ルカ14:15-24--イエス様を拒絶すると

この直前の個所では、義人の復活のとき神様が気前の人々に報いを与えることを、イエス様は教えておられました。

それを聞くと、食卓に着いていた客の一人はこう言いました。

神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。(15)

ユダヤ人たちはメシアが来て、自分の国を確立するとき、大きい宴会を開催すると信じました。だから、その人がその言葉を言った後、多分皆は「アーメン」と言っていたでしょう。そこにいる皆はメシアの宴会にきっと誘われると思いましたから。

皮肉なことですが、その時、彼らはメシアと一緒に食事をしていました。でも、彼らはメシアを認識しませんでした。おまけに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶しました。最終的に、彼らはイエス様を十字架につけてしまいました。

だから、神の国が来ると、彼らは入ることができません。それに、彼らが見下したもの、つまり、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちが天国に入ります。

さらに、パリサイ人たちが救いに値しないと思った罪人や異邦人は神の国に入ります。でもパリサイ人たち自身は拒絶されます。

多くの人々は天国に行きたいと思うけど、パリサイ人のようにイエス様を拒絶します。むしろ、彼らは自分なりの道徳的なルールを確立し、従おうと思うし、そのルールに従わない人を批判します。でもパリサイ人のように、彼らは天国の門に着くと、入ることができません。でも、彼らが軽蔑した人々は歓迎されます。

あなたはどうですか。あなたはイエス様を拒絶しているのに、天国に入られると思いますか。イエス様しか、天国への門はありません。イエス様とその十字架の働きを信じる人たちだけが天国に入ることができます。だから、自分の誇りを捨てて、イエス様のもとにきてください。

イエス様はこう言いました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)


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ルカ14:12-14--人に与えること

イエス様はその部屋にいる人々を見たとき、どんな人を見たでしょうか。そのパリサイ人はいろんな人を誘ったけど、もしかしたらイエス様以外に、その誘われた人々は裕福だったでしょう。少なくとも、彼らの仕事はうまくいっていたと思います。

だから、イエス様は彼らにこう言いました。

昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。(12-14)

このパリサイ人はきっと施しをしたと思うけど、多分貧しいものを決して食事に誘わなかったでしょう。もしかしたら、その考えは決して思い浮かんでいなかったかもしれません。

どうしてでしょうか。たぶん、彼らの友達と社会の偉大な人々に感心されたかったから。周りの苦しんでいる人たちを助けるよりも、友達と遊び、自分の評判を立てることに彼は興味がありました。

多くのクリスチャンは十一献金をささげるけど、残りの給料を自分自身のために使います。私たちは十一献金をささげたので、神様に対する義務をちゃんと果たしたと思います。でも、神様は私たちが気前がいい人になるように望みます。教会だけではなく、私たちの日常生活でも神様はそう望みます。そして、私たちは誰かのニーズに備えると、神様は私たちを祝福してくださいます。

でももう一つのことを考えるべきです。私たちは与えると、恩返しを期待するでしょうか。もしくは、恩返しを期待せずに、神様が私たちに与えてくださったものを周りの人々に惜しげもなく与えるでしょうか。イエス様が教えるのは、神様がそんな与える態度を祝福することです。

私は告白しなくてはなりません。私にとって、人に与えるのは難しいときもあります。でも、イエス様のようになりたいなら、私たちはイエス様のように与えることを学ぶべきです。私たちは恩返しを期待せず、犠牲的に与えて、周りの苦しんでいる人々を助けるべきです。

あなたはそのように周りの人々に与えるでしょうか。

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ルカ14:7-12--謙遜

この個所では、私たちは興味深い文化的な状況を見ます。イエス様がパリサイ人の家で食事して、イエス様が気付いたのは、誘われた人々が一番良い席に座ろうとしたことです。その文化では、一番偉い人は、主人の右に座りました。もしその席が占領されたら、人々は主人の左に座ろうとしました。もしその席も占領されたら、できるだけ主人の近くに座ろうとしました。

でもイエス様は彼らにこう言いました。「一番ベストの席を求めるな。なぜなら、主人があなたに、「この人に席を譲ってください」と言うなら、あなたは恥ずかしい思いをしてしまうから。むしろ、末席に座りなさい。もしかしたら、主人があなたに「どうぞもっと上席にお進みください」と言って、皆はあなたを尊敬するかもしれません。」

多分日本では、そんな状況に直面することはありません。でも教会では、多くの人々はもっと偉い立場を求めます。彼らは皆が尊敬する立場、例えば、牧師や、ワーシップリーダーなどになろうと思います。

でも、そんな立場を求めないでください。むしろ、謙遜な態度を取って、小さい仕事でもして、仕えてください。例えば、礼拝のために椅子をセットしてください。人々を迎えて入口であいさつしてください。

そして忠実に仕えてください。そうすれば、あなたの心が準備できたとき、神様のタイミングで、イエス様はもっと大きい仕事を与えるかもしれません。

でも、もしあなたがいつも周りの人々を批判し、「私の方がその人よりも、その仕事が上手にできるのに」と言うなら、結局あなたは恥ずかしくなります。

イエス様がこの世に生きていた時、謙遜な態度を取りました。ユダヤ人の王になろうと思いませんでした。イエス様は神様なのに、最上のものを求めていませんでした。むしろ、しもべの態度を取って、十字架まで行って、私たちの罪のために死んでくださいました。

だからパウロはこう言いました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピりピ2:9-11)

だからイエス様のようになりましょう。謙遜な態度を取って、できるだけ周りの人々に仕えましょう。そして、神様のタイミングであなたは高くしてくださいます。

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ルカ14:1-6--議論を通して、人を救う?

イエス様は優秀な先生だけではなく、優秀な論者でもありました。この個所では、イエス様はもう一度パリサイ人たちと、安息日に人を癒すのが合法的かどうか、議論しています。

パリサイ人の反応はちょっと興味深いです。イエス様が彼らに安息日に癒すことが正しいかよくないか問うたとき、彼らは黙っていました。だから、イエス様は水腫をわずらっている人を癒しました。

その後、イエス様はパリサイ人にこう訊きました。

自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。(5)

彼らの答えは?

彼らは答えることができなかった。(6)

もしかしたら、彼らはこのことわざをもう一度思い出しました。「あなたが黙っていて、周りの人々にあなたが馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周りの人々があなたが馬鹿者だとはっきり分かるよりも良いです。」

でも、もう一度私たちは大切な真理を見ることができます。

パリサイ人たちは何回もイエス様と議論しました。そして、最終的に彼らはイエス様の議論に応えられませんでした。イエス様はその議論に勝ちました。では、パリサイ人はイエス様の教えを信じるようになったでしょうか。安息日に人を癒すのが正しいことだと認めたでしょうか。

そうではありません。逆に、彼らはイエス様を殺そうと思いました。

つまり、単なる議論によって、人々はイエス様を信じるようになりません。あなたは人々と議論して、どうしてイエス様を信じたほうがいいか、また、どうして聖書を信じたほうがいいか、また、どうしてキリスト教が正しいか説明することはできます。

あなたは、その議論に勝つかもしれません。相手がパリサイ人のように答えられないかもしれません。でも、あなたが何を言っても、どんな証拠を示しても、イエス様を拒絶する人もいます。

何年かラジオ番組で、あるクリスチャンが哲学者と議論しました。その哲学者はこう言いました。「クリスチャンたちはいつも聖書の真実性を証明するとき、聖書を引用します。それは循環論法ですよ。あなたが証明したいのを、最初から仮定してはいけません。」

クリスチャンはこう答えました。「どうしてあなたは聖書が一冊の本だと思うのですか。実は聖書は、66冊で構成されています。さらに、著者は40人以上もいます。それに、1000年以上も掛けて、聖書は書かれました。だから、一人の著者を利用して、別の著者の言葉を確認することは循環論法ではありません。私は全然違う出所を利用しています。」

その哲学者は「違う、違う、違う」と言いました。

そして、クリスチャンはこう訊きました。「なぜ違うと言うんですか。あなたは私の議論に答ええられますか。もしくは、信じないだけでしょうか。」

哲学者は「私はそれを信じない。」と主張しました。

その哲学者は答えることができませんでした。彼はパリサイ人たちのように黙っていました。でも多分、彼はほかのクリスチャンたちと話したときでも、同じ議論を利用したでしょう。

では、私たちは決してノン・クリスチャンと議論してはいけないのでしょうか。私たちは彼らの疑問に答えないほうがいいでしょうか。そういうわけではありません。

ペテロはこう言いました。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)

答えを本当に求めている人もいます。そして、もしあなたがその答えを与えたら、彼らはクリスチャンになるかもしれません。でも、単なる議論によっては、だれも神の国に入りません。

聖霊様だけが人々の心を開くことができます。だから、人々と話すとき、彼らの質問に答えるだけではなく、彼らのために祈ってください。そうすれば、聖霊様が彼らの心を変えて、彼らは救われるかもしれません。

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ルカ13:33-35--神様が何を望むか、何をしないか、何ができないのか

これは、本当に切ない箇所です。パリサイ人と話した後、イエス様はこう言いました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。(34-35)

イスラエルの歴史では、そのリーダたちは主のみ言葉とその言葉を伝えた預言者たちを拒絶しました。だから、イエス様は裁きの日が迫っていると警告しました。エルサレムの宮はもう一度滅ぼされるし(西暦70年にそう起こりました)、ユダヤ人たちはあっちこっちに逃げなくてはならなかったので、20世紀までイスラエルという国はなくなっていました。そして、イスラエル人たちがイエス様をキリストとして受け入れるまで、イエス様はこの世に戻りません。

でも、私たちにとっては、この個所は何の意義があるでしょうか。この個所では、私たちは神様が何を望むか、何をしないか、また何ができないのか見ることができます。

神様の望みは何でしょうか。私たちとの親しい関係を望みます。そして、神様はその愛によって、私たちが平和や、喜びや、満足を見つけるように望みます。

神様は何をしないでしょうか。神様は私たちに神様を受け入れるように強制しません。イエス様はユダヤ人のリーダーたちにこう言いました。「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」

もしユダヤ人のリーダーたちのように、私たちが神様を拒絶するなら、神様は私たちの決断を受け入れます。

神様は何ができないでしょうか。私たちが神様から離れるなら、神様は私たちに喜びや、平和や、満足を与えることができません。神様はそのものを与えたくないではなく、与えることができません。

なぜなら、私たちは神様との関係のためにデザインされたから。だから、私たちが神様から離れるなら、私たちの心にいつも穴があります。私たちはその穴に、お金や、持ち物や、仕事や、人間関係で満たそうとしても、満たすことができません。そして、最終的に私たちの人生はみじめになります。神様抜きの人生はそんなものです。なぜなら、本当の愛、本当の平和、本当の喜びは神様から来るから。神様から離れると、あなたは愛と平和と喜びから離れてしまいます。

あなたが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言えるまで、あなたは愛と平和と喜びを得られません。

あなたはどうですか。あなたはイエス様を救い主として受け入れているでしょうか。もしかしたら、神様から離れているまま、平和と喜びと愛を求めているでしょうか。そんな人生は最終的にみじめになります。イエス様こそを通して、本当の満足を見つけることができます。

今日、イエス様を受け入れてみませんか。

イエス様、今まで私はあなたに背を向けていました。あなたから離れて、頑張って生きようとしたけど、私の人生はみじめになりました。赦してください。あなたが私の罪のために死んでくださり、よみがえられたことを信じます。あなたを私の主と救い主として受け入れます。私を近づけてください。あなたとの親しい関係を望みます。アーメン。

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ルカ13:31-33--どうしても恐れに負けないこと

相手に「恐れるな」と言うのは、簡単なことです。でも、自分が恐れに負けないのは時々難しいことです。

でも、イエス様は決して恐れに負けませんでした。

ある日、パリサイ人はイエス様のところにきて、こう言いました。

ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。(31)

このパリサイ人たちはイエス様のことを本当に心配していたでしょうか。そうかもしれません。パリサイ人の一人ニコデモは、イエス様を信じたようです。イエス様を信じたほかのパリサイ人たちもいたかもしれません。

でも実は、私はそのパリサイ人の動機を疑います。その時まで、ヘロデはイエス様を殺そうという気持ちを周囲に打ち明けていませんでした。ヘロデが初めてイエス様のことについて聞いた時、バプテスマのヨハネがよみがえったと思ったらしいです。だからヘロデはイエス様に会ってみようと思いました。でも、彼は、イエス様を殺そうとは思っていませんでした。(ルカ9:7-9)

そして、やっとイエス様に会ったとき、ヘロデはイエス様が奇跡を行うのを頼んだらしいです。(ルカ23:8)

ヘロデは全然危険じゃない人だというわけでもありません。でも多分パリサイ人は、その危険さを大げさに言ったでしょう。なぜなら、彼らはイエス様が恐れるように望んだから。

だから、イエス様はこう答えました。

行って、あの狐にこう言いなさい。「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」(32-33)

簡単に言うと、「出ていけ。私は逃げないよ。」

どうして、イエス様はヘロデを狐と呼んだでしょうか。狐はズル賢いし、危ない動物だから。また、ユダヤ人にとっては、狐は取るに足りない人を象徴しました。

イエス様は自分の助言に従いました。イエス様は蛇のように聡い人でした。(マタイ10:16)

もちろんイエス様は世の危険性を無視しませんでした。イエス様は、その危険性をよく知っていて、注意しました。でも同時に、イエス様は人々を恐れませんでした。なぜなら、彼らはイエス様の体を殺せたけど、イエス様の魂を殺せませんでしたから。それに、イエス様が死ぬ時間がまだ来ていませんでした。だから、イエス様は天の父の御心に従うように決定しました。

私たちもそうするべきです。私たちが神様に仕えようと思うなら、私たちに反対する人もいるかもしれません。その人は、ズル賢いし、危ない人かもしれません。そんな人に注意しなくてはなりません。そうしないと、私たちは傷つけられるかもしれません。

でも、私たちは彼らを恐れるべきではありません。彼らが私たちを拒絶することを恐れるべきではありません。また、彼らが私たちに何をするかを心配してはいけません。

むしろ、私たちは神様が命令したことをし続けましょう。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:2-3)

 

 

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ルカ13:22-30--遅すぎる前

地獄について考えるのが好きな人はだれもいないと思います。また私たちは、地獄に行く人がいるとは思いたくないものです。逆に、私たちは(麻原彰晃やヒトラーなど以外に)すべての人々が天国に行くものと思いたいです。

多分、イエス様の時代にも、多くの人々はそのように考えたでしょう。だから、ある人はイエス様のところに来て、こう聞きました。

主よ。救われる者は少ないのですか。(23)

もしかしたら、その人が意味したものは、「天国に行く方法をもっと簡単にできないでしょうか。もっと多くの人々が天国に入らせられたらいいのに。」ということです。

その人の言葉をちょっと考えてみてください。その人はユダヤ人でした。たぶん彼は異邦人の救いを全然考えていませんでした。

多分、彼はユダヤ人として、天国に入るのはどれだけ難しいか考えました。なぜなら、彼は自分自身を周りの人々と比べたから。パリサイ人たちや、律法学者たちは律法を勉強し、神様のルールと人が作った宗教的なルールにもできるだけ従おうとしていました。

だから、その人がパリサイ人や律法学者たちを見たとき、多分、彼はこう思いました。「これは無理だよ。パリサイ人のように生きることができない。さらに、イエス様は、私たちの義がパリサイ人の義に勝らなくてはならないと教えた。」(マタイ5:20)

でも、イエス様の次の言葉は、その人を慰めなかったでしょう。イエス様はこう言いました。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

要するに、「はい。救われる人は少ないのです。」ということです。

そして、イエス様は私たちに警告します。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人さま。あけてください」と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない」と答えるでしょう。

つまり、その狭い門に入るのには、期限限定なのです。もし、私たちが入る前に死んでしまえば、もう遅すぎます。

その門は何でしょうか。イエス様はこう言いました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハネ10:9)

天国に入りたいなら、イエス様との関係が必要です。イエス様とその十字架の働きを信じなくてはなりません。そうすれば、私たちは救われます。

イエス様はユダヤ人たちに警告しました。

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。(28-30)

多くのユダヤ人たちは、「私はユダヤ人だ。神様が自分の民として、ユダヤ人たちを選んだので、私は大丈夫だ」と考えていました。

また、あるユダヤ人たちは律法を守れば、救われると思っていました。

でも、イエス様がが教えていたのは、イエス様を救い主として受け入れた人は救われるけど、イエス様を拒絶する人は救われないことです。

だから、多くのユダヤ人は天国で先頭になると思ったけど、結局彼らは天国に入ることができません。

今なお、多くの人々はユダヤ人たちのように考えます。彼らはクリスチャンホームに生まれたから、自分がクリスチャンだと考えています。もしくは、彼らは教会に行って、いろんないいことをするので、救われると思うかもしれません。

でも、そんな人が天国に行くとは限りません。イエス様は門です。イエス様以外に、天国への門がないのです。

遅すぎる前にその門に入りませんか。

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ルカ13:20-38--目を覚ます必要

マタイの福音書では、私たちはこの個所と同じイエス様のたとえを見ます。(多分、これは別の時ですけど)。

でも、この個所を読んだ時、私は前回このたとえを正しく解釈したかどうと疑問に思いました。もしかしたら、イエス様は、同じたとえでいろんなことを教えていたかもしれません。(例えば、マタイ5:23-26ルカ12:54-59。)

とにかく、このたとえの別の解釈について話そうと思います。イエス様はこう言いました。

神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。(20-21)

旧約聖書では、パン種は罪と不潔の描写でした。例えば、過越の祭の食事を食べたとき、イスラエル人たちはパン種が入っていないパンを食べなくてはなりませんでした。彼らはそのパンを裂いて食べました。そして、そのパンは、彼らの体に命を与えました。

どうして彼らはパン種のないパンを食べたでしょうか。一つの理由は、彼らがエジプトから逃れたとき、速く行かなくてはならなかったことです。そしてイスラエル人たちはパン種のないパンをすぐに焼くことができました。

でも、もう一つの理由がありました。イエス様は、自分自身を「命のパン」だと呼びました。そして最後の晩餐で、イエス様は過越の祭のパンを取り、裂いて、弟子たちにこう言いました。

これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。(ルカ22:19)

イエス様は、自分の罪のために十字架で死にませんでした。そのパンのように、イエス様の心にはパン種、つまり、罪や不潔がありませんでした。でも私たちの罪のためにイエス様の体は裂かれました。イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださいました。そして、私たちがその命のパンを食べると、つまり、イエス様とその十字架の働きを信じて、受け入れると、イエス様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

でも私の要点に戻りましょう。パン種は普通、罪と不潔の描写です。でもこのたとえ話で、イエス様は、神の国をパンに広がっているパン種と比べます。どうしてでしょうか。

答えはちょっと怖いものです。神様の民の中で堕落が広がる可能性があるということですから。

アメリカの教会を見ると、それがすぐにわかると思います。例えば、監督教会と長老教会はゲイの結婚を認め始めました。

それは道徳的な堕落です。

でも、教会の歴史で、私たちはキリストに関する教えの堕落をも見ることができます。だから教会では、多くの人々は処女懐胎(つまり、イエス様の父はヨセフではなく、神でした)や、イエス様の復活や、イエス様が神であることを否定します。それでも、彼は「私はクリスチャンだ」と言い張ります。

どうして、彼らはそう言えるでしょうか。彼らは聖書をも否定するから。もしクリスチャンたちが聖書を否定するなら、堕落は簡単に教会に入ることができます。

イエス様はそのことについて警告しました。サタンは麦の中に毒麦を蒔きます。その毒麦の一つの種類は聖書に反対する教えです。私たちが注意しないと、そんな教えは教会の中に広がってしまいます。(マタイ13:24-30、36-43)。

だからイエス様は私たちに警告します。たくさんの人々は「イエス様を知っている」と主張するけど、実はイエス様を全然知りません。(24-28)

だからイエス様はこう言いました。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

私の要点は何でしょうか。目を覚ましてください。あなたの牧師の教えに注意してください。ポッドキャストで聞く説教に注意してください。クリスチャンの本を読む時、注意してください。もしその教えが聖書に合うなら、その教えを受け入れ、従ってください。でも、その教えが聖書に合わないなら、その教えを捨ててください。そうしないと、堕落はあなたの心にすぐに入ってしまいます。

だから、パウロはこう言いました。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

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ヨハネ10:22-42--見ても信じないこと

ある人々はこう言います。「神様自身が私の前に現れて、私と話すなら、私は神様のことを信じるだろう。」

でも、その考え方には、大きい問題があります。

神様自身はこの世に現れたのです。神様は私たちと話していたのです。私たちの間を歩いていたのです。神様はいろんな奇跡を行いました。神様が自分の敵と議論したとき、相手は答えられなくなりました。それでも、彼らは神様を信じませんでした。

私の要点は何でしょうか。

もし、あなたが信じないと決定すると、神様があなたの前に現れても、あなたは信じません。むしろ、あなたは夢や幻覚を見たことを自分自身に説得しようとするでしょう。

人々が神様を拒絶する理由は、彼らが神様のことを信じることができないことではなく、彼らは信じたくないのです。

この個所では、私たちはそんなことを見ます。ユダヤ人たちはイエス様のところにきて、こう言いました。

あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。(24)

イエス様はこう答えました。

わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。(25)

その前、イエス様は病気な人々を癒したし、足が不自由の人々を癒したし、目が不自由な人々を癒したし、皮膚病にかかった人を癒したし、死んだ人を復活させました。どうして、周りの人々はそれを見ても、イエス様を信じなかったでしょうか。

さらに、彼らが勉強した預言者たちはその奇跡について話していました。(イザヤ書53:4、61:1-2など)。でも、なぜか彼らはイエス様を信じることを拒みました。

そして、イエス様はもっとはっきりと話しました。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(27-30)

誰が永遠の命を与えることができるでしょうか。神様だけです。でも、イエス様は自分の民に永遠の命を約束しました。

そして、イエス様は「わたしと父とは一つです。」と言いました。

イエスが意味したものは何ですか。ユダヤ人たちはわかりました。イエス様は自分が神であることを主張しました。彼らはすぐに反応しました。彼らはイエス様を殺そうとしました。彼らはこう言いました。

良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。(33)

彼らはイエス様の言葉を誤解しませんでした。イエス様は続けました。

イエス様は旧約聖書を引用しました。その詩篇では、神様は不正な裁判官を「神」と呼びました。なぜなら、彼らが人々を裁くとき、彼らは神様の立場に立ったから。

だから、イエス様はこう言いました。「もし、裁判官の立場のため、神様は彼らを神だと呼ぶなら、神の独り子として、私は「神だ」と呼ばれることに値するでしょう。」

動物でも、人間でも、親子はいつも同じ本質を持っています。だから、イエス様が神の子なら、イエス様は誰でしょうか。

そして、イエス様は自分の人生について話しました。彼はいつも神様の働きに参加し、いろんな奇跡を行いました。ユダヤ人たちはそのことを知っていました。そのことを見ました。それでも、彼らはイエス様を拒絶しました。なぜでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イエス様の教えと行動は彼らの期待と違ったからかもしれません。でも、彼らは自分たちの考え方を変えずに、イエス様に背を向けました。

今なお、多くの人々はそうします。彼らはイエス様に出会うけど、イエス様は彼らの期待するものと違います。もしかしたら、イエス様が彼らの罪を示すので、彼らは気分を害するかもしれません。彼らは自分の罪にしがみつきたいので、イエス様を拒絶します。

あなたはどうですか。あなたは「神様を見るなら、私は信じる」と言いますか。たぶん、あなたは見ても信じないでしょう。もし信じたくないなら、何を見ても信じないでしょう。せめて、そのことを認めてください。自分自身を騙さないでください。でもそれよりも、自分の心をイエス様の前に柔らかくしてください。そうすれば、あなたは本当の命を見つけることができるから。

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ルカ13:10-17--人々を解放するのに

決着した伝統と考え方を捨てるのは難しいことです。ユダヤ人のリーダーたちはイエス様の教えと力のゆえに、安息日に人を癒すことが悪いことではないのがもうわかるはずです。何回も彼らはイエス様と議論しようとしたけど、イエス様の答えに何回も黙りこんでしまいました。

でも私がこの個所を読んだとき、ある言葉が私の心を打ちました。その言葉はイエス様のミニストリーの理由を表しています。それは、「解放」です。

イエス様はある女性を見たとき、こう言いました。

あなたの病気はいやされました(12)

新改訳では「あなたは癒された」と翻訳されたけど、原文では、イエス様は「あなたは病気から解放された」、また「あなたは病気から自由にされた」と言いました。(12)

そして、イエス様は自分の行動を会堂管理者に弁解したとき、こう言いました。

この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。(16)

私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。宗教的なルールを守るよりも、イエス様は人々を解放したいのです。

サタンが18年間その女の人を縛っていたので、彼女の人生は本当にみじめでした。その18年の間、その会堂管理者は彼女にあまり情けを与えなかったらしいです。もし、彼が本当に彼女を愛していたなら、彼女が癒されると、彼は喜んだでしょう。でも逆に、彼はイエス様がルールを破ったために責めてしまいました。

その反面、イエス様は彼女を見た瞬間、彼女に共感しました。イエス様はどうやってサタンが彼女をずっと苦しめたかを見て、彼女を解放しようと思いました。そしてイエス様は彼女を癒しました。

あなたはどうですか。あなたはルールを守ることに集中しすぎているので、周りの縛られている人々を見ることができないでしょうか。縛られている人々を見ても、同情しないのでしょうか。あなたは神様の愛と力で、彼らに触れて解放しようと思いませんか。

そうしないと、あなたはその会堂管理者のようです。そして、その会堂管理者のように、いつかあなたはイエス様の前に立って、恥じ入ります。

毎日、私たちがをもって、彼らに触れて解放されますように。

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ルカ13:1-9--自分の心を見抜くこと

イエス様が皆に、裁きの日が来る前に、神様との和解を求めなさいと警告したばかりなので、多分群衆の一人は、そのちょっと前の事件を連想したと思います。

どうやら、ガリラヤ人たちがいけにえをささげるとき、ローマの総督ピラトは彼らが殺されるように命令したようです。そして、その兵隊たちはガリラヤ人たちの血をささげた動物の血と混ぜました。

多分、イエス様にその話を伝えた人は、こう思いました。「イエス様、あなたはこんな人について話しているのでしょうか。彼らはとても罪深い人だったでしょう。なぜなら、神様はそのように彼らを裁いたから。」

でも、イエス様はこう答えました。

そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(2-3)

そして、イエス様は別の災害について話しました。

また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(4-5)

イエス様は何を言いたかったのでしょう。

災害が発生ときに、どうして神様がそんなことが起こることを許されたのかと、議論することがよくあります。

でも結局、私たちは自分自身にこう聞くべきです。「私たち皆はいつか死ぬ。私は事故で亡くなるかもしれない。私は誰かに殺されるかもしれない。高齢で自然に亡くなるかもしれない。いつ亡くなるかわからない。時間がまだたくさんあると思うかもしれないけど、明日亡くなるかもしれない。そうなれば、私は死ぬ準備をしていると言えるだろうか。」

ルカ12章のイエス様のたとえ話では、金持ちは準備していませんでした。ピラトが殺した人々は準備していなかったかもしれません。そのシロアムの事故で殺された人々は準備していなかったかもしれません。彼らにとっては、もう遅過ぎです。でもあなたはどうですか。自分の死のために準備しているでしょうか。

イエス様はもう一つのたとえ話を話しました。その話では、ある人は、いちじくの木を植えました。三年間経ったけど、その木は実を結びませんでした。だから、彼はその木を切り倒してしまおうと思いました。でも番人はこう言いました。

ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。(8-9)

この話では、私たちは二つのことを見ることができます。それは、神様の裁きと憐れみです。

神様は私たちからの実を求めます。つまり、救いの実を求めます。なぜなら、イエス様は自分の血によって、その救いを買ったからです。

神様はすぐに実を結ばない木を切り倒すことができるけど、忍耐強く、彼らの心の中に救いのために働いています。

でも最終的に、裁きの日が来ます。もしあなたが準備していないなら、つまり、救いの実を結ばないなら、あなたは永遠に滅びの道に入ります。

だから、「どうしてその残虐な犯罪が起こったのか」とか、「どうしてこの災害が発生したのか」を心配せずに、あなた自身がいつでも亡くなるかもしれないことを覚えていてください。また、自分自身にこう訊いてください。「私は裁きの日のために準備しているだろうか。」

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ルカ12:54-59--神様との和解

福音書にあるイエス様の教えは、とても興味深いです。なぜなら、私が以前言ったように、イエス様はしばしば同じたとえや教えを繰り返すけど、違う応用を教えるから。

山上の垂訓では、イエス様は私たちに、できるだけ早く相手と仲直りしなくてはならないと教えました。そうしないと、彼らがあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、あなたは裁かれます。その裁判官はあなたを裁いてからでは、遅すぎです。(マタイ5:26-27)

この個所では、イエス様は同じたとえを用いるけど、人々との和解について話していません。むしろ、神様との和解について話しています。

まず、イエス様は群衆を責めます。なぜなら、彼らは空の現象で天気を予想できたけど、神様からの明らかな現象、つまりイエス様が来たのに、イエス様をメシアとして認識しませんでしたから。それに、彼らはイエス様の教えに反対しました。彼らは神様に反対していたので、裁かれる恐れがありました。

だから、イエス様は彼らに警告しました。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。(58-59)

要するに、神様との和解を求めなさい。そうしないと、あなたはきっと裁かれます、ということです。

あなたはどうですか。神様との平和を持っているでしょうか。一つの方法しかありません。それは、イエス様との関係のことです。イエス様は十字架で、私たちの罰を受けてくださいました。もし、イエス様とその御業を信じるなら、私たちは神様と和解されます。

だからパウロはこう言いました。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5:20-21)

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ルカ12:49-53--福音の炎

炎は時々怖いものです。特に森林火災は怖いものです。森林火災はすぐに広がって、ひどい被害を起こすから。でもその反面、炎には森林に良い影響があるときもあります。

炎は地面にある落ち葉や壊れた枝などを燃やして、土壌は日照に当たって、栄養素を与えられます。また、下生えが燃やされて、その周りの木は土壌の栄養素をもっと得ることだできるので、強くなります。それに、炎は木を害する虫を殺します。

要するに、炎は森林を清め、命を与えることができるのです。

イエス様は弟子たちにこう言いました。

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。(49)

その火は何でしょうか。聖書学者たちにはいろんな意見があるけど、私はその火が福音だと思います。イエス様はどうやってその火をつけたでしょうか。イエス様はこう言いました。

しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(50)

この話では、「バプテスマ」と言うのは、イエス様の死のことです。別のときに、イエス様はヤコブとヨハネにその「バプテスマ」について話しました。(マルコ10:38)

イエス様が死んで、よみがえられた後、福音の火がつけられました。そして森林火災のように、その火は広がって、人々の魂を清めて、永遠の命を与えました。彼らの罪は赦されて、彼らの神様との関係は修復されました。

でも火が痛みの原因になるときもあります。だから、イエス様は弟子たちにもう一度警告します。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。(51-53)

魂を清める炎に触るのは痛いです。だから、その痛みを経験したくないと思う人もいます。だから、福音を聞いた時、彼らの良心はその火でちょっとやけどして、彼らはひるみます。その火で清められることを望まないから、その火から逃げてしまいます。もしくは、彼らはその火を持ってくる人と戦うかもしれません。自分の家族とも戦うかもしれません。

この個所では、イエス様はそのことについて話しています。

でも、私たちの家族や友達などが私たちを福音のために拒絶して、私たちが苦しむときに、イエス様の方が十字架でもっと苦しんだことを覚えていてください。

だから、へブル人への手紙の著者はこう言いました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:3)

だから福音の炎を持ちましょう。そうすれば、その火が周りの人々に触れて、清め、命を与えます。

 

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ルカ12:35-48--イエス様が帰ると

イエス様は偽善や貪欲やこの世のものを慕うことに関して警告した後、もう一つのことに関して弟子たちに訓戒を与えました。つまり、イエス様が帰ってくる時のために、彼らはちゃんと準備しなくてはいけないことです。

イエス様はこう言いました。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(35-37)

つまり、イエス様が帰ってきても、私たちは驚いてはいけません。私たちはいつもイエス様を待ち望んでいるはずです。だからイエス様が来ると、私たちはすぐにイエス様の声に応えるべきです。

でも、私が準備していないときが多いと認めなくてはなりません。私はこの世のものにのめりこむときもあるから。だから、イエス様は私たちに警告します。

ところが、もし、そのしもべが、「主人の帰りはまだだ」と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。(45-46)

私たちは「イエス様はいつでも、戻るかもしれない」とよく言うけど、その言葉を本当に信じるでしょうか。私たちは「イエス様は今日戻らない」と言わないかもしれないけど、どれだけ私たちはイエス様が決して戻らないかのように生きるでしょうか。

だから、私たちは兄弟たちと姉妹たちを悪口を言ったり、傷つけたりするでしょうか。もしくは、私たちはこの世のものにのめりこむかもしれません。そうすると、私たちは裁かれます。

イエス様はこう言いました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(47-48)

要するに、あなたがもっと知っていれば知っているほど、あなたは責任を持ちます。

でも、「私が知らなかった」と言っても、それは言い訳ではありません。あなたは知っているべきでしたから。あなたは積極的に神様の御心を求めるべきでした。そうしないと、あなたは罰せられます。

それは本当にネガティブな警告ですけど、イエス様はポジティブなことをも言いました。

では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。(42-44)

もし私たちが忠実に神様に仕えるなら、イエス様が帰ってくると私たちは報いをもらいます。

あなたはどうですか。神様はあなたにいろんな責任を負わせたけれど、あなたはその仕事をちゃんとしているでしょうか。あなたは忠実に仕えているでしょうか。イエス様の帰りのために準備できているでしょうか。

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ルカ12:13-34--人生の意義

この人生の意義は何でしょうか。

多くの人々はその答えを知らないので、とても迷っています。彼らは、お金や持ち物を通して、人生の意義を見つけられると思うので、それらのものを追い求めます。

だから、この話では、その人はイエス様に家族の遺産を分けるように願いました。

でも、イエス様は彼にこう言いました。

いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない。(15)

そして、イエス様は周りの人々にこう言いました。

だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(22-23)

どうしてイエス様はそのことを言ったでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、食べ物や服や、お金で買えるものよりも、私たちの命は大事なのです。なぜなら、それらのものは一時的なものだから。一瞬で、そのものがあり、一瞬で、なくなります。この世のものを買うと、一時的にあなたのお腹や心を満たすかもしれないけど、最終的にあなたはもっともっと欲しがるようになります。ようするに、この世のものによって、あなたは決して満足できないことです。逆に、あなたはもっと飢えるようになります。

二つ目は、神様はあなたのことを本当に愛しているのです。神様はあなたのニーズをよくご存知だし、あなたが神様を他の何よりも求めるなら、神様はそのニーズに備えてくださいます。

そうならば、私たちはほかのものを優先するべきじゃないでしょうか。

では、私たちは何を優先するべきでしょうか。それは、神様の国です。

神の国というのは何でしょうか。それは、人々です。イエス様は彼らのために死んでくださいました。神様は彼らとの関係を望みます。だから、私たちはその人々を優先するべきです。

もし相手がニーズがあれば、できるだけ私たちはそのニーズに備えようとするべきです。お金を愛するよりも彼らを愛するべきで、惜しげなく与えるべきです。なぜなら、神様は惜しげなく私たちにいろんなものを与えてくださったから。私たちがそのように与えると、「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げます。」(33)

でも彼らの物理的なニーズよりも、彼らの霊的なニーズを見て、イエス様の愛によって、彼らに触れるべきです。

神様は私たちに素晴らしい国を与えてくださいました。私たちの罪が赦されるために、神様はイエス様を送ってくださいました。そして、神様は私たちを養子にしました。だから一時的なものを求めずに、時間を費やさないでください。むしろ、永遠のものを追い求めましょう。私たちを愛する神を追い求め、神の愛をもって、周りの人々に触れましょう。そうすれば、彼らも神様を知るようになるでしょう。

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ルカ12:13-21--私たちの時間が来るとき

私たちの命はもろいものです。一秒で、その命は取られてしまうかもしれません。交通事故や地震などが起これば、私たちは急に亡くなるかもしれません。

その日、私たちが神様に会うと、神様は私たちに何を言うでしょうか。

今日の個所では、ある人はイエス様に家族の遺産を分けるように頼みました。どうやら、そのお兄さんは遺産を公平に分けなかったから。

でも、たぶんイエス様の目にはもっと大きい問題があったのでしょう。つまり、その人はお金を愛しすぎたということです。もしかしたら、その人のお父さんが金持ちで、ずっとその遺産をもらう夢を見ていたのかもしれません。でも、そのお父さんが亡くなったとき、その人はちょっとしかもらわなかったので、その夢はつぶれました。

だから、彼はイエス様の助けを頼みました。

でも、イエス様はあっさり断りました。

いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。(14)

簡単に言うと、「絶対だめだよ。」ということです。

そして、イエス様は彼に警告しました。それ以前、イエス様は弟子たちに偽善に関して警告しました。でも、イエス様はその人の願いを聞いて、その人と弟子たちに貪欲に関して警告しました。

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(15)

イエス様はその人と弟子たちに何を言いたかったのでしょうか。私たちの人生では、この世のものが一番大切なものではないことです。楽な人生、また豪華なライフスタイルはそんなに大切ではありません。

そして、イエス様はたとえ話を話しました。その話では、金持ちがいました。彼はたくさんのお金をもって、豪華なライフスタイルがありました。

そして、ある年、彼の畑は豊作でした。だから、彼はどうしようかと思いました。

彼は貧しい人々に食べ物を与えることができたし、自分お金でたくさんの人を助けられたけど、そういうことをせずに自分自身のことだけを考えました。彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(18-19)

多くの人々はそんな夢を持っています。彼らは早く引退し、自分のために生きたいと思います。

「安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

でも神様はその人にこう言いました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(20)

そして、イエス様はその話をこのようにまとめました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(21)

では、私のもとの質問に戻りましょう。あなたが亡くなって、神様に会うと、神様はあなたに何を言うでしょうか。

神様は「愚か者。あなたの人生では無駄なものを追い求め、自分の人生を無駄にしてしまった。」と言うでしょうか。

もしくは、神様は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言うでしょうか(マタイ25:23)

神様、私が優先順位をちゃんと整理するように助けてください。私が何が大切かを覚えているように助けてください。私がお金や物を愛し過ぎないように助けてください。私が趣味に夢中になり過ぎないように助けてください。

むしろ私が時間を賢く使うように助けてください。また私のお金を賢く使うように助けてください。私がもう愚か物のように生きないように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ルカ12:1-8--隠れクリスチャン

私は子供のころに、「Undercover Christian」、つまり「隠れクリスチャン」というスキットを聞きました。そのスキットでは、レポーターが、あるクリスチャンをインタビューしたとき、そのクリスチャンはこう言いました。「私の信仰は個人的なものなのですので、周りの人々に私の信仰について話しません。」

でも、イエス様は隠れクリスチャンに別の名前を付けます。それは「偽善者です。」または、「役者です。」(実は、偽善者の元の意味は「役者」ということでした。)

その人はクリスチャンの世界で歩くとき、クリスチャンのように話すし、ふるまいます。でも、教会を出ると、彼らはイエス様を全然知らないようにふるまいます。

でも、この個所では、イエス様は「最終的にあなたの秘密はばれる」と警告します。

私はそのようなクリスチャンの話を聞きました。彼はイエス様を自分の主として受け入れたけど、その両親の反応を怖がりました。だから、仏壇で祈り続けたり、線香をあげ続けたりしました。彼は、「私は両親に愛を示したいから」と言いました。

でも、結局その秘密はばれました。その時、そのお父さんは激怒しました。「お前はクリスチャンなのに、仏教の儀式をし続けていたか?お前はどんなクリスチャンなの?」

彼は「両親に対する愛を示したい」と言っていたけど、結局自分のあかしを壊してしまいました。

イエス様はこう言いました。

だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(8-9)

では、私たちは、人の前でイエス様を知らないと言ったことがあるなら、救いをなくしたでしょうか。そうだとは限りません。ペテロは弱いときに、「イエス様を知らない」と三回言いました。

私も、中学生の時、また高校生の時、私の信仰を友達から隠しました。相手が「あなたはクリスチャンですか」と聞いても、私はその質問にあいまいに答えました。

でも、もし私たちはずっと人の前で、「イエス様を知らない」と言うなら、自分がクリスチャンであることを言えません。もし、あなたがクリスチャンなら、そのことをちゃんと言わなくてはなりません。

洗礼式の一つの理由は、「私はクリスチャンだ」ということを宣言することです。あなたは世界に自分の主を宣言します。もし、あなたが洗礼を受けることを拒むなら、あなたは本当にクリスチャンであることを言えるでしょうか。

私たちが隠れクリスチャンにならないように。私たちのために死んでくださり、よみがえられたイエス様を大胆に宣言しましょう。私たちを拒絶する人もいます。でも、私たちが見つけた喜びを見つける人もいます。

あなたはどうするでしょうか。

 

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ルカ12:4-7--恐れなさい。恐れるな。

この個所のイエス様の言葉は私の心を打ちます。

「恐れてはいけません。」

また、「恐れなさい。」

イエス様はこう言いました。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(4-5)

要するに、「人ではなく、神様を恐れなさい。」ということです。

人々はあなたの体を殺せるかもしれないけど、神様はあなたを地獄に投げ込む権威を持ちます。ほんの一瞬で、あなたの体は死ぬかもしれないけど、霊的な死は永遠のものです。

では、私たちは恐れて生きた方がいいでしょうか。神様は、私たちをじっと見て、私たちの失敗を待っているでしょうか。そして、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを稲妻で打つでしょうか。神様は人々を地獄に投げ込むとき、喜んでいるでしょうか。そんなことではありません。

イエス様はこのことも言いました。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(6-7)

私たちが神様の性格を考えるとき、二つのことを覚えていなくてはなりません。それは、神様の聖さと神様の愛。その二つのコンセプトのバランスを保たなくてはいけません。

多くの人々は神様の愛に集中して、神様の聖さを忘れようとします。

でも、聖書では、人々が神様の栄光を見るとき、彼らは最初に神様の聖さに気づきます。そして、彼らは神様の聖さを見ると、自分の不潔さに気づきます。

その結果は?

