ルカ2章8-14節ーー喜びが来たとき

私は最初のクリスマスの夜について考えるとちょっと圧倒されます。なぜならその夜、喜びがこの世に来たから。

天使が羊飼いに現れたとき、彼はこう言いました。

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(2:10-11)

私はこの箇所を読むと、あるクリスマスの歌の歌詞が思いつきます。

Long lay the world in sin and error pining
‘til he appeared and the soul felt its worth.

この世の民は久しく罪と咎のため、悩んでいて、死の陰に歩んでいました。
でも、イエス様が現れたとき、私たちは自分の価値が分かるようになりました。

アダムとエバがエデンで罪を犯してから、この世の民は死の陰に歩んでいました。私たちの罪のため、永遠の死に値しました。私たちは「この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ2:12)

特に、イエス様の時代、神様が彼らを捨てたかもしれないと思ったイスラエル人もいました。なぜなら、神様はアブラハムや、ヤコブや、ほかの先祖たちに現れたけど、400年ぐらい神様はずっと沈黙していたから。

でも、突然、神様は話しかけました。「私はここにいるよ。あなたを忘れなかったよ。」

イマヌエルはやっと来ました。(「イマヌエル」という名前は、「神は私たちと共におられる」という意味です。)

イエス様のお生まれによって、神様はこう言いました。「私はあなたを愛し、あなたの間に歩みます。私はあなたの暗闇の中で、光になります。私はあなたに希望を与えます。あなたに救いを与えます。」

でも、神様がその良い知らせを伝えるために天使を送ったとき、祭司たちに送りませんでした。律法学者や一番宗教的な人たちには天使を送りませんでした。

神様は天使を普通の人々に送りました。つまり、羊飼いに送りました。その時代、人々は羊飼いを見下しました。どうして、神様は彼らに先に伝えたでしょうか。なぜなら、その知らせはすべての人のためだったから。イエス様は、偉い人のためにも、身分の低い人のためにも来ました。

そして、イエス様が来たとき、神様と人間の間にある壁は崩れました。神様との平和が可能になりました。でも最初のクリスマスの日にはそれは起こりませんでした。イエス様が十字架で死んだとき、神様と私たちの間にある幕が永遠まで裂けました。

あなたがその平和を知るように。また、羊飼いが感じた喜びがあなたの心を満たすように。

Joy to the World! The Lord is come!
この世に喜びがあるように。なぜなら、主は来たから。

 

広告
カテゴリー: ルカの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

ルカ2章1-7ーーすべてを治めている神

ルカは、イエス様の出産について書いたとき、その背景も教えました。それは、皇帝アウグストの時代でした。彼はローマ帝国の支配者でした。

彼は、マルクス・アントニウスとクレオパトラの軍隊を破って、最初の皇帝になりました。そして、彼は自分の力を行使して、ローマに平和を与えました。そのとき、パクス・ロマーナは始まりました。

でも、彼が知らなかったのは、彼に優れる王がすぐに生まれるところということです。彼はローマ帝国を治めていると思ったけど、より強い方が彼を通して働いていたのを知りませんでした。

皇帝アウグストは全世界の住民が登録されることを命令しました。たぶん、それは税金のためでした。彼の言葉によって、すべての人々は出身地に帰って、登録しなくてはなりませんでした。

ヨセフとマリヤは、どう思ったでしょうか。私たちの多くは、彼らがその勅令を聞いた時、マリヤの妊娠が十ヶ月ぐらいと思います。そうかもしれないけど、私たちは分かりません。

とにかく、たぶんヨセフは「神様、どうして今この勅令が来たでしょうか。今行ったら、マリヤにとっては、本当に大変です。」と思ったでしょう。

でも、神様は良い理由がありました。たぶん、一つの理由は、ナザレで、ヨセフとマリヤについていろんな噂が回って、本当に大変だったでしょう。彼らが結婚していないのに、マリヤは妊娠していたから。

でも、もう一つの理由がありました。その登録のため、予言者ミカが何百年前に予言したように、イエス様はベツレヘムで生まれました。(ミカ書5:2)

皇帝アウグストは、自分自身がすべてをコントロールしていると思ったけど、実は、神様が治めていました。皇帝アウグストのパクス・ロマーナは200年ぐらい続いたけど、結局アウグストが築いたものは倒れました。

でも、イエス様を通して、神様は永遠の王国を開始しました。だれも、その王国を打ち倒すことができません。そしてある日、この世に本当の平和が来て、その平和は永遠まで続きます。

あなたはどうですか。あなたはすべてをコントロールしていると思いますか。つまり、自分の人生をコントロールしていると思いますか。

あなたより、偉大な方がいることを覚えていてください。もし自分の知恵と努力によって、あんたの人生を立てるなら、結局その立ていたものは倒れてしまいます。

あまたは、神様が本当にこの世を治めていることを疑うことがありますか。あなたは、なぜ神様がトラブルをあなたの人生に入らせるか尋ねますか。

神様を信頼し続けてください。なぜなら、神様は自分の計画を実践しているから。私たちは、その計画が見えないかもしれないけど、いつか私たち皆は、その計画が分かります。

その日、天使のように、私たち皆は叫びます。

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

カテゴリー: ルカの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

マタイ1:18-25–没我的な人生

「私の人生です。」

「私の権利です。」

「私の幸福です。」

どれぐらい私たちは、こんな言葉を聞くでしょうか。どれぐらい私たちは、そんな言葉を言うでしょうか。

でも、ある著者が言ったように、「あなたの人生の中心は、あなたではありません。」

むしろ、あなたの人生の中心は神様です。そして、神様はこの世界に歴史を織っています。

ヨセフの話を読むとき、その真理が見ることができます。

彼のマリヤに対する反応について考えてください。彼らは婚約していたけど、彼らの文化では、私たちの文化よりも、そのコミットメントは断然強いものでした。彼らは、まだ一緒に生活したり、一緒に寝ていないけど、ユダヤ人の律法によって、その婚約を解除するために離婚しなくてはなりませんでした。

でも、その婚約の時に、マリヤは妊娠しました。

ヨセフはどう感じたでしょうか。傷ついたでしょう。裏切られたと感じたことでしょう。怒ったでしょう。そして、ユダヤ人の律法によって、彼にはマリヤを殺す権利がありました。

でも、彼の反応を見ましょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(19)

どうやら、彼は、もはやマリヤと結婚することを望みませんでした。その状態では、たぶん誰もマリヤと結婚したくないでしょう。でも、彼は傷ついても、復讐を望みませんでした。「正義」を主張しませんでした。自分の「権利」を主張しませんでした。

むしろ彼は、マリヤを哀れもうと思いました。彼は彼女をさらし者にはしたくありませんでした。彼ができるだけマリヤを守りたかったので、内密に離婚しようと思いました。

マリヤは、その妊娠の状態をヨセフに説明しようとしたでしょうか。何が言えるでしょうか。「誤解しないでください。私は他の人と寝たわけじゃない。この子は神様からです。」と言っても、ヨセフは信じるはずがなかったのです。

神様はその状態がよく分かったので、ヨセフのところに天使を送りました。その天使はこう言いました。

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(20-21)

ある程度、たぶんヨセフは安心しました。でも、ヨセフがそれを聞いても、その責任を拒絶するのは簡単だったしょう。

なぜなら、彼がマリヤと結婚するなら、たぶん、彼の評判が汚れるから。周りの人は、「あ、ヨセフが結婚する前にマリヤと寝たに違いない。マリヤだけではなく、ヨセフも悪かった。」と思ったかもしれない。

また、彼はこういう風に答えられました。「分かっているけど、私の赤ちゃんじゃない。私はその子のために祈らなかった。そして、あなたは前もって私の意見を求めなかった。どうして、私はその責任を取らなくてはならないだろうか。」

でも、ヨセフはそうしませんでした。彼はマリヤと結婚しました。噂といろんなトラブルがあっても、彼はマリヤと結婚しました。どうしてでしょうか。

ヨセフは自分の人生の中心が自分自身じゃないと知っていたから。神様がイスラエル、また、この世を救うための計画を立っていることを知っていました。また、その計画がヨセフよりも大きいものだと知っていました。

だから、ヨセフは自分の権利と計画を置いておいて、神様とマリヤに仕えました。でも、その決断によって、彼は本当の喜びを見つけたと思います。

あなたはどうですか。自分自身のために生きているでしょうか。そうすれば、あなたの人生はむなしいものになります。でも、神様と神様の目的のために生きるなら、充実した人生を見つけます。イエス様はこう言いました。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

あなたは誰のために生きているでしょうか。

カテゴリー: マタイの福音書, 福音書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

ルカ1:57-80–救い

ゼカリヤは9ヶ月ぐらい話せない間、どう感じたでしょうか。たぶん少しは彼は自分の不信を後悔したでしょう。その反面、彼が話せないという印(しるし)は、神様がゼカリヤに子供を与えてくださる約束が確かなものであることを証明しました。だから、たぶん、彼は自己憐憫に浸らずに、毎日喜びを持って、生きたと思います。

そして、彼の息子が生まれた時、彼は話せるようになって、彼の口から喜び深い言葉があふれました。彼はこう歌いました。

ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。(68-70)

彼の歌を通して、私たちは救いの意味が見ることができます。

1.その救いは、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らします。(79)

多くの人々は、罪の暗闇に生きています。だから、死の影は彼らの上にかかっています。パウロはこう言いました。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)

でも、暗闇の陰に座る人に、救いはイエス様を信じる人に赦しを約束します。(77)

2.その救いは私たちの良い行いのためではありません。むしろ、その救いは神様の哀れみによります。

私たちは永遠の死に値します。でも、神様は私たちを愛したので、イエス様をこの世に送りました。そして、イエス様は私たちの罪のために死んでくださいました。だから今、イエス様を通して、私たちの罪は赦されます。

3.その救いは私たちをサタンの国から救い出します。(71,74)

サタンは私たちを憎んで、罪の鎖で結んだけど、神様は私たちを解放してくださいました。

4.その救いは私たちに新しい命を与えます。

私たちはもうサタンの国のために働かずに、神様に仕えます。私たちはもう罪に仕えません。その罪深い生活は、恐れ、恥、悲しみ、と破滅に至りました。でも今、神様は私に、正義の外套をまとわせます。そして、毎日は私たちますます「イエス様と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(第二コリント3:18)

5.その救いは私たちに平和を与えてくださいます。あなたがどんな試練に直面しても、神様の平和を知ります。それは「人のすべての考えにまさる神の平安」です。(ピリピ4:7)なぜなら、私たちには神様との平和があるから。

どのようにその平和を知ることができますか。こう祈ってください。

イエス様、私が罪人だと認めます。私は何回もあなたを傷つけたし、周りの人々をも傷つけてしまいました。私を赦してください。私のために十字架で死んで、私の罰を受け取ることを感謝します。私に新しいスタートを与えてくさい。あなたに従いたいです。また、あなたのようにますますなりたいです。私を変えてください。またあなたの平和を与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー: ルカの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

ルカの福音書1:39-56--祝福された人

マリヤがエリサベツが妊娠していることを聞くと、マリヤはすぐに彼女を訪ねました。そんな反応はとても分かりやすいです。たぶん、マリヤは自分の経験が夢や幻覚じゃないと確認したかったのだと思います。

でも、エリサベツがマリヤを見かけたとたん、マリヤの残っている疑いはなくなったと思います。その瞬間、エリサベツの胎内で子どもが飛んで、聖霊に満たされて、エリサベツは叫びました。

あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(42-45)

どうして、エリサベツはマリヤが妊娠して、その子がメシアになることを知っていたのでしょうか。それは一つの方法しかありませんでした。神様が彼女にそう表しました。エリサベツの言葉を聞いて、マリヤの疑いがなくなったので、彼女は歌い始めました。

わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。(46-50)

マリヤの言葉を読むと、私は神様がどのように私たちを祝福してくださったか、考え始めます。

マリヤのように、私たちは神様の祝福に値しないものです。私たちはただの神様の卑しいしもべです。私たちの偉い行いのため、私たちは祝福されていません。むしろ、神様の素晴らしい御業によって、私たちは祝福されます。

神様は私たちのために何をしたでしょうか。

1.神様は私たちに哀れみを与えてくださいました。私たちだけにではなく、私たちの前に生きていた信者たちに与えてくださったし、また、私たちの後に生きる信者たちに与えてくださいます。

私たちが自分の罪のために罰に値したけど、神様は哀れみを与えてくださいます。どうしてでしょうか。十字架で、神様は自分の怒りを私たちの代わりに、イエス様に注いだから。イエス様が私たちの罰を受けたので、私たちは神様の哀れみを受けることができます。

2.神様は私たちの利益のために働きました。(51)イスラエル人がエジプト人の奴隷の時、神様はパロを王位から引き降ろしたけど、モーセとイスラエル人を高く引き上げてくださいました。神様は、イスラエル人より強い国と支配者を打ち倒して、イスラエル人を神様が約束した土地に導きました。

そして、イスラエル人が何回も神様に背を向けたのに、神様は自分の約束を忘れずに、今まで彼らを守りました。それは本当に驚くべきことです。いろんな国が倒れたし、いろんな民族がいなくなったし、いろんな国々はユダヤ人を殺そうと思ったけど、イスラエル人はまだ残っています。

神様がイスラエル人の利益のために働いたように、神様は私たちの利益のために働いています。だから、神様はイエス様を送りました。今でも、神様は私たちの利益のために働いています。

私たちの問題が私たちよりも大きいとき、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

私たちに必要があれば、神様はそのニーズに備えてくださいます。

サタンが私たちを滅ぼそうと思うとき、神様は私たちを守ってくださいます。

だから、マリヤのように、主をほめたたえましょう。なぜなら、神様は私に大きなことをしてくださったから。だから私たちは本当に祝福されています。

カテゴリー: ルカの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

ルカ1章26-38節ーー心のすべてを神様に捧げること

神様がイエス様を送った時、どうして、マリヤを選んだでしょうか。たぶん、彼女の心は神様のものだったから。彼女は自分の心のすべてを神様に捧げ、神様に従いました。この個所では、マリヤの心を見ることができます。

ザカリヤに現れた6か月後に、ガブリエルはマリヤに現れました。彼はこう言いました。

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(28)

マリヤがその言葉を聞いて、本当に戸惑ったので、ガブリエルは続けました。

こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(30-33)

マリヤは確かにその言葉が分かりました。イスラエルの女性たちのすべては、自分の子がメシアになることを望みました。でも、彼女には本当に論理的な質問がありました。

どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。(34)

つまり、彼女は結婚していないし、男性と寝たことがありませんでした。

ガブリエルは答えました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(35)

たくさんの人はそれを聞いて、「まさか。クリスチャンはそれを本当に信じているのか。」と言うかもしれない。

でも、現代では、そのようなことがあります。時々、カップルが赤ちゃんができないとき、配偶者間の人工授精で、その女性は妊娠できます。私たちは、お医者さんができることが神様ができないと言えますか。

でも、その時代、そんなことがなかったので、ガブリエルはそんな言葉が受け入れにくいと知っていました。だから、彼はマリヤにこう言いました。「あなたの親戚エリサベツのところに行ってください。皆は彼女が赤ちゃんができないと言ったけど、彼女は、今妊娠しています。神様にとっては不可能なことは一つもありません。」

マリヤはそれを聞いて、答えました。

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。(38)

彼女はもう質問しませんでした。むしろ、その言葉を信じて、神様にすべてを捧げました。

でも、ちょっと考えてください。彼女がすべてを失う確率は高いものでした。彼女が妊娠するとき、彼女の評判は汚されるでしょう。その家族と周りの人々はどう考えるでしょうか。

また、その婚約者ヨセフはどう思うでしょうか。彼女が妊娠したら、彼はその結婚をやめるでしょう。また、イスラエルの律法によって、彼には彼女を殺す権利がありました。

誰が、神様の聖霊によって、彼女が妊娠したことを信じるでしょうか。

でも、マリヤは言いました。「これがあなたの御心なら、その御心に従います。すべてを失っても、私は従います。」

彼女は神様からほかの約束をもらいませんでした。神様は彼女の結婚を守ることを約束しませんでした。彼女の評判を守ることを約束しませんでした。

でも、彼女は神様が良い方であることを信じたし、神様の計画も良いと信じました。

それは、神様に属する心です。マリヤは、自分の心を神様に捧げたので、神様は彼女を通して素晴らしいことを行うことができました。

あなたはどうですか。あなたの心は神様のものでしょうか。神様に従うのに、すべてを捧げるでしょうか。

 

 

カテゴリー: ルカの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

ルカの福音書1章1-25節ーー失望

ルカの福音書の始めでは、ルカがどうしてこの福音書を書いたか説明します。

ルカがお医者で、教会の始めた人で、彼はクリスチャンになりました。彼は学者で、テオピロノアという人のためにこの福音を書きました。ルカが言ったのは、彼がクリスチャンになったとき、イエス様の話を綿密に調べたことです。だから、テオピロノアとほかの興味のある人のために、その話を伝えたかったのです。

その言葉を読んで、キリスト教の話について、私はもっと確信を持てると思います。なぜなら、ルカは学者で、イエス様が天国に行ったすぐ後に、この福音書を書いたから。ルカがそれをしてくれたので、私はイエス様の話が信じることができます。

最初に、ルカはザカリヤという祭司について書きます。私たちはこの話の言外の意味を読み取るなら、ゼカリヤが本当に神様を愛していたけど、同時に失望していた人だったことがわかります。

つまり、彼の妻は不妊の女でした。私たちの時代でも、それは本当に悔しいことだけど、その時代では、本当に恥ずかしいことでした。特に、その妻エリサベツにとっては、恥ずかしいことでした。

どれぐらい彼らは子供のために祈ったでしょうか。おそらく、エリサベツの生理は遅くて、希望が湧いた時もあったかもしれない。でも、結局その生理はまた始まって、彼らはもう一度がっかりしてしまいました。どれぐらい、そのパターンは繰り返したでしょか。

私たちはどのように神様が答えてくださらない祈りに対して反応するでしょうか。私たちの希望がつぶれるとき、どうやって反応するでしょうか。

その心が苦々しくなる人もいます。

「どうして、あなたは私の祈りに答えてくださらないの?私にはこれが絶対必要です。聞いていないの?私の状態を知らないの?私の感じがわからないの?」

がっかりして、諦める人もいます。

「神様はこの祈りに答えてくださらないだろうねえ。」

そして、彼らはずっと失望を持ち続けます。

でも、希望がなさそうでも、希望し続ける人もいます。アブラハムはそのような人でした。(ローマ4:16-21)

ゼカリヤはどう感じたでしょうか。たぶん彼はもう諦めたでしょう。

「私たちはもう年を取った。私たちには、もう遅すぎるだろう。まだ赤ちゃんができていないなら、もう希望がないだろう。」

でも、ある日、彼は主の神殿に入って香をたくために選ばれました。それが、くじによって決まって、たくさんの祭司たちがいたので、選ばれる可能性は低かったけど、彼は選ばれました。

その香りの煙は神様に上がる祈りの象徴でした。だから、ゼカリヤが香りをたくときに、彼は祈ったし、神殿の外にいる人たちも祈りました。

ゼカリヤは何のために祈ったでしょうか。間違いなく彼は、イスラエルのために祈りました。また、たぶん彼はメシアが来るように祈ったでしょう。なぜなら、神様は400年ぐらい何も話していなかったから。預言者が全然いなかったし、神様は祭司たちにも何もおっしゃいませんでした。

ゼカリヤは自分自身のために祈ったでしょうか。そうかもしれません。でも、そうしなかったかもしれません。彼はずっとがっかりして、「神様は私のことを本当に愛しているだろうか」と思ったかもしれません。「もちろん、神様はイスラエルを愛しているけど、私のことを愛しているだろうか。」

でも、彼の祈り中に、突然天使が現れました。たぶん、彼の最初の反応は恐れだったでしょう。「私は何か悪いことをしてしまったんだろうか。アロンの息子たちのように殺されるだろうか」(レビ記10章)と思ったかもしれません。

でも、天使は言いました。「恐れないでください。あなたのために良い知らせがあります。あなたはずっと息子が生まれるように祈ったでしょう。神様はその祈りを聞きました。来年、息子が生まれます。それに、その子は、あなたがずっと待っているメシアのために道を準備します。」

ゼカリヤの反応は何だったでしょうか。疑いです。彼の祈りがずっと答えていないて、もう希望が無くなったから。だから、彼は言いました。

私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。(18)

要するに、「私はずっと祈りました。何も起きていませんでした。何回も、私の希望はむなしいものとなってしまいました。だから、私の希望を湧かさないでください。もうがっかりさせられたくないです。」

どれぐらい私たちはそのように反応するでしょうか。私たちの失望のため、私たちは希望を失います。

幸いなことに、神様はゼカリヤに対する約束を取り消しませんでした。でも、その天使はゼカリヤを叱責しました。「しるしを望んでいるのですか。それでは、あなたの息子が生まれるまで、あなたは話せなくなります。」

その言葉を聞いて、ゼカリヤは衝撃を受けたけど、すぐに信じるようになりました。すぐに、その妻も信じました。彼女が妊娠したときに、こう言いました。

主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。(1:25)

この話から、私たちは何を学ぶことができますか。

私たちがそう思わなくても、神様は私たちの祈りが聞こえます。それは天使ガブリエルの最初の言葉の一つでした。「あなたの祈りはむなしくなかった。その祈りは、天井に当たらなかった。神様はあなたの声が聞こえました。」

それに、神様は私たちが見えない話を織っています。その話は私たちよりも断然大きいです。(ゼカリヤにとっては、メシアが来ることよりも、より大きい話がなかった。)

でも、その神様が織っている話のため、時々神様は私たちの祈りに答えてくださらないみたいです。

でも、希望を捨てないでください。神様はあなたの祈りが聞こえました。神様はあなたの願いを叶えるかもしれないし、叶えないかもしれない。でも、神様はあなたの人生に働いています。あなたの利益のために働いています。なぜなら、神様はあなたを愛しているから。

そして、もし、あなたは神様を信じ続けたら、いつか神様が織っていた素晴らしい話を見ます。

だからあなたがどんな苦しみを経験しても、その話にい続けてください。そうすれば、ゼカリヤとエリサベツのように、祝福されます。

カテゴリー: ルカの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

マタイ1:1-17;ルカ3:23-37ーー罪深い人と同じような形をとる方

私たちがイエス様の系図を見るとき、二つの注意事項があります。

一つ目は、マタイの福音書にある系図は不完全ということです。つまり、ある王たち(ヨアシュ、アマツヤとエホヤキムなど)は飛ばされました。英語の訳では、「だれだれは、だれだれの父だ」と翻訳されました。その「父」という言葉は、「先祖」という意味もあります。だから例えば、「ヨラムにウジヤが生まれ」と書かれていても、その意味は、「ヨラムはウジヤの先祖」という意味です。

二つ目は、多くの学者はマタイの福音書にある系図はヨセフの系図で、ルカの福音書にある系図はマリヤの系図と思われることです。なぜなら、ルカの福音書で、「イエス様は人々からヨセフの子と思われていた。」と書いてあるから。

だから、言い直すと、「イエス様は人々からヨセフの子と思われていたけど、実は、彼はヘリの子孫です。」

(「父」という言葉は「先祖」という意味もあるように、「子」という言葉は「子孫」という意味もあります。)

実は、この系図の違いに関して、学者はいろんな意見があるけど、本当に複雑すぎるので、私はそれ以上話したくないです。:)

とにかく、この系図を見ると、一つのことが私の心を打ちました。イエス様がこの世に来たとき、彼は天から来て、「私は来たよ。私は神だよ」と宣言しませんでした。

むしろ、私たちが罪びとでも、イエス様は私たちと同じような形をとりました。彼は人間になりました。

イエス様の先祖を見てください。

アダムは完全な世に造られたのに、彼は罪をこの世に紹介しました。

テラ(アブラハムの父)は偶像を礼拝しました。多分彼の先祖も偶像を礼拝しました。

ヤコブは詐欺師でした。

ユダは、義理の娘に騙されて、彼女が売春婦だと思ったので、彼女と寝ました。その結果は?彼女は双子を生んで、その一人は、イエス様の先祖でした。(創世記38章)

ラハブは、イスラエル人の目から見ると、外国人だったし、売春婦でした。

ルツは、外国人だったし、モアブ人でした。普通、ユダヤ人はモアブ人を見下しました。(申命記23:3-4)

ダビデは、ほかの人の妻バテ・シェバと寝て、その主人を殺しました。でも、ソロモン(マタイ1:6)とナタンは(でも預言者ナタンと違う人、ルカ3:31)、ダビデとバテ・シェバの間に生まれました。

多くのユダの王は神様に背を向けました。(例えば、アハズとマナセ)。

イエス様はそんな系図から来ました。どうしてでしょうか。どうして、別の系図に入らなかったでしょうか。どうして、直接天から来なかったでしょうか。

でも、イエス様はそうしませんでした。むしろ、彼は人間になって、「私はあなたのようになります」と言いました。

でも、ほかの方法で、イエス様は私たちのようになりました。

彼は特にハンサムではありませんでした。(イザヤ書53:2)

彼は貧しい家族に生まれました。その父ヨセフが亡くなった後、イエス様は頑張って働いて、その家族のニーズに備えました。

イエス様は時々疲れました。時々お腹がすきました。

彼はいろんな試練を経験しました。彼は拒絶されました。彼は誤解されました。彼は虐待されました。彼は裏切られました。彼は苦しみました。

どうしてでしょうか。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル4:17)

つまり、イエス様は私たちを理解するために人間になりました。イエス様が私たちのことが理解できるので、彼は私たちの大祭司として慈悲深いのです。だから、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

今日、あなたはどう感じるでしょうか。自分の罪によって落ち込んでいるでしょうか。自分の家族を支えるため、いつも疲れていますか。あなたは苦しんでいますか。拒絶される感じがありますか。傷つきましたか。裏切られましたか。

その感情をイエス様の前においてください。なぜなら、イエス様はあなたのことを理解するから。また、イエス様は、あなたを助けてくださいます。

カテゴリー: マタイの福音書, ルカの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

ヨハネ1章1-18節 ーー暗い世にある光

数年前、私は本当に賢いアメリカ人の女の子について読みました。彼女の高校の成績は完璧だったし、SAT(一般のアメリカの大学の入学試験)の点数は満点だったし、カリフォルニア大学の受験の点数も満点でした。そして、ある記者は彼女にこう訊きました。「人生の意味はご存じでしょうか。」

彼女は答えは?

