コリント人への手紙第一8-10章--御国のために権利を譲ること

聖書を読むときに、私たちはたまに文脈に注意しないので、その著者の意図を見逃してしまいます。

だからこの記事では、8ー10章をまとめて、話したいと思います。そして、ほかの記事で、8ー10章の個々をもっと詳しく見たいと思います。もちろん、個々の章で私たちは興味深いことを学ぶことが出来るけど、パウロの主旨を見逃したくないと思います。

8-10章では、パウロの主旨は何でしょうか。それは、「私たちの権利ではなく、神の御国は一番大切なものだ」ということです。だから、時々、神の御国のために私たちの権利を譲らなくてはなりません。

8章では、もう私たちは一つの例を見ました。パウロによれば、私たちは、偶像にささげた食べ物を食べる権利を持っています。でも、パウロはこう言いました。「もし私がそんな肉を食べることによって、私の兄弟が罪に落ちてしまうなら、私はその肉を食べません。さらに、彼が罪に落ちないように、私は今後いっさい肉を食べません。」(8:13)

そして、パウロはコリント人の異議を予測します。「でも、私は食べる権利を持っているよ。どうして私の権利を譲らなくてはならないでしょうか。」

パウロは12節で一つの理由を与えます。それは、私たちの行為によって、兄弟が罪に落ちるなら、私たちの行為が罪になることです。

でもそれだけではなく、パウロは自分の人生を例として指します。使徒としてパウロは、いろんな権利を持っていましたが、その権利を利用することを主張しませんでした。たとえば、パウロは、結婚して妻と一緒に宣教旅行に行く権利を持っていたけど、結婚さえもしませんでした。

また、パウロは福音を伝える仕事のため、お金をもらう権利を持っていたけど、お金を受けませんでした。実は、モーセの律法によれば、また、キリストの言葉によれば、私たちはそんな人にお金を払うべきです。でもパウロはそのお金を断りました。(9:1-14)

どうしてパウロはその権利を主張しなかったでしょうか。もしかしたら、パウロは貧しい者に福音を伝えていたからです。もしパウロが彼らのお金を受けていたら、彼らはもっと経済的に苦しんだでしょう。そしてパウロは、その貧しいものを利用するという言いがかりを避けたいと思ったかもしれません。

もう一つの可能性は、パウロは、福音を利用して、お金を儲けるという言いがかりを避けたいと思ったかもしれません。

そんな言いがかりは福音の普及を阻止したでしょう。

そして、パウロは福音のためのほかの犠牲について話しました。

モーセの律法の下にあるユダヤ人たちと一緒にいるとき、パウロはユダヤ人のようにふるまいました。例えば、モーセの律法に応じて、豚肉や貝を食べませんでした。

でも異邦人と一緒に食べるとき、パウロは何でも食べました。

しかし傷つきやすい良心のある人と一緒に食べるとき、偶像にささげた肉を食べませんでした。

多くのコリント人たちにとっては、パウロは注意し過ぎたでしょう。たぶん、彼らはパウロがその権利を譲るのは、やりすぎだと思ったでしょう。

でもパウロはその生き方をマラソンの訓練と例えました。マラソンを準備するために、時々ランナーは好きな食べ物をやめたり、好きなアクティビティをやめなくてはなりません。そうしないと、賞を受けないでしょう。そのように、もしキリストとその御国のためではなく、自分のために生きるなら、賞を受けることはないでしょう。

だから10章で、パウロはこう言いました。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(23-24)

また、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(31-33)

だから、自分の権利について考えるとき、自分自身にこう訊かなくてはなりません。「私は何のために生きているだろうか。だれのために生きているだろうか。私のためだろうか。もしかしたら、神様とその御国のためだろうか。」

神様のために生きるなら、あなたは最終的に報いを受けます。でも自分のために生きているなら、あなたの業績はなくなって、神様からの報いを受けません。

あなたは何のために、また、だれのために生きているでしょうか。

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コリント人への手紙第一8章ーー私たちの持っている知識をどのように扱うか

いろんな意味で、この個所はローマ書14書に似ています。だから、1ー3節を見て、その言葉がどのようにこの個所の残りにかかわるか話したいと思います。

パウロはこう言いました。

次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(1-3)

クリスチャンの兄弟たちが偶像にささげた食べ物を食べるときに、あるコリント人たちは気になったようです。彼らは、そんな食べ物を食べるのは罪だと思いました。そんな人に関して、パウロはこう書きました。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ書14:23)

でも、ほかのコリント人の信者たちは、偶像にささげた肉を食べることが彼らの霊的な人生にかかわらないと分かりました。実は、イエス様は、すべての食べ物がきよいと教えました。(マルコ7:19)

でも、彼らの知識はプライドに至りました。だから傷つきやすい良心のある兄弟たちの前で、彼らは自分の自由をあえて利用して、偶像にささげたものを食べました。

彼らの行為によって、傷つきやすい良心のある兄弟たちは、自分の良心に反して、その肉を食べ始めました。でも、彼らの行為が信仰から出なかったので、彼らにとっては、その肉を食べるのは罪でした。

だからパウロはその知識のある兄弟たちに怒りました。なぜなら、彼らの行為によって、その兄弟たちは罪に落ちたから。だから、パウロは彼らに言いました。「もちろん、偶像は本当の神ではありません。私たちはそう知っています。だから偶像にささげた肉を食べてもいいのです。」

でもパウロはこうも言いました。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(2)

パウロは何を言おうとしているでしょうか。知識を持っているのは、足りないのです。どのようにその知識を扱うかを知らなくてはなりません。知識を扱い方を知らないと、あなたの知識は欠けているものです。

私たちは、どのように知識を用いるべきでしょうか。愛をもって、知識を扱うべきです。

パウロはコリント人たちにこう言いました。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。(1)

知識を持つことは、プライドに至るかもしれません。「私は知っている。あなたは知らない。」

そのプライドによって、ある人は聖書についてずっと議論するけど、何も解決しません。

また、人はその知識とプライドによって、相手を見下し、裁いてしまいます。

おまけに、そのプライドによって、ある教会は引き裂かれてしまいます。

コリント人の教会で、そんな問題が出て来ました。だからパウロは彼らに言いました。

「あなたが知識を持っていることによって、神様は喜びません。あなたたちがどのようにその知識を扱うかによって、神様は喜びます。その知識によって人々を育てるでしょうか。もしくは、その知識によって、人々を取り壊すでしょうか。」

パウロはその話をこのようにまとめます。

しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(3)

私たちはどのように人が神様を愛するかどうかわかるでしょうか。ヨハネは私たちに教えます。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。(第一ヨハネ4:21)

でも、コリント人たちはそうしていませんでした。彼らの知識によって、兄弟たちを育てずに、取り壊してしまいました。その結果は?

つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。(11)

だから、パウロは彼らに警告します。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(12)

そして、パウロは彼らがどのように知識を扱うべきか教えます。

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。(13)

あなたはどうですか。どのように自分の知識を扱っているでしょうか。自分自身を高ぶらせながら、兄弟たちと姉妹たちを取り壊すでしょうか。もしくは、彼らを育てるでしょうか。

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コリント人への手紙7:29ー31--私たちのいのちがはかないゆえに

私たちのいのちは、とてもはかないものです。

私の高校性の時代の友達で、亡くなった人もいます。

明日は、私たちに約束されていないものです。

イエス様はこの世に帰るかもしれません。

もしかしたら、私たちは車にひかれるかもしれません。

パウロは「時は短くなっています」と言いました。たぶん、パウロはコリント人の「迫っている危機」について話したけど、私たちもこの世に永遠まで生き続けないことを覚えていなくてはなりません。その真理は私たちの生き方を影響に与えるはずです。

パウロはこう書きました。

今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。(29)

その言葉はちょっと不思議です。文脈を見ると、パウロは「離婚しなさい」や「奉仕に集中するために、妻(または、夫)を無視しなさい」と意味しませんでした。

でも、私たちの人生は配偶者中心のものであるべきではありません。むしろ、夫婦は神様中心の人生、また御国中心の人生を送るべきです。

また、シングルの人たちは結婚活動中心の人生を送ってはなりません。むしろ先に神の御国を求めなくてはなりません。そして、神様のタイミングで、配偶者を与えてくださいます。

パウロは続けます。

泣いている人は泣いていないかのように。。。していなさい。(30)

私たちはみんな、いろんな苦しみを経験します。私たちの周りに、死や、いろんな悲劇を見ます。その時、泣いてもいいのです。それは健康的なことです。私たちにはその必要があります。でも一生泣いていてはいけません。むしろ、私たちは立ち上がって神様の仕事に戻らなくてはいけません。私たちが泣き続ける限り、過去に縛られてしまって、神様が私たちのために計画した未来を見ることが出来ません。

でも、パウロはさらに言います。

喜んでいる人は喜んでいないかのように。。。していなさい。(30)

その言葉はちょっと不思議に聞こえるかもしれないけど、時々、私たちは自分の幸せに夢中で、満足しすぎて、もはや先に進みません。そうすれば、違う意味で私たちは過去に縛られます。私たちは先に進まなくてはなりません。私たちは喜んでいるかもしれないけど、私たちの周りに苦心でいる人が多いです。彼らも喜びを与えてくださる方を知る必要があります。

買う人は所有していないかのようにしていなさい。世と関わる人は関わり過ぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。(30-31)

要するに、この世のものが一時的なものであることを覚えていなくてはなりません。私たちは天国に行くとき、自分のお金や持ち物を連れて行くことが出来ません。二つのものしか持っていくことが出来ません。それは、神様との関係と、ほかのクリスチャンとの関係です。だからそのことを覚えていて、生きましょう。この世の物に焦点を当てずに、神様と周りの人々に焦点を当てましょう。

あなたの人生は、はかないものです。どのようにあなたの時間を使っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一7:17-24--後悔

私たち皆は後悔を持っています。もちろん私も後悔を持っています。例えば、私は人々を傷つけたことがあるので、その過去を変えたいと思います。

また、私が後悔する決断もあります。例えば、私はずっと日本に来る考えと戦いました。もっと早くその決断を神様に委ねていたら、私は大学で日本語を専攻したり、英語を教える授業を受けたりしたでしょう。

でも、私は自分の過去を変えることが出来ません。過去を変える人は誰もいません。では、どうしたらいいでしょうか。

コリント人たちは同じ疑問に直面しました。ある人はクリスチャンになる前にノン・クリスチャンと結婚したけど、クリスチャンになった後、ノン・クリスチャンと結婚するべきではない、というパウロの教えを聞きました。だから彼らは「離婚した方がいいでしょうか」と訊きました。でもパウロはこう答えました。「そんな必要はない。相手があなたと一緒に住み続けたいと思うなら、離婚してはいけません。」

ほかの異邦人が、クリスチャンになる前にユダヤ教を信じたので、割礼を受けました。でも、クリスチャンになった後、彼らは「異邦人は割礼を受けてはだめです」というパウロの教えを聞きました。だから彼らは訊きました。「割礼の跡をなくした方がいいですか。」

でももう一度、パウロは答えました。「そんな必要はありません。」

ほかの人は、クリスチャンになる前、借金のために自分自身を奴隷として売ったけど、あとで後悔しました。でもパウロは彼らにこう言いました。「自分の自由を得られるなら、もちろんその自由を得てください。でも自由を得られないなら、心配しないでください。」

簡単に言うと、パウロはこう言いました。

それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。(20)

要するに、あなたの過去の決断によって、辛い状態になっていても、その後悔を思い詰めないで。あなたがその状態にいても、神様はあなたを用いることが出来ます。

多分、割礼や、奴隷になった後悔を思い詰める人はもういないでしょう。

でもノン・クリスチャンと結婚するクリスチャンはいます。神様は彼らに言います。「その結婚から逃げるな。あなたを通して、私はあなたの家族に触れるから。」

あるクリスチャンは、離婚して、別の人と再婚しました。もしくは、元夫か元妻は再婚したかもしれません。神様はその人に言います。「心配しないでください。むしろ、今の配偶者に仕えて、子供の世話をするべきです。また、周りの人にも、私のために触れなさい。」

ほかのクリスチャンは、自分の罪のために刑務所にいます。神様はその人に言います。「それは大丈夫です。もし仮釈放が出来たら、それは良いことです。でもできないなら、そのままで刑務所にいなさい。刑務所でも私はあなたを用いることが出来ます。」

簡単に言うと、あなたがどんな状態にいても、どんな過去の失敗があっても、神様はあなたを用いることが出来ます。だからパウロはこう言います。

ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。(17)

また、

兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(24)

だから自分の後悔で思い詰めないように。むしろ、神様が今言っていることに従いましょう。なぜなら、過去に起こったことがそんなに大切ではないから。

むしろ、今は、

重要なのは神の命令を守ることです。(19)

 

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コリント人への手紙第一7章ーー結婚を後回しにした方がいい?すぐに結婚した方がいい?

いろんな理由で、日本でも、アメリカでも、多くの人々は結婚を二十代の後半、三十代になるまで後回しにしています。

ある意味、それは良いかもしれません。私の友達の間で、19歳か20歳になって結婚した人がいましたけど、私にしてみると、それは若すぎると思います。(でも、その友達はまだ結婚を継続していますから、彼らにとっては早く結婚するのは良いことでした。)

とにかく、私たち皆は違うので、ある人にとって早く結婚するのは良いことだし、ほかの人にとっては、待った方がいいこともあります。この個所では、パウロはそう教えます。

コリント人の教会で、ある婚約者たちは、結婚した方がいいか、待った方がいいか、結婚する予定をやめた方がいいかどうか、疑問に思ったようです。

結婚した方がいいか、結婚を後回しにした方がいいかについて考える人には、パウロは三つの考えるべきことを教えます。

一つ目は、結婚に対するあなたの態度です。つまり、あなたには本当に結婚にコミットメントがあるでしょうか。もしかしたら、もう逃げ道を探しているでしょうか。あなたはもうこのように考えているでしょうか。「もし私たちの結婚がうまくいかないなら、離婚すればいい。」

もし逃げ道のある結婚が欲しいなら、結婚しない方がいいです。どうしてでしょうか。イエス様は結婚が末永いものだと教えましたから。パウロはこう書きました。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(10-11)

それはマタイ19:3-12に書かれたイエス様の言葉に関してのパウロの応用です。イエス様の弟子たちでも、その教えを聞いたとき、驚きました。彼らは、「それなら、結婚しない方がいいです。」と言いました。

もしあなたがこの弟子の態度を持っているなら、結婚しない方がいいです。あなたの態度が変わるまで、結婚を後回しにするべきです。もしあなたの態度が変わらないなら、結婚しない方がいいです。

また、もう一つのことを考えるべきです。それはあなたの状況です。コリント人たちの「差し迫っている危機」のゆえに、パウロは彼らが結婚を後回しにするべきだと言いました。パウロは説明します。

(この大変な状況にいる)結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。(28)

コリント人たちがどんな危機に直面したか分からないけど、もしかしたら、迫害に直面したのかもしれません。

でもとにかく、パウロの大幅な原則は、あなたの状況によって、結婚を後回しにした方がいい時もあると教えています。

たとえば、あなたの経済状況はあまりよくないかもしれません。もしあなたが経済的な不安定があれば、結婚はつらくなるかもしれません。多くの結婚は、経済的な問題によって壊れてしまいます。

もう一つの問題はあなたの感情的な重荷、また、あなたの精神的な重荷です。もしかしたら、あなたは元彼に虐待されたかもしれません。もしかしたら、お父さんに虐待されてかもしれません。そんな問題はあなたの結婚に影響を与えるでしょう。だからあなたの感情的な問題や、精神的な問題を乗り越えるまで、結婚を後回しにした方がいいかもしれません。

でももう一つのことを考えるべきです。ただ性的な誘惑を避けるだけのために結婚するのはあまりよくないけど、やっぱりたくさんの人々はその誘惑と戦います。だからパウロはこう書きました。

結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。(8-9)

つまり、あなたの彼や彼女に対する欲情が強すぎて、もう自制できないと思うなら、あなたの状況が理想的じゃなくても、結婚した方がいいということです。でもまだ自制出来るなら、あなたの大変な状況が良くなるまで、結婚を後回しにした方がいいです。

早すぎる結婚することはとても大変なことです。でも、もし結婚の逃げ道を捨てて、配偶者に対するコミットメントがあれば、神様の恵みによってあなたはどんな問題でも乗り越えることが出来ます。

だから結婚する前、最も大切な質問はこうです。「逃げ道を探せずに、結婚のコミットメントをもって、私自分自身を相手にささげるでしょうか。」

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コリント人たちの手紙第一7章ーーシングルの生活の方がいい?

この個所を読むと、パウロが結婚についてそんなに熱心ではないと結論をつけるのは簡単なことです。

パウロは決して、「結婚は素晴らしいものです。結婚した方がいいです。」と言いません。

むしろ、パウロはこのようなことを言いました。「結婚するなら、それは罪ではありません。」(28,36)

それは熱心な勧めではありませんね。

また、パウロは言います。

婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。(38)

私たちはパウロの言葉をどのように解釈するべきでしょうか。

結婚の良さを控えめに言うよりも、パウロはシングルの生活の益を強調したいと思ったのです。

パウロの言葉は、私たちの家族と友達がしばしばいうことに反対します。

「もうそろそろ結婚した方がいいんじゃない?もう結婚の年ごろでしょう。」

「あなたはとても素敵な人だよ。どうしてまだ結婚しないの?この人はどう?あの人はどう?」

でもパウロははっきり言います。「シングルの生活でいいよ。」

どうしてでしょうか。

独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。(32-35)

私の経験では、パウロの言葉は正しいです。シングルでいれば、既婚者よりも、主に仕えるのは簡単なことです。奉仕をするとき、私はいつも妻と娘のニーズを考慮しなくてはなりません。良かったのは、私の妻もクリスチャンで、私の奉仕を応援してくれます。それでも、私の時間のバランスに注意しなくてはなりません。妻との時間や、娘との時間と、奉仕の時間を考えるべきです。

シングルの人はそんなことを考えなくていいです。だからパウロによれば、人が結婚せずに、シングルの生活を続けることは神様からの賜物です。

どうやって、あなたがその賜物があるかどうかわかるでしょうか。

もし、シングルの生活を賜物と見なさないなら、たぶんそれはあなたの賜物じゃないでしょう。:)

でも、あなたがその賜物を持っても、待たなくても、神様は自分の栄光のためにあなたのシングル生活を用いることができます。あなたは神様のためにたくさんの人に触れて、この世に影響を与えることができます。私の知り合いの間で、たくさんの人がそうしていました。神様はある友達に後で配偶者を与えてくださいました。他の人は、シングルの生活に満足するようになりました。

だから、あなたがシングルなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、シングルの人として、あなたの時間を利用して、神様に仕えようと努めてください。また、神様が一番良いタイミングで、いい人をあなたに与えることを信じてください。

シングルとして、あなたはどのように自分の時間を利用しているでしょうか。

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コリント人への手紙第一7:10-16;39-40--結婚と離婚

7章では、パウロはいろんなトピックについて話すけど、前回の記事で、私は結婚について話したので、そのトッピクについて書き続けようと思います。

今日の個所では、パウロはイエス様の結婚の教えを新たに強調します。パウロはこう言いました。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(10-11)

パウロはパリサイ人に対するイエス様の言葉を参考しています。イエス様はこう言いました。

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され」ました。そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6)

また、

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」(8-9)

私は以前の記事でイエス様の言葉について話したので、この記事では話しません。でもパウロのポイントは、結婚が末永く続くものであるべきということです。だから私たちは、結婚をそのように考えるべきです。39節で、パウロはこう言います。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。(39)

もちろん、夫も妻が生きている間は妻に縛られています。だから私たちはできるだけ、その結婚を守ろうと努めなくてはなりません。

でも時々、相手は私たちをどうしても離婚したいと思います。その場合、私たちはどうするべきでしょうか。パウロはこう言います。

そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。

信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。

しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(12-16)

パウロの教えは分かりやすいと思うので、ちょっとだけ解説します。

最初に、パウロは「これを言うのは主ではなく私です。」と言ったとき、「ただ私の意見だから、気にいらないならその意見を無視してもいい」を意味したのではありません。

むしろ、パウロの言葉の意味は、イエス様が信者でない人は信者を離婚したいという場合について話したことがなかったということです。だからパウロはこう言いました。「イエス様はこのケースについて話していないので、イエス様が任命した使徒として私はどうすればいいか教えます。」

使徒として、パウロの言葉が権威をもっているので、その言葉に従わなくてはなりません。

だから、信者でない人がどうしてもあなたと離婚したいと思うなら、離婚してもいいです。神様はそれを許します。

でも、あなたの配偶者が信者でない人なら、必ず離婚しなくてはならないとは限りません。なぜなら、あなたのおかげで、神様の手はあなたの家族の上にありますから。神様はあなたを通して配偶者と子供たちに触れることが出来ます。

この個所では、「聖なるもの」とは、「救われる」を意味しません。むしろ、神様はその家族を見て、「これは私のものだ」と言って、自分の目的のためにその家族の中で働きます。

最後に、シングルに対するパウロの言葉に注意してください。つまり、結婚したいと思うなら、クリスチャンはクリスチャンと結婚しなくてはならないことです。39節で、パウロはこう言いました。

しかし、(女の人の)夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。(39)

もちろん、パウロは特に寡婦に話しているけど、その言葉はすべての独身に当てはめられます。主に属する人と結婚しなくてはいけません。

時々、クリスチャンはこう考えます。「その人と結婚した後、その人は救われるかもしれません。」

でもちょっと考えてみてください。パウロが言ったのは、信者でない人が離婚したいと思うなら、その人を離れて行かせなさいということです。なぜでしょうか。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(16)

その答えは何でしょうか。その人が未来に救われるかどうかわかりません。そのことに関して神様からの約束はありません。多くのクリスチャンはノン・クリスチャンと結婚して、後ですごく悩んでしまいます。クリスチャンと結婚しても、結婚は難しいのです。でも、夫婦の基本的な信じることが違ったら、結婚はさらに大変になります。だからそもそもそんな関係を避けた方が良いのだと思います。

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コリント人への手紙第一7:1-5ーー結婚とセックス

多くの人々はセックスの必要を強く感じます。たぶん、一つの理由は、人間が結婚して子供を作るために、神様がその欲望を人間の心に入れたからでしょう。

でも、前回の記事で私が言ったように、神様はセックスに制限をかけます。つまり、セックスは夫婦のためということです。

日本では、セックスレス夫婦の人数が増えているようです。いろんな記事はそのトッピクについて書いてあります。でもコリント人のクリスチャンたちも、結婚とセックスという質問があったらしいです。だから、彼らはパウロにどうすればいいか尋ねました。

パウロはこう答えました。

さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが。。。(1)

「男が女に触れないのは良いことだ」、つまり、「セックスしない方がいい」というコリント人たちがいたようです。

一方で、あるコリント人たちは性的な罪を犯しました。(5章)

でもその反面、あるコリント人たちはセックスしない方がいいと言いました。もちろん、クリスチャンにとってセックスが夫婦だけのためですので、彼らの意味は、「結婚しない方がいい」ということです。

パウロは独身の生活も良いことだと教えたけど(7ー8,32-35節)、パウロは彼らにこう言いました。

淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。(2)

つまり、性的な欲望がとても強いので、結婚しないと、人が性的な罪に落ちる可能性が高いということです。そして、私が以前言ったように、神様の御心が人間が結婚して子供を作ることなので、神様はその強い欲望を人々に与えたのです。

実は、結婚は神様との関係の描写です。私たちたちはキリストと結ばれます。キリストは花婿みたいだし、私たちは花嫁みたいです。そして、その結婚によって、私たちはイエス様に対する愛をもって、義の実をを結びます。

とにかく、パウロが言ったのは、夫婦が結婚してから、配偶者とのセックスを楽しんでもいいということです。さらに、パウロは、彼らが定期的にそうするべきだと言いました。パウロはこう言いました。

夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。(3-5)

パウロはその言葉で、私たちが覚えていなくてはならない結婚の原則を教えます。

一つ目は、結婚すると、あなたのからだはただ自分のものではないことです。あなたはあなたの配偶者に属するし、あなたの配偶者はあなたに属するのです。だからパウロは「互いに相手を拒んではいけない」と言います。

パウロによれば、あなたたちが祈りに専念するために、ちょっと遠慮してもいいけど、それでも相手の合意が必要です。

でもパウロは、夫婦がもう一度一緒になるべきだと教えます。どうしてでしょうか。そうしないと、サタンはすぐにあなたたちを性的な罪で誘惑するから。それは特に男性の問題だけど、もちろん女性も誘惑されます。

でも多くの夫婦はその指示に従わないので、その結婚は壊れてしまいす。彼ら結婚の外で、自分の性的なニーズを満たしてしまって、その結婚を壊したり、相手を傷つけたり、子供をも傷つけたりします。

そうしないで下さい。不倫せずに、自分の配偶者を通して、その性的な満足と幸せを求めましょう。

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コリント人への手紙第一6:13-20--どうして性的な罪がそんなに悪いか

もちろん、すべての罪は悪いのです。でもパウロは性的な罪が特に悪いと言います。特にクリスチャンにとっての性的な罪は悪いと言います。

パウロは言います。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。(15a)

パウロはさらに説明します。

しかし、主と交わる者(つまり、クリスチャン)は、主と一つの霊になるのです。(17)

また、

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり(ます)(19a)

でも、私たちは遊女と寝ると、どうなるでしょうか。パウロはこう言います。

それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。(16)

要するに、神様がセックスを発明した理由は、単に人々が子供を作り、また、遊ぶわけではありません。その理由は、夫と妻は一体となることです。セックスるするとき、その人と肉体的な一致だけではなく、感情的な一致を作ります。あなたが遊女と寝るとき、そんな一致を作ります。それを考慮して、パウロはとても見苦しい絵を描きます。

それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。(15b)

私はパウロのポイントをさらに説明する必要がないと思います。

でも、遊女との罪だけではなく、すべての性的な罪が悪いのです。「淫らな行い」、また、「不品行」というは、何でしょうか。それは夫と妻の間以外のセックスです。夫と妻の間のセックスは神様に祝福されるものです。ほかのセックスは神様に呪われます。(9)

なぜ性的な罪はほかの罪と違うでしょうか。性的な罪は独特な方法で私たちに影響を与えるから。その罪によって、私たち自身が相手と結ばれてしまいます。だからパウロはこう言います。

人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(18)

多分、多くの人々はパウロの言葉が分かるでしょう。でも覚えていてください。私たちのからだは、キリストのからだの一部です。だから、遊女と寝ると、まるで私たちがイエス様をその遊女とを結んでいるかのようです。私たちがほかの人の配偶者と寝ると、まるでキリストはその罪に参加するかのようです。彼や彼女と寝ると、まるでイエス様がその罪に参加するかのようです。それはとてもひどい考えでしょう。だからパウロはこう言います。

淫らな行いを避けなさい。。。あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(18-20)

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コリント人への手紙第一6:12-20-キリストにある自由に関する間違っている考え方

パウロの書簡の中で、一つのテーマは、私たちが律法から自由されていることです。私たちは律法の下にはなく、恵みの下にあるのです。でも現代の人たちと同じく、パウロの時代の人々はその教えを曲げました。

コリント人たちはあえて罪を犯して、互いに傷つけ合ったので、パウロは彼らを叱責しました。パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(9-10)

コリント人たちはどのように反応したでしょうか。彼らはこう言いました。「でもね、パウロ。あなたは、「すべてのことが私には許されている」と言ったでしょう。だから罪を犯してもいいんじゃないですか?やっぱりこれは私の人生でしょう?」

でも、パウロは答えました。「すべてのことが許されているかもしれないけど、すべてが益になるわけではありません。」(12)

8章では、私は一つの例を見ます。偶像にささげた食べ物を食べるのは罪ではないけど、あなたの兄弟がそれを見てきっと躓いてしまうことを知っているなら、あなたはそんな食べ物を食べてはいけません。あなたがその食べ物を食べることは、兄弟には益がないからです。

パウロは続けます。「すべてのことがあなたに許されているけど、あなたはどんなことにも支配されてはいけません。特に、罪に支配されてはいけません。」(12)

ローマ人への手紙で、パウロはさらに説明します。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ人への手紙6:16)

多くの人は、最初は罪を犯すことを選ぶけど、結局その罪の奴隷になってしまいます。飽食は一つの例です。ポルノはもう一つの例です。人々はあえてその罪に耽るけど、自分の行動をコントロールできなくなったと急に分かるようになります。

お医者さんが彼らに「体重を減らさなくてはならない。そうしないと、必ず心臓発作を起こすでしょう」と警告しても、彼らは食生活を変えることが出来ません。

または、結婚関係が大変になっても、ポルノをやめられません。

あるコリント人たちはこう言いました。「でも、神様の御心は私たちが食べることです。だから私たちに胃袋を与えてくださいました。また、神様は私たちを性的な被造物として造りました。そのニーズを満たすように私たちが造られました。どうしていろんな制限が必要でしょうか。」

でも、パウロが答えたのは、私たちがもちろん胃袋を持っているし、性的な被造物だけど、そのニーズを満たすのが私たちの主な目的ではないことです。私たちは単に自分のために生きるために造られませんでした。私たちは自分自身を喜ばせるためだけに造られませんでした。パウロはこう言いました。

「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。(13a)

ようするに、食べ物や腹は永遠のものではなく、一時的なものです。だから、私たちは単に自分の腹を満たすために造られませんでした。

パウロは続けました。

からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。(13b)

つまり、罪を犯すためではなく、むしろ主を喜ばせるために私たちが造られたのです。私たちは、主の宮になるために造られました。そして、私たちを買うためにイエス様は十字架で大きい代価を支払いました。

パウロはこう書きました。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(19-20)

キリストにある自由は、私たちが自分のために生き、罪に耽ることではありません。むしろ、キリストにある自由は、私たちを滅ぼしていた罪から自由にされることです。だから、私たちは神様からの罰を恐れる必要がありません。むしろ、神様が私たちを愛して、聖霊様が私たちのうちに住んでおられることを知って、歩むことが出来ます。そして、私たちが造られた目的を満たします。それは、私たちは神様を愛し、敬い、栄光をささげることです。

あなたはどうですか。あなたはどのように自分の自由を用いるでしょうか。

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コリント人への手紙第一6:1-11--どのように私たちは自分自身を世に表すか

訴訟はアメリカでは日常茶飯事に行われています。どんなに馬鹿なクレームをもっても、人々は相手を訴えます。

アメリカと比べると、日本には訴訟がそんなにないけど、相手を訴える人もいます。

コリントのクリスチャンたちの間でも、たくさんの訴訟があったらしいです。パウロはそれを見て、二つのことに困惑しました。

一つ目は、兄弟たちや姉妹たちは相手にあえて罪を犯すことです。二つ目は、傷ついた兄弟か姉妹が相手を訴えることです。

さらに、傷ついた人自身は毒を以て毒を制して、相手に悪いことをしてしまいました。だから、パウロは彼らにこう言いました。

それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をするもの、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することが出来ません。(8-10)

簡単に言うと、自分自身をだまさないでいなさい、ということです。あなたはクリスチャンを自称するかもしれないけど、悔い改めずに罪を犯すと、神の国を相続することが出来ません。

ある人は、パウロが救いを失った人について話していると思います。でも、そんな人がもともとクリスチャンではなかったでしょう。

でも、パウロはコリント人たちが本当にクリスチャンであることを前提にします。だからパウロはこう言いました。

あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(11)

つまり、「あなたたちは神様に清められて、神様のために聖別されました。あなたたちは違う人になったでしょう。どうしてあなたの兄弟たちと姉妹たちをこのように扱うでしょうか」ということです。

そして、クリスチャンの間の訴訟に関して、パウロはこう言いました。「ある日、あなたたちは世界の人々と天使たちをも裁きます。どうしてあなたたちは、こんな些細な問題に対処できないでしょうか。」(2-5)

でも、パウロが本当に怒ったのは、コリント人たちが自分の恥ずかしいことをノン・クリスチャンの前に出すことです。だから、ノン・クリスチャンはそれを見て、こう訊きました。「クリスチャンとは、そんなものでしょうか。私たちと同じです。彼らも互いに傷つけ合ったりするでしょう。」

要するに、彼らの罪は教会のしみになりました。

だからパウロはこう言いました。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。(7)

コリント人たちは二つの方法で、敗北しました。

一つ目は、彼らはサタンと戦わずに、互いに戦い合ったことです。

二つ目は、彼らの評判が汚されたことです。

イエス様はこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

でも、教会で私たちはそのようにふるまっているでしょうか。もしくは私たちが互いに戦い合って、サタンは勝利を得ているでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一5章ーー兄弟たちと姉妹たちは厚かましくて罪を犯すとき

前回の記事では、私は、兄弟たちと姉妹たちが厚かましく罪を犯すと、教会がそんな態度を寛容に許すべきではないと言いました。

でも、二つの注意事項があります。

一つ目は、パウロが、私たちが罪と戦っている人を避けるべきだと言っていないということです。キーワードは、「戦っている」です。

私たち皆は自分の罪と戦っています。私たち皆には、毎日毎日戦わなくてはならない罪があります。でも私たちがどんなに戦っても、ある罪は粘ります。でも、自分の罪と戦うことと、あえて罪を犯すことは全然違うことです。

クリスチャンにとっては、罪との戦いは大変なことです。あなたは自分の行為が悪いと認めて、その罪を悩んでいます。心の中で、あなたは本当にその罪を捨てたいと思います。そして、毎日、あなたは神様の前に来て、その罪を克服する力のために祈ります。自分の罪によって本当に苦しんでいる場合、あなたがほかのクリスチャンの祈りとサポートを頼んだ方がいいと思います。そして、罪に落ちたら、すぐに悔い改めなくてはなりません。

でも、あえて罪を犯すのは、あなた自分の罪を自慢し、全然悔い改めないことです。そんな人はこう言います。「これは私の性格です。私は変わらないので、あなたは私をありのままで受け入れなくてはなりません。」

もし、ほかのクリスチャンがみ言葉を通して、その人を訓戒しようとすると、その人は自分自身の行為を正当化しようとします。

コリントの教会の兄弟はそのようにふるまいました。彼は罪と戦っていませんでした。彼はあえて罪を犯していました。そしてパウロは、そんな人と交際してはいけないと言いました。そんな人の罪を無視して、その人を受け入れると、その人の罪はパン種のように教会に広がりますから。

もう一つの注意事項があります。それは、その人を懲らしめるときの私たちの態度です。パウロはこう言いました。「その人の罪の故、あなたたちは悲しむべきだったでしょう。」(2)

その人に対する態度は、傲慢ではなく、悲しみです。私たちの願いは、彼らが悔い改めることであるべきです。あえて罪を犯すクリスチャンを教会から追い出す理由は二つあります。一つ目は、その罪が教会に広がらないということです。でも二つ目は、その人が悔い改めることです。

パウロはこう言いました。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(5)

「その人をサタンに引き渡しなさい。」

それはとても厳しいい言葉です。でもパウロの意味は、「その人が罪をあえて犯すので、この世に追い出しなさい。その人が教会の安全から離れさせて、サタンが攻撃するように許しなさい。」ということです。

どうして、そんなことを許すでしょうか。サタンがその人を滅ぼすためでしょうか。

違います。

私たちの希望は、その人が放蕩息子のように自分の罪の惨めさが分かって、悔い改めることです。その結果は、彼の罪深い心が死ぬので、イエス様がこの世に戻ると、その人は救われることです。

簡単に言うと、その人に対する私たちの態度は愛であるべきです。でも愛とは、あえて罪を犯す人を受け入れることではありません。愛とは、その罪の故に悲しんで、その人をこの世に追い出して、悔い改めを待つことです。

罪の深刻さを忘れないでください。イエス様が罪のために死ぬほどに、罪は深刻なことです。イエス様の死が分かっていながら、罪をあえて犯すのは、「神の御子を踏みつけること」と「恵みの御霊を侮る」ということです。(へブル人への手紙10:29)

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コリント人への手紙第一5章ーー罪を大目に見て、誇る?

以前の記事で、私は「寛容」ということについて話しました。「寛容」とは、アメリカ人にとっては合言葉みたいなものです。

もちろん、ある意味で、寛容はとてもいいことです。つまり、相手と違う意見を持っているのに、まだ互いに尊敬し合ったり、いい関係を持ったりするなら、それはとてもいいことです。

私たちクリスチャンたちはノン・クリスチャンに、もちろん寛容を示さなくてはなりません。彼らが私たちのように信じないので、私たちのようにふるまうことを期待できません。そのことを覚えていながら、彼らを愛し、彼らと時間を過ごし、福音を伝えたり、彼らのために祈るべきです。

イエス様はそうしました。イエス様は「罪びとの友達」でした。実は、宗教的な人たちが気を悪くするほど、イエス様は罪人たちと時間を過ごしました。

それでも、パウロははっきりと言います。自分がクリスチャンだと主張する人が厚かましく罪を犯すと、私たちはそんなことを寛容に許してはいけませんん。でも、ある教会は、「愛」と「受け入れ」の名によって、そんなふるまいを寛容に受け入れてしまいます。コリント人たちはそうしていたようです。

ある人は、自分がクリスチャンだと主張したけど、自分の母と寝ていました。もしかしたら、それは実の母ではなく、義理のお母さんかもしれませんでした。それでも、一般のコリント人たちはそんな関係を受け入れませんでした。

でもコリント人の教会は、この態度を持っていたようです。「私たちは愛に満ちた教会です。私たちはすぐに人を許して、受け入れます。私たちはとても寛容な教会なので、義理のお母さんと寝ていても、その人を受け入れます。」

でもパウロはそれを聞いて、とても仰天しました。彼はこう言いました。

あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。(6-8)

聖書では、パン種は罪の比喩です。そういうわけで、過ぎ越し祭りの時、ユダヤ人たちはパン種のないパンを食べました。何百年も後、過ぎ越しの祭りの時に、イエス様はパンを裂いて、「これは私の体」だと言いました。そのパンはイエス様の罪のない人生を表しました。イエス様が罪を犯していなかったのに、私たちのために死んでくださいました。

とにかく、パウロはコリント人たちにこう言いました。もしその罪が続くことを許すと、その罪は教会に広がってしまいます。もし、このクリスチャンが厚かましくて罪を犯すのに、あなたたちがその振る舞いを許すなら、ほかの人はその人の模範に従い始めます。だから、その悪意と邪悪のパン種を捨てなさい。誠実と真実に満ちる教会になりなさい。

パウロはさらに言いました。

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。(11)

それは厳しい言葉です。多くの教会は今その言葉を愛の言葉と見なしません。でも、パウロの言葉は本当に明らかです。

しかし、注意してください。パウロはノン・クリスチャンの罪人と罪を厚かましく犯すクリスチャンを区別します。パウロはこう言いました。

外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。(それは違います。)あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。(もちろん。)(12)

そしてパウロはこう言います。

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

教会の人々は罪人を愛するべきでしょうか。もちろんです。でも、愛の名によって、クリスチャンの厚かましい罪を許すべきでしょうか。それはダメです。

それでも、明日、私はもっと説明することがあると思います。お楽しみに。

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コリント人への手紙第一4:14-21--私たちがついていく方

私たちが人生を送るにつれて、私たちはいろんな人を見上げます。たとえば、私たちは両親や先生や、コーチや、牧師などを見上げます。

多くの場合、彼らは良い模範です。でもパウロは、私たちが誰についていくかに注意するべきだと警告します。

クリスチャンの世界でも、多くの人々の言葉が良いに聞こえます。でも、パウロはこう言いました。

神の国はことばではなく、力にあるのです。(20)

そして、パウロがコリント人たちにこう言いました。

主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。(19)

私たちがついていくリーダーたちに関して、「彼らはどんな力を持っているか」と訊くべきです。彼らの力は神様から来るでしょうか。もしかしたら、彼らの力は違うところから来るでしょうか。彼らは自分のカリスマに頼るでしょうか。自分お金に頼るでしょうか。自分の権力に頼るでしょうか。もしくは、彼らの力はサタンから来るでしょうか。

私たちはどのように彼らの力の源を見極めるでしょうか。彼らの実によって見極められます。

イエス様はこう言いました。

偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、裏側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:15-16)

私たちはどんな実を探すべきでしょうか。それは彼らの教えと行為です。パウロは、自分とテモテについて話した時、同じ基準を使いました。彼はこう言いました。

そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えている通りに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(17)

そんな人を見つければ、彼らの模範に従うべきです。だからパウロは、こう言いました。

ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。(16)

でも、彼らの実が腐っているなら、私たちは彼らを避けるべきです。

あなたはどうですか。あなたは誰についていくでしょうか。

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コリント人への手紙第一4:6-13--プライドについての警告

C.S.ルイスというクリスチャンの著者は、プライドを「最大の罪」と呼びました。どうしてでしょうか。なぜなら、プライドは神様と私たちの間に壁を建てるし、私たちと周りの人たちの間に壁を建てるから。

エデンの話で、私たちはその問題を見ることが出来ます。エバのプライドによって、神様のようになりたいと思って、罪に落ちてしまいました。プライドによって、サタンも罪に落ちたようです。

今日の個所では、私たちが見たのは、プライドがコリントの教会を引き裂いていたことです。さらに、プライドはパウロとコリント人の間の壁になりました。

4ー13節と18ー19節によれば、コリント人たちはパウロのことを見下したようです。自分の持ち物や、知識によって、悦に入っていたので、パウロの弱さや苦しみを見た時、彼らはパウロを軽蔑しました。

でも、パウロは彼らにこう言いました。

それは、私たちの例から「書かれていることを超えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。(6)

「書かれていることを超えない」とは、どういう意味でしょうか。

答えがはっきりしないけど、たぶんパウロは、キリストにあって私たちの立場に関する教えについて話しているのだと思います。

つまり、私たちの救いは私たちの身分や行いによらないことです。むしろ、私たちの救いは神様の恵みに基づいています。もし私たちは神様の恵みによって救われた者だと覚えていれば、ほかの人たちを軽蔑することはありません。また、私たちはリーダーたちを比べたりしません。

パウロはその真理をはっきりして教えて、コリント人たちに思い出させました。

いったい誰が、あなたをほかの人よりも優れていると認めるのですか。あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(7)

その最初の答えはちょっと微妙です。もしかしたら、パウロは「私は偉い」という態度を批判しているかもしれない。それがパウロの意図なら、その答えは、「あなたをほかの人よりも優れていると認める人がだれもいません」。でも、もしかしたら、パウロのポイントは、「もしあなたが本当に優れている人なら、神様は恵みによってあなたにその立場を与えてくださったのです。」

最後の答えははっきりしています。2番目の答えは、「何も」です。要するに、あなたがもらわなかったものは何もありません。

そして、3番目の答えは「あなたには誇る理由がありません。」

その答えを考えると、私たちは謙遜な態度を持っていなくてはなりません。

でも多くの場合、私たちはそのように考えません。むしろ、私たちのプライドによって、私たちと神様の間に壁を建てるし、私たちと周りの人たちの間に壁を建ててしまいます。

私たちが神様の恵みを実感したら、私たちの考え方は全然違うでしょう。どれだけ、私たちの神様との関係や、配偶者との関係や、教会の人との関係や、ほかの関係は良くなるでしょう。

あなたはどうですか。あなたのプライドによって、どんな壁を建てているでしょうか。

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コリント人への手紙第一4:1-5--忠実だと認められること

使徒ヤコブはこう書きました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

私は聖書を教える立場なので、私にとってそれはちょと恐ろしい言葉です。神様は私にみ言葉を与えたし、そのみ言葉を教える賜物を私に委ねました。だからパウロの言葉も、私の心を打ちます。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(4:2)

でも、私たち皆が神様からゆだねられたものを持っています。神様は私たちにいろんな資源や、賜物や、才能を委ねました。そして、神様は、私たちがその物を忠実に使うことを期待します。私たちがそうしないと、私たちは神様に責任を問われます。

神様は私たちの裁判官なので、私たちはほかの人よりも神様を喜ばせようとしなくてはなりません。私たちは最終的に牧師や、教会の人や、ほかの人ではなく、神様だけを喜ばせなくてはなりません。

だから、私たちはいつも自分の心を探らなくてはなりません。私たちの動機は何でしょうか。私たちは正しい動機を持って、神様に仕えているでしょうか。私にも自分の動機について疑いがあります。裁きの日にキリストが私に何を言うかちょっと恐れます。イエス様は何を言うでしょうか。

パウロにはやましいことは少しもありませんでしたけど、パウロも自分の動機に関して、ちょっと疑いがありました。彼はこう言いました。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(3-5)

たぶんパウロの要点の一つは、私たちが自分の心をプライドから守らなくてはならないことです。あなたの動機は正しいと思うかもしれないけど、あなたの自己評価が正しいとは限りません。

預言者エレミヤはこう書きました。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ書17:9)

主はこのように反応しました。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:10)

だから何をしても、自分の心を探りましょう。また、主があなたの心を探るように祈りましょう。主が私たちの動機を現すように祈りましょう。そうすれば、私たちは謙遜な態度を保つし、私たちに委ねられたものを忠実に使います。

あなたはどうですか。神様からゆだねられたものを忠実に使っているでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一3:5-9--主に仕えるときの私たちの態度

ある程度、私は前回のブログのことを繰り返します。でも、今回はある物事を特に強調したいと思います。

一つ目は、神様と働くのは私たちの特権ということです。パウロはこう言いました。

私たちは神のために働く同労者であります。(9)

聖書の脚注を参考すると、別訳を見ることが出来ます。

「私たちは神の協力者。」

それをちょっと考えてみてください。神様は実際私たちの助けを必要としません。神様は一人で自分の仕事をすることができます。でも、神様は私たちを用いることを選びます。神様は私たちにその仕事に参加するように招待します。それは本当に驚くべきことです。

神様の私たちを救った目的は、私たちがただ座って神様の恵みを楽しむことではありません。神様は、私たちが御国で活躍することを望みます。だから、神様は私たちを招きます。「私の仕事に参加しませんか。一緒に働きましょう。」

でも二つ目のポイントは、神様が私たちを招く目的が私たちの栄光ではないことです。パウロはこう言いました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。(5)

しもべは周りの人々の注意を引こうとしません。もっとも良いしもべは、人から気づかれません。それでも、その人はやらなくてはならないことを忠実にします。そして、日が終わると、その人はこう言います。

私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです。(ルカ17:10)

この世の主人はしもべを評価しないかもしれないし、見下すかもしれないけど、神様は私たちを協力者と見なします。そして神様は私たちと共に働きます。

なぜなら、神様が私たちの人生の中で働かず、また私たちを通して働かないなら、私たちは何も達成できませんから。だからパウロはこう書きました。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(6)

そういうわけで、私たちには誇る余裕がありません。パウロは続けます。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(7)

最後に覚えていなくてはならないのは、神様の仕事に参加する人々は教会のリーダーたちの労働者ではないことです。彼らは神様の畑、神の建物です。(9)