恐れです。

なぜなら、彼らは神様からの罰に値することがわかるから。また、彼らは死ぬべきだとわかります。

でもその後、彼らは神様の愛を見ます。何回も、神様の最初の言葉は「恐れるな。」

この個所では、イエス様は私たちに同じことを教えています。

最初に、イエス様は「神様を恐れなくていけません」と言います。なぜなら、神様は聖なる方だから。そういうわけで、神様は罪を罰しなくてはなりません。

もしこの世に住んでいる間に、あなたが神様の前に来ないで、その罪が赦されないなら、その罪は地獄で罰されます。

でも、それは神様の望みではありません。神様は私たちを本当に愛しています。神様は私たちの最善を望みます。神様の目には、私たちは取るに足りない人ではありません。むしろ、神様は私たちの名前や、私たちの人生を事細かにご存知です。

神様は、あなたの罪のために死ぬためにイエス様をこの世に送ったほど、あなたを愛しました。もしあなただけが罪を犯していても、神様はイエス様を送ったでしょう。

私たちがそのことを実感すると、私たちの最初の恐れは、神様に対する圧倒的な愛に変わります。私たちはもう神様やほかのものを恐れる必要がありません。もし私たちが神様に信頼するなら、この世で何が起こっても、私たちは天国に未来があるから。

だからヨハネの言葉を覚えていましょう。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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ルカ12:1-3--偽善

時々、イエス様は一つのたとえを用いて、いろんな応用を教えました。この個所では、私たちは一つの例を見ます。

以前、イエス様は弟子たちを宣教旅行に送ったとき、こう言いました。

おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。(マタイ10:26)

つまり、イエス様は弟子たちにいろんなことを教えましたけど、ほかの人々はその教えをまだ聞いていなかったということです。でも、弟子たちが福音を伝えたとき、彼らはイエス様のすべての教えを人々に教えなくてはなりませんでした。また、イエス様が彼らにささやいたことを彼らは屋上で叫ばなくてはなりませんでした。(マタイ10:27)

この個所では、イエス様は大体同じたとえを用いたけど、全然違う応用を教えました。イエス様は弟子たちにこう言ました。

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(ルカ12:1)

そして、イエス様はこう言いました。「あなたは、心の中でいろんなものを隠すかもしれないけど、結局そのものは現れます。あなたが暗闇で言ったことは、明るみで聞かれます。またあなたがささやいた秘密は屋根から叫ばれます。」

要するに、あなたは良いクリスチャンのふりをするかもしれません。でもあなたが偽善者なら、また、あなたの行動があなたの言葉に反対するなら、あなたの偽善は結局ばれます。この世ではばれないかもしれないけど、天国ではばれてしまいます。

だから私たちが偽善者にならないように。私たちは神様と人々の前に正直な人生を生きましょう。そうしないと、私たちに関する真実は結局ばれます。

 

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ルカ11:47-57--私たちの行動は私たちの言葉に反対するとき

律法学者たちとパリサイ人たちは旧約聖書の預言者たちをよく褒めました。彼らは預言者たちのためにお墓を立て、こう言いました。「この預言者たちは本当に偉大だった。もし私が自分の先祖だったら、その預言者たちを決して迫害していなかっただろう。」

でも、もう一人の預言者が来ました。でも、ただの預言者ではなく、神様が約束した待ちに待ったメシアがやっと来ました。でも、パリサイ人たちと律法学者たちはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様とその弟子たちを殺そうと思いました。

その行動は彼らの心を現しました。もし彼らは本当に預言者たちを信じて、尊敬していたなら、イエス様をも信じて、尊敬したでしょう。でも逆に、彼らはイエス様に激しく反対しました。

でも、彼らがイエス様に反対したとき、知識のカギを持ち去りました。彼らは神の国に歓迎されると思ったけど、イエス様は彼らが拒絶されると言いました。

もっと大変なことは、彼らはイエス様を拒絶したので、ほかのユダヤ人たちも天国に入らなかったことです。なぜなら、ユダヤ人たちは、パリサイ人たちと律法学者が真理を知っていると考えて、彼らの模範に従ったから。

あなたはどうですか。あなたは、神様に従うと主張するでしょうか。あなたの行動はあなたの言葉を証明するでしょうか。もしかしたら、あなたの行動は、あなたがキリストを重んじないことを証明するでしょうか。むしろ、あなたの行動はあなたがキリストを拒絶することを証明するでしょうか。

正しいことを言うだけでは足りないです。あなたの行動は言葉と一致しなければなりません。

あなたの心には、何が入っているでしょうか。

 

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ルカ11:45-46--律法主義という問題

イエス様はパリサイ人たちを批判した後、律法学者たちをも批判し始めました。

イエス様はこう言いました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(46)

この個所では、私たちはどうして律法主義がそんなに悪いか学びます。

一つ目は、律法主義は人々に負いきれない重荷を負わせるし、その重荷が取り去られる希望が全然ないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法にいろんな余計なルールを加えたことでした。

例えば、律法によれば、安息日に仕事することは禁止されていました。でも、その律法学者は「仕事」を非常に細かく定義していました。

例えば、安息日に女性たちはアクセサリーを付けてはだめでした。なぜなら、もし彼女らがそのアクセサリーを外そうと思ったら、自分の手に持たなくてはなりません。でもそうすれば、彼女らは「重荷」を持っているので、安息日の律法を破ることになってしまいます。

また、安息日にどこまで歩いたか気を付けなくてはなりませんでした。もし、歩きすぎると(2.5キロメートルぐらい)、安息日の律法を破ったことになりました。

こんな余計なルールには何百もありました。そして、あなたがそのルールを破ると、律法学者たちに責められてしまうでしょう。

律法学者のルールはもうなくなったけど、どれだけクリスチャンたちはほかのクリスチャンに余計なルールを負わせるでしょうか。聖書にはそのルールが書かれていないけど、彼らはそのルールを守らなくてはならないと思うから。

例えば、彼らは、「酔っぱらってはならない」ではなく、「全然お酒を飲むな」と言います。

または、「映画を見るな。」

または、「踊るな。」

そんなルールは、もう一つの問題に至ります。それは相手を裁く態度です。

つまり、「あなたはそのルールを守らないので、良いクリスチャンじゃない。」という態度です。

さらに、彼らは「私はルールを守る」と思うので、プライドを感じます。でも、ルールを守っても、パリサイ人のように彼らは公義と神への愛と憐れみを忘れます。彼らは自分が正しい人だと思うけど、神様の目には、彼らはパリサイ人と律法学者たちのようです。

でも、律法主義の最も悪いことは、律法は正しいことと悪いことを教えるけど、正しいことをする力を与えられないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くだけです。だから、人々は何回も失敗すると、絶望して諦めます。

イエス様の時代、多くの人々はそう感じていました。彼らは律法学者のルールを守ろうと思ったけど、できませんでした。でも、彼らが律法学者に「どうしたらいいでしょうか」と聞いたら、「もっと頑張りなさい」と言われました。

つまり、律法学者たちは彼らを全然助けなかったのです。

あなたが余計なルールを捨てて、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力がありません。最終的に、あなたは、パウロのようにこう叫びます。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

でも、イエス様の時代の人々と違って、パウロは希望を持っていました。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)

だから律法主義を捨てましょう。プライドと絶望を捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。そうすれば、私たちは赦されるし、神様を喜ばせる力を受けます。

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ルカ11:37-44--心にあるもの

この個所では、イエス様はパリサイ人を非常に批判します。なぜなら、彼らの心は汚かったから。

パリサイ人のうわべはとてもきれいでした。彼らは律法を事細かに守りました。でも実は、彼らは偽善者でした。

たとえば、彼らの心は貪欲に満ちていました。彼らは十一献金をささげたけど、貧乏な人を見ると、その人を助けずに通り過ぎました。彼らは、人よりもお金を愛したから。

また、彼らは、神様の愛と知恵を持たずに、周りの人々をすぐに裁きました。だから、イエス様が安息日に人々を癒した時、彼らはイエス様だけではなく、癒された人々をも批判しました。(ヨハネ9章)

彼らは全く預言者ミカの言葉を忘れていました。

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:6-8)

だから、イエス様は彼らを批判しました。

さらに、イエス様は彼らのプライドを批判しました。彼らがリーダーになろうと思った理由は、人々に仕えることではなく、尊敬されるためです。だから、イエス様はこう言いました。

おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(44)

どうしてイエス様はそう言ったのでしょうか。神様の律法によれば、墓が不潔なものだったから。その墓に触れると、あなた自身も儀式的に不潔になりました。

だからイエス様が意味したものは、「あなたたちは不潔だし、あなたが接する人も不潔になります。それに、彼らがあなたが聖いと思うので、あなたに接するとき、彼らは不潔になったことに全然気づきません。」ということです。

厳しい言葉ですね。

でも、真理はしばしば厳しいものです。そして、パリサイ人はその真理がわからなくてはいけませんでした。彼らは周りの人々をだましたかもしれないけど、神様をだましていませんでした。悔い改めないと、彼らは裁かれたでしょう。残念なことだけど、多くのパリサイ人たちは決して悔い改めませんでした。

あなたはどうですか。あなたのうわべはきれいでも、心は汚いでしょうか。

宗教的なことをしても全く足りません。教会に行くだけでは十分ではありません。十一献金をささげることも十分ではありません。心の中で、プライドや貪欲を持てば、その行動は意味がないのです。もし心の中で、愛がないなら、あなたの良い行動は意味がないのです。

あなたは、神様に対する愛が必要です。また周りの人々に対する愛が必要です。

神様はあなたの心を見抜きます。神様は、自分の心に叶う者を探しています。

あなたの心に、何が入っているでしょうか。

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ルカ10:38-42--イエス様が望むこと

私はこの話が大好きです。なぜなら、この教えはとても大事だけど、忘れやすいから。

マルタは、イエス様を自分の家に誘ったけど、イエス様が来ても、マルタはイエス様と全然時間を過ごせませんでした。どうしてでしょうか。皮肉なことだけど、彼女はイエス様に仕えようと思っていたから。

しかしマルタの妹マリヤは手伝わずに、イエス様の足元に座って、聞きました。だから、マルタはとてもイライラさせられました。

何分(何時間?)経ったか分からないけど、結局イエス様がまだ教えている間に、マルタは口を挟んで、大きな声で言いました。

主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。(40)

多分、皆がそれを聞いたので、気まずい沈黙がありました。

もしかしたら、マリヤは頭を下げて、顔が赤くなったかもしれません。多分ほかのお客さんたちは、まずマルタを見て、そして、マリヤを見て、そして最後にイエス様に向かって、その反応を待ったでしょう。

多分ある人は、イエス様がマリヤを叱責すると思ったでしょう。なぜなら、彼女はマルタを手伝うはずだったから。それに、その時代、女性たちはイエス様のような先生から学ぶことはありませんでした。(でも、イエス様はそんなことを何度も許しました。)

もしかしたら、ある人は、イエス様がマルタを叱責すると思ったかもしれません。なぜなら、その時代、女性たちは偉い先生が話すとき、口を挟んではいけなかったから。

でも、イエス様は、たぶん愛と情けを持って、マルタにこう言いました。

マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。(41-42)

「肝心なことは一つだけです。」という表現はとても興味深いです。誰がその一つのことが必要だったでしょうか。イエス様でしょうか。マルタでしょうか。

たぶんイエス様とマルタの二人とも、そのことが必要だったでしょう。

マルタはイエス様との時間が必要でした。ちょっと休憩が必要でした。イエス様の言葉を聞く時間が必要でした。さらに、どれぐらいイエス様がマルタを愛していたかを知る必要がありました。

マリヤは、それを選んで、イエス様は喜んでそのことをマリヤにあげました。

その反面、イエス様はマルタが準備していた料理を必要としていませんでした。ぴかぴかな家が要りませんでした。実は、イエス様はマルタとの時間が要りませんでした。でも、他のどんなことよりも、イエス様はマルタとの時間を望みました。マルタはイエス様に仕えて、忙し過ぎてしまったので、イエス様と全然時間を過ごしませんでした。多分挨拶した後、全然イエス様と話さなかったでしょう。

あなたはどうですか。あなたの心の戸をイエス様に開けたでしょうか。イエス様があなたの心の居間にいるままで、あなたは忙しくて、別のことをしていますか。

もしかして、毎日あなたはイエス様と時間を過ごしているでしょうか。イエス様から学んでいるでしょうか。イエス様と話しているでしょうか。

他のどんなことよりも、イエス様はそう望みます。あなたと親しい関係があるようにイエス様は十字架で死にました。

「My heart, Christ’s home」(私の心、イエス様の住まい)という小さいフィクションの本があります。その本で、イエス様はある人にこう言いました。

「あなたの問題はこうです。あなたは、聖書を読む時間、また私に祈る時間を自分の霊的な成長の修行として考えました。でも、私はこの時間が大好きです。私があなたのことを愛していることを忘れないでください。私は高い代価を払って、あなたを贖いました。あなたとの時間を貴いものと見なします。だから、私のためにこの時間を忘れないでください。あなたは私との時間がどうでもいいと思うかもしれないけど、私はあなたとの時間を望みます。」

イエス様の望みを覚えていましょう。

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ルカ10:25-37--知識をもって、行動すること

私はこの個所を読むとき、もう一つの考えが思い浮かびました。

この話では、神様の言葉をよく知っている人が三人いました。もちろん、律法専門家は実在した人で、あと二人はフィクションの登場人物でした(祭司とレビ人)。でも、そのフィクションの登場人物には律法の専門家と同じ問題がありました。

その三人は神様の律法をよく知っていて、イエス様が律法に関する質問を訊くと、彼らはすぐに答えられたでしょう。でも、彼らの心の中で、その律法の意味が本当には分かっていませんでした。

だから、たとえ話では、祭司とレビ人はその怪我した人を助けませんでした。彼らは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、神を愛することと、隣人を愛することが本当にわかりませんでした。むしろ、彼らは自分の愛の欠如のために言い訳をしました。

律法専門家はそうしました。律法を読んで、自分の弱さを見た時、彼は、「イエス様、どうしましょうか。私は神様の基準を満たすことができません」と言いませんでした。むしろ、彼は自分の正しさを示そうとしました。イエス様は彼の心の状態を指そうとしたけど、律法専門家は律法の意味を議論したかったのです。

「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

だから、イエス様はたとえ話を伝えて、律法専門家に自分の質問に答えさせました。そして、イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい。」と言いました。

そのあと、律法専門家はどうしたのでしょうか。私たちはわかりません。

多分ルカは、私たちが自分の心を探るように望みました。私たちはイエス様の言葉を聞いて、どうするでしょうか。

聖書の知識を持つだけでは足りないです。聖書の言葉を引用するだけでは足りないです。あなたはその言葉に従うべきです。その言葉はあなたの心に入って、あなたを変えなくてはいけません。

もう一つのことを考えましょう。

そのたとえ話では、サマリヤ人は祭司とレビ人の行動を見たでしょうか。彼らを見ていたら、どう思ったでしょうか。

周りの人々が私たちを見ると、何を見るでしょうか。私たちを見ると、彼らはこう言うでしょうか。「どうしてその人は、愛にそんなに満ちているでしょうか。どうして、その人はそんなに憐れみ深いでしょうか。私はそのようになりたい。」

もしかしたら、彼らはこう言うでしょうか。「それはクリスチャンでしょうか。私の方がいい人だけど。」

私たちが知識だけを持たないように。むしろ、神様の言葉が私の心に入らせて、その言葉に従いましょう。

日曜日に教会に行って、宗教的なことをするだけではなく、憐れみ深く、恵み深い人生を送りましょう。そうするなら、私たちを見るとき、周りの人々はイエス様をも見、知りたいようになります。

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ルカ10:25-37--行ないと真実をもって愛すること

私がこの話を読むとき、ヨハネの言葉が思い浮かびます。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3:18)

このたとえ話では、私たちがその意味を見ることができると思います。このサマリヤ人はどのように行いと真実を持って愛を示したでしょうか。

一つ目は、彼が自分の文化の偏見を捨てたことです。多分、ユダヤ人たちはその話を聞いたとき、とてもびっくりしました。なぜなら、ユダヤ人の泥棒は旅行者を襲ったし、ユダヤ人の祭司とレビ人(神殿で働く人)はその人を助けなかったから。でも、そのあと、サマリヤ人が来ました。サマリヤ人たちが混血の人だったし(ユダヤ人と異邦人)、本当の神様の礼拝と偽物神々の礼拝を混ぜたので、ユダヤ人たちはサマリヤ人たちを軽蔑しました。だから、サマリヤ人たちもユダヤ人のことを憎みました。

でも、この話では、サマリヤ人は怪我したユダヤ人を見た時、その人をかわいそうに思いました。

しかも、そのサマリヤ人はかわいそうに思うだけではなく、そのユダヤ人を助けました。もちろん、怪我した人をかわいそうに思うことは良いことだけど、助けないと意味がないです。

そのサマリヤ人は何をしたでしょうか。

彼はユダヤ人に近寄りました。(34a)

彼はその人の痛みを和らげました。(34b)

彼はせっかくその人を宿屋に連れて行き、介抱しました。(34c)

さらに、自分のお金を使って、その人を世話にしました。(35)

そして、イエス様が律法専門家に言ったように、イエス様は私たちにもこう言います。

「あなたも行って同じようにしなさい。周りの人々を見て、彼らが必要があれば、その人を助けなさい。」

でも、言い訳するのはとても簡単です。

「私は忙しすぎる。」

「助けたいけど、何もできない。」

「より大切なことをしなくてはならない。」

多分、祭司とレビ人はそのように思いました。もしかしたら、彼らは、その人がもう死んだと思ったので、その死体に触ると、彼らが儀式的に不潔になると思ったかもしれません。(神様の律法によれば、儀式的に不潔な人は神殿に入ることができませんでした。)

だから、彼らは自分の義務をその人に対する愛よりも優先しました。

もしかしたら、彼らはこう思ったかもしれません。「私はお医者じゃない。私の責任じゃない。何もできないよ。」

どう思っても、彼らは神様の言葉を忘れました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。(ホセア書6:6)

あなたはどうですか。周りの人々のニーズを見るとき、その人を無視するでしょうか。もしかしたら、あなたは祈るけど、助けないでしょうか。ただ言い訳するでしょうか。

憐れみ深い心を持って、生きましょう。なぜなら、神様はそんな人を望みます。言葉や口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛しましょう。

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ルカ10:1-24--祈りなさい。行きなさい。

この個所では、イエス様は12人の弟子たちだけではなく、もう72人を送りました。そして、彼らに前と同じ指示を与えてくださいました。

でも、2-3節は私の心を打ちます。

イエス様は、以前言った言葉を繰り返します。

実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(2)

要するに、多くの人々の心は福音のためにもう準備ができているのです。もし私たちが彼らに福音を伝えると、彼らはすぐにそのメッセージを受け入れるでしょう。だから、イエス様はこう言いました。「働き手のために祈りなさい。神様が彼らを送るように祈りなさい。」

でも、それだけではなく、イエス様は命令します。「行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わす。。。」(3)

イエス様は私たちに同じことを言います。もちろん、イエス様は私たちが働き手のために祈ることを望みます。でも、イエス様はあなたをも送りたいと思います。あなたがその召しを聞き、周りの人々に触れるように望みます。

時々、私たちは拒絶されることを恐れます。でも、イエス様は私たちにこう言います。

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。(16)

ようするに、人々があなたを拒絶すると、実は、彼らはイエス様を拒絶しています。だから失望しないでください。なぜなら、かならず福音を受け入れて、救われる人もいるからです。

だから、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。(23-24)

長い間、モーセや、ダビデや、ダニエルなどは、神様の国が力を持って、到来するように願いました。でも、キリストが来たので、私たちはその国が人々の人生に来ることを見ることができます。でも、私たちが行かないと、私たちはその力を見ないでしょう。しかし、私たちが行くと、私たちは神の国が来て、力をもって人々の人生を変えることを見ます。

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ヨハネ10:1-21--良い羊飼い

この個所では、私たちとイエス様との関係の素晴らしい描写を見ます。イエス様は羊飼いと羊の描写を用います。

門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(3-4)

イエス様の言葉から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

簡単に言うと、イエス様は私たちと本当に個人的な関係があります。私は高校で働いて、一つの授業で40人が入っているし、多くの場合、一週間に一回だけその生徒たちを教えます。だから、すべての生徒たちの名前を覚えるのはとても難しいです。だから、多くの先生たちには座席表があります。

でも、羊を見分けることを想像してください。多くの人々にとって、それは無理でしょう。すべての羊は大体同じに見えるから。でも、羊飼いは一匹一匹の名前を知っています。

この世には、何億人がいるのに、イエス様が私の名前をご存知であることが、想像することが難しいかもしれません。でも、それだけではなく、イエス様は毎日私を導いて、世話してくださいます。イエス様は私の先に行って、私を守ります。さらに、イエス様は私のために自分の命を捨ててくださいました。

イエス様はこう言いました。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(11)

羊飼いと羊の価値を比べてください。羊飼いの価値は断然高いです。

そして、宇宙を造った神とあなたの価値を比べてください。どう思いますか。

でも、イエス様はあなたを愛したので、天国を去って、人間になり、あなたの罪のために十字架で苦しんで死にました。

あなたは、それがありえないと思うかもしれません。でも、それは本当の話です。それは私たちに対するイエス様の愛です。

イエス様、あなたが私の羊飼いであることを感謝します。この世には何億人がいるのに、あなたは私の名前をご存知です。私だけが罪を犯していても、あなたは私のために十字架で死んだでしょう。あなたの愛が本当に驚くべきの物です。私がその愛を本当に実感できるように助けてください。そして、私を通して、あなたの愛が流れ、周りの人々に触れるように。彼らも、あなたを知って、あなたの羊になるように。アーメン。

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ヨハネ10:1-10--門

多くの人々はクリスチャンたちに、「どうしてあなたは、神様への道が一つしかないと信じるでしょうか。」と聞きます。

簡単に言うと、イエス様がそう主張したから。

イエス様はこう教えました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。(1)

多くの人々はどうやって天国に行けるか教えようとします。パリサイ人たちは、神様の律法をちゃんと守らなくてはならないし、ユダヤ人たちの先祖のルールと伝統も堅く守らなくてはならないと教えました。

今なお、多くの人々は自分の努力で天国に入ろうと思います。

でも、イエス様によれば、天国の門を入らず、ほかの方法で入ろうと思うなら、その人は強盗です。自分の努力では、彼ら自身は天国に入らないし、あなたが彼らの教えに従うなら、彼らはあなたの魂を盗みます。つまり、あなたは裁かれて、地獄に行きます。

イエス様はこう言いました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(10a)

この個所では、イエス様はサタンについて話しています。でも、サタンは人々を用いて、私たちを永遠の破壊に導きます。

その人はあえてあなたの魂を滅ぼそうと思わないかもしません。実は、多くの場合、彼らの意図は良いかもしれません。でも彼らはサタンに騙されたので、私たちが彼らに従うなら、私たちも落とし穴に落ちます。

では、天国に至る門というのは何ですか。イエス様はこう言いました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(9)

この描写は本当に興味深いです。羊飼いは羊をちょっと遠いところに連れて行くとき、彼らdoor-of-the-sheepfoldが休むと、羊飼いはその羊を一時的な羊小屋に入れました。その羊小屋が一つの入り口しかなかったので、羊飼いは寝るときに、その入り口に休みました。彼は門になりました。

イエス様が言ったのは、もしあなたが天国に入りたいなら、また、祝福される人生を望むなら、イエス様に従わなくてはならないということです。違うことを教える人はあなたを破壊に導きます。

イエス様は、こう言いました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)

あなたは豊かな人生を望むでしょうか。一つの道しかありません。一つの門しかありません。あなたはその門に入るでしょうか。

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ヨハネ9:39-42--もう学ぶ必要がないを思うと

この個所では、強烈な皮肉があります。

生まれつきの盲人はイエス様をキリストとして認識したので、イエス様を拝みました。

でも一生を通じて見える人たちはイエス様を見ても、イエス様がキリストであることを認めませんでした。

さらに、彼らはイエス様の奇跡を見たし、彼らがイエス様と論じようと思ったとき、彼らはいつも負けたのに、イエス様を信じませんでした。

どうして彼らは真理を見ることができなかったでしょうか。なぜなら、彼らは真理をもう知っていると思っていたから。

彼らは律法と預言者の書をよく知っていました。彼らは若い頃から、その知識を鼻にかけました。だから、イエス様が来て、彼らの間違った考え方を暴露した時、彼らはその間違った考え方を手放すことができませんでした。自分が間違えていることと認めることができませんでした。

イエス様はこう言いました。

わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。(39)

イエス様が意味したものは何ですか。イエス様に会うと、人々は分かれ目に立ちます。もし彼らがへりくだり、イエス様を受け入れると、彼らの霊的な目が開いて、彼らは救われます。

でも、もし彼らが自分のプライドを手放さないで、もう真理を知っていると思うなら、彼らはイエス様に関する真理を見ることができません。なぜなら、彼らはその真理に目をつぶるから。

パリサイ人たちはそうしました。彼らはイエス様にこう訊きました。

私たちも盲目なのですか。(40)

現代でも、多くの人々はそう訊きます。「私が盲目だって?私にはいい学歴がある。私には、いろんな経験がある。私はもうこの世のことを知っている。」

でも、イエス様は答えます。

もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。(41)

ようするに、「はい、あなたは盲目ですよ。もし、あなたが謙遜で、助けを求め、自分の目が見えないと認めると、神様はあなたの罪を赦してくださるでしょう。でも、あなたがもう真理を知っていると思って、あなたのプライドのため、私の真理を拒絶するので、あなたの罪は残るのです。」ということです。

あなたはどうですか。もう学ぶ必要がないと思うでしょうか。もしかしたら、あなたはへりくだり、イエス様の真理を受けるでしょうか。イエス様自身が真理であることを受け入れるでしょうか。

 

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ヨハネ9章ーー救い

イエス様が生まれつきの盲人を癒した時、ユダヤ人たちは驚きました。でも、この話を通して、私たちはもう一つのことを見ることができます。それは美しい救いの描写です。

この話では、その人は生まれてから、目が不自由でした。そのように、私たちが生まれてから、私たちは霊的に盲目な人々だったし、霊的に死んでいました。

そして、イエス様は私たちを見つけました。この話では、盲人はイエス様を求めていませんでした。イエス様はその人を見つけて、触れました。そのように、私たちが神様を求めていなかったのに、神様は私たちを見つけて、触れました。

そして、イエス様はその人に、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言いました。そのように、神様は霊的なバプテスマを通して、私たちの罪を清めました。また、私たちの洗礼式では、私たちは周りの人々に神様が私たちのために何をしてくださったかを宣言します。

その人の目が癒されたのは、本当に劇的な変化でした。だから、周りの人々は彼のことをほとんど認識できませんでした。彼らはこう言いました。

これはすわって物ごいをしていた人ではないか。(8)

ある人は、「これはその人だ」と言いました。でも、ほかの人は、「そうじゃない。ただその人に似ているだけだ」と言いました。(9)

でも、その人は言い張りました。「私がその人です。」

時々、私たちがクリスチャンになると、周りの人々がユダヤ人たちのように反応します。私たちが劇的な変化を経験するので、周りの人々は私たちを見て、びっくりします。「あなたは全然違う人みたいです。どうして。」

その時、私たちには、彼らに神様が私たちのために何をしてくださったかを言う機会があります。

でも、時間が経てば経つほど、私たちはイエス様のことをもっとわかるようになります。この話で、癒された人にとっては、いろんな段階がありました。

「彼はイエスという方です。」

そして、「あの方は預言者です。」

そして、最後に、「あなたは人の子(つまり、メシア、王、救い主)です。」

私たちは自分のあかしを言うかもしれないし、相手が私たちが変わったことを否定できないかもしれません。それでも、彼らはキリストだけではなく、私たちをも拒絶するかもしれません。

この話では、癒された人はそう経験しました。パリサイ人たちは、その人にイエス様が罪びとであることを説得しようとしました。でも、その人が彼らの主張を否定したら、彼らはその人を拒絶しました。

それでも、その人の信仰は揺れませんでした。イエス様はもう一度彼を見つけた時、その人はひれ伏して、イエス様を拝みました。なぜなら、彼は新しい命を受けていたから。

私はその人のように反応しましょう。神様が私たちのためにしてくださったことを感謝しましょう。そして、大胆に周りの人々に私たちのあかしを伝えましょう。私たちが反対されると、勇気を持って、恐れに負けないように。そして、毎日私たちの救い主を求め、礼拝しましょう。

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ヨハネ9:1-5--どうして、私にそんなことがおこっただろうか

時々、私たちに悪いことが起こって、私たちは「どうして?神様は私を罰しているのだろうか」と訊きます。

実は、時々私たちの罪のため、神様は私たちが苦しむことを許します。でも、多くの場合、神様は積極的に私たちを罰していません。むしろ、私たちは自分の罪の自然の結果を受けます。

あなたがクリスチャンで、神様はあなたを赦してくださったかもしれないけど、この世にあなたは自分の罪の結果を避けられるとは限りません。多くの場合、私たちの罪のゆえ、悪いことが起こります。そして、神様がその罪の結果から私たちを守らないなら、私たちは神様を責めることができません。なぜなら、その苦しみによって、私たちは罪の悪さがわかるようになります。それは、私たちが聖くなる過程の部分です。その火によって、神様は私たちを清めてくださいます。

でも、私たちが罪を犯さなくても、私たちに悪いことが起こるときもあります。

今日の個所では、イエス様とその弟子たちは、生まれつきの盲人を見ました。そして、弟子たちはイエス様にこう訊きました。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(2)

その時代、多くの人々はこう思いました。「あなたの体が不自由なら、それはあなたのせいです。神様はあなたの罪のために罰しています。」

でも、その人は生まれつきの盲人でした。だから、弟子たちは混乱しました。この人は、ご両親の罪のために盲人になったでしょうか。もしかしたら、子宮の中で、その人はなにか罪を犯したでしょうか。

でもイエス様はこう答えました。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3)

イエス様が意味したものは何でしたか。時々、私たちの苦しみは私たちの罪のためではありません。むしろ、神様は私たちを通して、素晴らしいことをしたいと思うのです。

アメリカでは、ジョニー・エリクソン・タダという人がいます。彼女は十代の時に、ダイビングの事故で、四肢麻痺の人になりました。たくさんの人々は彼女のために祈ったけど、神様は彼女を癒してくださいませんでした。でも彼女を通して、神様はたくさんの人々に触れました。その事故が起こらなかったなら、ジョニーはそんな影響力がなかったでしょう。

神様は彼女を罰していませんでした。でも、彼女を通して、神様のわざは現れました。

イエス様はこう言いました。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(5)

イエス様は天国に戻ったけど、イエス様は神様の栄光を現すために私たちの人生を照らします。そして、私たちを通して、イエス様は輝いて、周りの人々に触れます。

だから、あなたが苦しんでいるなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、こう祈ってください。「神様、私を照らしてください。また私を通して、輝いてください。」

そうすれば、あなたの人生に神様の栄光が輝きます。

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ヨハネ8:37-47--あなたは誰の子でしょうか。

この個所では、ユダヤ人たちとイエス様は痛烈な会話をしました。その会話では、一番大切な質問は、「あなたが誰の子でしょうか」ということでした。

イエス様がこの世に生きている間、ユダヤ人たちはイエス様の父親を疑ったでしょう。多分、彼らは「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」と言ったとき、「でも、イエスは不品行によって生まれた人だ」と内心、思っていたでしょう。

なぜなら、マリヤとヨセフが結婚する前に、マリヤが妊娠したから。もちろん、周りの人々は聖霊の力によって、マリヤが妊娠していたことを信じませんでした。だからイエス様の実のお父さんに関して、いろんな噂がありました。

でも、元の質問に戻りましょう。あなたは誰の子でしょうか。

イエス様は、本当の神の子の特質について教えました。つまり、彼らはアブラハムのようにふるまうことです。(39)

アブラハムはどのようにふるまったでしょうか。

1.アブラハムは、神様を完全に信じました。(創世記15:6)

2.アブラハムの信仰のゆえ、行動しました。だから、彼は自分の地元を去って、神様が約束した土地に行きました。それに、神様が「イサクをいけにえとしてささげなさい」と命令すると、アブラハムはその命令に従おうと思いました。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様はアブラハムを止めました。」

3.アブラハムは神様の言葉を受け入れました。神様が話したとき、アブラハムは聞きました。神様の子は真理の子です。つまり、彼らは真理を愛して、持ち続けることです。真理が自分にとって痛くても、彼らは自分の耳を閉じません。むしろ、彼らはその真理を聞き従うので、成長します。(8:44-47)

4.神様の子の最後の特質は、彼らがイエス様はを愛しているので、イエス様に従うことです。(42)

イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。だから、私たちがイエス様を愛することは当然のことです。

でもこの話では、ユダヤ人たちはその特質を持っていませんでした。だから、私たちは彼らの本当の父親がわかります。

あなたはどうですか。あなたは誰の子でしょうか。

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ヨハネ8:31-35--人々を開放する真理

時々、人々は「キリスト教のルール」を見て、束縛されるように感じます。だから彼らはこう思います。「私がそのルールに従うなら、私は人生を楽しめない。」

でもイエス様の言葉は私たちを束縛するためのものではなく、私たちを解放するためです。だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(31-32)

でも、それを聞いて、多くの現代の人たちはそのユダヤ人たちのように反応します。

私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。(33)

現代では、多くの人々はこう言います。「私は日本人です。(または、アメリカ人などです)。私は奴隷じゃない。私は好きなように生きられます。「あなたが自由になる」って、どういう意味でしょうか。」

でも、イエス様は私たちにこう言います。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(34-36)

多くの人々は、自分の良心から解放されて、罪を好きなだけおかせば、それは本当の自由だと思います。

でも事実は、最初は彼らが罪を犯すことを選んでも、最終的に彼らは罪の奴隷になることです。彼らはもうその罪を犯したくなくても、自分自身を止められません。ポルノの中毒とか、ギャンブル中毒とか、アルコール中毒とか、いろんな例があります。

でもそれだけではなく、多くの人々は苦々しい思いの奴隷です。

または、彼らが自分の悪い習慣の奴隷のゆえ、自分の結婚や人間関係を壊すけど、その習慣を捨てられません。

でも、私たちがイエス様に従うと、イエス様は私たちを解放してくださいます。私たちは自分の人生を滅ぼすものに鎖で縛られました。でも、イエス様はその鎖を壊して、より優れた道を示してくださいます。それだけではなく、その道を歩む力を与えてくださいます。

イエス様は「しなさい」だけを言いません。むしろ、イエス様はこう言います。「私の手を取ってください。一歩一歩、一緒に進みましょう。」

そして、私たちはちょっとずつ変わりつつあり、あっという間に、私たちは完全に解放されました。

あなたはどうですか。あなたはもうあきらめて、こう言っているでしょうか。「もう無理です。私はこの罪をやめられない。その罪が私たちの人間関係や私の人生を壊しているのに、やめられない。」

イエス様はあなたを解放できます。でも、あなたはイエス様の助けを頼まなくてはいけません。

「イエス様、あなたが私を愛して、私の最善をの望むことを信じます。だから、私はあなたの道を行きたいです。助けてください。」

そうすれば、あなたの人間関係や、あなたの人生は癒されます。そして、あなたは本当の自由を知ります。

 

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ヨハネ8:12-58--光と命を与える方

この世では、多くの人々は道に迷っています。つまり、彼らは、良い人生や良い結婚や、良い仕事や、何にも増して喜びと平和を求めているけど、なぜかそれらを見つけられません。アダムとエバがエデンから追い出されて以来、人々はそのように生きいていました。

そして、イエス様は来て、こう宣言しました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

要するに、「良い人生を求めているでしょうか。喜びと平和に満ちている人生を求めているでしょうか。どうやってそんな人生を得ることか分からないので、あなたは暗中模索しているでしょうか。私のところに来なさい。私はあなたに光を与えます。あなたはもう暗闇に躓きません。むしろあなたは、本当の命を見つけます。」

でも、パリサイ人たちと律法学者のように、多くの人々はイエス様の資格を疑います。イエス様はどなたでしょうか。どうしてイエス様が、そんなことを言う権利を持っているでしょうか。

もし、イエス様がただの人間なら、そんな権利を持っていないでしょう。なぜなら、人間の知識には限界があります。でも、イエス様は人間であるばかりではありません。イエス様は神です。

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。(ヨハネ8:56)

ユダヤ人たちは、それを聞いて驚きました。彼らはこう答えました。

あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。(57)

そして、イエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58)

イエス様が意味したものはなんですか。イエス様はユダヤ人に出エジプト記3章を示しました。神様が自分自身をモーセに現した時、モーセは神様の名前を訊きました。神様はこう答えました。

わたしは、「わたしはある」という者である。。。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。(出エジプト記3:14)

つまり、神様は永遠の方であることです。過去でも、今でも、未来でも、神様は変わりません。そして、神様以外に、ほかの神がおられません。

新改訳では、イエス様が何をしたか見えませんけど、原文では(また英語の翻訳では)私たちがはっきり見えるのは、イエス様が神様の名前を自分自身に当てはめたことです。イエス様は「私は永遠の神です」と言いました。

ユダヤ人たちはそれを聞いて、イエス様の言葉がよくわかりました。だから、彼らは石を取ってイエスに投げつけようとしました。なぜなら、彼らはイエス様の主張を信じなかったから。そして、ただの人間が「私は神だ」と言うなら、それは死に値する罪でした。

あなたはどうですか。イエス様が誰だと思うでしょうか。イエス様はただの人間だったでしょうか。預言者だったでしょうか。もしかすると、素晴らしい先生だったでしょうか。もしそうなら、あなたは、イエス様の言葉をあっさりと拒絶することができます。

でも、イエス様が本当に神様なら、あなたはイエス様の言葉を重視しなくてはなりません。なぜなら、もしあなたの人生に光を見つけたいなら、イエス様だけを通して、あなたはその光を見つけることができるから。

さらに、イエス様を拒絶するなら、あなたは死だけを知ります。あなたの体も死ぬし、あなたは永遠に神様から離れます。その暗闇で、あなたには苦しみと悲しみだけが残ります。

イエス様はこう言いました。

もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネ8:24)

あなたはイエス様が神であることを信じるでしょうか。それだけではなく、あなたはイエス様に従っているでしょうか。

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ヨハネ8:1-11-わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。

私はこの話が大好きです。

イエス様は宮で教えています。たくさんの人はイエス様を取り巻き、聞いています。

でも、急にパリサイ人たちと律法学者たちイエス様のところに来ます。彼らはある女性を引っ張っていて、イエス様の足元に彼女を押します。たぶん彼女は泣いて、その目は恐れに満ちているでしょう。

そして、一人のパリサイ人がこう言いました。

先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。(4-5)

でも、イエス様が彼らの目を見た時、その心を見抜きました。彼らがその女性の罪を見てびっくりし、どうしたらいいか分からなかったわけではありませんでした。

むしろ、彼らはイエスに何か言わせて、わなに陥れようと思いました。

つまりイエス様が、「彼女を彼女に石を投げなさい」と言うと、彼らはイエス様の言葉をローマ人たちに伝えたでしょう。なぜなら、ローマ帝国の律法によって、ローマの政府だけが人を死刑にすることができたから。それに、イエス様が「罪人の友達」なのに、そんなことを言うと、たぶん罪人たちは彼を避けるでしょう。

でも、イエス様が「その女性を逃せ」と言うと、パリサイ人たちは「イエス様がモーセの律法に反対している」と言えました。だから、人々はイエス様の言葉をもう信じなくなったでしょう。

しかし、イエス様は彼らに答えずに、指で地面に書き始めました。つまり、イエス様は彼らを無視しました。

もちろん、彼らは腹が立って、イエス様に叫びました。「おい。私たちを無視するな。答えろ。この女性はひどい罪を犯した。どうすればいいか。」

ようやく、イエス様は立って、彼らに向かってこう言いました。「じゃあ、彼女に石を投げなさい。」

たぶん、それを聞いて、彼らは微笑み始めたけど、イエス様はつづけました。

あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(7)

そして、イエス様はもう一度地面に書き始めました。何を書いたでしょうか。私はわからないけど、時々「書く」という言葉には、「人の罪を書き留める」というニュアンスがあります。だからもしかしたら、イエス様は彼らの名前と罪を書き留めたかもしれません。

もし、誰かが皆の前にあなたの名前と隠した罪を書くと、あなたはどうするでしょうか。多分、パリサイ人たちと律法学者たちのように、あなたは逃げるでしょう。

だから結局、その女性だけがイエス様の前に残りました。だからイエス様は彼女に訊ねました。

婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。(10)

彼女が目を上げると、誰も見ませんでした。だから彼女は驚き、答えました。

{主よ。}だれもいません。(11)

多分、イエス様は微笑みました。そして、イエス様は言いました。

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11b)

時々、私たちは鏡をのぞくと、こう思います。「どうして神様は私のことを愛しているだろうか。どうして私を受け入れるだろうか。」

なぜなら、私たちは自分の罪を見るし、私たちの人生はめちゃくちゃですから。

でも、イエス様は私たちにこう言います。「わたしはあなたを罪に定めない。」

それだけではなく、イエス様はこう言います。「あなたの後悔に浸るな。いつも振り返るのをやめなさい。あなたはもう赦されたから。そして、あなたの人生を壊した罪を捨てなさい。行きなさい。私はあなたの人生のすべてを新しくします。私の死によって、あなたには新しい人生があります。その新しい人生を送りなさい。」

あなたの後悔で思い詰めているでしょうか。あなたに対する神様の愛と赦しを疑うでしょうか。この言葉を覚えていてください。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

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ヨハネ7:37-39--救いの水

仮庵の祭りの最後の日に、多分、イエス様は祭司たちがシロアムの池からの水を祭壇に注いだ事を見たでしょう。周りの人々もそれを見て、こう歌いました。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ12:3)

でも多分、そのすぐ後、彼らはほかの声を聞いたでしょう。イエス様はこう叫びました。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38)

それはさすがイエス様でした。ユダヤ人たちはずっとその祭りをお祝いして、祭司たちはずっと水を祭壇に注いだけど、イエス様は彼らにその儀式の本当の意味を説明しました。

その前、人々がその儀式を見た時、彼らはエジプトからの救いを思い出しました。また、彼らは、その先祖が砂漠を渡ったとき、神様が岩から水を二回備えてくださったことを思い出しました。だから、その儀式を通して、彼らは救いの喜びを思い出しました。その救いは、自分の努力によるものではなく、神様の備えによるものでした。

でも、彼らは一つのことを見逃していました。その岩を通して、神様は彼らにイエス様のことを描写しました。

パウロはこう書いた。

(イスラエル人の)みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(第一コリント10-3-4)

だからイエス様はユダヤ人たちにこう言っていました。「あなたたちは砂漠にいるイスラエル人のように渇いているでしょうか。あなたは霊的な砂漠にいるでしょうか。あなたは神様を慕うけど、なぜか神様を見つけることができないでしょうか。では、私のところに来なさい。私のことを信じなさい。(ヨハネ6:35を覚えているでしょうか)。そうすれば、あなたの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

イエス様が意味したものは何だったでしょうか。ヨハネはその意味を説明してくれます。

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(39)

つまり、私たちがイエス様のところに来て信じるなら、聖霊である神は私たちとともに住み、私たちのうちにおられることです。(ヨハネ14:17)

だから、私たちの霊的な渇きは満たされます。それに、私たちの人生から、聖霊様は流れて、私たちの周りの人々に触れます。だから、毎日、私たちが救いの泉から水を汲み、私たち自身は祝福されるし、周りの人々も祝福されます。

クリスチャンたちは、そのように生きるべきです。毎日、私たちは聖霊様から力を受けて、だんだんキリストと同じかたちに姿を変えられて行きます。(第二コリント3:18)

また、私たちは周りの人々に神様の救いを延べ伝えます。そうすれば、私たちは喜びを知ります。

聖霊様、今日私を満たしてください。救いの喜びで私を満たしてください。あなたの力で私を満たしてください。毎日私がイエス様のようになるように助けてください。私から流れて、周りの人々があなたを見て、あなたに触れられるように。また、あなたが私を救ったように、彼らをも救ってください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ7:24--聖書を正しく解約すること

前回の記事で、私たちはイエス様がユダヤ人に、外見によって裁くことをしないように警告することを見ました。一つの理由は、多くのユダヤ人たちが、イエス様があまり教育を受けていないと思ったので、イエス様の教えを拒絶したことです。

でも、ユダヤ人たちには、もう一つの問題がありました。彼らの聖書の解釈は間違っていました。彼らは、安息日に人々を癒すことが罪であると思いました。なぜなら、彼らは、人を癒すことが仕事だと思ったから。でも、彼らは注意深く聖書を読んでいたなら、安息日に良いことをするのはいつも正しいこととわかったでしょう。(マタイ12:12)

時々、クリスチャンたちは同じミスをします。彼らは聖書を読むけど、彼らの解釈は間違ってます。どうしてでしょうか。時々、彼らはその個所の前後を見逃します。もしかしたら、彼らは聖書のメッセージの全体がわからないかもしれません。

例えば、ヨハネ6章では、イエス様はこう言いました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ6:53)

その前後を読まないと、それはかなりグロテスクな言葉です。でも、その前後を読むと、私たちはイエス様の意味が分かります。イエス様はたとえを使っていました。つまり、もし私たちがイエス様のところに来て、イエス様を信じたら、私たちは永遠の命を得ることです。(その個所について、もっと知りたいなら、ここでクックしてください。)

私が大学生の時、私の友達はほかの個所を間違って解釈しました。マタイ26章では、(マルタの妹)マリヤはイエス様の頭にとても高価な香油を注いだし、イエス様の足に塗りました。だから、弟子たちはマリヤを批判して、こう言いました。

何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。(マタイ26:8-9)

でも、イエス様はこう言いました。

貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。(マタイ26:11)

私の友達はその言葉を読んだとき、「イエス様は本当に偉そうな態度を取っていたね。彼は自分が貧しい者よりも偉いと思ったから。」と言いました。

でも、私の友達は二つのことを見逃しました。一つ目は、ヨハネの福音書によれば、最初にマリヤを批判する人はユダだったことです。実は、ユダは貧しい者を愛していませんでした。むしろ、彼は貧しい者のための寄付されたお金をしばしば盗みました。(ヨハネ12:6)」

二つ目は、イエス様は申命記から引用しました。

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記15:11)

だから、イエス様の要点は、貧しい者が大切ではないというわけではありませんでした。イエス様が言っているのはこうです。「貧しいものがあなたたちと一緒にいつもいるので、私たちが今までしていたように、助け続けるべきです。でも、あなたたちが私に対する愛を示す機会はすぐになくなります。マリヤはその機会を利用しています。だから彼女を批判してないけません。」

だから、イエス様は偉そうな態度を取っていませんでした。イエス様はマリヤを偽善者の批判から守りました。

でも聖書の前後を読まないと、私たちはイエス様の言葉を誤解するかもしれません。

だから、聖書を読むとき、気を付けましょう。聖書の個所を読むとき、その前後をちゃんと読みましょう。また、気に入った個所だけを読むことではなく、聖書のすべてを読みましょう。そうすれば、私たちはちゃんと聖書を解釈できます。

 

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ヨハネ7:24--人々を正しく裁くこと

この個所では、イエス様は人々を裁くことについて話します。イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(24)

どうしてイエス様は彼らにそう言っていたでしょうか。二つの理由がありました。

今日、まず一つ目の理由を見てみたいと思います。

一つ目の理由は、ユダヤ人たちがイエス様に関してこう言ったことです。

この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。(7:15)

要するに、「彼はただの大工です。彼はれっきとした学者ではありません。どうして、私たちは彼に聞くべきでしょうか。」ということです。

だから、彼らはイエス様の権威を拒絶し、イエス様の言葉を受け入れませんでした。

そのように、わたしたちが相手の外見や、教育や、背景によって、牧師や、聖書を教える人を裁くことは簡単なことです。

その人がそんなに賢く見えず、ごく普通の人で、正式な聖書の教育を受けたことがないかもしれないけど、私たちがちゃんと聞けば、神様は彼らを通して私たちに話すことができます。

でも、私はただの牧師について話していません。もし、聖霊がその人の中に住んでいるなら、神様は小さい子供を通しても、話すことができます。でも、どのぐらい私たちは相手の見かけによって裁いてしまい、神様の言葉を見逃すでしょうか。

その反面、ある人はカリスマを持っているし、うまく話せるけど、私たちがその人の教えに従うと、私たちは間違っている道に行ってしまいます。

だから、外見によって(良くても、悪くても)人々を裁かないでください。むしろ、彼らが何を言っているかを注意深く聞いて、彼らの人生に聖霊の働きが見えるかどうか調べましょう。時々、神様が誰を用いるかを見て、私たちはびっくりします。

 

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ヨハネ7:16-18--私たちは誰に仕えているでしょうか

この個所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えるから。

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(16-18)

この個所を読むと、私は自分自身に訊きます。「私の教えはどこから来るだろうか。私自身から来るだろうか。もしかしたら、神様から来るだろうか。私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人たちを感動させたいと思っているだろうか。もしかしたら、私は人々が神様に栄光を与えるように望むだろうか。」

我々クリスチャンたちは、真理を伝える人であるべきです。私たちには不正がないはずです。牧師たちと聖書を教える人たちだけではなく、私たち皆はそんな人であるべきです。

でも、真実を言う人になりたいなら、私たちは誰に仕えるか決めなくてはなりません。私たちは、誰の栄光を求めるか決めなくてはなりません。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。もしくは、神様の栄光を求めているでしょうか。私たちは神様に仕えているでしょうか。もしくは、口で神様の名前を褒めるけど、自分自身に仕えているでしょうか。

もし、私たちは自分の栄光を求めているなら、また、周りの人々から誉れを求めるなら、神様の福音を薄くする誘惑に直面します。もしかすると、私たちはその福音を全然伝えないかもしれません。

もしくは、私たちはパリサイ人のようになるかもしれません。私たちは神様に仕えるふりをするけど、実は、私たちは人々からの栄光を求めます。

あなたは誰に仕えているでしょうか。誰の栄光を求めているでしょうか。

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ヨハネ7:11-53--イエス様は誰でしょうか

以前、イエス様は弟子たちに「私が誰だと思うか」と訊きました。(マタイ16:13)

この個所では、ほかのユダヤ人たちはエルサレムで同じ質問に直面しました。

いろんな意見がありました。

「イエス様は良い人だ。」

「イエス様は預言者だ。」

「違う。イエス様は群衆を惑わしている。彼は悪霊につかれている。」

「いや、メシアじゃないでしょうか。」

どうして、ユダヤ人たちはそんなに混乱していたでしょうか。

一つの理由は、彼らが「メシア」、つまり、「キリスト」がどんな方であるかを誤解したから。

彼らは、キリストが奇跡的に現れると思いました。でも、彼らはイエス様の家族を知っていると思いました。(しかし、彼らはその話の全てを知りませんでした)。

それに、イエス様は律法学者と違って、特別な教育を受けていませんでした。

もう一つの理由は、イエス様は律法学者の伝統を何回も破ったことです。例えば、安息日に、イエス様は人々を癒しました。イエス様は彼らに、安息日に良いことするのは、合法なことだと教えたけど、彼らは自分の伝統を手放すことができませんでした。彼らは律法を知っていると思ったので、その大工の意見を受け入れられませんでした。

三つ目の理由は、ユダヤ人のリーダーたちが律法をよく知っていると思ったけど、実は、たくさんのことを見逃したことです。だから、ニコデモがイエス様を擁護しようとしたら、彼らは答えた。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(52)

でも、イザヤ書9章で、キリストがガラリヤで現れることは書いてあります。

しかし、イエス様は、最も大切の理由を伝えます。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(17)

つまり、あなたが心から神様を求めるなら、神様を見つけます。そして、イエス様を見ると、イエス様がキリストであることを理解します。でも、心から神様を求めないなら、その真理を理解しません。

パリサイ人たちは宗教的な熱心を持っていたけど、プライドを持っていたし、偽善者でした。彼らが神様を求めるように見えたけど、実は、彼らは人間の喝采を求めました。だから、彼らはイエス様を見た時、イエス様を認めませんでした。

でも、神様を求める人々は、真理を見ました。なぜなら、彼らは神様の前にへりくだったから。

あなたはどうですか。あなたはまだイエス様が誰か、疑問に思っているでしょうか。自分のプライドを捨ててください。神様に関するあなた自分自身の意見を捨ててください。お金よりも、自分の幸せよりも、すべてよりも、神様を求めてください。そうすると、あなたの混乱がなくなって、神様は自分自身をあなたに現わしてくださいます。

主よ。私がプライドを捨てるように助けてください。もし、私たちの間、邪魔ものがあれば、それを取り除いてください。私がすべてよりもあなたを求めるように助けてください。私があなたを見るように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ7:10;ルカ9:51-56--裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

でも、私はこの言葉も言いました。「私たちが真理を伝えると、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。」

この個所では、私たちはその理由を見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムに行ったけど、イエス様はもうちょっととどまりました。どのぐらいイエス様が待っていたか私たちはわからないけど、結局イエス様もエルサレムに行きました。その時から、イエス様のミニストリーのほとんどは、ユダヤとエルサレムで行われました。イエス様が十字架で死ぬまで、あと6カ月ぐらいでした。

でも、エルサレムにつく前、イエス様はもう一度サマリヤを通ろうと思いました。イエス様が一回サマリヤに行ったことがあって、その時、たくさんのサマリヤ人たちはイエス様を受け入れて、信じました。(ヨハネ4章)

でも、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。なぜなら、イエス様はエルサレムに行こうと思ったから。サマリヤ人たちとユダヤ人たちの間には、まだ敵意がありました。サマリヤ人たちがユダヤ人の祭りで歓迎されなかったので、イエス様がその祭りに行くと分かったから、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。

イエス様の弟子たちはサマリヤ人たちの反応を見ると、激怒しました。サマリヤ人たちがイエス様から何ももらうことに値しないのに、イエス様は彼らを訪ねようと思いました。それでも、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。

ほかの町に住んでいるサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたので、弟子たちは彼らに対して、寛容になりました。でも、この町の人々がイエス様を拒絶すると、ヤコブとヨハネはイエス様にこう言いました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(54)

多分、彼らはエリヤの話を考えました。ある人々がエリヤを軽蔑したら、エリヤが火を呼び下して、その人たちは滅びました。(列王記第二1章)

