふさわしい方

多くの人々は、この祈りを「主の祈り」と呼びます。実は、「弟子の祈り」と呼んだ方がいいと思います。つまり、イエス様の弟子たちの方がこの祈りを祈った方がいいです。

とにかく、イエス様は、こう言いました。

だから、こう祈りなさい。。。御名があがめられますように。(マタイ6:9)

この個所では、新改訳の翻訳者は、「あがめる」という言葉を使いました。もちろん、そのギリシャの言葉は、その意味もあります。でも、その言葉は、もう一つの意味があります。その言葉は「聖い」というニュアンスを持っています。だから、マタイ23:17では、その言葉は「聖いものにする」と翻訳されます。また、ローマ15:16では、「聖なるものとされた」と翻訳されます。もう一つのは、第一テモテでは、「聖められる」と翻訳されます。

だから、「御名があがめられますように。」という意味は、「御名が聖なるものと見なされますように」、または、「御名が聖なるものとして、あがめられますように。」ということです。

もう一つのことがあります。聖書の時代、人の名前は、その人の性格を表現しました。だから「御名が聖なるものとして、あがめられますように。」と祈れば、その意味は「あなたが聖なるものとしてあがめられますように」という意味です。

でも、私たちが「神様は聖なる方」と言うと、それはどういう意味でしょうか。

基本的に、神様は完全な方だという意味です。神様には、欠点が全然ありません。神様は全く聖い方です。

その反面、私たちは不完全な人々です。私たちの性格は全然聖くありません。

だから、私たちは神様の完全さ、また、神様の聖さを見ると、私たちが神様に畏敬の念を抱くことは、ふさわしいことです。また、神様の完全さと聖さを見ると、私たちが神様をあがめるのは当然なことです。

でも、神様をあがめるのは、足りないです。神様を見ると、私たちの天の父のようになりたい気が湧くはずです。つまり、私たちは天の父を喜ばしたいです。また、私たちの霊的な不潔と欠点を嘆きます。

もし、「御名が聖なるものとして、あがめられますように。」と祈れば、罪深い生活を送る余地はありません。私たちは、「まあ、神様が私を赦してくれるので、罪を犯してもいい」と全然言えません。

もし、あなたが本当に神様の子供なら、「御名が聖なるものとして、あがめられますように。」と祈るとき、その意味は「神様、私は、あなたに畏敬の念を抱きます。あなたを愛しているので、あなたのようになりたいです。私を助けてください。」という意味です。

そう祈れば、神様は、その祈りにきっと答えてくださいます。神様は自分の子供が神様を真似することを見ると、本当に喜びます。

そして、私たちが罪の泥に落ちるなら、神様は私たちを助け、イエス様の血によって私たちを清めて、導き続けます。また、神様は、私たちがどのように神様のようになるか教え、私たちがそんな聖い人生を送る力を与えてくださいます。

あなたはどうですか。あなたは、神様に畏敬の念を抱くでしょうか。また、天の父のようになりたいでしょうか。

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マタイ6:9;ルカ11:1-2--私たちのお父さん

一つの記事で主の祈りについて話そうかなあと思ったけど、結局少しずつ話した方が良いと思いました。

この個所では、イエス様は、神様をどのように呼んだ方がいいか教えます。マタイの福音書では、イエス様は「天にいます私たちの父よ。」と言います。ルカの福音書では、イエス様は、もっと簡単な表現を使います。「父よ。」

実は、日本では、主の祈りの以外に、「天にいます私たちの父よ」、また、「父よ。」と祈る人がほとんどいない感じがする。

むしろ、私の教会では、私は、「天のお父様」とよく聞きます。

その理由は、よく分かりません。私のただの意見だけど、クリスチャンがこんな呼び方を使うと、なんだか神様と離れる感じがします。

もし、「天のお父さん」や、「お父さん」と祈ったら、イエス様の意味にもっと近いと思います。

なぜなら、私は、イエス様が私たちが神様に近づいてもいいと教えたがったと思うから。

もちろん、「主よ」などと祈ってもいいです。神様が本当に私たちの主なので、その呼び方はふさわしいです。ペテロもそのように祈りました。(使徒4:24)

でも依然と言ったように、その呼び方は、神様と私たちの間に距離があることを暗示します。もちろん、王様としもべには、間柄があるけど、親しい関係を持っていません。そのしもべは、いつでも王様と話すことができません。

でも、王様の子供は、いつでもそのお父さんと話すことができます。その子は、王に対するしもべが持っていないアクセスを持っています。それに、その子は、父が愛してくれる確信を持っています。

私たちの天のお父さんは、大いなる王です。神様は、この世界、この宇宙でも、支配します。でも、神様はいつでも、あなたのために時間を割いてくださいます。なぜなら神様は、あなたの王だけではなく、あなたのお父さんですから。

残念なのことですけど、多くの人々は、「天のお父さん」と祈っても、その言葉がよく分かりません。なぜなら、彼らの実のお父さんは、不完全ですから。そのお父さんは、彼らに聞いてくれないし、愛してくれないし、養ってくれませんでした。それに、お父さんに虐待された人もいます。

だから彼らは、その否定的なイメージを天のお父さんにかぶせます。

でも神様は、そのようなお父さんではありません。そして、あなたの実のお父さんは、いろんな欠点を持つかもしれないけど、神様はそんな欠点を持っていません。

神様は、あなたを愛してくださいます。神様は、あなたの祈りを聞いてくださいます。神様は、あなたのニーズに備えてくださいます。また、神様は、あなたを決して捨てません。

あなたは、「天のお父様」と祈るとき、どんなイメージを持っているでしょうか。

もし、否定的なイメージを持てば、神様があなたの実のお父さんと違うことを覚えていてください。だから、神様があなたの実のお父さんからもらった傷を癒すように祈ってください。あなたが実のお父さんを許せるように祈ってください。そして、神様があなたの「天のお父さん」のゆがんだイメージを変えるように祈ってください。

あなたが天のお父さんを本当に知るように。

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マタイ6:7-8--無駄な言葉

祈りは簡単なのものです。でも祈りは、なんだか難しいものです。

根本的に、祈りは神様と話すことです。私たちがほかの人々と話すように、私たちは神様と話します。

でもそれなら、どうして、祈りはそんなに難しいでしょうか。

多分、一つの理由は、私たちが耳で、神様の答えを聞くことができないからです。モーセのように、私たちが神様と話すことができたら、祈りは、もっと簡単なものになるでしょう。

でも、私たちが、そのように会話できないので私たちはよく「神様は本当に私の祈りを聞いてくれるだろうか。もしかして、私は間違った方法で祈っているだろうか。」と疑問に思います。

だから、多くの人々は、自然に神様と話せずに「祈りの形式」を使用します。つまり、「主の祈り」を彼らの祈りの方式にします。

でも祈りは、ただの形式ではありません。主の祈りによって、私たちは祈りがどんなものか分かるし、どんなことについて祈るべきか理解できます。でも、主の祈りは魔法の言葉ではないです。その言葉を言っても、神様はあなたの言葉を聞くとは限りません。

でも、多くの人々はそのように考えます。彼らは、主の祈りをただの形式にします。なぜなら「イエス様は、そのように祈りなさいと言ったでしょう?」と思うから。

しかし、イエス様はこう言いました。

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(7-8)

つまり、神様と普通に話した方がいいです。特別な言葉は要りません。長く祈らなくてもいいし、本当に美しい言葉を使わなくてもいいです。そんな祈りは、神様を感動させないから。神様は、あなたの心からの言葉だけを聞くことを望みます。

時々、人々は、こう訊きます。「もし、神様が私の願いをするより先に、私に必要なものを知っておられるなら、どうして祈らなくてはならないのだろう。」

なぜなら、神様は、あなたとの親しい関係を望むから。もちろん、私たちが話さなくても神様は、私たちの思いをよく知っておられます。もちろん、私たちが願いをしなくても、神様は私たちのニーズに備えることができます。

でも、私たちが祈るとき、私たちが神様に出会うので、その関係はもっと親しくなります。神様は何よりも、そんな関係を望みます。

でも、私たちが何を言っているか考えずに祈れば、また、私たちがただの暗記した言葉を繰り返せば、そんな親しい関係ができません。

神様は、私たちの祈りを聞きます。それに、私たちがちゃんと聞けば、神様は私たちに話しかけます。だから、形式的な祈りを止めましょう。むしろ、私たちの心から神様と話しましょう。すべての喜びや、悲しみや、悩みを伝えましょう。

あなたは、どうですか。あなたは、本当に祈っているでしょうか。もしくは、ただの無駄な言葉を言っているでしょうか。

 

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マタイ6:1-18--私たちの動機

山上の垂訓では、イエス様は、しばしば私たちの心にあるものを指摘します。

この個所では、イエス様は、神様が私たちの行動だけではなく、私たちの動機も見ると教えます。

だから、イエス様はこう言いました。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(1)

そして、イエス様は三つの例を与えます。

一つ目は、施しをすることです。その時代、施しをするとき、認識されたがる人がいました。だから、皆の前で彼らは貧しい人々にお金をあげました。

でもイエス様が言ったのは、「そうすれば、神様から報いを受けられません。あなたは神様からの報いを求めずに、周りの人々からの誉れを求めるから。あなたは、もう周りの人々から報いを受けられました。」ということです。

そして、イエス様は祈りについて話しました。その時代、周りの人々を感動させるために、大きな声で、長い祈りを祈った人もいました。多分、あなたが誰かの祈りを聞いたとき、その人が誰に祈っているか疑問に思う時もあるでしょう。

最後に、イエス様は断食について話しました。断食するとき、自分がかわいそうな顔をする人もいました。だから、周りの人々は、「あの人は断食している。本当に霊的な人だ。」と思いました。

でも、イエス様によれば、神様はそんな断食のために、報いを与えてくださいません。むしろ、神様は周りの人々に見えないことを褒めます。なぜなら、その行動は、神様に対する愛のためにされたものだから。

相手を批判するのは、簡単なことだけど、あなたはどうですか。あなたは、周りの人々のあなたに関する意見が気になっているでしょうか。あなたは、自分の霊的な人生を見せたがるでしょうか。

もしくは、あなたは、本当に神様と周りの人々を愛しているでしょうか。

あなたは、周りの人々をだますかもしれませんけど、神様をだますことができません。正しいことをすることだけでは足りないです。正しい動機も必要です。

正しい動機というのは何ですか。それは、神様に対する愛です。また、周りの人々に対する愛です。神様の目には、ほかの理由は、全然大切ではありません。

神様に対する愛も、周りの人々に対する愛も、外向きのものです。私たちの焦点が内向きになると、つまり、私たちがいつも周りの人々が私たちに関してどう思うか考えると、私たちの良い行動は、神様の目には価値がなくなります。

実は、私の動機に関して、私はよく戦います。私は、いつも自分自身に訊きます。「私は誰を喜ばせようと思っているだろうか。私が教会でメッセージをするとき、私は皆を私の霊的さで感動させようと思っているだろうか。もしくは、神様は、私を通して本当に話しているだろうか。私は誰の歓心を買おうと思っているだろうか。」

あなたはどうですか。誰を喜ばせようと思っているでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

主よ。私はしばしば、周りの人々の私に対する意見があまりにも気になります。私はしばしば内向きです。赦してください。私が外向きになるように。私があなたを愛し、周りの人々を愛するように助けてください。私があなたのようになるように。アーメン。

 

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マタイ5:43-48--完全の愛。完全の憐れみ。

多分、我々クリスチャンは、よくこのイエス様の言葉を聞きます。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この個所の前後は、興味深いです。もちろん、私たちは、清い人生を送るべきです。でも、この個所では、イエス様は、特に愛について話しているようです。私たちの愛は、完全なものであるべきです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対すると思います。でも、イエス様は、神様の律法に反対しませんでした。イエス様は、パリサイ人と律法学者の律法に関する間違った解釈に反対しました。

前回の記事で、そのことを学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対しませんでした。「あなたの目か歯に害を与えた人を殺しても良い」と言いませんでした。

むしろ、イエス様はこう言いました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。でも、あなたの解釈は間違っています。あなたたちは律法を乱用して、復讐の言い訳としてその律法を引用しています。もちろん、公平さと正義を求めるのはいいことです。でも、自分のために公平さと正義をいつも求めずに、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたは、天の父のようになるし、あなたは、この世でもっと輝く光になります。」

イエス様は、そんな人生を送りました。イエス様が自分のために正義を要求していたら、イエス様は、決して十字架で死ななかったでしょう。

この個所では、私たちは、もう一つの律法に関して間違った解釈を見ます。旧約聖書では、簡単に「自分の隣人を愛しなさい」という命令を見つけることができます。(レビ記19:18)

でも、「自分の敵を憎め」という命令は、全然ありません。ユダヤ人たちは、そのアイデアを加えました。

だから、イエス様は、その考え方を訂正しました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架でそうしました。

イエス様の敵が、彼を十字架にかけた時、また、イエス様をあざけったとき、イエス様は、彼らのために祈りました。

イエス様は、彼について祈りませんでした。「ほら。彼らはひどいでしょう?」と言いませんでした。

むしろ、イエス様は、彼らのために祈りました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らはイエス様を憎んでいたのに、イエス様は、彼らのことを愛していました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命の希望を持っています。

そして、イエス様はこう言いました。「あなたのことを愛している人を愛するのは、簡単なことです。だれにも、それができます。最悪の人でも、それができます。でも、あなたのことを憎む人を愛するのは、難しいことです。」

でも、神様はそうします。私たちは、神様を憎んだり侮ったりして、神様に私たちの背を向けたのに、毎日神様は、いろんな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様は自分の子をこの世に送りました。

だから、神様は、私たちを神様のようになるように呼びます。私たちの愛は、神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでいるように、私たちも憐れみに富むべきです。

あなたの愛と憐れみは完全なものでしょうか。

 

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マタイ5:38-42;ルカ6:29-30--でも、フェアじゃない

多分、すべての人々は、フェアなことを望みます。だから、物事がフェアじゃないと思うと私たちは「フェアじゃない」と叫びます。でも、それは、ベストな反応でしょうか。

イエス様の言葉は、私たちのすべての本能に反対します。

イエス様はこう言いました。

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

38節は、神様の律法から来ました。(出エジプト記21:23-25)

その出エジプト記の個所では、神様はモーセと裁判官に、どうやって悪い行動を罰するか教えました。神様は、復讐に関して話していませんでした。その要点は、罪に応じた罰を与えるということです。つまり、過度に罰してはいけません。

例えば、誰かが相手の目に害を与えたら、相手の人はその人を殺してはいけません。

それでも、実は、モーセや裁判官は文字通りにはその律法に従いませんでした。それは、神様の意図ではなかったから。もし、あなたがその個所の後に読んだら、その律法の応用を見ることができます。普通は、相手が償いをしなくてはなりませんでした。

とにかく、その律法のポイントは公平さ、つまり正義です。

でも、この個所では、イエス様は、私たちが公平さについて心配しすぎないべきだと言いました。むしろ、あなたを傷つける人々に対して、あなたは光になるべきです。

イエス様の最初の例は興味深いです。

なたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

私は左利きなので、私にとって相手の右の頬を打つのは、簡単なことです。でも、ほとんどの人々は、右利きです。だからその人は、相手の右の頬をガツンと打ちたいなら、手の甲で打たなくてはなりません。

つまり、イエス様は、あなたに対する暴力ではなく、侮辱に関して話しています。ユダヤ人の文化でも、相手を手の甲で打つのは、侮辱と見なされました。

だから、イエス様の意味は、相手があなたを侮辱したら、それを許しなさい、ということです。相手に侮辱を返す必要がありません。

それは、フェアでしょうか。それは、フェアではありません。でも、イエス様は、「公平なことを気にするな。恵みを与えなさい。」と言います。

そして、イエス様は、こう言いました。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40)

イエス様の時代に、イスラエル人の皆は、たくさんの下着を持っていましたけど、多くの場合、上着は一枚しか持っていませんでした。そして、寝るときに、彼らは、その上着を毛布のように使いました。だから、律法によれば、もし、貧しい者が上着を担保として使ったら、毎晩、相手は必ずその上着を返さなければなりませんでした。(申命記24:12-13)

でも、イエス様は「もし、相手があなたを告訴して下着を取るなら、公平であることを気にせずに、あなたの上着も与えなさい。」と言いました。

また、ローマの律法によれば、ローマの兵隊は、ユダヤ人に荷物を1.5キロぐらい運ばせるように命令できました。もちろん、ユダヤ人は、そんなことを全然したがりませんでした。でも、イエス様は「1.5キロだけではなく、3キロ運びなさい。」

そして、イエス様は、こう言いました。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(42)

では、相手が私たちのやさしさに付け込むことを許してもいいでしょうか。

そういうわけでもないです。でも、私たちは、あまりにも公平さについて心配するなら、私たちは、フラストレーションをよく感じます。なぜなら、ここは、不公平な世界だから。私たちは、それをコントロールできません。

私たちがコントロールできるのは、私たちの態度です。

私たちは、フラストレーションを感じて、叫ぶことができます。私たちは、戦うことができます。

もしくは、私たちは、相手に恵みを与えることができます。憐れみを与えることができます。

イエス様は、私たちのためにそうしてくださいました。

イエス様が十字架で死ぬのは、フェアではありませんでした。イエス様は、何も悪いことをしていませんでした。それでも、イエス様は、私たちに恵みと憐れみを与えてくださいました。だから、私たちは、神様からの赦しと永遠の命を知るようになりました。

イエス様が私たちにその恵みと憐れみを与えるなら、私たちも、周りの人々にそうするべきじゃないでしょうか。

 

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マタイ5:33-37--正直さ

時々、信頼できる人を見つけるのは難しいことです。この壊れた世界で、人々は相手を信頼できないので、時々、契約や誓いを要求します。

「私は約束します。」

「私は誓います。」

でも、イエス様は、私たちが正直な人になるべきだと教えます。つまり、周りの人々は、あなたの言葉を信じるので、約束や誓いを要求しないです。

イエス様はこう言いました。

さらにまた、昔の人々に、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、「はい」は「はい」、「いいえ」「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(33-37)

イエス様の時代では、あなたが、神様のみ名によって誓ったら、その誓いを守らなくてはいけませんでした。でも、パリサイ人や、律法学者は、天や、地や、自分の頭を指して、誓ったら、その誓いを守らなくてもいいと教えました。

でも、イエス様は、私たちがすべての誓いを守らなくてはならないと教えました。なぜなら、エルサレムや、天や、地は神様に属するし、それら物は神様の栄光の反映ですから。だから、あなたがそのものを指し、誓ったら、実は神様を指し、誓うことと同じです。あなたの頭も、神様に属します。いつ白髪が出るか、あなたはコントロールできません。

でも、イエス様の要点は、「すべての誓いを守らなくてはいけない」ということではありません。

むしろ、イエス様の要点は、「誓わない方が良いです。相手ががあなたの誓いを要求する理由は、一つしかありません。つまり、相手は、あなたの言葉を信頼できるかどうか分からないのだ」ということです。

どうして、彼らは、あなたの言葉を信じられるかどうかわからないのでしょうか。

1.彼らは、あなたのことを知らないから。だから、裁判所では、人々は「真実を言うことを誓います」と言わなくてはなりません。裁判官たちは、あなたのことを知らないから。

2.彼らは、あなたを知っているけど、あなたを信頼できないので、あなたの言葉を疑います。その場合相手は、あなたの誓いを要求するかもしれません。

一つ目の場合は、仕方がありません。私たちは、罪によって壊れた世界に生きているから。人間不信は普通のことです。だから、裁判所で私たちは誓わなくてはなりません。イエス様はすべての誓いを禁じるわけではありません。イエス様も、そうしましたから。(マタイ26:63-64)

でも、二つ目の場合、ある程度まで、あなたはコントールできます。もし、あなたが、いつも正直話すと、周りの人々はあなたの言葉を信じるようになります。だから、あなたからの誓いや、約束を要求しません。むしろ、あなたが話すと、彼らは、あなたの言葉を疑わずに信じます。

周りの人々には、あなたの言葉を信頼できるでしょうか。小さいことでも(パーティーにちゃんと間に合ってくること)、また大きいことでも(仕事やミニストリーの忠実さ)、彼らにはあなたのことを信頼できるでしょうか。

イエス様は、私たちが世の光として生きるように呼びます。人々を信頼できない人が多い世界では、あなたは光でしょうか。周りの人々には、あなたのことを信頼できるでしょうか。

 

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マタイ5:29-30– なんとしても

私の一番好きなスポーツ・チームは、ピッツバーグ・スティーラーズというアメフトのチームです。1970代のスティーラーズの監督の気に入った標語は「何としても」ということです。つまり、「何としても、勝たなければなりません。」

イエス様にも、そんな態度がありました。でも、イエス様は、勝負に関して話していませんでした。むしろ、罪に関して話しました。簡単に言うと、イエス様は「何としても、罪をあなたの人生から追い出しなさい」と言いました。

イエス様はこう言いました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(29-30)

ある人々は、この言葉を文字通りに解釈するけど、それはイエス様が言った意味ではありません。イエス様は、あなたが自分の目や手を捨てることを望みません。

イエス様の意味は、私たちが真剣に罪のことを考えるべきだということです。でも、多くの場合、私たちは、罪のことを軽く考えます。

私たちは、「大丈夫。神様は赦してくれる」と考えます。山上の垂訓のイエス様の教えと違って、私たちは、自分の罪を嘆きません。むしろ私たちは、悔い改めずに、罪を犯し続けます。

でも、イエス様が十字架で死んだ理由は、私たちの罪でした。自分の罪のため、人々は地獄に行きます。あなたがイエス様に出会う前に、あなたの罪のため、あなたは地獄に行くことに値していました。どうして、あなたは、自分の罪を軽く考えて、悔い改めせずに、その罪を続けることができるでしょうか。

だから、イエス様は「何としても、罪を捨てなさい」と言います。どうやって、罪を捨てることができるでしょうか。

1.祈り。私たちには、自分の力で、罪に勝つことができません。神様の力が必要です。

2.できるだけ、誘惑を避けることです。例えば、あなたは、アルコール依存症の問題があれば、バーなどに行かない方がいいです。もし、情欲の問題があれば、インターネットに注意し、ポルノを売っている場所を避けるべきです。

3.あなたの問題をクリスチャンの友人に伝えるべきです。そして、その人の祈りを頼むべきです。また、その人に、「時々、私にその罪に関してチェックしてください」と頼むべきです。

ヤコブはこう言いました。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

あなたの罪のことを軽く考えないでください。イエス様は、そうしませんでした。あなたの罪のために、イエス様は十字架で死にました。だから、神様が聖であるように、あなたも聖でなければなりません。

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マタイ5:27-32--姦淫

前回の記事で、イエス様は殺人について話しました。今回は、イエス様は姦淫について話します。イエス様がそのことについて話した時、たぶん、その言葉は、宗教的なリーダーたちの良心を貫いたかもしれません。

私が以前言ったように、パリサイ人たちは、律法の具体的なものにも従ったので、それを誇りました。それでも彼らは、その立法の精神を見逃しました。

一つの例は、姦淫でした。パリサイ人の中でも、いろんな派がありました。例えば、「あざができたパリサイ人」がいました。(もちろん、その名前は侮辱でした。)

「あざができた」パリサイ人は、情欲のことが気になって、女の人を通り過ぎたら、彼らは目を閉じました。でも、しばしば、目を閉じている間に、彼らは壁にぶつかってしまいました。

また、あるパリサイ人たちは、離婚について議論しました。律法で、モーセは、こう言いました。

人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ[る]。(申命記24:1)

パリサイ人は、「恥ずべき事」について議論しました。つまり、「恥ずべき事」というのは何のことでしょうか。ある人は「恥ずべきこと」は、「不品行」という意味だと思いました。

でも、ほかのパリサイ人は、もし妻がうるさかったり、ご飯を焦がしたりしたら、それも「恥ずべき事」だと言いました。

私の意見ですけど、たぶん最も大きい問題があったでしょう。あるパリサイ人は、女の人が通り過ぎたら、目を閉じて壁にぶつかるかもしれないけど、そのあと、彼女をちらっと見ました。そして、もう一度振り返って彼女を見ました。すぐに、彼はずっと彼女のことを考えました。

でも、問題がありました。彼はもう結婚しています。だから、彼はこう考えたかもしれません。

「姦淫は駄目だ。どうしよう。あ、わかった。私の妻と離婚して、あの人と結婚しよう。」

実は、この「正しい」パリサイ人たちは、しばしば離婚しました。

だから、イエス様は、はっきりと言いました。「あなたと結婚していない人と寝なくても、あなたは、無実とは限りません。」

つまり、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(5:28)

だから、あざができたパリサイ人が家に帰って、さっき出会った女性と結婚するために、どうやって自分の妻と離婚しようと思ったとき、そのパリサイ人は心の中で、姦淫を犯しました。

そういうわけで、イエス様はこう言いました。

また「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ」と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

イエス様がパリサイ人の義と本当の義と比べたので、イエス様の意味が明らかだと思います。もし、あなたが結婚している間に、ほかの人に恋をしたので、その人と結婚するために妻か夫と離婚したら、神様の目には、それが姦淫です。

あなたはどうですか。あなたは心の中で姦淫を犯しているでしょうか。あなたは恋人と結婚しようと思っているので、妻か夫と離婚しようと思っているでしょうか。もしくは、あなたの恋人は別の人と結婚しているのに、あなたは恋人に「離婚したら。。。」と勧めているでしょうか。それは姦淫です。そして、神様は、そんな罪を裁きます。

あなたは、ほかの人と寝ていないかもしれないけど、あなたは妻か夫と一体になっているでしょうか。それは、体的なことだけではありません。心の一致も、霊の一致もあるでしょうか。

私たちがいつも愛している方に忠実になるように。神様に忠実になるように。また、妻か夫に忠実になるように。

 

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マタイ5:23-26--和解

前の記事で、私たちはこの言葉を読みました。

平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)

その言葉を読むと、多くの場合、私たちはケンカしている二人の友達を助けることを考えます。

でも、もう一つの場合、私たちは平和を作る者になるべきです。つまり、私たち自身はケンカするとき、平和を作るものになるべきです。

イエス様はこう言いました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(5:23-24)

注意事項が二つあります。

まずは、イエス様は「もしあなたの兄弟があなたに恨みをもつなら、あなたは彼のところに行って、仲直りしなさい。」と言います。

多くの場合、私たちが悪いことをしていないと思うのに、誰かが私たちに怒っています。だから、私たちは、「それは彼の問題です。私には関係ない。」と言います。

でも、そうするなら、実はあなたは、彼のことを見下しています。あなたは口で言わないかもしれないけど、あなたの行動によって、「この人は私の時間に価値しない。もし彼が問題があれば、彼はこっちの方に来た方がいい。」と言う態度を示します。

でも、イエス様はそんな態度を許しません。もし、誰かが私たちを恨んだら、私たちは積極的に仲直りしようとしなくてはなりません。

時々、あなたは謝らなくてはなりません。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私は悪いことをしていないのに。」

そうかもしれません。相手は繊細過ぎるかもしれません。それでも、相手の感情を考えてください。もし、あなたの行動や言葉で、彼らを傷付けたら、あなたは謝るべきです。

あなたは、せめて、「私は、思わずあなたを傷つけてしまって、ごめんなさい。許してくれませんか。」と言った方がいいです。

そして、彼らを傷つけた言葉や行動をもう一度しないように気を付けるべきです。相手のためだけではなく、彼らのために十字架で死んだイエス様のためです。

二つ目のは、私たちの壊れた人間関係は、私たちの神様との関係に影響を与えることです。

もし私たちができるだけ、相手と仲直りしようとしないと、神様は私たちの供え物を受け入れてくださいません。ペテロも、主人が妻を思いやりに扱わないと、神様があなたの祈りを受け入れないと言いました。(第一ペテロ3:7)

それに、もし私たちが本当に悪かったら、イエス様は私たちがすぐに、積極的に償いをしなくてはならないと言いました。

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。(5:26-28)

でも、あなたが悪くなくてもできるだけ、相手と仲直りをしようとするべきです。

もう一つのポイントがあります。時々、相手には私たちと仲直りする気がありません。それは私たちがコントロールできません。私たち自身の行動だけがコントロールできます。

だから、相手のために祈ってください。相手と仲直りするために何をした方がいいか、神様に尋ねてください。そして、神様があなたにアイデアを与えてくださるなら、そうするべきです。