「私は全然知りません。私も知りたいです。」

私たちはそんな世界に住んでいます。この世の人は、神様から離れているので、暗闇に迷っています。彼らは人生の意味を探しているけど、ずっと暗闇で躓いています。それに、彼らは自分の罪に目がくらんで、その罪がどこに導くか知りません。

そのような世界にイエス様は2000年前に赤ちゃんとして来ました。ヨハネはイエス様にこう言いました。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(1:4)

イエス様がこの世に来た時、彼はこの暗い世のために光になりました。どのように光になりましたか。

1.イエス様は神様がどんな方であるか教えました。昨日の記事に私はもう言いましたけど、イエス様は私たちに神様を説明しました。神様は目に見えない方だけど、イエス様が現れた時、神は見えるようになりました。私たちが神様がどんな方であるかもう想像する必要はないです。私たちがイエス様を見ると、神様を見ます。

2.イエス様は人生の意味を教えました。その意味は何でしょうか。それは、神様との関係を持つことです。

3節で、ヨハネは、イエス様がすべてのものを造ったと言います。イエス様は私たちも造りました。でも、イエス様が来たとき、その被造物はイエス様を自分の創造主として認めませんでした。それに、彼らはイエス様を拒絶しました。(10-11)

でも、ヨハネはこう言います。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13)

つまり、私たちがイエス様を私たちの主と救い主として受け入れたら、私たちは神様の家族に養子にされます。あなたは、自然に神様の家族に生まれません。あなたの両親がクリスチャンでも、あなたはクリスチャンとは限りません。あなたは神によって生まれなくてはなりません。つまり、あなたは神様の召しに反応して、「はい」と言わなくてはなりません。

要するに、「はい、イエス様。私の王になってください。私の主になってください。」

そうすれば、神様の家族に入ります。そして、あなたの人生の目的を見つけます。それは、天の父との関係を持つことです。

3.イエス様は命の道を教えました。イエス様がすべての生きているものに命と息を与えるように、イエス様はイエス様を信じる人に永遠の命を与えてくださいます。

ヨハネはこう言います。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(5)

「打ち勝たなかった」と翻訳されたけど、もう一つの意味は「分からなかった」ということです。

イエス様がこの世に来た時、この罪深い人は彼が分からなかった。宗教的な人でも、イエス様が分からなかった。だから彼らはイエス様を殺しました。でも、彼らがイエス様を殺しても、イエス様に打ち勝ちませんでした。むしろ、イエス様が死んだとき、彼は私たちの罰を受け入れました。それに、イエス様は死に打ち勝って、三日目によみがえられました。だから、今イエス様は、イエス様に来る人に命を与えてくださいます。

だから、イエス様はこう書きます。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16-17)

律法を通して、モーセは私たちに神様の要求を教えました。でも、その律法は私たちを救うことができませんでした。その律法は、私たちの罪を示しただけです。また、その律法は、私たちが死に値することを示しました。

でも、イエス様によって、私たちは恵みと誠を見つけます。イエス様によって、私たちは二つの誠が見えます。私たちの罪が見えます。でも、私たちは十字架を通して、神様の愛も見えます。

そして、私たちがイエス様を受け入れると、私たちは恵みの上にさらに恵みを受けます。その恵みは決して尽きないし、私たちの罪を覆います。その恵みは私たちに命を与えてくださいます。

キリストの光があなたの心に輝くように。

カテゴリー: ヨハネの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

ヨハネ1:1-18–神は人間になった時

それでは、新約聖書を始めましょう。福音書について書くとき、私が旧約聖書について書いたように、年代順に書きます。だから、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書について順番に書かずに、その福音書に入っている話について順番に書きます。

だから、マタイから始めません。むしろ、ヨハネから始めます。なぜなら、ヨハネ1章の話は、イエス様がこの世に来る前の話だからです。

ヨハネはこう書きました。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(1:1)

ヨハネは「言葉」と言う時、イエス様について話します。つまり、時間と空間が創造される前に、イエス様はもう存在していました。イエス様は永遠の方だから。

どうして、ヨハネはイエス様を「言葉」と呼ぶでしょうか。

ユダヤ人の考え方では、「言葉」は「神の知恵」という意味です。

ギリシャ人の考え方では、「神の思い」、また「神の理」という意味です。彼らに「どうして、この世界はこんなに整然と造られたしょうか。」と訊いたら、その答えは、「神様の理だから。」

だから、ヨハネが、イエス様を「言葉」と呼ぶ時、その意味は、イエス様は神の知恵、また、神の理という事です。

もう少し、「言葉」という名前について考えましょう。

私たちはどのように人を知ることができるでしょうか。彼らの言葉を通して、彼らを知ることができます。もし、その人は決して話さず、何も書かないなら、ある程度まで彼らを知ることができるけど、限界があります。

でも、彼らが喋りはじめると、私たちは彼らの考え方を知ります。彼らの知恵から私たちは学ぶことができます。でも一番大切なのは、私たちは彼らの性格、また彼らの心を知ることができます。

そのように、イエス様は私たちに対する神様の言葉です。イエス様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。どうしてでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、始めから、イエス様は「初めに神とともにおられた。」ということです(1:2)。その意味は、彼らには親しい関係があったということです。

それだけではなく、イエス様自信が神です。それが二目の理由です。14節によれば、イエス様は人となって、私たちの間に住まわれました。つまり、神は人間になりました。

キリスト教の難しい教えがあります。それは「三位一体」ということです。それはどういう意味でしょうか。

父である神がおられます。御子(イエス様)である神がおられます。聖霊である神がおられます。父は御子ではありません。御子は聖霊ではありません。聖霊は父ではありません。でも、神が3つおられるわけではありません。神は一つしかおられません。

それは人間の想像より大きいです。人間では、三人は三人です。でも、神様では、父と御子と聖霊は一つの神です。それが聖書の教えです。

実は、私たちは神様のことがすべて理解できたら、ちょっと不審なことだと思います。もし偉大なる神のことを全部説明できたら、多分私たちは自分の想像から神様を造れるでしょう。でも、私たちはこの三位一体の神をすべて理解できないし、説明できません。ある程度までその神のことが理解できるけど、全て理解できません。

でも、イエス様のおかげで、私たちは神様のことがもっと理解できます。イエス様が2000年前に生まれた時、私たちは初めて、自分の目で神を見ることができました。

ヨハネはこう書きました。

私たちはこの方(つまり、イエス様)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)

イエス様は地上で歩いた時、また話した時、彼は神様を表しました。なぜなら、彼は人間となった神だから。イエス様を通して、私たちは神様がどんな方であるか見えます。

だから、ヨハネはこう書きました。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

ギリシャ語の文字通りに、イエス様は神様を説明しました。また、神様を解釈しました。イエス様は父である神の通訳みたいです。

この記事を書くとき、もうクリスマスは迫っています。まだ11月だけど、いろんなクリスマスの飾りが出ています。でもクリスマスの意味を覚えていてください。私たちは神様が人となることを祝います。どうしてそれは大切なのでしょうか。なぜなら、その奇跡によって、神様は自分自身を表したから。

目が見えない神を知りたいでしょうか。その飼葉おけを見てください。なぜなら、イエス様にあって、神様の知恵、力、と栄光のすべてが見えるから。

 

 

 

カテゴリー: ヨハネの福音書, 福音書, 新約聖書 | タグ: , , , , | コメントをどうぞ

雅歌8章5-14節ーー封印された

それでは、6年以上で、記事を900編を書いているけど、これは旧約聖書についての最後の記事です。私がこのブログを始めた時、同時に英語のブログも書いていたけど、それを完了して、今はこのブログだけを書いています。だから、新約聖書を完了するのは、多分3年間ちょっと以内にかかると思います。頑張ります。

とにかく、この箇所では、恋人たちが旅行から帰って来て、彼らの愛は明らかです。ソロモンの妻は彼に寄りかかっていて、こう言います。

私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。(6-7)

その時代、封印は所有のしるしでした。だから、誰かが相手の封印を持つことは、相互の所有のしるしでした。

だから、彼女の意味は、「あなたは私のものだし、私はあなたのものです。私たちは互いに封印されている。」ということです。

彼女は「愛は死のように強い」と言います。(6b)

つまり、死でも、彼女の愛を壊すことができませんでした。彼が死んでも、彼女の愛は続きます。クリスチャンにとっては、それは特にそうです。なぜなら、私たちが死んでも、いつか天国で私たちの夫か妻にもう一度会うから。

そして、彼女は「私のねたみは激しい」と言います。(6c)

多くの場合は、「妬み」という言葉は悪い意味があります。でも、悪い妬みは他の人に属するものを見て、その物を欲しがることです。

しかし、結婚で、妻は夫のものだし、夫は妻のものです。だから、彼女が言ったのは、その愛の関係を破るものを許さないことです。

全ての夫婦は、そのような態度を取ったらいいのにと思います。多くの場合、私たちの趣味や、仕事や、他の恋人はその関係の邪魔になります。私たちの妻と夫に対する愛は、そのものに決して譲るべきではありません。

そして、彼女は、彼らの愛を凄まじい大水で消されない炎と比べます。また、その愛がお金で買えられないと言います。(7)

自分の結婚について考えている間に、彼女はまだ結婚していない妹について考え始めます。つまり、その妹がそんな素晴らしい夫婦関係があるように望みます。

彼女は言います。「もし、彼女の純潔を守っている城壁が強くても、もっと強化したいです。もし、彼女が誰に対しても開いている戸であれば、彼女を守って、閉じたいです。(8-9)

そして、彼女は「結婚するまで、私の純潔を守って、良かった」と思います。なざなら、その夫の尊敬を得たから。それに、彼女は自分のすべてを彼に与えられました。他の人に彼女の体を与えなかったから。(10)

ソロモンのぶどう畑は大きすぎて、彼はそのぶどう畑を守る者に貸しました。そして彼らはそのぶどうのため、ソロモンに払いました。

でも、彼女のぶどう畑、つまり、彼女の体は自分の物で、ソロモンに喜んで奉げました。彼は払う必要がなかった。彼女はただで自分自身を捧げました。彼女が言ったのは、もし誰かに払いたいなら、今まで私たちの純潔を守ってくれた人に払ってください。」という事です。(11-12)

この歌の最後で、ソロモンが彼女を呼んで、彼女は答えます。「あなた、急いで行こうよ。」(14)

シングルの人たち。あなたが自分の純潔を守るように祈ります。結婚するまで待って、あなたの将来の妻か夫だけに、あなたの心と体を捧げてください。

既婚者たち。あなたの夫婦関係が封印されるように祈ります。あなたたちがいつまでも、愛を持って、互いに呼んで、答え合うように。

 

カテゴリー: 雅歌, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

雅歌7-8章ーー伴侶と時間を持つ事

この箇所では、ソロモンとその妻は一緒に時間を過ごしています。7章1-10節で、ソロモンはもう一度、自分の妻とその美しさに対する喜びを表現します。そして、ソロモンは彼女に対する彼の性的な感情を言い表します。

ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。(7:6-9a)

多分、今時、私たちはそんな比喩を使わないけど、その意味は分かりやすいと思います。

そして、彼女は喜んで、答えます。

私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。(9b)

そして、彼女は夫の愛を浴びて、ため息をついて言います。

私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。(10)

その後、彼女は一緒に外出することを勧めます。彼女の言葉を見ると、その望みがよく分かると思います。

私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。(12-13)

恋なすびは植木で、催淫剤効果がありました。だから、彼女の意味は、「外出し、新しい場所に行って、一緒に寝ましょう。私は新しい事も準備したので、一緒に楽みましょう。」という事です。

8章では、彼女の夫に対する愛を言い表し続けます。彼女が兄に対する愛を人前で表せるように、彼女は夫に対する愛を表すように願います。そして、彼女は愛と結婚に関するその母のアドバイスを思い出して、どれぐらい学んだかその母に表したがります。

そして、2-4節で、もう一度、彼女は夫に対する性的な感情を言い表すけど、もう一度、彼女はシングルの人たちに自分の純潔を守るように訓戒します。

この箇所から私たちは何を学ぶことができますか。一つ目は、結婚の中での、セックスの大切さです。多分、妻たちは夫たちよりも、その大切さを覚えていなくてはなりません。

なぜなら、男性たちは体的に、性的な親しさを望むようにデザインされたから。

妻たち、もし知らないなら、私は教えてあげます。あなたの夫は、しばしばセックスについて考えます。

それぞれの妻は違うけど、多くの場合、妻たちは夫よりもそんなに性的な親しさを望まないかもしれない。それでも、その時間を作るのは大切なんです。それに、この箇所の女性のように、妻がその時間を勧めることも大切です。またどのようにその時間をもっと楽しめるように何かを勧めることも大切です。

どうして、それはそんなに大切でしょうか。

一つ目は、セックスは夫婦を結び合うからです。

二つ目は、その夫を性的に守るからです。もちろん、妻をも性的に守るけど、特に夫を守ります。

パウロはこう書きました。

互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。(第一コリント7:5)

また、彼は言います。

妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(第一コリント7:4)

ソロモンの妻はパウロの言葉をこのように言いなおします。

私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。(2:16)

だから、良い結婚のため、時間をちゃんと取らなくてはなりません。セックスだけのためではなく、デートのためにも時間を取るべきです。

あなたはどうですか。そんな時間を取っているでしょうか。

カテゴリー: 雅歌, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

雅歌6章ーーまだ見とれている

私はこの箇所を読むと、他のソロモンの言葉を思い出します。

あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5章18-19)

この個所では、ソロモンは自分の意見に従います。結婚して以来、時間が経ったけど、ソロモンはまだ妻に見とれています。実は、以前よりも、彼は妻に見とれています。妻に関して、以前言った比喩を使うけど、新しい比喩も使います。

彼は彼女をティルツァとエルサレムという都市と比べます。都市の美しさ全部を発見するために時間をっとって巡らなくてはならないように、妻(また、夫)の深さを発見するために時間がかかります。それは一生のプロセス。

ソロモンは妻に「あなたの目はまだ私をひきつける」と言います(5)。

私はその感じがよくわかります。私の妻の目にその愛を見る時、私も引付けられます。

そして、ソロモンは彼女に「あなたは私の汚れのないものだ」と言います(9)。時間が経つと、実は私たちは妻と夫が本当に完ぺきじゃないと分かるようになります。でも、愛の目は、その過ちを見逃します。それに、そのあなたの愛の目によって、相手の魂が今よりも、美しくなります。

8節の言葉のため、ある学者は、ソロモンがもうほかの妻とそばめがいると思います。そうかもしれません。もしくは、彼は仮定条件について考えているかもしれない。とにかく、彼のポイントは、彼の人生にいる女性の間で、妻は一番大事というものです。

そして、ソロモンが仕事するとき、彼はすぐに妻について考え始め、なるべく早く家に帰りました。(11-12)

それはいい態度だと思います。もちろん仕事は大切だし、その仕事を楽しむことができるなら、それは本当に良いことです。でも、夫は仕事よりも妻を愛するべきです。夫が妻よりも仕事の方が好きなら、悪いことです。もちろん、妻が仕事を夫よりも愛することも悪いです。

あなたはどうですか。あなたはまだ、妻か夫に見とれているでしょうか。それは理想だけではないです。そんな愛はただの夢ではないです。それは、もともとからあなたと伴侶のための神様の計画です。

カテゴリー: 雅歌, 諸書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

雅歌5:2-6:3–怒り、傷、和解

夫婦の関係はいつもスムーズにいきません。この罪によって壊れた世界に、夫婦が怒りと傷を経験することは当たり前のことです。それでは、どのように反応するべきでしょうか。anger

この箇所では、そのことを学びます。

多くの聖書の解説者によれば、この箇所は夢を描写します。でも、結婚では、しばしば起こる状態や、感情を描写します。

多分、その夫は仕事や他の用事のため、遅く帰りました。だから、彼女は怒って、彼が帰る前に寝てしまいました。そして、彼がやって帰ってきたとき、ドアの鍵がかけられたので、彼は「開けて」と叫びます。

でも、彼女はまだ怒って答えます。「もう寝ているよ。何であなたのために起きなくてはならないの。」

パウロは私たちに言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26-27)

たまには、私たちは妻か夫に怒ります。私たちは思わずに相手を傷つけるから。でも、パウロは、私たちが怒っても、罪を犯すなよと言います。怒りや恨みを持ち続けてはいけません。そうすると、サタンに私たちの人生や結婚を壊す機会を与えるから。

でも、ソロモンが遅く帰ったので、その妻は彼に恨みを持ちました。彼はしばしば遅く帰ってきたかもしれない。もしくは、その日だけ遅かったけど、連絡していなかったかもしれない。とにかく、彼が帰っても、彼女はドアを開けてあげませんでした。

私たちは妻か夫を家に入らせない経験がないかもしれないけど、どれぐらい私たちは自分の心を相手に対して閉じるでしょうか。

また、もし、相手が自分の心をあなたに閉じるなら、どうしたら良いでしょうか。ソロモンはいい方法を私たちに勧めます。彼は無理矢理に入ろうとしませんでした。むしろ、彼は彼の愛のしるしを残して去ります。

彼女はやっとドアを開けてあげようと思ったら、かんぬきの取っ手の上に没薬の液がありました。その文化では、恋人はそのように、そこいていたことを表しました。現代では、それは花を与えるようなものです。(アメリカでは、謝る時に、男性はしばしばそうするけど、日本では、男性はどうするでしょうか。)

とにかく、時々、私たちは妻か夫に怒ってしまいます。時々、私たちはその怒りが正しいと思います。私たちの方が悪かったと思う時もあります。でも、サタンに私たちの結婚を壊す機会を与えたくないなら、相手の怒りに、怒りで反応してはいけません。謝ってください。そして、あなたの愛を表してください。

彼女の夢では、彼女は彼の愛にもう一度感動されたけど、もう遅すぎました。彼はもう行ってしまったので、彼女は彼を探しに行きました。多分、自分の態度のため、彼女は自分自身を批判してしまいました。だから、その夢では、巡る夜回りたちは彼女を打ったかもしれない。

他の人は彼女に「どうして、そんなに必死に彼を探しているのか」と訊いたとき、彼女はソロモンに関して好きなことを説明しました。

私たちが相手に怒っても、そんなことについて考えた方が良いです。怒る時に、相手の欠点に焦点を合わせるのは簡単なことです。でも、特に私たちが怒る時、彼らの良い点を覚えていた方が良いです。

彼女は彼の外見について話すけど、彼女は彼を恋人や友達としても描写します。私たちもそのことを覚えていなくてはならない。相手が私たちをがっかりさせるかもしれないけど、私たちをまだ愛してくれます。

彼女の友達が、「じゃあ、私たちは彼を見つけるのを助けてあげるよ」と言ったとたんに、突然彼女は夢から目が覚めて、ソロモンが彼女の隣にいることを見て、彼は「ゆりの花の間で群れを飼っています。」(4:5と5:13を読んでください。)

彼女は自分の怒りをすぐに忘れて、言います。

私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(6:3)

結婚は自然に美しいものになりません。私たちは良い結婚のために働かなくてはなりません。その愛を育てなくてはなりません。だから、自分の怒り、また相手の怒りを良い方法で処理しなくてはなりません。

あなたはどうですか。その怒りをどのように扱うでしょうか。

カテゴリー: 雅歌, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

雅歌3:6-5:1–結婚式

私の結婚式は2005年でした。今でも、その日をよく覚えています。satoko2-e1386678435770

私の妻がどんなに美しくて見えたか覚えています。今でも、私の目には、彼女は美しいです。

3章では、ソロモンのリムジンは花嫁を迎えに行って、結婚式に連れて行きました。それに、ソロモンのシークレットサービスは彼女を守って、ソロモンの所に連れて行きました。(もちろんちょっと冗談です。実は、ソロモンは御輿と勇士たちを送ったけど、大体同じ感じでしょう。)

花嫁が着いたら、彼女は素敵な結婚式の服を着ているソロモンを見ます。

ソロモンも、花嫁を見る時、見とれてしまいます。

ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。(4:1)

そして、彼は彼女に関して、何が好きか具体的に話します。つまり、彼女の目や、歯や、唇や、頬や、首や、乳房について話します。彼がその言葉を言いながら、それぞれの所を愛撫することを想像できます。でも、2章の箇所と違って、彼女は「明日、帰ってきてね」と言わずに、彼はこう言います。

そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。(4:6)

5節を読むなら、多分その意味がよく分かると思います。とにかく、彼らは一緒に寝る経験を初めて楽しむ予定です。その後、ソロモンは言います。

わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。(4:7)

これらは本当にエロチックな言葉です。実は、このことについて書くのは、ちょっと恥ずかしいのです。でも、結婚の中では、そんな言葉を言うのは良いことです。どれぐらい、夫婦は、結婚式の10-20年後に、まだそんな言葉を言うでしょうか。もし、彼らがそんな言葉を言い続けたら、本当に良いんじゃないでしょうか。

彼は彼女が自分のレバノンの実家を去って、彼と永遠まで生き続けるように誘います。彼は言います。

私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。(4:9-10)

私たちの文化には、妻を妹と呼ぶのはちょっとおかしいです。でも、その文化では、「あなたは私の家族に入っている」という意味です。

そして、「フランスのキス」はフランスからと思うなら、4章11節を読んでください。ソロモンもそんなキスを知っていました。:)

でも、ソロモンが一番感謝していたことは、彼女は彼のために純潔を守ったことです。

結婚する前に、彼女は、「閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉」でした。

多分、多くの男性たちはソロモンのように彼女を知りたかっていたけど、彼女は結婚するまで純潔を守りました。

でも、今、彼女は自分の庭を開きます。彼女は自分の全身、心と体を彼に捧げます。彼女は言います。

北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入り、その最上の実を食べることができるように。(4:16)

その時間の後、彼らは隣に寝ている間に、ソロモンは嬉しくてこう言います。

私の妹、花嫁よ。私は、私の庭に入り、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。(5:1a)

その時、誰か話します。誰でしょうか。友達でしょうか。多分神様が話していると思います。

友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。(5:1b)

それは結婚です。二人は愛し合うけど、結婚するまで純潔を守ります。そして、結婚してから、彼らはずっと互いに相手を楽しみ合います。神様はそんな結婚を祝福してくださいます。

カテゴリー: 雅歌, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

雅歌2:3-3:5–自分の操を守る事

私たちの世界では、清い人を見つけるのは難しいです。どれぐらい夫と妻が結婚するまで、自分の純潔を守ったでしょうか。

私たちの文化は、私たちの清さに反対するようです。テレビドラマや映画は、よく結婚前のセックスや、不倫を見せます。また、インターネットによって、ポルノをもっと見やすくなりました。

だから、多くの人々は、彼女か彼と寝るのは当たり前なことだと思います。また、結婚する前に、一緒に住むことが当たり前だと思います。

でも、神様がセックスを造った時に、それは神様の意図ではありませんでした。神様はセックスを良いものと楽しいものとして造ったけど、既婚者だけのために造りました。結婚の中で、セックスは美しいものです。セックスを通して、カップルは、体的に、感情的に、霊的に結ばれます。

でも、結婚の外で、セックスはしばしば心の痛みに至ります。

この箇所では、私たちは本当に恋人に対するパッションを持っている女性を見ます。でも、彼女は清さの大切さをよく知っていました。

彼らは結婚式の後に、一緒に寝て、抱きしめています。(2:3-7)彼女は、夫をリンゴの木と比べます。そして、私たちは彼女がその愛の関係について安心していることが見ることができます。彼女は彼に抱かれることが、暑い日に木の下に座り、その「実」を食べるようなものだと言います。そして、彼女は彼の実をもっと食べられるように願います。

干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。(2:5)

でも、彼女はエルサレムのシングルの女の人たちに、また、私たちにも警告します。

エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(2:7)