多くの人々は、ミニストリーの縄張りを作ります。もし私たちが同じミニストリーをしているなら、それが自分の縄張りとみなします。また、そのミニストリーで働く人を自分の労働者であると思い始めます。

でも主はそれぞれの人々に仕事を指名します。また、主はいつも人々を仕事に参加するように招くから、その人々が参加し始めると、ほかの人の責任は変わるかもしれません。そして、それは御国の成長のためです。

でもイエス様がほかのクリスチャンを呼ぶとき、あるクリスチャンは怒ります。なぜなら、その新しい人々は彼らの縄張りを荒らしているから。そして、相手がもっと才能があるなら、彼らは嫉妬してしまいます。

でも覚えていてください。すべてのクリスチャンはキリストの体の中で、自分の役割を持っています。神様はそれぞれのクリスチャンたちに役割を与えてくださいました。私たちはもちろん神様と共に働くけど、ほかのクリスチャンたちと共にも働きます。だから、縄張り意識と嫉妬を捨てましょう。なぜなら、教会は神様の畑、神様の建物ですから。

でも中でも、私たちの神様との関係に焦点を当てましょう。神様が自分の仕事に参加するように私たちを招く理由は、私たちが神様と時間をもっと過ごすことです。そうすれば、私たちは喜びを見つけます。

あなたが神様の仕事をするとき、どんな態度を持っているでしょうか。

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コリント人の手紙第一3:5-23--何の原料で教会を建てるでしょうか。

今日の個所では、パウロは、私たちがどのように教会を建てているかについて話します。そしてパウロは、私たちがどのように教会を建てるかに注意しなくてはならないと言います。

だから最初にパウロは教会の基礎について話します。もちろん、その基礎はキリストです。(11)

でも私たちは何の原料で、その基礎の上に教会を建てるでしょうか。それは牧師のカリスマでしょうか。または、ねたみでしょうか。もしくは、蔭口でしょうか。または、プライドでしょうか。

牧師のカリスマは悪いことではないけど、それは安定的な原料ではありません。

でもそのほかのものはどうですか。それらは教会を壊してしまいます。だから教会のメンバーたちそれぞれは、牧師でも最も新しいメンバーでも、自分の役割を果たしている間に、自分自身に訊くべきです。「私は何の原料で、この教会を建てようとしているでしょうか。」

私たちが使っている原料によって、私たちは裁かれます。

パウロはこう言いました。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(12-15)

自分の役割をちゃんと果たさないなら、私たちは地獄には行かないけど、自分の報いを失ってしまいます。だからある人は天国に行くけど、彼らの成果は全部なくなります。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの心は神様の目に正しくなかったからです。彼らはねたみやプライドに満ちた心を持っていました。そんな態度によって教会の分裂が出てきたり、教会が破壊されたりします。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。(16-17)

パウロが言ったのは、あなたがたクリスチャンたちは神様の宮ということです。言い換えれば、教会は神様の宮です。もし私たちの行動によって、教会が滅びるなら、神様は私たちを裁きます。私たちのプライドや、ねたみによって教会が壊れたら、私たちは神様に責任を問われます。

だからパウロは、「そんなものを捨てなさい」と言います。プライドやねたみや分裂に至る知恵を捨てなさい。むしろ、十字架の「愚かさ」を抱きましょう。十字架の愚かさは、私たちに謙遜な心、また感謝深い心に至ります。そんな心を持つなら、私たちが互いに受け入れ合う態度に至ります。

あなたはどうですか。あなたが牧師でも、教会の最も新しいメンバーでも、あなたは教会を建てる役割を持っています。何の原料で教会を建てているでしょうか。

 

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コリント人への手紙3:1-4--幼子

2章では、パウロは「成熟したクリスチャンたち」や「御霊を受けている人」について話します。この場合、「御霊を受けている人」は「霊的な人」というニュアンスがあります。つまり、聖霊様を受けているだけではなく、その人は聖霊様の導きに従うことです。

でもパウロは、コリント人たちを「成熟したクリスチャン」や「聖霊様の導きに従ているクリスチャン」と呼ぶことが出来ませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私は、あなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。(1-4)

それはとても厳しい言葉です。でも、パウロはあなたを見れば、何を言うでしょうか。もしイエス様はあなたを見れば、何を言うでしょうか。

私の言葉を誤解しないでください。もしあなたは最近クリスチャンになったばかりのなら、私はあなたについて話していません。もちろん、あなたが赤ちゃんのクリスチャンだから、いろんな成長しなくてはならないところがあるでしょう。でも、赤ちゃんが決して成長しないなら、何か深刻な問題があります。

もし私の10歳の娘がまだ哺乳瓶からミルクを飲んでいるなら、それはおかしいでしょう。赤ちゃんの時にそれは可愛いけど、10歳の子にはふさわしくありません。もし、彼女が歩かずに、まだはいはいしているなら、それはおかしいでしょう。もし、彼女がまだ赤ちゃん言葉だけを言うなら、それはおかしいでしょう。

でも、多くのクリスチャンたちはまだ幼子です。彼らは全然成長しませんから。

つまり、彼らはまだ「肉に属する人」ということです。そんな人はまだノン・クリスチャンのように生き続けます。コリント人たちの場合、彼らの心はねたみに満ちて、いつもケンカしていました。彼らはプライドをもって、彼らのリーダーたちを比べて、ほかのクリスチャンたちを見下しました。だから、彼らの教会は引き裂かれていました。

現代でも、どれだけ教会が同じ理由で引き裂かれているでしょうか。どれだけ、その問題のせいで、多くの人々は教会をやめるでしょうか。それは未成熟の兆候です。

もしあなたの心はそんなものに満ちているなら、どのように成長することが出来るでしょうか。あなたは根本的なことに戻らなくてはなりません。つまり、あなたは福音のミルクをもう一度飲まなくてはなりません。そのミルクは何ですか。そのミルクに何の真理が入っているでしょうか。

それは、神様はあなたを愛していることです。あなたの身分のためではなく、あなたの行いのためではなく、神様の性格のため、神様はあなたを愛しています。あなたの罪のために死ぬようにイエス様をこの世に送ったほどに、神様はあなたを愛していました。

どいうして私たちはプライドを持っているでしょうか。どうして自分自身をほかの人と比べるでしょうか。どうして、私たちは相手をねたんで、喧嘩するでしょうか。なぜなら、その神様があなたを愛しているという真理をまだ実感しないから。

もし私たちは神様の愛を本当に知っているなら、ほかの人の私たちに対する意見を気にしません。

相手をねたまないし、自分自身を相手と比べません。なぜなら、神様が私たちをありのままで受け入れるから。

さらに、私たちはプライドを捨てます。なぜなら、私たちが自慢することがないと分かるから。私たちが持っているもののすべては、神様から来ました。もし、私たちがその祝福のために働かずに、むしろ、私たちがただでその祝福をもらったら、自慢する余裕がありません。

あなたはどうですか。その真理が身に染みたでしょうか。

私たちがこの世界の考え方に従わないように。私たちが幼子にならないように。むしろその真理を飲み込みましょう。そうすれば、私たちは成長して、神様が望んむ通りになります。

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コリント人への手紙2:6-16--神様の思いを知ること

目に見えない神が自分自身を私たちに現わさないなら、私たちはその神について何も知らないでしょう。さらに、その神が自分自身を私たちに現しても、私たちに理解できる心を与えてくださらないなら、私たちにはその啓示が分からないでしょう。

それは救いと恵みの不思議さの一つです。私たちに神様が見えないけど、神様は自分自身を現してくださいました。そして、私たちが自分の知恵で神様が何を現したか把握できなかったけど、神様は聖霊様を通して私たちにその理解を与えてくださいました。

この個所で、私たちはその真理を見ることが出来ます。

パウロはこう訊きました。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(11)

結婚する前、私は婚約者にこう言いました。「私はあなたの思いを読み取ることが出来ません。だから、気になっていることがあれば、私に教えてください。」

人々の思いを読み取るのはとても難しいことです。彼らはいったい何を思っているでしょうか。何を感じているでしょうか。何を計画しているでしょうか。

もし私たちに見える人々の思いを読み取れないなら、どうやって、目に見えない神の思いを読み取ることが出来るでしょうか。

自分の知恵によって、人々は神様とその計画が理解できないでしょう。7ー8節で、パウロは一つの例を与えます。それは、神様の救いの計画です。神様はもともと何をするか分かったけど、人々はその計画を完全に理解できませんでした。

神様はユダヤ人たちに儀式や預言者の言葉を通して、救いの描写を与えてくださいました。でも、彼らはその描写を把握することが出来ませんでした。だからパウロはこう言いました。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(8)

大祭司であったカヤパでも、その計画を把握することが出来ませんでした。皮肉なことだけど、カヤパは自分の言葉の意義を把握することが出来ませんでした。彼はイエス様についてこう言いました。

一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。(ヨハネの福音書11:50)

ヨハネは後でカヤパの言葉を解説しました。

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。ヨハネの福音書11:51-52)

神様がカヤパを通して預言するのは、とても不思議なことです。でも、パウロの言葉は完全にカヤパを描写します。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(14)

カヤパは大祭司だったけど、誰かがイエス様が人々の罪のために死ななくてはならないと伝えていたら、カヤパは、その人が頭がおかしいと思ったでしょう。どうしてでしょうか。なぜなら、聖霊様はカヤパのうちに住んでおられなかったからです。

でも、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。だからパウロはこう言いました。

しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。(9-10)

また、

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(12)

また、

「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。(16)

私たちはすべてのことが分かるでしょうか。もちろんそうではありません。私たちがはっきり見えないことがまだいっぱいあります。神様は私たちの救いをよく現したけど、救いも神秘的なものです。でも神様に近づいて、霊的に成長するにつれて、神様は霊的な真理を教え、さらにいろんなことを現してくださいます。(13)

だからこう祈りましょう。「聖霊様、私があなたを知るように、また、あなたが何を整えてくださったことを知るように、私の心の目と耳を開いてください。」

そのように祈れば、聖霊様は必ず自分自身を現してくださいます。

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コリント人への手紙2:1-5--力を持って、話すこと

私はしばしば教会で話すし、もちろんこのブログも書くので、この個所は私にとってとても大切です。

パウロはこう書きました。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(1-5)

もし牧師や、バイブルスタディーのリーダーや、日曜学校の先生として聖書を教えているなら、この個所を暗記して、メッセージを準備するたび、またメッセージをするたび、この個所の言葉を噛み締めるべきだと思います。

正直に言うと、私もこの個所をもっと復習するべきなのです。

私は日曜日にいいメッセージを伝えようと思います。私のメッセージがわかりやすいものであるようにと思います。

でも、私が覚えていなくてはならないことがあります。私の言葉と知恵によって人々に影響に与えることができるかもしれないけど、私の力で人を変えようとするのは、限界があります。どうしてでしょうか。なぜなら、私の知恵と説得力は、とても限定されているものだからです。

さらに、私は人々に自分自身を変える力を与えることができません。彼らは私の言葉を聞くとき、同意するかもしれません。

彼らは、「私が敵を愛するべきだと同意します。相手を許すべきだと同意します。罪を捨てて、義を着るべきだと同意します。」と言うかもしれません。

でも、神様が彼らの心の中で働かないなら、何も変わらないでしょう。

パウロが分かったのは、一つのものだけが人を変えることができることです。それは十字架のメッセージからの神様の力です。十字架のイエス様の働きこそによって、私たちは神様との関係ができます。イエス様の働きこそによって、私たちの神様に対する反抗的な心が無くなって、新しい心をもらいました。イエス様の働きこそによって、私たちは古い人生を捨てることができて、本当の命を知ります。

だから、パウロはこう言いました。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。(2)

あなたはどうですか。あなたは教会でどんなメッセージを聞くでしょうか。そのメッセージは十字架中心でしょうか。もしかしたら、そのメッセージは牧師の知恵によるでしょうか。そのメッセージは、「自分自身を変えるべきだ」というメッセージでしょうか。

あなたが聖書を教える人なら、あなたのメッセージの準備の焦点は何でしょうか。それは、教会の人々を楽しませることですか。自分の知恵と知識によって、人々を感動させようとしていますか。もしかしたら、あなたはイエス様、しかも十字架につけられたキリストを述べ伝えているでしょうか。あなたが話すとき、神様の力はあなたを通して流れるでしょうか。教会の人たちの信仰は、あなたではなく、イエス様に基づいているでしょうか。

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コリント人への手紙第一1:26-31--自慢する余地がない

神様の「愚かさ」を描写するため、パウロはコリント人の教会を指します。

もしあなたが神で、たくさんの人々を救いたいと思うなら、金持ちや、権力者たちや、賢い人たちを先に救おうとするのではないでしょうか。なぜなら、彼らはたくさんの人たちに影響を与えられるから。でも、パウロはコリント人たちに関して、こう言いました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えて見なさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるためにこの世の弱い者を選ばれました。あるものをないものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。(26-29)

もちろん、パウロは神様が知者や、力ある者たちや、身分の高い者たちを全然救わないことを意味しません。パウロは、教会にそんな人が全然いないと言わずに、そんな人が多くはないと言いました。

でもパウロのポイントは、神様が人々のお金や身分によって選ばずに、恵みによって人々を選ぶことです。そして神様は、弱い人々や取るに取りないと考えられた人々を通して、強い人々や賢い人々を恥じ入らせました。どうやって、その弱い人々や取るに取りない人々は、強い人や賢い人々を恥じ入らせたでしょうか。神様に対する彼らの信仰によって、そうしました。

例えば、年寄りのノアは神様を信じて、大きい箱舟を作りました。隣人たちはノアが頭たがおかしいと思っていたでしょう。なぜなら、その辺に海がなかったし、そんな箱舟を必要とする人がいませんでしたから。でも、雨が降って、洪水が来た時、ノアの知恵は証明されました。

イスラエル人たちをエジプトから救い出した後、神様は彼らを強い城壁のあるエリコに導きました。でも彼らはすぐに攻撃しませんでした。むしろ、彼らはエリコの周囲を一度回りました。彼らは6日間そうしました。7日目には、彼らは7度エリコを回り、祭司たちが角笛を吹き鳴らしました。そして彼らは叫んで、城壁に向かって走り始めました。

その作戦を始めて聞いたとき、イスラエルの軍人たちは将軍ヨシュアの頭がおかしいと思っていたでしょう。さらに、エリコの人たちがイスラエル人たちが町を回るときに、イスラエル人たちが何をしているか疑問に思ったでしょう。でも、7日目にイスラエル人たちが城壁に向かって走り始めた瞬間、その城壁が崩れ落ちてしまいました。だからその日、イスラエル人たちは大勝利を得ました。

何百年後、ダニエルという若いユダヤ人はバビロンに追放されました。それでも、ダニエルとその友達は神様の律法に従いたいと思ったので、王から備えられた食べ物を拒否しました。むしろ、彼らはただ野菜を食べたり、水を飲んだりしました。ほかのユダヤ人たちはそれを見て、ダニエルたちが頭がおかしいと思っていたでしょう。でも最終的に、ダニエルたちはほかのユダヤ人たちより、健康だったし、賢くて有能な人でした。

何回も神様はそのようなことをしました。

でも究極の例は十字架です。その時代の人々にとって、十字架は弱さと敗北の象徴でした。でも、十字架を通して、神様は私たちの救いをもたらしました。そして、神様は世が称賛する人々だけではなく、世が軽蔑する人も救います。

クリスチャンたちが弱いと考える人もいます。彼らが思うのは、あまり賢くない人たちや、感情的にダメージを受けた人たちだけが神様を必要とすることです。私たちが自分自身に頼らずに、神様に頼るので、彼らは私たちを軽蔑します。

でも最終的に、彼らは恥じ入らせられます。

でも、覚えていてください。あなたがクリスチャンなら、自慢する余地はありません。あなたの身分や、あなたの行為によって、神様があなたを救ったわけではありません。神様が誰であるかのため、また神身様の御業のために私たちを救ってくださいました。だからパウロはこう書きました。

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(30)

パウロはの結論は?

「誇ろ物は主を誇れ」と書いてある通りになるためです。(31)

あなたは何を誇るでしょうか。自分自身を誇るでしょうか。あなたは最終的に恥じます。

神様を誇るでしょうか。それなら、プライドの余地はありません。

あなたは何の態度を持っているでしょうか。

 

 

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コリント人への手紙第一1:18-25--人間の哲学と知恵の空しさ

18節を読んだとき、パウロの言葉は私の心を打ちました。

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(18)

私が子供のころからクリスチャンだったから、十字架の言葉(つまり、十字架のメッセージ)は私にとって当たり前のものでした。私はそのメッセージを教えられたので、それを信じました。

でも、もし誰かが、「あなたの救いは電気椅子のメッセージによります」と言ったら、また、「あなたの救いは絞縄のメッセージによります」と言ったら、私はその人の頭がおかしいと思うでしょう。

そのように、ユダヤ人たちやギリシア人たちはパウロのメッセージを聞いたとき、パウロの頭がおかしいと思いました。

パウロはこう言いました。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを述べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかなことです。。。(22-23)

神様がいろんな奇跡を通してイスラエル人たちをエジプトから救い出したように、ユダヤ人たちは神様が力を振るって、彼らをもう一度救い出すように期待しました。神様がモーセを通していろんなしるしを行って、エジプト人の軍隊を滅ぼしたので、ユダヤ人は、メシアが同じようなしるしを行って、ローマ帝国を滅ぼすように期待しました。

でもパウロが宣べ伝えた救いのメッセージは、ローマの十字架に死なれたメシアというメッセージでした。ローマ人たちはそのメシアを打ち、十字架につけて殺しました。だから多くのユダヤ人たちは、イエス様がメシアであることを受け入れられませんでした。

その反面、ギリシア人たちは哲学に感動しました。だから、イエス様の教えが彼らの考え方をチャレンジすることが出来たら、彼らには興味がありました。でもパウロはアテネでイエス様について話した時、イエス様の教えではなく、イエス様の死と復活について話しました。だから、彼らはパウロの言葉をすぐに捨ててしまいました。「このパウロは、頭がおかしいなあ」と思いました。(使徒の働き17:31-32)

自分の考え方と知恵にしがみつきながら、神様の知恵を求めることは大問題です。そうすれば、神様が私たちの期待に合うことを要求します。神様の言葉と行為が私たちの知恵と論理に合うことを要求します。そして、神様の知恵と行為が私たちの知恵や考え方に合わないと、神様の言葉と行為を愚かと見なして、捨ててしまいます。

でもパウロはこう言います。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(25)

私は神様の行為とその理由が分からないときもあると気軽に認めます。例えば、どうしてイエス様の十字架の働きは私たちの罪の代価を払うことが出来るでしょうか。具体的な説明が欲しいです。どうして、一人の行為はすべてのクリスチャンの罪を覆うことが出来るでしょうか。私は分かりません。私はいろんな説明や、描写を聞いたので、ある程度までは、その理由が分かります。でもそれと同時に、どうしてある人々がその教えが愚かだと思い、信じないかも分かります。

でも神様は、私たちが愚かであると思うものが実際には賢明であることを証明します。私たちが神様の弱さを見つけたと思う時、神様はその弱さが実際に力であることを証明します。

そして最終的に、神様は「知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りあるものの悟りを消し去る。」(19)

だから、パウロは訊きます。

知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(20-21)

私たちは自分の知恵や、自分の条件によって神様を見つけることが出来ません。私たちの考え方は小さすぎますから。もし神様を見つけたいと思うなら、私たちは神様とその知恵に従わなくてはなりません。最初のステップは、イエス様を主として認めることです。なぜなら、十字架につけられたイエス様は私たちにとって、神様の力と知恵ですから。(24)

イエス様は、私たちを救う神様の力です。そして、イエス様は、人間になった神様の知恵です。そしてイエス様の知恵は人間の知恵より優れたものです。

これから、イエス様に従いませんか。

 

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コリント人への手紙第二1:10-17--人々をイエス様の立場に上げること

クリスチャンたちがリーダーたちに感心して、そのリーダーたちを模範として見上げるのは自然なことでしょう。なぜなら、そのリーダたちは何年もイエス様に従っているし、いろんな知恵と知識があるはずですから。さらに、私たちは彼らに会って、話すことも出来ます。

もちろん、人々を私たちの模範として見上げるのは悪いことではありません。でも、私たちが彼らをイエス様の立場に上げると、それは危険です。なぜなら、私たちはイエス様に従わずに、そのリーダーたちに従い始めるから。また、そのリーダーたちはイエス様よりも、私たちの模範になってしまいます。

そうすると、教会の分裂が出やすくなります。コリント人のクリスチャンたちはその問題を持っていました。ある人々は「私はパウロにつく」と言いました。ほかの人々は「私はアポロにつく」と言いました。また、ほかの人々は「私はケファ(つまり、ペテロ)につく」と言いました。

だから、パウロは皮肉を言いました。

キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(13)

要するに、「いったい誰に従っているでしょうか。」

3章で、パウロはこう言いました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられた通りのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。(3:5-7)

簡単に言うと、「人々を神様の立場に上げるのをやめなさい。その人たちはただの神様のしもべです。主人よりもしもべを大事にする人は誰もいません。だから、教会のリーダーたちがただのしもべなのに、どうして彼らを神様の立場に上げるでしょうか。」ということです。

でも多くのクリスチャンたちはそうします。だから、多くの教会の中で、いろんな分裂があります。

でも、人々を神様の立場に上げることには、もう一つの問題があります。彼らがただの人間だから、結局彼らは私たちを失望させてしまいます。もし、私たちの信仰が神様ではなく、その人々に基づいたら、彼らが失敗したり、私たちをがっかりさせたりすると、私たちの信仰も落ちるかもしれません。

だから人々がどれだけ敬虔な人でも、彼らを私たちのために死んでくださり復活したイエス様の立場に上げないでください。牧師たちを比べないでください。どの牧師がもっと偉いか議論しないでください。神様は彼らにそれぞれの仕事を与えてくださいました。私たちには彼らを裁く権利がないし、彼らとほかの牧師と比べる権利を持っていません。その判断を彼らの主イエス様に委ねましょう。

そして、自分の信仰をほかの人々の信仰に基づいてはいけません。むしろ、自分の信仰と希望は神様に基づくべきです。私たちが自分の信仰をほかの人々に基づいたら、私たちは結局がっかりしてしまいます。でも、イエス様に信頼するなら、私たちは失望させられることがありません。(ローマ書10:11)

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コリント人への手紙1:1-9--清められて、聖なる人生を送るように呼ばれた

この手紙を読むと、私たちはコリントの教会にはいろんな深刻な問題があったことが分かります。

その問題を考慮に入れて、この教会に関するパウロの言葉は驚くべきものです。パウロはその教会の人々を聖なる者と呼んだし、彼らが聖徒として召されたと言いました。

彼らの問題を考慮に入れると、コリント人のクリスチャンたちを聖なる者を呼ぶのはふさわしくないようです。なぜなら、彼らは聖徒だったかもしれないけど、聖徒として歩んでいなかったのですから。

でも神様は私たちの現在の状態だけを見ずに、私たちの将来をも見ます。だから、兄弟たちと姉妹たちを見ると、私たちはそれと同じ態度を取るべきです。私たちは彼らの現在の状態だけを見ずに、彼らをキリストに聖別された人々として見るべきです。彼らはキリストのものです。

そしてパウロのように、私たちは彼らを聖徒として歩むように励ますべきです。私たちは、彼らがもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったイエス様のために生きるべきだと言うことを思い出させるべきです。(第二コリント5:15)

それだけではなく、私たちは自分自身にそのことを思い出させなくてはなりません。

私たち自身を見るとき、がっかりするのは簡単なことです。なぜなら、私たちは自分の罪を見て、どうして神様が私たちを受け入れられるか疑問に思うから。でも、神様が私たちをもう受け入れていることを思い出しましょう。神様は自分のために私たちを聖別しました。だから、そのように歩みましょう。

でも、私たちが自分の力で歩む必要はないと覚えていてください。パウロはこう言いました。

主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。(8-9)

私たちはいつも忠実な人ではありません。でも神様はいつも忠実な方です。そして、私たちが責められるところがない者としてキリストの前に立つ日まで、神様は私たちの人生に働くことをやめません。

あなたはどうですか。あなたの兄弟たちと姉妹たちを見るとき、どんな人を見るでしょうか。自分自身を見るとき、どんな人を見るでしょうか。

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ローマ人への手紙16:25-27--私たちを堅く立たせることができる方

これは、ローマ人への手紙に関する私の最後の記事です。この手紙について書くのは、本当に楽しいことでした。そして、パウロはこの手紙を始めたように、この手紙を終えます。パウロは私たちに、救いが最終的に神様の働きということを思い出させます。パウロはこう書きます。

私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって、隠されていた億着の啓示によってーー永遠の神の命令に従い、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた億着の啓示によって、あなたがたを強くすることが出来る方(別訳:あなたがたを堅く立たせることができる方)、知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(25-27)

この個所によって、私たちは福音の不思議さを見ることが出来ます。イエス様がこの世に来る何百年も前に、神様は預言者たちを通して将来に何が起こるかの片鱗を見せました。預言者たちの言葉には何年も不明なところがあったけど、イエス様にあって、その言葉は明確になりました。だから今、すべての国民はイエス様を信じ、従うことが出来ます。

でも、この福音は私たちの行いによりません。むしろ、この福音は神様の恵みによります。神様は私たちを信仰と救いに立たせました。

時が始まる前に神様は私たちを選んで、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めました。

イエス様を通して、神様は私たちの罪の代価を支払ってくださいました。そして、私たちが天国でイエス様を見る日まで、神様は日々、聖霊によって私たちを清めてくださいます。

それは救いの不思議さです。私たちは救いに値しないのです。私たちは救いのために働かなかったのです。でも、恵みによって、神様が私たちの上に愛を注いだので、私たちはイエス様を信じました。そしてある日、私たちはイエス様のようになります。

だから、パウロはこの手紙をこのようにまとめました。

知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(27)

 

 

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ローマ人への手紙16:17-20--私たちが純朴な人にならないように

この手紙を終える前に、パウロはローマのクリスチャンたちに警告します。

兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。(17)

パウロは何について話しているでしょうか。パウロは、偽教師とその教えについて話しているのです。パウロの時代の教会でも、偽教師は大問題だったし、現代の教会でも、偽教師は大問題です。だからパウロは、「そんな人に注意しなさい」と警告します。

でも多くの場合、そんな人を認識するのは難しいです。なぜなら、彼らの教えは良いことに聞こえるから。パウロはこう書きました。

彼らは、滑らかな言葉、へつらいの言葉をもって、純朴な人たちの心をだましています。(18b)

でも実は、

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。(18a)

だから、パウロはこう言います。

。。。なお私が願うのは、あなたがが善にはさとく、悪にはうとくあることです。(19b)

私たちは、どのように偽の教師とその教えが認識することが出来るでしょうか。そのカギは17節に書いてあります。彼らの教えは私たちの学んだ教えに背きます。

もちろん、私の前提はあなたがキリストに関する本当の教えを学んだ事があることです。もしその教えを知らないなら、あなたは善にさとくないし、悪にうとくないのです。むしろあなたは狼の純朴な獲物になります。

でも、ローマ人のクリスチャンたちは神様のみ言葉に踏まえたので、パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいます。。。平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。(19-20)

だから神様の言葉を踏まえてください。神様の真理を求めてください。そうすれば、あなたは決して騙されません。

銀行員たちは偽札が分かるように、偽札を勉強しません。むしろ、彼らはいつも本当のお札に触るので、偽札に触ると、そのお札が何か違うと分かります。

そのように、神様の言葉をよく知っているなら、あなたは騙されません。

だから、神様の良い真理をよく勉強しましょう。そして、

平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みがあなたがたとともにありますように。(20)

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ローマ人へ手紙16章ーー非常に苦労している人。試されて、認められる人。

この個所では、パウロはたくさんの人々に挨拶します。パウロはその人たちを本当に評価しました。ある人々はパウロを経済的に支えました。ほかの人々はパウロとともに働いていました。福音のため、パウロとともに牢にいた人もいました。

でも、特に二つのことが私の心を打ちました。パウロは非常に苦労していたマリヤとペルシスについて話しました。そして、パウロはアペレという人について話しました。パウロは、アペレがキリストにあって認められている人だと言いました。「認められる」というニュアンスは、「試されて、認められる」ということです。

人々が私を見るとき、私についてそんなことを言われたいなぁと思います。私が神様のために苦労していると言われたいです。私が神様から任された仕事を忠実にしていたと言われたいです。そして、私がいろんな試練に直面しても、キリストにあって、私が試されて認められたと言って欲しいのです。

でも、私の最高の望みは、私が天国に行くと、神様が私に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言ってくださることです。

人からの誉れ言葉はもちろん良いことですけど、それよりも神様からの誉れの言葉が大切なのです。

あなたはどうですか。神様とあなたの周りの人々はあなたについて何を言っているでしょうか。

 

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ローマ人への手紙15:30-33--前線部隊を支えること

時々、私たちが霊的な戦争中であることを忘れるのは簡単なことでしょう。でも、私たちは実に戦争中です。

そして多くの人々は前線で福音を述べ伝えています。ある人々は自分の近所でそうしているし、ある人々は外国でそうしています。でも、どこでイエス様に仕えても、彼らには私たちの祈りが必要です。

パウロ自身、そう知っていました。もし、ほかのクリスチャンたちの祈りが要らない人がいるなら、パウロはそんな人でしょう。でも、パウロはそのように考えませんでした。パウロは自分の力で神様の仕事をすることが出来ないと認めていました。だから、パウロは、ローマの教会にこう書きました。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように。。。(30-31)

「私とともに力を尽くす」という表現は興味深いです。別訳では、「私とともに戦う」ということです。

牧師たちや宣教師たちについて考えるとき、私たちはしばしば彼らを超人たちと見なします。でも、彼らは超人たちではありません。彼らはただの人間です。そして、彼らは大変な戦いの中にいます。だから、その戦いに参加して、彼らのために祈ってください。

あなたの牧師たちのために祈ってください。前回の記事では、私は牧師たちを経済的に支えることについて話していました。でも、彼らはあなたの霊的な支持もまた必要です。だから彼らのために祈ってください。

あなたが知っている宣教師たちのために祈ってください。彼らもあなたの祈りを必要とします。

霊的な前線部隊の人たちを決して忘れないでください。

もちろん、私たち皆は神様の働きに参加するはずです。その御国の仕事に参加するとき、サタンやその悪霊は私たちを攻撃しようとします。でも、彼らは特に前線部隊の人たちを攻撃しようとします。だから、その人たちのために祈りましょう。

さらに、彼らを励ましましょう。そして神様が私たちを祝福する限り、彼らを経済的にも支えましょう。

時々、前線は孤独なところです。だから、あそこにいる人々を励まして、支えましょう。

 

 

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ローマ人への手紙15:23-29--霊的な祝福を与えてくれる人に祝福を返すこと

お金はいつもちょっと気まずいトピックです。特に、教会では、十一献金について話すのは気まずいのです。多くのクリスチャンたちは、十一献金が新約聖書の教えではないと考えています。私も、ある程度まではその意見に同意できます。

しかし、聖書がはっきり教えているのは、私たちを霊的に祝福してくれる人を経済的に支えるべきだということです。この個所で、その原則を見ることが出来ます。

もちろん、この個所では、パウロは十一献金について話していません。パウロは、貧しいクリスチャンを助けるために、マケドニヤとアカヤからの経済的援助をエルサレムに持っていくプランについて話しています。

でも、パウロはとても興味深いことを言います。

彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。

二つのことに注目してください。

一つ目は、マケドニヤ人たちとアカヤ人たちは自ら望んでユダヤ人のクリスチャンたちに与えたことです。

二つ目は、パウロによれば、彼らにはユダヤ人のクリスチャンたちを助ける義務があったことです。なぜなら、イエス様が言ったように「救いはユダヤ人から出る」からです。(ヨハネ4:22)

つまり、神様がユダヤ人たちを通して、イエス様をこの世に送ったことです。そしてペテロや、パウロや、バルナバや、ほかのユダヤ人たちが異邦人たちに福音を伝えたので、たくさんの異邦人は救われました。

だから、パウロは言います。「異邦人たちはユダヤ人たちからいろんな霊的な祝福を受けたので、彼らはユダヤ人たちに物質的な祝福を返すべきです。」

そのように、私たちも自分の牧師を支えるべきだと思います。私たちの牧師たちは私たちにいろんな祝福を与えてくれました。私たちが神様を知るように、彼らは自分のいのちを神様にささげました。だから、彼らが自分の家族を支えるように、私たちは彼らを経済的に支えるべきです。

でも、ただの義務を感じる心を持って与えずに、私たちは自ら望んで与えるべきです。別の書簡で、パウロはこう書きました。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

だから、いやいやながら与えないでください。そんな態度を持つなら、与えない方がいいです。

でも、あなたがお金に執着して、あなたを霊的に支えてくれる人を経済的に支えたくないと思うなら、その点では、あなたには成長する必要があります。

なぜなら、イエス様は人々に与える方でしたから。イエス様は私たちのために天国を去りました。また、私たちのためにイエス様は自分のいのちをささげました。

私たちが本当にイエス様を愛しているなら、その態度を持つべきではないでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは人々に与える者でしょうか。

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ローマ人への手紙15:14-22--人々が見るようになり、悟るようになるため

パウロのような人について読むと、また、自分の牧師を見ると、特別な人だけが奉仕する資格があると思うのは簡単なことです。もちろん、パウロは異邦人に福音を伝える恵みを受けました。そして、パウロの働きによって、たくさんの人々は福音を聞いて、わかるようになりました。パウロによって、私たちのようなユダヤ人ではない人たちもクリスチャンになりました。

でも、私たち皆が奉仕するように召されました。私たち皆が、福音を伝える祭司の務めを持っています。私たちを通して、聖霊様が人々を清めて、彼らは神に受け入れられる供え物になります。(16)

もしかしたら、あなたはこう思うかもしれません。「私はそんなことが出来ない。私は奉仕することが出来ない。だって、私は、人を変える力を持っていない。」

もちろん、あなたはそんな力を持っていません。でも、イエス様はその力を持っています。パウロは自分の業績を誇りませんでした。なぜなら、パウロの力と知恵によって、人々がクリスチャンになったわけではないから。むしろ、パウロはこう言いました。

ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。(17)

また、

私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。(18)

言い換えれば、キリストこそが、聖霊の力によって人々を変えてくださいます。でも、恵みによって、その働きを成し遂げるために神様は私たちを用いてくださいます。

多くの人々は聖書を読まないので、彼らにとっては、私たちが聖書です。私たちだけを通して、彼らはイエス様を見ることが出来ます。

だから、神様が与えられた祭司の務めを果たしましょう。福音を周りの人々に伝えましょう。それは神様の希望です。

彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。(21)

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ローマ人への手紙15:1-7--人々を受け入れること

たぶん私たち皆は、人々を変える力が欲しいでしょう。私たちが思う彼らを操る力が欲しいでしょう。もしかしたら、彼らの悪い習慣を変えいたいと思うかもしれません。もしかしたら、彼らの欠点を変えたいと思うかもしれません。

でもあいにく、私たちはそんな力を持っていません。私たちは彼らをいじめるかもしれません。私たちは、彼らが罪悪感を感じるように努めようとするかもしれません。私たちは、彼らは変わった方がいいと当てこすかもしれません。

でも、パウロは私たちにこう言います。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。(1)

私が以前言ったように、パウロは傷つきやすい良心のある人について話しています。彼らは、神様が確立しないルールに従わなくてはならないと思います。

でも、パウロの言葉には、もう一つの応用があると思います。

相手がいろんな悪い習慣や、欠点を持つので、あなたは彼らを弱い人と見なすかもしれません。さらに、私たちがそんな悪い習慣や欠点を持たないので、自分自身が強いクリスチャンだと思うかもしれません。だから、私たちは彼らを変えようとします。でも、それは彼らの益のためではなく、私たちの益のためです。つまり、私たちの希望が、彼らが私たちを喜ばせることだからです。

でもパウロは、私たちが力のない人たちの弱さを担うべきだと言います。

多くの人々には、自分の悪い習慣や欠点を変える力はありません。彼らは変わるべきだとわかっているけど、それは戦いです。だから、神様がその恵みと力を与えるまで、私たちは彼らを操るべきではなりません。彼らにプレッシャーをかけるべきではありません。

むしろ、パウロは私たちにこう言います。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(7)

どのようにイエス様は私たちを受け入れるでしょうか。私たちがまだ弱さを持っている時に、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。イエス様は私たちの弱さと欠点を全部ご存知です。でも、イエス様は、私たちが、その欠点や弱さを一瞬に扱うことを要求しません。むしろ、イエス様は忍耐を持って、愛と憐れみを与えてくださいます。そして、どのように変えるか教えるだけではなく、その変える力を与えてくださいます。

私たちは、相手に変えるべきことを示すことができるし、お勧めを与えるかもしれないけど、変える力を与えることができません。イエス様だけが、その力を与えることができます。

だから、忍耐を持って、相手に愛と憐れみを彼らに与えて、相手をイエス様に任せましょう。

そうすれば、神様は栄光を受けます。

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ローマ人への手紙15:4-13--私たちが希望を持つため

私たちが聖書を読むとき、どうして神様がある話や情報を記録したか疑問に思うときもあるでしょう。例えば、どうして、出エジプト記とレビ記には、神様はいろんな律法を記録したでしょうか。ある律法は、私たちに関係があるけど、ある律法は、私たちには全然関係がなさそうです。また、どうしてレイプの話や、殺害の話が記録されたでしょうか。

でも、パウロは興味深いことを書きます。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。(4)

つまり、聖書に書かれたことのすべてには目的があります。例えば、律法を通して、私たちは神様の聖さや正義や、憐れみを見ることができます。

ひどい話を通して、私たちは人間の罪を見ることができます。人々が神様から離れると、どれだけ彼らの人生がめちゃくちゃになるか分かります。

でもその話を通して、私たちは、そのひどい状態の中で、どのように神様が働いて、良いことをもたらすかも分かります。

神様の民が迫害されたとき、神様は彼らをしばしば救いました。彼らが死んでも、神様が彼らに平和を与えたことを見ます。

神様の民が苦しんだとき、また、彼らが神様が彼らを見捨てたと思ったとき、私たちは、神様が働いて彼らを慰めることを見ます。

そういうわけで、私たちはこの世の災いを見て、また私たちが迫害されたり、苦しんだりするとき、私たちは耐える希望を持ちます。私は歩み続ける勇気を受けます。そして私たちは、2000年前に人々を助けた神様は、今なお生きていて、私たちの人生の中で働いていることを見ます。

だから、どんな試練に直面しても、あなたの人生がうまく行っても行かなくても、聖書を読みましょう。神様が今なお生きていて、私たちの人生の中で働いていることを覚えていましょう。

そしてパウロの祈りを覚えていましょう。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(13)

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ローマ人への手紙15:1-12--一致を持って、歩むこと

この個所では、パウロは14章の話をまとめます。最初に、彼はこう言います。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。(1-2)

14章によれば、「力のない人」とは、クリスチャンがやってもいいことをすると(例えば、お酒を飲むとき)、自分の良心に反してしまう人です。また、やらなくてもいいこと(例えば宗教的な祝日を祝うこと)をやらなくてはならないと思う人。

「力のある者」とは、そんなルールを守らなくていいと思う人です。

でもパウロは、力のある者たちは力のない人たちを責めてはいけないと言います。むしろ、力のある者たちは力のない人たちの益を求めて、その人を支えるべきです。

イエス様は私たちの模範です。イエス様は力のある方だったけど、私たちの弱さを担ってくださいました。

弟子たちがいつも喧嘩したり、誇ったり、わがままだったり、めちゃくちゃな人生を送ったりしても、イエス様は彼らを愛し、彼らの足を洗うほどに、彼らに仕えました。(ヨハネ13章)

さらに、人々がイエス様を憎んだり、侮辱したり、十字架につけたりしても、イエス様は彼のために祈りました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

そしてイエス様は彼らの罰を受けて、彼らのために死にました。

でも、イエス様は私たちのためにも死んだので、私たち皆は希望を持っています。

だからパウロはこう言います。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(7)

そして、パウロはこう祈りました。

どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。(5-6)

神様は、私たちが一致を持って歩むように呼びます。そのカギは、私たちが互いの失敗や弱さに焦点を当て合わずに、むしろイエス様に焦点を当てて、従うことです。私たちがほかのクリスチャンを見るとき、互いに引き裂き合わないで、むしろ互いに励まし合うべきです。

私たちが互いにかみ合ったり、食い合ったりするとき、どれだけ神様は悲しむでしょう。私たちはそうしないで、イエス様のように生きるように。私たちは互いの弱さを担い合い、互いに愛し合い、受け入れ合い、仕え合いましょう。

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ローマ人への手紙14章ーー良心に反すること

この個所を終えて15章に進める前に、私はもう一つのことについて話したいと思います。それは、私たちの動機です。私たちの行いの動機は何でしょうか。

パウロは、私たちが何の動機を持つべきかはっきりと教えます。パウロはこう言いました。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(6-9)

つまり、私たちは自分のために生きるのではなくて、イエス様のために生きるべきということです。だから、ある日を尊ぶなら、その理由はただの伝統であってはいけません。むしろ、イエス様に対する愛のため、その日を尊ぶべきです。

また、私たちは何かを食べたり、飲んだりするとき、自分のお腹だけを考えてはいけません。むしろ、私たちは神様に対する感謝の心を持つべきです。

簡単に言うと、私たちは何をしても、神様のためにするべきです。違う個所で、パウロはこう言いました。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)

私たちがそんな心を持たないと、それは罪です。偶像に捧げられた肉に関して、パウロはこう言いました。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ人への手紙14:23)

この個所では、パウロは偶像に捧げられた肉を食べることについて心配する人に関して、話しています。その肉を食べながら、彼らはその肉が偶像に捧げられたのがを忘れることができませんでした。だからその肉を食べるとき、彼らは神様に対する感謝の心を持っていませんでした。むしろ彼らはずっと、「これはダメです。この肉は偶像に捧げられた。私がこれを食べると、罪を犯してしまう。」と思いました。

だから彼らにとって、その肉を食べるのは、罪になりました。なぜなら、彼らはその肉を食べるのが悪いと思ったのに、その肉を食べてしまったから。そんな態度は神様を決して喜ばせません。

私のポイントは何でしょうか。私たちが決して自分の良心に反してはいけないことです。私たちの良心が痛めたら、私たちはその行為を避けるべきです。他のクリスチャンたちがその行為が大丈夫だと思っても、私たちはその行為をしてはいけません。

何をしても、私たちは、その行動が神様を喜ばせる確信を持たなくてはなりません。

でも、ちょっと注意してください。その確信を持っても、あなたが本当に神様を喜ばせているとは限りません。だから私たちは聖書を読まなくてはなりません。聖書によれば、その確信を持てます。でも、白黒ではないことを考えるとき、自分の良心に従うべきです。そして、神様が私たちの良心を形成し続けるように祈りましょう。そうすれば、私たちは本当に神様喜ばせることができます。

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ローマ人への手紙14章ーー互いに愛し合うこと

ローマ13章で、パウロはこう言いました。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(13:8)

また、

愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(13:10)

14章では、私たちはその教えの大切な応用を見ます。以前の記事で私たちが見たのは、あるローマのクリスチャンたちが偶像に捧げられた肉を食べることについて心配したことです。それだけではなく、ほかのクリスチャンたちはぶどう酒を飲むのがダメだと思ったようです。

現代では、私たちは、偶像に捧げられた食べ物を食べることを考えないかもしれないけど、ワインを飲むのがダメだと思うクリスチャンはまだいます。

もちろん、聖書によれば、酔っぱらうことは罪です。でも聖書では、私たちが禁酒しなくてはならないと教えられません。

それでも、あるクリスチャンたちはお酒を飲むクリスチャンたちを裁きます。その反面、お酒を飲むクリスチャンは、お酒を飲まないクリスチャンを律法主義的な人だと思って、責めます。

でも、パウロははっきりして言います。そんなことについて、互いに裁き合ってはいけません。その裁きを神様に任せるべきです。彼らはあなたのしもべではなく、神様のしもべです。あなたからではなく、神様から彼らが責任を問われます。

それでも、パウロはこう言います。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(15)

また、

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(13)

また、

ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。(19-21)

要するに、クリスチャンとして、私たちは勝手気ままに生きてはいけません。あなたは、自分が神様から責任を問われることを覚えていているべきです。そして、神様は私たちが兄弟たちと姉妹たちを愛するように命じました。

でも、あなたの行動で、兄弟や姉妹が心を痛めているなら、あなたは愛によって歩んでいません。さらに、あなたの行為のせいで、彼らは自分の良心に反して、罪に落ちるかもしれません。パウロはこう言いました。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(23)

次の記事で、私はパウロの言葉をもっと具体的に説明するけど、その要点は、私たちが相手にその良心に反させてはいけないことです。

ハワイにいたとき、私が行った教会で、ある話を聞きました。ある日、数人のクリスチャンの友達同士たちは一緒にビールを飲みました。でも彼らが知らなかったのは、一人がアルコール中毒だったということです。その人はアルコールをやめていたけど、その友達が飲み始めると、彼も飲み始めました。でもその友達と違って、彼は飲み始めると、止まれなくて、酔っぱらってしまいました。

もちろん、彼らはあえてその兄弟を躓かせませんでした。でも、相手を考えずに、私たちの自由を利用したら、そんな問題が起こるかもしれません。

だから、勝手な考え方を捨てましょう。もし、私たちの行動によって、彼らが心を痛めているなら、彼らの前にその行動をやめましょう。私たちは彼らの弱さを考えて、彼らを愛しましょう。なぜなら、イエス様は彼らのためにも死んだから。

 

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ローマ人への手紙14章ー兄弟たちと姉妹たちを裁くこと

教会の中で、大きな問題の一つは、兄弟たちと姉妹たちが互いに裁き合うことです。

でも、誤解しないでください。私は白黒のことについて話していません。クリスチャンたちがあえて罪を犯すとき、パウロはためらず人を裁きました。コリント人への手紙第一5章では、私たちは一つの例を見ます。

でも、ある問題については、聖書の著者たちは何も書いていません。また、彼らが個々のクリスチャンに任せることもあります。

今日の個所では、パウロは個々のクリスチャンに任せる問題の一つについて話します。

パウロの時代では、クリスチャンたちは肉を食べることについて議論しました。なぜなら、ローマ帝国では、多くの肉が人々に売られる前に、偶像に捧げられた場合が多かったからです。

ほかのクリスチャンたちは、宗教的な祝日について議論しました。特に、ユダヤ人ではないクリスチャンたちがユダヤ教の祝日を祝うべきかどうか議論しました。異邦人のクリスチャンたちが安息日を祝うべきかどうかという議論もありました。