でも、イエス様は彼らを叱責しました。

なぜでしょうか。多分、裁きの時間はまだ来ていなかったからでしょう。イエス様は人々を救うために来ました。(ヨハネ3:17)

私たちはイエス様の心を持っていなくてはなりません。もちろん、イエス様を拒絶する人のために、裁きの日が来ます。

でも、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために、祈り、働かなくてはなりません。愛をもって、イエス様が私たちに与えてくださった真理を伝えなくてはなりません。そうすると、神様の恵みによって、人々は救われます。

周りの人々の罪がどんなに酷くても、彼らが滅びるなら、私たちは喜んではいけません。イエス様はそのことを喜びません。彼らが永遠の命を得るため、イエス様は十字架で死にました。

罪人に対して、あなたはイエス様の心を持っているでしょうか。

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ヨハネ7:1-9--真理を言うと

昨日もこの個所について書いたけど、また別のことが私の心を打ちました。

時々、私たちが人々に神様の真理を伝えると、相手にむっとされたり、その人が真理を信じず、私たちを憎むことさえあります。

イエス様はそんな不信と憎しみを経験しました。イエス様の兄弟たちも、イエス様を信じなかったし、からかいました。

だから、イエス様は彼らにこう言いました。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(7)

現代のアメリカでは、クリスチャンたちが同性愛は罪というと、多くの人々は「あなたの心は狭い。あなたは偏屈だ」と言います。

イエス様はこの個所では、そのことについて警告しました。私たちは世において、その行いが悪いことをあかしするなら、私たちは憎まれ、迫害されます。

私が以前言ったように、真理を伝えるとき、正しい方法と悪い方法があります。私たちは相手を憎まず、愛をもって真理を伝えるべきです。

私の娘が4歳の時、私はよく言いました。「危ないよ。駐車場と道に飛び出すな。車に轢かれるよ。」

どうして私はそう言ったのでしょうか。なぜなら、娘を愛しているから。

人々を彼らの罪のゆえに警告するとき、私たちもそんな態度を取るべきです。その罪が本当に酷くても、私たちは彼らを軽蔑せず、憎むべきではありません。私たちは彼らが悔い改めて、救われるように望むべきです。また、私たちは彼らが神様の恵みと憐れみを知るように望むべきです。

でも、愛を持って真理を伝えても、私たちが憎まれるときもあります。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々はイエス様を信じず、憎んだので、イエス様を十字架で殺しました。私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

 

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ヨハネ7:1-9--天の父のスケジュールに従うこと

イエス様が5000人にパンを与えた奇跡の後、また、たくさんの弟子たちがイエス様を拒絶した後、イエス様はユダヤとエルサレムをちょっと避けました。でも、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いは迫っていました。だから、多くのユダヤ人たちはエルサレムに行きました。

その時、イエス様の兄弟たちは、イエス様にこう言いました。「あなたは、ずっとエルサレムを避けていたでしょう?もし、本当に有名になりたいなら、エルサレムに行くべきだよ。奇跡をおこなった方がいいよ。もし、家に隠れたら、有名にならないよ。」

でも、その言葉はとても皮肉っぽいものでした。ヨハネはこう書きました。

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(5)

イエス様は兄弟たちにこう言いました。

わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。。。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。(6-8)

要するに、「私はあなたのスケジュールに従いません。実は、私は自分のスケジュールに従いません。私の天の父のスケジュールに従います。」ということです。

だから、自分の兄弟たちは祭りに行ったけど、イエス様は天の父のタイミングを待っていました。

多くの人々は、自分のスケジュールに従います。時々彼らは、むりやり相手の日程に従わせられてしまいます。でも、我々クリスチャンたちはイエス様の模範に従うべきです。私たちは天の父の声を聞き、天の父が決めたスケジュールに従うべきです。

多分、私はしばしば自分のスケジュールに従うので、神様の働きを見逃すでしょう。私には、いろいろしなくてはならないことがあるけど、神様は私のところにいろんな人々を導きます。でも、私は立ち止まらず、話しもせずに、ちょっと挨拶だけして、行き続けます。もしかしたら、相手が私に気づかないと、私は挨拶もしないかもしれない。でも、歩きながら、私は「しまった。あの人と話した方がよかったのに。機会を見逃したかな」と思います。

あなたはどうですか。誰のスケジュールに従っているでしょうか。あなたのスケジュールを置いておいて、天の父のスケジュールに従うでしょうか。もしくは、自分のスケジュールに集中しすぎて、神様の働きを見逃すでしょうか。

天のお父様。時々、私は自分のスケジュールに集中しすぎて、あなたの声が聞こえません。赦してください。あなたが人々を私のところに導くとき、私があなたの目と耳と口と手になるように。私が、あなたが何をしているかを見えるように。あなたの声を聞こえるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

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マタイ8:19-22;ルカ9:57-62--イエス様に従うこと

イエス様に従うとはどういう意味でしょうか。

この話では、3人の人たちは「弟子」の意味を知りました。

律法学者はイエス様のところに来て、こう言いました。

先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。(マタイ8:19)

この人は、ほかの律法学者たちと違いました。多くの律法学者たちはイエス様に反対したけど、この人は熱心を持って、イエス様に従おうと思いました。もちろん熱心を持つのは良いことです。でも、イエス様は彼に警告しました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)

要するに、「私は、楽な人生を約束しません。私に従うのは時々大変です。あなたが家を出て、帰る機会は少ないのです。もしかしたら、あなたは決して結婚しないかもしれません。それでも、あなたはまだ私に従いたいのですか。」

そして、イエス様はほかのにこう言いました。「わたしについて来なさい。」

でも、その人は答えました。

まず行って、私の父を葬ることを許してください。(ルカ9:59)

多分、その人のお父さんは、まだ生きているでしょう。多分葬式の途中、イエス様はその人に「私についてきなさい」と言わなかったでしょう。

もしかしたら、そのお父さんは病気で、死にかけているかもしれません。でも、もしかしたら、そのお父さんはとても元気だけど、年老いていたかもしれません。とにかく、そのお父さんが亡くなるまで、その人は待ちたいと思いました。もしかしたら、そのお父さんがイエス様に反対したので、その人がイエス様に従うと、お父さんに拒絶されるかもしれません。

だから、イエス様はこう言いました。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(ルカ9:60)

多分イエス様が意味したものは、霊的な死人たちが霊的な死人たちを葬らせなさいということでした。

時々、人々はこう思います。「私はクリスチャンになりたくないのです。なぜなら、私の両親がもう亡くなって、私たがクリスチャンになると、私は彼らが地獄に行っていたと信じなくてはならないから。」

でもイエス様が言ったのは、あなたがそのことをコントロールすること権限はないということです。霊的な死人たちがあなたの霊的な運命を決定させることを許してはいけません。

また、霊的な死人のために、神様の仕事を避けてはいけません。なぜなら、あなたがほかの霊的な死人に福音を伝えると、その人は救われるかもしれないから。でも、あなたが自分の家族の意見を恐れて、周りの人々に福音を伝えないなら、彼らも地獄に行くかもしれません。

もう一人はイエス様のところに来て、こう言いました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

でも、イエス様はその人にこう言いました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

どうして、イエス様はそう言ったでしょうか。多分、イエス様はその人の心を見抜いたからでしょう。つまり、その人の家族に対する愛のため、その人は心を尽くして、イエス様に従うことができませんでした。だから、彼がイエス様について行っても、すぐに家に帰るでしょう。

もし、私たちがいつも振り返ると、イエス様に従うのはとても難しくなります。イエス様は私たちの心のすべてを要求します。私たちの心の一部分を望まれません。だから、時々、私たちは良いことでも離さなくてはなりません。なぜなら、私たちはより優れたものを求めているから。

その3人の人たちがイエス様の言葉にどうやって反応したか、私たちは分かりません。多分、福音の著者たちは、私たちが自分自身の心を探るように望んだでしょう。

難しくても、あなたはイエス様に従うでしょうか。あなたの家族や、友達がイエス様に従うことを拒んでも、イエス様に従うでしょうか。イエス様に従うため、すべてを捨てるでしょうか。

イエス様が「わたしについて来なさい。」と言うと、あなたはどうするでしょうか。

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マタイ18:21-35;マルコ9:49-50--憐れみによって、塩気をつけられること。火によって、塩けをつけられること。

マタイ、マルコ、ルカ皆は、同じ事件について話しました。その話をまとめるのは、本当に興味深いものです。でも、この話の始めに戻りましょう。つまり、弟子たちが誰が一番偉いかと論じ合っていたことです。

多分、論じ合ったとき、たくさんの酷い言葉が言われて、人々は傷ついたでしょう。だから、イエス様は、私たちが傷ついたとき、どうしたらいいかを教えました。

そのあと、ペテロは質問をしました。多分、ほかの弟子たちは彼を傷つけたでしょう。それは初めてではなかったし、たぶん将来にもペテロは傷つけられるでしょう。だから、ペテロは、イエス様に訊きました。

主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)

多分、ペテロは相手を七回赦すのは寛容な態度だと思いました。その時代、多くの先生たちは、三回赦した方がいいと教えました。(でも、聖書には、そんなことは書いてありません。)

でも、イエス様こう答えました。

七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18:22)

でもイエス様が意味したものは、私たちが490度まで許さなくてはならないというわけではありません。むしろ、私たちは数えずに、許さなくてはなりません。

そして、イエス様は有名なたとえ話を教えます。ある王は、しもべの大きい借金を免除しました。でも、そのすぐあと、そのしもべは、ほかの人に出会いました。その以前、しもべはその人にお金を貸したので、その返済を要求しました。相手が払えなかったので、しもべはその人を牢に投げ入みました。

しかし、王はそのことについて聞いたとき、そのしもべを呼びました。しもべが来た時、王はこう言いました。

悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:32-33)

だから借金を全部返するまで、そのしもべは牢に投げ込まれました。そしてイエス様はこう言いました。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(35)

この話から何を学ぶことができるでしょうか。

そのしもべにとっては、仲間が返さなくてはならない借金は大きいものでした。それは4か月の給料ぐらいでした。でも、その借金をしもべが王に返済しなくてはならなかった借金と比べると、とても小さいでした。それは何億円の借金でした。

時々、人々は私たちを傷つけて、その傷は本当に深いです。でも、私たちの神様に対する負債の方がだいぶ大きいです。私たちは、自分の罪が小さいと思うかもしれないけど、その罪は溜まります。もし、あなたは毎日罪を三回ぐらい犯すと、一年に1000の罪になります。その数字をあなたの年齢とかけたら、それは何千の罪です。でも、神様はあなたの罪を全部赦してくださいました。だから私たちもほかの人々を許すべきです。

そうしないと、どうなるでしょうか。そのしもべが仲間を牢に投げ入れたとき、その仲間は自分の罪悪感に浸りました。私たちも、しばしば同じようなことをします。私たちは相手を許さないで、その縁を切ります。私たちの希望は、相手が自分の罪悪感に浸ることです。

でも、王は、そのしもべの行動を知ったら、彼を獄吏に引き渡しました。その時代、獄吏は、囚人を見張るだけではなく、その囚人を拷問しました。

そのように、私たちが相手を許さないなら、私は神様が私たちをサタンに引き渡すと思います。(別の罪だけど、第一コリント5:5を読んでください。)そして、サタンは私たちを苦しめます。私たちは自分の怒りと苦々しい思いに浸ります。

どうして、神様はそうするでしょうか。私たちのことを憎むからでしょうか。違います。私たちが悔い改めることを望むから。

とにかく、もしかしたら、そのたとえ話のあと、イエス様はこう言いました。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9:49)

つまり、あなたは神様の憐れみによって、塩けを付けられないなら、あなたは火によって、塩気を付けられます。あなたが悔い改めるまで、あなたの人生は惨めになります。

そして、イエス様はこう言いました。

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50a)

イエス様は、私たちを地の塩と呼びました。私たちはこの世の民を憐れみと恵みで味をつけるべきです。でも、怒りと苦々しい思いを持ち続けるなら、私たちの塩気をなくなります。だから、イエス様は、弟子たちと私たちにこう言います。

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50b)

あなたはどうですか。あなたを傷つける人に対して、あなたは塩でしょうか。

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マタイ18:18-20--傷ついたとき、神様の手を解くこと

この個所は、マタイ16章に似ています。この個所もちょっと解釈しにくいです。

16章では、イエス様は、繋ぐことと解くことについて話します。

何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)

その個所では、イエス様は神の国と救いについて話しています。新約聖書を読むなら、あなたにわかるのは、多くの場合、神様は私たちを通して人々に触れたいと思うことです。私たちはキリストの体です。私たちは周りの人々に対して、イエス様の目や耳や口や手です。もし私たちが出て行って福音を伝えるなら、神様の手が解かれて、多くの人々は救われます。でも、私たちが福音を伝えないと、ある程度まで、神様の手は縛られています。もちろん、私たちにも関わらず、神様は働くことができます。でも多くの場合、私たちが働かないなら、神様は何もしません。

ペテロは、二つの方法で神様の手を解きました。彼はユダヤ人たちに福音を延べ伝えました。

でも、弟子たちはイエス様の命令に従わずに、異邦人たちに福音を延べ伝えませんでした。だから、神様は直接何かしました。神様はペテロに幻を示したし、コルネリオという異邦人に天使を送りました。それは、神様の理想ではありませんでした。神様の理想は、ペテロたちが積極的に異邦人たちに福音を延べ伝えることでした。とにかく、その話の後、神様は天使を送らずに、人々を通して異邦人たちを救いました。弟子たちは福音を延べ伝えて、人々は救われました。

また、ペテロは異邦人たちをユダヤ人の律法の要求から解放しました。だから、神様の手を解いて、たくさんの人は救われました。

でもこの個所では、その前後は全然違います。もう一度、イエス様は言います。

何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

でも、この場合、イエス様が意味したものは何でしょうか。

私の意見だけど、相手があなたを傷つけて、謝らないなら、あなたはその人のために祈るべきです。そうすると、私たちが神様の手を解くので、神様は彼らの人生に働き始めます。

多くの場合、私たちは相手に対する怒りと苦々しい思いに縛られます。私たちは相手のために祈らず、相手について祈ります。

「主よ。彼が何をしたか見た?信じられない。彼を罰してしてください。」

でも、十字架で、イエス様は敵について祈りませんでした。イエス様は彼らのために祈りました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

その祈りを通して、神様は彼らの人生に働き始めました。また、神様は救いの業を行いました。

そのように、私たちが相手のために祈るなら、神様の手を解いて、神様は彼らの人生に働き始めます。もちろん、私たちの祈りにも関わらず、神様は働くことができます。ども多くの場合、神様はその祈りのために待ちます。

でも苦々しい思いを持ち続けたら、神様の手を縛るので、神様は私たちの人生と、相手の人生に働きません。

怒りと苦々しい思いを手離すことは難しいです。だから、神様は私たちを支えてくれる兄弟地と姉妹たちを与えてくださいます。彼らは、和解をもたらすために助けるし、私たちのために祈ってくれます。だからイエス様はこう言いました。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(19-20)

あなたはどうですか。あなたは傷ついているでしょうか。あなたは天の父の手を縛っているでしょうか。もしかしたら、その手を解いているでしょうか。

ようするに、あなたはただ相手について祈っているでしょうか。もしくは、相手のために祈っているでしょうか。

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マタイ18:15-17ーー傷ついたとき

私たちが傷つくのは、本当に辛いことです。さらに、私たちが信頼してる人に傷つけられたら、それはもっと辛いものです。

多分、弟子たちが誰が一番偉いと論じ合っていたとき、互いに傷付け合ったでしょう。イエス様はそれを知っていたので、彼らにこう言いました。

また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。(15)

二つのことに注目してください。

一つ目は、相手があなたを傷つけるとき、その人があなたの所に来て、謝るのを待つべきではないことです。あなたは積極的に、相手のところに行って、そのことについて話すべきです。

でも、多くの場合、私たちは怒って、相手が私たちのところに来て、謝るように要求します。しかし、その態度は、和解の態度ではなく、誇りの態度です。神様は私たちが 平和をつくる者になることを望みます。イエス様の言葉を覚えていてください。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

もちろん、あなたのケンカしている友達を助けるべきです。でも、あなたが相手と喧嘩するとき、あなたは平和を作るものにならなくてはなりません。しかし、プライドを持ち続けると、相手と和解できません。

さらに、相手がそうとは意図せずに傷つけるとしたら、私たちの傷に気づかないかもしれません。だから、私たちがずっと待っても、彼らは決して謝らないでしょう。だから、私たちは相手のところに行くべきです。

二つ目は、私たちはゴシップや中傷をしてはいけないことです。イエス様は「あなたが傷ついたとき、皆にそのことについて話しなさい」と言いませんでした。むしろ、イエス様は、「行って、ふたりだけのところで責めなさい」と言いました。

もちろん、私たちの希望は、相手が私たちの傷に気づいて、謝ることです。

ところで、相手があなたのところにきて、そのように責めたら、どう反応するべきでしょうか。とくに、あなたは相手が繊細過ぎると思う時、どう反応した方がいいですか。彼らの感情を大事にするべきです。謝ってください。そして、相手の言葉を覚えて、気を付けてください。それは、平和を作る者の態度です。

でも、あなたが傷ついたのに、相手が自分の悪さを認めないとき、どうしたらいいでしょうか。その場合、イエス様はもう二人の人々を連れて行って、その人と話すべきですと言いました。もちろん、その二人にその状況を説明するべきです。それでも、相手を悪く言ってはいけません。あなたの目的は和解ですから。

実は、その二人と相談すると、あなたが相手のことを誤解したのだと分かるかもしれません。もしかしたら、彼らの助けを通して、相手が自分の至らなさに気づくようになることもあります。でも、もう一度覚えていてください。あなたの目的は和解です。

でも、相手がまた聞いてくれないなら、教会の前にその問題を伝えるべきです。皆の前にその問題を出す必要はありません。でも、例えば、牧師やほかのリーダたちの助けを求めるべきです。

でも、相手がまた聞いてくれないなら、イエス様はこう言います。

教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(17)

イエス様が意味したものは何ですか。相手に対するあなたの期待を変えるべきです。相手がクリスチャンとしてふるまうことを期待しない方がいいです。彼らをクリスチャンじゃない人として考えた方がいいです。私たちは、クリスチャンじゃない人がクリスチャンのようにふるまうことを期待しないでしょう。そして、相手が悔い改めないと、クリスチャンのようにふるまっているとは言えません。

だから、相手に会うと、気を付けてください。相手が悔い改めないなら、たぶん、あなたを何回も傷つけるかもしれないでしょう。

イスラエル人が取税人を避けたように、できるだけ相手を避けた方がいいです。どうしてそうした方がいいでしょうか。あなたが怒っているからでしょうか。あなたが苦々しい思いを持っているからでしょうか。違います。

実は、その怒りと苦々しい思いを離さなくてはなりません。そうしないと、あなたはその怒りと苦々しい思いに縛られます。

むしろ、相手が危ない人なので、その人を避けた方がいいです。もし、彼らが自分の悪さを認めないなら、彼らはあなたに対して危ない人なのです。だから相手を避けてください。

あなたはどうですか。傷ついたとき、どうしますか。

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マルコ9:38-41;ルカ9:49-50--ミニストリーに関するプライド

イエス様が弟子たちにどうやって神の国で偉くなるか教えた時、たぶんその弟子たちはちょっと違和感を感じたでしょう。なぜなら、彼らは、誰が一番偉いかについて喧嘩したし、そのグループの外の人々を悪く扱ったから。だからヨハネは多分ちょっと緊張して、こう訊きました。

先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。(マルコ9:38)

イエス様はこう答えました。

やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(39-41)

教会の一つの問題は、人々は自分のミニストリーを守ることです。つまり、彼らはこう思います。「これは私の役割です。私のミニストリーです。ほかの人は参加してだめです。」

弟子たちはそんな態度を取りました。誰かが悪霊を追い出したけど、その人は弟子たちの仲間ではありませんでした。だから、弟子たちは彼に「やめなさい」と命令しました。

でも、イエス様は彼らにはっきり言います。「これは競争ではありません。その人は私を愛して、仕えたいと思ったのです。だから、やらせなさい。私は彼にその力を与えたから。」

私たちもそんな態度を取るべきです。相手が私たちよりも上手にできても、私たちは喜んで彼らをそのミニストリーに参加させるべきです。どうしてでしょうか。ミニストリーをするとき、私たちは自分の栄光を求めていないから。実は、私たちは自分の栄光を求めてはだめです。

むしろ、私たちは神様に栄光を与えようと思うべきです。そして、誰かが、神様からの賜物を使う時、私たちは喜ぶべきです。

あいにく、教会の中でも、そんな競争があります。人々はどの教会の方が大きいか考えます。どの教会のミニストリーの方がいいか考えます。

また、相手に違う方法があれば、相手を批判し始めます。でも、それはイエス様の希望ではありません。それはサタンの希望です。もし教会の人々が互いに争うなら、サタンと争う時間が無くなるから。

だから、教会として、また、教会のメンバーとして喧嘩することをやめましょう。むしろ、一緒に働きましょう。なぜなら、私たちは同じチームに入っているし、同じ目標を持っているから。

私たちが別れたら、神様の名前を汚します。でも一致して協力すれば、私たちは神様のみ名に栄光を与えます。そんな人々になりましょう。

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マタイ18:6-14;マルコ9:42-48--どのように神様が私たちの子供を考えること

イエス様が神の国について教えた時、神様がどのように子供たちを考えるかをはっきり教えました。

最初に、イエス様は私たちに警告します。「子供に罪を起こさせるようにするな。」

それに、イエス様はこう言いました。

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。(マタイ18:6-7)

また、イエス様は、あなたが子供に躓きを与えるよりも、自分の手や足を切った方がいいと言いました。

どうして、イエス様はそんな極端なことを言ったでしょうか。なぜなら、子供たちが簡単に影響されるから。彼らは私たちを見て、すぐに学びます。もし私たちが怒りっぽいなら、彼らも怒りっぽくなります。もし私たちが旦那さんか奥さんに感謝しないなら、彼らが成長して結婚すると、自分の伴侶に対して感謝しません。もし私たちが彼らを虐待するなら、彼らも自分の子供を虐待します。

だから、子供がいるとき、あなたの言動に注意してください。神様はそのためにあなたを裁くから。

イエス様は、私たちにさらに警告します。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)

神様は子供を愛しているので、その子供を守るために天使を送ります。だから、私たちも子供たちを大事にしなくてはなりません。彼らが取るに足りないものと見なしてはいけません。神様はその宝物を私たちに委ねました。

そして、イエス様は子供たちを迷子になった羊と比べます。神様はその子供を救いたいのです。だから、イエス様はこう言いました。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(マタイ18:14)

子供に関して、私はもう二つのことを言いたいです。

私は、人が責任を取らなくてはならない年齢があると思います。つまり、子供が自分の罪の責任を取らなくてはいけない年齢がると思います。その年がいつか分かりません。多分、子供によって違います。彼らが自分の罪を認識するなら、つまり、罪の悪さを認識するなら、責任を取らなくてはいけないと思います。

二つ目は、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」と書いてあるけど、彼らが滅びる可能性があると思います。ペテロは似たことを言いました。

[神様は]あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

でも、ペテロははっきり言います。人は、悔い改めないと救われません。だから、子供がどうしても悔い改めないなら、救われないと思います。

だから、神様が子供を大事にするように、私たちも子供を大事にしましょう。また、彼らが救われるように、彼らに福音を伝えましょう。

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聖さの中心

[この記事は、私が伝えた教会のメッセージでした。私の通訳者は、このメッセージを翻訳してくれました。]

SNSを使ってる人はどのくらいいますか?私もSNS使ってます。でも時々、ちょっと怒りを感じる書き込みを見かけるときがあります。そんな時は、つい言い返しそうになる口をぐっと抑えます。正確に言うと、書き返しそうになる “腕を” 抑えます。

最近Facebookでこう言う投稿を見ました。「クリスチャンていうのはさ、『あれは罪、これは罪、なぜなら旧約聖書にそう書いてあるから』って言って人を裁くよね。でも旧約聖書には『シーフードは食べたらいけない。二つの素材が混じった服は着たらいけない。土曜日に働いてはいけない。』と書いてあるじゃないか。でもそれをクリスチャンは今は守ってないことに関しては、どういうつもりなんだい?」という書き込みでした。

この人は何を言いたいんでしょう?「クリスチャンは矛盾してる。旧約聖書から、自分の好きなところだけ選んで従って、それ以外は見ないふりしてる。」ということでしょう。

この指摘は正しいですか?もしあなたがこのように問われたら、何と答えますか?アメリカのある有名な牧師が、このことに関して最近非常に”面白い”回答を導き出しました。「もう旧約聖書の律法はすべて忘れてしまえ」と。

その牧師はこう言ってるんですね。「十戒はもう気にしなくていいんです。汝らはもう十戒に従うことなかれ。なぜならこれらはもはや現代を生きるあなたへの命令ではないんです。」

さらにエスカレートしてこう言います。「ペテロも、ヤコブも、パウロも、クリスチャンの信仰から旧約聖書を切り離すことにしました。つまりこの使徒たちは、教会からこの世の価値観や仕組みから切り離し、旧約聖書の掟すら切り離したんです」。

はっきりさせておかないといけないのは、この牧師は決して、私たちは好きなように生きていい、とは言ってはいません。彼は、私たちに大切なのは愛の律法だ、と言いたいのです。愛の律法とは、「神を心から愛しなさい。自分を愛するように隣人(となりびと)を愛しなさい。」です。これは完全に真実です。でも、だからと言って、愛の律法から十戒を切り離すことはできません。愛の律法と旧約聖書にある倫理的な律法を切り離すことはできません。イエス様はそうされませんでした。イエス様の弟子たちもそうはしませんでした。実際、愛の律法とは旧約聖書の倫理的律法から来ているんです。(レビ19:18, 申命6:5)

じゃあ、私たちにとって旧約聖書って何でしょうか。神様を喜ばせるために、一個一個すべての律法を厳密に守るべきでしょうか。じゃあ食べ物に関しての律法は?着るものに関しては?もっと言えば、いけにえを捧げることは?なぜ私たちはもういけにえを捧げなくていいんでしょうか?このようなことを、皆さんは考えた事ありますか?

最近こういう本をもらいました。「聖書的に生きる1年。」1年間、この本の著者は、聖書に書いてある戒めの一つ一つを厳格に守るということにチャレンジしました。もちろん その中には、人のものを欲しがらない、嘘をつかない、ゴシップをしない、というものも含まれています。そして、安息日に休む事、特定の食べ物は食べないこと、服装のことも、全部聖書の通りに守るようにしました。不貞を働く夫がいれば、その人に石を投げることすらしました。(まあ、石といっても小石ですけど。) 私たちも皆こういうふうに生きるべき?これが聖いってことでしょうか?

先週からSteadfast断固というシリーズが始まりました。聖いという事が、毎日の日常の生活の中ではどういう事なのか、を一緒に考えてみましょう。

イエス様の弟子の一人、ペテロはこのように言いました。

あなたがたを召してくださった聖なる方(神様)にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ 1:15-16)

この箇所では、ペテロは旧約聖書のレビ記というところから引用しています。(レビ11:44-45, 19:2; 20:7)レビ記で神様は民に繰り返し語られています。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」そして、その度に、神様はこうも言っています。あなたがたは周りの人たちと同じことをしてはならない。 (レビ18:3; 24-30, 20:23-26) あなた方は選り分けれたほかとは違う存在なのです。

ペテロが、旧約聖書から引用したということは、実はすごく大事な意味があります。つまり、こと聖さに関して言うと、私たちと旧約聖書は大事な関係がある、ということです。じゃあ、旧約聖書と私たちの関係って本当のところ、何でしょうか。私たちが聖い生き方をしようとするとき、旧約聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。イエス様が何と言われたか、見てみましょう。

マタイによる福音書5:17から。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(17-20)

ここはとても大事なことですが、イエス様は神様のことばに対して、最大限の敬意を払っています。イエス様が律法や預言者について語るとき、それらはすべて旧約聖書から語っています。そしてこう言っていますよね。「わたしが来たのは、律法を廃棄するためではないです。成就するために来たのです。」

どういう意味でしょうか。二つ意味があります。一つ目は、イエス様は神の律法に完全に従いました。大工として30年間を過ごし、3年間は福音を伝える説教者としていきました。その間、一度として神の律法を破ることはありませんでした。神がしなさいということはしたし、神がしてはいけないといわれることは決してしませんでした。私たち「してはいけないことをしてしまうこと」イコール罪と考えがちですよね。でも、実は「しなければならないことをしない」ことも罪です。イエス様はどちらにも従いました。

二つ目は、旧約聖書はイエス様を指し示しているということです。旧約聖書の中にある300以上もの預言がイエス様を指し示しています。 それだけではないです。旧約聖書の中にあるストーリーもイエス様のことを示しています。ノアの箱船や、ヨナと大きな魚や、モーセがイスラエルの民を連れてエジプトを脱出した、これらのストーリーは、すべてイエス様のことを指しています。

律法もそうです。イスラエルの民が捧げたいけにえはイエス様を指し示しています。いけにえは、人の罪は、誰かの死を持って贖わなければならないということを示しました。幕屋もそうです。幕屋は、神がわたしたちの間に住まわれるということを表しました。. 民法もそうです。民法はイエス様の聖さ、正しさ、愛を表しています。そして倫理的律法は、イエス様がいかに罪の無いお方か、ということをを示しています。

預言、ストーリー、律法これら全てがイエス様のことを指し示し、またイエス様によって成就しました。だから、これらは今イエス様が説明したように イエス様の教えに従って、理解するべきなんです。この山上の説教と呼ばれる箇所の最後の部分では、イエスさまの話を聞いていた人々は、イエス様が権威を持って話されることに驚いた、とあります。イエス様はこのことを権威を持って話すことができました。なぜなら、イエス様ご自身ががこれらを作られた方だからです。そしてすべてはイエス様のことを指し示していました。

だから、「どうして旧約聖書の律法のうち、これは守るけど、あれは守らないのはなんでだろう」って思ったら、これを思い出してください。私たちは「イエス様の権威に従う」のです。

なぜならすべての律法はイエス様を指し示しているからです。つまりどの律法が今も有効で、どの律法がそうじゃないのか、それを知りたかったら、一番簡単な方法はイエスさまがそのことについてどう教えたかを、調べることです。

そしてイエス様は、旧約聖書についてご自分の弟子たちに教えましたので、弟子たちが何と言っているか、ということも調べることができます。つまり、弟子たちが、「この律法やあの律法は今は当てはまらない」、と言っていたら、それはつまりそうなんです。

だから、私たちはもういけにえを捧げることはしません。だから今はなんでも食べていいのです。イエス様も、弟子もこう言っています。「それらの律法はイエス様によって成就された。果たされた。それらの律法は私たちにイエス様がなぜ必要なのかを表すpictureとして大切です。でも、もはやあなたたちは律法にしばられてはいないのです。」でも、イエス様もしくは弟子たちがこの律法には従うべきとする時、私たちもその律法に従う必要があります。なぜなら、そこには聖く生きるとはどういうことかが、表されているからです。

だから、イエス様は、「すべてが成就されるまでは、律法の中の1ピースすら廃されることはない。」と言われました。イエス様が再び戻って来られるその日まで、私たちには旧約聖書が必要です。

その理由は二つです。一つ目は、旧約聖書と律法はイエスさまがなぜこの地に来られたのかを証言しています。もう一つは、旧約聖書は私たちがどのように生きるべきかを教えてくれます。

だから「旧約聖書はもういらない」とは言えないんですね。私たちには必要です。そして「あなたがそれを軽く扱うなら、天の御国で一番小さいものと呼ばれる。」とイエス様は言われます。さらに、イエス様やその弟子たちが教えた「戒めを破ったり、破るように人に教えたりするものは、天の御国で一番小さいものと呼ばれます。」と言われます。

注目したいのは、イエス様がこの箇所で聖く生きることについて話すときに、いつも十戒を引用してきているということです。でもただ十戒にだけ目を向けさせたいのではないです。イエス様はあなたの心を指さしています。「あなたの心はどこにありますか?」と聞いています。

聖さの中心は、単にたくさんの律法を守ることではありません。「ここからこっちはアウトだけど、ここからこっちはセーフだよね?」と、安全ラインを見極めようとすることでもありません。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうか、です。

だからイエス様は続けてこう言いました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

律法学者たちやパリサイ人たちっていうのは、当時とてもちゃんとした、宗教的な人々とされていました。でもそれはとても表面的なもので、彼らの心は神様に向いてはいませんでした。もちろん彼らは律法を一言一句守ろうとしていました。でも同時に、いつも、その律法の抜け穴を探していました。残りの箇所からそれが伺えます。

21-22節を読みましょう。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(21-22)

イエス様はここで十戒から引用していますよね。殺してはならない。すると、律法学者やパリサイ人はこう言います。「私たちは誰も殺してはいない。だから大丈夫だ。」

でもイエスさまは言われます。「それは良かった。じゃあ、あなたの心の中はどうですか?あなたが怒りを感じた時、あなたはその怒りをすぐに水に流しますか?それともあなたの兄弟姉妹に対して怒りをくすぶらせたままでいますか?」

私たちは、感情を持ってるから、怒りを感じることがあるのは当然です。ただ、その怒りを握りしめたままでいませんか?そうするとどうなりますか?私たちは心の中で、人を殺すんです。

その人に刺々しく話すようになる。言葉で攻撃するようになる。場合によっては、その人を自分の人生から締め出そうとします。それを言葉に出さなくても、行動や態度でそれを伝えてしまうんです。 それが伝えるメッセージは「あなたが死んでしまえばいいのに」です。

イエス様が言ってるのは、「心にそんな怒りや憎しみを抱えたままでいるなら、あなたは神様の命令を破っていることになる」です。

だから23節から26節では、あなたが律法を破り、誰かを傷つけたらなら、まず行って、仲直りしなさい、と言っています。ただ教会に来て、我敬虔なり、という顔で、献金をして祈って、賛美をしないで。まず関係を修復しなさい、と。

あなたはどうですか?行って修復しなければならない関係がありますか?

27節、28節を読みましょう。

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(27-28)

ここでも十戒から引用しています。ここでも、イエス様は、「もう十戒を守る必要はないよ」と言っているのではなくて、この文字の言葉の向こう側にあるものを見なさい、そして自分の心を探りなさい。あなたは心の中で、姦淫の罪を犯していないですか?」と言っています。

夫である皆さん、妻である皆さん、自分の夫や妻以外の異性を見て、「あー、この人が私の伴侶だったらな」って思ったこと、ありますか?それは、神様の目には、姦淫です。心の中であっても、その人を欲しがることは、十戒を破っていることになります。

男性にとってポルノは大きな誘惑です。それも、心の中で姦淫を犯していることになります。

イエス様は言います。「あなたのその目があなたをつまづかせるなら、えぐりだしてしまいなさい」と言われました。

文字通り、えぐりだせと言っているのではないです。イエス様が言われるのは、心の中をあつかうためには、そのくらい極端でありなさい、と言われました。

最近アメリカのあるクリスチャンの政治家が、あることで批判にさらされました、それは、たとえ仕事であったとしても、女性と二人きりでランチやディナーに行ったりしないというふうに彼が決めたからです。周りの人は彼を批判しました。

「いやいやちょっと待って。あなたの周りの女性がみんなあなたを誘惑しようとしてるとでもいうの?」といって彼を批判しました。

でも彼が言ってるのはそうじゃないですよね。彼が言ってるのは、「僕は自分自身を信用していない。僕は罪人です。だから気をつけていなければ、僕の心が僕をどこに連れて行くか、わからない。」

極端にも見えるかもしれないど、彼は自分の心の弱さを真剣に取り扱いました。私たち全員が彼の真似をする必要はないです。でも罪のことを考える時、私たちもそれを避けるために、そのくらい真剣に向き合う必要があります。あなたはどうですか?

多くの場合、私たちは罪を軽く考えてしまいます。だから、旧約聖書の律法を読むと、罪に対する裁きがあまりにも大きすぎるように、神様が厳しすぎるように感じるんですね。私たちは、神様が真剣に考えてる罪をとても軽く考えている。

でも神様は罪はとてもシリアスなものと考えた。だから、罪のあがないのためにイエス様を十字架に送ったんです。イエス様は殺人や、レイプや、盗みといった罪のために死んだのではありません。あなたの口から出る汚れた言葉のために死んだのです。あなたが誰かを傷つけた言葉のために死んだのです。あなたがついた嘘のためにです。あなたが、私が自己中心だったから、その罪のために死なれたんです。これらは私たちを地獄に送る罪です。決して軽く扱うことはできません。

イエス様は罪を避けるためなら、どんなことでもしなさい、と言われます。あなたの心はどこにありますか?

31節、32節を読みましょう。

また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

離婚を経験された人は、この言葉はすごく痛いと思います。ここでイエスさまが伝えようとしていることをまず言いますね、そのあとで、離婚についてもうすこし触れます。

ここでイエスさまが仰っているのは、やはり姦淫についてです。当時、夫が妻に離婚を突きつけることはできました。でもその逆はできませんでした。夫が妻と離婚したいとなったら、その離婚状と呼ばれるものを渡すだけでいいんです。そこには「もうお前は私の妻ではない、誰とでも再婚すればいい。」と書いてありました。

でもイエス様がここで夫たちに言っているのは、夫が妻と不当な理由で離婚する時、それは、妻に対して「好きなように姦淫の罪を犯しなさい」って言ってることになる、ということです。なぜなら神の目には、その離婚は正当なものではなくて、妻はまだその人の妻だからです。だから彼女がもし誰か別の人と結婚するという罪を犯すなら、その責任は元々の夫であるその人にあると。

神様が結婚というものを作られました。それは、いつまでも続く関係としてデザインされたものです。神様がアダムとエバを作られた時、二人は元々永遠のいのちが与えられていたはずでした。永遠に夫婦として生きるはずでした。彼らが罪を犯し、死というものがこの世界に入ってきたそのあとでも、結婚は、死が二人を分かつまで、夫婦を一つに結びつけるものでした。

神様の結婚に対する計画は、最初にそれをデザインされた時と全く変わってはいません。だからもしあなたが、不当な理由で結婚の関係を壊し、他の人と再婚するなら、神様の目には、あなたは姦淫の罪を犯していることになります。

そうなってくるとbig questionが出てきます。じゃあ離婚の、正当な理由って何。

イエスさまがここで言われる様に、相手が自分以外と性的関係を持った時というのがそうです。

パウロはこう言いっています。ノンクリスチャンの伴侶が離れていくなら、離れて行かせなさい。(第一コリ7:15-16)

この二つ以外に、神様が認める離婚の理由はあるでしょうか? あるとしても、私はそれを聖書に見つけることはできません。でも大事なことは、もし他にも正当な理由が あったとしても、この質問自体が正しくないんです。

たとえ、あなたの状況がどうであったとしても、あなたが最初に問うべき質問は、「神様がデザインした結婚から、逃れる方法はありますか」ではあってはいけないです。それはパリサイ人の思考です。だからパリサイ人は神様の結婚への計画からかけ離れたことをしていました。つまりしょっちゅう離婚を繰り返してました。

あなたが神様に聞くべき質問は、「神様、私の結婚を何とかして守る方法はないでしょうか。」「神様、私の心はあなたのものです。あなたは私に何を望まれていますか」。結婚を守ることがいつも可能であるとは言いません。でも夫と妻の両方がその心を持てば、そして神様には対してへり下るなら、希望があります。あなたの心はどこにありますか?

考えて欲しいことはこうです。この中にも、離婚を経験した人がいるでしょう。それはあなたのせいではなかった。あなたの夫や、妻があなたを裏切ったんです。彼らがあなたに背を向けたんです。もしそうなら、どうか自分を責めないでください、なぜならイエス様はあなたを責めません。

でももし、あなたが自分の心を、神に対して、相手に対して頑なにしてしまったが故に、離婚したのなら。もしそうなら、そしてそのことを悔い改めていないなら、どうか、今日、悔い改めてください。悔い改めるなら、あなたは赦しと癒しを受け取ります。神様は離婚のドロドロの醜ささえも、美しいものに変えることのできるお方です。たとえ一度は離婚することになっても、神様が関係を癒してくれて、再度一緒になったっていう夫婦がいることも私は知っています。

もうそうするには遅すぎる人もいるかもしれない。相手はすでに再婚してしまったかもしれないもしくはあなたが再婚しているかもしれない。でも聞いてください。あなたの新しい結婚が良くない形で始まったとしても、神様は、それを贖うことが、修復できるお方です。

聖書にダビデという男性が出てきます。彼はバテシェバという女性と結婚しました。彼のこの結婚は、最も良くない形でスタートしました。ダビデは夫のある女性と関係を持ち、女性を妊娠させました。そして自分が結婚するために、女性の夫を殺しました。でもダビデが心から悔い改めた時、そのことに対する裁きはダビデはもちろん受けましたけれども、神様はダビデの結婚を祝福されました。この結婚がのちに生み出した子孫を知っていますか。イエス様です。神様は結婚を修復してくれます。

あなたの結婚もそうです。でもあなたが悔い改めないなら、最初の結婚を壊した時と同じ態度のままなら、次の結婚もいつか崩れます。もう一度言いますねだから大事な質問は、あなたの心はどこにありますか?

時間がなくなってきたので、もう一つだけ例を見ましょう。43節から45節を開きましょう。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(43-45)

最初の自分の隣人を愛しなさい、は、レビ記に出てくることばですが、後半の自分の敵を憎みなさいは、旧約聖書のどこにも書かれていません。じゃあここ、イエス様は間違ってるの?そうではなくて、律法が歪んだ解釈をされている点を指摘しているんです。

律法学者たちやパリサイ人たちは勝手にこう言いました。「神は自分の隣人を愛しなさいと言われる、ということは、その理屈でいうと、敵は憎みなさいってことだよね。」

なぜこういうふうに考えたのでしょうか。律法が本当に伝えようとしていることを見ようとせずに、表面だけとって、私は誰に対して愛を示すべきだろうか?と考え、そしてその範囲を限定し、じゃあ誰に対しては愛を示さなくてもいいだろうか?と考えるようになりました。そして結論は、「じゃあ敵のことは愛さなくてもいいよね!」でした。

このことは、ヒデさんが先月話してくれた、良きサマリヤ人の話にも出てきました。律法の専門家はイエス様に尋ねましたよね。「私の隣人とは誰のことですか?」

彼の本当の質問はこうなんです。「ここからは愛さないといけない、ここからは愛さなくても良い。その境界線のラインはどこにあるんですか?」

イエス様の答えはよく読んでみると、イエス様はこう言ってることがわかります。「律法学者君、君の質問は間違っています。誰が私の隣人かと聞くのではなくて、私は誰の隣人になれますか?って聞くべきです。そして出会うすべての人の隣人になりなさい。たとえその人たちがあなたを憎んでいたとしてもね。」

この少し後の箇所で、イエス様は言われます。もし自分を愛してくれるものだけを愛したとして、それじゃあこの世界の人々と何も変わりません。誰だってそうします。この世界とは違う、聖いものになりなさい。イエス様はこれらの教えのまとめとして、ペテロがレビ記を引用したことと同じような言い方をされています。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(48)

律法や、十戒や、それらを全て要約した、イエス様と弟子たちが私たちに守る様に言われた愛の律法、いろいろな戒めががありますね。でも聖さの中心とは、これらの戒めを表面を見てただ単に守ることだけではないんです。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうかです。

今日のメッセージを聞いて、こう感じてる人もいるでしょうか。「私にはそんなの不可能だわ」その通りです。不可能です。だから私たちはイエス様が必要なんです。だから聖霊様に私たちの内側に住んでいただく必要があるんです。この山上の説教の一番最初に、イエス様は何と言われたでしょうか。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(5:3)

イエス様は、「超霊的な人たちは幸いです。天の御国はそういう立派な人たちのものだから」とは言われませんでした。イエス様は、心の貧しい人は幸いです、自分の罪のために苦しみの声を上げる人は幸いです。と言われました。なぜなら、天の御国は、まさにその人たちのためのものだからです。

だからイエス様が来られたんです。私たちのすべての失敗を償うために死なれました。でもイエスさまは死からよみがえりました。そして私たちがイエスさまに心を明け渡すなら、イエス様は私たちの心を作り変えてくれます。そしていつか私たちはイエス様のようになります。イエス様は私たちをこう励ましています。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

あなたの心はどこにありますか?義に対する飢え渇きはありますか?イエス様のようになりたいと願う心はありますか?それとも何も思わないですか?

あなたの義が、ただ表面的に決まりを守るだけの律法学者たちと何も変わらないなら、あなたは天の御国には入れません。神様はあなたの心を求めておられます。あなたの心は神様のものですか?

Plant Group Questions
1. マタイ5:17-22, 27-28, 31-32, 43-48を読もう。

2. 旧約聖書に書かれている法の中で、クリスチャンとして、あるものは今も守り、あるものは守らないことについて、不思議に思ったことはありましたか?メッセージを聞いた今、どのようにほかの人に説明することができるでしょう?

3. 聖書の中に書かれている、神様からの命令について、従うのが難しかったり、つい言い訳をして逃れようとしてしまうものはありますか?もしあるなら、それは何ですか?日曜日のメッセージの中で話された個所のものかもしれないし、それ以外でも構いません。

4. 神様の命令を聖書を通して知りながらも、「でも、神様はこんな状況のときは例外ですよね?あんな状況のときは仕方ないですよね?」と聞き続けることは、どうして良くないのでしょうか?