そのあとのことは、相手の責任です。もし、彼らが反応しないと、その状況を神様の手にゆだねることしかありません。

パウロはこう書いた。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたの周りの人々と、どんな関係があるでしょうか。

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マタイ5:21-22--心の中で人々を侮ると

この個所では、私たちは、どうしてイエス様がパリサイ人と律法学者の律法の解釈を批判したか見ることができます。つまり、彼らは見かけだけに注意したけど、心の状態を無視していたのです。

一つの例は殺人のことです。イエス様は言いました。

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(21)

もちろん、パリサイ人と律法学者は、その命令に従いました。彼らは誰も殺しませんでした。(でも後に彼らのせいで、イエス様は十字架でかけられました。)

しかし、イエス様はつづけました。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(22)

イエス様は殺人だけを指摘せずに、心の態度も指摘します。要するに、「あなたは、誰をも殺していないでしょうか。それは良いことです。しかし、あなたの心の中で、相手を殺したことがあるでしょうか。」

心の中で相手を殺すというのは、どういう意味でしょうか。

相手を殺すとき、あなたの態度はどうでしょうか。あなたは、その人を侮っています。あなたは、「この人には価値がないので、彼は生き続けない方が良いです。」という態度を取っています。

もし、私たちが相手に、「あなたがバカ者だ」と言う時、本当に私たちは何をしていますか。私たちの心で、相手を侮っています。「あなたには価値がない」という態度を取っています。

殺人というのは、その態度を極端な程度まで取ることです。でも、私たちの心をその態度を持っていれば、殺人に至るかもしれません。ニュースでは、私たちは、そんな話をよく聞きます。

イエス様は、怒りの問題も指摘します。怒りは自然な感情です。私たちがいつ怒るかコントロールできません。それは感情だから。時々、何かが起こって、私たちは怒ります。

でも、私たちは、その怒りをどうやって制御するか決めることがきます。私たちは、その怒りをずっと持っているでしょうか。その怒りを持ち続けて、その怒りはだんだん大きくなるでしょうか。その怒りを抱くでしょうか。

ちゃんと制御されていない怒りは次の段階に至るかもしれない。たとえば、私たちは、その縁を切ります。また、最悪の状態では、私たちは彼らを殺してしまいます。

そうすれば、イエス様は私たちが裁かれると言います。また、神様の恵みから離れたら、私たちは地獄に行きます。

あなたはどうですか。あなたの心で、侮る人がいるでしょうか。「彼はろくだなしだ」と考えたことがあるでしょうか。

あなたの怒りによって、誰かと縁を切ったことがあるでしょうか。そうなら、神様の目には、あなたは、その人を殺しました。

ヨハネはこう言いました。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)

また、

光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。。。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(第一ヨハネ2:9,11)

だから、相手があなたを傷つけても、その人には価値のある人と見なしましょう。なぜなら、実際に彼らには価値があるから。そういうわけで、イエス様は彼らのために、また私たちのために十字架で死んでくださいました。

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マタイ5:17-20--律法を成就すること

多分、イエス様がパリサイ人たちや律法学者と、安息日について言い争い始めた後で、イエス様はこの言葉を言ったと思われます。イエス様は、すでに何回も安息日に人々を癒したでしょう。

それでも、イエス様は、はっきりと言いました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(5:17)

どのように、イエス様は律法や、預言を成就したでしょうか。大体三つの方法で成就しました。

一つ目は、イエス様はメシアの預言を成就したことです。

二つ目は、イエス様は、ほかの人ができないことをしました。つまり、イエス様は律法を完全に守りました。だから、イエス様は、私たちの罪のために死ぬことができました。

パウロはこう書きました。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ書8:3-4)

三つ目は、イエス様の死によって、イエス様は神様が要求されたいけにえのすべてを成就したことです。へブル人への手紙の著者によれば、神様はそのいけにえを要求したけど、そのいけにえは私たちの罪を本当に清めることができませんでした。そのいけにえは、ただのイエス様の十字架の働きの一つの「画」となるものでした。

でも、今イエス様にあって、私たちの罪は清められ、赦されたので、そのいけにえはもう必要がないのです。イエス様にあって、そのいけにえは成就しました。(へブル10:1-18)

律法は、イエス様にあって成就されたし、私たちは神様の目には清いものになりました。それでも、律法は神様の聖さについて教えるし、私たちがどんな人になるべきか教えます。

そして、神様が聖なる方なので、私たちも聖い人生を生きるべきです。

もちろん、私たちは自分の救いを買おうと思いません。でも、聖霊様は、私たちの心に住んで、私たちを清い人生を送るように助けてくださいます。

以前、私たちには、清い人生を送る力がありませんでした。でも、今神様は私たちと共におられて、神様がそもそも私たちをデザインしたように生きる力を与えてくださいます。

そして、イエス様は、私たちに警告します。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(20)

たぶん、ユダヤ人はそれを聞くと、面食らいました。なぜなら、パリサイ人たちと律法学者は一番律法を守る人とみなされたから。彼らは、その律法を守るために、たくさんの余計なルールを立てました。

でも、本当の義は、律法の文字通りに守ることだけではありません。本当の義は心から来ます。もし、あなたの心が神様の目に悪かったら、あなたはどんな良いことをしても、神様にその行動を認められません。

だから、イエス様はパリサイ人と律法学者を本当に責めました。彼らは、正義とあわれみと誠実を全然知らなかったから。(マタイ23:23)

あなたの心はどうですか。あなたは正しいことをするかもしれないけど、あなたの心は、神様の目には正しいでしょうか。神様は、あなたの心について何を言うでしょうか。

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マタイ5:13-16–塩と光

この個所は本当に有名ですけど、どれだけ私たちは、その前後に気づくでしょうか。その前後は何でしょうか。

イエス様は迫害について話していました。つまり、私たちがイエス様のために迫害されたら、私たちは祝福されています。(5:10-12)

その言葉を言った直後、イエス様は言います。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(5:13)

私たちは、どのように塩気をなくしてしまうでしょうか。私たちが家族や友達からのプレッシャーに負けて、イエス様に従わずに、彼らのようになるなら、私たちは塩気をなくします。

なぜなら、私たちは彼らを恐れて、彼らを喜ばせようと思いすぎるので、神様を私たちの人生に第一にすることを忘れてしまうから。

私たちは、地の塩になるべきです。塩は、食べ物を保存します。例えば、肉が腐らないように塩を使うことができます。

そのように、私たちの文化が腐らないように、私たちは人々に神様の道を教えます。でも、それだけではなく、私たちの行動を通して、私たちは彼らに神様の道を示します。そして、私たちを通して、彼らは健全な人生と壊れた人生の違いが分かります。

そして、塩は食べ物に味を付けます。そのように、私たちはこの世にイエス様の愛で味を付けるべきです。

でも、私たちは、この世の民のようにふるまうと、この世を保存できないし、この世に味をつけることができません。

それに、神様は、この世の光になるために、私たちをこの世に置きました。私たちは隠れる事ができない町になるべきです。どうしてでしょうか。私たちは、道に迷った人々、また、傷ついて、死にかけている人々に、神様の栄光を示すためです。

それなら、どうして私たちは、相手からのプレッシャーのためにその光を隠すでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは、この世の民のようになったので、あなたの塩気をなくしたでしょうか。あなたの光は、周りの人々に見えなくなりましたか。

誰を喜ばせたいでしょうか。神様でしょうか。もしくは、周りの人々でしょうか。私たちはイエス様の言葉に従いましょう。つまり、

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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マタイ5:1-12--全く新しい考え方

あなたがこの個所を読むなら、イエス様の考え方がこの世の考え方と全く違うと分かると思います。

多くの人は、あなたが超宗教的な人なら、神様があなたを祝福すると思います。また、あなたが祝福されたいなら、特別な霊的な段階に至らなくてはならないと考えます。

でも、イエス様はこう言いました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(5:3)

つまり、神様は霊的に破産した人を祝福します。なぜなら、そんな人は恵みの必要がわかるから。その真実がわかれば、私たちは救われます。

世の人は、祝福される人というのは、この世で幸福を見つける人だと思います。だから、彼らは「何か気持ちがいいなら、しろ」と言います。

でもイエス様はこう教えます。「あなたの罪を嘆くなら、また、この世の罪からの痛みを嘆くなら、あなたは祝福されます。」

なぜなら、私たたちは私たちの人生とこの世を変えられるイエス様の力を見つけるから。

この世の人は、思い切って、自分の人生とその状況をコントロールしたら、祝福されると思います。でも、イエス様はこう言います。「良い時でも、悪い時でも、神様に従う人は祝福されます。」つまり、私たちは神様の良さと判断を信頼するべきです。そうすれば、私たちの人生はうまくいきます。

この世の人は、やりたい放題の人が祝福されると思います。彼らは、幸せを得るために、なんでもできます。

でもイエス様は、こう言いました。

義に飢え渇く者は幸いです。(5:6)

正しい道はいつも簡単ではないし、いつも快楽的なものではありません。でも、そうすれば、あなたは満ち足ります。

この世の人は、「自分のために生きなさい。あなたの目的を果たすために、周りの人々を踏みつけてもいい」と言います。

でも、イエス様はこう言いました。

あわれみ深い者は幸いです。(5:7)

つまり、周りの人々のニーズをあなたのそれよりも考えてください。

特に、相手を許すときに、そうするべきです。あなたは、自分の痛みを置いておいて、あなたを傷つけた人の痛みとニーズに焦点を当てます。そうすれば、私たちはイエス様のようになります。イエス様が十字架にかけられた時、こう祈りました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

この世の人は、道徳的な価値観が相対的なものだと思います。だから、相手を裁くことができません。すべての人の道徳的な価値観は平等です。でも、イエス様はこう言いました。

心のきよい者は幸いです。(5:8)

つまり、神様の聖なるさを知る人だけが神様を見ます。

この世の人は「すべての道は天国に至ります。だから、周りの人々にイエス様のことについて話さなくていい。仏教や、神道や、ヒンズー教を信じても大丈夫です。」

でもイエス様はこう言います。「神様の使節として福音を延べ伝える人は、神様の子供たちです。なぜなら、彼らは神様と人々を和解させるから。また、ケンカしている人を和解させる人は、その天の父のようになります。なぜなら、天の父は、私たちとの和解のために働いたから。」

この世の人によれば、あなたが皆に好かれたら、あなたは祝福されています。でもイエス様は私たちがすべての人々を喜ばせないと教えます。だから、周りの人よりも、神様を喜ばせる態度を取るべきです。

神様の国には、この世のと全然違う価値観があります。でも、それを受け入れると、本当の命を知ります。

だからパウロはこう言いました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

 

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マタイ5:10-12;ルカ6:22-23ーー迫害

迫害が好きな人はいません。嫌われるのはだれも望みません。理想的なのは、すべての人々が、あなたのことが好きだという世界です。

でも、ここは理想的な世界ではありません。この世界は罪によって堕落しました。だから、多くの人々の心はゆがんで、善と悪を見分けることができません。善悪が分かっても、多くの場合、彼らは悪を選びます。

ヨハネはこう言いました。

(イエス様を通して)光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)

だから、イエス様は弟子たちに警告しました。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

ちょっと考えてください。イエス様は完全な人でした。彼は全然罪を犯しませんでした。イエス様は愛でした。それでも、人々は彼を憎み、十字架で殺しました。

もしイエス様が完全な方なのに迫害されたら、私たちは何が期待できるでしょうか。

でも、イエス様はこう言います。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:10)

つまり、私たちがイエス様に従うがゆえに迫害されたら、私たちは祝福されます。

それはちょっとおかしい言葉でしょうね。迫害は祝福でしょうか。私は迫害されたくないです。

でも、迫害自体は祝福というわけではありません。でも、私たちが迫害されるとき、私たちは主の足跡に従うのです。要するに、私たちが愛しているイエス様が迫害されたように、私たちも迫害されています。それは私たちの特権です。そして、その迫害は、むなしいものではありません。裁きの日に、神様は私たちの忠実さのための報いを与えてくださいます。

だから、あなたがイエス様のために迫害されても、絶望しないでください。あなたの友達や、家族に拒絶されるとき、あきらめないでください。

あなたは、いつも周りの人々を喜ばせることができません。イエス様でもそうできませんでした。だから、神様を喜ばせることに焦点を当ててください。そうすれば、本当の祝福を知ることができます。

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マタイ5:9--平和をつくる者

神様は、私たちが平和を作るものになるように呼びます。

どうしてでしょうか。なぜなら、イエス様自身は、偉大な平和を作るものだから。私たちの罪のため、私たちと神様の間に大きいギャップがあったとき、イエス様はこの世にきて、十字架で私たちの罰を受けてくださいました。だから、イエス様の御業によって、私たちには神様との平和があります。

そういうわけで、私たちが人々を和解させるなら、私たちが本当に神の子供たちであることを証明します。

神様は、自分の愛している子供たちがケンカするとき、悲しみます。だから、神様は、その子供たちを和解させるように私たちを呼びます。

もちろん、私たちは、すべてのケンカを止めようとするように呼ばれていません。もし、私たちが全然関係ないなら、そのケンカに入らない方がいいです。(箴言26:17)

でも、あなたが愛している人々がケンカするとき、できるだけ平和をもたらすように働いた方がいいです。もちろん、神様の知恵が必要だし、タイミングも気を付けなくてはなりません。また、あなたは彼らと愛と尊敬のある関係が必要です。それがないなら、彼らは絶対にあなたの言葉を聞かないし、あなたを責め始めるかもしれません。

でももう一つの意味で、私たちは平和を作るものになるように呼ばれました。私たちは神様と人々の間に平和をもたらさなくてはなりません。

パウロはこう書きました。

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(第二コリント5:18-19)

それはすごい責任です。イエス様は、十字架で和解の御業を行いました。でも、神様は私たちに、「この和解の言葉をあなたに委ねます。あなたは私の使節になりなさい。」と言います。

その和解の言葉は何でしょうか。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(5:20-21)

もちろん、私たちは人々の心を変えることができません。それは聖霊の働きです。それでも、私たちは平和を作るものとして呼ばれました。つまり、神様とその愛するものを和解させるために呼ばれました。

イエス様は言いました。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

あなたはどうですか。あなたは平和を作る者でしょうか。

 

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マタイ5:8--神を見ること

多くの歌は、神様を見る願いを表現します。子供の時、私はこの歌を歌いました。

Open our eyes Lord, (私たちの目を開いてください。)
We want to see Jesus. (私たちはイエス様を見たいから。)
To reach out and touch him. (私たちは手を伸ばし、イエス様に触れたいです。)
To say that we love him. (イエス様に、「あなたのことを愛している」と言いたいです。)

また、私は大学生の時、この歌を歌いました。

Open the eyes of my heart Lord, (主よ。私の心の目を開いてください。)
Open the eyes of my heart. (私の心の目を開いてください。)
I want to see you. (あなたを見たいのです。)
I want to see you. (あなたを見たいのです。)

その二つの歌が大好きだけど、もし、私たちが神様を本当に見たいなら、イエス様は私たちにこう言います。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(5:8)

どうして清い心は大切なのでしょうか。なぜなら、神様は清い方だから。天使たちは、神様のもとで歌う時、神様の愛について歌いません。彼らはこう歌います。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。(イザヤ6:6)

(まあ、彼らは神様の愛についても歌うかもしれないけど、聖書では、「愛深い、愛深い、愛深い、万軍の主」という歌はないです。)

旧約聖書でも、新約聖書でも、神様は私たちにこう命令します。

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。(レビ記11:44-45;第一ペテロ1:16)

神様は罪を憎み、その近くにおられられません。もし、私たちが、罪で汚れたら、私たちは神様からの距離を感じるかもしれません。

私たちが救いを失って、神様が私たちをもう愛さないというわけではないけど、神様との親しい関係ができません。

ある日、私は友達のガレージで話しているとき、その友達の2歳の娘がちょっとどこかへ行きました。戻ってきた見たら、娘は、そのお父さんがオイルを拭いていたスポンジを持っていました。だから、彼女の手と顔はめちゃくちゃ汚くなりました。それでも、彼女はお母さんの抱っこを望みました。

もちろん、私の友達が彼女を抱きたがらなかったので、その娘は泣き始めました。だから、私の友達はちょっと注意をして、後ろから娘を抱き上げ、家に連れて行って、洗ってあげました。

時々私たちは、どうして、私たちが神様から離れている感じがするか訊きます。私たちが祈るとき、神様はその祈りを聞いてくれないみたいだし、私たちは神様の臨在を感じることができません。

その時、自分自身にこう聞いた方がいいかもしれません。「私は罪で汚れているだろうか。その罪のため、神様は私から離れているだろうか。」

へブル人への手紙の著書はこう書きました。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

二つの注意事項があります。一つ目は、私たちが罪に落ちても、神様はこう約束します。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

私たちはいつも清い心が必要です。でも、清い心を守るため、毎日悔い改めなくてはなりません。

二つ目は、あなたが神様から離れている感じがしても、それはあなたの罪のためとは限らないということです。ほかの理由があるかもしれません。(でも、それは別の記事のトッピクです。)

でも私たちは、神様にこう祈った方がいいです。「私たちの間には、何かあるでしょうか。罪があるでしょうか。」

そして、罪の問題があれば、神様はあなたに教えてくれます。神様は決して、「あなたが知っているはずだよ。あなたが知らないなら、私は教えてあげないよ。」と言いません。

だから、もし、神様があなたの罪を指摘しないなら、たぶん別の理由があります。そして、後で、神様はきっとその理由を教えてくださいます。

でも、毎日こう訊いてください。「私の心は神様のみ前に清いものでしょうか。」

 

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マタイ5:7--憐れみ

何年前、私は不思議な夢を見ました。その夢では、私は中国でミニストリーの訓練を受けていました。(実際、私は中国に行ったことがないのですが。)

そしてその先生は、こう言いました。「あなたたちは、聖書をよく知っているでしょう。でも、あなたたちは、毎日その言葉に従っているでしょうか。」

そして、彼は憐れみについて話し始めて、この個所を引用しました。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

その言葉を聞いたとたん、私は目が覚めてしまいました。

私は、「これはどういう言う意味だろうか。」と思いました。

その夢を見たとき、私はハワイの旅行中でした。そして、その夜、私の兄の教会に行って、礼拝が始まる前に、私はそのマタイの個所をもう一度読みました。

賛美の時間の後、兄はヤコブの手紙からのメッセージを伝えました。そのテーマは?憐れみでした。

その次の日曜日、私は自分の教会に戻って、私の牧師は、また憐れみについて話しました。

だから私は、「神様は私に憐れみのことを学んでほしいかなあ」と思いました。

そして、神様は私に憐れみについて教え始めました。

今でも、私は、憐れみについて学んでいます。私は自分が全く憐れみ深い人だと言いたいけど、そう言えません。私はまだまだ成長しなくてはなりません。

イエス様はこう言いました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(5-7)

憐れみというのは何ですか。

一つ目は、人々をいつも裁かないことです。つまり、彼らが私たちの基準や期待を満たすことを要求することを止めることです。

ある日、神様は私にそのことを教えました。ある日、私が英会話の生徒を教えたとき、彼らはあまり上達していなかったので、私はフラストレーションを感じました。

私は「私がこのことを何回も教えたのに、どうしてあなたは覚えていないのだろう。もう学んだはずなのに。なぜ覚えられないのですか。」と思いました。(もちろん、私は口で言いませんでしたけど。)

でも神様は、私にこう言いました。「ブルース、自分が立てた基準によって、彼らを裁くな。あなたは、彼らがそのことを知っているはずだと思うかもしれないけど、彼らは知りません。だから、彼らを批判するのを止めて、彼らのレベルを受け入れなさい。そして、彼らの英語のニーズを理解して、そのニーズに備えるように働きなさい。」

多くの場合、私たちの友達や、妻や、夫や、同僚や、子供が私たちの期待を満たさないので、私たちは彼らを批判します。でも、憐れみというのは、彼らを批判せずに、私たちは自分自身にこう訊くことです。「彼らの必要は何だろうか。 どうやって、私はそのニーズに備えられるだろうか。」

イエス様とパリサイ人の態度は全然違いました。福音の中で、イエス様は人々に仕えたけど、パリサイ人は人々を裁きました。

憐れみというのは、もう一つの意味があります。それは、人を許すことです。多くの人々は私たちの赦しに値しません。決して謝らない人もいます。だから、私たちの心に、怒りと恨みは重ねます。

英語では、「resent」、つまり「恨み」という言葉は、「もう一度感じる」という意味です。私たちが恨みを持つとき、私たちはもう一度、相手から受けた傷を感じます。

恨みと苦々しい感じは私たちを過去に縛り付けます。神様は、あなたのために、そう望みません。神様は、私たちがその恨みを手放して、神様の目的のために生きることを望みます。神様は素晴らしい目的のために私たちを造りました。でも、もし私たちが恨みを持ち続けると、その目的に果たすことができません。

それに、私たちが神様からの憐れみに値しなかったのに、神様はその憐れみを私たちに注ぎました。そのように、私たちは、値しない人に憐れみを与えるように呼ばれました。

イエス様は何回も言いました。「もし神様からの憐れみを望むなら、周りの人々に憐れみを与えるべきです。」

この個所でイエス様はそう教えたし、主の祈りでそう教えたし、また、たとえ話でそう教えました。

あなたはどうですか。あなたは、憐れみ深い人でしょうか。

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マタイ5:6--義に飢え渇く者

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

多分、私たちはこの言葉を二つの方法で解釈できると思います。

一つ目は、イエス様は私たちが聖なる人生を追い求めることについて話したかもしれません。つまり、神様に対する私たちの愛のため、私たちは神様を喜ばせ、清い人生を送りたいと願います。

それでも、私たちは、しばしば罪と戦います。ローマ7章で、パウロは、その戦いについて話しました。その個所で、私たちにパウロが義に飢え渇くものであることを見えます。

彼は叫びます。「私は正しいことをしたいけど、なぜか私はできません。何回も私は罪に落ちてしまいます。私はなんとも惨めな人です。」

私は、そう感じるときもあります。私は清い人生を送りたいですけど、私はよく失敗します。だから、失望するのは、簡単なことです。「もう諦める。私はもうだめだ。どうしても、私は罪を犯してしまいます。」と言うのは簡単なことです。

でも、イエス様は私たちに言います。「諦めないでください。義に飢え渇き続けてください。ある日、その飢え渇きは満たされるから。あなたは義人になります。」

もちろん、天国では私たちは本当に義人になります。でも、私たちがこの世に生きている間は、神様は私たちの人生に働いています。

パウロはこう書きました。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)

でも、その日が来るまで、神様の恵みは支配します。パウロはこう言いました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:20-21)

だから、

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

でも、もう一つの意味で、私たちの義のための飢え渇きが満たされるようになると思います。

私たちの周りを見ると、私たちはよく罪と不正義を見ます。堕落した裁判官を見るし、神様の律法に反対する法案は可決されます。また人々の道徳的な価値観は変わって、以前に悪いと認められたものは、今良いものと見なされます。

だから、私たちは「いつ、正義はこの国に戻るだろうか。もう希望がないだろうか。」と訊き始めます。

正直に言うと、たぶんこの状態は良くなることはないと思います。パウロは「終わりの日」について話した時、本当に暗い絵を描写しています。(第二テモテ3:1-5)

私たちは、その日に生きています。誤解しないでください。「終わりの日」は、2000年前に始まりました。(第一ヨハネ2:18)でも、イエス様が来る前に、この世界はだんだん悪くなります。

私は政治家や、司法制度や、人間が立てた機関を信頼できません。

それでも、私は希望を持っています。どうしてでしょうか。なぜなら、ある日、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白する」から。(ピリピ2:10-11)

だから、私の周りの悪を見ても、私は絶望することを拒否します。正義の日が来ます。私たちの義のための飢え渇きは満たされます。その日まで、私は政府や、人間が立てた機関を信頼せずに、神様を信頼します。

私たちが義のため飢え渇きを決してなくさないように。イエス様はきっと自分の約束を守るから。

 

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マタイ5:5--天の父に従うこと

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(5:5)

英語では、「Blessed are the meek]と書いてあります。「Meek」、つまり、「柔和」という言葉を見ると、私はよくその意味を調べなくてはなりません。なぜなら、アメリカ人は、その言葉をあまり使わないから。「柔和」が、日本人にとって、どういうイメージがあるかわからないけど、多くのアメリカ人にとって、「Meek」という言葉は、「弱い」というイメージがあります。

でも、その言葉は「弱い」という意味ではありません。モーセとイエス様は、柔和なものだと呼ばれました。その個所では、新改訳は「謙遜」と「へりくだっている」という言葉を使います。(申命記12:3、マタイ11:29)。

彼らは謙遜な人だったかもしれませんけど、彼らを「弱い」と呼ぶことはできません。彼らは本当に強い人たちでした。

実は、その言葉は、飼いならされる動物のために使われました。飼いならされた動物は、自分の力がまだ持っているけど、その飼い主に従い、その飼い主に仕えます。

そういう意味で、モーセとイエス様は柔和なものでした。

モーセは、まず自分の力で、イスラエル人を奴隷の生活から開放しようとしたけど、結局彼はパロから逃げなくてはならなかったので、諦めました。でも、そのあと、モーセは、神様の権威に従がったので、神様とイスラエル人のために素晴らしいことができました。

イエス様は神の御姿である方だったけど、天の父に従い、天の父の計画を果たしました。つまり、イエス様は十字架で、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを救いました。

モーセとイエス様はいろんな試練に直面しました。彼らは自分の弱さと戦いました。でも、彼らは頑張って、天の父の計画に果たすまで、仕え続けました。

それは柔和なものです。

あなたはどうですか。あなたは柔和なものでしょうか。

あなたは天の父に従うでしょうか。試練に直面するとき、あなたは、文句を言って、「どうして私は苦しんでいるでしょうか。私はあなたの御心に従っていると思ったのに。」と言うでしょうか。

もしくは、あなたはへりくだって、神様の御心に従い続けるでしょうか。

そういう人に、イエス様は言います。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」

私たちは、毎日天の父に従うと、結局報いを獲得します。

でも私たちは、そうするでしょうか。

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マタイ5:4--悲しむ人

私は山上の垂訓に関するメッセージをたくさん聞いたり、聖書を解釈する本をたくさん読んだりしました。そして、多くの聖書学者と牧師たちによれば、この個所の意味は、「自分の罪を嘆く人は幸いだ」ということです。

もちろん、その解釈は「心の貧しいもの」というアイデアに合っています。(5:3)つまり、私たちは自分が霊的に破産している人であることを認めて、その罪を嘆きます。

実は、罪を嘆くのは、時々良いことでもありますが、悪いことでもあります。もし、その嘆きの結果が悔い改めなら、それは命に至ります。でも、もしその嘆きの結果が絶望なら、それは死に至ります。ペテロとユダの話をちょっと考えてください。ペテロは悔い改めたので、命を見つけました。でも、ユダは絶望してしまって、自殺しました。

だから、私たちの嘆きが私たちをどこに導くか考えてください。

嘆きは神様とその恵みに導くでしょうか。

もしくは、私たちは自分自身と自分の悪さに焦点を当てすぎるでしょうか。

もし、私たちが神様とその恵みに焦点を当てると、私たちは神様に慰められます。

でも、自分自身と自分の悪さに焦点を当てすぎると、絶望に至ります。

しかし、この個所では、イエス様が罪を嘆くことについて話したかどうか、私は確信がないです。

もちろん、私たちは罪を嘆くべきです。でも、罪によって壊れたこの世界を嘆くときもあります。

私たちが愛している周りの人々が病気になったり、死んだりするので、私たちは悲しみます。人々が互いに傷つけ合うことを見て、私たちは嘆きます。戦争や、飢餓や、苦しみを見るとき、絶望するのは簡単なことです。私たちは将来の希望があるかどうか疑い始めます。

でも、私はもう一度訊きます。それらを見るとき、私たちはどこに焦点を当てるでしょうか。もし自分自身に焦点を当てるなら、絶望に至ります。なぜなら、私たちはすべてのひどいことを変える力がないから。

でも、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、希望に至ります。なぜなら、神様は私たちの状況と問題よりも大きい方し、神様は壊れたものを回復させることができるから。

