ガラテヤ人への手紙5:16-26--全く新しい生き方

前回の記事では、罪の豚小屋から自由にされた私がその豚小屋に戻らないことについて話しました。でも、もう一度、パウロは繰り返します。私たちは自分の力によって律法を守ろうという態度を通して、その豚小屋を避けることが出来ません。むしろ、パウロはこう言います。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。(16-17)

パウロはこうは言いませんでした。「自分の力によって律法を守るとしたら、肉の欲望を満たさないでしょう。」

むしろ、パウロは「御霊によって歩みなさい」と言います。要するに、私たちは毎日、聖霊様の力と導きによって歩まなくてはいけません。

だから、私たちは毎日、聖書を読み祈った後、神様に「じゃあ、行ってきます。またね。」とは言いません。

むしろ、私たちはこう祈るべきです。「聖霊様、私とともに歩んでください。一日中、私があなたの御声が聞こえるように。私があなたの導きに従うように助けてください。」

そうすれば、私たちは罪深い心の欲望を満たしません。なぜでしょうか。私たちの罪深い心がの望むのは、聖霊様が望むのと正反対なことです。私たちの古い態度や習慣は、聖霊が私たちの人生にしたい事とは、まったく違うことです。だから今なお、私たちは罪と戦います。パウロはローマ7:14-25で、その戦いについて話します。

でも、毎日、毎秒、私たちは聖霊様の声を聞き、従うことを学ぶにつれて、私たちはもはや古い道を行かずに、むしろ、聖霊様は私たちを全く違う道に導いてくださいます。

だから覚えていてください。律法の下にいる人生は、聖霊様によって生きる人生と全く違うものです。パウロはその真理をはっきりと伝えます。

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18)

その二つの道は、どのように違うのでしょうか。

律法の下にいる場合、私たちは自分の力で生きなくてはなりません。つまり、私たちは自分の力で、律法に従わなくてはならないということです。

でも、聖霊様によって生きる場合、私たちは聖霊様の力によって生きます。

また、律法の下にいる場合、私たちはいつも裁かれている感じを持っています。

でも、聖霊様によって生きる場合、私たちは「アバ、父」と叫びます。

そして、聖霊様によって生きる人生は、罪の支配下にある人生とは、全く違うものです。パウロは、いろんな罪をリストアップましたが、そのリストの内容はひどいものです。(19-21)

パウロによれば、そんな罪を犯す人は神の国を相続できなません。

でも、そのあと、パウロは、聖霊様が住んでおられる人について話します。そんな人は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持つ人です。(22-23)

ここでは二つのことに注意してください。

その実はあなたの人生では未成熟かもしれないけど、成長しているはずです。あなたの今の人生は、以前の人生と比べると、少なくとも少しは違うはずです。

二つ目は、パウロが「あなたの努力の実は、愛、喜び、平安などです。」と言わないことです。むしろ、「御霊の実は、愛、喜び、平安など」と言います。

あなたは、まことのぶどうの木、つまりイエス様にとどまると、その実を結び始めます。(ヨハネ15章)。その関係を持っていないと、あなたはその実を結びません。

だから、私たちは律法を守る事に集中するべきではありません。むしろ、イエス様と聖霊様と共に歩むことに集中するべきです。

パウロはこう言います。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(24)

本当のクリスチャンたちは、神様に対する頑なな反抗的な心を十字架につけました。彼らは罪深い心に屈服しません。彼らは罪と戦うかもしれないけど、その罪を抱きません。

だから、パウロは私たちに訓戒します。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(25)

あなたは、神様があなたに与えてくださった聖霊様から永遠の命を受けました。それでも、今、あなたは自分の力によってクリスチャン生活を送ろうとしているでしょうか。

もしかしたら、毎日、あなたは、神様についていき、御声を聞き、神様の力によって、その導きに従っているでしょうか。

あなたはどのよう生きているでしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙5:13-15--豚小屋に戻ること

この手紙では、パウロは、救いを得るために神様の律法にも出らなくてはならないと思う人たちに話していました。もちろん、パウロは彼らに同意できなかったけど、彼らの心配の一つには共感できました。それは、もし、私たちがもはや律法の下ではないなら、私たちはやりたい放題の生活を送っても良いだろうという考え方です。

あるガラテヤ人たちは「もし、私たちが律法の下ではないなら、自分のために生きてもいいだろう。彼氏と寝てもいいし、商売女と寝てもいいだろう。どんな罪を犯してもいいだろう。」と思いました。

だから、パウロは、その考え方について話します。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(13)

パウロは言いました。「あなたがたは自由を与えられるために召されました。」

でも、神様は私たちを何から自由したのでしょうか。もちろん、私たちを律法から自由にしました。神様の子として神様に受け入れられるために、私たちが律法に完全に従う要求はありません。また、神様の子供として、私たちが失敗しても、神様の裁きからは自由の身です。

しかし、神様は私たちをもう一つのものから自由にされました。それは、私たちを滅ぼす罪深い生活です。クリスチャンになる前、私たちは罪の豚小屋に暮らしていました。私たちは自分の罪深い心に従いました。

罪深い心とは、どんなものでしょうか。その心は神様に反抗して、自分のために生きます。でも、その罪深い心に従ったので、私たちの人生はめちゅくちゃになりました。私たちの結婚や、ほかの人間関係や、健康などはめちゃくちゃになりました。

でも、私たちを自由にするために、キリストは死にました。イエス様は心の手術を行いました。イエス様は、私たちの石の心を取り除き、肉の心を与えてくださいました。(エゼキエル書36:26)

要するに、イエス様は、私たちの反抗的な心を取り除き、神様に従いたい心を与えてくださいました。そして、私たちがイエス様に従うにつれて、イエス様は私たちを滅ぼす罪から自由にします。

それでも、私たちの中で、その罪深いの名残はまだ残っています。つまり、罪深い態度や習慣がまだ残っています。私たちは生きる限り、その態度や習慣と戦います。でも、パウロは、「その古い態度と習慣に屈服するな」と言います。「あなたは豚小屋に暮らしていた時、惨めな人生を送ったでしょう。どうしてその豚小屋に戻りたいと思うでしょうか。むしろ、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

律法と罪からの自由の喜びとを本当に知りたいと思うでしょうか。愛を持って、人に仕えましょう。神様の愛を楽しむにつれて、その愛を周りの人々に与えましょう。私たちは、神様から受けた祝福を周りの人々に与えるためにデザインされました。そうすれば、喜びを知ります。豚小屋に戻るのは、喜びに至りません。

そして、パウロは言います。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(14)

言い換えると、あなたは本当に律法に従っているかどうか心配しているなら、愛を持って、人々に仕えなさい。あなたは自分の自由をそのように使ったら、自然に律法に従います。

その反面、もし、私たちは豚小屋に戻ると、その結果は何でしょうか。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(15)

あなたはどうですか。イエス様からの自由の喜びを知っているでしょうか。もしかしたら、豚小屋に戻ったのでしょうか。あなたはどうするでしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙5:7-12--十字架の躓きを捨てること

この前私は言ったのですが、多くの人々は、クリスチャンたちのことを偏狭だと思います。なぜなら、私たちはキリストの十字架の御業だけによって、人が救われると信じるから。パウロは、その真理を「十字架の躓き」と呼びます。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、その十字架の躓きを捨てようとしていました。でも、彼らの動機は、現代の人たちの動機と違いました。

そのユダヤ人のクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちの意見を気にしました。ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、十字架のメッセージに気を悪くしました。なぜなら、福音は、信仰によってイエス様に来る人々をすべて歓迎するから。クリスチャンたちは、割礼を受けなくていいし、律法の細かいルールに従わなくてもいいのです。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、二つの理由で気を悪くしました。一つ目は、彼らがモーセの律法を真剣に考えたことです。その律法によって、彼らは神様の民と認められました。でも、パウロによれば、神様の民になる方法は、律法に従うことではなく、イエス様に対する信仰です。だからパウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(3:28)

簡単に言うと、ユダヤ人たちが誇る神様の律法によって、人は神様の民になりません。むしろ、イエス様を通して神様に来る人は皆、神様の民と認められます。

でも、ユダヤ人たちは自分のプライドを捨てたくなかったので、その真理を受け入れられませんでした。それは、彼らがイエス様の十字架に気を悪くする二つ目の理由でした。彼らは、神様の選ばれた民として誇りました。神様が彼らだけに律法を与えたので、彼らは自分がほかの国民よりも正しい人たちだと思っていました。もちろん、その律法を完全に守ることは出来なかったけど、彼らはまだその誇りを感じていました。

そのように、プライドは人とキリストを隔てる大きな壁です。彼らは自分の宗教を誇ります。彼らは自分の義を誇ります。だからクリスチャンたちが、「あなたの宗教は足りません。あなたの義は足りません」と言うと、ノンクリスチャンは怒ります。

でも、彼らは自分の宗教や、義にしがみついたら、彼らは神様に近づくことができません。むしろ、彼らは神様から離れています。

パウロは、「割礼が必要だ」と教えた人に関して、こう言いました。

しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、裁きを受けます。。。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除(つまり、去勢)してしまえばよいのです。(10,12)

その以前、パウロは、偽福音を宣べ伝える人が神様に呪われると言いました。(1:8-9)

この個所では、パウロは皮肉を使って、同じことを繰り返します。「もし、割礼を受けたいと思うなら、去勢された方がいいでしょう」。

ユダヤ人たちはパウロの言葉を聞くと、面食らうでしょう。なぜなら、モーセの律法によれば、去勢された人は、主の集会に加わってはならなかったから。(申命記23:1)

でも、それがパウロのポイントでした。「あなたが割礼を受ければ、あなたは主の集会に加わってはなりません。あなたは本当の神様の民ではありません。」

そのように、イエス様の十字架を拒絶し、自分の宗教と義によって救いを得ようとする人は神様とその民から離れています。もし、あなたがクリスチャンのユダヤ人たちのように、ほかの人を喜ばせるために福音を薄めるとしたら、あなたも、神様とその民から離れるかもしれません。

十字架は、たくさんの人々にとって、躓きです。でも、私たちは彼らを喜ばそうとしてはいけません。相手が怒っても、私たちは福音をちゃんと伝えなくてはいけません。

だから自分自身に訊くべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのでしょうか。神様でしょうか。周りの人たちでしょうか。」

パウロの言葉を覚えていましょう。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(1:10)

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ガラテヤ人への手紙5:7-9ーー割り込まれた

私が大嫌いな事の一つは、私が運転するときに、急に私の車線に割り込む人です。私は、せめて急ブレーキをかけなくてはなりません。最悪の場合、私はすぐに違う車線に行かなくてはなりません。

今日の個所では、パウロはそのような例えを使います。ガラテヤ人たちはクリスチャンのレースで、ゴールに向かって、恵みによって走りました。でも、急に、ユダヤ人のクリスチャンたちが割り込んで、ガラテヤ人たちがそのゴールに着く邪魔をしました。おまけに、ガラテヤ人たちは、恵みの道から逸れて、律法の道を走り始めました。だからパウロはガラテヤ人たちに言いました。

あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。

要するに、「あなたたちはよく走ったていのに、どうして、恵みの道を逸れて、律法の道を走り始めたのですか?それはイエス様の導きではありません。イエス様は、あなたたちがイエス様に対する信仰によって恵みの道を走るように呼びました。」

そしてパウロはこう言いました。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。(9)

この個所の伝統的な解説は、ガラテヤ人たちが気を付けないと、そのユダヤ人のクリスチャンたちの教えがすぐに教会に浸透することです。

でも、もう一つの応用があると思います。

もし、私たちは神様が私たちを受け入れるように私たちが律法に従わなくてはならないという教えの種を受け入れると、結局その考え方は、私たちの考え方や生き方を支配してしまいます。だから、私たちが神様の愛に値しないのに、神様に受け入れらるという喜びを失います。むしろ、私たちが律法を完全に守ることが出来ないと分かって、落胆してしまいます。または、私たちはちゃんと律法に従っていると思うので、プライドを持ち始めます。

ガラテヤ人の問題は、スター・ウォーズのヨダの言葉を連想します。「もし暗い道を歩き始めると、その道はああなたの運命を支配します。その道はあなたを食い尽くしてしまいます。」

結局、ヨダの言葉は間違っていました。アナキン・スカイウォーカーは最終的にその道から脱出しました。でも、そうする前、彼は自分の人生をめちくちゃにしました。

だから、パウロはガラテヤ人たちに警告しました。「割礼を受けるな。そうすると、律法に従うあなたの義務は、そこまで止まりません。むしろ、あなたは、ほかの律法を全部守らなくてはいけません。毎日、毎秒、あなたはその律法を完全に守られるかどうか心配しなくてはいけません。その心配があなたの思いを支配して、あなたのための神様が望んだ自由と喜びを知りません。」

あなたは、その道を脱出するかもしれないけど、その日まで、あなたのクリスチャン生活はめちゃくちゃになってしまいます。さらに、その律法主義の生活によって、あなたは周りの人々を裁き始めると、彼らの人生をもめちゃくちゃにするかもしれません。

あなたはどうですか。あなたは毎日、神様の恵みによって歩んでいるでしょうか。もしかしたら、プライドによって歩んでいるでしょうか。または、神様の裁きを感じて、いつも罪悪感を感じるでしょうか。ほかの人があなたを割り込むことを許さないでください。

神様が自分の子供としてあなたを受け入れたことを覚えていてください。そう覚えていると、神様の計画通りに、あなたは神様の子供として、自由と喜びを知ります。

 

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ガラテヤ人への手紙5:2-10--キリストから離れ、恵みから落ちてしまうこと

多分、人々はこの記事のタイトルを読むと、こう考えるでしょう。「キリストから離れる?恵みから落ちてしまう?それは何と酷いことだろう。」

アメリカでは、ノン・クリスチャンでも、「恵から落ちてしまう」という表現を使うことがあります。それを言うと、彼らが意味するものは、ある尊敬されていた人が酷いことをしたので、その評判が失墜するということです。

でもこの個所では、パウロは殺害や、レイプや、賄賂や、ほかの酷い犯罪について話しているのではありません。むしろ、パウロは律法主義のことについて話しています。つまり、私たちが律法によって神様に義と認められようとすると、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまうことです。

パウロは彼らに警告しました。

よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。(2-3)

要するに、「律法主義の考え方を受け入れるとしたら、すべての律法を完全に守らないと、あなたは神様に義と認められません。割礼を受けるのは足りません。旧約聖書に書いてあるすべての律法に従わなくてはなりません。さらに、あなたが律法によって神様に義と認められようと思うなら、キリストの死はあなたに何の益もありません。」

ユダヤ人のクリスチャンたちが教えたのは、キリストの死を信じ、頑張って律法に従うと、ガラテヤ人たちが義と認められるということです。でも、その考え方は間違っていました。一つの救いの方法は、人が完全に律法を従わなくてはなりません。もう一つのは、イエス様を信じて、イエス様の義を受けることです。ほかの方法はありません。

だからパウロは、ガラテヤ人たちにこう言いました。

律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4)

律法によって神様に義と認められようとすると、あなたは実際にイエス様に背を向けているのです。あなたは基本的にイエス様にこう言っているのです。「あなたの十字架の働きは私には足りないと思います。」

でも、その態度によって、あなたはイエス様の働きに唾を吐くことになるでしょう。

モルモン教によれば、あなたが頑張って良いことをすれば、神様はあなたに恵みを与えてくださって、あなたは救われます。でも、あなたの救いを得るために、あなたが自分の行為に頼ると、パウロによれば、あなたは恵みを受けずに、むしろ、恵みから落ちてしまいます。

パウロは続けます。

私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(5)

私たちはまだ罪を犯しています。それでも、私たちはイエス様の十字架の働きによって義と認められます。でも、それだけではなく、なおさらいい希望を持っています。それは、イエス様が帰る日、私たちは変えられて、本当に義人になり、もう罪を犯さないことです。

ローマ8:23で、パウロは、私たちが新しいからだを受ける日を待ち、うめく、と言います。なぜ私たちはうめくのでしょうか。

一つの理由は、私たちがもう病気や死と向き合わなくていいということです。でも、もう一つの理由は、私たちがもう罪との戦いを経験しないということです。その日、私たちは本当に罪から自由にされます。それは、私たちの義の希望です。その希望を持っている人は罪に耽りません。むしろ、その人は自分を救ってくださった方を喜ばせたいと思います。それは、自分の救いを得るためではありません。むしろ、その救いをもう得たことを喜びます。

だから、パウロはこう言います。

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6)

あなたはどうですか。あなたはまだ神様の好意を得ようと思っているでしょうか。それが、あなたの神様を喜ばせる動機でしょうか。もしかしたらあなたは、もう神様に義と認められたことを知り、あなたが罪から自由にされる日を楽しみにするでしょうか。その希望によって、あなたは神様を愛し、喜ばせたいと思うでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙4:21-5:1--約束の子供

この個所では、パウロはアレゴリーを通して、とても大切なポイントを教えます。それは、律法の従順ではなく、神様の約束によって、私たちが神様の子供になることです。

その真理を教えるのに、パウロは、ハガルとサラのことについて話します。(その話は創世記16ー21章に書いてあります。)

神様はアブラハムに息子を与えるように約束しました。でも、何年たっても、子供が生まれなかったので、アブラハムとサラはその約束をちょっと疑うようになりました。だから、サラは、アブラハムがサラの奴隷ハガルと寝て、その息子を相続人にしようと勧めました。私たちの時代、それはショッキングなお勧めだけど、その時代それは常識でした。

だから、アブラハムはハガルと寝て、イシュマエルが生まれました。でも、イシュマエルは神様の約束と力によって生まれませんでした。むしろ、イシュマエルは人間的な努力によって生まれました。

そのあと、サラも赤ちゃんを産みました。それはイサクでした。その時、サラはもう90歳でしたので、その出産は本当に奇跡でした。それは神様の御業でした。そして、神様はアブラハムに言いました。「イサクを通して、私はあなたを大いなる国民とします。」

そして、パウロは、ハガルとイシュマエルを律法によって義と認められようとする人に例えます。彼らは神様の約束と御業によって、神様の祝福を受けようと思いません。むしろ、自分の努力によって、神様の祝福を得ようと思います。

でも、その考え方には、大きな問題があります。奴隷の子供も奴隷です。だからハガルの子供は、つまり、自分の努力によって義と認められようとする人は、結局、罪と死の律法の奴隷になってしまいます。律法は人々を救うことが出来ません。律法ができるのは、ただ人の罪を指摘することです。(4:24-25)

その反面、恵みによって義と認められる人はイサクのようです。彼らは、神様の約束と御業によって、神様の子供と相続人になります。そういうわけで、私たちは、もはや罪と死の奴隷ではありません。私たちは自由にされて、いと高きの神の子供になりました。(4:26-28)

でも、人間の努力によって生まれたイシュマエルが、神様の約束によって生まれたイサクを迫害したように、あるユダヤ人のクリスチャンたちはガラテヤ人のクリスチャンたちを迫害しました。彼らはガラテヤ人たちを律法の奴隷としようとしていました。「そうしないと、あなたは本当のクリスチャンではない」と言い張りました。(4:29)

だから、パウロは厳しく話します。

しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」(4:30)

つまり、「その偽教師たちを追い出しなさい。彼らは奴隷の子供で、遺産を決して受けません。彼らには、あなたと関係がありません。彼らはあなたたちを退けようと思うけど、実は彼らは退けられました。」ということです。

そして、パウロは新たに強調します。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(4:31)

そして、パウロは彼らに訓戒します。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(5:1)

その真理を忘れないでください。イエス様は私たちを律法から自由にしました。その目的は、もう一度、私たちを律法の下に置くことではありません。むしろ、イエス様の目的は私たちが永遠に律法から自由にされることです。だから、神様の子供をとして、私たちは神様の愛に値するかどうか心配せずに、神様が私たちを受け入れている確信を持つことが出来ます。

あなたはどうですか。神様の子供として、平和と喜びを持って、生きているでしょうか。もしかしたら、宗教のルールの重荷を担ぎながら、奴隷のように生きているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙4:14-20ーー何に対して、熱意を持っているか

今日の個所では、私たちは、二つ種類の熱意を見ることが出来ます。一つ種類は、良い結果に至ります。でも、ほかの種類は、悪い結果に至ります。

以前は、ガラテヤ人たちはパウロに対して熱意を持ちました。パウロが宣べ伝えた福音によって、彼らの心が喜びに満ちたので、彼らはできるだけパウロを助けたいと思いました。(14-15)

また、パウロはガラテヤ人たちに対して熱意を持っていました。パウロのすべての言葉でその熱心さを見ることが出来ます。特に、ガラテヤ人たちがユダヤ人のクリスチャンたちに騙されたとき、私たちはパウロの悲しみを見ることが出来ます。彼はこう言いました。

私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。(19-20)

パウロがガラテヤ人に対する熱意を持ったので、彼らがパウロを敵と見なしても、彼は率直に真理を語りました。

それは良い熱意です。

その反面、ユダヤ人のクリスチャンたちの熱意もありました。パウロは彼らに関して、こう言いました。

あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。17)

「彼らはあなたがたを私から引き離して」という文書では、翻訳者たちは「私から」という言葉を入れました。実は、ユダヤ人たちがガラテヤ人たちを何から引き離すかちょっと微妙です。私の意見では、新改訳2017の脚注の別訳はもっと正しいと思います。それは、

「彼らはあなたがたを福音の恵みから締め出しようとしています。」

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤ人たちに言いました。「あなたたちは私たちのグループに本当に属していません。あなたたちは本当のクリスチャンではありません。あなたたちはキリストに受け入れられたいと思うなら、私たちの教えに従わなくてはなりません。」

でも、その教えによって、彼らはガラテヤ人たちを律法の下に縛って、ガラテヤ人たちの喜びと祝福を奪いました。

簡単に言うと、彼らはガラテヤ人たちに対して熱意を持ったけど、彼らはガラテヤ人たちの最善を望まなかったのです。

だから、パウロはガラテヤ人たちに言いました。

善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。(18)

要するに、「熱意を持ちなさい。それは良いことです。あなたたちが私に対して熱意を持って、あなたたちの喜びによって、私を愛して、私の面倒をしてくれた時、その熱意は良いことでした。私も、あなたたちに対して熱意を持っています。私は、あなたたちのうちにキリストが形作られるように望みます。あなたたちがもっともっとキリストのようになるように望みます。

でも、この人たちは、あなたたちの最善を望んでいません。そして、彼らに対するあなたたちの熱意によって、あなたたちは自分の喜びと祝福を失いました。」

だから、私たちは自分自身に二つの質問を訊くべきだと思います。

私たちの回りに、熱意を持っているカリスマ的なリーダーたちがいるかもしれません。でも、彼らは私たちをどこに導いているでしょうか。彼らによって、私たちは神様に近づいているでしょうか。もしかしたら、彼らの教えによって、私たちの喜びと祝福が奪われていませんか。

真理が痛くても、彼らは私たちにその真理を教えているでしょうか。もしかしたら、彼らは私たちを間違っている道に導いているでしょうか。

二つ目の質問は、あなたは何に対して熱意を持っているでしょうかということです。イエス様に対する熱心を持って、イエス様をもっと知りたいと思うでしょうか。キリストが周りの人々のうちに形作られるように祈っているでしょうか。あなたは、彼らが神様の喜びを知るように望んでいるでしょうか。もしかしたら、あなたの熱意はあなたを間違った道を導いているでしょうか。

熱心によって、パウロは教会を迫害したことがありました。熱意によって、ガラテヤ人たちは律法の下の人生に戻りました。

あなたの熱意は、あなたをどこに導いているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙4:14-16ーーどのように私たちの喜びと祝福を失うか

この手紙で、私たちは、パウロがどれだけガラテヤ人たちのことに困惑したか、見ることが出来ます。

ガラテヤに初めて来たとき、パウロは何か肉体的な問題を持っていました。その問題のため、パウロはガラテヤ人たちに面倒をかけたけど、彼らはパウロを喜んで歓迎しました。どうしてでしょうか。なぜなら、パウロが宣べ伝えた福音は彼らを罪から自由にして、新しい命を与えたから。福音を聞いたとき、彼らは神様の喜びと祝福に満ちました。

そういうわけで、彼らはパウロのことを心配して、彼らの愛はパウロに溢れ出しました。彼らは、できるだけパウロを助けたいと思いました。パウロは彼らに関して、こう言いました。

私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(15)

でもユダヤ人のクリスチャンたちの影響によって、すべては変わりました。彼らの喜びはなくなったし、彼らはパウロのことを勘ぐり始めました。彼らは、パウロが福音をちゃんと教えたかどうか疑いました。パウロが福音から大切な真理を抜いたかどうか疑問に思いました。だからガラテヤ人たちは自分の救いをも疑いました。

そういうわけで、パウロは彼らに訊きました。

あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。。。私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。(15-16)

「幸い」という言葉は、「祝福」という意味もあります。つまり、ガラテヤ人たちは信仰によって受けた神様の尊い賜物を失ったことです。

どのようにその賜物を失ったでしょうか。

彼らは古い宗教的な修行や、儀式に戻ったのです。

救いを得るために、彼らは自分の行為や努力に頼ったので、彼らに対して、イエス様の十字架の御業の価値はなくなりました。

気を付けないと、私たちはガラテヤ人たちのようになるかもしれません。私たちのクリスチャン生活がルールに基づいているものになると、私たちは自分の喜びと祝福を失うでしょう。むしろ、私たちは神様の好意を得るように頑張り始めます。

そして、結局、二つの結果が出ます。

一つ目は、私たちは成功していると思って、プライドを持つことです。

二つ目は、私たちはそのルールを完全に守ることが出来ないと分かって、滅入ることです。

でも、成功したと思っても、失敗したと思っても、私たちは神様の喜びと祝福を失ってしまいます。

しかし、私たちの救いが恵みによるものであることを悟ると、私たちは謙遜な態度、また感謝な態度を持ちます。

私たちは神様の恵みに値しないと分かるので、謙遜になります。私たちは神様の裁きに値したのに、神様が恵みと憐れみを私たちに浴びたことを分かります。

さらに、その恵みと憐れみによって、私たちは喜びと感謝に満ちます。だから、私たちは神様の祝福を受けるだけではなく、その祝福は私たちを通して、周りの人々に流れます。

あなたはどうですか。プライドに満ちるクリスチャン生活を送っているでしょうか。失敗と失望に満ちるクリスチャン生活を送っているでしょうか。もしかしたら、喜びと祝福に満ちるクリスチャン生活を送っているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙4:8-12--無駄な宗教に戻ること

多くの人々は救いに関して、どうしてクリスチャンたちがそんなに偏狭なのか疑問に思います。つまり、どうしてクリスチャンたちは、イエス様以外には神様への道がないことと言い張るでしょうか。

私は、ほかの宗教にも良い点をもあると認めます。多くの宗教は、悪に反対し、良いことをするのを促します。何が良いか、悪いか、という宗教の教えは全く同じと言えないけど、似たところは多いです。

でも問題は、宗教とその儀式は、神様のことを描きます。ユダヤ教の場合、その描写は結構良いです。なぜなら、神様自身はユダヤ人に、律法と儀式を通して自分に関する描写や、キリストに関する描写を与えてくださいましたから。

でもほかの宗教の描写は、神様がどんな方であるかほとんど分からないほどに、とても歪んでいます。そういうわけで、その宗教の律法や儀式は人々を神様に近づけることができません。

ユダヤ教は、ほかの宗教よりもいいけど、ユダヤ教の律法と儀式でも、イエス様と救いの現実ではなく、描写だけです。ユダヤ教の儀式や、祭りや、犠牲などは、イエス様とその十字架の犠牲を描写するけど、ただの描写です。イエス様とその十字架の犠牲は、現実です。

そういうわけで、ユダヤ教の儀式や、祭りや、犠牲などは、人を救う力を持っていません。そして、もし神様が立てた儀式や祭りや、犠牲は人々を救うことが出来ないなら、なおのこと、ほかの宗教のものも人を救うことが出来ないでしょう。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(9-11)

パウロは、ガラテヤ人たちのかつて神や、修行について話します。パウロは言いました。

「あなたたちが救われる前、本来神ではない神々の奴隷でした。あなたたちを救うことが出来ない儀式や祭りを祝うように強制されました。でも今は、あなたたちは知っているでしょう。あなたたちは神様を知っているし、神様に知られているでしょう。神様の子供として、神様と親しい関係を持っているでしょう。

それなら、どうしてあなたたちは弱くて、力のないものに戻っているのですか。あなたたちのかつて神々や修行に戻っていないかもしれないけど、今や、自分の救いを得るために、ユダヤ教の儀式と修行に従い始めています。でも、あなたたちのかつて儀式や修行と同じく、ユダヤ教の儀式や修行には、力が全然ありません。

その儀式や修行は神様を知り方の初歩でした。その目的は、あなたが自分の罪と救い主の必要を理解することです。でも、それ自体は、あなたたちを救うことが出来ません。むしろ、それを通して、あなたたちが分かるのは、自分がその律法を完全に守ることが出来ないので、裁きに値することです。それは惨めなことでしょう。そのことを知っているはずのに、どうして、そのものに戻りたいのですか。」

そして、パウロは言いました。「考えてみてください。私はあなたのようになったでしょう。私はあなたたちと共に食べるし、あなたたちの食べ物を食べて、ユダヤ教の習慣を破りました。だから私のようになってください。宗教のルールではなく、むしろ、キリストへの信仰によって、生きてください。」

パウロは私たちに同じことを言います。私たちはキリストの描写に従わないように。つまり、ユダヤ教の律法と儀式に従わないでください。なぜなら、そのものには私たちを救う力がないから。むしろ、イエス様自身に従いましょう。そして、イエス様の十字架の働きを覚えていて、神様の子供として、神様との関係を喜びましょう。

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ガラテヤ人への手紙3:26-4:7--養子の縁組の不思議さ

神様が私たちを養子にするのは驚くべきことです。

神様は、私たちをペットとして受け入れることが出来ました。

神様は、私たちを人間として認めながら、私たちと知り合いの関係を作ったことが出来ました。

神様は、私たちをただのしもべや奴隷として受け入れることが出来ました。

神様は、私たちを友達としてさえ受け入れることが出来ました。

でも神様は、もっと素晴らしいことをしてくださいました。神様は私たちを養子にしたので、私たちは神様の子供になりました。

パウロはこう言いました。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。(26-27)

パウロによれば、私たちは信仰によって神様の子供になりました。文字通りパウロが言ったのは、私たちが神様の息子たちになったということです。

もちろん、パウロは、女性のクリスチャンたちが男性になったと言っているわけではあrません。むしろ、パウロはとても驚くべきことを教えたいと思いました。そして、ガラテヤ人たちはそれを聞いて、たぶんショックを受けました。

どうしてでしょうか。

その時代、息子たちだけが遺産を受ける権利を持ちました。でも、パウロによれば、今やすべてのクリスチャンたちは、男性のクリスチャンでも、女性のクリスチャンでも、その遺産を受ける権利を持っていることです。

さらに、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(28)

それ以前、ユダヤ人たちは異邦人たちを部外者として扱いました。さらに、彼らは女性たちを見下しました。もちろん、奴隷の立場は良くなかったでしょう。でも、パウロによれば、神様の目には、イエス様に属する者は皆、天の父にも属しますし、神様の子供になりました。私たち皆、イエス様の義の服を着ているし、私たちの身分はイエス様にあります。

ガラテヤ人たち(私たちも?)がそのポイントが把握しなかったかもしれなかったので、パウロは私たちをその時代の子供に例えました。その時代、子供はある意味奴隷のようでした。要するに、その子供は相続人なのに、まだその遺産を受けていませんでした。むしろ、父がその子供を公式的に自分の相続人として認めるまで、その子供は後見人や管理人の下にありました。(4:1-2)

そのように、神様に養子にされる前、私たちは奴隷のようでした。私たちは天の遺産を受ける権利を持っていなかったし、律法は私たちの管理人でした。律法は私たちに、「こうしなさい。ああしなさい。」と命じました。その戒めによって、私たちは大体正しい道を歩んだけど、その律法を完全に守らなかったので、神様の相続人として認められなかったし、その権利を全然持っていませんでした。(4:3)

でも、神様は公式に私たちを養子にして、自分の相続人にしたとき、すべてのことが変わりました。

最初に、神様はイエス様の十字架の働きを通して、私たちを贖いました。つまり、神様は自分のものとして、私たちを買ったことです。そして、私たちは神様を信じたとたん、神様は私たちを公式的に養子にしました。(4-5)

それだけではなく、神様は御子の御霊を私たちの心に遣わされました。その御霊は叫びます。「アバ、父よ。」

要するに、三位一体の神様は私たちとの新しい関係を祝います。

私たちは愛されているペットではありません。私たちはただの知り合いではありません。私たちは単なるしもべや、奴隷ではありません。私たちはただの友達ではありません。

むしろ、私たちは王の息子たちと娘たちです。

だからぷパウロはこう言いました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(7)

あなたは、自分のことをどのように見なすでしょうか。どのように神様を見なすでしょうか。神様があなたの父で、自分が神の子供であることを把握するでしょうか。神様はそのように私たちを認めます。だから、私たちもそのように考えるべきです。

自分が取るに取らない者として、考えないでください。あなたは価値があります。あなたは王の子供です。

だから、そのように生きましょう。

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ガラテヤ人への手紙3:22-25--律法は何のものか。律法は何をするか。(3)

前回の記事で私たちが見たのは、律法がもう一つの神様が作った救いの道ではないことです。むしろ、律法の目的は、私たちをキリストに導くことです。パウロはその真理をもっと具体的に説明します。

しかし、聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(22-23)

パウロはローマ人への手紙7ー8章で似たことを書きました。その個所でパウロが言ったのは、律法が現れる前、人々が罪とは何か分からなかったことです。彼らは、自分のふるまいが神様を喜ばさないと知らずに、自分の人生を幸せに送りました。そして、神様は、律法を現して「あなたはこのように生きるべきです。」と言いました。

でも、人々はその律法を見た時、「ああ、そうか。知らなかった。ごめんなさい。これこら、あなたの道を歩みます。」と言いませんでした。むしろ、彼らの神様への態度はより反抗的になりました。

悔い改める人もいたけど、神様を喜ばせたいと思っても、律法を完全に守ることは出来ませんでした。彼らがまだ罪深い心を持っていたので、律法を完全に守るのは不可能でした。言い換えると、彼らはまだ罪の奴隷でした。

それでも、キリストが来るまで、律法はある程度、人の罪を制止しました。だから、パウロは言いました。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(23)

ようするに、律法は旧約聖書の信者たちの罪を完全に止めませんでしたけど、その罪を少し制止しました。だからパウロはこう言いました。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認めらえるためです。(24)

パウロの時代にはは、養育係は少年の人生、特に少年の道徳を監視しました。その少年がどこに行っても、養育係も行って、その少年がトラブルに巻き込まれないように見張りました。登校するとき、養育係はその少年を連れて行って、先生に預けました。

律法は旧約聖書の信者たちのために同じことをしました。律法は、彼らが罪に巻き込まれないように監視しました。(でも、もちろん、彼らはまだ罪に巻き込まれる時もありました。)

そして、律法は彼らを本当の先生、つまり、イエス様へと導きました。でも、どのように律法は彼らを導いたでしょうか。

律法を通して、神様は救い主に関する描写をたくさん与えました。例えば、全焼のいけにえとか、過ぎ越しの祭りとか、贖罪の日は、イエス様の描写でした。

もちろん、それ自体は、信者たちを救うことが出来ませんでした。でも、その描写を通して、イエス様の時代まで、モーセやほかのイスラエル人たちは神様に従い続けました。そして、イエス様が現れたとき、神様を愛した人は、その描写を覚えていて、イエス様とその十字架の働きの意義を理解して(ヨハネ5:39,46)、イエス様を信じました。

もう一度言います。律法自体は彼らを救うことが出来ませんでした。でも律法によって、彼らはイエス様を信じるようになりました。もちろん、旧約聖書の信者たちはイエス様を知りませんでした。だから神様のプランを具体的に知りませんでした。でも彼らは、そのイエス様の描写を信じたので、救われました。彼らは、律法の従順によって救われませんでした。彼らの信仰によって、救われました。

パウロはその真理をこのようにまとめます。

しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(25)

イエス様がもう来られたので、その描写が明らかになって、私たちが信じることはもう微かなものではありません。モーセとほかの旧約聖書の信者たちと異なって、私たちには、もう微かな描写はいりません。キリストにあって、私たちは本当のものを持っているので、律法という養育係がいりません。

むしろ、私たちの救いのためにイエス様だけに信頼します。そしてイエス様が私たちに与えてくださった聖霊様を通して、私たちは自然に神様を喜ばせ始めます。

だから、いろんなルールに従うことに焦点を当てないでください。むしろ、感謝を持って、十字架を仰いで、聖霊様の導きによって歩みましょう。それが本当のクリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙3:15-25--律法は何のものか。律法は何をするか。(2)

前回の記事では、私は、律法が何をしないかについて話しました。つまり、律法は神様の約束に取って変わらないことです。

神様のアブラハムとの契約は、神様の約束による一方的なものでした。その契約は、アブラハムやその子孫の行いによりませんでした。そういうわけで、律法は、その契約に取って代るものではありません。

パウロはその真理をさらに説明します。

(律法は)御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束を与えになった神は唯一の方です。(19-20)

モーセが十戒を受けるためにシナイを登ったとき、イスラエル人たちは神様に怯えるほどに、こう言いました。

あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。(出エジプト記20:19)

だから、モーセは神様に近づきましたけど、イスラエル人たちは神様から遠く離れて立ちました。(出エジプト記20:21)

イスラエル人たちへの神様の言葉は、モーセを通して語られました。神様はモーセに言いました。「イスラエル人たちは、これとこれとこれをしなければなりません。そうすれば、彼らは生きます。そうしないと、彼らは死にます。」

そして、モーセはその指示をイスラエル人に伝えました。

でも、ちょっと考えてみてください。どうして神様は仲介者(つまり、モーセ)が必要でしたか。なぜなら、律法は双方向の契約だったから。神様には、満たさなくてはならない義務があったし、イスラエル人たちにも、満たさなくてはならない義務がありました。そして、イスラエル人たちが自分の義務を満たさないと、神様が約束した祝福は無効になりました。

最終的に、それが起こりました。イスラエル人たちが何回もその契約を破ったので、神様はその契約を無効にしました。その契約はとても壊れやすいものでした。

でも、パウロはこう言いました。「しかし約束を与えになった神は唯一の方です。」

要するに、神様はアブラハムとその子孫と契約を結んだとき、義務を果たさなくてはならない当事者は神様だけでした。祝福を得るため、アブラハムは何もしなくて良かったのです。だからアブラハムとの契約は、イスラエル人たちとの契約は全く違いました。アブラハムとの契約は無効とすることが出来ないものでした。なぜなら、その契約は、私たちの行動ではなく、神様の行動によりましたから。

簡単に言うと、壊れやすい契約は、無効とすることができない契約に取って代わることはできません。

それでは、律法とは何でしょうか。(19)

それは論理的な質問でしょう。

パウロは答えます。

それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すために付け加えられたもので(す)。。。(19b)

要するに、キリストが来るまで、律法は一時的に罪を扱う方法でした。モーセの時代から、イエス様が来られるまで、何百年も経ちました。その間、神様は罪を扱わなくてはなりませんでした。だから神様は律法を使いました。

でも、パウロは大切な質問を訊きます。

それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。(21)

言い換えると、律法はもう一つの救いの道でしょうか。

答えは?

決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることが出来る律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。(21b)

要するに、もし律法がもう一つの救いの道だとしたら、イエス様が来られる必要がなかったでしょう。なぜなら、私たちが律法に従うと、救われるからです。

でも、律法を完全に守ることが出来る人はいないので、律法には、いのちを与える力がありません。むしろ律法は、私たちを罪から救うことが出来る方に導きます。

次の記事で、そのことをもっと説明します。

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ガラテヤ人への手紙3:15-25--律法は何のものか。律法は何をするか。

多くの人々は十戒や、ほかの旧約聖書の律法を見ると、こう思います。「律法によって、私は義と認められるだろう。永遠の命を望むなら、その律法に従うべきだろう。」

でもその考え方は、律法が何のものか、何のものではないかの誤解です。また、その考え方は、律法が何をするか、何をしないかの誤解です。

だから、パウロは具体的に律法のことを説明します。

人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。(15-17)

パウロによれば、契約がいったん結ばれたら、私たちは簡単にその契約を無効にすることが出来ません。この個所では、パウロが言う「契約」とは、たぶん遺言に関して話しているでしょう。人が遺言を書いて、死んだ後、私たちはその遺言を簡単に無効にすることが出来ません。どうしてでしょうか。なぜなら、それは一方的な契約ですから。つまり、一人の人だけが、その契約の条件を作りました。そして、その人の約束に従って、契約の条件が実行されます。

神様はそのような契約をアブラハムと結びました。その契約はアブラハムの行為に基づいていませんでした。むしろその契約は、ただ神様の約束に基づいていました。

創世記15書では、神様はアブラハムの子孫に関して、いろんな約束をしました。そして、神様は、煙の立つかまどと、燃えているたいまつとして現れて、アブラハムに対する約束として、切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。私たちの文化では、それはかなり不思議なことですけど、彼らの文化では、人々はそのように契約を結びました。(その時代、印鑑などがありませんでした。)

普通は、契約を結んだ二人が、その切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。その意味合いは、「私がその契約を守らないと、私がその動物のように殺されるように」ということです。

でも、神様とアブラハムの契約では、アブラハムはその切り裂かれた動物の間を通りすぎませんでした。神様だけが通り過ぎました。それは一方的な契約でした。

そして、パウロによれば、その契約はアブラハムだけのためではありませんでした。その契約はアブラハムの子孫、つまり、イエス様のためでした。

創世記12:7、13:6、15:18でのアブラハムへの神様の約束に関するパウロの解釈はとても興味深いことです。「子孫」と言うと、一人の子孫について触れる時もあるけど、たくさんの子孫について触れる時もあります。創世記では、神様はそもそもアブラハムの多くの子孫について話したようです。でも、パウロによれば、もちろん、その契約の祝福はアブラハムの本当の子孫の皆のためでしたけど、その契約の祝福は特にイエス様のためでした。そして、イエス様を通して、アブラハムのほかの子孫は祝福されます。

でも、パウロは一つのことをはっきりと教えます。律法は神様の約束の条件を改めません。その約束はアブラハムの行為によりませんでした。だから、神様の約束は、私たちの律法に従う能力によりません。どうしてでしょうか。パウロは説明します。

相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。(18)

要するに、神様の祝福が律法の従順によるとしたら、その祝福はもはや神様の約束による一方的な契約に基づいていません。むしろ、その祝福は律法の従順によります。

でも、神様が祝福の約束を与えた時、その条件はありませんでした。神様の契約は、恵みによる一方的なものです。その契約が一方的なものだったので、神様は簡単にその契約を無効とすることが出来ません。神様は自分の約束を守らなくてはなりません。なぜなら、それが神様の性格だから。神様は、自分が約束したことをやり遂げます。

だから覚えていてください。律法は、神様の約束に取って代わるものではありません。アブラハムとその子孫に神様が約束した祝福は神様の律法の従順に基づいていません。

では、律法の目的は何でしょうか。次の記事で、私はそのことについて話します。

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ガラテヤ人への手紙3:6-14--アブラハムの本当の子孫

パウロはこの個所を書いたとき、ヨハネの福音書8章でのイエス様とユダヤ人たちの議論について考えたでしょうか。私は分からないけど、パウロは同じことについて話します。つまり、アブラハムの本当の子孫は誰であるかということです。

ユダヤ人たちは、自分自身をアブラハムの本当の子孫と見なしました。なぜなら、アブラハムは実際に彼らの先祖だったし、彼らは、神様がモーセに与えてくださった律法を持って、従おうとしましたから。

だから、イエス様は彼らに、「もし私の教えを信じ、従うなら、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする」と言うと、彼らはびっくりして答えました。

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。」(33)

そして、イエス様とユダヤ人たちは、アブラハムの本当の子孫に関して、長い間、議論しました。

イエス様は彼らに言いました。「あなたはまだ罪を犯しているでしょう。あなたたちは、アブラハムの子供として、もう自由だと主張するけど、あなたたちは、まだ罪の奴隷です。私は、あなたたちを罪から自由にする者です。私があなたたちを自由にした後、あなたたちは本当に神様の子どもになります。」(ヨハネ8:34-36)

ユダヤ人たちは、それを聞いても、自分がアブラハムの子孫であることを言い張り続けましたので、イエス様は彼らにこう言いました。

彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。(39-40)

要するに、神様の言葉を聞いたとき、アブラハムはすぐにその言葉を信じました。信仰によって、その言葉を受け入れたので、彼は救われました。そういうわけで、彼は神様の子供と呼ばれました。でもユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、イエス様の言葉を信じなかったので、自分たちがアブラハムの本当の子孫ではないことを証明しました。

今日の個所では、パウロは、そのことを教えます。彼はこう言いました。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(6-9)

パウロによれば、アブラハムは律法の従順のゆえ、神様に義と認められたというわけではありません。なぜなら、その時、律法はまだ存在しませんでしたから。それに、アブラハムも罪を犯したことがありました。でも最終的に、アブラハムは神様とその約束を信じたので、神様に義と認められました。

アブラハムの本当の子孫の皆は、アブラハムと同様に生きます。私たちは失敗するときもあります。私たちは罪を犯すときもあります。

私たちは、神様の律法を完全に守ることによって、神様に義と認められません。むしろ、私たちはイエス様を信じるので、神様に義と認められます。

実は、私たちが自分の正しい行為によって義と認められようと努めると、パウロによれば、私たちは呪われます。

律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。(10)

でも、良いニュースは、イエス様は私たちの代わりに呪われたということです。パウロは説明します。

キリストは、ご自分が私たちのために014のろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(13)

十字架で死んだとき、イエス様は律法の呪いをすべて受け、私たちに対する神様の怒りを受けました。そして、パウロによれば、イエス様は私たちを贖い出してくださいました。言い換えると、イエス様は罪の奴隷という私たちをサタンの国から買って、私たちを解放してくださいました。だから、私たちも、アブラハムが受けた救いの祝福を受けることが出来ます。私たちがしなくてはならないのは、ただ神様の約束を信じることです。

パウロは自分の議論をこのようにまとめます。

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(11)

あなたはどうですか。あなたはアブラハムの本当の子孫でしょうか。イエス様を信じるでしょうか。もしかしたら、自分の良い行為によって、神様に義と認められるように努力しているでしょうか。神様を信じずに、自分の資格によって義と認められようと努める人は誰も救われません。

あなたの救いは何に基づいているでしょうか。自分の努力に頼っているでしょうか。神様に頼っているでしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙3:1-5--信仰によって始まり、信仰によって歩み続けること