パウロにとっては、その議論は白黒をつけるものではありませんでした。だからパウロは彼らに、そんなことに関して裁いてはいけないと言いました。(1)

パウロによれば、彼らはそのことについて自分の良心に従うべきでした。だからユダヤ人たちは、ユダヤ教の祝日や、安息日を祝うべきだと思ったら、そうするべきです。なぜなら、彼らにとっては、急にその祝日や安息日を祝うのをやめることは、神様を侮ることですから。

でも、異邦人たちはそのユダヤ教の祝日は彼らに関係ない、と思いました。

その議論に関して、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちも、異邦人のクリスチャンたちも責めませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(5-6)

つまり、あなたの信仰のゆえ、ユダヤ教の祝日が大事だと思うなら、祝うべきだということです。神様はあなたの心を見て、喜びます。でも、あなたがすべての日が同じだと思っても、かまいません。

偶像に捧げた肉に関して心配する人々に、パウロはこう言いました。

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。(14)

つまり、「私の意見は、偶像に捧げられた肉をたべてもいいということです。でもあなたがそのことを本当に気にするなら、食べないでください。」

でも、パウロはこんなことも言いました。

食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。(3-4)

また、

自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(10-13)

私はパウロの言葉には、付け加える必要がないと思います。パウロの言葉でけっこうはっきりすると思いますから。パウロの要点は、神様が私たちの主であることです。私たち皆が神様の裁きの座に立たなくてはなりません。だから白黒つけられないことに関して、私たちは互いに裁き合ってはいけません。私たちはその裁きを神様にゆだねるべきです。

私は十代の時、ほかのクリスチャンの高校生たちと働いて、バイブル・クラブで子供たちに教えました。その前に私たちは合宿があって、どのようにそのクラブをするか教えられました。

休憩の時、ある人はトランプをしました。もちろん、彼らはギャンブルしなかったけど、一人の人は本当に気になりました。なぜなら、ご両親は彼女にトランプをするのはダメだと教えたから。

ほかのクリスチャンはそれを聞いて、「それはバカな話。それは律法主義的な考え方だ。」

でも、もう一人のクリスチャンはこう答えました。「いや、私たちは彼女の良心を重んじるべきです。」

だからその合宿で、私たち皆はトランプをやめました。

私たちは彼女を裁きませんでした。また、彼女は自分の意見を言ったけど、私たちを裁きませんでした。だから私たちは平和を守って、神様のために素晴らしい伝道の働きをすることができました。

それがパウロのポイントです。私たちが完全に同意できない時もあります。でも、白黒はっきりできないことに関して、互いに受け入れ合いましょう。そうすれば、キリストのために、この世に大きい影響を与えることができます。

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ローマ人への手紙13:11-14--イエス様の戻る日を待ち望むこと

イエス様が天国に戻ったとき、使徒たちは天を見つめていました。その時、天使が現れて、こう言いました。

ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

彼らはそれを聞いて、喜びとともにエルサレムに帰って、いつも宮にいて神様を礼拝しました。(ルカ24:52-53)

さらに、彼らは聖霊様を待ちました。(使徒の働き2章)

聖霊様が来ると、彼らはこの世界を完全に変えていき始めました。

何年か後、パウロはその出来事を覚えていて、こう言いました。

さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(11-12)

要するに、イエス様はすぐにこの世に戻るので、私たちは目を覚ましていて、用意するべきです。

夜は深まり、昼は近づいて来ました。(12a)

言い換えれば、サタンの支配がもうすぐ終わって、イエス様の帰る日はもうすぐに来ます。

そしてパウロは夜と昼の比喩をさらに利用します。

ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(12b)

つまり、私たちはサタンの国に関係する行為を捨て、イエス様の国に関係する行為をするべきだということです。

「闇のわざ」というのは何でしょうか。13節でパウロは説明します。

遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(13)

多くの人々は悪い行為を行うとき、夜を待ちます。でもパウロが言ったのは、私たちは光の中で歩むべきだということです。私たちは、世の民が私たちを見ているかようにふるまうべきです。それよりも、神様が私たちを見ているかのように私たちはふるまうべきです。なぜなら、神様は本当にあなたの行動をすべて見るから。

でも、もう一つのことに気づいてください。サタンの時間が過ぎ去り、十字架のために彼はもう負けたというのに、サタンは戦い続けます。

だから、私たちはその戦いのために用意して、光の武具を身に着けるべきです。私たちの足には平和の福音の備えをはきましょう。また、私たちには、信仰の盾や救いのかぶとや御霊の剣が必要です。(エペソ人への手紙6:14-17)

パウロはこの話をこのようにまとめます。

主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。(14)

私たちはイエス様を着るべきです。毎日、私たちはイエス様の力と性格を身に着けるべきです。そうすれば、私たちは罪に落ちないでしょう。

私たちはイエス様がもうすぐ帰ることを知っているので、イエス様の12人の弟子たちのように、毎日喜びを持って、聖霊様に満ちてイエス様のためにこの世に影響を与えましょう。そのように、イエス様の戻る日を待ち望みましょう。

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ローマ書13章8-10--律法の要求を 満たすのに

他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(8)

私はいつもその言葉をちょっと不思議だと思いました。

なぜなら、律法の要求を満たすのであれば、他の人だけではなく、神様をも愛するべきではないでしょうか。イエス様は一番大切な戒めについて話したとき、こう言いました。

「「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:37-39)

パウロは必ずイエス様の言葉を知っていたはずなのに、どうして、「他の人を愛する」という戒めだけについて話したでしょうか。

私はわからないけど、たぶん神様を愛することと他の人を愛することを分けることができないからでしょう。私たちが本当に神様を愛するなら、他の人も愛さなくてはなりません。もし他の人を愛さないなら、私たちが本当に神様を愛しているとは言えません。

ヨハネは、自分の書簡でそう言いました。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

また、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。(第一ヨハネ4:20-21)

ヨハネの議論に反ばくするのはとても難しいと思います。私たちに見える人を憎むなら、どうして私たちは、目に見えない神様を愛していることを主張できるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは、神様を愛していることを主張するでしょうか。あなたは周りの人々をどのように扱うでしょうか。彼らを見下すでしょうか。彼らを軽蔑するでしょうか。そうしているなら、あなたが本当に神様を愛しているかどうか考えるべきです。

だからヨハネの言葉を覚えていてください。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:18)

 

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ローマ人への手紙13:8-10-払い戻すことができない負債

私はパウロのこの言葉が大好きです。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。(8)

「借り」というのは何でしょうか。それは、私たちが払い戻さなくてはならないものです。私たちはそのお金を払い戻す義務を持っています。

この個所では、パウロは「愛」を「借り」と比べます。だからパウロの言葉を言い換えれば、私たちは人を愛する義務を持っています。

パウロの言葉をちょっと考えてみてください。もし誰かが、「私を愛しなさい。あなたはその義務を持っているから」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

私なら、「いやだ。あなたを愛する義務を持っていないよ」と答えるでしょう。

でもパウロは、私たちがその義務を持っていると言います。どうしてでしょうか。

一つ目の理由は、私たち皆が、神様の似姿に造られたことです。そういうわけで、私たちは彼らを愛するべきです。

二つ目の理由は、神様は彼らを愛していることです。もし神様が彼らを愛しているなら、私たちの愛にふさわしい人と見なすべきです。

でも多くの場合、相手を私たちの愛にふさわしい人と見なしません。なぜでしょうか。

時々、彼らは私たちと違うから。つまり、彼らの身分や、私たちの性格とは違うのです。

時々、私は彼らの行為にはあきれています。

でも、私たちが覚えていなくてはならないのは、神様が彼らを造って、愛していることです。だから、彼らは私たちの愛にふさわしい人です。その愛を与えることを拒むなら、基本的に私たちは神様にこう言います。「あなたはダメなものを造りました。何であいつを愛しているの?」

でも三つ目の理由があります。神様が私たちを愛したので、イエス様をこの世に送ったことです。私たちを救うために、イエス様は十字架で大変に高い代価を支払いました。私たちには決してその負債を払い戻すことができません。私たちが値しない愛と恵みを受けたので、神様に対して負債があります。それは、私たちが受けた恵みと愛を周りの人々に与えることです。相手がその愛と恵みに値しないと思っても、私たちはその愛と恵みを与えるべきです。

だからイエス様はこう言いました。

あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

あなたはどうですか。あなたがただで受けた愛を周りの人々にただで与えているでしょうか。

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ローマ人への手紙13:1-7--誰が支配しても、正しいことをすること

この個所では、パウロは、クリスチャンと政治の関係について話します。基本的に、パウロは、私たちが政府の権威に従うべきだと教えます。

どうしてでしょうか。なぜなら、最終的に神様はその人々に権威を与えてくださったから。だから彼らに反抗するなら、実はあなたは神様に反対しているのです。

でも、もう一つの理由があります。社会の益のために神様は権威を確立しました。権威がないなら、私たちは無政府状態にあるでしょう。それは本当に恐ろしい社会でしょう。

だから、パウロはこう言います。

彼(つまり、権を持つ人)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。(4)

多くの場合、権威を持つ人のおかげで、私たちの社会は安定しているし、平和な社会です。だから、私たちが正しいことをするなら、私たちには、問題があるはずがないのです。

私は、列王記18章のオバデヤについて考えます。(それは預言者のオバデヤではありません)。彼は、アハブ王に仕えました。アハブは、イスラエルの中で最も悪い王でした。でも、オバデヤが良いしもべなので、アハブは彼に王宮をつかさどる責任を与えました。それでも、オバデヤは神様を恐れて、正しいことをしました。

彼の模範によって、私たちは大切なことを学びます。時々、正しいことは、権威を持つ人の命令と違います。そのとき、私たちは正しいことをするべきです。

だから、アハブの妻イゼベルが神様の預言者たちを殺すように命じたとき、オバデヤはその預言者たちを救い出しました。

預言者ダニエルとその友達も正しいことをしました。神様の律法に反対することを命じられた時、彼らは神様の戒めに従いました。(ダニエル書1-3)

ユダヤ人のリーダーたちがペテロと他の使徒たちにイエス様のことについてもう話さないように命じたとき、ペテロたちは断りました。(使徒の働き4-5)

だから神様はオバデヤや、ダニエルたちや、ペテロたちを守って祝福してくださいました。そして、ダニエルたちの場合、結局その支配者たちは彼らに栄誉を与えました。

パウロはこう言います。

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(3)

特に、正しいことをすれば、私たちは神様を恐ろしいと思わなくていいのです。むしろ、神様は私たちを称賛してくださいます。だからこの世の支配者たちの命令が神様の言葉に反対する場合、私たちは神様に従うべきです。なぜなら、私たちの一番上の権威は神様ですから。

でも、支配者の命令を断ったとしても、私たちは彼らを尊敬するべきです。

パウロはこう言いました。

すべての人に対して義務を果たしなさい。。。恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。(7)

オバデヤや、ダニエルたちや、ペテロたちは、そうしました。だから、私たちは彼らの模範に従うべきです。

ペテロはパウロの言葉をこのようにまとめます。

もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(第一ペテロ3:13-16)

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ローマ人への手紙12:14,17-21--人々が私たちを憎むとき

一番最初のクリスチャンたちがこの世の憎みや、世からの迫害に直面しました。2000年後に、クリスチャンはまだ同じ問題に直面します。

だから、パウロの言葉はクリスチャンに対して、今でも大切なのです。パウロはこう言いました。

あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。(14)

イエス様は、山上の垂訓で似たことを言いました。

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様は自分の言葉に従いました。十字架で、イエス様は自分の敵のために祈りました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

私たちはイエス様の模範に従うべきです。私たちが苦々しい思いを持ち続けると、その思いは私たちを滅ぼしてしまいます。だから、パウロは私たちに言います。「その苦々しい思いや恨みを手放しなさい。むしろ、相手のために祈りなさい。」

パウロはさらに言います。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。(17)

もちろんパウロは、私たちがこの神様の律法に反対する世の道徳に従うべきだと言いません。むしろ、パウロが言ったのは、迫害されても、世の考え方が神様の律法に反対しない限り、すべての人が良いと思うことを行いなさいとういことです。

だから私たちは苦々しい思いや、怒りや、仕返しの思いを捨てるべきです。

そしてパウロはこう言います。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(18)

時々私たちは相手の意見に同意できないけど、そのとき、謙遜な態度を持つべきです。

時々私たちは、相手があまりにも傷つきやすいと思うけど、私たちの言葉や行為によって相手を傷つけてしまったのなら、その人に謝るべきです。

時々、神様の言葉を破らずに、私たちは妥協点を見つけるべきです。例えば、私のクリスチャンの友たちは家族の仏教の葬式に出ないけど、その葬式の前後、彼らはできるだけ家族に仕えます。

最後に、パウロはこう言います。

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。20次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」(19-20)

簡単に言うと、最終的に正義はあなたの責任ではなく、神様の責任なのです。神様はすべての人々とその行為を裁きます。だから毒を以て毒を制しないでください。苦々しい思いを持ち続けないでください。そんな思いをあなたを食い尽くしますから。むしろ、イエス様の模範に従って、イエス様の愛を彼らに示しましょう。

もしかしたら、あなたの反応によって、彼らはクリスチャンになるかもしれません。ステパノの祈りはどのようにパウロに影響を与えたでしょうか。(使徒の働き7:60)

だから、パウロはこの話をこのようにまとめます。

悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(21)

 

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ローマ人への手紙12:9-16--クリスチャンとして生きる。。。他のクリスチャンと共に

この個所を読むとき、自分自身のクリスチャン生活を考えるのは簡単なことです。

でも、私たちが注目したいのは、パウロが個々のクリスチャンたちに話しているのではなく、キリストのからだの全体に話しているということです。

パウロは最初にこう言います。

愛には偽りがあってはなりません。(9)

私は、ある一つの英語の翻訳が好きです。

相手を愛する振りをするな。本気で相手を愛しなさい。

例えば、どれぐらい私たちは相手の話を聞く振りをするけど実は、全然違うことを考えているでしょうか。私たちはそうせずに、本当に相手の話に関心を持つべきです。

そして、パウロは教会にこう言います。

悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(9b)

教会として、私たちはこの世の悪を憎み、戦うべきです。それと同時に私たちは善にしがみつくべきです。でも、まず先に教会の中でそうするべきです。

苦々しい思いや、相手を許さない心を見ると、私たちはその態度と戦うでしょうか。逆に私たちは許し合う態度を求めるでしょうか。

教会の中で、喧嘩と分裂を見ると、和解をもたらすために働くでしょうか。私たちは教会の一致を求めるでしょうか。

プライドや差別を見ると、私たちはその態度を教会から追い出して、互いに受け入れ合うでしょうか。(10節,16節)

人があえて罪を犯して、悔い改めないなら、その問題をちゃんと処理するでしょうか。(第一コリント5章)

ある人が罪に陥れるなら、柔和な心でその人を正してあげるでしょうか。(ガラテヤ人への手紙6:1)

パウロは続けます。

望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(12)

試練で悩んでいる人がいるとき、私たちはその人を支えて、励ますでしょうか。その人のために祈るでしょうか。

また私たちは「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣くでしょうか。」(15)

私たちは教会のメンバーたちに仕えるでしょうか。パウロはこう言いました。

聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。(13)

それが普通のクリスチャン生活です。私たちはそのように生きているでしょうか。

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ローマ人への手紙12:3-16--でも、私たちはこの世に行って、福音を述べ伝えなくてはならないでしょう。

もしかしたら、前回の記事を読んで、異議を持った人がいたかもしれません。なぜなら、私はこう言ったったから。「私たちにクリスチャンの交わりが必要という理由の一つは、私たちがお互いを必要とすることです。キリストのからだの中で、私たち皆は役目を持っています。だから、私たちが受けた賜物を使って、互いに仕え合う必要があります。」

でも、ある人はこう言うかもしれません。「教会の人々を祝福するだけではなく、私たちはこの世の人々をも祝福するべきではなないでしょうか。」

もちろん、それはそうです。でも覚えていてください。私たちが受けた賜物の多くは先に教会のためです。例えば、エペソ人への手紙では、パウロはこう言いました。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。(エペソ4:11)

どうしてイエス様はそれをしたのでしょうか。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(エペソ4:12-13)

伝道者の役目をちょっと考えてみてください。彼らの役目は特に教会の外の人のためのはずでしょう。でも、パウロの言葉に注目してください。伝道者の仕事の目的は、聖徒たち(つまり、クリスチャンたち)を整えて奉仕の働きをさせることです。伝道者はもちろん福音を伝えるけど、ほかのクリスチャンたちが福音を伝えるように励ます役割もあります。他のクリスチャンたちが伝道者のこの世への影響を見て、励まされて、彼ら自身は友達に福音を述べ伝えようと思います。それに、伝道者は彼らに福音を伝える方法を教えるかもしれません。

そして、パウロがリストアップした人々は自分の役目を果たすと、キリストのからだを建て上げます。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私は使徒や預言者や伝道者や牧師や教師ではありません。」

それは構いません。なぜならパウロはこう言いました。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ4:15-16)

私はもう一度パウロのポイントを見ます。キリストのからだが完全に成長するまで、私たち皆は、自分の役割を果たして、互いに建て合うべきです。

だから、別の個所で、パウロはこう言いました。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:10)

だから、もちろん私たちは賜物を使って、この世の民に仕えるべきです。でも私たちは教会の人々にも仕えるべきです。

イエス様の言葉も覚えていてください。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:34-35)

イエス様の言葉を読んで注目してください。どのように、この世の人々は私たちがイエス様の弟子たちであることを知るでしょうか。私たちが互いに愛し合うことによって、彼らはそう知ります。私たちが互いに愛し合い、仕え合うなら、人々はそれを見て、キリストに惹かれます。

でも、私たちが喧嘩したり、自分勝手に生きたり、プライドを持ったりすると、彼らは訊きます。「クリスチャンたちが私たちとどう違うだろうか。彼らは私たちと全く同じです。」

あなたはどうですか。神様の民を愛しているでしょうか。神様の民を避けているでしょうか。神様の民に仕えているでしょうか。もしかしたら、あなたが受けた賜物を無駄にするでしょうか。

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ローマ人への手紙12:3-16--クリスチャンの交わりを壊すもの

クリスチャン生活をただの個人的なこととして考えるのは簡単なことです。もしかしたら欧米各国では、そのように考える人は多いかもしれません。でもクリスチャン生活は一人で送るものではありません。私たちがほかのクリスチャンと一緒にクリスチャン生活を送るのは、神様の御心です。

それでも、多くのクリスチャンたちはもう教会に行きません。どうしてでしょうか。いろんな理由があるけど、この個所では、パウロは一つの理由を指摘します。パウロはこう書きました。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(3)

また、

互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。(16)

クリスチャンの交わりを壊すものの一つはプライドです。

「私には、ほかのクリスチャンが要らない。私は一人で、クリスチャン生活を送ることができる」と言うプライドです。

「私は彼らよりも優れたクリスチャンだ。どうして、彼らとの交わりが必要だろうか。」と言うプライドです。

「私は彼らと違う身分を持っている。彼らと共通点がないのだ。」と言うプライドです。

「この人も、その人も私を傷つけた。彼らが謝るまで、私はもう教会に行かない」と言ううプライドです。

でも、パウロは私たちに思い出させます。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、5大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(4-5)

この個所では、私たちはとても大切な真理を見ます。すべてのクリスチャンたちはキリストのからだの器官です。だから私たちはもう自分自身だけに属しないのです。私たちは先にキリストに属するけど、私たちクリスチャンたちは互いに属し合います。

どうしてでしょうか。私たち一人一人は、キリストのからだの中で違う機能を持っているから。そして、体の全体は、私たちがこの機能を満たすことに頼ります。

だからパウロはこう言いました。

私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(6-8)

あなたには、ほかのクリスチャンたちを必要としないと思うかもしれません。でも、あなたに彼らが要らなくても、彼らにはあなたを必要とします。彼らを祝福するために、神様は霊的な賜物をあなたに与えてくださいました。そして、私たちはほかのクリスチャンたちにに仕えるとき、実は私たちは神様に仕えているのです。

だからパウロは私たちに教訓します。

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(11)

もし私たちのプライドによって、私たちの賜物を使わずに、教会に仕えないなら、ある日、神様は私たちに責任を問います。

だから覚えていてください。私たちはほかのクリスチャンたちに属します。また、彼らは私たちに属します。私たちはお互いを必要とします。

だから兄弟たちを分けるプライドを捨てましょう。むしろパウロの言葉に従いましょう。

兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。(10)

 

 

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ローマ人への手紙12:2--神様の思いを知ること

新改訳では、2節はこのように翻訳されています。

この世と調子を合わせてはいけません。(2)

でも、私はある英語の翻訳も好きです。

この時代と調子を合わせてはいけません。

私たちはよく、「この時代」について話します。また、「時代の変化」について話します。

もちろん、この世界は変わりつつあります。私は1995年に日本に引っ越しました。その時、インターネットや、メールは新しいものでした。だから、アメリカにいる家族と連絡したいと思ったとき、航空便を送ったり、固定電話で電話したりしました。時々、公衆電話とテレフォンカードを使いました。(多分若い人は私が言っているかさっぱりわからないでしょう。)

でも、テクノロジーのほかに、人々の考え方も変化しました。特に道徳観念が変わりました。今なお、何の行為が恥ずかしいか、また何の行為が悪いか、という考え方は変わりつつあります。

さらに、日本では私はわからないけど、欧米各国では、人々は「寛容の時代」に生きています。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん寛容自体は良いことです。「寛容」をちゃんと定義すると、その意味は、「私はあなたの意見に同意できないけど、私はあなたをまだ尊敬します」ということです。そして、人々はその寛容を持って一緒に働けるし、相手を丁寧に扱い合うし、友好的な関係ができます。

でもこの時代では、寛容には違う意味があります。それは、「すべての意見が正しい」ということです。だから、もし二人が同意できないなら、一人の意見が正しくて、相手の意見が間違っていると言えません。その二人の意見が反対しても、両方の意見は正しいのです。だから、あなたが「あなたの意見が間違っている」と言うと、あなたは悪い人になってしまいます。なぜなら、あなたは偏狭な人だから。

でも最近、特に欧米各国では、クリスチャンの意見を考えると、多くの人々は寛容の態度を捨ててしまいます。だから、彼らはクリスチャンたちに「あなたは間違っている。あなたの考え方を変えなくてはならない」と言います。

でも、私たちが神様の思いを本当に知りたいと思うなら、私たちはこの時代の人々の考え方と調子を合わせてはいけません。なぜなら、人々の考え方は変わりつつあるけど、神様の考え方は決して変わらないから。

でもこの世と調子を合わせるプレッシャーが、至るところから来ます。社会から来るし、家族から来るし、友達から来ます。どこに行っても、私たちはそのプレッシャーを感じます。

特に、日本では、「和」というコンセプトはとても大切です。だから私たちはその和を保つプレッシャーを感じます。

もちろん、私たちはできるだけ平和を守った方がいいです。パウロはこう言いました。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ書12:18)

でも、私たちが神様の御言葉に逆らうプレッシャーを感じるときもあります。その時、私たちはこの世と調子を合わせてはいけません。なぜなら、それは滅びに至る道ですから。そして私たちは神様を傷つけるし、人々を傷つけるし、私たち自身も傷つけてしまいます。

だから、この世と調子を合わせずに、パウロの言葉に従いましょう。

むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。(2b)

どのように私たちは心を新たにすることができるでしょうか。神様の言葉によってできます。私たちは聖書を読んだり、噛み締めたり、聖霊の力によって、その言葉に従ったりします。そうすれば、私たちは本当の命を知ります。

なぜなら、私たちの思いだけではなく、私たちの人生も変わるから。私たちは神様の計画通りに生き始めます。私たちの結婚はうまくいきます。苦難の時でも、私は平和を知ります。死の影の谷にいても、私たちは喜びを知ります。

簡単に言うと、私たちは神様も御心を知ります。そして、私たちは何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができます。

あなたはどうですか。あなたの思いはをこの世と調子を合わせているでしょうか。もしくは、あなたの思いは神様の御言葉によって変わりつつあるでしょうか。

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ローマ人への手紙12:1--生きたささげ物

これは、聖書の中で最も有名な個所の一つです。パウロはこう言いました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(1)

「ですから」などという言葉を見るとき、それ以前の言葉を読んだ方がいいです。パウロはこう言っていました。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(11:36)

「すべてのもの」という言葉をちょと考えてみてください。「すべてのもの」というのは、私たちも含まれています。神様の計画によって私たちは造られました。私たちは神様の力によって造られました。私たちは神様の栄光のために造られて、最終的に私たちは神様の前に立って裁かれます。

多くの人々は「これは私の人生です。自分勝手に生きる権利を持っている」と言い張ります。

でも、それは真実の半分です。もちろん神様は私たちに自由意志を与えてくださいました。だから、その意味では、私たちは自分勝手に生きる権利を持っています。でも、私たちの人生は、本当に自分のものではありません。私たちは神様の力によって造られたし、神様の目的のために造れました。

だからパウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」と言います。それが、私たちにふさわしい礼拝です。

要するに、私たちが神様の力によって造られて、神様の目的のために造られたので、私たちは神様に自分のからだを生きた捧げものとしてささげるのは当然なことです。

でも、生きた捧げものとは、どういう意味でしょうか。私たちは神様のために死ぬべきでしょうか。神様のために死ぬ人もいるけど、それはパウロの意味するところではありません。パウロは、私たちが「生きた捧げもの」になるべきだと言います。

生きた捧げものについて話すとき、私は結婚の描写をよく使います。

結婚では、夫と妻は互いに自分自身を相手に捧げ合います。もちろん、私の妻は私が彼女のために喜んで死ぬことを聞けばうれしいけど、それ以上に彼女は、私が生き続けることを望むでしょう。つまり、私が自分自身をほかの女性に捧げずに、彼女だけに捧げるのを望みます。

さらに妻は、彼女を喜ばせたいと思うほどに、私が彼女を愛することを望みます。もちろん私は妻から同じことを望みます。

そして、夫と妻が互いに生きたささげものとして自分自身たちを捧げ合うと、その結婚はうまくいきます。

そのように、私たちが喜んで神様のために死ぬと思うなら、神様は喜びます。でもそれ以上に、神様は生きたささげものを望みます。私たちが毎日神様に私たちのすべてを捧げることを望みます。また、私たちが神様を喜ばせたいと思うほどに、神様を愛することを望みます。

どうして私たちは自分自身を神様に生きた捧げものとしてささげたいと思うでしょうか。神様が私たちをあわれでくださったから。神様は人間になって、十字架で私たちのために死んでくださいました。私たちがまだ罪人で、神様に反抗していたのに、イエス様は私たちの罪のために死ぬほどに、私たちを愛していました。そして、イエス様の死によって、神様との和解ができます。

私たちは神様の愛を知っていて、神様を愛しているので、自分自身を生きた捧げものとして捧げるのは当然なことでしょう。そういうわけで、私たちは毎日神様を喜ばせたいと思います。

それは生きた捧げものです。

あなたはどうですか。あなたは生きた捧げものでしょうか。

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ローマ人への手紙11:33-36--私たちよりも優れた神

神様と議論する機会があれば、神様をやり込めることができると思う人がいます。それはとてもバカな話だと思います。

それでも、多くの無神論者はこう言います。「神様が実在するなら、私は神様にどうして私が神様の存在を信じなかったか説明できるから、神様をやり込めることができます。」

でもこの個所では、パウロはそんな考え方の虚しさを示します。10-11章では、パウロは、神様がどのようにユダヤ人たちの不従順を利用して、異邦人たちを救ったかを説明します。そしてパウロは、どのように異邦人の救いがユダヤ人の救いに至るかを説明します。パウロは神様の計画をこのようにまとめます。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。(30-32)

その話を通して、私たちには神様の予知と予定説の関係が見ることができます。

神様はユダヤ人たちがどのようにイエス様を扱うかをあらかじめ知っていて、異邦人を救う計画を立てました。でも、神様が知っていたのは、異邦人の救いによって、ユダヤ人たちが神様の関係にあこがれることです。だから神様は、その異邦人を救う計画を通して、あるユダヤ人たちもイエス様を受け入れて救われるのかを、よく知っていました。

簡単に言うと、この宇宙のチェスボードでは、神様はどのように自分の目的をもたらすかよく知っています。神様はもう私たちの選択を知っていて、どのように自分がその選択に反応するか分かっています。だから私たちが何をしようが、神様の御心は成就します。そのように、人々は自由意志を保つけど、神様自分の自由意志を保ちます。

パウロはそのことを考えると、圧倒されました。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。(33-34)

要するに、神様の知識と知恵に叶う人は誰もいません。なぜなら、神様はすべての知識を知恵を持っているから。その反面、私たちはただの人間で、私たちの知恵と知識には限界があります。だから、神様が自分の計画を現わさないなら、私たちはその計画が理解できなでしょう。神様が自分の計画を現わしても、その計画の深さを完全に把握することができません。

例えば、たくさんの人はこう言います。「神様が本当に良い方なら、どうしてこの世には悪があるのですか。」

でも彼らは自分の無知から議論します。彼らは神様が知っていることを知りません。だから、彼らの議論は無駄です。

それでも、彼らは、すべてのことを知っているかのように議論します。神様が彼らの議論を反ばくすることができないかように、彼らは自慢します。

でも彼らが神様の御前に来るとき、神様は彼らの動機を現わします。神様は、彼らが知っていたことも、知っていたはずのことも現わします。そして、神様は彼らの間違った考え方や仮定を現わして、事実を現わします。その時、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服します。(ローマ書3:19)

神様をびっくりさせて、「私は知らなかった」と言わせる私たちの言葉など全然ありません。

また、私たちは神様に「私のやったことを見て。私は天国に入る資格があります。」と言えません。

パウロの言葉はやっぱり正しいのです。

だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。(35-36a)

私たちの持ち物のすべては、神様から来ました。すべてのものは神様から発しました。すべてのものは神様に返されます。ある日、私たちも神様の前に立って、裁かれます。

だから私たちは二つの選択があります。パウロのように、私たちはこう言えます。

この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(36b)

それとも、私たちは裁きの日まで神様に反抗し続けることができます。でもその日、私たちの口がふさがれて、私たちは裁かれます。

あなたはどうですか。あなたはどうしますか。

 

 

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ローマ人への手紙11:1-32--プライドの余裕がない

ほとんどのクリスチャンたちは、もう反ユダヤ主義的な態度を持たないけど、過去にはそんなクリスチャンもいました。私には決してそんな態度が理解できませんでした。なぜなら、今日の聖書の個所では、パウロはそんな考え方を潰したから。

たぶん、反ユダヤ主義的な態度の根元はプライドでしょう。この個所では、パウロは私たちのプライドの理由をも潰します。

実は、イスラエル人に関して文句を言ったとき、預言者エリヤもそんなプライドを持っていました。エリヤはこう言いました。

私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエル子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。(列王記第一19:10)

要するに、「神様は私を見てください。私はあなたのために熱心を持っているよ。私の行為を見てください。でもほかのイスラエル人たちはもうダメなんです。」ということです。

でも、神様はエリヤにこう言いました。

わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。(列王記19:18)

だからパウロはこう言いました。「エリヤの時代と同じように、この時代にも、ユダヤ人の間に、神様に忠実だし、メシアイエス様に仕える残された信じる者たちがいます。そして私たちのように、そのユダヤ人たちも恵みによって選ばれました。」(ローマ書11:5)

そして、パウロは私たちを思い出させます。

恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。(6)

エリヤのように、多くのクリスチャンは、自分の行為によって救われると思っています。つまり、頭の中で、彼らが恵みによって救われたとわかっているかもしれないけど、心の中で、自分がほかの人よりも優れた者だから救われたと思うことです。でもパウロによれば、そんな考え方は間違っています。救いは恵みに値しない人に与えられるものです。

エリヤは神様の恵みに値しなかったけど、その恵みを受けました。イゼベルがエリヤを脅かしたとき、エリヤは、神様に怒ったり、苦々しい思いを持ったりして、結局落ち込んでしまいました。それでも、神様は手を伸ばして、エリヤを励まして、強めてくださいました。

私たちも神様の恵みに値しません。でも神様は手を伸ばして、私たちを救ってくださいました。だから、私たちはユダヤ人たちを見下すことができません。私たち皆は恵みによって救われたから。

そしてパウロはユダヤ人たちを折られたオリーブの木の枝と比べて、私たちを接ぎ木された枝と比べました。

でも、パウロはこう言います。

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(18-22)

もう一度、パウロのポイントは、私たち皆が恵みによって救われたことを述べています。私たちの行為によって救われたわけではなく、イエス様の十字架の御業によって、私たちは救われました。私たちがしたのは、その御業を信じたことだけです。だから私たちには、プライドの余裕がありません。

だから、イエス様を信じないユダヤ人たちを批判する人は、自分自身を注意した方がいいです。彼らは自分自身にこう訊くべきです。「私は信仰と恵みによって立っているだろうか。もしくは私は自分の行為に頼っているのだろうか。自分の行為によって立つなら、私は破滅への道に行っています。でも、恵みによって立つなら、私にはプライドの余裕が全然ない。」

あなたはユダヤ人たちを見下さないかもしれないけど、ほかの人々を見下すでしょうか。あなたが彼らよりも優れた人だと思うでしょうか。そんな考え方は間違っています。あなたがほかの人よりも優れた者なら、恵みは恵みでなくなります。むしろ、あなたは自分の救いに値するでしょう。

だから謙遜な態度を持って、神様に感謝してください。神様の国では、私たちにはプライドの余裕がないからです。

 

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ローマ人への手紙10:16-11:10-信じることを拒否すること

以前の記事では、私は救いの逆説について話しました。つまり、救いの道は簡単だけど、それと同時に難しいのです。もし、ただ神様を信じて、また、イエス様の十字架の働きを信じれば、私たちは救われます。でも多くの人々はそうしません。ユダヤ人たちは一つの例です。パウロはこう言いました。

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。(16)

でも、それはただのユダヤ人の問題ではありません。この世の多くの人々は同じ問題を持っています。今なお、パウロの言葉は世の人々に当てはめることができます。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか?」

そして、パウロはこう言います。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(17)

要するに、人々が救われるのに、二つのことが必要です。人々は福音を聞かなくてはならないし、そのメッセージを信じなくてはならないのです。

でも、どうしてユダヤ人や、ほかの人々は信じないのでしょうか。イエス様は彼らに語っていないのですか。または、彼らは聞いていないのですか。そういうわけではありません。パウロはこう書きました。

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。(18)

パウロは詩篇19:14を引用しました。その詩篇では、詩人は、「天は神の栄光を語り告げる」と歌います。パウロはその詩篇を福音に当てはめます。つまり、福音は世界の果てまで届いたということです。

そしてパウロは訊きます。

では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。(19)

彼らは知っているはずでしたが、結局神様の言葉が分からなかったようです。

そして、パウロは救いの皮肉について話します。神様は自分自身を先にユダヤ人たちに現れたけど、彼らは神様に背を向けました。だから、神様は異邦人たちのところに行って、異邦人たちは信じました。

だからパウロはイザヤの言葉を引用します。

わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。(20)

その個所では、神様は異邦人たちについて話しました。異邦人たちが自分の道を行って、神様を全然求めていなかったのに、神様は自分自身を彼らに現しました。その結果、異邦人たちは神様を信じるようになったのです。

でも、ある意味では、この個所をユダヤ人たちにも当てはめることができます。彼らも神様を求めていませんでした。彼らはエジプトの奴隷の時に、偶像を礼拝していました。(ヨシュア24:14)。

それでも、神様は自分自身を彼らに現しました。でも、彼らの反応は何でしたか。

神様は彼らに関して、こう言いました。

わたしは終日、手を差し伸べ た。不従順で反抗する民に対して。(21)

どうして彼らは信じなかったのでしょうか。彼らはいろんな奇跡を見ました。神様はいろんな災害をエジプトに送ったし、紅海を分けたし、砂漠でマナを与えてくださいました。ユダヤ人たちには、信じる理由がたくさんありました。

そしてイエス様は来ました。イエス様もいろんな奇跡を行ったし、悪霊を追い出したし、優れた知恵を教えたけど、彼らはイエス様を拒絶しました。どうしてでしょうか。

ほかの者たち(つまり、神様を信じないユダヤ人たち)は頑なにされたのです。「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。(11:7-8)

パウロはイザヤ書29章を引用しました。私はその個所をここでもっと説明するけど、その旨は、ユダヤ人たちが先に自分の目を閉じたことです。だから、神様は彼らにこう言いました。「あなたは見たくないのですか。では、あなたは霊的な盲人になれ。」

ユダヤ人たちは何百年神様の御業を見たし、み言葉を聞いたけど、どうしても信じませんでした。だから、神様は彼らに自分の不信に引き渡しました。

福音を聞く人は、その危険性に直面します。もし私たちがずっと自分の心を頑なにするなら、神様は私たちにこう言うかもしれません。「信じたくないなら、信じるな。」

そして、私たちは自分の不信の結果を受けます。それは死です。

だから、救いのメッセージに自分の心を頑なにしないでください。そうすれば、あなたの霊的な目が見えなくなって、あなたは永遠の死を知ります。

だから、自分の心を開いてください。イエス様とその福音だけによって、あなたは救われるから。

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ローマ人への手紙10:19-11:32--神様の取り消されることのない召命

救いの不思議さの一つは、救いが神様の召命を通して来て、その召命は取り消されることのないものだということです。

パウロはイスラエルの例を用いて、その真理を描写します。神様がいろんな奇跡を行ったり、恵みを与えたりしたのに、イスラエル人たちは自分の心を神様に対して頑なにしました。そしてパウロはこう言いました。

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。(1a)

パウロの答えは?

決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。(2b)

要するに、「私はユダヤ人ですが、救われました。だから、神様がすべてのユダヤ人たちを退けたとは言えません。」

そして、パウロはとても興味深いことを言います。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。(2)

パウロのポイントは何でしょうか。

神様はあらかじめユダヤ人たちが自分の心を神様に対して頑なにすることを知っていたのに、ユダヤ人たちを選びました。ユダヤ人たちが神様を拒絶し、イエス様を磔にしたとき、神様は全然驚きませんでした。だからユダヤ人の行為によって、神様が急に彼らを退けようと決めたわけではありません。

むしろ、神様は、あるユダヤ人たちがイエス様を拒絶することを知っていたけど、ほかのユダヤ人たちがイエス様を信じることをも知っていました。どうしてそう知っていたでしょうか。なぜなら、神様が創造物を作る前に、神様は彼らを救いのために選んだから。

だから、預言者エリヤが神様に「私だけがあなたに従っている」と文句を言ったとき、神様はこう答えました。

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」(4)

だから、パウロは自分の時代のユダヤ人たちに関して、こう言いました。

ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(5)

そして、パウロは神様の救いの計画を現します。この世が造られる前から、神様はその計画を立てました。その計画は何ですか。

ユダヤ人たちが自分のメシアを拒絶したので、福音は全世界に広がって、たくさんの異邦人(ユダヤ人ではない人)が救われて、神様の子供になりました。そして、ユダヤ人たちはその神様との関係に憧れて、神様が彼らをそんな関係のために召したことを思い出します。だから、彼らは自分の愚かさに怒って、悔い改めて救われます。最終的に、すべてのユダヤ人たちはイエス様を認めて、救われるようです。(26-27)

そして、パウロはこう言いました。

彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。(28)

要するに、ユダヤ人たちはクリスチャンたちを迫害していました。でも、神様はまだユダヤ人たちを愛して、救おうと思いました。なぜでしょうか。彼らはとてもいい人だったからでしょうか。違います。アブラハムや、イサクや、ヤコブのゆえに、神様は彼らを愛しているから。さらに神様はその三人に約束をしておられるので、その約束を決して取り消しません。

だから、パウロはこう言いました。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(29)

でも私たちのためにも、良い知らせがあります。私たちにも、神様の賜物と召命は取り消されることがありません。私たちが生まれる前に、神様は私たちを知っていました。神様は私たちの疑いを知っていました。私たちの失敗も知っていました。それでも、神様は私たちを選びました。

だから私たちが疑うときに、また、失敗するときに、神様が私たちを見捨てることを恐れないでください。なぜなら、神様の賜物と召命は取り消されないものですから。そして、パウロが言ったように、神様が始めたことを必ず完成します。(ピりピ人への手紙1:6)

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ローマ人への手紙10:14-15--私たちが福音を述べ伝える必要

私が前に言ったのは、この世が造られる前に神様は自分の子供として私たちを選んだことです。

あるクリスチャンたちはそのコンセプトを信じるけど、こう言います。「もし神様が誰を救うかもう選んだのなら、私たちには福音を伝える必要がありません。」

それは言い過ぎです。そのことを言う人々は一つのことを見逃します。神様は私たちに福音を伝えるように命令します。

もちろん神様には私たちの助けが要らないけど、神様は福音を伝えるのに、私たちを用いることを選びます。神様は私たちに御国の鍵を与えてくださいます。でも私たちがそのカギを使わないと、救われる人は誰もいないでしょう。

だからパウロはこう言います。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(14)

そのすべての答えは同じで、明確です。その答えは「それは無理だ」ということです。

信じたことのない人は主を呼び求めません。聞いたことのない方は、信じることができません。延べ伝える人がいなければ、福音を聞く人は誰もいません。

そしてパウロはこう言います。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(15)

もう一度、その答えは「無理だ」ということです。でも注意事項があります。神様は私たち信者たちの皆を、行って福音を伝えるように呼びました。

イエス様は弟子たちにこう言ったが、私たちにも言います。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネの福音書20:21)

また、

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け(ます)。(マタイの福音書28:19)

私たちにはイエス様からの召しを待つ必要がありません。イエス様は私たちをもう呼びました。

だからパウロは、福音を述べた得る人に関して、こう言います。

「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。(ローマ人への手紙10:15)

あなたはどうですか。あなたは御国の鍵を持っています。あなたはどうするでしょうか。

 

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ローマ人への手紙10:6-13--私たちがしなくてはならないこと

ある意味では、救いの道は矛盾しているものです。つまり、その道はとても簡単だけど、それと同時に難しいのです。

パウロはこう書きました。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、「だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを」とは、引き降ろすことです。また、「「だれが深みに下るのか」と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

つまり、救いを得るために私たちにはイエス様を天国から引っ張る必要がないのです。また、私たちにはイエス様をお墓から掘りだす必要がありません。イエス様はもう天国から来て、私たちの罪のために死んで、復活しました。

では、私たちに残されているものは何でしょうか。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(9-10)

簡単に言うと、私たちは心の中にイエス様を主として認め、イエス様が十字架で行った働きを認めることです。

「イエスは主」と言うと、私たちは実は何と言っているのでしょうか。パウロはこう説明します。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(11-13)

その最後の部分で、パウロはヨエル書2:32を引用しました。そして、「主」という言葉は、ヘブル語では、「ヤハウェ」です。「ヤハウェ」とは、神様の名前です。だから、私たちはこの個所をこのように翻訳することができます。「ヤハウェの御名を呼び求める者はみな救われる。」

パウロはこの個所をイエス様に当てはめます。だからパウロが言ったのは、イエス様はヤハウェだということです。要するに、イエス様ご自身が神です。

パウロはピリピ人への手紙2章で、似たことを説明します。その個所では、パウロはイザヤ書45:23を引用します。イザヤ書45:23で、ヤハウェはこう言います。

すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い。。。

そして、パウロはその言葉をイエス様に当てはめます。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。)「ピリピ2:10-11)

だから、私たちが救われたいと思うなら、私たちはイエス様を主と神として認めなくてはなりません。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んで、復活したことを信じなくてはならないことです。

でもそのことを信じるだけでは足りません。私たちは主を呼び求めなくてはなりません。

悪霊たちはイエス様が主であることを知っています。悪霊たちは、イエス様が罪のために死んで、復活したことを知っています。でも、彼らは救われていません。

ただの知識では足りないのです。私たちはイエス様に「私を救ってください」と願わなくてはなりません。そうすれば、イエス様は必ず私たちを救ってくださいます。

だから救いはとても簡単なことです。でもそれと同時に、救いは難しいです。なぜ救いは難しいのでしょうか。なぜなら、多くの人々はそう信じたくないからです。

多くの人々は「私は信じることができません。」と主張します。でも、神様は私たちに十分な証拠を与えてくださいました。私たちには言い訳がありません。すべての人々は信じることができるけど、あえて信じないことを選びます。

自分のプライドのために信じない人もいます。

「その救いの方法は簡単すぎる。自分自身を救うために、私はもっと難しいことをするべきはずです。」

または、

「神様を必要としない。私はもう大丈夫です。霊的な松葉杖が要らない。」

または、

「私は知的な人だから、もう神様を信じない。」

他の人は、自分の罪に執着しすぎます。だから、その罪が彼らを滅ぼしているのに、彼らはその罪を手放し、神様に従いたくないのです。

あなたはどうですか。あなたはどうするのですか。

 

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ローマ人への手紙10:1-5--どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。(2)

前回の記事で私は、どうして神様への道がイエス様しかないかという疑問について話しました。今日の記事では、この疑問について、もっと話したいと思います。

前回の記事で私は言いましたが、パウロは特にユダヤ人たちについて話しています。でもパウロの言葉はすべての宗教的な人々に当てはめられると思います。

パウロはこう言いました。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。(1-2)

パウロは本当に大切なポイントを教えています。多くのユダヤ人たちや宗教的な人たちは神様に対して熱意を持っています。もちろん、それは良いことです。でも、知識に基づかない熱意は良いことではないのです。特に、彼らは、神様が最も望んでいるのが信仰だということを知りません。

さらに、パウロはこう言います。

彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。(3)

それは宗教的な人のもう一つの問題です。彼らは本当の義を知らなかったので、「義」を勝手に定義してしまいました。つまり、彼らは何が良いか、何が罪か、勝手に定義したことです。彼らは、神様が何を望むかを想像して、その想像によって自分のルールを作りました。

そういうわけで、本当の義を知ると、つまりイエスを信じる信仰による神の義を知ると、彼らはその義を拒絶します。むしろ、彼らは自分の作った道を行き続けます。

でも、あなたがたくさんの熱意を持っていても、神様の基準に反対する基準を建てていたら、神様はあなたのことを喜びません。

実は、神様がその人間的な基準を許しても、人々は自分の基準を完全に満たすことができません。

パウロこう言いました。

モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。(5)

もちろん、パウロはユダヤ人とモーセの律法について話したけど、日本では、だれが日本のルールや律法に完全に守るでしょうか。完全にルールや律法を守る人は誰もいません。それでも、多くの人は、ルールを守ることを通して、神様を喜ばせようと思います。

だから、自分の宗教的なルールを建てるとき、二つの意味で彼らは失敗します。

一つ目は、彼らの基準が神様の基準ではないことです。

二つ目は、彼らが自分の基準を完全に満たすことができないということです。

だから、どうして彼らは、神様が彼らを受け入れると思うでしょうか。特に、神様が最も望むのは、彼らが神様に信頼することだけど、彼らはそうしないのです。

それではダメです。

だからパウロはこう言います。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(4)