つまり、愛とセックスは力強いものです。だから、あなたがまだ準備していない間に、そのパッションを起こすのは危ないことです。準備と言うのはどういう意味でしょうか。

それはあなたが感情的に、また、精神的に準備していることです。つまり、あなたは、一生の関係にコミットできます。また、あなたはコミットメントの意味が本当に分かります。

コミットメントはただ現在の感情ではありません。コミットメントはその一瞬よりもずっと続くものです。

多くの人々はそのことが分からないから、最終的に離婚してしまいます。また、一緒に寝ている人々は、しばしば結婚する前にも別れて、心の痛みを知ります。

この女性は、自分の結婚活動を思い出します。彼女の恋人は現れて、「デート」に誘いました。彼の言葉で、彼女に対する愛とパッションがよく見えます。(2:10-14)

でも、彼もその関係を壊す罠がよく見えました。彼はこう言いました。

『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(2:15)

この場合、ぶどう畑は彼らの愛の関係でした。いろんな「キツネ」は私たちの関係を荒らすことができます。例えば、キスしたり、一緒に寝たりすることを急ぎ過ぎることです。

だから、その強いパッションの中で、彼女は彼に言います。

私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。(2:17)

要するに、「一緒に寝る時間はまだ来ていない。帰ってきてね。また明日。」

それでも、彼女は、自分の夢で彼を探しに行って、見つけると、喜びました。(3:1-4)

でも彼女はもう一度私たちに警告します。

エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(3:5)

セックスは美しいものとして造られました。神様が計画したように、私たちがセックスを楽しめば、セックスには夫婦関係を強める力があります。でも、神様の計画に従わないなら、セックスは、滅ぼす力もあります。あなたの関係を壊せるし、あなたは苦しんでしまいます。

あなたはどうですか。自分の純潔を守っているでしょうか。

カテゴリー: 雅歌, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

雅歌1-2章ーーラブソング

それでは、やっと最後の旧約聖書の書を始めます。興味深いのは、箴言の最後で、私は「男性というのは。。。」と[女性というのは。。。」という記事を書きました。

雅歌では、私たちは、神様が夫婦をどのようにデザインしたか学びます。

この歌では、ソロモンは自分の結婚活動や、結婚式や、結婚生活について歌います。(どの妻について歌ったか分かりません。これがソロモンの最初の妻だと思いたいんですけど。)

でも、興味深いことは、この歌の大部分は、ソロモンの妻の視点から書いてあります。

この歌の最初では、結婚式のシーンみたいです。その花嫁の言葉から、私たちは彼女のソロモンに対する愛の炎が見えます。

あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、(2)

神様は私たちを性的な者として造りました。そして、その性的な関係は良いものと痛快なものとして造られました。私たちは自分の伴侶のキスを喜ぶはずです。私たちは互いに喜び合うはずです。

でも、ソロモンの体だけに、彼女は引かれていなかった。彼女は言いました。

あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名はそそがれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。(3)

彼女は彼の匂いを彼の名前と比べます。つまり、彼の評判の匂いは本当に素晴らしかった。彼は、忠実で、誉れに値する人だから、彼を愛していた女の人はたくさんいました。

だから男性たち、あなたが妻を求めているなら、自分の体だけを発展させないでください。自分の性格も発展させてください。あなたは彼女の尊敬に値しているでしょうか。

5節では、私たちはソロモンの妻がどのように自分自身に関して考えるか見ることができます。彼女は良いセルフイメージを持っています。彼女は自分について「私は美しい」と言えます。(5)

それでも、相手が彼女の見た目を批判して、彼女は傷ついたことがありました。その時代、日本のように、白い皮膚は良いものと見なされました。でも、彼女はずっとぶどう畑で働かなくてはならなかったので、彼女の皮膚は黒くなりました。(彼女は「私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。」と言った時、実は、自分の体について話しました。後で私たちは読むけど、彼女の体はその恋人のために「実」を結びます。)

残念なことですけど、多くの女性たちは自分が美しいと思いません。彼女らはテレビの俳優とか見て、「私はそんなに美しくない」と思って、落ち込んでしまいます。

でも、神様があなたをそのように創造しました。神様はミスをしません。だから、神様の目にはあなたは美しいです。

ソロモンの妻が初めてソロモンに付き合った時、彼女はそんな感情的な重荷を持っていました。彼女のお兄さんたちは彼女を拒絶し、彼女の人生を苦しくしてしまいました。その言葉を読む時、私は「彼女の両親はどれぐらい彼女を支えただろうか。」と思います。

でも、この箇所では、どうやって、愛は人の傷を癒すか見えます。何回もソロモンは自分の彼女に対する愛を伝えます。つまり、彼の目には彼女が美しいと言いました。(1:9-10)

彼女は「私は別に美しくない」と言う時、(シャロンのサフランと谷のゆりの花はただ普通の野草でした)、ソロモンは答えます。

わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。(2:2)

つまり、「あなたは自分がただのユリだと思うかもしれないけど、私にとっては、他の女性たちは茨です。」

そして、彼の愛のため、彼女は自分の愛の言葉でためらわずに反応します。(1:4,16)

結婚の愛はそんなものなはずです。夫婦は互いに愛し合って、喜び合って、尊敬しあって、神様の癒しを与え合います。

あなたがそんな愛を知るように。

カテゴリー: 雅歌, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言31章10-31ーー女性というのは。。。

この箇所では、私たちは女性というのが何か学びます。

この世の男性のイメージのように、この世の女性のイメージは曲がっています。この世は、普段女性の見た目に焦点を当てます。つまり、理想的な女性は細くて、セクシーな美人です。でもレムエルの母は大切な教訓を教えます。

麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。(30)

全てよりも、「本当の女性」というのは主を恐れる人です。自分の麗しさと美しさを発展させるのは、主との関係を強くするほどには、価値がありません。

男性たち。結婚したいなら、女性の麗しさや、美しさにごまかされないでください。本当の女性を探してください。つまり、全てよりも主を愛している女性を探してください。

この箇所をまとめたいなら、30節を覚えていてください。

でも、レムエルの母はその息子に、どんな女性を求めた方が良いか、教え続けます。

1.彼女はしっかりする人です(11)。美人は結局老けます。でも、妻が美しい性格を持てば、彼女はもっともっと美しくなります。

しっかりする女性とはどんな女性でしょうか。美しい性格を持つ女性はどういう人でしょうか。30節を覚えていてください。彼女はすべてよりも主を追い求めます。そんな女性は、日が経てば経つほど、イエス様のようになります。

2.彼女は誠実な人です(11)。あなたは彼女を信頼できます。また、彼女はいつも正直です。

3.彼女は夫を祝福します(12)。彼女が尊敬をもって夫を自分よりまさっていると思います。

4.彼女は怠けずに、頑張って、その家族のニーズに備えます(13-15,21-22、27)。

5.彼女は賢くお金を使います。(16)

6.自分の家族を無視せずに、経済的に家族を支えます。(17ー19、24)

男性に対しても、女性に対しても、そのバランスを取るのは難しいです。もし、夫の給料が足りるなら、もちろん、その妻は働かなくていいです。しかし、この時代では、それはちょっと難しいです。

でも、夫たち、妻たち、経済的な安定を得るために、自分の結婚や、子供を無視してはいけません。

7.彼女は気前がいいです。(20)

8.彼女のおかげで、夫は皆に尊敬されます(23)。人前で、自分の夫について批難する妻もいるけど、良い妻はそうしません。

9.彼女は力と気品を身につけます(25a)。人々はその夫が尊敬できるだけではなく、彼女も尊敬できます。

10.彼女は主を恐れるので、未来に関して、心配しません(25b)。彼女は全く主を信頼します。

11.彼女は知恵を持って、その口から知恵が出ます。夫にも、子供にも、周りの人にも、彼女は神様からの知恵を教えます。

12.その夫と子供は彼女を尊敬します。(28-29)

それは、理想的な女性です。神様の定義によって、それは理想的な妻です。

この箇所、また、箴言を終わらせる前に、二つのポイントをお教えしましょう。

一つ目は、女性たちだけではなく、男性たちもそのような人になるべきだということです。もちろん、レムエルの母は女性について話しているけど、その言葉を男性にも当てはめることができます。

二つ目は、神様の恵みを覚えていてください。女性たちが(また男性たちも)この理想を見る時、がっかりさせられるのは簡単なことです。なぜなら、私たちが自分自身を周りの人々と比べると、自分の欠点と弱さと失敗が見えるから。私たちが決してその理想に達成できないので、自分自身を厳しく非難します。

でも、神様が自分の子を送った理由は、私たちが不完全なことです。私たちが理想的な男性、理想的な女性だから、神様が私たちを愛するわけではありません。私たちが何回も失敗するのに、神様は私たちを愛しています。

イエス様は私たちの罪と失敗のために死んでくださったので、私たちは今、こう言えます。

今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ12:1)

だから、女性たち、自分自身に訊いて下さい。「私はどんな女性でしょうか。そして、イエス様が私を愛して、救ってくださったので、将来にどんな女性になれるでしょうか。」

男性たち、あなたはどんな男性でしょうか。イエス様があなたを愛して、救ってくださったので、将来にどんな男性になれるでしょうか。また、イエス様はそんな恵みをあなたに与えてくださったように、あなたの周りの女性たちにその恵みを与えられるでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言31:1-9–男性というのは。。。

このポストを「王というのは」と名付けることができたけど、多分、王たちはこのブログを読まないでしょう。

でも、多分たくさんの男性たちはこのブログを読むし、レムエル王の母の言葉が、男性たちに簡単に当てはめることができると思います。(ところで、レムエル王は、ちょっと謎です。彼がどの国の王であったか、誰も分からないし、いつ彼が生きていたか、誰も知りません。)

この世は、男性に関してが曲がったイメージを持っています。多くの人にとっては、「本当の男性」は強いし、女性たちに好かれる人です。日本では、「イケメン」という言葉は良く使われています。

ソロモンの時代にも、そんなイメージは人気でした。特に、ソロモンには妻が300人いたし、そばめが700人いました。

でも、レムエルの母はレムエルにこう言ました。

私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。あなたの力を女に費やすな。あなたの生き方を王たちを消し去る者にゆだねるな。(2-3)

もちろん、妻は悪いものではありません。31章の最後では、その母はどんな女性を求めた方が良いか教えます。でも、私たちはセックスを人生の中心にしてはいけません。私たちの目的は、なるべくたくさんの女性たちと寝ることではありません。

もちろん、一つの理由は、私たちの健康を守るためです。エイズや、他の性病は危険です。そしてソロモンが言ったように、あなたが不倫すると、相手の主人を扱わなくてはならないかもしれない。(箴言6:34-35)

でも、一番大切な理由は、セックスがあなたの人生の中心になると、あなたの神様との関係をダメにしてしまうことです。ソロモンはそう学びました。

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。。。主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。(列王記第一11:4-9)

本当の男性は、全てよりも女性を追い求めません。本当の男性は全てよりも神様を追い求めます。ソロモンはそうしませんでした。

レムエルの母は続けました。

レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。(4-5)

つまり、王は自分の民に対する責任を持っています。神様は王にその責任を与えてくださって、王が酔っ払いであれば、その責任がちゃんと果たせません。

でも、その言葉は王のためだけではなく、全ての男性のためです。私たちがどこにいても、職場でも、家でも、教会でも、アルコールにコントロールされるのはダメです。酔っ払いになれば、私たちは神様からの責任を忘れるし、私たちの破滅に至ります。それに、神様は私たちを裁きます。

だからパウロはこう言いました。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

アルコールにコントロールされてはいけません。むしろ、私たちは神様の聖霊にコントロールされるべきです。

では、簡単に言うと、男性というのは何ですか。

本当の男性は神様をすべてよりも追い求めます。

また、本当の男性は、何をしても、聖霊にコントロールされ、導かれます。

あなたが男性なら、あなたは本当の男性でしょうか。

あなたが独身の女性なら、どんな男性を追い求めているでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言30章29-33–リーダーというのは。。。

リーダーというのは、何ですか。この箇所で、リーダーについて学ぶことができると思います。

アグルはこう書きました。

歩きぶりの堂々としているものが三つある。いや、その歩みの堂々としているものが四つある。獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子、いばって歩くおんどりと、雄やぎ、軍隊を率いる王である。(29-31)

1.リーダーは、ライオンのようにどんな状態に直面しても、挑戦します。ある人には、自信がありそうですけど、問題が出てくれば、彼らは逃げて、その問題をたらい回しにします。本当のリーダーは自信を持って、進みます。なぜなら、彼らは自分自身を信頼するよりも、神様を信頼するから。そして、神様が彼らと共におられる確信があります。

サウルとダビデの話を読むと、その違いが見ることができると思います。ゴリヤテという勇士がイスラエルの軍隊に挑戦を表明して、「誰が私と戦う勇気があるでしょうか」と叫んだら、多分イスラエル人はサウルを見ました。なぜなら、彼は王だし、イスラエル人の間で、彼は一番大きな人だったから。

でもサウルはどうしましたか。彼は、自分の宮殿に隠れて、ゴリヤテと戦う責任を取る人に見返りを提供しました。

でも、ダビデは、立ち上がって、ゴリアテと戦いました。彼の理由は何でしたか。

獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(第一サムエル17:37)

神様はダビデと共におられたので、ダビデはゴリアテを殺しました。

2.リーダーは目が覚めて、挑戦に直面するために、自分の心を準備します。では、「いばって歩くおん345-700x438どり」との関係は何でしょうか。私は分からないけど、実は、そのヘブル語のフレーズの意味はちょっと微妙です。文字通りに、その意味は走る時に自分のローブの裾をちょっと持ち上げることです。多くの翻訳は「いばって歩くおんどり」と書いてあるけど、ある解説者たちによれば、その意味が「鎧を着る勇士」や「バーディング(つまり、馬のための鎧)を着る軍馬」ということです。

この箇所では、いろんな方法で解釈できるけど、私はこの箇所を読むと、ペテロの言葉を覚えていさせられます。

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(第一ペテロ1:13)

キリストがいつかこの世に戻るので、イエス様が私たちに命令することを果たすために、私たちは自分の心を準備しなくてはなりません。

3.リーダーは人々を導きます。それは当たり前のことでしょう。雄やぎが他のやぎの先に行くように、リーダーたちも神様の導きに従って、神様の民を導くべきです。

4.リーダーの後ろに、着いて行っている人がいます。それも、当たり前のことだけど、多くの人々は、そのことについて考えません。私のハワイの牧師はいつもこう言いました。「もし、人々がある人についていくなら、その人はリーダーです。彼らはリーダーとして自分自身を考えないかもしれないし、自分が資格がないと思うかもしれないけど、彼らはリーダーです。」

しかし、誰もあなたについていかないなら、あなたはリーダーじゃないです。でも、軍隊が戦争に王に従うように、人々はあなたについていって、あなたを信頼したら、あなたたちはすごいことが達成できます。

でも、アグルは悪いリーダーについて警告します。彼らは高ぶって、愚かのことをよくします。彼らは人々を見下すし、自分の力を乱用します。彼らは本当のリーダーではありません。その立場があっても、自分の行動によって、彼らは怒りをかき回してしまいます。だから、最終的に、彼らのついていく人は、すべていなくなります。

あなたはどうですか。あなたはどんなリーダーでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言30:24-28–小さいものや、弱いものから学ぶこと

私たちが小さいものや、弱いものを見下すのは簡単なことです。でも、アグルはそうしませんでした。彼は動物を四匹を見て、知恵を獲得しました。

アリを見て、アグルはちゃんと将来のために計画することを学びました。アリが頑張って、夏の時に食糧を確保するので、冬が来たら、彼らには心配がありません。

多くの人々には、そんな知恵がないです。彼らは自分の快楽のためにお金を全部使うので、トラブル(例えば、不景気とか、一時解雇とか)が不意に来ると、彼らは本当に困ってしまいます。

岩だぬきから、アグルは自分の弱さを認め、安全な所を見つけることを学びました。岩だぬきhyraxは、敵から、自分自身を守ることができないので、敵が行けない岩間に巣を作ります。

そのように、私たちも弱いです。自分の力で、私たちの魂の敵サタンと戦うことができません。だから、私たちの及びがたいほど高い岩の上に行って、神様を私たちの避けどころにするべきです。(詩篇61:2-3)神様の力によって、私たちは生き残るだけはなく、サタンの攻撃を乗り越えられます。

イナゴから、アグルは一致と整理の大切さを学びました。彼らは自分自身を制御して一致があるので、すごいダメージができます。

そのように、教会は一致して、制御すれば、サタンの国にすごいダメージを与えることができます。でも、イナゴと違って、私たちには王がいます。そして、イエス様に従って、隊を組んで出て行きます。

ヤモリから、アグルは注意さと、うまく逃げることを学びました。ヤモリは小さくて、手で捕まえられるけど注意して、すぐに逃げるので、ほとんど捕まえられません。

そのように、私たちはサタンとその計画に注意するべきです。ペテロはこう書きました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

覚えていてください。サタンは優しい敵ではありません。特に、私たちが弱い時、サタンは攻撃します。でも、私たちが強い時でも、注意しなくてはなりません。その時、私たちは自己満足になって、注意しないようになるかもしれない。ダビデの事例について考えてください。(第一サムエル記11章)

だから、イエス様が私たちに命令したように祈りましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

あなたはどうですか。あなたはこの動物のように賢く生きるでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言30章11-23節ーー堕落する世代

この箇所では、アグルは自分の世代について話します。その世代はどんな人たちだったでしょうか。

1.彼らは自分の父を呪い、自分の母を祝福しませんでした。(11)

十戒で、人間関係に関する神様が与える最初の命令は父と母を敬いなさいということです。神様が知っていたのは、私たちの社会が栄えるためには、親子関係は本当に大事なことだという事です。残念なことだけど、多くの人は自分の両親を敬いません。自分の両親を侮る人もいます。だから、ある日、神様はその人を裁きます。(17)

2.彼らは独善的でした。(12)

彼らは相手の欠点が見ることができたけど、自分の魂の汚れが見ることができませんした。

3.彼らは高ぶって、相手を見下しました。(13)

彼らは思うべき限度を越えて思い上がったし、神様の形として創造された人々を見下しました。その結果は。。。

4.弱い人を愛さないで、世話せずに、彼らを利用したし、ある場合は、彼らを殺してしまいました。(14)どうして、彼らはそのように振る舞ったでしょうか。

5.彼らは貪欲でした。彼らはヒルのように、決して与えずに、いつももらおうと思っていました。

彼らはいつも「もっともっと」と叫んだし、目の前の物を食い尽くしたけど、けっして満足しませんでした。(15-16)

6.彼らは神様が造った美しいものを酷いものにしました。

アグルは神様の被造物の素晴らしさに驚いたし、男女の関係の素晴らしさにも驚きました。(18-19)

でも、この世代は何をしたでしょうか。彼らは姦淫を誉めたし、結婚を惨めなものにしました。なぜなら、多くの妻たちは愛されていないし、すぐに捨てられるから。(20,23)

7.資格のないものは支配者になるし、お金持ちは自分の快楽にふけるために生きました。(22)

それはアグルの世代でした。でも何千年経っても、この世界はあまり変わっていません。実は、私たちの世界はもっと酷くなりました。

パウロは私たちの世代を予想しました。彼はこう言いました。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3:1-5)

それは私たちの世代です。でも、神様は私たちがそのような民になるように呼びませんでした。私たちはどういう人でしょうか。ペテロは私たちに教えます。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

それは私達です。だから、そのように生きましょう。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言30章1-9節–神様の前にへりくだること

今日はアグルと言う人の言葉を読みます。彼が誰か誰も知らないけど、彼の言葉は知恵と謙遜に満ちています。

一節の意味はちょっと微妙です。多くの翻訳によれば、アグルはイティエルとウカルという人たちに向かって話しています。

でも、他の翻訳によれば、アグルはこう言っています。「私は疲れた。神様、私は本当に疲れ果てている。」

とにかく、アグルは続けます。

確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。(2-3)

要するに、自分の弱さを認めて、アグルは神様の前に立ちました。彼のプライドはなくなりました。自分の力と知恵からのプライドは全てなくなりました。だから、自分の弱さを認めて、彼は神様を求めました。

4節に、彼はこう訊きます。

だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

つまり、「誰が天に行ったことがあるでしょうか。誰がそんな経験があって、私たちに神様について説明出来るでしょうか。」

また、「私たちの創造主は誰でしょうか。その子の名前は何でしょうか。」

実は、アグルは自分の創造主をもう知っていました。7節に彼は神様に祈ったので、その創造主をきっと知っていました。

でも、興味深いことは、彼はその創造主の子の名前を尋ねたことです。彼はその答えを全然知りませんでした。でも、イエス様はこの世に来た時、その答えを教えてくださいました。それに、イエス様は、アグルや他の人よりも、神様のことを説明できました。ヨハネはこう書きました。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18)

そして、アグルは、私たちが神様の言葉を聞き、神様を私たちの避けどころにするように励まします。彼はこう言いました。

神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。(5-6)

そして、彼は素晴らしい祈りを祈ります。

二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(7-9)

つまり、「私は自分の言葉と行動を通してあなたを敬いたいです。だから、私を罪から遠ざけてください。」

私たちもそんな心を持つように。神様の前にへりくだりましょう。また、神様を敬いましょう。

 

 

 

 

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言28-29章ーー邪な世界に住んでいるのに

以前は、アメリカはクリスチャンの国と呼ぶ事ができました。今でも、多くのアメリカ人は「私はクリスチャンだ」とか、「神様を信じる」とか言います。しかし、アメリカがクリスチャンの国だともう言えないと思います。実は、アメリカの歴史の中では、多分今は一番暗い時期でしょう。

ソロモンの時代はましだったけど、彼が周りの国々を見る時、いろんな悪を見ました。

彼は無政府状態を見たし(28:2)、自分の民を気にしない独裁者や、正義を気にしない支配者や、酷い罪を犯す王を見ました。(28:3、12、15-16;29:2、4、12)

アメリカや、日本はまだそこまで悪くないと思うけど、私たちは、人に仕えるよりも、自分の立場を守りたがる政治家をよく見ます。

特に、アメリカでは、与党議員や、裁判官は私たちの社会の道徳的価値観を変えて、罪を良いことだと呼びます。

ソロモンは社会の中の邪についても話します。多くの人々は神様の律法を拒絶し、その律法を拒絶する人を誉めます(28:5)。彼らはその律法を拒絶するので、道徳的に堕落してしまいます(5)。それに、彼らは正しい人を迫害し始めます。(29:10)

それでは、どうやって、私たちはそんな社会に住むべきでしょうか。ソロモンはこう言います。「神様の道を行き続けなさい。その道を捨てるな。」

彼はこう書きました。

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(28:14)

私たちの周りの悪を見ると、自分の心が堅くなるのは簡単なことです。私たちの愛が冷たくなるのは簡単なことです(マタイ24:12)。つまり、私の神様に対する愛、周りの人々に対する愛は冷たくなってしまいます。

でも、そのような態度に注してください。神様に対する柔らかい心を保ち、主を恐れ続けてください。

ソロモンは私たちに警告します。

耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。(28:9)

また、

潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。(28:18)

だから、悪を戦い続け(28:4)、頑張って働き、(28:19)、忠実に生き(28:20)、周りの人々に対して気前がいい態度を持ってください。(28:27)

あなたが罪を犯してしまうなら、すぐに悔い改めてください(28:13)。そして、自分の子供にそのように生きるように訓練するべきです。(29:15,17)

周りの人々は神様の律法を捨てるかもしれないけど、神様の道に従い続けるべきです。(29:18)

一番大事なポイントは、神様を信頼し続けるべきだという事です。

ソロモンはこう書きました。

自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。(28:26)

また、

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)

神様はエレミヤに命令したように、私たちにもこう命令します。

彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ(エレミヤ15:19-20)

あなたはどうですか。あなたは周りの人々のようになっているでしょうか。もしくは、この暗闇の中で、あなたは光でしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

箴言27–友人からの傷

ハワイに住んでいた時、ある時期、私は主と共に歩み、毎週教会に行っていたけど、スモール・グループに行くのは辞めました。

私のスモール・グループはいろんな理由で(悪い理由ではありませんでした)、解散しました。その時、「日本に引っ越すかもなあ」と思ったので、他のグループに参加しなくても良いと思いました。

しかし、時間が経って、結局日本に行かなくなりました。それでも、私はスモール・グループに参加しようと思いませんでした。

でも、ある日、神様は私に「もうそろそろ、スモール・グループに参加した方が良いんじゃない?」と言いました。

だから、私はそうしました。

その後、私は以前のスモール・グループのメンバーの一人と話して、「私はスモール・グループに入ったよ」と言いました。

彼女は答えました。「ああ、良かった。ブルースのこと、ちょっと心配だった。」

私はそれを聞いて、びっくりしました。「そう?なんで何も言わなかったの?」と尋ねました。

彼女は答えた。「まあ、ブルースはやっぱり大丈夫かなあと思ったから。」

成熟なクリスチャンのマイナス面は、私が大丈夫じゃなくても、私の周りのクリスチャンは、「ブルースは大丈夫」だと思います。

だから、私は友達にこう言いました。「私について心配することがあるなら、今度は何か言ってください。私は最初はその言葉を聞かないかもしれないけど、あなたの言葉が神様から来るなら、結局神様が私の心に語ります。」