クリスチャンになった後、良いクリスチャンになるのに、キリスト教のルールに従わなくてはならないと思う人がたくさんいます。なぜなら、私たちの社会では、学校のクラブとか、会社とか、家族でも、従わないといけないルールがあるし、果たさなくてはならない義務もありますから。

だから、クリスチャンになると、多くの人はこのように考えます。「ルールは何だろうか。クリスチャンとして、私は何をしなければならないだろうか。毎日、聖書を読まなくてはいけないだろうか。毎日、何分(何時間?)ぐらい祈らなくてはならないだろうか。教会で、どのように仕えるべきだろうか。」

そして、彼らはそのルールに従わないと、罪悪感を感じ始めます。自分が悪いクリスチャンだと思いますから。

おまけに、周りのクリスチャンたちは、その新しいクリスチャンにいろんなルールを教え始めます。「本当のクリスチャンはお酒を飲みません。本当のクリスチャンはけっして教会をサボらない。本当のクリスチャンは什一献金をささげなくてはなりません。」

ガラテヤの教会で、そんな問題が出現しました。ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「もちろん、クリスチャンになる最初のステップは、イエス様を信じることです。でも、そのあと、割礼を受けなくてはなりません。また、豚肉や、ほかの「汚れた食べ物」を食べてはいけません。安息日をちゃんと守ることも忘れてはいけません。」

その人たちが権威を持ったかのように話したので、ガラテヤ人たちは彼らを信じました。そういうわけで、パウロは困惑して、叫びました。

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(1)

そして、パウロは彼らに訊きました。

これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2)

また、

あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。(5)

その明らかな答えは、ガラテヤ人たちが聖霊様の賜物や、神様からのほかの祝福を、神様の律法の従順ではなく、むしろ、彼らが聞いた福音を信じることによって、受けたということです。

だから、パウロは彼らに訊きました。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。(3)

要するに、私たちのクリスチャン生活が、信仰によるものとして始まって、それから、ただルールに従うものになるわけでもありません。むしろ、私たちは毎日、信仰によって生き続けます。また、私たちのクリスチャンの生活は恵みによって始まり、恵みによって続くものです。

私たちのクリスチャン生活は、ただ神様のルールに従おうとするものではありません。私たちの焦点は、神様のルールに従うことではありません。

むしろ、私たちは、毎日イエス様に焦点を当てなくてはなりません。私たちは、毎日イエス様と一緒に歩み、その声を聞き、イエス様を信じ、イエス様が言うことに従います。

そして、私たちがイエス様を信じ、信仰によって踏み出すと、イエス様が自分の言葉に従う力を私たちに与えてくださいます。それはクリスチャンの生活です。もう一度、私は言います。クリスチャンの生活は、ルールに従うものではありません。

あなたはどのようにクリスチャンの生活を送っているでしょうか。あなたの焦点は、頑張って、いろんなルールに従うことですか。私たちがそのルールを完全に守ることが出来ないので、ただ罪悪感に至ります。

だからイエス様に焦点を当ててください。イエス様に近づくように学んでください。イエス様の声を聞くように学んでください。イエス様の導きに従うように学んでください。それは信仰によって生きる人生です。それは、クリスチャンの生活です。

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ガラテヤ人への手紙2:21ーー人が自分の努力によって救われると教える福音の問題

この個所では、パウロは福音をユダヤ人のクリスチャンたちの攻撃から守ろうとしていました。彼らが主張するのは、パウロが宣べ伝える恵みの福音は、罪に導くものだということです。

でも、パウロは自分が伝えた福音を擁護するだけではなく、相手の福音を責めます。彼はこう言いました。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(21)

簡単に言うと、もし、私たちが神様に義と認められるのに、律法を守らなくてはならないとしたら、どうして、イエス様は死ななくてならなかったでしょうか。神様は古い体制を続けて、イエス様が死ぬ必要がなかったしょう。でも、その必要がなかったとしたら、どうして神様は、イエス様が殴られたり、鞭で打たれたり、十字架でかけられたりすることを許したのでしょうか。イエス様がその苦しみを受けたのに、どうして神様は、もう一度、私たちを律法の下に置くのでしょうか。それはバカな話でしょう。

でも、今なお、多くの人々はそのように考えます。特に、カルトの人たちは言います。「もちろん、イエス様はあなたの罪のために死んだけど、彼は、あなたの罪の代価を完全に支払うことが出来ませんでした。あなたは、自分の救いのためにまだ働かなくてはなりません。」

でも、パウロはその考え方に反ばくします。「その考え方は、ばかばかしいです。自分の努力によって、救いを得ることは出来ません。あなたがそうできるとしたら、神様はイエス様を十字架に送らなかったでしょう。」

その議論によって、パウロは、イエス様が神様への多くの道の一つである考え方に反ばくします。もし、仏教や、ヒンズー教や、ほかの宗教によって、人が神様に義と認められるとしたら、神様はその道を用いたでしょう。もし、ほかの道があったとしたら、どうして神様は、イエス様が十字架で苦しむことを許したでしょうか。それは意味をなさないでしょう。

だから、天国へのほかの道があるという考え方を捨てましょう。また、私たちが自分の努力によって、救いを得られるという考え方を捨てましょう。

ほかの道がなかったので、イエス様は十字架で死にました。ほかの道があると言い張って、イエス様の十字架に唾を吐かないように。

 

 

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ガラテヤ人への手紙2:19-20--私たちが義と認められるように

前回の記事で、私たちが見たのは、あるユダヤ人のクリスチャンたちが、パウロの福音では、キリストが罪に仕える者となることだと主張したということです。だから、パウロや、ほかのクリスチャンが罪に落ちることを見ると、彼らはすぐに言いました。「ほら、それは、恵みの福音の結果です。あなたは世の罪人のようになりました。」

でも、パウロが言ったのは、仮に律法を再び建て、人たちが救われるために律法に従うべきだと宣べ伝えるとしても、人々はまだ罪に落ちてしまう、ということです。言い換えると、律法は罪のない人を生み出したことがありません。律法ができるのは、ただ人々の罪を指摘し、私たちが救い主を必要とすることを現すことです。

では、私たちは律法によって義と認められないなら、どのように義と認められるでしょうか。パウロは私たちに教えます。

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(19-20)

パウロが意味したものは何でしょうか。「律法によって律法に死にました」というのは、どういう意味でしょうか。さらに、どうして、そのコンセプトはそんなに大切なのでしょうか。

ローマ書7章では、パウロが教えるのは、人が生きる限り、律法の管轄下にあることです。(ローマ書7:1)

例えば、私が生きる限り、税金を払わなくてはなりません。私は税金の律法の管轄下にあります。でも、私が死んだとたん、その律法の管轄下にありません。もちろん、政府は私の妻から、私が支払わなくてはならない税金を求めます。でも、政府の人たちは私の死体から税金を要求できません。私はその律法に死にました。その律法は私に対して力がありません。

そしてローマ書7:4では、パウロは、私たちはキリストのからだを通して、律法に対して死んでいると教えます。それは、ガラテヤ書2:20に相当します。つまり、「私はキリストとともに十字架につけられました。」ということです。

でも、それはどういう意味でしょうか。

私たち皆が罪を犯したので、律法は私たちの死を要求しました。でも、この世に来た時、イエス様は律法の管轄下にある人として来ました。そして、イエス様は、その律法を完全に守りました。それでも、イエス様は十字架で死んで、私たちの罰を受けました。イエス様が死んだとき、神様は私たちの罪をすべてイエス様に置きました。(イザヤ53:5-6;第二コリント5:21)

神様はイエス様を見るとき、イエス様だけではなく、私たち皆を見ました。

例えば、イエス様が死んだとき、神様はイエス様を見て、こう言いました。「それはブルースです。彼は今や死にました。律法は、彼を自分の罪のために処刑しました。」

また、イエス様を見るとき、神様は言いました。「それは聡子です。彼女は今や死にました。律法は、彼女を自分の罪のために処刑しました。」

「私はキリストとともに十字架につけられました。」とは、そういう意味です。

でも、キリストとともに死んだとき、何が起ったでしょうか。律法の私たちに対する力はなくなりました。私たちはその律法に死にました。

だから、「律法を守らないと、神様は私を罰する」と心配しなくていいです。私たちは自分の力で頑張って、律法を守ろうと努める必要がありません。何回も失敗するとしても、私たちは裁かれている心配する必要がありません。

むしろ、私たちは、キリストが自分の人生を私たちを通して生きることを見始めます。毎日毎日、イエス様が私たちを導いてくださることを見ます。聖霊様を通して、イエス様はどの道を行くべきか教えるし、その道を歩む力を与えてくださいます。

だからクリスチャンの生活は、自分のことを変えることではありません。むしろ、クリスチャンの生活は、毎日イエス様の声を聞き、信頼することを学ぶことです。そうすれば、するほど、私たちは神様を喜ばせる人生を送ります。私たちは自然に律法に従い始めます。

あなたはどうですか。たくさんのルールを守って、神様に義と認められるように努力しているでしょうか。あなたの失敗に落胆しているでしょうか。

もしかしたら、あなたのために自分の命をささげたイエス様の愛を知っているでしょうか。あなたは、神様のみ前にリラックスできて、その関係を楽しみ、毎日どのように神様と歩むかを学んでいるでしょうか。神様との愛の関係、また信頼関係を持っているでしょうか。

それはクリスチャンの生活です。

それは、あなたの生活でしょうか。

 

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ガラテヤ人への手紙2:15-18--罪に仕える者なのか

ある人たち、特にカルトに属する人たちがしばしば言うのは、クリスチャンが律法の従順による福音ではなく、恵みによる福音を伝えるので、実は、そのクリスチャンがあえて罪を犯すように促がされることです。

彼等の議論はこうです。「律法の従順ではなく、恵みだけによって救われるとしたら、どうして律法に従うべきでしょうか。うそをついたり、姦淫したり、ポルノを見たりしても、まだ救われるでしょう。もし、恵みだけによって救われるとしたら、罪を避ける理由は何なんでしょうか。」

実は、そのことを疑問に思うクリスチャンもいます。もし、ルールによって救われていないとしたら、やりたい放題の生活を送ってもいいでしょうか。むしろ、クリスチャンの生活を送りたいなら、ルールに従うべきではないでしょうか。ルールに従わないと、この世の人々のようになるでしょう?

あるユダヤ人のクリスチャンたちは、そのようなことをパウロやガラテヤ人のクリスチャンたちに言いました。「もし律法を捨てると、あなたたちは不信者のようになるでしょう。」

そして、彼らはパウロやガラテヤ人たちがモーセの律法に違反したり、罪を犯したり(クリスチャンたちの皆は、たまに罪を犯すでしょう)、することを見ると、「ほら。私たちが言った通りでしょう。あなたたちは不信者のようにふるまっている。あなたたちが教えている恵みの福音によって、あなたはキリストを罪に仕える者にします。」と言いました。

でも、パウロはペテロとほかのユダヤ人のクリスチャンたちにこう言いました。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。(15-16)

要するに、「ペテロ、私たちは、異邦人ではなく、ユダヤ人です。でも、モーセの律法によって、人々が神様に義と認められることが出来ないことを認めるでしょう。律法に従うことによって、義と認められる人は誰もいないでしょう。」

どうしてでしょうか。なぜなら、律法に完全に従う人が誰もいないから。でも、律法によって義と認めてれられたいなら、律法に完全に従わなくてはなりません。

だからパウロはペテロに言いました。「異邦人だけではなく、私たちも義と認められたいと思うなら、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはならないと分かります。」(16)

そして、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちの異議について話します。

しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。(17a)

要するに、ある人たちはクリスチャンたちを指して、こう言っていました。「あなたたちがイエス様に属すると主張するけど、あなたはまだ罪を犯しています。あなたの福音は罪を促すでしょう。あなたのキリストは罪に仕える者でしょう。」

でもパウロは答えました。

決してそんなことはありません。(17b)

そしてパウロは説明します。

もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。(18)

パウロが意味したものは何ですか。たぶん、パウロはこう意味しています。「仮にあなたの希望の通りに、私は律法を再び建て、異邦人たちに「あなたたちはクリスチャンになるためにモーセの律法に従わなくてはならない」と言うとしたら、彼らは罪を犯さなくなるでしょうか。律法に従おうとしているあなたたちは、もう罪を犯さないでしょうか。いいえ、あなたは律法に従おうとしても、まだ罪を犯すでしょう。だから律法を再び建てると、結果は何でしょうか。私たちはもう罪を犯さないというわけではありません。むしろ、私たちはもう一度分かります。「私たちは罪人なので、救い主が必要です。」」

では、私たちはこの個所から何を学ぶことが出来るでしょうか。神様の律法の従順によって私たちが義と認められるコンセプトを捨てなくてはなりません。律法によって、私たちは義と認められないから。律法ができるのは、ただの私たちの罪を指摘することです。

だから、神様に義と認められたいなら、唯一の方法しかありません。それは、イエス様を信じることです。次のブログで、そのことについてもっと話します。

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ガラテヤ人への手紙1:11ー2:16--福音のために戦うこと

今日の個所では、私たちは福音のためのパウロの戦いを見ます。

最初に、パウロはエルサレムに行きました。なぜなら彼は、ほかの使徒たちと同じ福音を伝えているかどうか確認したいと思いましたから。つまり、律法の従順ではなく、恵みによって人は救われることです。

その時、あるユダヤ人のクリスチャンたちは、パウロの弟子テトスが本当のクリスチャンなら、割礼を受けなくてはいけないと言い張りました。でも、パウロはその事に関して、こう言いました。

私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服することはありませんでした。(2:5)

ほかの使徒たちはパウロの肩を持ったので、パウロが異邦人に恵みの福音のメッセージを伝えるように促しました。(2:7-9)

でも、そのあと、パウロはこの問題に関して、ペテロに反対しなくてはなりませんでした。その以前、ペテロのコルネリウスとの経験の故、異邦人をクリスチャンとして受け入れました(使徒の働き10ー11章)。さらに、ユダヤ人の律法に反しても、ペテロは異邦人たちと食べたり、彼らの食べ物も食べ始めました。

でも、エルサレムの教会からのユダヤ人のクリスチャンたちがペテロを怪しく見るとき、ペテロは異邦人たちからちょっと離れて、ユダヤ人だけと食べ始めました。ほかのユダヤ人のクリスチャンたちがペテロの模範に従ったので、偽福音によって、その教会は分裂する危機にありました。

だから、パウロは福音のためにもう一度、戦いました。

「ペテロ!いったい何をしているの?あなたはユダヤ人なのに、今まで、異邦人と喋ったり、彼らのように食べたりしました。なぜなら、律法の従順ではなく、キリストに対する信仰によって私たちは救われることを知りましたから。あなたはそれが分かっているでしょう?律法を完全に守る人が誰もいないので、律法によって救われる人もいません。それを知っているのに、なぜこのような行為をしているのでしょうか。」(2:14-16)

どうして、パウロはそんなに熱心に福音のために戦ったでしょうか。なぜなら、その福音によって、彼は救われたから。その福音は、パウロや、ほかの人によるものではありませんでした。パウロが死に導く道を行っていたのに、福音はパウロを止めて、命の道に導いてくれました。

でもパウロは福音を受けることに値しませんでした。パウロが律法を完全に守って、救いに値したから神様は彼に福音を伝えたわけではありません。それどころか、パウロは教会を迫害し、たくさんのクリスチャンたちを殺しました。

でも実際は、パウロが生まれる前に、神様は恵みによって彼を呼びました。その恵みによって、神様は喜んでパウロにイエス様のことを現しました。さらに、神様は、パウロがその恵みの福音を異邦人たちに伝えるように呼びました。(1:11-16)

そういうわけで、人々がそのパウロを救った福音を攻撃した時、パウロは戦いました。

私たちも、そうするべきです。福音を通して、私たちはいのちを受けました。私たちが生まれる前に、神様は自分の目的のために私たちを選んで、呼びました。神様は、私たちの良さのゆえに、呼んだわけではありません。神様は、私たちの資格のゆえに呼びませんでした。むしろ、恵みによって、神様は私たちを呼びました。だから、神様は、私たちが周りの人々にその福音を伝えるように呼びます。そして、福音が攻撃されるとき、私たちはその福音を擁護しなくてはなりません。

あなたは福音に関して、どれだけ情熱を持っているでしょうか。

あなたはどんなにすばらしい賜物を与えてくださったか分かるでしょうか。あなたに溢れられた恵みが分かるでしょうか。その恵みが分かれば、福音のために戦いましょう。その福音を擁護しましょう。福音を攻撃する人が私たちの敵ではないことを覚えていてください。むしろ、彼らも、私たちを救った福音を知る必要があることを覚えていましょう。

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ガラテヤ人たちへの手紙1:10--人たちを喜ばせる福音

クリスチャンたちが認めなくてはならないのは、多くの人にとって、福音が腑に落ちないということです。だから、人々に福音を受け取りやすくするため、クリスチャンたちは時々福音のメッセージを薄めたり、オブラートに包んだりします。

「イエス様は、自分が神様への唯一の道だと主張したけど、たぶんちょっと大げさに言ったでしょう。たぶん、神様が受け入れるイエス様を信じない敬虔な人がいるでしょう。」

「神様の御心は、私たちがこの世で決して苦しまないことです。神様の御心は、あなたが繁盛して、健康的な生活を送ることです。」

「聖書によれば、その行為は罪だけど、それは当時の律法です。私たちはその律法の下にありません。大切なのは、私たちが人をありのままで受け入れることです。」 (もちろん、私たちは恵みによって救われたけど、私たちはあえて、悔い改めずに罪を犯しながら、自分がクリスチャンであることを主張することが出来ません。)

ガラテヤ人の場合、恵みは薄められました。あるユダヤ人のクリスチャンたちによれば、ガラテヤ人たちは恵みだけによって救われたというわけでもありませんでした。むしろ、彼らは割礼を受けなければならないし、ある種の食べ物を食べてはいけないし、ほかの儀式的な律法に従わなくてはいけませんでした。

どうして、そのユダヤ人たちは福音を薄めたでしょうか。たぶん、彼らは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちがクリスチャンに関して何を考えることを気にしましたから。つまり、もしクリスチャンたちが恵みだけによる救いを宣べ伝えると、ユダヤ人のクリスチャンたちが良いユダヤ人と認められないでしょう。だから、ユダヤ人の家族や友達は彼らを退けるかもしれないでしょう。そういうわけで、彼らはユダヤ人にとってもっと受け入れやすい福音を採用しました。

今なお、あるクリスチャンたちは、そのようなことをします。周りの人々にとって福音がもっと受け入れやすくなるように、クリスチャンたちは福音を薄めます。

でも、パウロはこう言いました。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(10)

要するに、「福音を宣べ伝えるとき、私は、周りの人たちが福音に同意するかどうか気にしません。私は彼らを喜ばせたいと思いません。むしろ、私は神様を喜ばせたいと思います。」

そういうわけで、パウロは戦って、福音の単純さと純度さを擁護しようとしました。だからペテロが福音を薄めた時、パウロは彼に反対しました。(ガラテヤ書2:11-14)

あなたはどうですか。あなたは福音を薄めているでしょうか。もしかしたら、あなたは福音を正直に伝えるでしょうか。私たちが周りの人々の意見を気にする限り、私たちは神様を喜ばせることが出来ません。また、薄めた福音を伝えると、私たちは神様を喜ばせることが出来ません。

あなたはどんな福音を宣べ伝えているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙1:1-9--神様から離れること

多くの人々は、キリスト教をルールが多い宗教と見なします。だから、彼らが神様に受け入れられるために、そのルールに従わなくてはいけないと考えています。実は、多くのクリスチャンたちもそのように思いがちです。でも、聖書は、そのことを本当に教えているでしょうか。

この手紙では、パウロは困っている教会に書きました。その教会はガラテヤという都市にありました。(それは現代のトルコにあります。)

パウロは最初の宣教旅行の時、その地域でたくさんの教会を始めました。最初は、その教会は栄えていました。でも、すぐにパウロは悪い知らせを聞きました。それは、ガラテヤの教会で、あるユダヤ人のクリスチャンたちは、異邦人のクリスチャンたちに、「本当のクリスチャンになりたいなら、おまえはモーセの律法に従わなくてはいけない。ただイエス様を信じることだけでは足りません」と言いました。

特に、そのユダヤ人たちは、異邦人たちが割礼を受けなくてはならないと言い張りました。

そのユダヤ人たちのせいで、ガラテヤの教会の人たちは混乱して、その偽福音を信じ始めました。そういうわけで、パウロはこの手紙を書きました。

この手紙の最初から、パウロは、自分が彼らに述べ伝えた福音を思い出させました。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(3-5)

その言葉によって、パウロは、ガラテヤ人たちがどのように恵みと神様との平和を受けたか思い出させます。どのようにガラテヤ人たちは、それを受けたでしょうか。それは律法を通してだったでしょうか。割礼を通してだったでしょうか。違います。

むしろ、神様は救いの道を計画し、イエス様は十字架で、私たちの罪の罰を受けました。救いのすべてが神様の働きなので、私たちは自分の救いを手柄にすることが出来ません。むしろ、私たちの救いの栄光のすべては神様のものです。

それは、パウロがガラテヤ人たちに述べ伝えた福音でした。

でも、今や、パウロは彼らにこう言いました。

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。(6-7)

パウロの言葉は私の心を打ちました。律法による福音を受け入れたゆえ、ガラテヤ人たちは神様から離れました。彼らは、神様を喜ばせていると思いました。そのルールの従順によって、彼らは神様に近づくと思いました。でも実は、彼らは神様に背を向けてしまいました。

彼らは神様に基本的にこう言いました。「イエス様の十字架で支払われたあなたの恵みによる救いの計画を拒絶します。私たちは、この教師の教えに従って、あなたの救いの計画にほかの要求を追加します。」

言い換えれば、ガラテヤ人たちは、もはや自分の救いを神様とその恵みに基づいていませんでした。むしろ、彼らは、その偽教師たちを信じて、律法に従う自分の努力に頼り始めました。

だから、パウロは彼らに厳しく警告しました。

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。(8-9)

つまり、「あなたが受け入れた福音は、実際に福音ではありません。もし天使でも、私たちでも、私たちが最初に述べ伝えた福音と違うことを教えれば、その人は地獄に値します。」ということです。

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは神様から離れているからです。そして、ルールによる福音に従う人も、神様から離れています。

あなたはどんな福音に従っているでしょうか。あなたが従っている福音によれば、イエス様を信じることは足りないでしょうか。その福音によれば、救われるために、あなたはたくさんのルールに従わなくてはいけないでしょうか。

もしかしたら、あなたは十字架に向かって、あなたの救いのためにイエス様だけを信じるでしょうか。

私たちが偽福音従って、神様から離れないように。むしろ、神様を信じて、また、イエス様の十字架の働きを信じましょう。

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コリント人への手紙第二13:5-13--人々のための神様の最善を望むこと

この手紙の最後では、私たちは、コリント人に対するパウロの希望を見ます。それは、神様の御心が彼らの人生に行われるということです。

最初に、パウロは彼らに挑戦しました。

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。(5)

私たちが本当にクリスチャンかどうか、どのようにわかるでしょうか。使徒ヨハネは三つの知る方法を与えます。

一つ目は、本当のクリスチャンたちがイエス様についての真理を信じることです。(第一ヨハネ2:22-23)

二つ目は、本当のクリスチャンたちがイエス様の言葉に従順ということです。(第一ヨハネ2:3-4)

三つ目は、本当のクリスチャンたちが神様を愛するし、クリスチャンの兄弟たちと姉妹たちを愛することです。(第一ヨハネ4:7-8)

もちろん、私たちの愛とイエス様に対する従順は決して完全なものではありません。でも、私たちの人生にそのものは、だんだん成長するはずです。そして、クリスチャンたちは失敗すれば、すぐに悔い改めるはずです。

パウロは、コリント人たちがその三つのテストを合格するように祈りました。特に、パウロは、コリント人たちの悔い改めによって、彼らが自分の信仰の本物さを証明するように祈りました。

パウロは彼らにこう言いました。

私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。(7a)

どうしてパウロは、そのように祈ったでしょうか。

それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく(7b)

つまり、パウロの希望は、周りの人々が、「パウロは偉いリーダーでしょう。彼の弟子を見てごらん」と言うことではありませんでした。

むしろ、

私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。(7c)

パウロが意味したものは何ですか。

コリント人たちが悔い改めないとしたら、パウロには彼らを厳しく訓練する意図がありました。もちろん、コリント人たちが悔い改めるなら、その必要がなかったでしょう。でも、パウロが彼らを厳しく訓練しないとしたら、パウロの批判者は、「パウロは甘過ぎる。彼は本当のリーダーじゃない。」と主張するでしょう。

でも、パウロは批判者の言葉を気にしませんでした。パウロが望むのは、コリントたちが悔い改めて、善を行うことです。

だから彼はこう言いました。

私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。(9)

パウロがコリント人たちに厳しく訓練しないゆえ、パウロの批判者は、彼が弱いと思ったかもしれません。でも、パウロは、そのことも気にしませんでした。パウロの希望は、コリント人たちが強くなることだからです。

だから、パウロは、彼らが完全な者になるように祈りました。別訳で、パウロは、彼らの神様との関係、また、彼らのパウロとの関係が修復されるように祈りました。

そして、パウロは彼らにこう言いました。

そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったときに、主が私に授けてくださった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになるためです。この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません。(10)

言い換えれば、「私は、あなたのために神様の最善を望みます。あなたたちが建てられるように、神様は私を送りました。」ということです。

だから、パウロは彼らにもう一度挑戦しました。

最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。(11a)

なぜでしょうか。

そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。(11b)

そして、パウロはこの手紙この言葉で終えました。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともに。(13)

それは、コリント人たちに対するパウロの希望と祈りです。それは、周りの人々に対する私たちの希望と祈りのはずです。

人々が罪を犯すとき、特に彼らが反抗的な態度を取るとき、私たちは彼らを厳しく訓練しなければなりません。でも、私たちの目的は、彼らの神様との関係の修復です。なぜなら、私たちは彼らのために神様の最善の望むから。

あなたはどうですか。あなたは、ほかの人のための神様の最善を望むでしょうか。

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コリント人への手紙第二13:1-4--イエス様が帰ると

この個所では、パウロはコリント人たちに警告するけど、私たち皆にも警告します。

パウロはこう言いました。

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。

私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(1-4)

以前にコリントに行ったとき、パウロは自分の権威を振るわず、コリント人たちの罪深い態度を悲しみました。しかし、パウロが彼らのために自分の人生を犠牲にしたのに、コリント人たちはパウロを拒絶しました。

でも、パウロは彼らに警告しました。「私は弱い人として来ません。むしろ、私は神様の力を持ち、神様から受けた権威を振るって、あなたたちを裁きます。」

そして、パウロはこう言いました。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2)

イエス様は同じようなことを私たちに言います。イエス様は前回この世に来た時、ある意味で、弱い人として来ました。彼は貧しい大工、また巡回説教者として来ました。彼は勝利する王ではなく、十字架で付けられた救い主として来ました。

でも、神様の力によって、イエス様はよみがえられした。そして、ある日、イエス様は、この世に戻ります。その日、イエス様は弱い方としてではなく、力を持つ方として戻ります。さらに、イエス様は自分を拒絶する人をもう赦しません。逆に、イエス様は彼らを裁きます。

多くの人々は、イエス様を私たちを愛している神の子と見なします。また、その愛を示すため、イエス様がすべてを犠牲にしたことだけを考えます。もちろん、それはそうです。

でも、多くの人は、大切なことを忘れがちです。それは、この世に戻るとき、イエス様が私たち皆を裁くことです。イエス様は、自分を拒絶する人に、もう憐れみを与えません。

その日、イエス様が、すべての人々に、ただ神の羊だけではなく、ユダのライオン、また、永遠にこの世を治める王と認められます。そして、イエス様の正当な統治に逆らう人はイエス様の怒りを知ります。(ルカ19:11-27)

だから、私たちは皆は自分自身にこう訊くべきです。私たちはイエス様の権威に従うでしょうか。もしかしたら、私たちはイエス様に逆らい続けるでしょうか。神様は我慢強い方です。でも、その我慢は永遠のものではありません。

だから、神様の辛抱を試さないでください。むしろ、私たちがまだできる限り、神様の恵みと憐れみを受け入れましょう。

 

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コリント人への手紙12:11-20--ほんとのリーダーの特徴(2)

この前、私はリーダーの特徴について話しました。この個所では、リーダーの特徴をさらにいくつか見ることが出来ます。

一つ目は、彼らが思うべき限度を超えて思い上がらないことです。むしろ、自分のことを慎み深く考えるべきです。(ローマ12:3)

言い換えると、彼らは、自分のことをキリストのしもべとして正しく判断して、謙遜を持って、自分の得手不得手が分かることです。

パウロを批判したリーダーたちに関して、パウロはこう言いました。

私は、たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少しも劣るところはなかったのですから。(11)

パウロは、自分のことをよく知っていました。彼はキリストから呼ばれた使徒でした。彼はしるしと不思議と力あるわざによって、使徒の資格を証明しました。それに、彼はたくさんの教会を始めました。そして、彼は印象的な説教者じゃなかったのに、彼の言葉には力がありました。

それでも、パウロは自分自身を使徒の中では最も小さい者と呼びました。なぜなら、彼はかつて教会を迫害したからです。(第一コリント15:9)

また、彼は自分の弱さを認めて、自分の力によって何もできないことをも認めました。(第二コリント12:7-10)

本当のリーダーは自分自身をそのように考えるべきです。彼らは、キリストにあって、自分の身の丈を理解するべきです。また、彼らの人生やミニストリーに、神様の恵みを必要とすることを認めるべきです。

本当のリーダーたちは人々を愛します。彼らはただ人々を利用するわけでもありません。

パウロはこう書きました。

私は、あなたがたのところに三度目の訪問をする準備ができていますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたが持っている物ではなく、あなたがた自身なのです。子が親のために蓄える必要はなく、親が子のために蓄えるべきです。私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか。(14-15)

パウロは、コリント人たちの最善を望みました。そして、霊的な親のように、大きな代価を払わなくていけなくても、パウロは、彼らが霊的に栄えるように望みました。本当のリーダーは、そのように考えます。

本当のリーダーは、いつも誠実にふるまいます。あるコリント人たちは、パウロが彼らをだまし、酷使すると咎めました。皮肉ですけど、その理由は、パウロが自分のミニストリーを支えるために、彼らのお金を受け取らなかったことです。どうして、彼らはそんなことを言ったか分かりません。もしかしたら、彼らが言ったのは、「パウロは自分のミニストリーのためにお金が要らないと言ったのに、今エルサレムの人たちのためにお金を収集していると主張します。それは嘘だろう。」ということです。

でも、パウロは自分の人生、また、コリント人たちに送った代表者たちの人生を指した時、その誠実さを証明することが出来ました(17-18)。

すべてのリーダーたちは、そうできたらいいのに。

最後に、本当のリーダーたちは、教会の人の罪を悲しみ、その問題を扱います。パウロの心配は、自分がコリント人たちの罪を厳しく扱わなくてはならないということです。彼はそうしたくなかったし、そのことを悲しんだけど、そうする覚悟をしました。(20-21)

本当のリーダーたちは、そうするべきです。彼らは罪を見ると、無視することが出来ません。

パウロはそのようなリーダーでした。あなたはどうですか。

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コリント人への手紙第二12:7-10--自給自足の問題

私の両親は、私が自給自足できるように育てました。私は親元を離れた何年後、父は私にこう言いました。「私がうれしいのは、おまえのお兄さんとお姉さんとおまえが決して私たちにお金をねだらないことだよ。」

親子の関係に関しては、自給自足は良いことだと思います。私たち皆、成長して、両親から独立しなくてはなりませんから。

でも、神様との関係に関して、自給自足は決して良いことではありません。私たちが神様から独立することを宣言できるときはありません。なぜなら、私たちはいつも神様を必要としますから。この人生を送るのに、私たちはいつも神様の力が必要です。私たちの仕事や人間関係やミニストリーで、私たちは必ず神様を必要とします。

自給自足の問題は、私たちの人生に神様の力を本当に経験しないことです。私たちは神様からの独立を求めると、神様の力をアクセスできなくなります。

パウロはその真理を学んだので、コリント人たちにその真理を教えようと思いました。

パウロには、素晴らしい霊的な経験がありました。彼は天国を見ました。だから、パウロにとって、「私はクリスチャンとしてたどり着いた。もう神様の助けを必要としないだろう。私は霊的に成熟しているので、自分の力でこの人生を送ることが出来るだろう」と考えるのは簡単なことだったでしょう。

だから、パウロが高慢にならないように、神様は彼の肉体に「とげ」を与えました。もちろん、それは文字どおりのとげではありませんでした。でも、そのとげが何だったか、パウロは説明していません。もしかしたら、それは健康問題だったかもしれません。(多くの人は、パウロに目の疾患があったと考えています。)でも、もしかしたら、それは霊的な問題かもしれません。とにかく、パウロは三度、主に願いました。「このとげを私から去らせてください。」

でも、神様は答えました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(9)

要するに、「この問題を取り去らなくていいです。なぜなら、あなたは、私の恵みを持っていますから。そして、あなたの弱さのうちに、私の力は完全になります。」

神様が意味したものは何ですか。

私たちは弱い時、自分の力に頼らず、神様の力に頼らなくてはなりません。私たちが自分の力に頼る限り、神様の力は私たちの人生において完全になりません。

だから、パウロはこう言いました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(9b-10)

どうして、パウロは自分の弱さを誇ったでしょうか。なぜなら、その弱さのゆえ、パウロは神様にもっと頼らなくてはなりませんでしたから。そういうわけで、パウロは以前にもまして、神様の力を知りました。それだけではなく、パウロの神様との関係は必ずより親しくなったでしょう。

あなたはどうですか。自分の力によって人生を送ろうとしているでしょうか。そうすれば、あなたは神様の力を経験しないし、神様との親しい関係を経験しません。

私は神様の力、また神様との親しい関係を両方、持ちたいと思います。

だから、自分の自給自足を誇らないでください。むしろ、毎日、神様の力に頼ることを学びましょう。

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コリント人ヘの手紙第二12:1-6--霊的な経験よりも大切なもの

たぶん、コリント人の偽教師たちが自分の啓示や幻を誇ったので、パウロは自分の優れた霊的な経験を誇り始めました。彼は天国に行って、神様の御前に立ちました。(それが本当に起こったか、ただの幻か、パウロは知りませんでした。)

でも、その経験について話した後、パウロはこう言いました。

しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。(6)

パウロの意味したものは何でしょうか。

私たち皆に、霊的な経験があります。もちろん、私はその経験の大切さを疑いません。でもその経験によって、私たちは自分の霊的な偉さを自慢してはいけません。

私たちの霊的な成熟さは、私たちの毎日の言葉や行動に証明されます。周りの人々は、そのことに気づくはずです。彼らは、私たちの霊的な経験ではなく、むしろ神様が私たちを通して、話したり、働いたり、人に触れることに気づくはずです。そしてそれは、私たちの栄光のためではなく、神様の栄光のためです。

あなたには素晴らしい霊的な経験があるでしょうか。それは良いことです。でも本当の霊的な経験はただウキウキする感じで済むわけではありません。むしろ、その霊的な経験によって、私たちの毎日の言葉と行動が変わるはずです。

あなたの霊的な経験は、どのようにあなたの毎日の行動や言葉を変えたでしょうか。

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コリント人への手紙第二11:16-33ーー本当のリーダーの特徴

このパウロと偽使徒についての話では、私たちは本当のリーダーの特徴を見ることが出来ます。つまり、本当のリーダーが何をするべきか、何をするべきではないかということです。

本当のリーダーには、自分のことを自慢する必要がありません。パウロは自分のことを自慢したけど、それはコリント人たちの弱さのためです。つまり、彼らは偽使徒の資格に感動しすぎたからです。パウロは何回も、自分のことを自慢するために自分自身を責めました。でも、コリント人の尊敬を得るため、彼は偽使徒と同じく、自分の資格について話さなくてはいけませんでした。

でも普通は、本当のリーダーは、そうするべきではありません。本当のリーダーは、自分の才能や、賜物や、ミニストリーすべては、イエス様から来ると認めます。だから、彼らは自慢せずに、謙遜な態度を持って、人々を導きます。

羊が罪を犯すとき、本当のリーダーはその羊を厳しく懲らしめなくてはならないかもしれません。でも、そのリーダーは暴力を振るわないし、羊の弱さに付け込みません。その反面、偽使徒たちはコリント人たちを「奴隷にして、食い尽くし、強奪し、その頭をたたきました。」(20)

生憎、今なお、あるリーダーたちは自分の立場を乱用します。でも、パウロによれば、本当のリーダーは、自分に反対する人たちに柔和に教え導きます。(第二テモテ2:25)

さらに、本当のリーダーは、羊を本当に愛しています(28-29)。

だから、リーダーは信仰の弱い人を励まします。私たちの大祭司イエス様のように、リーダーたちは羊の弱さに共感します。(へブル書4:15)

そして、誰かが羊を躓かせたら、リーダーはイエス様のように憤ります。(マルコ9:42)

最後に、福音のために、本当のリーダはいろんな苦しみを自ら望んで堪えます。パウロは豪華な人生、また心地よい人生を要求しませんでした。むしろ、パウロは、迫害や、いろんな難、眠らず夜や、飢え渇きを経験しました。(23-27)

それらは、本当のリーダーの特徴です。

あなたは教会のリーダーでしょうか。あなたは牧師でしょうか。日曜学校の先生でしょうか。バイブルスタディーのリーダーでしょうか。あなたはパウロのようなリーダーでしょうか。

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コリント人への手紙第二11:1-15ーー別のイエス様、異なる霊、異なる福音

この個所では、私たちは切ない真理を学びます。それは何でしょうか。人々が、自分がイエス様の代表者だと主張するとき、また、自分が御霊を持っていると主張するとき、また、福音を伝えると主張するとき、私たちは吟味せずにその主張を受け入れてはいけません。

なぜでしょうか。コリント人たちに対するパウロの言葉で、その理由を見ることが出来ます。

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(3-4)

パウロの心配は、コリント人たちがエバのように騙されて、キリストから離れてしまうことです。どうしてそんなことが起り得るのでしょうか。

彼らが別のイエスや、異なる霊や、異なる福音に騙されるからです。

あなたはこう言うかもしれません。「ちょっと待って。ただ一つのイエス、ただ一つの聖霊、また、ただ一つの福音だと思ってたけど。」

それはそうです。でも、それと同時に、偽のイエス、偽の御霊、偽の福音がたくさんあります。人を欺く働き人、また、キリストの使徒に変装する偽使徒たちは、その偽の福音を教えます。(13)

パウロによれば、私たちはそのことに驚くべきではありません。なぜでしょうか。

サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。(14-15)

パウロは、自分の時代で、そのことをもう見ていました。ある人々がコリント人の教会で、パウロの教えに反対したし、パウロ自身にも反対したので、そのクリスチャンたちは混乱してしまいました。

また新約聖書の中では、偽教師がうそを教える例をたくさん見ることが出来ます。

ある人は、別のイエス様について教えました。彼らによれば、そのイエス様は人間としてこの世に来ていませんでした。(第二ヨハネ1:7)

彼らは異なる霊の力によって教えたので、ヨハネは教会にこう警告しました。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(第一ヨハネ4:1)

彼らは異なる福音を宣べ伝えました。彼らによれば、本当のクリスチャンたちはユダヤ人の律法に従わなくてはなりません。(ガラテヤ人への手紙を読んでください。)

今なお、偽のイエスがいます。モルモン教によれば、イエス様はサタンの兄弟です。また、モルモン教によれば、イエス様は数百万の神々の一人です。

エホバの証人によれば、イエス様は実際に御使いのかしらミカエルです。

偽の聖霊もいます。エホバの証人によれば、聖霊様は人格のない力です。モルモン教によれば聖霊様は、イエス様のように数百万の神々の一人です。

偽の福音もあります。エホバの証人とモルモン教によれば、救いは信仰と恵みだけではなく、私たちの良い行動に基づいています。

もちろん、エホバの証人たちや、モルモンの人たちは優しい人です。彼らは誠実な人です。私たちよりも、彼らは敬虔な人に見えるかもしれません。でも、彼らは別のイエス、異なる霊と福音を伝えるので、自分が偽教師や偽クリスチャンであることを証明します。でも、彼らの言葉が良いものに聞こえるので、たくさんの人たちは騙されてしまいます。

誤解しないでください。彼らが意図的に人々を騙そうとしているわけではありません。彼ら自身が騙されました。でも私たちは騙されないように、「私はイエス様を信じる。福音を信じる」と主張する人を吟味せずに信じてはいけません。むしろ、私たちは聖書によって、彼らの教えを吟味するべきです。なぜなら、聖書こそが真理の基礎ですから。

子供のように考えないでください。すぐに騙されないように。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。テサロニケ第一5:21

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コリント人への手紙第二10:7-18ーーどのように自分自身を評価するか。どのように周りの人々を判断するか

この個所では、パウロは、まだ自分を軽蔑するコリント人たちを扱っています。

彼らはパウロを見ると、パウロの外見から判断しました。どうやら、パウロはそんなにハンサムではなかったし、彼の話し方もそんなに印象的ではありませんでした。だから、あるコリント人たちはパウロに関してこう言いました。

「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」(10)

でも、パウロは彼らに言いました。あなたたちはうわべのことだけを見ています。(7)

パウロは、クリスチャンやキリストのしもべでとして、立派な人でした。でも、彼らはパウロの外見や話し方に集中しすぎたので、そのことを悟りませんでした。だから、彼らはパウロとその弱さを軽蔑しました。

そういうわけで、パウロは彼らに警告しました。

そのような人は承知していなさい。私たちは、離れて書く手紙のことばどおりの者として、そちらに行ってもふるまいます。(11)

ようするに、「私たちはただ喋っている人ではありません。私たちは自分の言葉に従って行動します。私たちがコリントに来ると、あなたたちはまだ悔い改めていないなら、そのことを知ります。」

私たちは周りの人々を見るとき、外見から判断してはいけません。なぜなら、彼らの外見以上に、優れた人かもしれませんから。そして、神様の力によって、私たちが予想以上に、彼らはいろんな奉仕ができるでしょう。でも、私たちは彼らの外見から判断して、彼らの弱さを軽蔑するなら、その人を見損なうでしょう。さらに、私たちは神様の似姿に造られた人を軽蔑してしまいます。また、私たちは神様の目的のために造られた人を軽蔑してしまいます。神様はそんな態度を軽く考えません。

でも、私たちは自分自身をどのように評価するかをも考えるべきです。パウロは自分の批判者についてこう言いました。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。(12)

要するに、自分自身を周りの人々と量ったり、比較したりすることはバカなことです。なぜでしょうか。なぜなら、私たちは人間的な標準ではなく、神様の標準によって量っているから。私たちは自分自身を人間的な標準によって量ると、神様が立てた的を全く逸れるでしょう。

それに、当たり前のことですけど、ほかの人の業績を自分の手柄にしてはいけません。自分ができたことを誇りすぎるのは悪いですけど、ほかの人の業績を自分の手柄にするのはなおさら悪いことです。パウロには、そんなことをしたことがありませんでした。(13-16)

そして、パウロは私たちが誇るべきことについて話します。

誇る者は主を誇れ。(17)

パウロが意味したものは何ですか。主は、預言者エレミヤを通して、こう言いました。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり(ます)。(エレミヤ書9:24)

要するに、私たちは自分自身のことや、自分の業績に焦点を当ててはいけません。むしろ、私たちは神様に焦点を当てて、神様をもっと知ろうと努めるべきです。神様を本当に知っている人には誇られる事があります。なぜなら、彼らは正しいものに焦点を当てていますから。彼らは周りの人々を喜ばせようと努めず、神様を喜ばせようと努めているのです。そんな考え方は知恵です。だからパウロはこう言いました。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(18)

あなたはどうですか。周りの人々をどのように判断するでしょうか。彼らの外見から判断するでしょうか。

自分自身をどのように評価するでしょうか。自分自身を周りの人々と比べているでしょうか。人間的な標準で自分自身を量っているでしょうか。もしくは、神様の標準で量っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二10:1-8ーー要塞を打ち倒す力

私たちは、この世を見れば、見るほど、サタンが自分の要塞を私たちの文化に建てていることが分かります。アメリカの最後の10-20年間ぐらいでは、道徳観が悪化しつつあります。また、日本では、サタンの強い霊的な要塞のせいで、多くの人は霊的な暗闇に暮らしています。

あるクリスチャンたちは、それを見て失望し、あきらめたいと思います。

ほかのクリスチャンたちは、サタンが私たちの文化の中で行ったことに怒ります。だから、この世の人々のように、彼らは怒りと憎みを持って、暴力的な態度で撃退しようとします。

でも、私たちは、そのように戦ってはいけません。それは、正しいサタンの要塞を打ち倒し方ではありません。

パウロはコリンントの教会で、いろんな要塞に直面しました。偽教師に建てれらた要塞、分裂の要塞、また、神様とパウロに対する反抗的な態度という要塞がありました。

パウロはどのように反応したでしょうか。

彼は、柔和さと優しさをもって、反応しました。彼に反対する人たちを倒す態度を取りませんでした。むしろ、柔和な心を持ちました。

もちろん、パウロは強気になる時もありました。だから、彼は、コリント人たちにこう言いました。「あなたがたが悔い改めないと、私は強気にふるまう、また、大胆にふるまいます。」

でも、それは彼の希望ではありませんでした。

しかし、大胆にふるまわなくてはいけない時も、パウロは彼らを倒すように望みませんでした。むしろ、パウロは彼らを建てあげたいと思いました。

そして、パウロは、サタンの要塞を攻撃する方法について話しました。彼は言いました。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。(3)

あるクリスチャンたちは「毒を以て毒を制す」という態度を取ります。

または、彼らは、社会の悪化を制止するため、政治の方法を使うべきだと思います。

誤解しないでください。クリスチャンとして、私たちは政治に参加するべきです。政治から手を離してはいけません。でも、政治を通して、人間の心を変えることが出来ると思うなら、私たちは間違っています。私たちの社会にクリスチャンの価値観を入れると、社会の状態は良くなるかもしれないけど、政治には人の心を変える力はありません。

もし長期的変化を望むなら、個々のクリスチャンたちは周りの人々に触れるべきです。また、神様から与えられた霊的な武器を使わなくてはいけません。

パウロはこう言いました。

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。(4)

その武器は何でしょうか。基本的に、それは神のみ言葉と祈りです。私たちは人々に神様の言葉を伝え、彼らのために祈るべきです。聖霊様は私たちの中で、また私たちを通して働くにつれて、私たちは人を変えられるみ言葉や祈りの力を見ます。

聖霊様を通して、

私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。(5)

最終的に、私たちの政治や、議論などは人の心を変えることが出来ません。むしろ、神様こそが人の心を変えることが出来ます。

だから私は二つの質問を訊きます。

1.私たちは、サタンの要塞を倒す戦いに参加しているでしょうか。

2.そうならば、どんな武器を持って、戦っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二9:11-15--私たちが神様に栄光を与えられるように