簡単に言うと、私たちは自分の基準や宗教を捨てなくてはいけません。その基準や宗教を通して、私たちは神様を喜ばせることができませんから。むしろ、イエス様に向けましょう。

キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(第一コリント1:30)

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ローマ人への手紙9:30-33--どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。

多くの人々のキリスト教に関する一つの疑問は、「どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。どうしてほかの道で救われることができないだろうか。」ということです。

この個所では、パウロは一つの答えを教えます。パウロは特にユダヤ人たちについて話しているけど、その言葉がこの世界のすべての宗教的な人に当てはめられると思います。

パウロはこう言いました。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。(30-31)

パウロの言葉をちょっと言い換えて、この世の人々に当てはめましょう。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかったクリスチャンたちが義を、すなわち、信仰による義を得ました。しかし、ほかの宗教を信じる人は、自分の宗教の義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。

どうして私たちはそのようなことを言えるでしょうか。その人々が頑張って自分の宗教の律法に従っても、どうして私たちは彼らの努力が足りないと主張するでしょうか。

パウロはこう言いました。

なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。(32)

要するに、彼らが神様に義と認められる方法かわからないことです。彼らの考え方は全く違います。私たちは自分の良い行為によって、義と認められません。むしろ信仰だけによって、私たちは義と認められます。

この例をちょっと考えてみてください。

愛を伝える5つの方法」という有名な本がありますす。その著者が言ったのは、一人一人は、違う方法で愛を感じるということです。例えば、相手がプレゼントをくれるとき、愛される感じがする人もいます。相手が何かやってくれるとき、愛される感じがする人もいます。褒められるとき、愛される感じがする人もいます。

とにかく、夫がどのように妻に愛を伝えるべきか知らないなら、または、妻がどのように夫に愛を伝えるべきか知らないなら、結婚の中で問題が出てきます。

例えば、夫は妻のためにたくさんのプレゼントを買うけど、彼の予想通りに妻が反応してくれないので、夫はフラストレーションを感じます。

もしかしたら、彼の場合、妻がプレゼントをくれるとき、彼はとても愛される感じがするかもしれません。でも、彼が知らないのは、妻がプレゼントよりも夫との時間を望むことです。だから、彼はたくさんのプレゼントを買っても、彼女は彼の愛を特に感じません。

そのように、人々は、神様に受け入れられるのに、彼らは頑張ってたくさんの良い行為をしなくてはならないと思います。でも、彼らがわからないのは、もちろん神様が良い行為を見て喜ばれるけれど、それよりも、神様は私たちの信仰を望まれているということです。つまり、私たちが神様に信頼する態度を望むのです。

アダムとエバの話では、神様の望みを見ることができます。神様は彼らにこう言いました。「私に信頼しなさい。その木の実を食べるな。その実を食べると、あなたは死ぬから。」

でも彼らは神様を信じないで、その実を食べたので、その関係は壊れました。聖書を読むと、そのパターンを何回も見ます。神様は人々に「私に信頼しなさい。」と言ったけど、彼らは神様を信じずに、神様に背を向けてしまいました。

今なお、そのパターンは続いています。神様は人々にこう言います。「私に信頼しなさい。イエスを信じなさい。イエスはあなたのために救いの働きをすべて行ったから。」

でも、人々は神様を信じずに、自分の努力で義と救いを求めます。

だからパウロはこう言います。

彼らは、つまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。(32-33)

あなたはどうですか。自分の努力と良い行為で、神様を喜ばせようと思っているでしょうか。あなたの努力は無駄です。神様はあなたの努力を望んでいません。むしろ、神様はあなたの信仰を望んでいます。あなたは神様に信頼しているでしょうか。イエス様に信頼しているでしょうか。そうしないと、あなたは躓きます。でも神様に信頼すると、神様がはあなたを受けれるので、あなたは失望させられることがありません。

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(5)

予定説に関するもう一つの疑問について話したいと思います。私が以前に言ったのは、もし神様が人の心の中で働かないなら、救われる人が誰もいないことです。それなら、どうして神様はすべての人々の心の中で働いて、すべての人々を救わないでしょうか。

正直に言うと、私はわかりません。たぶん、私が理解できない要素があるでしょう。さらに聖書では、神様は自分の理由を説明してくれません。

でも、私たちは二つのことを覚えているべきです。

一つ目は、神様が人の信仰をとても大切にすることです。でも、信仰とは、目で見えなくても神様に信頼することです。

しかし、ある人にとっては神様を信じる前、彼らは自分の目で神様を見たいのです。彼らは基本的に言います。「神様の存在の証拠があると認めるけど、自分の目で見ないなら、私は神様を信じない。」

でも、それは信仰の態度ではありません。さらに、多くの場合、その言葉は反抗的な心から来ます。だから多くの場合、神様はその要望を叶えません。

しかし、もう一つのことを考えてみてください。神様は人々の人生の中で働くとき、多くの場合、クリスチャンを通して働きます。そして、神様は私たちにこの世の人々に福音を述べ伝える責任を与えました。神様は天の御国の鍵を私たちに与えてくださいました。それを使わずに、福音を伝えないなら、私たちは神様に問われます。(エゼキエル33:7-9)

でも、神様は私たちがその鍵を使うことを強制はしません。

だから、人々の人生の中で働くとき、神様は二つの方法を使うことができます。神様は直接働くことができます。つまり神様は直接自分自身を現すことができることです。でも、神様は信仰を望むから、その方法をほとんど使いません。

ほかの方法は神様は人々を通してほかの人々に触れることです。でも、神様はクリスチャンたちに福音を伝えるように強制しません。

そういうわけで、たくさんの人々は救われません。

神様はの考え方は正しいでしょうか。神様が私たちの創造者で、すべてのことを知っていて、私たちはただの人間で、私たちが少ししか知らないので、神様の判断を問うことができないと思います。

だから予定説に関して考えるとき、結局アブラハムのように私たちはこう言うべきだと思います。

全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。(創世記18:25)

結局私はそう思います。そして、神様が公正を行うことを信じます。

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(4)

予定説について話すとき、よく出る質問はこうです。

「あなたは、神様が誰が天国に行くかあらかじめ定めると主張します。と言うのは、神様は誰が地獄に行くか、あらかじめ定めるわけでしょう。」

ある程度、私は前回の記事でその疑問に答えました。ある意味、神様は誰が地獄に行くかあらかじめ定めます。でも、誤解しないでください。神様は「あなたは地獄に行け!あなたが悔い改めても、かまいません。イエス様を信じることを選ぼうと思っても、かまいません。私はあなたの運命をもう決めたから。」と決して言いません。

むしろ、神様は彼らにこう言います。「私の計画は、あなたの罪のためにあなたを罰することです。正義を執行しなくてはならないから。」

でも、神様はその宣告を猶予して、その人がただ自分の意志で悔い改めるかどうか待ちます。その人が自分の意志だけで神様を求め始めるかどうか待ちます。でも残念なことは、神様がその人の心の中で働かないなら、自分の意志で神様を求める人は誰もいません。

だから結局私はこう信じます。人々は自分の自由意志によって、地獄に行きます。でも、神様の選びによって、人々は天国に行きます。

神様は人々に自由意志を与えてくださいます。私たち皆は神様に従うかどうか選ぶことができます。でも、神様が私たちの心の中で働かず、私たちをそのままにしていたら、私たち皆は神様に反抗して、自分の道を行きます。例外は全然ありません。それが人間の歴史です。

だから神様は選択をしなくてはなりませんでした。神様が人間をほっといて、皆が滅びることを許すことができました。もしくは神様は働いて、ある人々を救うことができました。

結局、神様はある人々を救うことを選びました。

だからパウロはこう言いました。

また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」(29)

ソドムとゴモラの人々は自分の自由意志で、神様に反抗することを選びました。神様は彼らを憐れむことを選ばずに、彼らが値することを与えました。つまり、彼らは裁かれて死にました。

イスラエル人たちも自分の自由意志で、神様に反抗することを選びました。でも、神様は彼らを憐れんで、彼らが値しないことを与えてくださいました。それは命に至る恵みです。

ソドムとゴモラの人々とイスラエル人たちと、どう違ったでしょうか。イスラエル人たちは何とかソドムとゴモラの人たちより優れた者だったでしょうか。違います。違いは一つだけあります。神様の選びです。神様はイスラエル人を選びました。神様はソドムとゴモラの人たちを選びませんでした。

もう一度私は言います。それは恵みの不思議さです。私たちはほかの人よりも優れた者というわけでもありません。でも、神様は私たちを救うことを選びました。

だから神様の選びによって、私たちは救われました。でも、人々が地獄に行くなら、それは自分のせいです。

 

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(3)

前回の記事で私たちが見たのは、神様は人々を裁くことを決めるけど、その裁きを猶予するということです。その間に、神様は彼らに基本的にこう言います。「私はあなたを裁こうと思っているけど、私の判断が間違っていることを証明する機会をあなたに与えます。私が間違えていたら、そう証明しなさい。あなたが破壊に値しないことを証明しなさい。」

そして神様は忍耐を持って、彼らの反応を待ちます。

エゼキエル書でも、私たちは神様の考え方を見ます。神様はエゼキエルにこう言いました。

わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

また、

わたしが悪しき者に「あなたは必ず死ぬ」と言っても、もし彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公正と義を行った彼は必ず生きる。(エゼキエル書33:14-16)

でも、私が以前に言ったように、問題だったのは人々が悔い改めずに、もっと悪くなってしまうことです。ファラオは一つの例です。

神様は最初にファラオに警告しました。そのあと、神様はファラオを裁きました。でも、ファラオは自分の心を柔らかくしませんでした。彼は悔い改めませんでした。むしろ、彼はあえて、自分の心を頑なにしました。出エジプト記7:13と7:22と8:15と8:19と8:32と9:7で、そのパターンを見ることができます。

そのあと、私たちは初めてこの言葉を見ます。

主はファラオの心を頑なにされた。(出エジプト記9:12)

ファラオが何回も自分の心を頑なにした後、神様は彼にこう言いました。

このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:16;ローマ9:17)

ファラオはをそれを聞いて、もう一つの奇跡を見た後、ちょっと心を柔らかくしたけど、すぐに自分の心を頑なにしました。(9:34)

そのあと、神様自身はファラオの心を積極的に頑なにしました。神様は基本的にファラオにこう言いました。「あなたは自分の心を頑なにしたいと思うのですか。では、私はそのプロセスを早めます。」

神様は、ファラオの心を変えるのにもっと何かをすることができたでしょうか。神様は、ファラオが悔い改めるまで憐れみを示すことができたでしょうか。そうかもしれません。でも、神様にはそんな義務があったわけではありません。逆に、神様は罪を罰する義務を持っていました。そして神様はそうしました。

恵みの不思議さはこうです。私たちはファラオ同然でした。私たちが自分の心を頑なにしたのに、神様は私たちの罪の状態のままにはなさいませんでした。さらに、神様は私たちに値する罰を与えませんでした。むしろ、私たちがやっと神様を信じて、愛するまで、神様は私たちを憐れんでくださいました。

だからファラオのような話を読むと、私たちはファラオと他の裁かれた人々を見下すことはできません。むしろ、パウロはこう言います。

しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。(23)

つまり、私たちがこんな話を読むとき、私たちがその裁かれた人々同然なのに、神様が私たちを選んで救ったことに驚くはずです。

私たちが神様の民ではなかったのに、神様は私たちを自分の子供にしました。私たちが神様の愛にふさわしくなかったのに、神様はその愛を私たちの上に浴びました。(9:24-27)

それが恵みの不思議さです。

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(2)

前回の記事の最後では、私はこう訊きました。「もし私たちの救いが神様の選びだけによるなら、神様はみだりに誰を救うか、だれを地獄に送るか選んでいるのですか。」

もちろん神様はみだりに選びません。神様が確定した計画を持って、神様のすべての決断はその計画に基づいています。

しかし、神様は私たちにその計画を完全に現わしていません。また、神様は自分の決断の理由を全部現していません。特に、どうして神様がある人々を救うか、ある人々を救わないかを説明していません。

だからこの疑問どう考えても、私たちは完全に理解することができません。神様はすべてをまだ現わしていませんから。

だから多くの人々は、神様の選びが不公平だと思います。

ですから、神様は「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」(15節)と言って、また、モーセは、「ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。」(18節)と書くと、人々はこう叫びます。「不公平だ。どうして、神様はある人を憐れむけど、ある人を憐れまないだろうか。もし、神様がある人々を憐れまずに、その心を頑なにするなら、どうして神様は彼らを地獄に送るのだろうか。それは彼らのせいではない。だって、だれが神の意図に逆らえるのですか。(19節)」

パウロは、二つの答えを教えます。

人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。(20-21)

要するに神様は創造者です。神様は自分が造ったものを好きなように扱う権利を持っています。また、神様は、自分の目的を果たすためにその造ったものを好きなように用いる権利も持っています。

でも、そう言った後で、パウロは興味深いことを言います。

それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。(22)

パウロは何を言いたいのでしょうか。たぶんパウロのポイントはこうです。神様は自分の計画を作ったけど、滅ぼされるはずの怒りの人にこう言いました。「あなたは私の判断が間違えていると思うでしょうか。では、私の判断が間違えいていることを証明しなさい。あなたが救いに値することを証明しなさい。」

そして、神様は待っていました。そして、神様はさらに待っていました。そして、神様はさらに待っていました。でも、神様が待てば待つほど、その人々は悪くなりました。

カナン人は、その例の一つです。アブラハムが初めてカナンに着いたら、神様は彼にこう言いました。

そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。(創世記15:16)

要するに、神様はアモリ人たちを裁くことを決めたけれど、すぐにその裁きを実行しませんでした。逆に、神様は彼らが破壊にふさわしくないことを証明する機会を与えました。でも毎日、毎日、彼らが証明したのは、自分たちがその裁きに値するということです。そして、神様はイスラエル人をエジプトからカナンに導いた時、イスラエル人を通してその裁きを実行しました。

大洪水の前に神様は似たことをしました。ノアはずっと周りの人々に警告しました。「神様はあなたたちを裁くことを決断した。あなたは悔い改めないと必ず滅びるでしょう。」

ノアがその箱舟を作っている間、ずっと彼らに警告したので、彼らは悔い改める機会がたくさんありました。彼らは神様の判断が間違えていることを証明する機会がありました。彼らがそんなに悪い人じゃないことを証明する機会がありました。でも結局彼らが証明したのは、自分たちがその裁きに値することでした。

だから覚えていてください。人々が本当に神様を求めて、従いたいと思うのに、神様は彼らをみだりに地獄に送るというわけではありません。彼らが「神様、私は悔い改めます。赦してください。」と言うのに、神様は「残念だけど、私はあなたを選んでいないので、君が地獄に行かなくてはならない」と答えるわけではありません。

むしろ、人々が神様に背を向けることを選んで、神様が彼らに悔い改める時間をどんなに与えても、彼らは自分が破壊に値することを証明します。

だから、パウロはこう言います。

ですから、これ(つまり、神様の選び)は人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

もし、神様の選びが私たちの願いや努力によるなら、救われる人は誰もいないでしょう。なぜなら、神様が彼らをほっといていたら、神様に従おうと思う人は誰もいないから。だから、神様はの選びはただ自分の恵みと憐れみによります。次の記事で、そのことをもっと説明します。

 

 

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(1)

聖書な中で、最も難しいコンセプトの一つは、神様の選びということです。つまり、神様が人々を聖徒として選ぶことです。

神様の選びを考えると、人間の自由意志というコンセプトと矛盾するようです。また、神様の選びというコンセプトは、神様がすべての人々を愛するという考え方と矛盾するようです。

私の意見を言う前に、私が言わなくてはならないのは、神様の選び、また、予定説に関して、私たちの知識は不完全だということです。その疑問をどう見ても、私たちはそのコンセプトを完全に理解することができません。

今日の個所で、パウロはユダヤ人に対する自分の悩みを表現します。なぜパウロは悩んでいたでしょうか。神様が自分自身をユダヤ人たちに現したのに、多くのユダヤ人たちはイエス様をメシアとして拒絶したから。パウロ自身がユダヤ人だから、特に悲しんでいました。

でもパウロは、アブラハムの子孫への神様の約束が無効になったわけじゃないと言いました。パウロは二つの理由を教えます。

一つの理由は、11章に書いてあります。もう一つの理由はこの個所に書いてあります。

パウロの最初の答えは、ただの系図によって、人々は「私はユダヤ人だ」と主張することができないことです。自分の意味を説明するのに、パウロはイサクとイシュマエルについて話します。

パウロは「肉の子供」と「約束の子供」と比較対照します。「肉の子供」というのは、自然に生まれた子供です。イシュマエルは肉の子でした。アブラハムはハガルという若い女性と寝て、結果イシュマエルが生まれました。でも、イサクが「約束の子でした」。アブラハムの妻サラはずっと不妊でした。でも、神様は「サラは息子を産む」と約束しました。そして彼女は90歳になった時、イサクを生みました。神様の約束と力だけによって、彼女はイサクを生むことができました。

そのように、アブラハムの子孫になるのは、自然のプロセスではなりません。それは系図によらないものです。むしろ、神様の恵みと約束だけによって、私たちはアブラハムの霊的な子孫になるのです。

でも、パウロはとても大切なポイントを教えます。その約束は私たちの行動に基づいていません。

エサウとヤコブの話を通して、パウロはそのポイントを描写します。

その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。(11-12)

パウロのポイントは何でしょうか。神様がヤコブを選んだ理由は、ヤコブがエサウよりも優れた人というわけではありません。ヤコブが品行方正だったというので、神様は彼を選んだわけではありません。むしろ、恵みによって、神様は自分の目的を果たすのに、ヤコブを選んで、約束をしました。

多くの人々は神様の選びをこのように説明しようとします。「神様は自分の予知によって人々を選びました。神様は誰が良い人になるか、悪い人になるかあらかじめ知っていました。また、神様は、だれが神様を選ぶか、選ばないかあらかじめ知っていました。だから、神様はその予知によって人々を選びました。」

でも、神様は人々をそのように選ぶなら、11節にあるパウロのポイントは無意味です。その考え方によれば、人々の行ったことによるわけではなく、人々が将来に何をするかという神様の知識によって、神様は人々を選びました。

でも、パウロによれば、神様の選びは人々の過去の行為や将来の行為によりません。むしろ、パウロは「行いによるのではなく(過去の行いでも、将来の行いでも)、召してくださる方によって」と言います。

そして、パウロは預言者マラキの言葉を引用します。

わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。(13)

私はその言葉をこの記事でもっと説明したけど、簡単に言うと、神様のポイントは、ヤコブの行為によらずに、神様の恵みと目的によって、ヤコブを選んだということです。

でもそれは不公平ではないでしょうか。神様は、だれを救うか、だれを地獄に送るか、みだりに選ぶのでしょうか。次の記事で、私はその疑問について話します。

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ローマ人への手紙8:35-39--私たちが苦しんでも

今日の個所では、パウロは15-18節の話をまとめます。

15-16では、パウロは、私たちが神様とどのような関係を持つかを教えます。私たちは神様を恐れないで、神様の御前に来て「アバ、お父さん」と言う権利を持っています。

そして、17-18節では、パウロは、私たちがこの世界で苦しむときもあると警告します。時々、私たちはイエス様に従うゆえに苦しみます。時々、ただこの壊れた世に住むことによって、私たちは苦しみます。

でも、35節では、パウロは私たちにとても大切なことを思い出させます。私たちは苦しむとき、その言葉を覚えているべきです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」(35-36)

もちろん、その答えは、私たちをキリストの愛から引き離すことができるものが何もないということです。私たちが直面する苦難や、迫害や、災害や、飢えなどは、私たちをその愛から引き離すことができません。私たちは死んでも、神様の愛から離れません。

でも、パウロは続けます。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(38-39)

だから、霊的な力や、私たちの心配や将来への恐れや、この世にある力も、私たちをイエス様の愛から引き離すことができません。あなたが海底にいても、宇宙にいても、どこにいても、神様の愛はあなたに触れることができます。

だからパウロはこう言えます。

これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(37)

要するに、イエス様は十字架で勝利を得たので、最終的に私たちも勝利を得ます。十字架でイエス様はサタンを破って、その計画を狂わせました。

だから、サタンが私たちを誘惑したり、責めたり、苦しめたりしても、神様が私たちをまだ愛しているので、私たちには希望があります。そして、私たちをその愛から引き離すことができるものは何もありません。

だから、苦しむとき、その愛によって安心しましょう。その愛の慰めを受けましょう。なぜなら、神様の愛は私たちを決して手放さないから。そしてどんな試練に直面しても、その愛によって私たちは乗り越えます。

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ローマ人への手紙8:29-34--神様が私たちの味方ならば。。。

クリスチャンたちにも、罪悪感を持って、神様に責められるように感じるときもあります。私たちの悪い決断によって、すべてがめちゃくちゃになって、私たちは「どうして私はいつも失敗するの?」と思います。

または、私たちは誘惑と戦って、「私は長い間クリスチャンだったが、どうして私はまだこの罪に誘惑されるだろうか。」と思います。

または、私たちは聖書で御霊の実のことを読むとき、自分自身を批判します。「愛?いや、私にはその実があまりないのだ。寛容?いや、ないのだ。柔和?いや、それもない。」

そして、私たちは自分自身に訊きます。「どうして私はその実を持っていないのだろうか。どうして私は変わらないだろうか。私はやっぱりだめだろうか。」

でも、前回の記事で私が言ったことを覚えていてください。神様はこの世を造る前に、あなたのことをよく知っていました。神様は、あなたがどんな人になるかよく知っていました。神様は、あなたがどんな罪と戦うか知っていました。神はあなたの人生で、どの実が現れるのに長い時間がかかるかを知っていました。そして神様は、あなたが御子のようになるのに、何年かかるか知っていました。

それでも、神様はあなたを選びました。そして神様はあなたを召しました。そのあと、神様はあなたを義と認めました。そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えます。その日、私たちは、キリストに似た者になります。なぜなら、キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だからパウロはこう言います。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(31)

神様は私たちの味方です。神様はあなたを選んだほどに、愛していました。だから誰があなたに反対できるでしょうか。

パウロはそのコンセプトをもっと説明します。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(32)

要するに、神様が私たちの最大の必要、つまり、私たちの罪の赦しに備えていたら、私たちのほかのニーズにも備えてくださいませんか。

だからイエス様はこう言いました。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:31-33)

そして、パウロは私たちを神様の法廷に導いて、こう訊きます。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。(33)

つまり、神様の法廷で、神様はあなたを訴えていないことです。逆に、神様はあなたを義と認めているのです。

そしてパウロは訊きます。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(34)

キリストは、あなたを責めていません。私たちが裁かれないように、イエス様は十字架で死にました。さらに、イエス様は裁判官の右手に座り、あなたのためにとりなしてくださいます。

その判決はもう決まったでしょう。裁判官も検事もあなたの味方です。それなら、どうして私たちはいつも自分自身を責めるでしょうか。裁判官と検事はそうしません。だから私たちには、自分自身を責める必要がありません。

だから、罪悪感を持って、裁かれるように感じるとき、また、あなたが神様の恵みに値しないと思うとき、この個所を覚えていてください。

神様はあなたの味方です。あなたが生まれる前に、神様はあなたの味方でした。そして永遠まで、神様はあなたの味方です。

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ローマ人への手紙8:29-30–私たちの希望の理由(2)

この個所では、私たちの苦しみの中で希望を持つ理由をもう一つ見ることができます。それは、永遠の昔から神様は私たちのために計画を持ったことです。パウロはこう書きました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(29-30)

多くの人々は自由意志や予定説(つまり、神様はあらかじめすべてのことを定めたこと)というコンセプトを考えて混乱します。他の記事で、私はそのことについて話したし、また9章について書くとき、もう一度そのことについて話します。

でも、当分クリスチャンのためにパウロの言葉の意味合いを考えてください。

あなたが生まれる前から、神様はあなたのことをよく知っていました。エペソ人への手紙1章では、パウロが言ったのは、この世を造る前に、神様はあなたのことを知っていたことです。神様はあなたの良い点も、あなたの悪い点もよく知っていました。神様はあなたの得手不得手をよく知っていました。神様は、あなたが何の良いことをするか、何の悪いことをするか知っていました。

それでも、神様はあなたを選びました。あなたのために良い計画を作りました。その計画は、あなたが神様の御子の形と同じ姿に変化されることです。あなたが罪深くて、弱い反抗的な人になるとよく知っていたのに、神様はあなたに恵みを与えて、あなたを栄光のあるものに変えるように計画しました。

その計画を実行するのに、神様はあなたを召しました。あなたが神様を求めていなかったのに、神様はあなたを召しました。そして、あなたが信仰を持って神様に向かうと、神様はあなたを義と認めました。イエス様が十字架であなたの罪の代価を支払ったので、神様はあなたに関して「無罪」と宣言できます。そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。イエス様の体と同じような体を与えてくださいます。その体は決して滅びないし、罪で汚れないものです。その体は本当に栄光のあるものです。

それは神様のあなたのための計画です。そして、その計画は確実なものです。所詮、神様の計画を変えることができるものが全くないでしょう。神様は永遠からすべてのことを知っていたので、神様は私たちを見るとき、こんなことを決して言いません。「あれ?彼を選んだけど、ダメになっちゃった。彼の人生はめちゃくちゃになった。もうダメだ。私さえ彼を救うことができない。」

神様は絶対そんなことを言いません。神様はそもそもあなたのことを全部知っていたのに、あなたを選びました。そして、パウロは私たちへの神様の賜物に関して、こう言います。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(ローマ人への手紙11:29)

あなた自身を見るとき、気が重いでしょうか。あなたがクリスチャンとしてあまり進んでいないと思って、失望しているでしょうか。神様は失望していません。神様はずっと昔からあなたを知っていました。神様はそもそも、あなたがイエス様の形と同じ姿に変化されるために何年かかるかよく知っていました。だから神様は決してあなたのことをあきらめません。

そして、あなたがどんな試練に直面しても、その試練は神様の計画を狂わせません。神様はびっくりしたことがありません。神様はあなたをどのように助けるかもう知っています。だから、苦しんでも、絶望しないでください。そして、パウロの言葉を覚えていてください。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(28)

 

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ローマ人への手紙8:26-28--私たちの希望の理由

聖書の中で、これは最も好きな個所の一つです。実は、26節から8章の最後までの言葉が大好きです。どうしてでしょうか。この個所は私たちの希望の理由を伝えるからです。

多くの人々は28節を引用します。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(28)

でも、どうして、神を愛する人たちのために、すべてのことがともに働いて益となるのでしょうか。26-27節では、パウロはその理由を説明します。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(26-27)

祈りの時に、しばしば私たちは何のために祈ったらいいか、また、どう祈ったらいいか分かりません。どうしても私たちの言葉が出なくて、祈れない時もあります。また他の時、私たちは間違っていることのために祈ってしまいます。私はイエス様のたとえを使うけど、私たちはパンのために祈ると思っているけど、実は、私たちは石のために祈っているときもあります。

でも良い知らせは、神様が私たちの弱さや、間違ている祈りに限定されていないということです。神様が一番望んでいるのは、私たちが神様と話していることです。私たちが祈るとき、聖霊様は私たちのためにとりなしてくださいます。聖霊様は、私たちのうめきや、言葉のない祈りや、間違った祈りを取って、神様の御心に合う祈りに変えてくださいます。

だから、パウロはこう言えます。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(28)

私にとって、その言葉はとても心強いです。

私の娘が赤ちゃんの時に、時々私と私の妻はフラストレーションを感じました。なぜなら、娘が泣いた時、どうして泣いていたかわからなかった時もあったから。彼女の泣き声や叫びは私たちに彼女のニーズをちゃんと伝えませんでした。だから、私たちは彼女のニーズを推測しなくてはなりませんでした。当たっていたときもあったけど、全然当たっていない時もありました。

でも、私たちがうめいたり、言葉を使わずに祈っても、聖霊様は私たちのニーズをよくご存じです。だから聖霊様はちゃんととりなすことができて、私たちを助けることができます。

あなたはどんな試練に直面しているでしょうか。祈るときに、フラストレーションを感じるでしょうか。あなたの祈りが天井にぶつけて止まるように感じるでしょうか。

希望があります。今なお、聖霊様はあなたのためにとりなしてくださいます。そして、その祈りは神様の御心に合っています。だから、安心してください。神様は働いて、あなたの試練から良いことをもたらします。

 

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ローマ人への手紙8:16-25--どうして私は苦しまなくてはならないだろうか

16-17節の言葉は本当に心強いものです。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。

すべてのクリスチャンはそれを読んで、励まされるでしょう。私たちは神様の愛する子供です。私たちは神様の相続人です。

でも、パウロは続けます。

私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

苦難?苦難を全然望みません。パウロはどんな苦難について話しているでしょうか。

35節で、パウロはちょっと例を挙げます。「迫害」とか「 飢え」とか、 「裸」とか、 「危険」と か、 「剣」 です。

私たち皆は苦しみを経験することがあります。この世では、私たちは苦しみを避けることができません。もちろん、ノン・クリスチャンはそうできないけど、クリスチャンでも、苦しみを避けることができません。なぜなら、キリストに従うと、そのためにあなたを憎む人もいるから。

でも、どうして私たちは苦しまなくてはならないでしょうか。どうして神様は単にその苦しみを取り除かないでしょうか。だいたい、どうして神様は苦しみを許すでしょうか。それは難しい疑問です。パウロはその答えの部分を説明します。

被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(20-22)

どうして地震や、津波や、ほかの天災が起こるでしょうか。どうして先天的障害や、ほかの疾患や、死があるでしょうか。神様はそれらを取り除くことができるでしょうか?もちろん神様はそうできます。でも、神様はそれらのものを許します。なぜでしょうか。

そんなものがない世界を想像してください。もちろん私たちの人生は楽になるでしょう。でも必ず人々はまだ罪を犯すでしょう。彼らは神様のことを考えずに罪を犯すのに、平気な態度を持つでしょう。彼らは、自分の罪の悪さに気づかないでしょう。だから、この世の状態はさらに悪くなるでしょう。

でも、この世の苦難を通して、人々は自分の死ぬべき運命に向き合わなくてはなりません。また、彼らは罪の悪さに向き合います。そして、人々は目が覚めて、神様を求めて、救われます。

だから、神様はこんな苦難を許せます。神様の望みは、人々が神様に向かって、本当の喜びを知ることです。そして、神様の救いの計画が成就したら、イエス様はこの世に戻って、すべてを新しくします。

でもパウロによれば、その日が来るまで、この世は産みの苦しみを経験します。死に至る痛みではなく、新しい命に至る痛みです。そして、この世の苦難を通して、たくさんの人々は神様に向かって、神様の子供になって、神様の国は広がります。

それでも、この世の産みの苦しみは本当に大変です。

クリスチャンたちの苦しみも本当に大変です。パウロはこう言います。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(23)

私たちの苦しみのゆえ、私たちはうめきます。私たちは自分の罪と戦って、うめきます。この世の罪や苦しみから解放される日を待ち望みます。

でも私たちは待っている間に、希望があります。それは、私たちがキリストとともに苦難を経験しているけど、イエス様の栄光も受けることです。また、その栄光と比べると、その苦しみは取るに取りないものです。(18)

そして、私たちには、いつかすべてが新しくなるという希望を持っています。

それは今、目に見えない希望です。パウロによれば、「目に見える望みは望みではありません。」(24)

でもパウロはこのことも言いました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)

では、待っている間に、私たちはどうするべきでしょうか。忍耐して望みましょう。必ずその希望は現実になるからです。

あなたはどうですか。あなたは今苦しんでいるでしょうか。あなたは希望を持って、待ち望んでいるでしょうか。

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ローマ人への手紙8:12-17--全く違う関係に導かれた

もしかしたら、6章で自分が書いた言葉を考えてみたら、パウロはその言葉をもっと説明したほうがいいと思ったのかもしれません。

6章では、パウロが書いたのは、私たちがかつて罪の奴隷だったけど、今私たちが神様の奴隷だということです。

「神様の奴隷」という言葉はちょっと不思議な言葉です。たぶん、パウロのポイントは、私たちが完全に神様のものになったということでしょう。でも、「奴隷」を聞くと、「自由がない」とか「罰の恐れ」というイメージが思い浮かぶでしょう。

だから、パウロはその誤解を解こうと思ったかもしれません。パウロはこう言いました。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(15-17)

つまり、聖霊様はあなたを導くけど、全然厳しい主人ではありません。あなたが罪を犯したり、失敗したりしたら、聖霊様は鞭であなたを罰しません。また、「あなたはだめな人だ。天の父は決してあなたなんて受け入れることができません。」と言いません。

むしろ、私たちが自分の失敗を見て、絶望するとき、また、放蕩息子のように神様を「お父さん」と呼ぶ権利がないと思う時、聖霊様は私たちの心にささやきます。「ちょっと待ってよ。あなたはまだ神様の子だよ。天の父はまだあなたを愛しているよ。神様をお父さん」と呼んでもいいよ。天の父はそれを聞いて、本当に喜ぶから。」

そして、私たちが試練に直面して、苦しむとき、聖霊様は、私たちがまだ希望があると思い出させます。私たちは神様の相続人だから。そして、私たちの苦しみは永遠に続けません。

簡単に言うと、私たちは単なる奴隷ではありません。私たちは神様の愛する子供です。それを決して忘れないでください。

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ローマ人への手紙8:5-16--私たちがイエス様に属すると

5-8節を一目見ると、私は、パウロがクリスチャンについて話しているかどうか疑問に思いました。つまり、パウロは、神様を全然知らない、自分の罪深い心に従う人について話しているでしょうか。もしくは、パウロは、死んだ罪深い心の残った影響に従い続けるクリスチャンについて話しているでしょうか。

でも、9節を読むと、パウロがノンクリスチャンについて話しているのが明らかです。パウロはこう言いました。

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。(9)

5ー8節では、パウロが言ったのは、罪深い心を持つ人(つまり、「肉のうちにある人」)は、神様を喜ばせることができないということです。実は、その人は神様に敵対します。その人が行く道は、死へと導きます。

でも、9節では、パウロは私たちをその罪深い心を持っている人と比較対象します。パウロが言ったのは、御霊を持っていないなら、あなたはキリストのものではないということです。要するに、聖霊様があなたのうちにおられないなら、あなたは本当にクリスチャンではありません。

しかし、聖霊様があなたのうちにおられるなら、聖霊様はあなたの心の中で働いて、イエス様と同じかたちにあなたを変えています。あなたはもはや罪深い心の奴隷ではないのです。

そして、パウロはこう言います。

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(10)

パウロによれば、私たちの罪のゆえ、私たち皆はいつか亡くなります。でも、イエス様は私たちのうちにおられて、自分の義を私たちに与えてくださいます。だから、私たちの体が死んでも、私たちの魂は生き続けます。でも覚えていてください。神様は私たちに関して、「無罪」と宣言するけど、それだけではなく、神様は私たちを本当の義人に変えてくださいます。

パウロは続けます。

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(11)

私たちは、二つの希望を持っています。

一つ目は、私たちのうちにおられる御霊のゆえ、私たちの体が死んでも、私たちは新しい死ぬことができない体を受けることです。

でも、今なお、聖霊様は私たちに命を与えてくださいます。聖霊様は私たちをイエス様と同じかたちに変えています。私たちの性格は変わりつつあって、神様の計画通りに生き始めます。

それでは、私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。パウロはこう言います。

ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。(12-14)

つまり、私たちには、死んだ物に対しては全然義務がありません。私たちは、死んだ罪深い心を拝んではなりません。死ぬ前に、その罪深い心は私たちを死に導いていました。

でも、聖霊の力と導きによって、私たちはその罪深い影響を滅ぼすと、私たちは本当の命を知ります。パウロによれば、神様の子供たちの皆はそうします。

あなたはどうですか。あなたには、罪深い心に義務があるかのように、生きているでしょうか。もしくは聖霊の導きによって、神様の子供として歩んでいるでしょうか。

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ローマ人への手紙8:1-16--私たちを責める言葉が一つもない

映画中で私がもっとも好きな映画の一つは「 ア・フュー・グッドメン」です。

とても印象的なシーンは、軍事裁判所で二人の被告は判決を聞くときです。その直前、海兵隊の大佐は、その海兵隊員たちに別の海兵隊員を「しつける」ように命じたことを認めました。でもその命令によって、彼らはその海兵隊員を誤って殺してしまいました。

もちろん、その大佐は逮捕されたましたが、そのあとに陪審員たちはまだその二人の海兵隊員に関して、どうするべきか決めなくてはなりませんでした。

陪審員が判決を決めて後、裁判官はその判決を読みました。

「殺害の容疑に関して、陪審は被告人たちに無実の判決を下します。」

「殺害を謀る容疑に関して、陪審は被告人たちに無実の判決を下します。」

それを聞いて、たぶん皆はその二人が全然罰されないと思いました。

でも、裁判官は続けました。

「米国の海兵隊員としてのふさわしくない行為の容疑に関して、陪審は被告人たちに有罪の判決を下します。」

そして、裁判官はその宣告を下しました。

でも、その裁判官と違って、パウロは私たちについて全然違うことを言います。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(1)

ある聖書学者は、この個所をこのように言い換えました。「神様は私たちに責める言葉を一つも言いません。」

その映画の裁判官と違って、神様は「この容疑に関して、あなたに無罪の判決を下す。この容疑に関して、あなたに無罪の判決を下す。でも、この容疑に関しては、あなたに有罪の判決を下す」と言いません。むしろ、神様は私たちに「すべての容疑に関して、あなたに無罪の判決を下します。」と言います。

どうしてでしょうか。

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを開放したからです。(2)(「原理」は別訳です。聖書の脚注を見てください。)

罪と死の原理とは、何でしょうか。それは、「罪を犯すと、あなたは死ぬ」という原理です。もし神様の律法に違反すると、あなたは裁かれます。私たち皆、罪を犯したので、もう裁かれています。

でも、御霊の原理は私たちを罪と死の原理から解放します。御霊の原理とは、何でしょうか。それは、私たちが神様の恵みによって、神様に義と認められることです。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは新しい命を受けました。

パウロは続けます。

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪の清めのために遣わし、肉において罪を処罰されました。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるためなのです。(3-4)

律法にできないことは何でしょうか。律法には、私たちを義人にすることができませんでした。どうしてでしょうか。律法は何が善か悪かを示すことしかできませんでしたから。でも、私たちが神様に逆らう罪深い心を持っていたので、私たちはその律法に従いたくありませんでした。

神様はそれを見て、何をしたでしょうか。神様はその罪に対処するためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様は罪を犯さずに、完全に律法に従いました。そして、十字架で、天の父はイエス様に私たちの罪を置きました。私たちの代わりに、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。律法によれば、すべての罪は罰せられなくてはなりません。イエス様が十字架で死んだとき、私たちのすべての罪は罰されました。だから、イエス様を通して、律法の要求が満たされました。

でもそれだけではなく、私たちがクリスチャンになるとき、神様が聖霊様を遣わして、聖霊様は私たちのうちに住むようになります。そして聖霊の導きによって、私たちは義人として生き始めます。私たちが、死んだ罪深い心の影響を感じるかもしれないけど、聖霊様が罪に対して勝利を与え、私たちは神様の計画通りに生き始めます。

そして、私たち裁かれるかのように感じるとき、また、神様の愛と恵みにふさわしくないと感じるとき、聖霊様は私の心にささやきます。「あなたは神様の子供です。あなたは神様に属する者です。あなたはもう裁かれていません。」

あなたはどうですか。「神様は、私が安心することを待って、そしていきなり私をきっと罰する」と思うでしょうか。

神様は絶対そうしません。あなたが神様に属するなら、あなたに対して責める言葉が一つもありません。

だからパウロはこう言います。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(15)

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ローマ人への手紙7:14-25--希望

前回の記事で、私は、私たちに罪に勝つ希望があると言いました。

それでも、多くのクリスチャンたちは絶望してしまいます。彼らは訊きます。「私は本当にクリスチャンだろうか。私は何回も罪を犯すけど、本当のクリスチャンがそうするはずはないだろう。私は正しいことをしたいのに、何回も失敗する。」

でも、パウロの言葉を読んでください。

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。。。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(15-16,19-20)

この個所のテーマは何でしょう?それは、「戦い」です。

神様の恵みに触れられていないノン・クリスチャンは罪と戦いません。多くの場合、彼ら自分の罪の問題に気づきません。でも、クリスチャンはその問題に気付いて、戦うのです。

もし、「私はクリスチャン」と言い張る人が、神様が罪に関して何を言ったか知っていても、あえて罪を犯しながら、「私が罪を犯しているって?罪を犯していないよ。」と言うなら、私はその人の「私はクリスチャン」という主張を疑うでしょう。もしかしたら、彼らは本当はクリスチャンじゃないかもしれません。もしかしたら、彼らはクリスチャンだけど、自分の心を固くして、もう神様の声が聞こえなくなったのかもしれません。

(もちろん、神様の言葉をあまり知らない若いクリスチャンたちもいます。その人の信仰を疑っていないけど、私たちはその人をちゃんと教えなくてはなりません。)

でも私は、罪と戦っているクリスチャンの信仰を疑いません。逆に、神様がその人の心の中で働いている確信を持っています。そして、もし神様がその人の心の中で働ているなら、神様はきっとその働きを完成してくださいます。パウロはこう言いました。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り。。。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信してます。【ピリピ1:4,6)

もし神様があなたの罪を指摘しているなら、神様があなたをほっといて豚小屋に置かないことを信じて、安心してください。神様はあなたに勝利を与えてくださいます。それは私たちの希望です。

だから、パウロは「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」と叫んだけれど、またすぐに「神に感謝します。それは、私たちの主イエス・キリストによるのです。」と叫ぶことできました。(25節の別訳です。その脚注を見てください。)

私たちは自分自身をより良い人にすることができません。私たちは自分自身を変える力を持っていません。でも、神様はそんな力を持っています。それは私たちの希望です。どうやって私たちは変わることができるでしょうか。私たちのうちに住んでおられる聖霊様を通して。でもそれは別の記事のトピックです。どうぞお楽しみに。

 

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ローマ人への手紙7:14ー25--どうして私たちはまだ罪と戦うでしょうか。

前回の記事でも言いましたが、聖書の学者はこの個所について議論します。つまり、パウロが罪との戦いについて話すとき、クリスチャンとして話しているでしょうか。もしくはノン・クリスチャンとして話しているでしょうか。

とりあえず、パウロがクリスチャンとして話していると仮定しましょう。

パウロはこう言いました。

。。。私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。(14)

また、彼はこう言いました。

。。。この私は。。。肉では罪の律法に仕えているのです。(25)

その言葉を読むと、当然起こる疑問はこうです。もしパウロがクリスチャンとして話しているなら、神様が彼を贖って罪から解放したのに、どうしてパウロは「私は売り渡されて罪の下にあるものです」と言ったのでしょうか。

また、パウロはこう言いました。

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。(18)

でも、パウロがクリスチャンとして話しているなら、聖霊の力によって、パウロは良いことをしたいという願いを実行できるはずではないでしょうか。

それはとてもいい質問です。私たちはその疑問に答えなくてはなりません。でも、もしあなたが、パウロがノン・クリスチャンとして話していると思うなら、もっと難しい疑問が出てきます。

一番難しい個所は17節です。

ですから、今それ(つまり、罪)を行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(17)

そして、20節で、パウロは同じようなことを言います。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(20)

どうやって、ノン・クリスチャンは、「もはや私は罪を犯さない」と言えるでしょうか。ノン・クリスチャンは生まれつきの罪深い心をもって、神様に反抗しています。

私が以前言ったように、その罪深い心はノン・クリスチャンを定義します。また、その人は罪深い心と「結婚」しているので、死に至る実しか結ぶことができません。だから、どうやって、その人は「罪を犯しているのに、それは私の本当の姿じゃない」と言えるでしょうか。

でも、クリスチャンたちはそのことを言うことができます。だから私は、パウロがそのことをクリスチャンとして言っていると思います。

私たちが以前の記事で見たのは、私たちがクリスチャンになると、神様に反抗する私たちの罪深い心が十字架につけられて死んだということです。私たちの「元夫」が死にました。その罪深い心は、私たちを影響に与えることができません。

でも、私たちの体や、思いや、心は、私たちが生まれたからクリスチャンになるまで、その罪深い心に影響されています。その傷、つまり、罪深い行為のパターンは残っているし、今でもその影響を感じます。要するに、その罪深い心は死んだけど、その影響はまだ生きています。そして私たちはこの世に生きて、その傷が残る限り、私たちは罪の下にある者です。

そのように考えたら、パウロの言葉が分かりやすくなると思います。

本当の私は、もはや罪を犯したくないのです。神様に反抗する罪深い心がもう死にましたから。だから今、心の中で、私は正しいことをしたいと思います。神様を喜ばせたいと思います。でも、罪の傷がまだ残っています。その罪を犯す傾向が残っています。私たちの罪深い心は亡くなったけど、その影響はまだ残っています。だから、私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できません。

私は相手を許したいと思うけど、できません。自分の子供に対して忍耐を持ちたいと思うけど、できません。

では、私は何を言いたいのですか。この世に生きる限り、希望がないでしょうか。私たちが生きる限り、罪との戦いを負けるでしょうか。

そういうことではありません。今度の記事で、そのことをもっと話します。

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ローマ人への手紙7章14ー25--私たちの罪深い心が本当に死んでいるだろうか

ローマ書6ー7を読んだとき、私は自分自身にいろんな疑問を訊きました。一つの疑問は、「私たちの罪深い心が本当に死んでいるだろうか」ということです。

どうやって、その疑問に答えるかが、あなたのローマ書7章の解釈に影響を与えます。特に14ー25節の解釈に影響を与えます。

その個所では、パウロは律法に出会ったとき、パウロが律法に従えないと分かってきたと告白しています。でも、パウロは自分のノン・クリスチャンの経験について話しているでしょうか。もしくは、パウロはクリスチャンとして、罪の戦いについて悩んでいることを認めているでしょうか。

だから、その個所を見る前に、私たちと自分たちの罪深い心の関係について話したいと思います。私たちはまだ罪深い心を持っているでしょうか。聖書学者たちはそのことを議論します。私の意見が正しいかどうかわからないけど、取り合えずその意見を伝えておきます。(10年後に、その意見が変わるかどうかわからないけど。)

私が以前言ったように、「罪深い心」と言うと、私は神様に反抗する生まれつきの態度について話します。私たちが生まれてから、その態度をもって、私たちが年を取れば取るほど、その態度は私たちの考えや、行為に浸透します。最終的に、その態度は私たちを定義することになりました。