5. クリスチャンの政治家のとった、極端な行動についてあなたはどう思いますか?(たとえ仕事であっても、女性と二人きりでは会わない)あなたの心の中を探ったとき、あなたも、同じように”極端な”対策をとる必要なことがありますか?もしそうなら、それはどんなことですか?そのためにお互いに祈りましょう。

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マタイ18:1-9;マルコ9:33-37;ルカ9:46-48--一番偉い人

時々、私がどれだけクリスチャンとして、成長しなくてはならないかを見ると、私はがっかりしています。でも、弟子たちに対するイエス様の忍耐を見ると、私は励まされます。

弟子たちはカペナウムに行くとき、だれが一番偉いかと論じ合っていました。多分、イエス様はその会話を聞いて、彼らのけんかを聞きながら歩き続けました。でも、彼らが家につくと、イエス様は彼らにこう訊きました。

道で何を論じ合っていたのですか。(マルコ9:33)

多分、弟子たちは恥ずかくて、何について話していたかと認めなかったので、黙っていました。だから、イエス様は彼らにこう言いました。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35)

多分、弟子たちはそれを聞いて、混乱したので、イエス様に訊きました。

それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。(マタイ18:1)

つまり、「私たちの間では、一番偉い人は誰でしょうか。」

そして、イエス様は小さい子供を腕に抱き寄せて、こう答えました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)

イエス様が意味したものは何でしょうか。

一つ目は、小さい子供のようにならないなら、だれも天国に入ることができないことです。

小さいの子供の習性は何ですか。彼らは謙遜です。彼らは、すべてのことを知っていると思いません。だから、彼らはいつも両親に質問をします。それに、彼らはすべてにおいて両親に頼ります。

もし、私たちが天国に入りたいなら、その態度を取らなくてはなりません。神様の前に、私たちは謙遜な態度を取らなくてはなりません。私たちは、自分がすべてのことを知らないと認め、神様の知恵と道を求めなくてはなりません。また、私たちは神様に頼ることを学ばなくてはなりません。もちろん、私たちの救いのために神様に頼らなくてはなりません。しかし、毎日神様の知恵と力に頼ることを学ばなくてはなりません。

でも、多くの人々はそのように生きません。彼らは十分の力と知恵を持っていると思うので、その知恵と力によって生きます。でも、そのように考え、生きるなら、彼らは決して神様の国に入ることができません。

多くのクリスチャンも、自分の知恵と力によって生き続けます。私もよくそうします。でも、今なお、私の弱さを理解し、どれぐらい私は神様が要るか分かるようになっています。

でもイエス様の二つ目のポイントは、あなたの偉さは、何人の人々があなたに仕えるかによって図らないことです。むしろ、一番偉い人は、周りの人々に仕えます。だから、イエス様は、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」と言いました。

一番偉いリーダーたちについて考えてください。彼らは無理やり相手を従わせる必要がありませんでした。むしろ、人々はそのリーダーたちに喜んで従いました。それに、リーダーたちは周りの人々に仕えるために生きました。

だから、相手から何も益をもらわなくても、リーダたちは彼らに仕えます。

イエス様はこう言いました。

だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。(マルコ9:37)

あなたが子供に仕えると、あまり益がありません。なぜなら、彼らはあなたにあまり与えることができません。でも、あなたが子供に仕えると、実はイエス様に仕えています。それに、イエス様に対するあなたの愛のため、あなたは誰かに仕えると、実はイエス様に仕えています。イエス様の目には、そんな人は偉いです。

あなたは偉い人になりたいでしょうか。子供のようになってください。謙遜になってください。相手に仕えてください。相手が偉くても、そうではなくても、彼らのニーズを優先してください。

あなたはどうしますか。

 

 

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マタイ17:24-27--あえて人々を怒らせること

我々クリスチャンたちは、この世界の人々と違う価値観と考え方を持っているので、時々、彼らの意見に反対するのは仕方がありません。

ただ私たちが信じることを伝えると、相手にむっとされるときもあります。

でも、私たちの信仰のために相手がむっとされることと、私たちがあえて相手を怒らせると大差があります。

一つ目のは、仕方がないことです。二つ目のは罪です。

この話では、イエス様とその弟子たちはカペナウムというところにいました。そして、宮の納入金を集める人はペテロに、「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」と訊きました。

多分、ペテロは焦って、答えた。「もちろん払うよ。」

あとで、イエス様はペテロに尋ねた。

シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。(25)

ペテロは、「ほかの人たちからです」と答えたので、イエス様はこう言いました。

では、子どもたちにはその義務がないのです。(26)

要するに、イエス様は神様の一人子なので、払う義務がなかったのです。それでも、イエス様はつづけました。

しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。(27)

イエス様は払わない権利を持っていました。でも、イエス様がその権利を主張するなら、相手は怒ったでしょう。だから、イエス様は払いました。

この話から二つの応用があると思います。

時々、私たちは相手のために自分の権利を譲らなくてはなりません。

私が大学生の時、私はクリスチャンのキャンプに行きました。そして、暇な時、私たちはトランプをやっていました。私たちはギャンブルとかしなかったけど、ある女性は怒りました。なぜなら、彼女はトランプをするのはだめだと教えられたから。私たちはそんな考え方は間違っていると思ったけど、彼女を責めませんでした。彼女の感情を無視しませんでした。むしろ、私たちはやめました。もし、私たちがやり続けていたら、彼女につまずきを与えたでしょう。それは罪だったでしょう。

もう一つの応用があると思います。私たちが信じることのため、相手を怒らせるかもしれないけど、私たちは彼らに愛を示すことができます。

あるクリスチャンは、ゲイの生活が罪だとはっきり言うけど、彼らはエイズにかかっているゲイの人々を愛し、世話してあげます。

私の牧師の義理のお父さんとお母さんはクリスチャンではありません。そして、仏教の儀式があるとき、私の牧師とその妻は参加しません。

でも、彼らそのご両親たちにこう言いました。「私たちは儀式に参加しないけど、家を掃除して、儀式の後、私たちは食べ物を出したり、できるだけ手伝います。」

彼らは、自分が信じることをはっきり言ったけど、愛も示しました。

私たちが信じることのため、相手を怒らせるかもしれません。でも、あえて相手を怒らせるのは罪です。私たちがただキリストに従うことのため、怒る人がいることは仕方がありません。でも、あえて彼らを怒らせる必要がありません。

 

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マタイ17:22-23;マルコ9:30-32;ルカ9:43-45--訊くのを恐れること

この個所では、イエス様は、もう一度弟子たちに、エルサレムで何が起こるか説明しました。彼は本当にはっきり説明しました。

このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。(マタイ17:22-23;ルカ9:44)

弟子たちの反応はどうだったでしょうか。

しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。(ルカ9:45)

多分、私たちにとって、どうして弟子たちがイエス様の言葉が理解できなかったか、わかりにくいです。イエス様は遠まわしに言いませんでした。イエス様は率直に話しました。どうして、彼らはイエス様の言葉が理解できなかったでしょうか。ルカは、その理由を私たちに教えます。「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」

どうして、その言葉は彼らから隠されていたでしょうか。多分、彼らの心はその言葉を理解できるほどまだ準備できていなかったから。彼らはまだ、イエス様がローマ帝国を倒し、新しい王国を建てるように望んでいました。

でも、彼らがのその希望に集中しすぎたので、イエス様の率直な言葉が理解できませんでした。それに、彼らは、イエス様にその言葉について尋ねるのを恐れました。

どうして彼らは恐れたでしょうか。私は、彼らがイエス様の叱責を恐れたと思いません。たぶん彼らは、イエス様の言葉はたとえではないことを恐れました。彼らはイエス様が殺されるという言葉を集中しすぎたので、イエス様がよみがえられることを聞きませんでした。

私たちは、この話から何を学ぶことができますか。

時々、私たちの考え方にこり固まるので、イエス様がはっきり話しても、私たちはその言葉が理解できません。私たちはこう思います。「イエス様はこう言っているみたいだけど、きっとイエス様が意味したのは違うことだろう。」

でも、私たちはイエス様に尋ねたくないです。なぜなら、イエス様が本気でそう言ったなら、私たちの考え方や、ふるまいを変えなくてはならないから。でも、変えるのはちょっと怖いです。

例えば、パウロはこう言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(第二コリント6:14)

つまり、相手があなたを神様とその道から引っ張るなら、その人から、離れた方がいいです。

でも、クリスチャンじゃないと付き合っているクリスチャンにとって、またクリスチャンじゃない人と婚約しているクリスチャンにとって、それは怖い言葉です。

「彼氏と別れた方がいいという意味ではないだろう?」

でも、彼らは神様に訊きたくないです。そうすると、彼らはその人と別れなくてはならないと思うから。

また、パウロは「不品行を避けなさい。」と言います。(第一コリント6:18)

だから、あるクリスチャンは、「その意味したものは、私の彼氏と寝てはだめということだろうか。」

でもその人は神様に訊きたくないです。なぜなら、その人はもう彼氏と寝ているからです。

正直に言うと、時々、真理を聞くのは痛いです。時々、あなたの考え方とふるまいを変えるのは大変痛みを伴うことです。でも、私たちはそのネガティブなことに集中するので、ポジティブなことが見えません。

例えば、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」のある個所には、この言葉もあります。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント6:17-18)

また、「不品行を避けなさい。」のある個所には、この言葉があります。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であることを知らないのですか。」(第一コリント6:19)

私たちは、そのことをもっと考えた方がいいです。

だから、私たちは聖書について質問があれば、訊いた方がいいです。またその言葉を抱きましょう。その言葉によって、生きましょう。最初は、ちょっと痛いかもしれないけど、最終的に私たちは神様からの祝福を知ります。

 

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マタイ17:14-20;マルコ9:14-29;ルカ9:37-43--私たちの信仰はどこでしょうか

私の信仰はどこだろうか。

時々私は自分自身にそう訊きます。「どうして私は神様をもっと信頼しないだろうか。」

でも、時々、私はちょっと違う質問を訊きます。「私は何を信頼しているだろうか。」

この個所では、その二つの質問は浮かびます。

イエス様とヨハネとヤコブとペテロは、山から帰ったとき、他の弟子たちが律法学者と論じ合っていました。何について論じ合ったか分かりませんけど、もしかすると、律法学者はこう言ったかもしれません。

「あなたの先生は神様から来たのではありません。ほら。あなたたちは、この男の子から悪霊を追い出させられません。」

とにかく、イエス様が彼らが何について話したか尋ねたら、その男の子のお父さんはこう言いました。

先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(マルコ9:17-18)

そして、そのお父さんは必死に願いました。

もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ9:22)

イエス様はこう答えました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)

私は、そのお父さんに共感できます。彼はこう言いました。

信じます。不信仰な私をお助けください。(9:24)

どのように、そのお父さんは、その言葉を言ったでしょうか。もしかしたら、彼の希望がほとんど無くなったので、あまり信じなかったでしょう。でも、彼はイエス様が助けられないなら、誰も助けられないとわかりました。

だから、イエス様の目を見ると、そのお父さんは泣いて、自分の不信仰を認めました。「イエス様、私は信じたいけど、この問題はずっと続いて来ました。あなたを信じるのは、とても難しことです。でも、あなたが助けてくださらないと、私は希望がありません。私が不信仰を克服するように助けてください。」

イエス様はその父の願いを聞くと、その悪霊を追い出しました。

私は、この話から希望を受けます。私はよく不信仰と戦います。私の信仰の水滴は、不信仰の津波に圧倒されます。そのお父さんは、そのように感じたでしょう。でも、そのお父さんは不信仰なのに、イエス様は憐れみと恵みを示し、その息子を癒してくださいました。

時々、私も神様の良さを疑います。でも、私が叫ぶとき、イエス様は答えてくださいます。神様は私に憐れみと恵みを与えてくださいます。そして私はもう一度神様の恵みと憐れみを思い出します。

とにかく、この話では、弟子たちはイエス様に訊きました。

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)

そして、イエス様は彼らに信仰について教えます。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

でも、イエス様はもう一つのことを言いました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。(9:29)

覚えていてください。その事件の前に、彼らはイスラエルの中で、人々からたくさんの悪霊を追い出しました。でも、時間が経てば経つほど、彼らはその力がどこから来たか忘れたかもしれません。だから、彼らは神様を信頼せずに、彼らは自分の力と方式に頼り始めたかもしれません。だから、彼らが祈ることを忘れて、その悪霊を追い出すことができません。

私は、その話を読むと、自分自身にこう訊きます。「私は何を信じるでしょうか。私の能力や賜物に頼るでしょうか。私の知恵に頼るでしょうか。もしかしたら、神様に頼るでしょうか。神様を信頼すると、私がからし種ほどの信仰があっても、何でもできます。でも、自分自身に頼ると、私は何もできません。

毎日、私はそのことについて考えなくてはなりません。私はよく失敗します。あなたも不信仰と戦うなら、私と一緒に祈りませんか。

イエス様。私の信仰はどこですか。私の状況を見るとき、私はよくパニックになって、あなたが私を助けられるかどうか疑います。私の不信仰を赦してください。私がすべてのことであなたを信じるように助けてください。私の心と状況の中で働いて、私に平和と喜びを与えてください。

私は何を信頼するでしょうか。私はよく自分自身に頼るので、失敗します。赦してください。私があなたの声を聞こえるように助けてください。私が毎日あなたを信頼するように助けてください。アーメン。

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マタイ17:1-13;マルコ9:2-13;ルカ9:28-36--聞きなさい

福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも興味深いです。

イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを砕けたばかりでした。それに、弟子たちはイエス様が死んで、よみがえる話がさっぱり分かりませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話をおいておいて、そのことを考えないように努力しました。

弟子たちは、「イエス様は、ただのたとえを言っているのだろう。もしかして、イエス様は間違えているかもしれない」と考えたかもしれません。とにかく、彼らは心の中で、イエス様の言葉と取り組んでいませんでした。

だから、その一週間ぐらい後、イエス様はもっとも親しい弟子たちの三人がそのことを理解させるように努力しました。

ところで、マタイとマルコは「それから、六日たって」と言いますけど、ルカは、「これらの教えがあってから八日ほどして」と言います。どちらの方が正しいでしょうか。もしかしたら、ルカが間違っているのでしょうか。

実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現はよく使われた熟語でした。その意味したものは「一週間ぐらい」ということです。

もう一つの可能性は、その時代、ユダヤ人たちが日の部分(一時間でも)を一日とみなしたことです。(私たちはイエス様の復活について話すとき、そのユダヤ人たちの考え方をもう一度見ます)。だから、もしかしたら、ルカが意味したものは、メシアに関する会話が最初の日に起こり、山の話が最後の日に起こり、その間に六日間が経ったことです。

とにかく、イエス様はペテロとヤコブとヨハネを高い山に連れて行きました。そして、イエス様が祈っている間に、彼らは眠ったようです。だから、たぶん彼らは次の出来事をほとんど見逃しました。イエス様は輝いて、エリヤとモーセと話していました。そして、弟子たちは起きて、彼らがイエス様とエリヤとモーセの会話を聞いた時、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について話していました。(ルカ9:30-31)

弟子たちはそれを見て、完全に起きていて、いつものようにペテロは先に話し始めました。

先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)

でも、光り輝く雲がその弟子たちを包み、そして、雲の中から声が出ました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)

その声を聞くと、彼らは恐れて、ひれ伏しました。でもすぐに、彼らは違う声を聞きました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。

起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)

彼らが目を上げると、イエス様は普通に見えました。彼はもう輝いていなかったし、モーセとエリヤはもういませんでした。彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告しました。

人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)

どうして、イエス様は彼らにその幻を見せたのでしょうか。多分、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。でも、イエス様はもう一つのことを教えたいと思いました。それは、死は終わりではないことです。

彼らはモーセとエリヤを見ました。モーセは山で死んだけど、エリヤは死なずに、天国に行きました。でも、彼らはまだ生きていて、イエス様と話していました。

それでも、その三人の弟子たちは、まだ分かりませんでした。だから、彼らは山を降りている時、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合いました。(マルコ9:10)

でも、私にとって、一番印象を残ったものは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

時々、イエス様の弟子たちのように、私たちはイエス様の言葉が完全に理解できません。あとで、弟子たちのように、私たちはその言葉が理解できるようになります。でも、その言葉がわかっても、分からなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送ったので、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなくてはなりません。

あなたはどうですか。イエス様の言葉が理解できなくても、イエスを信頼し、その言葉に従うでしょうか。

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マタイ16:24-28;マルコ8:34-9:1;ルカ9:23-27--一番大切なもの

あなたは何のために生きているでしょうか。何を求めているでしょうか。

楽な人生でしょうか。お金でしょうか。この世の物でしょうか。

この個所では、イエス様は私たちが自分の優先順位を考え直すように挑戦します。イエス様は弟子たちに、また私たちに、本当に難しい事を言いました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)

イエス様は私たちにそう要求したけど、イエス様自身がそのように生きていました。

イエス様は自分自身を捨てました。

イエス様は天国におられ続け、私たちをほっといて、地獄に行かせることができました。でも、イエス様は天国を立ち去って、栄光を離し、天使の礼拝を離し、この世に来て、人間になりました。この世で、イエス様は自分のニーズを考えず、周りの人々のニーズに備えようと思いました。

イエス様は十字架を負いました。

イエス様は打たれて、たくさんの血をなくしたのに、自分の十字架を死刑の場所まで負いました。そして、十字架で彼はすごく苦しんで、死にました。どうしてでしょうか。

天の父の計画を果たすためです。私たちの救いのために死にました。

イエス様が自分自身を捨てたように、私たちも自分自身を捨てるべきです。私たちがこの人生を楽しんではだめだというのではありません。イエス様は、自分の人生を楽しみました。でも、神様の計画を果たすために、私たちが自分のニーズと要望を捨てるときもあります。

時々、私たちは苦しまなくてはなりません。私たちの家族は私たちの信仰のゆえに私たちを拒絶するかもしれません。私たちが日曜日に働かないため、私たちは首になるかもしれません。私たちは、イエス様に従うために迫害されるかもしれません。

でも、苦しんでも、私たちはイエス様に従うべきです。

どうしてでしょうか。イエス様にあって、私たちは一番大切なものを見つけるからです。それはイエス様との関係です。また、私たちのためのイエス様の計画を果たすことです。

でも、ある人は、自分が欲しいもののためにイエス様とその計画を捨てます。彼らは自分が欲しいものを捨てずに、イエス様を捨てます。でも、イエス様は彼らにこう言います。

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。(ルカ9:25-27)

痛烈な皮肉だけど、あなたがイエス様を捨て、自分が欲しいものを持ち続けるなら、最終的にあなたはすべての物をなくしてしまいます。でも、自分が欲しいものを捨て、イエス様に従うなら、本当の満足と平和を見つけます。なぜなら、裁きの日に、イエス様は私たちに報いを与えてくださるから。

この世にも、私たちはその栄光を垣間見ます。

だから、イエス様は弟子たちにこう約束しました。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(マルコ9:1)

弟子たちはイエス様のために苦しんだけど、彼らは神の国が力をもって到来しているのを見ました。神様は彼らを通して奇跡を行ったし、福音を通して、たくさんの人々の人生が変えられました。

また、彼らはイエス様のために殺されたけど、神の国に着いたら、素晴らしい報いを受けました。

あなたはどうですか。一番大切なものを得るために、あなたが欲しい物を捨てるでしょうか。

 

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マタイ16:21-23;マルコ8:31-33;ルカ9:22--イエス様の邪魔するもの

私たちはよく、ほかのクリスチャンにとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように注意されます。

また、私たちは、キリストを信じない人々に対して、イエス様がつまずきの石、妨げの岩であることをよく聞きます。

でも、どのぐらい私たちがイエス様とその働きの邪魔するものになるでしょうか。この個所を読んだとき、そのことを考えました。

イエス様は弟子たちに、神様の計画を果たすため、イエス様が死ななければならないと伝えました。

弟子たちはそれを聞いて、驚きました。彼らは初めてその話を聞いたし、彼らのメシアのイメージに合わなかったのです。彼らは、イエス様がローマ帝国を滅ぼし、イスラエルを解放すると思いました。彼らがイエス様の大臣になると思いました。だから、彼らはイエス様の言葉を聞いて、本当に当惑しました。

でも、いつものように、ペテロは先に自分の思いを表現しました。

主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。(マタイ16:22)

「神の御恵みがありますように」という言葉は、文字通りの翻訳だけど、その意味は、「まさか!」ということです。

つまり、ペテロはイエス様の言葉に大反対しました。

どのぐらい、私たちはイエス様を「主」と呼ぶけど、イエス様の言葉に反対するでしょうか。ペテロはそうしました。

だから、イエス様は彼を厳しく叱責しました。

下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(23)

イエス様にあなたをサタンと呼ばれるなら、あなたはどう感じるでしょうか。イエス様はペテロをサタンと呼びました。なぜなら、サタンの言葉がペテロの口から出たから。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で死ぬことを決定しました。でも、ペテロはイエス様の計画に大反対しました。だから、イエス様の敵がイエス様を逮捕しようと思ったとき、ペテロは、(下手に)彼らを攻撃しました。

でもその態度のため、彼はイエス様とその計画の邪魔ものになりました。ペテロは、自分の思いをイエス様の思いに合わせようと思いませんでした。むしろ、ペテロはイエス様の思いをペテロの思いに合わせようとしました。

あなたはどうですか。あなたの人生に、あなたは神のことを思っているでしょうか。もしくは、人のことを思っているでしょうか。あなたの計画を神様の計画に合わせているでしょうか。もしくは、あなたは神様の計画をあなたの計画に合わせようとしているでしょうか。

あなたは神様の御心に従っているでしょうか。もしくは、神様の名前を自分の計画につけようとしているでしょうか。

主よ。私が、あなたの邪魔ものにならないように。私が自分自身に集中しすぎないように。私があなたの計画を見逃さないように。私があなたの計画の邪魔ものにならないように。私が神のことを思わないで、人のことを思っている時を赦してください。私を形成してください。私を変えてください。私が、毎日、毎秒、あなたに従うように助けてください。アーメン。

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マタイ16:13-20ーー教会が立つ基礎

これは本当に印象的な個所なので、もう一度見て目ましょう。

ペテロがイエス様がキリストだと告白した後、イエス様は彼を誉めました。

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(17-19)

それは本当に印象的な言葉だけど、その言葉が意味したものは何でしょうか。私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

最初に、神様が自分自身を現わすと、救いが来ることです。人々に神様が見えないので、神様が自分自身とその真理を現わさなければ、私たちは神様のことを知ることができません。だから、救いは本当に恵みから来るものです。

カトリックたちはペテロのことを尊敬し、ペテロの権威によってイエス様が教会を建てると教えます。

でもこの個所では、イエス様はそう教えていません。ペテロという名前は、小さい石という意味です。でも、イエス様は、岩の上に教会を建てるとおっしゃいました。

ペテロ自身はその言葉を覚えていて、こう言いました。

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:4-6)

ペテロによれば、教会は何の石の上に立つでしょうか。それはイエス様です。

我々クリスチャンたちは何者でしょうか。私たちは生ける石です。そして、神様は私たちを用いて、自分の家、つまり、自分の神殿を建てています。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きのため、神様の祭司になりました。私たちには祭司が要りません。ならなら、私たち自身が神様の祭司ですから。私たちは確信をもって、大胆に天の父のみもとに近づくことができます。

教会がイエス様の上に建てられたので、ハデスの門もそれには打ち勝てません。サタンはずっと教会を滅ぼそうとしたけど、教会はまだ立っているし、イエス様が戻るまで立ち続けます。

イエス様はペテロに特別な権威を与えたでしょうか。多分そうしました。だけど、その時、ペテロとほかの弟子たちは、イエス様の言葉をちゃんと理解しなかったと思います。

イエス様が天国に戻った後、ペテロの最初のメッセージを通して、たくさんのユダヤ人がクリスチャンになりました。(使徒の働き2章)

また、異邦人も、ペテロを通して福音を聞いて、始めてクリスチャンになりました。(使徒の働き10-11)

つまり、ペテロは、天の御国の鍵を使ったので、ユダヤ人と異邦人は初めて神の国の門に入りました。

また、その鍵を使って、ペテロとヤコブは、ユダヤ人たちの儀式的な律法のほとんどと、食事に関するルールのほとんどを解いたけど、教会の平和を守るためにある律法を守りなさいと言いました。(使徒の働き15章)

それでも、ペテロが最初の法王で、ほかの人々がペテロの権威と立場を継いだと言えません。イエス様は、そんなことを決して言いませんでした。

でも、ある程度、イエス様の言葉はクリスチャンの皆に当てはまります。神様の祭司として、私たち皆は天の御国のかぎを受けました。そして、私たちが福音を延べ伝えると、その福音を聞いて信じる人々に天の国の門は開きます。

また、私たちは信じる人々に、彼らの罪が恵みによって赦されることを宣言する権威を持っています。だから、彼らは、自分の働きによって、救いを得ようという考え方から解放されます。

だから、その鍵を使いましょう。そうすれば彼らも、私たちがいただいた救いを受けるのです。

 

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マタイ16:13-16、20;マルコ8:27-30;ルカ9:18-21--一番大切な質問

イエス様はミニストリーの半分ぐらいを終えた頃、十字架について考え始めました。だから、イエス様は、弟子たちがイエス様についてどう考えたか知りたいと思いました。イエス様がただの預言者だと考えていたでしょうか。ただの良い先生だと思ったでしょうか。

だから、イエス様は弟子たちにこう訊きました。「人々は私をだれだと言っていますか。」

弟子たちはいろいろと答えましたが、その後、イエス様は彼らに訊きました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

その質問は、その世代のためだけではなく、すべての世代のためです。今なお、イエス様は私たちに訊きます。「あなたは私を誰だと言いますか。」

イエス様を預言者だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は預言者でした。イエス様を通して、私たちは神様の言葉を聞きます。

イエス様を良い人だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は良い人です。彼は全然罪を犯しませんでした。

でも、イエス様はただの預言者でしょうか。イエス様はただの良い人でしょうか。

ペテロはそう思いませんでした。彼はこう言いました。

あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)

ペテロがそう言ったとき、ユダヤ人たちは「メシア」、また「キリスト」という言葉がちゃんとわかりませんでした。(メシアとキリストは同じ意味です。)

弟子たちも、その意味が分かりませんでした。だから、イエス様は、自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められました。もしあなたが、あるコンセプトが分からないなら、どうやってほかの人々に説明できるでしょうか。

彼らは、メシアが人々の罪のために死ななくてはならないことが分かりませんでした。彼らが分かったのは、いつかメシアがイスラエルを治めることでした。だから、彼らが「キリスト」や、「メシア」を聞くと、そのイメージが出てきました。

あなたはどうですか。イエス様がメシアであることを信じるでしょうか。つまり、イエス様があなたの罪のために死んだことを信じるでしょうか。また、イエス様は、あなたの王でしょうか。あなたの人生をイエス様にささげたでしょうか。

イエス様は、ただの預言者ではありません。イエス様は、ただの良い人ではありません。イエス様は神です。

ユダヤ人たちは、イエス様の主張がよくわかりました。ある意味、私たち皆が神様の子供たちです。なぜなら、神様は私たちを創造しましたから。でも、「あなたたちと違って、私は本当に神の子である」というのは、「私は神である」という主張でした。その主張のため、ユダヤ人たちは、十字架でイエス様を殺しました。(ヨハネ5:18、マタイ26:63-66)

イエス様があなたの神と王なら、イエス様はあなたの礼拝と奉仕に値します。でも、あなたはそう信じるでしょうか。ペテロのように、あなたは、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と言えるでしょうか。

そう信じているけれど、まだそのことを告白していないなら、今祈りませんか。

イエス様、あなたが、ただの良い人だと思いません。あなたが、ただの預言者だと思いません。あなたが神であることを信じます。あなたが、十字架で私の罪のために死んだことを信じます。またあなたが三日目によみがえられたことを信じます。それを本当に感謝します。私の神になってください。私の王になってください。これから、私はあなたに従いたいです。どうやって生きた方がいいか教えてください。アーメン。

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マルコ8:22-26--盲人

17年くらい前の話ですが、私の父が転倒した際メガネが割れて、父の目にガラスが入ったので、目が見えなくなりました。

多分、この個所では、この男性には似た経験がありました。彼は若い時にちゃんと見ることができたけど、事故や病気のせいで、目が見えなくなりました。どうしてそう考えられるかと言うと、彼は木や人の形をよく知っていたから。

とにかく、イエス様がその人を癒した時、その手順はちょっと珍しいものでした。イエス様はその男性の両目に唾きをつけ、その目に触りました。もしかしたら、多くの盲人のように、瞼はちょっと粘っている物のせいで閉じていたので、それを洗わなくてなりませんでした。そして、イエス様はその目を開きました。その後、イエス様は「何か見えるか」と訊きました。

その男性は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と答えました。

イエスがもう一度彼の両目に触って、その男性の目はすっかり治りました。

イエス様がその人の目を癒したように、霊的に盲目な人々を癒してくださいます。でも、この話のように、時々手順があります。イエス様は彼らの霊的な瞼を開くために、彼らの罪深い考え方を洗います。そして、彼らはちょっと見ることができるようになるけど、はっきり見ることができません。でも、イエス様は彼らにもう一度触れると、彼らの霊的な目はすっかり治ります。その時、彼らの最初の見るものはイエス様です。

そして、イエス様は彼らの思いと人生を変えて、彼らは新しい人になります。

だから、もし、周りの人々がイエス様が見ることができず、人生を変えられる真理がわからないなら、諦めないでください。時間がかかるかもしれません。

また、あなたは彼らの霊的な目を開くことができません。イエス様だけが彼らの目を開くことができます。だから、彼らのために祈り続け、霊的な種を蒔き続けてください。

そして、神様の恵みによって、いつか彼らの目が見えるようになります。

 

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マタイ15:29-39;マルコ8:1-21-律法主義。この世を愛すること。

私は、このブログで何回も言ったことがあるけど、牧師のメッセージを聞いても、ポッドキャストを聞いても、クリスチャンの本を読んでも、その教えを聖書と比べるべきです。実は、このブログの記事も、聖書と比べるべきです。(あなたがこのブログを読むとき、その聖書の個所も読んで、私の言葉を調べるでしょうか。)

とにかく、この個所では、どうして私たちが人々の教えを聖書と比べるのは大切なのか学びます。この個所では、イエス様は、5000人にパンを与える奇跡を繰り返します。でも、これは全然違う出来事です。人数が違ったし、パンと魚の数も違いました。

その奇跡のあと、パリサイ人たちとサドカイ人たちはイエス様のところに来た。(もしかしたら、サドカイたちの中では、ヘロデ王に従う人もいたかもしれません)。

もう一度、彼らはイエス様に天からのしるしを求めたけど、イエス様は断りました。その会話の後、イエス様は、弟子たちにこう言いました。

パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。(マタイ16:6)

(マルコによれば、イエス様は「ヘロデのパン種に十分気をつけなさい。」と言います。多分、イエス様はヘロデに従うサドカイ人たちについて話しました。)

いつものように、弟子たちは混乱しました。

「私たちはパンがない。でも、もしかしたら、私たちはパリサイ人とサドカイ人からパンを買ってはいけないのでしょうか。」

でも、イエス様は彼らを叱りました。「なぜ、パンについて話しているのですか。あなたは、私が5000人にパンを与えた時、また、4000人にパンを与えた時のことをもう忘れたのですか。私は、そんなパンについて全然話していません。」

そして、マタイはこう言います。

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(マタイ16:12)

彼らの教えは何だったでしょうか。

パリサイ人の教えは律法主義です。彼らは、自分の良い行動によって神様の国に入ることができると思いました。だから、彼らは、律法を勉強して、頑張ってその律法に従おうと思いました。

でも、彼らは神様の律法に、たくさんのルールを加えました。だから、彼らは、人々に神様が意図しない重荷をかけました。それに、パリサイ人が加えたルールを守らない人々を批判しました。

さらに、彼らは、神様の律法に反対するルールも作りました。

それだけではなく、彼らは律法の細かいことに集中しすぎたので、その律法の精神を見逃しました。だから、彼らは、間違って人々を裁きました。それに、彼らは、本当の正義と憐れみを忘れてしまいました。ほかの個所を読むと、そのことがよくわかります。

その反面、サドカイ人たちは富と力に興味がありました。だから、彼らはローマ帝国(とヘロデ王)と協力しました。それに、彼らは復活を信じませんでした。だから、彼らは永遠の物ではなく、一時的なものに集中しました。

だから、イエス様は律法主義と、この世を愛することについて警告します。どっちも、パン種のように教会に広まります。そうなると、神様は、その教会をもう用いられません。

あいにく、その時代、多くの人々は、パリサイ人とサドカイ人の教えを調べませんでした。だから、彼らは律法とルールによって圧倒されて、神様に裁かれると感じました。また、ほかの人々は永遠の物に集中せずに、一時的な物のために生きました。

あなたはどうですか。あなたは、この二つの罠に入っているでしょうか。

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マタイ15:19-31;マルコ7:31-37--人々をイエス様に連れて行くこと

この個所では、私たちはイエス様の癒しのミニストリーの人気を見ることができます。

私の心に打つのは、多くの癒されたいと思った人々は、一人でイエス様のところに行かなかったことです。むしろ、友達や家族が彼らをイエス様のところに連れて行きました。そして、イエス様は彼らを癒してくださいました。

その時代、イエス様が目と耳を癒したように、現代でもイエス様は霊的な目と耳を開いてくださいます。その時代に、イエス様が人々の体を癒したように、今イエス様は人々の心を癒してくださいます。

もちろん現代でも、イエス様は人々の体を癒してくださいます。でも、それよりも、イエス様は人々の心と魂を癒したいのです。(例えば、マルコ2:1-12を読んでみてください。)

とにかく、人々が病気の友達と体が不自由な友達をイエス様の所に連れて行ったように、私たちも苦しんでいる人々と霊的に病気な人々をイエス様に連れて行くべきです。私たち自身は彼らを癒すことができないけど、イエス様は彼らを癒すことができます。でも、私たちは、彼らが自分でイエス様のところに行くことを待つべきではありません。むしろ、私たちは、積極的に彼らをイエス様のところに連れて行くべきです。

でもこのことを覚えていてください。イエス様は、しばしば人々にこう訊きました。「わたしに何をしてほしいのか、」

また、「よくなりたいか。」

彼らが癒しを望んだら、イエス様は彼らを癒してくださいました。

そのように、私たちは人々をイエス様のところに連れていくかもしれないけど、彼らは決断をしなくてはなりません。彼らは癒しを望むかどうか決めなくてはいけません。彼らはイエス様が提供するものを受けるかどうか決めなくてはなりません。彼ら自身はそう決めなくてはなりません。

あなたはどうですか。あなたは人々をイエス様のところに連れて行っているでしょうか。

 

 

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マタイ15:21-28;マルコ7:24-30--根気、謙虚、信仰

イエス様はこの女性と話した時、何を考えていたでしょうか。彼は話した時、どんなトーンを使ったでしょうか。

ユダヤ人と向き合った後、イエス様はイスラエルから出て、ツロとシドンに行きました。その場所はイスラエルの北で、海岸が近い所でした。

イエス様は、こっそりそこに行ったけど、すぐにその人たちはイエス様がおられることを聞きました。ある一人の女性も、その知らせを聞きました。彼女はギリシャ人だったけど、その辺に生まれました。(だから、マルコの福音書によれば、彼女はカナン人と呼ばれました。)

彼女の娘が悪霊に取りつかれていたので、イエスに助けてくださるように頼みました。

主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。(マタイ15:22)

普通は、イエス様は人々と思いやりをもって話したけど、この場合、そうしませんでした。イエス様は彼女の願いを聞いたけど、彼女を無視しました。

それでも、彼女はあきらめずに、必死に叫び続けました。「主よ。私の娘を助けてください。」

だから、イエス様はの弟子たちはイエス様にこう言いました。

あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。(マタイ15:23)

それを聞いて、イエス様はその女性に向かって、こう言いました。

わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。(マタイ15:24)

イエス様は、どのようにそう言ったでしょうか。ちょっとイライラされた声で言ったでしょうか。もしかすると、ちょっと謝るような声で、そう言ったでしょうか。「ごめんね。助けたいけど、私はユダヤ人たちのために遣わされているのです。」

イエス様がどのようにその言葉を言ったか分からないけど、彼女は、まだあきらめませんでした。むしろ、彼女は、イエス様のもとに来て、ひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言いました。

でも、もう一度、イエス様は、ちょっと厳しい言葉で断ります。

子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです(マタイ15:26)

イスラエルでは、誰かを犬と呼ぶなら、侮辱でしたけど、でもイエス様は「子犬」と言いました。彼らの言語では、その「小」を付けたら、ちょっと相手を可愛がるニュアンスがありました。それでも、多分、多くの人がそれを聞くと、彼らの感情が害されたかもしれません。

でも、彼女は怒らずに、イエス様の言葉を用いて、こう言いました。

主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。(マタイ15:27)

つまり、「あなたがユダヤ人のために遣わされていることを知っているけど、彼らが要らない落ちるパンをいただいてもいいでしょうか。」

それを聞いて、イエス様は意外な褒める言葉を言いました。

ああ、あなたの信仰はりっぱです。(マタイ15:28)

イエス様が相手の信仰のために褒めることは本当に珍しいことでした。二回だけそんなことがありました。その二人目の人も異邦人でした。(マタイ8:5-13)

とにかく、イエス様はその女性の信仰を見て、感動したので、その娘を癒しました。

私たちは、その話から何を学ぶことができるでしょうか。

時々、私たちが祈るとき、私たちは神様が静かだと思います。私たちは無視されていると思います。でも、この女性のように、私たちは根気をもって、祈り続けるべきです。

もちろん、私たちはイエス様に命令できません。(時々、ある牧師たちは、そんなことを教えます。)

でも、私たちは謙虚な態度をもって、イエス様が私たちを助けることができると信じるなら、多くの場合、イエス様はその願いを叶えてくださいます。

だから、私たちは自分自身にこう訊くべきです。

1.神様が良い方で、私たちを愛してくださることを信じるでしょうか。

2.神様がその願いが叶っても、断っても、私たちは、その答えが私たちの益のためだと信じるでしょうか。

3.神様は答えるまで(「はい」でも、「だめ」でも、)私たちは祈り続けるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは根気をもって祈り続けるでしょうか。神様を信頼するでしょうか。神様があなたの願いを断っても、あなたは謙遜にその答えを受け入れるでしょうか。

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マタイ15:10-20;マルコ7:14-23--本当に不潔な者

多分、たくさんの人々はモーセの律法を読むと、どうしてユダヤ人たちが聖いものと不潔なものに関して、いろんな律法があるかと訊きます。

多分ある律法は、健康や衛生の理由のためでした。

でも、神様はユダヤ人にもっと大切なことを教えたいと思っておられたのです。つまり、あるものは、あなたを汚します。

その物理的な聖いものと不潔なものは霊的な聖いものと不潔なものの例えでした。

だから、神様が教えたいのは、「あなた完全に聖いものになるべきです。」ということです。体だけではなく、あなたの霊も聖くならなくてはなりません。

残念なことだけど、ユダヤ人たちはあまりに物理的な聖さに集中したので、神様の要点を見逃しました。

だから、イエス様が、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」と言ったとき、その弟子たちは本当に混乱しました。

子供のころから、彼らは「このものを食べてはだめです。そのものを食べてはだめです。そのものを食べると、あなたは汚されるから。」と学びました。

だから、彼らはイエス様に訊きました。「ええ?どういう意味ですか。私たちは、あるものを食べると、私たちが汚されると教えられました。」

イエス様はこう答えました。

あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。。。人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:18-23)

イエス様の意味が分かりやすいと思うので、私はこれだけを訊きます。

あなたの心に何が入っているでしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、と自制という実が入っているでしょうか。そうなら、そのものは自然にあなたの口と人生から流れます。

でも、あなたの心に悪い考え、不品行などが入ると、そのものは、あなたの口と人生から自然に流れます。そんなものは、あなたを汚してしまいます。

あなたの口から何が流れているでしょうか。あなたの人生から何が流れているでしょうか。

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マタイ15:1-9;マルコ7:1-13--私たちの人生の目安

何によって、自分の価値観が続くでしょうか。それは本当に大切な質問です。なぜなら、あなたの価値観によって、あなたはいろんな決断をしますから。

パリサイ人たちにとって、モーセの律法や、預言者の言葉はとても大切でした。でも彼らの伝統は何よりも優れたものでした。多分、彼らはそう言わなかったけど、彼らはそのように生きました。だから、時々彼らは神様の戒めを離して、自分の伝統に従いました。

だから、イエス様は彼らを責めました。

あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)

あいにく、たくさんのクリスチャンたちは、そのように生きます。彼は神様の言葉を無にして、ほかの基準に従います。

ある人は、自分の文化と伝統に従います。たとえば、彼らは仏壇で線香をあげます。

「それは文化的なことだけです。深い意味がありません。ただ日本の風習です。」

でも、そうすれば、彼らは文化と伝統のために神様の戒めを離しています。(第一コリント10:19-22)

でも、文化はほかの方法で私たちに影響を与えるかもしれません。

アメリカでは、今ある人々は「私はキリストを信じる。キリストに従う」と言うけど、「神様の目には、同性愛は良いものです」と言います。

どうしてでしょうか。彼らはますます神様に反抗する文化に従っているから。彼らは、自分の価値観をこの世の文化の目安に調子を合わせています。でもそうする上で、彼らは神様の戒めを離さなくてはなりません。

あるクリスチャンは自分の間違っている意見を離さずに、神様の戒めを離します。例えば、神様は「クリスチャンじゃない人と結婚するな」と言います。

でも、彼らは言います。「でも、私はこの人を愛している。なんとかなるだろう。」

だから、彼らは神様の戒めを捨てて、その人と結婚します。

あなたはどうですか。あなたの目安は何でしょうか。文化でしょうか。伝統でしょうか。自分の意見でしょうか。

事実は、一つの目安しかありません。それは神様のみ言葉です。

文化は変わるかもしれません。伝統は変わるかもしれません。あなたの意見も変わるかもしれません。でも、神様の言葉は決して変わりません。

イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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抜かれた?(旧約聖書が私たちに関係あるでしょうか)

普段私はこんなことをしないけど、最近、私は有名なアメリカの牧師のメッセージを聞いたので、そのことについて話したいと思います。

彼は、使徒の働き15章から話しました。私は、そのメッセージの80%ぐらいに賛成できたけど、あと20%は賛成できませんでした。

でも、彼を批判するよりも、私は、どのように旧約聖書が私たちに関係があるか話したいと思います。

多分、彼の要点は、クリスチャンになるために、私たちがユダヤ人になる必要がないことです。つまり、ユダヤ人たちは神様がモーセとイスラエル人に与えた契約に結ばれたけど、私たちは、その契約とは結ばれていません。今、クリスチャンたちの皆は(ユダヤ人でも、ユダヤ人じゃなくても)神様の恵みによって、神様の民になります。私たち皆、救い主が必要である罪人です。

多分、彼はそう言いたかったと思います。もしその牧師が、そのように説明していたら、彼を批判する人はいないと思います。でも、彼はこう言いました。

「不品行を定義するために、パウロやほかの使徒たちは旧約聖書、つまり、モーセの律法を調べませんでした。実は、彼らは罪を定義するために旧約聖書を全然調べませんでした。」

「あなたは、十戒とは全く関係ありません。あなたは、そのユダヤ人の律法、またモーセの律法に全然関係ありません。あなたは十戒に従うべきではありません。なぜなら、その律法は、あなたのためではないから。あなたが従う律法(つまり、隣人を愛する戒め)は、より優れたものです。あなたが従う律法は、もっと理解しやすいです。実は、あなたが従う律法は、あなたからもっと要求します。」

「ペテロとヤコブとパウロがクリスチャンの信仰について話したとき、旧約聖書に頼りませんでした。彼らは教会から旧約聖書の世界観や、価値観や、律法を抜きました。どうやってクリスチャンになることについて教えたとき、旧約聖書を全然使いませんでした。教会から旧約聖書の全体を抜きました。使徒たちは、クリスチャンの信仰から旧約聖書を抜いたし、私たちもそうするべきです。」

私は、この牧師の言葉を言いなおします。そうすれば、あなたには、彼の言葉と聖書の言葉の違いをはっきり見ることができると思います。彼の最後のポイントから始めましょう。

1.ペテロとヤコブとパウロは、クリスチャンになることと、ユダヤ人になることを区別しました。

ユダヤ人の世界観によれば、あなたが救われたいなら、ユダヤ人にならなくてはいけませんでした。また、モーセの律法のすべてを守らなくてはなりませんでした。だから、使徒の働き15章では、あるユダヤ人たちは「クリスチャンになりたいなら、ユダヤ人になるべきです」と言いました。でも、ペテロたちは、その考え方を捨てました。私たちも、そうするべきです。

それでも、旧約聖書は、教会とその教えにとって欠かせないものでした。だから、パウロはテモテにこう言いました。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。(第一テモテ4:13)

パウロは「聖書」と言ったけど、私たちの66書のある聖書(創世記から黙示録)について話していません。なぜなら、パウロがその言葉を書いた時、新約聖書は、まだ書かれている途中だったから。もう書かれた手紙と福音書があっても、多分テモテはそのすべてを持っていなかったでしょう。

それに、新約聖書の著者たちが「聖書」と言ったとき、その意味が「新約聖書の書」だったのは二回だけでした。(第二ペテロ3:15-16--パウロの手紙、第一テモテ5:17-18--多分ルカの福音書)。

だからパウロは「聖書」と言ったとき、だいたい旧約聖書について話していました。

ところで、その牧師の話の話では、もう一つの問題が出てきます。彼は、よく言います。

「使徒たちの信仰は特別な本(つまり、聖書)に基づいていなかった。なぜなら、彼らは特別な本を持っていなかったから。」

もちろん、使徒たちは新約聖書の全部を持ってはいなかったけど、彼はきっと旧約聖書をもって、教えました。使徒たちは、すべての教会で旧約聖書の全体を持っていたかどうかわかりませんけど、彼らの手紙でも、福音書でも、また彼らのメッセージでも、彼らは、いつも旧約聖書を引用しました。また、上記の個所では、パウロはテモテに、「旧約聖書を朗読しさい」と言いました。

この牧師は、もう一つのことをよく言います。「使徒の働きでは、ペテロたちは、いつもイエス様の復活について教えました。聖書ではなく、イエス様の復活は彼らの信仰の基礎でした。」

もちろん、イエス様の復活は、彼らの信仰の基礎でした。でも使徒の働きで、彼らのユダヤ人に対するメッセージを読んで見てください。彼らは復活だけはなく、旧約聖書も指摘しました。

「ほら、旧約聖書では、神様は、イエス様の死と復活について話しています。」

そして、パウロはコリント人に復活について話したとき、最初に旧約聖書を指摘しました。(第一コリント15:3-4)

だから、教会にとっては、旧約聖書は欠かせないものでした。でも、彼らは旧約聖書を読んだとき、ほかのユダヤ人と違うレンズを使いました。イエス様の復活の後、イエス様は彼らにそのレンズを与えました。(ルカ24:26-27、44-47)

もしあなたがそのことを疑うなら、使徒の働きと使徒たちの手紙を読んでみてください。何回も彼らはイエス様からのレンズを用いて、旧約聖書を教えました。彼らの教えには、旧約聖書は欠かせないものでした。

ところで、そのレンズは何でしたか。旧約聖書のすべてがイエス様を指していることです。イエス様の死と復活は一つの例です。

また、そのレンズのため、儀式に関る律法は私たちには、もう関係がないのです。その儀式はイエス様のことを示していました。でも、イエス様はもう来て、その律法を満たしたので、その儀式はもういりません。(へブル人への手紙8-10章を読んでください。)

ユダヤ人の民法もイエス様のことを指しています。例えば民法は聖さの大切さを教えました。また民法は、罪の深刻さを教えました。もしあなたが、民法に書かれた罰がひどいと思うなら、十字架を見てください。そこで、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

とにかく、ユダヤ人の民法の目的もイエス様を指しているので、イエス様が来た後、私たちはその律法に従う必要がありません。でも、その律法を読むとき、イエス様があなたのために何をしてくださったか忘れないでください。

2.教会で使徒たちは不品行や、ほかの罪について教えたとき、旧約聖書によって、その罪を定義しました。

私たちにとっては、「不品行」というのは、ちょっとあいまいなことかもしれないど、パウロは具体的にそれを説明しました。そして、その定義は旧約聖書の律法から来ました。パウロはこう言いました。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。(ローマ7:7)

パウロは、むさぼることについて話したけど、それは例だけでした。ほかの罪を入れてもいいです。だから、その言葉をちょっと変えてみましょう。

律法が、「姦淫してはならない。同性愛は罪です。獣と寝てはならない」と言わなかったら、私は不品行を知らなかったでしょう。

でも律法は足りませんでした。なぜなら、律法は罪を定義するけど、私たちに罪を克服する力を与えてくれないから。だから、パウロはこう言いました。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

地図は私たちの目的地を示していますが、その地図が私たちの手を取って、導くことはできません。そして、私たちが地図を読めなくて、フラストレーションを感じるとき、その地図は私たちを慰めず、助けることができません。

そのように、神様の律法は、正しいことと罪を定義することできるけど、私たちに罪と戦う力、また正しいことをする力を与えることができません。むしろ、私たちが罪を犯すと、律法は私たちを裁きます。だから、私たち皆にイエス様が必要です。

3.あなたがクリスチャンなら、あなたは十戒に従います。

「あなたがクリスチャンなら、十戒に従いなさい」と言っていません。

クリスチャンが十戒に従うのは、事実です。もちろん、あなたは完全に十戒に従うことができません。でも、聖霊様の導きと力によって、あなたはだんだん十戒に従い始めます。あなたが頑張っているから、十戒に従うというわけではないです。むしろ、毎日、聖霊様が、あなたを導いて、あなたの考え方と生き方を変えるのです。

聖霊の導きによって、私たちは律法の文字だけに従うだけではなく、その律法の精神にも従い始めます。つまり、私たちは神様を愛し、隣人を私たち自身のように愛します。それは、もちろんより優れた命令です。なぜなら、その命令には、抜け穴がないのですから。

要するに、私たちはユダヤ人になる必要はありませんが、私たちはまだ旧約聖書に強い関係があります。私たちはユダヤ人ではありませんが、私たちが教会に入れる理由は、ヤコブが教会を旧約聖書につないだから。つまり、

この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。(使途の働き15:16-18)

もちろん、私たちは新約聖書と旧約聖書(つまり、神様との新しい契約、神様との古い契約)を混ぜません。でも、私たちは旧約聖書が私たちにまったく関係ないと言えません。むしろ、私たちは新しいレンズを用いて、旧約聖書を読みます。そのレンズは、イエス様のレンズ。

そこで、イエスは、聖書(つまり、旧約聖書)を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:45-47)

 

 

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マタイ15:1-14;マルコ7:1-15--手引きする盲人から立ち去る

この個所では、イエス様はもう一度パリサイ人たちと向き合います。イエス様の弟子たちはユダヤ人の長老たちの伝統に従わずに、手を洗わずにパンを食べました。だから、パリサイ人はイエス様とその弟子たちを批判しました。

でも、イエス様はパリサイ人たちを批判しました。なぜなら、彼らは自分の伝統のために神様の律法を犯していたからです。例えば、パリサイ人たちはユダヤ人たちにこう教えました。