前回の記事で、私はこのことに触れましたが、もうちょっと話したいと思います。つまり、神様の民の寛大さによって、彼らは神様に栄光を与えることです。パウロはこう書きました。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。

この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。

そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。(11-14)

この個所の一つのテーマは、私たちの寛大さによって、周りの人々は神様に感謝することです。彼らは、自分のニーズが供えられたゆえだけではなく、神様が私たちを通して働くのを見ることが出来るゆえ、神様に感謝します。彼らは、この上なく豊な恵みが私たちの人生に溢れることを見るし、その恵みが彼らの人生にも溢れ出すことも見ます。

残念なことですが、多くの人々はクリスチャンたちを見ると、偽善者を見ます。また、人を愛さない人を見ます。また、冷淡な人を見ます。でもイエス様の恵みに触られた寛大なクリスチャンを見ると、彼らは天の父を垣間見ます。その天の父は、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。」(マタイ5:45)

だから、私たちを見ると、彼らは神様に栄光を与えるし、神様に近づくでしょう。

イエス様はこう言いました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

光を輝かせる方法の中で、最も良い方法の一つは、人々に惜しみなく与えることです。

私たちがそうすると、ノン・クリスチャンだけではなく、クリスチャンたちも励まされます。彼らは、神様が彼らを見捨てずに、愛することが分かります。ほかのクリスチャンが自分の信仰によって生きることを見て、彼らも自分の信仰によって生きるように励まされます。

そして、パウロのように、彼らはことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(15)

その賜物によって、人々は変えられて、神様から与えられた愛を周りの人々に与え始めます。

あなたはどうですか。あなたの寛大さによって、人々は神様に栄光を与えているでしょうか。彼らは、あなたの人生に神様を見て、感謝するでしょうか。

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コリント人への手紙第二9:8-11--恵みが溢れている人生

「恵みが溢れている人生」という記事のタイトルを読んだとき、あなたは何を考えたでしょうか。

神様から与えられた恵みを考えたでしょうか。もちろんこの記事で、そのことについても私は書きますが、それだけについてではありません。

パウロはこう書きました。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(8)

私は、この個所が大好きです。パウロによれば、神様は私たちに恵みを溢れるばかりに与え、私たちのニーズに備えることが出来ます。でも、その恵みを豊かに与える目的は何でしょうか。それは、私たちがすべての良いわざに溢れるためです。つまり、私たちは受けた恵みによって、周りの人々に恵みを豊かに与えることが出来るということです。

そして、パウロは詩篇112篇を引用します。

「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。(9)

どうしてか分からないけど、この言葉を以前に読んだとき、パウロがイエス様について話しているのだと思いました。もしかしたら、私はその個所でエペソ書4:8を連想したかもしれません。

でも実は、その詩人は義人とその寛大さについて話します。その人は主に信頼するので、未来を恐れません。だから、その人は惜しみなく貧しい人を助けるし、良いわざに溢れます。

だからパウロは続けます。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(10-11)

要するに、私たちは、神様が私たちのニーズに備える確信を持つことが出来ます。さらに、私たちが周りの人々にお惜しみなく与えるようになるほどに、神様が私たちの財源を増し加える確信を持ちます。

でも私たちは、自分の経済に関して、本当に神様に信頼するでしょうか。私はそのことをまだ学んでる途中です。

その詩篇112篇の義人のようになりたいです。私の人生に神様の恵みが溢れるように祈ります。でも、その恵みを自分のために持ちたくないです。むしろ、その恵みにあふれて、周りの人々に触れて祝福したいです。そして,私の人生のゆえ、彼らが神様に栄光を与えるように望みます。

あなたはどうですか。あなたの人生は恵みに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第二9:6-7--献金の原則

この個所では、私たちは二つの献金の法則を見ます。

パウロはこう言いました。

私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(6)

もちろん、それは、人生のすべてのことに関する大切な原則です。

例えば、あなたは自分の結婚にわずかだけ蒔くと、わずかだけ刈り入れます。つまり、自分の結婚に時間や努力を怠ると、その結婚から得られるものは些細なものになります。そして、その結婚は枯れて、死んでしまうかもしれません。

でも、その結婚に豊かに蒔くと、大きな祝福を刈り入れます。

子育てに関しても、その原則は大切なのです。もし、自分の子供に対してわずかしか種を蒔かないでいれば、彼らが成長しても、あなたとの親しい関係をあまり望まないでしょう。でも、子供に豊かに蒔くと、彼らが成長しても、あなたたちは親しい関係を持つでしょう。

でも、この個所では、パウロは献金について話しています。多くのクリスチャンたちは、「十一献金が新約聖書の教えではないので、どうして捧げるべきだろうか。」と考えます。

でも、教会にわずかにしか蒔かないと、その結果はどうなるでしょうか。もちろん、牧師は自分の家族を支えるために、アルバイトもしなくてはならないでしょう。そういうわけで、彼は教会の人たちに仕える時間は大分減るでしょう。

また、教会はその近所の人たちに触れるために、あまり財源がないでしょう。また、教会には、あなたの家族に仕える財源がないでしょう。

でも、あなたが豊かに教会に蒔くと、教会はあなたや、家族や、近所の人たちに大きな祝福になるでしょう。

だから、自分の牧師や教会があまり機能していない、とあなたがぼやいているなら、自分自身にこう訊くべきです。「私は豊かに教会に蒔いているだろうか。」

パウロは続けます。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(7)

献金するとき、私たちは「献金しなくてはならない」という態度を取るべきではありません。私たちは強いられる感じを持って、献金するべきではありません。

むしろ、私たちは喜びに満ちる心をもって、惜しみなく献金するべきです。「神様、あなたがいろいろなことをしてくださり、ありがとうございます。あなたはイエス様を送ってくださいました。それは本当に素晴らしい賜物でした。だから、この献金を通して、私の感謝を表したいのです。」と言う心を持って、献金するべきです。

そんな態度を持つと、あなたの献金が多くても、少なくても、神様はその献金を喜んで受け入れます。

ルカの福音書21:1-3では、やもめの献金はとても少ない額でした。でも、彼女は心から捧げたので、イエス様はその献金を金持ちの多額の献金よりも喜びました。

あなたはどうですか。どんな態度を持って献金するでしょうか。

あなたはわずかに蒔いているでしょうか。あなたは豊かに蒔いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二9:1-5--私たちは周りの人々に影響を与える立場を持つとき

私たち皆は、家で、教会で、また職場で、周りの人々に影響を与えます。

もしかしたら、ロールモデルになろうと思わなかったけど、その立場を持っているかもしれません。もしそうなら、私たちは彼らに、また神様に、その役割を果たす責任を持っています。

コリント人たちはエルサレムの人たちの苦しみについて聞いたとき、助けようと思ったので、その願いをパウロに伝えました。パウロはそれを聞くと喜んで、マケドニア人たちにそのそのニュースを伝えました。そして、マケドニア人たちがそれを聞くと、彼らも助けたいと思いました。だから、あるマケドニア人たちがパウロとともにコリントの経由でエルサレムに行くように決まりました。

でも、パウロには、あることが思い浮かびました。「コリント人たちは、もうその献金を整えただろうか。まさか、まだしていないだろうか。」

だから、パウロはこの手紙を書いたとき、彼らが約束通りに、その献金を整えるように促しました。パウロは彼らにこう書きました。

そうでないと、もしマケドニアの人々が私と一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。(4)

コリント人たちは予想しなかったけど、彼らの熱心によって、マケドニア人たちも献金するように鼓舞されました。だから、マケドニア人たちの霊的な先輩であるコリント人たちがちゃんと準備していなかったとしたら、マケドニア人たちはとってもがっかりしてしまったでしょう。

もちろん、私たちは完全な人たちではありません。私たち皆は失敗するときもあります。クリスチャンたちは、イエス様その人を見習うべきです。

それでも、そうしないクリスチャンもいます。イエス様自身も、そのことを認めました。だから、彼はこう言いました。

私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方が良いのです。つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイ18:6-7)

だから注意しましょう。私たちがすることは、私たちを見上げる人に影響を与えることを覚えていてください。神様の恵みによって、私たちの模範によって、人が失望して、神様から去らないように。むしろ、私たちの模範によって、彼らが神様に従うように鼓舞されますように。

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コリント人への手紙第二8:16-24--キリストに栄光を与える人

この個所では、パウロはエルサレムの貧しい者たちのために献金を収集する手順について話します。なぜなら、パウロはコリント人たちに、その手順の中で怪しいことがないと安心させたい、と思いましたから。

だから、パウロは、その献金を預かる担当の人たちについて話します。

一人はテトスでした。もう一人は、福音を宣べ伝えることで知られました。また、もう一人は、主の奉仕をする熱心で知られました。彼らに関して、パウロはこう言いました。

テトスについて言えば、彼は私の仲間であり、あなたがたのために働く同労者です。私たちの兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。(23)

それは素晴らしい誉め言葉です。その三人はキリストの栄光です。

それはどういう意味でしょうか。彼らは、自分の人生によって、イエス様の御名に栄光を与えたことです。

イエス様に対する彼らの熱心によって、彼らはイエス様の御名に栄光を与えました。また、福音を宣べ伝える働きによって、彼らはイエス様の御名に栄光を与えました。さらに、周りの人々に対する彼の愛と情けによって、イエス様の御名に栄光を与えました。

その言葉を読むと、私は自分自身に訊きます。私はキリストの栄光だろうか。私の言葉と行動によって、イエス様に栄光を与えるだろうか。イエス様に対する熱心を持っているだろうか。周りの人々にイエス様の言葉を伝えているだろうか。彼らに対する神様の愛と憐れみは私の心に溢れているだろうか。

私はそう望みます。もちろん、私は完全な人ではありません。でも、イエス様の御名を汚したくないです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の栄光でしょうか。イエス様の御名に栄光を与えるでしょうか。

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コリント人への手紙第二8:9--私たちの恵みの模範

私たちは本当に神様の恵みを把握するでしょうか。その恵みを本当に把握するなら、どれぐらい、自分のお金をささげること、自分の時間をささげること、自分の人生をささげることに関する私たちの態度は変わるでしょうか。

パウロはコリントたちにこう言いました。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

恵みとは、どういうものでしょうか。それは、神様の祝福に値しない者に祝福することです。イエス様は恵み深い方で、その恵みに値しない私たちを祝福してくださいました。イエス様が何をしてくださったかを考えてみてください。

イエス様は、天国では富んでおられました。富んでおられるとは、お金や金と銀をたくさん持っていたという意味しません。天国では、そんなものは価値がないのです。でも、イエス様は天の父の栄光を持っていたし、天使たちから礼拝されました。彼は天の父の王座の右に座っていて、何も欠けていませんでした。さらに、イエス様はすべてを治めて、イエス様にあって、万物は成り立っていました。(コロサイ書1:15-18)

それでも、イエス様は自分の栄光を捨てて、天国を去って、人間としてこの世に来ました。イエス様は王として来ませんでした。金持ちとして来ませんでした。むしろ、貧しい大工として来ました。そして、自分の奉仕を始めた時、イエス様には、枕する所もありませんでした。(ルカ9:58)

そして、自分の人生の終わりには、イエス様は礼拝されず、むしろ、ののしられました。王座に座らず、十字架にかけられました。栄光をもって治めずに、恥で十字架にかけられました。

どうしてでしょうか。

それは、私たちが富む者となるためです。イエス様の十字架の御業によって、私たちの罪の債務は支払われました。そういうわけで、いつか私たちは御国でイエス様と共に治めます。(ローマ書8:17)

イエス様は惜しみなくその恵みを与えてくださいました。

だから、私はもう一度聞きます。

あなたは本当にその恵みを把握しているでしょうか。

その真理を実感しているでしょうか。そうであれば、私たちの人生に影響を与えられるはずです。

イエス様が惜しみなく私たちを恵まれたように、私たちは周りの人々に惜しみなく恵みを与え始めます。

正直に言うと、私もその真理をもっと深く実感する必要があります。

あなたはどうですか。イエス様の恵みを把握しているでしょうか。その恵みはあなたから周りの人々に溢れ出しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二8:7ーー恵みのわざにあふれること

この個所では、パウロはコリント人たちにこう言います。

あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。(7)

コリント人たちは、霊的な賜物や、熱心や、愛の豊かさで知られました。

でもパウロはこう言います。「信仰や、言葉や、知識や、熱心や、愛に溢れることはいいけど、恵みのわざに溢れなさい。つまり、人のニーズに備える恵みのわざに溢れなさい。」

多くのクリスチャンたちは、信仰に溢れたいし、キリストのために福音を伝えたいし、イエス様に関する知識に溢れたいし、熱心と愛に溢れたいと思います。でも、私たちは人のニーズに備える恵みのわざに溢れたいと思うでしょうか。もしかしたら、そんな人は少ないかもしれません。でも、神様は、私たちのためにそのことを望みます。神様は、私たちが人々に与えて、彼らに触れるように望みます。

それはパウロの主な意図です。「この恵みのわざ」とは、エルサレムにある苦しんでいるクリスチャンたちに与えることを意味しました。

でも、神様は、私たちがすべての恵みのわざに溢れるように望みます。私たちが周りの人々に恵みの言葉を伝えるように望みます。私たちが親切なわざを行うように望みます。私たちが人を許すように望みます。また、私たちが苦しんでいる人を憐れむように望みます。

私たちは恵みに満ちた人であるべきです。なぜなら、神様は恵みに満ちる方ですから。神様の子供たちとして、私たちは天の父の真似をするべきです。

あなたはどうですか。あなたは恵みに満ちている人でしょうか。あなたは恵みのわざに溢れているでしょうか。

 

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コリント人への手紙第二8:6-12--始めたことを成し遂げること

この個所が真理に富んでいるので、この個所について、もういくつかの記事を書こうと思います。

パウロはこの個所を始めたように、終えます。彼は基本的にこう言います。「あなたがた始めたことをちゃんと成し遂げなさい。」

コリント人たちは、エルサレムにある貧しいクリスチャンたちについて聞いた途端、「私たちは助けたい」と言いました。彼らの模範のため、マケドニアのクリスチャンたちも、助けたいと思いました。

だからパウロはコリント人たちに言いました。「あなたがたが助けたいことは良いけど、あなたが始めたことを成し遂げなさい。あなたの熱意を忘れず、あなたの良い計画が無駄なものにならないように。自分の約束を守りなさい。これから、その献金を集めなさい。そうすると、私たちが着いた頃に、その献金はもう整えているはずです。もし良い心を持てば、献金の金額はあまり大切ではありません。なぜなら、神様が望むのは、あなたの心ですから。」

あなたはどうですか。あなたは自分が始めることを成し遂げるでしょうか。人々を祝福する計画を成し遂げるでしょうか。もしかしたら、あなたの熱意が冷めて、その計画を忘れてしまうでしょうか。私たちがそうならないように。むしろ、自分の約束を守り、神様が私たちに与えた良い計画を成し遂げましょう。

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コリント人への手紙第二8:1-5ーー人に何かをあげること

気前のいい心。人に何かあげること。

正直に言うと、私はまだそんな心を持てるように努めているのです。もしかしたら、私が末っ子のせいかもしれません。もしかしたら、私の罪深い心のせいかもしれません。でも、人にあげることは、私に苦手です。でも、私はそんな心を持つべきです。なぜなら、すべてのクリスチャンたちは、そんな心を持っているはずですから。

マケドニア人たちは、そんな気質を持っていました。パウロによれば、彼らの激しい試練の中にあっても、また、彼らの貧しい状態にあっても、マケドニアのクリスチャンたちは、エルサレムにある苦しんでいるクリスチャンたちのために、献金させてもらうように願いました。

たぶん、パウロは、彼らに言いました。「大丈夫です。あなたたちの経済も大変だし、ほかの教会の人々が献金しているので、それは、もう十分だと思います。」

でも、マケドニア人たちは「聖徒たちを支える奉仕の恵み」に参加させてもらうように願いました。彼らはその奉仕を恵みと見なしました。

私たちが苦しんでいるとき、自分のことに焦点を当てるのは簡単なことです。私たちは自分自身だけについて考えて、どのように自分の試練を乗り越えられるか考えます。でもマケドニア人たちは、そのように考えませんでした。むしろ、彼らに関して、パウロはこう言いました。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。(5)

それは、ささげることの定義です。私たちはまず自分自身を神様に献げ、そして、ほかの人にも委ねることです。イエス様はその原則をこのように教えました。

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)

また、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(22:39)

だから、あなたはケチな態度を持っているなら、自分自身にこう訊くべきです。「私は、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、主を愛しているだろうか。私は隣人を自分自身のように愛しているだろうか。もしかしたら、神様よりも、また隣人よりも、お金を愛しているだろうか。」

もう一つの大切な質問は、「私は、自分のことしか見ることが出来ないほど、自分の問題に焦点を当てているだろうか。もしくは、マケドニア人たちのように、私は、自分の問題だけでなく、ほかの人たちのニーズをも見ることが出来るだろうか。」ということです。

あなたの心を見ると、何が見えるでしょうか。

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コリント人への手紙第二7:8-10--二つ種類の悲しみ

サタンの名前とは、「責める方」を意味します。サタンは、その名の通り、いつも人を責めます。彼は、私たちの罪を指して、私たちを惨めな人と呼びます。

実は、サタンの咎めの中で、本当のことも含んでいます。彼は私たちに「あなたはだめだ。あなたの罪を見てごらん。あなたは神様から何も値しない。どうして神様はあなたのような人を愛することが出来るだろうか。」

そして、サタンは、罪悪感の重荷で、私たちを押し潰そうとします。

でも、あなたは神様の子供なら、その声が神様の声ではないことを理解してください。

もちろん、私たちが罪を犯すと、神様は私たちが悲しむように望みます。でも、神のみこころに添った悲しみは、世の悲しみとかけ離れているものです。パウロはこう書きました。

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(8-9)

パウロの言葉によって、コリント人たちは罪悪感を持っていました。その言葉によって、彼らは悲しみました。でもその悲しみは、ひと時だけでした。

パウロの意図は、彼らを滅ぼすことではありませんでした。パウロは、その訓戒によって、彼らが長期の害を受けることを意図しませんでした。むしろ、パウロは、彼らが悔い改めて、彼らと神様との関係は、またパウロとの関係は修復するように望みました。

だから、パウロは、神のみこころに添った悲しみと世の悲しみの違いをはっきりと区別します。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10)

世の悲しみによって人々は一生、後悔をもって、自分の罪が赦される希望がないと思うし、将来の希望もなくなります。そういうわけで、彼らの悲しみと罪悪感は彼らを押しつぶします。

その反面、神のみこころに添った悲しみによって、悔い改めに至ります。そして、その人たちが知っているのは、自分が何の酷い罪を犯していても、彼らは神様から赦されたことです。だから、彼らはその悲しみと後悔を捨てて、イエス様の手をつないて、神様が整えた将来に歩みます。それはどんな将来でしょうか。それは、希望と命に満ちている将来です。

あなたはどうですか。罪を犯すと、あなたの悲しみは、世の悲しみでしょうか。その悲しみによって、あなたは罪悪感に押しつぶされているでしょうか。

もしくは、その悲しみは、あなたをイエス様のみもとに導くでしょうか。その悲しみは、悔い改めと命に導くでしょうか。

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コリント人への手紙第二7章--本当の愛

私たちは6ー7章を読むと、コリント人たちに対するパウロの愛をもちろん見ることが出来るけど、その愛は、私たちに対する神様の愛をも反映します。

パウロはコリント人たちに願いました。

私たちに対して心を開いてください。(2)

あるコリント人たちは自分の心をパウロに閉じていました。だから、パウロは彼らに「心を開いてください。」と願いました。

そのように、神様は、私たちが神様に心を開くように願います。私たちが不信者たちとつり合わないくびきをともにせずに、神様と親しい関係を持ち、一緒に歩むように願います。

どうして、神様はそのことを望むのでしょうか。なぜなら、私たちは神様の息子たちと娘たちですから。

パウロはコリント人たちに対して、そんな愛を持っていました。パウロは自分自身を彼らの霊的な父と呼びました。(第一コリント4:15)

だから、彼らの霊的な父として、パウロは、私たちに対する天の父のような愛をコリント人たちに与えました。言い換えると、パウロは彼らに本当の愛を示しました。

本当の愛とはどんなものでしょうか。

パウロは説明します。

私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。(2b)

すべてのクリスチャンのリーダーたちがそう言えたらいいのに、と思います。つまり、リーダーたちがあえて人を傷つけないことです。また、彼らの教えが人々を聖い人生に導くことです。また、彼らが人々の弱さに付け込めないし、そのお金をだまし取らないことです。パウロは、そう主張することが出来ました。

そして、パウロは続けました。

前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。(3b)

本当の愛は、どんな状況でも相手とともに立ちます。死に直面するときも、本当の愛は忠実なものです。

そしてパウロはこう言いました。

私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。(4)

愛は、人々のことを信じます。コリント人たちとの人間関係の問題があっても、パウロは彼らのことをテトスに誇りました。彼はテトスにこう言ったようです。「コリント人たちのことを信じます。彼らが本当に神様の民であることを信じます。だから、私たちの言葉が辛くて、聞きにくいのに、結局、彼らがその言葉を受け入れて、悔い改めることを信じます。」(14)

だから、パウロは彼らに愛を示して、彼らを訓戒しました。必要があれば、本当の愛は人を訓戒しますから。

人を訓戒することを避ける人もいます。なぜなら、相手を愛していないように見えることを心配するから。実は、愛を持たずに真理を伝える人もいます。彼らは正直にしたいというよりも、残酷に行う興味があるのです。

でも、それはパウロの意図ではありませんでした。パウロの望みは、コリント人たちが悔い改めることでした。彼らが害を受けるように望みませんでした。むしろ、彼らが成長するように望みました。(9-10)

結局、パウロの願いはかないました。

時々、私たちが人を訓戒する理由は、相手の心を見抜くことです。パウロはこう言いました。「あなたを訓戒した時、それは不正を行ったひとのためでも、被害者私のためでもなかったのです。むしろ、あなたの心を見抜きたいと思いました。そして、あなたの悔い改めによって、あなたの心にあるものは明らかになりました。(11-12)

でも、パウロが彼らのこと信じなかったので彼らを試すべきだと思ったというわけではありません。むしろ、パウロは彼らを信じたので、彼らが必ず悔い改めることを思いました。

それは愛です。パウロのコリント人に対する愛はそんなものでした。神様の私たちに対する愛もそんなものです。

だから、私たちも、そんな愛を持つべきです。

あなたは、そんな愛を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二6:14-7:1--くびきを外すこと

この個所について、最後に二つのことを言いたいと思います。

一つ目は、あなたがノン・クリスチャンと結婚しているなら、私は彼らと離婚しなくてはいけないとは言っていないことです。それでも、あなたが神様の言葉に反してその人と結婚したなら、その反抗的な態度のために神様の赦しを願うべきです。

でも、悔い改めた後、神様はその結婚であなたを用いることが出来ます。コリント人への手紙第一でパウロは言いましたが、もし、配偶者がまだあなたと一緒に住み続けたいと思うなら、そうするべきです。その理由は?

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。(第一コリント7:14)

その言葉を誤解しないでください。神様は彼らの救いを約束しているわけではありません。でも、その結婚が継続している間、聖霊様はあなたを通して働いて、配偶者と子供たちに触れることができます。もちろん、その場合、彼らが救われる可能性はより高いものです。

簡単に言うと、あなたは彼らに影響を与えることができます。でも、最初に、自分の神様との関係に注意するべきです。もし神様との関係があなたの罪によって壊れたら、神様はあなたを用いることが出来ません。もしあなたが悔い改めていない罪を持っていると、神様はあなたを通してあまり働くことができません。

でも、あなたはノン・クリスチャンと結婚したことを後悔し始まめも、あきらめないでください。神様はあなたを通して、その状態を変えることが出来ます。

以前の記事で私は言いましたが、不信者とつり合わないくびきをともにするとは、結婚関係に限りません。

もしかしたら、ノン・クリスチャンの友達はあまりにもあなたに影響を与えているかもしれません。

あなたが大人なのに、あなたのご両親たちはあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

また、あなたの彼氏や、彼女はあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

そして、その影響によって、あなたの神様との関係はうまくいっていないかもしれません。

どうすれば良いでしょうか。控え目に言っても、それはかなり難しい状態です。でも、柔和な態度をもって行動するべきです。

最初に、彼らに対するあなたの愛をもう一度言い表すべきです。でも、彼らが行っている道があなたのと違って、あなたは神様の道を行かなくてはならないと伝えてください。

そして、その関係によって、あなたは彼らと絶交するか、彼らがあなたに影響を与えられないほどに、距離を保つべきです。

その距離は物質的な距離かもしれない。例えば、あなたは実家を去って、自分のアパートを借りたりしないといけないかもしれません。

または、あなたはただその人とあまり時間を過ごさないことです。

あなたの決断を理解する人もいます。ある人は理解してくれません。でも、彼らがあなたに影響を与えている限り、あなたはちゃんと神様に従うことが出来ません。だから、そのくびきを外してください。イエス様に従い始めてください。

そうすれば、神様が約束した祝福を知ります。

わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。(16-18)

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コリント人への手紙第二6:14-7:1ーー不信者とつり合わないくびきをともにすること(3)

次の個所に進む前に、私は、この個所に関する多くの人々が教える応用を話すべきだと思います。つまり、ノン・クリスチャンとデートするとか、結婚することです。

ノン・クリスチャンとデートしてはいけないと教える人もいます。

私はそこまで言わないけど、多くの場合、ノン・クリスチャンとデートするのは、良くないアイデアだし、罪に導く可能性が高いです。

クリスチャンがノン・クリスチャンとデートするのは、良い結果が出た時もあるけど、大多数の場合、その結果は悪かったのです。

ノン・クリスチャンとデートするとき、一番大切な質問は、「誰が誰に影響を与えているでしょうか」ということです。

あなたの影響よって、その人は神様に近づいているでしょうか。もしかしたら、相手の影響によって、あなたはだんだんイエス様から離れてきているでしょうか。

あなたの影響によって、相手は神様をもっと知りたいのですか。もしかしたら、相手の影響によって、あなたは自分の純潔を捨てているでしょうか。

相手とデートするために、あなたは礼拝をサボるときもあるでしょうか。

相手と時間を過ごしすぎて、あなたはほとんど聖書を読まないし、祈らないでしょうか。

あなたは相手と寝る誘惑に負けているでしょうか。

もし、「はい」と答えると、相手と絶交した方がいいです。

それは厳しい勧告でしょう。どうして、そんな関係に入っている間、クリスチャンたちにその勧告は受けく入れにくいでしょうか。

なぜなら、その関係の問題は、知識的なものだけではなく、感情的なものになりますから。

結婚の話ですけど、私たちは異性の人と肉体的に一つになるように造られただけではなく、感情的にも一つになるように造られました。

あなたは相手に付き合うと、その感情的な結びは始まります。

「その人が好き!その人は私のことが好き!」

彼女か彼氏を持つ人皆は、その幸せを知っています。そして、その関係が続いている間、その感情は強くなります。

相手に対する強い感情があっても、自分の価値観と信じることを守ることが出来るでしょうか。それはとても難しいことです。

彼氏か彼女からのプレッシャーに直面するとき、自分の価値観と信じることを守ることができるクリスチャンは少ないです。

そのクリスチャンが強くても、相手と絶交しなければならないとき、必ず失恋するでしょう。

パウロは全然違う状態について話していたけど、その言葉をノン・クリスチャンとデートする状態に適応したいと思います。

「ノン・クリスチャンとデートする人たち、また、ノン・クリスチャンと結婚する人ちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。」(本来の言葉は、第一コリント7:28からです)。

相手がクリスチャンになる可能性はあるでしょうか。もちろんその可能性があります。でも、あなたのために死なれたイエス様に不忠実になる可能性はかなり高いです。残念なことですけど、私はそんな人を何回も見たことがあります。

クリスチャン女性がノン・クリスチャンとデートするのは、倍ぐらい難しいことです。聖書によれば、男性の方が結婚の関係を導くべきです。だから、デートしている間、そのカップルはそんな関係を練習した方がいいです。でもクリスチャンの女性は、ノン・クリスチャンの男性の導きについていくと、特に、彼氏の霊的な導きについていくと、それは不信者とつり合わないくびきをともにすることでしょう。その反面、クリスチャン女性がそうしないと、その関係はちょっとおかしく感じるでしょう。なぜなら、神様の計画によれば、男性の方が導くべきですから。でも、やっぱりクリスチャンの女性はノン・クリスチャンとデートするとき、彼氏の霊的な導きについて行ってはいけないです。

そして、クリスチャンがノン・クリスチャンと結婚するのは罪です。なぜなら、神様の命令に逆らい、彼らは不信者とつり合わないくびきをともにしたから。

だから、ノン・クリスチャンと付き合おうと思うと、気を付けなくてはなりません。その関係では、相手に関する感情は強くなると、罪に落ちるのは簡単なことになりますから。

あなたはどうですか。あなたは不信者とつり合わないくびきをともにしているでしょうか。

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コリント人への手紙第二6:14-7:1ーー不信者とつり合わないくびきをともにすること(2)

前回の記事で、私たちは不信者とつり合わないくびきをともにしない大切さについて話しました。つまり、ノン・クリスチャンの影響によって、あなたが清い人生を送れず、神様に忠実に仕えないなら、その人からちょっと距離が必要ことです。

どうしてでしょうか。パウロはこう言いました。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。(6:14-16a)

簡単に言うと、不信者たちと私たちの考え方や価値観に関しては、大幅の差があって、その穴に橋をかけることが出来ません。その理由は、私たちが違う方に属しているからです。

要するに、私たちは生ける神の宮なのです。神様は私たちのうちに住んでおられます。

逆に、彼らは偶像の宮です。彼らは仏壇で拝まないかもしれないけど、彼らの心の王座から神様を追い出して、違うものをその王座に置きました。例えば、個人の幸せとか、お金とか、持ち物などをその王座に置きます。そして、神様の考え方が、その偶像の邪魔になると、彼らは神様を追い出して、自分勝手に生きます。

彼らがそうするなら、どうして、私たちは彼らの影響を受けるでしょうか。彼らはサタンのうそを受け入れました。「あなたがたが神のようになります。」(創世記3:5)

エバに言ったように、サタンは彼らに言います。「あなたには神様の勧告は要りません。あなたは十分に賢い者です。幸せを得るために、神様の所に行かなくてもいいです。ほかのものによって、あなたは幸せになるでしょう。神様のために生きずに、自分のために生きた方がいいです。」

でも、サタンのうそを信じると、彼らは実際にサタンのために生きていて、周りの人々にもサタンに従うように促します。

でも、神様は自分の子供になるように私たちを呼びました。神様は私たちがこの世の人々と違う人になるように呼びます。神様は私たちが聖なる人になるように呼びます。

だからパウロはこう言います。

神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」(6:16b-18)

そしてパウロはその話をこのようにまとめます。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(7:1)

私たちは神様との素晴らしい関係を持つように呼ばれました。でもそんな関係を望むなら、私たちは罪から自分を清めるべきです。そうするために、時々、私たちは自分に悪い影響を与えられる人から距離を保たなくてはなりません。

あなたはどうですか。神様に対する愛と恐れによって、あなたは清い人生を送っているでしょうか。あなたの人生は神様の奉仕のためでしょうか。

もしかしたら、あなたがこの世に溶け込んでいるほどに、周りの人々から影響を与えられているでしょうか。

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コリント人への手紙第二6:14ーー不信者とつり合わないくびきをともにすること(1)

聖さ。

多くの人々は、「聖い人」を聞くと、神様の栄光で輝いている人を思い描きます。

でも、「聖さ」には、二つのコンセプトが含んでいます。それは清い人生を送ることと、神様の奉仕のためにこの世の人のうちから分けられることです。

クリスチャンとして、私たちはそのような人生を送るべきです。私たちは、周りの人々が私たちがクリスチャンであることが分からないほどに、この世に溶け込んではいけません。彼らが私たちを見ると、私たちの態度や行動が彼らのと違うと分かるはずです。

でも、多くのクリスチャンたちはこの世に溶け込んでしまいます。一つの理由は、彼らが、自分が神様のためにほかの人のうちから分けられるというマインドセットを持っていないことです。むしろ、彼らはこの世の民から影響を与えられました。

だからパウロはこう言いました。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。(14)

それはどういう意味でしょうか。その描写は申命記から来ます。神様はこう言いました。

牛とろばとを組にして耕してはならない。(申命記22:10)

その律法の前後では、神様は、二つ種類のものを混ぜることを禁止したことです。だから、二つ種類の種を同じぶどう畑に蒔いてはいけなかったし、衣服を作るとき、羊毛と亜麻糸とを混ぜてはいけませんでした。

どうして、神様はそんな律法を制定したでしょうか。神様はイスラエル人たちに清さについて教えたいと思ったから。その律法によって、ユダヤ人は、自分が清い人にならなくてはならないことを学びました。

どうして、パウロは服や種の描写を使わなかったのでしょうか。たぶん、パウロは清さ以上の応用を見ることが出来たでしょう。

牛とろばが組にされた時、ろばは牛に大きい影響を与えることが出来ました。牛は前に進もうとしたしれないけど、もし、ろばが頑固で、進みたくないと思ったとしたら、牛が進むのは大変なことになりました。

また、ろばが違う方向に行きたいと思ったとき、牛には選択がありました。その牛はろばの導きに従うことが出来ました。もしくは、牛は、ろばを強制に正しい方向にさせようとすることができました。

多分、パウロのポイントは、クリスチャンじゃない人が私たちに影響を与えるほどに、彼らと組みしてはいけないことです。

例えば、クリスチャンの企業者は、悪徳商法をする人と組みするなら、大変なことに巻き込まれるでしょう。

または、私たちは、アドバイスを求めると、ノン・クリスチャンの友達から影響を与えられます。もちろん、ノン・クリスチャンのアドバイスがいい時もあります。でも、時々、彼らのアドバイスは良いに聞こえるけど、聖書に反対します。

「彼女と一緒に住めばいいじゃない。彼女を愛しているんでしょう?」

「時々、成功するために、ルールを曲げなくてはなりません。」

彼らはあなたの最善を求めているかもしれないけど、彼らが神様のみ言葉を知らないので、あなたを罪に導くことが出来ます。

それはいけないことです。私たちはノン・クリスチャンに影響を与えるはずです。私たちが彼らから影響を与えられるはずがありません。

では、私たちはその縁を切るべきでしょうか。もちろんそうではありません。

でも、自分の人間関係を見ると、私たちは自分自身にこう訊くべきです。「彼らは私にあまりにも影響を与えているだろうか。彼らの影響によって、私は自分の純潔を捨てているのではないか。私は神様のために聖別しているはずだけど、彼らの影響によって、私はそのように生きていないのではないか。」

あなたが「はい」と答えるなら、その人から、ちょっと距離が必要です。

次のブログで、この話を続けます。

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コリント人への手紙第二6:11-13ーー何にしがみついているでしょうか。

ある聖書学者たちは、この手紙が、元は二枚の手紙だと考えています。この手紙を読むと、私は彼らの理由が分かるけど、たぶん、この手紙がいつも一枚のものだっただろうと思います。

どうして、ある学者たちはこの手紙のことを、まとめている手紙だと思うでしょうか。この手紙の最初の部分では、パウロとコリントのクリスチャンたちがもう仲直りしたみたいです。でも、そのあとのパウロの言葉を見ると、彼らはまだ人間関係の問題が残ったようです。

もしかしたら、パウロはその教会の多数の人たちと仲直りしたけど、あるコリント人たちはまだパウロの使徒としての資格を疑ったかもしれません。どうして、彼らはパウロの資格を疑ったでしょうか。パウロはこう言いました。

コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。(11-12)

要するに、「私たちは正直でいたし、あなたを愛していたけど、あなたたちの愛は控えられました。私たちがあなたたちをどう扱ったかのゆえに、あなたたちは自分の心を閉じました。私たちがあなたたちの中の罪人と偽使徒たちを懲らしめたので、私たちを厳しすぎると思うかもしれません。私たちが自分の心をあなたに閉じたと思うかもしれません。でも実は、あなたたちがしがみついている物のゆえ、自分の心を私たちに閉じてしまっているのです。

あなたたちはまだ、自分の罪を持ち続けています。偽使徒との関係を持ち続けています。あなたの心の中で偶像を持ち続けています。そして、私たちがそのことのゆえに、あなたたちを懲らしめたとき、あなたたちは自分の心を閉じました。あなたたちはそれから手を離さないので、自分の心を開くことが出来ません。」

あなたはどうですか。あなたは何にしがみついているでしょうか。

時々、人々は教会とクリスチャンの交わりを捨てます。または、彼らの親しい兄弟たちと姉妹たちとの関係は壊れてしまいます。なぜなら、その人が罪を犯したとき、兄弟や姉妹はその人を訓戒しようとしましたから。でも、その訓練のゆえ、その人は退けられたと感じるのです。

時々、周りのクリスチャンたちに訓戒されるのは難しいことです。残念ですけど、時々、訓戒するとき、クリスチャンたちは柔和を持たずに、厳しすぎる訓戒をします。(ガラテヤ6:1)

もしかしたら、コリント人たちを訓戒した時、パウロも厳しすぎたかもしれません。パウロも罪人で、ある時、マルコに関する態度は厳しすぎました。(使徒の働き15:36-39)

彼は厳しすぎたかどうかわかりませんけど、パウロは本当にコリント人たちを愛していました。でも、パウロの訓戒のため、また、コリント人たちがしがみついた悪い物のため、彼らには、パウロの愛が見えなかった。だから彼らは自分の心をパウロに閉じました。

あなたはどうですか。兄弟たちと姉妹たちの訓戒が辛くても、あなたは自分の罪を認め、その罪から手を離すでしょうか。その罪を愛しすぎて、あなたを愛している兄弟たちと姉妹たちを捨てるでしょうか。

簡単に言うと、あなたはどのように訓戒に反応するでしょうか。

 

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コリント人への手紙第二6:3-10ーー私たちのミニストリーが決してそしられないように

私たちは、牧師や宣教師ではないかもしれないけど、私たち皆がキリストの奉仕に参加するように呼ばれています。5章でパウロが言ったのは、私たち皆はキリストの使節と呼ばれていることです。私たちは和解のメッセージを周りの人々に伝えるべきです。

でも、私たちのミニストリーがそしられるのは簡単なことです。私たちの行為や言葉のせいで、私たちのあかしを拒絶する人もいます。

そういうわけで、パウロはこう書きました。

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(3-4)

周りの人々に、私たちはどのようにつまずきを与えるでしょうか。私たちの人生によって。私たちの態度と行為によって。

だから、どのシチュエーションに直面しても、パウロは忠実にイエス様に仕えました。いろんな苦難を経験しても、パウロは、「大いなる忍耐を働かせて、また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛によって」行動しました。(4-6)

パウロの言葉をちょっと考えてみてください。苦難の時、どれぐらい私たちは不平を言い、辛抱を失い、自己中心になり、周りの人々を愛しないので、私たちのあかしがそしられるでしょうか。

でも、周りの人々がパウロを褒めても、パウロをそしっても、また、パウロが喜んでも、苦しんでも、彼はいつも忠実にイエス様に仕えました。

彼は聖霊の力によって歩み、左右の手に義の武器を持ちました。片手に、神様のみ言葉を持ち、片手に信仰の大盾を持っていました。

私たちは同じことを主張することができるでしょうか。私たちの行為や態度によって、私たちのミニストリーが決してそしられないように。むしろ、毎日、私たちは真実と、愛と、純潔と、忍耐を持って歩みましょう。さらに、聖霊の力と慰めによって歩みましょう。そうすれば、私たちはこの世に影響を与えるでしょう。

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コリント人への手紙第二5:16ー6:2--和解のメッセージ

いろんな試練や苦しみに直面するとき、クリスチャンたちは、神様が彼らをならべく早く天国に連れてくるように願うときもあります。どうして、神様はそうしてくれないでしょうか。

いろんな理由があるけど、一番大きな理由は、私たちがこの世でまだ役割を果たさなくてはならないことです。16節でパウロが言ったのは、私たちがもはや人間的な標準で人々を考えないことです。むしろ、私たちは神様の標準で人々を考えるべきです。どのように神様はこの世の人々を考えるでしょうか。

彼らが神様の似姿に造られたので、神様の目には、彼らは尊い者です。

でも、クリスチャンに関しては、神様は私たちをキリストの使節と見なします。

ローマの帝国では、二つ種類の属州がありました。ある属州は、ローマ帝国の支配を喜んで受け入れました。そんな属州は元老院の支配下にありました。でも、ある属州は、ローマ帝国の支配に関して、敵対的な態度を持っていました。そんな属州は直接にカエサルの支配下にありました。そして、平和を保つため、カエサルはその属州に使節を送りました。

それがパウロの例えです。この世の人々皆は、神様の似姿に造られたけど、大多数は神様に敵対的な態度を持ち、反抗します。

でも神様の使節として、私たちはどのようなメッセージを伝えるでしょうか。それは、敵対的なメッセージでしょうか。いいえ、そんなことではありません。むしろ、私たちは和解のメッセージを伝えます。私たちはキリストに代わって願います。

神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(20-21)

それは福音のメッセージの中心です。神の御子イエスは、この世に来て、完全な人生を送りました。彼は決して悪いことをせず、悪い思いを考えず、神様が命令したことに逆らいませんでした。天の父が、「その良いことをしなさい」と言ったら、イエス様はいつもそうしました。

でも、悪いことを全然しなかったのに、イエス様は十字架にかけられました。その時、神様が私たちのすべての罪をイエス様において、イエス様は私たちの罰を受けました。

イエス様の十字架の御業のゆえ、私たちがイエス様を信じると、神様はもはや私たちを罪人と見なしません。むしろ、イエス様の義は私たちを完全に覆います。だから神様が私たちを見るとき、その義しか見ません。

パウロの言葉を使えば、私たちは義と認められます。神様は私たちに関して、「無罪の人」だと宣言します。

さらに、神様は、イエス様の義の御業を、私たちの義のわざと認めてくださいます。

その和解の賜物を受けるために、私たちはどうすれば良いでしょうか。ただ、そのメッセージを信じて、受け入れることです。

それは私たちの和解のメッセージです。でも、もう一つの要素があります。私たちはそのメッセージの緊急性を理解しなくてはなりません。パウロによれば、私たちは彼らに懇願するべきです。「今機会を見逃さないでください。待たないでください。」(6:1)

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(6:2)

人々は、自分がいつ亡くなるか分かりません。悲しいことですけど、人々が心を頑なものにして、待てば待つほど、そのメッセージを受けて入れるのは難しくなります。

ある歌はその願いをこのように伝えます。

Tomorrow.
明日ですか。
Forget about tomorrow.
その決断を明日まで伸ばさないで、
Won’t you choose the Lord today.
今日、主を受け入れませんか。
For your tomorrow could very well begin today.
「明日、私たちの人生をイエス様に捧げる」と思うかもしれないけど、あなたの新しい人生は今日から始まることができます。

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コリント人への手紙第二5:17ーー新しく造られた者

聖書の中で、これは私の最も好きな個所の一つです。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(17)

ある英語のスタディー・バイブルの解説が大好きです。「私たちは改心させられなかった。私たちは更生させられなかった。また、私たちは再教育されなかったのです。むしろ、私たちはキリストと一つになって、新しく造られました。」

でも、多くの人々はそんな誤解を持っています。彼らは、神様が私たちを救った目的が、私たちが良い人になることだと思います。

でも、それは神様の目的ではありません。むしろ、神様の目的は、私たちが全く新しく造られた者になることです。

この世界の考え方によれば、私たちは自分自身を改心することが出来るし、更生することが出来るし、再教育されることが出来ます。もちろん、ある程度までは、私たちはそんなことが出来ます。でも、私たちの人生に本当の変化を望むなら、その変化は人間の努力や知恵から来るものではありません。むしろ、神様だけが私たちの心とふるまいを変えることが出来ます。

聖書の話を見ると、ユダヤ人たちは何回も自分自身を更生しようと思いました。でも彼らはいつも自分の罪にもう一度落ちてしまいました。士師記では、そのパターンを何回も見ることが出来ます。

神様は、彼らを再教育するために、祭司たちや、預言者たちや、士師たちを送りました。さらに、世の中で最も賢い人ソロモンは彼らを治めました。でも、ソロモンは、自分の知恵によって、彼らの心を変えることが出来なかっただけではなく、彼自身が堕落と罪に落ちてしまいました。

ユダヤ人たちはエジプトから救い出された後、40年かけて砂漠で更生させられました。何百年も後、彼らの罪のゆえに、バビロンで70年ぐらいもう一度更生させられなくてはなりませんでした。

結局、物事はほとんど変わりませんでした。もちろん、ある程度まで、彼らは変わりました。バビロンの後、彼らは偶像礼拝を捨てました。

でも、彼らのメシアであるイエス様来ると、彼らはイエス様を拒絶し、十字架にかけました。今なお、多くのユダヤ人たちはイエス様をメシアとして認めません。

だから、人々が必要なのは、ただの改心ではありません。ただの再教育ではありません。ただの更生ではありません。むしろ、彼らは全く新しく造られた者にならなければなりません。

でも、その変化はキリストだけを通して来ます。キリストだけを通して、人々が、神様がもともと計画した通りの人間になります。つまり、人々が神様の似姿を得ることです。

私は、C.S.ルイスの「朝びらき丸 東の海へ」の登場人物ユースチスという少年の話が大好きです。彼は、自分の勝手な態度と欲張りによって、竜になり切りました。竜になった後、ある程度まで、彼の心はちょっと改心して、また更生しました。でも、彼はまだ竜の形を持っていました。

そして、ある日、彼はアスランというライオンに出会いました。(ナルニアの物語で、アスランはキリストの象徴です。)

アスランは彼に言いました。「その湖に行って、泳ぎなさい。でもそうする前に、裸になりなさい。」

もちろん、ユースチスは竜で、服を持っていませんでした。でも、彼は自分の竜の皮膚を剥がそうとしました。その皮膚を剥がしてから、湖に入ろうと思ったけど、まだ竜の皮膚の層が残っていることに気づきました。もう二回、ユースチスは、その皮膚を剥がそうとしました。でも、まだ皮膚の層が残りました。結局、アスランは彼に言いました。「私は、その皮膚を剥がさなくてはなりません。」

アスランがその皮膚を剥がした時、ユースチスがアスランの爪が心臓まで届いたと思ったほどに、痛かった。そして、アスランがユースチスを湖に投げ入れて、そのすぐあと、ユースチスは自分がもう一度少年になり切ったことに気づきました。