神様は、壊れた人間関係を復活させることができます。死んだ結婚を復活させることができます。死んだ希望を復活させることができます。霊的に死んだ人を復活させることができます。

自分の罪のため、あなたの人生は壊れているでしょうか。あなたの傷、また周りの人の傷を見るとき、嘆いているでしょうか。自分自身を見ないでください。むしろ、死んだものを復活させる方に仰いでください。そうすれば、あなたは慰められます。

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マタイ5章1-3節ーー超霊的な人のためではなく

今日、私はちょっとマタイの福音書に飛び、山上の垂訓と平地の説教を混ぜます。なぜなら、私が前にも言ったように、その二つの説教は同じテーマがあるから。

この個所であるイエス様の言葉と、ルカの個所であるイエス様の言葉とちょっと違います。

ルカの個所では、イエス様は「貧しい者は幸いです。」と言ったけど、この個所では、イエス様は「心の貧しい者は幸いです。」と言います。

ルカの福音書では、たぶんイエス様は、お金があまりない人に話していたでしょう。でも、この個所では、イエス様はちょっと違う人について考えていました。

その群衆の中では、きっとパリサイ人や、律法学者や、ほかの超霊的な人々がいたでしょう。そして、彼らを見た時、彼らの周りの人々は「きっと、この人たちは神様に恵まれただろう。なぜなら、彼らはとても宗教的な人だし、聖書をよく知っているし、正しい生活を送っているから。」と思ったでしょう。

でも、その「普通」の人々は自分自身を見ると、霊的に劣っている感じを持っていたでしょう。特に、イエス様の12人の弟子たちは、そう感じたかもしれません。彼らは、特別な宗教的な訓練を受けていませんでした。彼らは、ただの漁師でした。一人は嫌われた収税人でした。

それに、彼らは短気なグループでした。彼らはいつもケンカしてしまいました。

また彼らの小さい信仰のため、イエス様は何回も彼らを叱責しました。でも、イエス様は、彼らに言いました。「もちろん、あなたは霊的に貧しいものです。でも、神の国は特にあなたのような人々のためです。」

その反面、その弟子たちが見上げた超霊的な人々の多くは、最終的に神の国の門に入ることができませんでした。どうしてでしょうか。

なぜなら、実は、私たち皆は霊的に貧しいものだから。神様の前に、誰も「ほら、私はすごいでしょう。だから、私を入らせなくてはならない。」と言えません。

それに、私たたち皆、霊的に破産した人々です。

パウロはこう言いました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

また、イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6)

だから、私たち皆はイエス様のことが必要です。パリサイ人でも、収税人でも、牧師でも、売春婦でも、私たち皆はイエス様からの赦しと恵みが必要です。その赦しと恵みを受けないと、誰も神の国に入ることができません。

あなたは自分が霊的に貧しいものだと思うでしょうか。あなたのために希望があります。神学校に行ったことがなくても、特別な資格がなくても、自分の人生をめちゃくちゃにしていても、神様の国は、あなたのような人のためです。

どうしてでしょうか。

あなたが牧師でも、会社員でも、売春婦でも、私たち皆は同じだから。つまり、私たち皆は罪人です。私たち皆は、恵みが要る者です。

神の国は超霊的な人々のためではありません。神の国は赦されて恵みを受けた罪人のためです。

あなたは、自分が神の国に値しないと思うでしょうか。元気を出してください。だれも神様の国に値しません。でも、もしあなたが、神様の前にへりくだり、赦しを願い、イエス様を主として受け入れると、神様はあなたに永遠の命を与えると約束します。

そして、神様の国では、二流の市民という人がいません。

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ルカの福音書6:24-26ーー自己満足の問題です

イエス様は、貧しいもののための神様からの祝福について話したあと、金持ちと自己満足な人たちに注目しました。

しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。(6:24-26)

それらは、本当に厳しい言葉でした。でも、イエス様の祝福がすべての貧しいものためじゃなかったように、この厳しい言葉はすべての金持ちのためではありませんでした。

むしろ、この言葉は自己満足をしている人のためでした。彼らは気楽すぎて、神様のことを別に要らないと思っていたから、神様とその御国をほとんと考えていませんでした。

でもある日、彼らは、その富や、食べ物や、快楽や、快適な人生は一時的なものであることを理解するようになります。

その日、彼らは何もを持たずに、神様の前に立ちます。そして神様は、彼らに尋ねます。「あなたは私の一人子について聞いたとき、どうしていましたか。」

もし、彼らがイエス様を拒絶していたなら、いつか彼らは永遠に地獄にいます。

あなたも、そうです。

あなたはどうですか。あなたは神様のことが要らないと思うでしょうか。あなたの人生は幸せで、ほかのものが要らないと思うでしょうか。

多くの人々は大体70-80年ぐらい生きることを覚えていてください。でもそのあと、彼らは永遠に向かいます。もしくは、あなたは永遠に神様と共にいます。もしくは、あなたは永遠に地獄にいます。

もし、あなたが神様を拒絶すると、この世であなたが楽しんでいたことは無意味になります。

もしこの世で、あなたが神様を拒絶すると、永遠の時代において、神様はあなたを拒絶します。

でも、もしあなたが心の王座を神様に譲ると、あなたはいつか神の国に住むだけではなく、この人生も満ちたものになります。そして、イエス様のためにあなたがこの世に苦しんでも、いつか、あなたは振り返って、「それはよい人生だった」だと言います。

イエス様はこう言いました。

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

あなたは、何によって満足するでしょうか。自分自身でしょうか。あなたの持ち物でしょうか。もしくは、あなたを愛して、十字架であなたのために死んだ者によって、満足するでしょうか。

 

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ルカの福音書6:17-21--良い知らせ

聖書の学者たちは、マタイの福音書にある山上の垂訓とルカの福音書にある平地の説教は実際に同じのメッセージかどうか議論します。

ある学者たちは、イエス様が山を登って、その山の平らな所で教えたと考えています。

私の推測だけど、多分イエス様は、その二つのメッセージを別の時間に伝えただろうと思います。なぜなら、イエス様は、いつもまったく違う説教を伝えなかっただろうと思うから。彼がいろんな町に行っては、同じテーマを教えたと思います。でも、その町の人々のニーズによって、イエス様は、そのメッセージをちょっとずつ改めたでしょう。

このルカの個所では、たぶんイエス様は、たくさんの貧しい人に話したでしょう。彼らはお金をあまり持っていなかったので、将来性はあまり良くなかったでしょう。未亡人もいたかもしれません。足の不自由な人いたかもしれません。また、外国からの移民がいたかもしれません。だから、イエス様は彼らのために、そのメッセージを改めたかもしれません。

そのように、イエス様は預言者イザヤの予言を成就しました。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ[る]。(イザヤ6:1-2)

だからイエス様は彼らにこう言いました。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(20-21)

もちろん、これは、すべての貧しいものと泣く者が、祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためです。

もし、イエス様があなたの主なら、あなたは貧しくて、飢えて、泣いているかもしれないけど、希望の日が来ています。そして、さえない世界に、それは本当に良い知らせです。

あなたはどうですか。あなたの人生は苦しいでしょうか。あなたの状況のせいで、あなたは苦しんでいるでしょうか。

あなたには希望があります。もっと良い日が来ます。でも、まずイエス様をあなたの主にしなくてはいけません。

パウロは、こう書いた。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

あなたはイエス様をすべてよりも愛しているでしょうか。神様の目的のために生きているでしょうか。もしくは、自分自身の目的のために生きているでしょうか。誰のために生きているでしょうか。

 

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マタイ10:1-4;マルコ3:7-19;ルカ6:12-16ーーイエス様と一緒にいるように呼ばれた。出て行って、この世に触れるように呼ばれた。

この箇所では、私たちはイエス様の増えている人気さを見ることができます。多分、その増えている群衆とその必要のため、イエス様は12人の弟子たちを選んで、訓練し始めました。

人間としては、イエス様はある瞬間、一つの場所にしかおられることができませんでした。だから、そんなにたくさんの人に触れるのには、お手伝いが必要でした。

でもイエス様は、本当に雑多なグループを選びました。漁師や、ローマ帝国と協力するもと税取人や、ローマ帝国を憎んだ愛国者がいました。いろんな性格もありました。大胆なペテロもいたし、懐疑的なバルトロマイ(つまり、ナタナエル)とトマスもいたし、短気なヤコブとヨハネもいました。

イエス様は、ざまざまな人を選びました。でもイエス様は、彼らが三つのことをすることを要求しました。

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3:14-15)

一つ目は(また一番大切なのは)、彼らがイエス様の近くにいることです。彼らは、イエス様と時間を過ごし、イエス様から学んびました。今なお、イエス様は、そんな人を求めています。イエス様は、私たちがイエス様の生活に参加するように望みます。私たちがイエス様をもっと知るように望みます。また、私たちがもっとイエス様のようになるように望みます。

二つ目は、彼らがイエス様から学んだメッセージを周りの人々に伝えることです。多くのクリスチャンは聖書を読んで、神様との関係では、成長します。でも、それは足りません。神様は私たちが聖書のメッセージを周りの人々に伝えるように望みます。私たちがそうしないと、彼らは神様からの喜びを決して知らないから。

三つ目は、彼らが霊的な戦いに参加することです。あなたは、悪霊を追い出す機会がないかもしれないけど、毎日、私たちは霊的な力と戦います。パウロはこう書きました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

イエス様は、私たちが人とではなく、サタンと悪霊と戦うように呼びます。彼らは人々を騙して、地獄に行くように働いているから。私たちは、その魂のために戦わなくてはいけません。毎日、彼らは死にかけて、地獄に行っています。でも神様は、そのことを望みません。神様は、私たちが出て、彼らのために戦うように望みます。私たちがそうすれば、その人たちは救われるかもしれません。

それは、キリストの弟子です。私たちがイエス様と一緒にいることです。私たちが出て、福音を伝えることです。そして、霊的な戦いに参加することです。

あなたはどうですか。キリストの弟子として、あなたはそうしているでしょうか。

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マタイ4:18-22;マルコ1:16-20;ルカ5:1-11–イエス様について行くように呼ばれた

ちょっと聖書の部分を飛ばしてしまったので、今日その部分に戻ります。実は、これは本当に大切な箇所です。この箇所では、イエス様は初めて弟子たちを呼びました。

私は前にも言ったけど、福音の話を年代順にしようと思っているけど、時々、その順番を推測しなくてはなりません。多分、まずこのルカの箇所の出来事が起こって、2-3日間後に、このマルコとマタイの出来事が起こったと思います。

ある日、イエス様は群衆を教えようとしたけど、彼らはイエスに押し迫るようにしたので、イエス様はペテロとその友達の船を見ると、すぐにその船に乗り、彼らに陸から少し漕ぎ出すように頼みました。そしてイエス様は、その船から群衆を教えました。

ペテロとその友達がそうやりたがったかどうか分かりません。彼らは徹夜で、漁をしたけど、何も獲れませんでした。イエス様が彼らを呼んだとき、彼らは網を洗っているところでした。多分彼らは、その網を洗ったら、帰って、すぐに寝ようと思っていました。それでも、彼らはイエス様を助けました。

でも、イエス様が教えた後、彼はペテロとその友達に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言いました。

ペテロにとっては、それは限界でした。彼は疲れ果てて、もう漁をしたがりませんでした。それに、大工からの漁についてのアドバイスを受けたくないと思ったでしょう。

だから、彼は言いました。

先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。(ルカ5:5)

多分、イエス様はそれを聞いたとき、何も言わずに、ペテロを見て待ちました。だから、結局ペテロは口ごもって言いました。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。(ルカ5:5)

だから、ペテロと友達は恥ずかしくて、漁をしに行きました。なぜ、彼らは恥ずかしかったでしょうか。なぜなら、誰も昼間に漁をしなかったから。魚がいるはずがないので、多分、ほかの船にいるペテロの友達は笑いました。「ペテロは馬鹿だね。どうして、その大工の意見に従っているだろう。」と思ったかもしれません。

でも、ペテロたちがその網を下ろしたとき、魚が多すぎたので、ペテロは、ほかの船にいる友達を助けてくれるように呼びました。それでも、魚は多すぎて、その二つの船は沈みそうになりました。

多分最初は、ペテロは本当に盛り上がりました。でも、すぐに彼は何が起こったか実感しました。そして彼は、イエス様が普通の先生ではないだと分かるようになりました。だから、ペテロはイエスの足もとにひれ伏して、叫びました。

主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。(ルカ5:8)

でも、イエス様は答えました。

こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。(10)

ただの私の推測だけど、多分、ルカは話をちょっと短くしました。多分、そのすぐ後、皆は自宅に帰りました。イエス様は、彼らがその日の起こったことと、イエス様の言葉をもっと考えて欲しかったかもしれません。

そして次の朝、ペテロとアンデレが漁をしていることを見たとき、また、ヤコブとヨハネが網を繕っていることを見たとき、イエス様は改めて彼らを呼びました。

わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4:19)

そのとき、彼らは、すべてを捨てておいて、イエス様に従い始めました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

イエス様の恵みがペテロの失敗と罪を覆ったように、その恵みは私たちの失敗と罪を覆います。イエス様はペテロの罪のために責めませんでした。むしろ、新しい人生を始めるようにペテロを呼びました。

二つ目は、イエス様に従うのに、特別な資格が必要がないことです。あなたは神学校に行く必要がないです。ペテロとその友達は、特別な教育を受けていませんでした。それでも、イエス様は彼らを弟子として呼びました。

三つ目に、一番大事なことは、私たちがイエス様を信頼して、イエス様の言葉に従うことです。私たちはイエス様の言葉が完全に分からなくても良いです。でも、「あなたがそう命令したので、私は従います」という態度を取るべきです。

また、私たちがイエス様に従うために、愛するものを喜んで離す態度を取るべきです。

最後のは、イエス様の弟子として、イエス様の仕事に参加する態度を取るべきです。つまり、神様の国に人々を導くことです。

あなたはペテロとその友達の模範に従うでしょうか。イエス様からの召しに従うでしょうか。

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マタイ12:9-14;マルコ3:1-6;ルカ6:6-11ーーイエス様を悲しませること

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話の全体を見ることができると思います。

イエス様は会堂にいて、片手のなえた人を見ました。でも同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちに気づきました。そして、彼らはイエス様がその人を安息日に癒やすかどうかじっと見ていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っていました。だからイエス様は、その手のなえた人を呼びました。そのとき、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちは、その質問に答えられませんでした。もし、彼らが「安息日に善を行うのはだめです」、または、「命を救ってはだめです」と言ったら、彼らは馬鹿者と見なされたでしょう。でも、もし彼らが、「善を行ってもいいです。命を救ってもいいです。」と答えたら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言ったでしょう。

そして、もちろん彼らは「悪を行うのは良いです」、または、「命を失うのは良いです」と全然言えませんでした。

だから、彼らはずっと黙っていました。英語のことわざは本当に正しいと思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「あなたが黙っていて、周りの人々にあなたが馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周りの人々があなたが馬鹿者だとはっきり分かるよりも良いです。」

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと言うけど、マルコはもう少し情報を与えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を訊きました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どっちの方が大事でしょうか。羊でしょうか。人間でしょうか。もし、人間の方が大事なら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるでしょうか。」

だから、イエス様は自分の疑問に答えます。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やしました。

この話には、皮肉的なことがあります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と訊きました。

そのリーダーたちは、この事件の後、イエスをどのようにして殺そうかと相談を始めました。安息日に、そのことを考え始めました。(マルコ3:6)

でも、もう一つのことは私の心を打ちます。イエス様は彼らのかたい心を見ると、嘆きました。彼らの伝統と律法主義の考え方によって、彼らの心が固まったほど、神様の言葉と真理はその心を貫くことができませんでした。彼らの心では、彼らが間違っていたと分かりました。だから彼らは黙っていました。でも、彼らが間違っていると認めませんでした。

あなたはどうですか。神様に対するかたくなった心がありますか。あなたの行動や、思いが間違っているので、神様はあなたに話しています。だから、あなたが悪かったと分かります。あなたが変わらなくてはならないと分かります。でも、あなたは自分の間違った考え方や、罪にしがみついています。そうすると、あなたは神様を悲しませます。

なぜなら、神様はあなたの最善を望むから。でも、あなたの罪によって、あなたは神様も、周りの人々も、あなた自身も傷つけます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。私たちのために死んだイエス様を悲しませないように。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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マタイ12:1-8;マルコ2:23-28;ルカ6:1-8--罪のない者たちを罪に定めはすること

以前の記事では、私たちは、宗教的なリーダーたちがイエス様が安息日を破ったために責めたことを見ました。実は、イエス様は、神様の安息日の律法を破ったわけではありません。イエス様は、そのリーダたちが立てた余計なルールを破りました。

この個所でも、イエス様は、そのリーダーたちと安息日について言い争います。イエス様とその弟子たちが麦畑を通った時、弟子たは、お腹がすいたので、穂を摘んで食べ始めました。(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25を読んでください)。

しかし、パリサイ人の目には、穂を摘んでいるのは仕事でした。そして律法によれば、安息日に仕事してはいけませんでした。

でも、イエス様は二つの理由で、その考え方を拒絶しました。

一つ目は、祭司たちは安息日に働いたけど、それは罪と見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法は、ほかの律法よりも優れたものでした。つまり、命を守るのは、安息日の律法よりも大切でした。パリサイ人でも、ある程度まではそのことに賛成しました。(もし誰かが死にかけているなら、お医者さんは、その人が次の日まで生き残られるように、治療できました。そして、次の日に、その人を完全に治療しました。)

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用します。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目には、ルールを守ることが一番大事なことだと思います。そして、彼らは、神様が私たちを罰する機会を待っていると思います。

でも、神様は人々のことを、ルールを守ることよりも大事にします。

パリサイ人は、それが分からなかったので、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作りました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

でも、イエス様は、彼らにこう言いました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てたルールのすべては、その通りです。そのルールは、私たちの利益のためです。私たちは、そのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちをコントーロールするために、そのルールを作ったのではありません。私たちを祝福するために、そのルールを作りました。

その原則が分かれば、そのルールの目的がちゃんと分かるし、そのルールを私たちの人生に正しく当てはめることができます。

でも、その原則が分からないと、パリサイ人のように、私たちは、そのルールが分からないし、間違った方法で当てはめてしまいます。それに、私たちは神の目に無実の人を責めてしまいます。

あなたはどうですか。どのように神様のルールを考えるでしょうか。そのルールを余計なルールとして考えるでしょうか。

もしくは、そのルールがあなたの利益のためだと理解するでしょうか。また、そのルールの理由が分かるでしょうか。

そう分かれば、無実の人を責めないでしょう。

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ヨハネ5章31-47節ーー私たちは人間からの栄誉を求めると

もし、あなたが初めてイエス様の話を聞く時に、びっくりすることの一つは、宗教的なリーダーたちはイエス様を受け入れなかったことです。むしろ、彼らは、イエス様を拒絶したし、殺したいと思っていました。どうして彼らはイエス様に反対したでしょうか。

イエス様によれば、彼らは、いつも聖書を調べていました。もちろん、それは良いことです。でも、彼らの問題は、神様からの栄誉を求めずに、彼らの仲間からの栄誉を求めたということです。

だから、彼らの聖書勉強の動機は、神様を求めることではなく、仲間を感動させることで した。

イエス様は、彼らのこう言いました。

わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(43-44)

私たちは仲間からの栄誉を求めて、その栄誉によって誇るようになると、神様が何をなさっているか、また、神様が何を言っているか、認識できなくなります。私たちの目で見えるし、耳で聞こえるかもしれないけど、神様の言葉と御業を受け入れなくなります。

その宗教的なリーダーたちは、そのような人々でした。最初、彼らは、バプテスマのヨハネの言葉を聞きました。そして、彼らは、イエス様の教えを聞いたし、イエス様の奇跡も見ました。それでも彼らは、イエス様を拒絶しました。むしろ、彼らはイエス様が悪霊につかれている人だ、と言いました。(マルコ3:22;ヨハネ8:48)

だから彼らは、本当の命を逃がしてしまいました。

本当の命は神様の目的に同意して、参加することです。私たちは、神様が私たちの人生に、また、この世界の中で何をなさっているかを見て、その仕事に参加するべきです。私たちが本当に神様を愛しているなら、そのことに集中します。でも、そのリーダーたちは自分自身に集中しすぎたので、神様に対する愛を持っていませんでした。だから、イエス様は、彼らにこう言いました。

ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。(42)

あなたは、どうですか。イエス様は、あなたに関して何を言うでしょうか。「あなたのうちには、神の愛があります。だから、あなたの心から神様を喜ばせたがります」と言えますか。

神様からの栄誉を求めているでしょうか。人間からの栄誉を求めているでしょうか。

あなたは、ミニストリーをするとき、誰からの栄誉を求めているでしょうか。牧師からの栄誉を求めているでしょうか。教会の人たちからでしょうか。

人間からの栄誉を求めると、その宗教的なリーダたちの聖書研究のように、あなたのミニストリーは、自己中心的なものになります。そして、あなたには、イエス様がなさっていることが見えなくなります。

正直に言うと、説教者として、私は、いつもその悪い態度と戦います。プライドは私たちのミニストリーを壊してしまいます。だから、私たちは毎日、自分自身にこの質問を聞くべきです。「私はだれを喜ばせようと思っているだろうか。」

だれからの栄誉を求めているでしょうか。

 

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ヨハネ5:19-30--私たちを裁く方。私たちに命を与える方。

この個所では、私たちは、天の父と神の子の関係を垣間見ます。天の父とイエス様が同じ方と言うカルトもあるけど、クリスチャンはそう言えません。天の父とイエス様(と聖霊様)は一つの神ですけど、天の父はイエス様ではないし、イエス様は聖霊様ではないし、聖霊様は天の父ではありません。彼らは互いに愛し、話し合い、一緒に協力します。

そして、イエス様がこの世に住んだ時、彼は天の父に頼りました。彼は、天の父が何をしているかを見て、その働きに参加しました。(19)

それに、イエス様は、いつも自分自身を喜ばせようと思わないで、天の父を喜ばせようと思いました。そして、イエス様の言葉と御業は天の父の力と知恵に基づきました。(30)

その反面、天の父は、イエス様に凄い力と権威を授けました。どうしてでしょうか。すべての人々が天の父を敬うように、イエス様を敬うためです。だから、彼らはイエス様を敬やなかったら、天の父も敬わなかった。(23)

そういう意味で、イエス様は天の父と対等です。(18)

イエス様は、どんな権威と力を持っているでしょうか。

1.イエス様は命を与える力を持っています。

イエス様は死人に命を与えられます。イエス様は、こう言いました。

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(21)

イエス様は、何回も、その力を使いました。特に、イエス様はラザロを復活させました。さらに、イエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。。。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。(25-26、28-29)

私たちは、もう一つのことを覚えていなくてはなりません。イエス様は、クリスチャンたちだけを復活させません。イエス様は、すべての人々を復活させます。どうしてですか。裁きのためです。それが、二つ目のポイントです。

2.イエス様は、すべての人々を裁く権威を持っています。

イエス様は、こう言いました。

また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。(22)

イエス様は人々を裁くするとき、どんな宣告を宣言するでしょうか。

善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(29)

つまり、イエス様の裁きには、永遠の結果があります。その日、誰が天国に行くか、誰が地獄に行くか決まります。

どうして、イエス様は、その裁く権威を持っているでしょうか。なぜなら、イエス様は、人間になったのに、決して罪を犯さなかったから。

どのような目安で、イエス様は、だれが天国に行くか、誰が地獄に行くか決めるでしょうか。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(24)

要するに、私たちは、イエス様の言葉を聞き、信じ、イエス様を送った天の父を信頼しなくてはなりません。

そうすれば、あなたは、永遠の命を受けます。そうしないと、あなたは、地獄で永遠に裁かれます。

あなたはどうですか。命を与える力を持っているイエス様、また、あなたを裁く権威を持っているイエス様を信頼しているでしょうか。

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ヨハネ5:16-18--イエス様はだれでしょうか

イエス様はだれでしょうか。イエス様に出会った人々のすべては、その質問に答えなくてはいけませんでした。

今なお、人々はイエス様に出会うと、その質問に答えなくてはいけません。

ユダヤ人たちも、イエス様と話したとき、その疑問に直面しました。イエス様はこう言いました。

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。(5:17)

私たちにとっては、その言葉は別にショッキングではないかもしれないけど、ユダヤ人たちは本当に面くらいました。

なぜなら、その時代、誰も神様を「私の父」と呼ばなかったから。「私たちの天の父」と言ったかもしれませんけど、「私の父」と言いませんでした。なぜななら、「神は私の父」というのは、「私は神性を持っている」という意味でした。どうして、ユダヤ人たちは、そのように思ったのでしょうか。

ちょっと考えてください。子供たちは、その父と同じ姿を持ちます。父が人間なら、その子供も人間です。父がサルなら、その子供もサルです。父が猫なら、その子供も猫です。

だから、もしイエス様の父が神なら、イエス様はだれでしょうか。

もちろん、私は、神様がイエス様を産んだのだと言うわけではありません。また私は、神様が結婚して、その妻はイエス様を生んだと言っていません。イエス様は、永遠から天の父と聖霊様と一緒におられました。イエス様と天の父と聖霊様は神性を持っている。それでも、神は、一つしかおられません。どうやって、神様の御姿を説明できるかだれも知りません。でも神様は、そのように自分自身を現わされました。

それでは、私たちにとっては、その真理はどういう意味でしょうか。

もしイエス様が神なら、私たちはイエス様の言葉を無視できません。イエス様はただの人間ではないです。私たちは、イエス様の言葉に反対する権利がありません。むしろ、私たちは、その言葉を真理として受け入れ、その言葉に従わなくてはいけません。

あなたはどうですか。イエス様がだれだと思うでしょうか。

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ヨハネ5:1-16--ルールに目がくらむこと

ルールは良いものです。カオスの状態では、ルールによって、秩序は確立されます。そういうわけで、学校の教室でも、家庭でも、社会でも、ルールは大切なものです。

でも、人々がルールの目的を忘れると、ルールは害するものになります。私たちが、そのルールの精神を思い出さないと、本当に大変な状態になります。さらに、ある人は、ルールを守るために、余計なルールを作ります。

例えば、パウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

そこだけではなく、聖書のいろんな箇所で、酔ってはいけないという警告がたくさんあります。どうしてでしょうか。あなたが酔うと、自分自身をコントロールできなくなります。それに、神様ではなく、お酒があなたの行動をコントルールします。

でも、ある人は余計なルールを作ります。「全然お酒を飲むな。あなたが飲めば、酔うかもしれないから。」

そのルール自体は悪くはないです。そういうわけで、私はお酒を飲みません。(それに、その味が嫌いだし。)

でも、ほかの人々がその余計なルールを守らないからと言って、あなたは彼らを批判してはいけません。

パリサイ人は、そんなことをしました。神様はこう命令しました。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト記20:28)

つまり、その日に働いてはいけません。

その律法の精神は何でしたか。

一つ目は、人々が神様に焦点を当てる時間を取ることです。

二つ目は、神様を信頼することです。つまり、毎日を働かずに、一週間に一日休んでも、神様があなたのニーズに備えることを信頼することです。

三つめは、彼らがリラックスできることです。神様は、彼らを愛したので、時々休んで欲しいと思っておられました。

それらは、その律法の精神でした。でも、パリサイ人と律法学者は、その律法のためにいろんな余計なルールを作りました。例えば、どれぐらい旅できるかとか、何キロぐらいのものなら運んでもいいというルールを作りました。

お医者に対しても、安息日に関するルールがありました。安息日に、誰かが死にかけている場合だけ、お医者さんは、その人を助けることができました。その状態でも、その人を次の日まで生き残られるまで助けることができました。

でも、そのルールのため、彼らは、その律法の精神を忘れてしまいました。彼らは人々に神様が望んでいなかった重荷をかけました。

さらに、誰かがその神様が立てなかったルールを破ったら、彼らはその人を批判しました。

それに、そのルールのため、彼らは神様がなさっていることが見えなくなりました。

この個所では、そのことを見ることができます。

彼らは、安息日に床を取り上げている人を見ました。(彼は安息日に荷物を運ぶルールを破りました。なぜなら、それは「仕事」でした。)