私が友達に言ったように、時々私は頑固です。だから、私は友達の言葉に注意しない時もあります。でも、何回も、その言葉を通して、神様は私の心に話しました。

時々、その言葉は嫌です。時々、私たちの友達は私たちの罪を指摘します。だから、私たちはその言葉を聞いて、傷ついてしまいます。また、私たちは「どうして、そんなに酷いことを言われただろうか」と思います。

でも、ソロモンはこう言いました。

あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(5-6)

要するに、あなたの友達があなたを本当に愛するなら、あなたが罪を犯すと、彼らはあなたを訓戒します。

でも、あなたを愛していない人は何も言いません。彼らはあなたが転んでもいいと思うから。

あなたに正直に言う友達は本当に大事です。彼らは、あなたを励ますだけではなく、あなたに聖書的な助言を与えてくれます。

だから、ソロモンはこう言います。

香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。(9-10)

しかし、それは互いの関係です。私たちの友達が私たちの成長を励ますように、私たちも私たちの言葉と行動を通して、彼らが成長するように助けるべきです。

ソロモンはこう書きました。

鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(17)

あなたにはそんな友達がいるでしょうか。あなたたちは互いに研ぎ合うでしょうか。あなたたちは訓戒し合うでしょうか。

もしかしたら、あなたたちは相手が聞きたい言葉だけを言いますか。

あなたはどんな友達がいるでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言26-27章ーー愚か者を扱うこと。愚か者のように振る舞う事。

この箇所では、私たちは、どのように愚かな者を扱う方が良いか、また、どのように愚か者にならないように学びます。この箇所では、「愚か者」というのは、馬鹿で、高慢な人という意味です。彼らは自分の意見を言い張って、訓戒を決して受け入れません。

私たちは、どのようにそんな人を扱った方が良いでしょうか。ソロモンはこう言います。

愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。(26:4-5)

一見したところ、これは矛盾です。ソロモンは最初に「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。」と言うけど、その後、「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。」と言います。

でも、この意味は、愚か者と言い争わない方が良いという事です。多くの場合、彼らは聞いてくれないし、あなたはガンガン怒ってしまって、彼らのように聞こえてしまいます。

しかし、柔和な態度と知恵を持って、彼らの愚かさを示すべきです。そうすれば、彼らは聞いてくれて、気が変わるかもしれない。でも、彼らがあなたの言葉を受け入れないず、あなたが自分の怒りが上がる事に気づいたら、もう止める方が良いです。なぜなら、ソロモンはこう言うから。

愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。(27:22)

それに、私たちは彼らを愛するべきですけど、彼らを信頼しない方が良いです。つまり、彼らの意見に従うべきではないし(26:7、9)、彼らには責任を与えない方が良いです。(26:10)

私たちが愚か者になりたくないなら、どうしたら良いでしょうか。

私たちは自分の過ちから学ぶべきです。また、訓戒を受け入れるべきです。ソロモンはこう書きました。

犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。(26:11)

多くの人々は自分の過ちから学ばないので、その過ちを何度も繰り返してしまいます。

謙虚な態度を取るべきです。あなたは全てのことを知らないことを認めるべきです。ソロモンはこう言います。

自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(26:12)

そして、神様が自分の手の中に、あなたの未来を持っていることを認めるべきです。だから、あなたの計画を神様に委ねた方が良いです。(27:1)

あなたは怠けてはいけません(26:13-16)。箴言では、何回もそのテーマが見えてきます。だから、自分の将来を考えて、今現在の責任を果たすべきです。(27:23-27)

あなたが関係ない喧嘩に勝手に入るべきではなりません(26:17)。そんな喧嘩に勝手に入ったら、相手があなたに怒ってしまいます。

あなたの言葉に注意するべきです(26:18,20)。噂をしない方が良いです(26:20)。そして、喧嘩を売ろうとするべきではありません(26:21;27:15-16)。むしろ、和解のために働くべきです。

人の言葉を聞くとき、その人の性格を考えるべきです(26:23-26)。ある人は言葉に得意だけど、彼らの性格も試さなくてはなりません。彼らの性格を知るべきです。

あなたが人を傷つけるように計画するなら、多くの場合、最終的にあなたが傷つけられることを覚えているべきです(26:27)。エステル記で、ハマンはそう学びました。

人生の危険を避けるべきです(27:12)。つまり、あなたの人生や、結婚や、仕事は悪い方向に行っていることに気づいたら、止ってください。自分の方向を変えてください。そうしないと、全てをなくしてしまうかもしれない。

あなたの隣人に対して気が利くべきです(27:14)。あなたの意図は良いかもしれないけど、ちゃんと考えないと、彼らを祝福せずに、彼らを怒らせるかもしれない。

あなたはどうですか。あなたは賢く生きているでしょうか。愚か者のように生きているでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言25章ーー人に愛されること

このポストのタイトルは「人に愛されること」だけど、実は、クリスチャンにとっては、それは私たちの一番の目的ではありません。私たちの目的は神様を喜ばせることです。

でも、聖書では、イエス様についてこう書いてあります。

イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)

人にイエス様が愛されたように、私たちは、どうすれば人に愛されるでしょうか。ソロモンは、箴言25章で、良いアドバイスを与えてくれます。

まず、相手に敬われることを求めないべきです。もし、彼らがあなたを敬うなら良いけど、その敬いを求めない方が良いです。

ソロモンはこう書きました。

王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい」と言われるほうがよいからだ。(6-7)

イエス様はパリサイ人に同じことを言いました。(ルカ14章)

そして、ソロモンは言います。

あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。(27)

ヘブル語の文字通りに、その最後の部分は「自分の栄光を求めるのは、栄光ではないです。」ということです。

その意味がちょっと微妙だから、いろんな翻訳があります。多くの英語の聖書は、このように翻訳します。「自分の栄光を求めるのは、良いことではありません。」

日本語のリビングのバイブルの訳者も、大体同じように翻訳します。

どんなに良い食物でも、食べすぎは体に毒です。同じように、人にほめられるのはすばらしいことですが、それを意識しすぎるのはよくありません。(25:27)

とにかく、皮肉なことだけど、私たちが謙虚な態度を持つなら、最終的に、人々は私たちを敬うし、神様は私たちを誉めてくださいます。

ソロモンは言い続けます。

あなたがその目で見たことを、軽々しく訴えて出るな。そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか。(25:7-8)

つまり、怪しいことをする人を見る時、すぐに訴えない方が良いです。なぜなら、彼らは自分の行動をちゃんと弁解できるかもしれないから。早とちりして訴えたら、結局あなたが恥をかいてしまうかもしれません。

さらに、ソロモンはこう言います。

あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる。(9-10)

時々、私たちの友達は内緒で、他の人について話します。そして、その言葉によって、私たちはその人を訴える。でも、そうすれば、三つのことが起こるかもしれない。

一つ目は、その友達は相手を怖がって、あなたの言葉を否定するかもしれない。

二つ目は、あなたがその内緒で言った言葉をばらしたので、多分あなたの友達はあなたに怒るでしょう。

三つ目は、相手を訴えるのに、あなたには証拠がないので、結局あなたは恥をかきます。

だから、人に愛されたいなら、すぐに訴えず、人の内緒をばらすべきではありません。

ソロモンは言い続けます。

あなたの言葉によって、人を助け、励ました方がいいです。(11)

その反面、相手が愛によって、あなたを叱責するなら、へりくだってその言葉を受け入れるべきです。(12)

職場や他の所で、忠実に仕え(13,19)、自分の約束を守り(14)、正直に言うべきです(18)。

意見を与える時、忍耐を持って、柔和な態度を持つべきです。(15)

隣の人を訪れる時、気が利かせて、彼の時間を取りすぎてはいけません。(17)

相手が苦しんでいるとき、彼らの感情に敏感になりましょう。(20)

最後に、自分の言葉に注意するべきです。また、あなたは自制するべきです。(28)

そうすれば、あなたは人々に愛されます。

周りの人々はあなたについてどう考えるでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言24-25章ーー仕返し

仕返し。

私たち皆、仕返しが悪いことを知っているけど、どれぐらい仕返しを計画するでしょうか。私たちはその計画を実行しないかもしれないけど、その計画を考えるのが好きですね。

また、相手が倒れる時、私たちはよく喜びます。

でも、ソロモンは、そんな態度に関して、警告します。彼はこう書きました。

あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。(24:17-18)

私たちが覚えていなくてはならないのは、相手がどんなに悪者でも、彼らが神様のかたちとして創造されたことです。その形は曲がったかもしれないけど、神様はまだ彼らを愛しています。だから、彼らが苦しんだ時、神様はあなたがその人の苦しみを喜ぶことを憎みます。なぜなら、神様は喜ばないから。

人々が地獄にいく時、彼らがどんなに悪者でも、神様は喜びません。むしろ、神様は泣きます。

だから、神様の形として創造された者を見下してはなりません。神様はそんな態度を見る時、全然喜びません。

ソロモンは言い続けます。

「彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行ないに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない。(24:29)

むしろ、

もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。(25:21-22)

要するに、あなたの敵に復讐せずに、彼らに親切にすれば、彼らは罪悪感を持つかもしれない。もしくは、彼らが決して謝らなくても、神様はあなたに報いてくださいます。

その反面、

正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ。(25:26)

もし悪い人の仕業のために私たちが仕返しするなら、私たちの証しは汚されます。その場合、私たちがこの世の民に影響を与えることではなく、むしろ、この世の民が私たちに影響を与えてしまいます。

ソロモンは言い続けます。

自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。(25:28)

人々が私たちを傷つける時、私たちが自分の怒りと行動をコントロールできないなら、私たちの人生の城壁は倒れます。そして、私たちを神様から離させるために、サタンは、ますます攻撃します。

でも、私たちの敵に親切にするなら、サタンはどうしても私たちを滅ぼすことができません。それに、サタンが送った私たちの敵は友達になるかもしれない。その場合、サタンの計画は本当に無駄になってしまいます。

敵に仕返しすると、自分の城壁を強化すると思う人もいます。実は、自分の怒りがコントロールできる人、また、相手を許せる人が本当に強い人です。

あなたはどうですか。相手があなたを傷つける時、あなたはどうしますか。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言24章11-12節ーー地獄に行く人に警告しないと

この箇所では、ソロモンは本当に鋭い言葉を言います。

捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(11-12)

毎日、人々は地獄に行っています。永遠の死に行っています。彼らは虐殺されます。だから、あなたは何をしてますか。

地獄というのは嫌な話題なので、多くの人々は、そのことについて話したがりません。でも、地獄について話さなくても、その問題は無くなりません。そして、私たちが人々に警告しないと、神様はその責任を私たちに負わせます。

もちろん、私たちは無理矢理、誰かの道を彼の意志にそむいて変えさせることはできません。それは私たちの責任ではありません。私たちは人間の心を変えられないから。でも、神様は私たちに、彼らに警告するように命令しました。

神様は「私は彼らが地獄に行くことを知らなかった」と言う言い訳を受け入れません。

多くの人は愛する人たちに関して、自分自身にこう言います。「彼らがイエス様を信じなくても、きっと天国に行くだろう?なぜなら、彼らは良い人だから。」

なぜ彼らはそう言うでしょうか。多分、彼らは自分の家族と友達に真実を言いたがらないから。彼らは拒絶されることを怖がるから。また彼らは、愛している人が真実を聞くと怒られることを怖がります。

でも、心の中で、そのクリスチャンは真実を知っています。そして、神様も、そのクリスチャンの心も良く知っておられます。私たちは神様から何も隠すことができません。

だから、神様が預言者エゼキエルに言ったように、私たちにも言います。

「人の子よ。わたしはあなたをあなたの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしがあなたのお父さんや、お母さんや、兄弟たちや、友達に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、彼らに悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、彼らは自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが彼らに警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17-19)

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言24章ーーあなたの家を建てること

あなたはどんな家を建てているでしょうか。私がここで家と呼んでいるのは、住む場所ではなく、あなたがどんな人生を建てているかと訊きます。

24章でソロモンは、そのことについて話します。

彼はこう言います。

家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。(3-4)

家族を建てる時(多分ソロモンは、そのことについて話している)、また、あなたの人生を建てる時、ずっと立てられるものを作りたいなら、神様の知恵によって建てなくてはならない。

ソロモンは続けます。

知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。(5)

神様からの知恵は、家族と人生を建てることに関して、何を教えるでしょうか。

ソロモンは以前こんなことを言ったけど、もう一度言います。

悪い人を妬まないべきです。また、彼らと付き合わないべきです。なぜなら、彼らはあなたを破壊の道に導くから。(1-2、19)

知恵のある人の意見を聞くべきです。(6,26)

知恵を抱くべきです。(13-14)

怠ける人生を送るべきではありません。(30-34)

でも、ソロモンはこうも言います。

もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。(10)

私たち皆は、苦しみに直面します。神様の御心に従っても、苦しむ時もあります。パウロにはそんな経験がありました。エレミヤや、他の預言者たちも苦しむことがありました。イエス様にも、苦しんだ時がありました。でも、そんな時に、私たちは神様に信頼続けるべきです。

数年前、私の友達の奥さんは、がんにかかって、結局亡くなりました。その二人にとっては、もちろん大変な時でした。でも、彼らの信仰は決して揺るぎませんでした。あくまでも、その奥さんは周りの人々を考えて、触れたがりました。ベッドから起きられなくても、そんな態度を持ってい続けました。

ソロモンはそんな人に関して、こう言いました。

正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。(16)

そして、ある日、その奥さんが目覚めたら、救い主イエス様の笑顔を見ました。

私たちが上手く効く人生を望んだら、神様に基づいて、人生を建てるべきです。

ソロモンは家を建てる他の方法を教えます。

主と王とを恐れよ。(21)

つまり、神様と権力のある人に従うべきです。総理大臣や、警察や、上司や、牧師に従うべきです。なぜなら、神様は彼らを確立したから。(ローマ13:1)神様と神様が確立した力に反対したら、あなたの家の基礎は揺れます。

最後に、ソロモンはこう書きました。

外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。(27)

つまり、あなたがプロジェクトを始める前、その費用を計算するべきです。そうしないと、最終的にあなたは、そのプロジェクトを諦めなくてはならないかもしれません。(ルカ14:28-30)

多くの人々は自分の経済を考えずに結婚するので、すぐに困ってしまいます。また、彼らは子育てのためにちゃんと計画しません。ミニストリーを始めるけど、前もって計画しない人もいます。

私たちが費用を計算しないと、私たちがしていることはめちゃくちゃになります。

あなたはどうですか。どんな人生を建てているでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言23章ーー私たちが追い求めるもの

この箇所では、私たちが何を追い求めることかについて、ソロモンが私たちに警告します。

ソロモンはこう言ました。

あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから。(1-3)

つまり、食べ物や、この世の物によって満足を追い求めるなら、気を付けてください。

もし、あなたが偉い人や、力がある人や、影響力のある人と一緒に食事をする時、彼らの立場、また、彼らが何の食べ物を与えるか注目してください。どうして、彼らがあなたにおごってくれるか考えてください。そうしないと、彼らはあなたに悪い計画に参加するように納得させるかもしれない。自分のお腹や、快楽だけを考える人は簡単に騙されます。

それに、食事することが大好きで、食べ過ぎたら、いろんな健康問題が出てきます。多分あなたはそんな人を知っていると思います。だから、ソロモンは警告します。

大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな。大酒飲みとむさぼり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぼる者は、ぼろをまとうようになるからだ。(20-21)

この箇所では、ソロモンはお酒の危険性について警告します。アルコール依存症の人には、いろんな苦しみがあります(29)。彼れらは健康問題が出てくるし、彼らの思いは、支離滅裂になります(32-33)。それに、彼らの人生がどれぐらいめちゃくちゃになったか全然分かりません。次の飲み物だけを考えます(35)。

富を追い求める人もいます。ますますお金を稼ぐことだけを考えます。でも、ソロモンはこう警告しました。

富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。(4-5)

要するに、この世の富は一時的なものだけです。あなたの死後に、その富を天国に持っていくことは、できません。それに、パウロはこう言います。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(第一テモテ6:9-10)

もちろんお金自体は悪いものではないです。でも、多くの人は、お金を追い求めながら、自分の結婚や、家族や、人間関係や、自分の人生までも壊してしまいました。自分の信仰から迷い出る人もいます。

セックスを追い求める人もいます。神様はセックスを良いものとして創造しました。つまり、結婚の中で、セックスは愛によって妻と夫を結び合わせます。でも、多くの人々は結婚の外でセックスを追い求めるので、彼らは結局苦しみます。

ソロモンは私たちに警告します。

遊女は深い穴、見知らぬ女は狭い井戸だから。彼女は強盗のように待ち伏せて、人々の間に裏切り者を多くする。(27-28)

どれぐらい、人々が良いものを悪い方法で使ったので、自分の健康や、結婚や、ミニストリーを壊したでしょうか。

それでは、どう生きればいいでしょうか。ソロモンはこう言います。

あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。(17-18)

要するに、この世の民が追い求めるものを追い求めるな。この世の民が願うものを願うな、ということです。

むしろ、神様追い求めましょう。そうすれば、私たちには将来の希望があります。そして、その希望は決して断ち切られることはありません。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

箴言22章ーー良い評判を持つこと

周りの人々があなたを見ると、彼らはどう思いますか。箴言では、そのトピックは良く出ています。ソロモンは10章で、良い評判の大切さについて書いたし、この箇所にも、同じことについて書きました。彼はこう言いました。

名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。(1)

この箇所では、私たちは、どのように良い評判を保つことができるか見ることができます。ソロモンはこう書きました。

利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。(3)

時々、私はハワイ人の考え方に驚きます。津波の警報がある時、海へ津波を見に行く人もいます。(私の友達も見に行ったことがあります。私は信じられませんでした。)

幸い、津波がハワイに付く前、小さくなったので、誰も怪我をしませんした。でも、その人は本当にバカなことをしたと思います。

それに、多くの人々は他の危険も見ることができません。ソロモンはこう言いました。

曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる。(5)

多くの人々は、どのように自分の罪が彼らの健康や、結婚や、他の人間関係を壊すか見ることができません。だから、彼らがその道を行き続けるので、彼らは苦しむし、自分の評判が地に落ちてしまいます。でも、知恵を持つ人は、その危険を見て避けます。

ソロモンは言い続けます。

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(4)

私たちが主を恐れると、良い評判を獲得できます。それでも、すべての人々があなたが好きなわけではありません。時々、主を恐れると、私たちは迫害されます。イエス様は罪のない神の子でした。それでも、ある人はイエス様を憎んだので、殺してしまいました。

しかし多くの場合、神様を恐れると、私たちは栄えるし、良い評判を獲得します。

私たちは、もう一つのことを覚えていなくてはなりません。私たちが自分の子供をちゃんとしつけないと、彼らは私たちの評判を汚すかもしれない。ソロモンはこう書きました。

愚かな子はその父の憂い、これを産んだ母の痛みである。(17:25)

また、

愚かな息子は父のわざわい。(19:13)

だから、ソロモンはこう言いました。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(22:6)

また、

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。(22:15)

そして、ソロモンは良い評判を獲得できる他の方法を教えます。つまり、

周りの人々を祝福する。(9)

清い心を保つ。また、恵み深い言葉を言う。(11)

怠ける態度を避ける。(13)

不倫を避ける。(14)

友達を賢く選ぶ。(24-25)

あなたの経済に気を付ける。(26-27)

正直に生きる。(28)

自分の仕事を上手にする。(29)

そんなことをすれば、あなたはイエス様のように、神と人とに愛さます。(ルカ2:52)

あなたはどうですか。どんな評判を作っているでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言21章1、30-31節ーーこの世を治める方

この世を見るとき、私たちは「神様は本当にすべてのことをコントロールしているんだろうか」と考えてしまいます。

でも、ソロモンはこう書きました。

王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(21)

多くのアメリカのクリスチャンは、だんだん変わっている国の道徳観念に悩んでいます。例えば、数年前、アメリカの政府はゲイの結婚を認め始めました。そして、クリスチャンが「ゲイの結婚に同意できない」と言ったら、彼らは迫害されてしまいます。

あるケーキ屋さんは、ゲイの人のためにも、誰のためにもケーキを作りました。でも、ある日、その店のゲイの常連は「私が結婚するので、ケーキを焼いて下さい」と頼むと、その店主はクリスチャンなので断りました。誕生日のケーキであれば、大丈夫だったけど、ゲイの結婚を祝うために焼けませんでした。そのケーキ屋さんは訴えられて、結局その店を畳まなくてはなりませんでした。

アメリカでは、多くの人が聖書の道徳の教えを拒絶するので、たくさんのクリスチャンは心配して、自分の子供たちを公立学校に送りたがりません。なぜなら、学校で、その子供たちは聖書に反対する教えも受けるからです。

最近、日本人には、別の心配があります。つまり、今、北朝鮮のリーダーたちは本当に怖いです。彼らはミッサイルも持っているし、私たちは彼らが何をするか予想できません。

だから、多くのアメリカ人でも、日本人でも、このを世を見ると、「神様は、本当にこの世をコントロールしているだろうか」と考えます。

でも、ソロモンはこう書きました。

主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。(30)

でもソロモンが正しかったら、どうして私たちは、こんなトラブルを目にするのでしょうか。なぜなら、神様は人間に選択する権利を与えてくださるから。私たちは神様を愛して、神様の道を行くことを選択できます。その反面、神様とその道を拒絶する選択もできます。

私たちはロボットじゃありません。神様はロボットを望んでいません。神様は、私たちが愛によって、神様に従うことを望みます。

でも、もう一つの理由があると思います。それは、私たちが神様からの使命を実行していないということです。私たちは世界中に行って、弟子を作るべきです。そうすれば、人々は変わります。国々は変わります。

何世紀も前、あるクリスチャンは戦争を通して、クリスチャンの国を造ろうと思いました。もし、クリスチャンの国を造ったら、皆が救われると思いました。でも、最終的に、彼らは失敗しました。

20-30年前、あるアメリカのクリスチャンたちは、政治を通して、アメリカを変えようと思いました。だから、彼らは良い法律のために戦いました。でも、アメリカはだんだん悪くなっています。

どうしてでしょうか。

私たちは人々の心を政治を通して、変えることはできません。戦争と人間の力を通して、人間の心を変えることはできません。

でも、私たちはこの世の一人一人に福音を述べ伝えると、神様は彼らの心を変え始めます。私たちがこの世に変わって欲しいなら、神様だけが私たちの希望です。

じゃあ、私たちは自分の権利のために戦ってはいけないでしょうか。私たちの国を攻撃から守るために準備してはいけないでしょうか。もちろん、そうした方が良いです。

しかし、それらは私たちの主な戦いではありません。むしろ、人々を奴隷にしているサタンと戦わなくてはなりません。人々を滅ぼしている悪魔と戦わなくてはなりません。それが私たちの主な戦いです。

神様は私たちが決して、迫害や、苦しみに直面しないと約束したことがありません。むしろ、神様は私たちが迫害や、苦しみに直面することを約束しました。

でも覚えていてください。私たちがどんな迫害や苦しみに直面しても、神様はまだこの世を治めています。そして、イエス様はこの世に戻ったら、皆がそれを認めます。でも、その日が来るまで、神様に従い、その使命を行いましょう。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言21章5、20節ーー私たちのお金を賢く使う事

アメリカでは、多くの人々はクレジット・カードを使います。アメリカ人と比べると、日本人はクレジット・カードをあまり使いません。

私が日本に住み始めた時、ちょっとカルチャーショックを受けました。なぜなら、店でレジの列は割と短かったから。日本人の大部分は現金を使うから。アメリカでは、多くの人がクレジット・カードを使うので、列はもっと長いです。

アメリカでは、たくさんの現金を持っているとちょっと危ないです。私がアメリカに住んでいた時、そんなにたくさん現金を持つ癖がありませんでした。でも、日本は割と安全だから、大丈夫です。

アメリカで、クレジット・カードを持っている人の間では、54%の人がクレジット・カードで払います。

日本のクレジット・カードを持っている人の間では、18%の人がクレジット・カードで払います。

それに、アメリカ人のクレジット・カードの負債は平均で65万円ぐらいです。アメリカ人の間では、半分ぐらいは分割払を選ぶから。しかし、日本人は、90%ぐらいは一括払いを選ぶそうです。

それでも、日本人はあまり貯金していません。アメリカ人は可処分所得の6%ぐらいを貯金します。日本人は可処分所得の0.72%ぐらいを貯金します。

だから、アメリカ人でも、日本人でも、お金をもっと賢く使わなくてはなりません。

多くのアメリカ人はお金が足りないのに、クレジット・カードで購入します。だから、分割払いを選んで、利子を付けて借金を払います。それに、軽率な購入のため、多くの人々は破産してしまいます。

だから、ソロモンはこう書きました。

勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。(21:5)

どれぐらい、私たちは欲しいものを見つけると、家計の状態を考えずに買ってしまうでしょうか。

もし、私たちが時間を取って、私たちの消費について考えたら、どれぐらい経済的な苦しみが避けられるでしょうか。

ソロモンは言い続けます。

知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。(21:20)