「あなたのご両親が貧しくても、あなたは「私のお金を神様にささげたので、あなたを助けることができない」と言うのであれば、ご両親を助けなくてもいいです。」

でも、神様は「あなたの父と母を敬いなさい」と命令しました。

だから、イエス様は預言者イザヤの言葉をパリサイ人に当てはめました。

この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。(マタイ15:8-9)

そのあと、イエス様の弟子たちはイエス様にこう言いました。

パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。(マタイ15:12)

でも、イエス様はこう答えました。

わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。(マタイ15:13-14)

私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。あなたが誰に聞くか注意するべきです。

多くの人々は上手に話すことができます。彼らは話すときに、神様からの権威を持っているように見えます。

でも、彼らの言葉が神様の言葉に反対するなら、結局彼らのミニストリーは偽物として暴露されて、引っこ抜かれます。

この世では、そのミニストリーが栄えても、裁きの日に神様はその働きを燃やしてしまいます。そのリーダーは救われるかもしれないけど、彼らが達成したものは全部燃やされます。(第一コリント3:10-15)

だから、あなたが聞くことを調べてください。牧師の教えでも、クリスチャンの本の教えでも、ポッドキャストの先生の教えでも、ちゃんと調べてください。

その言葉が聖書に合うなら、あなたは従うべきです。でも、聖書の教えと違うと、その人の言葉を捨てるべきです。

もし、その先生は何回も聖書と違うことを教えるなら、その人から立ち去るべきです。そうしないと、彼らが落ち込む穴に、あなたも落ち込みます。

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ヨハネ6:60-71--躓かせる者

イエス様の話を聞いたとき、どうしてユダヤ人は気分を害したのでしょうか。もしかしたら、彼らはイエス様の言葉を誤解したかもしれません。つまり、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(53-56)

もし、その言葉を文字通りに解釈するなら、誰でも面食らうでしょう。でも子供のころから、ユダヤ人たちの皆は、獣や鳥を食べる前に、その血を注ぎ出しなくてはいけないと教えられました。つまり血を食べては絶対ダメだと教えられました。(レビ記17:10-14)

でもその時、イエス様は文字通りに話をしていたわけではありません。イエス様はたとえ話をしていたのです。

以前の記事で私は言ったけれでも、イエス様の肉を食べるのは、イエス様のところへ来ると言う意味です。イエス様の血を飲むのは、イエス様を信じるということです。そして、あなたがイエス様のもとに来て、信じるなら、あなたは決して霊的に飢えないし、渇きません。(ヨハネ6:35)

とにかく、もしかしたら、ユダヤ人たちはイエス様の言葉を文字通りに解釈したから、機嫌が悪くなったのかもしれません。

でも、もしかしたら、彼らはイエス様の言葉をちゃんと理解できたけど、その言葉を受け入れられなかったのかもしれません。つまり、永遠の命に至る道は、イエス様しかないことです。

今なお、人々はその言葉を聞いて、「これはひどい言葉だ。そんなことを誰が聞いておられようか」と言います。(60)

クリスチャンたちが神様への道はキリストしかないと言うと、多くの人々はむっとします。だから時々、クリスチャンのリーダーたちでも、その真理を教えるのをためらいます。

「まあ、多分イエス様は、自分がただ一つの道だと意味しなかっただろう。ほかの方法があるかのしれません。」

でも、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言ったとき、本気でそう言いました。もしイエス様のところへ行かず、信じないなら、誰も永遠の命を受けられません。イエス様を拒絶する人に対しては、裁きしかないのです。

イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(63)

つまり、「律法を守るあなた自身の努力を通して、あなたは天国に行こうと思っています。でも、その努力はむなしいものです。あなたの努力は足りないから。実は、あなたの良い行動は、神様の目には不潔な着物のようです。御霊だけがあなたたちに永遠の命を与えることができます。でも、あなたたちが私のもとに来て信じてこそ、御霊はその命を与えてくださいます。」

そして、イエス様はこう言いました。「わたしの言葉は霊的なものです。もし、あなたたちはその言葉を信じてこそ、命を与えられます。」(63)

でも、多くの現代の人々のように、多くのユダヤ人たちはイエス様の言葉を拒絶し、立ち去りました。

だから、イエス様が弟子たちに訊いたように、私たちにも訊きます。

まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。(67)

ペテロのように答えましょう。

主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。(68-69)

 

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ヨハネ6:22-65--本当のパンのために働くこと

聖書の中では、これは本当に印象的な個所の一つですけど、ちょっと難しい箇所です。

イエス様が5000人にパンと魚を与えた後、その群衆はイエス様を王にしようと思いました。だから、イエス様はすぐに立ち去りました。

彼らがイエス様を見つけると、イエス様は彼らを訓戒しました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。(26-27)

要するに、「あなたたちは私を捜していたけど、あなたたちの動機は間違っています。あなたの霊的な必要を求めずに、ただの物理的な必要を求めています。私はあなたたちにパンを与えたけど、一時的なものを優先するな。永遠の命に至るもののために働きなさい。」

そして、ユダヤ人たちはこう答えました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(28)

多分、彼らはこんな答えを予想しました。「聖書を覚えていなさい。十戒やほかの律法に従いなさい。」

なぜなら、彼らは律法学者たちとパリサイ人たちからそんなことをよく聞いたから。

でも、イエス様は意外な答えを与えました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(29)

つまり、「永遠の命を得るために私を信じなくてはなりません。ほかの方法はありません。律法によってあなたは永遠の命を得ることはできません。私を信じないなら、永遠の命を得られません」ということです。

ユダヤ人たちは、それを聞いて、ちょっと違和感があったかもしれません。だから、彼らは天からのしるしを求めました。例えば、モーセはイスラエル人に天からのパンを与えてくれました。そのしるしによって、イスラエル人はモーセが神様のしもべとわかりました。

でも、イエス様は彼らの間違った考え方を訂正しました。モーセではなく、神様はイスラエル人にパンを与えてくださいました。

それに、そのパンはただの象徴でした。つまり、神様は彼らに「まことのパン」を彼らに与えたいと思っておられました。その「まことのパン」は世の民に一時的な命を与えず、永遠の命を与えます。

そして、イエス様の次の言葉は彼らを驚かせました。

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

ところで、35節は6章のカギです。イエス様は物理的なパンについて話していませんでした。(だから、イエス様は聖餐式のパンについて話していたのではありません。)

だから、あなたがイエス様のところに来て、イエス様を信じても、あなたはまだ毎日ご飯を食べなくてはなりません。イエス様は霊的なことについて話しています。

イエス様の肉を食べるのは、イエス様のところに来るという意味です。イエス様の血を飲むのは、イエス様を信じることです。35節を読めば、そのことは明らかになると思います。

もし、イエス様のもとに来て、イエス様を信じるなら、神様の関係をもって、あなたの霊的な飢えと渇きはなくなります。

6章を読むと、そのテーマを何回も見ることができます。

イエス様はユダヤ人の問題を指摘しました。「私がまことのパンなのに、あなたたちは私のことをまだ信じません。私の奇跡を見たし、私の教えを聞いたけど、私のことをまだ信じません。」(36)

でもイエス様はこう言いました。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(37)

イエス様は続けました。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。(40)

また、

父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(45)

また、

信じる者は永遠のいのちを持ちます。(47)

また、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら(つまり、私に来るなら)、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(十字架で、イエス様は自分の体をささげたので、私たちは永遠の命を得ることができます。)(51)

また、

これは天から下って来たパンです。。。このパンを食べる者(つまり、私に来る者)は永遠に生きます。(58)

そして、イエス様はこう言いました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ(私に来て、私を信じなければ)、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(53-54)

また、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56)

最後に、イエス様こう言いました。「物理的な食べ物は、結局虚しいものです。なぜなら、そんな食べ物は永遠の命を与えることができません。でも、私の言葉を信じるなら、永遠の命を受けます。」(63)

私たちはこの個所から何を学ぶことができますか。本当の満足を求めているなら、神様との関係が必要です。でも、神様との関係を望むなら、イエス様に来て、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはなりません。

あなたも、今日そうしませんか。

主よ、私は一時的なものにうんざりしました。私はあなたに来て、あなたを信じます。私は今まであなたに背を向けていました。赦してください。あなたが私の罪のために死んでくだったことを信じます。私の主になってください。私が永遠なもののために生きるように助けてください。アーメン。

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マタイ14:22-36;マルコ6:45-56;ヨハネ6:16-21--イエス様を疑うこと

この個所を読むとき、いくつかのことが私の心を打ちます。

一つ目は、イエス様は自分の人生のバランスを保ったことです。彼は周りの人々のニーズに備えるために自分のニーズを犠牲したときもあったけど、イエス様は天の父と一緒する時間を優先しました。

もし、イエス様がその時間を優先するなら、私たちもそうするべきでしょう。

でも、イエス様は山にいる間、彼は弟子たちが海で苦しんでいることを見ました。それでも、イエス様は3時ー6時ごろまで待って、彼らのところに行きました。

そのように、時々私たちは苦しんでいるけど、イエス様は待ちます。それは、イエス様が私たちを捨てたというわけではありません。イエス様は私たちのことをまだ見守っているのです。でも、イエス様は、その試練を許します。なぜなら、イエス様は私たちにイエス様が見えなくても、私たちがどのぐらい信頼するか知りたいのですから。

弟子たちがイエス様のところから去ったとき、イエス様は「後で私は向こうで会います」と言いました。でも、弟子たちが海で苦しんだとき、イエス様の言葉を覚えていて、信じたでしょうか。

そして、イエス様は湖の上を歩いて、彼らを通り過ぎようとのおつもりでした。弟子たちがイエス様を見たとき、恐れて、イエス様が幽霊だと思いました。でもイエス様は彼らに言います。「心配しないで。私だよ。」

そして、ペテロはイエス様のところに行こうと思って、湖の上を歩き始めます。でも、彼は風と波を見たら、パニックになって沈み始めて、「主よ!助けて!」と叫びました。

イエス様は愛と恵みをもって、ペテロを救ったけど、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言いました。

でも、この話の最後を読むと、私たちは薄い信仰を持った人がペテロだけではないとがわかります。イエス様は船舟に乗り込むと、風がすぐにやんだ。弟子たちは、それを見ると、非常に驚きました。なぜでしょうか。

というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6:52)

その言葉は私の心を何よりも打ちました。彼らはパンの奇跡の本当の意味が分かりませんでした。何がわからなかったでしょうか。

1.イエス様が彼らを本当に愛して、彼らのニーズに備えることです。

2.イエス様は彼らのニーズに備える力を持っていました。

ペテロは海の上を歩いた時、最初は全然大丈夫でした。でも、彼がイエス様から目を離し、周りの波を風を見たら、困ってしまいました。

どのぐらい私たちも同じことをするでしょうか。私たちの境遇に集中して、イエス様から目を離すので、イエス様の愛と力を忘れてしまいます。だから私たちは疑って、沈み始めます。

実は、私もそうするときがあります。だから私と一緒に祈りませんか。

主よ。あなたが私のためにいろんなことをしてくださいました。私に対するあなたの良さを見ました。あなたの愛を見ました。あなたの力を見ました。でも、なぜか私は、まだ疑います。私の信仰を増やしてください。私の固い心を柔らかくしてください。私がパンの話が分かるように助けてください。私があなたの愛と力が理解できるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

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マタイ14:13-21;マルコ6:30-44;ルカ9:10-17;ヨハネ6:5-13--私たちがあまり持っていなくても

多分、私はこの話を一億回読みました。(まあ、大げさかもしれませんが)

でも、今回は新しいことを見出しました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅行から戻ったばかりで、たぶん疲れ果ていたと思います。だから、マルコの福音書では、こう書いてあります。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

でも多分もう一つの理由で、イエス様は弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがりました。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

多分、イエス様はそのことを聞いたので、自分の安全のために寂しいところに行きました。なぜなら、ヘロデ王はイエス様のことについて聞くと、イエス様を探し始めましたから。(ルカ9:9)

でも、どうしてイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがったでしょうか。

多くの場合、私たちはこのことを考慮しないけど、イエス様は100%神であっただけではなく、100%人間でした。

ヨハネとイエス様がどれだけ親しかったか分かりませんけど、彼らは従兄弟でした。もしかしたら、子供の時に、彼らは一緒に遊んでいたかもしれません。

それに、イエス様のミニストリーのはじめに、ヨハネはイエス様にバプテスマを授けました。また、ヨハネが牢にいて、本当に滅入ったとき、イエス様は彼を励ました。

だから多分、イエス様があっさり「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とは言わなかったと思います。

むしろ、多分イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。もう一つのことを覚えていてください。イエス様の弟子達の中では、2人はもともとヨハネの弟子たちだったのです。(ヨハネ1:37)

多分、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのでしょう。

でも、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々は彼らについて行って、イエス様とその弟子たちのニーズを知らずに、イエス様が彼らのニーズに備えるように迫りました。

私がイエス様なら、それを見て怒ったかもしれません。「もう出て行け。私の友達の死を嘆いていることを知らないのか?」

せめて、私は「ごめんね。あなたと一緒に時間を過ごしたいけど、今日はちょっと。明日来てくれませんか」と言ったかもしれません。

でも、イエス様は彼らを歓迎しました。(ルカ19:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと一緒にいました。

そして、だんだん暗くなってきていたので、弟子たちはイエス様のところに行って、「先生。もう遅くなってきたけど、食事するために、皆を帰らせたらどうでしょう。」と言いました。

それはその群衆を帰らせる良い言い訳でした。でも、イエス様はそうしませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言いました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」(マタイ14:16)

「でも、人が多すぎるよ。私たちは絶対できません。」

「あなたは何を持っているか。」

「少しだけしかないんですけど。」

「私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取って、祝福して、すごい奇跡を行いました。弟子たちだけではなく、その群衆も食べて満腹しました。

それだけではなく、食べ物はたくさん余りました。

私は新しいことを見たといったけど、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れて、傷ついているので、私たちは人々にあげられるものはないと考えます。

でも、神様が私たちにそうするように頼んだら、神様は相手のニーズに備えるように私たちに与えるだけではなく、私たちのニーズにも備えてくださいます。そして神様はギリギリ備えてくださらずに、豊かに備えてくださいます。

キーフレーズとは、「神様があなたに頼むとき」ということです。

神様は私たちにすべての人々のニーズに備えるように要求しません。私たちがそうしようとしたら、燃え尽きてしまします。

だから、自分自身にこう訊いてください。「私があまり与えることができないと思うけど、神様は私に彼らに対する情け深い心を与えてくださっているだろうか。神様は私にその人に仕えるように頼んでいるだろうか。もしくは、ただ「これが私の義務だ。その人に触れなくてはならない」と思うだろうか。」

もし、神様があなたに情け深い心を与えず、あなたの心に話さないなら、あなたはその人を別の人に任せた方がいいです。

でも、神様が「行きなさい」と言ったら、神様はあなたが持っているものを取って、祝福して、相手のニーズだけではなく、あなたのニーズにも備えてくださいます。

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マタイ14:1-2;マルコ6:14-29;ルカ9:7-9ーーあなたを尊敬するけど。。。

この個所では、ヘロデ王の行動は謎に満ちているようです。ヘロデが自分の兄弟の妻を取って結婚した時、バプテスマのヨハネはヘロデを厳しく責めました。もちろん、ヘロデはそれを聞いて、嬉しくなかったけど、その妻ヘロデヤに影響されなかったら、たぶん彼は何もしなかっただろうと思います。彼女はヨハネの死を希望したけど、ヘロデはそこまでしませんでした。最初は、ヘロデもヨハネを殺したがったかもしれないけど、結局彼はヨハネを逮捕して、牢に入れました。

どうして、ヘロデはヨハネを殺すことをためらったでしょうか。一つ目の理由は、ヘロデはユダヤ人の反応を恐れたことです。(マタイ14:5)

でも、もう一つの理由は、たぶん時間が経てばたつほど、ヘロデはヨハネを尊敬していたことです。なぜなら、この預言者は王に「あなたが悪い」と言う勇気を持っていたから。

マルコの福音書によれば、ヘロデはヨハネがほかの人々と違うとわかりました。つまり、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていました。

そして、ヨハネが何回もヘロデを責めたのに、また、ヨハネの言葉にヘロデは当惑されたのに、なぜかヘロデは「喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:20)

それでも、ヘロデは決して悔い改めませんでした。

そして、ヘロデの誕生日パーティーで、その娘が皆の前に踊りました。ヘロデはそれを見て喜んで、こう言いました。

おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。(マルコ6:23)

ヘロデの娘はお母さんに相談して、バプテスマのヨハネの首を頼みました。

ヘロデはそれを聞いて心が痛んだけど、自分のプライドのため、皆の前に自分の誓いを取り消せなかったので、ヨハネを殺しました。

多分、その前にヘロデはヨハネと話さなかったけど、私の想像では、ヘロデはヨハネにこう言いました。「ごめんなさい。俺はあなたのことが別に嫌いではない。実のところ、あなたを本当に尊敬している。でも、うちの娘はあなたの首ねだったのだ。」

私たちがヘロデの態度を非難するのは簡単なことだけど、どのぐらい私たちはイエス様にそんなことを言うでしょうか。

私たちがイエス様の言葉を聞くと、私たちの心がかき回されます。でも、その言葉に従わずに、私たちはイエス様とその言葉に背を向けてしまいます。なぜなら、私たちは自分のプライドや家族や、他の物を優先するから。

あなたはどうですか。教会のメッセージを聞くとき、このブログを読むとき、また、聖書を読むとき、その言葉があなたの心に染み込んで、あなたの心はなぜかあったかくなります。あなたは「この人を尊敬します。感心な方だ。」と思うかもしれません。

しかし、あなたは「けれでも。。。」と言ってしまいます。

そして、あなたは神様のみ言葉に背を向けてしまいます。

神様が送った人を尊敬することだけでは足りません。彼らが敬虔な人だと認めるのは足りません。もし彼らが神様の言葉にちゃんと伝えたら、あなたは行動しなくてはなりません。あなたは悔い改めなくてはなりません。なぜなら、いつか神様はあなたが聞いた言葉によってあなたを裁くから。

あなたはどうするでしょうか。

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マタイ10:40-42--偉い?取るに足りない?

イエス様がどのようにこの話をまとめるか、本当に興味深いです。イエス様は弟子たちに、「あなたを受け入れるものは、私を受け入れる」と言います。

そのように、福音のために私たちを拒絶する人は、イエス様をも拒絶しました。

つまり、相手があなたを拒絶しても、自分を責めないでください。彼らの拒絶は痛いかもしれません。とくに、あなたがその人を愛しているなら、その拒絶は痛いかもしれません。でも、あなたが悪いというわけではありません。むしろ、彼らはあなたが代表する方を拒絶しています。

でも、イエス様はこの原則を違う方法で用います。

つまり、預言者を受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また義人を受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。

たぶん、イエス様は弟子たちのニーズに備える人々について話しています。その人々は弟子たちの食料などに備えるなら、弟子たちの報いを受けることになります。

どうしてイエス様は、弟子たちにそう言ったでしょうか。多分、イエス様は弟子たちに、こう教えたかったのだと思います。

「もちろんあなたの仕事は大切です。しかし、ほかの人々を見下すな。なぜなら、その人々も神様の仕事をしているから。そして、あなたのニーズに備える人々は、あなたのように名誉を受けるべきです。」

弟子たちは「霊的な仕事」をしているかもしれないけど、ほかの人々は弟子たちの奉仕を支える仕事をしています。彼らがいないと、弟子たちは自分の仕事ができませんでした。

私たちの多くは、牧師や、教師や、ワーシップリーダーたちを偉い人と見なします。でも、私たちは背景で働いている人々に気づきません。例えば、彼らは、礼拝のために椅子を並べるし、マイクとスピーカーをセットします。彼らも栄誉をうけるべきです。そして、裁きの日、神様は彼らに牧師や、ワーシップリーダーのような報いを与えてくださいます。

要するに、神様が彼らを褒めるなら、私たちも彼らを褒めるべきです。

さらに、イエス様はこう言いました。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(42)

それを言ったとき、イエス様は小さい子供を抱いていたでしょうか。もしかしたら、イエス様は弟子たちを小さいものと呼んだのでしょうか

もしイエス様は小さい子について話すなら、覚えていてください。神様にとっては、キリストに属する小さい子供を世話することは本当に大切な仕事です。

もしイエス様が弟子たちや預言者について話すなら、覚えていてください。彼らも小さいものです。だから、あなたがリーダーなら、偉そうな態度を取ってはいけません。

あなたは「偉い人」でしょうか。覚えていてください。神様にとって、ほかの人々の神の国の仕事も大切です。神様は人の前でする仕事も、裏方でする仕事も同じように褒めます。だから、そんな人をも褒めましょう。

あなたは「取るに足りない」立場にでしょうか。覚えていてください。あなたが忠実に仕えると、神様は「偉い人」のように報いを与えてくださいます。

なぜなら、神様の目には私たち皆は貴い人々だし、忠実な者に報いを与えてくださいますから。

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マタイ10:32-39--人々を分かつ剣

イエス様が迫害の話をまとめる言葉を聞くと、あなたは違和感があるかもしれません。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(34-36)

イエス様は平和の君だと呼ばれます。どうしてイエス様は、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たと言ったのでしょうか。どうして、イエス様が剣のように家族を分かつと言ったでしょうか。

もちろんイエス様は平和の君です。もちろんイエス様がこの世に戻ってすべてを治めるとき、平和をもたらします。でもその時間はまだ来ていません。

だから、イエス様は自分の警告を繰り返します。つまり、あなたがイエス様に従うと、あなたの家族でもあなたを拒絶するかもしれません。

日本では、私はそんな状態を見たことがあります。ある女性は本当に苦しんでいました。なぜなら、そのお父さんに、「あなたがクリスチャンになりたいなら、この家から出て行け。あなたはもう俺の娘じゃない。」と言われたから。

イエス様はに従うなら、家族の争いに至るかもしれません。その時、私たちはどうすればいいでしょうか。

私たちは信じ続けながら、その信仰を隠すでしょうか。ある人々は、そうしようとしましたけど、彼らの嘘がばれると、その問題はもっと大変になりました。さらに、イエス様はこう言いました。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(32-33)

もし、あなたが愛している人たちの前でイエス様を否定するなら、あなたは本当にイエス様を愛し、イエス様に従うと言うことができるでしょうか。あなたの一生、イエス様をずっと否定するなら、あなた自身がクリスチャンだと言えるでしょうか。

もちろん、私たちが弱い時もあります。ペテロも弱い時がありました。だから、彼はイエス様を三回否定しました。

でも、最終的に、ペテロは自分の信仰のために十字架で死にました。

イエス様はこう言いました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(37-39)

要するに、あなたにとっては、イエス様が、何にもまして大切なものになるべきです。あなたがどんなに苦しんでも、イエス様をすべてよりも優先しなくてはいけません。もし家族の平和を守るために、あなたがイエス様を否定するなら、最終的に彼らは地獄に行きます。でも、キリストのためにその家族の平和を手放すなら、もしかしたら、いつか彼らはイエス様に従うようになるかもしれません。

この言葉は実践しやすいものではありません。でも、あなたの家族があなたを拒絶しても、あなたにはほかの家族があります。そして、あなたが苦しむときに、彼らはあなたを愛し、支えます。なぜなら、教会とは建物ではなく、神の家族ですから。

だから、家族の平和を守るためにあなたの信仰を否定しないでください。イエス様を否定しないでください。むしろ、イエス様を他の何物よりも優先しましょう。そうすれば、本当の平和を見つけます。

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マタイ10:14-31-迫害が来ると

迫害。

それはかなり嫌な言葉でしょうね。迫害については全然話したくありません。でも、聖書では、「迫害が来る」という警告は何回も出てきます。

パウロはこう言いました。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(第二テモテ3:12)

「もしかしたら、迫害を受けるかもしれません」と書いてありません。「確かに迫害を受けます」と書いてあります。

前回の記事でも言いましたが、あなたがイエス様のようになりたいなら、必ずあなたを憎む人もいます。迫害は憎みの次の段階です。

だから、イエス様は弟子たちにも、私たちにも警告しました。イエス様は私たちのことを、狼の中の羊と呼びました。

迫害に関して、イエス様はどんな指示を与えてくださるでしょうか。

まず、気をつけなさい、ということです。あなたの信仰のためにあなたを攻撃する人もいます。イエス様は体に対する攻撃について話したけど、心に対する攻撃もあります。あなたの信仰のために、言葉を通してあなたを攻撃する人もいます。

その人を良く知っていてください。そして、感情的な危険があれば、また、物理的な危険があれば、すぐに逃げてください。福音を伝えた後、あなたの役割を果たしたから。もし、彼らがあなたの言葉を拒絶するなら、イエス様はこう言いました。

あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(14)

それがちょっとおかしい表現に見えるけど、その文化では、異常なことではありませんでした。

ユダヤ人たちは外国を出た時、彼らはそうしました。なぜなら、そのちりをイスラエルに持っていくと、イスラエルは不潔になると思いましたから。

だからイエス様の意味したのは、「相手が福音を拒絶するなら、彼らが汚れたものになったことを伝えなさい。彼らは裁かれるけど、それは彼らのせいであることを伝えなさい。」ということです。

そして、立ち去りなさい。あなたの役割を果たしたので、彼らの暴力や酷い言葉をずっと受ける必要がありません。

でも一度迫害されると、私たちが将来の迫害を恐れるようになることは簡単なことです。だから、ほかの人々に福音を伝えることをためらうかもしれません。

でも、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(26-27)

つまり、「私があなたに教えたことは最終的にみんなの前に現れます。迫害でも、その言葉を止めることができません。だから恐れるな。大胆にその言葉を伝えなさい。」

そして、イエス様はこう言いました。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(28)

あなたの魂を滅ぼす方はサタンではありません。それは神様です。サタンは地獄の囚人になります。(サタンはまだ地獄にいないですが。)サタンは地獄の支配者ではありません。

でも覚えていてください。多くの人々が神様を拒絶したので、毎日彼らは死んで、地獄に行っています。不潔なものが天国に入らないので、神様は彼らを地獄に送らなくてはなりません。もし、私たちが彼らを愛しているなら、私たちの迫害の恐れを捨て、大胆に福音を延べ伝えるべきです。

そして、イエス様は私たちを慰めてくださいます。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(29-31)

つまり、迫害が来ても神様はあなたのことを決して忘れません。あなたを助けてくださいます。

そして、もしイエス様のために死ななくてはならないなら、神様があなたと共におられて、あなたはすぐにイエス様の顔を見ます。

だから迫害を恐れないでください。むしろ、私たちが与えられた命の言葉を大胆に伝えましょう。

 

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マタイ10:1-25-すべての人々に好かれること

今日、イエス様の弟子たちに対する指示をもう少し見ていこうと思います。

7-8節は私の心を打ちました。イエス様は弟子たちに、「病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」と言った後、こう言いました。

あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(8)

つまり、あなたはただで神様の恵みを受けたので、その恵みを周りの人々にただで与えるべきです。神の国はお金を儲けるためではありません。

牧師や宣教師が、自分の働きのためにお金をもらってはだめというわけではありません。実は、イエス様は「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです」と言いました。

でも福音を伝える目当ては、お金をもらうことではありません。むしろ、私たちが受けた貴重なものを周りの人々に与えたいのです。

しかし、もう一つのことは私の心を打ちました。イエス様は彼らに何回も警告します。「すべての人々はあなたを受け入れません。あなたが神様の仕事をして、彼らに神様のみ言葉を伝えているのに、彼らはあなたを必ずしも愛するわけでもないです。

むしろ、弟子たちを憎み、拒絶する人がいるとイエス様は警告しました。だから、弟子たちが奉仕するときに、その友達にも、家族にも注意するべきでした。

それはちょっと言いすぎみたいでしたけど、その時代ではそうではありませんでした。特にサウロの時代、クリスチャンたちは厳しく迫害されました。もし、彼らがすべての人々を信頼したら、殺されたでしょう。サウロのように彼らの家族や、友達はクリスチャンを迫害するのは、神様の御心だと思ったからです。

だから、イエス様は彼らに「蛇のようにさとくなりなさい」と言いました。要するに、行動する前にちゃんと考えなさい。相手がどんな人かちゃんと考慮しなさい。相手のことが信頼できるかどうか、よく見極めなさいということです。

でも、イエス様はつづけました。「鳩のようにすなおでありなさい。」(10-16)

あなたが裏切られるとき、あなたの愛が冷めないように気を付けてください。相手を憎むまず。復讐の態度を捨てなさい、ということです。

私たちもイエス様の言葉を覚えているべきです。あなたがイエス様に従うなら、あなたを憎む人もいます。多分あなたの家族や友達はあなたを殺さないけど、彼らはあなたを拒絶するかもしれません。

イエス様は弟子たちにこう言いました。

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。(24-25)

私は前にも言いましたけど、イエス様は完全の愛を持った方でした。彼の人生は完全でした。それでも、イエス様を憎む人もいました。イエス様を「悪魔」と呼ばれました。そして、彼らはイエス様を殺してしまいました。私たちがイエス様に従うなら、私たちはすべての人々からの愛を期待することができると思うでしょうか。

だから、自分が愛されるように努力するのはむなしいことです。むしろ、イエス様のようになるように努力してください。なぜなら、あなたのためにイエス様は自分の人生を十字架でささげたから。

 

 

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マタイ10-11;マルコ6:6-13、30;ルカ9:1-6、10ーー弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様は弟子を作ったとき、彼らに霊的な指示だけではなく、実用的な指示を教えてくださいました。

最初、イエス様はずっと彼らに霊的な真理を教えていました。例えば、山上垂訓と平地の説教を教えました。さらに、イエス様は彼らにたくさんのたとえ話などを教えました。

でも、奉仕をするのに送ったとき、イエス様は実用的な指示も教えました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところに行かずに、ユダヤ人の町だけに行くべきでした。どうしてでしょうか。なぜなら、パウロが言ったように、福音は先にユダヤ人のためだったから。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒したし、教えたけど、彼らに福音を延べ伝える時間はまだ来ていませんでした。

イエス様はほかの指示を弟子たちに与えました。

イエス様は、彼らが何を持った方がいいか、持たない方がいいか教えました(マタイ10:9-10)。

彼らがどこに泊まるか教えました。(マタイ10:11-13)

彼らが拒絶されるなら、また、迫害されるならどうしたらいいか教えました。(マタイ10:14,23)

そして、イエス様は彼らに厳しく警告しました。「信頼できない人もいますよ。気をつけなさい。もちろん、悪いことをしてはいけない。でも、賢く相手を扱いなさい。」(マタイ10:16-17)

でも、その時にイエス様は霊的なことについても教えました。

例えば、神様はスズメの必要に毎日備えるので、きっと彼らの必要に備えるし、彼らを守るということです。なぜなら、神様は彼らをスズメよりも愛し、大事にしてくださるから。だから、彼らは神様を信頼するべきでした。(マタイ10:9-10;29-31)

また、彼らは神様をすべてよりも愛するべきでした。イエス様は彼らにこう言いました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私は何を言おうとしているでしょうか。私たちは人々を奉仕のために訓練するとき、彼らに霊的なことと実用的なことを教えるべきです。

もちろん彼らはミニストリーや日常生活に関する霊的な原則を学ぶべきです。

でも、彼らにどのようにミニストリーをするべきか教えるべきです

イエス様はそうしました。まず、弟子たちはイエス様がどうやってミニストリーをしたか見ました。そして、イエス様は少しだけ指示して、弟子たちを送りました。

弟子たちが帰ると、彼らが何が起こったかイエス様に知らせて、イエス様はフィードバックを与えました。私たちはそのように人々を訓練するべきです。

もちろん、彼らが私たちとまったく同じようにミニストリーをするべきというわけでもありません。でも、私たちが基本的なことを教えた後、彼らはその基礎の上に神様の導きによって、自分のミニストリーを立てるべきです。

残念ですけど、多くの人々は訓練の一種しか与えません。

例えば、彼らは霊的な訓練を与えるけど、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えないので、その弟子が大失敗して、そのミニストリーはすぐに倒れます。

その反面、彼らはミニストリーに関する実用的な指示を与えるので、最初はそれはうまくいくけど、その弟子はプライドや、罪や、ほかの霊的な落とし穴によって、倒れてしまいます。だから、そのミニストリーもすぐに倒れてしまいます。

だから、弟子たちを訓練するとき、そのミスをしないでください。霊的な訓練も、実用的な訓練も与えましょう。そうすれば、神様は彼らと私たちを用いて、神の国は成長します。

 

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マタイ10:1-4;マルコ6:6-7;ルカ9:1-2--畑になる毒草

この個所を読むと、なぜかユダは私の目につきます。

この個所では、イエス様は弟子たちを呼んで、イスラエル人に奉仕するように送りました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒す力を与えてくださいました。でも彼らの一番大切な仕事は福音を延べ伝えることでした。

マタイは、その弟子たちの名前をリストアップした時、最後にこう言いました。「イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ12:4)

ちょっと考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病気の人々を癒しました。ユダも福音を延べ伝えました。しかし結局、彼はイエス様を裏切りました。

どうしてユダはいろんな素晴らしいことをしたのに、イエス様を裏切ったでしょうか。その理由は、わかりにくいです。

でもユダは、イエス様の「畑にある毒麦」というたとえ話の例でした。(マタイ13:24-30;36:-42)

実は、毒麦と麦の見かけはとても似ています。だから、農夫は毒麦を引っこ抜こうとするなら、同時にうっかり麦も引っこ抜きます。だから、農夫は収穫まで待ちました。その時、彼は麦と毒麦を分別しました。

その毒麦のように、ユダは信者のように見えました。彼はほかの弟子たちと一緒に勉強しました。また、ほかの弟子たちのように、彼は悪霊を追い出したし、人々を癒したし、福音を延べ伝えました。

でも、彼は決して自分の心をイエス様にささげませんでした。私のただの推測だけど、もしかしたら、自分の益のために、ユダはイエス様を利用しようと思っていました。でも、彼とイエス様のビジョンが全然違うとわかって、イエス様を利用できないとわかったから、イエス様を裏切りました。

現代でも、教会にそんな人がいます。彼らはクリスチャンのように見えます。彼らはクリスチャンのように聞こえます。彼らは奉仕さえするかもしれません。でも、彼らは本当に心をイエス様に捧げていません。

あなたはどうですか。あなたの心をイエス様に捧げていますか。あなたの人生は本当にイエス様の物でしょうか。

もしくは、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。ふりをしないでください。あなたは牧師や、教会のメンバーたちをだますかもしれないけど、神様をだますことができません。そして、裁きの日、あなたは暴露されます。

その毒麦にならないように。あなたの心をイエス様に捧げてください。クリスチャンのふりをしても、あなたの人生は虚しくなるし、あなたは裁かれます。

 

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マタイ9:35-38--収穫を見ること

この個所から、私たちはイエス様のミニストリーに関して学ぶことができます。

1.イエス様は出て行きました。

イエス様は福音を延べ伝えるため、また、病気な人や傷ついた人々に触れて癒すためにいろんなところに行きました。

2.イエス様は見ました。

多くの場合、私たちは人々を見るけど、彼らのことに本当に注目しません。私たちは自分の考えや、自分の計画にのめり込みすぎるので、周りの人々に注目しません。

もしくは、私たちは彼らの見かけに注目します。彼らの見た目や、行動を見るけど、彼らの心の痛みと悲しみに注目しません。でも、イエス様はそのすべてに注目しました。

3.イエス様は彼らを見て、かわいそうに思われました。

イエス様は行って、見ただけではなく、人々を見るとき、彼らをかわいそうに思われました。なぜなら、彼らを縛り付けるサタンの鎖を見たから。また、サタンが彼らを苦しめることを見ました。彼らは弱り果てて倒れている羊のようでした。彼らは迷っていて、命の道をよく知らなかったので、イエス様は悲しみました。

イエス様の弟子として、私たちはイエス様の態度を取るべきです。私たちは教会の外に行って、周りの人々を見て、彼らを憐れむべきです。

イエス様は弟子たちに言いました。

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(37-38)

この個所を読むと、私はいつもある歌を思い出します。

See the fields,
畑を見てください。
Ripe and white as snow,
雪のように、白くなって、刈り入れるばかりになっています。
Up from the seeds of faith we planted long ago.
あれらは昔に蒔いた種から成長しました。

So many the hearts in season,
もう準備できた心がいっぱいあります。
With every prayer they’ve grown.
人々のすべての祈りのおかげで、その種は成長した。
He has made them ready,
神様はその人々の心を整えました。
But we must bring them home.
でも、私たちは彼らを刈り入れなくてはなりません。

Time like a free wind,
時間は風のように
So quickly slips away.
すぐに行ってしまいます。
Too soon today’s tomorrow,
「明日」とは
Too soon a yesterday.
すぐに「昨日」になります。

So little time for the reaping,
刈り入れる時間が少ないけど
And laborers are few,
働き手が少ない。
Lift your heads to the fields of white,
目を上げて畑を見なさい。
The work that we must do.
するべきの仕事を見なさい。

Lord of the Harvest,
収穫の主
Place your fire in me.
私の心にあなたの炎をつけてください。
Servant you need now,
あなたはしもべが必要でしょうか。
Servant I will be.
私はそのしもべになります。

Give me the eyes of your Spirit,
あなたの御霊の目を私に与えてください。
Your heart of compassion to know.
私があなたの憐れみ深い心を知るように。
Lord of the Harvest,
収穫の主。
Show me where to go.
私がどこに行けばいいか教えてください。

Wherever you may lead me, Lord of the Harvest, I’ll go.
収穫の主、あなたがどこに行っても、私はついていきます。

–ポール・スミス、ジェームズ・ニュートン・ハワード

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マタイ13:53-58;マルコ6:1-6--私たちが愛している者が私たちのあかしを拒絶するとき

私は前にも言いましたが、聖書では、イエス様は二回驚きました。一回目は、イエス様は百人隊長の信仰を見て、驚いた時です。(マタイ5:8-13)

二回目のは、この話です。イエス様はもうイスラエル中で有名な人になりました。福音書によればその時、イエス様は二回地元に戻りました。(多分ほかの戻った時もあったけど、聖書では書いてありません)。

とにかく、地元に戻ると、人々はイエス様の奇跡や知恵を認めたけど、イエス様を預言者やメシアとして受け入れることを拒みました。

どうしてでしょうか。たぶん、彼らはずっとイエス様をただの大工として考えたから。それ以前、イエス様は何回も彼らのために食卓や、いろんなものを作ってくれました。その時、彼らは、「ああ、イエス様は素晴らしい預言者だ」とは思いませんでした。彼らにとっては、イエス様はただの大工でした。

おそらく、そのおじいさんたちとおばあさんたちにとっては、イエス様を昔にその近所で遊んだ子供として考えました。その時、イエス様は近所の子供たちと一緒に遊んだし、その家を訪ねて、一緒に食べたりしました。

だから、彼らにはイエス様に教えられるのを想像できませんでした。「この人が、私を教えるなんて。」と思ったかもしれません。だから、イエス様が教えた時、彼らはむっとさしました。

だから、イエス様は彼らに言いました。

預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。(マルコ6:4)

私たちはこの話から何を学ぶことができますか。

1.神様は意外な人を通して話すことができます。でも、私たちが彼らを見下すと、神様の声を見逃すかもしれません。

時々、彼らは若いし、未経験者です。時にあまり教養のない人だったりします。だから私たちは彼らを見下します。でも基本的に、私たちは神様が彼らのことをちょっと軽んじると思うので、私たちも彼らのことを軽んじます。だから、私たちは彼らの言葉を受け入れません。

でも、神様は若い人、年取った人、教育のある人、教育のない人も用いて、私たちに語ることができます。神様はあなたが尊敬する牧師も用いることができるし、あなたがイライラさせられる妹さんや弟さんも用いることができます。もし、彼らが自分の人生を神様にささげて、聖霊様が彼らの中に住んでいるなら、神様は彼らを通して私たちに語ります。

でも、私たちは謙虚な心を持っているでしょうか。私たちは彼らの見かけだけを見ずに、彼らにおられる聖霊様を見ることができますか。

2.時々、以上の理由で、周りの人々はあなたのあかしを拒絶するかもしれません。イエス様にはそんな経験があったので、不完全な私たちが拒絶されるなら、びっくりすることではないでしょう。

私たちには相手の反応がコントロールできません。彼らに無理やりに信じさせることができません。

あなたの責任は、神様があなたに何をくださったか、また、神様が何をしてくださったか教えることです。そして、彼らがあなたのあかしを拒絶するなら、彼らのために祈るべきです。

人々の心を変えられる方は一人しかいないです。それは神様です。

だから拒絶されても、がっかりしないでください。謙虚な態度を取り続けてください。そして、ほかの人と話すとき、神様が話すかどうか見てください。そうすれば、あなたが予想するよりも神様の声が聞こえます。

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マタイ9:27-34--イエス様ができること。イエス様がしないこと。

この個所を見ると、私たちはイエス様が何ができるか、またイエス様が何をしないのか見ることができます。

イエス様は、盲人や口のきけない人を癒すことができます。

でも、イエス様は自分のことを人々に無理やり信じさせません。

イエス様は盲人たちにこう訊きました。

わたしにそんなことができると信じるのか。(28)

彼らは「そうです。主よ。」と答えたら、イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言いました。(29)

つまり、彼らが本当に信じなかったら、彼らは癒されませんでした。

実は、私たちが信仰を持っていなくても、イエス様は私たちを癒すことができます。ある日、相手がイエス様のことよく知らなかったので、その人は全然信仰を持っていませんでした。それでも、イエス様はその人を癒してくださいました。(ヨハネ5:1-15)

でも、多くの場合、イエス様は人々の信仰を要求しました。

この話では、その二人の盲人たちは信じたので、癒されました。

でも、次の話では、イエス様が口のきけない人を癒した時、多くの人々は驚いたけど、パリサイ人たちはまだイエス様を信じないで、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(34)

イエス様がどんな奇跡やしるしを行っても、パリサイ人は信じることを拒みした。

イエス様は彼らの信仰を求めたけど、彼らに無理やり信じさせませんでした。

そのように、イエス様は私たちに無理やり信じさせません。

イエス様は私たちに聖書を与えてくださいました。イエス様は神様があなたの人生にどのように働いたか指摘し、あなたが神様に従う時、その祝福を思い出させます。

でも、私たちは毎日自分自身に訊くべきです。「私は神様を信じるだろうか。私は神様を信じるので、神様の道を行くだろうか。」

そうすれば、神様からの祝福と癒しを見つけます。

そうしないと、パリサイ人のように、あなたは神様の祝福と癒しを決して知りません。

あなたはどうしますか。

 

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マタイ9:18-26;マルコ5:21-43;ルカ8:41-56ーー人々を清める神、人々を復活させる神ーー

旧約聖書を読んでいると、聖いものと汚れたものという話がよく出てきます。

つまり、ユダヤ人たちにとって、触ってもいいものと、触ってはならないものがいっぱいありました。例えば、死骸は汚れたものです。また生理の時に、女性たちも汚れたものでした。もし、その者に触ると、あなたも汚れたものになりました。

前にも言いましたけど、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れたら、イエス様が汚れたものにならなかったことです。むしろ、その汚れたものは聖い者になりました。

この個所では、私たちにはそんなことを見ることができます。

一人は、十二年の間長血をわずらっている女でした。もしかしたら、それは生理的な問題でした。だから、一か月一回だけではなく、その女性はいつも汚れたものとみなされました。彼女はたくさんのお医者さんに診てもらったけど、全然治りませんでした。

だから、彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。なぜなら、彼女はその服に触れば、きっと治ると思ったからです。

どうして、彼女は直にイエス様に頼まなかったでしょうか。多分、彼女は自分の病気で、恥ずかしかったから。彼女が「汚れたもの」とみなされたから、イエス様が彼女を拒絶すると思ったかもしれません。

でも、彼女が治った拍子に、イエス様は訊きました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女は自分の行動を認めるまで、イエス様は待っていました。なぜイエス様は彼女の返事を持っていたでしょうか。多分二つの理由がありました。

一つ目は、彼女が本当に癒された確信を与えたかったことです。つまり、彼女にその病気はもう再発しないことを伝えたかったのです。

二つ目は、イエス様は周りの人々にその癒しについて知らせたかったことです。12年間、彼らはその女性を除け者にしました。でも、彼女が聖いものになったことを伝えたいと思われました。

そのあと、イエス様は会堂管理者のひとりでヤイロという者の家に行きました。なぜなら、彼の娘は死にかけていたから。でも、その家に着く前、ヤイロの家から人が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。」と言いました。

でも、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言いました。

そして、イエス様はその娘のところに行って、愛をもって、こう言いました。「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」

その言葉を言った拍子に、彼女は起きました。

この話から、私たちは何を学ぶことができますか。

私たちの罪によって、私たち皆は「汚れたもの」になりました。あなたは汚すぎて、もうきよめられないと思うかもしれません。神様があなたをもう赦すことができないと思うかもしれません。

あなたの罪のため、もう希望がないと思うかもしれません。あなたの結婚や、家計はダメになったかもしれません。もう将来性もないと思うかもしれません。

でも、その女性を癒した神、また、その女の子を復活させた神はまだ生きているので、あなたを清めて、新しい命を与えることができます。

一つの言葉で、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もし、イエス様に向かって、イエス様とその十字架の働きを信じたら、イエス様はあなたを癒してくださいます。

だから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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マタイ8:28-34;マルコ5:1-20;ルカ8:26-39ーー解放された

これは本当に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に着きます。そのとき、彼らは二人の悪霊につかれた人に出会います。(マルコとルカは一人だけについて話すけど、私はどうしてか分かりません。もしかしたら、一人だけがイエス様を信じたかもしれないけど、それはただの推測です。)

多分、イエス様と弟子たちが浜辺へこぎ寄せた拍子に、彼らは変な叫びを聞きました。そして、急に裸の二人の男性たちは走り近づきました。多分、彼らには腕と足に壊れた鎖をつけています。そして、弟子たちが彼らを注意深く見ると、その二人のたくさんの傷に気づきます。なぜなら、その二人は、何回も自分自身を傷つけたから。

あなたがその二人を見たら、どう感じたでしょうか。多分私はとても恐れたでしょう。

でも、イエス様は冷静に、悪霊たちがその二人から去るように命令します。

最初は、その悪霊たちは去らずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

しかし、イエス様がもう一度「出て行け」と言ったから、その悪霊たちはイエス様に頼みます。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様は「行け」と言ったので、その悪霊たちはその豚に入って、その豚は湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死にました。

その二人は解放されたけど、町中の人たちがその二人を見ると、町中の人たちは喜ばずに、逆に恐れました。

だから、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」、と願いました。

私たちはこの話から何を学ぶことができますか。

一つ目は、悪霊は存在することです。そして、悪霊は本当に危ないです。ある人々はタロットカードやウィジャ板を使って、「これはただの遊び」と思います。でも、そのものを使ったら、私たちは悪霊の影響を受けやすいです。

ある牧師はこう言いました。悪霊の世界に導くドアがあるけど、そのドアに一つの取っ手しかありません。私たちだけがそのドアを開けることができます。でも、そのドアを開けたら、悪霊は私たちの人生に入ることができます。

タロットカートや、ウィジャ板や、占い師などはそんなドアです。

さらに、その悪霊は私たちの益を望みません。時々、彼らは光の天使に変装するけど、実は、彼らは私たちを滅ぼしたがります。今日の箇所では、悪霊がその二人の人々、またその豚をどのように扱ったか見てください。それは悪霊の意図を現します。タロットカートや、ウィジャ板や、占いは楽しそうかもしれないけど、悪霊はそのもの裏だし、あなたを滅ぼしたがります。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がありません。彼らは力があるけど、イエス様は彼らよりも力強いから。また、悪霊に対して、イエス様は権威を持っています。

それでも、オカルトから逃げてください。いつか、イエス様と弟子たちのようにあなたは悪霊と向き合うかもしれないけど、悪霊を求めないでください。

でも、この話からもう一つのことを学ぶことができます。

最初は、罪は楽しそうかもしれないけど、最終的にその罪はあなたを治めてしまいます。

どうして悪霊がその二人に入ったから分からないけど、確かに彼らは神様を求めていませんでした。そして、悪霊にドアを開けたら、その悪霊が彼らに入ってしまって、その二人はもう自分自身をコントロールことができません。悪霊たちは彼らをコントロールし始めました。