悪い伝染とゾンビの話を覚えているでしょうか。そのゾンビのウイルスが人に伝染して、結局そのウィルスはその人を定義します。つまり、その人はゾンビになります。そのように私たちが無実の赤ちゃんの時、罪深い心は私たちに伝染して、結局私たちは本格的な罪人になります。

でも、私たちが救われたとき、何が起こったでしょか。その罪深い心は十字架で付けられて死にました。今や、私たちはイエス様と「結婚」しています。でも今でも、罪からの残った結果を見ることができます。

ちょっと考えてみてください。ある女性は、夫に虐待されました。だから彼女は肉体的な傷や、精神的な傷を持っています。そして、その夫が亡くなります。彼はもう積極的に彼女を傷つけることができません。でも、彼の過去の行為はまだ彼女に影響を与えます。その肉的な傷や精神的な傷がまだ残っているから。

いろんな意味で、その夫とその行為はその妻を定義します。だから、将来に別の男性と付き合う時、彼女は元夫の悪い影響を感じるでしょう。例えば、彼女を虐待する人と付き合うかもしれません。または、いい人に出会っても、彼女はその人に完全に信頼できないかもしれません。だから彼女は彼の愛に反応できないでしょう。時間と癒し主の触れだけによって、彼女はその悪い影響から解放されて、癒されます。

私たちの死んだ罪深い心は私たちにそんな影響を与えます。その罪深い心が生きている間に神様に信頼せずに、反抗しました。そして、その罪深い心は私たちにそんな態度を持つように訓練しました。だから、私たちの思いや体には罪の傾向がありました。その罪深い心は私たちを定義しました。

私たちがクリスチャンになったら、その罪深い心はなくなったけど、その影響はまだ残っています。私たちは生きている間、その残っている影響と戦い続けます。

だから私たちクリスチャンたちは、自分の罪深い心が死んだと言えます。つまり、私たちはもうあえて神様に反抗せずに、神様に従いたいと思います。でも、私たちはまだ罪深い心の残っている影響を感じます。その影響はまだ生きています。

でも、その罪深い心は死んだので、もう私たちに悪い影響を与えることができません。それに、私たちのお医者さん、つまり、イエス様は私たちを癒してくださいます。以後数日に渡って、私たちそのことをもっと話します。

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ローマ人への手紙7:7-13--罪の悪さ

5節でパウロは、私たちが罪深い心と「結婚」している間、律法によって、罪の欲情はもたらされた、と言います。

だから当然の疑問は、「律法は悪いものなのですか。律法は罪なのですか。」ということです。「だって、律法は私たちの罪の欲情をもたらすでしょう?律法のせいで、私は罪を犯すでしょう?」

でもパウロはこう答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。(7)

要するに、律法は良いものです。律法は罪ではありません。むしろ、律法を通して、私たちは罪が認識できます。その知識によって、私たちは罪を避けることができます。

では、問題は何でしょうか。

しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。(8a)

この個所では、パウロは罪を擬人化します。このたとえで、罪は律法を見ると、こう言います。「ああ、神様はこんな行為が嫌いなの?」

そして、罪は私たちがの罪深い心に誘います。「神様の律法に違反しよう。」

私たちの罪深い心には、もう神様に反抗する傾向があるので、喜んで律法に違反します。

次に、パウロはこう言います。

律法がなければ、罪は死んだものです。(8b)

それはとても大切な真理です。私たちは存在しない律法に違反することができません。私たちは悪いことをするかもしれないけど、律法がないなら、神様はその違反のために私たちを裁くことができません。律法のない時、神様は一つののことのために人を裁きました。それは、彼らが神様に背を向けて、自分の道を行ったことです。実は、その態度はすべての罪の根本です。

でも、神様はモーセを通して、私たちに律法を現しました。その律法を通して、神様は人々に命への道を現しました。つまり、彼らは神様がどんな方であるか分かったし、神様が人間をどのようにデザインしたか現したことです。

神様がイスラエル人に律法を与えた時、彼らはどのように反応したでしょうか。彼らは、「これはいのちへの道だろうか。良かった。それに従おう」と言ったでしょうか。違います。パウロはこう言いました。

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(9-10)

どうしてでしょうか。

罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。(11)

要するに、戒めが来ると、戒めに違反する可能性が生まれました。そして、罪は生き、私たちを欺いたので、私たちはその戒めに違反しました。だから、私たちは裁かれました。

以前言ったように、この話ではパウロは罪を擬人化しています。罪は実に人ではありません。また、パウロが「罪」と言う時、サタンに触れないと思います。(でも、もちろんサタンは私たちを誘惑しようとします。」

パウロの要点は、神様が律法を現すと、律法に違反する機会も来たのです。また、私たち皆は罪深い心を持つので、その機会を見ると、罪を犯してしまいました。

その結果は何でしょうか。それは死です。

パウロはこの話をこのようにまとめます。

ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。(12)

簡単に言うと、「律法が問題ではありません。律法は良いものです。問題はあなたです。あなたは律法に違反したので、死に値します。」ということです。

そして、パウロはこう訊きます。

それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。(13a)

つまり、「パウロ、あなたは律法が良いものだと言うけど、その律法によって私は裁かれて、死ななければならないなら、それは良いことじゃないでしょう?」ということです。

でも、パウロは答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。(13b)

パウロは何を言いたいのでしょうか。彼はこう言ってます。「今更あなたは、どうして罪がそんなに悪いか分かります。罪は良いものを曲げて、悪い結果をもたらします。律法はいのちへの道を現すけど、罪は律法を通して人々を滅ぼしました。」

考えてみれば、罪はいつも良いものを曲げます。例えば、セックスはとても良いものです。セックスを通して夫婦は互いに愛を表し合うし、子供ができます。でも、罪がセックスを曲げたので、私たちの社会には、レイプや、姦淫や、ポルノがあります。

律法の主な役割の一つは、私たちが罪の悪さが理解することです。それが分からないと、人々は自分が救い主を必要とすることが決して分かりません。だから私たちは律法を必要とします。

あなたはどうですか。罪の悪さが本当にわかっているでしょうか。

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ローマ人への手紙7章1-7--イエス様と結婚すること

以前言いましたが、結婚の比喩を使う時、パウロは二つのポイントを描写したいと思いました。

私たちは、最初のポイントをもう見ました。つまり、私たちがイエス様と共に死ぬと、律法は私たちに対して力を失うことです。だから、死によって、結婚の律法は夫婦に対して力を失います。

そして前回の記事で私は、パウロがそのポイントを描写するのに、私たちを死んだ夫と比べるのは当然なことだろう、と言いました。つまり夫が亡くなったので、律法は彼に対して力を失ったことです。そのように、私たちがキリストと共に死んだので、律法は私たちに対して力を失いました。

でもかえって、パウロは、どうやって夫の死がその妻を結婚の律法の力から解放したか、ずっと話します。

だから、その比喩はちょっと分かりにくくなります。パウロは、私たちを死んだ夫と比べずに、まだ生きている妻と比べます。

でも、結婚の比喩をそのように使うにつれて、パウロは、第二のポイントを説明することができました。そのポイントは何でしょうか。

私たちがクリスチャンになる前に、私たちは別の夫と結婚していました。でも今、私たちはイエス様と結婚しています。

そのポイントを描写するのに、パウロはイエス様を新しい夫と比べて、私たちを妻と比べます。でもその比喩では、私たちはかつて誰と結婚していたでしょうか。その死んだ夫は誰でしょうか。

私は以前言ったけど、死んだ夫は律法ではありません。なぜなら、パウロは、律法がなくなるとは教えていないから。今でも、律法は大切な役割があります。律法は私たちに何が良いか何が罪かを教えます。(7)

では、私たちは誰と結婚したでしょうか。おそらくパウロは私たちの罪深いこころを指しているでしょう。

私たちがクリスチャンになる前、私たちの心は神様に反抗したり、自分の道を行きたいと思いました。生まれてから、私たちはその心と結ばれていました。そしてその「結婚」によって、私たちはどんな実を結んだでしょうか。私たちは、死に至る実を結びました。(5)

さらに、私たちが罪深い心と結んでいる限り、私たちはイエス様と結婚することができませんでした。

でも私たちを救ったとき、神様は私たちの罪深い心を十字架につけて殺してしまいました。

その罪深い心が亡くなると、どうなったでしょうか。

一つ目は、律法が私たちに対する力を失ったことです。妻の夫が亡くなれば、結婚の律法が妻に対して力を失ったように、私たちの罪深い心が亡くなったら、神様の律法は私たちに対して力を失いました。

二つ目は、私たちの罪深い心が亡くなったので、私たちがイエス様に結婚することができることです。

そして、私たちがイエス様との結婚によって、私たちはもう死に至る実を結びません。むしろ、永遠の命に至る実を結びます。

だから、救いの道がイエス様しかないのです。神様に反抗する心と結ばれている限り、私たちは永遠の命に実を結ぶことができません。罪深い心が私たちに入れる種は死に至ります。でもイエス様が私たちに入れる種は永遠の命に至ります。

あなたは誰と結婚しているでしょうか。

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ローマ人への手紙7:1-6--恵みの管轄

前回の記事で、私は、この個所でパウロが結婚の比喩を使うけど、その使いかたがちょっとちぐはぐだと言いました。彼はその比喩を通して、死によって律法が人に対する力を失う真理を描写しています。パウロの比喩では、夫の死によって、結婚の律法はその妻に対する効力を失いました。

そして、パウロは、私たちが死んだので、律法は私たちに対する効力を失ったと言います。でもパウロは、私たちを比喩にある夫と比べずに、まだ生きている妻と比べます。

どうしてでしょうか。

ちょっと考えてみてください。その夫が死んだとき、律法はその夫婦に対する力を失ったけど、どっちの方がより影響されたでしょうか。夫でしょうか。違います。妻の方が影響されました。その夫が死ぬ前に、律法によって彼女は夫と結ばれていました。彼女に対して、その律法は権限を持っていました。

でも、夫が亡くなったら、律法は彼女に対して権限を失いました。その法律はもはや彼女には関係がありませんでした。言い換えると、夫が亡くなったとき、彼女も違う意味で亡くなりました。彼女はその結婚の律法の権限に対して死にました。だから、彼女は別の人と結婚しても良いのです。

私たちはその話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがクリスチャンになる前に、神様の律法は私たちに対して権限を持ちました。その律法は私たちにこう言いました。「神様の戒めに従いなさい。そうしないと、あなたは死にます。」

でも、大きい問題がありました。完全に戒めを守る人は誰もいませんでした。だからは私たち皆は処刑を宣告されました。

でも、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。そしてイエス様は、私たちができないことをして下しました。イエス様は神様の律法を完全に守りました。そして、十字架で、イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださいました。

だから今、神様は私たちを受け入れます。なぜでしょうか。私たちが律法を守るからでしょうか。違います。私たちがイエス様とその十字架の働きを信じるからです。

だから今や、私たちは律法の管轄下にありません。私たちは恵みの管轄下にあります。私たちは律法には関係がありません。私たちは律法に対して死んだから。

だから私たちは律法に従うことに焦点を当てません。むしろ、イエス様と結婚して、私たちは毎日、聖霊に導かれています。その結果は何でしょうか。私たちは永遠の命に至る義の実を結びます。律法によって、私たちはそんな実を結ぶことができませんでした。

でも、私たちはその真理を把握するでしょうか。多くのクリスチャンが恵みの管轄下にあるのに、律法の管轄下にあるかのように生きます。彼らは、神様に受け入れられるのには、完全に律法を守らなくてはいけないと思います。律法を守らないと、罰されると思うから、彼らはいつも神様を恐れます。

でも覚えていてください。私たちはもう律法の管轄下にありません。私たちを愛して受け入れるイエス様と結婚しています。だから神様を恐れずに生きましょう。神様の基準に満たすかどうか心配しないでください。むしろ、イエス様にある愛を喜んで、その愛をイエス様に返しましょう。それは恵みによる生活です。

あなたはどうですか。あなたは恵みの管轄にあるでしょうか。もしくは、律法の管轄にあるかのように生きるでしょうか。

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ローマ人への手紙7章--破れた力

この個所を始めて読んだとき、私は本当に混乱しました。というのも、パウロは自分のポイントを説明するのに、結婚の比喩を使いました。でも、その比喩の使い方はちょっとちぐはぐです。

つまり、パウロは私たちと律法との関係や、私たちと神様との関係について話した時、結婚の比喩を使ったのです。

その比喩では、ある男性が亡くなったので、結婚の律法はその妻に対して、もう効力がなかったのです。つまり、その律法によれば、その夫が生きている間、彼女は別の人と結婚することができませんでした。でも、彼が亡くなったら、彼女は別の人と結婚することができました。

だから、私はこう考えました。「この比喩では、夫は誰でしょうか。妻は誰でしょうか。パウロによれば、私たちは律法に対して死にました。だから、私たちが夫で律法が妻なのだろう。いや、違う。だって、その比喩では、夫が死ぬと妻は別の人(つまりキリスト)と結婚することができる。律法はキリストと結婚するの?」それはナンセンスです。さらに、パウロが言ったのは、私たちがキリストと結婚するということです。

では、律法が夫で、私たちは妻でしょうか。いや、違います。パウロは律法が死ぬとは言いませんでした。逆に、パウロは、私たちが死んだと言いました。

最終的に、私たちはパウロの比喩の使い方に拘りすぎない方がいいです。パウロがあるポイントを伝えたいと思って、その比喩の使い方がちょとちぐはぐでも、私たちはパウロの比喩に拘らずに、そのポイントを理解しようとした方がいいです。

それでは、パウロの要点は何でしょうか。

「死によって、人に対する律法の力が破れます。」

だから結婚の場合、夫の死によって、その妻に対する結婚の律法の力は破れます。私が以前言ったように、夫が生きている間は、律法によって、彼女は別の人と結婚することができませんでした。でも、夫が亡くなったので、その律法が彼女に当てはめられないので、彼女は別の人と結婚することができます。

私たちの場合、私たちは別の律法の下でした。それは神様の律法です。その律法は何の行為が良いか、悪いか、を教えていました。その律法によって、私たちが罪を犯すと、私たちは裁かれました。さらに、私たちが罪を犯したので、私たちは神様から離れました。神様との関係ができませんでした。

でも、キリストにあって、私たちは死にました。ローマ書6章で、私たちはそう読みました。イエス様が十字架で死んだとき、私たちはイエス様と一緒に死にました。そして、イエス様は私たちを新しい人として復活させました。(6:3-7)

バプテスマはその真理の描写です。水はお墓の描写です。そして、私たちが水に沈むとき、それは霊的な真理を表します。私たちの古い人生、つまり、自分のために生きる私たち、また、神様に反抗する私たちは死にました。そして、私たちは新しい人として復活します。私たちは神様に従いたいのです。私たちはこれから神様のために生きたいのです。でも、もっと大切なのは、聖霊様を通して、神様は私たちのうちに住んでおられことです。神様は私たちに神様を喜ばせたい望みを与えるし、その望みを実現する力を与えてくださいます。

では、パウロのポイントに戻りましょう。私たちがイエス様と一緒に死んだので、神様の律法は私たちに対して力がもうありません。私たちと神様との関係は、私たちが律法を守ることに基づいていません。その関係は神様の恵みと、イエス様の十字架の働きに基づいています。律法は私たちをもう裁くことができません。なぜなら、イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださったから。私たちが罪を犯しても、律法は私たちを神様から離すことができません。むしろ、イエス様にあって、私たちは神様との関係があります。

イエス様と教会の関係が、新郎と新婦の関係として描写したことは、偶然ではないと思います。教会の一員として、私たちはイエス様と結婚しています。そして私たちはイエス様のために実を結びます。もちろん私たちは文字通りの子供たちを生むという意味ではありません。でも、私たちが霊的な実を結ぶにつれて、つまり、私たちが神様の愛と福音をシェアするにつれて、神様の国は大きくなります。

その真理に思いを巡らして、喜びましょう。

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ローマ人への手紙6章ーー本当の自由

どうしてたくさんの人々は神様に従わずに、逃げるでしょうか。もしかしたら、彼らは「自由」を望んでいるのかもしれません。

でも、彼らにとって「自由」とは、どういう意味でしょうか。たぶん、彼らは好き勝手に生きたいと思っています。でも、彼らは「神様に従うと、好き勝手に生きることができない。むしろ、私はいろんなルールに従わなくてはならないのだろう。」と考えます。

多分、パウロの時代でも、多くの人々はそのように考えたでしょう。だから、彼らは「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」とか、「私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、となるのでしょうか。」と訊きました。

でも本当の自由は、好き勝手にする生活でしょうか。もしくは、本当の自由には、全然違う意味があるでしょうか。

私は、本当の自由には、全然違う意味があると思います。

ちょっと考えてみてください。

日本に住んでいるアメリカ人として、私の一つのチャレンジは、電化製品を買う時に、その説明書が日本語で書いてあることです。なぜなら、私には、日本語の読み書きはとても難しいのです。だからこのブログの記事を掲載する前に、私の妻はいつも編集してくれます。(それを本当に感謝します。)

とにかく、4年前、私はブルーレイ・プレイヤーを買って、テレビやケーブル・モデムに繋ごうと思ったけど、日本語の説明書がよく分かりませんでした。だから、私は混乱して、ちゃんと接続するのに何時間もかかりました。

でも、私には説明書を使わない言い訳がありました。その説明書の漢字や専門用語がわかりにくかったのです。

でも、多くの日本人(特に男性たち)はブルーレイ・プレイヤーやコンピューターをセットするとき、「説明書は要らない。私は何とかできる」と思います。だから私のように、彼らはフラストレーションを感じてしまいます。それは本当の自由でしょうか。

そのように、神様は私たちに言います。「私はこのように人間をデザインしました。このように生きたら、あなたの人生はうまくいきます。私に信頼すると、あなたは祝福されます。」

でも、多くの人々は答えます。「いや、あなたの言葉はいらない。私は自分の方法に従っても、すべては何とかなるだろう。」

でも、彼らが自分の道に従うと、結婚や、親子の関係や、ほかの人間関係を壊したり、自分の健康や人生がめちゃくちゃになったりして、最終的にフラストレーションを感じてしまいます。彼らが求める幸せを手に入れられません。それは本当の自由でしょうか。

だからパウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、神様から離れたとき、好き勝手に生きる自由を持ったけど、その自由はどこに至ったでしょうか。それは恥に至りました。また、その自由はあなたを滅ぼしていました。

でも、私たちの人生を神様に委ねて、神様の導きに従うと、どうなるでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

つまり、私たちの人生は完全になります。永遠の命は天国で始まりません。永遠の命はここで始まります。神様に従うと、私は豊かな人生を生き始めます。なぜなら、神様がどのように私たちをデザインしたか分かっていて、私たちはそのデザインに従うから。それは本当の自由です。

では、自由のカギは何でしょうか。それは、神様に信頼することです。私たちは、神様が最もベストな生き方をご存じだと信じます。また、私たちは、神様が私たちの最善を望むことを信じます。だから毎日、私たちは自分の人生を神様にささげます。そうすると、本当の自由を見つけます。

あなたはどうですか。本当の自由を見つけたでしょうか。

 

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ローマ人への手紙6章ーー惨めな人生に戻ること

パウロはこの言葉を書いたとき、出エジプトの話を考えたでしょう。第一コリント10章では、パウロはその話に触れて、イスラエル人が紅海を渡ることをバプテスマと比べました。

この個所でも、いろんな意味でパウロの言葉は、イスラエル人がエジプトから救い出された経験を反映します。彼らはエジプトで死にかけていました。彼らは奴隷で、惨めな人生を送りました。

イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼ら叫びは神に届いた。(出エジプト記2:23)

そして、神様は彼らを救い出しました。でも、砂漠を渡るとき、彼らはいろんな試練に直面したので、ぼやき始めました。

エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。(出エジプト記16:3)

そのあと、神様が彼れらに与えると約束した地に入る直前、彼らの信仰が揺れて、彼らは「エジプトの方がいいです。新しいリーダーを選んで、エジプトに帰りましょう。」と言いました。(民数記14:3-4)

この個所では、パウロは似た状態に臨みました。パウロは「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と言いました。でもパウロの経験では、そんなことを言うと、よく聞かれた質問が出ました。だから、彼はこう言いました。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(1)

彼の答えは?

決してそんなことはありません。(2)

そのあと、パウロは、クリスチャンたちが律法の下にではなく、恵みの下にあると言いました。だから、もう一度パウロはよく聞かれた質問を出します。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15)

もう一度、パウロは答えます。

決してそんなことはありません。(15b)

どうしてでしょうか。パウロは説明します。

罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(2-4)

つまり、私たちは以前に罪のうちに生きていたけど、クリスチャンになると、そんな生き方に対して死んだということです。むしろ、今私たちは新しい人になって、より良い人生を送ります。今や私たちは神様との関係を持っています。(10)

そうならば、どうして古い人生に戻りたいのですか。

でも、多くのクリスチャンたちはイスラエル人たちのようです。彼らは紅海を渡ったとき、奴隷の人生に対して死にました。彼らは新しい人になりました。新しい人生を送る自由を持っていました。勝利のある人生を送る自由を持っていました。

でもかえって、彼らは「古き良き時代」を回顧し始めました。彼らはエジプトのおいしい食べ物を思い出しました。そして、彼らは奴隷の惨めな人生を忘れて、「エジプトに帰りましょう」と思いました。

罪は本当に欺瞞的なものです。私たちはすぐに罪の快楽を思い出すけど、罪から生まれる惨めを忘れてしまいます。

だからパウロはこう言います。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、「あなたは罪に治まれる人生に戻りたいのですか。そんな人生の惨めさをもう忘れてしまったでしょうか。そんな人生は恥に至ったし、おまけに死に至りました。そんな人生に本当に戻りたいのですか。

だからパウロはこう言いなした。

また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(13)

どうして私たちはそうするべきでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

私たちの命を神様にささげると、私たちの人生は聖いものになります。言い換えると、私たちは、神様が計画通りに生き始めます。私たちの人生は健全なものになります。そして、私たちは本当の命を得ます。

でも一番良かったのは、この賜物はただです。その賜物の価値を把握するなら、私たちは決して死に至る人生に戻らないでしょう。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(23)

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ローマ人への手紙5:20-21--治める恵み

この個所は二つの真理を現します。一つ目は、律法の不備です。二つ目は、恵みの力です。

パウロはこう言いました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。(20)

それはちょっとおかしく聞こえるでしょう。人の罪を増やすことが神の律法の目的なのでしょうか。

でも13節を読むと、パウロの意味はちょっと分かりやすくなります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪として認めらないのです。(13)

律法が存在する前に、人々は悪いことをしました。でも、人々が神様の基準を知らないかぎり、その基準によって裁かれません。それでも、神様に背を向けたので、そのことによって彼らは裁かれました。さらに、自分の良心や律法に反したので、彼らの良心や律法が神様の基準に合った限り、彼らは裁かれました。(ローマ2:14-15)

でも、彼らの良心や律法は不完全でした。それらは汚い鏡みたいでした。だから、神様は自分の律法を人々に与えました。その律法によって、人々は何が良いか、何が悪いかはっきりとわかるようになりました。でも、彼らがその律法を知るにつれて、罪が増えました。なぜなら、彼らはあえて神様の律法に違反し始めたたから。

それは律法の不備です。律法は私たちを良い人に変えることができません。むしろ、私たちが罪が何かわかるので、私たちの責任は増えます。それに、私たちは罪人の心をもって、神様に逆らうので、その律法を見ると、罪をもっと犯したいと思います。

その結果は?死です。

でも、よい知らせがあります。

しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(20b-21)

「どうして神様が律法を与えたでしょうか。私たちの責任が増えれば増えるほど、私たちの罰は厳しくなります。神様がそれを知っていても、律法を私たちに与えました。それはひどくない?神様は罰したいのだろうか。」と思う人がいるかもしれません。

でも、パウロはそのように考えませんでした。むしろ、どんなに罪が増えても、イエス様を救い主として受け入れる人に対して恵みが満ち溢れます。神様の恵みが覆うことができない罪が何もありません。

さらに、人がどんなに悪くても、神様の恵みはその人を変えることができます。パウロは、「恵もまた義によって支配する」と言いました。

もちろん、恵みによって、神様が私たちを見れば「この人は無罪だ」と言いますけど、それだけではなく、神様の恵みによって私たちは新しい心を受けます。その新しい心を受けるので、私たちは自然に良いことを行い始めます。私たちはの考え方や、行為や、言葉は神様を喜ばせます。言い換えると、私たちは神様の思いに義人になるだけではなく、私たちは実際に義人になります。究極的に、神様の私たちの中の働きの結果は永遠のいのちです。

だから恵みは驚くべきものです。あなたがどんなに悪くても、神様の恵みはあなたを変えることができます。あなたがするべきことは、ただその恵みを受けることです。

あなたはどうですか。神様の恵みを本当に知っているでしょうか。

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ローマ人への手紙5:15-21--良い伝染

「良い伝染」と言う表現を作ったと言いたいですけど、実はC.S.ルイスがその表現を発明しました。(もし、ルイスの「キリスト教の精髄」をまだ読んでいないなら、私はその本を本当に勧めます。)

とにかく、昨日私たちは「悪い伝染」について話しました。つまり、アダムを通して、私たち皆に罪が伝染しました。私たちの犯した罪によって罪人になるわけではありません。むしろ、私たちは罪人として生まれたので、罪を犯します。

でも、イエス様を通して、良い伝染が来ます。パウロはこう書きました。

しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。

こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。(15-19)

ようするに、アダムを通して罪が伝染したので、たくさんの人々が死にました。でもイエス様を通して恵みと義が伝染したので、イエス様を受けた人々は永遠の命を受けます。

言い換えると、アダムを通して罪が私たちに伝染したので、私たちが裁かれたように、イエス様を通して義が私たちに伝染したので、私たちは義と認められました。

さらに、その良い伝染を通して、私たちは全く違う人になりました。でも良かったのは、私たちはゾンビにならないことです。むしろ、私たちは新しい本性を受けます。つまり、私たちは義人の本性を受けます。だからクリスチャンは、自分の良い行いによって、義人になるわけではありません。むしろイエス様にあって、私たちが義人になるので、私たちは自然に良いことをし始めます。

だから、パウロはこう書いた。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、018その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、019すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

要するに、イエス様にあって、私たちは本当に生き始めます。

私たちを通して、周りの人々に神様からの義が伝染するように。そうすれば、彼らも本当に生き始めます。

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ローマ人への手紙5:12ー14--悪い伝染

私はこの個所の旨が大体分かるけど、パウロの言葉を完全に把握するのはちょっと難しいです。

最も分かりにくいのは、私たちの罪との関係です。つまり、「私たちは罪を犯してから、罪人になるでしょうか。もしくは、私たちはもともと罪人だから、罪を犯すのでしょうか。また、私たちは罪を犯すので、裁かれるでしょうか。もしくは、私たちの罪深い本性のゆえ、裁かれるでしょうか。」ということです。

パウロによれば、私たち皆はもともと罪人だから、罪を犯しますし、私たちの罪深い本性のゆえに私たちは裁きに値します。

パウロはこう言います。

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった。。。(12)

この個所の部分は分かりやすいです。パウロによれば、エデンでアダムが罪を犯すと、罪が世界に入りました。そして、その罪によって死がこの世界に入りました。アダムは死んだし、エバも死にました。彼らの子孫はすべて死にました。今なお、すべての人々は最終的に死に至ります。

でも、この個所の最後の部分はちょっと分かりにくい箇所です。パウロは、「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言いました。それを読むと、多くの人々はこう思います。「では、人は自分の犯した罪のために死ぬのだろう。」

そんな説明は幾分正しいけど、ちょっと足りません。もちろん、何年も生きている人のすべては罪を犯したので、その罪のために裁かれます。私たち皆が死ぬことに値します。

でも、赤ちゃんが死んだら、何の罪のために死んだでしょうか。死産児は?彼らには良心もないし、善悪の意識がありません。彼らは自分の犯した罪のために死んだでしょうか。パウロは、間接的にそのことについて話します。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪と犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。(13-14)

つまり、アダムの時代からモーセの時代までは、神様からの律法がありませんでした。神様はアダムに戒めを与えたけど、その子孫に戒めを与えませんでした。だから、神様は人々に「あなたは私の律法を違反した」と言えませんでした。それでも、人々は死にました。どうしてでしょうか。

なぜなら、アダムの罪は私たち皆の心の中にあるから。その罪は何でしょうか。私たち皆は神様に逆らいます。私たち皆は、自分の道を行きます。そして、それは生まれつきの態度です。

だから、パウロは「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言うと、アダムが罪を犯したので、私たち皆が罪人になったことに触れます。私たちにはアダムの罪深い本性が遺伝しています。

ちょっと違う描写を使うと、罪は伝染病のようです。アダムの罪は私たち皆に移りました。

どのように、アダムの罪は私たちに移ったでしょうか。私は分かりません。でも、人間の歴史を見ると、その真理がはっきり見えます。イエス様以外に、全く罪のない人は誰もいません。私たち皆は罪を犯します。私たちは罪を犯してから、罪人になったわけではありません。私たちは罪人だから、罪を犯しました。罪人は自然に罪を犯します。私たち皆は罪人だから、死ぬことに値します。

それはとても憂鬱な真理だけど、次の記事で良い知らせを聞きます。

 

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ローマ人への手紙5:1-11--神様は私を罰しているでしょう

前回の記事で、私は6ー8節について話したけど、その個所を文脈に戻した方がいいと思います。そうすれば、私たちにはパウロのポイントをもっとはっきりと見えるようになるでしょう。

パウロが言ったのは、私たちは苦難さえも喜んでいるということです。なぜなら、その苦難は忍耐を生み出すし、忍耐は練られた品性を生み出すし、その品性は希望を生み出しますから。

でも、多くのクリスチャンたちは苦難に臨むとき、喜びません。かえって彼らは苦々しい思いを保ちます。彼らは忍耐を持たずに、あきらめます。また、希望を持たずに、絶望してしまいます。

どうしてでしょうか。

多くの人々は、神様が彼らを罰していると思いますから。彼らが失敗したので、神様が怒って、彼らを苦しませていると思います。

さらに、時々彼らはそう感じるけど、どうして神様が彼らを罰しているか分かりません。だから、彼らはその罰が不公平だと思います。

でもパウロは何を言いますか。

「神様があなたを罰しているという考え方を捨てなさい。」

パウロは説明します。「ちょっと考えてみてください。あなたがクリスチャンになる前に、あなたは神様に背を向けて、罪をたくさんを犯したのに、イエス様はあなたのために死んでくださいました。イエス様は、あなたの悔い改めのために待ちませんでした。イエス様は、あなたが自分自身を清めるために待ちませんでした。あなたがイエス様を求める前に、イエス様はあなたを探していて、手を伸ばしました。

ルールに拘る人のために死ぬ人はほとんどいないでしょう。優しい人のために死ぬ人はいるかもしれないけど。でも、あなたが神様のルールを違反したり、神様や周りの人々を傷つけたのに、神様はあなたを愛してくださいました。

神様はあなたのために自分の御子を送って、イエス様があなたのために死にました。

神様がそうしてくださったのに、どうして神様があなたを罰していると思うでしょうか。」

パウロはこう言いました。

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(つまり、イエス様)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって、神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが御子のいのちによって、救われるのは、なおいっそう確かなことです。(10-11)

つまり、神様の目には、私たちはもう義と認められたのです。だからどうして、「神様は私を罰している」と思うでしょうか。私たちは神様の怒りからもう救われました。そして、私たちが神様の敵であった時に、神様が御手を伸ばしていたら、今私たちが神様の友達で、神様は御手を伸ばしてくださらないでしょうか。

だから苦難に臨んでも、私たちは喜ぶことができます。神様は私たちを罰していません。神様は私たちの試練を無視していません。むしろ、神様が私たちを罪から救ったように、私たちの試練から救ってくださいます。

だから、パウロはこう言います。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)

あなたは苦難に臨んでいるでしょうか。神様があなたを罰しているかどうか疑問に思っているでしょうか。覚えていてください。神様はあなたを罰していません。もし神様に信頼するなら、火の中を歩いても、あなたは焼かれません。むしろ、その火を通して、神様はあなたを清めて、強めます。だから諦めないでください。絶望しないでください。むしろ神様に信頼し続けてください。

神様はこう言いました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(5)

 

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ローマ人への手紙5:6-8--恵みとは

私は高校生の時にこの個所を暗記しました。それは何年も前だったけど、今でもよく覚えていて、英語で唱えることができます。(日本語では無理だけど。)

実にキリストは私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(6-8)

私が高校生の時も、今も、その言葉は私の心を打ちました。

神様は、私たちができることをしてくださったわけではありません。私たちは自分自身を救うことができませんでした。私たちは自分の罪の中で溺れていました。私たちは救命浮輪を持たなかったし、船は全然なかったのです。私たちは自分を救う力を持たなかった。それでも、私たちは神様を求めなかったし、誰かの助けさえ求めませんでした。

でも、私たちが神様に背を向けたのに、神様はイエス様をこの世に送りました。十字架でイエス様は私たちの罪のために死んで、私たちの罰を受けてくださいました。だから私たちには、神様との和解ができます。

パリサイ人のような正しい人のために死んでくれる人は、ほとんどいません。なぜなら、パリサイ人のような人は、ルールを守るかもしれないけど、いつも人を責めるから。でも優しい人のために死んでくれる人は、いるかもしれません。

でも、私たちはルールを守らなかったし、そんなに優しい人ではありませんでした。私たちは神様に反抗しました。私たちは神様に背を向けて、自分の道を行きました。だから、私たちは神様や、周りの人々や、私たち自身を傷つけました。でも、神様は私たちに背を向けて、捨てるわけではありませんでした。

むしろ神様は人間になって、私たちの代わりに死んでくださって、三日目によみがえられました。

それは恵みです。私たちは、神様から良いものに値しませんでした。逆に私たちは刑に値しました。それでも、神様は私たちを愛して、救いました。

神様を信じる私たちは、その恵みを受けました。私たちは有罪なのに。私たちはその愛に値しないのに。私たちは罪で汚れたのに。私たちは惨めな人だったのに。それは本当に驚くべき恵みです。

Amazing grace,
驚くべき恵み。
How sweet the sound,
恵みという言葉は本当に美しいです。
That saved a wretch like me,
その恵みは惨めな私を救いました。
I once was lost,
私は迷子の羊のようでした。
But now I’m found.
でも、神様は私を見つけました。
Was blind but now I see.
私は盲人だったけど、今私は見ることができます。

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ローマ人への手紙5:3-5--火を通過する

時々、聖書を読むとき、私はちょっと首をひねります。この個所は一つの例です。パウロはこう書きます。

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(3-5)

これが結構有名な個所で、私はの何度も読んだことがあります。でも、今回読んでみると、私は疑問に思いました。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」ということは理解できるけど、どうして、練られた品性は希望を生み出すだろうか。その関係は何だろうか。」

実は、新改訳は英訳よりもクリアです。英訳では、ただ「忍耐が品性を生み出す。」と書いてあります。

でも、原語では、「品性」というのは、試された人というニュアンスがあります。彼らは試練に直面して、乗り越えたので、彼らは神様に認められています。彼らの信仰は、ただ頭の中の知識ではありません。むしろ、彼らは実際に神様の忠実さや愛を経験しました。だから、彼らの信仰は強まりました。彼らの品性は強まりました。だからどんなに大変な試練に直面しても、彼らは神様の愛や忠実さに関する確信を持って、希望があります。

だからパウロは、「この希望は失望に終わることがありません。」と言えるのです。私たちの希望は、ただ自分の身分や品性によりません。むしろ、私たちの希望は、神様が私たちを愛して、私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して私たちと共におられるという確固とした事実によります。

旧約聖書のヨブの話を考えます。彼は大変な試練に直面しなした。彼の持ち物や、子供たちは奪われました。さらに、ヨブの友達は、彼を責めました。それでも、彼は忍耐を持ち続けました。そして、彼は火を通過した後、神様の愛や忠実さをより深く理解したので、希望を知りました。

あなたはどうですか。どんな試練に直面しているでしょうか。その試練のゆえ、神様から逃げないでください。むしろ、神様に近づいてください。そうすれば、あなたは神様の愛や忠実さを経験して、希望を知ります。そして、パウロは言ったように、「この希望は失望に終わることがありません。」

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ローマ人への手紙5章1-2--私たちが今立っている恵み

私はこの個所を何回も読んだことがあるから、早く読み通すのは簡単なことです。でも、私はちょっとゆっくりとこの個所の言葉を考えて、噛み締めたいと思います。

パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(1-2)

神との平和。私は自分の家庭について考えます。時々、私が妻と喧嘩すると、雰囲気はとても緊張します。でも、私たちが仲直りすると、平和があります。気まずい沈黙はなくなります。むしろ、私たちは微笑んだり、笑ったり、話したりすることができます。

イエス様によって、私たちは神様とそのような関係ができます。私たちは神様のみ前に緊張する必要がありません。「神様が私のことをどう思う」と思わなくていいです。むしろ、神様が私たちを受け入れて、愛することよく知っていて、神様との交わりを楽しむことができます。

恵みに立ちます。以前私たちは神様の裁判所に立って、神様に裁かれました。天の父が刑を宣告するつもりだったけど、急にイエス様は入って、私たちを別の所に導きました。今私たちは恵みに立ちます。私たちの罪はすべて赦されました。それだけではなく、天の父は私たちに対する好意をもって、私たちを見ます。私たちは神様の恵みに値しないけど、天の父は私たちを見て、微笑んで、良い賜物を喜んで与えてくださいます。

だから私たちが失敗するとき、恐れるとき、必要があるとき、私たちの立場を思い出すべきです。それは恵みです。裁きではなく、恵みです。だから私たちは喜びます。私たちは望みを持っています。

なぜなら、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んだから。イエス様は、私たちが立っている恵みにアクセスを与えてくださいました。でも私たちだけではなく、イエス様を信じる人々のすべてに、そのアクセスがあります。

天のお父様、私が立っている恵みを感謝します。十字架の働きを通して、イエス様は恵みのアクセスを与えてくださり、感謝します。私が毎日、毎秒あなたの恵みを喜んで、あなたの喜びや、平和や、希望を知るように。そして私はその恵みを周りの人々に伝えるように助けてください。彼らもあなたの恵みを知るように。アーメン。

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ローマ人への手紙4章16-26--確固とした確信を持っている

私は聖書を何回も読んだことあるので、新しいことを見つけると、本当にうれしいです。

とくに16ー17節は、私の心を打ちました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。(16-17)

「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神。」

その言葉を考えて見ると、その言葉は救いというコンセプトをまとめると分かります。神様が私たちを救う前に、私たちは死んだものでした。私たちの罪によって、私たちは裁かれました。でも、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったので、私たちは永遠の命を与えられました。

「無いものを有るものとして召される神。」

その言葉は創造を指すようです。つまり、神様の思いからこの世のすべては現れたことです。

でも、アブラハムについて読むと、私たちはその「「無いものを有るものとして召される神」と言うコンセプトを見ることができます。神様はアブラハムに「あなたは多くの国民の父となる」とか、「地のすべての国民はあなたによって祝福される」と約束しました。

驚くべきことは、神様がそう約束した時、アブラハムはもう75歳で、その妻サラは65歳だったということです。でも、神様はその約束を守りました。神様の思いにはアブラハムのための素晴らしい計画がありました。そして、その計画は現実になりました。

そして、アブラハムは決して神様が自分の約束を守るかどうか疑いませんでした。時々、アブラハムは神様の計画の詳細が分からなくて、馬鹿なことをしました。(だからハガルの問題がありました。)でも、アブラハムは、「神様はうそをついた」と全然考えませんでした。

だからパウロはこう言いました。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(19-22)

そしてパウロはこう言いました。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23ー24)

この個所では、パウロは「義と認められる」と言うことについて話します。私が以前言ったように、そのコンセプトを把握するのは、ちょっと難しいです。どうして、神様は罪人を義人と見なすことができるでしょうか。彼らが何回も罪を犯すのに、どうして、彼らは義と認められるでしょうか。

その答えは17節にあります。神様は「無いものを有るものとして召します。」

新改訳第三版で、このように翻訳されます。「(神様は)無いものを有るもののようにお呼びになります。」

それは「義と認められる」というコンセプトです。神様は義のない者を義のある者のようにお呼びになります。どうしてでしょうか。なぜなら、神様の思いには、私たちはもう義人だから。神様は現在の私たちだけではなく、将来のわたしたちを見ます。

神様は宇宙を創るとき、神様の思いには、どんな宇宙になるかもう知っていて、一言で、すべては作られました。神様はアブラハムに約束した時、思いにはイサクやイスラエルやイエス様を見て、一言ですべては成就しました。

神様が私たちを見ると、神様の思いには私たちがどんな人になるか見えます。そして、神様の力によって、私たちはイエス様のかたちに変えられます。毎日私たちは変わりつつあります。そして、天国に行くと、そのプロセスは完成します。だから、神様は私たちを見ると、私たちを義人と呼ぶことができます。

でも、アブラハムのように私たちはよく今日の現実を見ます。つまり、私たちは弱いです。私たちはよく罪を犯します。

でもアブラハムのように確固とした確信を持って、神様の約束を信じましょう。神様が自分の約束を実行する力を持つ確信を持ちましょう。神様は私たちを変えて、私たちが本当に義人になります。それは神様の思いの中だけではなく、それは現実になります。(第二コリント3:18;第一ヨハネ3:2)

それを覚えていて、信仰が強められて、神に栄光を帰しましょう。私たちの行ったもののためではなく、イエスの行ったもののためです。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(25)

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ローマ人への手紙4:4-5--救い:賜物?当然支払われるべきもの?(2)

多くの人々にとって、救いが本当に賜物というコンセプトを受け入れるのは難しいので、もうちょっとそのことについて話したいと思います。イエス様の時代でも、多くの人々はそのコンセプトが把握することができませんでした。

福音書では、私たちはある若い金持ちについて読みます。彼はイエス様にこう訊きました。

先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16)

その人の質問を見ると、私たちはその人の仮定を見ます。それは、救いが神様の義務です。つまり、私たちがこれとこれとこれをするなら、神様は私たちに永遠の命を与えなくてはいけないことです。

最初は、イエス様はその人の仮定に反ばくせずに、「神様の戒めに従いなさい。」と答えました。

その人は答えました。「私はそれらすべてを守ってきました。」

だからイエス様は言いました。「本当ですか。では、あなたの服従を試してみましょう。あなたの財産を売り払って、貧しい者たちに与えなさい。そして私に従って来なさい。」

もし、その人が本当に心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神を愛していて、また、隣人を彼自身のように愛していたら、(その二つの戒めは律法の土台でした)、彼はすぐにイエス様の戒めに従ったでしょう。でも、彼は自分のお金に執着しすぎました。彼は神様や隣人よりも、自分のお金に執着しました。

だから、神様の律法はその人を正当化せずに、裁いてしまいました。だから、神様の義務は、ただその人を裁くことです。

嘆かわしいことだけど、その人はイエス様が教えようとすることの半分だけが分かるようになりました。つまり、彼が救いを自分の努力で得ることができなかったことです。

彼は、「私はそれができません。私は神様の戒めに完全に従うことができると思ったけど、それは無理です。どうしたらいいでしょうか。」と言えば、よかったのに。そう言っていたら、イエス様は微笑んで、こう答えたでしょう。

それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)

でも、イエス様の助けを求めずに、その人は悲しく立ち去ってしまいました。

別の時、イエス様はたとえ話を通して、同じことを教えました。

そのたとえ話では、あるパリサイ人は自分の義を誇りました。彼は神様に基本的にこう言いました。「私は本当にいい人です。だから、あなたは私に永遠の命を与えなくてはなりません。」

でも、ある取税人(その時代、取税人はとても堕落していた人で、イスラエル人に嫌われる職業でした)は神様にこう祈りました。

神様、罪人のわたしをあわれんでください。(ルカ18:13)

イエス様はこう訊きました。

「神様の前に誰が義と認められたでしょうか。パリサイ人ではありません。彼が自分の義を自慢しても、彼の義を神様の義と比べると、その義は欠けているものです。だから彼は裁かれます。それは彼の努力の結果です。」

でも、収税人は神様の前に義と認められました。なぜでしょうか。彼はいろんな良いことをしたからですか。違います。彼は恵みによって赦されました。彼が神様の憐れみを願ったので、神様は賜物としてその人に永遠の命を与えてくださいました。

最後に、十字架の話を考えてみてください。イエス様の隣にいる悪者も、十字架でかけられました。彼は救いに値しませんでした。逆に自分の行為によって、彼は死に値しました。でも、彼はイエス様を信じると、イエス様は彼に言いました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)

その悪者は救いのために働きませんでした。むしろ賜物として救いを受けました。

福音の中で、私たちは何回もそのテーマを見ます。私たちの努力によって、何を得るでしょうか。裁きです。救いは賜物です。その真理は決して変わりません。

 

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ローマ人への手紙4:4-16--救い:賜物?当然支払われるべきもの?

この個所では、パウロはとても大切な疑問について話します。救いや永遠の命は神様からの賜物でしょうか。もしかしたら、それらは、当然支払われるべきものでしょうか。

パウロははっきりと答えます。

働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(4-5)

従業員が働くと、給料日に上司はその人に「あなたの給料を振り込みました。私はとても気前がいい人ですね。」とは決して言わないでしょう。上司がそんなことを言うと、たぶん従業員は心の中でこう考えるでしょう。「どういうことなんだろう。気前がいいだって?私たちには契約があるだろう。私がちゃんと働いたので、会社は給料を払うべきだろう。」

でも、私たちはそんなことを神様に全然言えません。私たちが赦されて、永遠の命を得る理由は、私たちが完全に律法を守ったわけではありません。律法を守ったことによって、神様の子供になったわけではありません。

むしろ、パウロはこう言います。

実際、律法は御怒りを招くものです。(15)

要するに、どんなに頑張っても、私たちは失敗します。

私はこう言うかもしれません。「前回は失敗したけど、これから頑張って律法を完全に守ります。」

でも、結局私たちは律法を違反して、神様の怒りをもたらします。

旧約聖書の時代、ユダヤ人たちはその真理をよく学びました。だから、神様は彼らにこう言いました。「この律法に基づいた契約はうまくいっていません。もちろん、律法は良いけど、あなたがたは罪人で、その律法を完全に守ることができません。だから私は新しい契約を作ります。その契約はあなたの行為によらず、私の行為によります。」

エレミヤ書31:31ー34では、私たちはその新しい契約を見ます。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

要するに、「あなたがたはもはや自分自身を変える必要がありません。私があなたがたの心を変えるので、あなたは良いことができるようになります。また、私とあなたがたの間に、もう仲介する祭司が要りません。あなたがたが私と直接な関係をもって、私はあなたがたの罪を全部赦します。」ということです。

その新しい契約は何に基づいているでしょうか。最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちにこう言いました。

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」27また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの(新しい)契約の血です。(マタイ26:26-28;ルカ22:19-20)

だから、私たちの救い、私たちの神様との関係は、私たちの行為に基づいていません。私たちの行為によって、神様の怒りに値します。むしろ、救いは、イエス様の十字架の働きに基づいた賜物です。

律法が存在する前に、神様はアブラハムにその賜物を与えてくださいました。そして、神様は同じ賜物を私たちに与えてくださいます。アブラハムは信仰によって受け入れられて、その賜物を受けました。そのように、私たちも信仰によって、受け入れらて、その賜物を受けます。

だから、パウロはこう言いました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(16)

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ローマ人への手紙4章ーー信仰による義:新しいコンセプト?