アメリカ人と比べると、日本人は持っていないお金を使う癖があまりありません。でも、多くの人は自分の将来を考えずにお金を使いすぎます。

あなたはどうですか。あなたの将来のために計画していますか。もしくは、将来を考えずに、自分の快楽にふけっているでしょうか。

あなたはクレジット・カードを使いすぎているでしょうか。あなたの借金が大きすぎるので、あなたは最終的に破産するでしょうか。

私たちは神様のお金の管理人です。だから、神様が私たちに委ねたお金を賢く使いましょう。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言20-21章ーー私たちの裁判官に自分のことを申し開きすること

私たちがこの人生を送っている間、私たちが死後に、永遠がある事を忘れるのは簡単なことです。そして、その日、私たちは自分のことを私たちの裁判官である神様に申し開きをしなくてはなりません。

ソロモンはこう書きました。

人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。(20:5)

もし、英知のある人が私たちの心を読み取れるなら、神様の前に私たちは何も隠すことができません。

ソロモンは言い続けます。

多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。(20:6)

たくさんの人々は神様を愛していると言うけど、その神様に対する愛を示す人は少ないです。だから、ソロモンは私たちに警告します。

さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。(20:8)

もちろん、ソロモンは人間の王について話しているけど、いつか、王の王は裁きの座に着いて、この世を裁きます。人間の王の判断は不完全です。なぜなら、彼らの知識と知恵は限界があるから。でも、すべてのことは神様の前に置くし、神様が正義の神なので、神様の判断は完全です。

ソロモンはこう言います。

人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。(20:27)

つまり、神様は私たちの最も隠された思いも知っています。

ソロモンは言い続けます。

人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。(21:2)

私たち皆が、いつか神様の御前に立って裁かれるので、ソロモンは私たちがどのように生きるか教えます。

私たちは正直に話さなくてはなりません。(20:10,16,23)

私たちは復讐を求めずに、裁きを神様の手に委ねなくてはなりません。(20:22)

たまに捧げものを捧げるよりも、毎日正しい生活を送らなくてはなりません。(21:3)

そして、神様の前にへりくだらなくてはなりません。(21:4)

そうしないと、ソロモンは私たちにこう警告します。

正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。(21:12)

多分、この箇所では、「正しい人」というのは、神様です。神様は悪者の家を見抜き、滅ぼしてしまいます。

ソロモンは言い続けます。

公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。(21:15-16)

でもこのソロモンの言葉を覚えていておいてください。

だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた」と言うことができよう。(20:9)

その答えは当たり前です。誰もそんなことが言えます。神様の前に立って、「私は罪を犯したことがない」と言える人は、一人もいません。自分の行動のため、天国に行く値する人は一人もいません。

私たち皆が失敗したことがあります。私たち皆が罪を犯して、神からの栄誉を受けることができません。だから、イエス様はこの世に来ました。私たち皆に救い主が必要だから。

だから、あなたが、神様の目に義人になりたがるなら、一番大切な命令に従ってください。

それは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

あなたはどうですか。裁きの日のために準備できていますか。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言19-24章ーー怠ける

子供の時に、私は本当に怠けていました。特に、私はよく宿題をサボった。

4年生の時、私がずっと宿題をサボったので、父は私に、「お前はハワイ島への修学旅行に行けないかもしれない」と警告しました。

5年生の時も、中学1年生の時も、私は宿題をサボったので、叱られてしまいました。でも、そのあとに、私はやっとその教訓を学びました。

なぜか分からないけど、大学についての悪夢を見る。その夢で、私がある授業をずっとサボって、期末試験が迫っている。だから、私は全然準備できなくて、パニックになります。どうしてだろう?大学生の時、私は真面目に勉強したのに。:)

とにかく、箴言では、私たちは、いろんな怠け癖に関する警告を読みます。

ソロモンは何度も怠けものをからかいます。

なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。(19:24)

また、

なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される」と。(22:13)

そして、彼は怠け者に関して、当たり前のことも言います。

怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。(19:15)

また、

しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(33-34)

でも、私に対して、一番印象が残る箇所は、21章25-26節です。

なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。

神様は私たちが周りの人々を祝福するように望みます。でも、私たちが怠けたら、私たちはもちろん苦しむけど、周りの人々を祝福することができません。また、私たちが怠けたら、神様からの賜物を無駄にします。そして、ある日、私たちは神様の前に申し開きしなくてはならない。イエス様はタラントのたとえ話で、その真理を教えました。(マタイ25:14-30)

あなたはどうですか。神様からの賜物を無駄にしているでしょうか。神様があなたの脳や、手を与えてくださったけど、あなたはそれらをちゃんと使っているでしょうか。神様はあなたに才能や、霊的な賜物を与えてくださったけど、ちゃんと使っていますか。

怠けないでください。あなたの賜物をちゃんと生かしてください。そうすれば、あなた自身を祝福し、周りの人々も祝福します。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言18-19–誰を信頼するか。何に頼るか。

あなたは、誰を信頼するでしょうか。何に頼るでしょうか。

自分自身ですか。お金ですか。もしくは、神様ですか。

箴言に、ソロモンは何回もこの疑問に取り組みます。彼はこう書きました。

主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。(10-12)

多くの人々は、自分自身だけを信頼します。彼らは、自分の知恵や、富みに頼ります。彼らは、もしお金さえあれば、どんな問題に直面しても、大丈夫だと思います。

でも、ソロモンが言ったのは、神様こそを信頼するなら、あなたは本当に安心できるということです。

多くの人々はお金に頼るけど、まだ幸せと安心を見つけていません。彼らの結婚はダメになってしまいます。彼らの仕事や、投資した株に関していつも心配して、あまり寝られません。彼らが必要な物を持っているのに、なんとなく安心できません。

ある人は、安心して、達成感があるけど、最終的に、彼らの建てた国は倒れてしまいます。さらに、裁きの日に、彼らは神様の前に、自分のことを申し開きをしなくてはなりません。そして、自分自身だけのために生きていたら、彼らの達成は無駄になります。

その反面、神様を信頼する人は、本当に安心できます。なぜなら、神様の御心に従うので、神様は彼らを見守るから。それに、裁きの日に、イエス様は自分の十字架の働きによって、彼らを擁護してくださいます。

だから、私たちは誰を信頼するか、また何に頼るか、気を付けなくてはならない。

ソロモンはこう書きました。

熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。(19:2)

自分の人生に対する情熱を持つかもしれないけど、神様とその導きに従わないと、あなたはつまずきます。

多くの人々は、しばしば情熱を持つけど、愚かな決断をするので、振り返ると、後悔が多いです。そんな人について、ソロモンはこう言います。

人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。(19:3)

どれぐらい、私たちは自分の愚かな決断によって自分の人生を台無しにして、神様に「どうして、こんなことが起こるのを許したんですか?」と訊くでしょうか。

でも実は、私たちは蒔いたものを刈り入れました。神様を信頼さえすれば、私たちはその落とし穴に落ちなかったでしょう。

だから、ソロモンはこう言いました。

命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。(19:16)

神様の言葉は命の言葉です。私たちがその言葉を無視することは、私たちの責任です。

だから、ソロモンは訓戒します。

忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。(19:20)

ソロモンの言葉を覚えていてください。

人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(19:21)

あなたはいろんな計画を立てるかもしれないけど、最終的に神様の計画は成就されます。

だから、神様の御心と戦わないでください。むしろ、その計画と協力してください。そうすれば、あなたはこう分かります。

主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。(19:23)

あなたは誰を信頼しているでしょうか。何に頼るでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言17-18章、21章ーーあなたの夫を祝福すること

このブログでは、私は妻たちについてあまり書きません。つまり、妻たちが何をするべきかについてほとんど書いたことはありません。私が結婚について書いた時、主に夫たちに対して書きました。なぜなら、聖書では、神様が健康的な結婚を保つ主な責任を夫たちにかぶせたから。聖書で何回もその原則を読むことができます。

でも、この箇所では、私たちは妻たちに対する言葉を読みます。

ソロモンはこう書きました。

良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。(18:22)

私は2005年に結婚しましたが、その言葉が本当だと言えます。私の妻を見つけた時、幸せを見つけました。私の妻は私を本当に祝福してくれます。

でも、妻たちが気を付つけないと、自分の夫に対する祝福にならずに、呪いになります。

例えば、ソロモンはこう言いました。

妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。(19:13)

また、

争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。(21:9)

もし、それは曖昧すぎなら、

争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。(21:19)

夫たちは、もちろん完璧な人ではありません。そして、多分私たちはしばしば思わず自分の妻をいらいらさせるかもしれない。認めたくないですけど、私もそうしてしまいます。でも、彼らの過ちをかさぶたのように剥がしたらいけないです。

それはちょっと気持ち悪い描写かもしれないけど、あなたの旦那さんにがみがみ小言を言う時、そのイメージを覚えていてください。なぜなら、あなたは、そのようなことをしているから。

じゃあ、もしあなたの旦那さんはあなたをいらいらさせるとき、無視したらいいでしょうか。もし彼の欠点を見逃せばいいけど、できないなら、旦那さんとそのことについて話してください。何も変わらないなら、もう一度話してください。でも、まだ変わらないなら、旦那さんに、もう何も言わずに、その状態を神様の手に委ねてください。彼のために祈ってください。

なぜなら、あなたは自分の旦那さんを変えることができません。神様だけが、彼を変えることができます。

実は、小言によって、あなたの旦那さんを変えることができるかもしれないけれど、多くの場合、彼はあなたに恨みを持つかもしれません。

神様だけが、結婚の平和を保ちながら、あなたの旦那さんを変えることができます。

ソロモンはこう書きました。

人(または、妻)に思慮があれば、怒りをおそくする。その人(妻)の光栄は、そむきを赦すことである。(19:11)

でも、夫たち、あなたに対する、ちょっと厳しい言葉があります。なぜなら、神様はその厳しい言葉を私にも言うから。それは、「あなたの奥さんの言うことを聞きなさい。」

あなたは彼女の文句が細かいと思うかもしれないけど、本当に細かいなら、あなたは簡単に変わることができるでしょう。そうすれば、あなたの奥さんに対する祝福になります。

でも、妻たち。神様はあなたが自分の旦那さんに対する祝福になるように望みます。でも、あなたがずっと彼のかさぶたを剥がし続けたら、祝福になりません。むしろ、その開放のため、あなたの夫は反撃してしまうかもしれない。

だから、がみがみ小言を言わずに、祈ってください。そうすれば、神様がどのようにあなたの旦那さんを変えるか、どのように神様があなたの心と態度を変えるかに驚くことでしょう。

カテゴリー: 箴言, 諸書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言18章ーー話す前に

箴言では、ソロモンは何回も私たちの言葉について警告します。私の友達は、一時期、箴言を読むのを避けたと認めました。なぜなら、彼の言葉が悪かったことを知っていて、ソロモンの警告を読みたがらなかったから。(しかし結局、彼の努力は無駄でした。神様は別の箇所を通して、私の友達を訓戒しました。)

とにかく、この箇所では、私たちが話す前に考えるように警告します。また、私たちが話す前に、相手の意見を聞くように忠告しています。

ソロモンはこう言いました。

愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。(2)

この箇所によれば、相手から学ぶ興味がなくて、自分が話すのが好きな人もいます。でも、彼らが相手の意見を聞いてこそ、彼らは知恵を獲得します。

ソロモンは言い続けます。

人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。(4)

また、

愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。(6-7)

さらに、

よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。(13)

要するに、先に考えずに話せば、妻や、夫や、友達や、上司を怒らせるかもしれない。だから、ソロモンはこう言いました。

反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。(19)

どれぐらい、あなたが先を考えずに話したので、愛している人に傷をつけたでしょうか。話すのは簡単なことです。しかし、その言葉が出たら、取り戻すのは無理です。

だから、ソロモンはこう言います。

人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。(20-21)

言い替えると、結局、私たちは自分の言葉の実を食べます。それ実は美味しいでしょうか。まずいでしょうか。私たちがどこにいても、私たちの言葉は私たちの人間関係に影響を与えます。私たちの言葉によって、人々は私たちを愛します。もしくは私たちを憎みます。

だから、妻や、夫や、子供や、同僚や、教会の人たちと話す時に、私たちの言葉に気を付けましょう。イエス様の言葉は、人々に命を与えました。私たちの言葉もイエス様の言葉のようになるように。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言17-19章ーー本当の友達

一生を通じて、私は親友ができて、本当に良かったと思います。良い時でも、悪い時でも、彼らは私を応援したり、支えたりしてくれました。

数年前、親友の大切さを思い出させられました。その時、私はスモールグループに参加して、5人の友達と一ケ月二回ぐらい集まり、自分の人生について話したり、聖書を読んだり、祈り合ったりしました。

その時、私たちの人生は、かなり大変でした。私が勤めていた会社が倒産したので、私は失業中でした。他の人には、彼女とのトラブルがあったし、もう一人は婚約者と別れたし、もう一人の奥さんはがんにかかりました。

だから、私たち皆が友人を必要としていました。そして、その友人関係と神様の助けのおかげで、私たちはその問題を乗り越えました。

ソロモンは、そんな友達について書きました。

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(17:17)

また、

滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。(18:24)

私が高校生の時に、私の父はこう言いました。「お前は内気なのはよく知ってるけれど、お前には親友が必要だよ。親友はたくさんいなくてもいいけれど、少なくとも一人は持っていた方がいい。」

その時期、私には友達がいたけど、親友がいなかった。私の心を本当に誰にもシェアできなかった。だから、私の父の言葉は私の心を打ちました。そして、神様の恵みによって、私は親友ができました。特に、高校生時代、また、大学生の時代、その親友関係は私の人生を形成しました。

多分、私たちは自分自身に二つの質問を訊くべきです。私たちにはそんな関係があるでしょうか。

そして、私たちはどのような友達でしょうか。私たちの友達が困る時、彼らを助けるでしょうか。

もしくは私たちはすぐに逃げるでしょうか。19章では、ソロモンはそんな「友達」についてこう書きます。

財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。(4)

また、

貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。(7)

あなたはどうですか。あなたの友達が苦しんでいるときに、あなたは消えてしまうでしょうか。もしくは、彼らを支えて、励ましてあげるでしょうか。

もちろん、彼らが経済的な問題があれば、私たちはいつもお金をあげるわけではありません。でも、私たちはできるだけ、彼らが自分の問題を乗り越えるために助けてあげるべきです。

あなたは本当の友達でしょうか。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言17章ーー効果的でも

私は以前にも言いましたが、時々箴言で、ソロモンはこの世の現実を説明していますが、神様がそれを見る時、喜ばれないだろうと思います。箴言17:8は一つの例です。

わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。

その箴言を読めば、あなたはソロモンがわいろを勧めていると思うかもしれないけど、後に彼はこう言います。

悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。(23)

ソロモンの目には、また、神様の目には、賄賂を使う人も、賄賂を受け取る人も悪者です。なぜなら、彼らは正義を曲げるから。私たちは政治の世界で、それを見ることがあります。また、裁判所で、それを見ることがあります。ソロモンは、そのことに関して、こう言います。

悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。(15)

たぶん、あなたは賄賂を使ったことはないでしょう。でも、どれぐらい悪い方法が効果的なので、その方法をあなたは利用するでしょうか。

例えば、どれぐらい「罪のない嘘」をつくでしょうか。

もしくは、あなたは、違法にインターネットで曲やビデオをダウンロードするでしょうか。

あなたは成功するかもしれないけど、神様はあなたの仕業を見て、それを忌み嫌います。

自分自身を騙さないでください。ある方法は効果的かもしれないけど、神様の目には罪です。

だから、神様の御言葉によって、私たちの行動を評価しましょう。その行動の効果は私たちの基準ではありません。神様の言葉が私たちの基準です。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言16-17章ーーどうやって人間関係を建てるか。どうやってその関係を壊すか。

この箇所では、私たちは人間関係を建て、守る原則を読みます。

一つの鍵は、私たちの言葉に気を付けることです。

ソロモンはこう書きました。

知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。(16:23-24)

私たちが他の人と話す時、私たちの言葉に気を付けなくてはなりません。私たちは何を言った方が良いか、また、いつ言った方が良いか知っているでしょうか。私たちの言葉は魂に甘く、人々を癒すものでしょうか。

そんな言葉は人間関係を建てて、守ります。

その反面、

ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(16:28)

ある人は、人間関係を癒せずに、その関係を壊してしまいます。例えば、彼らはしばしば噂をするので、いろんな人を傷つけてしまいます。

また、彼らが傷つけられた時、相手と話しをせずに、周りの人々にその人について悪口を言います。

でも、ソロモンはこう言いました。

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。(17:9)

もちろん、私たちは罪を隠すべきと言う意味ではないのです。もし、人々が本当に傷つけられた時、その罪を無視してはいけません。

でも毎日、人々は私たちに対して罪を犯します。時々、彼らはあえて罪を犯すけど、たまには、彼らは思わず私たちに対して罪を犯します。多くの場合、私たちはいらいらさせられるけど、時々私たちは本当に傷つけられます。

でも、どんな状態でも、噂をしたり、悪口をしたりすれば、その状態は良くなりません。むしろ、その状態はもっと悪くなります。

だから、あなたが本当に傷つけられたら、相手に面と向かった方が良いです。それはイエス様の命令です。(マタイ18:15)

そして、その問題を解決するとき、その人を許してあげて、もうそのことについて話さないべきです。「もうするなと言ったでしょう?私は何回そう言わなければいけないの?」と言ってはいけません。

むしろ、過去を指さずに、相手にその問題について話すべきです。

でも、時々、その問題が本当に小さかったら、何も言わずに、許した方が良いです。

ソロモンはこう言った。

争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。(14)

また、

そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。(19)

時々、私の妻は、私の家事のやりかたについて文句を言います。そして、私は「細かいなぁ。どうして彼女はそんなに怒っているだろうか。」と思います。

でも、その時、神様はこう応えます。「細かいかもしれないけど、簡単なことでしょう?だから、喧嘩せずに、しなさい。喧嘩すると、壁を建てるだけです。そして、ずっと壁を建て続けると、あなたの結婚を壊してしまいます。」

私は自分のプライドを押さえなくてはならないけど、私の結婚にはその方がいいと思います。

実のところ、私の弱さや欠点が私の妻のよりも多いと思うので、妻の方が忍耐が必要だと思います。その忍耐を本当に感謝します。

最後に、ソロモンはこう言います。

自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。(27)

私たちが喧嘩するときに、私たちの言葉を控えて、気を付けなくてはならない。私たちは冷静になるべきです。なぜなら、私たちの怒りによって喋ったら、きっと後でその言葉を後悔するから。

あなたはどうですか。あなたの言葉は人間関係を建てているでしょか。その関係を壊しているでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言16章ーー私たちの心を神様の心に合わせること

私たちはしばしば、自分の計画を勝手に立て、「神様、私の計画に参加しませんか」と祈ります。でも、そんな考え方は間違っています。

私たちは神様に私たちの計画に参加するように招待しない方が良いです。むしろ、私たちは神様が何をしているか訊いて、どうやって神様の計画に参加できるか考えた方が良いです。

ソロモンはそれを知っていたので、彼はこう言った。

人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。(1)

また、

人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(9)

私たちはいろんな計画を立てることができるけど、最後の答えは神様から来ます。もし、私たちの計画が神様の御心に合っていないなら、その計画は上手くいきません。

ソロモンは言い続けます。

人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。(2)

また、

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(25)

時々私たちは自分の動機に関して、自分自身を騙してしまいます。私たちは自分が正しいことをしていると思うけど、神様は私たちの本当の動機を知っています。そして、私たちは自分の立てた計画は良いものだと思うのに、結局その計画のため、私たちは大損をしてしまうことがあります。

だから、計画を立てる時、私たちはこう祈った方が良いです。「神様、私を探り、私の心を知ってください。なぜ、私はこの計画を立てるのでしょうか。この計画はあなたからきたものでしょうか。これは私の考えに過ぎないでしょうか。」

ソロモンはこう言いました。

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(3)

私が以前言ったように、ソロモンは、「自分の計画を立てて、神様の祝福のために祈りなさい」と言っていません。むしろ、私たちは主の権力に従って、こう訊くべきです。「主よ。これはあなたの御心でしょうか。私はこの道を行った方が良いでしょうか。」

私たちがすべてを神様に奉げ、自分の計画を主に委ねてこそ、私たちの計画は成功します。

ソロモンはこう言いました。

主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(4)

神様は決して驚きません。私たちの選択を見る時、神様は決して面食らいません。神様は皆の選択をもう知っていて、神様がどう反応した方が良いか知っています。だから、私たちの計画は神様の計画を決して妨げられない。でも、私たちの計画が神様の計画の反対なら、私たちの計画はダメになってしまいます。

だから、私たちはどうしたら良いでしょうか。へりくだって、神様の御心を求めるべきです。多くの人々は、神様が要らないと思うので、自分の知恵によって計画を立てます。でも、ソロモンはこう言います。

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(18)

その反面、

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。(20)

あなたはどうですか。

あなたの人生をどのように送っているでしょうか。あなたは勝手に自分の計画を立て、「神様、私の計画を祝福してください」と祈っていますか。神様の御心をあなたの計画に合わせようとしていますか。もしくは、あなたの計画を神様の御心に合わせようとしているでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言15章13, 15-17–その代価を本当に支払いたいの?

イエス様は弟子になる事に関して、こう言いました。「費用を計算しなくてはなりません。」(ルカ14:28-33)

私たちの人生では、いろいろな費用を計算するべきです。そして、私たちは自分自身にこう訊かなくてははならない。「私が求める物はその代価に値するでしょうか。」

ソロモンはこう書いた。

心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。(13)

また、

悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。(15)

要するに、私たちの心の調子は私たちの喜びのレベルを左右します。もし、心の中に主の喜びを持てば、私たちの顔は明るいし、この神様からの人生を楽しむことができます。でも、もし、この世の重荷を背負って、サタンに圧迫されたら、あなたの人生は本当にみじめなものになります。

だから、ソロモンはこう言います。

わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(16-17)

お金を持てば、幸せになると思う人もいます。でも、多くの場合、お金を持っていても、彼らは苦しみます。彼らはいつも証券の市場や、景気について悩んでいますから。

もしくは、彼らは働きすぎるので、彼らの家族はダメになっていしまいます。奥さんは、いつも文句を言うし、子供たちもそのお父さんとの関係が悪くなります。

しかも、彼らは寝不足だし、ストレスがたまるので、彼らの健康もダメになってしまいます。

その反面、お金があまりないけど、神様との平和と、家族との平和がある人もいます。

彼らは欲しがるものをすべて持っていないかもしれないけど、必要なものを持っています。彼らはちゃんと食べられるし、ちゃんと寝られるし、洋服も持っています。それに、家族の愛も持っています。

あなたは何を求めているでしょうか。その費用を計算していますか。あなたの健康や、家族や、神様との関係は上手くいっているでしょうか。上手くいっていないでしょうか。

あなたが求めるものはその代価に値するでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言15章ーー主を喜ばせること

どうやって、私たちの主を喜ばせることができるでしょうか。

ソロモンはこう書いた。

主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。(3)

私たちは神様から隠れることができません。神様は私たちの行動を見るだけではなく、私たちの心も見ることができます。

だから、ソロモンはこう言った。

よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。(11)

要するに、神様が地獄でも見ることできるなら、私たちの心も神様の前に開いている本のようなものです。

だから、神様を喜ばせたいなら、私たちの正しい行動だけでは足りないです。私たちの全ての心を捧げなくてはなりません。なぜなら、神様は私たちの動機も見て、気にするから。

だから、ソロモンはこう言った。

悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。主は悪者の行ないを忌みきらい、義を追い求める者を愛する。(8-9)

あなたはどんな「いけにえ」を神様に捧げるでしょうか。

例えば、毎週の日曜日、あなたの時間を捧げて、教会に行くでしょうか。でも、月曜日から土曜日まではどうですか。その日にも、主を喜ばせるために、あなたの時間を捧げるでしょうか。

あなたは、十一献金を捧げるかもしれない。また、チャリティーに寄付するかもしれない。でもお金の残りはどうですか。主を喜ばせるためにお金を使うでしょうか。

本当に神様を愛していないなら、神様に対してあなたのいけにえや、捧げものは意味がありません。

だから、ソロモンはこれも書いた。

悪人の計画は主に忌みきらわれる。親切なことばは、きよい。(26)

この瞬間、神様があなたの心を見たら、何を見るでしょうか。あなたは心を尽くして、神様を喜ばせようと思っているでしょうか。もしくは、自分自身を喜ばせようと思っているでしょうか。

また、神様があなたを懲らしめる時、あなたはどのように反応するでしょうか。あなたはへりくだって、その懲らしめ受け入れるでしょうか。ソロモンは私たちに忠告します。

愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。

また、

いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。(31-33)

だから、あなたが神様を喜ばせたいなら、二つのことを覚えておいてください。

一つ目は、主を喜ばせるのは、一週間に一度の物ではないということです。あなたはアルバイトのクリスチャンになるのは不可能です。あなたはクリスチャンかもしれない。あなたはクリスチャンじゃなかもしれない。でも、中途半端のクリスチャンという人は存在しないです。神様は私たちの部分だけを望まない。神様は私たちのすべてを望みます。