そのように、最初は私たちは罪を選ぶかもしれないけど、結局その罪は私たちを治めます。そしてこの話のように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。神様が私たちに恵みを与えずに、私たちが決して悔い改めないと、私たちは最終的に滅びます。

でも、イエス様は私たちを解放する力があります。もし、私たちが悔い改めたら、イエス様は私たちを赦して、私たちが罪を克服するように助けてくださいます。

しかし、ある人々は私たちの変化を見ると、嬉しくないかもしれません。

この話では、町中の人たちは嬉しくありませんでした。だから、彼らはイエス様が立ち去るように願いました。

その悪霊につかれた人たちは怖かったけど、町中人たちは彼らが解放されなかったら、良かったと思ったみたいです。

あなたの周りの人々はあなた変化を見ると、そのように感じるかもしれない。

でも、イエス様は私たちを彼らに送ります。イエス様は彼らに言ったように、私たちにもこう言います。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにどんなことをしてくださったかを周りの人々に伝えませんか。そうすれば、彼らも解放されるかもしれません。

 

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マタイ8:23-37;マルコ4:35-41;ルカ8:22-25ーー私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら良いのにと思います。私が自分の状況をコントロールできないとき(実は、コントロールできる時って本当にあるでしょうか?)、私はパニックにならず、イエス様に信頼した方が良いでしょう。私は信仰を持って、イエス様が私を愛して、私のニーズに備えてくださることを信じた方が良いでしょう。

イエス様、何回も私はあなたを信頼しません。何回も、恐れや心配が私を治めます。赦してください。

あなたが私を愛してくださるのに、どうして私は自分の状況を恐れるでしょうか。

私を変えてください。私があなたに信頼するように助けてください。あなたの完全の愛が私の心から恐れと心配を追い出すように。アーメン。

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マタイ13:51-52--私たちが知っていることを教えること

「あなたがもらったものをどうしましたか。」

裁きの日に、神様が私たちにその質問を訊くと思います。この個所では、イエス様が同じ質問を弟子たちに訊いたと思います。

イエス様は彼らにこう訊きました。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。(50)

彼らが「はい」と答えると、イエス様はこう言いました。

だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。(52)

この個所から私たちが二つのことが学ぶことができると思います。

1.神の国に関する知識は宝のようです。(ギリシャ語で、「倉」という言葉は、「宝」という意味もあります。マタイ13:44では、その同じ言葉は新改訳で「宝」と翻訳されます。)

だから、私たちはその知識を軽んじたらだめです。

2.私たちが問題に直面するとき、また、周りの人々が問題に直面するとき、私たちはその宝を出すべきです。

私たちは神の国に関する知識をもって、宝を持っています。

例えば、神様は人々をすばらしい値うちの真珠とみなします。だからイエス様は、すべてを捨てて、十字架で私たちを買いました。

また、私たちが見る悪は永遠に続かないと知っています。ある日、その悪は取り除かれて、裁かれます。

また、今でも、神様はこの世に働いています。そして今、神様が蒔いた種は、小さいかもしれないけど、私たちがその過程がわからなくても、その種は成長します。サタンでも、その成長を止めることができません。

そして、その木(つまり、神の国)の下に私たちは平和と喜びを見つけます。

でも、神様はこの世に働くだけではなく、私たちの人生にも働いています。

あなたがその宝を出すと、始めて聞く人もいるし、何回も聞いたことある人もいます。

でも、この世の人々を見ると、その宝をすぐに出しましょう。なぜなら、多くの人々は愛や、希望や、人生の目的にあこがれるから。そして、私たちが持っている宝だけは、その飢えに満たすことができます。

さらに、ある日、神様はあなたに訊きます。「私はあなたに素晴らしい宝を与えたけど、どうしましたか。周りの苦しんでいた人々に与えましたか。」

あなたはどう答えるでしょうか。

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マタイ13:47-50ーー迫っている裁き

福音では、イエス様は天国について話したけど、イエスは天国についてよりも地獄について教えました。この個所では、イエス様は迫っている裁きについて話します。

以前にも言いましたが、この世の悪を見ると、私たちはよくフラストレーションを感じて、どうして神様が何もしないか疑問に思います。

でも、この個所では、イエス様はその日がきっと来ると言います。すべての人々は、死んだ者の魂でも、まだ生きている者でも、神様の前に立って、裁かれます。

その日、神様は悪者と正しい者を分別します。正しい者は報いをもらって、永遠に神様と一緒にいます。でも、悪者に関して、イエス様はこう言います。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(49:50)

どうして、イエス様はこのことを教えましたか。一つの理由は、私たちに希望を与えるためです。つまり、この世の悪は永遠に続かないことです。この邪な世界で、私たちにはそんな希望が必要だと思います。

でも、二つ目の理由は私たちを警告するためです。つまり、神様の忍耐は永遠に続かないことです。

神様は誰も滅びるように望まないけど、彼らがあえて神様とその福音を拒絶したら、神様は彼らの願いを果たします。つまり、彼らは永遠に神様から離れて生きます。

しかし、その日が来ると、彼らは神様から離れた存在が惨めな人生だと悟ります。だから、彼らは永遠に絶望して苦しみます。

多くの人々は神様が彼らの喜びを盗もうとしていると思うので、神様から逃げます。でも、事実は、神様から離れていると、喜びが全然ありません。

だから、この邪な世界を見ると、覚えていてください。裁きの日が迫っています。あなたはもう準備したでしょうか。つまり、信仰によって神様の救いを受け入れましたか。

もし、あなたはもう準備したら、自分自身にこう訊いてください。「私が愛している人々は準備しているだろうか。」

彼が準備していないなら、どうしても、彼らに福音を伝えてください。

地獄は現実です。イエス様はそう教えました。あなたは信じているでしょうか。あなたは信じているので、福音をあなたが愛している人々に伝えているでしょうか。

 

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マタイ13:44-46--救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいた時、木の下で埋coins-2-way_2834423bまっていた缶を見つけました。それは、ただのごみみたいだったけど、注深く見ると、缶に入ったものは古い金貨でした。その金貨は1800年代のものでした。そして、彼らが庭でさらに探してみると、金貨が入った缶をいくつか見つけました。その金貨の価値は10億万円ぐらいでした。私もそんな宝物を見つけたらいいのにねえ。

この個所では、イエス様のたとえ話は上記の話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性は畑に隠された宝を見つけました。でも、その畑が自分のものではなかったので、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物を全部売り払って、その畑を買いました。

二つ目の話では、商人は真珠を探していて、良いのを見つけました。でも、その真珠はとても高かったので、彼は自分の持ち物を全部売り払って、その真珠を買いました。

その二つの話を読むとき、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、宝を見つけた人の喜びです。二つ目は、その人がどうしても、その宝物を買おうと思ったことです。

多くの人々はこの話を読むとき、キリストを見つける人の喜びを考えます。イエス様との関係がすごい価値があるので、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる気があります。彼らはイエス様に従うのに、自分の家や、家族や、持ち物を捨てます。(マルコ10:29)

それはちょっと痛いかもしれないけど、彼の喜びはその苦しみよりも優れたものです。

でもこの話では、もう一つの解釈があります。つまり、私たちは宝ものです。私たちは真珠です。そして、イエス様は探している人です。

私たちは自分の罪のため、迷ったし、霊的に死んだものでした。でも、イエス様が私たちを探していて見つけた時、イエス様は喜びを持って、すべてを売り払って、私たちを買いました。イエス様は天国を去って、自分の栄光を天国に残して、人間になりました。

この世にいる間に、お腹がすいたときもあったし、喉が渇いたときもあったし、疲れた時もあったし、痛んだ時もありました。そして、イエス様は十字架で、苦しくて死んでしまいました。

どうしてでしょうか。イエス様にとって、私たちがすばらしい値うちの真珠だから。私たちは埋まった宝物です。私たちは汚いし、錆びたけど、イエス様の目では、私たちには高い価値があったから。だから、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買いました。

それでは、私たちはどのように反応しましょうか。

パウロはこう言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だから毎日、私たちを愛している救い主をほめたたえましょう。

 

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マタイ13:34-35; マルコ4:33-34–良い先生の特質

私は20年間以上英語を教えてきたし、多分30年間ぐらい聖書を教えてきました。

でも、私にイエス様の教える技術レベルに決して達成できないと思います。イエス様は本当に最も熟練した先生でした。

どうして、イエス様はそんなに素晴らしい先生でしたか。彼の教え方は素晴らしかったから。イエス様はどのように教えたでしょうか。

この個所によれば、イエス様はいつもたとえ話を用いました。どうして、たとえ話を用いたでしょうか。

前にも言ったけど、たとえ話を通して、イエス様は誰が本当に学びたがったか区別できましたから。学びたい人たちは、いつも質問を訊きました。訊かない人たちは、その話を楽しんだかもしれないけど、その話の意味が分かりませんでした。

でもイエス様に訊く人にとっては、その話は分かりやすくなったし、覚えやすかったのでした。

それは、良い先生の特質の一つです。彼らが霊的な真実を説明するとき、だれでもその真理が理解できるようになります。

ある先生は、自分の教育や、霊的な知識によって会衆を感動させたがるので、誰も分からない術語を用います。もしくは、彼らは会衆がすぐに忘れてしまうギリシャ語やヘブル語を紹介します。

会衆は感激して、「それは深いメッセージだったね。本当に学問的なメッセージだったね。」というかもしれないけど、結局彼らはこう言います。「いったいどんな話だったんだろうか。その意味はよく分からなかった。」

でも、イエス様がシンプルな言葉を用いたので、誰にも理解できました。

だから、そのたとえ話とシンプルな言葉のため、その会衆はイエス様の教えにのめり込みました。会衆にとっては、つまらない話をずっと聞くのは本当に最悪なことです。イエス様はそんな話を全然しませんでした。

イエス様は会衆のレベルがよくわかりました。マルコによれば、イエス様は、「彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。」(マルコ4:33)

要するに、イエス様は彼らが理解できないことを教えませんでした。

へブル人への手紙の著者は、赤ちゃんに堅い食べ物をあげるのはだめだ、と言いました。その赤ちゃんが固い食べ物が食べられるまで、彼らにミルクをあげなくてはなりません。彼らがもうちょっと成長したら、固い食べ物をあげてもいいです。(へブル5:11-14)

最後のポイントだけど、イエス様は弟子たちの質問に答えてくださいました。マルコはイエス様に関して、こう言いました。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(4:34)

普通は、イエス様は弟子たちの質問を待ちました。そして、イエス様はその質問に答えてくださいました。

イエス様と違って、私たちにはいつも答えがないかもしれません。でも、その質問を通して、私たちはもっと勉強し、先生として成長します。

あなたは教会の先生じゃないかもしれません。でも、私たち皆は教える機会があります。私たちの子供を教える機会があるし、私たちのもとに神様に導かれた人を教える機会があります。

だから、イエス様のような先生になるように努力しましょう。

 

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マタイ13:33;ルカ13:20-21--変えられた

私はパン屋ではないけど、多分だれでも、この個所のたとえ話を理解できると思います。もう一度、イエス様は神の国について話しています。

パン職人はパンを焼くとき、その生地にパン種を入れます。そのパン種は何をするでしょうか。最初に、そのパン種は生地に広がります。そして、そのパン種は生地を変えます。パン種が入らないと、そのパンは平たくて、固いものになります。でも、そのパン種のおかげでそのパンはふわふわになって、おいしくなります。

神の国はそのようなものです。

まずは、私たちは福音の種を人々の心に蒔きます。そして、ある人々は信仰によって、福音を受け入れます。その福音は彼らの魂に広まりつつあって、最終的に彼らは全く新しい人になります。

彼らの考え方が変わるし、その行為も変わるし、彼らのすべては新しくなります。

だからパウロはこう言いました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (第二コリント5:17)

神の国はそのようなものです。

私たちはこの世界を政治的な方法を通して変えられません。新しい律法によって、この世界は変わりません。誤解しないでください。もちろん、民主的な社会で、私たちは自分の権利を行使して、変化のために戦うべきです。

でも、新しい律法によって、私たちが人々の心を変えると思ったら、私たちは自分自身をだましてしまいます。

同性愛に反対する新しい律法があっても、そんな振る舞いは止まりません。中絶に反対する新しい律法があっても、中絶する人もいます。

神様の国はたちまちこの世に現れません。聖霊様は人々を一人ずつ変えます。まず、聖霊様は私たちの心を変えてくださいます。そして、私たちを通して、聖霊様はほかの人々に触れて変えます。そして、だんだん神様の国は広まって、国々が変わり始めます。

だから、私たちは自分自身にこう聞くべきです。私たちは福音をもって、何をしているでしょうか。あなたがその福音を受け入れて、あなたの人生は変えられているでしょうか。そして、あなたは周りの人々にその福音を延べ伝えているでしょうか。そうすれば、聖霊様は彼らの心にも働き始めます。

だから毎日祈りましょう。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

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マタイ13:31-32;マルコ4:30-32;ルカ13:-18-19--小さいものから始まること

私は、イエス様が自分の説教で用いた生き生きとした描写が大好きです。

この話では、イエス様は神様の国をからし種と比べます。その種はとても小さいものだけど、大きい木になるので、鳥はその枝に巣を作ります。

イエス様の要点は何でしょうか。たいていは、神様の国は最初から大きなものとして始まりません。逆に、小さいものとして始まります。

特に、多くの場合、神様は自分の国を建てるために、取るに足りない人々を選びます。

例えば、マリヤは貧しい十代の女性でした。ヨセフはただの大工でした。

そして、イエス様が来た時、大きい軍隊を導く王として来ませんでした。父ヨセフのようにイエス様は大工でした。

イエス様は弟子たちを選んだ時、漁師や、ローマ帝国と協力した収税人や、ローマ帝国を憎んだ愛国者を選びました。

キリスト教が始まったとき、割と取るに足りない都市で始まりました。世界では、エルサレムよりも主要な都市があったけど、神様はエルサレムを選びました。

でも、その取るに足りない都市から、クリスチャンたちは世界中に行って、福音を延べ伝えました。

私たちにはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたが取るに足りない人だと思うかもしれません。神様が天の国のためにあなたを用いることができないと思うかもしれません。でも、世界の目ではあなたが取るに足りないので、神様は喜んであなたを用います。神様の国には、たくさんの「取るに足りない人」がいます。

でもあなたのような人を通して、神様の国は広まって、この世の人々に触れます。

パウロはこう言いました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26-29)

神様の目には、あなたが取るに足りない人だと思わないでください。小さいものを通して、神様の大仕事は達成されるから。

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マタイ13:24-30,36-43--どうして悪があるの?

多くの人々は、どうして神様がこの世に悪を許すか、疑問に思います。

このたとえ話では、イエス様は一つの理由を与えてくださいます。

私たちがわからなくてはならないのは、神様がこの世の悪の源ではないのです。神様は聖なる方です。神様は決して悪いことをしません。神様は良い種だけを蒔きます。

でも、私たちには敵がいます。サタンも人々の心に種を蒔きます。その種が人々の心に毒麦になって、その人々は周りの人々を傷つけるし、いろんな被害を起こします。

イエス様は彼らを引っこ抜くことができるけど、そうすれば、神様が救いたい人に悪い意味でかかわります。

どうしてでしょうか。私はちょっとわかりません。でも、例えば、ある人々は神様に関して、本当に無関心です。時々、苦難がないと、彼らは決して神様に向かいません。それは天災かもしれません。もしかして、犯罪によって、彼らは本当に傷つくかもしれません。でも、その苦しみを通して、彼らは神様に向かって、救われます。でも、その苦しみがなければ、神様はその人が決して救われないとご存知です。だから、神様はその毒麦が残ることを許します。

簡単に言うと、神様には、私たちに見えないことが見えます。神様は私たちが知らないことをよくご存じです。

でも、覚えていてください。裁きの日がきっと来ます。人を殺す人のために裁きが来ます。女性をレイプする人のために裁きが来ます。神様に反抗する人のために裁きが来ます。その日、すべての人々は、神様に仕える人と神様を拒絶する人の違いがよく分かります。

だからこの邪な世界を見ると、絶望しないでください。裁きの日を待ち望んでください。その日は、正義が来ます。そして、すべての人々は神様の知恵と正義が分かります。

 

 

 

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マルコ4:26-29--国の種

このたとえ話には、前回のたとえ話と大体同じ意味がある思います。前にも言いましたが、私たちは神様の言葉を人々の心に蒔くかもしれないけど、神様だけが、その種を成長させることができます。

例えば、私たちが福音を伝えるとき、相手は無関心かもしれません。または、彼らは本当に怒るかもしれないです。でも私たちが意識しなくても、その種は根を張っています。

私たちの力がなくても、神様は聖霊様を通して、相手の心の中に働き始めます。神様は状況やほかの人々を用いて、その人を近づけてくださいます。そして、いつの間にか、その人はあなたのところにきて、微笑んで言います。「イエス様のことを教えてくれて、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、私はクリスチャンになりました。」

でも、このたとえ話はまた別の解釈ができると思います。

時々、私たちはこの世を見て、フラストレーションを感じます。「神様の国は本当に来るだろうか。そう見えないなあ。この世界はだんだん悪くなりつつあるから。」

でも、このたとえ話では、私たちはいくつかのことを見ることができます。

イエス様とその弟子たちを通して、神の国の種はもう蒔かれました。今なお、人々の心にたくさんの種が蒔かれています。そして、その種は成長しています。

でも多くの場合、私たちは全然気づきません。でも、私たちが振り返ると、どれだけその福音の種が成長したか分かるようになります。

イエス様が天国に戻って以来、どれだけ福音が広まったか考えてください。一つの都市から、世界中に広まりました。今なお、その福音は広まっています。

そして、神様の国が克服するのは確かなものです。だれも、その成長を止めることができません。ソ連はそう学びました。福音を滅ぼそうと思ったほかの国々も、そう学びました。

だから、最終的に神様の国が来て、すべての人々はその国を見ます。その日、イエス様は、すべてを治めます。そして裁きの日に、イエス様に従う人は報いを受けるし、自分の道を行く人々は滅びます。

だから、私たちはどうすればいいでしょうか。

1.希望を持って、待つべきです。周りの悪を見ると、失望するのは簡単なことです。でも、勇気を持ってください。神様の国は来ています。今でも、その国は成長しているし、だれもその国の成長を止められません。だから、フラストレーションを感じても苦しみを経験しても、待ち望んでください。この邪な世界はいつまでも続きません。そして、裁きの日には、あなたは報いをきっと受けます。

2.ちゃんと準備していてください。いつイエス様が戻るかわからないけど、その日まで、私たちは天の父の用をしなくてはなりません。いつイエス様が戻るのはあまり大切ではありません。大切なのは、イエス様が戻るとき、私たちがちゃんと準備していることです。

あなたはどうですか。あなたは準備しているでしょうか。

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-20;ルカ8:1-15--種を蒔くこと

前回、この個所について話したけど、今日、同じ個所からもう一つのことについて話したいと思います。

この話を見ると、私は農夫がイエス様だとよく思います。それはそうかもしれないけど、イエス様は農夫について話したとき、私たちについて考えたかもしれない。イエス様がこの世におられる時間は、かなり短いものでした。もちろんその時、イエス様は神様の御言葉を人々の心に蒔いたけど、今、私たちが種を蒔く人たちです。

だからこのたとえ話から、本当に大事なことを学ばなくてはならないと思います。

時々、私たちが神様の御言葉を蒔くとき、その種は固い心に落ちます。相手がその言葉を聞いてもわからないので、サタンはその言葉を取ってしまいます。

ほかの人々がその言葉を聞いて、喜んで受け入れ、自分の信仰を宣言するので、私たちはとても嬉しくなります。でも、困難や迫害が来ると、彼らはすぐにその信仰を捨ててしまいます。

またある人は、その言葉を信じて、クリスチャンとして成長し始めます。でも、彼らの仕事は彼らの神様との関係を塞いでしまいます。もしかして彼らは、お金や、持ち物を考えすぎます。彼らは教会に行くかもしれないけど、もう成長しません。また、彼らは霊的な実を結びません。

でもある人は、その言葉を聞いたとき、神様の国のために、たくさんの実を結び始めます。

私のポイントは何でしょうか。その結果は私たちの責任ではありません。私たちは相手の心を形成できません。では、私たちにできるのは何ですか。

種を蒔くことができます。また、水を注げます。そして、祈れます。パウロはこう言いました。「植える人もいるし、水を注ぐ人もいるけど、成長させたのは神です。」(第一コリント3:6-7)

あなたの蒔いた種が成長しないし、実を結ぶないため、あなたはがっかりしたことがあるでしょうか。あなたには、その結果がコントロールすることができません。

あなたにできるのは、種を蒔いて、水を注ぐことです。そのあと、その人を神様に任せるしかありません。

あなたはどうですか。その種を周りの人々に蒔いているでしょうか。

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-20;ルカ8:1-15--私たちの心の状態

以前、イエス様はいろんなたとえを用いましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫はたくさんの種をあっちこっちに蒔きました。たぶん、もっと効率的な方法があったけど、その時代、農夫たちはそのように種を蒔きました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人です。でもあいにく、その人はその言葉がわからないし、その言葉を理解しようと全然思いませんでした。

私は前にも言いましたが、たとえ話によって、本当に学びたいと思った人とエンターテインメントを望む人とは区別されました。イエス様の弟子たちのような人々は学びたがったので、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。ほかの人々はわからないままで帰りました。彼らは、イエス様の話を聞くのを楽しんだかもしれないけど、そのたとえ話の意味を理解しなかったし、理解しようと思いませんでした。だから、サタンがその言葉を取って、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

ほかの種は岩地に落ちました。岩地というのは、石灰岩の上に土の薄いところです。その土は薄かったので、すぐに生えたけど、日が上がると、根がないためにすぐに枯れました。こういう人は、「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受けます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったでしょうか。たぶんそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったから。もしかすると、彼らには感情的な経験だけがありました。でも、その感情がなくなったら、またその「信仰」のために迫害が来たとき、彼らはすぐにキリストに背を向けました。

ほかの種は、いばらの中に落ちました。でも「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。 」(マルコ4:7)

そういう人は、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。 」(4:19)

多くのクリスチャンは、そのように生きます。彼らはこの世を愛しすぎるので、彼らのイエス様に対する愛を忘れてしまいます。

最後に、ある種は、良い地に落ちたから、たくさんの実を結びました。そんな人は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、ずっと覚えています。だから、彼らは神様の国のためにたくさんの実を結びます。

あなたはどんな心を持っているでしょうか。

あなたは神様の言葉がわからないとき、その言葉を置いておくだけでしょうか。もしくは、その意味を求めるでしょうか。あなたは誰かに尋ねるでしょうか。私たちは質問するときに、成長します。でも、私たちが決して聞かないと、私たちは全然成長しません。そしてサタンは神様が蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、感情的な経験だけを求めているでしょうか。感情は行ったり来たりします。もしあなたの感情に基づいて、信仰を建てようと思うなら、その信仰はすぐに崩れます。むしろ、あなたの信仰をイエス様とそのみ言葉に基づいて建てなくてはなりません。

あなたは、毎日何を求めているでしょうか。すべてよりも、神様を求めているでしょうか。もしくは、お金や、快楽や、持ち物を求めているので、もう神様のために時間がないでしょうか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めていないでしょうか。

もしくは、あなたは、神様のみ言葉を聞いて、理解しようと思うでしょうか。その言葉を受け入れ、信じ、覚えているので、実を結んでいるでしょうか。

あなたの心の状態はどうでしょうか。

 

 

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-25;ルカ8:1-18--聞く目、見る目

イエス様の口癖の一つは、「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。

福音書では、イエス様はそう言ったし、黙示録でも、そう言いました。

でも、イエス様が意味したものは何でしたか。

ある日、イエス様がたとえ話で話したあと、弟子たちは「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」と訊きました。

イエス様はこう答えました。

あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:11-15)

「あなた方に天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」という言葉は、ちょっと不公平みたいかもしれません。どうして、イエス様はそんなことを言ったでしょうか。

ちょっと考えてみてください。

だれにも、イエス様のたとえ話を聞くことができました。そして、そのたとえ話の意味はちょっと漠然としていたかもしれなかったけど、イエス様は、いつかその意味が現れるように意図しました。結局、そのたとえ話は真理を照らします。

イエス様はこう言いました。

隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。(ルカ8:17)

だから、弟子たちがイエス様のたとえ話の意味を求めると、イエス様は説明してくださいました。そして、最終的に彼らは、教会の人々にその意味を説明しました。

でも、すべての人々は、真理を本当に知りたがるでしょうか。彼らは答えを求めているでしょうか。

もしくは、彼らはエンターテインメントだけを求めているでしょうか。

イエス様のたとえ話は、神様の真理を求める人とエンターテインメントを求める人を区別しました。

現代の教会の問題は、多くの人々が神様の真理を求めるよりも、エンターテインメントを求めていることです。

だから、彼らは歌を歌うかもしれないし、牧師のメッセージを聞くかもしれないけど、その言葉は彼らの心を貫きません。そして万が一、心を貫く言葉が来て、違和感を感じるなら、彼らは聞くことを止めて、別のことについて考え始めます。

あいにく、彼らがそうし続けるなら、結局彼らは神様の声が聞こえなくなります。彼らの上に、マタイが引用したイザヤの預言は実現します。彼らは見るけど、本当に見えません。彼らは聞くけど、本当に聞きません。むしろ、彼らは自分の目と耳を神様の真理に閉じます。

だからイエス様は私たちに警告します。「神様の真理を聞くとき、あなたの聞き方に注意しなさい。その言葉にちゃんと思いを巡らしなさい。もし、その言葉をちゃんと聞いて、その言葉に従うなら、神様はもっと教えてくださいます。でも、そうしないと、あなたが学んだことを忘れるし、結局神様はもうあなたに話しかけません。(マルコ4:24;ルカ8:18)

でも、イエス様は弟子たちにこう言いました。

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17)

あなたはどうですか。あなたには見る目と聞く耳があるでしょうか。

 

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ルカ11:27-28--祝福を得るため

私たち皆は神様の祝福を知りたいものです。でも、どのようにその祝福を得られるでしょうか。

イエス様が群衆に話したとき、ある女性はこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(27)

でも、イエス様はこう答えました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて話すのが好きです。

もちろん、神様の恵みがないなら、だれも神様の恵みを受けられません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないから。

しかし、神様の祝福を受ける鍵は、信仰を持つ従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれないけど、従順な心を持たないなら、その言葉は無意味です。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、神様の言葉に従います。

だから、一番大切な質問は、「あなたは神様に本当に信頼しているでしょうか」ということです。あなたがその言葉に従うなら、祝福されると信じますか。

例えば、結婚する日まで、彼か彼女と寝ないなら、あなたの結婚はもっと祝福されると信じるでしょうか。

あなたが献金をささげるなら、あなたの経済が悪くなることはなく、祝福されると信じるでしょうか。

あなたが主に従うように、自分の夫に従うなら、または、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたが自分の妻を愛するなら、あなたの結婚が祝福されると信じるでしょうか。

もしくは、あなたはその言葉が理想的すぎると思うでしょうか。

もし、本当の祝福を見つけたいなら、神様に信頼することを学ばなくてはなりません。あなたは神様の道が一番良いと信じなくてはなりません。

そして、その言葉に従わなくてはなりません。

それは簡単でしょうか。そうではありません。でも覚えていていください。神様の恵みによって、私たちは神様を信じ始めました。そのように、神様の恵みによって、私たちは神様の言葉に従う力を持っています。

私たちが神様に頼みさえすれば、神様は私たちにその力を与えてくださいます。イエス様はこう言いました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

あなたはどうですか。あなたは神様に信頼して、従うでしょうか。

 

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マタイ12:38-45;ルカ11:24-36--私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人がイエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出す、と言っていたので、イエス様は彼らの不信を責めました。だから、彼らはイエス様からしるしを求めました。でも、イエス様がしるしを示しても、たぶん彼らはまだ信じなかったでしょう。だからイエス様は断りました。

どうして私は、彼らがしるしを見ても信じなかったでしょうと思うでしょうか。なぜなら、イエス様は彼らにヨナをしるしを与えたから。

つまり、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出たことです。でも、イエス様がよみがえられたとき、パリサイ人たちは、まだイエス様のことを信じませんでした。

だからイエス様は、もう一度彼らの固い心を責めました。つまり、イエス様は、ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)がいつか彼らを裁くと言いました。なぜなら、彼らはヨナとソロモン王のメッセージを聞いたとき、悔い改めたから。でも、イエス様がソロモンとヨナよりも優れた方なのに、パリサイ人はあえて信じませんでした。

だから、イエス様は彼らに例えを伝えました。そのたとえを通して、イエス様は、彼らがイエス様を信じない結果、また、聖霊を拒絶する結果を教えました。

イエス様はこの世に来た時、地獄の力を克服しました。例えば、その時、イエス様はたくさんの悪霊を人々から追い出しました。でも、イエス様はイスラエル人とパリサイ人に警告しました。

「私が悪霊を追い出すし、地獄の力を克服するし、私の賜物、つまり、御霊を与えるのに、もし、あなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻るので、あなたの状態は前よりも悪くなります。」

どうしてでしょうか。なぜなら、あなたが神様の力を味わって、あなたを救うことができる方に触れられたのに、あなたはその方を拒絶したから。

そして、イエス様は山上の垂訓のたとえを繰り返します。それは、体のあかりが、あなたの目であることです。もちろん、それは物理的な真理です。でも物理的な真理だけではなく、それは霊的な真理です。

イエス様は私たちにこう訊いています。「あなたは何を見ているでしょうか。神様が話すときに、その真理が見えるでしょうか。私を見るとき、私がだれか分かるでしょうか。」

私たちがちゃんと見ることができるなら、私たちの人生は光で満ちます。でも、ちゃんと見えないなら、私たちの人生は暗闇で満ちます。だから、イエス様は私たちに警告します。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうですか。あなたは、イエス様をあなたの主と救い主として受け入れているでしょうか。御霊をあなたの人生に歓迎しているでしょうか。

もしあなたの心を神様に固くするなら、あなたはサタンの破壊的な働きを受けやすいです。

でも、あなたがあなたの心を御霊に開いたら、命を見つけます。

もしそれをしたいなら、この祈りを祈っていください。

イエス様、あなたが神であることを信じます。あなたが私の罪のために死んで、よみがえられたことを信じます。私の罪を赦してください。私の主になってください。聖霊様、私を満たしてください。私の人生をあなたの光で満たしてください。そして、周りの人々には私を通してその光が見えるように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書12:33-37–私たちの口から出る言葉

私は汚い言葉を聞くとき、本当に気になります。特に、クリスチャンが汚い言葉を使う時、私は気になります。なぜなら、私たちの心は、心の内容を表現するから。

パリサイ人が「イエス様が悪霊につかれている」と言ったとき、イエス様は、こう答えました。

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:33-37)

つまり、彼らの堕落した言葉は、彼らの堕落した心を現わしました。

だから、イエス様は私たちの無駄言葉でも、裁かれると言いました。私たちの言葉は心の状態を現わすから。

私たちの心が良い実で満ちているなら、良い言葉は私たちの口から流れます。

でも、私たちの心が腐っているもので満ちているなら、腐っている言葉が私たちの口から流れます。

だから、あなたの口から腐っている言葉が出るなら、びっくりしないでください。

その言葉はあなたの心を現すから。そして、もし、そんな腐っているものが入っていたら、自分の心を探り、悔い改めなくてはなりません。

苦々しい心を持っているなら、苦々しい言葉が口から出ます。汚れている心を持っているなら、汚い言葉が出ます。

あなたの心には、何が入っているでしょうか。あなたの口から、何が出ているでしょうか。

 

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マタイ12:22-32;マルコ3:22-30;ルカ11:17-23–自分の心を固くする危険性

この個所では、イエス様はもう一度パリサイ人たちに出くわします。その時、目も見えず、口もきけない人がイエス様のところに連れて来られました。この場合、その原因は悪霊でした。だから、イエスがその悪霊を追い出したあと、その人は目が見えるようになり、話せるようになりました。

周りの人々は驚いたけど、パリサイ人は、その奇跡がベルゼブル(つまり、サタン)の力によって行われたと言いました。

ところで、パリサイ人は決して、イエス様の奇跡を否定しませんでした。イエス様の力がどこから来たか疑っただけです。

現代の人々だけがイエス様が奇跡を行ったかどうか疑います。なぜなら、2000年前に起こったことは、疑いやすいから。でも、目の前の起こったことは、もっと否定しにくいです。それはパリサイ人たちの問題でした。彼らはイエス様のことが嫌いだったけど、イエス様の奇跡を否定できませんでした。

パリサイ人の態度は私の要点を描写します。私は前にも言ったんですけれども、何を見ても、あえて信じない人もいます。彼らは信じられないというわけではありません。むしろ、彼らは信じたくありません。だから、彼らは自分の心を固くして、神様の存在を否定するように、できるだけ神様の御業をごまかします。

だから、パリサイ人は、イエス様が汚れた霊につかれているし、サタンの力によって悪霊を追い出すと言いました。

でも、イエス様は、彼らに二つのことを言いました。

一つ目は、サタンが自分自身に戦うなら、サタンの国は立ち行くことができないということです。

二つ目は、イエス様がその悪霊を追い出したので、イエス様がサタンの味方ではないことを証明したことです。イエス様がサタンの国を攻撃したので、その悪霊は逃げたし、イエス様はサタンを縛って、人々を自由にしました。

そして、イエス様はパリサイ人たちに警告します。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)

マルコはイエス様の言葉を解釈しました。

このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコ3:30)

つまり、パリサイ人は自分の心をあまりにも固くしたので、神様が何をしていたかもう分らなくなりました。それに、彼らは神様の御業がサタンから来たと言いました。

それは自分の心を固くする危険性です。長くそうすれば、最終的にあなたは聖霊の声が聞こえないし、神様の御業を見ても、認識できなくなります。あなたがそのようになってしまったら、あなたには、もう救いの希望がないです。だから、イエス様は、その態度を「赦されられない罪」と呼びました。彼らの心が固すぎたので、彼らには救いの希望がなくなったからです。

モーセの時代、パロもその罪を犯しました。だから彼は滅びました。

いつ人はそのところに至るでしょうか。神様だけがご存知です。ある人々の心が固すぎるように見えるかもしれないけど、結局彼らは救われるかもしれない。使徒パウロはそういう例です。

時々、クリスチャンは「私は赦されられない罪を犯したかなあ」と心配します。でも、あなたが心配しているなら、たぶんその罪を犯していません。もし、自分の罪が分かって、神様に対いして柔らかい心をもって悔い改めたら、心配しなくていいと思います。

自分の心を固くする人たちだけが心配した方がいいです。

どのように柔らかい心を保つことができるでしょうか。謙遜な態度をもって、罪を犯すなら、すぐに悔い改めるべきです。そして、毎日、イエス様のように、天の父の心を求めて、従うべきです。

あなたはどうですか。どんな心があるでしょうか。

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マタイ12:46-50;マルコ3:20-21、31-35;ルカ8:19-21ーー家族よりも親しい関係

私たちが愛している人々が私たちのことが理解できないのは、本当に苦しいことです。イエス様は12歳の時、神殿でそう感じました。その時、イエス様の両親は彼のことが理解できませんでしたから。

この個所でも、イエス様の家族はイエス様のことが理解できませんでした。イエス様は神様の仕事を頑張ってしたので、食べる時間がありませんでした。だから、イエス様の家族は、「イエスの頭がちょっとおかしくなったのか。」と思いました。

だから彼らはイエス様を連れ戻しに出て来ました。でも、イエス様の兄弟たちだけではなく、母マリヤも一緒に来ました。たぶん、マリヤはイエス様が気が狂ったとは思わなかったけど、おそらくイエス様の健康を心配したのでしょう。

とにかく、大勢の人々がいて、彼らはイエス様のところまで来られなかったので、伝言を送りました。

イエス様は彼らの意図が分かったので、彼らのところに行きませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12:48-50)

また、

わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。(ルカ8:21)

時々、あなたが愛している人々は、あなたが神様の御心に従わないように説得しようとします。時々、彼らは、あなたが気が狂っていると思うかもしれません。時々、彼らは、あなたがやりすぎていると思います。

でも、覚えていてください。私たちは彼らを喜ばせるように生きるのではなく、神様を喜ばせるために生きています。私たちは、神様の声を聞いて、神様の御心に従うべきです。

もちろん、私たちにはバランスが必要です。私たちは家族を愛して、敬うべきです。

そして、神様が私たちに期待している以上にも、してはいけません。なぜなら、私たちは燃え尽きるから。

それでも、私たちは神様を家族よりも愛するべきです。神様の私たちに対する希望は、家族の私たちに対する希望よりも大切なのです。

神様をすべてよりも大切にするでしょうか。もしくは、あなたの家族はあなたを神様の御心から引っ張っているでしょうか。

ところで、そういうわけで、クリスチャンと結婚した方がいいです。なぜなら、そうしないと、神様の希望があなたの妻か夫の希望に反対する時、大問題になるから。また、もしあなたの妻か夫が「私はクリスチャンだ」と言っても、彼らが神様と共に歩んでおらず、神様に従わないなら、大問題になります。

だから、自分の心を神様にささげた人と結婚しましょう。そして、私たちのために死んで、復活された方に、私たちの心と思いと力をささげましょう。

あなたの心は誰の物でしょうか。

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ルカ8:1-3--祝福されて、周りの人々を祝福すること

この個所は、とても短いけど、私たちが大切なことを学ぶことができると思います。

この話では、イエス様はあっちこっちに行って、福音を延べ伝えました。もちろん弟子たちはイエス様と一緒に行ったけど、三人の女性たちもついていきました。それは、マグダラの女と呼ばれるマリヤと、ヘロデ王の執事の妻ヨハンナと、スザンナという人でした。

私たちは、その三人についてあまり知らないけど、彼女らはイエス様に触れられました。イエス様はマリヤから七つの悪霊を追い出したし、ヨハンナとスザンナの病気を癒したか、彼女らから悪霊を追い出しました。要するに、その三人はイエス様に祝福されました。

だから、彼女らは感謝を持って、イエス様について行き始めました。それだけではなく、彼女らは経済的にイエス様のミニストリーをサポートし始めました。

私たちは、この話で何を学ぶことができますか。私たち皆はイエス様に祝福されました。一番大きな祝福は、イエス様が私たちの罪のために死んでくださったことです。でも、もしかして、イエス様はあなたの結婚や、家族を修復したかもしれません。あなたの過去の傷を癒したかもしれません。

もちろん、祝福を受けるのは、良いことです。でも、あなたは周りの人々を祝福しているでしょうか。あなたはいつも祝福をもらっているばかりでしょうか。もしくは、周りの人々に祝福を与えているでしょうか。

あるクリスチャンはこう思います。「どうして十一献金をささげるべきでしょうか。それは新約聖書の教えではありません。」

それはそうかもしれないけど、クリスチャンとして、私たちは気前がいい人になるように呼ばれました。(第二コリント8:7)

どうしてでしょうか。神様は、ただ私たちが恵みで満ちた器になるように望みませんから。神様は私たちが恵みのパイプラインになるように望みます。つまり、神様の恵みが私たちを通して流れて、周りの人々に触れるように望みます。

もちろん、それは教会を経済的にサポートすることですけど、それだけではありません。私たちの人生を神様にささげて、周りの人々に仕えるべきです。

あなたはどうですか。あなたはただの恵みで満ちた器でしょうか。もしくは、あなたは恵みのパイプラインでしょうか。

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ルカ7:36-50--あなたの愛はどこでしょうか。

この個所を読むと、私はこう思います。「どれだけ、私はイエス様を愛しているだろうか。」

この話では、私たちは二人の人たちを見ます。一人は罪深い女性でした。私たちは彼女の罪を具体的に知らないけど、すべての人々が、その罪をよく知っていたらしいです。だから、彼女は売春婦だったかもしれない。でも、それはただの推測です。

その反面、シモンというパリサイ人がいました。彼は「正しい人」でした。彼は正しいことを言ったり、正しいことをしたりしました。要するに、彼の人生は順調に行っていました。

とにかく、シモンは食事にイエス様を誘いました。そして、彼らが食べている間に、その女性は泣きながら、シモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足に落ちたので、彼女は自分の髪の毛で、その足を拭い、香油を塗りました。

シモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑です。その女性に対する軽蔑だし、イエス様に対する軽蔑です。

シモンはこう思いました。

この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(39)

でも、イエス様はシモンに向かって、たとえ話を伝えました。その話では、一人の人はち少しお金を借りて、もう一人の人は多額のお金を借りましたが、結局二人とも、そのお金を返せませんでした。だから、金貸しは、その借金を赦しました。

そして、イエス様はシモンにこう訊きました。

では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)

多分シモンは「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある問題だろうか。」と思ったかもしれないけど、結局、彼はこう答えました。

よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)

そして、イエス様は「あなたの判断は当たっています」と言いました。

でも、イエス様の次の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。

「実はね、普通の(ユダヤ人の)マナーだけど、お客さんが来ると、良い主人は足を洗う水を与えるし、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。でも、あなたは私のために何もしてくれなかった。その反面、この女性が来たとき、彼女は私の足を涙で洗ったし、私の足に口づけしました。それに、この高い香油で、私の足を塗りました。」

要するに、「シモン、あなたの愛はどこでしょうか。この女性は私を愛しています。彼女の行動を通して、神様の赦しのために自分の感謝を示しました。彼女がどれだけ赦されたか分かるので、彼女の愛はとても深いです。でも、あなたは、自分がどれだけ赦しが必要か分からないので、あなたには愛がほとんどないのです。それにあなたは、私のことを軽んじて、いや、私のことを軽蔑してしまいました。」

そして、イエス様はその女性に向かって、こう言いました。

あなたの罪は赦されています。(48)

多分、周りの人々がそれを聞いて、面食らいました。神様だけが罪を赦すことができるから。

でも、イエス様は、続けました。

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)

あなたはどうですか。あなたの愛の深さはどれぐらいですか。あなたは、シモンのように、自分の罪の悪さが分からないので、また、どれだけあなたが赦されたか分からないので、イエス様のことや、その十字架の働きを軽んじるでしょうか。

私たちが神様の赦しを理解しないままでいると、二つの結果が導き出されます。

1.私たちは独善的な態度を取って、周りの人々を軽蔑して、裁きます。

2.私たちの神様に対する愛は本当に薄くなります。

でも、私たちが神様の愛がちゃんと理解すれば、私たちの心は神様に対する愛と感謝で満ちます。そして私たちは、その愛と憐れみを周りの人々に与え始めます。

あなたは、どんな心を持っているでしょうか。

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マタイ11:25-30--イエス様から学ぶこと

私はハワイ大学から卒業して以来、学校に戻る気がありませんでした。でも、振り返ると、私は修士の学位などを得たらいいのになあと思います。

しかし、学校は大変です。たくさんの宿題や、試験があるから。

でも、クリスチャンとして、イエス様は私たちを学校に出席ように呼びます。あなたが神学校に出なくてはならないと言うわけではありません(しかし、神様はあなたをそうするように呼ぶかもしれません)。でも、私たちはイエス様の学校に出るように呼ばれます。

イエス様はこう言いました。

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。(29)

イエス様の時代、多くのラビたち(つまり、先生たち)は弟子たちをそんな言葉を使って呼びました。

イエス様の学校で、私たちは何を学ぶでしょうか。私たちは天の父がどういう方であるか学びます。イエス様はこう言いました。

それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(27)

多くの人々は神様を知りたがるけど、どうやって神様を知るか分かりません。どうすれば、目に見えない神を知ることができるでしょうか。もし神様が自分のことを現わさないなら、それは無理です。

でも、イエス様はを通して、神様は自分自身を現わします。イエス様は天の父がどんな方であるか教えてくださいます。それに、イエス様の人生を見ると、天の父の性格が見えます。イエス様はこう言いました。

わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)

イエス様の性格を見ると、天の父の性格を見ることになります。イエス様の言葉を聞くと、私たちは天の父の言葉を聞くことになります。

さらに、イエス様を通して、私たちは、神様が私たちがどのように生きるように望むか分かります。それは、「しなさい」と「そうするな」というリストに従う生活よりも、優れた人生です。パリサイ人は、そんな生活を送りました。彼らの「しなさい」と「そうするな」というリストはすごく長いものでした。

でも、彼らの模範に従う人は重荷を背負われました。彼らは神様の愛と恵みを見つけませんでした。むしろ、彼らは裁きを見つけました。自由を見つけずに、彼らが守れない多くのルールに縛られました。

でも、イエス様は私たちにこう言います。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(28-30)

イエス様はルールの興味があまりないです。イエス様は私たちが神様に近づくように望みます。また、イエス様は私たちが周りの人々を愛するように望みます。

そして、私たちが弱い時に、イエス様は私たちを強めてくださいます。私たちが知恵がないなら、イエス様は私たちに教えてくださいます。私たちが転ぶと、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。私たちが失望するときに、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

だから、イエス様の教えは重荷ではありません。むしろ、その教えは私たちを自由にします。

イエス様の学校に入る資格は何でしょうか。それはへりくだっている心です。また、イエス様から学びたいと願う心です。

イエス様の時代、たくさんの宗教的な人は、そんな心を持っていなかったけど、イエス様の弟子たちは、そんな心を持っていました。だからイエス様はこう言いました。

天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(25-26)

あなたはどうですか。イエス様の学校に出たいと思いますか。イエス様から学びたいでしょうか。

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マタイ11:20-24--信じられない?もしくは、信じたくない?