ユースチスのように、私たちは自分自身を改心し、再教育し、更生しようとすることが出来ます。でも、所詮、私たちが必要なのは、新しく造られた者になることです。

C.S.ルイスがユースチスについて言ったように、新しく造られた者になる後、私たちは変わり始めます。

あなたはどうですか。自分の努力で自分自身を変えようと思っているでしょうか。あなたの努力によって、ただの竜よりはよい竜になれるかもしれません。でも、神様がもともと計画した通りの人間になりたいと思うなら、あなたは新しく造られた者にならなければなりません。それを望むなら、祈りませんか。

イエス様、私の罪によって、私たちの人生はめちゃくちゃになりました。鏡をのぞくと、私が見えることがあまり好きではありません。私は自分自身を更生しようとしたけど、無駄でした。だから私はあなたに向かいます。あなたが私の罪のために死んだことを信じます。私の罪を赦してください。私を新しく造られたの者にしてください。私をあなたの似姿にしてください。アーメン。

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コリント人への手紙第二5:16ーー真新しい視点

パウロはクリスチャンになると、真新しい視点を受けました。

救われる前、彼はクリスチャンたちを迫害していました。その時、パウロは神様の御心に従っていると思っていました。でも救われると、彼はすべてのことを再認識しました。

パウロはイエス様の本当の姿を見た時、また、キリストが彼のために十字架で何をしたか分かってきたとき、彼の生きがいが変わりました。彼はイエス様を愛し始めたので、イエス様に関するパウロの考え方も、周りの人々に関する考え方も変わりました。

だから、彼はこう書きました。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(16)

クリスチャンになる前、パウロはイエス様をただの人間と見なしました。実は、パウロはキリストを神様を冒涜する人と見なしました。キリストが神様から呪われる人と考えていました。さらに、パウロは、クリスチャンたちは異端児だと思いました。彼は異邦人たちを部外者と見なしました。

でも、クリスチャンになると、パウロは彼らを再認識しました。彼らが神様の愛する民だと分かってきました。

そのように、私たちがクリスチャンになると、キリストに関する考え方だけではなく、周りの人々に関する考え方も変わるはずです。私たちは彼らをこの世の目安で判断してはいけません。

この世は、人々を美や、知性や、富や、かっこよさによって評価します。そして、この世は、そんなものを持っていない人を捨てます。

でも、私たちがそうするなら、大切なことを忘れてしまいます。彼らは神様の似姿に造られているからです。

もちろん、彼らを見ると、その似姿がとても歪んでいると思うかもしれません。でも彼らは神様の似姿に造られました。だから、神様は彼らを大事にします。そういうわけで、神様は、あなたのためだけではなく、彼らのためにもイエス様を十字架に送って下さいました。

そうなら、どうして私たちは彼らを軽蔑することが出来るでしょうか。

正直に言うと、私にとって、その考え方を取るのは難しい時もあります。ある人は、愛しにくいですから。でも、神様は彼らを愛しています。もし、私が彼らを愛せないなら、それは私のせいです。もし彼らを見るとき、私が神様の似姿を認識できないなら、私の霊的な目は悪いです。

あなたはどうですか。愛しにくい人を知っているでしょうか。私と一緒に祈りませんか。

主よ。あなたにあって、私は新しく造られた者です。私はあなたが誰であるか分かるようになりました。そのように、私が周りの人々が誰であるか分かるように、私の目を開いてください。つまり、私は彼らをあなたの似姿に造られた人として見るように助けてください。私が彼らを私の愛に値する人として見るように助けてください。私の悪い態度を赦してください。私を変えてください。私に新しい目を与えてください。あなたの目を与えてください。私があなたのように愛するように助けてください。アーメン

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コリント人への手紙第二5:11-15ーー捕らえている

あなたは何のために生きているでしょうか。どうして、それのために生きているでしょうか。

パウロにとって、その答えは明らかでした。それは、裁きの日が来ることです。その日、彼だけではなく、すべての人々は裁かれます。(10)

だから、彼はこう書きました。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。(11a)

神様の前に立つのは、本当に恐ろしいことです。私たちがクリスチャンで、自分の罪のために裁かれないと分かっているのに、裁きは恐ろしいことです。でも、イエス様を信じない人にとっては、何百万倍も恐ろしいことです。だから、パウロは、「人々がまだ悔い改めることができる間、私たちは彼らを説得しようとしています。」と言います。

彼は以前にそう言ったけど、もう一度言います。「私たちは神様の前に誠心誠意をもって、福音を宣べ伝えます。なぜなら、神様は私たちの行動だけではなく、私たちの動機も裁くからです。」(11b-12)

パウロの動機は何だったでしょうか。迫害されていても、どうして彼は福音を伝えようと思ったでしょうか。

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(13-15)

パウロによれば、キリストの愛が彼を捕えました。実は、その「キリストの愛」という表現には、2つの訳し方があります。一つ目は、パウロとこの世の人々に対するキリストの愛ということです。たぶん、それはパウロの主な意味でしょう。でも、もう一つの訳し方は、キリストに対するパウロの愛と言うことです。その個所では、両方のコンセプトを見ることができます。

14節では、パウロは、「キリストはすべての人のために死んだ」と言いました。どうして、イエス様はそうしたのでしょうか。どうしてイエス様は天国を去って、十字架に行ったのでしょうか。私たちに対するイエス様の偉大な愛ですから。

そして、その愛に反応するなら、私たちはもう自分自身のために生きません。むしろ、私たちは自分の古い生活を葬って、イエス様のために生き始めます。

だからヨハネはこう書きました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

あなたはどうですか。自分のために生きているでしょうか。神様のために生きているでしょうか。

あなたが神様のために生きているなら、なぜでしょうか。それは裁きの恐れのためでしょうか。もしくは、イエス様があなたを愛しているので、あなたはイエス様を愛しているのですか。

あなたがどうしても周りの人々にイエス様の愛をシェアするほどに、イエス様の愛はあなたの心から流れているでしょうか。

あなたは何のために生きているでしょうか。また、なぜでしょうか。

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コリント人への手紙第二5:1-10ーー私たちがうめいているのに

この個所では、パウロは、どうして試練の中で彼が希望を持っていたのをさらに説明します。彼はこう言いました。

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(1)

4章では、パウロは私たちの体を土の器と比べました。5章では、パウロは私たちの体を幕屋と比べます。パウロのポイントは、私たちの体は、幕屋のように一時的なものだし、壊れやすいものということです。でも、私たちの体が滅びても、私たちは希望を持っています。なぜなら、私たちはより丈夫な永遠の住まいをもらうからです。

パウロは第一コリント15章の話に触れています。つまり、私たちが復活すると、その新しい体は決して病気にならないし、死なないのです。それでも、パウロはこう言いました。

私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。(2-4)

要するに、私たちは死んだ後、ただの霊のままではなく、むしろ新しい体をもらう希望を持っています。でもその日が来るまで、私たちはうめきます。この体を持っている間、私たちは苦しんで、新しい体を切望します。なぜなら、その新しい体を受けると、私たちの弱さと苦しみがなくなるから。

どうして、私たちの苦しみの中で、その希望を持ち続けられるでしょうか。なぜなら、神様がその新しい体を約束したから。パウロはこう言いました。

そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。(5)

簡単に言うと、神様は最初から私たちにキリストにある新しい命を与えることを計画しました。そして、そのことを保証するために、神様は私たちに聖霊様を与えてくださいました。毎日、聖霊様は私たちにささやきます。「あなたは神の子供です。」

また、毎日、聖霊様は私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。私たち聖霊様の働きを見て、聖霊様の声を聞くので、希望を持っています。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。(6-7)

私たちはイエス様から離れているけど、それはただ短い間です。しばらくして私たちはイエス様の顔を見ます。だから私たちはそのことを覚えていて、毎日信仰によって歩みます。信仰によって歩むと、私たちの日常生活は全く変わります。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(9-10)

私たちは、いつかイエス様の顔を見て、そのとき、私たちが裁かれることを知っているので、どのようにイエス様を喜ばせるかを考えます。私たちの目的は、自分自身を喜ばせずに、イエス様を喜ばせることです。

だから試練と苦しみの中でうめいても、私たちの希望を覚えていましょう。ある日、私たちは主とともにいて、すべてのものは新しくなります。だから、毎日イエス様をどのように喜ばせるかを考えましょう。そうすれば、裁きの日に、私たちは恥じ入ることはないでしょう。

あなたはどのように生きているでしょうか。ただ一時的なことを考えているでしょうか。もしくは、永遠のことを考えているでしょうか。

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コリント人への手紙第二4章--私たちの希望を失わないように

パウロが4章を始めたように、終えます。それは希望のメッセージです。パウロはいろんな試練に直面したので、希望を失うのが簡単なことだったでしょう。

彼はあらゆることで苦しんでいたし、外には戦いが、内には恐れがありました。(7:5)

私たちにも、そんな経験があったことでしょう。私たちはいろんな試練に直面するだけではなく、自分の感情と戦わなくてはなりません。私たちは自分の恐れや、フラストレーションや、悲しみや、苦しみと戦わなくてはなりません。

自分の大変な状況のため、パウロは途方に暮れた時もありました。

自分の信仰のため、彼は迫害され、また、石打ちにされました。

さらに、このコリントの教会でいろんな問題があって、時々、パウロは、自分の努力が無駄なのではと疑問に思いました。

それでも、パウロは希望を持っていました。彼は途方に暮れても、神様を求めると、脱出の道を見つけることが出来ると知っていました。(第一コリント10:13)

彼が迫害されても、神様に見捨てられなかったことを知っていました。

また、彼が倒れても、滅びないと知っていました。

どうして、自分の状況なのに、パウロはそんな希望を保つことが出来たでしょうか。

なぜなら、パウロは、神様が計画を持っている確信を持っていましたから。彼は1節にこう言いました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(1)

パウロは、神様が彼にそのミニストリーをゆだねたことを知っていました。そして、神様の与えたミニストリーが無駄なものではなかったと知っていました。むしろ、そのミニストリーを通して、神様が自分の目的を果たすと信じました。

さらに、パウロはそのミニストリーを預かることに値しなかったと知っていました。なぜなら、以前、彼はイエス様とその教会を憎んでいたから。でも憐れみによって、神様はパウロに真理を与えてくださいました。実は、神様はパウロにこう言いました。「あなたは私の名のために苦しみます。」(使徒の働き9:16)

だから、パウロは、自分の苦しみが神様を驚かさないと知っていました。神様はパウロに「え?そんな大変なことは全然予想しませんでした。ごめんね。」とは言いませんでした。

むしろ、神様は、パウロが経験する試練のすべてをあらかじめ知っておられました。だから、パウロはこう信じました。パウロを自分の罪の暗闇の中から救い出して、命の光に導いた憐れみは、試練の暗闇から救い出して、栄光の光に導きます。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(16-18)

要するに、私たちが苦しんでも、私たちが肉体的に、また精神的に崩れるように感じても、神様は毎日私たちの人生に働いています。その試練を通して、神様が私たちをイエス様と同じかたちに変えるので、私たちは神様の栄光を反射します。(3:18)

では、試練の中で、どのように希望を保つことが出来るでしょうか。私たちのトラブルに焦点を当てずに、目に見えない方に焦点を当てるべきです。私たちは神様の目的を知らないかもしれないけど、神様が良い計画を持つことを信じるべきです。

また、私たちの試練は永遠に続かないことを覚えていなくてはなりません。神様がその試練を乗り越えるのを助けると信じるべきです。そして、私たちがあきらめないでいると、結局神様の中にも、私たちの中にも、私たちの状況の中にも、神様の栄光を見ます。

パウロはこう言いました。

私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど、重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(17)

それを覚えていましょう。神様はあなたの試練に驚いていません。神様は計画を持っています。だから神様に信頼してください。神様が自分の目的をもたらすことを信じてください。そうすれば、希望を保つことが出来ます。

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コリント人への手紙第二4:5-15--私たちが誰のことを宣べ伝えるか

周りの人々は私たちを見ると、どんな人だと思うでしょうか。

多くの場合、私たちの立場や、実績によって人々を感動させたいと思います。正直に言うと、私はいつもその誘惑と戦わなくてはなりません。

私たちは誰でも、周りの人々に認められたいと思います。でも、周りの人々からの栄誉を得るために生きると、私たちのための神様の目的を逃します。

パウロはこう書きました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。(5)

パウロは自分自身を売り込もうと思いませんでした。彼は自分の立場や実績によって人々を感動させようと思いませんでした。むしろ、パウロはイエス様のことを宣べ伝えていました。パウロは周りの人々をイエス様の所に導きました。

自分のことに関してパウロは、イエス様が命じた態度を持ちました。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17:10)

だからパウロは自分自身を指しても、基本的にこう言いました。「私は取るに足りないものです。大切な方はイエス様なのです。」

彼は、コリント人たちにこう言いました。

私たちは、この宝(つまり、神の栄光を知る知識)を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(7)

つまり、「私たちはただ宝の器だけです。さらに、私たちは弱くて、壊れやすい器です。」ということです。パウロは進めました。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。また、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(8-11)

要するに、「私たちは弱くて、私たちはもう潰されたはずです。外には、戦いが、内には恐れがありました(7:5)。私たちは途方に暮れたし、迫害され、倒されました。私たちはいつも死の危機に瀕します。私たちがまだ生きている理由は、私たちの偉さではなく、むしろ、私たちのうちにおられるイエス様の偉さです。それに、私たちの試練の中で、イエス様のいのちは私たちの弱いからだを通して輝きます。」

それは私たちのための神様の目的です。神様が望むのは、イエス様が私たちの人生を通して輝くことです。また、その光が私たちの周りの人々の心を照らして、彼らも救われることです(6)。

だからパウロはこう言いました。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。(12)

私たちは自分自身にこう訊くべきです。「私はだれのために、また何のために生きているだろうか。私の動機は何だろうか。」

パウロにとって、その答えは、はっきりしたものでした。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。(13-14)

パウロは、イエス様が私たちのために死んで、よみがえられた確信を持っていました。また、パウロは、神様がパウロだけではなく、そのミニストリーによって、パウロが触れた人々も復活させる確信を持っていました。そういうわけで、パウロは福音を宣言しました。

あなたはどうですか。イエス様があなたのために死んで、よみがえられたことを信じるでしょうか。あなたは、自分だけではなく、イエス様を信じる家族や、友達や、知り合い皆も、復活することを信じるでしょうか。

あなたの人生は、あなたが信じることを現します。私たちは、自分のことを売り込もうと思っているでしょうか。もしくは、私たちは彼らをイエス様に導いているでしょうか。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。もしくは、私たちは神様に栄光を与えようと思っているのでしょうか。

毎日、パウロの態度を持ちましょう。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。(15)

 

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コリント人への手紙第二4:1-6--私たちの役割。神様の役割。

福音を宣べ伝えるとき、多くの人々は相手の反応が気になります。

それは当然のことだと思います。なぜなら、私たちは彼らの救いを望みますから。さらに、私たちは自分が好かれるように望みます。

もちろん一つ目の望みは大切なんだけど、二つ目の望みは二次的なものです。だから、その希望は福音の宣言を阻止してはいけません。

パウロはこう書きました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(1)

「落胆することがありません」と言うと、たぶん、パウロの意味したものは、「人々が福音を拒絶しても、私は落胆しない」ということです。

もちろん、人々が福音を拒絶すると、悲しいことです。さらに、人々が福音のために私たちを退けると、落胆するのはたやすいことです。

でも、パウロはこう言います。

かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(2)

つまり、「福音を宣言すると、私たちは正直にふるまいます。私たちは人をだまそうとするわけではありません。」ということです。

さらに、パウロは「私たちは神のことばを曲げない」と言いました。

「曲げる」という言葉は興味深いものです。普通は、その言葉は、ワインを売る人が自分の商品を水で薄めるという意味でした。

言い換えると、パウロは「私たちは神様の言葉を薄めません。人が福音をもっと簡単に受け入れるため、私たちは福音を絶対変えません。むしろ、私たちは正直にその真理を伝えます。」と言いました。

時々、相手が福音を受け入れるため、また、私たち自身を受け入れるため、私たちは福音のメッセージを変えるように誘惑されます。でもパウロにとって、それはいけないことでした。むしろ、彼は福音をはっきりと伝えました。そして、彼は相手に言いました。「これは福音です。あなたはどうしますか。」

神様は、私たちがそうするように呼びます。人々に信じさせることは私たちの責任ではありません。真理をちゃんと語ることは私たちの責任です。

パウロはこう言います。

それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(3-4)

パウロが意味したものは、もし私たちがちゃんと福音を伝えても、相手が真理が見えない場合、私たちは自分自身を責めなくていいということです。なぜなら、サタン自身は彼らの思いを暗くしましたから。

では、私たちはどうしたらいいでしょうか。私たちはその人を神様の手に委ねるべきです。私たちはそれしかできません。パウロはこうい書いた。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。(6)

世界が造られたときに神様こそが光を暗闇の中ですべてを照らしたように、神様こそが暗闇の中にある人の心を照らすことができます。だからある人が福音を拒絶すると、その人のために祈ってください。それは、私たちの役割です。その結果は、神様の役割です。

だから、相手がもっと簡単に福音を受け入れるために、福音のメッセージを決して曲げないでください。むしろ、その真理をちゃんと語って、その人のために祈りましょう。そして、神様が彼らの心の中で働くことを待ちましょう。そうすれば、神様の御心なら、神様のタイミングで、私たちは実を見るでしょう。

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コリント人への手紙第二3:7-18--どうして私たちは決して恥る必要がない

前回の記事で、このトピックにちょっと触れたけど、今日、そのことをもうちょっと深く考えたいと思います。

モーセはシナイから降りて、十戒を持った時、彼の顔は主の栄光で輝いていました。

最初は、イスラエル人たちが怖がりましたので、モーセは自分の顔に覆いをかけました。でも、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。もしかしたら、モーセはその栄光が消え去ることで恥ずかしかったからかもしれません。つまり、その時自分の罪によって、その栄光が消え去っていることが分かったのです。

その話を通して、私たちは律法の問題を見ました。律法は、神様がどんな方であるか、また私たちに対する神様の意志を現すけど、律法は私たちを変える力を持っていません。私たちはまだ罪深いので、律法で裁かれます。

でも、パウロによれば、私たちの状態は変わりました。私たちがイエス様を信じると、モーセの栄光より優れた栄光を見つけます。どうしてでしょうか。なぜなら、その律法は、石の板や、紙に書き記していませんから。

むしろ、私たちがクリスチャンになると、聖霊様はその律法を私たちの心に書き記しまし、毎日私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。毎日、私たちは栄光から栄光へと変えられています。私たちの栄光は消え去っていません。むしろ、その栄光はだんだん増えていきます。

だから、パウロは私たちにこう言います。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(12-13)

神様が私たちに賜った栄光が消え去ることを心配することはありません。むしろ、私たちがイエス様の同じかたちになるまで、神様が私たちの中で働いていることを確信することが出来ます。その時、私たちは神様の栄光で輝きます。

そういうわけで、パウロは、私たちが自由を持っていると言います。(17)

神様は私たちを罪悪感から自由にしました。

神様は私たちを罰の恐れから自由にしました。

神様は私たちを律法の力から自由にしました。私たちには自分の力で律法を守る必要はもうありません。

モーセはそんな自由を知りませんでした。彼は律法の管轄下にありました。だから、全焼のいけにえを何度もささげても、彼は罪悪感と恥を感じました。(へブル10:2-4)

彼は裁きの苦しみも経験しました。自分の罪のため、彼は神様がイスラエル人に約束した土地に入ることが出来ませんでした。だから、モーセの顔で律法の栄光が消え去りつつあるとき、彼は覆いを外しませんでした。

でも、私たちには、その必要がありません。私たちの覆いを外して、周りの人々に私たちの顔を見せましょう。私たちがどんな人であるかを見せましょう。私たちは恵みによって救われた人々です。私たちは完全な人々ではないけど、毎日、私たちはイエス様と同じかたちに変えられています。

だから、ペテロの言葉を覚えて、生きましょう。

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:6)

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コリント人への手紙第二3:7-18--神様の律法を正しく分かること

多くのクリスチャンたちは、クリスチャン生活をいろんなルールを守るものと見なします。多数のノン・クリスチャンたちも同じ考え方を持っているでしょう。でも、クリスチャンとして、私たちの栄光はルールにあるものではありません。なぜでしょうか。

パウロは、律法に関してこう書きました。

石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。(7-11)

律法が来るのは、本当に栄光のあることでした。なぜなら、律法を通して、私たちは神様がどんな方であるか、また、私たちに対する神様の意志を見ることが出来ますから。律法が来る前、人間たちはそのことを知らなかったけど、律法を通して、その真理は明らかになりました。

でも、律法に関して、問題がありました。律法を完全に守る人が誰もいないので、その律法は私たちの死に至らせました。そういうわけで、その栄光はすぐに消え去りました。モーセの顔でも、その栄光はすぐに消え去りました。

モーセがシナイ山から降りて、十戒を持った時、彼の顔は神様の栄光で輝きました。イスラエル人たちはそれを見て怖がったので、モーセは顔に覆いをかけました。でもパウロによれば、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。もしかしたら、モーセは恥ずかしかったかもしれません。もしかすると、彼がこう思ったかもしれません。「私がもっと清い人なら、その栄光は消え去らないだろう。」

そうだったかもしれません。

私はもう一度言います。律法の問題は、律法を完全に守る人が誰もいないことです。そういうわけで、律法は誰にも命を与えることが出来ません。律法は私たちをキリストと同じかたちに変える力を持っていません。

それでも、多くの人々は、律法を守ると、神様が彼らを受け入れると思います。パウロによれば、彼らが律法を読むと、覆いは彼らの心にかけられます。(14-15)

だから、彼らは律法に関する真理を見ることが出来ません。つまり、律法の栄光がもう消え去ったのです。だから、彼らはまだ、律法が栄光に満ちていると思って、その律法を通して、彼らが神様に受け入れられると思います。そういうわけで、彼らは頑張って律法を守ろうとします。でも実際は、律法は彼らの罪を指摘して、裁きます。

しかし、覆いが取り除けられると、私たちに分かったのは、律法の栄光がなくなったことです。そして、私たちは本当に栄光のある物を探し始めます。それは何でしょうか。それは、御霊の務めです。イエス様の働きによって、聖霊様の務めは始まりました。十字架で、イエス様は私たちの罪の代価を支払いました。

だから、私たちが信仰をもって、自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の主とすると、聖霊様は私たちの心を変え始めます。そして私たちは日々栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられます。

「栄光から栄光へと。」

律法の栄光と違って、御霊の務めの栄光は決して消え去りません。御霊の務めの栄光は律法の栄光より優れたものですから。

だから律法の目的を正しく理解しましょう。律法を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かったし、私たちに対する神様の意志が分かりました。でもその栄光はもう消え去りました。だから、新しい心を持ちたいと思うなら、律法と自分の努力に頼らないでください。

むしろ、毎日、聖霊と歩むことを学びましょう。そうすれば、私たちは周りの人々に天の父の栄光を反映します。

 

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コリント人への手紙第二3章ーーキリストの手紙

私は年寄りなのかもしれません。私は手紙を書くことや、受け取るることをまだ覚えていますから。

私は大学生の時、メールを送ったり受け取ったりしたけど、その時代、メールはまだあまり普及していませんでした。だから、日本に来るとき、私は家族に航空書簡を送りました。(航空書簡を知っている人がまだいるでしょうか。)

今なお友達からの手紙をまだ持っているけど、最近手紙を全然もらっていません。

とにかく、パウロは私たちを「キリストの手紙」と呼びます。パウロはコリント人たちにこう言いました。「私のミニストリーの妥当性を証明するため、あなたたちからの推薦状は要りません。」

むしろ、

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(2-3)

私たちが、すべての人に知られ、また読まれているキリストの手紙であることは、どういう意味でしょうか。

それは、人々が私たちを見ると、私たちはの人生を通して、彼らがイエス様が生きていて、この世で働いていることが分かることです。

なぜなら、私たちを見ると、彼らは、イエス様が私たちの人生の中で働いて、私たちを変えていることを見ることが出来ますから。

モーセの時代、神様は律法を通して、自分がどんな方であるかをユダヤ人たちに現わしました。特に、十戒を通して、神様は自分の性格を現したし、私たちがどのように生きるべきかを現しました。

でも、その石の板は彼らのためにそれしかできませんでした。つまり、その石の板はユダヤ人たちに(また、私たちに)、心を変える力までは与えることができませんでした。

でも、私たちはクリスチャンになると、神様は自分の律法を私たちの心に書き記します。その律法はただ私たちにどのように生きるべきか教えるだけではありません。むしろ、聖霊様が私たちの心を変えています。毎日、聖霊様は私たちにささやきます。「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ書30:21)

そして、聖霊に従うにつれて、私たちは主の栄光を映し始め、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられます。(18)

要するに、私たちはちょとずつ踏み出すと、私たちはますますキリストのようになりつつあるのです。私たちが次の栄光の段階に到達すると、周りの人々は分かります。「イエス様は本当に生きておられます。そのクリスチャンを通してそれが見ることが出来ます。そのクリスチャンを通して、イエス様がどんな方であるか分かります。」

そのように、私たちは彼らへのイエス様の招待状になります。イエス様は彼らに言います。「私の所に来なさい。そうすれば、そのクリスチャンのように、あなたも本当の命を知ります。」

毎日、イエス様の手紙になりましょう。神様が自分の言葉を私たちの心に書きしるして、周りの人々がその栄光を見て、神様を知るように。

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コリント人への手紙第二2:16b-3:6 ーー 私のような人は人々に影響を与えることができるでしょうか。

時々、私たちは前回の記事のような聖書の個所を読んで、「私たちはキリストの香り」とか、「私たちは神様の祭司たち」ということを読みます。でも、それを読むと、私たちは疑問に思います。「どのように私は神様の祭司になることができるだろうか。どのようにキリストの香りを放つことができるだろうか。私は特別な資格を持っていない。神学校に行ったことがないし。私は牧師や宣教師ではないし。私はただ普通のクリスチャンなのに。」

でも実際は、キリストのために人に影響を与える資格を持っている人は誰もいません。あなたは神学校を行ったかもしれないし、ミニストリーの経験をたくさん持っているかもしれないけど、その教育と経験はあなたに人の心を変える力を与えません。神様だけが、人の心を変えることができます。パウロ自身も、そのことを理解していました。

パウロは、私たちが周りの人々にとってキリストの香りだと言った後、こう訊きました。

このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(2:16b)

その答えは当たり前です。その務めにふさわしい人は誰もいません。自分の知恵と力によって、私たちは人々の心を変えることができませんから。私たちはただパウロの模範に従うことができます。

誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(2:17b)

私たちはそれしか何もできません。私たちは神様から与えられた大宣教命令を果たさなくてはなりません。私たちは誠実を持って、周りの人々に話すべきです。なぜなら、神様は私たちを見ています。そして、私たちはその結果を神様の手に委ねます。私たちが自分の役割を果たすと、神様は自分の役割を果たします。

だからパウロはこう書きました。

私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(4-6)

パウロは、はっきり言います。私たち自身には、人に影響を与える資格を持っていません。むしろ、私たちの資格は神様から与えられるものです。私たちが神様に仕えるとき、神様は私たちに必要な資格を与えてくださいます。そういうわけで、私たちは確信を持つことができます。私たちは自分の賜物や能力に頼りません。むしろ、私たちは、その能力と賜物を与えてくださった神に頼ります。神様だけが、最も頑なな心を変えることができます。

その真理を覚えていましょう。私たちは人の心を変えることができないけど、神様はできます。そして、神様が命じたことを忠実にすると、私たちは人々に影響を与えることができます。

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コリント人への手紙第二2:14-16--いのちに至らせる香り、死に至らせる香り

私たちはクリスチャンであるがゆえに、すべての人々から愛されるということにはならないものです。イエス様は完全な人だったけど、彼を嫌う人もいました。どうしてでしょうか。

イエス様から出た香りのためです。

この個所では、パウロは興味深いことを言います。

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(14-16)

パウロの描写では、ローマの将軍が勝利のパレードで自分の軍隊を導くことです。彼らの後ろに祭司たちは香りのある香を道路に撒きました。

勝利をお祝いする人たちにとって、その香りは命と勝利の匂いでした。でも捕虜たちにとって、その香りは自分の死の香りでした。

そのように、私たちは祭司として、私たちの将軍について行って、その十字架の勝利をお祝いします。そして、私たちがキリストを知る知識の香りを放つとき、救われる人にとって、つまり、私たちのメッセージを聞いて信じる人にとって、私たちは最終的な勝利と命の香りです。

でもほかの人たちが私たちのメッセージを聞くと、彼らにとって、私たちは死の匂いです。どうしてでしょうか。私たちは彼らの罪を指摘し、その罪がどこに導くか教えますから。つまり、その罪は地獄に導きます。

彼らはそのメッセージが嫌いです。彼らは自分の罪の悪さを認めたくありません。彼らは自分の罪のために裁かれることを聞きたくありません。だから彼らにとって、イエス様は死から出て死に至らせる香りです。さらに、イエス様が私たちのうちにいるので、私たちからも、同じ香りが出ます。

私は、有名な宣教師ジム・エリオットの言葉が大好きです。

「天のお父様、私が危機に至る人間になるように。つまり、人々が私たちに出会うと、彼らがあなたに関して決断しなくてはならないように。私がただの一つの道路の距離を示す標識にならないように。むしろ、私が分かれ道になるように。人々が私のうちにキリストに出会うと、彼らは神様に近づくか、神様から離れるかの選択をしなくてはならないように。」

あなたはどうですか。人々があなたに出会うと、キリストの香りを匂わせるでしょうか。また、彼らはあなたのうちにいるイエス様に出会うと、イエス様に従うか、イエス様を拒絶するかの選択をしなくてはならないでしょうか。

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コリント人への手紙第二2:5-11--相手が悔い改めると

人々が私たちを傷つけると、恨みを抱くのは簡単なことです。相手が謝っても、私たちはその人を許したくない時もあります。または、私たちは相手を許してあげると言うけど、心の中でその恨みを手放すことを拒みます。相手が私たちの恨みをまだ感じるので、私たちと話すとき、相手はまだ不安を感じます。

教会のリーダーたちが罪を犯すメンバーを訓練するときも、同じようなことが起こるかもしれません。その人が悔い改めても、リーダーたちもほかのメンバーたちも、その人を勘ぐって、ちょっと敬遠します。

もしかしたら、彼らはこう考えるかもしれません。「相手をすぐに受け入れてはいけません。彼らをもう少し悲しませた方がいいです。そして、その人が十分悲しんでいたと思ったら、彼らを受け入れましょう。」

でもパウロはそんな訓練を教えませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。(6-8)

「あの処罰で十分」とは、どういう意味でしょうか。たぶん、パウロの意味したものは、処罰がその目的を果たしたことです。つまり、その人は悔い改めたことです。そして、人が悔い改めると、その人を処罰し続ける必要がありません。むしろ、私たちはその人を許して、慰めるべきです。神様が彼らを赦したと伝えるべきだし、私たちも許したことを伝えるべきです。そして、その人に私たちの愛を確認するべきです。

もちろん、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちがその罪を悲しむように望みます。でも、二つの種類の悲しみがあります。悔い改めに導く悲しみもありますし、死に導く悲しみもあります。悔い改めに導く悲しみは良いことです。でも、私たちがその人を許さないと、相手が悲しみすぎて、死に導くかもしれません。それは神様の望みではなく、むしろサタンの望みです。

サタンの欲望は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりすることです。だから、私たちが相手を許さずに、その人があまりにも悲しむと、私たちは神様と協力せずに、むしろサタンと協力しているでしょう。

あなたはどうですか。誰かがあなたを傷つけたでしょうか。または、教会の中で、ある人がひどい罪を犯したでしょうか。その人は悔い改めたでしょうか。そうすれば、神様と協力して、その人を許して、受け入れましょう。

イエス様の言葉を覚えていてください。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカ6:36)

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コリント人への手紙第二1:23-2:4--兄弟たちと姉妹たちと向き合わないといけないとき

兄弟たちや姉妹たちが罪を犯すとき、その人に向き合うのは、かなり大変なことです。もし「それが楽しい」と思う人がいれば、その人はそうしてはいけないと思います。

でも、その必要があるときもあります。その時、パウロの人生と言葉で私たちは良い原則を見ます。

パウロはこう書きました。

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。(1:24)

人と向き合う時、それはとても大切な態度です。彼らと話すとき、「あなたは私の言葉に従わなくてはいけない」という態度を持つべきではありません。

むしろ、私たちはこのような態度を持つべきです。「あなたのことを愛しています。あなたがこの罪を乗り越えるために私は助けたいのです。あなたが本当の喜びを知って、信仰に固く立つように望みます。」

でも多くの場合、私たちが相手を責める態度をもつので、彼らは私たちの中にイエス様の愛を見ることが出来ません。

でも、パウロの態度は違いました。彼はこう言いました。

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。(2-4)

この言葉には、プライドや傲慢がありません。むしろ、パウロはコリント人たちに対する愛を表しました。

それに、彼らと向き合うとき、パウロは彼らが悔い改める強い希望を持っていました。

時々、私たちは人々と向き合う時、私たちはその希望を持たずに、ただ怒りをぶつけて、彼れらを責めてしまいがちです。パウロの態度は違いました。彼はこう言いました。

あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。(3)

つまり、「その前回の手紙の目的は、私たちは今度会う時に苦しい訪問にならないように。あなたのことを信じているので、そんなことを書きました。私は、あなたたちが悔い改めて、私たちはもう一度一緒に主の喜びを知る希望を持っていました。」ということです。

私たちは人と向き合うと、「あなたらしい」と言わずに、「あなたらしくないよ。正しい道に戻りましょう。」という態度を持つべきです。

最後に、相手と向き合うべきの時もあるけど、神様が相手の心の中で働かせるべきときもあります。パウロが最初コリント人たちに向き合ったとき、彼らは怒っただけでした。パウロはすぐにもう一度向き合おうと思ったけど、結局後回しにしました。どうしてでしょうか。

私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。。。そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。(1:23、2:1-2)

だから、彼はコリントに行かずに、その代わりに手紙を送って、彼らが悔い改めるように願いました。(2:3)

時々、それは一番良い方法です。彼らに愛を伝えるけど、彼らを神様の手に委ねることです。

だから、人と向き合う時、そんな態度を持ちましょう。そして神様の恵みによって、彼らに人生に良い実が結ばれるでしょう。

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コリント人への手紙第二1:18-22--私たちが神様信頼できる理由

試練の時、神様に対する私たちの信仰を失うのは簡単なときがあります。パウロはそんなときがあったでしょうか。特に、彼は非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどのとき、その信仰を失う危機にあったでしょうか。(8)

でも結局、その試練を通して、パウロたちは神様に頼ることを学びました。(9)

どうして、彼らはその信仰を保つことが出来たでしょうか。また、どのように私たちは自分の信仰を保つことが出来るでしょうか。

パウロはこう書いきました。

神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。(18)

その言葉の中で、私の心を打つことの一つは、神様が真実な方であることです。試練の中で振り返ると、私たちはその真理が分かるはずです。でも、私たちの人生だけを振り返らずに、昔のクリスチャンと現代のクリスチャンの人生をも見ると神様の真実さが分かります。さらに、私たちの罪のためにイエス様を送ったとき、神様は自分の約束を守ることで、自分の真実さを証明しました。

パウロは、「私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。」と言いました。

要するに、福音は私たちが頼ることが出来るものです。そのメッセージは決して変わりません。神様は私たちに、「イエスを信じれば、あなたは救われる」と約束したので、天国の門で、急に「やっぱりだめです。私の気が変わりました。入ってはいけません」とは決して言いません。ほかの人は自分の約束を破るかもしれないけど、神様の約束は変わりません。神様は真実な方だから。

だからパウロはこう言いました。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ3:4)

パウロは続けます。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(19-20)

要するに、この常に変わりつつある世界でもイエス様は決して変わりません。言い換えると、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(へブル13:8)

イエス様にあって、神様の約束はすべて確認されていました。イエス様は、良い知らせを宣べ伝え、病気の人を癒し、私たちの罪のために死んだとき、メシアについての預言を満たしました。そして、ある日、イエス様は永遠の国を開始して、残りの預言を満たします。

だから、私たちは神様の他の約束を信じることが出来るのは、なおさらです。つまり、試練の時、神様が私たちと共におられる約束です。また、この試練がただ一時的なことだけという約束です。また、私たちは勝利を得て、その試練から私は金のように、出て来るという約束です。

だから、イエス様に会って、私たちは「アーメン。あなたがそれらのことを約束したので、必ずそれらの約束を守ると信じます。」と言えます。

でもパウロはさらに言います。

私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。(21-22)

神様は私たちに聖霊という油を注ぎました。神様は自分の目的のために私たちを聖別しました。さらに、神様保証の証印を私たちに押しました。その証印を通して、神様は宣言します。「この人は私のものです。私のひとり子の血によって、この人を贖いました。」

そして、聖霊様は神様がすべての約束を守る保証です。

だからどんな試練に直面しても、神様に信頼しましょう。ほかの人々は私たちをがっかりさせるかもしれないけど、神様は真実な方です。

あなたはどうですか。神様に信頼するでしょうか。

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コリント人への手紙第二1:12-2:4--人々が私たちのことを誤解し、責めるとき

この手紙を読むにつれて、パウロとコリント人たちの関係が大変だとはっきり分かるようになります。

コリント人たちはパウロが以前に送った手紙を読んだとき、パウロの言葉に気を悪くしたようです。彼らは、パウロが頼りない人だと思ったようです。さらに、ある人たちは、パウロが二枚舌を使う人だし、彼らを操ろうとしていると言ったようです。その理由の一つはパウロは以前、彼らを訪れると約束したけど、そのプランを土壇場でキャンセルしたことです。

そういうわけで、パウロはなぜそのプランをキャンセルしたか説明しなくてはなりませんでした。主な理由は、あるコリント人たちがパウロのリーダーシップに反対したようです。多くの聖書学者たちは、パウロがコリント人への手紙第一書いた後、彼はコリントの教会を訪問したけど、その時、パウロがコリント人たちを苦しませたと考えています。つまり、パウロは自分に反対したコリント人たちと向き合って、彼らの罪を指摘しなくてはなりませんでした。その結果、パウロとコリント人たちの関係が壊れたようです。

パウロはすぐにコリントの教会に戻るとしたら、もう一つの大喧嘩に至ると分かりました。なぜなら、以前の問題はまだ解決していなかったから。だから、パウロは彼らにもう一つの手紙を書いて、彼らが悔い改めるように訓戒しました。そして結局、多数のコリント人たちは悔い改めました。(7:6-13)

でも、あるコリント人たちはまだ、パウロが頼りなくて、二枚舌を使う人だと責めました。(1:7,7:2)

私たちはどのようにそんな人を扱うでしょうか。私たちを誤解して、私たちに言いがかりをつける人をどのように扱うべきでしょうか。

パウロの模範を見ると、良い方法を見ることが出来ると思います。パウロはこう書きました。

私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(1:12)

一番大切なのは、神様の前に潔白な心を保つことです。自分に反対する人を扱う時、私たちは純真さと誠実を持っていなくてはなりません。

相手が私たちを責めても、私たちを悪く扱っても、私たちは純真と誠実をもって反応するべきです。

私たちがしてはいけないのは、この世の知恵で反応することです。ヤコブはそのような知恵を説明します。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。(ヤコブ3:14-15)

むしろ、私たちは神様の恵みから流れる知恵で彼らを扱うべきです。神様の知恵はどんなものでしょうか。ヤコブはそれも定義しました。

ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。(ヤコブ3:16)

パウロはそのような知恵を振るいました。その結果、多くのコリント人たちはパウロのことを理解しました。

自分にまだ信頼していなかった人たちに、パウロは自分の言葉に隠された意図や、隠された意味がないと主張しました。また、パウロは、彼らがいつかパウロのことを完全に理解するようになる希望を伝えました。(1:13-14)

でも、その日まで、パウロは純真や誠実や、恵みをもって生き続けると言いました。

あなたはどうですか。人々はあなたを誤解して責めるとき、どう反応するでしょうか。パウロのように反応しましょう。純真や誠実や、恵みをもって反応しましょう。

 

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コリント人への手紙第二1:10-11--私たちの祈りの大切さ

私たちの祈りは、本当に効果的なものでしょうか。もしくは、私たちが祈ろうが祈るまいが、神様は自分がしたいことをするのでしょうか。

その疑問に関して、パウロは意見を持っていました。彼はこう言いました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。(10-11)

パウロは、コリント人たちの祈りの効果を信じたので、彼らの祈りを願いました。彼は彼らを励ました。「あなたの祈りには、本当に効果があります。」

どうして神様は私たちの祈りを望むのでしょうか。どうして、多くの場合、神様は行動する前に私たちの祈りを待つのでしょうか。

多分一番大切な理由は、神様が私たちとの関係を望みますから。さらに神様は、私たちが神とともに働く者になるように望みます。

私たちが祈り始めると、特にほかの人々のために祈り始めると、何が起こるでしょうか。

1.私たちは自分自身だけに焦点を当てずに、周りの人々のニーズを見始めます。私たちはそうすれば、神様は喜びます。なぜなら、私たちは神様のようになっているから。では、私たちの祈りによって、神様が人々の人生に働く可能性は高くなるでしょうか。聖書は、そんなことを教えるようです。例えば、ヤコブはこう書きました。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。(2)

イエス様自身はこう言いました。

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:24)

2.神様が私たちから何を望むか分かるようになります。私たちが祈るにつれて、神様は私たちの心にどのように周りの人々に触れることが出来るかささやきます。

大変な日の終わりに、イエス様の弟子たちはイエス様にこう言いました。「群衆を帰らせてください。もう遅くて、彼らはお腹が空いたでしょう。」

多分、彼らは主に群衆のニーズを考えていなかったでしょう。彼らはずっと群衆たちに仕えていたので、もう休みたいと思ったのでしょう。でも、イエス様は彼らに「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」と言いました。(マタイ4:16)

彼らはパンと魚を持っている少年を見つけて、その食べ物をイエス様に持ってきました。そしてイエス様は素晴らしい奇跡を行いました。

そのように、私たちが人のニーズを見て、祈り始めれば、イエス様は私たちにどのようにイエス様の仕事に参加できるか教えます。

3.神様はその祈りを応えるので、私たちは神様の良さが分かるようになります。そういうわけで、私はさらに祈るように励まされます。

4.あなただけではなく、ほかの人も神様の良さを見て、励まされます。パウロはこう言いました。

そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。(11b)

だから、祈りの大切さを疑わないでください。そして、神様の仕事に参加して、周りの人々のために祈りましょう。

神様は、あなたが誰のために祈るように望むでしょうか。

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コリント人への手紙第二1:6-7--自分のことに焦点を当てないこと

この個所を読むと私は、パウロがキリストの模範に従っていたことに気づきました。

もし、イエス様はただ快適な生活を送ることに関心があったとしたら、この世に来なかったでしょう。彼は飼葉おけに寝ていなかったでしょう。彼は貧しい大工の家で成長していなかったでしょう。枕する所もない日を経験しなかったでしょう。彼は十字架に行かなったでしょう。でも、イエス様はそのすべてを経験しました。どうしてでしょうか。

それは私たちの慰めと救いのためです。私たちの罪のゆえ、また、この世の悪の故、私たちは惨めでした。さらに、私たちは破滅への道を歩んでいました。イエス様はそれを見て、天国の楽な生活を捨てて、私たちのために苦しみました。

パウロはイエス様の模範を見て、従いました。コリント人たちやほかの人々のためにパウロは遭難や、禁固や、飢えや迫害を経験しました。なぜでしょうか。パウロは自分の楽な人生に焦点を当てませんでしたから。むしろ、彼は周りの人々の苦しみとニーズを見ました。

パウロは慰めを受けたときにも、彼はただ自分のことに焦点を当てませんでした。むしろ、パウロの希望は、コリント人たちがパウロの経験を見ると、励まされることです。つまり、彼らはこの世の試練は大変だけど、一時的なものだと分かるようになることです。なぜなら、パウロも安心と神様の喜びを知りましたから。だからコリント人たちは自分の試練の中で、自分たちが結局慰められる希望を持っていたでしょう。そして、その希望によって、彼らは耐える勇気を持ったでしょう。

自己中心になることは簡単なことです。神様の愛をスポンジのように吸収して、楽な人生を望むことは簡単なことです。

でも、神様は、私たちがそんな態度を取るのを望みません。むしろ、神様は、私たちがイエス様の模範に従い、私たちが苦しまなくてはならなくても、自分の楽な人生を捨て、周りの人々の救いのために働くように望みます。

でも、私たちがイエス様の目を持たないと、私たちは決してそんなことをしないでしょう。イエス様は周りの人々の苦しみを見ました。だから彼は十字架に行きました。あなたはイエス様の目を持っているでしょうか。

イエス様、私はしばしば自分勝手な生活を送ります。私はただ自分の快適な人生や、満足のために生きます。赦してください。私の回りでは、たくさんの人々は苦しんでいます。彼らは、あなたを必要とします。私があなたの目で彼らを見るように助けてください。私は彼らの心を見極めるように助けてください。彼らのニーズを見るように助けてください。あなたの憐れみ深い心を私に与えてください。あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神、あなたの憐れみや慰めが私を通して周りの人々に流れるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

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コリント人への手紙第二1:3-5ーースポンジではなく、パイプラインになるように呼ばれること

クリスチャンになると、一つの益は、神様からの祝福です。その祝福の一つは、試練の中の神様の慰めです。

でも、私たちがスポンジになるのは、簡単なことです。私たちは神様からの愛と慰めを吸収します。もちろん、私たちには、神様の愛と慰めが必要なときもあります。でも、神様は、私たちがただのスポンジになるのを望みません。むしろ、神様は、私たちが周りの人々に対して祝福のパイプラインになるように望みます。

パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。(3-4)

神様が私たちを慰める目的の一つは、私たちが受けた慰めを周りの苦しんでいる人々に与えることです。

だからパウロはこう言いました。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(5)

ある意味、イエス様の苦しみは、私たちの人生に注がれました。もちろん私たちは自分の罪のために支払っていません。イエス様はその代価をもう支払いましたから。でも、私たちがイエス様のために苦しむときもあります。私たちは迫害されるときもあります。私たちは試練に直面するときもあります。

でもその苦しみや試練を通して、神様は自分の御国を拡げるし、私たちの性格を形成します。だからペテロはこう言いました。

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(第一ペテロ1:7)

だから、イエス様の苦しみは私たちの人生に注がれるかもしれないけど、イエス様の慰めも私たちの人生に注がれます。さらに、その慰めは私たちの人生からほかの人に溢れ出し始めます。

神様はただ私たちを慰めで満たしたいと思いません。むしろ、神様は、その慰めが、私たちの人生から周りの苦しんでいる人々に溢れ出すように望みます。

残念なことですけど、多くの人は、神様からの愛と慰めを吸収するけど、周りの人々のニーズを決して見ません。でも、私たちが見回してみると、私たちと同じような苦しみを経験している人を見つけます。そして、神様は、私たちが自分の経験を彼らに教えて、希望を与えるように望みます。私たちは彼らにこう言えます。「私には分かります。私も同じ経験をしました。神様はきっとあなたを助けてくださいます。」