二つ目は、神様が私たちを懲らしめる時、私たちはその訓戒をへりくだって受け入れなくてはならないことです。

そうすれば、私たちは神様を喜ばせることができます。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言15章ーー知恵を持って、話すこと

箴言では、ソロモンは、しばしば私たちの言葉に関する知恵を伝えます。特に、15章では、ソロモンは私たちの言葉について話します。

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。(1)

人々が私たちに怒る時に、時々彼らは私たちに酷いことを言います。そして、私たちが酷いことを言い返すのは本当に簡単なことです。でも、そうすれば、その人はもっとかんかんになって、その問題が解決できなくなります。

でも、多くの場合、あなたが「ごめんなさい」と言いさえすれば、彼らは落ち着きます。

「でも、私は悪くなかった。どうして謝らなければならないのか。」と言う人もいます。

そんな場合、「私が悪かった」と言う必要がないかもしれない。でも、時々、私たちは思わず私たちの言葉や行動によって彼らを傷つけてしまいます。あなたは相手が敏感すぎだと思うかもしれない。それに、彼らは実際に敏感すぎるかもしれない。

そんな場合、私はこう言います。「ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりはなかったけど、申し訳ありません。許してくれませんか。」

そして、その以降、私の行動と言葉に気を付けます。私が悪くなかったと思うかもしれないけど、相手の気持ちを認めて、その人に対する愛のため、またキリストに対する愛のため、そんな彼らを傷つける言葉や行動を避けます。

ある日、私はメールを友達に送って、ちょっとその人をからかいました。彼女は爆発して、酷い返事を送った。そんな反応は私をびっくりさせました。私は悪意を持って、彼女をからかったつもりがなかったからです。以前から何度も彼女にそんなことを言ったことがあったのですが、相手は怒らずに笑っていました。だから、彼女の返事を読んだとき、私は信じられなかった。

しかし、私にとって、私が悪かったかどうか、大切じゃなかった。私たちの友情が何より一番大切でした。だから、私はすぐに謝って、彼女は落ち着きました。今でも、私たちは良い関係があります。でも、あれから、彼女と話す時、私がどんな冗談を言うか気を付けます。

実は、あれから誰と話しても、私は自分の冗談に気を付けるようにしています。

ソロモンは4節で続きます。

穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。(4)

私たちの口から、どんな言葉が出るでしょうか。私たちの言葉を相手の傷を癒すでしょうか。もしくは、その言葉は相手の魂を砕くでしょうか。

実は、私がその友達に謝った理由の一つは、以前、彼女が自分のお父さんについて話したことです。つまり、彼はいつも彼女とそのお母さんに酷いことを言っていました。そして、彼女らが傷ついた時に、彼はいつも「お前たちが繊細すぎる」と言いました。

その時、彼は彼女らの魂を砕きました。ですから、私は彼の態度を真似したくなかったのです。

ソロモンは続いて、もっとポジティブなことを言います。

良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。(23)

私たちはそのような人になるべきです。人を傷つけることを喜ばずに、時宜にかなったことばで人を励ますことを喜ぶべきです。

ソロモンはもう一つのことを言います。

正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。(28)

あなたはどうですか。話す前に、あなたの言葉を思い巡らすでしょうか。その言葉が癒す言葉かどうか、またその言葉が命を与える言葉かどうか、確認するでしょうか。もしくは、あなたの口から悪を吐き出すでしょうか。

あなたの口から何が出るでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言14:9,23,30– 周りの人々との平和、心の中の平和

この箇所を読む時、後の三つの箴言は私の心を打ちます。

罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。(9)

時々、私のブログを日本語に本訳するのは難しいです。なぜなら、時々新改訳と英語の翻訳は違うから。(一つの単語にはいろんな意味があるし、ヘブル語の文法は英語と日本語の文法と違うから)。この箇所は一つの例です。

多分、文法的に、日本語の方が正しいでしょう。でも、その意味はちょっと分かりにくいです。新改訳が正しいなら、多分その意味は、愚か者が自分の罪を思い出すと、彼れは罪悪感があって、苦しむことです。

でも、多くの英語の聖書では、この箇所はこのように翻訳されています。

愚か者は過去のためのいけにえをあざけり、正しい者の間には恩恵がある。

つまり、愚か者は罪悪感がないという事です。誰かが彼らに「あなたは罪を犯した。あなたは悔い改めて、神様にいけにえを捧げるべきです。」と言っても、彼は全然悔い改める気がないです。でも、悔い改める人は相手と和解することができます。

私たちはただの人間です。私たち皆、意図せずに人を傷つけることがあります。多くの場合、あなたが謝ったら、その人と和解できます。でも、時々謝罪するだけでは足りないこともあります。

例えば、自分の子供と遊ぶと約束したけど、結局急用のため出来なかったら、もちろん謝った方が良いですけど、後で、予定を開けて、彼らと遊ぶべきです。正しい人はそのようなことをします。

その反面、愚か者、つまり、道徳観念のない人は、謝らないし、償いをするのを拒絶します。むしろ、彼らは償いをする必要がないと言い張ります。「相手が気にしすぎる」とか言います。

でも、周りの人々と平和を望んだら、償いをしなくてはならないのです。

22節では、ソロモンはこう書きます。

悪をたくらむ者は迷い出るではないか。善を計る者には恵みとまことがある。(22)

もちろん、悪をたくらむ人は人間関係を壊します。でも、私たちが意識をして、周りの人々を祝福するなら、その関係から恵みと真が生み出されます。私たちは相手を親切にするなら、彼らは私たちをも親切にしてくれます。

どれぐらい、あなたは意識をして、友達を祝福するでしょうか。どれぐらい、あなたの妻や、夫を祝福するでしょうか。例えば、あなたはどれぐらい外食に行く時に友達におごってあげるとか、あなたの妻にバラを買ってあげるとか、そのようなことをするでしょうか。

もちろん、周りの人々との平和は大切な物です。でも、自分の心の中で、平和がある事も大事なものです。それに関して、ソロモンはこう言います。

穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。(30)

この箇所も、翻訳はちょっと難しいです。新改訳では「激しい」と書いてあるけど、もう一つの意味があります。それは「嫉妬」です。

だから、ある英語の聖書はこう書いてあります。

嫉妬は骨をむしばむ。

あなたは満足でしょうか。あなたは周りの人々のものを見る時、ねたむでしょうか。彼らの仕事や、持ち物や、妻か夫を見る時、ねたむでしょうか。

嫉妬すると、あなたの骨をむしばみます。あなたは決して幸せを得ることができません。なぜなら、あなたが良いものを持っていても、その物を感謝できないから。あなたは相手の物をいつも見ているから。

でも、あなたが満足していれば、あなたは平和があって、神様からの賜物を楽しむことができます。

あなたはどうですか。周りの人々と平和があるでしょうか。心の中で平和があるでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言14章20-21、31節ーー私たちの創造主を侮る事

どれぐらい私たちは神様を侮るでしょうか。

あなたは「神様を侮る?私は、神様を侮らないよ。」と言うかもしれない。

でも、私たちが神様が造った人々を見下す時、実は私たちは神様を侮るのです。

ソロモンは何回もそう教えていました。

貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、富む者を愛する人は多い。自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。(20-21)

箴言を読む時、時々私たちは20節のような箇所を見て、考えます。「これは神様が望んでおられるのだろうか。」

実は、それは神様の希望ではありません。ソロモンは現実に実際起きていることを説明するだけです。金持ちはたくさんの友達がいます。でも、彼らのお金が無くなったら、その友達もすぐにいなくなってしまいます。放蕩息子の話では一つの事例です。(ルカ15章)

でも、現状はいつも神様の希望ではありません。神様が言ったのは、私たちが人々を侮る時、特に苦しんでいる人を侮る時、実は私たちが神様を侮っているのと同じです。でも、私たちが彼らを祝福するなら、神様は私たちを祝福してくださいます。

31節で、ソロモンはこう言います。

寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。

17章で、ソロモンは同じようなことを言います。

貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。(17:5)

どうして、私たちが人々を侮る時に、私たちは本当に神様を侮ると書いてあるのでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、人々を侮る時、私たちは神様に「この人を造った時、あなたはミスした。この人は侮りにふさわしい人です。」と言っていることです。

二つ目は、私たちは神様のかたちとして造られたものを侮っていることです。私たちが彼らの顔につば吐きをかけたら、神様の形につば吐きをかける。

あなたはどうですか。貧しいものやホームレスを侮るでしょうか。弱い人を見下すでしょうか。そんな人を侮る時、私たちはイエス様を侮るなのです。

でも、彼らを親切にするとき、私たちはイエス様を親切にします。イエス様はこう言いました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ25:40)

あなたは周りの人々をどう考えるでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言14章ーー考えなさい

私には日本人の親が分からないけど、アメリカでは、子供が馬鹿なことをする時に、しばしば親の叱責の最後の言葉は、「考えなさい」です。

私は詳しく覚えていないけど、私の父にそう言われたことがある気がします。

この箇所では、ソロモンも「考えなさい」と言います。

利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。(8)

また、

わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。(15)

どれぐらい、私たちは考えずに行動するでしょうか。そして、その軽率な行動によって、私たちは苦しんでしまいます。特に、私たちが怒る時、しばしば愚かなことをしてしまいます。

だから、ソロモンはこう言った。

愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気な者は愚かなことをする。(16-17)

また、私たちは神様の知恵に頼らずに、自分の知恵に頼ることがあります。その時、私たちはソロモンの言葉が正しいと分かるようになります。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(12)

それでは、私たちはどうすれば良いでしょうか。まず、ソロモンは二つの警告をします。

あざける者は知恵を捜しても得られない。しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。愚かな者の前を離れ去れ。知識のことばはそこにはない。(6-7)

つまり、神様からの知恵をあざけるな、ということです。聖書を読む時、「この言葉は昔の時代には合うと思う。でも現代には適応できない。その道徳は昔の人のためにふさわしかったかもしれないけど、もう21世紀だよ。」と言ってはなりません。

そんなことを言ったら、あなたは神様の言葉を見下しています。でも、神様は自分の言葉が決して変わらないと言います。

多くの人々は神様の知恵を捨てて、現代にふさわしい知恵を求めるけど、結局見つけられません。なぜなら、神様の知恵を拒絶すると、知恵がなくなってしまうからです。

二つ目の警告は、愚か者から知恵を求めるなという事です。ある人は、高ぶって、馬鹿です。彼らは神様の道を考えないし、叱責を決して受け入れません。だから、彼らの知恵は神様の知恵に反対するものです。もし彼らの知恵に従うと、あなたは苦しんでしまいます。

では、どう生きればいいでしょうか。どうやって、最もいい道が見分けられるでしょうか。ソロモンはこう言います。

知恵のある者は用心深くて悪を避け[ます]。(16)

また、

力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。(26-27)

つまり、私たちの道を考える時、私たちは主を恐れるべきです。私たちは主に尋ねるべきです。「どの道は最も良いでしょうか。どうすれば良いでしょうか。」

そうすれば、神様は本当の知恵を教えてくださいます。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言13章24節ーー私たちの子供たちを懲らしめること

英語では、「Spare the rod, spoil the child」(むちを控えると、子供はだめになる)と言うことわざがあります。

これは聖書からきているわけではないですが、聖書には、似ている言葉が何回も出てきます。

箴言13:24で、ソロモンはこう書いた。

むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

時々、親はこう言います。「私は子供を愛しているので、彼らが悪いことをしても、私は懲らしめることができない。彼らの涙を見たくないから。」

でも、ソロモンが言ったのは、「あなたは自分の子供を懲らしめないなら、本当にその子供を愛していないのです。あなたはその子を憎んでいるのと同じです。」ということです。

どうしてソロモンはそう思ったでしょか。他の箴言で、私たちはソロモンの答えを読むことができます。

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。(19:18)

つまり、子供を懲らしめないことは、その子どもを殺すようなものです。なぜなら、子供を懲らしめないなら、その子供は自分の愚かな行動によって、殺されるかもしれないから。

箴言では、この言葉もあります。

愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。(22:15)

子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(23:13-14)

むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(29:15)

要するに、子供たちはすべてのことを知りません。だから、彼らの愚かな行動によって、彼らは周りの人々だけではなく、自分自身をも傷つけてしまいます。最悪の事態では、彼らの行動は死に導くかもしれない。

例えば、あなたが子供に「道に飛び出すな」と決して言わないと、どうなるでしょうか。

その反面、あなたが「止れ」と言う時、子供がさっそく止ることを訓練すると、その子供の命を救うでしょう。

あなたの子供を懲らしめるのは、親に対しても、子供に対しても苦しいことです。私の娘を懲らしめるのは嫌いです。でも彼女の利益のために私は彼女を懲らしめます。

いろんな懲らしめ方があります。私の家では、タイムアウトのシステムを使います。娘は悪いことをしたら、自分の部屋に行かなくてはならない。そのあと、私は彼女と話します。彼女が2-3歳くらいの時、私たちはそのように何回も懲らしめた。幸い、最近はそんな必要はあまりありません。

私はもう娘を懲らしめたくないです。でも多分将来、またしなくてはならないでしょう。

あなたはどうですか。あなたの子供を愛して、懲らしめるでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言13章20節 ーー知恵のある人と歩むこと

私が知っているある牧師は、この箇所が大好きです。

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。(20)

その牧師はこの箇所をこのように説明します。「ソロモンは、愚か者の友達が愚かになると言いません。(でも、もちろん彼らといつも時間を過ごすなら、あなたも愚かな決断をしてしまうかもしれない。)ソロモンは、あなたが愚か者の友達になると害を受けると言います。愚か者と一緒によく遊ぶと、最終的に私たちは苦しんでしまいます。」

あなたにも、振り返るとそんな経験があるでしょうか。あなたは悪い人と遊んで、彼らの悪い行動に巻き込まれて、苦しんだことがあるでしょうか。

もちろん私はノン・クリスチャンと決して遊ぶなと言いません。もし、彼らと時間を過ごさないなら、弟子を造りなさいというイエス様の命令をどうやって成し遂げることがでるでしょか。

でも、自分自身にこの質問を訊かなくてはなりません。誰が誰に影響を与えているでしょうか。あなたは彼らに影響を与えているでしょうか。もしくは、彼らがあなたに影響を与えているでしょうか。

あなたがノン・クリスチャンに影響されないように、彼らとだけ時間を過ごすのではなく、知恵のあるクリスチャンとも時間を過ごすべきです。知恵のあるクリスチャンというのは、毎日神様と歩んで、神様の声を聞く人という人です。

そんな人と時間を過ごせば、神様はしばしば彼らを通してあなたに話します。そして、その言葉を通して、あなたは命を獲得します。

あなたは誰と歩んでいるでしょうか。知恵のある人と歩んでいるでしょうか。愚か者と歩んでいるでしょうか。神様と歩み、神様の声を聞く人から、意見を受けるでしょうか。もしくは、愚か者の意見を受けいているでしょうか。

 

カテゴリー: 箴言, 詩篇, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言13章ーープライド

箴言では、いろんなテーマが繰り返します。一つのテーマはプライドの危険です。

私たちのプライドによって、どのように私たちは苦しむでしょうか。

叱責を聞かないと、私たちは最終的に悩んでしまいます。もちろん叱責を聞くのは痛いですけど、将来の苦しみから私たちを救います。

ソロモンはこう書いた。

知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。(1)

私は父の叱責を楽しまなかった。多分、私に対する一番心を刺した父が言った言葉は「私はお前をもう信頼できない。」という事でした。私が何回も父に嘘をついたので、彼はそう言ったのです。でも、私は父の信頼(また、私の周りの人々の信頼)を望んだので、あれから私は正直に言うことを心掛けています。

ソロモンはこれも言います。

みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。(13-14)

また、

貧乏と恥とは訓戒を無視する者に来る。しかし叱責を大事にする者はほめられる。(18)

私たちは知恵のある人の言葉を聞くと、命を見つけます。なぜなら、私たちがまだ経験していないことを、彼らは経験したから。もし彼らの意見に従えば、私たちは彼らが落ちてしまった落とし穴を避けることができます。でも、私のプライドによって、その意見を無視すると、私たちは苦しんでしまうでしょう。

私たちのプライドによって、私たちの人間関係も壊れるかもしれない。ソロモンはこう書いた。

高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。(10)

実は、多くの場合私たちの喧嘩は(特に妻か夫との喧嘩は)プライドから生まれるのです。私たちが悪かったと認めたくない。私たちが間違っていると認めたくない。だから、私たちは頑固に自分の意見が正しいと言い張ります。でも、あなたが自分の心に素直になって認めるなら、あなたが悪いと分かります。

時々、私の妻は「こうするべきだよ」と言ったけど、私はそうしたくなかった。でも、神様は私に、「あなたのプライドを離しなさい。あなたの妻の言うことを聞け。」と言いました。

時々、私が確かに正しいと思ったけど、神様は私に、「あなたのプライドを離しなさい。この喧嘩は些細なことだから。」と言いました。

私たちのプライドを飲み込むのは難しいです。でも、あなたの関係がうまくいくように望むなら、プライドを捨てるのを学ばなくてはならない。それに、時々、あなたの妻か夫は正しいので、その意見に従った方が良いです。

あなたはどうですか。 あなたのプライドに治められているでしょうか。もしくは、あなたのプライドを治めているでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言12章18, 25ーー人を傷つける言葉、人を癒す言葉

12章では、18節と25節は私の心を打ったので、その個所に焦点を当てようと思いました。

ソロモンはこう言ました。

軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。(18)

どれぐらいあなたの軽率な言葉によって、あなたは愛している人を傷つけてしまったでしょうか。どれぐらい、相手の軽率な言葉によって、あなたは傷つけられたでしょうか。

特に、喧嘩する時に、私たちは傷つけ合ってしまいます。だから、喧嘩するときに、何を言うか気を付けなくてはならない。

基本的に私たちは相手を侮辱したらダメです。

「あなたは馬鹿だね。何でそんなことをしたの?」

「あなたは敏感すぎ。」

「あなたはあまりにも感情的だよ。」

時々私たちは相手について大げさに言います。

「あなたは決して手伝ってくれない。」

「いつも遅く帰って来るなぁ。」

そんな言葉を言うと、その問題が解決できません。むしろ相手は怒って、残酷な言葉で言い返してしまいます。そして、ソロモンが言ったように、そんな言葉は剣のように心を刺します。

でも、冗談を言う時にも、また、皮肉を使う時にも、気を付けなくてはならない。時々、誰かをからかって、思わずその人を傷つけてしまいます。私にもそんな経験があって、後悔します。

私たちの言葉によって人を癒すはずだけど、どれぐらい私たちは彼らを傷つけてしまうでしょうか。

25節では、ソロモンはこう言います。

心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。(25)

以前言ったように、私たちは人々をからかって、思わずに彼らを傷つけてしまいます。相手を傷つけなくても、あなたは彼らを励ましてあげていないです。彼らを愛によって励ました方が良いのではないでしょうか。彼らが悩んでいるときに、彼らを励ますとしたら、どうでしょうか。また、あなたが、「あなたのために祈りましょうか」と言えば、どうでしょうか。

神様は私たちがそんな人になるように望んでいます。イエス様はそのような方でした。

あなたはどんな人でしょうか。

あなたの言葉は人々を傷つけるでしょうか。彼らを癒すでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言12章ーー単刀直入な知恵

12章の箴言は本当に単刀直入ですね。

訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ。(1)

箴言では、このテーマがよく出てきます。賢明な人になりたいなら、あなたは喜んで訓戒を受け入れるべきです。そうしないなら、あなたは。。。間抜けです。

また、もしあなたがすでにすべてのことを知っていると思うなら、また、アドバイスがいらないと思うなら、それは間抜けな考え方です。15節で、ソロモンはこう言います。

愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。(15)

そして、ソロモンは生き生きとした描写を使って、単刀直入なことわざを教えます。

しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。(4)

二つの視点から、この箴言を読むことができます。男性の視点では、誰と結婚するか気を付けてください。その女性の見掛けは一番大切ことじゃないです。もし、その女性がしっかりした人なら、彼女はあなたの人生を豊かにする。でも、恥をもたらす妻はあなたの骨の中の腐れのようです。

女性の視点では、あなたはどんな妻でしょうか。あなたの夫に命と喜びを与えているでしょうか。もしくは、あなたは夫の人生に腐敗を引き起こしているでしょうか。

もう一つの単刀直入なことわざ。

自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。(11)

多くの人は、頑張って働かずに、ギャンブルしたり、宝くじを買ったりするので、結局、彼はすべてをなくしてしまいます。もし、彼らがちゃんと働いてこそ、生活できたけど、彼らの金を捨ててしまった。

最後の単刀直入なことわざがあります。

愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(16)

あなたはすぐ自分の怒りを現すでしょうか。あなたの夫に対しては?あなたの妻に対しては?あなたの同僚に対しては?あなたの友達に対しては?そうするなら、ソロモンはあなたが愚か者だと言います。

なぜなら、誰かがあなたをイライラさせるときに、あなたはいつもあなたの怒りを現したら、その人を傷つけるし、その関係を壊してしまうかもしれないから。

誰かがあえてあなたをイライラさせるときにも、爆発するよりも、そのことを無視した方がいいです。もし爆発すると、その人は嬉しくて、あなたをもっともっとイライラさせようと思います。

じゃあ、私はあなたが決してその人に面と向かわない方が良いと言っていますか。それは違います。もし、あなたの夫や妻や友達が思わずあなたをイライラさせられるなら、彼らと話した方がいいと思います。一回話してください。二回話してください。もし、何も変わらないなら、彼らを神様の手に委ねてください。そして、忍耐のために祈ってください。

あなたが人々を変えることができないことを覚えていてください。神様だけが人々の心を変えることができます。だから、自分の努力で、相手を変えようとしないでください。人を変えられる神様の手に委ねてください。

この箴言を見るとき、ソロモンが言ったように、間抜け者にならないように。頑固にならないでください。言い訳を言わないでください。むしろ、私たちは賢明な人になりましょう。神様の訓戒を受け入れましょう。そうすれば、私たちのフラストレーションは減らし、私たちの喜びは増えます。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言11章24-26、30節ーー神様の恵みのパイプラインになること

もう箴言11章について書いたけど、もうちょっと24-30節を見たいと思います。

この個所は人に恵みを与える喜びについてです。あなたが人々に恵みを与えるとき、もちろん彼らが祝福されるけど、あなたも祝福されます。ソロモンはこう書いた。

ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。(24)

私たちは神様の恵みのパイプラインになるように呼ばれました。神様が私たちに恵みを与えてくださるとき、私たちはその恵みを周りの人々に与えるべきです。そして私たちが周りの人々に恵みを与えるとき、神様がさらに私たちに恵みを与えるので、私たちはさらに周りの人々に恵みを与えることができます。パウロはこの原則をこのように説明します。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。。。 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。(第二コリント9:8、11)

でも、もし私たちが自分のお金にしがみつくと、その恵みのパイプラインは詰まってしまいます。だから、私たちの周りの人々が祝福されないし、神様は私たちの人生に恵みを注がなくなります。なぜなら、あなたのパイプラインが詰まっているので、神様の恵みはもう入れないから。

その反面、ソロモンはこう言います。

おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。(25)

私たちは周りの人々に恵みを与えて、恵みのパイプラインになると、私たちも潤されます。

英語では、「Random acts of Kindness](ランダムな親切な行動)という表現があります。例えば、ホームレスの人に出会ったら、あなたはその人にお金をあげる。また、あなたは花屋を見たら、急にあなたの友だちについて考えて、その友達に花を買ってあげます。

もちろんそれは良いことです。でも、私は「意識して親切にする人」について聞きました。その人は周りの人々をよく見て、意識して「どうやってその人を祝福できるだろうか」と思います。彼がすぐに分かったのは、人々を祝福するとき、彼も祝福されることです。キリストの愛が彼を通して流れて、人々に触れることを見るとき、彼は大喜びです。

どれぐらい、私たちがけちなので、その喜びを経験する機会を失うでしょうか。私たちが神様のパイプラインになったら、どれぐらい私たちは喜ぶでしょうか。

ソロモンはこう言います。

穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。(26)

どれぐらい、私たちが恵みのパイプラインを詰めるので、私たちのクリスチャンの証は汚れるでしょうか。なぜなら、周りの人々は私たちを通してキリストの愛を見ずに、自己中心の人だけ見えるから。

あなたはどうですか。周りの人々があなたに出会うとき、彼らはキリストに出会うでしょうか。

30節で、ソロモンはこう言います。

正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。(30)

人々は私たちに出会うとき、命に出会うはずです。もし神様の愛が私たちを通して流れるなら、彼らは命に出会います。その愛は彼らを私たちに近づけるだけではなく、神様に近づけます。

ソロモンは、「知恵のある者は人の心をとらえる。」と言います。でも神様の愛と恵みがあなたを通して流れないなら、神様のために人の心をとらえられないです。

私は何か認めなくてはならない。私は何回もその恵みのパイプラインを詰めたことがあります。私も変わらなくてはならない。あなたはどうですか。あなたは神様の恵みと愛のパイプラインでしょうか。