旧約聖書を読むと、信仰によって義と認められるということが割とあたらしいコンセプトとして考えるのは、簡単なことでしょう。だから多くの人は、パウロや、ほかの使徒たちがそのコンセプトを発明したと思います。実はパウロの時代、多くのユダヤ人はそのコンセプトを疑問に思いました。「信仰によって、私たちが神様に義と認められるというコンセプトは、どこから来たのだろうか。聖書で、読んだことないけど。」

だから4章では、パウロは、復活の後に、イエス様が何を教えたか説明します。(ルカ24:27、44ー47、ガラテヤ人への手が見え1:11-12)

一章では、パウロは預言者ハバククを引用しました。

しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(1:4)

そして、4章では、パウロは、モーセが創世記でアブラハムについて何を言ったか書きました。(ところで、モーセは創世記の著者でした)。

ユダヤ人にとっては、アブラハムはとても大切な人でした。なぜなら、彼はイスラエルの父でしたから。それに、彼らはアブラハムをユダヤ人の模範と見なしました。だから、パウロはこう書きました。

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。(1-3)

そして、パウロは訊きます。

どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。(10)

パウロの結論は?

彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。(11-12)

また、パウロは詩篇32篇を参考して、ダビデの言葉を引用しました。

「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」(7-8)

どうして神様はダビデの罪を赦してくださったでしょうか。ダビデは、たくさんの良いことをしたからでしょうか。違います。ダビデはただ神様の憐れみを請って、神様に信頼しました。(詩篇32:5,10)

パウロは自分の議論をこのようにまとめます。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23-24)

それはクリスチャンの皆のための良い知らせです。私たちは、どうにか自分自身を正しい人にしません。私たちは自分の努力で自分自身を清めません。

むしろ、私たちが神様を信じて、また、イエス様の十字架の働きを信じると、神様は私たちを受け入れてくださいます。

その真理は、キリスト教とほかの宗教との大きい違いです。その真理によって、私たちは恐れず、神様との関係を持つことができます。

あなたはどうですか。あなたは、そのような関係を持っているでしょうか。もしかしたら、あなたは心の中で疑いを持っているでしょうか。「神様は私を本当に受けれるでしょうか。」

あなたが神様の恵みを本当に知るように。

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ローマ人への手紙3:31ーー律法を捨ててしまう?

多分、3章を読む人の多くはこう訊くでしょう。「もし律法によって、私たちが神様に義と認められないなら、律法を捨ててしまってもいいでしょう。だって、律法は意味がないから。」

でも、パウロはこう答えました。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。(31)

「律法を確立する」というのは、どういうことでしょうか。

言い換えると、私たちが、律法に私たちを救いに導く役割があることを認めるということです。ガラテヤ人への手紙では、パウロは律法を私たちの「養育係」と呼びました。律法は、私たちに何を教えたでしょうか。律法は神様の聖さを表しました。さらに、律法は私たちの罪を表しました。

だからパウロはこう書きました。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(20)

私たちは自分の罪を意識して、救い主を必要とすると分かってきました。私たちの罪が見えなかったら、私たちが救い主を必要としないと思っていたでしょう。なぜなら、私たちはもう十分いい人で、神様がきっと私たちを受け入れると思うから。そう思うなら、私たちは、どうしてイエス様が私たちのために死ななくてはならなかったか分からないでしょう。

しかし、律法は私たちの罪を表すことはできても、その罪を取り去ることができません。

ちょっと考えてみてください。

鏡は男性のひげを表すことができます。でも、鏡はそのひげを剃ることができません。髭剃りだけがひげを剃ることができます。

そのように、律法は私たちの罪を現すことができるけど、その罪を取り去る力を持っていません。でも、神様の恵みは、髭剃りのように私たちの罪を取り去ることができます。

もうちょっと考えてみてください。もちろん鏡が私たちのひげを剃ることできないけど、鏡はもう要らないというわけでしょうか。そんなことはありません。鏡は、私たちに剃らなくてはならないところをうつすから。

そのように、律法は私たちの罪や、不完全なところを現します。私たちがそれを見ると、聖霊様は私たちを導き始めます。

例えば、聖霊様は男性たちにこう言うかもしれません。「「あなたの妻を愛しなさい」と書いてあるでしょう。では、今日どのように奥さんを愛するべきか教えます。」

または、「「許しなさい」と書いてあるでしょう。では、あなたは、だれだれさんをまだ許していないでしょう。あなたの傷はとても深いでしょう。でも私があなたを癒すから、相手を許しなさい。」

覚えていてください。律法は私たちに「自分の力によって、このルールに従いなさい」と言いません。

むしろ、律法を通して、神様は私たちの目を開いてくださいます。私たちは、神様が私たちの人生の中で何をしたいと思うか分かります。そして、鏡を見ると、私たちの反映だけではなく、私たちの天の父も見ます。そして、天の父は愛をもって、その恵みの髭剃りで私たちの罪を剃り始めます。

私たちはその髭剃りを見て、ちょっと怖いと思うかもしれません。でも、私たちが信仰をもって、神様に「はい」と言うと、神様は私たちの罪をだんだん剃ってしまいます。

あなたはどうですか。鏡を見ると、あなたの罪と失敗だけを見るでしょうか。もしかしたら、あなたの天の父を見るでしょうか。天の父はきっとあなたの人生に働いて、あなたを癒してくださいます。

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ローマ人への手紙3:27-30--誇りの余地がない

この個所では、私たちはパウロの最も大切な結論の一つを読みます。

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。

それでも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。(27-30)

簡単に言うと、恵みに関しては、人々には誇りの余地が全然ないということです。人々が完全に律法を守ることによって、神様は彼らを受け入れません。(完全に律法を守る人がいないから。)

また、神様は人種によって、人々を受け入れません。(ユダヤ人はそう思ったのに)。私たちがイエス様の十字架の働きを信じたからこそ、神様は私たちを受け入れてくださいます。

多くのクリスチャンはその真理が分からないので、二つの誤解が出てきます。

あるクリスチャンたちは訊きます。「私が何回失敗しても、どうして神様は私を受け入れられるだろうか。」

どうして彼らには、そんな疑いがあるでしょうか。なぜなら、彼らは心の中で、「私は神様の受け入れを得るのに、頑張らなくてはならない」と思うから。そして、彼らはいつも自分の努力が足りないと思います。「私は神様の愛に値しない」と思います。

でも、それがパウロのポイントです。恵みとは、私たちが神様の愛や受け入れに値しないのに、神様が私たちを愛して、受け入れるということです。

神様の前に立って、「私があなたの子供で、あなたはラッキーでしょう。私はいい子だし、あなたの国にいろいろ貢献できる。」と言える人は誰もいません。

むしろ、私たち皆は、霊的に貧しい人として、何も持たずに神様の前に来ます。ある賛美歌には、この言葉があります。

Nothing in my hand I bring,
何も持たずに、
Simply to the cross I cling;
ただ私は十字架にしがみつきます。
Naked, come to thee for dress;
私は裸で、服装を得るためにあなたのところに来ます。
Helpless, look to thee for grace.
私は心細くて、あなたを仰ぎ見て、恵みを願います。

その反面、あるクリスチャンたちが「私はいいクリスチャンだ」と思うので、彼らは「そんなに良くないクリスチャン」を見下します。パリサイ人たちのように、彼らは人々を裁くけど、彼ら自身の失敗や罪を悟らないので、恵みの必要が見えません。だから、彼らは人々に恵みを与えずに、相手を批判してばかりです。

あなたはどうですか。あなたの人生に神様の恵みが見えるでしょうか。もしかしたら、神様があなたを受け入れられないと思うので、あなたはいつも気が沈んでいるでしょうか。

もしかしたら、あなたは人々を見下して、恵みを与えることを拒むでしょうか。

「恵み」という言葉を聞いたら、どう感じるでしょうか。その言葉はあなたの心の中で響くでしょうか。何も感じないでしょうか。

恵みという言葉があなたの心の中で響くように。それだけではなく、恵みがあなたの心を治めるように。

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ローマ人への手紙3:25ー28--神様の忍耐と義

この個所ではパウロは、イエス様の十字架の働きの前の生きていた人たちについて、とても興味深いことを言います。

パウロはこう言いました。

神はこの方(つまり、イエス様)を信仰によって受けるべき、血による宥めのささげものとして公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は、忍耐を持って、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(25-26)

この個所では、パウロは神様の義について話します。パウロが言ったのは、イエス様が十字架で死ぬ前に、神様が人々が犯された罪を見逃すことによって、自分の義を明らかにした、ということです。

それはどういう意味でしょうか。イエス様が十字架で死ぬ前に、すべての人々は救われたのでしょうか。

違います。パウロは何回もはっきりと教えるのは、人々が信仰によって救われるということです。パウロは28節でそう言いました。

人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは教えているからです。(28)

そして、4章でパウロはアブラハムを指して、「アブラハムも信仰によって救われた」と言います。

すなわち、神様を信じない人たちは救われず、むしろ裁かれました。

でも、アブラハムや、モーセや、ダビデや、ほかの旧約聖書の信者たちには問題がありました。彼らはいけにえを捧げたけど、そのいけにえは、ほんとうに罪を清める力を持っていませんでした。むしろ彼らのいけにえは、イエス様の将来のいけにえを描写しました。(へブル人への手紙を解説するとき、私はもっと具体的にそのことを説明します。)

彼らは神様を信じたけど、イエス様がまだ彼らの罪のために死んでいなかったので、神様が彼らを罰することは不公平だったでしょう。

彼らが神様がメシア(救い主)を送ることを信じたので、神様はその信仰を受け入れて、彼らを義人と見なして、彼らが値する罰を猶予しました。そして、イエス様が十字架でかけられたとき、神様はアブラハムやダビデや、ほかの旧約聖書の信者たちの罪をイエス様の上に置きました。その時、イエス様は彼らの罰を受けました。だから、彼らの罪が赦されて、イエス様がよみがえられた後、彼らはイエス様と共に天国に行きました。

神様は私たちに対しても、忍耐と義を表します。私たち皆が罪を犯して、神様はすぐに私たちを滅ぼす権利を持ったけど、むしろ忍耐を表しました。神様は私たちの心に働いて、私たちの心をイエス様のために整えました。そして、私たちが神様を信じた時、神様は私たちの罪を清めてくださいました。

でも、神様の赦しを誤解しないでください。神様はただ、「あなたが悪いことをしたけど、私は優しいからその罪を赦してあげる」と言ったわけではありません。

むしろ、神様はこう言いました。「あなたの罪はひどいものでした。その罪のために、代価が支払われなくてはなりませんでした。正義が行われなくてはなりません。でも、イエスがその代価を支払ったので、正義は行われました。そして、あなたがその十字架の働きを信じたので、その信仰によって、あなたは救われました。」

でも、あなたがまだクリスチャンじゃないなら、覚えていてください。神様は忍耐強い神です。でも、神様は義の神です。神様は忍耐を表して、あなたの反応を待ちます。でも、神様は永遠に待ちません。持ち神様の恵みを受けないと、あなたは神様の義を受けます。だから待たないでください。まだ時間がある間にその恵みを受けてください。パウロはこう言いました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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ローマ人への手紙3:21-30--神様に受け入れられるのに

感じても、感じなくても、私たちのもっとも大切な必要は、神様に受け入れられることです。

私たちが神様に受け入れられることが分かってくると、私たちの人生は完全に変わります。私たちは満足や、平和や、喜びとを見つけます。さらに、私たちは、本当のいのちを見つけます。

でも、どのように私たちは神様に受け入れられるでしょうか。パウロがはっきり教えるのは、律法に従うことによって、神様に受け入れられる人は誰もいないことです。

全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ(ない)。(23)

「罪」の原語は興味深い言葉です。それはアーチェリーの専門用語です。その言葉は、「的を逸れる」という意味です。でも、その意味は、ただ的の中心を逸れるというわけではありません。むしろ、その的に全然当たらないのです。

要するに、私たちは全然完全な人ではありません。神様と比べると、私たちは全然聖い人ではありません。

ちょっと考えてみてください。仮に一日に三回ぐらいあなたは悪いことを考えたり、言ったり、言ったりしたら、ほかの人々と比べると、それはそんなに悪くないでしょう。でも、その三つの罪を365とかけてください。一年だと、それは1000ぐらいの罪です。そして、1000の罪をあなたの年齢とかけると、どうなるでしょうか。それは何万の罪でしょう。だから、裁きの日に、あなたの罪について話すのに、何時間ぐらいかかるでしょう。あなたが毎日、罪を三回以上犯せば、もっと時間かかるでしょう。

だから、私たち皆は、すでに裁かれています。神様の前に「私は、あなたに受け入れられることにふさわしい人です。私は完全にあなたの律法に従ったから。」と言える人は誰もいません。

でもいい知らせがあります。パウロはこう言いました。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証さて、神の義が示されました。(21)

どのように、私たちはその義を得られるでしょうか。パウロは続けます。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(22-25)

パウロは何を言いたいのでしょうか。この個所では、いろんなキリスト教の専門用語があります。パウロは、「贖い」について話します。「贖い」とは、何を意味するでしょうか。

「贖い」とは、奴隷の自由を買うことです。私たち皆は罪の奴隷、またサタンの国にある奴隷でした。でも、イエス様は私たちの自由を買いました。それは「贖い」の意味です。

イエス様はどのように私たちの自由を買ったでしょうか。十字架でイエス様が流してくださった血によって、イエス様は私たちの自由を買いました。パウロは「なだめのささげもの」という言葉を使います。その意味は、十字架でイエス様が私たちの罪に対する神様の怒りを受け入れたので、神様の怒りがなだめられた、ということです。イエス様の血によって、私たちの罪は覆われて、赦されたので、私たちは神様に近づくことができます。

だから、私たちの良い行動によって神様が私たちを受け入れることではなく、神様はイエス様の十字架の御業によって私たちを受け入れます。

言い換えると、イエス様の死によって、私たちは神様に義と認められます。というのは、イエス様が私たちの罪の代価を支払ったので、神様は私たちを罪人と見なさないことです。私たちが罪を決して犯したことがないかように、私たちは見なされます。

だから今、私たちは恵みによって、神様に受け入れられます。「恵」とは、私たちが値しないものに受けることを意味します。実は、私たちは神様に背を向けたので、神様の怒りに値しました。でも、今神様は私たちを息子たちや娘たちとして受け入れてくださいます。私たちがしなくてはならないのは、ただイエス様とその十字架の働きを信じて、受け入れることです。

今日そうしませんか。

イエス様、今まで、私はあなたに信頼せずに、自分の道を行きました。だから私はあなたや、周りの人々や、私自身を傷つけました。赦してください。あなたが十字架で私の罰を受けたことを信じて、感謝します。これから私があなたに信頼し、従うように助けてください。アーメン。

 

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ローマ人への手紙3:9-18--でも、ちょっと言い過ぎているでしょう。

多分、多くの人々がパウロの言葉を読むと、このように反応するでしょう。「パウロはちょっと言い過ぎでしょう。だって、「神を求める者は誰もいない?」って。私の知り合いには、たくさんの人々は神様を求めているよ。また、「善を行う者は誰もいない?」って。毎日、善を行う人を見るよ。」

その二つの異議をちょっと考えてみましょう。

パウロが「神を求める者はいない」と言うと、何を意味するのでしょうか。

ローマ人への手紙1章をもう一度読んでください。その個所によれば、人々は神様に関する知識を拒絶しました。神様は、自分自身を被造物や、人々の良心や、神様の律法を通して、私たちに現わしてくださいました。

でも人々は、神様に関する真理を偽りと取り替えました。彼らは「神様を求めている」と言うけど、神様ではないものを礼拝しました。(1:25)

多くの場合、彼らは偶像を礼拝しました。ほかの人々は聖書の教えを曲げて、違うイエス様や、違う福音や、違う聖霊に従いました。(第二コリント11:4)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私はクリスチャンです。私はカルトや別の宗教にに所属しません。私が神様を求めたので、神様は私を救ってくださいました。」

ある程度、それはそうかもしれないけどその理解はちょっと不完全です。つまり、あなたがイエス様を選ぶ前に、イエス様はあなたを選んでくださいました。(ヨハネ15:16)

また、あなたが神様を求める前に、神様はあなたを探していたのです。(ルカ19:10)

神様が先にあなたを愛して、探したので、あなたは神様を求め始めたわけです。神様があなたの目隠しを取り除いたので、あなたは神様を必要とすると分かって、神様を求め始めました。もし神様があなたをほっといていたら、あなたは決して神様を求め始めなかったでしょう。

神様が触れる前に、神様を求める人は誰もいません。もし振り返れば、どのように神様があなたに触れて、あなたの人生に働いたか分かるでしょう。

そして、パウロは「善を行う人はいない」と言うと、どういう意味でしょうか。

ちょっと想像してみてください。ケーキを作るとき、あなたは、わざと砂糖ではなく、むしろ塩を入れます。焼いたら、そのケーキはおいしそうかもしれないけど、人々はそのケーキを食べられるでしょうか。全然食べられないでしょう。そのケーキを捨てるしかないでしょう。

そのように、私たちが神様に背を向けると、私たちの良い行為は、神様にとってまずいものです。私たちは良い行為を行うかもしれないけど、その良い行為に神様に対する反抗的な態度という味をつけてしまいます。だから、神様にとっては、あなたの良い行為は無意味です。あなたが良い行為を行っても、神様は反抗的な態度を受け入れられません。

預言者イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。(イザヤ64:6)

要するに、自分の良い行動によって救われる人は誰もいません。また、「私の心がそもそも他の人々の心よりも優れたものなので、私は神様に従った」と自慢できる人は誰もいません。私たちは皆は、神様の恵みだけによって救われることができます。

私たちはローマ人への手紙を読めば、読むほど、私たちはその真理を分かって来るでしょう。

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ローマ人への手紙3:9-20--でも私は、そんなに悪くないでしょう?

多くの人々は、「いい人であっても、大勢の人々がイエス様を信じていない。どうして神様は彼らを拒絶するの?どうして、永遠の命を望みたいと思うなら、クリスチャンにならなくてはいけないだろう。例えば、ガンジーはとてもいい人だった。 殺害やレイプを犯す人が地獄に行くのは理解できるけど、どうしてガンジーは地獄に行かなくてはならないでしょうか。」と疑問に思います。

多分、あるクリスチャンたちも、そのことを疑問に思います。

でも、その考え方の問題は、私たちの「良い」というコンセプトがゆがんでいることです。

私たちは自分勝手に、「良い」を定義することができません。

また、「良い」という基準は神様の外のものではありません。神様は決して「私は「良い」という基準に従わなくてはならない」と思いません。神様自身が「良い」の基準です。だから、何が良いか知りたいと思うなら、私たちは神様を見なくてはなりません。「良い」という定義は、神様の性格から流れるから。

そして、どんな行為が良いか悪いかを知りたいと思うなら、神様がどのように人間をデザインしたか見なくてはなりません。それは神様の律法の目的です。その律法を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かるし、私たちがどのように生きるべきか分かります。

だから、私たちの「良さ」を計りたいと思うなら、私たち自身を周りの人々と比べてはなりません。彼らの人生は「良い」という基準ではないから。また、私たちの文化の基準を使ってはいけません。私たちは神様を見て、神様の性格によって私たちを計らなくてはなりません。

でも、そうすると、「良い」という基準に満たす人は誰もいません。だからパウロはこう言いました。

私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(9-12)

パウロは何を言いたいのでしょうか。

神様の前に、自分の義を誇ることができる人が誰もいないことです。神様は彼らの義を認めません。なぜでしょうか。彼らは「義」の意味さえ正しく分からないから。どうして彼らは「義」ということがちゃんとわからないでしょうか。なぜなら、彼らは神様を求めないから。むしろ、彼ら神様に背を向けます。

そして、神様に背を向けることは、一番ひどい罪です。レイプだはなく、殺害ではなく、神様に背を向けるのは一番ひどい罪です。なぜでしょうか。

なぜなら、私が以前言ったように、「良い」という定義は、神様の性格から流れるから。神様は「善」の源です。人々が善の源に背を向けるとは、「悪」の定義ではないでしょうか。善の源に背を向けると、どうなるでしょうか。あなたの心から悪が流れて、あなたは悪いことを言ったり、悪いことをしたりします。

あなたは、何回ぐらい嘘をついたでしょうか。あなたは、何回ぐらい人の悪口を言ったでしょうか。何回ぐらい苦い言葉があなたの口から流れたでしょうか。何回ぐらいあなたの言葉で相手を傷つけたでしょうか。そんな言葉は良い心から流れるでしょうか。

どれだけ、自分の悪い決断によって、あなたの人生はめちゃくちゃになったでしょうか。どれだけ、あなたは自分の行為によって、人々を傷つけたでしょうか。

どれだけあなたは、「神様のみ言葉をよく知っているけど、私は自分の道を行きます。」と言ったでしょうか。

もし、あなたが正直な人なら、あなたは上記のことを全部犯したと認めるでしょう。

だからパウロはこう言いました。

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(19-20)

ガンジーが神様の前に立って、神様が彼を裁くと、ガンジーは何も言えなくなります。なぜなら、神様がガンジーの罪を全部明らかにして、ガンジーはその罪を認めます。それだけでなく、ガンジーは「私はその罪を犯した瞬間、私が悪かったと知っていました」と認めます。

ガンジーは全然言い訳を持っていません。なぜなら、彼が聖書を全部知らなくても、彼自身の良心は彼を裁いたから。でも、ガンジーは、きっとちょっとでも聖書を読んだことがあったでしょう。

(どうしてクリスチャンにならないと聞かれたら、ガンジーはこう言いました。「あなたのキリストは好きです。クリスチャンのことは好きじゃないなです。なぜなら、クリスチャンたちはキリストと全然違うから。」でも、それは別の話です。)

とにかく、彼が聖書を読んだとき、彼の責任が増えました。なぜなら、鏡のように聖書はガンジーに自分の罪を現したから。

そのように、あなたがイエス様を拒絶すると、裁きの日に、あなたも言い訳を持たないので、神様に裁かれます。

だから自分自身をだまさないでください。「私はそんなに悪くはない」と主張しないでください。私たち皆は罪人で、神様の恵みを必要とします。裁きの日にそう認めるより、今認めた方がいいです。

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ローマ人への手紙3:8--嘘も方便でしょう?

昨日、私たちは、神様が裁く人間の態度について話しました。パウロの時代でも現代でも、人々は同じようなことを言います。でももちろん、その応用はちょっと違います。

例えば、パウロの時代に、ある人々はこう言いました。

善をもたらすために悪を行おう。(8)

パウロの時代では、その応用は「もし私たちが悪いことをすると、周りの人々は人間と神様の違いがよく分かって、神様の良さが明らかになる。だから悪いことをしよう。」ということです。

それは本当に曲がった考え方なので、パウロはその人々を叱責しました。

でも今なお、人々は似たことを言います。つまり、「嘘も方便」ということです。また、「目的は手段を正当化する。」とも言います。

ようするに、「私が悪いことをしていることをわかっているけど、私の動機は良いものだ。」ということです。

例えば、「ノンクリスチャンと結婚してはいけないと分かるけど、結婚すると、もしかしたら、その人はクリスチャンになるかもしれない。」

また、「嘘をついてはいけないと分かるけど、真実を言うと、相手を傷つけてしまいます。」

最近アメリカで、大学で大きいスキャンダルが起きました。自分の子供が大学に受け入れられるために、33の人が賄賂を使って、その子供の受験の点数が変えられました。彼らの言い訳は、「私たちは子供を愛しています。彼らの最善を望みます。」

でも、神様はそんな考え方を裁きます。神様は結果だけではなく、手段も気にします。私たちが手抜きをしようとしたら、それは大変な状態に至るでしょう。

ユダヤ人とほかのアラブ人の問題をちょっと考えてみてください。どうしてそんな問題があるでしょうか。何千年も前に、アブラハムは「目的は手段を正当化する。」と思いました。

神様はアブラハムに約束しました。「私はあなたに子供を与えます。その子を通して、全世界は祝福されます。」

でも、何年間経っても、アブラハムにはまだ子供がいませんでした。だから、アブラハムは神様を手伝おうと思いました。彼は奥さんサライの女奴隷と寝て、赤ちゃんが生まれました。

実は、それはアブラハムの奥さんの勧めでした。それにその文化では、アブラハムの行為は不思議なことではありませんでした。実は、たぶん皆がアブラハムの決断に賛成したでしょう。

でも、それは神様の望みではありませんでした。そして、今なお、ハガルの子孫(アラブ人)は、いつもサライの子孫(ユダヤ人)と戦います。もし、アブラハムがその悪い決断をしなければ、その何千年の問題は全然なかったでしょう。

あなたはどうですか。あなたは信仰によって生きているでしょうか。あなたは神様の道を行って、神様があなたを祝福してくださることを信じるでしょうか。

もしかしたら、あなたは言い訳を言って、「良い目的」のために悪いことをするでしょうか。

神様の目には、あなたの動機が良くても、悪い手段を大目に見ません。

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ローマ人への手紙3:5-8ーー呪われた考え方

この個所では、私たちは神様に呪われた考え方を見ます。もし人々がその考え方を持てば、彼らはきっと地獄に行くのです。

正直に言うと、私はそんな考え方を持つ人が存在することが信じられません。彼らはこう言いました。「私が罪を犯すと、かえって神様は喜ぶべきです。なぜなら、私の悪さによって、神様の良さが明らかになるから。きっと神様は自分の良さを明らかにしたいと思うでしょう。ならば、どうして神様は私を裁くでしょうか。」(5-8)

それはとても馬鹿な考え方なので、パウロはすぐにその議論に反ばくしました。「いったい何を言っているのですか。神様は決して罪を喜びません。神様は罪を喜ぶなら、この罪深い世界を裁くことができません。」(6)

また、ほかの人々はこう言いました。「私が罪を犯すと、善がもたらされます。私の罪によって神様の良さがますます明らかにされて、神様の栄光となります。だから、私はもっと罪を犯した方がいいです。」

パウロの答えはとても短くて、率直です。

そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。(8)

もちろん、そのように考える人はもう誰もいないと思います。でも、今なお似たことを言う人もいます。今日は、一つの議論を見て、明日はもう一つの議論を見ます。

ある人はこう言います。「御怒りを下す神は不義です。」(5)

現代の人たちは、パウロ時代の人々と、その議論を違う方法で使います。彼らはこう言います。「もし、だれかが福音を聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを罰するでしょうか。それは不公平です。」

でも、パウロはこの手紙の一章で、その議論に反ばくしました。つまり、福音を聞いていない人も、神様の存在の証拠を持っていることです。その証拠は、被造物とか、彼らの律法とか、彼らの良心です。でも、彼らは、その証拠を持っていても、神様を求めません。彼らは自分が知らないことによって裁かれません。彼らは自分が知っていることによって裁かれます。だから彼らの裁きは公平なものです。

また、多くの人々はこう言います。「どうして神様は自分を拒絶する人々を地獄に行かせれるだろうか。どうして彼らは永遠に苦しまなくてはならないでしょうか。それは不公平です。」

正直に言うと、私は地獄について話すのが嫌いです。私は、すべての人々が結局天国に行くと信じたいのです。でも、聖書はそう教えていません。イエス様自身はそう教えていませんでした。

でも地獄に関して、私は二つのことを言います。

一つ目は、人々が地獄に行く場合、実は、神様は彼らの願いを叶えてくださることです。要するに、神様を拒絶する人は、なるべく神様から遠く離れて、自分の生活を送りたいと思います。でも、結局、彼らが分かるのは、神様が愛や、喜びや、命や、すべての良いものの源であることです。つまり、神様から離れる存在は、すべての良いものから離れる存在であることです。それはどういう存在でしょうか。それは地獄です。

二つ目は、人々が地獄に行く必要がないように、神様はイエス様をこの世に送ったことです。イエス様は十字架で私たちの罪のために死にました。イエス様は救いの働きを全部してくださいました。私たちがしなければならないことは、その働きを信じて、永遠のいのちの賜物を受けることです。

どうやって、その賜物を受けらえるでしょうか。神様にこう祈れば、その賜物を受けます。「天のお父様、今まで、私は自分の道を行って、私の人生はめちゃくちゃになりました。私を赦してください。イエス様が私の罪のために死んで、よみがえられたことを信じます。だからこれから、私はあなたに信頼します。私の心の中で働いて、毎日私がイエス様のようになるように助けてください。」

その選択をすれば、私たちはいのちを知ります。その救いの道は、そんなに難しくないです。難しいのは、自分の道を捨てることです。

C.S.ルイスはこう言いました。「最終的に、人々は神様に向かって、「あなたの御心が行われるように」と言います。それとも、彼らは神様に背を向けて、神様は彼らに、「あなたの心が行われるように」とおっしゃいます。」

あなたはどうするでしょうか。

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ローマ人への手紙3:1-4--神様の真実な性格

ユダヤ人たちが2章だけを読むと、パウロが、ユダヤ人であることや、割礼を受けることに価値がないと教えていると思うかもしれません。

でも、3章では、パウロは、ユダヤ人であることや、割礼を受けることに価値があるをはっきりと教えます。彼はこう言いました。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。(1-2)

要するに、ユダヤ人である一つの益は、神様が彼らに直に自分自身を現したことです。だから彼らは、神様の御名を知ったし、神様がどんな方であるか分かりました。ほかの国民は被造物から、神様がどんな方であるか分かったけど、それしか分かりませんでした。

でも、私が以前言ったように、そんな知識を持つと、マイナス面もあります。つまり、あなたに知識がもっとあれば、神様はあなたをもっと厳しく裁くことです。

そして、残念なことだけど、ユダヤ人たちの歴史書によれば、彼らは神様を知っていたのに、神様に背を向けて、別の神々に従いました。

では、神様はユダヤ人たちに背を向けたでしょうか。ある聖書学者たちは、そう思います。彼らが言ったのは、クリスチャンたちが新しいイスラエルです。ある意味で、それは正しいです。後で私たちは読むけど、私たちは神様の家族に入りました。

でも、「神様はユダヤ人たちをあきらめてしまった」と主張するのは、言い過ぎると思います。パウロは、ユダヤ人に関して、こう言いました。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。(3-4)

あるユダヤ人たちは神様に背を向けたかもしれないけど、神様はユダヤ人たちを捨てませんでした。彼らの不真実は、ユダヤ人たちに対する神様の真実を無としませんでした。人々は自分の約束を破るかもしれないけど、神様はいつも自分の約束を守ります。だから、神様の裁きが不公平と言える人は誰もいません。

そういうわけで、ある日、すべてのユダヤ人がイエス様がメシアであることを信じるようになると思います。

でもユダヤ人じゃない人も、この個所によって、励まされることができると思います。なぜなら、ユダヤ人たちのように、私たちはしばしば不真実な人だからです。私たちは、神様が私たちの最善を望むことを信じないし、神様が私たちの最善を知らないと思うときもあります。だから、私たちは神様とその言葉を捨てて、自分の道を行きます。でも、神様は私たちのことを決してあきらめません。神様は私たちを追いかけ続けます。

だから、時々神様は私たちを懲らしめます。でも、懲らしめるときに、神様は私たちの最善を望みます。そして、私たちが何回失敗しても、神様が私たちをあきらめたことを心配しなくていいです。

パウロは別の手紙で、こう言いました。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、私たちが失敗するとき、また、私たちが転ぶとき、神様の真実な性格を覚えていてください。また神様の約束を覚えていましょう。

わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(へブル13:5)

 

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ローマ人への手紙2:25-29--本当の割礼

パウロの時代に、ユダヤ人たちの一つの問題は、神様に関して大きい誤解をもっていました。つまり、彼らは、神様が人の外見のことより、人の心を気にすることを忘れていたのです。特に彼らは、割礼を受けると、神様に義と認められると思っていました。でも、彼らは、心の中の罪を無視しました。

神様は、旧約聖書の預言者たちを通して、その問題について警告しました。預言者エレミヤを通して、神様はこう言いました。

見よ、その時代が来るーー主のことばーー。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを切り上げているすべてのものを罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。(エレミヤ9:25-26)

つまり、ユダヤ人たちが包皮に割礼を受けるよりも、神様は彼らの心を望みました。もし彼らの心が神様に属しないなら、神様にとって、その割礼は無意味です。だからパウロはこう言いました。

もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。

ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の体の割礼が無割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(25-29)

パウロは仮定的な状況について話しているようです。仮に、誰かが律法に完全に従えたとしたら、その人が割礼を受けていなくても、神様はその人を受け入れます。その反面、誰かが律法に違反すると、割礼を受けていても、神様はその人を律法に違反する者として裁きます。さらに、律法に従う者も、その割礼を受けている人を裁くことができるでしょう。

でも、もちろん割礼を受けている人と割礼を受けていない人の間で、律法に完全に従う人は誰もいません。

だからパウロはユダヤ人たちに言います。「割礼を受けても、あなたは本当のユダヤ人と呼ばれるとは限りません。割礼を受けても、あなたは神の民と呼ばれるとは限りません。割礼は、ただ物理的なものではありません。割礼は、心に関連することです。御霊による心の割礼を受ける人こそが、神様の民で、神様に受け入れられます。」

心の割礼とは、どういうことなんでしょうか。パウロはこう言いました。

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。(11)

肉の体とは、「罪深い性質」を意味します。言い換えると、私たちは罪の鎖で縛られました。でも、私たちがキリストを信じて従い始めると、イエス様はその罪の鎖を破りました。それ以前の私たちは、自分の罪深い性質に引っ張られて、その性質の情欲に従いました。

でも聖霊がその性質を割礼したので、私たちは神様に属する者です。さらに、その罪の鎖が破られたので、私たちは神様に従がう自由を受けて、正しい人生を送る力を受けてくださいました。

でも、その心の割礼は、私たちの努力によるものではありません。むしろ、私たちは信仰を持って、イエス様に心をささげて、こう言います。「イエス様、あなたを必要とします。私は自分自身を救うことができないので、私を救ってください。私はあなたを信頼します。あなたの十字架の働きを信じます。だから私の罪を赦してください。私があなたのものになるように。」

そう祈れば、あなたは神様の子供になります。その瞬間、あなたは神様に義と認められます。

あなたはどうですか。自分の心を神様にささげているでしょうか。割礼された心を持っているでしょうか。

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ローマ人への手紙2:17-24--自分自身を見ること

この個所では、パウロはユダヤ人たちに話しています。そして、彼のポイントは、律法によって、神様の前にあなたが義と認められるのを望むなら、その律法を知っていることだけでは足りないということです。あなたはその律法に完全に従わなくてはなりません。

だから、パウロはこう言います。

あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。(17-23)

つまり、あなたたちは律法を知っていて、鼻が高いです。あなたたちは、神様の律法を与えられて、神様の民と呼ばれることを誇ります。あなたたちは、すべてのことを知っていると思います。だから、あなたたちは、もし誰かが神様とその道を知りたいと思うなら、あなたたちの所に来なくてはならない、と思います。

でも、あなたたちが教える律法に従っているでしょうか。もしかしたら、あなたたちは神様の言葉を伝えた後、正反対のことをするでしょうか。

そして、パウロは彼らにこう言いました。

「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)

正直に言うと、聖書を教える人として、この個所は怖いです。私のゆえに、神様の御名が私の友だちや、同僚たちの間で汚されていることを望みません。私は偽善者になりたくないのです。

でも、私はよく失敗してしまいます。時々、私は偽善者です。正しいことをすることが難しい時もあります。また、私が説教することに従うのが難しい時もあります。説教するとき、また、このブログを書くとき、多くの場合、私は自分自身に説教しているのです。

だから結局、私には、神様の御座の前にひれ伏し、憐れみを請うことしかできません。

実は、それがパウロのポイントです。私たち皆は神様の恵みを必要とします。もし、律法によって、自分が義と認められると主張したいと思うなら、その律法に完全に従わなくてはなりません。でも、そうできる人は、だれもいません。

あなたはどうですか。あなたはどれだけ神様の恵みを必要とするか分かるでしょうか。

もし、あなたが「私は、まあまあいい人です。ほかの人よりも、私はましだと思う」と言うなら、自分自身をもうちょっと見つめた方がいいと思います。なぜなら、自分が思うほど、私たちはそんなに良い人ではないから。その真理が理解しない限り、私たちはどれだけ神様を必要とすることが正しく分かりません。

鏡を眺めると、何を見るでしょうか。

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ローマ人への手紙2:9-16ーー福音を聞いたことない人は、どうなるの?

たくさんの人はキリスト教のメッセージを聞いて、こう訊きます。「もし、ある人々が聖書のことを聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを裁くでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

この個所では、パウロはその疑問に答えます。パウロはこう言います。「悪を行う人皆が裁かれます。ユダヤ人たちは先に裁かれるけど、そのあと異邦人たち(つまり、ユダヤ人ではない人)も裁かれます。その反面、善を行う人皆は報いを受けます。ユダヤ人たちは先に報いを受けるけど、そのあと、異邦人たちも報いを受けます。」

どうしてその順番が決まっているのでしょうか。なぜなら、ユダヤ人たちは神様から直接律法を受けたから。そういうわけで、彼らの責任は重いです。

イエス様はそのことをこのように説明します。

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカ12:47-48)

パウロはそのコンセプトをもっと具体的に説明します。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。(ローマ2:12)

簡単に言うと、自分が持っている知識によって、人々は裁かれます。自分が持っていない知識によって裁かれません。

もし、ユダヤ人に与えられた神様の律法を知っているなら、その律法によって、その人は裁かれます。その律法を知らないと、彼らは別の基準で裁かれます。どんなに基準によって裁かれるでしょうか。

自分の律法が神様の律法に合う限り、彼らはその律法によって裁かれます。パウロは説明します。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(14-15)

つまり、どの国でも、どんな文化でも、すべての国民の律法には、神様の律法に合うところもあります。もちろん、その律法は神様の律法に完全に合わないけど、その律法が神様の律法に合う限り、その律法によって人々は裁かれます。

だから、文化によって、盗難の定義は違うかもしれないけど、ある人がその国の盗難に関する律法を違反すれば、その人は神様に裁かれます。

でも、神様はもう一つの基準で、人々を裁きます。それは人々の良心です。例えば、自分の文化によれば、彼女や彼氏と寝るのは大丈夫かもしれません。それでも、もし誰かが自分の良心に反して、彼女や彼氏と寝ると、彼らは神様に裁かれます。どうしてでしょうか。その罪悪感が表すのは、彼らが心の中で、自分の行為が悪いと分かっていることです。

もちろん、私たちの良心は、神様の律法を完全に反射しません。でも、その良心が神様の律法に合う限り、人々は裁かれます。

もう一つのポイントです。パウロはこう言います。

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。(13)

パウロのポイントは、律法を完全に行う人もいるというわけではありません。また、パウロは、律法によって義と認められる人もいると言っていません。パウロのポイントは、律法を知っていることだけでは足りないということです。もし律法によって義と認められたいなら、あなたは完全にその律法に従わなくてはなりません。でも私たちには問題があります。律法を完全に従う人も全然いません。ほかの記事で、私たちはその切ない真理について話します。

でも、今日の要点は、神様は公平な方だということです。神様は、あなたが持っていない知識によって、あなたを裁きません。むしろ、あなたが持っている知識によって、神様はあなたを裁きます。

だから、自分自身に聞いてください。「自分が持っている知識で、私はどうしているでしょうか。」

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ローマ人への手紙2:1-11--プライドを持つこと。恵みを軽んじること。

神様の恵みはとても素晴らしいものです。でも、恵みに対して、私たちは二つの態度を決して取るべきではありません。この個所では、私たちは、その二つの態度が見ることができます。

一つ目の態度は、プライドです。つまり、人々はこう思います。「私は神様の恵みが要らない。私はもういい人だから。でも、私の周りの人たちは。。。」

パウロは、そんな態度に関して、こう言います。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。(1-3)

ある人々は、いつも周りの人々を裁いて、相手を悪い人と呼びます。でもそれと同時に、彼は自分自身の罪や欠点を見ることができません。彼らはプライドを持って、「あいつは絶対ダメな人だけど、私は大丈夫だ」と思います。でも、パウロは彼らに言います。「あなたも同じことをするよ。どうしてあなたは相手を裁くのですか。」

例えば、私たちは相手が頑固だと思うけど、実は、私たちが彼らと話すと、私たちも頑固になります。

また、ニュース番組で、私たちは殺害者を見て、恐ろしいと思います。だから、彼らが厳しく罰されるように望みます。でも、友達や知り合いが私たちを傷つけると、私たちは縁を切って、自分の心の中で彼らを殺します。(マタイ5:21-22)

だから、パウロは私たちに言います。「あなたは相手を裁く権利を持っていません。あなたは同じことをするから。あなたも神様の恵みを必要とします。その恵みを受けないと、あなたは裁かれます。

でも、パウロはもう一つの問題について話します。ある人々は、神様の恵みを軽んじます。つまり、彼はこのように思います。「神様は私を赦してくれるので、私は好き勝手にして、あとで、神様に謝ります。」

でも、パウロはそんな人にこう言います。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(4)

つまり、神様の恵みの目的は、私たちが自分の罪にふけるわけではありません。その目的は、私たちが罪を悔い改めて、その罪を捨てることです。

でも、多くの人々は恵みを軽んじるので、自分の罪にふけって、神様や周りの人々を傷つけてしまいます。

だから、パウロはプライドを持つ人や、恵みを軽んじる人にこう言います。

あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。(5-11)

つまり、そんな態度を持てば、あなたもきっと裁かれます。

もし、プライドを持って、神様の恵みが要らないと思い、周りの人々を裁くなら、私たちの罪が暴露して、私たち自身が裁かれてしまいます。

また、神様の恵みを軽んじて、罪にふけるなら、私たちは裁かれます。

あなたはどうですか。

神様の恵みを要らないと思うでしょうか。

神様の恵みを軽んじるでしょうか。

そんな態度は裁きに至ります。だから謙遜を持って、私たちが恵みを必要とすることを認めて、神様の愛と恵みを見て、驚きましょう。

神の国では、プライドや、恵みを軽んじる態度の余裕がありません。

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ローマ人への手紙1:18-32–罪という問題

クリスチャンたちとして、私たちはよく救いに関して話します。でも、私たちは何から救われたでしょうか。どうして、私たちには救いが必要でしょうか。

この個所では、私たちはその答えを見つけます。この個所は、聖書の中で最も暗い所の一つです。なぜなら、私たちはどれだけ私たちの状態が必死か分かりますから。

パウロは、この言葉で始めます。

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(18)

「神の怒り。」

私たちは、その言葉を考えてみると、かなり怖いです。私たち皆は神様の愛について話すのが好きです。でも、神様の怒りについて話すのが好きな人は誰もいません。どうして、神様の怒りは人々に注がれているのでしょうか。

二つの理由です。それは、不敬虔と不義です。「不敬虔」と「不義」とは、どういうことでしょうか。

「不敬虔」とは、神様に背を向けることを意味します。

この個所では、パウロは、神様が自分自身をすべての人々に現したと言います。神様は自分自身をユダヤ人や、少数の特別な人々だけに現したわけではありません。神様は自分自身をすべての人々に現しました。

どのように自分自身を現したでしょうか。創造物を通して、神様は自分自身を現してくださいました。創造物のすべては、知的な創造者がおられると叫びます。

その真理を拒絶する人も「この世を見ると、知的な創造者がおられるという考え方がよくわかる」と認めます。(もちろん、それを認めた後、すぐに自分の議論や、理論の下にその真理を埋めるけど。)

とにかく、パウロのポイントは、創造物は創造者を指します。創造物を通して、私たちは神様の力や神性を見ることができます。創造物を通して、どれだけ神様が大きいか分かります。また、私たちは神様のみ心を見ることができます。私たちは神様の想像力を見ることができます。私たちは神様の美しさや、良さを見ることができます。神様は創造物を通して、そのすべてを現してくださいます。

でも、人々はどう反応するでしょうか。自分の不義によって、彼れはその真理を阻みます。

神様がおられないと議論する人の動機を見ると、多くの場合、彼らが神様に裁かれることを認めたくないと分かります。つまり、もし、神様が本当におられるなら、彼らは勝手気ままに生きることができないことです。なぜなら、いつか彼らは自分のことを神様に申し開きをしかなければならないから。

でも、人々が神様に背を向けると、その結果は何でしょうか。

(彼らの)思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり(ます)。(21-22)

偶像礼拝する人を見ると、そのことがよく見ることができます。彼らは自分の手で、偶像を造ります。つまり、彼らはその偶像の創造者です。でも、彼らは自分の手で造った偶像の前で拝み始めます。

でも、人々はいろんな「偶像」を経てます。彼らは自分の知恵や、お金や、情欲に従います。でも、その偶像に彼らの目がくらんでしまいます。

特に、彼らは何が良いか悪いか分からなくなります。また、彼らは、自分の偶像が彼らを滅ぼしていることが見ることができません。

でも、最悪なのは、彼らが神様に背を向けたので、神様が彼らに背を向けてしまうことです。神様は彼らに言います。「あなたは私の心に従わないのでしょうか。では、あなたの心が行われます。」

でもその結果は何でしょうか。24-31節を読んでください。

その結果はただ人間の不敬虔だけではなく、私たちの不義も出てしまうことです。人々は互いに傷つけ合います。私は24ー31節にあるリストを具体的に説明する必要がありません。この世界の人々を見ると、人々が神様に背を向けると、どうなるかすぐに分かります。

32節も、私たちの世界をよく描写します。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(32)

人々の心の中で、彼らは自分の罪のために罰されることに値することがよくわかります。それでも、彼らはその罪を続けるし、おまけにほかの人々が同じ罪を犯すと、その人々を応援します。

アメリのマスコミでは、そのことがよく見ることができます。人々が堂々と神様の律法に違反すると、マスコミはそのことを祝います。神様の言葉に反する法案が可決されたら、マスコミはそのことを祝います。彼らは「聖書は古臭いです。私たちは聖書の著者たちよりもよく知っている」と主張します。

だから、彼らはもう裁かれています。

それは、罪という問題です。だから私たち皆は救いが必要です。

あなたはどうですか。この世界が救いを必要とすることが分かるでしょうか。

もっと大切なのは、あなた自身が救いを必要とすることが分かるでしょうか。

 