パリサイ人は言いました。「お前は働いているよ。なんで安息日に働いているの。」

「私をいやしてくれた人は「床を取り上げて歩け」と言いましたから。」

つまり、「もし、その人には、私をいやす力があれば、私に「床を取り上げなさい」と言う権利もあるでしょう。」

この個所では、注意事項が二つあります。一つ目は、その人が病気にかかっていた間に、パリサイ人たちは彼のことに全然気づいていなかった、ということです。でも、彼が彼らのルールを破った時、彼らは彼に気づきました。

私たちは、どれぐらいそのようにふるまうでしょうか。私たちの周りの霊的な必要がある人がいるのに、彼らが私たちのルールを破るとき以外に、私たちは彼らを無視します。

二つ目は、その奇跡にやっと気づいたとき、彼らはそのルールに集中しすぎたほど、神様がその人のために何をしてくださったか感謝できませんでした。

だから、彼らはそのルールを破った人が誰かという疑問に集中して、その人がイエス様だと分かった時、イエス様を迫害しました。

それは、ルールに集中しすぎるの危険性です。私たちの周りの人々のニーズが見えないし、神様が何をなさっているのかを認識できません。

あなたはどうですか。あなたはルールに目がくらんでいますか。

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ヨハネ5章1-15ーー完全さを望むこと

時々私は、人々が完全な人生を望むかどうか疑います。彼らは、結婚関係や、ほかの人間関係に関して文句言ったり、自分の仕事や、健康について文句言ったりするけど、結局何も変わりません。彼らは、文句言うのが好きなようです。また、相手の同情をもらうのが好きみたいです。

でも、イエス様は、私たちがそのように生きるように望みません。イエス様は、私たちが自分のみじめさに浸ることを望みません。むしろ、イエス様は、私たちを癒したがります。この箇所では、私たちは、その真理を学びます。

この話では、ある人は、38年間ぐらい病気にかかっていました。だから、多分彼は、毎日乞食をしなくてはなりませんでした。イエス様は、彼の状態を聞いた時、その人に単純な質問を訊きました。「よくなりたいか。」

多くの人々は、その乞食が「はい」と答えることが当たり前の事だと思うかもしれません。でも、もしかしたら、彼は、働かずに、乞食をするのが好きだったかもしれません。もしかしたら、彼は、周りの人々に世話される事が好きだったかもしれません。そういう意味で、彼の人生は楽でした。

でも、この人は、癒しを望みました。その時代、ある迷信がありました。それは、天使がベテスダと呼ばれる池の水を動かしたあと、最初に入った人は癒されることです。

彼は出来るだけ早く入ろうと思ったけど、ほかの人が彼の先に入ってしまいました。

とにかく、イエス様は、乞食の答えを聞くと、彼にこう言いました。

起きて、床を取り上げて歩きなさい。(8)

その乞食は、どう思ったでしょうか。どうやら、彼は、イエス様のことを全然知りませんでした。もし、彼がイエス様の事を聞いたことがあったら、彼はイエス様を認識しませんでした。(5:12-13)

それでも、彼が知らない人は彼に「起きて、歩きなさい」と言いました。

しかし、彼はイエス様の言葉に従って、起き、歩けるようになりました。

その後、神殿でイエス様は、彼にこう言いました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(14)

この話から、私たちは、何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの多くは、傷つくことを経験します。私たちの人生が壊れて、どうやって完全になるかわかりません。でもイエス様は、私たちに訊きます。「よくなりたいか。完全になりたいか。」

完全になりたいなら、その乞食のように、あなたは、イエス様が言うことに従わなくてはなりません。イエス様の言葉を疑ってはいけません。「それは無理だ」と言ってはいけません。ただイエス様の言葉に従うべきです。

この乞食の場合、癒しはたちまち来ました。あなたの場合、癒しは時間がかかるかもしれません。特に、壊れた人間関係や、失恋や、苦々しい思いの癒しは時間がかかります。あなたは、聖霊の助けが必要です。聖霊に頼むと、聖霊は、あなたの心の中で働きます。

そして、教会の人たちからの助けが必要かもしれません。教会は、キリストの体です。だから、問題があれば、私たちは互いに助け合います。(それは、私たちが教会が必要な理由の一つです。)

でも、完全になりたいなら、あなたは完全さを求めなくてはならないし、イエス様に信頼し、イエス様が言うことに従うべきです。

そうすれば、イエス様は、その言葉に従う力を与えて、あなたを癒してくださいます。

でも、イエス様を信頼しないで、自分の道を行き続けたら、つまり、罪の道を行き続けたら、イエス様が乞食に警告したように、あなたの人生はもっと大変になります。(5:14)

あなたはどうしますか。

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マタイ9:14-17;マルコ2:18-22;ルカ5:33-39ーー神様があなたを用いるために

ユダヤ人の宗教的なリーダーたちがしばしばしようとしたのは、バプテスマのヨハネをイエス様と比べて、ヨハネの弟子たちを嫉妬させることです。そして、ヨハネの弟子たちは、いつもその罠に落ちました。

ヨハネ3章では、あるユダヤ人(多分ユダヤ人のリーダー)はヨハネの弟子たちに言いました。「イエス様があなたたちよりも人々をバプテスマを授けていることを知っているでしょうか。」

そして、この箇所では、リーダーたちの言葉のため、ヨハネの弟子たちは、イエス様に「どうして断食しないのですか」と問います。

どうしてパリサイ人やほかのリーダーたちは、いつもバプテスマのヨハネとイエス様を比べたのでしょうか。多分、ヨハネはイエスの証人だったから。ヨハネは、イエス様の道を整えたけど、もしヨハネとその弟子たちがイエス様を批判し始めると、その証は無駄になったでしょう。

イエス様が結婚式の比喩を使うのは、偶然ではないと思います。ヨハネ3章では、バプテスマのヨハネは、同じ比喩を使ったから。その時、ヨハネは、自分自身を花婿の友人と比べたし、イエス様を花婿と比べました。だから、イエス様は、その弟子たちをヨハネの言葉を思い出させようとしたかもしれない。

その時、ヨハネは牢にいました。彼の仕事は終わりました。でもなぜか、ヨハネの弟子たちはイエス様に従おうと思いませんでした。彼らはアンデレの模範に従った方が良かったのです。(ヨハネ1:35-40)

イエス様は、彼らにこう言いました。「ヨハネは、あなたたちに私が花婿だと言いました。花婿にいるとき、どうして周りの人々は断食したり、悲しんだりした方がいいでしょうか。花婿が取り去られる時、断食した方がいいです。でも、その時間は、まだ来ていません。私は、まだここにいるから。私が去る時、断食して、祈ってください。」

そして、イエス様は、たとえ話を話しました。イエス様は、皮袋と着物の継ぎについて話しました。その時代では、人々は、そのたとえが良く分かりましたけど、現代では、ちょっと分かりにくいです。

でも、ちょっと考えてください。もし、古いジーンズに穴が開くなら、新しいデニムの継ぎでそのジーンズをつくろいますか。それは、ダメでしょう。そうすれば、そのジーンズを洗うと、その継ぎが縮んで、そのジーンズは裂けてしまいます。

現在、私たちはワインをビンに入れます。でも、その時代、彼らはワインをヤギの皮袋に入れました。そのワインが発酵すると、その皮袋は膨らみます。でも、新しいワインを古い膨らんだ皮袋に入れると、その皮袋はすぐに裂けてしまいます。

では、イエス様は、ヨハネの弟子たちに何を教えようとしたでしょうか。

「神様は、新しいことをしています。私は神の子で、ここに着きました。私は罪によって死にかけている人々に手を伸ばしています。私は、永遠の国を建てています。でも、あなたたちは、古い皮袋みたいです。あなたたちが自分の伝統と古い方法を愛しすぎるので、神様は、あなたたちを用いることができません。」

パリサイ人は。律法を愛しました。彼らにとっては、人を救うことではなく、律法を守ることが一番大事なことです。彼らは、人々を救うよりも、いけにえと宗教的な儀式を行うことに興味がありました。

ヨハネの弟子たちは、自分の先生を愛しすぎました。だから、彼らは、ヨハネの目的を忘れてしまいました。その目的は、ただ人々をバプテスマを授けることではありませんでした。その目的は、ただ悔い改めるメッセージを伝えることではありませんでした。その目的は、人々の心をイエス様のために整えることです。

でも、ヨハネが牢に入ったとき、彼らはイエス様のところに行かなかったので、神様の彼らのための目的を逃がしました。神様は、イエス様のミニストリーを通して、新しいぶどう酒(つまり、聖霊様の働き)を人々に注ぎました。でも、ヨハネの弟子たちは、ヨハネの教えと修行にしがみついて、「古い物は良い」と言いました。(ルカ5:39)

あなたは、どうですか。あなたの人生に聖霊の働きを歓迎するでしょうか。もしくは、あなたは、伝統にしがみついているでしょうか。律法主義にしがみついているでしょうか。もしくは、ミニストリーの古い方法にしがみついているでしょうか。前は、その方法が効果的だったかもしれませんでしたけど、今はそんなに効果的じゃないかも知れません。

もし、神様があなたを用いることを望むなら、神様が何をしているか見て、その仕事に参加しなくてはなりません。そして、あなたの伝統、あなたの古い方法を離さなくてはならないかもしれません。

あなたは古い皮袋でしょうか。新しい皮袋でしょうか。

 

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マタイ9:10-13;マルコ2:15-17;ルカ5:29-32ーー憐れみを与える人

この箇所では、私たちにイエス様とその時代の宗教的なリーダーたちと大きな違いが見えます。

イエス様がマタイを選んだので、マタイは本当に嬉しくて、イエス様を宴会に誘いました。マタイは、自分の友達も誘いました。もちろん、マタイがイスラエルののけ者だから、彼の友達のすべては、のけ者でした。その友達は取税人や「罪人」でした。

でも、イエス様はためらわずに来て、マタイとその友達と一緒に食事しました。

私たちはどれぐらいそんなことをするでしょうか。どれぐらい、私たちは宗教的な人が拒絶した人と付き合うでしょうか。多分マタイは、もう悔い改めたけど、私はその友達はまだ悔い改めていないと思います。それでも、イエス様は、彼らと時間を過ごしました。それに、イエス様は、その時間を楽しみました。

その宗教的なリーダーたちはどう反応したでしょうか。彼らは面食らいました。

ちょっと想像してください。もし、有名な牧師がゲイの人達と一緒に食べたり、飲んだりしたら、ほかの牧師たちはどう反応でしょうか。日本では私は分からないけど、アメリカでは多分彼れらは、その牧師を批判するでしょう。

パリサイ人は、そのように反応しました。「いったいどうしてそんな人たちと遊ぶでしょうか。彼らは最低な罪びとなのに。」

でも、イエス様はこう答えました。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)

つまり、こんな人とも付き合わなくてはなりません。彼らは知らないかもしれないけど、彼らは霊的に病気です。彼らにはお医者さんが必要です。もし、私が彼らを避けたら、彼らは自分の罪のために死にます。

マタイはそこにいたので、マルコとルカが話さない一つのことを伝えました。イエス様は、もう一つのことを言って、マタイはその言葉を一生忘れませんでした。イエス様は、その宗教的なリーダーたちにこう言いました。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

つまり、「あなたたちは律法とあなたの伝統を本当に凝っています。あなたたちは頑張って詳しい律法を守るし、いろんないけにえをささげます。でも、神様にとっては、そんな行動は一番大切じゃないです。

神様が望むのは、あなたたちは憐れみを与える人になることです。神様は罪に縛れた人々を助ける人を望みます。あなたはそんな人と時間を過ごすべきです。そんな人に福音を伝えるべきです。でも、あなたたちが彼らを避けているので、彼らは死にかけています。」

あなたはどうですか。あなたは罪びとを避けているでしょうか。彼らの罪のため、彼らを見下すでしょうか。もしくは、イエス様の態度を取って、彼らをお医者が要る病気な人とみなすでしょうか。救い主が要る人とみなすでしょうか。

毎日、私たちは周りの人々に憐れみを与えましょう。神様はそんな人を望むから。

 

 

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マタイ9:9;マルコ2:13-14;ルカ5:27-28ーー救われる希望がない?


私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所から、私たちは大切なことを学ぶから。つまり、私たちがどんなに悪くても、神様は私たちを救うことができます。

ある日、イエス様は収税所に近づいて、マタイという取税人を見ました。マタイがイエス様を見たとき、マタイは自分の心の中で何を考えたでしょうか。

私は分からないけど、多分彼は後悔の思いを持っていました。彼は数年前、自分の魂を売ったから。

イスラエル人は取税人が大嫌いでした。収税人がローマ帝国のために税金を預かったので、収税人は敵に協力する人と見なされました。それに、彼らはイスラエル人同士からローマ帝国が要求したよりも、お金を要求しました。そして、その余分のお金を自分のポケットに入れました。

どうしてマタイがその進路を選んだか、私たちは分かりません。でも多分、時間が経てば経つほど、彼にとっては、そのお金の価値はなくなりました。つまり、彼が何を買っても、彼は喜ばず、惨めになりました。

マタイはイエス様を見ると、多分イエスについて行った群衆を羨ましいと思ったかもしれません。多分、彼もイエス様について行きたかったのです。彼はイエス様の教えを聞いたし、イエス様の奇跡について聞きました。そして、彼はイエス様に従えば、その惨めな人生から救われると思ったかもしれません。

でも、多分彼はこう思いました。「それは無理だ。私はもうだめだ。イエス様は決して私のような者を弟子として受け入れないだろう。」

でも突然イエス様は、マタイが座っている収税所の前に立ち止まりました。そして、イエス様は、マタイに目を留めました。マタイがイエス様の目を見ると、多分彼が自分の心のすべてがばれたと思ったので、恥ずかしくなり、彼の頭は下がりました。

でも、イエス様は「マタイ」と呼びました。

マタイはイエス様の目を見ると、その中に叱責を見ませんでした。むしろ、慈悲を見ました。赦しを見ました。

そして、イエス様は彼にこう言いました。「私について来なさい。」

それは単純な言葉です。「私についてきなさい。」

でも、その言葉の中には、深い意味がありました。「あなたにとって、遅すぎることはありません。あなたを赦します。あなたには、希望があるよ。救いがあるよ。私についてきなさい。」

だから、マタイはすべてを捨てて、イエス様について行きました。もちろん、彼の心の中には、まだいろんな罪がありました。でも、その日、彼は新しい人生に踏み切りました。

あなたはどうですか。あなたが救われる希望がないと思いますか。あなたがもうだめなので、神様は、あなたのことをあきらめたと思いますか。

神様はあなたのことをあきらめていないです。神様は、まだあなたのことを愛しています。神様は、慈悲深い目であなたを見ます。神様は、赦しと哀れみをあなたに与えてくださいます。あなたが踏み切って、神様に従い始めさえすれば、神様はあなたを受け入れます。

もちろん、あなたの人生は急に変わりません。それは時間がかかります。マタイのように、あなたは一晩で、完璧になりません。時々、あなたは罪と戦います。時々、あなたは失敗します。でも、あなたが、「イエス様、あなたに従いたいです。私の主になってください」と祈れば、イエス様は、あなたにイエス様に従える新しい心を与えてくださいます。そして、イエス様があなたの心を変えて、あなたの行動もだんだん変わり始めます。

あなたは、その新しい人生に踏み切るでしょうか。

イエス様、私は失敗しました。私は罪を犯しました。私は自分の道を行きました。赦してください。私が何回も失敗したけど、あなたが私を救うために十字架で死んでくださり、ありがとうございます。私にとって、希望があって、感謝します。

これから、私は、あなたに従いたいです。私に新しい心を与えてください。あなたに従う心を与えてください。私をあなたのものにしてください。私の主になってください。私を変えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイ9:2-8;マルコ2:1-12;ルカ5:18-26ーー赦しの権威

イエス様は誰でしょうか。ただの偉い宗教的なリーダーでしょうか。ただの良い人でしょうか。奇跡を起こす人でしょうか。もしかして、イエス様はもっとも優秀な方でしょうか。

この個所では、私たちはイエス様がもっとも優秀な方であったとわかります。イエス様はカペナウムに戻りました。(その時、イエス様の家はカペナウムにありました。(マタイ4:13))

この話では、イエス様が自分の家にいたかどうか分かりませんが、その日、イエス様がいる家には人々がいっぱいに入っていました。たぶん、窓からもたくさんの人々が覗いて、イエス様の言葉を聞いたかもしれません。

そして、四人の人たちが足が不自由な友達をその家に癒しのために連れて行ったけど、人々が多すぎたので、入ることができませんでした。だから、彼らはクリエイティブな入り方を考えました。彼らは屋根をはがし、穴をあけ、その穴からその友達を寝かせたままその床をつり降ろしました。

そのシーンを想像してください。イエス様が教えているところで、突然屋根から変な音がしました。そして、急に、屋根の破片が落ち始めたので、人々は逃げようと思ったけど、人がいっぱいすぎたので、逃げるのは難しい状況でした。結局、人々はその家から出て、スペースを空けました。もちろん、イエス様の説教はもう止みました。だから、皆は何が起こるかと思って、待っていました。

そして、やっと、その足が不自由な人がイエス様の足下にいます。多分、皆はイエス様がその人を癒やすことを期待しました。でも、イエス様は不意なこと言いました。

子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。(マタイ9:2)

多分、その落ちた屋根の破片よりも、その言葉はばったりと落ちました。皆は無言でした。そして、パリサイ人と律法の学者は、皆が考えていることを表現しました。

神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。(ルカ5:21)

つまり、「イエス様には罪を赦す権威がないでしょう。神様だけが罪を赦すことができます。」

彼らの言うことの半分は正しいことでした。

もちろん神様だけが、罪を赦すことができます。傷ついた方だけが、相手を赦すことができます。

でも、彼らが知らなかったのは、神様が彼らの間に立っていたということです。イエス様は神なので、罪を赦す権威があります。

そしてイエス様は、その人の癒やしを通して、その赦す権威を証明しました。

イエス様は、ただの宗教的なリーダーではありません。ただの良い人ではありません。ただの奇跡を行う人ではありません。イエス様にあって、神は人間になりました。

イエス様は、この世に来て、私たちと共にいて、そのあと、私たちの罪のために十字架で死にました。その御業によって、神様は私たちの罪を赦すことができます。

イエス様は、その人を赦して救ったように、あなたを赦して救うことができます。あなたがイエス様に祈ると、きっと答えてくださいます。

イエス様、その足が不自由な人と同じように、私は罪人です。私は自分の道を行って、あなたに罪を犯しました。赦してください。十字架で私のために死んでくださり、ありがとうございます。あなたがよみがえられることを信じます。これから、あなたに従います。私の主になってください。アーメン。

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マタイ8:2-4;マルコ1:40-45;ルカ5:12-16--私たちを清める方

この個所を読むと、イエス様の慈悲に私は感動します。ツァラアトに冒された人はイエス様のところにきて、願いました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人は社会からのけ者にされました。その人は自分の家から出て、皆から離れなくてはなりませんでした。もし、誰かがその人に近づいたら、彼は「私は不潔です。逃げてください」と叫ばなくてはなりませんでした。

それは本当に寂しく惨めな人生でした。彼らは、ほかのツァラアトに冒された人としか付き合うことができませんでした。

でも、この人はイエス様について聞いたとき、希望をもう一度感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願いました。

たぶん、イエス様は彼が期待したよりもさらに素晴らしいことを行いました。イエス様は彼から離れたまま癒さず、彼に触れて癒しました。

ユダヤ人の律法によれば、あなたがそんな人に触れると、あなたも一時的に「不潔」になりました。それに、もしかして、あなたはその病気にかかるかもしれない。

たぶん数年ぶりに、だれかがその人に触れました。たぶん、彼は本当にびっくりしました。

私はその感じがちょっとわかります。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私はもう20年以上日本に住んでいるので、今、友達にハグされると、私はちょっとびっくりします。

そのように、人々は彼に触れるのを恐れました。彼らは不潔になりたがりませんでしたから。

でも、イエス様が彼に触れても、イエス様は不潔になりませんでした。むしろ、相手が清められました。

そのように、イエス様が私たちを見ると、私たちの罪によって不潔な状態を見られます。私たちは罪の泥から出られなくて、自分自身を救うことができませんでした。だから、私たちは、ツァラアトに冒された人のように、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」としか言えません。

そうすれば、イエス様は私たちに手を伸ばし、私たちに触れ、私たちを癒してくださいます。

イエス様がその人の病気を癒すことができるなら、私たちの魂を癒すことができないでしょうか。

あなたは自分の罪に縛れているでしょうか。あなたは不潔で、自分自身を救うことができないでしょうか。イエス様のみ前に行ってください。イエス様の助けと赦しを願ってください。そうすれば、あなたは癒されます。

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マタイ4:23-25;マルコ1:35-39;ルカ4:42-45ーー英気を養う。焦点を合わせ直す。

イエス様は、自分のミニストリーを始めたとき、できるだけ多くの人々に触れて、天の父の心に従いました。

それでも、イエス様は決して燃え尽きませんでした。

私には、燃え尽きた経験があって、全然楽しくありませんでした。でも、イエス様は決してそうしませんでした。イエス様は、ずっと群衆に触れたり、自分の弟子たちを訓練したりしたので、燃え尽きるのは簡単なことのはずなのに、どうして、燃え尽きなかったのでしょうか。

彼の秘密は、この箇所に見つけられると思います。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

イエス様は神であっても、自分の力と知恵に頼りませんでした。むしろ、彼は天の父に全く頼りました。

そして、イエス様が群衆から離れたとき、彼は英気を養ったし、自分の焦点を合わせ直しました。でもそれは、どういう意味でしょうか。

そのとき、イエス様は彼に対する天の父の愛を思い出しました。また、イエス様は天の父が彼が何をするように望むか思い出しました。

多くの人々は、しばしばイエス様に時間を取らせようとしました。ルカはこう書きました。

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4:42)

でも、イエス様が彼らの要求に譲らない時もありました。むしろ、イエス様は、天の父の声に聞き従いました。だから、彼は群衆にこう言いました。

ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。(43)

私の経験では、ミニストリーの燃え尽きの原因は二つあります。

一つ目は、その人は、いつもほかの人に与えるけど、決して何ももらわないことです。特に、彼らは天の父から何ももらいません。天の父が自分の愛を彼らに与えたいと思わないわけではありません。むしろ、彼らは、ちゃんと神様を求めないで、神様と時間を過ごしません。だから、彼らの心が神様の愛に満ちて走らないで、彼らのガスタンクがほとんど空っぽで、彼らは走ろうとしています。

だから、彼らのミニストリーが大変になるとき(どんなミニストリーをしても、そんな時がきっと来ます)、彼らは尽き果てるようになります。なぜなら、彼らは神様からではなく、そのミニストリー自体からエネルギーを獲得しようと思うから。だから、そのミニストリーが彼らに必要なエネルギーを与えないなら、彼らは燃え尽きてしまします。

二つ目の原因は、神様が彼らに求めるよりも、彼らが多くのことをすることです。つまり、周りの人々が彼らに何か頼むときに、彼らは断ることができません。

もしくは、神様が彼らに求めない重荷を背負います。なぜなら、彼らは「誰かがその重荷を背負わなくてはならない。」と思うから。そして、彼らはその重荷のせいで倒れてしまいます。

だから、毎日神様と時間を過ごすのは本当に大事なことです。毎日、あなたは英気を養わなくてはならないし、自分の焦点を合わせ直さなくてはなりません。

つまり、神様につながって、神様からあなたが必要な愛とエネルギーを受けなくてはならないです。

また、相手からの要求を測って、その要求は神様の御心かどうか判断しなくてはなりません。また、あなたの周りに、ニーズがあっても、あなたがそのニーズに満たさなくてはならないかどうかを判断しなくてはなりません。

そうしないと、あなたが燃え尽きる確率は高くなります。

あなたはどうですか。毎日、あなたは英気を養っているでしょうか。毎日、自分の焦点を合わせなおしていますか。

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マタイ8:14-16;マルコ1:29-34;ルカ4:38-41ーー私たちを癒やす方

この箇所では、私たちはイエス様の癒やしのミニストリーを垣間見ます。イエス様はペテロの家を訪ねた時、ペテロの義理のお母さんを癒やしてくださいました。多分、イエス様は初めて、安息日に人を癒やしたけど、人前でしなかったので、イエス様は非難されませんでした。

今、ある質問が私には思い浮かびました。前回の話で、安息日にイエス様は、悪霊をある人から追い出しました。もしパリサイ人たちがその会堂にいたら、イエス様を責めたでしょうか。もしかして、彼らは「おい。それはだめ。ほかの日に悪霊を追い出しなさい」と言ったかもしれません。

とにかく、この日イエス様は責められませんでした。安息日の後、たくさんの人が癒やされるために、ペテロの家を訪ねて、イエス様は皆を癒やしてくださいました。

マタイはその癒やしに関して、こう言いました。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)

ちょっと注意事項があります。マタイによれば、イエス様はこの世にいる間、その預言を成就しました。今は、癒やしの約束はありません。もちろん、イエス様は今でも、人々を癒やすことができるけど、イエス様が私たちをきっと癒やしてくださるという約束はありません。

とにかく、この箇所から私たちは何を学ぶことができますか。一つ目は、イエス様の哀れみということです。イエス様は群衆を愛していたけど、一人の女性でも、愛していました。私たちはペテロの義理のお母さんの名前を知りません。それでも、イエス様は彼女を癒やしてくださいました。

あなたはこの世ではごく普通の人かもしれません。周りの人々は、あなたの名前を知らないかもしれません。でも、イエス様は、あなたの名前をよく知っています。そして、あなたは苦しんでいるとき、イエス様はあなたを見て、愛してくださいます。

前にも私は言ったけど、神様は私たちを癒やすことを約束しません。時々、神様は私たちに見えない計画があるので、私たちを癒やしてくださいません。でも、イエス様は「私に祈って、頼みなさい」と言うので、頼んだ方がいいです。

しかし、もしあなたが感情的な傷があれば、イエス様がその傷をきっと癒やしてくださると思います。イエス様が体的な病気を通して、神様の栄光を果たすときもあると思うけど、神様はあなたが感情的な重荷を持つことを望まないと思います。だから、その重荷をイエス様の足下に置いてください。そうすれば、癒やしを知ります。

この箇所から、もう一つのことは、私の心を打ちます。ペテロの義理のお母さんは癒やされたとき、すぐにイエス様に仕え始めました。

私たちもそうした方がいいです。イエス様が私たちを病気や、感情的な傷や、罪からの傷から私たちを癒やしてくださるなら、私たちが愛と感謝を持って、イエス様に仕えることはふさわしいと思います。それは義理ではなく、愛に満ちる心です。

多くの場合、神様は私たちが経験した困難を持つ人を私たちの所に導きます。

イエス様が私たちを癒やす一つの理由は、その癒やしを周りの人々に与えることです。

あなたはどうですか。その癒やしをあなたの周りの人々に与えていますか。

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マルコ1章21-28節;ルカ4章31-37節ーー権威

イエス様はほかの宗教を始めたリーダーたちと、どう違うでしょうか。もちろんたくさんの違いがありますが、一番大切な違いは、イエス様は神で、自分の復活によってそのことを証明した、ということです。

ほかの偉いリーダーたちは、もう死んでしまいましました。だから、きっと彼らは神ではありませんでした。

でも、この箇所では、私たちは、もう一つの違いが見えます。つまり、イエス様は本当の権威を持っていました。

ユダヤ人たちは、イエス様の教えを聞いたとき、そのことがすぐに分かりました。ほかの先生たちは聖書について教えたとき、いつもこう言いました。「誰々先生はこの箇所についてこう言いました。」また、「誰々先生によれば、この言葉はこういう意味です。」

イエス様は決してそんなことを言いませんでした。むしろ、彼はいつもこう言いました。「まことに、まことに、私はあなたがたに告げます。」

ユダヤ人たちは、それを聞いて驚きました。「この方は、権威を持っているかのように話します。彼は教えていることについて、本当に自信があるようです。」

聖書を教える人として、私も驚いたでしょう。もちろん私は頑張って勉強して、神様に知恵のために祈るけど、私はイエス様の権威の少ししか持っていません。イエス様の教えを聞くことは素晴らしい経験だったでしょう。