天のお父様、私はあなたの恵みのパイプラインを詰めました。赦してください。多くの場合、私は自分自身だけについて考えます。私にあなたの心を与えてください。私を変えてください。イエス様の人に対する態度を私に与えてください。私があなたの愛と恵みのパイプラインになるように。アーメン。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言11章ーー将来を考えること

この個所の繰り返すテーマは将来を考えることです。特に、私たちは自分の行動の結果を考えるべきです。

多くの人々はそうしません。数年前、私は「すっからかん」というアメリカのスポーツ・ドキュメンタリーを見ました。その番組で、多くの有名なプロ選手は自分のバカな決断について話していました。彼らは何百万円を稼いだけど、すべてをなくしてしまいました。

一人の人はヨットと二台の車と大豪邸のために7億円を払いました。もう一人の人は、9人の女の人たちと寝て、子供が11人がいるので、その女の人たちとその子供たちを養うために何百万円を払わなくてはなりません。

彼らは自分の行動の結果について全然考えなかったので、たくさんのお金を払わなくてはならなかったし、いろんな苦しみを経験しました。

この個所の例は違うけど、教訓は同じです。もし将来を考えないと、結局あなたは苦しみます。

プライドが私たちの人生を治めたら、私たちは没落してしまいます。自分の地位を自慢する人もいます。自分の持ち物を自慢する人もいます。また自分の才能を自慢する人もいます。でもそんなプライドは没落に導きます(2節)。その選手たちは破産して、その教訓を学びました。

ある人は経済的に賢いけど、彼らは自分の情欲に治められます。でも、彼らについてソロモンはこう言います。

財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。(4)

裁きの日に、彼らはソロモンの言葉が真理であることが分かります。

私たちはお金によって、天国に入ることができません。なぜなら、神様は私たちのお金がいらないから。キリストを信じる信仰に基づいて、神から与えられる義だけが私たちを救うことができます。もしその義を拒絶したら、神様の怒りを受けます。

この世に力がある人もいます。でも、もし彼らが神様の前にへりくだらないと、裁きの日にその力は彼らを救うことができません。ソロモンはこう言いました。

悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。(7)

新改訳では「邪悪な者」と書いてあるけど、ほかの翻訳の可能性は「力のある人」です。とにかく、邪悪な人でも、彼らが悔い改めて、へりくだったら、神様の憐みを知ります。でも、彼らがそうしないなら、彼らの希望は無くなります。彼らの力は救うことができません。

ある人は、罪にふけっているので、本当の自由を発見したと思います。彼らは神様の道を行く人が束縛されていると思います。しかし、ソロモンはこう言います。

潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕らえられる。(5-6)

つまり、私たちが神様の道を行くなら、私たちの人生はうまくいきます。でも、自分の道を行くと、私たちは最終的に滅びてしまいます。私たちの結婚とほかの人間関係を壊してしまいます。私たちが頑張って建てたものも壊してしまいます。

それに、私たちが自由だと思ったのに、自分の情欲に私たちが束縛されることが分かるようになります。その情欲によって私たちの人生が壊れているのに、私たちは変わることができないと分かるようになります。

どれぐらい、人々はギャンブルや、お酒や、麻薬や、不倫によって、自分の人生を壊しているけど、自分自身を止められないでしょうか。

この個所の後半では、ソロモンはほかの人々について話します。彼らも自分の行動の結果が予想できません。

ある人がだれに話すことに気を付けないので、彼らの秘密はばれてしまいます。(13)

ある人がほかの人々の知恵を求めずに、自分の知恵だけに頼るので、彼らの人生はダメになってしまいます。(14)

ある人は、お金を儲けることに集中して、人間関係を無視するので、彼らは誉と愛をつかまないし、ずっと独りぼっちです。(16)

ある美人はどうやって生きるか、誰に自分の心を与えるべきなのかを気を付けないから、傷つけられてしまいます。(22)

ある人の人生がうまくいくとき、誰にも助けてあげないので、彼らの人生は苦しくなる時、誰も彼を助けてあげません。(24)

ある人が自分の行動が家族にどんな影響を与えるか気にしないので、その関係は壊れてしまいます。(29)

私たちは将来を考えないと、私たちは苦しんでしまいます。この世に苦しむかもしれないし、裁きの日に苦しむかもしれない。

あなたはどうですか。どのように生きているでしょうか。あなたの将来を考えているでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言10章ーーあなたはどんな名前を持っているでしょうか。

シェイクスピアはこう聞いた。「名前はなんだ?」

ソロモンはこう答えました。

正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。(7)

例えば、人々がヒトラーという名前を聞くと、悪いイメージがすぐに浮かびます。多分だれも自分の子供にその名前をつけないでしょう。でもクリスチャンがヤコブや、ノアや、マリヤや、ハンナという名前を聞くと、良いイメージが浮かびます。実は、アメリカでは、ヤコブとノアは、今でもとても人気の名前です。

あなたにはどんな名前があるでしょうか。つまり、あなたにはどんな評判があるでしょうか。それは大部分あなたの人生によります。

ソロモンはこう書いた。

知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。(1)

知恵のある人はどんな人でしょうか。

  • 彼らは勤勉で、よく働きます。(4-5)
  • 彼らは権力を認めて、戒めを受け入れます。(8,17)
  • 彼は正直な人です。(9)
  • 彼らは人々に赦してあげます。(12)
  • 彼らの口から命が流れます。(11)

彼らの口から知恵がえられます(13,31)。彼らがいつ黙った方がいいか分かります(19,32)。かれらの言葉は、人々を養います(21)。また、彼らは絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めます。 (第二テモテ4:2)

朽ち果てる名前のある人はどんな人でしょうか。

  • 彼らは怠けている。(4-5,26)
  • 彼らは戒めを受け入れないので、彼らは思慮がないです。それに、彼らはほかの人々をその悪い道に導きます。(8、13、17)
  • 彼らは心の中で憎みを抱いて、人々を傷つけます。(11-12)
  • 彼らの言葉に気を付けないので、周りの人々を傷つけます。時々、彼らは自分自身も傷つけてしまいます。(8、14,19ー21)

あなたはどんな人でしょうか。人々はあなたを見るとき、どんな人を見ますか。あなたが亡くなると、彼らはあなたについて何を思い出すでしょうか。

あなたを知っている人々を祝福する名前を残すでしょうか。もしくは朽ち果てる名前を残すでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言9章ーー知恵:良い方向に変わる気がある

神様の私たちに対する愛と受け入れと罪の許可に取り間違える人もいます。彼らは「神様はもう私を受け入れてくれているなら、どうして私は変わらなくてはならないだろうか。私が好きなように生きてもいいんじゃないか。」と思います。

でも、この個所によれば、知恵のある人は良い方向に変わる気持ちがあります。

この個所は二つの招きで始まって、終わります。一つ目の招きは知恵から来ます。彼女は自分の家を整え、私たちが入るように招きます。彼女はこう言います。

「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。また、思慮に欠けた者に言う。「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、(4-5)

多くの人々は彼らの行動の結果が全然予想できません。彼らはどう生きても、すべてが何となくなると思います。でも、彼らの道は痛みに導くし、最終的に死に導きます。

だから、知恵は叫びます。「その道を行き続けないでください。あなたのわきまえのない道を捨ててください。私はよりいい道を示します。その道は命に導きます。」

でも、愚かな女はこう言います。

わきまえのない者はだれでもここに来なさい。。。盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。(16-17)

(知恵のように、ソロモンは愚かさは女の人と比べています。もしまだ読んでいないなら、昨日のコラムを読んでください。)

要するに、「どうぞ自分の道を生き続けてください。罪は甘いものですよ。罪はおいしいし、あなたを喜ばせるから。」

あなたはどんな人ですか。良い方向に変わる気がありますか。

もちろん神様はあなたをありのままで愛しています。でも、神様があなたを愛するなら、あなたを泥に住むままには残したがりません。

ソロモンはこう書いた。

あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。(7-9)

イエス様はこの風に言いました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

イエス様は犬や豚(つまり、あざけるもの)に聖なるものや真珠に与えてはならないと言います。(その文化では、犬と豚には悪いイメージがありました。)なぜなら、彼らはその知恵を感謝せずに、あなたを攻めるから。

でも、知恵の真珠を知恵のある人に与えると、ソロモンは彼らがもっと賢くなると言います。

だから、私たちは自分自身にこう聞くべきです。私たちは知恵のある人でしょうか。もしかしたら、私たちは犬や豚でしょうか。

人々があなたを戒めるなら、どうしますか。あなたはその言葉を反省するでしょうか。もしくは反省せずにその言葉を拒絶するでしょうか。

あなたはへりくだって、人々からの戒めを受け入れられるでしょうか。それよりも、神様からの戒めを受け入れられるでしょうか。それをしてこそ、あなたは本当の知恵と命を見つけられます。

だからソロモンはこう書いた。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。(10-12)

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言8章ーー神様のみ言葉を正しく理解すること

時々人々はどうやって聖書を読んだ方がいいか分からないので、聖書が正しく理解できません。例えば、関連のない個所をまとめて、おかしな解釈や、間違った解釈をします。箴言8章と第一コリント1:24は一つの例です。

例えば、エホバの証人は箴言8章を読んで、「この個所はイエス様についてだ」と思います。なぜでしょうか。

なぜなら、「知恵」が人間のように話しているから。そして、22-31節で、知恵はこう言います。

主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。(22-23)

また、

地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(29-30)

だからエホバの証人はこう言います。「第一コリント1;24によれば、キリストは神の知恵なのです。だから、箴言8章では、イエス様が喋っているのです。このイエス様の言葉によれば、神様が創造の働きを始める前から、イエス様を立てました。つまり、神様がイエス様を造りました。だからイエス様は神様ではないのです。イエス様は神様の被造物です。」

でも箴言7-8章を詳しく読めば、その考え方が間違っていることが分かるようになります。残念ですけど、新改訳の訳ではその間違いがわかりにくいです。しかし、7章と8章によれば、知恵は女の人と比べている。新改訳でも、7章4節でそれが見ることができます。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。

でも8章でも、ヘブル語で、こう書いてあります。

知恵は呼ばわらないだろうか。英知は彼女の声をあげないだろうか。これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに彼女は立ち、門のかたわら、町の入口、正門の入口で彼女は大声で呼ばわって言う。 (8:1-3)

英語の翻訳を読むなら、「彼女」という言葉がはっきりしています。

それを見ると、多分あなたはエホバの証人の解釈の問題が見ることができます。彼らは「イエスは8章の知恵だ」と言うけど、イエス様は女の人ではないのです。

でも、彼らは箴言の箇所と第一コリントの箇所、また、コロサイ1:15-17をまとめて、「イエス様は神ではなく、被造物だ」と言います。

そのまとめ方を使ったら、聖書から何でも言える。

「ユダは」外に出て行って、首をつった。(マタイ27:5)

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

さあ、自殺しようか。

それはバカな話です。でも関連のない個所をまとめると、そんな変な解釈が出てきます。

だから、聖書を読むとき、その個所の前後をちゃんと読んでください。そうしないと、エホバの証人のように私たちは間違っていることを考え始めます。

箴言7‐8章では、ソロモンは何を言おうとしていますか。知恵は本当に女の人ですか。違います。彼は比喩を使い、知恵を女の人と比べます。

そして、ソロモンは言います。「知恵はあなたを呼んでいます。不倫な女の人はあなたを呼んでいるように(7章)、知恵もあなたを呼んでいます。でも、不倫な女はあなたに死に招いています。知恵は本当の命に導きます。神様が天地を造った時に、彼女は神様と一緒にいました。そして、知恵を通して、すべての被造物はどのように生きた方がいいかい分かります。

彼女によって、王たちは治め、君主たちは正義を制定する。彼女によって、支配者たちは支配する。今彼女はわきまえのないものを呼んでいます。彼女を通して、あなたも分別をわきまえることができます。あなたも思慮をわきまえることができて祝福を得ます。知恵を見つければ、この世の宝物にまさるものを見つけます。」

知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。(11)

実は、私はちょっと古い歌「More precious than silver」(銀にまさる)という歌が大好きです。その歌は箴言8:11と3:15に基づいたものです。その歌の作家の意図は知らないけど、多分、作家はその個所が分からなかったでしょう。多分その作家は「知恵はイエス様だ」と思ったでしょう。

だから、彼はこう書いた。「主よ。あなたは銀にまさります。あなたは金より価値があります。あなたはダイヤよりも美しいです。どんな喜びもあなたには比べられない。」

もちろん、イエス様はどんな喜びにもは比べられないけど、この箴言の個所では、知恵は「男性」ではなく、「女性」です。

とにかく、主を求めましょう。主の知恵を求めましょう。でも、その言葉を正しく読んで、理解しましょう。

 

 

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言7章ーー簡単に騙されること

私の娘が保育園に通っていたころ、運動会に行きました。「釣り」をする競技があって、子供たちは「釣り場」まで走って、プレゼントを捕まえようとしました。実を言うと、そこにいる先生がそのプレゼントをフックに付けてくれました。

アメリカでは、ボウルにいる金魚を捕まえるゲームがあるけど、その運動会のゲームはもっと簡単でした。私の娘はほとんど何もしなかったけど、そのプレゼントを捕まえることができました。

とにかく、英語では、「It’s like catching goldfish」、つまり「金魚を捕まえるようだ」という表現があります。その意味は「それをすることはとても簡単。」ということです。

多くの人々はその金魚のようです。そして、悪魔が彼らを騙して、引っ掛けるのは本当に簡単です。ソロモンはこの個所で、例を挙げています。

ある若い男性がすぐにトラブルに落ちた。なぜでしょうか。

一つの理由は彼が思慮に欠けたからです。彼はずっとわきまえのない者たちと一緒に遊びました。その友達も道徳観念がなかった。そして、彼は現在のために生きて、将来を全然考えなかった。

二つ目の理由は、彼が怠けものだったからです。また彼は深夜にうろついて、退屈したのです。彼は全然予定がなかったので、不倫の女性な計画にすぐに従ってしまいました。(8-9)

彼女は家を出て、人前で厚かましくて彼に口をつけ、こう言いました。「私の夫は出張中ですよ。明日まで帰らない。私はあなたをずっと見っていて、待っていました。あなたのためにすべてを整えたわ。食事とか、私のベッドとか。」

(14節では、彼女は「和解のいけにえをささげた」と言いました。それは神様との平和の象徴でした。また、それは神様に対する感謝の象徴でした。その儀式の部分は、そのいけにえの肉をもって帰り、家族と一緒に祝って食べることです。だから、この女性は神様に対する感謝をもってご主人と一緒に食べるべきのものを通して、この若い男性を引っ掛けようとした。)

その男性はわきまえのない人ったので、彼はほふり場に引かれる牛のように彼女の家に入りました。ソロモンは彼がその罪に落ちて、自分のいのちがかかると言いました。なぜなら、その主人がその罪を知ったら、多分彼を殺すから。その主人は決して知ることがなくても、神様はきっとその男性を裁きます。

だから、ソロモンは自分の息子に警告します。

あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。その通り道に迷ってはならない。彼女は多くの者を切り倒した。彼女に殺された者は数えきれない。彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。(25-27)

どうやって、私たちはその男性の運命を避けられるでしょうか。

まず、神様の知恵を求めてください。その知恵はあなたの仲間にしてください。ソロモンはこう言いました。

知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。(4)

二つ目は、怠けないでください。目的がなくて、町中でうろついたら、トラブルを招きます。退屈は多くの人々を罪に導きます。多分、あなたはそのことをもうご存知かもしれません。

最後に、罪から逃げてください。罪は魅力的に見えるかもしれないけど、神様の言葉を知っているなら、その罪が悪いものだとすぐに分かります。だから、罪を見ると、すぐに逃げてください。そうしないと、誘惑がもっと強くなって、あなたはその誘惑に負けるかもしれない。

私たちがわきまえのない人にならないように。むしろ、知恵の道を歩んで、主を恐れましょう。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言6章20-35節ーー罪に熱中すること

現代のテレビドラマで、不倫の話がよく出ています。それはごく普通のトピックみたいです。それでも、多くの人はその教訓を学びません。そのテレビ番組でも、人々は不倫して、大変な結果が出ます。人は傷つけられるし、人間関係は壊れるし、時々、人は殺されます。

テレビ番組でも、「あ、あなたは私の妻と寝ているのですか。どうぞ、続けてください。」と言う人は一人もいないと思います。

だから、ソロモンはこう言いました。

人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。(27-29)

そして、ソロモンはこう言います。もし、誰かが飢えているので、食べ物を盗むなら、裁判官は同情するかもしれないけど、その人を罰します。

でも、ほかの男性がある人の妻と寝るなら、その夫は全然同情せずに、その人に対して復讐しようとします。ソロモンはその不倫する男性についてこう言いました。

彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることができない。嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。彼はどんな償い物も受けつけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。(33-35)

だから、ソロモンは「あなたの心を守りなさい」と言います。「不倫するな。また、売春婦を避けなさい。」

ソロモンはこれも言いました。

遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさるからだ。(26)

つまり、売春婦はあなたのお金を全部取ってから、いなくなります。そして、不倫すると、あなたの結婚と家族は壊れるし、性病にかかるかもしれない。もしかしたら、あなたは殺されるかもしれない。

でも不倫だけではなく、すべての罪は人々を滅ぼします。

だから、罪に熱中しないでください。その罪は魅力的かもしれないけど、最終的にはその罪は火のようにあなたに火傷を負わせます。またその罪は私たちのものを取って、私たちを滅ぼします。

かえって、私たちを愛して、私たちの罪のために十字架で死なれた方に熱中しましょう。毎日、イエス様を求めまて、イエス様をもっと愛するように学んでください。そうすれば、本当の愛と本当の命を見つけます。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言6章12-19-ー悪魔の子のようにふるまうのか?神様の子のようにふるまうのか。

この個所では、ソロモンは「よこしまな人」について話します。ある英語の翻訳では、「役に立たない人」と翻訳されます。その人は自分のために生きて、どんな権力でも反対するので、神様に対しても、人間に対しても全然役に立たない人です。

聖書では、日本語の「よこしま」という言葉は、ヘブル語の「ベリアル」という言葉です。ベリアルはサタンの名前の一つです。だから、「よこしまな人」は「ベリアルの子」です。

イエス様に対する悪意のあるユダヤ人に、イエス様はこう言いました。

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44)

そんな人は、話すときにも、目くばせをしても、指でさしても、足で合図しても、悪い意図があります。ソロモンは神様がいつかそんな人を罰すると言います。

そして、ソロモンは神様が憎むものについて話します。

  1. 高ぶる目。彼らは高ぶって、人々を見下します。それに、彼らは神様を見るとき、そむく態度を取ります。C.S.ルイスは「プライドは最悪の罪」と言いました。なぜなら、プライドは人々の間に距離を置くし、神様と人間の間に距離を置くから。
  2. 偽りの舌。多くの人々は偽りを軽く考えるけど、神様にとっては、偽りは本当に深刻なことです。嘘をつく人は悪魔の子です。なぜなら、イエス様は「悪魔は偽りの父である」と言いますから。あなたはいつも真理を言うでしょうか。
  3. 罪のない者の血を流す手。アガサ・クリスティーのエルキュール・ポアロの口癖は「私は殺人に同意しない。」ということです。でも、神様は殺人に同意しないだけではなく、殺人を憎みます。なぜなら、人が殺されたら、神様が大事にするものが滅びるから。神様が私たちを造ったので、私たちにはすごい価値があります。でも、覚えていてください。もしあなたが誰かを憎むなら、あなたの心の中で彼らを殺したようなものです(第一ヨハネ3:15)。そうすると、あなたはサタンの道を行っています。なぜなら、彼は初めから人殺しだったから。
  4. 邪悪な計画を細工する心。時々私たちは思わず罪を犯してしまいます。例えば、悪いことが起きるので、私たちは怒って、悪いことをしてしまいます。もちろん、それでも、あなたの罪に言い訳がないです。でも、神様にとって、あなたが悪いことをする計画を立てたら、それはより悪いです。思わず罪を犯すのと、あえて罪を犯すのは別の物です。
  5. 悪へ走るに速い足。ためらわずに罪を犯す人もいます。彼らには全然良心がないみたいです。彼らは自分の良心を押さえつけ、彼らはにとっては、罪は魅力的なものです。それに、彼らは罪を喜ぶし、そのつについて自慢します。
  6. まやかしを吹聴する偽りの証人。この人は隣人に関して嘘をつきます。彼らは人々を中傷して、その評判を汚します。噂をする人も評判を汚せます。
  7. 兄弟の間に争いをひき起こす者。神様は私たちを平和をつくる者として、呼びます。でも、平和を作たいよりも、争いを引き起こしたい人がいます。彼らは噂したり、「あなたについて、だれだれさんが何を言ったか知っている?」と言ったりします。

彼らの目的は和解ではなく、その距離をもっと広げることです。神様はそのような態度が大嫌いです。

あなたはどうですか。このふるまいのリストにはあなたに関連があるでしょうか。悔い改めましょう。

あなたは神様の子供のようにふるまっているでしょうか。悪魔の子のようにふるまっているでしょうか。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言6章1-11節ーー経済的に安定すること

私が経済のことについて話すのが特別な資格がないので、経済のことについて話すのはちょっと気まずいです。でも、ソロモンは経済について話すので、彼が何を言ったか読みましょう。

箴言では、お金についてのアドバイスがたくさんあります。この個所では、二つの助言があります。

一つ目は、誰かの保証人にならない方がいいということです。特にローンのために保証人にならない方がいいです。

日本では、そのアドバイスはちょっと厳しいです。私たちがアパートを借りるとき、普通、不動産屋は保証人を要求します。また、日本のビザを得るために私は保証人が必要でした。

だから、この個所によると、私たちは決して保証人にならないべきでしょうか。そうではないと思います。

しかし、もしあなたが保証する人が困るようになって、あなたがお金を払わないといけいない場合は、そんなお金を払うことができるでしょうか。または、そのお金を払うと、あなたの経済の状態は本当に大変になるでしょうか。

もし、あなたが困らないなら、どうぞその人を保証してください。

でも、あなたがそんなお金が払えないと、その人に「すみません。私はあなたが好きだし、あなたを信頼しているけど、私もあなたも未来が見えない。もし、あなたの状態がダメになって、私が払わなくてはならないなら、私の経済もダメになってしまいます。」と言った方がいいです。

投資に関して考えるとき、同じ原則があると思います。私は投資しているけど、もしそのお金がなくなっても、私の家族はピンチになりません。(それはとても痛いですけどね。)。つまり、投資するとき、気を付けてください。投資するお金がなくなると家計がピンチになってしまうのであれば、そのお金を投資しないでください。

次のソロモンのアドバイスはただの常識だと思います。でも、多くの人々はその常識に従いません。そのアドバイスは、できるだけ長く働いて、将来のために貯金することです。

日本では、フリーターという人がいます。彼らには安定した仕事がありません。時々、彼らは教育があまりないので、安定した仕事に就けないけど、別に仕事したくない人もいます。

私が読んだ記事によれば、ちょっとだけ働き、貯金してから、その仕事を辞めて、お金が無くなるまで遊ぶ人もいます。そのあとで、彼らはもう一度仕事を探します。そして、彼らはずっとそのパターンを繰り返します。

でも、ソロモンは彼らに関して、こう言います。

なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(6-11)

要するに、そんな生活を送ると、あなたは貧乏になります。そんな生活は近視眼的です。

それに、そんな生活は神様に全然栄光を与えません。なぜなら、あなたは神様からの才能を無駄にしているから。そして、いつか神様の前にあなたは自分のことを申し開きしなくてはならない。

だから、今日、ソロモンから二つの助言があります。

  • あなたはお金が足りないなら、ほかの人を保証しないでください。また、投資するときも、どれぐらい投資するか気を付けてください。
  • できるだけ長く働いて、未来のために貯蓄してください。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言5章ーーあなたの妻(夫)を喜ぶこと

箴言の中でいくつかの姦淫に関する箇所があります。これはその一つの箇所です。

この世では、多くの人々は結婚の意味が分からなくなりました。だから、彼らはセックスに関しても、分からなくなりました。

結婚というのは、人々は互いに相手を喜び合うことを学んで、一体となることです。それは性的だけではなく、でも、感情的に、また霊的に一体となることです。二人が一体になると、その関係はほかの人間関係と比べられないです。彼らは互いに相手のことを全く知っているけど、全く受け入れ合います。

ある日、私はこんな言葉を書いているTシャツを見ました。”Love is blind.”(愛は盲目です。)

それは間違っていると思います。本当の愛はすべてを見るけど、相手を受け入れて愛します。相手のすべてを見ても、その人を喜びます。夫婦にそんな関係があれば、彼らはスリルを感じます。なぜなら、彼らは互いに愛し合ったり、受け入れたりするから。

あなたは相手に裁かれないし、他の人と比較されません。むしろ、あなたはありのままで受け入れられます。それに、あなたの欠点と弱さがあるのに、相手があなたを喜ぶことを知っています。

でも不倫する人はどうですか。彼らはそんな関係ができないです。もし、彼らが自分の夫か妻を捨てて、あなたと不倫すると、いつか彼らはあなたを捨てて、ほかの人と不倫するかもしれない。彼らがそうしなくても、あなたはその疑いと不安を感じるでしょう。もし、彼らが現在の夫か妻をあなたと比較するなら、将来、彼らはあなたをもっと素敵な人と比べ始めるかもしれない。