多くの人々が「私は神様が存在することを信じられません」と言います。

そして、彼らは自分の理由をリストアップします。でも多くの場合、彼らが信じられないわけではない。むしろ、彼らは信じたがらないのです。

彼らは周りの自然を見るし、周りの人々の人生に神様の働きを見るし、時々、自分の人生にも神様の働きを見るけど、神様のことを信じたがりません。どうしてでしょうか。

なぜなら、神様が存在するなら、彼らは自分の人生が自分のものではないと認めなくてはならないから。彼らは、自分勝手に生きてはいけません。それに、彼らは、神様の前に自分のことを申し開きをしなくてはなりません。

だから、彼らは、もっと証拠を要求します。でも、その証拠を与えられても、彼らはもっと証拠を要求します。神様自身が自分のことを明確に現わしても、たぶん彼らは自分自身にそれが幻覚であることを説得します。「もしくは、お酒を飲みすぎたかな」と思うかもしれません。

イエス様の時代に、イスラエル人は、そのように反応しました。イエス様が奇跡を行っても、病気な人を癒しても、死者を復活させても、まだ信じない人々もいました。むしろ、もっと奇跡を頼みました。だから結局、イエス様は彼らに、「もうしない」と言いました。(マルコ8:12)

さらに、イエス様は信じない人々を裁きました。

ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:21-24)

この言葉で、イエス様は私たちに何を教えていますか。神様が私たちに示せば示すほど、また、神様が私たちに話せば話すほど、私たちは責任を持ちます。そして、神様を拒絶し続けるなら、私たちは厳しく裁かれます。

だから、あなたが本当に信じたがらないなら、「しるしをもっと示してください」と祈るのはとても危険です。そのしるしを示されると、あなたには責任があるから。

ある日、私たち皆は神様の前に立ちます。その日、神様は私たちの神様を信じない言い訳を取り除いて、私たちの下心を現わします。

その日、あなたはわかります。あなたが信じられなかったわけではなく、あなたが信じたがらなかったとわかります。そして、あなたは裁かれます。

だから、あなたの言い訳を捨ててください。あなたのプライドを捨ててください。あなたの主としてイエス様に従うなら、あなたは祝福されます。この世界でも祝福されるし、永遠の世界でも祝福されます。

ペテロはこう言いました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(第一ペテロ5:6)

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マタイ11:16-19;ルカ7:31-35--すべての人々を喜ばせようと思うこと

英語では、こんなことわざがあります。「You can please some of the people some of the time, but you can’t please all of the people all of the time.」

つまり、「あなたは、たまにある人々を喜ばせるかもしれません。でも、あなたは、いつもすべての人々を喜ばせることができません。」

イエス様に対しても、そのことわざは本当でした。イエス様は完全な人でした。イエス様のすべての行動は完全でした。イエス様は完全に人々を愛していました。

それでも、イエス様は、すべての人々を喜ばせませんでした。それに、イエス様はすべての人々を喜ばせようと全然思いませんでした。

実は、イエス様は、自分の批判者たちの偽善を指摘しました。彼はこう言いました。

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。(マタイ11’16-19)

要するに、バプテスマのヨハネが来て、禁欲生活を送ったとき、パリサイ人たちなどは、「その人の言うことを聞くな。彼は頭がおかしい。」と言いました。

でも、イエス様が来た時、イエス様は罪人と食べたり飲んだりしたから、パリサイ人たちなどは、「その人の言うことを聞くな。彼は食いしん坊の大酒飲みです。」と言いました。(もちろん、イエス様は食いしん坊の大酒飲みではありませんでした。)

というのは、パリサイ人たちは、ヨハネとイエス様をその生活のために拒絶したのではなかったのです。むしろ、彼らはヨハネとイエス様のメッセージを受け入れませんでした。

多くの人々は、そのパリサイ人たちのようです。私たちがイエス様の言葉を伝えるとき、彼らはちょっと居心地が悪くなります。だから、そのメッセージを汚すために、彼らはそのメッセンジャーの評判を汚そうと思います。だから、できるだけ、彼らは批判できることを探します。あなたは、そんな人を決して喜ばせることができません。

私の要点は何でしょうか。そんな人を喜ばせようと思わないでください。賢い人は、すべての人々を喜ばせようと思いません。賢い人は、一人だけを喜ばせようと思います。それは神様です。そうすれば、彼らは、神様のために実を結びます。

イエス様はこう言いました。

知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。(ルカ7:35)

それはどういう意味でしょうか。相手があなたを批判しても、あなたの結んだ実を通して、あなたの知恵の正しさを証明するのです。

だから、すべての人々を喜ばせようと思わないでください。イエス様はそうできませんでした。あなたもできません。だから、あなたを呼んだ方を喜ばせるように集中してください。

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マタイ11:7-15;ルカ7:24-30--私たちのための神の目的を拒否する

私たち皆は偶然ではなく、神様の目的のために造られました。

その目的は何でしょうか。私たちが神様との関係のために造られたことです。また、私たちは人間関係のために造られました。私たちは周りの人々に触れるし、私たちは彼らに触れられるように造られました。

最後の目的は、私たちは神様から受けた才能や賜物を通して神様の心を行うように造られたことです。

あいにく、多くの人々は、ずっとその目的を知らずに生活を送ります。どうしてでしょうか。なぜなら、彼らは彼らのための神様の目的を拒絶し、自分自身のために生きるから。

パリサイ人たちと律法学者たちは、そのように生きました。イエス様は、バプテスマのヨハネの仕事を神様からのものであることを認めたけど、ルカは、パリサイ人と律法学者に関してこう言いました。

。。。パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。(ルカ7:30)

ヨハネのメッセージはこうでした。

1.悔い改めなさい。その悔い改めのしるしは、バプテスマです。

2.メシア(つまり、救い主、または、王)はすぐに来ます。自分の心を整えなさい。

でも、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の義を誇りに思ったので、自分が悔い改める必要を見ませんでした。

それに、神様が自分自身を現したとき、つまり、イエス様が来たとき、彼らはイエス様を拒絶してしまいました。それだけではなく、彼らはイエス様を十字架で殺してしまいました。だから、マタイは、こう言いました。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)

バプテスマんのヨハネでの時代に、王イエス様が来たのに、パリサイ人たちと律法学者たちは、その王国を激しく攻めてしまいました。彼らが神の王国を守ると思ったのに、実は、彼らは、神様の王国を責めました。だから、彼らは神様の彼らに対する御心を逃しました。

でも、ルカは、ほかの人々に関して、こう言いました。

ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。(7:29)

その人たちはへりくだって、神様の道が正しいと認め、悔い改め、最終的にイエス様を王として受け入れたので、彼らは神様の王国に入りました。また、彼らは神様の彼らのための目的に戻りました。

あなたはどうですか。神様のあなたのための目的に従っているでしょうか。最初の段階は悔い改めです。あなたが最善のことを知らないから、神様の道を受け入れる態度を取るべきです。特に、イエス様が真理であり、道であり、命であることを認めなくてはなりません。簡単に言うと、イエス様をあなたの主として受け入れるべきです。

今、そうしませんか。

主よ。私はずっと自分の道を行って、あなたの目的を逃してしまいました。赦してください。私の罪のために、あなたが十字架で死んでくださり、よみがえられたことを信じます。私の主になってください。これから、私はあなたに従いたいです。あなたの御心に従いたいです。私をあなたに近づけてください。また、あなたの御心を示してください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

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ルカ7:11-17--こちらに来ておられる神。私たちの近くにおられる神。

「神様はどこだろう?」

悲劇の中にいるとき、たくさんの人々は、そう訊きます。多分、この個所にあるやもめは、そう訊いたかもしれません。彼女の主人は、もう亡くなったし、突然その息子も亡くなりました。彼らは彼女が愛する家族というだけではなく、彼らしか、彼女を経済的にサポートしてくれる人がいませんでした。その時代、旦那や、息子がいないなら、彼女は貧乏になる可能性が高かったのです。

だから、その葬式で泣きながら、たぶん彼女はこう訊きました。「神様。あなたはどこにおられるでしょうか。私たちのことを本当に愛してくださるでしょうか。どうして、あなたは、そんなことを許したのでしょうか。」

そして、神様は来ました。

死骸を運んでいる群衆は、命の源を取り囲む群衆に出会いました。

そして、イエス様は、その泣いているお母さんを見たとき、彼女に同情しました。

イエス様はそのお母さんに近づいて、「泣かなくてもよい」と言いました。そして、イエス様は、その息子を復活させました。

皆はその奇跡を見るとき、多分最初は度肝を抜かれました。でも、すぐに彼らは喜びを持って、叫びました。

大預言者が私たちのうちに現われた。。。神がその民を顧みてくださった。(16)

神様はどこでしょうか。神様は、もう来ておられます。それに、神様は私たちの近くにおられます。あなたには、神様が見えないかもしれません。あなたには、神様の臨在を感じられないかもしれない。でも神様は、ここにおられます。

神様は、あなたの涙を見ます。あなたの悲しみをご存知です。あなたのことを愛しています。

神様は、その愛を2000年前に証明しました。罪で壊れた世のために、イエス様は十字架で死にました。そして、イエス様の復活を通して、神様は私たちの問題に取り組む力を持つことを証明しました。そして、イエス様はそのナインのやもめを助けたように、私たちをも助けてくださいます。私たちがしなくてはならないのは、ただイエス様に頼むことだけです。

ダビデはこう言いました。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34:18)

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マタイ11:1-6;ルカ17:18-24--疑いと戦うこと

私が聖書にあるヒーローも自分の疑いや恐れと戦うことを読むと、私はなんだか安心します。なぜなら、私は独りぼっちではないことが分かるからです。

バプテスマのヨハネも自分の疑いと恐れに戦いました。彼は神様のために本当に大切な仕事をしました。彼は、人々が悔い改めるように呼んで、イエス様の道を準備しました。でも、急にその仕事は終わりました。

ヘロデ王は自分の弟の妻と結婚したので、ヨハネはヘロデを責めました。ヘロデ王は怒って、ヨハネを捕まえて、牢に入れてしまいました。

多分、最初は、ヨハネは確信をもって、喜んで宣言しました。「メシアは来た。イエス様は私たちをこのいわゆる王や私たちの敵から救い出します。」

でも、時間が経っても、イエス様はいろんな素晴らしいことをしたけど、政治的なことに全然興味がなさそうでした。ヘロデ王は、まだガリラヤを治めていました。ローマ帝国はまだ立っていました。そして、ヨハネは、まだ牢にいました。

そして、時間が経てばたつほど、たぶん、ヨハネの確信がだんだん弱くなりました。もしかして、ある日、その確信は全くなくなったかもしれません。

「イエス様は本当にメシアだろうか。私は間違えただろうか。私はちゃんと神様の声を聞いただろうか。」

そして、ある日、ヨハネの弟子たちは、ヨハネのところにきて、おそらくヨハネにイエス様のことを話しました。もしかして、それを全部聞いた後、ヨハネは、静かに座りました。そして、その弟子たちに、こう頼みました。「ちょっと伝言を伝えてください。つまり、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」」

その弟子たちは、イエス様に近づいたとき、どう感じたでしょうか。ヨハネの失望を見て、彼らも疑い始めたでしょうか。とにかく、彼らはヨハネの伝言を伝えました。

イエス様はどのように反応したでしょうか。彼は怒りませんでした。イエス様は、ヨハネの薄い信仰を責めませんでした。むしろ、イエス様は、同情を持って、その弟子たちを見つめました。そして、イエス様は周りの病気な人、苦しんでいる人を見つめました。そして、イエス様は彼らを癒し始めました。目の見えな人も、耳が聞こえない人も、足の不自由な人も、病気な人も、イエス様はその皆を癒してくださいました。

そして、イエス様はもう一度ヨハネの弟子たちに向かって、こう言いました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4-6)

時々、ヨハネのように、私たちは疑いと戦います。私たちは「イエス様が本当におられるだろうか」と疑問に思います。

私たちは自分の事情を見て、また、この世界を見ます。そして、私たちは、「私の信仰は本当の物だっただろうか。イエス様は私の信仰に値する方だろうか。もしくは、私の信仰は無駄なものだろうか。イエス様に従うのは本当に価値のないものだろうか。」

良かったのは、イエス様は私たちを疑いのために責めないことです。でも、イエス様は私たちに思い出させます。「私のしたことを覚えていてください。私はあなたを助けたことがあるでしょう。私はあなたを癒したでしょう。私はまだいるよ。私はまだあなたの人生で働いているよ。」

でも、それだけではなく、十字架を覚えていてください。その十字架はイエス様の愛を証明するから。そして、イエス様の復活によって、私たちはイエス様はが私たちを助ける力を持っている確信できます。

あなたは決して、イエス様に躓かないように。むしろ、イエス様が私たちが立つことができる土台になるように。その土台は私たちの下に決して崩れません。

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マタイ8:5-13;ルカ7:1-10–恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話をまるごと見ることができます。

ルカの福音書によれば、百人隊長がイエス様の助けを頼んだとき、実は百人隊長の代わりにユダヤの長老たちは頼んでくれました。彼らはこう言いました。

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長にイエス様の助けをいただく資格があると言ったけど、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、または、神様から何かをいただくために私たちには「資格」が必要だと思います。

でも、恵みはそういうものではありません。恵みというのは、「あなたに資格がないのに、私はあなたに永遠の命や、あなたのほかのニーズを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だから私たち自身にこう訊くべきです。「私は神様に訊く信仰を持っているだろうか。」

時々、私たちは、信仰を持たずに、皮肉っぽくなります。私はそんな時もあります。なぜなら、時々私たちは祈るとき、神様はなぜかその祈りを断るから。

だから、私たちは疑問に思います。「祈りには本当に価値があるだろうか。神様は、本当に答えてくださるだろうか。神様は、私を助ける力を持っているだろうか。神様は、私のことを本当に愛してくださるだろうか。」

でも、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は、私の最善をよくご存じです。それに、神様は、私を助ける力を持っています。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長は、そんな信仰を持っていました。彼はこう思いました。「私はローマ人です。ユダヤ人は普通ローマ人を憎む。私には、イエス様の助けをいただく資格がない。でも、きっと、イエス様が私を助ける力を持つし、きっとイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だから頼みましょう。」

だから、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚く時は珍しいことです。聖書では、二回だけあります。イエス様の地元の人たちがイエス様を信じなかったとき、イエス様は驚きました。(マルコ6:6)

でも、この話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て、驚きました。イエス様は、彼に関してこう言いました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、私たちがもう一つの大事なポイントを学べると思います。この百人隊長のように、恵みが必要だと認め、イエス様を信じる人は、神の国に入れます。私たちの家系の資格によって入ることができません。私たちの良い行いによって入ることができません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはなりません。「私には、あなたから何かをいただく資格がないです。でも、あなたを信じます。あなたの十字架の働きを信じます。あなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

 

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マタイ7:24-27;ルカ6:46-49--何の土台に私たちの人生を建設するか

今日で、山上の垂訓と平地の説教の話が終わります。

どっちも同じように終わります。つまり、イエス様は、その聞き手に挑戦します。イエス様は彼らに訊きます。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

要するに、「あなたが私を「主」と呼んでも、私の言葉に従わないなら、私は本当にあなたの主でしょうか。」

ある人はその言葉をこのようにまとめました。「イエス様があなたの人生のすべての主じゃないなら、イエス様は全然あなたの主ではありません。」

それはそうです。もしかすると、イエス様は、あなたの主です。もしかすると、イエス様は、あなたの主ではありません。ほかには可能性がありません。

そして、イエス様は、本当に有名なたとえを言います。つまり、「岩の上に強い土台を持つ建てられた家」と「土台なしで砂の上に建てれた家」です。

もし、私たちがイエス様の言葉を聞き、従うなら、私たちは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています」。

その安定な土台のおかげで、人生の嵐が来ても、私たちの家はびくともしません。

でも、私たちがイエス様の言葉を聞いても、従わないなら、私たちの人生を砂の上に建てています。

砂はどのようなものでしょうか。砂はいつも移り行きます。この世の考え方も、砂のようにいつも移り行きます。道徳敵価値観や、常に移り変わります。50年前に悪いと見なされたことは、今、良いことと見なされています。良いと見なされたのは、今次代遅れの考え方と見なされています。

でも、私たちが移り変わる砂に人生を建てるなら、私たちの土台が不安定なので、人生の嵐が来ると、私たちの人生は崩れます。

あなたはどうですか。岩の上にあなたの人生を建てているでしょうか。あなたは、イエス様の言葉を聞くだけではなく、その言葉に従っているでしょうか。もしくは、あなたはこの世と調子を合わせていますか。あなたの人生を移り行く砂の上に建てているでしょうか。

イエス様は、あなたの主でしょうか。

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ルカ6:43-45--あなたの心にあるもの

聖書を読むとき、私が気づいているのは、イエス様はしばしば同じたとえを使うけど、違う応用を教えることです。マタイの福音書では、悪い実を結ぶ木と良い実を結ぶ木について話すとき、イエス様はそのたとえを偽預言者に当てはめます。つまり、私たちは、預言者(または、牧師や、クリスチャンの著者)の実(その教えとその人の行動)を見分けなくてはなりません。

でも、ルカの福音書では、イエス様は、そのたとえを通して、私たちが自分の心を探るように挑戦します。この個所では、そのたとえについて話す前に、イエス様は、人々を裁くこと、人々を責めること、また、人々を許すことについて話しました。

そのことについて話した後、イエス様はこう言いました。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(43-45)

イエス様は何を言っているでしょうか。イエス様は、私たちがどんな木であるか訊いています。私たちの心の中には、何が入っているでしょうか。相手を裁くことでしょうか。相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。

どうやって、私たちの心にあるものを見分けられるでしょうか。自分の口から出る言葉を見ると、見分けられます。なぜなら、私たちの口は、心に満ちているものを話すから。

もし心の中で、私たちは相手を裁き、責めるなら、そんな言葉が私たちの口から出ます。もし、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、そんな言葉が私たちの口から出ます。

イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心です。でも恵み深く、相手を許す心は良い木です。

だから、私たちは自分自身にこう聞くべきです。「私たちの口から何が出ているだろうか。」

私たちはいつも相手を批判し、責めているでしょうか。もしくは、私たちの言葉は恵み深いでしょうか。私たちの言葉は、私たちがどんな木であるかを表します。

あなたはどんな木でしょうか。

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マタイ7:15-23--教えを見分けること

イエス様は、救いに至る狭い門に入りなさいと言った後、私たちにこう警告します。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。(15)

多くの人々は、「預言者」と聞くと、「将来のことを預言する人」を考えます。でも本当の預言者には、ほかの役割もありました。彼らは、神様からの言葉を人々に宣言しました。旧約聖書では、イザヤや、エレミヤや、エゼキエルや、ダニエルがそうしていました。

でも、旧約聖書を読むと、あなたは、イエス様が言ったような偽預言者を見ることができます。彼らの見かけは良かったし、上手に話せたし、霊的な人々に見えました。でも実は、彼らの言葉は、地獄から来たものでした。そして彼らは、周りの人々を滅びに至る門に導きました。

残念なことですが、現代でも、そういう人がいます。彼らは「主はこう仰せられる。」と言うけど、実は、彼らは神様の言葉をゆがめています。

それでは、どうやって私たちは、本当の預言者に偽預言者と見分けられますか。イエス様は、こう言いました。

同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(17-20)

要するに、私たちは彼らの結んだ実を見なくてはなりません。

それはどういう実でしょうか。

1.彼らの人生です。つまり、彼らは自分が伝えていることに従うでしょうか。もしくは、彼らは偽善者でしょうか。

もちろん、彼らは神様のみ言葉に完全に従うことができません。でも、彼らの信仰は、成長し続けているでしょうか。彼らは、だんだんイエス様のようになっているでしょうか。また、彼らは、自分の罪との戦いについて正直に話していますか。

2.彼らの教え。彼の口から何が出ているでしょうか。その言葉は、聖書に合っているでしょうか。もしくは、聖書に合っていないでしょうか。

説教者として、彼らには正確に聖書を教える責任があります。パウロはこう言いました。

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(第一テモテ2:15)

それは、説教者の責任です。

でも、聞き手として、私たちには、説教者の言葉を見分ける責任があります。使徒の働きでは、ベレヤ人たちは、そうしました。彼らは、ただパウロの言葉を聞き、受け入れたのではありませんでした。彼らは家に帰るとすぐに、パウロの言葉を聖書と比べました。そして彼らは、パウロの言葉が聖書と合っていると確認し、パウロの言葉を信じて、受け入れました。(使徒の働き17:11-12)

私たちはベレヤ人の模範に従うべきです。私たちは、牧師たちと説教たちの言葉を見分けなくてはなりません。彼らの教えが聖書に合うと、その言葉を信じて、従うべきです。でも、その教えが聖書に合わないなら、その教えを捨てなくてはなりません。

多くの牧師や伝道師は「イエス様は主」だと告白します。裁きの日に、ある人はイエス様の前に来て、こう言います。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。(22)

でも、イエス様は彼らにこう言います。

わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。(23)

残念なことですが、彼らに従う人たちも、地獄に行きます。なぜでしょうか。なぜなら、彼らは、その先生たちの教えを見分けませんでしたから。

あなたはどうですか。あなたは、教会で聞いたことを見分けるでしょうか。クリスチャンの本の教えも見分けるでしょうか。もしくは、見分けずに、その教えを信じるでしょうか。

 

 

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マタイ7:13-14--心の広いのは悪い時

日本では、よくわからないけど、西洋で、クリスチャンに対してよく言われた文句は、「あなたたちの心は本当に狭い」ということです。

彼らは、いつもこう言います。「あなたの心がもっと広ければいいのに。」

特に、彼らはこう尋ねます。「どうしてイエスだけが天国への道だと言うのですか。」

でも、場合によっては心が広ければいいというものではありません。例えば、数学です。もし、児童が試験で「2+2=10」と書いたので、先生が「X(バツ)」と書いたら、児童はこう言えません。「先生。心がもっと広くなった方がいいと思います。10でも4でも、別に違いがないでしょう?」

治療に関しても、そんな考え方はだめです。ちょっと想像してください。

あなたの腎臓の一つが悪いので、摘出しなくてはなりません。あなたは麻酔をされて、そのあと起きたら、腎臓が両方まだ残っていて扁桃腺が摘出されていました。あなたは混乱して、こう訊きます。「先生。どうして、私の扁桃腺を摘出したのですか。」

「いや、心が広くなった方がいいよ。腎臓を摘出か、扁桃腺を摘出か、大体同じでしょう?」

それはバカな話ですよね?

でも、永遠の命は、もっと大事な話です。もし数学や治療の場合、広い心では何の意味もないなら、なおのこと、永遠の命の場合、広い心でいてはだめでしょう。

だから、イエス様はこう言いました。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)

イエス様の言葉によれば、私たちは、自分の条件を作って、神様に近づくことができません。あなたが神様に近づきたいなら、神様の条件を満たすべきです。

ある人はこう言いました。「あなたは自分の道で地獄に行けるけど、天国に行きたいなら、神様の道を行かなくてはなりません。」

神様の道は何でしょうか。イエス様はこう言いました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

ちょっと考えてください。もしほかの道があったら、どうしてイエス様は、十字架で苦しんで、死ななくてはなりませんでしたか。もし、ほかの方法があったら、十字架は必要なかったのです。

もしほかの方法を求めると、あなたは、イエス様のいけにえに唾を吐いています。あなたは、「イエス様、あなたはバカだね。救いのために、もっと良い方法があったから。」と言っています。

誤解しないでください。心が広いがいい時もあります。でも、永遠の命に関しては、そのように考えてはいけません。

あなたはどうですか。あなたは自分なりの条件を作って、永遠の命を求めているでしょうか。もしかして、神様の条件を満たしていますか。つまり、イエス様をあなたの救い主と主として、受け入れるでしょうか。

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マタイ7:12;ルカ6:31--罪を避けるだけではなく、良いことをすること

マタイの福音書では、「黄金律」の書いてあるところが、ちょっとおかしいと思います。特に、「それで」という言葉で始まるから。普通は、「それで」があれば、その言葉は、前の言葉を指摘しています。でも、私にはその関係が見えません。1-6節に関係があると思うけど、7-10節の関係は、ちょっとわかりづらいです。

とにかく、ルカの福音書では、「黄金律」の書いてあるところが、もっと自然だと思います。その個所では、「敵を愛しなさい。あなたのことを憎む人に親切にしなさい。あなたを呪う人を祝福しなさい。あなたを傷つける人のために祈りなさい。侮辱されても、相手を侮辱するな。自由に相手に与えなさい。」と言ったすぐ後、イエス様は、その話をまとめて、こう言いました。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ6:31)

ほかの文化でも、同じようなことわざがあります。例えば、孔子はこう言いました。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」

そのことわざと黄金律の違いは何でしょうか。

実は、イエス様の言葉に従うのは、もっと難しいです。あなたは積極的に相手に親切にしなければならないから。

相手を傷つけるを避けるのは、そんなに難しくないです。もし、彼らに決して接さないなら、彼らを傷つけることはありません。

でも、彼らに接することが全くないなら、彼らに親切にするのは無理です。あなたは積極的に何かをしなくてはなりません。彼らがあなたを憎んでも、あなたを侮辱しても、あなたを利用しても、あなたは彼らに親切にするべきです。

それは難しいです。でも、それが神様の望みです。

神様の子供として、私たちが罪を避けるだけでは足りないです。私たちは、積極的に良いことをするべきです。私たちは、山の上にある隠れられない町になるべきです。私たちは、この世を味付けする塩になるべきです。もし、私たちが憎む人を愛するなら、私たちは、その町、また、その塩になります。

なぜなら、この世は、そのような愛が分からないし、できません。

でも、イエス様に繋いでいるクリスチャンはそうできます。なぜなら、イエス様の愛は彼らの心に注がれて溢れるから。そして、その愛は自然に相手に接します。

あなたはどうですか。あなたはただ罪を避けているでしょうか。もしくは、あなたの心はイエス様の愛で満ちて、その愛を通して、あなたは周りの人々に触れているでしょうか。

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マタイ7:7-11;ルカ11:1-13--惜しげなく良いものを与える天の父

アメリカでは、ある牧師や、伝道師は、「もし、あなたが何かを欲しがっているなら、あなたがイエス様のみ名によって願うと、神様はその祈りをかなえなくてはならなくなるのです。」と教えます。

彼らにとっては、神様はアラジンの魔人みたいです。でも、神様は魔人ではありません。神様には私たちの願いをかなえる必要がありません。

注意するべきの言葉の一つは、「良いもの」です。つまり、神様は求める者たちに「良いもの」を下さいます。(マタイ7:11)

でも、時には、私たちは神様に何かを祈るけど、神様は、その願いがよくないとご存知です。私たちはパンを願っていると思うけど、実は、私たちは石を願っています。また、私たちは魚を願っていると思っているけど、実は、私たちは蛇を願っています。その場合、神様は石を与えてくださるでしょうか。蛇を与えてくださるでしょうか。きっと、そんなものを与えてくださいません。なぜなら、神様は良いお父さんだから。

だから、私たちは大胆に神様に祈ることができます。もし、私たちが良いものを祈ると、神様は最も良いタイミングでその祈りをかなえてくださいます。でも、もし私たちが悪いものを求めるなら、神様はその祈りを断ります。

だから、イエス様はこう教えました。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

多くの場合、私たちが求めないので、神様から与えられません。時々、私たちはこう思います。「これは自分勝手な祈りだろうか。ほかの物を祈るべきじゃないか。きっと、もっと大切なものを祈るべきだろう。」

二つのことを覚えていてください。

1.私たちは想像するよりも、神様は気前がいい方です。神様は私たちを愛しているので、良いものを私たちに与えてくださいます。

ルカの福音書では、イエス様はちょっと面白い話を伝える。ある人は寝ようとしていたけど、隣人が思い切ってその人をたたき起こして、ずっと「パンをちょうだい」と叫んだので、結局その人は「しつこいなあ」と思いながら、その隣人にパンを与えました。

イエス様は神様がそんなイライラされた態度を取ると言っているどころか、イエス様はこう言っています。「その人が疲れて、隣人のしつこさにイライラされても、相手にパンを与えられるなら、なおのこと、 あなたを愛している天の父は、喜んであなたの祈りに答えないことがあるでしょうか。」

2.神様は私たちが神様をもっと知るように望んでいます。私たちが神様をもっと信頼するように望んでいます。私たちが神様の私たちに対する良さを知るように望んでいます。祈りは、その神様を知るプロセスの部分です。私たちは祈れば祈るほど、神様の御心をもっとわかるようになります。私たちは何が「良いもの」か、「悪いもの」か区別できるようになります。そして、かなえられた祈りと断れた祈りによって、私たちは神様の判断と知恵を信頼するように学びます。

でも、私たちは求めないと、そのことを全然学ぶことができません。

だから、求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうすれば、あなたが期待するよりも、たくさんのドアが開かれます。それに、神様のことをもっと知り、その御心を知るので、もっと神様との親しい関係ができます。

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マタイ7:6--相手に無駄に話すこと

前回の記事で私は書きましたが、イエス様は私たちが偽善的に裁くなと注意したけど、イエス様は私たちが罪を犯す人に叱責するべきだともおっしゃいました。でも、相手を叱責するとき、もう一つのことに注意するべきです。つまり、あなたは誰を叱責しているでしょうか。

イエス様はこう言いました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(7:6)

イエス様が意味したものは何でしょうか。あなたが相手を叱責しても、聞いてくれない人もいるということです。その場合、あなたは無駄に話しています。なぜなら、彼らは神様からの言葉を聞きたがらないし、あなたが叱責しようとしたら、彼らはあなたを攻めるから。だから、イエス様は、そんな人に何も言わない方がいいと言います。

ソロモンも大体同じことを言いました。

あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。(箴言9:8)

その真理を福音を伝えることに当てはめられます。あなたが福音を伝えるとき、あなたをあざける人もいます。そんな人は、神様の手に委ねた方がいいです。あなたは自分の役割をもう果たしましたから。その責任は相手のものになりました。あなたには、福音の真珠を彼らに投げ続ける必要がないのです。

福音をあざける人を見ると苦しいです。神様のみ言葉に心を固くする人を見ると辛いです。でも、あなたがそのみ言葉を伝えて、相手がその言葉を拒否したら、あなたはその人のために祈るしか何もできません。あなたではなく、神様だけが相手の心を変えることができます。

あなたは誰に真珠を投げているでしょうか。

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マタイ7:3-5;ルカ6:39-42--偽善的な裁き

子供の時、私は「Isaac Air Freight」というクリスチャンのコメディーグループが大好きでした。彼らは、たくさんのパロディーをやっていました。一つのは、「60 Minutes」というアメリカの有名なニュース番組のパロディーでした。

その時、リポーターは「木こりさん」という夫婦をインタビューしました。彼らはクリスチャンだったけど、珍しい「特徴」がありました。彼らの目からは、丸太が出ていました。だから、彼らは、いつも周りの物を倒してしまいました。それに、彼らはいつも他の人々について文句言ったり、裁いたりしました。

インタビューの時、彼らは何回もその丸太でリポーターに当たりそうでした。でも、そのリポーターが彼らにその丸太について尋ねた時、彼らは「へ?丸太って?」と答えました。

でもリポーターは言い張りました。「あなたの目に、でかい丸太がありますよ。あなたは、いつも周りの物を倒してしまっているよ。」

「さあ、今まで全然気づいていないけど?」と、彼らは答えました。

多くのクリスチャンたちは、その木こりさんたちのようです。彼らは自分の欠点を見ずに、いつも相手を批判します。

でも、イエス様は私たちにこう言います。「あなたは批判を通して、相手を助けていると思っているけど、あなたには自分の欠点が全然見えていません。でも、相手の問題は、ちりだけです。あなたの問題は梁ですよ。あなたは盲人なのに、そのことを知りません。もし盲人であるあなたが、ほかの盲人を導こうと思うなら、あなたたちは穴に落ち込んでしまいます。

あなたは愚か者の先生だと思います。あなたの生徒たちも、あなたのようになります。彼らは、あなたの欠点を学びます。でも、あなたは自分の欠点を全然知りません。」

だから、イエス様は、この話をこのようにまとめます。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。(ルカ6:42)

イエス様の要点は何でしょうか。それは謙遜だと思います。

多くの人々は、自分の目にプライドという梁を持っています。

誤解しないでください。時々、私たちは兄弟たちと姉妹たちに彼らの罪について話すべきです。それはイエス様の命令です(マタイ18:15)。使徒たちも、その命令を繰り返しました(ガラテヤ人への手紙6:1)。

でも、そうするとき、私たちはどんな態度を取るべきでしょうか。プライドの態度を取った方がいいでしょうか。「私はあなたに優れたクリスチャンだよ」という態度でしょうか。

違います。

へりくだる態度を取るべきです。あなたにも神様の恵みと憐れみが必要という態度を取るべきです。

だから、相手を責める前に、神様にこう聞くべきです。「神様、私の罪は何でしょうか。私の目に何の梁が入っているでしょうか。私はプライドを持っているでしょうか。私は相手を許せないでしょうか。私は相手を責めるけど、私もその同じ欠点を持っているでしょうか。」

そして、神様があなたの欠点を見せるなら、悔い改めてください。

もし自分の弱さを知らないなら、もしどれだけあなたに神様の憐れみが必要か分からないなら、多分相手と話すことを待った方がいいです。

そうしないと、彼らは自分の罪を悔い改めるかもしれないけど、あなたからもっと酷いことを学びます。特に、彼らはプライドと偽善を学びます。

イエス様はこう言いました。

弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)

あなたの目に、どんな梁があるでしょうか。

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マタイ7:1-2;ルカ6:36-38ーー相手を裁くと

相手の欠点を見て、裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行為を裁くのは簡単なことです。特に、私が傷ついたとき、相手を裁くことは簡単なことです。

ルカの個所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむ教えの後に言っていました。だから、私たちを侮辱する人、また私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言いました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

そのすぐ後、イエス様は相手を裁くことについて話します。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではないから。それは、神様の責任です。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言います。

実は、相手を許すのは、相手のためよりも、あなたのためです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないと、あなたは過去の傷に縛り付けられるから。あなたは、神様が望んでいるあなたのための未来に進むことができません。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言います。そうすれば、相手は変わるかもしれないけど、それは神様の約束ではありません。(イエス様が十字架でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈ったけど、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

それに、私たちは、主の祈りを思い出すべきです。つまり、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

そうしないなら、もし、むしろ私たちが私たちの受けた傷のために相手に裁きを注ぐなら、イエス様はこう警告します。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この個所を読むとき、イエス様が献金について話していると思います。でも、イエス様は献金について全然話していません。この個所の前後は、裁きと憐れみについてです。

このイエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れることを描写しています。でも、私たちは簡単に想像がつかないので、別のたとえを使いましょう。

ちょっとごみ袋を考えてください。ごみの日に、どうやってごみを入れるでしょうか。

まず、私たちはごみを入れます。でも、もしそのごみ袋がちょっと一杯になるなら、私たちはどうするでしょうか。ちょっと袋を揺すると、そのごみはもっと下に行きます。そして、ごみをもっと入れられます。

でも、最後のほうでは揺すっても、ごみは袋の下にいきません。だから、そのごみをもと上から手で押します。そうすれば、もうちょっとごみを入れられるようになります。でも、限界になったら、ごみは袋から溢れます。

イエス様が言ったのはこうです。「もし、相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注いでしまいます。そして、あなたにもっと裁きを注ぐために、神様はもう注いでいた裁きを揺すって、押します。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注ぎます。

その反面、もし、憐れみと許しを相手に注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるまで注ぎます。」

あなたは自分自身に何を注がれるように望むでしょうか。

 

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マタイ6:25-33;ルカ12:22-34--心配

私は、この個所が頭の中でよく分かっているけど、この真理を本当に実感するかどうか分かりません。

今は、私はあまり心配がありません。でも、5年前、私は仕事や、家計についてよく心配しました。

その時、この個所を読んだとき、私はこう思いました。「これは理にかなっている。神様は鳥も世話するし、花も世話する。だから、きっと神様は、私のことを世話してくださるだろう。」

それでも、私は心配し続けました。「どうやって、お金を節約できるだろうか。もっといい仕事が見つけられるかなあ」

でも、私は振り返ると、神様の忠実さと良さを見ることができます。だから、私はこれから心配する必要がないでしょう。

しかし、将来トラブルが来ると、私はどう反応するでしょうか。

時々、私が幾分コントールできる問題に直面します。でも、私が全然コントロールできない問題に直面するときもあります。

その時、私の心はこう言います。「もう、あなたができたことをやったでしょう?もう心配せずに、そのことを神様の手に委ねましょう。」

でも、別の部分では心配し続けます。

私に対するイエス様の言葉が想像できます。「信仰の薄いブルース。この世の人々は、こんなものを求めているけど、あなたの天の父があなたのことを愛していることを知らないでしょうか。あなたのことを世話することを知らないでしょうか。だから、このものごとから目を外して、天の父に焦点を当てなさい。天の父にあなたの心配を委ねなさい。そうすれば、また、すべてよりも神の御国を第一に求めれば、天の父は、あなたのことをきっと世話してくださいます。」

天のお父さん。あなたは、私のことを愛してくださることをおっしゃいました。それを信じています。でも、私の信仰を増してください。私の信仰は薄いので、私はよく心配します。でも、あなたは今まで、私にあなたの忠実さを示してくださいました。私には、あなたのことを疑う理由が全然ありません。どうして、私が疑う時があるでしょうか。私が自分の心配を外すように助けてください。あなたの光で、私の問題が力のない影のようになるように。

私があなたに焦点当てるように助けてください。私があなたを信頼できるように助けてください。アーメン。

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マタイ6:19-24;ルカ11:34-35-私たちがちゃんと照準を合わせること

前回の記事で私が言ったのは、私たちがいつも、「この罪を避けなちゃ、この罪を避けなちゃ」と考えると、多くの場合、私たちがその罪に落ちてしまうことです。もっといい方法は、神様に焦点を当て、ついていくことです。

でも、誘惑だけに関してではなく、すべてのことに関して、その態度を持った方がいいです。この個所では、イエス様は、私たちが何に照準を合わせるか話します。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19-21)

そして、イエス様はこう言いました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(24)

私たちは自分自身にこう訊くべきです。「私は何に照準を合わせているだろうか。」

多くの人々は、一時的なものに照準を合わせます。つまり、お金や、持ち物を得ることに照準を合わせます。

でもイエス様はこう言います。「そんなものは結局なくなります。あなたは永遠のものに照準を合わせるべきです。」

それでは、永遠のものというのは何でしょうか。

二つの永遠のものしかありません。神様との関係と、ほかのイエス様を信じる人との関係です。

私たちは、天国にこの地からほかのものを持っていくことができません。だから、この世に生きている間、その二つのものに焦点を当てなくてはなりません。

私たちは神様との関係をもっと親しくするように働くべきです。また、イエス様を知らない人に福音を延べ伝えるべきです。そして、クリスチャンの兄弟たちと姉妹たちとの関係を強めるように働くべきです。

そうすれば、あなたは天国に宝を蓄えます。神様との関係と私たちが愛している人々との関係よりも、もっと素晴らしい宝があるでしょうか。

でも、多くの人々は、クリスチャンでも、お金を儲けることに焦点を当てます。または、この世のものを獲得することに焦点を当てます。でも、イエス様は「あなたはそれができない」と警告します。

神様はあなたの心の半分を望みません。神様があなたの心の半分だけを持てば、あなたの奉仕を受け入れません。私たちはお金に仕えるかもしれません。私たちは神様に仕えるかもしれません。でも、両方に仕えることができません。

だから、イエス様は私たちに訊きます。「あなたはどんな目を持っているでしょうか。あなたは、物の実の価値はちゃんと見えますか。あなたは何が本当に大切かわかるでしょうか。そうなら、あなたの全身も明るいです。あなたは生きがいがある人生を送ります。また、あなたは、神様があなたのために意図した人生を知ります。それは、神様との関係と人間関係の中心の人生を知ります。

でも、そんなことが見えないなら、あなたは暗闇に満ちた人生を送ります。あなたは、いつも不満だけど、どうして自分がそう感じるか決して分かりません。あなたは、いつもお金や、ほかのものを捕まえようとするけど、結局あなたの心は空っぽになります。」

だからイエス様はこう言います。

もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:23)

また、イエス様は私たちに警告します。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11;35)

あなたはどうですか。あなたは何に照準を合わせているでしょうか。

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マタイ6:13;ルカ11:4ーー日常の霊的な戦い

毎日、私たちは霊的な戦いに直面します。だから、イエス様は私たちがこのように祈るべきだと教えました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

私たちは邪な世界に生きています。ここは、サタンの住まいです。そして、サタンは私たちに対して悪意を持っています。彼は、どうしても私たちを倒したがります。

つまり、サタンは私たちの心の中で働いています。彼は、私たちを誘惑して、私たちが肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に負けるように働きます。(第一ヨハネ2:16)

だから、私たちは神様の導きを祈るべきです。つまり、私たちが罪に焦点を当てずに、神様に焦点を当てるように祈るべきです。

私たちは誰でも、誘惑に負けやすいところがあります。私たちは、その弱い点にちゃんと注目した方がいいです。できるだけ、その誘惑から逃げた方がいいです。でも、していけないことに注目しすぎたら、結局、その誘惑はもっと強くなります。

でも、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、私たちは自然に誘惑から離れます。罪を避けるのは足りないです。神様に従わなくてはいけません。

でも、私たちを誘惑するだけではなく、サタンは私たちを滅ぼしたがります。サタンが人々を通して私たちを攻撃するときもあります。

サタンが私たちにうそをつくときもあります。「あなたはもうだめだ。神様があなたのことを愛するはずはない。あなたは、もう失敗しすぎたから。神様はもうあなたを赦さない。」

だから、イエス様は私たちに「悪からお救いください」、と祈りなさいと言います。(もう一つの翻訳のし方は「悪者から、つまり、悪魔からお救いください」)。

私たちは私たちを憎むサタンと戦います。だから、ペテロはこう言いました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

神様がサタンの私たちに対する影響を制限するように、祈りましょう。

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マタイ6:12,15--オプションじゃない

多くの人々にとっては、この個所は本当に受け入れにくいです。イエス様は、このように祈るように教えます。

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(6:12)

そして、イエス様は続けます。

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。(6:14-15)

それは、本当に厳しい言葉です。そして、ほかの個所ではイエス様はその言葉をもっと具体的に説明します。

でも、その祈りをちょっと見てみましょう。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

多くの人々は、この祈りをしばしば祈るけど、彼らが何を言っているか真剣に考えません。

でも、この祈りを想像してください。「主よ。私は姉に本当に怒っています。彼女は私を本当に傷つけた。私は絶対許せない。だから、主よ。ちょっとお願いがあります。私が姉を許さないように、私を赦さないでください。」

それはバカな祈りだけど、あなたが主の祈りを祈る時、実はあなたは、そう言っています。「私が相手を許すように、私を赦してください。でも、私が相手を許さないなら、私を赦さないでください。私が怒りと苦さを彼らの上に注ぐように、私にもあなたの怒りと裁きを注いてください。」

神様の目には、許しはオプションではありません。もし、あなたが相手を許さないなら、あなたは神様からの赦しを期待できません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、あなたが神様からの赦しに値しなかったのに、神様はあなたを赦せるために高い代価を支払ったから。その代価は、御子イエスの命でした。

あなたはどうしても、神様からの赦しを買うことができませんでした。あなたはどうしても、あなたの罪のために償いをするわけがありませんでした。でも、神様はあなたを憐れんでくださいました。

神様が私たちを赦したなら、どうして私たちは相手を許せないでしょうか。

もし、あなたが相手を許せないなら、あなたは本当に神様の赦しを理解できません。あなたが言っているのは、「私の罪はそんなに悪くなかったのです。だから神様は私を許してくれました。」ということです。つまり、あなたは自分の罪を控えめに言って、軽いものと見なします。

でも、あなたの罪のため、あなたは地獄に行くことに値しました。あなたの罪があまりにも悪かったので、イエス様は十字架でその罪のために死ななくてはなりませんでした。あなたは、それを本当に信じているでしょうか。

そうすれば、どうして、「私の罪は、そんなに悪くない」という態度を取られるでしょうか。

もし、あなたが相手を許せないなら、あなたの罪をあまりにも軽く考えます。もしあなたの罪の悪さがちゃんと分かれば、相手を許せないはずはありません。

だから二つのことを考えてください。

1.あなたは、どれだけ真剣に自分の罪の酷さを考えるでしょうか。その罪によって、あなたが地獄に値することを信じるでしょうか。

2.神様があなたの酷い罪を赦してくださったら、どうして、あなたはあなたに対する犯された酷い罪を許せないでしょうか。

許すことは簡単なことでしょうか。多くの場合、許すことは本当に難しいです。もし、あなたが深い傷を受けたら、自分の力で、許すことは、難しいです。もしくは、無理です。でも、神様の恵みと憐れみによって、あなたが赦されたように、神様の恵みと憐れみによって、あなたは相手を許す力をもらいます。

でも、自分自身に一つの質問を訊くべきです。「私は今、相手を許せないかもしれないけど、私は神様が私の心を変えてくださることを望むだろうか。」

もし、「はい」と言えば、このように祈ってください。

主よ。私は本当に傷ついて、今相手を許せない意思も全然ありません。でも、私があなたの憐れみに値しなかったのに、あなたは私を赦してくださいました。私を赦せるために、あなたは高い代価を支払いました。私がその真理をもっと深くわかるように。私がその真理をしみじみと感じるように助けて臭い。そして、相手を許す気を与えてください。私の心を変えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

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マタイ6:11;ルカ11:3--私たちのニーズのために祈ること

私にとって驚くべきことは、この宇宙を支配する神は、私のことを愛していることです。また、私がつまらないものに関して祈っても、神様は私の祈りをよく聞きます。

イエス様は、そう教えました。彼は、こう言いました。

だから、こう祈りなさい。。。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:9,11)

イエス様が「心配」に関して話すとき、この祈りをもっと具体的に説明します。つまり、イエス様によれば、神様は私がすべての人生のための必要を持つかどうか、気にかけておられます。つまり、食料、衣類、寝る場所です。もちろん、こんなものを買うためには、お金が必要です。また、お金を得るために、仕事も必要です。

私たちは、そんなことをよく心配します。

でも、神様は「そんなことについて心配するな」と言います。こんな心配は、私たちの心を支配してはいけません。むしろ神様は、私たちが天の父が私たちを愛してくださり、私たちのニーズに備えてくださることを信じるように望みます。だから私たちは、そのニーズについて祈ったあとは、神様の手に任せるべきです。

でも、どれだけ私たちは祈らずに、心配するでしょうか。私がそうする時もあります。

私たちは、自分自身にこう聞くべきです。「私の天のお父さんが本当に私のことを愛してくださることを信じているだろうか。私の天のお父さんが私のニーズに備えることを本当に信じているだろうか。」

もし、そのことを本当に信じたら、私たちの心配はすぐになくなるでしょう。

あなたはどうですか。あなたは、ただ心配しているでしょうか。もしくは、あなたは祈っているでしょうか。

主よ。あなたは私のニーズをよくご存じです。私の将来に関する心配をよくご存じです。でも、あなたが私のことを愛していることを信じます。頭では、そのことを知っています。でも、そのことは私がしみじみと分かるように助けてください。私が無駄な心配を捨てるように助けてください。むしろ、私があなたの平安を知るように助けてください。アーメン。

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マタイ6:10;ルカ11:2--神の御国。神の御心。

私は、英語のブログでこの個所について書いたのは、4年前でした。その英語の記事を読むとき、本当に懐かしいと思いました。また、振り返ると、私は神様の良さを見ることができます。

その日、私は本当にフラストレーションを感じていました。その時、私の家計は悪くなかったけど、理想的ではありませんでした。そして、もっと良い仕事を得る機会がありました。でも、面接の日が平日なので、休暇を取らなくてはなりませんでした。しかし、なぜか私が勤めていた派遣会社は、そのリクエストを断りました。だから私は、「どうしようかなあ」と思いました。

結局、神様の恵みによって、その面接に行くことができました。私が派遣された中学校の教頭先生の援助のおかげで、派遣会社に私が面接に行かせるように説得できました。

その面接に合格して、今ではもっと良い学校に勤めています。

とにかく、この話と、この個所の関係は何でしょうか。この個所では、私たちはこう祈ります。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

正直に言うと、その朝、私は本当にストレスを感じていました。私の派遣会社が不公平だと思いました。(その以前、英語のブログの記事では、私は不公平な世界に関して、書いたのに)。

私が以前言った通りに、私は自分の状況をコントロールできませんでした。私の態度だけをコントロールできました。でも、それは本当に難しいことでした。

でも、最終的に、私はこう祈りました。「主よ。あなたのみこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。天で、あなたの御心は完全に行われます。この地で、特に、この状況で、あなたの御心が完全に行われますように。私がこの仕事を得るのが、あなたの御心なら、それは良いです。あなたの御心でないなら、私がそのことを受け入れられるように助けてください。」

でも、それだけではなく、私は「御国が来ますように。」とも祈りました。私にとって、その仕事を得るのは、本当に大切なことでした。でも、それよりも、神様の御国は断然大切なことでした。その時、私が考えていたのは、「この仕事を得れば、もちろん、給料が上がるけど、一番大切なのは、私の時間が増えて、私が神の御国のためにもっと何かできることです。」ということです。

その日、この個所を読んだけど、6章の終わりまで読み続けました。なぜなら、この個所では、イエス様は「自分のいのちのことを心配したりしてはいけません」と言っていたから。その日、私は本当にその言葉を聞く必要がありました。そして、この個所の終わりで、イエス様はこう言いました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

今、私が振り返ると、イエス様はその約束を守りました。

それでも、私は時々物事を心配します。

でも、神様の恵みによって、私は祈ります。「私の人生では、またこの地で、あなたの御国が来ますように。みこころが行なわれますように。」

4年前、私はこう祈りました。

「主よ。あなたは、私のストレスをよくご存じています。私の心配もよくご存じています。でも、あなたはこの全地の主です。あなたは、私の雇い主の主です。でも、もっと大切なのは、あなたは私の主であることです。あなたの御心が行われますように。私の仕事の状況で、あなたの御心が行われますように。私の将来で、あなたの御心が行われますように。私がすべてよりもあなたの御国に焦点を当てるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。」

(もし、あなたが英語ができるなら、この記事の原文はここです。」

 

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マタイ6:9;ルカ11:2--私たちの誉れにふさわしい方

多くの人々は、この祈りを「主の祈り」と呼びます。実は、「弟子の祈り」と呼んだ方がいいと思います。つまり、イエス様の弟子たちの方がこの祈りを祈った方がいいです。

とにかく、イエス様は、こう言いました。

だから、こう祈りなさい。。。御名があがめられますように。(マタイ6:9)

この個所では、新改訳の翻訳者は、「あがめる」という言葉を使いました。もちろん、そのギリシャの言葉は、その意味もあります。でも、その言葉は、もう一つの意味があります。その言葉は「聖い」というニュアンスを持っています。だから、マタイ23:17では、その言葉は「聖いものにする」と翻訳されます。また、ローマ15:16では、「聖なるものとされた」と翻訳されます。もう一つのは、第一テモテでは、「聖められる」と翻訳されます。

だから、「御名があがめられますように。」という意味は、「御名が聖なるものと見なされますように」、または、「御名が聖なるものとして、あがめられますように。」ということです。