そして、私たちは神様の愛と慰めを彼らの人生に注ぎます。

あなたはどうですか。あなたはただのスポンジですか。あなたは神様の愛を吸収しているばかりでしょうか。もしくは、あなたは周りの人々に対する神様の祝福のパイプラインでしょうか。

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コリント人への手紙第二1:1-10ーー試練の中の慰め

これは、聖書の中で、私は最も好きな個所の一つです。パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(3-5)

私たちの試練と苦しみの時、私たちは、神様が私たちのことを愛しているかどうか疑問に思うことがあります。でも、パウロによれば、神様は「あわれみ深い父」です。

要するに、私たちのトラブルを見ると、神様は無関心ではありません。むしろ、神様は憐れみに満ちる心をもって、私たちのことを考えます。

イエス様は、苦しんでいるイスラエル人たちを見たとき、そんな心を持っていました。何回も福音書の著者たちは「イエスは深くあわれみ。。。」と書きました。その点では、イエス様は天の父の性格を完全に反映しました。

でも、パウロはもう一つのことを言いました。パウロによれば、神様は「あらゆる慰めに満ちた神」です。神様は私たちに対する憐れみを感じるだけではなく、御手を伸ばして私たちに触れてくださいます。

ある日、ツァラアトのある人はイエス様のもとに来ました。(マタイ8)

イエス様は深く憐れみ、手を伸ばしてその人に触れました。たぶんその人は何年も人に触れられていなかったでしょう。なぜなら、周りの人々はその病気にかかりたくないと思ったから。でもイエス様が触れたことによって、その人は慰められたし、癒されました。

そして、パウロによれば、私たちの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれています。(5)

パウロは自分の経験によって話しました。彼は自分の力で耐えられない痛烈な苦しみを経験しました。

私たちはよく聞きます。「神様は私たちに耐えられない試練を許しません。」

ある程度まで、その言葉は正しいけど、実は、その言葉は不完全です。神様は私たちが自分の力で耐えられない試練を許します。私たちは「耐えられないほどの圧迫を受ける」ときもあるかもしれません。私たちは「生きる望みさえ失うほどの圧迫を受けるかもしれません。」(8)

どうして、神様はそんな試練を許すでしょうか。

パウロは説明します。

それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(9)

要するに、私たちが自分の力でこの人生を送ることが出来ないことを学ぶように、神様はこんな試練を許すことです。でも、私たちは神様に頼るなら、神様が死者をよみがえらせるほどに力強い方と分かるようになります。そして、神様は自分の恵みによって、私たちを絶望の落とし穴から引き揚げて、新しい希望と命を与えてくださいます。

神様はパウロにこう言いました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(第二コリント12:9)

だから、私たちはその試練を通過して、振り返ると、神様が私たちと共におられていたことが分かります。だから未来の試練に直面すると、私たちは、その同じ神が私たちをもう一度救ってくださる希望を持つことが出来ます。パウロはそう学んで、確信を持って、こう言いました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうですか。果てしのない試練に直面しているのでしょうか。あなたはもう耐えられないと思うでしょうか。神様があなたを愛して、あなたを見捨てないことを覚えていてください。だから自分の力に頼らず、神様の力に頼ってください。そうすれば、神様の恵みによって、あなたはその試練を通過します。

 

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コリント人への手紙第一16:22-23ーー主よ、来てください

この世とその悪を見ると、失望するのは簡単なことです。でもクリスチャンとして、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

パウロはこう書きました。

主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(22-23)

その最初の言葉はちょっと厳しいですけど、その言葉は現実です。主を愛さない人は、呪われている。彼らは神様の律法に違反したし、救いの方法、つまり、イエス様を拒絶しました。イエス様を呪うことさえする人もいます。(第一コリント12:3)

でもイエス様を愛している私たちのために、イエス様は呪われました。パウロはこう書きました。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)

イエス様は十字架で、私たちの罪の代価を支払って、律法の要求を満たしました。でもそれだけではなく、イエス様は復活して、死を破りました。

イエス様は生きておられるので、私たちも永遠に生き続ける確信を持っています。(ヨハネ14:12)

イエス様がこの世に来る日、私たちはたちまちキリストに似た者となります。すべての涙は私たちの目からぬぐい取られます。また、すべての悲しみはなくなります。

だから、パウロのように私たち皆は、「マラナタ」、つまり、「イエス様、来てください」と叫びます。

でも、私たちはもう一つの希望を持っています。それは、イエス様が来る日まで、イエス様は私たちに恵みを与えてくださることです。私たちが罪を犯しても、失敗しても、毎日イエス様は私たちのためにとりなしてくださいます。試練に直面するとき、イエス様は私たちに力を与えてくださいます。そしてイエス様は、私たちの間で良い働きを始めたことを完成させてくださいます。(ピリピ1:6)

だからあなたがどんな状況でも、希望を失わないでください。むしろ毎日、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいましょう。イエス様にあって、私たちは希望と命を持っているから。

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コリント人への手紙第一16:13-14--男らしくふるまること

新改訳2017を見ると、あなたは気づかないかもしれないけど、パウロはもちろんコリント人たちの皆に話しているけど、たぶん、特に男性たちに話していると思います。

彼はこう言いました。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。(13-14)

以前の新改訳はその箇所をより文字通りに翻訳しました。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。(13)

その言葉は、ソロモンに対するダビデの言葉に似ています。

私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。(列王記第一2:2)

「男らしくありなさい」とは、新改訳2017の通りに、「雄々しくありなさい」という意味です。でも多分、パウロは13-14節のことを全部含めているでしょう。

1.目を覚ましていなさい。どうして私たちはそうするべきでしょうか。なぜなら、サタンと悪霊は私たちを攻撃したいから。また、私たちを迫害しようと思う人もいます。さらに、教会では悪いことを教える人も現れます。私たちは霊的な戦いに入っています。教会の中でも外でも、私たちは敵と向き合います。そういうわけで、私たちは目を覚まさなくてはいけません。

2.堅く信仰に立ちなさい。嵐が来るとき、試練やトラブルが来るとき、あなたの信仰が揺るがないように。躓かないように。むしろ、堅く立ちなさい。

3.強くありなさい。自分の力に頼らず、主の力に頼りなさい。そして、敵と向き合う時、神様があなたと共におられることを覚えていて、雄々しくありなさい。

4.一切のことを、愛をもって行いなさい。自分の傲慢やプライドをもって、行ってはいけません。勢力や尊敬を得るためではなく、むしろ、愛をもって行いなさい。

女性たちもそのようにふるまうべきでしょうか。もちろんそうです。でも男性たちは、男らしくふるまいたいと思うなら、私たちはそんな生活を送らなくてはいけません。

男性たち。あなたは男性らしくふるまっているでしょうか。

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コリント人への手紙第一16:15-18ーー周りの人達の心を安らがせること

人々に仕えることについて考えると、私は普通に、神様からの仕事を果たすことだけについて考えます。もちろんそれは大切です。パウロはこう書きました。

兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。ご存じのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。あなたがたも、このような人たちに、また、ともに働き、労苦しているすべての人たちに従いなさい。(15-16)

パウロはステファナとその家族の奉仕を認めました。そして、パウロはコリント人たちがそのような人に従うべきと言いました。なぜなら、ステファナたちは奉仕するだけではなく、その仕事するのに苦労していましたから。

奉仕はとても大変な仕事です。もちろん、その仕事を果たすのに、神様は私たちに霊的な賜物を与えてくださいます。それでも、その仕事をちゃんとするために、私たちは時間と努力を込めなくてはなりません。ステファナはそんな人でした。

でもパウロは続けました。

ステファナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。(17-18)

どれぐらい私たちは相手の心を安らがせる大切さを考えるでしょうか。

あるクリスチャンたちは勤勉に奉仕します。彼らはその仕事がうまくできるかもしれません。

でも彼らの所から立ち去ると、ほかの人々は安がらせられなく、逆に疲れてしまいます。どうしてでしょうか。その主の仕事をしている人は、傲慢で短気だし、いつも相手を批判したり、見下したりするから。

でもステファナたちはそのような人ではありませんでした。ステファナたちの所から立ち去る人たちはいつも安がらせられました。私たちはステファナたちのような人々になるべきです。

あなたはどうですか。ほかの人々はあなたをどう思うでしょうか。あなたに会った後、彼らは疲れたでしょうか。あなたの態度のせいで、彼らはあなたを避けたいと思うでしょうか。もしくは、彼らはあなたに魅了されているでしょうか。あなたの素敵な奉仕のためではなく、あなたはいつも彼らを安がらせるから。

神様の愛が私たちを通して流れて人々を安らがせるように。

ソロモンはこう書きました。

おおらかな人は豊かにされ、 他人を潤す人は自分も潤される。(震源11:25)

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コリント人への手紙第一16:1-4--献金をあげるとき

教会を訪れたとき、パウロは、しばしばエルサレムの貧しいクリスチャンたちのために献金を集めました。

その献金に関するパウロの指示では、私たちは献金を捧げるいくつかの原則を見ることが出きます。

一つ目は、自分の収入に応じて捧げることです。あなたよりお金を儲ける人と同じ金額を与える必要はありません。神様はあなたの収入や、どれぐらい与えることが出来るかご存じです。神様にとって、大切なのは金額ではなく、あなたの心です。(ルカ21:1-4)

二つ目は、意図的に与えることです。それはどういう意味でしょうか。

要するに、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心から与えるべきです。(第二コリント9:7)

また、最初から、どれぐらい与えたいと思うか決めるべきです。言い換えると、自分の予算には献金のカテゴリーを入れるべきです。

このように思わないでください。「私がほかの費用を支払った後、もし残り物があれば、その残り物の部分を与えましょう。」

むしろ予算を作るとき、どれぐらい献金するかを決めてください。そして必要があれば、自分が決めた献金を捧げるため、ほかの費用を減らしてください。

パウロの言葉で、私たちはその原則を見ることが出来ます。

私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。(2)

でも、あなたの教会がちゃんと財務的な説明責任を持つことを確認してください。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。(3-4)

パウロの意図は、お金に関して説明責任があったし、お金を扱う人は頼もしい人だったことです。

神様は私たちにお金を託しました。だからお金をそのように思って、お金の使い方を通して神様に栄光を与えましょう。

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コリント人への手紙第一15:58ーー私たちは希望を持っているから

「私たちの人生は楽だ」と主張する人など誰もいません。

パウロはそう主張しませんでした。彼は石打ちされたり、迫害されたり、禁固されたり、海を漂流たりしたことがありました。

どうしてそんな試練に直面したのに、パウロは頑張ることが出来たでしょうか。なぜなら、パウロは希望を持っていましたから。

パウロはコリント人たちにこう言いました。

死者が決してよみがえらないのなら。。。なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(29-32)

でも復活があります。ある日、私たちが復活すると、新しい体が朽ちないもの、また、死なないものになります。だからパウロは私たちを励まします。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(58)

この世には、私たたちがいろんなことに動揺するのは簡単でしょう。私たちのトラブルや、試練や、心配に動揺してしまいます。だから私たちは、クリスチャンとして生活し続ける甲斐がないと思うかもしれません。また、主に仕え続ける甲斐がないと思うかもしれません。

でも、パウロは、私たちが人生の嵐に動揺しないように促します。むしろ、パウロは、私たちが神様に従い続けるように促します。どうしてでしょうか。

なぜなら、結局、私たちの努力に甲斐があったと分かるから。そして、ある日、私たちがイエス様のもとに来ると、イエス様は微笑んで私たちに「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言います。

イエス様のみ顔を見ると、私たちの試練やトラブルが「軽い患難」だと分かります。また、私たちの「重い永遠の栄光」と比べると、そのトラブルは何でもないものだと分かります。

私は、リビングバイブルが詩篇17:15の訳が好きです。

私は天で目覚めるとき、
この上ない満足感にひたるでしょう。
神の御顔をじかに見るからです。

だから失望するとき、トラブルのゆえに気が重い時、この歌の歌詞を覚えていてください。

Turn your eyes upon Jesus.
あなたの目をイエス様に向けてください。
Look full in his wonderful face.
イエス様の素晴らしい顔を見つめてください。
And the things of earth will grow strangely dim in the light of his glory and grace.
そうすると、この世のものは、イエス様の栄光と光にかすかなものに見えます。

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コリント人への手紙第一15:51-57--最終の勝利

私はこの個所が大好きです。この個所を覚えていた方がいいと思うけど、まだできていません。

これはパウロの勝利の叫びです。

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(54)

もしかしたら、パウロは預言者イザヤの言葉を引用したのかもしれません。

(主は)永久に死を吞み込まれる。(イザヤ書25:8)

そしてパウロは叫びました。

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(55)

パウロは興味深い個所を引用しました。その言葉はホセア書13:14からです。この個所を翻訳するのはちょっと難しいです。新改訳はある英語の聖書と同じく、その個所をこのように翻訳します。「私はよみの力から彼ら(つまり、イスラエル人たち)を贖い出し、死から贖う。」

でも、ある英語の聖書では、別の翻訳と解釈があります。それは、「わたしは、よにの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖うでしょうか。そうしません。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。私たちの民を殺せ。よみよ。お前の針はどこにあるのか。私たちの民を刺せ。」

つまり、神様はイスラエル人たちを自分の罪のために裁いていたことです。彼らは神様に不忠実だったので、彼らは裁かれました。

でもパウロはこう言っています。「神様はその言葉を通して、人々を自分の罪のために裁いたけど、今や、神様はその同じ言葉を用いて、人々を支配していた罪と死に対する勝利を宣言します。」

パウロは続けます。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(56)

とげというのは、バラのとげのようではなく、蜂の針や、サソリの針のようなものです。また、突き棒という意味もあります。だから罪は、サソリの毒を持つ針のように私たちを刺して、その結果は死でした。また、突き棒のように、罪は私たちを破壊に突きました。

パウロによれば、罪の力は神様の律法です。なぜなら、私たちはその律法を完全に守ることができませんでしたから。私たちは律法を知っていたけど、私たちの罪深い心のゆえにその律法を破って、罪を犯しました。だから私たちは神様の裁きを受けるべきでした。(ローマ書7章)

でもイエス様はこの世に来た時、私たちの代わりに律法を完全に守りました。それだけではなく、十字架でイエス様は私たちの罪のために死んでくださいました。だから私たちはもはや律法の管轄したにありません。むしろ、私たちは恵みの管轄下にあります。そういうわけで、律法は私たちに対する力を持っていません。そして、律法が私たちに対する力を持っていないなら、罪も私たちに対する力を持っていません。

簡単に言うと、罪のとげは取り除かれました。

だから、パウロは喜びを持って宣言します。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(57)

では、私たちには、どんな意味合いがあるでしょうか。私たちは神様の裁きをもう恐れる必要がないので、死をもう恐れなくていいのです。神様は私たちを呪おうと思いません。むしろ、ある日、神様は私たちに新しいからだを与えるので、私たちは永遠に神様に栄光を与えることができます。また永遠に私たちが受けた恵みを喜ぶことができます。

あなたはどうですか。死を恐れるでしょうか。もしくは、あなたはパウロと共にこう歌うことができるでしょうか。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

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コリント人への手紙第一15:35-55--私たちがイエス様をぼんやりと反映するけど

私はこの個所を思案すればするほど、私たちがどんなものになるかに感動します。

私たちの体は朽ちないものになります。また、死なないものになります。私たちの体は病気にならないし、怪我しません。

さらに、パウロはこう言いました。

私たちは、土で造られた人(アダム)のかたちを持っていたように、天に属する方(イエス様)のかたちも持つことになるのです。(49)

パウロによれば、私たちの新しい体はイエス様のかたちを持つことになります。そして、イエス様が神様のかたちであるので(コロサイ1:15)、今よりも私たちは神様のかたちを持つことになります。

アダムの子孫として、私たち皆はアダムの欠点を持っています。嫉妬。欺瞞。苦々しい思い。怒り。憎み。罪。それらのものによって、私たちにある神様の似姿はゆがんでいます。だから、私たちが今持っている体は、神様をぼんやりと反映します。でも新しい体を受けると、私たちは天使よりも、神様の似姿をさらに反映します。

だからヨハネはこう言いました。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

でも、私たちの持っている体を軽蔑しないでください。

パウロはこう書きました。

また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。(40-41)

つまり、神様が造ったものは、それぞれの輝きを持っていることです。

私たちの体は、不完全なものでも、朽ちるべきものでも、自分の輝きを持っています。

目のことをちょっと考えてみてください。いろんな部分は一緒に働いているので、私たちは見ることが出来ます。

私たちの耳も素敵なデザインをもっているので、私たちは聞くことが出来ます。

どのように私の脳が私の指と働くかを考えてみてください。私は何かを考える瞬間、私の指はキーボードを打ちます。

私たちはそんなことが当然なことだと思うけど、実はそれはとても不思議なことです。

もちろん、私たちの体は不完全なものです。でも、私たちを変えるのに、神様は私たちが新しい体を受ける日まで待っていません。

むしろ、パウロはこう言います。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリント3:18)

だから、私たちの将来の体だけを喜ばないでください。今の体の輝きをも考えてください。今でも、ぼんやりと反映しても、私たちの体は神様の栄光を反映します。だから周りの人々にその栄光を反映するように努めましょう。

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コリント人への手紙第一15:35-55--私たちは何になるか

数年前、私は60代の生徒たちと、新聞の記事について話しました。研究者によれば、60ー65歳は、現代の中年になってきました。なぜなら、人間の寿命は増えていますから。

私は、彼らが何歳まで生き続けたいと思うか訊きました。彼らは75ー80歳までだと答えました。私はその意見が理解できます。その年ごろ、私たちの健康は本当に悪くなり始めます。それを特に経験したくないと思います。

それよりも、神様が与えてくださる新しい体を持ちたいと思います。この個所では、パウロはその体について話します。

あるコリント人のクリスチャンたちはパウロに訊きました。「私たちは復活すると、どんな体を持つのでしょうか。」

パウロは、私たちの現在の体を蒔かれた種に例えます。その蒔かれた種は、成長した木と全然違います。

そのように、私たちの埋められた死体は、私たちの新しい体と全然違います。その新しい体はどのように違うでしょうか。

パウロは説明します。

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(42-44)

私たちの現在の体は年を取りつつあり、結局死にます。でも、私たちの新しい体は決して死にません。私たちが死んだ後、死体は埋められて、腐敗します。でも、新しい体は栄光あるものによみがえらされます。私の現在の体は病気になったり、結局弱くなったりするけど、私たちの新しい体は健やかで、決して病気にならないし、弱くなりません。

私の父のことを考えます。彼は8年前に亡くなりました。事故のせいで、彼は失明しました。最後の数ヶ月は、彼はほとんど歩くことができませんでした。彼は糖尿病があったし、心臓も弱かったのです。最後の数日、彼は話すこともできませんでした。彼ができることは、ただベッドに寝ることだけでした。

父の状態を見るのは苦しいものでした。でも今、父はその弱い体から解放されました。そしてイエス様がこの世に戻ると、最後のラッパの響きのうちに、私の父は新しい体を得て、空中でイエス様と会います。その日、私も新しい体を得て、イエス様と私の父と会います。この世のすべては新しくなって、皆がこの歌を歌います。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

その日を待ちきれません。

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コリント人への手紙第一15:1-34ーーイエス様の復活の大切さ

英会話の学校で教えた時、ある日、私は隣の教室の会話を耳にしました。ある先生とその生徒たちはイースターについて話しました。

生徒:「イースター」とは、何ですか。

先生:クリスチャンたちは、その日にイエス・キリストが復活したことを信じています。

生徒:(しーん)

もしかしたら、生徒たちは先生にぽかんと見たので、先生は続けました。「私はそれを信じていません。クリスチャンたちはそう信じています。」

私は子供の時からクリスチャンなので、イエス様の復活を当然なことだと思います。でも考えてみれば、それは本当に不思議な教会の教えです。また、それは本当に信じ難いことです。

もしかしたら、あなたはこう訊くかもしれません。「クリスチャンたちにとって、イエス様の復活を信じるのは、そんなに大切なのでしょうか。人々にイエス様の教えや、十字架の働きだけを伝えてもいいんじゃないですか。」

コリント人たちのクリスチャンたちも同じ疑問を訊きました。実は、あるコリント人たちはイエス様の復活を否定し始めたようです。

だから、パウロは復活の真実さを激しく議論しました。彼はこう言いました。

ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。(14)

どうしてパウロはそう言ったのでしょうか。なぜ、イエス様がよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教と信仰が空しいものとなるでしょうか。パウロは説明します。

そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。(17-18)

どうしてイエス様の復活はそんなに大切なのでしょうか。イエス様の復活を通して、神様はイエス様の十字架の働きを受け入れたことを証明しました。その復活を通して、神様は私たちに言います。「イエスの十字架の働きによって、あなたは赦されました。」

でも、イエス様がまだ死んでいるとしたら、神様がイエス様の十字架の働きを受け入れていないことを意味します。私たちが死ぬと、地獄に行きます。それなら、「私たちはすべての人の中で一番哀れなものです。」(19)

なぜなら、私たちが救われたと思うけど、地獄に行ってしまうから。私たちの希望はむなしいものになるのです。

さらに、パウロや、ほかのクリスチャンたちはイエス様のために迫害されて、苦しんでいたけど、イエス様がよみがえられなかったとしたら、その苦しみはむなしいものです。彼らは神様から報いを得られません。(32)

だから、私たちは自分自身のために生きた方がいいでしょう。そこでパウロはこう言いました。

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(32)

でもイエス様は実際に蘇られました。神様はイエス様の十字架の働きを受け入れました。だから、イエス様を信じると、私たちもいつかイエス様と共に復活します。さらに、イエス様がこの世に戻り、すべてを新しくする希望を持っています。イエス様がすべての人を治めて、死をも治めます。(20-27)

だからこの世ではイエス様のために苦しんでも、死んでも、私たちは報いをくださる確信を持っています。

どうして、復活はそんなに大切なんでしょうか。なぜなら、復活は私たちの希望の基礎です。復活がないとしたら、私たちは希望を持っていません。でも、復活によって、私たちは人に奪われない希望と喜びを持っています。

あなたはそんな希望を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一15:8-10ーー無駄な恵みではない

あなたは自分自身をどんな人物と思いますか。

パウロはどのように自分自身を見なしたか、とても興味深いです。彼はクリスチャンになると、自分の名前を「サウロ」から「パウロ」に変えました。パウロとは、「小さい」という意味です。

彼は「へブル人の中のへブル人」でした。彼はかつてパリサイ人でした。クリスチャンになる前、彼らは自分の立場と履歴を誇りました。でもイエス様に出会うと、彼は謙遜になりました。彼は神様に仕えていたと思ったけど、実は、彼は神様を迫害していたことが分かるようになりました。パウロは、自分が正しい人ではなく、むしろ殺人者であることが分かりました。

この個所では、パウロは自分自身を「月足らずで生まれた者のような人」と呼びました。つまり、彼は死産児のようでした。

彼の過去のゆえに、パウロは自分自身を「使徒の中では最も小さい者」と呼びました。また、「私は使徒と呼ばれるに値しない者」だと言いました。

あなたは、自分自身について同じような意見を持っているかもしれません。あなたは、自分自身を取るに足りない人と見なすかもしれません。あなたが生まれなければ良かったのに、と思うかもしれません。

でもパウロは続けました。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず。。。(10)

パウロが意味したものは何でしょうか。

パウロの過去にもかかわらず、神様は彼を受け入れたし、神様の恵みによって彼は変わりつつあることです。神様はパウロのことを決してあきらめませんでした。

私たちはその真理を覚えていなくてはなりません。あなたの過去にもかかわらず、また、あなたの現在の状態にもかかわらず、神様はあなたをありのままで受け入れます。あなたの罪と失敗にも関わらず、神様はあなたを受け入れます。それに、神様はあなたを罪深い状態に放置しません。むしろ、神様はあなたの罪を清め、神様の計画に応じて、あなたを形成し続けます。

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。感謝と謙遜をもって反応するべきです。

パウロはこう書きました。

私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。(10)

パウロの感謝のゆえに、彼は心を尽くして神様に仕えたいと思いました。それでも、パウロは自分の業績を自慢しませんでした。パウロは、神様がパウロを用いることを選ぶことがパウロに対する恵みと分かりました。神様には、パウロを用いる必要がありませんでした。パウロは汚く、壊れた器だったけど、神様は自分の栄光のために彼を用いました。

あなたはどうですか。自分自身をどのように見なすでしょうか。パウロはのように、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず」と言えるでしょうか。

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コリント人への手紙第一15:1-11--一番大切なこと

この個所がこの手紙の最も大切なところだと思います。なぜなら、この言葉は私たちの信仰の基礎ですから。パウロはこう書きました。

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。。。とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。(1-5,11)

福音は何でしょうか。

1.イエス様が私たちの罪のために死んだことです。

2.イエス様が葬られたことです。

3.イエス様が三日目に蘇られたことです。

そして、その出来事は、神様の預言者の言葉に応じて起こりました。特に、イザヤ書53章で、その預言を見ることが出来るけど、ほかの個所でも、いろんなイエス様に関する預言を見ることが出来ます。

パウロにとって、そのメッセージは最も大切なメッセージでした。どうしてでしょうか。

あなたが。。。この福音によって救われます。(2)

もし、人が、自分の罪から救われて、永遠の命を持ちたいと思うなら、その三つのことを信じなくてはなりません。ほかの方法は一切ないのです。

もし私たちの良い行動によって私たちが救われたら、パウロにとっては、神様の律法が最も大切なことだったでしょう。

もし永遠の命がないなら、パウロにとっては、最も大切なことが私たちがどのようにこの人生を送るかということだったでしょう。

でも永遠の命はあります。そして、永遠への道はイエス様の十字架です。天の父はイエス様の十字架の働きを受け入れました。その証拠に、神様はイエス様を復活させました。

だから、パウロはその真理が一番大切なことだと思いました。パウロはどこに行っても、だれと話しても、そのメッセージを伝えました。

あなたはどうですか。あなたにとっては、福音は一番大切なことでしょうか。周りの人々にその福音を伝えるほどに、福音を大切にするでしょうか。福音を本当に信じるなら、私たちは周りの人々にそのメッセージを伝えるはずです。

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コリント人への手紙第一14:26-40--教会を成長させること

この個所では、パウロはどのように教会の礼拝をおこなうべきか教えます。パウロにとって大切なのは、コリント人たち(また、私たち)が、教会の礼拝を秩序正しく行うことです。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。(27-28)

どうして異言するとき、解き明かす人が必要だったでしょうか。なぜなら、そんな人がいないと、その異言はクリスチャンたちを成長させないから。

また、パウロは預言に関して、こう言いました。

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。(29)

彼らはどのように預言を吟味したでしょうか。三つの方法があります。

一つ目は、聖書です。神様は決して自分の言葉に反対しないので、預言が聖書に反対するなら、その言葉は神様からではありません。

二つ目は、聖霊様が人々の心にその預言が神様からであることを確認することです。

三つ目は、その預言が将来についての言葉であれば、その言葉が成就するかどうか見て見ることです。

そして、異言するときのように、預言するとき、人々は順番に話すべきです。もしたくさんの人が同時に預言しようとするなら、混乱に陥るから。

そして、パウロはちょっと奇妙なことを言いました。

女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。(34)

その個所に関して、いろんな解釈があるけど、パウロは、すべての女性たちが教会で全く沈黙してなくてはいけないと言ったわけではありません。なぜなら、11章では、パウロは、女性たちが祈ったり、預言したりすることについて話しますから。また、女性が黙る指示を説明するとき、パウロは説教に関する女性たちの質問について話します。

現代では、教会で牧師が説教するとき、皆は静かに聞きます。でも、たぶん、コリント人たちの女性たちはそうしなかったでしょう。ある聖書学者たちは、ユダヤ人の会堂の礼拝のように、コリント人たちの女性たちと男性たちは違うところに座ったと考えています。だから、女性たちがご主人に何かを聞きたいと思ったら、大きな声で質問しなければなりませんでした。でもそうすると、教会の礼拝の邪魔になりました。

その説が正しいかどうかわかりませんけど、女性たちは教会の礼拝の邪魔になったらしいので、パウロはこう言いました。

もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。(35)

でもパウロは決して、女性たちが預言することとか、祈ることを禁止しません。

むしろ、パウロはこう言いました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(26)

つまり、教会の皆は教会を成長させるものを持っていくべきということです。

では、私たちはこの個所からの何を学ぶことが出来るでしょうか。

コリント人たちの教会では、訳されない異言で話したので、教会の礼拝の邪魔になりました。

ほかの人々は順番に話していなかったので、教会で混乱を起こしました。

説教の時、ある人は大きな声で質問したので、その説教の邪魔になりました。

その結果は?彼らは教会の成長を阻止しました。

あなたはそんなことをしないかもしれないけど、あなたは違う方法で教会の成長を阻止するでしょうか。

人の問題のために祈らず、その問題について噂を触れ回るでしょうか。

人々を励ませずに、批判するでしょうか。

自分の役割を守るため、あなたと同じ賜物を持っている人を助けることを拒むでしょうか。

あなたの行動によって、教会の聖書の教えを阻止しているでしょうか。

または、怠惰な態度のため、または、消極的な態度のため、あなたは教会を成長させないでしょうか。

もしかしたら、あなたは教会を成長させているでしょうか。

私は教会を成長させたいと思います。

あなたはどうですか。

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コリント人への手紙第一14:26--人に与えることができるものを教会に持っていくこと

教会をやめるとき、多くの人々はこの言い訳を言います。「私はその教会から益を何ももらいませんでした。」

つまり、彼らはエンターテインメントを期待したり、いつも教会のメンバーたちから世話してくれることを予想したりしたけど、その期待は満たされなかったのです。だから、教会に行く興味がなくなりました。

でもそれは自分勝手な考え方です。私たちはクリスチャンとしてそのように考えてはいけません。

パウロはこう言いました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(26)

パウロによれば、教会に来るとき、私たちはいつも「頂戴、頂戴、頂戴」という態度を持っていてはいけません。むしろ、私たちは、「私は人に何を与えることが出来るだろうか。私はどのように人を励まして強めることが出来るだろうか。」と考えるべきです。

パウロは、牧師たちだけがそのように考えるべきだと言いません。むしろ、パウロは、皆が何かを教会に持って、周りの兄弟たちと姉妹たちに与えるべきだと言いました。一番成熟したクリスチャンでも、洗礼を受けたばかりクリスチャンでも、「私はどうやって人々を祝福することが出来るだろうか」と考えるべきです。

若いクリスチャンでも、自分に感動させた聖書の個所をシェアすることが出来ます。子供でも、イエス様についての歌を歌えます。

ある日曜日、教会から帰るとき、私の娘は日曜学校で学んだ歌を歌いました。「神様はどこですか。神様はここにおられます。あなたがどこに行っても、神様はあなたと共におられます。」

だから、「今日、教会から何の益を得るのだろうか」と考え、自己中心的な態度をもって教会に行かないでください。

むしろ、どうやって人を励まして、強めることが出来るか考えてください。

また、愛と善行を促すために互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ、励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(へブル10:24-25)

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コリント人への手紙第一14:7-11--はっきりと話すこと

この異言と預言に関するパウロの話の中で、牧師に対しても、教会に座っている人に対しても、大切な真理があります。

パウロはこう言いました。

笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分るでしょうか。また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。(7-11)

パウロの要点は、教会の礼拝では、訳していない異言には、価値がないことです。

でも、時々牧師たちは、神様の真理を教会の人たちに伝えようと思うよりも、自分の聖書的な知識を披露しようと思っているように見えます。彼らはいろんな神学的な言葉を使うけど、その言葉を分かる人がほとんどいません。だから、そのメッセージの後、人々はこのように反応します。「そのメッセージはすごいものでした。本当に深く、霊的なメッセージに聞こえていました。でも、牧師が一体何を言いたかったのかさっぱり分かりません。」

私はそんな神学についての本を読んだことがあります。もちろん、それは学問的な本だし、その著者は読者たちが一般人よりも知識を持っていることを前提にします。それでも、私にとって、その本が分かりにくくて、あきらめました。

でも、時々、私たちは福音を伝えるとき、私たちは「クリスチャン語」を使います。例えば、私たちは「贖い」とか、「イエス様の血によって救われる」とか、「聖化」とか、「義と認められる」という言葉を使います。でも、相手がそれを聞いても、その言葉がわからないでしょう。

「罪」という言葉もちゃんと説明しなくてはなりません。「すべての人は罪を犯す」と言うと、相手が、「え?私には全然犯罪を犯したことがない」と思うかもしれません。

だから福音を伝えるとき、私たちの言葉使いに注意するべきです。私たちが理解しやい言葉を使わないと、相手がその言葉が分からないので、私たちの努力は無駄になります。彼らにとっては、私たちは外国語を喋るように聞こえます。

そうしないでください。むしろ、福音を簡単にはっきりと説明しましょう。

また、もし聖書を教える立場を持っているなら、人々をあなたの知識で感動させようとしないでください。むしろ、彼らが把握することが出来る言葉を使いましょう。そうすれば、神様は彼らの心に働くことが出来ます。

パウロの模範に従いましょう。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(第一コリント2:1-5)

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コリント人への手紙第一14:20-25--私たちの賜物を理解すること

この個所を解釈するのは、かなり難しいです。私はいろんな解釈を聞いたので、その個所が分かると思うけど、私の解釈が正しいかどうかわかりません。もしかしたら、将来私の意見は変わるかもしれません。

前回の記事で私は言いましたが、パウロは異言と預言の違いを説明し、どうして教会で預言の方が大事か教えます。

パウロは最初にこう言いました。

兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。(20)

コリント人たちはどのように幼い子のようにふるまったでしょうか。彼らにとっては、霊的な賜物、特に異言は、新しいおもちゃのようでした。彼らはその賜物を用いたけど、周りの人々に対する影響を全然考えませんでした。むしろ、彼らはただその賜物を使うことを楽しみました。

もしかしたら、彼らはその霊的な益を感じたかもしれません。(4)

または、彼らはノン・クリスチャンの前に自分の賜物を披露したいと思いました。

だからパウロは彼らに言いました。「悪事においては幼子でありなさい。でも霊的な賜物やほかの霊的なことに関して、大人のように考えなさい。自分自身だけについて考えてはいけません。周りのノン・クリスチャンについて考えて、特に、あなたの行動がどのように彼らに影響を与えるか考えなさい。」

コリント人たちはどのように考えていたでしょうか。もしかしたら、彼らはノン・クリスチャンに良い影響を与えていると思ったかもしれません。なぜなら、何年前にペンテコステの時、異言を通して、たくさんのノン・クリスチャンがクリスチャンになったから。

でもコリント人たちは大切なことを忘れてしまいました。そのペンテコステの日、エルサレムに来た外国人たちは、その異言を理解しました。使徒たちやほかのクリスチャンたちはその外国人たちの言葉で、神様の栄光を賛美したから。

でも、コリント人の礼拝では、参加するノン・クリスチャンたちはその異言が全然わかりませんでした。だから、彼らは感動せずに、むしろコリント人たちのクリスチャンたちの頭がおかしいと思いました。

だからパウロは彼らに言いました。「あなたたちは礼拝の時、異言でしゃべって、ノン・クリスチャンに感動させようと思うのかもしれないけれど、聖書の言葉を考えて見なさい。」

つまり、

「わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない」と主は言われる。(21)

この言葉は、イザヤ書28:11ー12から来ています。

その文脈は、イスラエル人たちは神様の言葉をちんぷんかんぷんと見なしました。だから、神様は彼らに言いました。「あなたは私の言葉がちんぷんかんぷんだと思うでしょうか。では、本当のちんぷんかんぷんを見せよう。あなたたちはほかの国に追放されれば、あなたにとっては、彼らの言葉はわけのわからないものになります。しかし、それでも、あなたたちは悔い改めないでしょう。」

パウロは神様の言葉を異言に当てはめます。「分からないのですか。訳されていない異言はノン・クリスチャンに対しては、もちろんしるしです。(22)

でも、そのしるしによって、彼らの改心のためではなく、彼らの裁きのためです。彼らが理解できる言葉を拒絶したので、神様の言葉は全部、彼らに対してちんぷんかんぷんになります。その結果は、彼らが悔い改めずに、逆に彼らの心はさらに頑なになることです。」

だからパウロは彼らにこう言いました。

ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。(23)

ペンテコステの日でも、異言が分からないユダヤ人たちはそう言いました。(使徒の働き2:13)

その反面、預言は信じるようになる人のためのしるしです。(22)

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。(24-25)

でも、私には認めなくてはならないことがあります。22節で、パウロは「信じるようになる人」と言わずに、「信じている人」と言います。でも、24ー25を見れば、パウロは将来に信じるようになる人について話しているようです。

では、私たちはこの個所から何を学ぶことが出来るでしょうか。コリント人たちは霊的な賜物とその目的が正しく理解できませんでした。だからパウロは彼らに警告しました。「あなたの賜物の使い方は、あなたの願いをもたらさず、逆効果をもたらすでしょう。」

あなたはどうですか。あなたの賜物が正しく分かるでしょうか。その賜物は誰のためか、何のためか覚えているでしょうか。その賜物を悪い方法で使うなら、あなたはその結果に驚くでしょう。

だから覚えていてください。その賜物は主に私たちの益のためではありません。むしろ、その賜物は神様の目的と栄光のためです。あなたはどのように自分の賜物を使っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一14:1-31ーー言葉を通して、人々を育て、勧め、慰め、教えること

正直に言うと、私は、この個所について話すとき、あまり自信がありません。

私は異言の賜物がまた続いていると思います。私はクリスチャンの友達から、彼らの経験を聞いて、その話を信じます。それでも、私はその賜物を持っていません。

また、ある牧師たちの意見と違って、私は預言がただの説教することだと思いません。私が預言について勉強した時、私の結論は、預言は説教する以上であるということです。パウロによれば、預言は、教会の人を育てるため、人に進めるため、人を慰めるため、また人を教えるためです。(3、31節)

もちろんいい説教はその4つの目的を果たします。でも、説教と預言には大きく違う点があります。いい説教は、聖書の勉強を要します。でも、ペテロによれば、預言は違うものです。ペテロは、預言者について話した時、こう言いました。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(第二ペテロ1:21)

そして第一コリント14章でば、パウロは聖書の勉強による説教ではなく、聖霊に動かされる人の言葉について話しているようです。

とにかく、この個所では、パウロは異言と預言を比較対象します。主な違いは、異言を語るとき、通訳がないと、しゃべっている人だけに対して益があることです。周りの人々には全然益がありません。

でも預言する人は、皆が理解できる言葉を伝えます。だから、パウロは、コリント人たちが異言を語るのを願っていたものの、彼らが預言をする方をより願っていました。

パウロはこう言いました。

異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。(5)

また、

同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。(12)

預言や異言についてそれ以上に話すことが出来るけど、一番印象が残ったことは、こうです。教会では、私たちが語る言葉は、微調整した道具であるべきです。その言葉を通して、私たちは人々を育て、勧め、慰め、教えるべきです。

それが、預言の目的です。でも、すべてのクリスチャンたちはそうするべきです。預言の賜物は人々に超自然な力をクリスチャンの言葉に加わります。でも、その賜物を持っていも、持っていなくても、周りの人々と話すとき、私たちはそんな言葉を語るべきです。

あなたはどうですか。あなたの言葉は、人々を育て、勧め、慰め、教えるでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一13:13ーー何が残るか

13章のパウロの最後の言葉は興味深いです。パウロは、私たちがイエス様の御顔を見ると、何の賜物がなくなるかについて話したばかりでした。でも、13節では、パウロは天国に残るものについて話します。彼はこう言いました。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

天国でも、信仰が残ることが興味深いことだと思います。なぜなら、私たちは神様の御顔を見るから。どうして私たちは信仰が必要でしょうか。もしかしたら、天にある信仰は、この世にある信仰と違うのかもしれません。

私たちがこの世にいる間、私たちの罪深い心のゆえに、私たちは神様を信じることに苦労します。私たちの心の一部は神様を信じるけど、一部は信じません。マルコ9章で、ある父は自分の心でそんな戦いがありました。私たちに神様が見ることが出来ないし、御声が聞こえないので、信じるのは難しいのです。

でも、私たちが天の父に会うと、天の父を信じやすくなります。神様の御顔と愛を見ると、私たちが神様を信じることは当然なことになります。私は今そんな信仰をもっていたらいいのにと思います。

天国では、希望があることも、ちょっと不思議だと思います。何を望むでしょうか。私たちはもう救われて、天国にいるのです。

でも天国にある希望も、世にある希望と違うと思います。私たちが天国で苦しんでいて、救いを望むというわけではありません。むしろ、私たちはもう喜びをもっているし、将来もさらに喜ぶという希望を持っています。なぜなら、私たちは神様が良い方だと信じますから。

でも、パウロによれば、その中で一番すぐれているのは愛です。なぜでしょうか。ちょっとわからないけど、もしかしたら、一つの理由は、希望と信仰は残るけど、ちょっと変わるからです。

今の信仰の大きい要素は、目が見えないものを信じることです。(へブル11:1)。でも、天国では私たちは神様の御顔を見ます。

そのように、希望の大きい要素は、目で見えないものを望むことです(ローマ8:24)。でもキリストを見ると、私たちの一番大きい希望は満たされます。キリストにあって与えられたものと比べると、私たちがまだ希望するものは取るに足りないものになります。

でも天国では、私たちの愛は完全になります。私たちの嫉妬や、プライドや、自己中心な態度を私たちの愛から清められて、私たちが今まで経験した愛よりも、その愛はもっと満ちた物、もっと清い物になります。

私はその日を待ちきれません。

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コリント人への手紙第一13:11--大人になるのに

11節で、パウロはこう言いました。

私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。(11)

この個所の文脈を見れば、パウロは天国の人生と地上の人生を比べているようです。つまり、天国に行くと、私たちは大人になるけど、地上にいる間、私たちはいろんな意味でまだ幼子です。だから、とりあえず私たちはいろんな霊的な松葉杖が必要です。

私たちに神様の言葉がもっとはっきりと聞こえるように、私たちは預言が必要です。どうやって祈ればいいか分からないとき、異言が必要です。私たちは神様のことをもっと理解したいと思うなら、限定された知識を持っている人間から学ばなくてはなりません。

でも天国では、その霊的な松葉杖は要らなくなります。なぜなら、私たちは神様の御顔を見るから。

それがパウロの主旨だと思います。

でももしかしたら、パウロは、コリント人たちが成長するように挑戦していたかもしれません。

3章では、パウロは彼らの幼い考え方を批判しました。(3:1-4)。

だから、この個所では、パウロは基本的にこう言っているのかもしれません。「もう成長しなくてはなりません。幼いクリスチャンの時、あなたはこの世のように考えました。でも、成熟したクリスチャンになる時間です。あなたのくだらない喧嘩を脇へ置きなさい。あなたの受けた賜物と祝福を誇らず、あなたの思いや行動に関して、成熟しなさい。

あなたはどうですか。あなたは幼子として考えるでしょうか。幼子として話すでしょうか。幼子としてふるまうでしょうか。もしかしたら、あなたの信仰は成熟しているでしょうか。

私たちが幼いクリスチャンとして生活することに満足しないように。むしろ、成長しましょう。

もちろん、どんなに成長しても、私たちは完全な人ではありません。天国にに着いてこそ、私たちはやっと完全になります。でも、それは成長しない言い訳にはなりません。

だから、成熟を目ざして進みましょう。また、キリストの恵みと知識において成長しましょう。(へブル6:1;第二ペテロ3:18)

 

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コリント人への手紙第一13:8-12--将来の片鱗

この個所を読むと、新しいことが私の心を打ちました。それは、私たちの霊的な賜物が天国の片鱗ということです。パウロはこう言いました。

愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。(8-10)

パウロが触れている賜物は、「不完全な賜物」です。たぶん、天国では、ある賜物は継続するでしょう。例えば、奉仕の賜物や、治める賜物や、音楽の賜物は継続するでしょう。

でも、預言はなくなります。なぜでしょうか。預言とは、基本的に神様の言葉を人に伝えることです。でも天国では、神様は直接に私たちに話します。

異言もなくなります。異言を通して、私たちは神様の御心に従って祈ることが出来ます。でも天国では、私たちは神様の御心を知っています。また、異言を通して、私たちは外国語で神様の栄光を伝えることが出来ます。でも、天国では、皆が神様を知っているし、私たちは完全に互いに分かり合います。

私の知識も不完全です。特に神様に関する私たちの知識は不完全です。でも、天国では、私たちは神様のみ顔を見ます。

この三つの賜物は天国の片鱗です。今、私たちには幾分神様の声が聞こえるけど、天国では、私たちにははっきり聞こえるようになります。

神様とのコミュニケーション、また、周りの人々とのコミュニケーションはある程度までできます。でも、天国では、私たちのコミュニケーションは完全になります。

私たちは今幾分神様を知っているけど、天国では、私たちは神様を完全に知るようになります。

言い換えると、

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。(12)

私たちがこの世に見ている物のすべては、天国からのぼんやり映るものです。でもイエス様のみ顔を見ると、私たちはイエス様を完全に知るようになります。また、私たちは、神様が元の私たちの人生の計画が分かるようになります。

だから私は希望を持っています。時々、この世界は惨めな所です。でも、この世は、ただ私たちの未来のぼんやり映るものです。

でも、この世は永遠にこのように続きません。

だから、私たちの霊的な賜物を見ると、また、周りの人々と被造物を見ると、それらのものはただぼんやり映る物であることを覚えていましょう。私たちには希望があります。それは、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

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コリント人への手紙第一13:1-8--自分自身に当てはめること

私は数えきれないほどこの個所を読んだことがあるけど、今回はこの個所を再認識しました。つまり、この言葉を違う方法で私の人生に当てはめてみました。

多分、あなたが聖書の言葉をあなたの人生に当てはめる大切さがわかると思います。私たちは聖書を小説や、時代遅れの道徳を教える本として、読んではいけません。むしろ、聖書をあなたに対する神様の言葉として読むべきです。

今日の個所を当てはめると、多くのクリスチャンたちは自分の名前を「愛」の代わりに入れます。例えば、「ブルースは寛容であり、ブルースは親切です。」

もちろん、それはいいことです。そうすれば、私たちの心を吟味して、自分がその愛の特徴を持っているかどうか考えます。

でも、今日この個所を読んだとき、違う方法で私の人生に当てはめようと思いました。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、妻に対する愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、娘に対する愛がないなら、私は無に等しいのです。(1-2)

「妻」と「娘」を入れて、私の人生について考えました。私は異言で話さないけど、私は教会でよく説教します。でも私が妻を愛さないなら、私はただ騒がしいどらや、うるさいシンバルです。もし私は聖書を精通し、力を持って神様の言葉を伝えられるけど、娘を愛さないなら、私は無に等しいのです。