そして会堂で、イエス様はある人から、悪霊を追い出してその権威を証明しました。だからイスラエルの各地に、イエス様に関する噂が山火事のように広まりました。

でも、この話は、私たちとどういう関係があるでしょうか。

私たちは自分自身にこういう質問を訊かなくてはなりません。「イエス様は、本当に特別な権威を持って、話しただろうか。もしくは、彼の意見と私の意見は同じ権威を持っているだろうか。」

多くのクリスチャンは口で、イエス様の権威を認めるけど、その言葉に従いません。イエス様の言葉は理想的だけど、イエス様は実生活が分からなかったと思うクリスチャンもいます。

イエス様の言葉に従いたがらないクリスチャンもいます。彼らは自分の道を行きたいと思うから。

でも、私たちがイエス様を「主」と呼ぶなら、そんな考え方を捨てなくてはいけません。また、そんな生き方を捨てなくてはいけません。

イエス様はこう言いました。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

「主よ。それをしたくない。」という言葉は、矛盾の言葉です。

あなたはどうですか。あなたは本当にイエス様の権威を受け入れるでしょうか。

 

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ルカ4章14-30ーーイエス様を受け入れる人には

この箇所を読むとき、私はヨハネ1:11-12を思い出します。

この方(つまり、イエス様)はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

このルカの箇所では、イエス様は出身地ナザレに帰って、ずっと知り合っている人たちに会いました。彼らはイエス様とその家族をよく知っていました。イエス様はきっとその町の会堂に何回も行っていました。

でも、イエス様が彼らに教えたとき、彼らはイエス様を受け入れませんでした。むしろ、彼らはイエス様を拒絶して、殺そうとしました。

でも、イエス様の教えは明らかです。イエス様を受け入れる人は、神の子供とされる特権を受けます。イエス様が引用した箇所は(イザヤ書61章)、イスラエル人の敵に対する神様の復讐について話します。それでも、神様の恵みは神様を信じる人の皆のためです。だから、イエス様は、異邦人サレプタにいたやもめ女と、シリヤ人ナアマンが、どのように恵みを受けたか話しました。

そして、イエス様を信じる人に、イエス様は良い知らせを伝えました。特に、貧しい人にも、弱い人にも、イエス様は良い知らせを伝えました。でも、イエス様はただお金のない人と病気の人について話していません。心の貧しい者、また神様との関係が必要だと分かる人に、イエス様はその良い知らせを伝えます。その良い知らせは、私たちは恵みによって、神様との関係ができることです。

それに、イエス様は罪で縛れた人を解放し、赦します。また、イエス様は過去の傷の鎖で縛れた人を解放し、癒やします。

イエス様は盲人を癒やしたけど、イエス様は、サタンが思いをくらませた人の霊的な目を開きました。だから、彼らは福音の光と希望が見えるようになりました。

また、イエス様は悪霊に抑圧される人を解放し、イエス様の血によって、大勝利を与えてくださいます。

それに、イエス様は今、主の恵みを伝えます。この箇所では、多分イエス様はヨベルの年を参照しました。その年、奴隷は解放されたし、負債は許されたし、負債を支払うために売った土地は元の地主に戻りました。つまり、人々は新しいスタートをもらいました。

イエス様はそのためにこの世に来なした。私たちに新しいスタートを与えるために来ました。また、新しい神様との関係を与えるために来ました。

そして、ヨハネが言ったように、その賜物は信じる人たちの皆のためです。

あなたはどうですか。イエス様を信じるでしょうか。

イエス様、あなたが2000年前にこの世に来て、私たちの罪のために死んでくださり、感謝します。あなたは私を解放するために来ました。あなたは私を癒やすために来ました。あなたの恵みを私の心に注ぎ、私が天の父との関係ができるように、あなたは来ました。

私の罪を赦してください。私の主と救い主として、あなたを信じます。あなたの恵みを私の心に注ぎ、私の人生に働くように祈ります。アーメン。

 

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ヨハネ4:43-54ーーイエスが言われたことばを信じること

この箇所では、私たちは初めて、イエス様が人を癒やす奇跡を見ます。(しかし、その前に、イエス様は他の人を癒やしたかもしれなせんが。ヨハネ2:23)

でも、この話で私の心を打ったのは、王室の役人のイエス様に対する反応です。彼の息子は死にかけていました。多分、彼はその息子をいろんなお医者たちに連れて行ったけど、彼らは、その息子を助けることができませんでした。だから、イエス様は彼の最後の希望でした。

でも、その人がイエス様の助けを頼んだ時、イエス様はこう答えました。

あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。(48)

それは、ちょっと不思議な答えでした。でも、多分その意味は、「あなたは私のことを本当に信じたので、ここに来たのでしょうか。もしくは、あなたはまだ信じていないけど、私があなたの息子を癒やしたら、信じるのでしょうか。」ということです。

今なお、私たちにとっては、それは本当に大切な質問です。私たちのニーズについて祈るとき、私たちはイエス様を信じるから祈るでしょうか。もしくは、イエス様が私たちの祈りをかなえてくださってこそ、私たちは信じるでしょうか。

その王室の役人はイエス様の言葉を聞いたとき、どう思ったでしょうか。どれぐらい彼は本当に信じたでしょうか。

とにかく、彼は必死に叫びました。

主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。(49)

それを聞いて、イエス様は彼の信仰を試しました。

帰って行きなさい。あなたの息子は治っています。(50a)

ちょっと考えてください。多分、その人はイエス様が彼と一緒に帰ることを望みました。でも、イエス様は言いました。「帰って行きなさい。私は行かなくていいです。あなたの息子はきっと回復します。私の言葉を信じなさい。」

どれぐらいその人がイエス様の言葉を考えていたか、私は分かりません。その言葉を聞いたとたんに帰ったかもしれません。もしくは、彼はちょっとイエス様の目を見て、「イエス様を信じられるだろうか」と思ったかもしれません。でも結局、

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。(50b)

そして、彼が下って行く途中、そのしもべは彼に出会って、「あなたの息子は治りましたよ。」といいました。

私たちはどうですか。イエスが言われた言葉を信じるでしょうか。多くの場合、私たちが祈るとき、イエス様が私たちに何か伝えるけど、私たちはその言葉を信じません。むしろ、私たちは疑って、「イエス様は本当に助けてくださるだろうか」と訊きます。

例えば、私たちは新しい仕事のために祈って、求職活動をしますが、その仕事を選べば、日曜日に働かなくてはならないということがあったとします。そこで、イエス様は「別の仕事のために待ちなさい」と言います。でも、私たちは「イエス様を信頼できるだろうか。この機会を逃してしまうと、イエス様は別の機会を備えてくださるだろうか」と思います。

もしくは、私たちは精神的な癒しのために祈ります。そして、イエス様は私たちに「この人を許しなさい。あなたの苦々しい心を手離しなさい。そうすれば、あなたは癒されるよ。」と言います。

でも、私たちはイエス様に訊きます。「どうして許さなくてはならないでしょうか。私は本当に傷ついたのに。」

私たちはどのようにイエス様の言葉に反応するでしょうか。その言葉を信じて、従うでしょうか。

この質問を答えられるまで、あなたの人生に、癒しや、平和や、喜びを見つけられません。「私はイエス様を本当に信じるでしょうか。イエス様が言われたことを信じられるでしょうか。」

あなたはどうですか。イエス様が言われた言葉を信じるでしょうか。

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マタイ4:12-17;マルコ1:14-15;ルカ4:14-15–暗闇の中の光

前回の記事で、私はこう訊きました。「どうして神様はバプテスマのヨハネが牢に閉じ込まれることを許したでしょうか。」

私には分からないけど、あるいは一つの理由は、イスラエル人がヨハネを見ずに、イエス様に焦点を当てるためかもしれない。

ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様はガリラヤに戻って、そのミニストリーを始めました。マタイによれば、イエス様はこのイザヤの予言を成就しました。

ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:15-16)

パリサイ人がこの個所を忘れ、イエス様の背景を侮るとは、私には信じられません。(ヨハネ7:52)

この個所では、私たちはイエス様の目的の一つを読みます。私たちは暗闇にいました。つまり、私たちは自分の罪のため、神様から離れ、死刑囚でした。でも、イエス様によって、光が上がりました。イエス様は天の父への道を教えたので、希望が現れました。イエス様はこう宣言しました。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

それは私たちへのメッセージです。王は来ました。神の王国は近いです。今、イエス様は信者の心の中で働いています。また、将来、イエス様は自分の物理的な王国をこの世に設立します。

だから、私たちは悔い改めなければなりません。というのは、私たちは神様の道に戻らなくてはなりません。私たちの考え方を変えなくてはなりません。自分のために生きず、神様のために生きなくてはなりません。また私たちの神様に対する不信を捨てて、心から神様を信頼しなくてはなりません。

もちろん一番大切なのは、イエス様に関してよい知らせを信じなくてはならないことです。つまり、神様は私たちのように人間になりました。また、イエス様は十字架で私たちのために死に、三日目によみがえられました。

そして、私たちがイエス様を私たちの救い主と主として信じるなら、私たちは地獄から救われます。

それは、イエス様が伝えたメッセージです。

だから、この二つの質問について考えてください。

1.あなたはイエス様を信じるようになりましたか。

2.あなたはクリスチャンなら、そのメッセージを周りの人々に伝えていますか。

あなたはどう答えますか。

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ルカ3:18-19ーー私はあなたの御心に従っていると思ったのに

時々、私たちの悪い決断によって、私たちは苦しみます。たとえば、私が勤めた会社が倒産しそうなのに、私はそこで働き続けました。私は「なんとかなる」と思ったけど、結局その会社は倒産して、私は失業しました。それは本当に馬鹿な決断でした。

でも、時々私たちはずっと神様の御心に従うのに、試練に直面します。そして、私たちは神様に訊きます。「どうして?あなたの御心に従っていると思ったのに。」

バプテスマのヨハネはそう思ったかもしれません。

18節によれば、ヨハネは「多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。」

そして、彼は自分の弟子たちをイエス様に向かわせて、「イエス様はあなたが従うべきの人です。」と言いました。

それに、予言者の役割をちゃんと果たして、人々の罪を指摘しました。実は、彼は予言者の役割を果たしたので、苦しみました。つまり、ヘロデ・アンティパス王は、その兄弟の妻を自分の妻として取りました。ヨハネはヘロデを責めたので、ヘロデは、ヨハネを牢に閉じ込めました。

いつかブログで、この話の続きを書きますが、今、この質問を訊いてみたいと思います。「どうして神様はそのことを許したでしょうか?」

ヨハネは牢に閉じ込められるような罪を犯したのでしょうか。そんなことはありません。

神様はヨハネを救うことができたでしょうか。はい、できました。

では、どうして、神様はヨハネを救わなかったのでしょうか。私にはわかりません。

最終的に、私たちは神様を信頼しなくてはなりません。

私たちが神様に従っても、神様は気楽な人生を約束しません。私たちの人生がうまくいくことを約束しません。

イエス様は完璧な人だったのに、打たれて、十字架でかけられました。イエス様は気楽な人生を送りませんでした。もし、イエス様がそんな人生を送ったなら、私たちは気楽な人生を期待できるでしょうか。

ペテロはこう書いた。

罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:20-21)

私たちは何のために召されたでしょうか。イエス様のために苦しみを受けることです。

イエス様の足跡はどこに導きますか。苦しみに導きます。

誤解しないでください。私たちが苦しみを探すべきというわけではありません。でも、試練が来ても、驚かないでください。

もし、試練が来れば、ヘブル人への手紙の著者の言葉を覚えていてください。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:3)

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ヨハネ4:27-42ーー隔ての壁を取り壊す

イエス様とサマリヤ人の会話に対する弟子たちの反応は、興味深いものです。ヨハネは、その反応についてこう書きました。

このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。(27)

どうして、彼らはその質問を訊かなかったのでしょうか。ほかのユダヤの先生たちが人前でサマリヤの女性と話すはずがないのに、弟子たちはイエス様の考え方に慣れてきて、当然なことだと思ったでしょうか。もしくは、その質問を本当は訊きたかったけど、彼らはイエス様の反応をちょっと恐れたでしょうか。

たぶん、彼らが恐れたのだと思います。

その状況を覚えていてください。ユダヤ人はサマリヤ人をユダヤ教を汚した混血のユダヤ人と見なしました。だから、彼らと全然交流したくありませんでした。

でも、サマリヤ人たちがイエス様に会いに来たとき、イエス様は弟子たちにこう言いました。

目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(4:35)

つまり、「このサマリヤ人たちは、汚いのけ者ではありません。彼らは救いの希望のない罪人ではありません。彼らは神様が愛する人々です。あなたには見えなかったけど、神様はずっと彼らの心の中で働いていました。ほかの人々は彼らの心に種を蒔いたけど、あなたには刈り入れる特権があります。」

そして、その日、たくさんのサマリヤ人がイエス様を信じるようになりました。

イエス様は人々が建てた文化的な壁、また宗教的な壁を取り壊して、彼らの罪によって死にかけている人々を救いました。イエス様は私たちが同じことをするように招いておられます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々に関して、どのように考えますか。

たとえば、アメリカでは、ユダヤ人がサマリヤ人を扱ったように、多くのクリスチャンはゲイの人々を扱います。彼らはゲイの人々を敵と見なします。でもゲイの人々は、私たちの敵ではありません。彼らは、私たちのように、救い主が必要です。

また、別の理由のため、あなたは周りの人々にイエス様のことを伝えないでしょうか。たとえば、彼らは創価学会に従うから。もしくは、彼らの性格のため、あなたは彼らのことが嫌いだから。

イエス様は私たちにこう言います。「彼らを救いの希望がない人と見なさないでください。彼らはあなたの侮りに値する人と見なさないでください。彼らのことを、種を蒔かれなくてはいけない畑と見なしてください。彼らを刈り入れられる畑と見なしてください。また、彼らを私のことが必要な人と見なしてください。」

あなたは種を蒔く人かもしれません。

あなたは刈り入れる人かもしれません。

でも、文化的な壁と宗教的な壁を取り壊し、また、私たちの心にある壁を取り壊して、イエス様のためにこの死にかけている世界に触れましょう。

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ヨハネ4章19-24節ーー本当の礼拝

イエス様とサマリヤ人の話では、私たちは礼拝について学びます。

その女性は、自分の罪に直面したとき、話題を変えようと思いました。だから、彼女はこう言いました。

先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(19-20)

ユダヤ人とサマリヤ人の間では、これは大きい議論でした。たぶん、このサマリヤ人は、その議論によってイエス様を怒らせようと思ったのかもしれません。でも、イエス様は優しく答えました。

わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(21-24)

簡単に言うと、イエス様が来たので、どこで礼拝するべきかという疑問の意味はなくなりました。大切なのは、どのように礼拝するべきことです。

私たちは、どのように礼拝するべきでしょうか。

まず、私たちの礼拝は神様の真理によらなくてはなりません。

サマリヤ人には、本当に重大な問題がありました。彼らは、神様のことを知らないまま礼拝していました。

その会話の何百年も前、北イスラエル王国は倒れて、ほかの国々の人は、イスラエルに定住して、残っていたユダヤ人と結婚しました。それだけではなく、彼らの宗教をユダヤ教と混ぜ合わせました。だから、彼らの神様についての考え方はめちゃくちゃになりました。そんな状態では、誰も神様をちゃんと礼拝できません。私たちは真理によって、礼拝しなくてはなりません。

でもそれだけではなく、私たちは霊によって礼拝しなくてはなりません。神様には礼拝の形には興味がありません。神様は私たちが心から礼拝するように望みます。それに、神様は私たちの人生のすべてが神様に対する礼拝になるように望みます。毎日、私たちは神様のために生きるべきです。毎日私たちは、神様の愛で周りの人々に触れるべきです。毎日、私たちの人生は神様に対する歌になるべきです。それは、霊によって礼拝することです。

あなたはどうですか。真理によって礼拝していますか。サマリヤ人のように間違っている神様に関する考え方があれば、あなたは神様を礼拝できません。神様は自分自身を聖書で表しました。だから、あなたは自分の神様に関する考え方を捨てて、神様の言葉を受け入れなくてはなりません。

でも、書いたみ言葉だけではなく、生きている言葉を通して、神様は自分自身を表現しました。つまり、イエス様を通して、神様は自分自身を表しました。(ヨハネ1:1;14)

使徒パウロはこう言いました。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(コロサイ2:9)

あなたは神様がどんな方であるか知りたいなら、イエス様を見てください。

神様を霊によって礼拝していますか。歌を歌うだけではなく、あなたの人生を通して、神様を礼拝していますか。

私の友達は素敵な歌を書きました。今でも、私はよくその歌のことを考えます。つまり、この言葉を祈ります。

私の人生があなたに対して、賛美になるように。

毎日、あなたが霊と誠によって神様を礼拝するように。

 

 

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ヨハネ4章1-26節ーー率直に言う?もしくは、愛をもって真理を語る?

英語では、「brutal honesty」という表現があります。直訳すると、「残酷な正直さ」という意味です。その意味は、相手がその真理を聞けば、きっと傷つくけど、その人に率直に言うことです。なぜなら、真理は真理ですから。

もちろん真理は真理です。で、私たち皆は真理に直面しなくてはいけません。でも、残酷な正直さの問題はこうです。多くの場合、その真理を伝える人は、相手を助けたい気持ちを持たないで、その人をあえて傷つけたいのです。またその人を喜んで傷つけたいです。彼らは相手に対する愛のため、真理を伝えるわけではありません。むしろ、彼は相手を苦しませたいと思っています。

イエス様が率直に話したときがありました。バプテスマのヨハネも率直に話した時もありました。彼らのパリサイ人とサドカイ人との交流を見るなら、彼らが本当に単刀直入な人だとわかります。どうして、彼らはパリサイ人とサドカイ人にそんなに率直に話したでしょうか。おそらく、パリサイ人とサドカイ人が頑固すぎて、ほかの言葉は彼らに通じなかったからかもしれません。

その真理は厳しかったかもしれないけど、多くの場合、イエス様は情けを持って、伝えました。教会では、そんな態度があまり見えないと思います。でも、この個所では、イエス様の憐みは、はっきり見えます。

興味深いことは、使徒ヨハネによれば、イエス様がサマリヤを通って行かなければならなかったということです。(4)

実は、サマリヤを通ったほうが早かったけど、多くのユダヤ人は、サマリヤを通ることを拒絶しました。なぜなら、サマリヤ人は本当のユダヤ人とみなされていませんでしたから。つまり、その何百年も前、サマリヤにいるユダヤ人は偶像を礼拝する外国人と結婚して、本当のユダヤ教を汚しました。

でも、文化的なルールが天の父の御心に反対するなら、イエス様はそのルールを無視しました。だからたぶん、多くの場合、弟子たちは困ったでしょう。

とにかく、サマリヤにいるとき、イエス様は弟子たちを食物を買うために都市に送りました。イエス様は疲れて、井戸の隣に座っていました。すぐに、イエス様は女の人が近づいて来るのを見ました。

イエス様はサマリヤに入って、文化的なルールを破ったけど、その女性が井戸に来た時、イエス様はもっと大きい文化的なルールを破りました。ラビ(つまり、ユダヤ教の先生)は決して人前で女性と話しませんでした。それに、この女性は嫌われたサマリヤ人です。

でも、イエス様は彼女に話しかけました。

わたしに水を飲ませてください。(4:7)

それは本当にシンプルな願いだったけど、彼女は本当にびっくりしました。

彼女は何を思っていたでしょうか。つまり、たぶん、自分の民の間には、彼女は評判が悪い人とみなされたしょう。新改訳によれば、彼女は第六時ごろに井戸に来たんですけど、その文化では、それは正午という意味です。普通は一番暑いときに、女性たちは井戸に来ませんでした。でも、たぶん、彼女はほかの女性たちを避けたかったので、その時間に井戸に来ました。

それに、彼女は何回も離婚したし、現在一緒に住んでいた男性は彼女の夫ではありませんでした。

だから、イエス様が彼女に話しかけたら、彼女は、「この人は私が売春婦だと思うだろうか」と思ったかもしれません。

とにかく、彼女はイエス様に興味がなかったので、こう答えました。

あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。(9)

でも、イエス様は優しく反応しました。

もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。(10)

「生ける水」というのは何ですか。ヨハネ7:37-39によれば、イエス様は聖霊様について話していました。

でも、この女性は物理的な水について考えていたので、彼女は答えました。

先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。(11)

イエス様は答えました。

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(13-14)

つまり、「物理的な水に関して話していません。その水は一時的にあなたを満足させるけど、私は与える水は永遠の命を与えます。そして、あなたがそれを飲むと、決して霊的に渇くことがありません。」

おそらく、彼女はイエス様の言葉が分からなかったでしょう。もしくは、自分の心が痛かったので、自分のニーズを認めたくなかったでしょう。

とにかく、彼女はちょとイエス様の言葉をからかいました。

先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。(15)

そしてイエス様は、いきなりほんとに痛い言葉を言い出しました。

行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。(16)

たぶん、彼女は傷ついた心から答えました。

私には夫はありません。(17a)

イエス様は答えました。

私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。(17b-18)

その言葉は本当に痛いですね。

その瞬間、彼女の痛みはばれました。彼女はずっと彼女を愛する人を探しました。その愛を得るために、彼女は何回も自分の体を男性にささげました。もしかしたら、彼女がほかの女性たちの夫を奪ったときもあったでしょう。でも、結局、彼女は拒絶されて、現在一緒に寝ている人は彼女と結婚することを拒絶していました。

どうして、イエス様はその秘密をばらしましたか。彼女の痛みを見て喜んだからでしょうか。違います。彼女のことを愛したからです。

彼女が宗教的なケンカを売ろうとした時、イエス様は優しくその疑問に応えました。彼女が「私は分からないけど、メシアのために待っています」と言ったとき、イエス様は答えました。「私を見てください。あなたが待っている人は、私です。私はメシアです。」

そして、彼女はイエス様の目を見たとき、彼女を全く知っている人を見ました。イエス様は彼女の心の深いところでも知っていたけど、彼女はイエス様が彼女のことを本当に愛することがわかりました。

どれぐらい、人々は私たちについて、そんなことが言えるでしょうか。私たちが神様の真理を伝えるとき、彼らに私たちの中にイエス様の愛は見えますか。さらに、私たちは心から「あなたのことを愛している」と言えますか。

イエス様は彼女の心を変えました。真理は正しい道を示しました。でも愛は彼女の心を変えました。

あなたは相手を愛せずに、ただ真理を伝えるでしょうか。もしくは、キリストの愛があなたからあふれて、人々の心は変わっていますか。

 

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ヨハネ3:22-35ーー人々は誰に従うべきか

弟子造り。弟子造りについて考えれば考えるほど、私は弟子造りの大切さが分かります。でも、弟子造りの目的は何でしょうか。

多くの人々は弟子造りについて考えるとき、間違っている目的を持ちます。彼らはその弟子の一生の先生になりたいと思います。彼らは弟子からの尊敬を求めます。そして、彼らは自分の弟子を持つことを自慢します。彼らは「私に従う人たちを見てごらん。」と言います。

でも私たちの目的は、自分の弟子を造ることではありません。私たちの目的は、キリストの弟子を造ることです。

バプテスマのヨハネは、そのことをよく分かっていました。私は以前言ったけど、ヨハネは弟子たちをイエス様に向かうようにして、「イエス様は従うべき方だよ。彼のところに行きなさい」と言いました。(ヨハン1:35-36)

この個所では、私たちはヨハネの態度をもう一度見ます。イエス様は自分のミニストリーを始めて、その弟子たちはイエス様の権威によって、人々をバプテスマを授けました。

そして、ヨハネのところに来る人は少なくなって、イエス様のところに行く人が増えましました。ヨハネの弟子たちはそれを見て、ちょっと心配してしまって、ヨハネにこう言いました。

先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。(26)

ヨハネの弟子たちはヨハネがどのように反応するか予想したでしょうか。彼らはヨハネが怒ると思いましたか。ヨハネは感情を害すると思いましたか。

でもヨハネはこう答えました。

人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(27-30)

つまり、「私の人生の目的はキリストの道を整えることです。だから、私は人々をイエス様に向かうようにしなくてはなりません。私はずっと頑張ってそうしました。

結婚式では、一番大切な人は花婿の友人ではなく、花婿です。だから、結婚式の準備ができて、結婚式が始まり花婿が入場すると、その友人は喜びます。

それが私の感情です。私の仕事を完成しました。だから、イエス様は私よりも偉い立場をとるのはふさわしいことです。私が彼の背後に行く時が来ました。」

それは弟子造りです。弟子造りというのは、相手の一生の先生になることじゃないです。私たちは常に彼らを導いてはいけません。弟子造りとは、人々をイエス様に向かうようにすることです。彼らがイエス様を知るように、私たちは彼らの心を整えます。彼らに私たちの経験と知識をと知恵を伝えます。でも、そのあと、私たちは彼らにこう言わなくてはなりません。「私のところを去る時間が来ました。私はできるだけあなたに教えました。これから、あなたはイエス様に従いなさい。」

そして、あなたは彼らの人生の背景に戻るべきです。

どんな弟子造り関係でも、キリストは盛んになり、あなたは衰えなければならない時点が来ます。

使徒のヨハネはこう言いました。

地から出る者は地に属し、地のことばを話す。(3:31)

つまり、私たちは人間だから、私たちの経験と知識は限界があります。

でも、イエス様は天から来たし、御霊であふれたので、そんな限界がなかった。それにイエス様は「すべてのものの上におられます。」(3:31)

また、命を与えるのは、私たちではなく、イエス様です。

だから、人々をイエス様に向かうようにしましょう。彼らにどのようにイエス様の弟子になることを教えましょう。そして、イエス様が彼らを導いてくださることを見ると、喜びましょう。

 

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ヨハネ3章19-21節ーー光に入ること

昨日の記事で、私は、人々が神様を拒絶すると、将来に裁かれるわけではなく、彼らがもうすでに裁かれたと言いました。この箇所では、私たちは神様の宣告を見ます。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(3:19)

つまり、キリストにあって、光はこの世に来ました。イエス様は神様が誰であるか教えました。イエス様は神様の私たちのための計画を教えました。でも、世の人たちは悪を愛していました。彼らの行動が悪くて、恥ずかしいものであることを知っていたのに、彼らはその悪を愛し続けました。また、彼らは光を抱かずに、暗闇に定住しました。簡単に言うと、彼らはイエス様を拒絶したので、裁かれました。

あなたはどうですか。キリストの光に入りますか。あなたの悪くて恥ずかしい行動を捨てて、光にイエス様と共に歩みますか。イエス様が教えた真理に従いますか。

そうすれば、あなたにはもう神様を恐れる必要はありません。むしろ、あなたは神様の前に大胆に立つことができます。

ヨハネはこう書きました。

しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(21)

私は、神様とそのような関係が欲しいです。恥のない関係。罪悪感のない関係。むしろ、神様の愛と恵みを浴びて、大胆に神様と共に歩む関係です。

神様の光に入ることを恐れる人もいます。なぜなら、彼らの罪がばれることを恐れるから。また、彼らが愛しているものを失うことを恐れます。だから、彼らは教会を避けます。彼らは聖書を避けます。ある人は、聖書を読むけど、彼らの罪をばらす箇所を避けます。

でも、神様はあなたを愛しています。神様はあなたの最善を望みます。もし、あなたが神様に従うなら、あなたが愛しているものを失うと思うかもしれないけど、優れたものを得ます。

だから一番大切な質問はこれです。神様を信頼しますか。神様があなたの最前を望むことを信じますか。そう信じないと、あなたは決して光に入れません。

でも、神様はあなたに対する愛をイエス様を通して示しました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

神様はあなたのためにそうしてくださいました。だから、あなたの人生のすべてで、神様を信頼できませんか。

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ヨハネ3章16-18ーー福音の反面

多分あなたはもう知っているけど、「福音」というのは、「良い知らせ」という意味です。でも、私たちは「悪い知らせ」を知らないなら、その「良い知らせ」が理解できません。その悪い知らせとは、何でしょうか。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

最初の人間アダムの時代から、すべての人々は神様のみ前に裁かれていました。どうしてでしょうか。私たち皆は神様を信頼しないで、神様に背を向け、自分の道を行ったから。なぜ、それはそんなに大きい問題でしょうか。