もう一つのことがあります。聖書の時代、人の名前は、その人の性格を表現しました。だから「御名が聖なるものとして、あがめられますように。」と祈れば、その意味は「あなたが聖なるものとしてあがめられますように」という意味です。

でも、私たちが「神様は聖なる方」と言うと、それはどういう意味でしょうか。

基本的に、神様は完全な方だという意味です。神様には、欠点が全然ありません。神様は全く聖い方です。

その反面、私たちは不完全な人々です。私たちの性格は全然聖くありません。

だから、私たちは神様の完全さ、また、神様の聖さを見ると、私たちが神様に畏敬の念を抱くことは、ふさわしいことです。また、神様の完全さと聖さを見ると、私たちが神様をあがめるのは当然なことです。

でも、神様をあがめるのは、足りないです。神様を見ると、私たちの天の父のようになりたい気が湧くはずです。つまり、私たちは天の父を喜ばしたいです。また、私たちの霊的な不潔と欠点を嘆きます。

もし、「御名が聖なるものとして、あがめられますように。」と祈れば、罪深い生活を送る余地はありません。私たちは、「まあ、神様が私を赦してくれるので、罪を犯してもいい」と全然言えません。

もし、あなたが本当に神様の子供なら、「御名が聖なるものとして、あがめられますように。」と祈るとき、その意味は「神様、私は、あなたに畏敬の念を抱きます。あなたを愛しているので、あなたのようになりたいです。私を助けてください。」という意味です。

そう祈れば、神様は、その祈りにきっと答えてくださいます。神様は自分の子供が神様を真似することを見ると、本当に喜びます。

そして、私たちが罪の泥に落ちるなら、神様は私たちを助け、イエス様の血によって私たちを清めて、導き続けます。また、神様は、私たちがどのように神様のようになるか教え、私たちがそんな聖い人生を送る力を与えてくださいます。

あなたはどうですか。あなたは、神様に畏敬の念を抱くでしょうか。また、天の父のようになりたいでしょうか。

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マタイ6:9;ルカ11:1-2--私たちのお父さん

一つの記事で主の祈りについて話そうかなあと思ったけど、結局少しずつ話した方が良いと思いました。

この個所では、イエス様は、神様をどのように呼んだ方がいいか教えます。マタイの福音書では、イエス様は「天にいます私たちの父よ。」と言います。ルカの福音書では、イエス様は、もっと簡単な表現を使います。「父よ。」

実は、日本では、主の祈りの以外に、「天にいます私たちの父よ」、また、「父よ。」と祈る人がほとんどいない感じがする。

むしろ、私の教会では、私は、「天のお父様」とよく聞きます。

その理由は、よく分かりません。私のただの意見だけど、クリスチャンがこんな呼び方を使うと、なんだか神様と離れる感じがします。

もし、「天のお父さん」や、「お父さん」と祈ったら、イエス様の意味にもっと近いと思います。

なぜなら、私は、イエス様が私たちが神様に近づいてもいいと教えたがったと思うから。

もちろん、「主よ」などと祈ってもいいです。神様が本当に私たちの主なので、その呼び方はふさわしいです。ペテロもそのように祈りました。(使徒4:24)

でも依然と言ったように、その呼び方は、神様と私たちの間に距離があることを暗示します。もちろん、王様としもべには、間柄があるけど、親しい関係を持っていません。そのしもべは、いつでも王様と話すことができません。

でも、王様の子供は、いつでもそのお父さんと話すことができます。その子は、王に対するしもべが持っていないアクセスを持っています。それに、その子は、父が愛してくれる確信を持っています。

私たちの天のお父さんは、大いなる王です。神様は、この世界、この宇宙でも、支配します。でも、神様はいつでも、あなたのために時間を割いてくださいます。なぜなら神様は、あなたの王だけではなく、あなたのお父さんですから。

残念なのことですけど、多くの人々は、「天のお父さん」と祈っても、その言葉がよく分かりません。なぜなら、彼らの実のお父さんは、不完全ですから。そのお父さんは、彼らに聞いてくれないし、愛してくれないし、養ってくれませんでした。それに、お父さんに虐待された人もいます。

だから彼らは、その否定的なイメージを天のお父さんにかぶせます。

でも神様は、そのようなお父さんではありません。そして、あなたの実のお父さんは、いろんな欠点を持つかもしれないけど、神様はそんな欠点を持っていません。

神様は、あなたを愛してくださいます。神様は、あなたの祈りを聞いてくださいます。神様は、あなたのニーズに備えてくださいます。また、神様は、あなたを決して捨てません。

あなたは、「天のお父様」と祈るとき、どんなイメージを持っているでしょうか。

もし、否定的なイメージを持てば、神様があなたの実のお父さんと違うことを覚えていてください。だから、神様があなたの実のお父さんからもらった傷を癒すように祈ってください。あなたが実のお父さんを許せるように祈ってください。そして、神様があなたの「天のお父さん」のゆがんだイメージを変えるように祈ってください。

あなたが天のお父さんを本当に知るように。

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マタイ6:7-8--無駄な言葉

祈りは簡単なのものです。でも祈りは、なんだか難しいものです。

根本的に、祈りは神様と話すことです。私たちがほかの人々と話すように、私たちは神様と話します。

でもそれなら、どうして、祈りはそんなに難しいでしょうか。

多分、一つの理由は、私たちが耳で、神様の答えを聞くことができないからです。モーセのように、私たちが神様と話すことができたら、祈りは、もっと簡単なものになるでしょう。

でも、私たちが、そのように会話できないので私たちはよく「神様は本当に私の祈りを聞いてくれるだろうか。もしかして、私は間違った方法で祈っているだろうか。」と疑問に思います。

だから、多くの人々は、自然に神様と話せずに「祈りの形式」を使用します。つまり、「主の祈り」を彼らの祈りの方式にします。

でも祈りは、ただの形式ではありません。主の祈りによって、私たちは祈りがどんなものか分かるし、どんなことについて祈るべきか理解できます。でも、主の祈りは魔法の言葉ではないです。その言葉を言っても、神様はあなたの言葉を聞くとは限りません。

でも、多くの人々はそのように考えます。彼らは、主の祈りをただの形式にします。なぜなら「イエス様は、そのように祈りなさいと言ったでしょう?」と思うから。

しかし、イエス様はこう言いました。

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(7-8)

つまり、神様と普通に話した方がいいです。特別な言葉は要りません。長く祈らなくてもいいし、本当に美しい言葉を使わなくてもいいです。そんな祈りは、神様を感動させないから。神様は、あなたの心からの言葉だけを聞くことを望みます。

時々、人々は、こう訊きます。「もし、神様が私の願いをするより先に、私に必要なものを知っておられるなら、どうして祈らなくてはならないのだろう。」

なぜなら、神様は、あなたとの親しい関係を望むから。もちろん、私たちが話さなくても神様は、私たちの思いをよく知っておられます。もちろん、私たちが願いをしなくても、神様は私たちのニーズに備えることができます。

でも、私たちが祈るとき、私たちが神様に出会うので、その関係はもっと親しくなります。神様は何よりも、そんな関係を望みます。

でも、私たちが何を言っているか考えずに祈れば、また、私たちがただの暗記した言葉を繰り返せば、そんな親しい関係ができません。

神様は、私たちの祈りを聞きます。それに、私たちがちゃんと聞けば、神様は私たちに話しかけます。だから、形式的な祈りを止めましょう。むしろ、私たちの心から神様と話しましょう。すべての喜びや、悲しみや、悩みを伝えましょう。

あなたは、どうですか。あなたは、本当に祈っているでしょうか。もしくは、ただの無駄な言葉を言っているでしょうか。

 

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マタイ6:1-18--私たちの動機

山上の垂訓では、イエス様は、しばしば私たちの心にあるものを指摘します。

この個所では、イエス様は、神様が私たちの行動だけではなく、私たちの動機も見ると教えます。

だから、イエス様はこう言いました。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(1)

そして、イエス様は三つの例を与えます。

一つ目は、施しをすることです。その時代、施しをするとき、認識されたがる人がいました。だから、皆の前で彼らは貧しい人々にお金をあげました。

でもイエス様が言ったのは、「そうすれば、神様から報いを受けられません。あなたは神様からの報いを求めずに、周りの人々からの誉れを求めるから。あなたは、もう周りの人々から報いを受けられました。」ということです。

そして、イエス様は祈りについて話しました。その時代、周りの人々を感動させるために、大きな声で、長い祈りを祈った人もいました。多分、あなたが誰かの祈りを聞いたとき、その人が誰に祈っているか疑問に思う時もあるでしょう。

最後に、イエス様は断食について話しました。断食するとき、自分がかわいそうな顔をする人もいました。だから、周りの人々は、「あの人は断食している。本当に霊的な人だ。」と思いました。

でも、イエス様によれば、神様はそんな断食のために、報いを与えてくださいません。むしろ、神様は周りの人々に見えないことを褒めます。なぜなら、その行動は、神様に対する愛のためにされたものだから。

相手を批判するのは、簡単なことだけど、あなたはどうですか。あなたは、周りの人々のあなたに関する意見が気になっているでしょうか。あなたは、自分の霊的な人生を見せたがるでしょうか。

もしくは、あなたは、本当に神様と周りの人々を愛しているでしょうか。

あなたは、周りの人々をだますかもしれませんけど、神様をだますことができません。正しいことをすることだけでは足りないです。正しい動機も必要です。

正しい動機というのは何ですか。それは、神様に対する愛です。また、周りの人々に対する愛です。神様の目には、ほかの理由は、全然大切ではありません。

神様に対する愛も、周りの人々に対する愛も、外向きのものです。私たちの焦点が内向きになると、つまり、私たちがいつも周りの人々が私たちに関してどう思うか考えると、私たちの良い行動は、神様の目には価値がなくなります。

実は、私の動機に関して、私はよく戦います。私は、いつも自分自身に訊きます。「私は誰を喜ばせようと思っているだろうか。私が教会でメッセージをするとき、私は皆を私の霊的さで感動させようと思っているだろうか。もしくは、神様は、私を通して本当に話しているだろうか。私は誰の歓心を買おうと思っているだろうか。」

あなたはどうですか。誰を喜ばせようと思っているでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

主よ。私はしばしば、周りの人々の私に対する意見があまりにも気になります。私はしばしば内向きです。赦してください。私が外向きになるように。私があなたを愛し、周りの人々を愛するように助けてください。私があなたのようになるように。アーメン。

 

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マタイ5:43-48--完全の愛。完全の憐れみ。

多分、我々クリスチャンは、よくこのイエス様の言葉を聞きます。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この個所の前後は、興味深いです。もちろん、私たちは、清い人生を送るべきです。でも、この個所では、イエス様は、特に愛について話しているようです。私たちの愛は、完全なものであるべきです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対すると思います。でも、イエス様は、神様の律法に反対しませんでした。イエス様は、パリサイ人と律法学者の律法に関する間違った解釈に反対しました。

前回の記事で、そのことを学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対しませんでした。「あなたの目か歯に害を与えた人を殺しても良い」と言いませんでした。

むしろ、イエス様はこう言いました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。でも、あなたの解釈は間違っています。あなたたちは律法を乱用して、復讐の言い訳としてその律法を引用しています。もちろん、公平さと正義を求めるのはいいことです。でも、自分のために公平さと正義をいつも求めずに、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたは、天の父のようになるし、あなたは、この世でもっと輝く光になります。」

イエス様は、そんな人生を送りました。イエス様が自分のために正義を要求していたら、イエス様は、決して十字架で死ななかったでしょう。

この個所では、私たちは、もう一つの律法に関して間違った解釈を見ます。旧約聖書では、簡単に「自分の隣人を愛しなさい」という命令を見つけることができます。(レビ記19:18)

でも、「自分の敵を憎め」という命令は、全然ありません。ユダヤ人たちは、そのアイデアを加えました。

だから、イエス様は、その考え方を訂正しました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架でそうしました。

イエス様の敵が、彼を十字架にかけた時、また、イエス様をあざけったとき、イエス様は、彼らのために祈りました。

イエス様は、彼について祈りませんでした。「ほら。彼らはひどいでしょう?」と言いませんでした。

むしろ、イエス様は、彼らのために祈りました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らはイエス様を憎んでいたのに、イエス様は、彼らのことを愛していました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命の希望を持っています。

そして、イエス様はこう言いました。「あなたのことを愛している人を愛するのは、簡単なことです。だれにも、それができます。最悪の人でも、それができます。でも、あなたのことを憎む人を愛するのは、難しいことです。」

でも、神様はそうします。私たちは、神様を憎んだり侮ったりして、神様に私たちの背を向けたのに、毎日神様は、いろんな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様は自分の子をこの世に送りました。

だから、神様は、私たちを神様のようになるように呼びます。私たちの愛は、神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでいるように、私たちも憐れみに富むべきです。

あなたの愛と憐れみは完全なものでしょうか。

 

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マタイ5:38-42;ルカ6:29-30--でも、フェアじゃない

多分、すべての人々は、フェアなことを望みます。だから、物事がフェアじゃないと思うと私たちは「フェアじゃない」と叫びます。でも、それは、ベストな反応でしょうか。

イエス様の言葉は、私たちのすべての本能に反対します。

イエス様はこう言いました。

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

38節は、神様の律法から来ました。(出エジプト記21:23-25)

その出エジプト記の個所では、神様はモーセと裁判官に、どうやって悪い行動を罰するか教えました。神様は、復讐に関して話していませんでした。その要点は、罪に応じた罰を与えるということです。つまり、過度に罰してはいけません。

例えば、誰かが相手の目に害を与えたら、相手の人はその人を殺してはいけません。

それでも、実は、モーセや裁判官は文字通りにはその律法に従いませんでした。それは、神様の意図ではなかったから。もし、あなたがその個所の後に読んだら、その律法の応用を見ることができます。普通は、相手が償いをしなくてはなりませんでした。

とにかく、その律法のポイントは公平さ、つまり正義です。

でも、この個所では、イエス様は、私たちが公平さについて心配しすぎないべきだと言いました。むしろ、あなたを傷つける人々に対して、あなたは光になるべきです。

イエス様の最初の例は興味深いです。

なたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

私は左利きなので、私にとって相手の右の頬を打つのは、簡単なことです。でも、ほとんどの人々は、右利きです。だからその人は、相手の右の頬をガツンと打ちたいなら、手の甲で打たなくてはなりません。

つまり、イエス様は、あなたに対する暴力ではなく、侮辱に関して話しています。ユダヤ人の文化でも、相手を手の甲で打つのは、侮辱と見なされました。

だから、イエス様の意味は、相手があなたを侮辱したら、それを許しなさい、ということです。相手に侮辱を返す必要がありません。

それは、フェアでしょうか。それは、フェアではありません。でも、イエス様は、「公平なことを気にするな。恵みを与えなさい。」と言います。

そして、イエス様は、こう言いました。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40)

イエス様の時代に、イスラエル人の皆は、たくさんの下着を持っていましたけど、多くの場合、上着は一枚しか持っていませんでした。そして、寝るときに、彼らは、その上着を毛布のように使いました。だから、律法によれば、もし、貧しい者が上着を担保として使ったら、毎晩、相手は必ずその上着を返さなければなりませんでした。(申命記24:12-13)

でも、イエス様は「もし、相手があなたを告訴して下着を取るなら、公平であることを気にせずに、あなたの上着も与えなさい。」と言いました。

また、ローマの律法によれば、ローマの兵隊は、ユダヤ人に荷物を1.5キロぐらい運ばせるように命令できました。もちろん、ユダヤ人は、そんなことを全然したがりませんでした。でも、イエス様は「1.5キロだけではなく、3キロ運びなさい。」

そして、イエス様は、こう言いました。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(42)

では、相手が私たちのやさしさに付け込むことを許してもいいでしょうか。

そういうわけでもないです。でも、私たちは、あまりにも公平さについて心配するなら、私たちは、フラストレーションをよく感じます。なぜなら、ここは、不公平な世界だから。私たちは、それをコントロールできません。

私たちがコントロールできるのは、私たちの態度です。

私たちは、フラストレーションを感じて、叫ぶことができます。私たちは、戦うことができます。

もしくは、私たちは、相手に恵みを与えることができます。憐れみを与えることができます。

イエス様は、私たちのためにそうしてくださいました。

イエス様が十字架で死ぬのは、フェアではありませんでした。イエス様は、何も悪いことをしていませんでした。それでも、イエス様は、私たちに恵みと憐れみを与えてくださいました。だから、私たちは、神様からの赦しと永遠の命を知るようになりました。

イエス様が私たちにその恵みと憐れみを与えるなら、私たちも、周りの人々にそうするべきじゃないでしょうか。

 

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マタイ5:33-37--正直さ

時々、信頼できる人を見つけるのは難しいことです。この壊れた世界で、人々は相手を信頼できないので、時々、契約や誓いを要求します。

「私は約束します。」

「私は誓います。」

でも、イエス様は、私たちが正直な人になるべきだと教えます。つまり、周りの人々は、あなたの言葉を信じるので、約束や誓いを要求しないです。

イエス様はこう言いました。

さらにまた、昔の人々に、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、「はい」は「はい」、「いいえ」「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(33-37)

イエス様の時代では、あなたが、神様のみ名によって誓ったら、その誓いを守らなくてはいけませんでした。でも、パリサイ人や、律法学者は、天や、地や、自分の頭を指して、誓ったら、その誓いを守らなくてもいいと教えました。

でも、イエス様は、私たちがすべての誓いを守らなくてはならないと教えました。なぜなら、エルサレムや、天や、地は神様に属するし、それら物は神様の栄光の反映ですから。だから、あなたがそのものを指し、誓ったら、実は神様を指し、誓うことと同じです。あなたの頭も、神様に属します。いつ白髪が出るか、あなたはコントロールできません。

でも、イエス様の要点は、「すべての誓いを守らなくてはいけない」ということではありません。

むしろ、イエス様の要点は、「誓わない方が良いです。相手ががあなたの誓いを要求する理由は、一つしかありません。つまり、相手は、あなたの言葉を信頼できるかどうか分からないのだ」ということです。

どうして、彼らは、あなたの言葉を信じられるかどうかわからないのでしょうか。

1.彼らは、あなたのことを知らないから。だから、裁判所では、人々は「真実を言うことを誓います」と言わなくてはなりません。裁判官たちは、あなたのことを知らないから。

2.彼らは、あなたを知っているけど、あなたを信頼できないので、あなたの言葉を疑います。その場合相手は、あなたの誓いを要求するかもしれません。

一つ目の場合は、仕方がありません。私たちは、罪によって壊れた世界に生きているから。人間不信は普通のことです。だから、裁判所で私たちは誓わなくてはなりません。イエス様はすべての誓いを禁じるわけではありません。イエス様も、そうしましたから。(マタイ26:63-64)

でも、二つ目の場合、ある程度まで、あなたはコントールできます。もし、あなたが、いつも正直話すと、周りの人々はあなたの言葉を信じるようになります。だから、あなたからの誓いや、約束を要求しません。むしろ、あなたが話すと、彼らは、あなたの言葉を疑わずに信じます。

周りの人々には、あなたの言葉を信頼できるでしょうか。小さいことでも(パーティーにちゃんと間に合ってくること)、また大きいことでも(仕事やミニストリーの忠実さ)、彼らにはあなたのことを信頼できるでしょうか。

イエス様は、私たちが世の光として生きるように呼びます。人々を信頼できない人が多い世界では、あなたは光でしょうか。周りの人々には、あなたのことを信頼できるでしょうか。

 

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マタイ5:29-30– なんとしても

私の一番好きなスポーツ・チームは、ピッツバーグ・スティーラーズというアメフトのチームです。1970代のスティーラーズの監督の気に入った標語は「何としても」ということです。つまり、「何としても、勝たなければなりません。」

イエス様にも、そんな態度がありました。でも、イエス様は、勝負に関して話していませんでした。むしろ、罪に関して話しました。簡単に言うと、イエス様は「何としても、罪をあなたの人生から追い出しなさい」と言いました。

イエス様はこう言いました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(29-30)

ある人々は、この言葉を文字通りに解釈するけど、それはイエス様が言った意味ではありません。イエス様は、あなたが自分の目や手を捨てることを望みません。

イエス様の意味は、私たちが真剣に罪のことを考えるべきだということです。でも、多くの場合、私たちは、罪のことを軽く考えます。

私たちは、「大丈夫。神様は赦してくれる」と考えます。山上の垂訓のイエス様の教えと違って、私たちは、自分の罪を嘆きません。むしろ私たちは、悔い改めずに、罪を犯し続けます。

でも、イエス様が十字架で死んだ理由は、私たちの罪でした。自分の罪のため、人々は地獄に行きます。あなたがイエス様に出会う前に、あなたの罪のため、あなたは地獄に行くことに値していました。どうして、あなたは、自分の罪を軽く考えて、悔い改めせずに、その罪を続けることができるでしょうか。

だから、イエス様は「何としても、罪を捨てなさい」と言います。どうやって、罪を捨てることができるでしょうか。

1.祈り。私たちには、自分の力で、罪に勝つことができません。神様の力が必要です。

2.できるだけ、誘惑を避けることです。例えば、あなたは、アルコール依存症の問題があれば、バーなどに行かない方がいいです。もし、情欲の問題があれば、インターネットに注意し、ポルノを売っている場所を避けるべきです。

3.あなたの問題をクリスチャンの友人に伝えるべきです。そして、その人の祈りを頼むべきです。また、その人に、「時々、私にその罪に関してチェックしてください」と頼むべきです。

ヤコブはこう言いました。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

あなたの罪のことを軽く考えないでください。イエス様は、そうしませんでした。あなたの罪のために、イエス様は十字架で死にました。だから、神様が聖であるように、あなたも聖でなければなりません。

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マタイ5:27-32--姦淫

前回の記事で、イエス様は殺人について話しました。今回は、イエス様は姦淫について話します。イエス様がそのことについて話した時、たぶん、その言葉は、宗教的なリーダーたちの良心を貫いたかもしれません。

私が以前言ったように、パリサイ人たちは、律法の具体的なものにも従ったので、それを誇りました。それでも彼らは、その立法の精神を見逃しました。

一つの例は、姦淫でした。パリサイ人の中でも、いろんな派がありました。例えば、「あざができたパリサイ人」がいました。(もちろん、その名前は侮辱でした。)

「あざができた」パリサイ人は、情欲のことが気になって、女の人を通り過ぎたら、彼らは目を閉じました。でも、しばしば、目を閉じている間に、彼らは壁にぶつかってしまいました。

また、あるパリサイ人たちは、離婚について議論しました。律法で、モーセは、こう言いました。

人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ[る]。(申命記24:1)

パリサイ人は、「恥ずべき事」について議論しました。つまり、「恥ずべき事」というのは何のことでしょうか。ある人は「恥ずべきこと」は、「不品行」という意味だと思いました。

でも、ほかのパリサイ人は、もし妻がうるさかったり、ご飯を焦がしたりしたら、それも「恥ずべき事」だと言いました。

私の意見ですけど、たぶん最も大きい問題があったでしょう。あるパリサイ人は、女の人が通り過ぎたら、目を閉じて壁にぶつかるかもしれないけど、そのあと、彼女をちらっと見ました。そして、もう一度振り返って彼女を見ました。すぐに、彼はずっと彼女のことを考えました。

でも、問題がありました。彼はもう結婚しています。だから、彼はこう考えたかもしれません。

「姦淫は駄目だ。どうしよう。あ、わかった。私の妻と離婚して、あの人と結婚しよう。」

実は、この「正しい」パリサイ人たちは、しばしば離婚しました。

だから、イエス様は、はっきりと言いました。「あなたと結婚していない人と寝なくても、あなたは、無実とは限りません。」

つまり、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(5:28)

だから、あざができたパリサイ人が家に帰って、さっき出会った女性と結婚するために、どうやって自分の妻と離婚しようと思ったとき、そのパリサイ人は心の中で、姦淫を犯しました。

そういうわけで、イエス様はこう言いました。

また「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ」と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

イエス様がパリサイ人の義と本当の義と比べたので、イエス様の意味が明らかだと思います。もし、あなたが結婚している間に、ほかの人に恋をしたので、その人と結婚するために妻か夫と離婚したら、神様の目には、それが姦淫です。

あなたはどうですか。あなたは心の中で姦淫を犯しているでしょうか。あなたは恋人と結婚しようと思っているので、妻か夫と離婚しようと思っているでしょうか。もしくは、あなたの恋人は別の人と結婚しているのに、あなたは恋人に「離婚したら。。。」と勧めているでしょうか。それは姦淫です。そして、神様は、そんな罪を裁きます。

あなたは、ほかの人と寝ていないかもしれないけど、あなたは妻か夫と一体になっているでしょうか。それは、体的なことだけではありません。心の一致も、霊の一致もあるでしょうか。

私たちがいつも愛している方に忠実になるように。神様に忠実になるように。また、妻か夫に忠実になるように。

 

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マタイ5:23-26--和解

前の記事で、私たちはこの言葉を読みました。

平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)

その言葉を読むと、多くの場合、私たちはケンカしている二人の友達を助けることを考えます。

でも、もう一つの場合、私たちは平和を作る者になるべきです。つまり、私たち自身はケンカするとき、平和を作るものになるべきです。

イエス様はこう言いました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(5:23-24)

注意事項が二つあります。

まずは、イエス様は「もしあなたの兄弟があなたに恨みをもつなら、あなたは彼のところに行って、仲直りしなさい。」と言います。

多くの場合、私たちが悪いことをしていないと思うのに、誰かが私たちに怒っています。だから、私たちは、「それは彼の問題です。私には関係ない。」と言います。

でも、そうするなら、実はあなたは、彼のことを見下しています。あなたは口で言わないかもしれないけど、あなたの行動によって、「この人は私の時間に価値しない。もし彼が問題があれば、彼はこっちの方に来た方がいい。」と言う態度を示します。

でも、イエス様はそんな態度を許しません。もし、誰かが私たちを恨んだら、私たちは積極的に仲直りしようとしなくてはなりません。

時々、あなたは謝らなくてはなりません。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私は悪いことをしていないのに。」

そうかもしれません。相手は繊細過ぎるかもしれません。それでも、相手の感情を考えてください。もし、あなたの行動や言葉で、彼らを傷付けたら、あなたは謝るべきです。

あなたは、せめて、「私は、思わずあなたを傷つけてしまって、ごめんなさい。許してくれませんか。」と言った方がいいです。

そして、彼らを傷つけた言葉や行動をもう一度しないように気を付けるべきです。相手のためだけではなく、彼らのために十字架で死んだイエス様のためです。

二つ目のは、私たちの壊れた人間関係は、私たちの神様との関係に影響を与えることです。

もし私たちができるだけ、相手と仲直りしようとしないと、神様は私たちの供え物を受け入れてくださいません。ペテロも、主人が妻を思いやりに扱わないと、神様があなたの祈りを受け入れないと言いました。(第一ペテロ3:7)

それに、もし私たちが本当に悪かったら、イエス様は私たちがすぐに、積極的に償いをしなくてはならないと言いました。

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。(5:26-28)

でも、あなたが悪くなくてもできるだけ、相手と仲直りをしようとするべきです。

もう一つのポイントがあります。時々、相手には私たちと仲直りする気がありません。それは私たちがコントロールできません。私たち自身の行動だけがコントロールできます。

だから、相手のために祈ってください。相手と仲直りするために何をした方がいいか、神様に尋ねてください。そして、神様があなたにアイデアを与えてくださるなら、そうするべきです。

そのあとのことは、相手の責任です。もし、彼らが反応しないと、その状況を神様の手にゆだねることしかありません。

パウロはこう書いた。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたの周りの人々と、どんな関係があるでしょうか。

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マタイ5:21-22--心の中で人々を侮ると

この個所では、私たちは、どうしてイエス様がパリサイ人と律法学者の律法の解釈を批判したか見ることができます。つまり、彼らは見かけだけに注意したけど、心の状態を無視していたのです。

一つの例は殺人のことです。イエス様は言いました。

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(21)

もちろん、パリサイ人と律法学者は、その命令に従いました。彼らは誰も殺しませんでした。(でも後に彼らのせいで、イエス様は十字架でかけられました。)

しかし、イエス様はつづけました。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(22)

イエス様は殺人だけを指摘せずに、心の態度も指摘します。要するに、「あなたは、誰をも殺していないでしょうか。それは良いことです。しかし、あなたの心の中で、相手を殺したことがあるでしょうか。」

心の中で相手を殺すというのは、どういう意味でしょうか。

相手を殺すとき、あなたの態度はどうでしょうか。あなたは、その人を侮っています。あなたは、「この人には価値がないので、彼は生き続けない方が良いです。」という態度を取っています。

もし、私たちが相手に、「あなたがバカ者だ」と言う時、本当に私たちは何をしていますか。私たちの心で、相手を侮っています。「あなたには価値がない」という態度を取っています。

殺人というのは、その態度を極端な程度まで取ることです。でも、私たちの心をその態度を持っていれば、殺人に至るかもしれません。ニュースでは、私たちは、そんな話をよく聞きます。

イエス様は、怒りの問題も指摘します。怒りは自然な感情です。私たちがいつ怒るかコントロールできません。それは感情だから。時々、何かが起こって、私たちは怒ります。

でも、私たちは、その怒りをどうやって制御するか決めることがきます。私たちは、その怒りをずっと持っているでしょうか。その怒りを持ち続けて、その怒りはだんだん大きくなるでしょうか。その怒りを抱くでしょうか。

ちゃんと制御されていない怒りは次の段階に至るかもしれない。たとえば、私たちは、その縁を切ります。また、最悪の状態では、私たちは彼らを殺してしまいます。

そうすれば、イエス様は私たちが裁かれると言います。また、神様の恵みから離れたら、私たちは地獄に行きます。

あなたはどうですか。あなたの心で、侮る人がいるでしょうか。「彼はろくだなしだ」と考えたことがあるでしょうか。

あなたの怒りによって、誰かと縁を切ったことがあるでしょうか。そうなら、神様の目には、あなたは、その人を殺しました。

ヨハネはこう言いました。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)

また、

光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。。。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(第一ヨハネ2:9,11)

だから、相手があなたを傷つけても、その人には価値のある人と見なしましょう。なぜなら、実際に彼らには価値があるから。そういうわけで、イエス様は彼らのために、また私たちのために十字架で死んでくださいました。

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マタイ5:17-20--律法を成就すること

多分、イエス様がパリサイ人たちや律法学者と、安息日について言い争い始めた後で、イエス様はこの言葉を言ったと思われます。イエス様は、すでに何回も安息日に人々を癒したでしょう。

それでも、イエス様は、はっきりと言いました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(5:17)

どのように、イエス様は律法や、預言を成就したでしょうか。大体三つの方法で成就しました。

一つ目は、イエス様はメシアの預言を成就したことです。

二つ目は、イエス様は、ほかの人ができないことをしました。つまり、イエス様は律法を完全に守りました。だから、イエス様は、私たちの罪のために死ぬことができました。

パウロはこう書きました。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ書8:3-4)

三つ目は、イエス様の死によって、イエス様は神様が要求されたいけにえのすべてを成就したことです。へブル人への手紙の著者によれば、神様はそのいけにえを要求したけど、そのいけにえは私たちの罪を本当に清めることができませんでした。そのいけにえは、ただのイエス様の十字架の働きの一つの「画」となるものでした。

でも、今イエス様にあって、私たちの罪は清められ、赦されたので、そのいけにえはもう必要がないのです。イエス様にあって、そのいけにえは成就しました。(へブル10:1-18)

律法は、イエス様にあって成就されたし、私たちは神様の目には清いものになりました。それでも、律法は神様の聖さについて教えるし、私たちがどんな人になるべきか教えます。

そして、神様が聖なる方なので、私たちも聖い人生を生きるべきです。

もちろん、私たちは自分の救いを買おうと思いません。でも、聖霊様は、私たちの心に住んで、私たちを清い人生を送るように助けてくださいます。

以前、私たちには、清い人生を送る力がありませんでした。でも、今神様は私たちと共におられて、神様がそもそも私たちをデザインしたように生きる力を与えてくださいます。

そして、イエス様は、私たちに警告します。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(20)

たぶん、ユダヤ人はそれを聞くと、面食らいました。なぜなら、パリサイ人たちと律法学者は一番律法を守る人とみなされたから。彼らは、その律法を守るために、たくさんの余計なルールを立てました。

でも、本当の義は、律法の文字通りに守ることだけではありません。本当の義は心から来ます。もし、あなたの心が神様の目に悪かったら、あなたはどんな良いことをしても、神様にその行動を認められません。

だから、イエス様はパリサイ人と律法学者を本当に責めました。彼らは、正義とあわれみと誠実を全然知らなかったから。(マタイ23:23)

あなたの心はどうですか。あなたは正しいことをするかもしれないけど、あなたの心は、神様の目には正しいでしょうか。神様は、あなたの心について何を言うでしょうか。

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マタイ5:13-16–塩と光

この個所は本当に有名ですけど、どれだけ私たちは、その前後に気づくでしょうか。その前後は何でしょうか。

イエス様は迫害について話していました。つまり、私たちがイエス様のために迫害されたら、私たちは祝福されています。(5:10-12)

その言葉を言った直後、イエス様は言います。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(5:13)

私たちは、どのように塩気をなくしてしまうでしょうか。私たちが家族や友達からのプレッシャーに負けて、イエス様に従わずに、彼らのようになるなら、私たちは塩気をなくします。

なぜなら、私たちは彼らを恐れて、彼らを喜ばせようと思いすぎるので、神様を私たちの人生に第一にすることを忘れてしまうから。

私たちは、地の塩になるべきです。塩は、食べ物を保存します。例えば、肉が腐らないように塩を使うことができます。

そのように、私たちの文化が腐らないように、私たちは人々に神様の道を教えます。でも、それだけではなく、私たちの行動を通して、私たちは彼らに神様の道を示します。そして、私たちを通して、彼らは健全な人生と壊れた人生の違いが分かります。

そして、塩は食べ物に味を付けます。そのように、私たちはこの世にイエス様の愛で味を付けるべきです。

でも、私たちは、この世の民のようにふるまうと、この世を保存できないし、この世に味をつけることができません。

それに、神様は、この世の光になるために、私たちをこの世に置きました。私たちは隠れる事ができない町になるべきです。どうしてでしょうか。私たちは、道に迷った人々、また、傷ついて、死にかけている人々に、神様の栄光を示すためです。

それなら、どうして私たちは、相手からのプレッシャーのためにその光を隠すでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは、この世の民のようになったので、あなたの塩気をなくしたでしょうか。あなたの光は、周りの人々に見えなくなりましたか。

誰を喜ばせたいでしょうか。神様でしょうか。もしくは、周りの人々でしょうか。私たちはイエス様の言葉に従いましょう。つまり、

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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マタイ5:1-12--全く新しい考え方

あなたがこの個所を読むなら、イエス様の考え方がこの世の考え方と全く違うと分かると思います。

多くの人は、あなたが超宗教的な人なら、神様があなたを祝福すると思います。また、あなたが祝福されたいなら、特別な霊的な段階に至らなくてはならないと考えます。

でも、イエス様はこう言いました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(5:3)

つまり、神様は霊的に破産した人を祝福します。なぜなら、そんな人は恵みの必要がわかるから。その真実がわかれば、私たちは救われます。

世の人は、祝福される人というのは、この世で幸福を見つける人だと思います。だから、彼らは「何か気持ちがいいなら、しろ」と言います。

でもイエス様はこう教えます。「あなたの罪を嘆くなら、また、この世の罪からの痛みを嘆くなら、あなたは祝福されます。」

なぜなら、私たたちは私たちの人生とこの世を変えられるイエス様の力を見つけるから。

この世の人は、思い切って、自分の人生とその状況をコントロールしたら、祝福されると思います。でも、イエス様はこう言います。「良い時でも、悪い時でも、神様に従う人は祝福されます。」つまり、私たちは神様の良さと判断を信頼するべきです。そうすれば、私たちの人生はうまくいきます。

この世の人は、やりたい放題の人が祝福されると思います。彼らは、幸せを得るために、なんでもできます。

でもイエス様は、こう言いました。

義に飢え渇く者は幸いです。(5:6)

正しい道はいつも簡単ではないし、いつも快楽的なものではありません。でも、そうすれば、あなたは満ち足ります。

この世の人は、「自分のために生きなさい。あなたの目的を果たすために、周りの人々を踏みつけてもいい」と言います。

でも、イエス様はこう言いました。

あわれみ深い者は幸いです。(5:7)

つまり、周りの人々のニーズをあなたのそれよりも考えてください。

特に、相手を許すときに、そうするべきです。あなたは、自分の痛みを置いておいて、あなたを傷つけた人の痛みとニーズに焦点を当てます。そうすれば、私たちはイエス様のようになります。イエス様が十字架にかけられた時、こう祈りました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

この世の人は、道徳的な価値観が相対的なものだと思います。だから、相手を裁くことができません。すべての人の道徳的な価値観は平等です。でも、イエス様はこう言いました。

心のきよい者は幸いです。(5:8)

つまり、神様の聖なるさを知る人だけが神様を見ます。

この世の人は「すべての道は天国に至ります。だから、周りの人々にイエス様のことについて話さなくていい。仏教や、神道や、ヒンズー教を信じても大丈夫です。」

でもイエス様はこう言います。「神様の使節として福音を延べ伝える人は、神様の子供たちです。なぜなら、彼らは神様と人々を和解させるから。また、ケンカしている人を和解させる人は、その天の父のようになります。なぜなら、天の父は、私たちとの和解のために働いたから。」

この世の人によれば、あなたが皆に好かれたら、あなたは祝福されています。でもイエス様は私たちがすべての人々を喜ばせないと教えます。だから、周りの人よりも、神様を喜ばせる態度を取るべきです。

神様の国には、この世のと全然違う価値観があります。でも、それを受け入れると、本当の命を知ります。

だからパウロはこう言いました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

 

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マタイ5:10-12;ルカ6:22-23ーー迫害

迫害が好きな人はいません。嫌われるのはだれも望みません。理想的なのは、すべての人々が、あなたのことが好きだという世界です。

でも、ここは理想的な世界ではありません。この世界は罪によって堕落しました。だから、多くの人々の心はゆがんで、善と悪を見分けることができません。善悪が分かっても、多くの場合、彼らは悪を選びます。

ヨハネはこう言いました。

(イエス様を通して)光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)

だから、イエス様は弟子たちに警告しました。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

ちょっと考えてください。イエス様は完全な人でした。彼は全然罪を犯しませんでした。イエス様は愛でした。それでも、人々は彼を憎み、十字架で殺しました。

もしイエス様が完全な方なのに迫害されたら、私たちは何が期待できるでしょうか。

でも、イエス様はこう言います。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:10)

つまり、私たちがイエス様に従うがゆえに迫害されたら、私たちは祝福されます。

それはちょっとおかしい言葉でしょうね。迫害は祝福でしょうか。私は迫害されたくないです。

でも、迫害自体は祝福というわけではありません。でも、私たちが迫害されるとき、私たちは主の足跡に従うのです。要するに、私たちが愛しているイエス様が迫害されたように、私たちも迫害されています。それは私たちの特権です。そして、その迫害は、むなしいものではありません。裁きの日に、神様は私たちの忠実さのための報いを与えてくださいます。

だから、あなたがイエス様のために迫害されても、絶望しないでください。あなたの友達や、家族に拒絶されるとき、あきらめないでください。

あなたは、いつも周りの人々を喜ばせることができません。イエス様でもそうできませんでした。だから、神様を喜ばせることに焦点を当ててください。そうすれば、本当の祝福を知ることができます。

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マタイ5:9--平和をつくる者

神様は、私たちが平和を作るものになるように呼びます。

どうしてでしょうか。なぜなら、イエス様自身は、偉大な平和を作るものだから。私たちの罪のため、私たちと神様の間に大きいギャップがあったとき、イエス様はこの世にきて、十字架で私たちの罰を受けてくださいました。だから、イエス様の御業によって、私たちには神様との平和があります。

そういうわけで、私たちが人々を和解させるなら、私たちが本当に神の子供たちであることを証明します。

神様は、自分の愛している子供たちがケンカするとき、悲しみます。だから、神様は、その子供たちを和解させるように私たちを呼びます。

もちろん、私たちは、すべてのケンカを止めようとするように呼ばれていません。もし、私たちが全然関係ないなら、そのケンカに入らない方がいいです。(箴言26:17)

でも、あなたが愛している人々がケンカするとき、できるだけ平和をもたらすように働いた方がいいです。もちろん、神様の知恵が必要だし、タイミングも気を付けなくてはなりません。また、あなたは彼らと愛と尊敬のある関係が必要です。それがないなら、彼らは絶対にあなたの言葉を聞かないし、あなたを責め始めるかもしれません。

でももう一つの意味で、私たちは平和を作るものになるように呼ばれました。私たちは神様と人々の間に平和をもたらさなくてはなりません。

パウロはこう書きました。

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(第二コリント5:18-19)

それはすごい責任です。イエス様は、十字架で和解の御業を行いました。でも、神様は私たちに、「この和解の言葉をあなたに委ねます。あなたは私の使節になりなさい。」と言います。

その和解の言葉は何でしょうか。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(5:20-21)

もちろん、私たちは人々の心を変えることができません。それは聖霊の働きです。それでも、私たちは平和を作るものとして呼ばれました。つまり、神様とその愛するものを和解させるために呼ばれました。

イエス様は言いました。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

あなたはどうですか。あなたは平和を作る者でしょうか。

 

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マタイ5:8--神を見ること

多くの歌は、神様を見る願いを表現します。子供の時、私はこの歌を歌いました。

Open our eyes Lord, (私たちの目を開いてください。)
We want to see Jesus. (私たちはイエス様を見たいから。)
To reach out and touch him. (私たちは手を伸ばし、イエス様に触れたいです。)
To say that we love him. (イエス様に、「あなたのことを愛している」と言いたいです。)

また、私は大学生の時、この歌を歌いました。

Open the eyes of my heart Lord, (主よ。私の心の目を開いてください。)
Open the eyes of my heart. (私の心の目を開いてください。)
I want to see you. (あなたを見たいのです。)
I want to see you. (あなたを見たいのです。)

その二つの歌が大好きだけど、もし、私たちが神様を本当に見たいなら、イエス様は私たちにこう言います。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(5:8)

どうして清い心は大切なのでしょうか。なぜなら、神様は清い方だから。天使たちは、神様のもとで歌う時、神様の愛について歌いません。彼らはこう歌います。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。(イザヤ6:6)

(まあ、彼らは神様の愛についても歌うかもしれないけど、聖書では、「愛深い、愛深い、愛深い、万軍の主」という歌はないです。)

旧約聖書でも、新約聖書でも、神様は私たちにこう命令します。

わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。(レビ記11:44-45;第一ペテロ1:16)

神様は罪を憎み、その近くにおられられません。もし、私たちが、罪で汚れたら、私たちは神様からの距離を感じるかもしれません。

私たちが救いを失って、神様が私たちをもう愛さないというわけではないけど、神様との親しい関係ができません。

ある日、私は友達のガレージで話しているとき、その友達の2歳の娘がちょっとどこかへ行きました。戻ってきた見たら、娘は、そのお父さんがオイルを拭いていたスポンジを持っていました。だから、彼女の手と顔はめちゃくちゃ汚くなりました。それでも、彼女はお母さんの抱っこを望みました。

もちろん、私の友達が彼女を抱きたがらなかったので、その娘は泣き始めました。だから、私の友達はちょっと注意をして、後ろから娘を抱き上げ、家に連れて行って、洗ってあげました。

時々私たちは、どうして、私たちが神様から離れている感じがするか訊きます。私たちが祈るとき、神様はその祈りを聞いてくれないみたいだし、私たちは神様の臨在を感じることができません。

その時、自分自身にこう聞いた方がいいかもしれません。「私は罪で汚れているだろうか。その罪のため、神様は私から離れているだろうか。」

へブル人への手紙の著書はこう書きました。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

二つの注意事項があります。一つ目は、私たちが罪に落ちても、神様はこう約束します。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

私たちはいつも清い心が必要です。でも、清い心を守るため、毎日悔い改めなくてはなりません。

二つ目は、あなたが神様から離れている感じがしても、それはあなたの罪のためとは限らないということです。ほかの理由があるかもしれません。(でも、それは別の記事のトッピクです。)

でも私たちは、神様にこう祈った方がいいです。「私たちの間には、何かあるでしょうか。罪があるでしょうか。」

そして、罪の問題があれば、神様はあなたに教えてくれます。神様は決して、「あなたが知っているはずだよ。あなたが知らないなら、私は教えてあげないよ。」と言いません。

だから、もし、神様があなたの罪を指摘しないなら、たぶん別の理由があります。そして、後で、神様はきっとその理由を教えてくださいます。

でも、毎日こう訊いてください。「私の心は神様のみ前に清いものでしょうか。」

 

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マタイ5:7--憐れみ

何年前、私は不思議な夢を見ました。その夢では、私は中国でミニストリーの訓練を受けていました。(実際、私は中国に行ったことがないのですが。)

そしてその先生は、こう言いました。「あなたたちは、聖書をよく知っているでしょう。でも、あなたたちは、毎日その言葉に従っているでしょうか。」

そして、彼は憐れみについて話し始めて、この個所を引用しました。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

その言葉を聞いたとたん、私は目が覚めてしまいました。

私は、「これはどういう言う意味だろうか。」と思いました。

その夢を見たとき、私はハワイの旅行中でした。そして、その夜、私の兄の教会に行って、礼拝が始まる前に、私はそのマタイの個所をもう一度読みました。

賛美の時間の後、兄はヤコブの手紙からのメッセージを伝えました。そのテーマは?憐れみでした。

その次の日曜日、私は自分の教会に戻って、私の牧師は、また憐れみについて話しました。

だから私は、「神様は私に憐れみのことを学んでほしいかなあ」と思いました。

そして、神様は私に憐れみについて教え始めました。

今でも、私は、憐れみについて学んでいます。私は自分が全く憐れみ深い人だと言いたいけど、そう言えません。私はまだまだ成長しなくてはなりません。

イエス様はこう言いました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(5-7)

憐れみというのは何ですか。

一つ目は、人々をいつも裁かないことです。つまり、彼らが私たちの基準や期待を満たすことを要求することを止めることです。

ある日、神様は私にそのことを教えました。ある日、私が英会話の生徒を教えたとき、彼らはあまり上達していなかったので、私はフラストレーションを感じました。

私は「私がこのことを何回も教えたのに、どうしてあなたは覚えていないのだろう。もう学んだはずなのに。なぜ覚えられないのですか。」と思いました。(もちろん、私は口で言いませんでしたけど。)

でも神様は、私にこう言いました。「ブルース、自分が立てた基準によって、彼らを裁くな。あなたは、彼らがそのことを知っているはずだと思うかもしれないけど、彼らは知りません。だから、彼らを批判するのを止めて、彼らのレベルを受け入れなさい。そして、彼らの英語のニーズを理解して、そのニーズに備えるように働きなさい。」

多くの場合、私たちの友達や、妻や、夫や、同僚や、子供が私たちの期待を満たさないので、私たちは彼らを批判します。でも、憐れみというのは、彼らを批判せずに、私たちは自分自身にこう訊くことです。「彼らの必要は何だろうか。 どうやって、私はそのニーズに備えられるだろうか。」

イエス様とパリサイ人の態度は全然違いました。福音の中で、イエス様は人々に仕えたけど、パリサイ人は人々を裁きました。

憐れみというのは、もう一つの意味があります。それは、人を許すことです。多くの人々は私たちの赦しに値しません。決して謝らない人もいます。だから、私たちの心に、怒りと恨みは重ねます。

英語では、「resent」、つまり「恨み」という言葉は、「もう一度感じる」という意味です。私たちが恨みを持つとき、私たちはもう一度、相手から受けた傷を感じます。

恨みと苦々しい感じは私たちを過去に縛り付けます。神様は、あなたのために、そう望みません。神様は、私たちがその恨みを手放して、神様の目的のために生きることを望みます。神様は素晴らしい目的のために私たちを造りました。でも、もし私たちが恨みを持ち続けると、その目的に果たすことができません。

それに、私たちが神様からの憐れみに値しなかったのに、神様はその憐れみを私たちに注ぎました。そのように、私たちは、値しない人に憐れみを与えるように呼ばれました。

イエス様は何回も言いました。「もし神様からの憐れみを望むなら、周りの人々に憐れみを与えるべきです。」

この個所でイエス様はそう教えたし、主の祈りでそう教えたし、また、たとえ話でそう教えました。

あなたはどうですか。あなたは、憐れみ深い人でし