だから私はこう思い始めました。「私はちゃんと妻と娘を愛しているのか。彼らに対して、私は寛容だろうか。私は親切だろうか。私は自分の利益を求めているでしょうか。私は苛立つだろうか。私は彼女らを信じるだろうか。彼女らの最善を望むだろうか。彼らのために私は耐え忍ぶだろうか。」

正直に言うと、私はいつもそのようにふるまいません。

もちろん、私はほかの人をその個所に入れることもできます。私はちゃんと同僚や、教会のメンバーたちを愛しているでしょうか。でも、とりあえず、私が妻との関係、また娘との関係を考えた方がいいとも思います。

あなたはどうですか。あなたはちゃんと家族を愛していますか。あなたはこの世界に素晴らしいことをしているかもしれません。また、教会で素晴らしいことをしているかもしれません。でも、自分の妻や、お子さんを愛さないなら、あなたは無に等しいのです。

あなたがこの記事を読むとき、神様はあなたにほかの名前を思い出させているでしょうか。あなたのご両親でしょうか。もしかしたら、ある嫌な同僚か教会のメンバーでしょうか。

もし神様があなたの心に話しているなら、私は、あなたが祈るように促します。あなたがその人をちゃんと愛するように祈ってください。どうやってその人を愛することができるか知るように祈ってください。

主よ。私はただの騒がしいどらや、うるさいシンバルになりたくありません。私はどうやって周りの人を愛するべきか教えてください。私の妻や娘をちゃんと愛するように助けてください。私はほかの人をも愛するように助けてください。私は良く失敗します。あなたのように愛したいと思います。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第一13:4-8--神様がどんな方であるか。私たちがどんなになるように努めるべきか。

この個所を読んだとき、興味深いことに気づきました。パウロの愛の描写は、コリント人たちの行動とかけ離れていました。

パウロによれば、愛は寛容であり、愛は親切です。また、愛は礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。

でも、聖餐式の後の晩餐で、金持ちは貧しい人たちの先に行って、良いものを食べ尽くしてしまいました。もし、残り物があれば、貧しい人たちはやっと食べることが出来ました。(11:17-34)

また、良心が傷つきやすい人を気にせずに、コリント人たちは自分の「権利」を利用して、その兄弟たちと姉妹たちを傷つけてしまいました。(8)

パウロによれば、愛はねたみません。また、愛は自慢せず、高慢になりません。

でもコリントの教会の中では、メンバーたちは自分がどのリーダーに従うかについて自慢して、そのことについて喧嘩しました(1章と3章)。

さらに、彼らは自分の持ち物を自慢して、そのことによって、パウロのことを見下したようです。(4章)

でも神様は、そのような方ではありません。私たちが何回失敗しても、神様は私たちに絶えず親切だし、寛容です。そして、神様は人間になったけど、それは私たちを支配する王としてではなく、私たちの罪のために死ぬしもべとして来ました。

イエス様は悪を見ると怒ったけど、真理を受け入れた人々を見ると喜びました。

そして今、イエス様の十字架の働きによって、天の父は、私たちがした悪を心に留めません。むしろ、神様は私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちのことを信じます。神様は私たちの最善を望みます。さらに、私たちに対する神様の愛は決して絶えることがありません。

私たちはそのような人になろうと努めるべきです。神様のように、私たちは、ほかの人々を愛し、扱うように努めるべきです。

正直に言うと、私はその基準を満たしません。でも、その愛を持っていなければ、私の人生はむなしいです。だから私は祈ります。「私が愛するように助けてください。」

主よ。私の妬みや、私の苦々しい思いのすべてを取り去ってください。私を清めて、私が金のように出て来るように。私があなたのようになるように。アーメン。

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コリント人への手紙第一12:31-13:3--私たちはどのように霊的な賜物を使うべきか

これは聖書の中で、最も有名な個所の一つです。この個所は愛についてですけど、パウロは特に結婚や恋愛関係について話しているのではありません。むしろ、パウロはそこまでの話をまとめています。つまり、私たちの賜物は、教会を分裂するためではなく、教会を成長させるためであることです。だから、この個所では、パウロは、私たちがどのように賜物を使うべきかを教えています。

パウロはその賜物の使い方を「はるかにまさる道」と呼びます。

彼はこう言いました。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(1-3)

簡単に言うと、私たちは世の中で最も素晴らしい賜物をもったり、自分自身を犠牲にしたり、すべての持ち物を貧しいものに与えたりすることが出来るけど、神様に対する愛、また、ほかの人々に対する愛を持っていないなら、それらは無意味です。

多くの人々は神様様とほかの人々に対する愛のためではなく、自分のプライドのために賜物を使ったり、自分自身を犠牲にします。彼らが求めるのは、人からの誉れです。

でもそのプライドによって、彼らは、ほかの人とその賜物に嫉妬します。または、彼らと同じ賜物を持っていない相手を見下します。

その結果は、偽善者に満ちた分裂した教会です。その賜物の使い方は、神様を喜ばせません。

私たちの賜物は相手に対する愛の表現であるはずです。愛を持っていないと、私たちの賜物の使い方は間違っています。

あなたはどうですか。どのように賜物を使っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一12:27-31--賜物を熱心に求めること

私たちがただ頼むと、神様はどれだけ与えてくださるでしょうか。

多くの場合、私たちは勝手な態度に注意したり、自分の動機を疑ったりするので、神様に頼むのを遠慮します。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん、私たちの動機を吟味するべきです。でも、私たちはためらわずに頼んでもいいです。もし私たちが頼んでいる途中で、神様が私たちの悪い動機を指摘するなら、もちろん私たちは悔い改めるべきです。

でも覚えていてください。神様は自分の子供たちに良いものを与えるのが好きな方です。だから、頼むとき、私たちは恥ずかしくならなくてもいいのです。

霊的な賜物をも、恥ずかしがらずに頼んでいいのです。だからパウロはこう言いました。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(31)

「より優れた賜物」とは何でしょうか。私は後でそのことについて話すけど、14章によれば、より優れた賜物とは、教会を成長させる賜物を意味します。(14:12)

だから霊的な賜物を頼むとき、教会を成長させることを考えるべきです。どのようにその賜物はあなたの評判を高めるか、また、あなたがどの益を得るかを考えてはいけません。むしろ、あなたがどのように人々を祝福することができるかについて考えるべきです。霊的な賜物を考えるとき、自分ではなく、周りの人々を考えるべきです。

でももう一つのことを覚えていなくてはなりません。神様は御心のままに、私たちに賜物与えてくださいます。(11)

キリストのからだの中で、私たちは自分の役割を神様から与えられました。だから、その役割を果たすために、神様は私たちに適切な賜物を与えてくださいます。

神様はそれ以上にも与えてくださるかもしれないけど、私たちが欲しい賜物のすべてを与えてくださることを約束しません。パウロはこう言いました。

皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。(29-30)

もちろん、その答えは「いいえ」です。

それでも、霊的な賜物を頼んでもいいです。特にあなたが自分のミニストリーや役割を見るとき、どんな賜物が必要かを考えて、その賜物を頼んだ方がいいと思います。

そして、あなたが自分の役割を果たすために、神様は適切な賜物を与えてくださることを信じてください。

どれだけ神様が「はい、喜んであげます。」と答えるかに驚くかもしれません。

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コリント人への手紙第一12:12-30--私たちはほかのクリスチャンをどのように見なすか

前回の記事では、私は、私たちがどのように自分をキリストのからだの部分として見なすべきかについて話しました。でも、私たちはどのようにほかのクリスチャンたちを見なすべきでしょうか。

パウロはこう書きました。

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(12-13)

パウロの言葉で、一番大切な真理は、私たちクリスチャンたちは一つのからだということです。もちろんからだには多くの部分がありますけど、私たちは一つのからだで、私たちは互いに必要とし合います。

また、パウロによれば、一つの御霊によって私たちはバプテスマを受けたし、一つの御霊を受けて、一つのからだとなりました。さらに、同じ御霊は私たちをキリストのからだに置いたし、私たちの中で働いています。だからどうして私たちはほかのクリスチャンたちを見下すことが出来るでしょうか。

私たちが彼らを見ると、彼らに住んでおられる御霊を見るはずです。どうして私たちは彼らに住んでおられる御霊を軽蔑できるでしょうか。どうして彼らの中で働いている御霊を見下すことが出来るでしょうか。

以前の記事で私は言いましたが、パウロによれば、私たちはほかのクリスチャンに「あなたはいらない」と言えません。私たち皆は互いに必要とし合うから。キリストのからだがちゃんと動くのに、私たち皆は自分の役割を果たさなくてはいけません。私たち皆は、キリストのからだに欠かせない者です。

さらに、パウロはこう言いました。

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(22)

数年前、バスケットボールをしたとき、私は右手の薬指を骨折しました。それ以前、私は自分の薬指の大切さがわかりませんでした。その手で何も握ることが出来なくなり、メールを打つのも大変になりました。簡単にできる行動は、とても難しくなりました。

パウロは続けました。

また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。(23-24a)

例えば、足と手を考えてみてください。「美しい手」という表現を聞いたことがあるけど、「美しい足」という表現はあまり聞いたことがありません。(「美しい脚」という表現を聞いたことがあるけど)。

それでも、たぶん、手よりも足はマッサージされるでしょう。また、靴を買うと、スタイルだけではなく、履き心地も考えるでしょう。

だからパウロはこの話をこのようにまとめます。

神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。(24b-25)

同じように配慮し合うこと。その言葉は、霊的な賜物に関する人のプライドや利己的な態度に反対します。

あなたの霊的な賜物を考えると、主に自分自身の益について考えるでしょうか。もしくは相手の益について考えるでしょうか。自分自身に焦点を当てるでしょうか。または、ほかの人に焦点を当てるでしょうか。

イエス様のことを考えてみてください。イエス様はいろんな力を持っていたけど、自分自身に栄光を与えるためにその力を使いませんでした。むしろ、彼はいつも周りの人々のニーズを考えました。

パウロはさらに言いました。

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(26)

痛みは興味深いものです。痛みがあれば、私たちは痛んでいる部分に焦点を当てます。体のほかの部分は大丈夫かもしれないけど、指を骨折すると、私たちは「まあ、私は99%元気だ」と思いません。むしろ、私たちは「痛い!」と思います。

私たちはほかの人々を見るときも、そう考えるべきです。彼らが悩んでいるとき、私たちは彼らを無視してはいけません。むしろ、私たちは彼らに触れ、助けるべきです。

パウロはこう言いました。

あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(27)

だから、ほかのクリスチャンたちを見下してはいけません。神様はそうしないので、私たちもそうしてはいけません。むしろ、彼らを神様の目で見るべきです。彼らを神様が大事するものとして扱うべきです。

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コリント人への手紙第一12:4-30--私たちがそんなに特別だと思わないけど

教会で多くの人々は、ほかのメンバーたちの賜物を見ると、劣等感を感じます。神様が彼らが特別な人で、キリストのからだに欠かせない者と見なすことを聞くけど、その真理を実感しません。でも何度もパウロは、神様の目には私たちがとっても特別な人であることを教えます。

パウロは基本的にこう言いました。「ほかの人々の賜物を見ると、劣等感を感じるのですか?そんな必要はありません。「あなたの賜物は安物だけど、彼らの賜物は高価な物だ」とは言えません。その賜物は同じ方から来ました。あなたの賜物の品質も高価なものです。

「あなたの役割はなんでもないものけど、彼らの役割はとても大事だ」とは言えません。彼らに役割を与える主は、あなたに役割を与える同じ主です。

そして、神様はあなたに「あなたの役割はそんなに大切ではないので、私はあなたを助けなくてもいい。私の代わりに天使を送ろう」と言いません。むしろ神様自身はあなたを助けます。

そして私が以前の記事で言ったように、あなたを造ったとき、神様は「あ、失敗しました。しょうがない。とりあえず、その人に、この何でもない仕事を与えましょう。」と言いません。

むしろパウロはこう言いました。

しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(18)

この個所によれば、神様があなたを造ったとき、ミスしませんでした。さらに、その個所の文脈を見てください。

17もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。。。もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。

簡単に言うと、神様は自分が指定したところにあなたを置きました。だから、ほかのクリスチャンはあなたに、「あなたはいらない」と言えません。むしろ、あなたはキリストのからだに欠かせない者です。

その言葉を読んで、「でも、私が欠かせない者だと言えません。だって、だれだって私の役割を果たすことが出来るから。」

でもちょっと考えてみてください。あなたのつま先はある程度まで、指の役割を果たすことが出ます。だからある意味で、指は要らないでしょう。でも、つま先は、その役割を指よりも上手にできません。

また、腕が一本しかなくても、いろんな仕事ができるかもしれません。でもその一本の腕はやり過ぎると、疲れて、力を失うかもしれません。

そのように、ほかの人はあなたの仕事をすることが出来るかもしれないけど、彼らはあなたの賜物を持っていないなら、あなたよりもその仕事を上手にできないでしょう。

また、彼らはあなたと同じ賜物を持っているかもしれません。さらに、彼らの賜物はあなたのよりも優れたものかもしれません。でも、あなたが自分の役割を果たさないと、彼らは結局疲れて、燃え尽きるかもしれません。

だから神様から与えられた賜物を使ってください。神様は自分の目的のためにあなたを今のところに置きました。相手があなたを見下すことを許さないでください。また自分自身を軽蔑しないでください。なぜなら、神様はごみを作っていません。あなたはごみではありません。

では、キリストのからだの中で、あなたはどんな役割を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一12:4-18ーー神様の目的のため、神様の栄光のため

霊的な賜物に関するプライドや嫉妬を考えると、たぶん一番の問題は、私たちが大切な真理を忘れることです。それは、人生は私たち自身が中心ではないことです。私たちは自分の目的を果たすために造られませんでした。私たちは自分の栄光のために造られませんでした。むしろ、私たちは神様の目的を果たすために造られました。また、私たちは神様の栄光のために造られました。

4ー6節では、私たちはその真理を見ます。私たちはいろんな賜物を持っているけど、私たちは自分自身にその賜物を与えませんでした。むしろ、神様はその賜物を私たちに与えてくださいました。だからパウロはこう言いました。

いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。(そのことを認める人が誰もいません)。あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。(もらわなかったものがありません)。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(誇る理由が全然ありません)。(4:7)

でも、私たちは、しばしば自分が神様からの賜物であるかのようにふるまいます。

ある意味では、私たちは神様からの賜物です。神様は、私たちが周りの人々を祝福するように望みます。でも、それは私たちの栄光と益のためではありません。それは周りの人々の益のためだし、神様の栄光のためです。前回の記事で私が言ったが、私たちの賜物は教会の人々の益のためです。(12:7)

パウロは続けます。

同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。(11)

パウロによれば、聖霊様は自分の目的を果たすために、私たちに賜物を与えてくださいます。

パウロはさらに言います。

しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(18)

私たちは、神様の目的を果たすために、私たちがキリストのからだ(つまり、教会)に置かれた事をもう一度見ます。

そういうわけで、私たちにはプライドの余裕がありません。私たちの目的のためではなく、神様の目的のために、私たちは賜物を与えられたし、教会に置かれました。

また、嫉妬の余裕がありません。神様は自分の理由のために、あなたをその所に置きました。

神様は「あ、しまった。私はあなたを造ったとき、失敗した。まあ、しょうがない。あなたをあまり用いることが出来ないけど、とりあえずあなたをそこに置きましょう。」とは全然言いません。

むしろ、神様があなたを造ったとき、こう言いました。「特別の目的のためにあなたを造りました。キリストのからだで、この機能を果たすために、私はあなたを特別にデザインしました。」

あなたはどうですか。自分の賜物があなたの目的を果たすためだと思うでしょうか。自分の賜物はあなたの栄光のためだと思うでしょうか。もしかしたら、その賜物が神様の目的、また神様の栄光のためだと分かるでしょうか。

あなたの賜物に関する自己中心の態度は、プライドと嫉妬に至らせます。あなたはどんな態度を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一12:4-30ーー教会を団結させるための賜物

この個所では、パウロはまだコリント人の教会の分裂について考えていたかもしれません。この手紙では、パウロは、その問題についてもう二回話していました。

パウロは霊的な賜物によってコリント人の教会の分裂されたと言わなかったけど、その危険性を見たかもしれません。

実は、現代の教会にも、そんな問題があります。

だから、最初から、パウロははっきりと言います。私たちの賜物は教会を分裂するためではありません。その賜物は教会のメンバーたちを団結させるためのものです。

パウロはこう言いました。

さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。(4-6)

パウロの言葉では、三位一体が霊的な賜物が絡んでいることを見ることが出来ます。

いろいろな賜物があるけど、同じ御霊です。

いろいろな奉仕があるけど、同じ主(イエス)です。

いろいろな働きがあるけど、同じ(天の父の)神です。

パウロのポイントはこうかもしれません。天の父とイエス様と聖霊様が違う役割があるけど、彼らはまだ一つの神です。そのように、私たちの賜物が違うかもしれないけど、私たちはまだ一つの教会です。だから、私たちには心の一致が必要です。

7節で、パウロはそのことをはっきりと言います。

皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(7)

普通は、私たちがプレセントをもらうとき、そのプレゼントは私たちの益のためです。でも、霊的な賜物は違います。その賜物は皆の益のためです。特に、その賜物は教会の兄弟たちと姉妹たちのためです。

だから、霊的な賜物を考えると、勝手な考え方を捨てるべきです。むしろ、私たちは、どのようにその賜物を使って、周りの人々に益を与えられるかを考えるべきです。

そういうわけで、霊的な賜物に関して、プライドや嫉妬の余裕はありません。

パウロはこう言いました。

たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。(15-16)

でも、ある人は、相手の賜物をうらやましく思ってそのようにふるまいます。彼らが神様から与えられた賜物が気に入らずに、苦々しい態度を持っています。または、相手が同じ賜物を持っているけど、より大きな割合でその賜物を持っています。だから彼らは相手に怒るし、神様に怒ります。

でも正反対の問題もあります。パウロはこう言いました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。(21)

要するに、もっと「大切」な賜物を持っている人は、ほかの人を取るに足りない人として見下しがちです。

両方の態度は悪く、教会を分裂します。皮肉なことに、私が以前が言ったように、その賜物は教会を団結するためのものでした。

だから私たちは自分自身にこう訊くべきです。「兄弟たちと姉妹たちに対する私の態度は正しいでしょうか。自分の賜物と相手の賜物に関する私の態度は、教会を分裂するか、団結させるでしょうか。」

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コリント人への手紙第一12:1-3ーー霊を見分けること

私たちは、サタンについて覚えていなくてはいけないことがあります。それは、サタンがいつも神様が造った良いものを偽造することです。例えば、互いに愛し合う夫婦の代わりに、サタンは不倫や、ほかの性的な罪を売り込みます。

また、心を満たす喜びの代わりに、サタンは心を満足させない一時的な快楽を売り込みます。

そのように、サタンは偽の霊的な賜物を売り込みます。例えば、カルトやオカルトで、偽の異言や、偽の癒し、偽の奇跡などを見ます。

ところで、私が偽と言うと、その奇跡が実際に起こらないことを意味しません。むしろ、その奇跡の源は神様ではなく、サタンであることを意味します。

だからパウロは、コリント人たちが本当のものと偽物をちゃんと見分けられるかどうか、心配しました。

パウロは彼らにこう書きました。

さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。(1-2)

どのようにコリント人たちが偶像に惹かれて行ったか、はっきりしません。でも、もしかしたら、サタンからの偽の霊的な経験によって、彼らは騙されたかもしれません。だからパウロは彼らにどのように、サタンからのものと神様からのものを見分けられるか教えました。パウロはこう言いました。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(3)

一つの見分け方として、御霊に導かれる人は、イエス様を呪うことが出来ません。イエス様を呪う人を見れば、その人が神様からではないとすぐにわかるでしょう。

もう一つの見分け方が、聖霊に導かれる人が「イエスは主」と言うことです。

カルトやオカルトや、ほかの宗教に属する人たちの多くは、イエス様について、いろんな良いことを言います。

「イエス様はいい人でした。」

「イエス様は素晴らしい宗教的なリーダーでした。」

「イエス様は預言者でした。」

でも、彼らは、イエス様がすべての主であることを認めません。また、イエス様が人間としてこの世に来たただ一人の神であることを認めません。

もう一つのことに注意するべきです。「イエスは主」と告白する人は、聖霊に導かれる人とは限りません。私が以前言ったように、サタンはいろんな偽物を売り込みます。

サタンが偽のイエス様を売り込んでいることをご存じですか。第二コリント11:4で、パウロは「別のイエス」について話します。

モルモン教では、イエス様は、たくさんの神々の中の一人の神です。また、モルモン教のイエスは、サタンの兄弟です。

エホバの証人によれば、イエス様は御使いのかしらミカエルです。

だから、人が「イエスは主」と言うと、私たちは「どのイエスですか」と訊かなくてはいけません。本当のイエスでしょうか。偽のイエスでしょうか。そして、彼らが宣べ伝えるイエスを聖書のイエスと比べなくてはなりません。

だから、霊的な賜物や、霊的な経験について話すとき、私たちはそれがどこから来たか見分けなくてはなりません。それらは神様からでしょうか。それなら、それは聖書の言葉に同意します。つまり、イエス様が人間としてこの世に来たただ一人の神であることを認めることです。また、イエスがすべての主であることを認めることです。

だから人のすべての霊的な経験が神様から来ることを信じてはいけません。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)

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コリント人への手紙第一11:32--主があなたを懲らしめても

12章に進む前に、もう一つのことについて話したいと思います。パウロは32節で、こう言いました。

私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。

私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを懲らしめます。その懲らしめが苦しいので、神様が私たちを憎むことを考えるのは、簡単かもしれません。また、神様があなたのことをあきらめたと思うかもしれません。

でもパウロは、その考え方は間違っていると言います。むしろ、神様が私たちを懲らしめる目的は、私たちが世とともに裁かれないためです。要するに、神様は、私たちを世の人々が歩んでいる破壊に至る道から、命に至る道に導いてくださいます。

5章では、私たちは一つの例を見ました。パウロは、悔い改めるのを拒んだ兄弟に関して、こう言いました。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(5:5)

パウロの目的は、その人を滅ぼすことではなく、むしろ、その人を救うことでした。

だから、神様があなたの懲らしめるとき、神様があなたを憎まないことを覚えていてください。神様はあなたを敵として考えません。

あなたが実際に神様の敵であった時に、神様がイエス様を送って、イエス様はあなたの罪のために死んでくださいました。もし、あなたが神の敵の時に、神様があなたを和解してくださっていたら、なおさら神様はあなたを神の子供として和解してくださるでしょうか。(ローマ5:6-11)

自分の罪の故、あなたは神様に懲らしめられているのですか。元気を出してください。神様はあなたをまだ愛しています。あなたのことをあきらめていません。だからその懲らしめの痛みを感じていても、へブル人への手紙の著者の言葉を覚えていてください。

そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(へブル12:5-11)

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コリント人への手紙第一11:27-34--自分自身を吟味すること

私が以前言ったように、聖餐式に参加するとき、私たちは自分自身を吟味しなくてはなりません。パウロはこう言いました。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。(27-30)

その最後の部分は、ちょっと怖いです。聖餐式を汚したゆえに、あるコリント人たちは病気になって、死んだらしいです。

現代では、私たちはそんな裁きをあまり見ないけど、教会が始まっていたばかりなので、神様はどれだけその罪が深刻だったかをコリント人のクリスチャンたちに表したいと思ったようです。

イエス様は私たちの罪のために死んだけど、私たちはあえて罪を犯してもいいというわけではありません。もしイエス様の十字架の働きを軽く考えると、私たちは懲らしめられます。

だから、聖餐式に参加するときだけではなく、毎日私たちが自分の心を吟味しなくてはならないと思います。

ダビデのように私たちは祈るべきです。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)

私たちが決してイエス様の十字架を当然のことだと思わないように。

イエス様の十字架を、あなたの汚い足を拭くための玄関マットのように扱わないように。

むしろ、感謝をもってイエス様の前に跪きましょう。

そして、イエス様が私たちの罪を現すなら、悔い改めましょう。聖餐式に参加するときだけではなく、毎日そんな態度を持ちましょう。

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第一コリント11:26--イエス様がこの世界に戻るまで

この個所を読むと、聖餐式に関して、もう一つのことが私の心を打ちます。パウロはこう書きました。

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(26)

「主が来られるまで。」

聖餐式をするとき、多くの人たちがその真理をあまり考えないと思います。でも、その真理を覚えているのは、とても大切なのです。イエス様は必ずこの世界に戻ります。だから聖餐式に参加するとき、イエス様が来るまで、自分がどのように生きているかを考えるべきです。

私たちは何をするべきでしょうか。パウロは私たちに教えます。「周りの人々にイエス様の死を告げ知らせなさい。」

パウロによれば、その一つの方法が聖餐式です。

でも、私たちは世界に出て、つまり、職場や、学校や、近所に行くとき、私たちは福音を宣べ伝えるべきです。イエス様が来るまで私たちはそうするべきです。

時々、私たちは毎日の生活にのめり込んで、イエス様が来られることを忘れてしまいます。また、私たちはこの世が永遠に続かないことを忘れてしまいます。

だから、聖餐式は、この世が一時的なものであることを思い出させます。私たちは自分の時間を賢く利用して、私たちの回りの人々に福音を宣べ伝えるべきことを思い出します。

あなたはどうですか。周りの人々にイエス様の死を告げ知らせているでしょうか。

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コリント人への手紙第一11:26-34--イエス様の死を告げ知らせること

パウロが現代の教会に来るとしたら、彼はどう思うか、私は疑問に思います。

特に、パウロは、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加することを見ると、どう思うでしょうか。

ある教会は、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加することを禁止します。ほかの教会(私の教会も)は、そのことを許します。

もしタイムスリップが出来たら、新約聖書の時代に行って、教会で誰が聖餐式に参加するかを見たいと思います。それはクリスチャンだけですか。ノン・クリスチャンも参加したでしょうか。

なぜなら、14章では、パウロはノン・クリスチャンたちが教会に来る可能性について話していましたから。

それに、今日の個所で、パウロはとても興味深いことを言います。

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(26)

興味深いのは、「告げ知らせる」という言葉です。新約聖書の著者たちは、その言葉を使うとき、ほとんどの場合、イエス様のこととその福音を告げ知らせることについて話します。この個所でも、パウロは「告げ知らせる」という言葉を同じ方法で使います。聖餐式をするとき、私たちは福音を人々に告げ知らせています。

でも誰に福音を告げ知らせているでしょうか。私たち自身に?その可能性もあります。なぜなら、私たち皆は時々、福音の乳が必要ですから。

でも、もしかしたら、パウロは、ノン・クリスチャンも聖餐式に参加することを認識したかもしれません。だから聖餐式をするとき、私たちはもちろんイエス様の十字架の御業を覚えています。でも、それだけではなく、私たちはノン・クリスチャンにイエス様の死を告げ知らせています。

私たちは彼らにこう言っています。「イエス様はあなたのために死にました。あなたの罪が赦されるために、また、あなたが新しい命を得るためにイエス様は死にました。私たちはあなたにイエス様を信じる機会を与えます。あなたはどうするでしょうか。」

パウロによれば、彼らがパンを食べ、ぶどう酒を飲むけど、イエス様を信じることを拒むなら、どうなるでしょうか。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(27)

どうしてでしょうか。なぜなら、彼らは福音を聞いたけど、その福音を拒絶したから。

でも、私は、はっきりと言わなくてはいけないことがあります。パウロがそれを言ったとき、ノン・クリスチャンについて話していませんでした。パウロは、貧しいクリスチャンを軽蔑するクリスチャンについて話しています。彼らのふるまいによって、彼らは聖餐式を汚しました。

だから32節で、パウロは悪い態度を持ちながら、聖餐式に参加するクリスチャンの懲らしめと、イエス様を拒絶するノン・クリスチャンの裁きを分別します。パウロは、そのクリスチャンの救いを疑わずに、むしろ彼らを兄弟と呼び続けます。

だから、パウロのもとの意味はこうです。「自分自身を吟味しなさい。聖餐式に参加するとき、良い態度を持ちなさい。あなたたちが主の懲らしめを受けないように、自分の兄弟たちを正しく扱いなさい。もし兄弟たちに罪を犯すと、あなたたちは主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」(27-34)

ちょっと不思議なことだけど、パウロはノン・クリスチャンが聖餐式に参加できるかどうか決して話しませんでした。もしかしたら、彼はその参加の禁止が当たり前だと思ったかもしれないから。それとも、もしかしたら、パウロはその参加が大したものではないと思ったかもしれません。

でも、教会がノン・クリスチャンの参加を許そうと思うなら、理解しなくてはならないことがあると思います。それは、聖餐式するときに、ノン・クリスチャンの参加を許すと、私たちは彼らにイエス様を信じるように招待しているだけではなく、彼らに警告しているということです。

私たちは彼らにこう言っています。「福音とは、イエス様があなたの罪のために死にました。イエス様を通して永遠の命を得ることができます。イエス様をあなたの主として受け入れませんか。」

それを聞いて、信仰を持ち、パンを食べ、ぶどう酒を飲むノン・クリスチャンは救われます。でも不信を貫く人は基本的にこう言っています。「私は、イエス様が私のために何をしてくださったか分かります。でも私はイエス様を拒絶し、聖餐式によって、自分自身に対するさばきを食べ、また、裁きを飲みます。」(29)

ようするに、ノン・クリスチャンは聖餐式に参加するとき、彼らは、「私は兄弟たちをどのように扱うか」と訊かずに、「私はイエス様を受ける入れるか」と訊きます。

だから、もしかしたら、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加することを許すなら、私たちは彼らに挑戦するべきかもしれないです。「イエス様はあなたの罪のために死んでくださいました。あなたはどうしますか。」

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コリント人への手紙第一11:23-29--キリストとの交わり。兄弟たちとの交わり。

聖餐式の時、多くのクリスチャンたちはこの個所を聞きます。パウロはこう言いました。

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(23-25)

聖餐式を無意味な宗教的な儀式として考えるのは簡単なことです。コリント人たちはそうしました。だから彼らは、貧しい兄弟たちと姉妹たちを軽蔑して、聖餐式を汚しました。

でもイエス様はこう言いました。「パンを食べて、ぶどう酒を飲むとき、私のことを覚えていなさい。あなたたちの罪を赦し、あなたたちを神様と和解するために、私は自分の血を流します。」

しかし、その真理を覚えていながら、私たちは、イエス様が私たちの兄弟たちと姉妹たちのためにも死んだことを覚えていなくてはなりません。イエス様の目には、彼らも貴い人たちです。

だから、聖餐式に参加するとき、私たちはイエス様に近づくだけではなく、互いに近づき合うべきです。また、もちろん、私たちを神様と和解するために、イエス様は死にました。でもそれだけではなく、クリスチャンたちが互いに和解し合い、一つになるためにイエス様は死にました。

パウロはエペソ人たちににこう書きました。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(ました)。(エペソ2:15)

パウロは特に異邦人とユダヤ人の間に立っている壁について話しました。その壁は、モーセの律法です。でも、その原則は私たちに当てはめられます。クリスチャンたちの間に、人種の壁や、身分の壁などあってはいけません。

パウロは続けました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(15-16)

パウロによれば、私たち皆、ユダヤ人でも、異邦人でも、律法を通してではなく、イエス様の十字架を通して神様に近づきます。だからユダヤ人と異邦人の中で、分裂があってはいけません。イエス様が死んだ一つの理由は、クリスチャンたち皆が一つになることです。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(18-19)

だから教会の中で、二流のメンバーはいません。私たちがユダヤ人でも、異邦人でも、金持ちでも、貧しい人でも、偉い人でも、一般人でも、イエス様は私たちのために死にました。その目的は、私たちが神様との和解ができるし、私たち皆が一つになることです。

だから、聖餐式でキリストを思い出すとき、その肝心な真理をも思い出すべきです。

あなたはどうですか、聖餐式に参加するとき、神様との関係だけを考えるでしょうか。もしくは、ほかのクリスチャンとの関係をも考えるでしょうか。

聖餐式に参加するとき、兄弟たちと姉妹たちとの関係はどうでしょうか。自分の教会のメンバーたちだけではなく、ほかのクリスチャンとの関係はどうでしょうすか。彼らに対する苦々しい思いを持っているでしょうか。そんな思いがあれば、その人と仲直りしなくてはいけません。そうしないと、あなたの飲み食いは自分をさばくことになります。(11:27-29)

あなたはキリストとの一致だけではなく、兄弟たちと姉妹たちとの一致があるでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一11:17-22--プライドや勝手な態度から生まれた分裂

この個所では、パウロはコリント人の教会の分裂についてもう一度話します。一章では、私たちは一つの例を見ました。それは、コリント人たちがどんなリーダーが偉いかについて議論したことです。

でも今日の個所では、私たちはプライドや勝手な態度から生まれた分裂を見ます。パウロはこう言いました。

ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。(17-19)

多くの牧師たちは、この個所を引用して、宗派に至る聖書の議論が必要だと教えます。その議論を通して、私たちは聖書の本当の意味が分かるようになるから。または、その議論を通して、偽のクリスチャンを見分けることが出来ます。

それはそうかもしれないけど、私の意見では、パウロは皮肉を使っていると思います。「あなたたちは議論しなくてはならないね。あなたたちは誰が本当のクリスチャンであるか証明しなくてはならないね。」

要するに、その分裂はコリント人のプライドから生まれたので、パウロは彼らを厳しく批判しました。なぜなら、彼らは自分の霊的な偉さを証明しようとして、相手を見下しましたから。

もしかしたら、一つの問題は、あるユダヤ人たちの考え方かもしれません。彼らは、富が神様の祝福のしるしと信じました。

だから、彼らは聖餐式をして、そのあとで一緒に食べるとき、金持ちは貧しい者の先に行って、食いしん坊のようにふるまいました。なぜなら、彼らはその食べ物の多くを持ってきたから。

多分、彼らはこう考えたでしょう。「私がほとんどの食べ物を持ってきたので、先に食べるのは当たり前だろう。もし私が食べた後、残り物があれば、あいつは食べてもいい。」

でも、パウロは彼らに言いました。

あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。(22)

要するに、「あなたたちはいったい何をしているのですか。あなたたちはキリストのからだを祝うするはずのに、むしろ貧しい兄弟たちを見下して、キリストのからだを軽蔑しているのです。」ということです。

彼らは自分の勝手さとプライドによって、キリストのからだを軽蔑してしまいました。

あなたはどうですか。あなたのプライドや勝手な態度によって、キリストのからだに分裂を作っているでしょうか。あなたは貧しい兄弟たちと姉妹たちを見下すでしょうか。あなたより霊的に未成熟の人々を見下すでしょうか。あなたは、自分の賜物をほかの人たちの賜物と比べるでしょうか。自分のミニストリーの縄張りを守るでしょうか。

そんな態度によって、教会は引き裂かれます。

あなたはどのように兄弟たちと姉妹たちを考えるでしょうか。

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コリント人への手紙第一11:2-16–権威と従順

この個所は、聖書の中で最も解釈しにくい、応用しにくい個所の一つです。

例えば、ある牧師たちはこの個所によって、教会で女子たちが帽子をかぶらなくてはならないと教えます。でもある牧師たちは、その教えはただの文化的なことだったと教えます。正直言うと私は、そのパウロの教えの意味がまだ分かりません。

それでもこの個所で、私たちが結婚に関する原則を学ぶことが出来ると思います。パウロはこう教えました。

しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(3)

パウロの言葉で、私たちは神様の本質について大切なことを学びます。神様の本質の中で、権威と従順の関係があります。その権威と従順の関係は、私たちとイエス様との関係に反映されるし、夫と妻の関係に反映されています。

パウロは「キリストのかしらは神です。」と言いました。それはどういう意味でしょうか。ほかの聖書の個所を読むと、パウロの意味がはっきりすると思います。

ヨハネはこう言いました。

。。。御父が御子を世の救い主として遣わされた。。。(第一ヨハネ4:14)

そして、この世に来た時、イエス様は天の父にこう言いました。

今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。(へブル10:7)

この世にいるとき、イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。(ヨハネ6:38)

でも、天の父に対するイエス様の従順は一時的なものだけではありません。イエス様が復活して、天国に戻ったとき、その従順は終わりませんでした。むしろパウロは、イエス様の戻りと永遠の国について話した時、こう言いました。

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。。。「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(第一コリント15:24-25、27-28)

そのすべての個所を考慮に入れると、一つのことがはっきりしています。イエス様は本当に神の本質を持っているけど、永遠に天の父に従います。それでも私たちは、天の父がイエス様よりも神だと言えません。その本質に関して、天の父がイエス様よりも優れた方だと言えません。むしろ、彼らの本質に関して、彼らは平等です。

どうしてそのポイントはそんなに大切でしょうか。なぜなら現代には、多くの人々が、妻が夫の権利に従うことが彼女の本質に対する侮辱だと主張しますから。彼らは言います。「もしあなたが、妻たちは夫たちに従うべきだと言うと、女性たちを劣った人として扱います。」

だから、「女のかしらは男であり」と聞くと、彼らはパウロの言葉をごまかそうとします。

でも、パウロは、人間関係の中には順位があると教えます。イエス様は天の父の権威に従います。男性たちはイエス様に従います。そして、女性たちは男性たちに従います。

しかし、人間的な本質に関して、男性たちが女性たちより優れたものだと全然言えません。パウロはそんな考え方に一切反対しました。彼はこう言いました。

とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。(11-12)

つまり、神様はリーダーシップの役割を男性たちに与えたけど、男性と女性は互いに必要とすることです。

そして男性たちが自分の権威を利用して、女性たちを酷使する余地は全然ありません。むしろ、天の父がイエス様を愛し、尊敬するように、男性たちは女性たちを愛し、尊敬しなくてはなりません。さらに、神様が私たちの創造者なので、男性たちは神様に従うことを覚えていなくてはなりません。私たちは神様に責任を問われますから。

だから既婚女性たちは自分自身にこう訊くべきです。「イエス様が天の父に従うように、私は夫に従うだろうか。夫がキリストに従う限り、私は夫に従うだろうか。」

既婚男性たちは自分自身にこう訊くべきです。「天の父イがイエス様を愛し、尊敬するように、私は妻を愛し、尊敬するだろうか。イエス様が私を愛し、自分のいのちをささげたように、私も妻を愛し、彼女のために私のいのちをささげるだろうか。」

シングルの女性たちはこう訊くべきです。「私の彼氏(または、婚約者)はイエス様に従っているだろうか。私がイエス様に従うように彼氏に従うほど、彼氏を信頼しているだろうか。」

「はい」と答えないなら、結婚を後回しするべきです。

シングルの男性たちはこう訊くべきです。「私はイエス様に従っているだろうか。もし私がイエス様に従うなら、結婚したら妻をどう扱うべきだろうか。」

その質問に正しく答えられないなら、結婚を後回しにするべきです。

あなたは誰に従っているでしょうか。

 

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コリント人への手紙11:1--良い模範がいても

以前の私たちがついていく方で、私たちが誰に従うかに注意するべきだと言いました。たくさんのいいリーダーたちもいるし、たくさんの悪いリーダーたちもいます。だから、私たちが彼らの実を見なくてはなりません。特に彼らの教えと行為を見なくてはなりません。

でも良いリーダーに従っても、彼らが完全な人ではないことを覚えていなくてはなりません。彼らはいつも正しいわけでもありません。だから彼らを神様のように扱わないでください。彼らも間違える決断をします。時々、彼らの考え方は間違っています。だから私たちが彼らに従う時、彼らの良い点と悪い点を見分けなくてはなりません。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。(1)

最終的に、私たちの模範はキリストです。私たちの模範がキリストのかたちと同じである限り、私たちはその模範に従うべきです。でもキリストと違う彼らの点を見ると、彼らではなく、イエス様の模範に従うべきです。そうしないと、私たちは最終的に困ってしまいます。

ガラテヤ2:11-13で、私たちは一つの例を見ることが出来ます。ペテロは教会のリーダーたちの一人です。彼はきっといい模範でしょう?

でもプレッシャーを感じると、ペテロはイエス様の模範に従いませんでした。

最初は、彼はガラテヤの異邦人たちと話したり、彼らの食べ物を食べたりして、良い時間を過ごしました。

でも、モーセの律法に従うユダヤ人のクリスチャンたちが来ました。そして、彼らが来たら、ペテロは異邦人たちから遠ざかって、ユダヤ人のクリスチャンたちだけと交わり始めました。

ガラテヤにあるほかのユダヤ人のクリスチャンたちは、それを見て、ペテロの模範に従い始めました。バルナバという敬虔なクリスチャンもペトロの模範に従いました。だからパウロはそれを見た時、彼ら皆を厳しく責めました。

もちろん、ペテロの責任は一番大きいものでした。でも、ペテロの模範に従うクリスチャンたちも罪に落ちてしまいました。

だから覚えていてください。あなたの模範がどれだけいいクリスチャンであっても、彼らを神様との同じ立場に置かないでください。彼らは完全な人ではありませんから。彼らが牧師でも、メンターでも、有名な聖書の学者でも、その皆が悪いことをするときもあります。その時、彼らの模範に従ってはいけません。

むしろ、彼らがキリストに従う限り、彼らに従ってください。でも、彼らが落とし穴に落ちると、同じ落とし穴に落ちてはなりません。むしろ、彼らが以前あなたを警告し、助けたように、彼らに警告して、助けましょう。

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コリント人への手紙10:23-33--誰を喜ばせようとしているでしょう?

私たちはついにこの個所を終えます。皆さんは忘れていたかもしれないけど、この個所は実際に8章から始まりました。そして、この個所をまとめるとき、パウロはコリント人たちが一番大切な疑問を指摘します。それは、彼らが誰を喜ばせようとしているかということです。

現代のクリスチャンたちも、同じ疑問に直面します。

私は、自分の権利を大事にすることを認めます。そして、私の権利が踏みつけられるとき、私はすぐに怒ります。また、私が値するものが奪われると、気が動転します。くだらない例だけど、人が列に割り込むとき、私は腹が立ちます。

そして、私がどのように妻や同僚や、教会の人たちをどのように扱うか考えます。その時、私の権利を主張するのは簡単なことです。私はフェアのこと、また、私が値することを主張します。

でも、そんなことに集中すると、私たちが実際に誰を喜ばせようとするかを表します。それは、私たち自身です。

「信仰の強い」コリント人のクリスチャンたちはそのような者でした。彼らの傷つきやすい良心のある兄弟たちを気にせずに、その兄弟たちの前で何でもたべました。

また、ノン・クリスチャンに対する彼らの証しが汚れても、彼らは偶像にささげられた肉を食べました。どうしてでしょうか。彼らはその肉を食べる権利を持っていたからです。

11章では、私たちは彼らのわがままの態度をもう一度見ます。彼らは貧しい兄弟たちに恥をかかせて、聖餐式の意味を汚しました。

だからパウロは彼らに訊きました。「誰を喜ばせようとしているでしょうか。あなたたちは、「すべてのことが許されている。」と言います。もちろん、何を食べてもいいです。でも、すべてのことが益になるわけではありません。そしてあなたの行為によって、周りの人々を傷つけています。」

そしてパウロはこう言いました。

だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(24)

要するに、「自分の益を他の何よりも大切にするな。また自分の権利と自由を他の何よりも大切にするな。周りの人々をその物よりも大事にしなさい。もし、兄弟たちやノン・クリスチャンのために肉をやめる必要があれば、そうしなさい。」

どうしてでしょうか。

なぜなら、最終的に私たちは一人の方だけを喜ばせなくてはならないから。それは私たち自身ではありません。むしろパウロははっきり言います。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(31)

あなたはどうですか。だれを喜ばせようとしているでしょうか。

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コリント人への手紙10:14-22--悪霊と交わること

日本では、多くのクリスチャンたちは仏教の葬式や法事に関して、どうするべきか疑問に思います。

いろんな意見があります。そんな儀式に出ないクリスチャンもいます。または、あるクリスチャンはその儀式に出るけど、数珠を使わないし、焼香しません。

私の意見ですけど、そんな儀式に出ることに関して、自分に良心に従うべきです。でも、その儀式に出ると、あらかじめその儀式で、あなたが何をするか、しないか考えた方がいいと思います。そうしないと、自分の良心に反してしまうかもしれません。

例えば、あるクリスチャンはこう考えます。「私は焼香するけど、別に深い意味がない。この偶像は本当に神々じゃないし。」

あるコリントのクリスチャンたちは同じ考え方を持っていたようです。パウロは彼らに、「偶像にささげられた肉を食べてもいいです」と言いました。

でもあるクリスチャンたちはそれを聞いて、その言葉以上に進んだようです。彼らは市場で偶像にささげられた肉を買うだけではなく、友達の家で偶像にささげられた肉を食べるだけではなく、彼らはその偶像礼拝の祭りに出たようです。

もしかしたら、彼らはこう思ったかもしれません。「私は本当にその偶像を礼拝していない。私は家族と友達と遊んでいるだけ。」

または、彼らはこう思ったかもしれません。「この祭りに参加することを通して、家族と友達に愛を示している。とにかく、この偶像は大したものじゃない。ほんとうの神々じゃないから。」

でも、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。(14)

そしてパウロは二つのことを指摘します。一つ目は聖餐式です。パウロはこう言いました。「聖餐式に参加するとき、キリストの血とからだにあずかることではありませんか。」(16)

つまり、「そのパンを食べたり、そのぶどう酒を飲んだりするとき、イエス様との交わりを表しているでしょう。イエス様の十字架の御業によって、今やあなたはイエス様との関係を持っていることを表しているでしょう。」ということです。

そしてパウロは旧約聖書を指して、イスラエル人のいけにえについて話します。イスラエル人の一つの供え物は「和解のいけにえ」でした。その牛を供えた後、彼らはその肉の部分を家に持って帰って、家族と一緒に食べました。それは神様との平和、また、神様との交わりの象徴でした。

パウロは言います。「その偶像礼拝の祭りに参加するとき、同じようなことをしているでしょう。あなたはその偶像との交わりを表しているのです。」

偶像の本当の問題は何でしょうか。その偶像はただの金や銀や木のものでしょう?