使徒パウロはその答えを教えます。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

私たちが死刑囚になるかもしれない、というわけではありません。私たちはもうすでに死刑囚なのです。なぜなら、私たち皆は罪を犯したから。私たちはもう裁かれました。

だから、17節で、こう書いてあります。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな[い]。

どうして、ヨハネはイエス様がこの世に私たちを裁くために来なかった、と言うことができたのでしょうか。なぜなら、イエス様がこの世に来る前に、私たちはもう裁かれたから。

それは福音の反面です。多くのクリスチャンはその面についてあまり話したくありません。あなたがイエス様を信じないなら、将来にあなたは神様に裁かれるわけではないです。あなたはもうすでに裁かれました。

私たちはそのことをどれぐらい考えるでしょうか。今、あなたの家族や、友達や、同僚がイエス様を知らないと、彼らはもう裁かれました。もし、あなたがイエス様を信じないと、あなたも神様に裁かれました。

それは本当に怖い考えです。でも幸いに、良い知らせがあります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16-17)

私たちが神様に背を向けたのに、神様は私たちをまだ愛していました。だから、神様はイエス様をこの世に送りました。そして、イエス様は十字架で、私たちの罪のための罰を受けてくださいました。

だから、今、神様はあなたにこの質問を聞きます。「私を信頼し始めるでしょうか。私の子イエスと、その十字架の働きを信じますか。」

あなたとあなたが愛している者は死刑囚かもしれません。そして、あなたたちが解放される方法は、一つしかありません。あなたたちが赦される方法は一つしかありません。それはイエス様を信じることです。

ヨハネはこう書きました。

御子を信じる者はさばかれない。(18a)

イエス様とその十字架の働きを信じると、神様はあなたを赦してくださいます。その赦しは私たちの良い行動のためではありません。むしろ、その赦しはイエス様の十字架の働きのためです。神様はそれを見て、私たちに言います。「私の子イエスはあなたの罪の罰を支払いました。だから、私はあなたを裁きません。」

実は、神様はそれを言うと、将来だけについて話しているのではありません。今でも神様の前に、あなたは裁かれていません。

パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

でも、あなたがイエス様を拒絶すると、あなたはもう死刑囚です。そして、裁きの日がだんだん迫っているので、ヨハネはあなたにこう言います。

[イエス様を]信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18b)

あなたはどうしますか。

 

 

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ヨハネ3:9-16ーーどうやって新しく生まれるか

ヨハネ3章の前半では、イエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言いました(3)。

つまり、私たちがこの世に生まれるように、私たちは神様の国に生まれなくてはなりません。あなたの良い行動によっては、天国に入ることができません。

人がこの世に生まれるのは、主に母の働きです。人が神様の国に生まれるのは、聖霊様の働きです。

ニコデモは旧約聖書をよく知っていたのに、そのコンセプトがよく分かりませんでした。彼は天国に入るために、ずっと頑張って神様の律法に従おうとしました。でも、イエス様は「その考え方は間違っている」と言いました。

だから、ニコデモは訊きました。

どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(9)

つまり、「私はよく分かりません。私はずっと頑張って律法に従おうとしたけど、あなたは天国に入るのは、私の働きによらないで、御霊の働きによると言うんですか。」

今なお、多くの人々は同じ質問を訊きます。彼らは、神様の関心を買うため、頑張って良い行動をしなくてはならないとずっと教えられました。だから、救いがただであることを聞いても、彼らは信じられません。それは簡単すぎるだから。

とにかく、イエス様はニコデモをちょっと叱責しました。

あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(10)

もしニコデモは本当に預言者たちの言葉をちゃんと理解したら、イエス様の言葉も分かるはずでした。(特に、ニコデモは預言者のエレミヤとエゼキエルの言葉を知っていたはずでした。昨日の記事を読んでください。)

でも、ニコデモがそれを理解しなかったので、イエス様はもっと古い聖書の話について話し始めました。ユダヤ人にとっては、本当に有名な話でした。イスラエル人はエジプトから救い出された後に、砂漠を渡っていました。でも、そのとき、彼らはモーセと神様に関して、文句を言い始めました。彼らの反抗的な態度のため、神様がたくさんの蛇を送って、多くの人はかまれて、死んでしまいました。

イスラエル人が悔い改めると、神様はモーセにこう言いました。

あなたは燃える蛇(つまり、青銅の蛇)を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(申命記21:9)

彼らは救われるために、たくさんの良い行動をする必要がありませんでした。彼らはただ神様の約束を信じるべきでした。神様の約束を信じた人々は救われました。神様に対する不信を持ち続けた人々は亡くなりました。

イエス様はニコデモにこう言いました。「そのように、永遠の命を得るために、働かなくてもいいのです。モーセが荒野で蛇を上げたように、私も十字架で上げられなければなりません。私はあなたの罪のために死にます。そして、あなたが私を仰ぎ見て、信じたら、あなたは救われます。」

ギリシャ語では引用符がないので、イエス様の言葉がどこで終わるか、またヨハネの言葉が始めるか分かりません。おそらく、15節でイエス様の言葉が終わって、16節からヨハネはその話の意味を解釈します。とにかく、その箇所は聖書の中で一番有名な箇所です。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

どうやって、私たちは新しく生まれるでしょうか。イエス様を信じたら、新しく生まれます。つまり、イエス様が十字架で、あなたの罪のための罰を受け入れてくださったことを信じなくてはなりません。

罪というのは、「神様、私はあなたを信頼できない。」という態度です。だから、罪の治療は良い行動を行うことではありません。罪の治療は、その神様に対する不信の態度を捨てることです。そして、最初の段階は、「神様、あなたの救いの計画を信じます。あなたの国に入るために私の働きに頼らずに、私はイエス様の十字架の働きに頼ります。」と言うことです。

そんな祈りを祈ったことがありますか。その祈りは本当にシンプルです。

天のお父様、私は罪を犯したことを認めます。つまり、私はずっと、あなたを信頼せずに、また、あなたの道を行かずに、私の自分勝手な道を行きました。私を赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださり、ありがとうございます。私の主になってください。これから、私の人生のすべてのことで、あなたを信頼して、あなたの道を行きたいです。

聖霊様、毎日、私を導いてください。また毎日、私がイエス様のようになりますように。私の心を変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

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ヨハネ3章1-8節ーー新しく生まれること

これは聖書の有名な個所の一つです。この個所では、イエス様は新しく生まれることについて話します。でも、それはどういう意味でしょうか。

この話では、ニコデモというパリサイ人はイエス様を訪ねました。イエス様はいろんな奇跡を行い始めたので、ニコデモは、ほかのパリサイ人と違って、イエス様を尊敬しました。イエス様が行った奇跡のため、彼はイエス様が神様のもとから来たことを認めました。

どうして、ニコデモはイエス様を訪ねたでしょうか。私はちょっと分かりません。たぶん、彼がまだ大胆にイエス様の弟子になろうと思わなかったからでしょう。なぜなら、彼は夜に、こっそりイエス様を訪ねたから。それでも、彼はイエス様と相談しようと思いました。

彼は丁寧にイエス様に挨拶したけど、イエス様は挨拶せずに、率直に言いました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(3)

ニコデモはそれを聞いて、面食らいました。彼はパリサイ人で、神様の律法を尊重して、頑張って従おうと思いました。たぶん彼は、天国に行くのに、その律法を完全に従わなくてはならないと思いました。

でも、イエス様はこう言いました。「そんな考え方は間違っています。神様の国に入りたいなら、あなたは新しく生まれなければなりません。」

ニコデモはイエス様の言葉がさっぱりわかりませんでした。だから、彼は訊きました。

人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。(4)

福音書では、特にヨハネの福音書では、私たちはこんな問題をよく見ることができます。つまり、イエス様は霊的な真理を教えようとすしているけど、人々は物理的な考え方を持ちます。

私たちはどれぐらい物理的な考え方を持って、神様の真理が分かりませんか。

とにかく、イエス様の次の言葉で、ニコデモはもっと混乱してしまいました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(5)

「水によって生まれる」という言葉はいろんな解釈があるけど、たぶん、イエス様はエゼキエル書37:25-27を参照していました。

その箇所では、神様は「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかける」と言います。その意味は「あなた方を罪から清めます。」たぶん、それは「水によって生まれる」という意味です。

でもその箇所では、神様は続けました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」と言っていました。それは「新しく生まれる」という意味です。神様は私たちに新しい心と霊を与えてくださいます。その新しい心と霊を持つから、私たちは自然に神様を喜ばせようと思い始めます。

ニコデモがパリサイ人で、きっとそのエゼキエルの箇所をよく知っていたので、イエス様は言いました。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(7)

この世に入るため、私たちは生まれなければなりません。私たちの働きによって、この世に入りません。私たちはただ生まれます。

そのように、神様の国に入るため、あなたはその国に生まれなくてはなりません。あなたの働きによって、神様の国に入ることができません。あなたはその国に生まれます。つまり、あなたは御霊によって生まれなければなりません。だから、エゼキエル書で、神様はユダヤ人にこう言いました。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け[ます]。(エゼキエル書36:27)

物理的な出産は母の働きです。霊的な出産は聖霊の働きです。

そして、イエス様は聖霊様を風と比べます。私たちに風の影響は見えるけど、風自体を見ることができません。そのように、私たちに聖霊様は見えないけど、聖霊様は人間の心の中で働いて、その人を内から変えてくださいます。だから、結局私たちに聖霊様の影響は見えます。私たちは聖霊様の働きによって全く違う人になります。つまり、私たちは新しく生まれかわります。

ニコデモはその真理を知っているはずでした。預言者エレミヤはその真理を教えたし(エレミヤ書31:31-34)、もちろんエゼキエルもその真理を教えました。でも、ニコデモは自分の働きによって神様の国に入ることができると思いました。

あなたはどうですか。自分の働きによって天国に入ろうと思っていますか。もしくは、あなたは新しく生まれていましたか。

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ヨハネ2章12-25節ーー神殿に対するイエス様の熱心

この箇所では、イエス様が神殿に行くとき、そこで牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが営業していたことがわかります。

神殿で「異邦人の庭」という所がありました。ユダヤ人ではない人はそこまで来て、神様を礼拝できました。image131006-1

でも、イエス様が異邦人の庭に入ったとき、その場所は本当に騒がしかった。なぜなら、羊や、牛や、鳩はうるさかったし、その動物を売った者や、両替人や、そのお客さんもしゃべっていたから。

だから、異邦人にとっては、神様を礼拝するのはとても無理でした。

それに、神様を礼拝する人々は騙されました。つまり、宮の納入金を払うために、多くの人々は両替しなくてはなりませんでしたけど、その為替レートは高すぎました。それだけではなく、多くの人々はいけにえのために自分の動物を連れてきたけど、その動物がふさわしかったのに、検問する人に「その動物はだめ」と言われました。だから、彼らはすごく高い値段で、神殿で売っている動物を買わなくてはなりませんでした。

そういうわけで、イエス様は本当に怒りました。イエス様はそれを見て、どうしましたか。

[イエスは]細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(15-16)

ユダヤ人のリーダーたちはそれを見て、イエス様に訊きました。

あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。(18)

イエス様は答えました。

この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(19)

ユダヤ人はイエス様がヘロデが建っていた神殿に関して話していたと思いました。そのときまで、もう46年経っていたけど、その神殿が完成したのは、西暦63年でした。

でも、イエス様はその神殿について話しませんでした。ヨハネによれば、イエス様は自分の体について話していました。つまり、ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を十字架で殺しても、イエス様は三日目によみがえられることです。

ところで、イエス様が幽霊として、よみがえられたと思う人もいます。(たとえば、エホバの証人はそう思います。)でもこの箇所によれば、イエス様ははっきりと言います。「私の体はよみがえります。」

イエス様が自分の体を神殿と呼ぶように、パウロは、私たちの体は聖霊の神殿と呼びます。(第一コリント6:19)

そして、イエス様にはエルサレムの神殿に対する情熱があったっように、私たちに対する情熱があります。イエス様はエルサレムの神殿を神様の礼拝のために清めるように望みました。そのように、イエス様は私たちの体を神様のために聖別するように望みます。

でも、私たちはしばしばその神殿を、罪とほかの物で汚してしまいます。

数年前、私にはコンピュータのトラブルがありました。私のファイルはまだ大丈夫だったけど、Windowsの問題がありました。私はずっと再インストールとかしようとしたけど、結局できませんでした。

だから、私のファイルをバックアップして、ハードディスクをフォーマットしました。(つまりそのハードディスクに入っていたソフトやファイルを全部消しました。)

その後、私はもう一度再インストールできました。それは本当に大変でした。

そのハードディスクにいろんな役に立つファイルがありました。悪くないソフトもたくさんありました。でも、その破損したファイルによって、私のコンピュータはちゃんと動きませんでした。

あなたはどうですか。私のコンピュータのようにあなたの心に悪いものがありますか。どんな罪が入っていますか。羊や牛のため、異邦人が神様を見えなくなるように、あなたの罪のため、周りの人々はあなたの人生に神様を見ることができませんか。

また、悪くなくても、神様の礼拝の邪魔な物が入っていますか。たとえば、趣味は悪くない物だけど、あなたの趣味のため、あなたはあまり聖書を読まないし、祈りませんか。

イエス様は清い神殿を望みます。だから、イエス様はあなたの心を清めたいです。

あなたの心には、何がありますか。

 

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ヨハネ2章1-11節ーー聖書を理解する方法

私が英語のブログで、この記事を書いたとき、そのタイトルは「ぶどう酒?ぶどうジュース?」でした。

でも振り返ると、たぶん「聖書を理解する方法」の方がいいと思います。

私は十代の時、「ぶどう酒?ぶどうジュース?」という本をパラパラと読みました。

私はその著者の意見を少ししか覚えていないけど、彼の要点は、このヨハネの個所で、イエス様がぶどう酒を作ったとき、実はぶどうジュースを作ったということです。たぶん、彼はギリシャの言葉やユダヤ人の文化を説明したかもしれません。

私はその意見を信じたけど、ある日、ほかの牧師はその個所の前後を教えました。その前後とは何でしょうか。

10節では、宴会の世話役はイエス様が作ったぶどう酒を飲んだ後、皆にこう言いました。

だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。(10)

その言葉をちょっと考えてください。もし「ぶどうジュース」を「ぶどう酒」の代わりに入れ変えたら、彼の言葉は理にかなうでしょうか。

「だれでも初めに良いぶどうジュースを出し、人々が十分だころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどうジュースをよくも今まで取っておきました。」

それは全然意味をなさない。もしただのぶどうジュースなら、全然アルコール分は入っていません。でも、アルコール分がないと、どうして皆がたくさん飲んだまで待って、そして悪いジュースを出すでしょうか。それは全然意味がないです。

だから、私はその著者の議論が間違っていると思います。

では、酔っぱらってもいいのでしょうか。もちろんそうではありません。聖書によれば、それは絶対ダメです。でも聖書は飲酒することを禁止しません。聖書に書いてあるのは、私たちがアルコールにコントロールされることは禁止だということです。(エペソ5:18)

ところで、私は全然飲みません。私はアルコールの味でも好きではありません。また、私の限界がよくわからないし、その限界を知りたくもありません。

でも、私の要点は、どうやって聖書を解釈するかに気を付けなくてはなりないことです。

たぶん、その著者がイエス様がぶどうジュースを作ったと思う理由は、著者は飲酒に大反対だからです。だから、彼は、そのギリシャ語をよく勉強したのに、その個所の前後を無視しています。

だから、私たちは聖書を読むとき、また、教会でメッセージを聞くとき、この四つのポイントを覚えていてください。

1.聖書の個所の前後に注意するべきです。多くの人々はそうしないので、彼らの解釈はめちゃくちゃになります。モルモン教とエホバの証人にはそんな問題があります。

2.聖書を読んで、信じるべきです。もし、聖書があなたの考え方に反対するなら、聖書を変えようとしないで、自分の考え方を変えてください。

3.聖書の著者の文化を学ぶべきです。例えば、イエス様は自分の母と話したとき、マリヤを「女の方」と呼びました。私たちの文化では、それはかなり冷たい言い方です。でも、彼らの文化では、それはとても丁寧でした。

4.しもべに対するマリヤの言葉に従うべきです。つまり、「イエス様が言われることを、何でもしなさい。」(5)

聖書を読むのだけでは足りないです。聖書の言葉を聞くのも足りないです。その言葉に従わなくてはいけません。なぜなら、それは神様のみ言葉だから。

このポイントに従うと、聖書をちゃんと理解できるし、あなたの人生はもっとうまくいきます。

 

 

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ヨハネ1章35-42節ーーイエス様がおられるところに止まる

バプテスマのヨハネが自分の弟子たちをイエス様に向かうようにしたとき、彼らは早速イエス様について行きました。

彼らにとっては、ヨハネのところを去るのは難しかったでしょう。もちろん、彼らはヨハネを愛して、強い関係を造ったけど、ヨハネが彼らに教えることができることは限界があったので、彼らが去る時間が来ました。

どうしてヨハネが教えることができる限界があったのでしょうか。ヨハネよりすぐれた預言者はいなかったけど(マタイ11:11)、彼はただの人間でしたから。一番偉い人でも、限界があります。

だから彼らは次の段階に至るために、神様の弟子になるべきでした。で、イエス様は肉において現われた神です。

彼らはイエス様に近寄ったとき、どう感じたでしょうか。エデンで神様が約束したメシアにどうやって話しかけた方がいいでしょうか。たぶん彼らは不安で、ちょっと怖がったもしれません。こんな話があったかもしれません。

ヨハネ:あなたがイエス様に話しかけたら。

アンデレ:いや、どうぞお先に。

結局イエス様は彼らに気づいて、彼らに向かいました。そして、彼らはたぶん止まりました。おそらく彼はこう思いました。「イエス様は私たちを拒絶するだろうか。私たちは全然資格がないし。それでも、イエス様は私たちを受け入れるだろうか。」

おそらく彼らがそんなことを考えていたあいだに、イエス様は彼らに尋ねました。

あなたがたは何を求めているのですか。(38a)

彼らは答えました。

ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。(38b)

私たちの文化では、初めて人に会うとき、それはちょっと変な質問です。私たちの文化では、「始めました。アンデレとヨハネです。よろしくお願いします」と言います。

でも、彼らの文化では、彼らの言った意味は、「私たちはイエス様の弟子になりたいです。イエス様がいるところに、私たちもいたいです。イエス様から学びたいです。イエス様の教えだけではなく、イエス様の毎日の生活から学びたいです。」ということです。

2千年が経っても、何も変わっていません。もし、イエス様の弟子になりたいなら、イエス様の弟子の態度を持たなくてはなりません。つまり、イエス様と共にいたいという態度が必要です。

あなたはどうですか。その態度がありますか。毎朝、イエス様の足下にいて、聖書を読み、祈り、イエス様の声を聞く時間を取りますか。また、一日中、イエス様と共に歩む態度を持っていますか。

多くのクリスチャンは朝にイエス様と時間を過ごすけど、その後に、こう言います。「じゃ、またね。今行かなくちゃ。」

そして、次の日まで、彼らは決してイエス様に関して全然考えません。

でも、私たちがどこに行っても、イエス様を連れて行くべきです。一日中イエス様の声を聞き、イエス様の導きに従うことを学ぶべきです。それは、本当の弟子です。

私が毎日そうしていると言いたいですけど、言えません。私はまだ、毎日、毎秒、イエス様と共に歩むことを学んでいます。

私と共にその道を歩み始めますか。

私はある賛美の歌が大好きです。

I just want to be where you are.
あなたがおられるところに私はいたいです。
Dwelling daily in your presence.
毎日あなたと共にいたいです。
I don’t want to worship from afar.
私は遠いところから礼拝したくないです。
Draw me near to where you are.
あなたのところに私を近づけてください。

I just want to be where you are.
あなたがおられるところに私はいたいです。
In your dwelling place forever.
あなたの住まいに永遠に住みたいです。
Take me to the place where you are.
あなたがおられるところまで私を導いてください。
I just want to be with you.
あなたと共にいたいから。

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ヨハネ1章19-51節ーー道を教えること

多くのクリスチャンは、家族や友達にイエス様について話すことを怖がります。

一つ目の理由は、彼らには資格がないと思うことです。また、彼らは相手の質問に答えるために、聖書のことを全部知らなくてはならないと思います。

もちろん、その知識があれば役に立ちます。そして、私たちがクリスチャンとして成長するなら、私たちのイエス様に関する知識は増えるはずです。でも、私たちの責任は相手を説得することではなく、イエス様への道を教えることです。この箇所で、私たちはその真理を学びます。

最初の例はバプテスマのヨハネです。祭司たちや、レビ人たちはヨハネのところに来たとき、ヨハネの資格を尋ねました。「あなたはキリストですか。あなたはエリヤですか。あなたは神様が約束した預言が者ですか。(申命記18:15)

ヨハネは「違います」と答えると、彼らは訊きました。「では、あなたはだれですか。」

そのとき、ヨハネはどう感じたでしょうか。この宗教のリーダーたちが彼を尋問するとき、彼はちょっと緊張したでしょうか。その前、ヨハネは、パリサイ人とサドカイ人を厳しく責めたので、緊張しなかったかもしれない。それでも、こんな「資格がある人々」が私を尋問するなら、ちょっと大変だと思います。

ただの私の想像だけど、その瞬間ヨハネは、砂漠から帰ってきたばかりのイエス様を見たのでしょうか。なぜならヨハネは、こう答えたから。

私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。(26-27)

要するに、「私の資格は別に大切ではありません。私の後から来られる人は、私よりも断然偉い方です。実は、彼は今ここにおられます。私は彼のしもべになる資格がないのです。」

時々、人々は私たちの資格を疑うかもしれないけど、私たちが自分自身にあえてそうさせなくても、私たちがイエス様を述べ伝えていることを覚えていてください。私たちの偉さを伝えずに、イエス様の素晴らしさを伝えています。だから、人々があなたの資格を疑うなら、彼らの心をあなた自身に向けさせるのではなく、イエス様に向かうようにしてください。

その次の日に、ヨハネはもう一度人々をイエス様を指しました。だから、ヨハネの弟子たちの二人はイエス様について行きました。

私たちが自分の弟子を作るわけではなく、イエス様の弟子を作っていることを覚えていてください。だから、私たちは彼らが私たちに頼ることを教えていません。むしろ、私たちは彼らがイエス様に頼ることを教えています。ヨハネはそうしました。だから、彼の弟子たちがイエス様についていったとき、たぶん、ヨハネは喜んだでしょう。

その弟子たちは、すぐにヨハネをまねしました。つまり、彼らはペテロをイエス様に紹介しました。(ペテロは、ヨハネのところから去り、イエス様について行く弟子アンデレの兄でした。)

そして、イエス様は彼らの友達ピリポを呼びました。そして、ピリポは彼の友達ナタナエルをイエス様に紹介しました。

でも、ナタナエルはイエス様について聞いたとき、彼はピリポの話を疑いました。

ナザレから何の良いものが出るだろう。(46)

イエス様の出身地ナザレは良い評判がなかったのです。とくに、預言者や、偉い霊的なリーダーはそこから来ることは、まずありませんでした。

でも、ピリポはナタナエルと言い争いませんでした。むしろ、彼は答えた。

来て、そして、見なさい。(46b)

ピリポはナタナエルをイエス様のところに連れて行ったけど、イエス様はナタナエルを説得しました。

もちろん、できるだけ私たちは人々の質問を答えようとした方がいいです。でも、彼らの質問に答えても、彼らは必ずしもクリスチャンになるわけではありません。

あなたの議論によって人々は天国に行きません。イエス様だけが人々の心を変えることができます。

だから、私たちは彼らの質問を答えた後、ピリポのように、私たちは「来て、そして、見なさい。」と言った方がいいです。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々をイエス様の方に指していますか。

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マタイ4章;マルコ1章;ルカ4章ーー天の父に従うこと

この箇所は本当に有名な聖書の話です。これは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は私の心を本当に打ちます。イエス様は本当に天の父に信頼したから。

洗礼を受けてから、イエス様は聖霊に満たされ、また、聖霊に導かれて、砂漠に行って、そこに40日間いました。だから、サタンが来たとき、イエス様の反応が特にふさわしかったと思います。サタンは三回イエス様を誘惑しました。イエス様は答えたとき、三回申命記から引用しました。

なぜそれは、ふさわしかったでしょうか。イスラエル人が砂漠に40年間住んでいた後に、モーセは申命記を書きました。そして、イエス様が誘惑されたとき、その言葉に従いました。

モーセは何を言いましたか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために、彼らを砂漠に導いたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導きました。イスラエル人のように、イエス様は苦しんでいて、飢えさせられました。

でも、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わずに、天の父がふさわしい時間にイエス様のニーズに備えることを信じ続けました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要にずっと備えていない。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたら、いいじゃないか?」

でもイエス様はサタンの薦めを拒絶しました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様のニーズに備えることを信じ続けました。

ついで、サタンは聖書を引用して、イエス様にこう言いました。「神殿の頂から下に身を投げてみなさい。天使たちはあなたをきっと救いますから。」

(サタンも聖書をよく知っています。だから、私たちは聖書の箇所の前後をちゃんと読まなくてはなりません。)

でも、イエス様はモーセの言葉をもう一度引用しました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサで何が起こったでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったので、文句を言いました。彼らが水を見つけられなかったので、彼らは叫んだ。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問を訊きます。私たちが苦しんでいる時、私たちは神様に「あなたは私と共におられるか、おられないのか」と訊きます。

そのように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてください。もし、天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

でも、イエス様は拒絶しました。イエス様に天の父は見えなかったけど、天の父がイエス様と共におられることを信じたから。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

でも、もう一度イエス様は拒絶しました。イエス様は天の父に従うことを決心したから。だから、イエス様はこう答えました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているでしょうか。天の父に従っているでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じますか。天の父があなたのニーズに備えることを信じますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも、大切にしますか。

あなたは誰に従っているでしょうか。

 

 

 

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マタイ3章;マルコ1章;ルカ3章;ヨハネ1章ーー天の父に愛されるて、御霊に満たされた人。

バプテスマのヨハネが人々をバプテスマを授けたとき、イエス様もバプテスマを受けるためにヨハネのところに来ました。彼らはいとこだったけど、ヨハネはイエス様のことについて、何を知っていたでしょうか。

ヨハネの両親は、イエス様について何を教えたでしょうか。神様はヨハネにイエス様について何を教えたでしょうか。

たぶん、ヨハネが一人暮らしできる年齢になったら、砂漠で生活をし始めたでしょう。だから、彼はイエス様を見たとき、イエス様を認識したでしょうか。

私は分からないけど、たぶん、ヨハネがイエス様を見たとき、イエス様がどこか違う人と分かりました。つまり、ヨハネはイエス様が悔い改める必要がないと分かりました。だから、ヨハネはイエス様にこう言いました。

私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。(マタイ3:14)

でも、イエス様はこう答えました。

今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(マタイ3:15)

どうしてイエス様はバプテスマを受けなくてはならなかったのでしょうか。たぶん二つの理由がありました。

一つ目は、ヨハネは誰のためにユダヤ人たちの心を整えるか知るためということです。後で、ヨハネはこの証をしました。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」と言ったのは、この方のことです。私もこの方を{メシヤとしては}知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:29-34)

ヨハネの言葉によれば、ヨハネはイエス様がどこか違う人だとわかったけれど、イエス様がメシアであることは知りませんでした。

二つ目の理由は、その洗礼を通して、イエス様はこう言いました。「私は、この罪人の兄弟です。」

イエス様はこの世に来たとき、こう言わなかった。「私は素晴らしい神です。あなたは惨めな罪人です。」

むしろ、イエス様はこう言いました。「あなたは罪人だけど、私はあなたの兄弟です。」(ヘブル人への手紙2:11-12)

もちろん、イエス様は決して罪を犯しませんでした。でも、十字架で、イエス様は私たちの罪を背負って、その罪のために死にました。イエス様はマリヤの出産を通して、人間になりました。そのバプテスマを通して、罪人に共感しました。