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ローマ人への手紙1:8-17--福音

この個所では、パウロは、ほかのところで福音を述べ伝えたように、ローマでもそうするという望みを表します。もちろん、ローマ人のクリスチャンたちはもう福音を知っていたけど、私たち皆は、何回も福音のことを思い出される必要があります。さらに、私たちは福音により深く根ざす必要があるし、福音の意味合が身に染みる必要があります。

それが、この手紙の目的です。私たちが福音より深く根ざすようになることです。

14-15節は私の心を打ちました。パウロはこう言いました。

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のあるものです。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(14-15)

もちろん、キリストに呼ばれた使徒として、パウロは福音を述べ伝える義務を持っていました。でも、パウロにとっては、その召しはただの義務ではありませんでした。彼は惜しまずに福音を述べ伝えました。

私たちも同じ態度を持つべきです。私たちは喜んで福音を述べ伝えるべきです。どうしてでしょうか。私たちはどんな態度を持つべきでしょうか。

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(16)

「福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」

私たちは、その言葉の意味合いをちゃんと把握しているでしょうか。福音は人を救う神の力です。

でも、神様の望みは、ただ彼らが天国に行くことではありません。

救いとは、神様がこの世で、人々を癒すことです。罪によって、彼らの人生は壊れたけど、神様の力によって、彼らは完全な者になることができます。彼らの壊れた心が癒されることができます。彼らの壊れた結婚や人間関係は癒されることができます。でも一番大切なことは、彼らの壊れた神様との関係は癒されることです。それは救いです。福音はその救いをもたらす神様の力です。

そして、このいい知らせはすべての人のためのものです。神様がユダヤ人たちを自分の特別の民として選んだので、福音は先に彼らに伝えられました。でも、イエス様が十字架で死んで、よみがえった後、すべての人々は神様に近づくことができるようになりました。イエス様を信じる人々皆は、神様の子供として受け入れられます。

どうして、神様は私たちを受け入れられるでしょうか。

福音には、神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。(17)

「義」とは、聖書の中で、いろんなニュアンスがあります。でも、この個所では、「義」とは、神様と和解を持つことです。私たちの罪によって、私たちの神様との関係は壊れていたけど、信仰によって、私たちは神様と和解しました。

ちょっと考えると、そのコンセプトが分かりやすいです。どのように私たちの神様との関係が壊れたでしょうか。私たちは神様に信頼しなかったのです。私たちは、神様が私たちの最善を望むことを信じませんでした。私たちは神様の動機を疑いました。だから私たちは神様に背を向けて、自分の道を行き始めました。

では、どのようにその関係が修復されることができるでしょうか。私たちは神様に向かって、「これから、私はあなたに信頼する」と言います。

まず、私たちはイエス様の十字架の働きを信じなくてはなりません。それを信じないと、私たちは神様に受け入れられません。だから、私たちはこのように祈ります。「イエス様、あなたが十字架で死んだとき、あなたが私の罪のための罰を受けたことを信じます。これから、私の主になってください。」

そうすると、神様はあなたを赦してくださるし、あなたに新しい心を与えてくださいます。その新しい心のゆえ、あなたは救いのことだけではなく、すべてのことに関して、神様を信じるようになります。そして毎日あなたが神様を信じれば信じるほど、あなたは神様の声に従います。さらに、神様は自分の声に従う力をあなたに与えてくださいます。だから、あなたの行為は変わり始まるし、あなたはますますイエス様のようになります。

その結果は?あなたは変えられて、完全な者になります。それは救いです。

あなたはその救いを本当に知っているでしょうか。また、周りの人々にその救いを伝えたいと思うほど、その救いをしみじみと感じるでしょうか。

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ローマ人への手紙1:1-7--神様に愛されている。神様に呼ばれている。

それでは、今日から、私たちは新約聖書の中で最も大切な書を読み始めます。どうして、ローマ人への手紙がそんなに大切なんでしょうか。なぜなら、この手紙で、パウロははっきりと福音を説明するからです。

パウロはこの手紙を書くとき、まだローマに行ったことがありませんでした。だからほかのパウロの手紙と違って、パウロはローマの教会の問題などについて話していません。むしろ、パウロは福音を詳しく説明します。なぜなら、神様はパウロが福音を述べ伝えるように呼んだから。それがパウロの使命でした。

この手紙のあいさつで、パウロは、神様が彼を使徒として呼んだことに関して説明します。特に、パウロのミッションは、異邦人に福音を述べ伝えることです。

パウロが、プライドを持って、「神様は私を選んだ」と自慢するのは簡単なことだったでしょう。

でもパウロはこう言いました。「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。あなたがたは神に愛され、召された聖徒たちです。」(6-7)

「あなたがたも。」

私は、その言葉が大好きです。

「あなたがたも。」

パウロはローマのクリスチャンたちに言いました。「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。私たちユダヤ人たちだけではありません。私たち「特別な人」だけではありません。あなたがたも、特別な人たちなのです。あなたがたも神様に愛されているのです。あなたがたも、召された聖徒たちです。」

時々、私たちは、「どうして神様は私を愛しているだろうか」と疑問に思います。

私たちはこう思います。「私は全然スペシャルじゃないです。いったいどうして、神様は私のことを考えるだろうか。」

でも、時間が始まる前に、神様は私たちを知っていて、「あなたを愛している。あなたを選ぶ。」と言いました。

神様は私たちの過ちや、罪や、軟弱さを見たのに、「あなたを私のために選ぶ」と言いました。

それは「聖徒」の意味です。「聖徒」とは、「神様に選ばれた人、また、神様のために選ばれた人」という意味です。

私たちの多くは、「聖徒」という言葉を見ると、「え?私は聖徒なの?私は聖徒じゃないよ。」と言います。

なぜなら、「聖徒」を考えると、私たちのイメージは、完全な人ですから。

でも、あなたが「聖徒」と呼ばれる理由は、あなたがほかの人よりも聖い者であるわけではありません。むしろ、神様があなたを愛して、選んだゆえに、あなたは「聖徒」と呼ばれます。

それは恵みです。あなたがその愛にふさわしくないのに、あなたがほかの人よりも優れたものではないのに、神様はその愛をあなたの上に注いでくださいます。

そして、私たちは恵みによって愛を受けたから、神様との平和を持っています。神様が私たちを本当に受け入れるかどうか疑わなくてもいいです。もし、私たちが神様の受け入れのために働かなくてはならないなら、そんな心配があることでしょう。でも神様は恵みによって私たちを受け入れてくださいます。

この世界を造る前に、神様はもうあなたを選んで、受け入れました。もし私たちがそのことが把握できるなら、どのように私たちの人生は変わるでしょうか。私たちはもう神様の愛と受け入れを得ようと努めないし、安心できるでしょう。

天のお父様、私たちがローマ人への手紙を読むとき、私たちの目を開いてください。私たちがあなたの愛や、恵みを見えるように助けてください。あなたが私たちをもう受けれていることを把握するように助けてください。そして、私たちがあなたの愛と受け入れに安心するように助けてください。私たちがあなたの受け入れとを得ようと努めるのをやめるように助けてください。むしろ、私たちがあなたの愛を知って、安心して、あなたとの親しい関係を楽しむように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

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使徒の働き28:11-31--まだ終わっていない話

今日、私たちは「使徒の働き」の最後の話を読みます。それだけではなく、これは最後の聖書の歴史書です。残っているのは、使徒たちからの手紙や黙示録です。

でも、この書には、ちょっと不思議なエンディングがあります。実は、この書にはエンディングがないのです。

今日の個所では、パウロはとうとうローマに着いて、そこのユダヤ人たちに福音を述べ伝え始めました。いつものように、福音を信じる人もいたし、信じない人もいました。そして、あるユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶すると、パウロは異邦人たちの所に行って、彼らに福音を述べ伝え始めました。

ルカは、この話をまとめると、こう言いました。

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を述べ伝え、

主イエス・キリストのことを教えた。(30-31)

あなたは、パウロがカエサルの前に現れたとき、何を言ったか、知りたいと思わないでしょうか。また、パウロの最後の日に関して、聞きたいと思わないでしょうか。

私は聞きたいです。

でも、ルカはそれらのことについて何も言いません。

むしろ、最後のシーンでは、パウロは人々に福音を述べ伝えています。

おしまい。

どうして、ルカはこの書をそのように終えたでしょうか。私には分かりません。

でも、もしかしたら、ルカはこう言いたいのかもしれません。「この話は、まだ終わっていません。今なお、福音はこの世に広がっているのです。」

ある人は、パウロの時代のユダヤ人たちのように、自分の目をつぶり、耳を閉じて、福音を拒絶します。

でも、迫害があっても、外からの教会に対する攻撃があっても、中からの教会に対する攻撃があっても、神様は教会を守って、福音はまだこの世に広がっています。

そして、今私たちはその話に参加しています。私たちは福音を聞いて、信じるようになりました。それだけではなく、パウロのように、私たちが自分の教会から行って、聖霊に満たされて、すべての国民に福音を述べ伝えるように呼ばれました。

あなたはどうですか。

あなたは聖霊に満たされているでしょうか。

聖霊に満たされないなら、私たちは神様が命じたように福音を述べ伝える力を持たないでしょう。

日本語では、この書は、「使徒の働き」と呼ばれています。でも、この書の最初から最後まで、実際の聖霊様の働きについてです。聖霊様は自分の民を通して働いていました。

だから、もう一度イエス様の言葉をもう一度読みましょう。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全地、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

私たちは聖霊に満たされて、この世に行き、この2000年前に始まった話を続けましょう。

 

 

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使徒の働き28:1-10--聖霊様が私たちの中で働くと、

私が子供のとき、あるアクションドラマには「一人の人でも、この世を変えらえれる」というテーマがありました。

この個所では、私たちはその真理を見ることができます。でも、そのモットーをちょっと変えた方がいいと思います。それは、聖霊に満たされたら、一人の人でも、この世を変えることができます。

パウロたちはマルタという島に着いて、寒かったので火をたきました。でも、パウロが枯れ枝を集めた時、まむしは彼の手にかみつきました。それに、そのまむしはパウロの手にぶら下がっていました。

島の人々はそれを見て、こう言いました。

この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。(4)

でも、パウロがそれでも生きていたので、彼らは「この人は神様だ」と思い始めました。もちろん、パウロは自分に対する彼らの間違った考え方を訂正して、本当の神について教え始めました。

そして、パウロは島の長官プブリウスという人の家を訪問して、プブリウスの病気のお父さんのために祈りました。そのお父さんが癒されたので、たくさんの人々は、パウロのところに来ました。そして、パウロは彼らの病気を癒しました。

その結果は?

マルタがキリスト教を信じる国になって、今なお、キリスト教はマルタの主な宗教です。

私のポイントは?

聖霊様が私たちの中で働いたら、私たちはこの世を変えることができます。私たちはまむしを手から振り落とさないかもしれないし、人を癒さないかもしれませんけど、聖霊様が私たちの中で働くと、周りの人々は気づいて、聖霊の働きによって変えられます。

だから、毎日、御霊に満たされましょう。(エペソ人5:18)

そうすれば、周りの人々は私たちを通して神様を知るようになります。

天のお父様、私をあなたの御霊で満たしてください。私を見ると、周りの人々が私のうちに住んでおられるあなたを見るように。私を用いてください。私があなたの器になるように。私が毎日あなたの恵みのパイプラインになるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き27:21-44--嵐の中の光

イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と命じました。(マタイ5:16)

この個所では、私たちはパウロが自分の光を輝かせることを見ることができます。

大変な嵐で、船に乗る皆は絶望しました。でも、パウロは彼らに希望を与えました。彼はこう言いました。

しかし今、あなたがたに進めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。「恐れることはありません。パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、皆あなたに与えておられます。」

ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。(22-25)

そのあと、まだ空が暗くて、皆が失望するとき、パウロは彼らにこう言いました。

今日で十四日、あなたがたはひたすら待ち続け、何も口に入れず、食べることなく過ごしてきました。ですから、食事をするよう勧めます。これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。(33-34)

そして、パウロはパンを取り、皆の前で神様に感謝の祈りをささげて、食べ始めました。それを見て、ほかの人々の希望が戻って、彼らも食べ始めました。

それは自分の光を輝かせることの一つの意味です。私たちは希望のない人に希望を与えることです。

この世では、たくさんの人々は、自分の境遇のため、希望がありません。でも、イエス様は私たちの希望の源です。そして、イエス様が私たちを通して、光を輝かせると、周りの人々は希望を見つけます。

でも、もう一つの方法で、パウロは光を輝かせました。自分の言葉と行為によって、パウロは周りの人々が正しいことをするように励ました。

ある船員たちは、船からこっそり逃げ、囚人たちをほっとおいて、死なせようと思いました。

でもパウロはそれを見て、警告しました。

あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません。(31)

だから、彼らは小舟の綱を切って、その小舟が流れるままにしました。

そして、その船が座礁した時、兵士たちは囚人たちを殺そうと思いました。なぜなら、囚人たちが逃げたら、兵士たちは罰されますから。でも、百人隊長はパウロの光を見ていたので、その兵士たちを制止しました。だから結局だれも死にませんでした。

そのように、私たちの言葉や、行為を通して、私たちは光を輝かせるべきです。私たちは彼らにどのように生きた方がいいか示します。そして、私たちの模範を見ると、彼らはそのように生きるように励まされます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々のための光でしょうか。

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使徒の働き27章1-20--大多数の意見に従うこと

大多数の意見に従うのは、とても簡単なことです。特に、私たちがその意見に従いたいなら、その意見に従うのは簡単なことです。

でも、大多数の意見に従うのは、いつも正しいとは限りません。この個所では、パウロやほかの囚人たちの担当する百人隊長はそう学びました。

天気のせいで、彼らは予想以上にローマにゆっくりと進みました。でもパウロはその天気がもっとひどくなると知っていました。だから彼は、百人隊長に警告しました。

皆さん。私の見るところでは、この航海は積み荷や、船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう。(10)

神様がパウロにそう言ったか、自分の経験によってパウロがそう言ったか、私は分かりません。でも、とにかく、百人隊長は待ちたくないと思ったようです。だから、彼が船長や船主と相談して、彼らは行き続け、別の港で冬を過ごそうと思いました。

どうして、彼らはパウロのアドバイスを聞かなかったのでしょうか。もしかしたら、パウロは船員ではなかったから。だから、彼らは自分自身の判断に頼りました。もう一つの理由は、彼らがもう待ちたくなかったことです。彼らは遅れたので、遅れを取り戻そうと思いました。

でも、大多数の意見に従って、結局彼らは死にそうな状況に陥ってしまいました。

あなたはどうですか。あなたは神様の言葉に従うでしょうか。もしくは大多数の意見に従うでしょうか。周りの人々が悪いことをするとき、あなたも参加するでしょうか。または、日本の文化が神の国の文化に反対するとき、どっちの方に従うでしょうか。日本の文化でしょうか。神の国の文化でしょうか。

いつも大多数の意見に従うと、あなたは神様の言葉に反してしまうときもあります。そして、あなたは大変な状態に陥ってしまうかもしれないし、神様を悲しませてしまいます。

パウロはこう言いました。

神の御霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ人への手紙4:30)

あなたは誰について行っているでしょうか。

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使徒の働き26:20-32--捕えられた

この個所では、三つの福音に対する反応を見ます。

一つ目は迫害ということです。ユダヤ人たちは福音のゆえにパウロを迫害しました。

二つ目は、人々に私たちが頭がおかしくなっていると思われるということです。フェストゥスは、パウロの話を聞くと、そう思いました。

三つめは、人々が私たちのことや福音を軽んじることです。アグリッパは、パウロの話を聞くと、パウロが素朴な人だと思ったようです。

でも、パウロは福音を宣言し続けました。なぜでしょうか。第二コリント5章で、パウロは自分の考え方を説明しました。

私たちが正気でないとすれば(フェストゥスはそう思った)、それは神のためであり、正気であるとすれば(パウロはそう主張した)、それはあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを捕えているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。(13-14)

どうしてパウロは福音を述べ伝え続けたでしょうか。なぜなら、パウロは、キリストが私たちを愛して、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことを固く信じていましたから。キリストの愛は彼に触れて、周りの人々が彼が頭がおかしくなっていると思っても、パウロは福音を伝えなくてはならないと思いました。

私たちも同じ態度を持つべきです。イエス様が私たちのために死んでくださったことを信じて、また、本当にキリストの愛に触れられるなら、私たちは福音を周りの人々に伝えるべきです。

私たちを迫害する人もいます。私たちが頭がおかしくなっていると思われる人もいます。私たちが素朴だと思う人もいます。でもイエス様を信じて、救われる人もいます。

あなたはどうですか。イエス様の愛があなたを捕まえているので、福音を周りの人々に伝えるでしょうか。

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使徒の働き25-26--神様からの召しに従う

この個所では、パウロはフェストゥスとアグリッパ王の前に現れました。このアグリッパ王は、ヤコブを殺したり、ペテロを殺そうとしたりしたヘロデの息子でした。

とにかく、ユダヤ人たちはもう一度、フェストゥスがパウロをエルサレムに送るように願いました。フェストゥスは、そこでパウロに裁判を受けさせようと思ったけど、実は、ユダヤ人たちはパウロがエルサレムに行く途中、殺そうと思いました。パウロはその陰謀をよく知っていたので、フェストゥスがパウロにエルサレムに行くように説得しようとするとパウロは、「カエサルに上訴します」と言いました。

フェストゥスはその願いを叶えたけど、ちょっと問題がありました。パウロの「犯罪」は、ユダヤ教の法律に関するものでした。だから、フェリクスはどのようにその「犯罪」をカエサルに説明するかよくわかりませんでした。つまり、フェストゥスはユダヤ教のことがよく分からなかったし、たぶん、カエサルもユダヤ教のことがよく分からなかったということです。

だから、アグリッパ王が来ると、フェストゥスが彼と相談したので、アグリッパは、パウロの弁明を聞くと言いました。

そして、パウロはもう一度自分の証しを語りました。パウロは何回もその証しを語ったので、毎回私たちはいろんな新しい詳細を聞きます。パウロはアグリッパと話した時、イエスからの使命を説明しました。イエス様はパウロにこう言いました。

わたしは、あなたを。。。[ユダヤ人たちや異邦人たち]のところに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるためである。(17-18)

イエス様は私たちに同じ使命を与えてくださいます。

私たちは周りの人々に福音を述べ伝えるべきです。その目的は?それは、彼らが自分の罪の鎖や、自分の心の暗闇を見るためです。そして、彼らがサタンの国から解放されて、神様の国に入って、また、彼らの罪が赦されて、イエス様を信じる信仰によって、神様の子供になるためです。

その召しに関して、パウロはアグリッパ王とフェストゥスにこう言いました。

私は天からの幻に背か(なかった。)(19)

あなたはどうですか。あなたはその使命を果たしているでしょうか。あなたは周りの人々に福音を伝えているでしょうか。

 

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使徒の働き24:26-27--高潔な人

フェリクスは神様の裁きについて聞くと恐れたけど、何回もパウロを呼んで、話しました。どうしてしょうか。

フェリクスにはパウロから金をもらいたい下心があったので、何度もパウロを呼べ出して語り合った。(26)

フェリクスはパウロに何を言ったでしょうか。

「ずっと牢にいるのは大変でしょう。あなたは自分の宗教に夢中だし。牢から出たくない?福音を伝えたいでしょう?あなたの神はきっとそう望むでしょう。」

または、

「教会の人たちはあなたのことを心配しているでしょう。ところで、たくさんのクリスチャンがいるでしょうか。どんな財源があるでしょうか。確かに、彼らはあなたを助けたいと思うでしょう?」

パウロは賢い人でした。フェリクスの希望をよく知っていたでしょう。でも、パウロはどうしても自分の良心に反しませんでした。二年ぐらいフェリクスはパウロと話したけど、結局フェストゥスという人は総監になりました。

パウロが賄賂を使って、牢から出るのは、簡単なことだったでしょう。いろんな「良い」言い訳を言うことができたでしょう。でも、パウロはそうしませんでした。なぜでしょうか。

一つ目の理由は、パウロは神様を愛していたことです。そして、神様のタイミングで、パウロは自分が釈放されると信じました。でも、釈放されなくても、パウロは神様の計画が一番いいと信じました。それに、パウロはイエス様を悲しませたくありませんでした。

二つ目の理由は、賄賂を使っていたら、パウロは自分の証しを滅ぼしたことです。ちょっと考えてみてください。パウロはフェリクスに正義や節制や、来るべきさばきについて話していました。だから、パウロが賄賂を使っていたら、フェリクスはどう思ったでしょうか。「やっぱり、パウロはそのことを本当に信じていないだろう。パウロが神様の裁きについて心配するなら、この賄賂を使わないだろう。」

でも、パウロは決して賄賂を使わなかったので、彼の証しは固く立っていました。

あなたはどうですか。不便な時でも、自分の良心に従うでしょうか。

決して自分の良心に反しないでください。もっと大切なのは、神様の言葉に反しないでください。神様に信頼し続けてください。神様は、「この場合、悪いことをしても良い」と絶対言いません。だから、神様の道を行くのを決めてください。

そうしないと、神様を悲しませるし、あなたの証しを滅ぼしてしまいます。

あなたはどうですか。あなたは高潔な人でしょうか。

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使徒の働き24章ーー神様のご計画のすべてを知らせること

パウロはエペソ人たちにこう言いました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(使徒の働き20:26-27)

「神のご計画のすべて」というのは、どういうことでしょうか。この個所では、パウロの意味を見ることができます。パウロはローマの総督フェリクスの前に来て、ユダヤ人たちの言いがかりを否定しました。

その日、フェリクスは何も決めていなかったけど、そのあと、何回もパウロと話しました。その時、パウロは自分の信仰について話しました。もちろん、パウロは神様の愛や、イエス様の十字架の働きや、信仰による救いに関して話したでしょう。でも、パウロはもう一つのことについて話しました。

しかし、パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じた。。。(25a)

つまり、パウロはこう言いました。「神様の目にあなたは罪人です。悔い改めないと、あなたはきっと裁かれます。」

フェリクスの反応は?

フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする。」と言った。(25b)

福音とは、ただ「神様はあなたを愛している」と言うメッセージではありません。

福音は次のようにも言います。「深刻な問題があります。あなたが罪を犯したので、神様はあなたを裁きます。だから、イエス様に向かって、悔い改めなさい。まだ時間がある間に、イエス様とその十字架の御業を信じなさい。」

そう言わないなら、私たちは彼らに神様の計画のすべてを知らせていません。そして、彼らが地獄に行ってしまうなら、彼らの血に対して、私たちには責任があります。

もちろん、私の目的はただ彼らを怖がらせるというものではありません。福音は良い知らせです。つまり、イエス様が十字架で私たちの罰を受けたので、イエス様を受け入れると、私たちは地獄に行く必要がないのです。それに、イエス様は私たちに豊かな人生を与えてくださいます。また、私たちは神様の喜びと平和を知ります。

地獄よりも、私たちはそんなことについてフォーカスした方がいいと思います。

それでも、私たちは彼らに警告するべきです。「もしイエス様を拒絶するなら、あなたはきっと裁かれます。」

フェリクスのように、それを聞いて、恐れてしまう人もいます。彼らは「今そのことについて話したくない」と言うかもしれません。でも彼らの反応は私たちの責任ではありません。

私たちは忠実に神様のメッセージを伝えるしかできません。

あなたはどうですか。あなたは神様の計画のすべてを人々に知らせているでしょうか。

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使徒の働き23:12-35--妨害されえることができない計画を持つ神

前の記事で書きましたが、神様は自分の計画を私たちの人生に果たしてくださいます。そして、どんな力でも、その計画を妨害できません。

この個所では、その真理の一つの例を見ます。あるユダヤ人たちは、パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしない、と呪いをかけて誓いました。だから彼らは祭司長たちの協力を願いました。

彼らは誰に誓ったでしょうか。それは神様に対する誓いだったでしょうか。それは、とても皮肉的な誓いでしょう。「神様。私たちは人を殺してはならないという戒めを違反して、パウロを殺害するように誓います。」

確かに彼らは別の言葉を使ったけど、基本的に、それが彼らの誓いでした。おまけに、祭司長たちはその誓いが正しいと思ったし、そのユダヤ人たちと協力しました。

でも、彼らは神様の計画を妨害できませんでした。神様の導きによって、パウロの甥はユダヤ人たちの計画を耳にしました。そして、神様が千人隊長の心の中で働いて、その千人隊長がパウロを守ったので、パウロは無事に裁判に行くことができました。だから、ユダヤ人たちの陰謀は無駄になりました。

私はこの話を読むと励まされます。私たちが神様の心に従おうとすると、時々この世は私たちに反対するようです。実にこの世は私たちに反対するときもあります。でも結局、だれも、またどんな力でも神様の計画を妨害できません。だから、紅海でモーセの言葉を覚えていてください。

恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。(出エジプト記14:13)

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使徒の働き23:11--私たちの近くに立つ神

時々、聖書を読むと、私たちは使徒たちやほかの聖書の登場人物をスーパーヒーローと見なします。例えば、彼らは勇気を持って、恐れずに死に直面します。もちろん、そのような話もあります。シャデラク、メシャク、とアベデ・ネゴは、そんな勇気を持っていたようです。(ダニエル書3章)

でも、神様を信じた人たちがいつもそんな勇気を持っていたかどうか、私はわかりません。結局、彼らはただの人間だから。だから、今日の個所を読むと、パウロの心の中で何を考えていたかに疑問に思います。

最高法院の人たちの論争がとても激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうと恐れました。だから兵士たちはパウロを最高法院の人たちの中から引っ張り出し、兵営に連れて行きました。

その夜、パウロは寝るとき、何を考えたでしょうか。彼は恐れたでしょうか。彼は、神様からの使命をちゃんと果たせるかどうか疑ったでしょうか。

パウロが何を考えていたか私にはわからないけど、イエス様はパウロを励ましました。

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
(23:11)

二つのことが、私の心を打ちました。

一つ目は、イエス様はパウロのそばに立ったことです。

私たちの一番暗い時、私たちが試練に入っているとき、私たちが恐れ、疑うとき、イエス様はいつも私たちのそばに立っています。

二つ目は、イエス様はパウロに、「勇気を出しなさい。」と言ったことです。

もし、パウロがもう勇気を持っていたら、どうして、イエス様は「勇気を出しなさい」と言ったでしょうか。

もしかしたら、パウロの境遇のため、彼はちょっとふらふらしたかもしれません。でも、イエス様は彼を安心させて、「勇気を出しなさい」と励ましました。

時々私たちの信仰も、ちょっと揺れます。神様の道を行くとき、私たちは本当に正しい道を行っているかどうか疑います。でも、イエス様はパウロに言ったように、私たちにも言います。「勇気を出しなさい。」

どうして私たちは勇気を持つことができるでしょうか。なぜなら、私たちの人生に、神様は自分の計画を成し遂げるから。また、サタンや、ほかの世の力は神様の計画を妨害できません。

イエス様はパウロにこう言いました。

あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11)

要するに、「あなたの敵について、心配するな。あなたは私の目的を果たします。だから、しっかりして、私に信頼しなさい。」

あなたはどうですか。あなたの境遇のため、あなたは信仰をだんだん失っているでしょうか。相手があなたに反対しているので、あなたは恐れているでしょうか。

勇気を出してください。イエス様があなたのそばに立っていることを覚えていてください。そして、イエス様に信頼し続けて、従い続けてください。イエス様が自分の計画を成し遂げる確信を持ってください。そして、パウロの言葉を覚えていてください。

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピりピ人への手紙4:5-7)

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使徒の働き22:30-23:10--蛇のよ うに賢い

イエス様は弟子たちに「蛇のように賢く生きなさい」と命じました(マタイ10:16)。この個所では、パウロはそうしました。

パウロが「狼」に取り囲まれたとき、彼の賢い言葉によって、最高法院は二つに割れました。パウロは何と言ったのでしょうか。

兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。(23:6)

パウロは本当のことを言いました。パウロはイエス様の復活を信じたので、裁きを受けていました。もちろんパウロはイエス様の名前を言わなかったけど、その言葉によって、復活を信じた人たち(つまり、パリサイ人たち)と復活を信じなかった人たち(サドカイ人たち)は割れてしまいました。だから、パリサイ人たちはパウロをかばい始めました。

もしかしたら、その言葉によって、イエス様を信じるようになったパリサイ人もいたかもしれません。それが本当に起こったかどうかわかりませんけど、あるパリサイ人たちはこう叫び始めました。

この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない。(23:9)

では、私たちは、この話から何を学ぶことができるでしょうか。

誰と話しているか、よく分かってください。

あなたは、福音に大反対する人に出会うかもしれません。でも、もしあなたがその人を知っていて、特に、彼らの考え方を知っているなら、神様はあなたにどうやって彼らを説得できるかを教えるかもしれません。そして、あなたの賢い言葉によって、福音の種は彼らの心に蒔かれるかもしれません。

だから、イエス様の言葉を覚えていてください。

わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。(マタイ10:16)

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マタイ21:37-22:29--私たちの偏見に目がくらむこと

この個所では、パウロは偏見に目がくらんでいた二つのグループに直面しました。

ユダヤ人たちは、自分たちを神の民と見なしたので、神様が異邦人の罪人を救いたいと思うことに目がくらんでいました。彼らが思ったのは、異邦人たちが救われるのに、ユダヤ人のようにならなければならないことです。それでも、彼らは、神様がその異邦人を受け入れても、異邦人はユダヤ人より低いレベルにいると思いました。

だから、パウロが、神様が異邦人のところにパウロを送ったと言うと、ユダヤ人たちはそのアイデアを全然受け入れられませんでした。

その反面、ローマ人たちは、ユダヤ人たちを見下しました。だから彼らは、ユダヤ人がローマ市民になることはあり得ないと思いました。そういうわけで、裁判の前にローマ市民をむちで打つのが不法だったのに、彼らはパウロをむちで打とうと思いました。パウロが千人隊長に「私はローマ市民」だと言ったとき、最初はその千人隊長は信じてくれませんでした。でも、自分の誤りが分かると、千人隊長は本当に恐れました。なぜなら、ローマ市民をむちで打つと、千人隊長自身が罰されるでしょうから。

では私のポイントは何でしょうか。自分の偏見に目がくらんだら、私たちはいろんなトラブルに出会います。もちろん、周りの人々は怒るけど、神様は私たちをその態度のために裁きます。

神様はすべての人々を愛しています。だからイエス様は一つの特別の人種のためではなく、すべての人種のために死にました。

そして、私たちがクリスチャンになると、神様は自分の子供を平等に愛しています。

パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)

だから私たちの偏見を捨てて、人々をありのままで受け入れましょう。彼らは神様のかたちとして創造されたし、神様に愛されたし、救い主が必要です。

 

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使徒の働き21:17-36--誤解された

この話の興味深いことは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解こうとしたけど、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちとの誤解を起こしてしまったことです。

クリスチャンのユダヤ人たちとノン・クリスチャンたち両方は、パウロの教えを誤解しました。つまり、彼らは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちがモーセの律法を全く捨てなくてはならないことを教えていると思いました。だからヤコブと他の長老たちは、モーセの律法に従って、パウロが四人のユダヤ人のクリスチャンたちと一緒に清める儀式に参加するように説得しました。それに、その四人が神様に対する誓願を守るために、パウロは彼らの費用を払ってあげました。(もしかしたら、彼らはナジルの請願をしたかもしれません)。

パウロはその意見に同意しました。ある聖書学者たちは、パウロが間違えたと思います。つまり、パウロは、その儀式に参加するべきではなかったということです。

私の意見だけど、パウロは正しいことをしました。なぜなら、ユダヤ人を救うために、パウロは、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったから。(第一コリント9:19-23)

とにかく、パウロは、ユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解いたけど、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちは、まだパウロがモーセの律法に反対したと思ました。さらに、彼らはパウロが異邦人を神殿の中に連れて行ったと思いました。(ユダヤ人の律法によれば、それは禁止されていて、神殿を汚す行為です。)

とにかく、私のポイントは何でしょうか。イエス様に従って、またその言葉に従っても、私たちは周りの人々に誤解される可能性があります。教会の人々でも、この世の人々でも、あなたを誤解するかもしれません。頑張って、その誤解を解こうと思っても、あなたのことが理解できない人もいます。

では、私たちはどうするでしょうか。イエス様に従い続けることしかありません。神様が私たちに言うことに従わなくてはなりません。私たちは、それしかできません。私たちはほかの人々の反応を神様にゆだねるべきです。

もちろん、私たちは自分の行為を反省するべきです。もしかしたら、彼らの批判は全く間違えているかもしれません。でも、もしかすると、相手の批判は、ある程度まで正しいかもしれません。だから自分の行為と動機を見極めてください。そして、神様の御心がわかる限り、神様に従ってください。またパウロの態度を取ってください。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:3-5)

 

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使徒の働き21:1-16--代価がどんなに高くても

この個所を解釈するのは、ちょっと難しいです。

どうして、神様はその預言をパウロに教えたでしょうか。神様は、パウロがエルサレムに行かないように、警告したいと思ったでしょうか。もしくは、神様はパウロが試練を覚悟するのを望みましたか。

私の意見だけど、たぶん、神様は、パウロがその試練を覚悟するために、あらかじめ警告したのでしょう。

イエス様が初めてパウロに現れたときから、パウロがユダヤ人たちや異邦人たちに福音を述べ伝えるために苦しむと警告しました。(使徒の働き9:15-16)

たぶんそういうわけで、ほかのクリスチャンたちがパウロがエルサレムに行かないように願ったとき、パウロはこう答えたでしょう。

あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(13)

つまり、代価がどんなに高くても、パウロはイエス様に従おうと努めました。だから、彼らが何を言っても、彼の気は変わりませんでした。

あなたはどうですか。神様は決して、私たちがスムーズな人生を送ると約束しませんでした。また、私たちが神様に従うと、すべての人々が私たちを愛することを約束しませんでした。実は、神様は正反対なことを約束しました。(ヨハネ16:33;第二テモテ3:12)

あなたはそのことをもう知っているかもしれません。でも試練に直面すると、あなたはどうするでしょうか。

その試練が来ると、神様が恵みと勇気を与えてくださるように。

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使徒の働き20章ーー走るべき道のりを走り尽くすこと

エペソ人のリーダーたちに対するパウロの最後の話では、いくつかのことは私の心を打ちました。聖霊様はパウロにいろんな試練に直面することを警告しました。でも、パウロはこう言いました。

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(24)

パウロにとって、福音を述べ伝えることは一番大切な仕事です。彼は忠実にそうしたので、こう言うことができました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(26-27)

でも、パウロはエペソ人のリーダーたちも、自分の走るべき道のりを走り尽くすように励ましました。つまり、神様が彼らに預けた教会の世話をすることです。パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。(28-31)

パウロがはっきり言ったのは、私たちが走るべき道のりを走り尽くさないように、サタンが私たちを攻撃することです。

一つの方法は、外からの攻撃です。つまり、迫害のことです。

でももう一つの方法があります。それは教会のうちからの攻撃です。つまり、真理を曲げる人が教会に入ることです。彼らはクリスチャンに見えるけど、実は、サタンからのうそを教えます。もし彼らに従うと、私たちは違う道を行ってしまいます。

だから、パウロはエペソ人たちに言いました。「注意しなさい。迫害も偽のクリスチャン・リーダーも絶対に来ます。」

私たちも注意しなければなりません。私たちの信仰のため、親しい家族や友達の間でも、私たちを迫害する人もいます。

また、神様の言葉をよく知らないと、ネットや、本や、私たちの教会で、サタンのうそを聞くと、私たちは騙されてしまいます。

それを聞いて、ちょっと怖いと思うかもしれません。「どうすればいいか」と思うかもしれません。でもパウロは、こう言いました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(32)

つまり、最終的に、神様とその恵みだけが私たちを最後まで守ってくださいます。神様の恵みは私たちを救ってくださいます。また、神様の恵みは私たちを守ります。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、神様が与えてくださった恵みによって走りましょう。私たちは一人で、また、自分の力で走る必要はありません。そして、神様の恵みによって私たちは走るべき道のりを走り終えます。

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使徒の働き19:23-41--手で造った神々に仕えること

この個所では、手で造った神々への礼拝のため、つまり、偶像礼拝のため、暴動が起りました。でも実は、デメテリオという銀細工人にとっては、その偶像ではなく、お金が彼の神でした。

彼がパウロに反対する理由を説明した時、その最初の理由は、エペソ人がクリスチャンになると、デメテリオとその同業の者の仕事の評判が悪くなって、その売り上げが下落することです。それは、彼の一番の心配でした。そしてその後、彼は「ところで、偉大な女神アルテミスは自分の威光を失います。」と言いました。

とにかく、その二つの神を礼拝したので、彼は群衆を扇動しました。幸い、町の書記官が彼らを落ち着かせました。そうしていなかったら、パウロは殺されたし、いろんな人が怪我したし、エペソ人たちはローマ帝国に裁かれて、厳しく罰せられたでしょう。

今でも、手で造った神々によって、人々の人生はめちゃくちゃになります。

お金に対する愛によって、結婚や、人間関係がだめになるし、教会や政府で、いろんなスキャンダルがあります。また、そのお金に対する愛のため、麻薬取引は大問題で、毎年たくさんの人々は死にます。

さらに、お金に対する愛や、偶像や、ほかの偽の神々によって、人々は神様に背を向けて、死に至る道を行きます。そして、彼らが悔い改めないと、命の源から離れて、永遠に地獄で苦しみます。

あなたはどうですか。あなたは手で造った神々に仕えているでしょうか。もしかしたら、本当の唯一の神に従っているでしょうか。手で造った神々を礼拝すれば、あなたは永遠に滅びてしまいます。唯一の神だけが命を与えられます。

あなたは誰に仕えているでしょうか。

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使徒の働き19:18-20--罪を捨てること

私たちがクリスチャンになると、神様は新しいスタートを与えてくださいます。それはとてもいい知らせですね。

この個所では、神様はエペソ人にも新しいスタートを与えてくださいました。多くの人々はクリスチャンになると、罪の道から離れ始めました。例えば、魔術を行っていた人たちは、その書物を焼き捨てました。その書物はとても高価なものだったけど、焼き捨てました。

それに、彼らが皆の前でそうしたので、周りの人々は彼らの決断を知りました。

この個所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。もし、私たちの心が本当に変えられたら、私たちの行動も変わるはずです。私たちが本当にイエス様を信じるなら、痛くても私たちの罪を捨てるべきです。

例えば、今まであなたの会社の業績が良いかもしれないけど、悪徳商法を行っているとします。そうすると神様は、私たちのやり方が変わるように望みます。

もしかしたら、私たちは彼氏や彼女と寝ているかもしれません。相手があなたと絶交しかねないけど、私たちの純潔を守るべきです。

でもそうするとき、私たちの動機をはっきりと説明するべきです。私たちはただ心を入れ替えたいと思うことではなく、神様に対する感謝を持って、私たちは違う道を行っていると伝えるべきです。つまり、イエス様の十字架の働きによって、私たちは赦されて、新しいスタートをくださったことです。そして、私たちの人生は、神様の愛や喜びや、平和で満たされています。

私たちが神様の道を行くと、私たちに怒る人もいるかもしれません。私たちをあざ笑う人もいるかもしれません。でも、私たちを通して、キリストの愛に触られて、イエス様を見つける人もいます。

エペソではそんな人もいました。エペソにいるクリスチャンを通して、神様はたくさんの人の心の中で働きました。だから、

主のことばは力強く広がり、勢いを得て行った。(20)

あなたはどうですか。神様はあなたに何の罪を捨てるように命じているでしょうか。

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使徒の働き19:11-17--本当の関係を持っている?

イエス様は十字架にかけられる前に、弟子たちにこう言いました。

わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。(ヨハネ14:12)

この個所では、そういうことを見ることができます。ルカはこう書きました。

(パウロ)が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出ていくほどであった。(12)

でも、ある祭司長の息子たちはそれを見て、イエス様の名前によって、人から悪霊を追い出そうとしました。でも、悪霊は答えました。

イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。(15)

そして、その悪霊につかれている人は彼らに飛びかかり、押さえつけ、打ち負かしました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちには神様と個人的な関係が必要です。

あなたのご両親や、兄弟たちや、親友達がクリスチャンでも、あなたがクリスチャンであるとは限りません。あなた自身には、神様との関係を持っていなくてはなりません。そんな関係を持っていないと、サタンはあなたを神の子供として認めません。でも、もっと大切なのは、神様はあなたを自分の子供として認めないことです。

もしかしたら、裁きの日に、あなたは神様にこう言うかもしれません。

「え?私を知らないのですか。毎週の日曜日に私は教会に行きましたよ。うちのお父さんとお母さんはあなたを知っているし、私の友たちもあなたを知っているよ。」

でも、神様はあなたにこう言います。「おまえのお父さんとお母さんを知っているし、おまえの友達もよく知っています。でも、おまえは何者だ。」

そして、あなたは神さまから永遠に離れてしまいます。

あなたはどうですか。神様との関係を本当に持っているでしょうか。神様を本当に知っているでしょうか。

 

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使徒の働き19:8-10--いつあきらめた方がいい?

私たちの愛している人々が福音を拒絶するを見ると、本当に苦しいです。でも、私たちが諦めて、その人を神様に委ねなくてはならない日が来るかもしれません。私たちは、いつそうするべきでしょうか。今日の個所では、私たちはその答えを見つけます。

エペソにいるとき、パウロは、いつも通りにユダヤ人の会堂に行って、イエス様について教えました。パウロは三か月ぐらいそうしたけど、結局ユダヤ人たちは、心を頑なにして聞き入れず、「道のこと」(つまり、福音)を悪く言いました。(9)

パウロの反応は?

パウロは彼らから離れて、別のところに行って、人々が福音を受け入れるところに行きました。

福音を伝えるとき、私たちは相手がもっと聞きたいというのを感じるときもあります。相手がそんな心さえあれば、私たちは彼らに福音を説明し続けた方がいいです。

でも、相手が自分の心を固くしたり、敵対的な態度を取ったりすれば、私たちは相手を神様の手にゆだねて、別の人に福音について話し始めた方がいいです。頑なな心を持つ人に福音を伝え続けるのは無駄だし、実際に相手の心をもっと固くするかもしれません。

私たちは相手を信じさせることができません。聖霊様だけが人の心を変えることができます。

パウロが言ったように、私たちは福音の種を植えることができるし、水を注ぐことができるけど、神様だけが成長させることができます。(第一コリント3:6-7)

だから、もし相手が私たちの言葉を拒絶するなら、私たちはちょっとどいて、その人の心を変えることができる方に譲りましょう。

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使徒の働き19章1-7--悔い改めることだけではく

この個所では、私たちはバプテスマのヨハネの弟子たちを見ます。ある意味で、彼らはアポロに似ていたけど、ある意味ではアポロと違いました。

アポロのように、彼らはバプテスマのヨハネに従いました。でも、アポロと違って、彼らは、ヨハネが誰を指したか分かりませんでした。

ヨハネは彼らにバプテスマを授けたけど、もしかしたら、ヨハネがイエス様をメシアとして宣言する前に、彼らは別のところに引っ越したかもしれません。つまり、彼らは罪を悔い改めたけど、イエス様に従っていませんでした。

だから、パウロは彼らにイエス様について教えました。そのあと、彼らはイエス様を信じたので、イエス様の名前によって洗礼を受けて、聖霊を受けました。

今日の要点は?自分の罪を悔い改めるのは、足りないのです。

「神様に従いたい」と言っても、それは足りないです。

あなたはイエス様を信じなければなりません。

イエス様は神様への道の一つというわけでもありません。神様への道は、イエス様しかありません。イエス様との関係を持っていないと、あなたが持っているものは無駄です。

あなたはどうですか。イエス様を信じているでしょうか。イエス様をもう受け入れましたか。もしまだ受け入れていないなら、今日イエス様を受け入れませんか。

天のお父様。私の罪を認めます。私は自分の道に行ったので、あなたや周りの人や自分自身をも傷つけました。赦してください。イエス様が十字架で私の罪のために死んでくださったことを信じます。また、イエス様が三日目によみがえられたことを信じます。イエス様、私の主になってください。私の王になってください。これから、私はあなたに従いたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

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使徒の働き18章24-28--教えをあっさり受ける心

私たちが、「もう知っている」という態度を取るのは簡単なことです。

例えば、私たちは日曜日に、牧師のメッセージを聞くとき、「もう知っている」と言います。

長い間、教会に行く人にとって、その態度を取るのは、特に簡単なことです。

正直に言うと、私もそんな態度を取ったことがあります。今でも、私はそんな態度に気を付けなければなりません。

私たちが神様や聖書に関して、いろんなことを正しく理解しても、まだまだたくさんのことを学ぶ必要があります。

この個所では、アポロという人はイエス様に関して、たくさん知っていて、その理解がある程度まで正しかったけど、その知識は不完全でした。だから、プリスキラとアキラというクリスチャン夫婦はアポロを「神の道をもっと正確に説明しました。」(26)

一番大切なポイントは、アポロはあっさり彼らの教えを受けたことです。アポロは「私はもう知っている」と言って、彼らの教えを断ったわけではありません。むしろ、その教えをよく学んだので、彼のミニストリーはもっと力強くなりました。また、彼は神の国のためにもっと実を結んだでしょう。

あなたはどうですか。あなたは成熟したクリスチャンで、聖書をよく知っているかもしれません。でも、あなたはまだ教えをあっさり受けるでしょうか。あなたは謙遜な態度をもって、まだたくさんのことを知らないと認められるでしょうか。

そんな心を保ってこそ、私たちはクリスチャンとして成長し続けるし、神様のために実を結び続けます。

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使徒の働き18:1-23--私たの責任を果たすこと

パウロがいつもしたのは、福音を述べ伝えることです。どこに行っても、パウロは、イエス様がキリストであることを伝えました。(覚えていてください。「キリスト」とは、名前ではなく、肩書です。ユダヤ人にとっては、「キリスト」とは「救い主」や「王」ということです。)

どうして、パウロは福音を述べ伝えたでしょうか。一つの理由は、イエス様がパウロにそう命じたということです。そして、イエス様は一回だけパウロにそう命じたわけではありません。パウロが救われたとき、イエス様はパウロにそう命じました。(使徒の働き9:15)

そして、この個所でも、イエス様はもう一度パウロにこう言いました。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(9)

でも、パウロには、福音を伝える理由がもう一つありました。パウロは、預言者エゼキエルに対する神様の言葉を覚えていました。

わたしが、悪いものに「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:18-19)

だから、コリントで、ユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶すると、パウロはこう言いました。

あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。(6)

そのあと、パウロはエペソ人の長老たちに似たことを言いました。(使徒の働き20:26-27)

私のポイントは?