そんな考え方は間違っています。パウロはこう言いました。

私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(19-20)

要するに、コリント人たちがその祭りに参加するとき、彼らは実際に悪霊と交わりました。そのように、焼香して、仏壇の前で拝むとき、人々は実際に悪霊と交わっています。私たちクリスチャンはそうしてもいいでしょうか。

パウロは、そんな行為を一切許しませんでした。

あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。(21-22)

私たちは霊的なことを扱う時に、注意するように覚えているべきです。私たちは何を扱っているでしょうか。神様でしょうか。悪霊でしょうか。

偶像だけではなく、占星術や、手相占いや、ウィジャ板や、タロットカードはただのゲームではありません。それらは、悪霊と交わることです。

私たちがそうしないように。むしろパウロの言葉に従いましょう。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(第二コリント7:1)

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コリント人への手紙10:12-13--励ましと警告

この個所では、私たちは誘惑に関して励ましと警告を読みます。

最初にパウロはこう書いた。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(12)

多分、パウロは特に「私の信仰は強い」と思ったクリスチャンについて話していました。

私が前にも言ったのですが、コリントには「信仰の弱い」人がいました。つまり、彼らの良心が傷つきやすかったことです。だから、彼らは、偶像に捧げられた肉を食べると、罪悪感を感じました。

多分、現代では、そんな人はいないけど、ワインやビールを飲むと罪悪感を感じるクリスチャンもいます。

だから「強いクリスチャン」にとって、「弱いクリスチャン」を見下して、「私は強い信仰を持っているので、そんなくだらないルールを必要としない」と自慢するのは簡単なことでした。

でも、パウロは彼らに注意しました。「気をつけなさい。自分が強いと思うかもしれないけど、自分のプライドによって、罪に落ちて、あなたが実際に弱いクリスチャンであることが証明されてしまうかもしれません。」

例えば、ビール一杯は、すぐに二杯、三杯、四杯、五杯になって、あなたは酔っぱらうかもしれません。そしてそのパターンを続けると、アルコール中毒の問題が出るかもしれません。いずれの場合も、あなたは罪に落ちます。

でも、その罪に落ちなくても、あなたはプライドの罪に落ちるかもしれません。あなたは相手を見下します。また、彼らの目の前であなたの自由を利用するので、彼らは罪に落ちてしまいます。

もしかしたら、あなたはほかの罪に落ちるかもしれません。例えば、職場で神様に信頼せずに、会社の業績のため、また自分の立場を守るために神様の教えを曲げてしまうかもしれません。

もしかしたら、あなたは周りの人々にキレるかもしれません。

または、傷ついたとき、あなたは恨みを抱き、相手を許すことを拒むかもしれません。

私たちはいろんな方法で罪に落ちることが出来ます。でも、プライドを持てば、パリサイ人のように、私たちは自分の罪が見えなくなるでしょう。

だからパウロは警告します。「注意しなさい。あなたが思うほど、あなたは強くありません。あなたも簡単に罪に落ちることが出来ます。

でもそのあと、パウロはコリント人たちを励ましました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(13)

原文では、「試練」とは、二つのニュアンスがあります。一つ目はもちろん「試練」です。でもその言葉は、「誘惑」という意味もあります。だからパウロの要点は、あなたがどんな試練や誘惑に直面しても、神様はあなたの限界を知ることです。だから神様は、あなたが耐えられない誘惑や試練を許しません。むしろ、神様はいつも脱出の道を備えてくださいます。

もう一つのことを覚えていてください。私たちの経験した試練や誘惑は、ほかの人の知らないものではありません。

あるクリスチャンはこう思います。「私だけがこの罪と戦っている。どうして私はこんなに悪い者だろうか。」

サタンは、あなたがそのように考えて欲しいのです。

でも、パウロははっきりと言います。あなたがどんな誘惑に直面しても、ほかのクリスチャンも同じ誘惑に直面したことがあります。

自分の罪をほかのクリスチャンに告白する益の一つは、あなたが相手もその罪と戦うことを知ることです。一人で戦うなら、あなたは弱いかもしれないけど、一緒に主の力で戦うと強くなります。

あなたはどうですか。あなたは自分が強いと思うでしょうか。注意しないと、罪に落ちるかもしれません。

自分が弱いと感じるでしょうか。元気を出してください。あなたは独りぼっちではありません。ほかのクリスチャンも、あなたの戦いが経験したことがあって、その苦しさが分かります。そして神様もあなたとともにいて、助けてくださいます。

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コリント人への手紙10:1-11ーー聖書の話の目的

多くのクリスチャンたちは旧約聖書を避けて、新約聖書だけを読みます。なぜなら、彼らは、新約聖書に最も大切なことが書いてあると思うから。

もちろん新約聖書には、イエス様の十字架の働きや、恵みのゆえに信仰によって救われることなどは、もっとはっきりと書いてあります。でも、新約聖書の著者たちは旧約聖書を不必要なものとして捨てませんでした。

むしろ、彼らは何回も旧約聖書を指しました。彼らは旧約聖書から引用したり、旧約聖書の話について話したり、その話から応用を教えたりしました。イエス様も、使徒たちもそうしました。

だから、私たちもそうしなくてはなりません。

10章の最初では、パウロはイスラエル人の砂漠の旅を思い出して、話します。そして、パウロはコリント人たちにこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。(6)

また、

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(11)

パウロは特に偶像礼拝や、性的な罪や、神様に対する不信について話しています。そして、パウロによれば、私たちはこんな話を読むとき、その教訓を学ばなくてはなりません。

実は、どんな聖書の話を呼んでも、私たちはそうするべきです。不信者と違って、童話としてその話を読むべきではありません。また、ただの歴史的な話として読んではいけません。

むしろ、聖書を読むとき、私たちはこう祈るべきです。「神様、私に何を教えたいと思いますか。私に何を伝えたいと思いますか。」

そんな心を持てば、神様は私たちに教えてくださいます。このブログで、私はその模範を与えようとしています。私は事実だけを言っていません。私たちの人生に対する応用を教えようとしています。

でも、私たちの子供たちのためにそうするべきです。私たちの子供たちに聖書の話を教えるのはとてもいいことです。でもその応用を簡単に説明した方がいいです。

例えば、「神様は私たちのニーズに備えることが出来ます。」(神様はエリヤに食べ物を与える話、または、神様はイスラエル人にマナを与える話。)

または、「神様に従うことは大切なのです。」(アダムとエバの話です。)

とにかく、覚えていてください。聖書の話はただの話ではありません。神様は私たちの教訓、私たちの益のためにその話を与えてくださいました。

あなたはその考え方をもって、聖書をを読むでしょうか。

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コリント人への手紙第一10:1-12--失格すること

9章では、パウロはコリント人たちに、「冠に失格しないように注意するべきだ」と警告しました。パウロの要点は、彼らが自己中心の態度を持ってはいけないということです。なぜなら、彼らは自己中心で、自分の権利を主張したので、良心が傷つきやすい人が罪に落ちてしまったからです。だからパウロは、コリント人たちが自分の報いを失う危機にあると警告しました。

パウロ自身は自分の報いを失わないように、自分の権利でも犠牲にしました。

10章では、パウロは、自分の考え方をさらに説明します。

パウロは、神様がエジプトから救い出したイスラエル人について話します。パウロは、イスラエル人の砂漠の経験をクリスチャンの経験に例えます。

イスラエル人が紅海を渡ったことはバプテスマの経験のようでした。彼らは古い人生、つまり、奴隷の人生に対して死んで、神様の民になりました。

彼らは天からのパンを食べました。(イエス様はヨハネ6:33-35で、自分自身を天からのパンと呼びました。)

そして、彼らは岩から生ける水を飲みました。(ヨハネ7:37ー39によれば、その水は聖霊様の象徴でした。パウロによれば、その岩もキリストの象徴でした。)

でも、イスラエル人たちは約束の地という賞を受けたでしょうか。残念ですが、彼らはその土地に入る権利を失って、砂漠で死にました。

どうしてでしょうか。

あるイスラエル人たちは偶像礼拝をしたから。彼らが造った偶像を礼拝するのに、酔っぱらったり、もしかしたら性的な罪を犯したりしました。(出エジプト32章)

正直に言うと、その時、彼らは性的な罪を犯したかどうかわからないけど、民数記25章で、彼らは必ず性的な罪を犯したので、滅びてしまいました。

ほかのイスラエル人たちは主に信頼せずに、主に文句を言いました。彼らは食べ物と水のないことを文句を言ったし(民数記21:4-9)、約束の土地にいる手ごわい敵を見ると、カナンに入ることを拒みました(民数記14)。

だからパウロはこう書きました。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(11)

要するに、イスラエルの経験は、私たちのための例えです。その例えは私たちに何を教えるでしょうか。

私たちは洗礼を受け、聖餐式に参加し、神様の御霊に満たされるけど、賞を失うかもしれない。私たちが本当にクリスチャンなら、まだ救われるけど、私たちの冠を失います。(第一コリント3:15)

どのように私たちは冠を失うでしょうか。私たちが一時的なものに焦点を当てると、その冠を失います。つまり、私たちはこの世の快楽に夢中であったり、試練に直面して文句を言ったりすることです。

この世の快楽に焦点を当てると、私たちは最も大切なのものを忘れてしまいます。つまり、神様とその御国を忘れてしまいます。試練に焦点を当てて、文句を言うと、私たちの信仰を失って、レースをやめてしまいます。

だからパウロは私たちに警告します。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(12)

一時的な快楽に夢中で、私たちの賞を失わないように。また、この世の物に執着して、神様と兄弟たちと姉妹たちに対する愛を忘れないように。そして、試練によって、私たちの信仰を失わないように。

むしろ、

一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)

あなたはどうですか。賞の失格の危機にあるでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一9:24-27--何としても

この個所はかなり有名です。25-27節で、パウロは私たちの人生をマラソンと例えます。神様が私たちをこのマラソンにおいて、私たちは走っています。私たちはどんな報いを求めているのでしょうか。それは、イエス様が私たちに託した仕事を完成するための冠です。

私たちに託した仕事は何でしょうか。それは御国を広げることです。

その冠は何でしょうか。私は詳しく分かりません。でも、イエス様の教えによれば、私たちはイエス様の称賛をもらうし、イエス様の喜びをともに喜びます。さらに、私たちがこの世にいる間の忠実さに応じて、私たちは御国でもっと大きい責任を受けるらしいです。(マタイ25:21,23)

だから私たちは自分自身に訊くべきです。その冠を得るために私たちは何をするでしょうか。何としても、神様から託された仕事を完成するでしょうか。

パウロはこう書きました。

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

ちょっと考えてみてください。もしマラソンに参加しようと思うなら、あなたはただ今日どうやって人生を楽しむかを考えません。むしろ、あなたの目的を果たすために、今日の楽しみを犠牲にします。

例えば、ポテトチップスやハンバーガーを食べずに、健康的な食べ物を食べます。テレビとインターネットを見る時間を減らし、毎日頑張って何時間も走ります。そうすれば、賞を得る可能性があります。

そのように、神様の国を本当に広げたいと思うなら、私たちの人生を中心にしてはいけません。私たちはこの世の快楽を求めてはいけません。むしろ、御国に仕えるために、私たちが欲しいものを犠牲にしなくてはいけない時もあります。

だからパウロは福音を伝えるときに、その給料を断りました。そのゆえ、よりたくさんの人はクリスチャンになりました。

またパウロはユダヤ人と一緒に食べるとき、クリスチャンの自由を犠牲にして、モーセの律法に応じて、「聖い食べ物」だけを食べました。

また、傷つきやすい良心のある人と一緒に食べるときに、そのクリスチャンの自由を犠牲にして、偶像に捧げた肉を断りました。

でも、私たちの多くは自己中心の人です。自分自身を喜ばせることだけを考えます。私たちは自分の権利を考えすぎて、相手の情を踏みつけてしまいます。

もしかしたら、私たちはケチで、ニーズのある人を助けないかもしれません。また自分の時間を大事にしすぎて、ニーズのある人のために時間を取りません。

もしかしたら、ミニストリーをするとき、私たちの動機は間違っているかもしれません。他のどんなものよりも、私たちは相手からのお金や尊敬を求めます。

でもそんな態度を持てば、裁きの日に、私たちは失格者になって、冠を受けません。

その冠を受けるため、何としてもするでしょうか。その冠を得るため、今日の快楽を犠牲にするでしょうか。その冠を得るため、私たちの権利や、時間や、お金や、プライドなどを犠牲にするでしょうか。

もしくは、この世のものを求めて、失格者になるでしょうか。

あなたはどうするでしょうか。

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コリント人への手紙9:16-23--ミニストリーに対する私たちの態度

ミニストリー、つまり奉仕をするとき、自分のことに焦点を当てるのは簡単なことです。

例えば、私たちはこう思い始めます。

「奉仕すると、私はどんな益を受けるでしょうか。私に対する尊敬はどこでしょうか。経済的な報いはどこでしょうか。」

でも、パウロの心の中で、説教に対する熱意を持っていました。彼はこう言いました。

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(16)

パウロの言葉を読むとき、私は預言者エレミヤの言葉を思い出します。

私が、「主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない」と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。(エレミヤ書20:9)

だから、神様のメッセージを伝えるかどうかについて考えるとき、パウロはとエレミヤは経済的な報いや、ほかの人からの尊敬などを計算しませんでした。もしそのメッセージを伝えなかったら、彼らは惨めになったでしょう。

パウロはさらに説明しました。

私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。(17)

パウロは何を言いたいと思ったでしょうか。パウロにとっては、喜びに満ちた心から、また、主と人に対する愛を持つ心から福音を伝えるのは、報いだということです。

18節で、パウロは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供するのは報いと言いました。どうして、パウロはそのように感じたでしょうか。もしかしたら、無報酬で福音を提供することによって、御国に入る人が増えましたから。

現代の人のように、ある人々はパウロの動機を疑ったでしょう。彼らは、パウロがお金だけが欲しかったと思いました。

でもパウロは彼らに言いました。「あなたからお金を求めていません。私は、あなたに与えたいものがあります。それは、神様の赦しと永遠のいのちです。」

さらに、人々はパウロを見るとき、彼らのものを取りたいと思う人を見ずに、彼らに仕えたいと思う人を見ました。彼らに仕えるため、パウロはいつも自分の権利を譲りました。そのゆえ、たくさんの人が御国に入って、パウロは喜びました。(19-23)

それだけではなく、パウロは、主も喜んでいることを知っていました。

でも、人を愛さなくても、福音を伝える気がなくても、パウロは福音を伝えなくてはいけませんでした。なぜなら、神様は彼にその責任を与えたから。そして、パウロがその仕事をしていなかったら、神様はパウロの責任を問うたでしょう。

タラントのたとえ話で、その原則を見ることができます。あるしもべは、主人を愛さずに、むしろ主人を恐れました。だから、主人が彼にお金を預けたとき、しもべはそのお金を投資せずに、埋めました。そして結局、主人はしもべの責任を問いました。(マタイ25:24-30)

エレミヤも、その責任を感じました。エレミヤ書20章では、私たちは、エレミヤの奉仕がいつも自発的なものではなかったと分かります。エレミヤは、神様が彼を正しく扱わないと文句を言ったし、彼がイスラエル人に迫害されることについて文句を言いました。(20:7-8)

それでも、エレミヤは神様のメッセージを伝え続けました。なぜなら、主のことばはエレミヤの心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、エレミヤは内にしまっておくのに耐えられませんでしたから。パウロのように、エレミヤはそのメッセージを伝えなくてはなりませんでした。そうしなかったら、彼はわざわいだったでしょう。

でも心から仕えることは優れたことです。「私はしなければならない」という態度ではなく、「私は仕えたい」という態度の方がいいです。そんな態度を持てば、私たちの人生はもっと幸せになります。また、ミニストリーはもっと楽しむことになります。しかし、中でも、主に会う時に、私たちは報いを受けます。

あなたはどうですか。どんな態度をもって、仕えるでしょうか。

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コリント人への手紙9:6ー15--私たちの牧師たちを経済的に支えること

「どうして教会に献金をささげるべきでしょうか。十一献金は新約聖書の教えではありません。」

多くのクリスチャンはそんなことを言います。十一献金は新約聖書の教えじゃないかもしれないけど、牧師たちを経済的に支えることは新約聖書の教えです。

パウロはこう書きました。

はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。(7)

簡単に言うと、そんな人などいません。そして、最後の二つの例の要点は、はっきりしています。もし何かの手入れをするなら、そのものから益をもらうべきです。もしぶどう園を造り、手入れをするなら、その実を食べる権利を持つべきです。もし羊を飼うなら、その乳を飲む権利を持つべきです。

そのように、牧師が人々の世話するなら、その人々から益を受けるべきです。

そしてパウロはモーセの律法を指します。神様が言ったのは、脱穀をしている牛は地面に落ちた穀物を食べる権利を持っていることです。

パウロはその律法を参考にして、「神様は牛よりも人を愛しています。だから、畑で働いている人も、その仕事のから益をもらうべきです。」と言っていました。

そして、パウロはその原則をキリストのしもべたちに当てはめます。

私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのながら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。(11-12a)

そしてパウロは、宮に奉仕する人は宮から下がる食べ物を食べ、祭壇でいけにえを捧げる祭司たちが、その肉を食べていることを指摘します。

パウロはその話をこのようにまとめます。

同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。(14)

自分の理由で、パウロはその権利を譲りました。でも、私たちが牧師たちをパウロのように生活するように強制するべきというわけではありません。牧師たちが教会の外の仕事をするのは、あまりよくないことです。

どうしてでしょうか。彼らがその外の仕事をすると、彼らに神様が与えた教会の人々をちゃんと世話できないから。彼らのメッセージを準備する時間は少なくなります。人々を訪問する時間、また、相談に乗る時間も少なくなります。教会のための祈りの時間も少なくなります。

教会の経済のせいで、私の牧師はずっとそんな生活をしなくてはなりませんでした。それは仕方がないかもしれません。だから私の牧師は頑張りました。私の牧師に本当に感謝しています。

でも、それは理想的な状況ではありません。もし、牧師たちが外の仕事をしなくてはならないなら、彼らが私たちのために時間を取ることが出来ないとき、私たちは、文句を言うことができないでしょう。

イエス様は、私たちが牧師たちを経済的に支えることを命令しました。あなたはそうしているでしょうか。

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コリント人への手紙第一8-10章--御国のために権利を譲ること

聖書を読むときに、私たちはたまに文脈に注意しないので、その著者の意図を見逃してしまいます。

だからこの記事では、8ー10章をまとめて、話したいと思います。そして、ほかの記事で、8ー10章の個々をもっと詳しく見たいと思います。もちろん、個々の章で私たちは興味深いことを学ぶことが出来るけど、パウロの主旨を見逃したくないと思います。

8-10章では、パウロの主旨は何でしょうか。それは、「私たちの権利ではなく、神の御国は一番大切なものだ」ということです。だから、時々、神の御国のために私たちの権利を譲らなくてはなりません。

8章では、もう私たちは一つの例を見ました。パウロによれば、私たちは、偶像にささげた食べ物を食べる権利を持っています。でも、パウロはこう言いました。「もし私がそんな肉を食べることによって、私の兄弟が罪に落ちてしまうなら、私はその肉を食べません。さらに、彼が罪に落ちないように、私は今後いっさい肉を食べません。」(8:13)

そして、パウロはコリント人の異議を予測します。「でも、私は食べる権利を持っているよ。どうして私の権利を譲らなくてはならないでしょうか。」

パウロは12節で一つの理由を与えます。それは、私たちの行為によって、兄弟が罪に落ちるなら、私たちの行為が罪になることです。

でもそれだけではなく、パウロは自分の人生を例として指します。使徒としてパウロは、いろんな権利を持っていましたが、その権利を利用することを主張しませんでした。たとえば、パウロは、結婚して妻と一緒に宣教旅行に行く権利を持っていたけど、結婚さえもしませんでした。

また、パウロは福音を伝える仕事のため、お金をもらう権利を持っていたけど、お金を受けませんでした。実は、モーセの律法によれば、また、キリストの言葉によれば、私たちはそんな人にお金を払うべきです。でもパウロはそのお金を断りました。(9:1-14)

どうしてパウロはその権利を主張しなかったでしょうか。もしかしたら、パウロは貧しい者に福音を伝えていたからです。もしパウロが彼らのお金を受けていたら、彼らはもっと経済的に苦しんだでしょう。そしてパウロは、その貧しいものを利用するという言いがかりを避けたいと思ったかもしれません。

もう一つの可能性は、パウロは、福音を利用して、お金を儲けるという言いがかりを避けたいと思ったかもしれません。

そんな言いがかりは福音の普及を阻止したでしょう。

そして、パウロは福音のためのほかの犠牲について話しました。

モーセの律法の下にあるユダヤ人たちと一緒にいるとき、パウロはユダヤ人のようにふるまいました。例えば、モーセの律法に応じて、豚肉や貝を食べませんでした。

でも異邦人と一緒に食べるとき、パウロは何でも食べました。

しかし傷つきやすい良心のある人と一緒に食べるとき、偶像にささげた肉を食べませんでした。

多くのコリント人たちにとっては、パウロは注意し過ぎたでしょう。たぶん、彼らはパウロがその権利を譲るのは、やりすぎだと思ったでしょう。

でもパウロはその生き方をマラソンの訓練と例えました。マラソンを準備するために、時々ランナーは好きな食べ物をやめたり、好きなアクティビティをやめなくてはなりません。そうしないと、賞を受けないでしょう。そのように、もしキリストとその御国のためではなく、自分のために生きるなら、賞を受けることはないでしょう。

だから10章で、パウロはこう言いました。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(23-24)

また、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(31-33)

だから、自分の権利について考えるとき、自分自身にこう訊かなくてはなりません。「私は何のために生きているだろうか。だれのために生きているだろうか。私のためだろうか。もしかしたら、神様とその御国のためだろうか。」

神様のために生きるなら、あなたは最終的に報いを受けます。でも自分のために生きているなら、あなたの業績はなくなって、神様からの報いを受けません。

あなたは何のために、また、だれのために生きているでしょうか。

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コリント人への手紙第一8章ーー私たちの持っている知識をどのように扱うか

いろんな意味で、この個所はローマ書14書に似ています。だから、1ー3節を見て、その言葉がどのようにこの個所の残りにかかわるか話したいと思います。

パウロはこう言いました。

次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(1-3)

クリスチャンの兄弟たちが偶像にささげた食べ物を食べるときに、あるコリント人たちは気になったようです。彼らは、そんな食べ物を食べるのは罪だと思いました。そんな人に関して、パウロはこう書きました。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ書14:23)

でも、ほかのコリント人の信者たちは、偶像にささげた肉を食べることが彼らの霊的な人生にかかわらないと分かりました。実は、イエス様は、すべての食べ物がきよいと教えました。(マルコ7:19)

でも、彼らの知識はプライドに至りました。だから傷つきやすい良心のある兄弟たちの前で、彼らは自分の自由をあえて利用して、偶像にささげたものを食べました。

彼らの行為によって、傷つきやすい良心のある兄弟たちは、自分の良心に反して、その肉を食べ始めました。でも、彼らの行為が信仰から出なかったので、彼らにとっては、その肉を食べるのは罪でした。

だからパウロはその知識のある兄弟たちに怒りました。なぜなら、彼らの行為によって、その兄弟たちは罪に落ちたから。だから、パウロは彼らに言いました。「もちろん、偶像は本当の神ではありません。私たちはそう知っています。だから偶像にささげた肉を食べてもいいのです。」

でもパウロはこうも言いました。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(2)

パウロは何を言おうとしているでしょうか。知識を持っているのは、足りないのです。どのようにその知識を扱うかを知らなくてはなりません。知識を扱い方を知らないと、あなたの知識は欠けているものです。

私たちは、どのように知識を用いるべきでしょうか。愛をもって、知識を扱うべきです。

パウロはコリント人たちにこう言いました。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。(1)

知識を持つことは、プライドに至るかもしれません。「私は知っている。あなたは知らない。」

そのプライドによって、ある人は聖書についてずっと議論するけど、何も解決しません。

また、人はその知識とプライドによって、相手を見下し、裁いてしまいます。

おまけに、そのプライドによって、ある教会は引き裂かれてしまいます。

コリント人の教会で、そんな問題が出て来ました。だからパウロは彼らに言いました。

「あなたが知識を持っていることによって、神様は喜びません。あなたたちがどのようにその知識を扱うかによって、神様は喜びます。その知識によって人々を育てるでしょうか。もしくは、その知識によって、人々を取り壊すでしょうか。」

パウロはその話をこのようにまとめます。

しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(3)

私たちはどのように人が神様を愛するかどうかわかるでしょうか。ヨハネは私たちに教えます。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。(第一ヨハネ4:21)

でも、コリント人たちはそうしていませんでした。彼らの知識によって、兄弟たちを育てずに、取り壊してしまいました。その結果は?

つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。(11)

だから、パウロは彼らに警告します。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(12)

そして、パウロは彼らがどのように知識を扱うべきか教えます。

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。(13)

あなたはどうですか。どのように自分の知識を扱っているでしょうか。自分自身を高ぶらせながら、兄弟たちと姉妹たちを取り壊すでしょうか。もしくは、彼らを育てるでしょうか。

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コリント人への手紙7:29ー31--私たちのいのちがはかないゆえに

私たちのいのちは、とてもはかないものです。

私の高校性の時代の友達で、亡くなった人もいます。

明日は、私たちに約束されていないものです。

イエス様はこの世に帰るかもしれません。

もしかしたら、私たちは車にひかれるかもしれません。

パウロは「時は短くなっています」と言いました。たぶん、パウロはコリント人の「迫っている危機」について話したけど、私たちもこの世に永遠まで生き続けないことを覚えていなくてはなりません。その真理は私たちの生き方を影響に与えるはずです。

パウロはこう書きました。

今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。(29)

その言葉はちょっと不思議です。文脈を見ると、パウロは「離婚しなさい」や「奉仕に集中するために、妻(または、夫)を無視しなさい」と意味しませんでした。

でも、私たちの人生は配偶者中心のものであるべきではありません。むしろ、夫婦は神様中心の人生、また御国中心の人生を送るべきです。

また、シングルの人たちは結婚活動中心の人生を送ってはなりません。むしろ先に神の御国を求めなくてはなりません。そして、神様のタイミングで、配偶者を与えてくださいます。

パウロは続けます。

泣いている人は泣いていないかのように。。。していなさい。(30)

私たちはみんな、いろんな苦しみを経験します。私たちの周りに、死や、いろんな悲劇を見ます。その時、泣いてもいいのです。それは健康的なことです。私たちにはその必要があります。でも一生泣いていてはいけません。むしろ、私たちは立ち上がって神様の仕事に戻らなくてはいけません。私たちが泣き続ける限り、過去に縛られてしまって、神様が私たちのために計画した未来を見ることが出来ません。

でも、パウロはさらに言います。

喜んでいる人は喜んでいないかのように。。。していなさい。(30)

その言葉はちょっと不思議に聞こえるかもしれないけど、時々、私たちは自分の幸せに夢中で、満足しすぎて、もはや先に進みません。そうすれば、違う意味で私たちは過去に縛られます。私たちは先に進まなくてはなりません。私たちは喜んでいるかもしれないけど、私たちの周りに苦心でいる人が多いです。彼らも喜びを与えてくださる方を知る必要があります。

買う人は所有していないかのようにしていなさい。世と関わる人は関わり過ぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。(30-31)

要するに、この世のものが一時的なものであることを覚えていなくてはなりません。私たちは天国に行くとき、自分のお金や持ち物を連れて行くことが出来ません。二つのものしか持っていくことが出来ません。それは、神様との関係と、ほかのクリスチャンとの関係です。だからそのことを覚えていて、生きましょう。この世の物に焦点を当てずに、神様と周りの人々に焦点を当てましょう。

あなたの人生は、はかないものです。どのようにあなたの時間を使っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一7:17-24--後悔

私たち皆は後悔を持っています。もちろん私も後悔を持っています。例えば、私は人々を傷つけたことがあるので、その過去を変えたいと思います。

また、私が後悔する決断もあります。例えば、私はずっと日本に来る考えと戦いました。もっと早くその決断を神様に委ねていたら、私は大学で日本語を専攻したり、英語を教える授業を受けたりしたでしょう。

でも、私は自分の過去を変えることが出来ません。過去を変える人は誰もいません。では、どうしたらいいでしょうか。

コリント人たちは同じ疑問に直面しました。ある人はクリスチャンになる前にノン・クリスチャンと結婚したけど、クリスチャンになった後、ノン・クリスチャンと結婚するべきではない、というパウロの教えを聞きました。だから彼らは「離婚した方がいいでしょうか」と訊きました。でもパウロはこう答えました。「そんな必要はない。相手があなたと一緒に住み続けたいと思うなら、離婚してはいけません。」

ほかの異邦人が、クリスチャンになる前にユダヤ教を信じたので、割礼を受けました。でも、クリスチャンになった後、彼らは「異邦人は割礼を受けてはだめです」というパウロの教えを聞きました。だから彼らは訊きました。「割礼の跡をなくした方がいいですか。」

でももう一度、パウロは答えました。「そんな必要はありません。」

ほかの人は、クリスチャンになる前、借金のために自分自身を奴隷として売ったけど、あとで後悔しました。でもパウロは彼らにこう言いました。「自分の自由を得られるなら、もちろんその自由を得てください。でも自由を得られないなら、心配しないでください。」

簡単に言うと、パウロはこう言いました。

それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。(20)

要するに、あなたの過去の決断によって、辛い状態になっていても、その後悔を思い詰めないで。あなたがその状態にいても、神様はあなたを用いることが出来ます。

多分、割礼や、奴隷になった後悔を思い詰める人はもういないでしょう。

でもノン・クリスチャンと結婚するクリスチャンはいます。神様は彼らに言います。「その結婚から逃げるな。あなたを通して、私はあなたの家族に触れるから。」

あるクリスチャンは、離婚して、別の人と再婚しました。もしくは、元夫か元妻は再婚したかもしれません。神様はその人に言います。「心配しないでください。むしろ、今の配偶者に仕えて、子供の世話をするべきです。また、周りの人にも、私のために触れなさい。」

ほかのクリスチャンは、自分の罪のために刑務所にいます。神様はその人に言います。「それは大丈夫です。もし仮釈放が出来たら、それは良いことです。でもできないなら、そのままで刑務所にいなさい。刑務所でも私はあなたを用いることが出来ます。」

簡単に言うと、あなたがどんな状態にいても、どんな過去の失敗があっても、神様はあなたを用いることが出来ます。だからパウロはこう言います。

ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。(17)

また、

兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(24)

だから自分の後悔で思い詰めないように。むしろ、神様が今言っていることに従いましょう。なぜなら、過去に起こったことがそんなに大切ではないから。

むしろ、今は、

重要なのは神の命令を守ることです。(19)

 

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コリント人への手紙第一7章ーー結婚を後回しにした方がいい?すぐに結婚した方がいい?

いろんな理由で、日本でも、アメリカでも、多くの人々は結婚を二十代の後半、三十代になるまで後回しにしています。

ある意味、それは良いかもしれません。私の友達の間で、19歳か20歳になって結婚した人がいましたけど、私にしてみると、それは若すぎると思います。(でも、その友達はまだ結婚を継続していますから、彼らにとっては早く結婚するのは良いことでした。)

とにかく、私たち皆は違うので、ある人にとって早く結婚するのは良いことだし、ほかの人にとっては、待った方がいいこともあります。この個所では、パウロはそう教えます。

コリント人の教会で、ある婚約者たちは、結婚した方がいいか、待った方がいいか、結婚する予定をやめた方がいいかどうか、疑問に思ったようです。

結婚した方がいいか、結婚を後回しにした方がいいかについて考える人には、パウロは三つの考えるべきことを教えます。

一つ目は、結婚に対するあなたの態度です。つまり、あなたには本当に結婚にコミットメントがあるでしょうか。もしかしたら、もう逃げ道を探しているでしょうか。あなたはもうこのように考えているでしょうか。「もし私たちの結婚がうまくいかないなら、離婚すればいい。」

もし逃げ道のある結婚が欲しいなら、結婚しない方がいいです。どうしてでしょうか。イエス様は結婚が末永いものだと教えましたから。パウロはこう書きました。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(10-11)

それはマタイ19:3-12に書かれたイエス様の言葉に関してのパウロの応用です。イエス様の弟子たちでも、その教えを聞いたとき、驚きました。彼らは、「それなら、結婚しない方がいいです。」と言いました。

もしあなたがこの弟子の態度を持っているなら、結婚しない方がいいです。あなたの態度が変わるまで、結婚を後回しにするべきです。もしあなたの態度が変わらないなら、結婚しない方がいいです。

また、もう一つのことを考えるべきです。それはあなたの状況です。コリント人たちの「差し迫っている危機」のゆえに、パウロは彼らが結婚を後回しにするべきだと言いました。パウロは説明します。

(この大変な状況にいる)結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。(28)

コリント人たちがどんな危機に直面したか分からないけど、もしかしたら、迫害に直面したのかもしれません。

でもとにかく、パウロの大幅な原則は、あなたの状況によって、結婚を後回しにした方がいい時もあると教えています。

たとえば、あなたの経済状況はあまりよくないかもしれません。もしあなたが経済的な不安定があれば、結婚はつらくなるかもしれません。多くの結婚は、経済的な問題によって壊れてしまいます。

もう一つの問題はあなたの感情的な重荷、また、あなたの精神的な重荷です。もしかしたら、あなたは元彼に虐待されたかもしれません。もしかしたら、お父さんに虐待されてかもしれません。そんな問題はあなたの結婚に影響を与えるでしょう。だからあなたの感情的な問題や、精神的な問題を乗り越えるまで、結婚を後回しにした方がいいかもしれません。

でももう一つのことを考えるべきです。ただ性的な誘惑を避けるだけのために結婚するのはあまりよくないけど、やっぱりたくさんの人々はその誘惑と戦います。だからパウロはこう書きました。

結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。(8-9)

つまり、あなたの彼や彼女に対する欲情が強すぎて、もう自制できないと思うなら、あなたの状況が理想的じゃなくても、結婚した方がいいということです。でもまだ自制出来るなら、あなたの大変な状況が良くなるまで、結婚を後回しにした方がいいです。

早すぎる結婚することはとても大変なことです。でも、もし結婚の逃げ道を捨てて、配偶者に対するコミットメントがあれば、神様の恵みによってあなたはどんな問題でも乗り越えることが出来ます。

だから結婚する前、最も大切な質問はこうです。「逃げ道を探せずに、結婚のコミットメントをもって、私自分自身を相手にささげるでしょうか。」

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コリント人たちの手紙第一7章ーーシングルの生活の方がいい?

この個所を読むと、パウロが結婚についてそんなに熱心ではないと結論をつけるのは簡単なことです。

パウロは決して、「結婚は素晴らしいものです。結婚した方がいいです。」と言いません。

むしろ、パウロはこのようなことを言いました。「結婚するなら、それは罪ではありません。」(28,36)

それは熱心な勧めではありませんね。

また、パウロは言います。

婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。(38)

私たちはパウロの言葉をどのように解釈するべきでしょうか。

結婚の良さを控えめに言うよりも、パウロはシングルの生活の益を強調したいと思ったのです。

パウロの言葉は、私たちの家族と友達がしばしばいうことに反対します。

「もうそろそろ結婚した方がいいんじゃない?もう結婚の年ごろでしょう。」

「あなたはとても素敵な人だよ。どうしてまだ結婚しないの?この人はどう?あの人はどう?」

でもパウロははっきり言います。「シングルの生活でいいよ。」

どうしてでしょうか。

独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。(32-35)

私の経験では、パウロの言葉は正しいです。シングルでいれば、既婚者よりも、主に仕えるのは簡単なことです。奉仕をするとき、私はいつも妻と娘のニーズを考慮しなくてはなりません。良かったのは、私の妻もクリスチャンで、私の奉仕を応援してくれます。それでも、私の時間のバランスに注意しなくてはなりません。妻との時間や、娘との時間と、奉仕の時間を考えるべきです。

シングルの人はそんなことを考えなくていいです。だからパウロによれば、人が結婚せずに、シングルの生活を続けることは神様からの賜物です。

どうやって、あなたがその賜物があるかどうかわかるでしょうか。

もし、シングルの生活を賜物と見なさないなら、たぶんそれはあなたの賜物じゃないでしょう。:)

でも、あなたがその賜物を持っても、待たなくても、神様は自分の栄光のためにあなたのシングル生活を用いることができます。あなたは神様のためにたくさんの人に触れて、この世に影響を与えることができます。私の知り合いの間で、たくさんの人がそうしていました。神様はある友達に後で配偶者を与えてくださいました。他の人は、シングルの生活に満足するようになりました。

だから、あなたがシングルなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、シングルの人として、あなたの時間を利用して、神様に仕えようと努めてください。また、神様が一番良いタイミングで、いい人をあなたに与えることを信じてください。

シングルとして、あなたはどのように自分の時間を利用しているでしょうか。

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コリント人への手紙第一7:10-16;39-40--結婚と離婚

7章では、パウロはいろんなトピックについて話すけど、前回の記事で、私は結婚について話したので、そのトッピクについて書き続けようと思います。

今日の個所では、パウロはイエス様の結婚の教えを新たに強調します。パウロはこう言いました。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(10-11)

パウロはパリサイ人に対するイエス様の言葉を参考しています。イエス様はこう言いました。

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され」ました。そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6)

また、

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」(8-9)

私は以前の記事でイエス様の言葉について話したので、この記事では話しません。でもパウロのポイントは、結婚が末永く続くものであるべきということです。だから私たちは、結婚をそのように考えるべきです。39節で、パウロはこう言います。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。(39)

もちろん、夫も妻が生きている間は妻に縛られています。だから私たちはできるだけ、その結婚を守ろうと努めなくてはなりません。

でも時々、相手は私たちをどうしても離婚したいと思います。その場合、私たちはどうするべきでしょうか。パウロはこう言います。

そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。

信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。

しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(12-16)

パウロの教えは分かりやすいと思うので、ちょっとだけ解説します。

最初に、パウロは「これを言うのは主ではなく私です。」と言ったとき、「ただ私の意見だから、気にいらないならその意見を無視してもいい」を意味したのではありません。

むしろ、パウロの言葉の意味は、イエス様が信者でない人は信者を離婚したいという場合について話したことがなかったということです。だからパウロはこう言いました。「イエス様はこのケースについて話していないので、イエス様が任命した使徒として私はどうすればいいか教えます。」

使徒として、パウロの言葉が権威をもっているので、その言葉に従わなくてはなりません。

だから、信者でない人がどうしてもあなたと離婚したいと思うなら、離婚してもいいです。神様はそれを許します。

でも、あなたの配偶者が信者でない人なら、必ず離婚しなくてはならないとは限りません。なぜなら、あなたのおかげで、神様の手はあなたの家族の上にありますから。神様はあなたを通して配偶者と子供たちに触れることが出来ます。

この個所では、「聖なるもの」とは、「救われる」を意味しません。むしろ、神様はその家族を見て、「これは私のものだ」と言って、自分の目的のためにその家族の中で働きます。

最後に、シングルに対するパウロの言葉に注意してください。つまり、結婚したいと思うなら、クリスチャンはクリスチャンと結婚しなくてはならないことです。39節で、パウロはこう言いました。

しかし、(女の人の)夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。(39)

もちろん、パウロは特に寡婦に話しているけど、その言葉はすべての独身に当てはめられます。主に属する人と結婚しなくてはいけません。

時々、クリスチャンはこう考えます。「その人と結婚した後、その人は救われるかもしれません。」

でもちょっと考えてみてください。パウロが言ったのは、信者でない人が離婚したいと思うなら、その人を離れて行かせなさいということです。なぜでしょうか。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(16)

その答えは何でしょうか。その人が未来に救われるかどうかわかりません。そのことに関して神様からの約束はありません。多くのクリスチャンはノン・クリスチャンと結婚して、後ですごく悩んでしまいます。クリスチャンと結婚しても、結婚は難しいのです。でも、夫婦の基本的な信じることが違ったら、結婚はさらに大変になります。だからそもそもそんな関係を避けた方が良いのだと思います。

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コリント人への手紙第一7:1-5ーー結婚とセックス

多くの人々はセックスの必要を強く感じます。たぶん、一つの理由は、人間が結婚して子供を作るために、神様がその欲望を人間の心に入れたからでしょう。

でも、前回の記事で私が言ったように、神様はセックスに制限をかけます。つまり、セックスは夫婦のためということです。

日本では、セックスレス夫婦の人数が増えているようです。いろんな記事はそのトッピクについて書いてあります。でもコリント人のクリスチャンたちも、結婚とセックスという質問があったらしいです。だから、彼らはパウロにどうすればいいか尋ねました。

パウロはこう答えました。

さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが。。。(1)

「男が女に触れないのは良いことだ」、つまり、「セックスしない方がいい」というコリント人たちがいたようです。

一方で、あるコリント人たちは性的な罪を犯しました。(5章)

でもその反面、あるコリント人たちはセックスしない方がいいと言いました。もちろん、クリスチャンにとってセックスが夫婦だけのためですので、彼らの意味は、「結婚しない方がいい」ということです。

パウロは独身の生活も良いことだと教えたけど(7ー8,32-35節)、パウロは彼らにこう言いました。

淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。(2)

つまり、性的な欲望がとても強いので、結婚しないと、人が性的な罪に落ちる可能性が高いということです。そして、私が以前言ったように、神様の御心が人間が結婚して子供を作ることなので、神様はその強い欲望を人々に与えたのです。

実は、結婚は神様との関係の描写です。私たちたちはキリストと結ばれます。キリストは花婿みたいだし、私たちは花嫁みたいです。そして、その結婚によって、私たちはイエス様に対する愛をもって、義の実をを結びます。

とにかく、パウロが言ったのは、夫婦が結婚してから、配偶者とのセックスを楽しんでもいいということです。さらに、パウロは、彼らが定期的にそうするべきだと言いました。パウロはこう言いました。

夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。(3-5)

パウロはその言葉で、私たちが覚えていなくてはならない結婚の原則を教えます。

一つ目は、結婚すると、あなたのからだはただ自分のものではないことです。あなたはあなたの配偶者に属するし、あなたの配偶者はあなたに属するのです。だからパウロは「互いに相手を拒んではいけない」と言います。

パウロによれば、あなたたちが祈りに専念するために、ちょっと遠慮してもいいけど、それでも相手の合意が必要です。

でもパウロは、夫婦がもう一度一緒になるべきだと教えます。どうしてでしょうか。そうしないと、サタンはすぐにあなたたちを性的な罪で誘惑するから。それは特に男性の問題だけど、もちろん女性も誘惑されます。

でも多くの夫婦はその指示に従わないので、その結婚は壊れてしまいす。彼ら結婚の外で、自分の性的なニーズを満たしてしまって、その結婚を壊したり、相手を傷つけたり、子供をも傷つけたりします。

そうしないで下さい。不倫せずに、自分の配偶者を通して、その性的な満足と幸せを求めましょう。

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コリント人への手紙第一6:13-20--どうして性的な罪がそんなに悪いか

もちろん、すべての罪は悪いのです。でもパウロは性的な罪が特に悪いと言います。特にクリスチャンにとっての性的な罪は悪いと言います。

パウロは言います。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。(15a)

パウロはさらに説明します。

しかし、主と交わる者(つまり、クリスチャン)は、主と一つの霊になるのです。(17)

また、

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり(ます)(19a)

でも、私たちは遊女と寝ると、どうなるでしょうか。パウロはこう言います。

それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。(16)

要するに、神様がセックスを発明した理由は、単に人々が子供を作り、また、遊ぶわけではありません。その理由は、夫と妻は一体となることです。セックスるするとき、その人と肉体的な一致だけではなく、感情的な一致を作ります。あなたが遊女と寝るとき、そんな一致を作ります。それを考慮して、パウロはとても見苦しい絵を描きます。

それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。(15b)

私はパウロのポイントをさらに説明する必要がないと思います。

でも、遊女との罪だけではなく、すべての性的な罪が悪いのです。「淫らな行い」、また、「不品行」というは、何でしょうか。それは夫と妻の間以外のセックスです。夫と妻の間のセックスは神様に祝福されるものです。ほかのセックスは神様に呪われます。(9)

なぜ性的な罪はほかの罪と違うでしょうか。性的な罪は独特な方法で私たちに影響を与えるから。その罪によって、私たち自身が相手と結ばれてしまいます。だからパウロはこう言います。

人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(18)

多分、多くの人々はパウロの言葉が分かるでしょう。でも覚えていてください。私たちのからだは、キリストのからだの一部です。だから、遊女と寝ると、まるで私たちがイエス様をその遊女とを結んでいるかのようです。私たちがほかの人の配偶者と寝ると、まるでキリストはその罪に参加するかのようです。彼や彼女と寝ると、まるでイエス様がその罪に参加するかのようです。それはとてもひどい考えでしょう。だからパウロはこう言います。

淫らな行いを避けなさい。。。あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(18-20)

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コリント人への手紙第一6:12-20-キリストにある自由に関する間違っている考え方

パウロの書簡の中で、一つのテーマは、私たちが律法から自由されていることです。私たちは律法の下にはなく、恵みの下にあるのです。でも現代の人たちと同じく、パウロの時代の人々はその教えを曲げました。

コリント人たちはあえて罪を犯して、互いに傷つけ合ったので、パウロは彼らを叱責しました。パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(9-10)

コリント人たちはどのように反応したでしょうか。彼らはこう言いました。「でもね、パウロ。あなたは、「すべてのことが私には許されている」と言ったでしょう。だから罪を犯してもいいんじゃないですか?やっぱりこれは私の人生でしょう?」

でも、パウロは答えました。「すべてのことが許されているかもしれないけど、すべてが益になるわけではありません。」(12)

8章では、私は一つの例を見ます。偶像にささげた食べ物を食べるのは罪ではないけど、あなたの兄弟がそれを見てきっと躓いてしまうことを知っているなら、あなたはそんな食べ物を食べてはいけません。あなたがその食べ物を食べることは、兄弟には益がないからです。

パウロは続けます。「すべてのことがあなたに許されているけど、あなたはどんなことにも支配されてはいけません。特に、罪に支配されてはいけません。」(12)

ローマ人への手紙で、パウロはさらに説明します。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ人への手紙6:16)

多くの人は、最初は罪を犯すことを選ぶけど、結局その罪の奴隷になってしまいます。飽食は一つの例です。ポルノはもう一つの例です。人々はあえてその罪に耽るけど、自分の行動をコントロールできなくなったと急に分かるようになります。

お医者さんが彼らに「体重を減らさなくてはならない。そうしないと、必ず心臓発作を起こすでしょう」と警告しても、彼らは食生活を変えることが出来ません。

または、結婚関係が大変になっても、ポルノをやめられません。

あるコリント人たちはこう言いました。「でも、神様の御心は私たちが食べることです。だから私たちに胃袋を与えてくださいました。また、神様は私たちを性的な被造物として造りました。そのニーズを満たすように私たちが造られました。どうしていろんな制限が必要でしょうか。」

でも、パウロが答えたのは、私たちがもちろん胃袋を持っているし、性的な被造物だけど、そのニーズを満たすのが私たちの主な目的ではないことです。私たちは単に自分のために生きるために造られませんでした。私たちは自分自身を喜ばせるためだけに造られませんでした。パウロはこう言いました。

「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。(13a)

ようするに、食べ物や腹は永遠のものではなく、一時的なものです。だから、私たちは単に自分の腹を満たすために造られませんでした。

パウロは続けました。

からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。(13b)

つまり、罪を犯すためではなく、むしろ主を喜ばせるために私たちが造られたのです。私たちは、主の宮になるために造られました。そして、私たちを買うためにイエス様は十字架で大きい代価を支払いました。

パウロはこう書きました。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(19-20)

キリストにある自由は、私たちが自分のために生き、罪に耽ることではありません。むしろ、キリストにある自由は、私たちを滅ぼしていた罪から自由にされることです。だから、私たちは神様からの罰を恐れる必要がありません。むしろ、神様が私たちを愛して、聖霊様が私たちのうちに住んでおられることを知って、歩むことが出来ます。そして、私たちが造られた目的を満たします。それは、私たちは神様を愛し、敬い、栄光をささげることです。

あなたはどうですか。あなたはどのように自分の自由を用いるでしょうか。

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コリント人への手紙第一6:1-11--どのように私たちは自分自身を世に表すか

訴訟はアメリカでは日常茶飯事に行われています。どんなに馬鹿なクレームをもっても、人々は相手を訴えます。

アメリカと比べると、日本には訴訟がそんなにないけど、相手を訴える人もいます。

コリントのクリスチャンたちの間でも、たくさんの訴訟があったらしいです。パウロはそれを見て、二つのことに困惑しました。

一つ目は、兄弟たちや姉妹たちは相手にあえて罪を犯すことです。二つ目は、傷ついた兄弟か姉妹が相手を訴えることです。

さらに、傷ついた人自身は毒を以て毒を制して、相手に悪いことをしてしまいました。だから、パウロは彼らにこう言いました。

それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をするもの、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することが出来ません。(8-10)

簡単に言うと、自分自身をだまさないでいなさい、ということです。あなたはクリスチャンを自称するかもしれないけど、悔い改めずに罪を犯すと、神の国を相続することが出来ません。

ある人は、パウロが救いを失った人について話していると思います。でも、そんな人がもともとクリスチャンではなかったでしょう。

でも、パウロはコリント人たちが本当にクリスチャンであることを前提にします。だからパウロはこう言いました。

あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(11)

つまり、「あなたたちは神様に清められて、神様のために聖別されました。あなたたちは違う人になったでしょう。どうしてあなたの兄弟たちと姉妹たちをこのように扱うでしょうか」ということです。

そして、クリスチャンの間の訴訟に関して、パウロはこう言いました。「ある日、あなたたちは世界の人々と天使たちをも裁きます。どうしてあなたたちは、こんな些細な問題に対処できないでしょうか。」(2-5)

でも、パウロが本当に怒ったのは、コリント人たちが自分の恥ずかしいことをノン・クリスチャンの前に出すことです。だから、ノン・クリスチャンはそれを見て、こう訊きました。「クリスチャンとは、そんなものでしょうか。私たちと同じです。彼らも互いに傷つけ合ったりするでしょう。」

要するに、彼らの罪は教会のしみになりました。

だからパウロはこう言いました。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。(7)

コリント人たちは二つの方法で、敗北しました。

一つ目は、彼らはサタンと戦わずに、互いに戦い合ったことです。

二つ目は、彼らの評判が汚されたことです。

イエス様はこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

でも、教会で私たちはそのようにふるまっているでしょうか。もしくは私たちが互いに戦い合って、サタンは勝利を得ているでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一5章ーー兄弟たちと姉妹たちは厚かましくて罪を犯すとき

前回の記事では、私は、兄弟たちと姉妹たちが厚かましく罪を犯すと、教会がそんな態度を寛容に許すべきではないと言いました。

でも、二つの注意事項があります。

一つ目は、パウロが、私たちが罪と戦っている人を避けるべきだと言っていないということです。キーワードは、「戦っている」です。

私たち皆は自分の罪と戦っています。私たち皆には、毎日毎日戦わなくてはならない罪があります。でも私たちがどんなに戦っても、ある罪は粘ります。でも、自分の罪と戦うことと、あえて罪を犯すことは全然違うことです。

クリスチャンにとっては、罪との戦いは大変なことです。あなたは自分の行為が悪いと認めて、その罪を悩んでいます。心の中で、あなたは本当にその罪を捨てたいと思います。そして、毎日、あなたは神様の前に来て、その罪を克服する力のために祈ります。自分の罪によって本当に苦しんでいる場合、あなたがほかのクリスチャンの祈りとサポートを頼んだ方がいいと思います。そして、罪に落ちたら、すぐに悔い改めなくてはなりません。

でも、あえて罪を犯すのは、あなた自分の罪を自慢し、全然悔い改めないことです。そんな人はこう言います。「これは私の性格です。私は変わらないので、あなたは私をありのままで受け入れなくてはなりません。」

もし、ほかのクリスチャンがみ言葉を通して、その人を訓戒しようとすると、その人は自分自身の行為を正当化しようとします。

コリントの教会の兄弟はそのようにふるまいました。彼は罪と戦っていませんでした。彼はあえて罪を犯していました。そしてパウロは、そんな人と交際してはいけないと言いました。そんな人の罪を無視して、その人を受け入れると、その人の罪はパン種のように教会に広がりますから。

もう一つの注意事項があります。それは、その人を懲らしめるときの私たちの態度です。パウロはこう言いました。「その人の罪の故、あなたたちは悲しむべきだったでしょう。」(2)

その人に対する態度は、傲慢ではなく、悲しみです。私たちの願いは、彼らが悔い改めることであるべきです。あえて罪を犯すクリスチャンを教会から追い出す理由は二つあります。一つ目は、その罪が教会に広がらないということです。でも二つ目は、その人が悔い改めることです。

パウロはこう言いました。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(5)

「その人をサタンに引き渡しなさい。」

それはとても厳しいい言葉です。でもパウロの意味は、「その人が罪をあえて犯すので、この世に追い出しなさい。その人が教会の安全から離れさせて、サタンが攻撃するように許しなさい。」ということです。

どうして、そんなことを許すでしょうか。サタンがその人を滅ぼすためでしょうか。

違います。

私たちの希望は、その人が放蕩息子のように自分の罪の惨めさが分かって、悔い改めることです。その結果は、彼の罪深い心が死ぬので、イエス様がこの世に戻ると、その人は救われることです。

簡単に言うと、その人に対する私たちの態度は愛であるべきです。でも愛とは、あえて罪を犯す人を受け入れることではありません。愛とは、その罪の故に悲しんで、その人をこの世に追い出して、悔い改めを待つことです。

罪の深刻さを忘れないでください。イエス様が罪のために死ぬほどに、罪は深刻なことです。イエス様の死が分かっていながら、罪をあえて犯すのは、「神の御子を踏みつけること」と「恵みの御霊を侮る」ということです。(へブル人への手紙10:29)

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コリント人への手紙第一5章ーー罪を大目に見て、誇る?