でも、イエス様が洗礼を受けたとき、もう一つのことが起こりました。

イエス様が洗礼を受けたとき、聖霊がイエス様の上に下って、イエス様を力で満たしました。それだけではなく、天の父はイエス様に対する愛を宣言しました。

もし、私たちが影響力のあるクリスチャンになりたいなら、その二つのことが必要です。神の一人子イエス様にそれらが必要だったら、私たちもそれらが必要です。

つまり、私たちは、私たちに対する天の父の愛を知らなくてはなりません。私たちはその愛を知らないなら、私たちは神様を恐れ、決して神様に近づきません。私たちは神様からの叱責をいつも恐れ、神様と親しい関係はできません。

でも、私たちに対する天の父の愛を知らないと、私たちの人間関係も難しくなります。私たちの周りの人々が私たちの愛に私たちが希望するように反応しないと、彼らを愛し続けるのは難しくなります。また、彼らを許すのは難しくなります。

もし、あなたが神様のように周りの人々が愛することができないなら、たぶんあなたは十分に神様の愛が分からないでしょう。実は、私も神様の愛が十分に分からないので、神様のように、人々を愛することができないときもあります。

でも、イエス様は神様の愛で満たされたので、周りの人々の失敗と欠点を見たのに、彼らを愛し続けました。

天の父はイエス様に対する愛を宣言したけど、聖霊はイエス様を力で満たしました。イエス様はその力を受けるまで、ミニストリーを始めませんでした。

そのように、私たちは神様のために効果的なしもべになりたいなら、聖霊で満たされなくてはなりません。バプテスマのヨハネによれば、それはイエス様の仕事の一つです。イエス様は私たちを聖霊によってバプテスマを授けます。

あなたはどうですか。神様の愛を知っているでしょうか。あなたは聖霊に満たされていますか。

 

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マタイ3章;マルコ1章;ルカ3章;ヨハネ1章ーー真理を語ること

この話では、私たちは18年間ぐらい飛びます。イエス様は30歳になって、自分のミニストリーを始めようと思い始めました。でも、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰か説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派でした)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼は答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様のために整えることです。つまり、ユダヤ人がイエス様を受け入れるように、彼らの心を整えることです。

私たちはイエス様の弟子たちとして、神様から同じミッションをもらいました。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たちには彼らを救うことができません。私たちは、ただ神様の言葉という種を彼らの心にまくことができます。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとだいたい同じです。主な違いは、ヨハネの時代、神様からの救いがイエス様を通して、まだ来ていなかった。でも、イエス様はすぐに来るので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

でも、私たちのメッセージは、イエス様を通して、神様の救いがもう来たということです。

でも、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心を打ちます。ヨハネは率直に話しました。パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうして、ヨハネはそんなに厳しく話したでしょうか。なぜなら、彼らは偽善者でした。彼らは、神の律法を頑張って守りましたけど、つまり、正しいことをしたけど、彼らの心は堕落していました。

彼らはこう思いました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入られているだろう。それに神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っています。」

でも、彼らの心がプライドに満ちていたので、彼らは神様の哀れみを知りませんでした。

ヨハネは、ほかの人々に、もっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われた人に対しても(取税人やローマの兵士)、ヨハネは優しく話したけど、「悔い改めなさい」と言いました。裁きの日が来るので、彼らは罪深い人生を続けてはいけませんでした。

私たちも真理を伝えなくてはなりません。そのメッセージは厳しいかもしれないけど、伝えなくてはなりません。

もちろん、イエス様の愛についても話さなくてはなりません。また、イエス様が彼らの罪のために死んだし、イエス様の死によって、彼らは赦されて、その心もいやされられることを伝えるべきです。

でも、彼らのプライドや、罪や、頑固さを持ち続けたら、私たちは彼らに裁きの日について警告するべきです。そうしないと、神様は私たちに責任を負わせます。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20;26-27)。

あなたはどうですか。周りの人々に真理を語っていますか。

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ルカ2章41-52節ーー誤解された

私たちはだれでも、周りの人々自分のことを分かってもらいたいものです。そして、彼らが私たちのことを分かってくれないと、私たちは傷つきます。

イエス様も、それがよく分かっていました。彼は自分の弟子たちにしばしば誤解されました。イエス様が教えた人や癒やした人に誤解されました。そして、この箇所では、イエス様は自分の両親に誤解されました。

この話では、私たちはイエス様が他の人と交流することを初めて見ます。イエス様が12歳の時、彼とその両親は過越の祭のためにエルサレムに行きました。祭りが終わってから、イエス様の両親はほかの人々と一緒に帰路についたけど、彼らが知らない間に、イエス様はエルサレムに残って、神殿で教師たちと話していました。

一日ぐらい経って、イエス様の家族はやっとイエス様がいないことを気づきました。(彼らはイエス様が一行の中にいるものとばかり思いこんでいました。)だから、彼らはエルサレムに戻って、3日後に、やっとイエス様を見つけました。

もちろん、マリヤは本当に怒って、イエス様を叱りました。

まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。(48)

でも、イエス様はマリヤの反応がよく分かりませんでした。彼は答えました。

どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。(49)

要するに、「お母さんは私のことがよく分かっていると思っていました。お母さんは私がどこにいるか知っていたはずでしょう。」

でも、50節では、ルカはこう言います。

しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。

他の人よりも、イエス様の両親が彼を理解できるはずでした。でも彼らはさっぱり分かりませんでした。

イエス様は、どう反応したでしょうか。

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(51)

イエス様は、自分が正しかったと言い張りませんでした。その両親が彼のことを理解していなかったので、イエス様は彼らを叱りませんでした。むしろ、彼は仲直りしようと思いました。だから、息子として、彼はその両親に仕えました。

そのことをちょっと考えてください。イエス様は神でした。イエス様はヨセフとマリヤを造りました。それでも、彼は謙虚な態度を取って、両親の権威を認めて、従いました。

時々、周りの人々は、私たちのことが分かりません。その時、私たちは怒り、苦々しい思いを持つことは簡単です。彼らが私たちのことが分かるはずと思うから。

それでも、イエス様のように謙虚な態度を取りましょう。また、できるだけ、彼らと仲直りしましょう。パウロはこう言いました。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたはこう思うかもしれません。「でもね、まだ傷ついているよ。どうして彼らは私のことが理解できないのでしょうか。」

なぜなら、彼らは神ではないから。彼らはすべてのことを知りません。彼らはあなたの心が見えません。だから、そんな期待は捨てた方がいいと思います。

でも、イエス様は、あなたのことがよく分かります。なぜなら、イエス様は神だから。それに、彼は人間として、この世に来たから、私たちの生活がよく分かります。私たちの気持ちがよく分かります。だから、あなたが何を経験しても、イエス様は分かります。

イエス様の両親は彼のことが理解できなかったけど、天の父は彼のことが理解できて、イエス様は慰められました。そのように、イエス様があなたのことを理解していることを、覚えていてください。あなたが誤解されると思うとき、また、傷ついたとき、イエス様にあなたの苦しみについて話してください。イエス様はあなたのことを理解するから。

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マタイ2章ーー王の到着のため、恐れ惑うこと

クリスマスの時、多くの人はイエス様を飼葉おけに寝ている赤ちゃんとして考えます。多くの人々はそのイメージが好きです。なぜなら、イエス様は優しそうです。イエス様はあなたから何も要求しません。彼は寝ているだけです。

でもイエス様は、もはや飼葉おけに寝ている赤ちゃんではありません。イエス様は王の王と主の主です。そして、いつか私たちはそのことを認めなくてはなりません。

私がこの箇所を見ると、一つのことが目につきました。それは、イエス様が生まれた知らせに対するヘロデ王とユダヤ人の反応です。

ある日、東方の博士たちがエルサレムに来ました。

その博士たちは誰でしたか。いろんな意見があるけど、彼らはメディヤ人の祭司たちかもしれない。(メディヤ人は現代のイランに住んでいました。)

彼らは占星術と天文学をよく知っていて、バビロン帝国とペルシャの帝国では、彼らはしばしば王の助言者でした。それに、ペルシャでは、王になるために、彼らの同意が必要でした。

ダニエル書によれば、バビロンでダニエルは呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。多くの聖書学者は、ダニエルの影響によって、この博士たちが将来来るユダヤ人の王に関する予言を知っていたと思います。それに、ダニエルはいつその王が来るか予言しました。(ダニエル書9章

だから、この博士たちはこの王の到着のしるしを待っていました。そして、ある夜、彼らは王の星を見ました。

この星は何だったか誰も知りません。このことについても、いろんな意見があります。でも、彼らがその星を見たとたん、エルサレムに行って、その王について尋ねました。

でも、誰も知らなかったので、その博士たちは本当にびっくりしました。それに、王とユダヤ人の反応は本当に驚くべきでした。

それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。(3)

どうして、ヘロデは恐れ惑ったでしょうか。

一つ目の理由は、ユダヤ人の目には、彼が本当の王ではなかったことです。なぜなら、彼はダビデの子孫じゃなかったから。実は、彼はヤコブの系図からさえ来ていませんでした。彼はエサウの系図から来ました。

だから、ユダヤ人は彼を本当の王として認めませんでした。

二つ目の理由は、彼は自分の地位に対して、本当に嫉妬深いことです。自分の地位を守るため、自分の息子たちも殺してしまいました。

どうして、ユダヤ人たちは恐れ惑ったでしょうか。たぶん、彼らはヘロデの性格をよく知っていたから。彼らはヘロデの反応が推理できました。

たぶん、あなたはこの話をよく知っているでしょう。ヘロデは、博士たちがこの王を見つけるように頼みました。「私も行って拝みたいから」と言いました。

博士たちはイエス様を見つけたけど、ヘロデに伝えようとすると、神様が彼らに夢でヘロデを伝えないように警告したので、彼らは別の道で、帰りました。

ヘロデはそれを聞いて、ベツレヘムにいる2歳以下の男の子たちをすべて殺すように命令しました。

どうしてでしょうか。博士たちの言葉によれば、2年ほど前にその星が現れたから。(多くの人が思うと違って、イエス様が生まれた2年後に、博士たちはエルサレムに来ました。)

しかし、神様はヨセフをヘロデについて警告したので、彼らはエジプトに逃げました。

でも、ヘロデとユダヤ人の反応をもう一度考えてください。彼らはその王について聞いたとき、恐れ惑いました。

今でも、多くの人々がイエス様を赤ちゃんとして考えず、彼らの忠誠を要求する王として考えると、彼らは悩みます。

ある人は、ヘロデのように、自分の心の王座をイエス様に譲りたくないので、怒って、反抗的な態度を取ります。彼らは自分の人生を支配したいから。

イエス様に従うと、周りの人々がどう思うか心配する人もいます。家族や友達に拒絶されることを心配します。

でも、ある日、「イエスの御名によって、すべての人はひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白します。」(ピリピ2:10-11)

喜びを持ってそう言う人もいるし、歯軋りして言う人もいるし、恥を感じて言う人もいます。でもすべての人々はイエス様を王として認めます。

今、喜びを持って、イエス様を王として認めた方がいいと思いませんか。

あなたの王は誰でしょうか。

 

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ルカ2章36-40節ーー王のために準備された心

毎年クリスマスに、私たちは以下の歌を歌います。

Joy to the world. (この世に喜びがあるように。)
The Lord is come. (なぜなら、主は来たから。)
Let earth receive her king. (この世の民が全地の王イエスを受け入れよう。)
Let every heart prepare him room. (すべての人がイエス様のために心を整えよう。)

この箇所では、私たちは、王のために心を準備する人を見ます。彼女は女預言者で、アンナという人でした。彼女は若いとき、悲劇を経験しました。彼女は7年間ぐらい結婚したけど、その夫が亡くなって、彼女は再婚しませんでした。たぶん、彼女には子供もいなかったでしょう。だから、その夫が亡くなったすぐ後に、神殿に住み始め、ずっと断食と祈りをもって神に仕えていたようです。

彼女は本当に素晴らしい人でした。多くの人々が彼女なら、苦々しい思いを持ち続けたでしょう。彼らは神様を責めたかもしれません。「神様、どうして。どうして、あなたは私の夫を取った?どうして、結婚している間、私は子供ができなかった?」(特にその文化で、子供が生まれないことは、恥ずかしいことを覚えていてください。)

でも、その悲劇によって彼女は神様から逃げずに、神様に近づきました。だから、王のために、準備した心を持っていました。実はその日、イエス様を王として認識する人は少なかったけど、アンナはその一人でした。だから、彼女は大喜びして、周りの人々にその良い知らせを伝えました。

あなたはどうですか。あなたの心を王のために整えましたか。毎日、あなたは神様を追い求めているでしょうか。もちろん、あなたは一日中、祈り、断食し、礼拝する必要がないけど、毎日あなたはイエス様をもっと知るために時間を取るでしょうか。

もしくは、あなたが忙しすぎて、この世の心配と苦しみによって、あなたは神様から離れているでしょうか。

イエス様の時代にも、そのような人はたくさんいました。だから、彼らがメシアを探し求めていると言ったのに、結局彼らはメシアを殺してしまいました。

そのように、私たちが毎日神様を追い求めないと、神様が来ても、私たちは神様を認識せずに、神様が何をしているか分かりません。

だから、毎日、神様のために私たちの心を整えましょう。毎日、神様と時間を過ごし、神様に近づきましょう。

そうすれば、私たちはイエスが与えてくださる喜びを見つけます。

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ルカ2章22-35節ーー人々が倒れるために定められるしるし

この個所は私の心を本当に打ちます。なぜなら、現代でも、その言葉の真実さを見ることができるから。

シメオンが敬虔な人だったので、神様は彼がイスラエルだけではなく、この世を救うメシアを見ることを約束しました。だから、彼がイエス様を見るとき、彼はこう言いました。

主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。(29-32)

ヨセフとマリヤはそれを聞いて、驚いたけど、シメオンは彼らに警告しました。

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。(34-35)

シメオンの言葉は成就されました。もちろん多くの人々は、イエス様を救い主として受け入れたけど、より多くの人々は、イエス様を拒絶しました。多くの人々は、イエス様の名前を喜んだけど、より多くの人々が、その名前を呪いました。

そして、ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を拒絶したので、マリヤの目の前にイエス様が十字架で死んだとき、彼女の心は刺し貫かれました。

もちろん、シメオンの言葉はその時代に成就されました。でも、現代でも、その言葉が成就されています。今でも、多くの人々は、イエス様の名前を誉れ、イエス様を礼拝するけど、多くの人々は、イエス様を拒絶し、その名前を呪います。それをして、彼らは自分の心の状態を表します。

多くの人々は、良い人みたいですけど、彼らの罪のために死んだ方を拒絶します。でも、イエス様を拒絶するというのは、神様と神様の道を拒絶することです。むしろ、彼らは自分の道を生き続けることを主張します。

その態度はイエス様の心も刺し貫くし、イエス様を愛している人の心も刺し貫きます。特に、私たちが愛しているものがイエス様を拒絶するとき、私たちの心は刺し貫かれます。

また、クリスマスの時、私たちが人々がイエス様を拒絶することを見ると、本当に痛いです。私たちはイエス様の誕生を祝うけど、多くの人々はイエス様を拒絶するから。

イエス様はこう言いました。

わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

あなたはこう訊くかもしれません。「でも、イエス様が生まれた時、天使たちは「地の上に、平和があるように」と歌いましたよ?」

もちろんキリストは、神様との平和を与えるために来ました。でも、イエス様は、人々を分ける方です。人々はイエス様の名前のため、別れます。家族も分かれます。友達も分かれます。なぜなら、イエス様を拒絶する人もいるから。

私が言いたいのは、イエス様に従って、福音を延べ伝えたいなら、すべての人々を喜ばせることはできません。イエス様のため、あなたのことが好きではない人もいます。もし、彼らがイエス様を憎むなら、あなたをも憎むかもしれない。

イエス様はこう言いました。

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15:18-19)

だから、皆に好かれることを望まないでください。むしろ、イエス様を愛して、その福音を延べ伝えましょう。イエス様のため、倒れる人もいます。でも、イエス様のため、立ち上がる人もいます。もし、あなたが愛する人たちが立ち上がるなら、その喜びは、前の苦しみと比べられらないでしょう。

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ルカ2章15-20節ーー喜びを広めること

羊飼いが救い主が生まれたことを聞いたとき、すぐにベツレヘムに走りました。そして、イエス様を見つけると、彼らは喜びました。彼らが帰るとき、彼らは「神をあがめ、賛美しました。」(20)

たぶん、その言葉だけでは彼らの喜びをちゃんと表せないと思います。彼らは大喜びでした。

だから、彼らは、その喜びを誰かに広めなくてはならなかった。彼らはできるだけ多くの人々にそのいい知らせを伝えました。

その聞いた人たちは、羊飼いの話を聞いて驚きました。でも、そのあと、彼らはどうしたでしょうか。彼らは羊飼いの話を信じて、イエス様を捜し求めようと思ったでしょうか。多分そうではありません。そういう人がいても、ルカは彼らについて何も書いていません。

でも、羊飼いにとっては、相手の反応はかまいませんでした。彼らの喜び溢れすぎて、彼らが何も言わないと、爆発したかもしれません。

あなたはどうですか。あなたの喜びが溢れすぎて、周りの人々に福音を伝えなくてはならないでしょうか。

私たちは人々の反応をコントロールすることができません。それに、彼らの反応は私たちの責任ではありません。

でも私たちが本当にイエス様を愛しているなら、また、イエス様の喜びが私たちの心に溢れているなら、周りの人々をその良い知らせを伝えなくてはなりません。そうすれば、彼らも私たちが知っている喜びを見つけるようになります。

あなたはその喜びを広めているでしょうか。

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ルカ2章8-14節ーー喜びが来たとき

私は最初のクリスマスの夜について考えるとちょっと圧倒されます。なぜならその夜、喜びがこの世に来たから。

天使が羊飼いに現れたとき、彼はこう言いました。

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(2:10-11)

私はこの箇所を読むと、あるクリスマスの歌の歌詞が思いつきます。

Long lay the world in sin and error pining
‘til he appeared and the soul felt its worth.

この世の民は久しく罪と咎のため、悩んでいて、死の陰に歩んでいました。
でも、イエス様が現れたとき、私たちは自分の価値が分かるようになりました。

アダムとエバがエデンで罪を犯してから、この世の民は死の陰に歩んでいました。私たちの罪のため、永遠の死に値しました。私たちは「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ2:12)

特に、イエス様の時代、神様が彼らを捨てたかもしれないと思ったイスラエル人もいました。なぜなら、神様はアブラハムや、ヤコブや、ほかの先祖たちに現れたけど、400年ぐらい神様はずっと沈黙していたから。

でも、突然、神様は話しかけました。「私はここにいるよ。あなたを忘れなかったよ。」

イマヌエルはやっと来ました。(「イマヌエル」という名前は、「神は私たちと共におられる」という意味です。)

イエス様のお生まれによって、神様はこう言いました。「私はあなたを愛し、あなたの間に歩みます。私はあなたの暗闇の中で、光になります。私はあなたに希望を与えます。あなたに救いを与えます。」

でも、神様がその良い知らせを伝えるために天使を送ったとき、祭司たちに送りませんでした。律法学者や一番宗教的な人たちには天使を送りませんでした。

神様は天使を普通の人々に送りました。つまり、羊飼いに送りました。その時代、人々は羊飼いを見下しました。どうして、神様は彼らに先に伝えたでしょうか。なぜなら、その知らせはすべての人のためだったから。イエス様は、偉い人のためにも、身分の低い人のためにも来ました。

そして、イエス様が来たとき、神様と人間の間にある壁は崩れました。神様との平和が可能になりました。でも最初のクリスマスの日にはそれは起こりませんでした。イエス様が十字架で死んだとき、神様と私たちの間にある幕が永遠まで裂けました。

あなたがその平和を知るように。また、羊飼いが感じた喜びがあなたの心を満たすように。

Joy to the World! The Lord is come!
この世に喜びがあるように。なぜなら、主は来たから。

 

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ルカ2章1-7ーーすべてを治めている神

ルカは、イエス様の出産について書いたとき、その背景も教えました。それは、皇帝アウグストの時代でした。彼はローマ帝国の支配者でした。

彼は、マルクス・アントニウスとクレオパトラの軍隊を破って、最初の皇帝になりました。そして、彼は自分の力を行使して、ローマに平和を与えました。そのとき、パクス・ロマーナは始まりました。

でも、彼が知らなかったのは、彼に優れる王がすぐに生まれるところということです。彼はローマ帝国を治めていると思ったけど、より強い方が彼を通して働いていたのを知りませんでした。

皇帝アウグストは全世界の住民が登録されることを命令しました。たぶん、それは税金のためでした。彼の言葉によって、すべての人々は出身地に帰って、登録しなくてはなりませんでした。

ヨセフとマリヤは、どう思ったでしょうか。私たちの多くは、彼らがその勅令を聞いた時、マリヤの妊娠が十ヶ月ぐらいと思います。そうかもしれないけど、私たちは分かりません。

とにかく、たぶんヨセフは「神様、どうして今この勅令が来たでしょうか。今行ったら、マリヤにとっては、本当に大変です。」と思ったでしょう。

でも、神様は良い理由がありました。たぶん、一つの理由は、ナザレで、ヨセフとマリヤについていろんな噂が回って、本当に大変だったでしょう。彼らが結婚していないのに、マリヤは妊娠していたから。

でも、もう一つの理由がありました。その登録のため、予言者ミカが何百年前に予言したように、イエス様はベツレヘムで生まれました。(ミカ書5:2)

皇帝アウグストは、自分自身がすべてをコントロールしていると思ったけど、実は、神様が治めていました。皇帝アウグストのパクス・ロマーナは200年ぐらい続いたけど、結局アウグストが築いたものは倒れました。

でも、イエス様を通して、神様は永遠の王国を開始しました。だれも、その王国を打ち倒すことができません。そしてある日、この世に本当の平和が来て、その平和は永遠まで続きます。

あなたはどうですか。あなたはすべてをコントロールしていると思いますか。つまり、自分の人生をコントロールしていると思いますか。

あなたより、偉大な方がいることを覚えていてください。もし自分の知恵と努力によって、あんたの人生を立てるなら、結局その立ていたものは倒れてしまいます。

あまたは、神様が本当にこの世を治めていることを疑うことがありますか。あなたは、なぜ神様がトラブルをあなたの人生に入らせるか尋ねますか。

神様を信頼し続けてください。なぜなら、神様は自分の計画を実践しているから。私たちは、その計画が見えないかもしれないけど、いつか私たち皆は、その計画が分かります。

その日、天使のように、私たち皆は叫びます。

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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マタイ1:18-25–没我的な人生

「私の人生です。」

「私の権利です。」

「私の幸福です。」

どれぐらい私たちは、こんな言葉を聞くでしょうか。どれぐらい私たちは、そんな言葉を言うでしょうか。

でも、ある著者が言ったように、「あなたの人生の中心は、あなたではありません。」

むしろ、あなたの人生の中心は神様です。そして、神様はこの世界に歴史を織っています。

ヨセフの話を読むとき、その真理が見ることができます。

彼のマリヤに対する反応について考えてください。彼らは婚約していたけど、彼らの文化では、私たちの文化よりも、そのコミットメントは断然強いものでした。彼らは、まだ一緒に生活したり、一緒に寝ていないけど、ユダヤ人の律法によって、その婚約を解除するために離婚しなくてはなりませんでした。

でも、その婚約の時に、マリヤは妊娠しました。

ヨセフはどう感じたでしょうか。傷ついたでしょう。裏切られたと感じたことでしょう。怒ったでしょう。そして、ユダヤ人の律法によって、彼にはマリヤを殺す権利がありました。

でも、彼の反応を見ましょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(19)

どうやら、彼は、もはやマリヤと結婚することを望みませんでした。その状態では、たぶん誰もマリヤと結婚したくないでしょう。でも、彼は傷ついても、復讐を望みませんでした。「正義」を主張しませんでした。自分の「権利」を主張しませんでした。

むしろ彼は、マリヤを哀れもうと思いました。彼は彼女をさらし者にはしたくありませんでした。彼ができるだけマリヤを守りたかったので、内密に離婚しようと思いました。

マリヤは、その妊娠の状態をヨセフに説明しようとしたでしょうか。何が言えるでしょうか。「誤解しないでください。私は他の人と寝たわけじゃない。この子は神様からです。」と言っても、ヨセフは信じるはずがなかったのです。

神様はその状態がよく分かったので、ヨセフのところに天使を送りました。その天使はこう言いました。

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(20-21)

ある程度、たぶんヨセフは安心しました。でも、ヨセフがそれを聞いても、その責任を拒絶するのは簡単だったしょう。

なぜなら、彼がマリヤと結婚するなら、たぶん、彼の評判が汚れるから。周りの人は、「あ、ヨセフが結婚する前にマリヤと寝たに違いない。マリヤだけではなく、ヨセフも悪かった。」と思ったかもしれない。

また、彼はこういう風に答えられました。「分かっているけど、私の赤ちゃんじゃない。私はその子のために祈らなかった。そして、あなたは前もって私の意見を求めなかった。どうして、私はその責任を取らなくてはならないだろうか。」

でも、ヨセフはそうしませんでした。彼はマリヤと結婚しました。噂といろんなトラブルがあっても、彼はマリヤと結婚しました。どうしてでしょうか。

ヨセフは自分の人生の中心が自分自身じゃないと知っていたから。神様がイスラエル、また、この世を救うための計画を立っていることを知っていました。また、その計画がヨセフよりも大きいものだと知っていました。

だから、ヨセフは自分の権利と計画を置いておいて、神様とマリヤに仕えました。でも、その決断によって、彼は本当の喜びを見つけたと思います。

あなたはどうですか。自分自身のために生きているでしょうか。そうすれば、あなたの人生はむなしいものになります。でも、神様と神様の目的のために生きるなら、充実した人生を見つけます。イエス様はこう言いました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

あなたは誰のために生きているでしょうか。

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ルカ1:57-80–救い

ゼカリヤは9ヶ月ぐらい話せない間、どう感じたでしょうか。たぶん少しは彼は自分の不信を後悔したでしょう。その反面、彼が話せないという印(しるし)は、神様がゼカリヤに子供を与えてくださる約束が確かなものであることを証明しました。だから、たぶん、彼は自己憐憫に浸らずに、毎日喜びを持って、生きたと思います。

そして、彼の息子が生まれた時、彼は話せるようになって、彼の口から喜び深い言葉があふれました。彼はこう歌いました。

ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。(68-70)

彼の歌を通して、私たちは救いの意味が見ることができます。

1.その救いは、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らします。(79)

多くの人々は、罪の暗闇に生きています。だから、死の影は彼らの上にかかっています。パウロはこう言いました。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)

でも、暗闇の陰に座る人に、救いはイエス様を信じる人に赦しを約束します。(77)

2.その救いは私たちの良い行いのためではありません。むしろ、その救いは神様の哀れみによります。

私たちは永遠の死に値します。でも、神様は私たちを愛したので、イエス様をこの世に送りました。そして、イエス様は私たちの罪のために死んでくださいました。だから今、イエス様を通して、私たちの罪は赦されます。

3.その救いは私たちをサタンの国から救い出します。(71,74)

サタンは私たちを憎んで、罪の鎖で結んだけど、神様は私たちを解放してくださいました。

4.その救いは私たちに新しい命を与えます。

私たちはもうサタンの国のために働かずに、神様に仕えます。私たちはもう罪に仕えません。その罪深い生活は、恐れ、恥、悲しみ、と破滅に至りました。でも今、神様は私に、正義の外套をまとわせます。そして、毎日は私たちますます「イエス様と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(第二コリント3:18)

5.その救いは私たちに平和を与えてくださいます。あなたがどんな試練に直面しても、神様の平和を知ります。それは「人のすべての考えにまさる神の平安」です。(ピリピ4:7)なぜなら、私たちには神様との平和があるから。

どのようにその平和を知ることができますか。こう祈ってください。

イエス様、私が罪人だと認めます。私は何回もあなたを傷つけたし、周りの人々をも傷つけてしまいました。私を赦してください。私のために十字架で死んで、私の罰を受け取ることを感謝します。私に新しいスタートを与えてくさい。あなたに従いたいです。また、あなたのようにますますなりたいです。私を変えてください。またあなたの平和を与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書1:39-56--祝福された人

マリヤがエリサベツが妊娠していることを聞くと、マリヤはすぐに彼女を訪ねました。そんな反応はとても分かりやすいです。たぶん、マリヤは自分の経験が夢や幻覚じゃないと確認したかったのだと思います。