私たちが知っている人に、福音を述べ伝える責任を持っています。彼らの反応は、私たちの責任ではありませんが、私たちは彼らに真理を伝える責任を持っています。そうしないと、神様は、彼らの血の責任を私たちに問います。

イエス様は、パウロに言ったように、私たちにも言います。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(9)

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使徒の働き17:19-24--もう一つのクリスマス

2000年前に、人々は最初のクリスマスを祝いました。

でも、我々クリスチャンたちは、もう一つのクリスマスを待っています。

一番最初のクリスマスの日、イエス様は赤ちゃんとして、この世に来ました。そして、イエス様の目的は、十字架で私たちの罪のために死ぬことでした。イエス様が私たちの罰を受けたので、今は天の父は私たちを赦すことができます。

でもパウロによれば、イエス様はもう一度来ます。しかし、今度はイエス様は、この世を裁くために来ます。

パウロはこう言いました。

なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義を持ってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方(イエス)を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。(31)

イエス様を拒絶した人々皆は、永遠に罰されます。

でも、イエス様を受け入れた人々皆は、この砕かれた世界から救い出されて、すべてが新しくなります。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(へブル人への手紙9:27-28)

あなたはイエス様がもう一度来ることに準備ができていますか。どのように準備するべきでしょうか。パウロはアテネ人と私たちにこう言います。

。。。今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(30)

「悔い改め」とは、正反対の方向に行くことを意味します。つまり、自分の道を行かずに、神様の道を行き始めることです。自分自身を頼らずに、イエス様に信頼し始めることです。

そうすれば、「次のクリスマス」が来ると、あなたは準備万端です。

あなたは、準備がもうできたでしょうか。

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使徒の働き17章10-28--解き明かされて、私たちから遠く離れてはおられない

私の一番好きな歌は、このように始まります。

As little children, we would dream of Christmas morn,
私たちが小さい子供の時に、クリスマスの朝についての夢を見たものです。
Of all the gifts and toys we knew we’d find.
つまり、私たちがきっと見つけるプレゼントやおもちゃについての夢を見ました。
But we never realized a baby born one blessed night,
でも、私たちが分からなかったのは、ある祝福された夜に生まれた赤ちゃんが、
Gave us the greatest gift of our lives.
最も素晴らしい贈り物だったのです。

その夜、目に見えない神は、目に見えるようになりました。また、知られていない神は、現れて、私たちに近づきました。

パウロはその真理をアテネ人たちに伝えようとしました。彼らは、「知られていない神」のために祭壇を作りました。

だから、パウロは彼らにこう言いました。「その神は知られるようになりました。その神は自分自身を私たちに現わしてくださいました。その神はたくさんの神々の一人なわけではありません。一人の神しかおられません。

そして、その神は、この世界とその中にあるすべてのものを造りました。

その神は天地の主で、命を与える神です。

その神が自分の計画に従って、全てをなさいました。その目的は?

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。(27a)

そして、神様を求める人のために、良い知らせがあります。

確かに、神は私たちに一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27b)

イエス様のもう一つの名前は、「インマヌエル」です。

クリスマスの良い知らせは、神様が私たちに近づいたので、私たちが神様を知るようにできることです。イエス様を通して、私たちは神様と親しい関係ができます。

神様は私たちに近づきました。だから毎日、神様に近づきましょう。

 

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使徒の働き17章16-20--憤りを覚えること

私たちがこの世の悪を見ると、もう気にならなくなるのは簡単なことです。もしかしたら、最初は私たちが見た悪のため、私たちは本当にそれが気になったかもしれません。でも、時間が経てば経つほど、私たちはその悪を見ることに慣れてきました。だから、私たちはもうその悪にほとんど気づきません。

でも、パウロはそうしませんでした。彼はアテネに行ったとき、たくさんの偶像を見ました。彼の反応は?

パウロは。。。町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。(16)

その「憤り」の原語は、新約聖書の中で、もう一つの個所だけで現れます。皮肉的なことだけど、そのほかの個所では、パウロは「愛は苛立だず」と言いました。

でも、今日の個所では、パウロは憤入りを覚えました。なぜでしょうか。この偶像のせいで、多くの人々は地獄に行っていたから。サタンは彼らをだましていて、苦しめていました。だからその人々が救われるように、パウロは大胆に福音を述べ伝えました。

あなたはどうですか。

周りの悪を見ると、あなたは憤りを覚えるでしょうか。不正を見ると、憤りを覚えるでしょうか。人々が悪いことを「良いこと」と呼ぶとき、あなたは怒るでしょうか。サタンが人々の命を滅ぼすとき、あなたは怒りを感じるでしょうか。

何も感じないなら、あなたの心の中で、何かが正しくありません。聖霊様があなたの心に住んでおられるなら、あなたは悪を見ると、無関心な態度を取ってはいけません。私たちは聖霊様に導かれて、この世に塩と光になるべきです。

イエス様はこう言いました。

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、018家にいるすべての人を照らします。(マタイ5:13-15)

あなたはこの世の悪を見ることに慣れすぎて、あなたは塩気をなくした塩になったでしょうか。悪に対するあなたの無関心な態度で、隠された光になったでしょうか。

私たちがそんなものにならないように。むしろ、私たちが周りの人々に触れるほど、悪に憤りを覚えるように。

沈黙で、悪を見ずに、神様の光として、この世に行って触れましょう。

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使徒の働き17:1-15ーー私たちが聞くことを吟味すること

現代では、私たちは、いろんな情報を簡単に獲得できます。特に、インターネットでいろんなニュースや、いろんな意見が聞くことができます。

私たちの信仰に関しても、その通りです。牧師はもちろん、一般のクリスチャンでも、神様や聖書について話して、彼らをフォローする人が多いです。でも、どれだけ私たちは彼らの言うことを吟味するでしょうか。

そうしないと、私たちの信頼にふさわしくない人の意見に流されてしまいます。テサロニケ人やべレア人たちの多くは、そのような人々でした。福音の敵は簡単に、パウロとシラスに対してその人たちを扇動して、大騒ぎを起こしました。どうしてでしょうか。その人たちはパウロの敵の言葉を吟味しなかったから。むしろ、彼らはすぐにパウロの敵のうそを信じました。

でも、パウロの言葉を信じた人の間で、聞いたことをちゃんと吟味しない人もいました。ルカはテサロニケ人たちとべレア人たちと比べると、こう言いました。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(11)

よく考えてみてください。パウロはとても偉い使徒でした。でも、聖霊様はルカを通してべレア人たちを褒めました。なぜでしょうか。彼らは簡単にパウロの言葉を受けたわけではありませんから。むしろ、彼らはパウロの言葉が聖書に合ったかどうかちゃんと吟味しました。

べレア人がパウロの言葉を吟味したのがいいことなら、私たちの牧師たちの言うことをも吟味するべきではないでしょうか。私たちは、有名な牧師やクリスチャンの作家の言葉も吟味するべきではないでしょうか。

でも、多くの人々は、聞くことを吟味しません。もし相手の言葉が正しいと聞こえて、あるいは、その言葉によって彼らは嬉しくなると、その言葉をすぐに受け入れます。その結果は?神様の道から離れて、彼らは偽の教えの風に吹き回されます。(エペソ4:14)

そうしないでください。私たちが聞くことを吟味せずに、神様の道を見逃さないでください。もしろ、パウロの言葉を覚えていて、従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(第一テサロニケ5:21-22)

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使徒の働き16:11-40--自由にされた

この個所のテーマの一つは、自由にされることです。

ルデヤとその家族は罪から救われました。もしかしたら、彼女らはユダヤ人の律法の要求からも自由にされたかもしれません。

ある女性は、悪霊の力から自由にされました。

看守は、(もしかしたらほかの囚人も)自分の罪から救われました。

そして、パウロとシラスは牢の鎖から自由にされました。

いろんな意味で、パウロとシラスの経験はそのテーマをまとめると思います。

彼らは牢に座っていて、むちの傷によって痛んでいたでしょう。それでも、彼らは祈ったり、賛美の歌を歌ったりしました。たぶん最初は、ほかの囚人たちがパウロとシラスが不思議な人たちだと思ったかもしれません。でも、その祈りと賛美を聞けば聞くほど、囚人たちはパウロとシラスの信仰の真実さが分かるようになりました。もしかしたら、彼らは神様の臨在を感じて、パウロとシラスに神様について訊いたかもしれません。

たぶん看守はそれを見て、その皆がおかしいと思って、自分の部屋に帰って寝ました。でも、突然地震が起こりました。そして、

たちまち扉が全部開いてすべての囚人の鎖が外れてしまった。(26)

その言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私たちが自分自身を神様にささげると、そんなことが起こりますから。霊的な牢の扉が開いて、その囚人の鎖は外れてしまいます。もちろん、私たちの人生にそんなことが起こるけど、私たちが触れる人々の人生にも、そんなことが起こります。

パウロが囚人に、「逃げないでください」と頼んだら、逃げた人がだれもいないほど、神様の愛はその囚人たちに触れました。

それを見て、看守は叫びました。

先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。(30)

その以前、サタンは看守とその家族をずっと縛っていたけど、パウロから流れた愛と憐れみによって、彼らはサタンの鎖から自由にされました。だから彼らは喜びました。

神様はあなたの周りの人々を自由にしたいと思います。だから、2000年前に天の父はイエス様を送ってくださいました。だから、神様の愛を彼らに与えましょう。また、パウロの福音のメッセージを伝えましょう。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(31)

その言葉を信じれば、あなたの周りの人々も救われます。

 

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使徒の働き16章6-10--神様の計画が私の計画と違う時

この個所はとても興味深いです。パウロとほかの宣教師といろんなところに行こうとしたけど、聖霊様に「ダメ」と言われました。

だから多分数日間か、もしかしたら数週間ぐらい、パウロたちはちょっとフラストレーションを感じたでしょう。でも、ある日、パウロは幻を見ました。その幻で、一人のマケドニア人はこう言いました。

マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。(9)

だから、パウロたちは、すぐにマケドニアに行きました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様の御心に従っていると思いながら、あっちこっちに行くのは簡単なことです。でも私たちはいろんな障害に何回も出会って、フラストレーションを感じてしまいます。

私たちの問題は何でしょうか。多くの場合、私たちは実際に神様の御心に従っていないのです。むしろ、私たちは神様の名前によって、自分の計画を果たそうとしています。

だからミニストリーをするとき、フラストレーションを感じているなら、ちょっと静かにしてください。そして、神様を求めてください。「神様、私の計画を祝福してください」と言わずに、「神様、あなたが何をなさっているか教えてください。私がどのようにあなたの仕事に参加できるか教えてください。」と祈ってください。

そうすれば、神様は自分の御心をあなたに表してくださいます。

あなたはどうですか。あなたは実際に神様の御心に従っているでしょうか。もしかしたら、あなたは、自分の計画に神様の名前を付けているでしょうか。

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使徒の働き16:1-5--すべての人に、すべてのものとなること

この個所では、私たちはちょっと妙なことを見ます。パウロは、たくさんの所に行って、クリスチャンたちに、異邦人に関する教会の決断を伝えました。つまり、異邦人たちが割礼を受けなくていいことです。それでも、パウロはテモテに割礼を受けさせました。どうしてでしょうか。

多分、テモテが純血のギリシャ人なら、パウロはテモテに割礼を受けさせなかったでしょう。テトスというひとが純血のギリシャ人で、パウロは彼に割礼を受けさせませんでした(ガラテヤ人への手紙2:3)。それに、テトスのミニストリーの対象は、ほとんど異邦人でした。

でも、テモテの場合、そのお母さんがユダヤ人で、テモテはユダヤ人たちにも福音を伝えたいと思いました。でも、テモテが割礼を受けないと、ユダヤ人たちは彼が言うことに決して聞くはずがなかったでしょう。だから、テモテはユダヤ人に仕えたいと思うなら、割礼を受けなくてはなりませんでした。

パウロはその真理をこのように説明しました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちにはーー私自身は律法の下にはいませんがーー律法の下にあるもののようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。。。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(第一コリント9:20,22)

では、私たちはパウロの模範から何を学ぶことができるでしょうか。

できるだけ、あなたが仕える人たちに、共感するべきです。そうしないと、彼らはあなたの言うことに聞いてくれません。

日本の宣教師として、私は日本人の言語や、文化や、考え方を学ぶべきです。

でも、あなたが自分の国に住んでも、周りの人々の考え方や、生活や、楽しいことを知るべきです。そして出来るだけ、相手のことを理解して、相手に共感しようとした方がいいです。

例えば、あなたは社交的な人かもしれないけど、相手は内気な人かもしれません。その場合、最初は、彼らを大きい教会に紹介しない方がいいかもしれません。むしろ、一対一で、彼らと時間を過ごすべきです。また、もう一人か二人のクリスチャンの友達にその人を紹介した方がいいかもしれません。

もしかしたら、あなたはスポーツがあまり好きじゃないかもしれません。でも、あなたが彼らに誘われたら、一緒に行った方がいいかもしれません。

簡単に言うと、できるだけ、相手のことを理解して、相手に共感しましょう。テモテもパウロもそうしました。

あなたはどうですか。神様はどんな人をあなたの人生に置いたでしょうか。彼らが救われるために、あなたはどのように彼らをもっと知って、彼らに共感できるでしょうか。

 

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使徒の働き15:36-41--もう一つのチャンスを与えること

この個所では、私たちは、パウロとバルナバが別れることを見ます。

その理由は、マルコという若い男性です。マルコがバルナバのいとこで、パウロとバルナバが最初の宣教旅行に行くとき、マルコも行きました。でも、なぜかマルコは早く帰ってしまいました。私たちは彼の理由を知りません。もしかしたら、彼はホームシックだったかもしれません。もしかしたら、福音の敵と対立するとき、彼は恐れたかもしれません。

とにかく、どうやらパウロはマルコの言い訳を受け入れられませんでした。

だから、パウロとバルナバがもう一度宣教旅行に行こうと思ったとき、バルナバがマルコを連れて行こうと言うと、パウロはその勧めに大反対しました。バルナバは怒って、マルコと一緒にキプロスに行って、宣教の仕事をしました。でも、パウロはシラスという人と一緒に別の所に行きました。

私はパウロの気持ちがよく分かります。信頼できない人と働くのは、とても難しいです。でも、この場合、パウロは自分が説教したことを忘れてしまいました。それは恵みです。

そのあと、パウロは、そのことが分かるようになりました。マルコは、もう一つのチャンスをもらって、バルナバと一緒に忠実に仕えました。そのあと、彼はペテロと一緒に忠実に仕えました。そして、結局、彼はパウロと一緒に忠実に仕えました。

パウロはマルコに関して、テモテにこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(第二テモテ4:11)

実は、パウロとマルコは、互に恵みを与え合わなくてはなりませんでした。パウロはマルコの過去の失敗を許さなくてはなりませんでした。でも、マルコはパウロの以前のマルコに対する態度を許さなくてはなりませんでした。互いに許し合ったので、その二人は祝福されました。

あなたはどうですか。あなたをがっかりさせた人がいるでしょうか。あなたを傷つける人がいるでしょうか。

神様は何回も私たちにチャンスを与えてくださるので、私たちは周りの人々にそんなチャンスを与えるべきです。

もちろん、私たちはすぐに相手を完全に信頼するべきだと言うわけでもありません。でも、私たちの信頼を得るチャンスを与えるべきです。そして、彼らが私たちの信頼に対するふさわしさを示せば示すほど、彼らをもう一度信頼してください。

天のお父様は、もう一つのチャンスを与える方です。神様の子どもとして、私たちもそうするべきです。

 

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使徒の働き15章ーー恵みだけ

この個所では、私たちは使徒の時代の一番大切な議論を見ます。

パウロとバルナバは、異邦人たちに福音を述べ伝えたけど、あるクリスチャンたちはパウロとバルナバの教えに反対しました。

つまり、パウロとバルナバはこう教えました。

ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについてこの方によって、信じる者はみな義と認められるのです。(使徒の働き13:38-39)

でも、あるユダヤ人の信者たち、特にパリサイ派に所属している信者たちは、そのことを受け入れませんでした。もちろん、彼らは、イエス様に対する信仰によって、人々が赦されることを信じましたが、もう一つの要求を加えました。つまり、異邦人たちは割礼を受けなくてはならないし、モーセの律法を守らなくてはならないことです。

だから、

パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じた。。。(15:2)

だから、彼ら皆はエルサレムに行って、使徒たちと長老たちと、その問題について話し合いました。

最初に、パウロとバルナバは、異邦人の間に神様の働きについて話しました。でも、そのあと、パリサイ人たちは立って、「それはいいけど、彼らはまだ割礼を受け、モーセの律法を守らなくてはならない」と言い張りました。

だから、侃々諤々の議論が始まりました。

私はペテロの思いが想像できます。

ペテロは子供の時から、ユダヤ人として育ていて、ずっとモーセの律法に従いました。たぶん彼にとって、異邦人に対する神様の恵みの言葉を受け入れるのは、まだちょっと難しかったかもしれません。だから、彼はパリサイ人の意見に共感できたかもしれません。

でも、コルネリウスの家に行ったとき、ペテロ自身は、そもそもそのメッセージを異邦人に伝えました。

だから、この議論を聞きながら、ペテロは、神様からの幻をもう一度覚えていたでしょう。(使徒の働き10:11-16)

そして、たぶん彼はもう一度その幻の教訓に悩んでいました。

でも、結局ペテロは、神様がユダヤ人と異邦人を分別しないという教訓を受け入れたので、皆にこう言いました。

。。。人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をされました。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神を試みるのですか。(8-10)

それを聞いて、皆は静かになりました。バルナバやパウロの異邦人との経験よりも、ペテロの言葉は彼らの心を打ったようです。そして、ヤコブは聖書によって、ペテロの言葉を確認したので、すべての異議がなくなりました。

では、この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

恵みだけによって、私たちは救われることです。

私たちはキリストのわざに、私たちの努力を足しません。

私たちが頑張った後、神様は私たちに恵みを与えてくださるわけでもありません。

私たちの努力を神様の恵みに足して、救われるわけでもありません。

私たちはキリストの十字架の御業だけによって、救われました。

でも、ペテロのように、私たちの多くにとっては、そのコンセプトが受け入れにくいです。だから、「私はやっぱりだめだ」と思って、神様が私たちを本当に受け入れるかどうか疑問に思います。

もしかしたら、私たちは周りの人々を裁いて、「あいつはだめだ」と思うかもしれません。

でも事実は、救いに値する人は、だれもいません。だから私たちには恵みが必要です。

私たちは救いに値しないけど、十字架でイエス様の血が流されたので、私たちは義と認められるのです。神様はもう私たちを受け入れています。だから、神様が私たちを受け入れるかどうか、悩まなくていいです。

それを本当に信じているでしょうか。

パウロの言葉を覚えていてください。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2:8-9)

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使徒の働き14章ーー苦難があっても

控えめに言っても、パウロとバルナバの宣教旅行はつまらないものではありませんでした。

彼らはいろんな成功に会ったけど、いろんな試練にも会いました。ある時、パウロが石打ちにされて、死にそうになりました。だから、彼らが失望して諦めるのは簡単なことだったでしょう。

でも、そうせずに、彼らが迫害されたところにさえに戻りました。どうしてでしょうか。その所の信者たちを強めて、信仰にしっかりとどまるように勧めるためです。彼らは何を言ったでしょうか。

私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。(22)

実は、私たちがそのクリスチャンたちなら、神様の祝福に関して聞きたかったと思います。でも、パウロは、その新しいクリスチャンたちが試練に直面することを知っていました。もし、パウロとバルナバが訪れた都市の人々がパウロとバルナバを迫害するなら、きっと新しいクリスチャンたちをも迫害するでしょう。

だからパウロは、その試練の可能性をごまかしませんでした。そのクリスチャンたちはきっと苦しみを経る、と言いました。

でも、良い知らせもありました。それは、彼らが、一人でその苦しみに直面する必要がなかったことです。神様がパウロとバルナバとともにおられたように、神様はそのクリスチャンたちとともにおられるでしょう。

さらに、アンティオキアのクリスチャンたちがパウロとバルナバを神様の恵みに委ねて、送り出したように、パウロとバルナバはその新しいクリスチャンたちを主に委ねました(23,26)。パウロとバルナバが確信していたのは、そのクリスチャンたちが試練に直面しても、神様の恵みが彼らを支えることです。

そのように、あなたがどんな試練や苦難に直面しても、神様はいつもあなたとともにおられて、その恵みによって、あなたはその試練を乗り切ります。

パウロとバルナバとともにおられた神は、あなたとともにおられます。だから、どんな苦難があっても、あきらめないでください。絶望しないでください。

私はもはやいろんな危険や、苦労や、罠を乗り切りました。
恵みは私をここまで無事に導いてくださいました。
また、恵みは私を主の家に導いてくださいます。

ジョン・ニュートン

 

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使徒の働き14:1-12--ただの人間

私はこの個所を読むと、罪に落ちた、たくさんの有名な牧師の名前は思い浮かびます。たくさんの人々は彼らを尊敬したけど、その牧師たちはその尊敬をなくしてしまいました。その時、クリスチャンたち皆は、その牧師たちがただの人間だと思い出しました。

でも、私たちが牧師を偉い人とみなすのは簡単なことです。たぶん私たちには、神様が見えないので、牧師たちを私たちの模範として考えて、その人を見上げて、従おうと思います。

でも、結局彼らもただの人間です。

あなたがリーダーでも、ただの教会のメンバーでも、私たち皆はそのことを覚えていなくてはなりません。

パウロはそのことをよく覚えていました。

パウロとバルナバはリステラに行ったとき、イエス様のみ名によって、ある人をいやしました。リステラの群衆たちはそれを見ると、パウロとバルナバを神々として礼拝しようと思いました。なぜなら、彼らの神話によって、その昔、 ゼウス ヘルメスという神々が人間として、人々の間に現れたけど、多くの人々は彼らを歓迎しませんでした。そして、彼らはその人々を罰しましたから。でも、彼らを歓迎する夫婦を祝福しました。

リステラ人たちは、その話を覚えていて、パウロとバルナバにいけにえを捧げたいと思いました。でもパウロとバルナバはそれを見て、叫びました。

皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。(15)

それでも、パウロとバルナバは、群衆がいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせました。

パウロはコリントの教会で似た問題に直面しました。その教会では、コリント人のクリスチャンたちは、どのリーダーが一番偉いか議論しました。でも、パウロは彼らにこう訊きました。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(第一コリント1:13)

また、

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(第一コリント3:5-7)

一番敬虔な人さえ「偉いクリスチャンとして」として尊敬するのは、危険なことです。なぜなら、彼らはただの人間だから。

人間は失敗します。

人間は私たちをがっかりさせます。

もし私たちの信仰の基礎が神様ではなく、その人なら、彼らが私たちをがっかりさせると、私たちの信仰はどうなるでしょうか。

パウロは私たちを警告します。

しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(10-11)

あなたの信仰の基礎は何でしょうか。あなたの牧師でしょうか。有名な著者や牧師でしょうか。もしくはイエス様でしょうか。

イエス様だけが私たちがが信用できる基礎です。イエス様に信頼すると、あなたは決して失望させられることがありません。(イザヤ書28:16;第一ペテロ1:6)

 

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使徒の働き13:4-52--対立

私がこの個所を読むと、「対立」という言葉が思い浮かびます。

パウロとバルナバが福音を述べ伝えるとき、エリマという人やユダヤ人たちは彼らと対立しました。

エリマは霊的な理由を持って、パウロとバルナバと対立しました。

ユダヤ人たちが彼らと対立する理由は、嫉妬と罪から生まれました。(でも、結局、福音に反対する人々皆には、霊的な理由があります。)

パウロとバルナバは、どのように反応したでしょうか。サタンがエリマを通して直接に攻撃した時、彼らは聖霊様の力によって戦いました。霊的な力と戦うとき、私たちは自分の力で戦うことができません。なぜなら、サタンと悪霊は私たちよりも力強いから。

でも、ヨハネはこう書きました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、聖霊様の力によって、パウロとバルナバはエリマに対して勝利を得て、セルギウス・パウルスという人とその家族が救われました。

プライドを持つ嫉妬深い人たちと対立するとき、パウロとバルナバは大胆に福音を述べ伝え続けました。

そして、ユダヤ人たちの心が固くなると、パウロとバルナバは、その都市の異邦人たちに福音を述べ伝え始めました。その後、彼らは別の所に行って、その所の人々にも福音を述べ伝え続けました。

そのように、自分勝手な理由で、私たちと対立する人もいます。

また、私たちが何を言っても、イエス様をどうしても信じない人もいます。だから、結局私たちは彼らを神様にゆだねなくてはなりません。神様は彼らを裁きます。

私たちはしいて相手にイエス様を信じさせることができません。私たちができるのは、ただ福音を伝えることです。その結果は、相手と神様の責任です。

だから、人々が福音を拒絶するなら、がっかりしないでください。大胆に福音を伝え続けましょう。

私たちみなは対立と向き合います。でも、その時、パウロの言葉を覚えていましょう。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙6:9)

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使徒の働き12:24-13:3--神様の働きのために聖別されること



私は宣教師になることについて初めて考えたときのことを、よく覚えています。

私は友達と話していて、なぜか宣教の仕事について話し始めました。

そして、私は彼にこう言いました。「神様は私を宣教師として召されていないと思う。」

私の友達は答えました。「どうして、そんな確信を持っているの?神様にもう訊いたの?」

「えっと。。。。」

そして、その夜、(もしかしたらその次の夜)、私は祈っているとき、その会話を思い出しました。だから私は神様にこう言いました。

「トニーさんに、あなたが私に宣教師になってほしいかどうか訊いた方がいいと言われました。」

それを言ったとたん、ある考えが私の心に入ってきました。きっと私からの考えではないと思います。なぜなら、私には宣教師になる意図が全然なかったから。

神様は私にこう言いました。「そうです。私に訊きなさい。」

私の反応は?

「私は訊きたくない。あなたが「はい」と答えるなら、私は本当に困りますから。」

そして、私はずっといろんな言い訳を言ったけど、神様が何も答えなくて、結局私は自分の言い訳が無駄だとわかりました。

だから、私は訊きました。「じゃあ、私に宣教師になってほしいのでしょうか。」

その晩、神様は答えなかったけど、その日がターニングポイントでした。私の心はちょっと柔らかくなりましたから。

2-3年か後、私の進路に関して祈りました。そして、ほかの友たちは私にこう言いました。「神様の導きを求めているなら、すべてを神様に捧げなくてはならない。」

私は帰る途中、神様はもう一度私の心に話しました。「ブルース、あなたは、日本に絶対行かないと言う心を持っているよ。」

それを聞くと、神様が意味したものは分かりました。その前の年、私は短い宣教旅行のために日本に来ていました。そのあと、「私はやっぱり日本向きじゃないだろう」と思いました。

私は意識的に「日本に絶対戻らない」と言わなかったけど、心の中でそう決めていました。

だから、その夜、私は心のすべてをもう一度神様に捧げました。

日本の宣教師になったのは、24年前でした。

どうして、私はこのことについて話しているでしょうか。

私の経験は、サウロとバルナバの経験に似ているから。

クリスチャンたちは神様の御心を求めているとき、神様はサウロとバルナバに言いました。「行きなさい。私の目的のために、あなたたちを聖別しています。」

ところで、この個所では、私たちは聖霊様の人格を見ることができます。聖霊様自身は彼らに言いました。

さあ、わたしのためにバルナバとサウロ聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい。(13:2)

だから、クリスチャンたちがもうちょっと祈ったり、断食したりした後、サウロとバルナバは聖霊様の導きに従いました。

今でも、私はどうして神様が私を呼んだか考えているところです。私はたくさんの良いことをしたと思うけど、神様がこれからどのように私を導くか分かりません。だから私の祈りは、「次の段階は何でしょうか。」ということです。

でも、神様は私や、宣教師たちや、牧師たちだけを呼ぶわけでもありません。神様はあなたも呼んでいます。神様は自分の目的のためにあなたを聖別しました。あなたはその目的をご存知ですか。あなたは神様が望んでいることをしていますか。もし、あなたがまだそうしていないなら、以下の祈りを祈りませんか。

天のお父様、あなたの愛によって、私を救ってくださいました。でも、私自身のために生きるために、あなたは私を救ってくださいませんでした。あなたは、私があなたに仕えるように救ってくださいました。聖霊様、助けてください。私の心にあなたの目的を語ってください。私がどこに行くべきか、何をするべきか教えてください。今まで、私の時間を無駄にしてしまいったときもたくさんあります。赦してください。私に語ってください。私を満たしてください。私を導いてください。あなたの目的のために。あなたの栄光のために。あなたの御国のために。あなたのみ名のために私はここにいます。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

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使徒の働き12:1-24--破滅に至る高慢

ソロモンはこの言葉を書きました。

高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18)

ヘロデ・アグリッパの人生で、私たちはその真理を見ることができます。

ちょっとややこしいですけど、聖書の中にはたくさんのヘロデがいます。

バプテスマのヨハネを殺して、イエス様の裁判に参加するヘロデはヘロデ・アグリッパとは違う人でした。それは、ヘロデ・アンティパスという人でした。アンティパスはヘロデ大王の息子でした。

そして、ヘロデ・アグリッパはヘロデ大王の孫で、アンティパスの甥でした。イエス様が小さい子どものころに、ヘロデ大王はイエス様を殺したいと思いました。ヘロデ大王のように、ヘロデ・アグリッパは暴力的な人でした。

ヘロデ・アグリッパはヤコブを殺したし、ペテロをも殺そうとしました。神様がペテロを救い出した後、アグリッパはペテロの番兵たちを殺しました。

ヘロデは権力者で、高慢な人でした。だから、ヘロデがツロとシドンの人たちに怒ったとき、彼らは謙遜にヘロデのところに行って、和解を願いました。

ヘロデの演説を聞いた時、彼らは叫んだ。

神の声だ。人間の声ではない。(22)

ヘロデが神様を認めず、その言葉を受け入れたので、天使はヘロデを打って、ヘロデは死にました。

神様が大嫌いなものの一つは、プライドです。なぜなら、私たちのプライドは、神様と私たちの間に立っている壁ですから。そのプライドによって、私たちは神様を必要としないと思って、神様から離れて生きようとします。

私たちのプライドは、私たちと他の人々の間にも立っている壁です。私たちのプライドのせいで、どれだけ私たちは自分の友人関係や、家族や、結婚や、ほかの人間関係を壊すでしょうか。

さらに、ヘロデの場合のように、私たちが悔い改めないと、プライドは私たちを破滅に至らせます。もし私たちがプライドを持って、「神様、あなたを必要としない」と言い続けるなら、神様は結局私たちの願いを叶えます。つまり、私たちは永遠に神様から離れて生きます。でも、神様から離れるなら、私たちは、命や、愛や、喜びや、平和からも離れてしまいます。なぜなら、その物の源は神様ですから。最終的に、ヘロデはそのことを学びました。

あなたはどうですか。あなたのプライドは、あなたと友達や、妻や、夫や、同僚や、教会の人々の間に立っている壁でしょうか。あなたのプライドは、あなたと神様の間に立っている壁でしょうか。

ペテロはこう書きました。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。(第一ペテロ5:5-6)

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使徒の働き12章1-19節ーー私たちの祈りに対する神様の反応。神様に対する私たちの反応

いろんな意味で、この話はとても興味深いです。一番面白いのは、天使がペテロを牢から救い出して、ペテロがマリアの家に行ってノックすると、ロデという召使いは興奮しすぎたので、ペテロは外で立っているままにされて、ほかのクリスチャンたちにその良い知らせを伝えたことです。

でも、この話を読むと、私はこう思いました。

「どうして神様はペテロを助けたけど、ヤコブを助けてくださらなかっただろうか。」

私たちはその答えを知りません。

クリスチャンたちはヤコブのためにも祈ったでしょう。そして、クリスチャンたちがペテロのために祈ったとき、もっと信仰を持っていたから神様が答えてくださったというわけでもありません。なぜなら、ロデが彼らにペテロが外にいると言ったとき、彼らはロデを信じてくれなかったから。もし強い信仰を持っていたら、彼らはすぐにドアを開けていましたでしょう。でも、そうせずに、彼らはロデが狂っているかどうかずっと疑問に思いました。

私たちは、クリスチャンたちの不信仰を批判できないと思います。なぜなら、彼らがヤコブのために祈ったのに、ヤコブは殺されましたから。彼らがヤコブのために祈ったとき、たぶん彼らの信仰はとても強かったと思います。なぜなら、その以前、神様は使徒たちを敵から救いだしてくださったから。(使徒の働き5章)

でも、神様はヤコブを救い出さずに、ペテロを救い出してくださいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

1.私たちがたくさんの信仰を持っても、神様は私たちの祈りに叶えてくださらない時もあります。時々、私たちの願いは神様の御心に合いません。だから自分の目的を果たすために、神様は私たちの願いを断ります。

その時、私たちはどう反応するでしょうか。

がっかりしても、私たちは神様に信頼し続けるでしょうか。神様の方法が最善だと信じ続けるでしょうか。また、私たちはがっかりしても、祈り続けるでしょうか。

この話のクリスチャンたちはそうしました。彼らががっかりしても、彼らの信仰をあきらめませんでした。彼らは神様に対する苦々しい思いを持っていませんでした。

むしろ、次の問題が来た時、彼らはすぐに祈り始めました。そして、彼らの弱い信仰なのに、神様の恵みによって、ペテロは救われました。

それは私の次のポイントです。

2.私たちの信仰や、不信仰は神様を限定させません。もちろん神様は私たちの信仰を望みます。でも、私たちの信仰が弱い時、神様はその不信仰によって限定されません。神様は恵み深い方で、私たちに値しないことも与えてくださいます。

でも私たちは神様のところに行き続け、神様が良い方であることを信じ続け、また、神様が最善のことを知って、することを信じ続けなければなりません。

神様は私たちの願いをいつも叶うわけではないけど、神様はそんな信仰をいつも祝福します。なぜなら、そんな信仰は神様を喜ばせるから。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

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使徒11:22-30--聖霊と信仰に満ちている人

バルナバはとても素敵な人でした。使徒の働き4章で、バルナバは、自分の土地を売って、貧しいものを助けるために、その代金を教会に捧げました。

そして9章では、使徒たちと他のクリスチャンたちがサウロを疑って、恐れたとき、バルナバは彼の肩を持ちました。

そして、この個所では、バルナバは異邦人たちに触れ始めました。クリスチャンたちが異邦人たちの中で実を見始めると、使徒たちはバルナバを彼らに遣わしました。

そして、23節にこう書いてあります。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。

そのあと、バルナバはサウロを呼んで、アンティオキアの信者たちに仕えました。(その場所で、信者たちは初めてクリスチャンと呼ばれました)。そして、大飢饉が起こる預言を聞いたら、バルナバとサウロはアンティオキアで救援のものを募集して、エルサレムまで持って帰って、そこの苦しんでいるクリスチャンたちを助けました。

でも24節は私の心を打ちます。

(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(24)

私はそんな人になりたいと思います。立派な人になりたいです。前にも言ったと思うけど、「バルナバ」とは、彼のニックネームでした。彼らの本名はヨセフでした。でも皆に好かれたので、彼は「バルナバ」、つまり、「慰めの子」と呼ばれました。

どうしてバルナバはそのように生きていたでしょうか。なぜなら彼は聖霊と信仰に満ちている人でしたから。

聖霊に満ち溢れたので、彼の人生から実を豊かに結びました。彼の心から愛が流れました。彼は人々を信じていました。他の人々がある人を信じてくれなくても、バルナバはその人を信じました。彼は惜しげもなく自分のお金と時間を人に与えました。さらに、彼の言葉によって、たくさんの人々は励まされました。

彼の信仰は、ただイエス様を信じるだけでもありませんでした。その信仰は、彼の人生のすべての面に浸透しました。周りの人々は、その信仰に気づきました。その結果は?

こうして、大勢の人たちが主に導かれた。(24b)

私はそのことを望みます。人々が私の人生を見て、イエス様に魅せられるほどに、私は聖霊と信仰に満ちる人になりたいと思います。

「私の信仰は個人的なものです。だから私の信仰についてあまり話さない」と言う人もいます。

ある人は、聖霊に満ちることが、ただ自分の益のためだと思います。彼らは祝福されたいと思います。

でも私たちは本当に聖霊と信仰に満ちているなら、私たちの人生は完全に変わります。

私たちの考え方が変わります。

私たちの生き方が変わります。

神様の愛は、私たちから流れて、人に触れるので、彼らは神様に魅せられます。

あなたはどうですか。あなたは聖霊と信仰に満ちているでしょうか。

天のお父様、あなたの御霊で私を満たしてください。私の信仰を増やしてください。私の人生を完全に変えてください。あなたの愛が私から流れて、人に触れますように。そして彼らがあなたの御国に入りますように。

私は自分自身を変えることができません。

でも、あなたは私を変えることができます。

毎日、私を満たしてください。

アーメン。

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使徒の働き11章ーー神がなさることを妨げること

ペテロはコルネリウスの家から帰ってきたら、教会の大騒ぎに臨みました。なぜなら、ペテロは教会のリーダーなのに、異邦人をもてなしたし、異邦人の家を訪れたから。さらに、その異邦人はローマの百人隊長でした。

だから、ペテロが家に入ると、彼らはペテロを囲んで、責め始めました。

あなたは、割礼を受けなていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした。(3)

そのユダヤ人たちにとって、ペテロの行為は怪しからんでした。なぜなら、ペテロはわざわざその異邦人と付きあって、自分自身を汚したから。

でもペテロは、何が起こったか説明しました。ペテロは、神様からの幻や、コルネリウスへの天使の戒めや、どうやって聖霊様はその異邦人たちを満たしたかを説明しました。

そしてペテロは彼らにこう言いました。

ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じた時に、私たちにくださったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。(17)

「どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」

どれだけ私たちは神様がなさることを妨げるでしょうか。

もしかしたら、私たちの偏見のせいで神様の働きを妨げるかもしれません。

また、神様が新しい方法で働くけど、私たちはその新しい方法に慣れていないので、その働きを妨げます。

もしかしたら、神様の働きは私たちの伝統に反対するかもしれません。

もしかしたら、私たちのプライドや、固くなな心のせいで、私たちはその働きを妨げるかもしれません。

「私の考え方が間違っている」と認めるのは、とても難しいです。

また、「神様はその人を用いることができる」と認めることは難し時もあります。

でも謙遜な態度をも持たないと、私たちは神様の働きを妨げてしまうかもしれません。

最終的に、私たちはパウロの戒めに従うべきです。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(5:21-22)

もちろん、新しいものが神様から来るかどうか吟味しなくてはなりません。でも、私たちは自分の心も試すべきです。私たちの考え方も試すべきです。私たちのプライドも試すべきです。

そのエルサレムにいるユダヤ人のクリスチャンたちはそうしなくてはなりませんでした。

彼らの結論は?

人々はこれを聞いて沈黙した。そして、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(18)

そして、彼は神様の働きを妨げずに、その仕事に参加し始めました。(19-26)

あなたはどうですか。あなたは神様がなさることを妨げているでしょうか。もしかしたら、あなたは神様の働きを見て、喜んで、その仕事に参加するのでしょうか。

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使徒の働き10:9-48--隔ての壁を打ち壊すこと

ユダヤ人たちが異邦人たちに福音を伝えるために、神様はとても大きい壁を打ち壊さなくてはなりませんでした。

皮肉なことだけど、一つの壁は神様の律法から来ました。それは清いと汚れたものに関する律法でした。

レビ記を読むと、あなたはそんな原則を何度も見ます。

「このものに触れるな。そうすると、あなたは不潔になるから。でも、この儀式をすると、あなた清められます。」

また、

「この動物を食べてはだめです。あなたにとって、それは汚れたものです。でも、あの動物は清いものなので、食べていいです。」

その律法の目的は何だったでしょうか。その目的は、大切なことの一つをユダヤ人に教えるためです。それは、神様が聖い方だということです。だから、神様との関係を望むなら、あなたも清くなくてはなりません。

でも、ユダヤ人のクリスチャンは、大切なことが分かりませんでした。それは、その汚れたものや清いものに関する律法は、(また、全ての儀式的な律法は)、彼らの神様との関係の描写であることです。

でも、イエス様がもう来ていましたので、彼らはその描写が要らなくなりました。なぜなら、イエス様にあって、本体は来ましたから。

とにかく、教会が生まれた後、クリスチャンたちの間に、この議論がありました。ユダヤ人の儀式的なルールに従うべきと言い張る人もいたし、そのルールに従わなくてもいいと言い張る人もいました。

コルネリウスに出会う前に、ペテロとほかのユダヤ人たちは、まだそのルールに従うべきだと思いました。

でも、神様は、その壁をぐっと打ち壊しました。神様はペテロに幻を示しました。その幻で、ペテロはいろんな汚れた動物を見ました。そして、神様はペテロに、「立ち上がり、屠って食べなさい。」

ペテロは面食らいました。もしかしたら、ペテロは、神様がペテロの忠実さを試していると思ったかもしれません。だからペテロは答えました。

主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(14)

でも、神様はペテロを厳しく叱責しました。

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(15)

ペテロがそのポイントがちゃんと理解するために、神様はその幻をペテロに三回繰り返しました。

そのあと、コルネリウスのしもべたちが来て、神様はペテロにこう言いました。

見なさい。三人の人があなたがを訪ねて来ています。さあ、下に降りていき、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。(19-20)

その幻を見ていなかったら、ペテロはコルネリウスのしもべたちと一緒に行くことを断ったでしょう。なぜなら、異邦人の家に入って、一緒に食べると、ペテロは汚れた者になったから。でも、ペテロはその幻を覚えていたので、彼らと一緒に行きました。

ペテロがコルネリウスの話を聞いて、また、聖霊様がコルネリウスとその家族を満たすことを見ると、教会は全く変わりました。それは教会のターニングポイントでした。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コルネリウスに対するペテロの言葉を覚えていてください。

神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか、汚れた者であることが言ってはならないことを、示してくださいました。(28)

もちろん、現代では、私たちはユダヤ人の儀式に従うべきかどうか議論しません。

でも、どれだけ私たちはほかの人を見下すでしょうか。

どれだけ私たちは、「その人は救いに値しない」と思うでしょうか。

また、彼らの人種や身分によって、どれだけ私たちは人を軽蔑するでしょうか。

また、相手からの傷のため、どれだけ彼らは神様の赦しに値しないと思います。

イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。だから、私たちには、「あいつが汚れたものだ」と言う権利はありません。

もちろん、コルネリウスのように、その人は罪で汚れています。でも、イエス様は、どんな人でも清めることができます。

福音をその人に伝えると、私たちはペテロのようにびっくりするでしょう。なぜなら、聖霊様はその人も満たすかもしれないから。

あなたはどんな偏見を持っているでしょうか。どんな人に対する苦々しい思いを持っているでしょうか。

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使徒の働き10章--福音を聞いていない人

クリスチャンが「天国への道はただ々一つしかありません。それはイエス様です。」と言うと、多くの人々はこう訊きます。「でも、イエス様のことを聞いていない人はどうですか。彼らは地獄に行くのですか?」

だから、多くのクリスチャンは、別の道もあるかどうか疑問に思います。でも、聖書によれば、ほかの道はありません。この話でも、その真理を見ることができます。

エチオピアの高官のように(使徒の働き8章)、コルネリウスという百人隊長は神様を畏れていました。

コルネリウスは貧しい者を助けたし、本当の神に祈りました。多分、彼はイエス様のことを聞いたことがあったけど、イエス様が救いの道であることを知らなかったようです。

だから、神様はコルネリウスに天使を遣わしました。もちろん、コルネリウスは怖がりました。「どうしてこの天使が来たんだろう?私の罪のために私を殺すんだろうか。」と思ったかもしれません。

でも天使はこう言いました。「あなたの祈りと施しは神の御前に上がって、覚えられています。さあ、あなたはもう救われましたよ。あなたは神様との平和を持っています。だから安心してください。」

天使は本当にそう言ったでしょうか。もし福音を聞いていない人が別の方法で救われることができるなら、天使はそう言っていたでしょう。

でも天使はそう言いませんでした。むしろ、コルネリウスの祈りと施しについて話した後、天使は、こう言いました。

さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。(5-6)

どうして天使は、コルネリウスにそのことをするように命じたでしょうか。コルネリウスが福音を聞いて、救われるためです。だから、コルネリウスは、その命令に従って、人を遣わして、ペテロを招きました。

ペテロは来て、コルネリウスの話を聞くと、こう言いました。

これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。(34-35)

そして、ペテロはコルネリウスを祝福して帰りました。

ペテロは、本当にそうしましたか。

違います。ペテロは福音を延べ伝えました。コルネリウスとその家族は福音を信じて、聖霊様に満たされました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

天国への道は一つしかありません。それは福音を聞いて、信じることです。神様はこの話を通してそのことを明らかにします。

でも、福音を聞いていない人はどうですか。彼らが神様に示されたことに反応すると、神様は彼らに反応します。

コルネリウスは、ユダヤ人から神様について聞いて、その真理に反応しました。エチオピアの高官も反応しました。

だから、もし福音が届いていない国に、ある人が神様の創造を見て、創造者が存在することを認めて、「創造者、自分自身を私に現わしてください」と願うと、神様はそうしてくださいます。神様は正義の方だから。また、神様は忠実な方だから。

どのように神様は自分自身をその人に現すでしょうか。神様は天使を遣わすかもしれません。もしかしたら、人を送るかもしれません。この話では、神様はその両方をなさいました。

私は宣教師のニュースレターで、そのような話を読みました。ある人は、「いと高き神」を信じたけど、その神に関して何も知りませんでした。だから彼は二十年間、毎日祈りました。「神様、あなたのことを知る人を私に遣わしてください。」

そして、宣教師が来ると、彼はすぐに信じました。

神様は正義の方です。だれかがほんとに神様を求めると、神様は必ずその人に福音を聞くチャンスを与えてくださいます。

だから、別の方法がある考え方を捨てましょう。他の道はありません。だから主の命令に従って、福音を世界果てまで持っていきましょう。

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使徒の働き9:3-43--人を癒す神。人を復活させる神。

この個所では、私たちは二つの素晴らしい話を読みます。アイネアとタビタに対するペテロの言葉は特に印象的です。

アイネアは八年間床についていた人でした。多分、彼は回復の希望が全くありませんでした。でもペテロは、彼にこう言いました。

アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。(34)

彼はたちまち癒されて、立ち上がりました。

タビタは死んでいたけど、ペテロは彼女にこう言いました。

タビタ、起きなさい。(40)

彼女は目が覚めて、復活しました。

ペテロの言葉はとても単純でした。でも、現代でも、人々はその言葉を聞く必要があります。

イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。もちろん、イエス様は体的な問題を癒すことができます。でも、多くの人々は感情的な問題や、霊的な問題もあります。彼らは過去からの傷もあるし、現在の傷もあります。彼らは「イエス・クリストがあなたを癒してくださいます」という言葉を聞く必要があります。アイネアを癒してくださったイエス様は彼らをも癒すことができます。

起きなさい。復活しなさい。