以前の記事で、私は「寛容」ということについて話しました。「寛容」とは、アメリカ人にとっては合言葉みたいなものです。

もちろん、ある意味で、寛容はとてもいいことです。つまり、相手と違う意見を持っているのに、まだ互いに尊敬し合ったり、いい関係を持ったりするなら、それはとてもいいことです。

私たちクリスチャンたちはノン・クリスチャンに、もちろん寛容を示さなくてはなりません。彼らが私たちのように信じないので、私たちのようにふるまうことを期待できません。そのことを覚えていながら、彼らを愛し、彼らと時間を過ごし、福音を伝えたり、彼らのために祈るべきです。

イエス様はそうしました。イエス様は「罪びとの友達」でした。実は、宗教的な人たちが気を悪くするほど、イエス様は罪人たちと時間を過ごしました。

それでも、パウロははっきりと言います。自分がクリスチャンだと主張する人が厚かましく罪を犯すと、私たちはそんなことを寛容に許してはいけませんん。でも、ある教会は、「愛」と「受け入れ」の名によって、そんなふるまいを寛容に受け入れてしまいます。コリント人たちはそうしていたようです。

ある人は、自分がクリスチャンだと主張したけど、自分の母と寝ていました。もしかしたら、それは実の母ではなく、義理のお母さんかもしれませんでした。それでも、一般のコリント人たちはそんな関係を受け入れませんでした。

でもコリント人の教会は、この態度を持っていたようです。「私たちは愛に満ちた教会です。私たちはすぐに人を許して、受け入れます。私たちはとても寛容な教会なので、義理のお母さんと寝ていても、その人を受け入れます。」

でもパウロはそれを聞いて、とても仰天しました。彼はこう言いました。

あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。(6-8)

聖書では、パン種は罪の比喩です。そういうわけで、過ぎ越し祭りの時、ユダヤ人たちはパン種のないパンを食べました。何百年も後、過ぎ越しの祭りの時に、イエス様はパンを裂いて、「これは私の体」だと言いました。そのパンはイエス様の罪のない人生を表しました。イエス様が罪を犯していなかったのに、私たちのために死んでくださいました。

とにかく、パウロはコリント人たちにこう言いました。もしその罪が続くことを許すと、その罪は教会に広がってしまいます。もし、このクリスチャンが厚かましくて罪を犯すのに、あなたたちがその振る舞いを許すなら、ほかの人はその人の模範に従い始めます。だから、その悪意と邪悪のパン種を捨てなさい。誠実と真実に満ちる教会になりなさい。

パウロはさらに言いました。

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。(11)

それは厳しい言葉です。多くの教会は今その言葉を愛の言葉と見なしません。でも、パウロの言葉は本当に明らかです。

しかし、注意してください。パウロはノン・クリスチャンの罪人と罪を厚かましく犯すクリスチャンを区別します。パウロはこう言いました。

外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。(それは違います。)あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。(もちろん。)(12)

そしてパウロはこう言います。

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

教会の人々は罪人を愛するべきでしょうか。もちろんです。でも、愛の名によって、クリスチャンの厚かましい罪を許すべきでしょうか。それはダメです。

それでも、明日、私はもっと説明することがあると思います。お楽しみに。

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コリント人への手紙第一4:14-21--私たちがついていく方

私たちが人生を送るにつれて、私たちはいろんな人を見上げます。たとえば、私たちは両親や先生や、コーチや、牧師などを見上げます。

多くの場合、彼らは良い模範です。でもパウロは、私たちが誰についていくかに注意するべきだと警告します。

クリスチャンの世界でも、多くの人々の言葉が良いに聞こえます。でも、パウロはこう言いました。

神の国はことばではなく、力にあるのです。(20)

そして、パウロがコリント人たちにこう言いました。

主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。(19)

私たちがついていくリーダーたちに関して、「彼らはどんな力を持っているか」と訊くべきです。彼らの力は神様から来るでしょうか。もしかしたら、彼らの力は違うところから来るでしょうか。彼らは自分のカリスマに頼るでしょうか。自分お金に頼るでしょうか。自分の権力に頼るでしょうか。もしくは、彼らの力はサタンから来るでしょうか。

私たちはどのように彼らの力の源を見極めるでしょうか。彼らの実によって見極められます。

イエス様はこう言いました。

偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、裏側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:15-16)

私たちはどんな実を探すべきでしょうか。それは彼らの教えと行為です。パウロは、自分とテモテについて話した時、同じ基準を使いました。彼はこう言いました。

そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えている通りに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(17)

そんな人を見つければ、彼らの模範に従うべきです。だからパウロは、こう言いました。

ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。(16)

でも、彼らの実が腐っているなら、私たちは彼らを避けるべきです。

あなたはどうですか。あなたは誰についていくでしょうか。

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コリント人への手紙第一4:6-13--プライドについての警告

C.S.ルイスというクリスチャンの著者は、プライドを「最大の罪」と呼びました。どうしてでしょうか。なぜなら、プライドは神様と私たちの間に壁を建てるし、私たちと周りの人たちの間に壁を建てるから。

エデンの話で、私たちはその問題を見ることが出来ます。エバのプライドによって、神様のようになりたいと思って、罪に落ちてしまいました。プライドによって、サタンも罪に落ちたようです。

今日の個所では、私たちが見たのは、プライドがコリントの教会を引き裂いていたことです。さらに、プライドはパウロとコリント人の間の壁になりました。

4ー13節と18ー19節によれば、コリント人たちはパウロのことを見下したようです。自分の持ち物や、知識によって、悦に入っていたので、パウロの弱さや苦しみを見た時、彼らはパウロを軽蔑しました。

でも、パウロは彼らにこう言いました。

それは、私たちの例から「書かれていることを超えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。(6)

「書かれていることを超えない」とは、どういう意味でしょうか。

答えがはっきりしないけど、たぶんパウロは、キリストにあって私たちの立場に関する教えについて話しているのだと思います。

つまり、私たちの救いは私たちの身分や行いによらないことです。むしろ、私たちの救いは神様の恵みに基づいています。もし私たちは神様の恵みによって救われた者だと覚えていれば、ほかの人たちを軽蔑することはありません。また、私たちはリーダーたちを比べたりしません。

パウロはその真理をはっきりして教えて、コリント人たちに思い出させました。

いったい誰が、あなたをほかの人よりも優れていると認めるのですか。あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(7)

その最初の答えはちょっと微妙です。もしかしたら、パウロは「私は偉い」という態度を批判しているかもしれない。それがパウロの意図なら、その答えは、「あなたをほかの人よりも優れていると認める人がだれもいません」。でも、もしかしたら、パウロのポイントは、「もしあなたが本当に優れている人なら、神様は恵みによってあなたにその立場を与えてくださったのです。」

最後の答えははっきりしています。2番目の答えは、「何も」です。要するに、あなたがもらわなかったものは何もありません。

そして、3番目の答えは「あなたには誇る理由がありません。」

その答えを考えると、私たちは謙遜な態度を持っていなくてはなりません。

でも多くの場合、私たちはそのように考えません。むしろ、私たちのプライドによって、私たちと神様の間に壁を建てるし、私たちと周りの人たちの間に壁を建ててしまいます。

私たちが神様の恵みを実感したら、私たちの考え方は全然違うでしょう。どれだけ、私たちの神様との関係や、配偶者との関係や、教会の人との関係や、ほかの関係は良くなるでしょう。

あなたはどうですか。あなたのプライドによって、どんな壁を建てているでしょうか。

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コリント人への手紙第一4:1-5--忠実だと認められること

使徒ヤコブはこう書きました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

私は聖書を教える立場なので、私にとってそれはちょと恐ろしい言葉です。神様は私にみ言葉を与えたし、そのみ言葉を教える賜物を私に委ねました。だからパウロの言葉も、私の心を打ちます。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(4:2)

でも、私たち皆が神様からゆだねられたものを持っています。神様は私たちにいろんな資源や、賜物や、才能を委ねました。そして、神様は、私たちがその物を忠実に使うことを期待します。私たちがそうしないと、私たちは神様に責任を問われます。

神様は私たちの裁判官なので、私たちはほかの人よりも神様を喜ばせようとしなくてはなりません。私たちは最終的に牧師や、教会の人や、ほかの人ではなく、神様だけを喜ばせなくてはなりません。

だから、私たちはいつも自分の心を探らなくてはなりません。私たちの動機は何でしょうか。私たちは正しい動機を持って、神様に仕えているでしょうか。私にも自分の動機について疑いがあります。裁きの日にキリストが私に何を言うかちょっと恐れます。イエス様は何を言うでしょうか。

パウロにはやましいことは少しもありませんでしたけど、パウロも自分の動機に関して、ちょっと疑いがありました。彼はこう言いました。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(3-5)

たぶんパウロの要点の一つは、私たちが自分の心をプライドから守らなくてはならないことです。あなたの動機は正しいと思うかもしれないけど、あなたの自己評価が正しいとは限りません。

預言者エレミヤはこう書きました。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ書17:9)

主はこのように反応しました。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:10)

だから何をしても、自分の心を探りましょう。また、主があなたの心を探るように祈りましょう。主が私たちの動機を現すように祈りましょう。そうすれば、私たちは謙遜な態度を保つし、私たちに委ねられたものを忠実に使います。

あなたはどうですか。神様からゆだねられたものを忠実に使っているでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一3:5-9--主に仕えるときの私たちの態度

ある程度、私は前回のブログのことを繰り返します。でも、今回はある物事を特に強調したいと思います。

一つ目は、神様と働くのは私たちの特権ということです。パウロはこう言いました。

私たちは神のために働く同労者であります。(9)

聖書の脚注を参考すると、別訳を見ることが出来ます。

「私たちは神の協力者。」

それをちょっと考えてみてください。神様は実際私たちの助けを必要としません。神様は一人で自分の仕事をすることができます。でも、神様は私たちを用いることを選びます。神様は私たちにその仕事に参加するように招待します。それは本当に驚くべきことです。

神様の私たちを救った目的は、私たちがただ座って神様の恵みを楽しむことではありません。神様は、私たちが御国で活躍することを望みます。だから、神様は私たちを招きます。「私の仕事に参加しませんか。一緒に働きましょう。」

でも二つ目のポイントは、神様が私たちを招く目的が私たちの栄光ではないことです。パウロはこう言いました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。(5)

しもべは周りの人々の注意を引こうとしません。もっとも良いしもべは、人から気づかれません。それでも、その人はやらなくてはならないことを忠実にします。そして、日が終わると、その人はこう言います。

私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです。(ルカ17:10)

この世の主人はしもべを評価しないかもしれないし、見下すかもしれないけど、神様は私たちを協力者と見なします。そして神様は私たちと共に働きます。

なぜなら、神様が私たちの人生の中で働かず、また私たちを通して働かないなら、私たちは何も達成できませんから。だからパウロはこう書きました。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(6)

そういうわけで、私たちには誇る余裕がありません。パウロは続けます。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(7)

最後に覚えていなくてはならないのは、神様の仕事に参加する人々は教会のリーダーたちの労働者ではないことです。彼らは神様の畑、神の建物です。(9)

多くの人々は、ミニストリーの縄張りを作ります。もし私たちが同じミニストリーをしているなら、それが自分の縄張りとみなします。また、そのミニストリーで働く人を自分の労働者であると思い始めます。

でも主はそれぞれの人々に仕事を指名します。また、主はいつも人々を仕事に参加するように招くから、その人々が参加し始めると、ほかの人の責任は変わるかもしれません。そして、それは御国の成長のためです。

でもイエス様がほかのクリスチャンを呼ぶとき、あるクリスチャンは怒ります。なぜなら、その新しい人々は彼らの縄張りを荒らしているから。そして、相手がもっと才能があるなら、彼らは嫉妬してしまいます。

でも覚えていてください。すべてのクリスチャンはキリストの体の中で、自分の役割を持っています。神様はそれぞれのクリスチャンたちに役割を与えてくださいました。私たちはもちろん神様と共に働くけど、ほかのクリスチャンたちと共にも働きます。だから、縄張り意識と嫉妬を捨てましょう。なぜなら、教会は神様の畑、神様の建物ですから。

でも中でも、私たちの神様との関係に焦点を当てましょう。神様が自分の仕事に参加するように私たちを招く理由は、私たちが神様と時間をもっと過ごすことです。そうすれば、私たちは喜びを見つけます。

あなたが神様の仕事をするとき、どんな態度を持っているでしょうか。

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コリント人の手紙第一3:5-23--何の原料で教会を建てるでしょうか。

今日の個所では、パウロは、私たちがどのように教会を建てているかについて話します。そしてパウロは、私たちがどのように教会を建てるかに注意しなくてはならないと言います。

だから最初にパウロは教会の基礎について話します。もちろん、その基礎はキリストです。(11)

でも私たちは何の原料で、その基礎の上に教会を建てるでしょうか。それは牧師のカリスマでしょうか。または、ねたみでしょうか。もしくは、蔭口でしょうか。または、プライドでしょうか。

牧師のカリスマは悪いことではないけど、それは安定的な原料ではありません。

でもそのほかのものはどうですか。それらは教会を壊してしまいます。だから教会のメンバーたちそれぞれは、牧師でも最も新しいメンバーでも、自分の役割を果たしている間に、自分自身に訊くべきです。「私は何の原料で、この教会を建てようとしているでしょうか。」

私たちが使っている原料によって、私たちは裁かれます。

パウロはこう言いました。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(12-15)

自分の役割をちゃんと果たさないなら、私たちは地獄には行かないけど、自分の報いを失ってしまいます。だからある人は天国に行くけど、彼らの成果は全部なくなります。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの心は神様の目に正しくなかったからです。彼らはねたみやプライドに満ちた心を持っていました。そんな態度によって教会の分裂が出てきたり、教会が破壊されたりします。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。(16-17)

パウロが言ったのは、あなたがたクリスチャンたちは神様の宮ということです。言い換えれば、教会は神様の宮です。もし私たちの行動によって、教会が滅びるなら、神様は私たちを裁きます。私たちのプライドや、ねたみによって教会が壊れたら、私たちは神様に責任を問われます。

だからパウロは、「そんなものを捨てなさい」と言います。プライドやねたみや分裂に至る知恵を捨てなさい。むしろ、十字架の「愚かさ」を抱きましょう。十字架の愚かさは、私たちに謙遜な心、また感謝深い心に至ります。そんな心を持つなら、私たちが互いに受け入れ合う態度に至ります。

あなたはどうですか。あなたが牧師でも、教会の最も新しいメンバーでも、あなたは教会を建てる役割を持っています。何の原料で教会を建てているでしょうか。

 

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コリント人への手紙3:1-4--幼子

2章では、パウロは「成熟したクリスチャンたち」や「御霊を受けている人」について話します。この場合、「御霊を受けている人」は「霊的な人」というニュアンスがあります。つまり、聖霊様を受けているだけではなく、その人は聖霊様の導きに従うことです。

でもパウロは、コリント人たちを「成熟したクリスチャン」や「聖霊様の導きに従ているクリスチャン」と呼ぶことが出来ませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私は、あなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。(1-4)

それはとても厳しい言葉です。でも、パウロはあなたを見れば、何を言うでしょうか。もしイエス様はあなたを見れば、何を言うでしょうか。

私の言葉を誤解しないでください。もしあなたは最近クリスチャンになったばかりのなら、私はあなたについて話していません。もちろん、あなたが赤ちゃんのクリスチャンだから、いろんな成長しなくてはならないところがあるでしょう。でも、赤ちゃんが決して成長しないなら、何か深刻な問題があります。

もし私の10歳の娘がまだ哺乳瓶からミルクを飲んでいるなら、それはおかしいでしょう。赤ちゃんの時にそれは可愛いけど、10歳の子にはふさわしくありません。もし、彼女が歩かずに、まだはいはいしているなら、それはおかしいでしょう。もし、彼女がまだ赤ちゃん言葉だけを言うなら、それはおかしいでしょう。

でも、多くのクリスチャンたちはまだ幼子です。彼らは全然成長しませんから。

つまり、彼らはまだ「肉に属する人」ということです。そんな人はまだノン・クリスチャンのように生き続けます。コリント人たちの場合、彼らの心はねたみに満ちて、いつもケンカしていました。彼らはプライドをもって、彼らのリーダーたちを比べて、ほかのクリスチャンたちを見下しました。だから、彼らの教会は引き裂かれていました。

現代でも、どれだけ教会が同じ理由で引き裂かれているでしょうか。どれだけ、その問題のせいで、多くの人々は教会をやめるでしょうか。それは未成熟の兆候です。

もしあなたの心はそんなものに満ちているなら、どのように成長することが出来るでしょうか。あなたは根本的なことに戻らなくてはなりません。つまり、あなたは福音のミルクをもう一度飲まなくてはなりません。そのミルクは何ですか。そのミルクに何の真理が入っているでしょうか。

それは、神様はあなたを愛していることです。あなたの身分のためではなく、あなたの行いのためではなく、神様の性格のため、神様はあなたを愛しています。あなたの罪のために死ぬようにイエス様をこの世に送ったほどに、神様はあなたを愛していました。

どいうして私たちはプライドを持っているでしょうか。どうして自分自身をほかの人と比べるでしょうか。どうして、私たちは相手をねたんで、喧嘩するでしょうか。なぜなら、その神様があなたを愛しているという真理をまだ実感しないから。

もし私たちは神様の愛を本当に知っているなら、ほかの人の私たちに対する意見を気にしません。

相手をねたまないし、自分自身を相手と比べません。なぜなら、神様が私たちをありのままで受け入れるから。

さらに、私たちはプライドを捨てます。なぜなら、私たちが自慢することがないと分かるから。私たちが持っているもののすべては、神様から来ました。もし、私たちがその祝福のために働かずに、むしろ、私たちがただでその祝福をもらったら、自慢する余裕がありません。

あなたはどうですか。その真理が身に染みたでしょうか。

私たちがこの世界の考え方に従わないように。私たちが幼子にならないように。むしろその真理を飲み込みましょう。そうすれば、私たちは成長して、神様が望んむ通りになります。

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コリント人への手紙2:6-16--神様の思いを知ること

目に見えない神が自分自身を私たちに現わさないなら、私たちはその神について何も知らないでしょう。さらに、その神が自分自身を私たちに現しても、私たちに理解できる心を与えてくださらないなら、私たちにはその啓示が分からないでしょう。

それは救いと恵みの不思議さの一つです。私たちに神様が見えないけど、神様は自分自身を現してくださいました。そして、私たちが自分の知恵で神様が何を現したか把握できなかったけど、神様は聖霊様を通して私たちにその理解を与えてくださいました。

この個所で、私たちはその真理を見ることが出来ます。

パウロはこう訊きました。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(11)

結婚する前、私は婚約者にこう言いました。「私はあなたの思いを読み取ることが出来ません。だから、気になっていることがあれば、私に教えてください。」

人々の思いを読み取るのはとても難しいことです。彼らはいったい何を思っているでしょうか。何を感じているでしょうか。何を計画しているでしょうか。

もし私たちに見える人々の思いを読み取れないなら、どうやって、目に見えない神の思いを読み取ることが出来るでしょうか。

自分の知恵によって、人々は神様とその計画が理解できないでしょう。7ー8節で、パウロは一つの例を与えます。それは、神様の救いの計画です。神様はもともと何をするか分かったけど、人々はその計画を完全に理解できませんでした。

神様はユダヤ人たちに儀式や預言者の言葉を通して、救いの描写を与えてくださいました。でも、彼らはその描写を把握することが出来ませんでした。だからパウロはこう言いました。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(8)

大祭司であったカヤパでも、その計画を把握することが出来ませんでした。皮肉なことだけど、カヤパは自分の言葉の意義を把握することが出来ませんでした。彼はイエス様についてこう言いました。

一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。(ヨハネの福音書11:50)

ヨハネは後でカヤパの言葉を解説しました。

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。ヨハネの福音書11:51-52)

神様がカヤパを通して預言するのは、とても不思議なことです。でも、パウロの言葉は完全にカヤパを描写します。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(14)

カヤパは大祭司だったけど、誰かがイエス様が人々の罪のために死ななくてはならないと伝えていたら、カヤパは、その人が頭がおかしいと思ったでしょう。どうしてでしょうか。なぜなら、聖霊様はカヤパのうちに住んでおられなかったからです。

でも、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。だからパウロはこう言いました。

しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。(9-10)

また、

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(12)

また、

「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。(16)

私たちはすべてのことが分かるでしょうか。もちろんそうではありません。私たちがはっきり見えないことがまだいっぱいあります。神様は私たちの救いをよく現したけど、救いも神秘的なものです。でも神様に近づいて、霊的に成長するにつれて、神様は霊的な真理を教え、さらにいろんなことを現してくださいます。(13)

だからこう祈りましょう。「聖霊様、私があなたを知るように、また、あなたが何を整えてくださったことを知るように、私の心の目と耳を開いてください。」

そのように祈れば、聖霊様は必ず自分自身を現してくださいます。

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コリント人への手紙2:1-5--力を持って、話すこと

私はしばしば教会で話すし、もちろんこのブログも書くので、この個所は私にとってとても大切です。

パウロはこう書きました。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(1-5)

もし牧師や、バイブルスタディーのリーダーや、日曜学校の先生として聖書を教えているなら、この個所を暗記して、メッセージを準備するたび、またメッセージをするたび、この個所の言葉を噛み締めるべきだと思います。

正直に言うと、私もこの個所をもっと復習するべきなのです。

私は日曜日にいいメッセージを伝えようと思います。私のメッセージがわかりやすいものであるようにと思います。

でも、私が覚えていなくてはならないことがあります。私の言葉と知恵によって人々に影響に与えることができるかもしれないけど、私の力で人を変えようとするのは、限界があります。どうしてでしょうか。なぜなら、私の知恵と説得力は、とても限定されているものだからです。

さらに、私は人々に自分自身を変える力を与えることができません。彼らは私の言葉を聞くとき、同意するかもしれません。

彼らは、「私が敵を愛するべきだと同意します。相手を許すべきだと同意します。罪を捨てて、義を着るべきだと同意します。」と言うかもしれません。

でも、神様が彼らの心の中で働かないなら、何も変わらないでしょう。

パウロが分かったのは、一つのものだけが人を変えることができることです。それは十字架のメッセージからの神様の力です。十字架のイエス様の働きこそによって、私たちは神様との関係ができます。イエス様の働きこそによって、私たちの神様に対する反抗的な心が無くなって、新しい心をもらいました。イエス様の働きこそによって、私たちは古い人生を捨てることができて、本当の命を知ります。

だから、パウロはこう言いました。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。(2)

あなたはどうですか。あなたは教会でどんなメッセージを聞くでしょうか。そのメッセージは十字架中心でしょうか。もしかしたら、そのメッセージは牧師の知恵によるでしょうか。そのメッセージは、「自分自身を変えるべきだ」というメッセージでしょうか。

あなたが聖書を教える人なら、あなたのメッセージの準備の焦点は何でしょうか。それは、教会の人々を楽しませることですか。自分の知恵と知識によって、人々を感動させようとしていますか。もしかしたら、あなたはイエス様、しかも十字架につけられたキリストを述べ伝えているでしょうか。あなたが話すとき、神様の力はあなたを通して流れるでしょうか。教会の人たちの信仰は、あなたではなく、イエス様に基づいているでしょうか。

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コリント人への手紙第一1:26-31--自慢する余地がない

神様の「愚かさ」を描写するため、パウロはコリント人の教会を指します。

もしあなたが神で、たくさんの人々を救いたいと思うなら、金持ちや、権力者たちや、賢い人たちを先に救おうとするのではないでしょうか。なぜなら、彼らはたくさんの人たちに影響を与えられるから。でも、パウロはコリント人たちに関して、こう言いました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えて見なさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるためにこの世の弱い者を選ばれました。あるものをないものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。(26-29)

もちろん、パウロは神様が知者や、力ある者たちや、身分の高い者たちを全然救わないことを意味しません。パウロは、教会にそんな人が全然いないと言わずに、そんな人が多くはないと言いました。

でもパウロのポイントは、神様が人々のお金や身分によって選ばずに、恵みによって人々を選ぶことです。そして神様は、弱い人々や取るに取りないと考えられた人々を通して、強い人々や賢い人々を恥じ入らせました。どうやって、その弱い人々や取るに取りない人々は、強い人や賢い人々を恥じ入らせたでしょうか。神様に対する彼らの信仰によって、そうしました。

例えば、年寄りのノアは神様を信じて、大きい箱舟を作りました。隣人たちはノアが頭たがおかしいと思っていたでしょう。なぜなら、その辺に海がなかったし、そんな箱舟を必要とする人がいませんでしたから。でも、雨が降って、洪水が来た時、ノアの知恵は証明されました。

イスラエル人たちをエジプトから救い出した後、神様は彼らを強い城壁のあるエリコに導きました。でも彼らはすぐに攻撃しませんでした。むしろ、彼らはエリコの周囲を一度回りました。彼らは6日間そうしました。7日目には、彼らは7度エリコを回り、祭司たちが角笛を吹き鳴らしました。そして彼らは叫んで、城壁に向かって走り始めました。

その作戦を始めて聞いたとき、イスラエルの軍人たちは将軍ヨシュアの頭がおかしいと思っていたでしょう。さらに、エリコの人たちがイスラエル人たちが町を回るときに、イスラエル人たちが何をしているか疑問に思ったでしょう。でも、7日目にイスラエル人たちが城壁に向かって走り始めた瞬間、その城壁が崩れ落ちてしまいました。だからその日、イスラエル人たちは大勝利を得ました。

何百年後、ダニエルという若いユダヤ人はバビロンに追放されました。それでも、ダニエルとその友達は神様の律法に従いたいと思ったので、王から備えられた食べ物を拒否しました。むしろ、彼らはただ野菜を食べたり、水を飲んだりしました。ほかのユダヤ人たちはそれを見て、ダニエルたちが頭がおかしいと思っていたでしょう。でも最終的に、ダニエルたちはほかのユダヤ人たちより、健康だったし、賢くて有能な人でした。

何回も神様はそのようなことをしました。

でも究極の例は十字架です。その時代の人々にとって、十字架は弱さと敗北の象徴でした。でも、十字架を通して、神様は私たちの救いをもたらしました。そして、神様は世が称賛する人々だけではなく、世が軽蔑する人も救います。

クリスチャンたちが弱いと考える人もいます。彼らが思うのは、あまり賢くない人たちや、感情的にダメージを受けた人たちだけが神様を必要とすることです。私たちが自分自身に頼らずに、神様に頼るので、彼らは私たちを軽蔑します。

でも最終的に、彼らは恥じ入らせられます。

でも、覚えていてください。あなたがクリスチャンなら、自慢する余地はありません。あなたの身分や、あなたの行為によって、神様があなたを救ったわけではありません。神様が誰であるかのため、また神身様の御業のために私たちを救ってくださいました。だからパウロはこう書きました。

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(30)

パウロはの結論は?

「誇ろ物は主を誇れ」と書いてある通りになるためです。(31)

あなたは何を誇るでしょうか。自分自身を誇るでしょうか。あなたは最終的に恥じます。

神様を誇るでしょうか。それなら、プライドの余地はありません。

あなたは何の態度を持っているでしょうか。

 

 

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コリント人への手紙第一1:18-25--人間の哲学と知恵の空しさ

18節を読んだとき、パウロの言葉は私の心を打ちました。

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(18)

私が子供のころからクリスチャンだったから、十字架の言葉(つまり、十字架のメッセージ)は私にとって当たり前のものでした。私はそのメッセージを教えられたので、それを信じました。

でも、もし誰かが、「あなたの救いは電気椅子のメッセージによります」と言ったら、また、「あなたの救いは絞縄のメッセージによります」と言ったら、私はその人の頭がおかしいと思うでしょう。

そのように、ユダヤ人たちやギリシア人たちはパウロのメッセージを聞いたとき、パウロの頭がおかしいと思いました。

パウロはこう言いました。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを述べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかなことです。。。(22-23)

神様がいろんな奇跡を通してイスラエル人たちをエジプトから救い出したように、ユダヤ人たちは神様が力を振るって、彼らをもう一度救い出すように期待しました。神様がモーセを通していろんなしるしを行って、エジプト人の軍隊を滅ぼしたので、ユダヤ人は、メシアが同じようなしるしを行って、ローマ帝国を滅ぼすように期待しました。

でもパウロが宣べ伝えた救いのメッセージは、ローマの十字架に死なれたメシアというメッセージでした。ローマ人たちはそのメシアを打ち、十字架につけて殺しました。だから多くのユダヤ人たちは、イエス様がメシアであることを受け入れられませんでした。

その反面、ギリシア人たちは哲学に感動しました。だから、イエス様の教えが彼らの考え方をチャレンジすることが出来たら、彼らには興味がありました。でもパウロはアテネでイエス様について話した時、イエス様の教えではなく、イエス様の死と復活について話しました。だから、彼らはパウロの言葉をすぐに捨ててしまいました。「このパウロは、頭がおかしいなあ」と思いました。(使徒の働き17:31-32)

自分の考え方と知恵にしがみつきながら、神様の知恵を求めることは大問題です。そうすれば、神様が私たちの期待に合うことを要求します。神様の言葉と行為が私たちの知恵と論理に合うことを要求します。そして、神様の知恵と行為が私たちの知恵や考え方に合わないと、神様の言葉と行為を愚かと見なして、捨ててしまいます。

でもパウロはこう言います。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(25)

私は神様の行為とその理由が分からないときもあると気軽に認めます。例えば、どうしてイエス様の十字架の働きは私たちの罪の代価を払うことが出来るでしょうか。具体的な説明が欲しいです。どうして、一人の行為はすべてのクリスチャンの罪を覆うことが出来るでしょうか。私は分かりません。私はいろんな説明や、描写を聞いたので、ある程度までは、その理由が分かります。でもそれと同時に、どうしてある人々がその教えが愚かだと思い、信じないかも分かります。

でも神様は、私たちが愚かであると思うものが実際には賢明であることを証明します。私たちが神様の弱さを見つけたと思う時、神様はその弱さが実際に力であることを証明します。

そして最終的に、神様は「知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りあるものの悟りを消し去る。」(19)

だから、パウロは訊きます。

知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(20-21)

私たちは自分の知恵や、自分の条件によって神様を見つけることが出来ません。私たちの考え方は小さすぎますから。もし神様を見つけたいと思うなら、私たちは神様とその知恵に従わなくてはなりません。最初のステップは、イエス様を主として認めることです。なぜなら、十字架につけられたイエス様は私たちにとって、神様の力と知恵ですから。(24)

イエス様は、私たちを救う神様の力です。そして、イエス様は、人間になった神様の知恵です。そしてイエス様の知恵は人間の知恵より優れたものです。

これから、イエス様に従いませんか。

 

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コリント人への手紙第二1:10-17--人々をイエス様の立場に上げること

クリスチャンたちがリーダーたちに感心して、そのリーダーたちを模範として見上げるのは自然なことでしょう。なぜなら、そのリーダたちは何年もイエス様に従っているし、いろんな知恵と知識があるはずですから。さらに、私たちは彼らに会って、話すことも出来ます。

もちろん、人々を私たちの模範として見上げるのは悪いことではありません。でも、私たちが彼らをイエス様の立場に上げると、それは危険です。なぜなら、私たちはイエス様に従わずに、そのリーダーたちに従い始めるから。また、そのリーダーたちはイエス様よりも、私たちの模範になってしまいます。

そうすると、教会の分裂が出やすくなります。コリント人のクリスチャンたちはその問題を持っていました。ある人々は「私はパウロにつく」と言いました。ほかの人々は「私はアポロにつく」と言いました。また、ほかの人々は「私はケファ(つまり、ペテロ)につく」と言いました。

だから、パウロは皮肉を言いました。

キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(13)

要するに、「いったい誰に従っているでしょうか。」

3章で、パウロはこう言いました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられた通りのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。(3:5-7)

簡単に言うと、「人々を神様の立場に上げるのをやめなさい。その人たちはただの神様のしもべです。主人よりもしもべを大事にする人は誰もいません。だから、教会のリーダーたちがただのしもべなのに、どうして彼らを神様の立場に上げるでしょうか。」ということです。

でも多くのクリスチャンたちはそうします。だから、多くの教会の中で、いろんな分裂があります。

でも、人々を神様の立場に上げることには、もう一つの問題があります。彼らがただの人間だから、結局彼らは私たちを失望させてしまいます。もし、私たちの信仰が神様ではなく、その人々に基づいたら、彼らが失敗したり、私たちをがっかりさせたりすると、私たちの信仰も落ちるかもしれません。

だから人々がどれだけ敬虔な人でも、彼らを私たちのために死んでくださり復活したイエス様の立場に上げないでください。牧師たちを比べないでください。どの牧師がもっと偉いか議論しないでください。神様は彼らにそれぞれの仕事を与えてくださいました。私たちには彼らを裁く権利がないし、彼らとほかの牧師と比べる権利を持っていません。その判断を彼らの主イエス様に委ねましょう。

そして、自分の信仰をほかの人々の信仰に基づいてはいけません。むしろ、自分の信仰と希望は神様に基づくべきです。私たちが自分の信仰をほかの人々に基づいたら、私たちは結局がっかりしてしまいます。でも、イエス様に信頼するなら、私たちは失望させられることがありません。(ローマ書10:11)

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コリント人への手紙1:1-9--清められて、聖なる人生を送るように呼ばれた

この手紙を読むと、私たちはコリントの教会にはいろんな深刻な問題があったことが分かります。

その問題を考慮に入れて、この教会に関するパウロの言葉は驚くべきものです。パウロはその教会の人々を聖なる者と呼んだし、彼らが聖徒として召されたと言いました。

彼らの問題を考慮に入れると、コリント人のクリスチャンたちを聖なる者を呼ぶのはふさわしくないようです。なぜなら、彼らは聖徒だったかもしれないけど、聖徒として歩んでいなかったのですから。

でも神様は私たちの現在の状態だけを見ずに、私たちの将来をも見ます。だから、兄弟たちと姉妹たちを見ると、私たちはそれと同じ態度を取るべきです。私たちは彼らの現在の状態だけを見ずに、彼らをキリストに聖別された人々として見るべきです。彼らはキリストのものです。

そしてパウロのように、私たちは彼らを聖徒として歩むように励ますべきです。私たちは、彼らがもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったイエス様のために生きるべきだと言うことを思い出させるべきです。(第二コリント5:15)

それだけではなく、私たちは自分自身にそのことを思い出させなくてはなりません。

私たち自身を見るとき、がっかりするのは簡単なことです。なぜなら、私たちは自分の罪を見て、どうして神様が私たちを受け入れられるか疑問に思うから。でも、神様が私たちをもう受け入れていることを思い出しましょう。神様は自分のために私たちを聖別しました。だから、そのように歩みましょう。

でも、私たちが自分の力で歩む必要はないと覚えていてください。パウロはこう言いました。

主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。(8-9)

私たちはいつも忠実な人ではありません。でも神様はいつも忠実な方です。そして、私たちが責められるところがない者としてキリストの前に立つ日まで、神様は私たちの人生に働くことをやめません。

あなたはどうですか。あなたの兄弟たちと姉妹たちを見るとき、どんな人を見るでしょうか。自分自身を見るとき、どんな人を見るでしょうか。

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ローマ人への手紙16:25-27--私たちを堅く立たせることができる方

これは、ローマ人への手紙に関する私の最後の記事です。この手紙について書くのは、本当に楽しいことでした。そして、パウロはこの手紙を始めたように、この手紙を終えます。パウロは私たちに、救いが最終的に神様の働きということを思い出させます。パウロはこう書きます。

私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって、隠されていた億着の啓示によってーー永遠の神の命令に従い、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた億着の啓示によって、あなたがたを強くすることが出来る方(別訳:あなたがたを堅く立たせることができる方)、知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(25-27)

この個所によって、私たちは福音の不思議さを見ることが出来ます。イエス様がこの世に来る何百年も前に、神様は預言者たちを通して将来に何が起こるかの片鱗を見せました。預言者たちの言葉には何年も不明なところがあったけど、イエス様にあって、その言葉は明確になりました。だから今、すべての国民はイエス様を信じ、従うことが出来ます。

でも、この福音は私たちの行いによりません。むしろ、この福音は神様の恵みによります。神様は私たちを信仰と救いに立たせました。

時が始まる前に神様は私たちを選んで、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めました。

イエス様を通して、神様は私たちの罪の代価を支払ってくださいました。そして、私たちが天国でイエス様を見る日まで、神様は日々、聖霊によって私たちを清めてくださいます。

それは救いの不思議さです。私たちは救いに値しないのです。私たちは救いのために働かなかったのです。でも、恵みによって、神様が私たちの上に愛を注いだので、私たちはイエス様を信じました。そしてある日、私たちはイエス様のようになります。

だから、パウロはこの手紙をこのようにまとめました。

知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(27)

 

 

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ローマ人への手紙16:17-20--私たちが純朴な人にならないように

この手紙を終える前に、パウロはローマのクリスチャンたちに警告します。

兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。(17)

パウロは何について話しているでしょうか。パウロは、偽教師とその教えについて話しているのです。パウロの時代の教会でも、偽教師は大問題だったし、現代の教会でも、偽教師は大問題です。だからパウロは、「そんな人に注意しなさい」と警告します。

でも多くの場合、そんな人を認識するのは難しいです。なぜなら、彼らの教えは良いことに聞こえるから。パウロはこう書きました。

彼らは、滑らかな言葉、へつらいの言葉をもって、純朴な人たちの心をだましています。(18b)

でも実は、

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。(18a)

だから、パウロはこう言います。

。。。なお私が願うのは、あなたがが善にはさとく、悪にはうとくあることです。(19b)

私たちは、どのように偽の教師とその教えが認識することが出来るでしょうか。そのカギは17節に書いてあります。彼らの教えは私たちの学んだ教えに背きます。

もちろん、私の前提はあなたがキリストに関する本当の教えを学んだ事があることです。もしその教えを知らないなら、あなたは善にさとくないし、悪にうとくないのです。むしろあなたは狼の純朴な獲物になります。

でも、ローマ人のクリスチャンたちは神様のみ言葉に踏まえたので、パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいます。。。平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。(19-20)

だから神様の言葉を踏まえてください。神様の真理を求めてください。そうすれば、あなたは決して騙されません。

銀行員たちは偽札が分かるように、偽札を勉強しません。むしろ、彼らはいつも本当のお札に触るので、偽札に触ると、そのお札が何か違うと分かります。

そのように、神様の言葉をよく知っているなら、あなたは騙されません。

だから、神様の良い真理をよく勉強しましょう。そして、

平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みがあなたがたとともにありますように。(20)

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ローマ人へ手紙16章ーー非常に苦労している人。試されて、認められる人。

この個所では、パウロはたくさんの人々に挨拶します。パウロはその人たちを本当に評価しました。ある人々はパウロを経済的に支えました。ほかの人々はパウロとともに働いていました。福音のため、パウロとともに牢にいた人もいました。

でも、特に二つのことが私の心を打ちました。パウロは非常に苦労していたマリヤとペルシスについて話しました。そして、パウロはアペレという人について話しました。パウロは、アペレがキリストにあって認められている人だと言いました。「認められる」というニュアンスは、「試されて、認められる」ということです。

人々が私を見るとき、私についてそんなことを言われたいなぁと思います。私が神様のために苦労していると言われたいです。私が神様から任された仕事を忠実にしていたと言われたいです。そして、私がいろんな試練に直面しても、キリストにあって、私が試されて認められたと言って欲しいのです。

でも、私の最高の望みは、私が天国に行くと、神様が私に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言ってくださることです。

人からの誉れ言葉はもちろん良いことですけど、それよりも神様からの誉れの言葉が大切なのです。

あなたはどうですか。神様とあなたの周りの人々はあなたについて何を言っているでしょうか。

 

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ローマ人への手紙15:30-33--前線部隊を支えること

時々、私たちが霊的な戦争中であることを忘れるのは簡単なことでしょう。でも、私たちは実に戦争中です。

そして多くの人々は前線で福音を述べ伝えています。ある人々は自分の近所でそうしているし、ある人々は外国でそうしています。でも、どこでイエス様に仕えても、彼らには私たちの祈りが必要です。

パウロ自身、そう知っていました。もし、ほかのクリスチャンたちの祈りが要らない人がいるなら、パウロはそんな人でしょう。でも、パウロはそのように考えませんでした。パウロは自分の力で神様の仕事をすることが出来ないと認めていました。だから、パウロは、ローマの教会にこう書きました。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、