でも、エリサベツがマリヤを見かけたとたん、マリヤの残っている疑いはなくなったと思います。その瞬間、エリサベツの胎内で子どもが飛んで、聖霊に満たされて、エリサベツは叫びました。

あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(42-45)

どうして、エリサベツはマリヤが妊娠して、その子がメシアになることを知っていたのでしょうか。それは一つの方法しかありませんでした。神様が彼女にそう表しました。エリサベツの言葉を聞いて、マリヤの疑いがなくなったので、彼女は歌い始めました。

わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。(46-50)

マリヤの言葉を読むと、私は神様がどのように私たちを祝福してくださったか、考え始めます。

マリヤのように、私たちは神様の祝福に値しないものです。私たちはただの神様の卑しいしもべです。私たちの偉い行いのため、私たちは祝福されていません。むしろ、神様の素晴らしい御業によって、私たちは祝福されます。

神様は私たちのために何をしたでしょうか。

1.神様は私たちに哀れみを与えてくださいました。私たちだけにではなく、私たちの前に生きていた信者たちに与えてくださったし、また、私たちの後に生きる信者たちに与えてくださいます。

私たちが自分の罪のために罰に値したけど、神様は哀れみを与えてくださいます。どうしてでしょうか。十字架で、神様は自分の怒りを私たちの代わりに、イエス様に注いだから。イエス様が私たちの罰を受けたので、私たちは神様の哀れみを受けることができます。

2.神様は私たちの利益のために働きました。(51)イスラエル人がエジプト人の奴隷の時、神様はパロを王位から引き降ろしたけど、モーセとイスラエル人を高く引き上げてくださいました。神様は、イスラエル人より強い国と支配者を打ち倒して、イスラエル人を神様が約束した土地に導きました。

そして、イスラエル人が何回も神様に背を向けたのに、神様は自分の約束を忘れずに、今まで彼らを守りました。それは本当に驚くべきことです。いろんな国が倒れたし、いろんな民族がいなくなったし、いろんな国々はユダヤ人を殺そうと思ったけど、イスラエル人はまだ残っています。

神様がイスラエル人の利益のために働いたように、神様は私たちの利益のために働いています。だから、神様はイエス様を送りました。今でも、神様は私たちの利益のために働いています。

私たちの問題が私たちよりも大きいとき、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

私たちに必要があれば、神様はそのニーズに備えてくださいます。

サタンが私たちを滅ぼそうと思うとき、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、マリヤのように、主をほめたたえましょう。なぜなら、神様は私に大きなことをしてくださったから。だから私たちは本当に祝福されています。

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ルカ1章26-38節ーー心のすべてを神様に捧げること

神様がイエス様を送った時、どうして、マリヤを選んだでしょうか。たぶん、彼女の心は神様のものだったから。彼女は自分の心のすべてを神様に捧げ、神様に従いました。この個所では、マリヤの心を見ることができます。

ザカリヤに現れた6か月後に、ガブリエルはマリヤに現れました。彼はこう言いました。

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(28)

マリヤがその言葉を聞いて、本当に戸惑ったので、ガブリエルは続けました。

こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(30-33)

マリヤは確かにその言葉が分かりました。イスラエルの女性たちのすべては、自分の子がメシアになることを望みました。でも、彼女には本当に論理的な質問がありました。

どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。(34)

つまり、彼女は結婚していないし、男性と寝たことがありませんでした。

ガブリエルは答えました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(35)

たくさんの人はそれを聞いて、「まさか。クリスチャンはそれを本当に信じているのか。」と言うかもしれない。

でも、現代では、そのようなことがあります。時々、カップルが赤ちゃんができないとき、配偶者間の人工授精で、その女性は妊娠できます。私たちは、お医者さんができることが神様ができないと言えますか。

でも、その時代、そんなことがなかったので、ガブリエルはそんな言葉が受け入れにくいと知っていました。だから、彼はマリヤにこう言いました。「あなたの親戚エリサベツのところに行ってください。皆は彼女が赤ちゃんができないと言ったけど、彼女は、今妊娠しています。神様にとっては不可能なことは一つもありません。」

マリヤはそれを聞いて、答えました。

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。(38)

彼女はもう質問しませんでした。むしろ、その言葉を信じて、神様にすべてを捧げました。

でも、ちょっと考えてください。彼女がすべてを失う確率は高いものでした。彼女が妊娠するとき、彼女の評判は汚されるでしょう。その家族と周りの人々はどう考えるでしょうか。

また、その婚約者ヨセフはどう思うでしょうか。彼女が妊娠したら、彼はその結婚をやめるでしょう。また、イスラエルの律法によって、彼には彼女を殺す権利がありました。

誰が、神様の聖霊によって、彼女が妊娠したことを信じるでしょうか。

でも、マリヤは言いました。「これがあなたの御心なら、その御心に従います。すべてを失っても、私は従います。」

彼女は神様からほかの約束をもらいませんでした。神様は彼女の結婚を守ることを約束しませんでした。彼女の評判を守ることを約束しませんでした。

でも、彼女は神様が良い方であることを信じたし、神様の計画も良いと信じました。

それは、神様に属する心です。マリヤは、自分の心を神様に捧げたので、神様は彼女を通して素晴らしいことを行うことができました。

あなたはどうですか。あなたの心は神様のものでしょうか。神様に従うのに、すべてを捧げるでしょうか。

 

 

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ルカの福音書1章1-25節ーー失望

ルカの福音書の始めでは、ルカがどうしてこの福音書を書いたか説明します。

ルカがお医者で、教会の始めた人で、彼はクリスチャンになりました。彼は学者で、テオピロノアという人のためにこの福音を書きました。ルカが言ったのは、彼がクリスチャンになったとき、イエス様の話を綿密に調べたことです。だから、テオピロノアとほかの興味のある人のために、その話を伝えたかったのです。

その言葉を読んで、キリスト教の話について、私はもっと確信を持てると思います。なぜなら、ルカは学者で、イエス様が天国に行ったすぐ後に、この福音書を書いたから。ルカがそれをしてくれたので、私はイエス様の話が信じることができます。

最初に、ルカはザカリヤという祭司について書きます。私たちはこの話の言外の意味を読み取るなら、ゼカリヤが本当に神様を愛していたけど、同時に失望していた人だったことがわかります。

つまり、彼の妻は不妊の女でした。私たちの時代でも、それは本当に悔しいことだけど、その時代では、本当に恥ずかしいことでした。特に、その妻エリサベツにとっては、恥ずかしいことでした。

どれぐらい彼らは子供のために祈ったでしょうか。おそらく、エリサベツの生理は遅くて、希望が湧いた時もあったかもしれない。でも、結局その生理はまた始まって、彼らはもう一度がっかりしてしまいました。どれぐらい、そのパターンは繰り返したでしょか。

私たちはどのように神様が答えてくださらない祈りに対して反応するでしょうか。私たちの希望がつぶれるとき、どうやって反応するでしょうか。

その心が苦々しくなる人もいます。

「どうして、あなたは私の祈りに答えてくださらないの?私にはこれが絶対必要です。聞いていないの?私の状態を知らないの?私の感じがわからないの?」

がっかりして、諦める人もいます。

「神様はこの祈りに答えてくださらないだろうねえ。」

そして、彼らはずっと失望を持ち続けます。

でも、希望がなさそうでも、希望し続ける人もいます。アブラハムはそのような人でした。(ローマ4:16-21)

ゼカリヤはどう感じたでしょうか。たぶん彼はもう諦めたでしょう。

「私たちはもう年を取った。私たちには、もう遅すぎるだろう。まだ赤ちゃんができていないなら、もう希望がないだろう。」

でも、ある日、彼は主の神殿に入って香をたくために選ばれました。それが、くじによって決まって、たくさんの祭司たちがいたので、選ばれる可能性は低かったけど、彼は選ばれました。

その香りの煙は神様に上がる祈りの象徴でした。だから、ゼカリヤが香りをたくときに、彼は祈ったし、神殿の外にいる人たちも祈りました。

ゼカリヤは何のために祈ったでしょうか。間違いなく彼は、イスラエルのために祈りました。また、たぶん彼はメシアが来るように祈ったでしょう。なぜなら、神様は400年ぐらい何も話していなかったから。預言者が全然いなかったし、神様は祭司たちにも何もおっしゃいませんでした。

ゼカリヤは自分自身のために祈ったでしょうか。そうかもしれません。でも、そうしなかったかもしれません。彼はずっとがっかりして、「神様は私のことを本当に愛しているだろうか」と思ったかもしれません。「もちろん、神様はイスラエルを愛しているけど、私のことを愛しているだろうか。」

でも、彼の祈り中に、突然天使が現れました。たぶん、彼の最初の反応は恐れだったでしょう。「私は何か悪いことをしてしまったんだろうか。アロンの息子たちのように殺されるだろうか」(レビ記10章)と思ったかもしれません。

でも、天使は言いました。「恐れないでください。あなたのために良い知らせがあります。あなたはずっと息子が生まれるように祈ったでしょう。神様はその祈りを聞きました。来年、息子が生まれます。それに、その子は、あなたがずっと待っているメシアのために道を準備します。」

ゼカリヤの反応は何だったでしょうか。疑いです。彼の祈りがずっと答えていないて、もう希望が無くなったから。だから、彼は言いました。

私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。(18)

要するに、「私はずっと祈りました。何も起きていませんでした。何回も、私の希望はむなしいものとなってしまいました。だから、私の希望を湧かさないでください。もうがっかりさせられたくないです。」

どれぐらい私たちはそのように反応するでしょうか。私たちの失望のため、私たちは希望を失います。

幸いなことに、神様はゼカリヤに対する約束を取り消しませんでした。でも、その天使はゼカリヤを叱責しました。「しるしを望んでいるのですか。それでは、あなたの息子が生まれるまで、あなたは話せなくなります。」

その言葉を聞いて、ゼカリヤは衝撃を受けたけど、すぐに信じるようになりました。すぐに、その妻も信じました。彼女が妊娠したときに、こう言いました。

主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。(1:25)

この話から、私たちは何を学ぶことができますか。

私たちがそう思わなくても、神様は私たちの祈りが聞こえます。それは天使ガブリエルの最初の言葉の一つでした。「あなたの祈りはむなしくなかった。その祈りは、天井に当たらなかった。神様はあなたの声が聞こえました。」

それに、神様は私たちが見えない話を織っています。その話は私たちよりも断然大きいです。(ゼカリヤにとっては、メシアが来ることよりも、より大きい話がなかった。)

でも、その神様が織っている話のため、時々神様は私たちの祈りに答えてくださらないみたいです。

でも、希望を捨てないでください。神様はあなたの祈りが聞こえました。神様はあなたの願いを叶えるかもしれないし、叶えないかもしれない。でも、神様はあなたの人生に働いています。あなたの利益のために働いています。なぜなら、神様はあなたを愛しているから。

そして、もし、あなたは神様を信じ続けたら、いつか神様が織っていた素晴らしい話を見ます。

だからあなたがどんな苦しみを経験しても、その話にい続けてください。そうすれば、ゼカリヤとエリサベツのように、祝福されます。

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マタイ1:1-17;ルカ3:23-37ーー罪深い人と同じような形をとる方

私たちがイエス様の系図を見るとき、二つの注意事項があります。

一つ目は、マタイの福音書にある系図は不完全ということです。つまり、ある王たち(ヨアシュ、アマツヤとエホヤキムなど)は飛ばされました。英語の訳では、「だれだれは、だれだれの父だ」と翻訳されました。その「父」という言葉は、「先祖」という意味もあります。だから例えば、「ヨラムにウジヤが生まれ」と書かれていても、その意味は、「ヨラムはウジヤの先祖」という意味です。

二つ目は、多くの学者はマタイの福音書にある系図はヨセフの系図で、ルカの福音書にある系図はマリヤの系図と思われることです。なぜなら、ルカの福音書で、「イエス様は人々からヨセフの子と思われていた。」と書いてあるから。

だから、言い直すと、「イエス様は人々からヨセフの子と思われていたけど、実は、彼はヘリの子孫です。」

(「父」という言葉は「先祖」という意味もあるように、「子」という言葉は「子孫」という意味もあります。)

実は、この系図の違いに関して、学者はいろんな意見があるけど、本当に複雑すぎるので、私はそれ以上話したくないです。:)

とにかく、この系図を見ると、一つのことが私の心を打ちました。イエス様がこの世に来たとき、彼は天から来て、「私は来たよ。私は神だよ」と宣言しませんでした。

むしろ、私たちが罪びとでも、イエス様は私たちと同じような形をとりました。彼は人間になりました。

イエス様の先祖を見てください。

アダムは完全な世に造られたのに、彼は罪をこの世に紹介しました。

テラ(アブラハムの父)は偶像を礼拝しました。多分彼の先祖も偶像を礼拝しました。

ヤコブは詐欺師でした。

ユダは、義理の娘に騙されて、彼女が売春婦だと思ったので、彼女と寝ました。その結果は?彼女は双子を生んで、その一人は、イエス様の先祖でした。(創世記38章)

ラハブは、イスラエル人の目から見ると、外国人だったし、売春婦でした。

ルツは、外国人だったし、モアブ人でした。普通、ユダヤ人はモアブ人を見下しました。(申命記23:3-4)

ダビデは、ほかの人の妻バテ・シェバと寝て、その主人を殺しました。でも、ソロモン(マタイ1:6)とナタンは(でも預言者ナタンと違う人、ルカ3:31)、ダビデとバテ・シェバの間に生まれました。

多くのユダの王は神様に背を向けました。(例えば、アハズとマナセ)。

イエス様はそんな系図から来ました。どうしてでしょうか。どうして、別の系図に入らなかったでしょうか。どうして、直接天から来なかったでしょうか。

でも、イエス様はそうしませんでした。むしろ、彼は人間になって、「私はあなたのようになります」と言いました。

でも、ほかの方法で、イエス様は私たちのようになりました。

彼は特にハンサムではありませんでした。(イザヤ書53:2)

彼は貧しい家族に生まれました。その父ヨセフが亡くなった後、イエス様は頑張って働いて、その家族のニーズに備えました。

イエス様は時々疲れました。時々お腹がすきました。

彼はいろんな試練を経験しました。彼は拒絶されました。彼は誤解されました。彼は虐待されました。彼は裏切られました。彼は苦しみました。

どうしてでしょうか。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル4:17)

つまり、イエス様は私たちを理解するために人間になりました。イエス様が私たちのことが理解できるので、彼は私たちの大祭司として慈悲深いのです。だから、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

今日、あなたはどう感じるでしょうか。自分の罪によって落ち込んでいるでしょうか。自分の家族を支えるため、いつも疲れていますか。あなたは苦しんでいますか。拒絶される感じがありますか。傷つきましたか。裏切られましたか。

その感情をイエス様の前においてください。なぜなら、イエス様はあなたのことを理解するから。また、イエス様は、あなたを助けてくださいます。

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ヨハネ1章1-18節 ーー暗い世にある光

数年前、私は本当に賢いアメリカ人の女の子について読みました。彼女の高校の成績は完璧だったし、SAT(一般のアメリカの大学の入学試験)の点数は満点だったし、カリフォルニア大学の受験の点数も満点でした。そして、ある記者は彼女にこう訊きました。「人生の意味はご存じでしょうか。」

彼女は答えは?

「私は全然知りません。私も知りたいです。」

私たちはそんな世界に住んでいます。この世の人は、神様から離れているので、暗闇に迷っています。彼らは人生の意味を探しているけど、ずっと暗闇で躓いています。それに、彼らは自分の罪に目がくらんで、その罪がどこに導くか知りません。

そのような世界にイエス様は2000年前に赤ちゃんとして来ました。ヨハネはイエス様にこう言いました。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(1:4)

イエス様がこの世に来た時、彼はこの暗い世のために光になりました。どのように光になりましたか。

1.イエス様は神様がどんな方であるか教えました。昨日の記事に私はもう言いましたけど、イエス様は私たちに神様を説明しました。神様は目に見えない方だけど、イエス様が現れた時、神は見えるようになりました。私たちが神様がどんな方であるかもう想像する必要はないです。私たちがイエス様を見ると、神様を見ます。

2.イエス様は人生の意味を教えました。その意味は何でしょうか。それは、神様との関係を持つことです。

3節で、ヨハネは、イエス様がすべてのものを造ったと言います。イエス様は私たちも造りました。でも、イエス様が来たとき、その被造物はイエス様を自分の創造主として認めませんでした。それに、彼らはイエス様を拒絶しました。(10-11)

でも、ヨハネはこう言います。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13)

つまり、私たちがイエス様を私たちの主と救い主として受け入れたら、私たちは神様の家族に養子にされます。あなたは、自然に神様の家族に生まれません。あなたの両親がクリスチャンでも、あなたはクリスチャンとは限りません。あなたは神によって生まれなくてはなりません。つまり、あなたは神様の召しに反応して、「はい」と言わなくてはなりません。

要するに、「はい、イエス様。私の王になってください。私の主になってください。」

そうすれば、神様の家族に入ります。そして、あなたの人生の目的を見つけます。それは、天の父との関係を持つことです。

3.イエス様は命の道を教えました。イエス様がすべての生きているものに命と息を与えるように、イエス様はイエス様を信じる人に永遠の命を与えてくださいます。

ヨハネはこう言います。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(5)

「打ち勝たなかった」と翻訳されたけど、もう一つの意味は「分からなかった」ということです。

イエス様がこの世に来た時、この罪深い人は彼が分からなかった。宗教的な人でも、イエス様が分からなかった。だから彼らはイエス様を殺しました。でも、彼らがイエス様を殺しても、イエス様に打ち勝ちませんでした。むしろ、イエス様が死んだとき、彼は私たちの罰を受け入れました。それに、イエス様は死に打ち勝って、三日目によみがえられました。だから、今イエス様は、イエス様に来る人に命を与えてくださいます。

だから、イエス様はこう書きます。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16-17)

律法を通して、モーセは私たちに神様の要求を教えました。でも、その律法は私たちを救うことができませんでした。その律法は、私たちの罪を示しただけです。また、その律法は、私たちが死に値することを示しました。

でも、イエス様によって、私たちは恵みと誠を見つけます。イエス様によって、私たちは二つの誠が見えます。私たちの罪が見えます。でも、私たちは十字架を通して、神様の愛も見えます。

そして、私たちがイエス様を受け入れると、私たちは恵みの上にさらに恵みを受けます。その恵みは決して尽きないし、私たちの罪を覆います。その恵みは私たちに命を与えてくださいます。

キリストの光があなたの心に輝くように。

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ヨハネ1:1-18–神は人間になった時

それでは、新約聖書を始めましょう。福音書について書くとき、私が旧約聖書について書いたように、年代順に書きます。だから、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書について順番に書かずに、その福音書に入っている話について順番に書きます。

だから、マタイから始めません。むしろ、ヨハネから始めます。なぜなら、ヨハネ1章の話は、イエス様がこの世に来る前の話だからです。

ヨハネはこう書きました。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(1:1)

ヨハネは「言葉」と言う時、イエス様について話します。つまり、時間と空間が創造される前に、イエス様はもう存在していました。イエス様は永遠の方だから。

どうして、ヨハネはイエス様を「言葉」と呼ぶでしょうか。

ユダヤ人の考え方では、「言葉」は「神の知恵」という意味です。

ギリシャ人の考え方では、「神の思い」、また「神の理」という意味です。彼らに「どうして、この世界はこんなに整然と造られたしょうか。」と訊いたら、その答えは、「神様の理だから。」

だから、ヨハネが、イエス様を「言葉」と呼ぶ時、その意味は、イエス様は神の知恵、また、神の理という事です。

もう少し、「言葉」という名前について考えましょう。

私たちはどのように人を知ることができるでしょうか。彼らの言葉を通して、彼らを知ることができます。もし、その人は決して話さず、何も書かないなら、ある程度まで彼らを知ることができるけど、限界があります。

でも、彼らが喋りはじめると、私たちは彼らの考え方を知ります。彼らの知恵から私たちは学ぶことができます。でも一番大切なのは、私たちは彼らの性格、また彼らの心を知ることができます。

そのように、イエス様は私たちに対する神様の言葉です。イエス様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。どうしてでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、始めから、イエス様は「初めに神とともにおられた。」ということです(1:2)。その意味は、彼らには親しい関係があったということです。

それだけではなく、イエス様自信が神です。それが二目の理由です。14節によれば、イエス様は人となって、私たちの間に住まわれました。つまり、神は人間になりました。

キリスト教の難しい教えがあります。それは「三位一体」ということです。それはどういう意味でしょうか。

父である神がおられます。御子(イエス様)である神がおられます。聖霊である神がおられます。父は御子ではありません。御子は聖霊ではありません。聖霊は父ではありません。でも、神が3つおられるわけではありません。神は一つしかおられません。

それは人間の想像より大きいです。人間では、三人は三人です。でも、神様では、父と御子と聖霊は一つの神です。それが聖書の教えです。

実は、私たちは神様のことがすべて理解できたら、ちょっと不審なことだと思います。もし偉大なる神のことを全部説明できたら、多分私たちは自分の想像から神様を造れるでしょう。でも、私たちはこの三位一体の神をすべて理解できないし、説明できません。ある程度までその神のことが理解できるけど、全て理解できません。

でも、イエス様のおかげで、私たちは神様のことがもっと理解できます。イエス様が2000年前に生まれた時、私たちは初めて、自分の目で神を見ることができました。

ヨハネはこう書きました。

私たちはこの方(つまり、イエス様)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)

イエス様は地上で歩いた時、また話した時、彼は神様を表しました。なぜなら、彼は人間となった神だから。イエス様を通して、私たちは神様がどんな方であるか見えます。

だから、ヨハネはこう書きました。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

ギリシャ語の文字通りに、イエス様は神様を説明しました。また、神様を解釈しました。イエス様は父である神の通訳みたいです。

この記事を書くとき、もうクリスマスは迫っています。まだ11月だけど、いろんなクリスマスの飾りが出ています。でもクリスマスの意味を覚えていてください。私たちは神様が人となることを祝います。どうしてそれは大切なのでしょうか。なぜなら、その奇跡によって、神様は自分自身を表したから。

目が見えない神を知りたいでしょうか。その飼葉おけを見てください。なぜなら、イエス様にあって、神様の知恵、力、と栄光のすべてが見えるから。

 

 

 

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雅歌8章5-14節ーー封印された

それでは、6年以上で、記事を900編を書いているけど、これは旧約聖書についての最後の記事です。私がこのブログを始めた時、同時に英語のブログも書いていたけど、それを完了して、今はこのブログだけを書いています。だから、新約聖書を完了するのは、多分3年間ちょっと以内にかかると思います。頑張ります。

とにかく、この箇所では、恋人たちが旅行から帰って来て、彼らの愛は明らかです。ソロモンの妻は彼に寄りかかっていて、こう言います。

私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。(6-7)

その時代、封印は所有のしるしでした。だから、誰かが相手の封印を持つことは、相互の所有のしるしでした。

だから、彼女の意味は、「あなたは私のものだし、私はあなたのものです。私たちは互いに封印されている。」ということです。

彼女は「愛は死のように強い」と言います。(6b)

つまり、死でも、彼女の愛を壊すことができませんでした。彼が死んでも、彼女の愛は続きます。クリスチャンにとっては、それは特にそうです。なぜなら、私たちが死んでも、いつか天国で私たちの夫か妻にもう一度会うから。

そして、彼女は「私のねたみは激しい」と言います。(6c)

多くの場合は、「妬み」という言葉は悪い意味があります。でも、悪い妬みは他の人に属するものを見て、その物を欲しがることです。

しかし、結婚で、妻は夫のものだし、夫は妻のものです。だから、彼女が言ったのは、その愛の関係を破るものを許さないことです。

全ての夫婦は、そのような態度を取ったらいいのにと思います。多くの場合、私たちの趣味や、仕事や、他の恋人はその関係の邪魔になります。私たちの妻と夫に対する愛は、そのものに決して譲るべきではありません。

そして、彼女は、彼らの愛を凄まじい大水で消されない炎と比べます。また、その愛がお金で買えられないと言います。(7)

自分の結婚について考えている間に、彼女はまだ結婚していない妹について考え始めます。つまり、その妹がそんな素晴らしい夫婦関係があるように望みます。

彼女は言います。「もし、彼女の純潔を守っている城壁が強くても、もっと強化したいです。もし、彼女が誰に対しても開いている戸であれば、彼女を守って、閉じたいです。(8-9)

そして、彼女は「結婚するまで、私の純潔を守って、良かった」と思います。なざなら、その夫の尊敬を得たから。それに、彼女は自分のすべてを彼に与えられました。他の人に彼女の体を与えなかったから。(10)

ソロモンのぶどう畑は大きすぎて、彼はそのぶどう畑を守る者に貸しました。そして彼らはそのぶどうのため、ソロモンに払いました。

でも、彼女のぶどう畑、つまり、彼女の体は自分の物で、ソロモンに喜んで奉げました。彼は払う必要がなかった。彼女はただで自分自身を捧げました。彼女が言ったのは、もし誰かに払いたいなら、今まで私たちの純潔を守ってくれた人に払ってください。」という事です。(11-12)

この歌の最後で、ソロモンが彼女を呼んで、彼女は答えます。「あなた、急いで行こうよ。」(14)

シングルの人たち。あなたが自分の純潔を守るように祈ります。結婚するまで待って、あなたの将来の妻か夫だけに、あなたの心と体を捧げてください。

既婚者たち。あなたの夫婦関係が封印されるように祈ります。あなたたちがいつまでも、愛を持って、互いに呼んで、答え合うように。

 

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雅歌7-8章ーー伴侶と時間を持つ事

この箇所では、ソロモンとその妻は一緒に時間を過ごしています。7章1-10節で、ソロモンはもう一度、自分の妻とその美しさに対する喜びを表現します。そして、ソロモンは彼女に対する彼の性的な感情を言い表します。

ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。(7:6-9a)

多分、今時、私たちはそんな比喩を使わないけど、その意味は分かりやすいと思います。

そして、彼女は喜んで、答えます。

私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。(9b)

そして、彼女は夫の愛を浴びて、ため息をついて言います。

私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。(10)

その後、彼女は一緒に外出することを勧めます。彼女の言葉を見ると、その望みがよく分かると思います。

私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。(12-13)

恋なすびは植木で、催淫剤効果がありました。だから、彼女の意味は、「外出し、新しい場所に行って、一緒に寝ましょう。私は新しい事も準備したので、一緒に楽みましょう。」という事です。

8章では、彼女の夫に対する愛を言い表し続けます。彼女が兄に対する愛を人前で表せるように、彼女は夫に対する愛を表すように願います。そして、彼女は愛と結婚に関するその母のアドバイスを思い出して、どれぐらい学んだかその母に表したがります。

そして、2-4節で、もう一度、彼女は夫に対する性的な感情を言い表すけど、もう一度、彼女はシングルの人たちに自分の純潔を守るように訓戒します。

この箇所から私たちは何を学ぶことができますか。一つ目は、結婚の中での、セックスの大切さです。多分、妻たちは夫たちよりも、その大切さを覚えていなくてはなりません。

なぜなら、男性たちは体的に、性的な親しさを望むようにデザインされたから。

妻たち、もし知らないなら、私は教えてあげます。あなたの夫は、しばしばセックスについて考えます。

それぞれの妻は違うけど、多くの場合、妻たちは夫よりもそんなに性的な親しさを望まないかもしれない。それでも、その時間を作るのは大切なんです。それに、この箇所の女性のように、妻がその時間を勧めることも大切です。またどのようにその時間をもっと楽しめるように何かを勧めることも大切です。

どうして、それはそんなに大切でしょうか。

一つ目は、セックスは夫婦を結び合うからです。

二つ目は、その夫を性的に守るからです。もちろん、妻をも性的に守るけど、特に夫を守ります。

パウロはこう書きました。

互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。(第一コリント7:5)

また、彼は言います。

妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(第一コリント7:4)

ソロモンの妻はパウロの言葉をこのように言いなおします。

私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。(2:16)

だから、良い結婚のため、時間をちゃんと取らなくてはなりません。セックスだけのためではなく、デートのためにも時間を取るべきです。

あなたはどうですか。そんな時間を取っているでしょうか。

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