その不倫する人は自分の愛が彼らをどこに連れていくか知りません。彼らはただ自分の感情についていくから。また、彼らは自分の道がどんなに曲がったか知りません。ソロモンはそんな人に関して、こう書いた。

その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。(6)

そんな人とは長期の関係ができません。最初、その関係は楽しいかもしれないけど、最終的にその関係はあなたの口に苦い味を残してしまいます。

ソロモンはこう書いた。

他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。(3-5)

それに、姦淫の道は永遠の死に導くかもしれない。この個所では、ソロモンは私たちに警告します。神様は私たちを見て、私たちの罪を裁きます。

それだけではなく、姦淫は物理的な死に導くかもしれない。例えば、嫉妬深い夫か妻の手であなたは殺されるかもしれない。もしくはエイズやほかの性病によってあなたは死ぬかもしれない。

また、姦淫によって、あなたは経済的に苦しむかもしれない。そして、どれぐらい、人々は自分の夫か妻を捨てた後で、すぐ自分の恋人に振られるでしょうか。

だから、ソロモンはこう言った。

あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(15-19)

つまり、あなたの時間とエネルギーを不倫するために使わないでください。その関係は最終的に幸せに導かないから。むしろ、あなたの夫を喜んでください。あなたの妻を喜んでください。彼らの愛に夢中になってください。神様が彼らを愛するように、彼らを愛することを学んでください。また、あなたが神様に愛されているように、彼らに愛されることを学んでください。そうすれば、結婚の満足、また性的な満足を見つけます。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言4章10-27節ーー足元に注意すること

「足元にご注意ください。」

私たちが危険な状態に入っているとき、人々は私たちにいつも警告してくれます。そして、この世には、いろんな落とし穴があります。

だから、ダビデはソロモンにその落とし穴について警告して、ソロモンも自分の息子に警告しました。

彼はこう言った。

わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。(10-13)

ダビデとソロモンが自分の息子たちに警告したように、神様も私たちに神様の息子と娘として警告します。神様が私たちを正しい道に導いているので、私たちは神様に従うと、周りの人々が躓くかもしれないけど、私たちは決して躓かない。もし、神様のみ言葉を見守るなら、私たちは命の道を見つけます。

どれぐらい、クリスチャンのリーダーたちはその教えを見守らなかったので、躓いたでしょうか。

彼らを批判するのは簡単なことだけど、私たちが気を付けないと、私たちも躓くでしょう。私たちも同じ罪に落ちるでしょう。

だから、ソロモンは「足元に注意しなさい」と警告します。

また彼は、「罪人の道を避けなさい。むしろ、日に照らされる道を歩みなさい。その道は命に導くから。」と言います。

ソロモンはこう言いました。

義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。(18-19)

要するに、私たちがイエス様に従えば従うほど、イエス様は真理をもっと表すし、私たちの道はもっとはっきりします。

でも、聖書の光を拒絶すると、私たちは目が見えなくなって、躓き、落とし穴に落ちてしまいます。

ソロモンはこの個所をこの言葉でまとめます。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(23)

要するに、あなたの心に何が入らせるか気を付けてください。また、あなたの心がどこに行かせるか気を付けてください。あなたの心を危ない所に行かせないでください。

むしろ、

あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。(25-27)

主よ、私の足元を見守ってください。私が罪を犯さないため、私があなたの言葉を心に蓄えるように助けてください。私があなたに従うので、私の道を堅く定めてください。 イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言4章1-9節ーー知恵を尊重すること

この個所では、ソロモンはその父ダビデの言葉を思い出します。ソロモンにとって、その言葉は本当に印象に残りました。ダビデはこう言った。

父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。」 (4-9)

ソロモンはその言葉に感動したので、神様がソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と言ったとき、ソロモンは富や力を頼まなかった。むしろ、知恵を願いました。神様は喜んでその知恵を与えてくださいました。

そのように、もしあなたが知恵を求めると、神様はその知恵をあなたに与えてくださいます。ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

でも、どれぐらい私たちは知恵を尊重するでしょうか。私たちは知恵を積極的に求めているでしょうか。

特に、あなたは聖書から知恵を求めているでしょうか。毎日時間を取って、聖書を読むでしょうか。どれぐらい読むでしょうか。

多くのクリスチャンは日曜日だけに聖書を読みます。後は、彼らは「聖書の断食」をします。

だから、私たちの人生を送る時、私たちは知恵がないので、どうして私たちの人生がうまくいかないか分かりません。

だから、ソロモンはそう言いました。

知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。(7)

でも、知恵を学ぶだけでは十分ではありません。その知恵に従うべきです。ヤコブはこう言いました。

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブ1:6-8)

時々、人々は神様から知恵を求めるけど、その知恵を聞くと、神様の道が最も良いかどうか疑います。だから、彼らは自分の道を行き続けます。でも、そのような人は人生に安定を決して見つけられません。むしろ、その人は自分の状況やほかの人々の意見によって、吹かれて揺れ動いてしまいます。

でも、私たちは知恵を尊重し、その知恵に従うと、平和や安定と誉を見つけます。

あなたはどうですか。知恵を尊重していますか。

 

 

 

カテゴリー: 箴言, 諸書 | タグ: | コメントをどうぞ

箴言3章ーー愛と忠実さ

愛と忠実さ。この世では、その二つのものは見つけられません。だから、たくさんの人間関係、特に結婚の関係は壊れています。

ソロモンはこう書いた。

恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。(3-4節)

その恵みは「変わらない愛」という意味です。そして、たくさんの英語の翻訳は「誠」という言葉を「忠実さ」と翻訳します。

神様に対する愛と忠実さはどういう意味でしょうか。それは、神様に信頼するので、従うという意味です。簡単に言うと、あなたに対する神様の愛の確信を持って、あなたがその信仰によって生きることです。

ソロモンはその真理をもっと説明します。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(5-7)

私たちが神様を愛するなら、私たちは全く神様に信頼します。私たちが何をしても、私たちがどこにいても、私たちは自己中心の生活を送らず、神様中心の生活を送ります。そして私たちの知恵に頼らずに、神様の知恵に頼ります。

時々、それは難しいです。正直に言うと、多くの場合、それは難しいです。

特に難しいところは、私たちの家計です。ソロモンはこう書いた。

あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。(9-10)

あなたが十一献金が新約聖書の教えであることを信じるかどうか分かりませんけど、はっきりしているのは、あなたのお金は実はあなたのものではないことです。あなたは、代価を払って買い取られたのですから(第一コリント6:20)。そして、もし、自分の体をもって、神の栄光を現わすべきなら、お金によって、神の栄光を現すべきです。

十一献金に反対する多くの人々は、自分の心で「これは私のお金です。私は好きなように使える権利がある。」と思います。

もちろん、あなたの給料の10%は神様に属しません。実は、すべては神様のものです。あなたは、ただその神様が与えてくださるお金の管理人です。

だから十一献金を捧げても、捧げなくても、あなたはこう聞かなくてはならない。「神様、私がどうやってこのお金を使えば良いか教えてください。これなあなたのものだから。」

そして、私たちは神様の懲らしめを謙遜に受け入れなくてはなりません。ソロモンはこう書いた。

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(11-12)

私たちが聖書を読むとき、また教会の説教を聞くとき、厳しいことを聞くこともあります。その時、聖霊様は私たちを懲らしめます。例えば、私たちの結婚の関係に関して、また、子供との関係に関して、神様は私たちに話します。もしくは、私たちの家計や仕事に関して話します。そして、神様の懲らしめを聞くのは辛くて、私たちはその言葉を全然聞きたくないです。でも、私たちが本当に神様を愛するなら、その言葉に従います。私たちの知恵に頼らずに、神様の道を選びます。

そうすれば、神様は私たちが命と平和を得ると約束します。(16-18)

また私たちはその知恵にしがみつき、神様を恐れると、ほかのものを恐れる必要がないです。(21-26)

でも、私たちは周りの人々にも愛と忠実さを与えるべきです。ソロモンはこう言いました。

あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう」と言うな。(27-28)

つまり、周りの人々を祝福する機会があれば、待たないでください。すぐにその人を祝福してください。

また、彼らを裏切らないでください。なぜなら、神様はあなたを見ているし、そんな人々に反対するから。

最後に、ソロモンはこう言いました。

あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。(34-35)

私たちが神様の知恵をあざけり、自分の道を行くことを決めたら、蒔いたものを刈り取ります。つまり、恥や悲しみや死を刈り取ります。でもあなたが謙遜に、神様の懲らしめを受け入れて、神様の道を行くなら、神様はあなたに命や、恵みや、平和や、誉れを与えてくださいます。

あなたはどうするでしょうか。

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言2章ーー柔らかい心を持つこと

昨日のポストでは、神様とその知恵に対する固い心を持つ危険を見ました。でも、この個所では、神様とその言葉に対する柔らかい心を持つ祝福を見ます。

ソロモンはこう書いた。

わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。(1-6)

神様とその言葉に対する柔らかい心を持つというのは、どういう意味でしょうか。

1.神様の言葉を受け入れることです。「あなたの言葉は良いし、正しい」と認めることです。

2.神様の言葉をあなたの心に蓄えることです。私たちはよく神様の言葉を聞いて、同意するけど、すぐにその言葉を忘れてしまいます。でもそれでは物足りないです。私たちはその言葉に思いを巡らし、その言葉を生かすべきです。

3.あなたの耳を知恵に傾けることです。つまり、神様は聖書や、牧師や、友達を通して話すとき、私たちは自分の心を開かなくてはならない。でも、多くの場合、私たちは「もう知っているよ」、または「その言葉は私の場合に当てはめられないよ」と言います。

しかし、柔らかい心はその言葉を受け入れて、その言葉によって変わります。

どのように知恵は私たちの心を変えるでしょうか。

4.あなたの心を英知に向けるべきです。「この言葉はどういう意味でしょうか。どうやってこの言葉を私の人生に当てはめられるでしょうか」と聞いた方がいいです。

また、

5.悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげるべきです。つまり、神様から英知と悟りを求めるべきです。私たちはどうやって、聖書を私たちの人生に当てはめるか分からないときに、その言葉を捨ててはなりません。「私の人生には関係ない」と言ってはなりません。むしろ、神様に聞いてみてください。そうすれば、

主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる。(6)

さらに、知恵に従うことを決めて、また、神様の道を行くことを決めたら、勝利を得るし、神様は私たちを見守ってくださいます。その知恵は私たちを悪の道から救い出します。

悪者は知恵を拒絶するのでなくなるけど、私たちは命を見つけます。

あなたはどうですか。神様とその知恵に柔らかい心を持っているでしょうか。積極的にその知恵を求めているでしょうか。その知恵をあなたの人生に当てはめているでしょうか。そうすれば、満ちたりた人生を見つけます。

 

 

カテゴリー: 箴言, 諸書 | タグ: , | コメントをどうぞ

箴言1章20-33節ーー知恵を拒絶すると

この個所では、神様の知恵を拒絶し、自分の知恵に頼る危険を見ることができます。

この個所を読むと、ノアの話について考えます。洪水が来る前に、ノアはずっと人々に警告しました。

この個所の「知恵」のように、広場でノアは声を上げたでしょう。

「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あなたには道徳観念がないので、悪魔の言葉にすぐに騙され、悪に落ちてしまいます。(実は、箴言で、「わきまえのない者」というのは、道徳観念がなく、すぐに騙される人という意味です。)(22a)

多分、ノアは「知恵」のように、「いつまで、あなたは神様の言葉をあざけることを楽しむでしょう。いつまで神様の言葉を憎むでしょうか。」と尋ねていました。(22b)

そして、神様はノアを通して、彼らにこう叫んだでしょう。「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。 でも、むしろ、あなたは私を拒絶します。私の手を伸ばすのに、あなたは顧みません。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れない。 」(23-25)

そして、洪水が来ました。その時、おそらく彼らはやっと神様に叫んだけど、神様は応えてくださいませんでした。彼らは神様を探したとき、見つけられませんでした。なぜでしょうか。

なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れなかったから。だから、彼らの行ないの実を食らいました。(31)

彼らの背信は自分を殺し、彼らの安心は自分を滅ぼしました。 (32)

でもノアとその家族は主に従ったので、恐れずに、安全でした。

あなたはどうですか。

道徳観念がなくて、罪を犯しても安心するなら、あなたは結局滅びてしまいます。あなたの人生はめちゃくちゃになるし、最終的に地獄に行ってしまいます。

そして、地獄に行くなら、もう遅すぎます。つまり、悔い改める機会がありません。むしろ、あなたは自分の行いの実を食べます。

でも、あなたが生きている間に、まだ希望があります。

だから、悔い改めてください。神様の叱責を受けて入れてください。あなたの耳を開いてください。あなたの心が柔らかいなら、神様は自分の心をあなたに開いてくださいます。神様は命の道を教えてくださいます。天国への道だけではなく、この世にどうやって満ちた人生を送れるか教えてくださいます。そして、あなたの人生は神様の喜びと平和で満ちます。

ノアのように、神様の声に聴き、従いましょう。そして、嵐が来るとき、あなたは恐れずに安心して生きることができます。

 

 

 

カテゴリー: 箴言, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言1章8-19節ーー私たちは誰に相談するべきか

私は高校生の時、「Who to listen to」(誰に相談するべきか)という歌を聞きました。その歌詞はこうでした。

だれに聞いた方がいいか、誰に聞かない方がいいか知っていなくてはならない。
いろんなアドバイスはあっちこっちから来る。
だから、誰に聞いた方がいいか、誰に聞かない方がいいか
決めなくてはならない。

それはソロモンのメッセージです。

最初に、彼は私たちが誰に聞いた方がいいか教えます。

わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。(8-9)

私たちの両親が神様のみ言葉に合うことを教える限り、そのアドバイスを聞いた方がいいです。なぜなら、私たちよりも、彼らがいろんなことを経験したので、私たちに知恵を与えられるから。

私は振り返えると、父からいろんなことを学びました。父は特に、友達の大切さと正直に言う大切さを教えてくれました。その会話は本当に短かったけど、今でも、その教えを覚えています。時々父に叱られて、その教訓は痛かった。でも、その教訓によって、私は成長したので、私は感謝します。

とにかく、ソロモンは言い続けます。

わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。(10)

この場合、ソロモンは私たちが罪人に従い、ほかの人々を襲わないように警告します。

でも、周りの人々は私たちをいろんな罪で誘惑するかもしれない。例えば、私の友達は同僚に海外旅行に行って売春婦と遊ぶことに誘われました。彼は断りました。

でも、時々ほかの人々は愚かなので、エイズやほかの性病にかかりました。

時々、ある人々はあなたの最善を望むけど、聖書に反対するアドバイスを与えます。例えば、「彼女を愛しているでしょう?彼女と寝てもいいよ。一緒に住んでもいいよ。」と言います。

でもその結果は?妊娠してしまったり、中絶したりして、いろんな苦しみが来るのです。

あなたは誰に聞いているでしょうか。あなたは誰から助言を求めているでしょうか。どの助言を聞いても、その助言を神様の言葉と比べてください。聖書に合うなら、その助言に従ってください。でも聖書に合わないときは、聖書に従ってください。

そうすれば、問題を避けるし、本当の喜びを見つけます。

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: 箴言, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

箴言1章1:1-7--知恵はどこから始まるか

それでは、箴言を始めましょう。実は、どのように箴言について書くかちょっと迷いました。なぜなら、箴言にはいろんなテーマがあるし、一つの章でも、いろんなテーマがありますから。だから、「テーマによって整理しようか」と思ったけど、いつも通りに、進めようと思います。

初めに、ソロモンはどうして箴言を書いたか説明します。

これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。(1-6)

箴言はだれのためでしたか。最初に、わきまえのない者や若者のためです。(4)

つまり、彼らに分別を与えるためです。要するに、彼らが実世界に入る時、彼らはいい決断ができるためです。それに、ソロモンは彼らに知識と思慮を与えたかったのです。だから、彼らは自分の経済や人間関係に対して賢く決断できるようになります。

でもソロモンは知恵がある者のためにも書きました。そして、箴言を通して、彼らは自分の理解を深め、指導を得ます。

私たちが年を取れば取るほど、「私はもう知っている」態度を取ることがやさしくなります。でもソロモンが言っているのは、私たちが自分の知恵を深めなくてはならないということです。私たちの勉強は決して終わらないのです。

なぜなら賢い人でも、知恵を忘れるので、バカな決断をして、自分の人生を壊してしまうから。実は、ソロモンもそうしました。彼はこの世界で一番賢い人だったのに、自分の悪い決断によって自分の人生を壊してしまいました。

さて、知恵のカギは何でしょうか。ソロモンは7節でそのカギを教えてくれます。

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(7)

箴言9:10で、ソロモンはこれも書きました。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(9:10)

知恵がある者は主を恐れます。私たちが主を恐れ始めると、私たちは知恵を知り初めます。

なぜでしょうか。なぜなら、神様は私たちの創造主だから。神様は私たちの人生がどのようにうまくいくか知っています。もし、何かのデザインを知りたいなら、そのデザイナーに尋ねた方がいいです。

でも自分の道に行こうとしたら、最終的にあなたは困ってしまいます。

私たちは「愚か者」と聞いたら、「馬鹿な人」だと考えます。もちろん、自分の道を行くと、あなたはいろんなバカな決断をしてしまいます。

でも聖書によれば、愚か者は堕落する人です。

私たちが神様とその知恵を侮ると、バカな決断をするし、私たちは損なわれます。私たちは神様の形として造られました。でも私たちの罪はその形を傷をつけてしまいます。

どれぐらい、あなたは鏡を見て、神様の形を見ずに、損なわれたイメージを見るでしょうか。

神様は私たちが完全になるように望みます。また、神様は私たちが神様の形を映すことを望みます。でもそのために、私たちは神様とその知恵を受け入れなくてはなりません。神様から知恵を求めば、神様は喜んで与えてくださいます。

愚か者にならないでください。すべてのことをもう知っていると思わないでください。箴言を読むとき、あなたの心を開いてください。その知恵を飲み込んでください。神様があなたに話し、神の形にあなたを形成するように祈ってください。

カテゴリー: 箴言, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇150篇ーー息のあるものはみな。。。

とうとう最後の詩篇を読みましょう。この詩篇は本当に相応しい言葉で終わります。

息のあるものはみな、主をほめたたえよ。(6)

どこで、私たちは神様をほめたたえるべきでしょうか。

神様の天の聖所と、この地の聖所で賛美するべきです。神様の聖所が教会の建物だけではないことを覚えていなくてはならないと思います。むしろ、クリスチャンとして、私たちは神様の聖所です。神様が私たちの中に住んでおられるので、私たちは神様の聖所なのです。だから、私たちの人生は神様に対する賛美になるべきです。

どうして、私たちは神様をほめたたえるべきなのでしょうか。

一つ目の理由は、神様は偉大な方で、私たちの賛美に相応しい方であることです。それに、神様は私たちの近くにおられ、私たちを愛しています。だから、神様はイエス様を私たちの罪のために死なせるために送ってくださいました。そして、自分の力によって、神様はイエス様をよみがえらせました。それに、神様の御業はまだ続いています。今でも、神様は自分自身を表し、人々を救っています。

どのように神様をほめたたえるべきでしょうか。

大喜びをもって、ほめたたえましょう。トランペットや、弦の琴や立琴や、タンバリンや、フルートを演奏して、ほめたたえましょう。私たちの踊りでも、主をほめたたえましょう。

私はダビデのことについて考えます。彼が本当に張り切って、踊ったり歌ったりしたので、彼の奥さんは彼を責めました。「あなたはバカのように踊った。全然王のようにふるまわなかった。」と言いました。

でもダビデはこう返事しました。

私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見え【る】。(第二サムエル記6:21-22)

それが私の態度になるように。私たちはいつも神様を賛美し、私たちの賛美に相応しい神に「ハレルヤ」と叫びましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇149篇ーー歌うとき、戦うとき

多分、多くの人々にとって、この詩篇は気持ち悪いところがあるでしょう。特に6節からちょっと読みにくいでしょう。

この詩篇の前半では、詩人は人々に神様を賛美するように招きます。なぜなら、神様は私たちの創造主だし、私たちの神だから。だから彼は、楽器で神様を賛美しましょう、また踊りをもって、賛美しましょうと言います。

私は全然踊れないけど、人々が神様を踊りを通して賛美することを見るとき、私は感動して、祝福されます。

また、神様を誉め称えるために人々が楽器を演奏するとき、私は神様に近づくことができます。私の教会では、プロのヴァイオリニストがよく演奏しているのですが、本当に賛美の雰囲気は素晴らしくなります。

私は賛美の時間を楽しむけど、神様はもっと楽しみます。あなたが音痴でも、楽器が演奏できなくても、踊れなくても、あなたが賛美するときに、神様は喜びます。詩人はこう言います。

主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(4)

神様は私たちの才能よりも、私たちの心を喜びます。私たちは神様を愛し、賛美するときに、神様は喜びます。

また、私たちがへりくだって、神様に信頼するとき、神様は私たちを救いで飾ってくださいます。だから私たちは喜ぶべきです。私たちが神様から何も値しないのに、、神様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

でも、この詩篇の後半は、ちょっと気持ち悪いです。なぜなら、詩人は私たちに神様を賛美するように招くけど、そのあと、彼は私たちに神様のために戦うように招くから。つまり、私たちが神様に反抗する人々と戦い、神様の裁きを行うことです。

イスラエル人はカナンに着いたとき、そうしなくてはならなかった。神様はカナン人が悔い改めるために何百年待っていたけど、かえって彼らはもっと悪くなりました。だから、彼らの罪が満ちることになった時(創世記15:16)、神様はイスラエル人を裁きを行うために送りました。

もちろん私たちはそのイスラエル人ではないですが、ではこの詩篇は私たちにとって、どんな意味を持つのでしょうか。

私たちが霊的な戦争に入っていることを覚えていなくてはならないと思います。でも、私たちの敵は人間ではありません。むしろ、霊的な力は人々を用いています。だから、私たちは人々と戦わずに、その人々の裏の霊的な力と戦っています。

そして、私たちの武器は刀ではなく、かえって、神様のみ言葉です。そのみ言葉は、

生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(へブル4:12)

だから私たちは人々と戦わないのです。むしろ、彼らが救われるために私たちは戦います。

私たちのメッセージは裁きのメッセージ、また、救いのメッセージです。信じる人々に対し、私たちはイエス様の名前によって、神様の赦しを宣言する権利があります。でも、神様の言葉を拒絶する人々に、私たちは裁くのメッセージを伝える権利があります。(ヨハネ20:23)

だから忘れないでください。もちろん私たちは神様を賛美するように招かれました。でも私たちは戦うようにも招かれています。罪に迷った人々のために戦わなくてはなりません。だから、戦いに走りましょう。

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇148篇ーー礼拝の招き

トミー・ウォーカーというワーシップ・リーダーは「All the Saints join in」(すべての聖徒たちは参加しよう)という歌を歌います。その歌は、この詩篇から来ています。

この詩篇では、詩人はすべての被造物に神様を賛美するように招きます。天使や、太陽や、月や、鳥や、地球上の被造物や、海にいる被造物や、王たちや、若いものや、年を取った人でも、神様を礼拝するように招かれました。

どうしてでしょうか。

主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。(13)

つまり、神様はすべての栄光に相応しい方ということです。もし、神様の被造物に栄光があるなら、どれぐらい神様は栄光があるでしょうか。だから、神様は私たちの賛美に相応しい方です。

しかも、

主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。(14)

聖書では、角は力の象徴です。だから、私たちが下されるとき、神様は私たちの近くにいて、私たちを強め、救い出してくださいます。ダビデ自身にもそんな経験がありました。また、イスラエル人がバビロンで追放されたとき、彼らも神様の救いを経験しました。現代においても、神様はイスラエル人に自分の国を与えてくださいました。

でも、最も良い例は、私たちが罪のために、地獄に値する者であった時、神様は私たちを愛したので、私たちを救うためにイエス様を送ってくださったことです。イエス様は私たちの救いの角でした。(ルカ1:69)

イエス様はこの世に住んだ時、神様を表したし、十字架で、私たちの罪のための罰を受けてくださいました。だから、イエス様の働きによって、私たちは赦されて、新しい命をもらいました。

神様は本当に私たちの賛美に相応しい方。だからすべての被造物と一緒に参加して、神様を賛美しましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇147篇ーー神様に信頼するとき

詩篇146では、私たちは、神様が私たちの信頼に値する方であることを見ました。この詩篇では、私たちは神様に信頼することの結果を見ます。

イスラエル人は何年も神様に反抗し、神様に信頼しそびれました。むしろ、彼らは自分自身や、偽物の神々や、周りの国々に頼りました。その結果は、壊れた国でした。

でもエズラとネヘミヤとハガイとゼカリヤのリーダーシップによって、彼らは神様にもう一度向かい始めました。だから、癒しのプロセスは始まりました。

詩人はこう書いた。

主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。

主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(2-3)

そして、詩人はイスラエル人に神様の偉大さを思い出させました。また、どうして神様が私たちの賛美に値するかを思い出させます。それは、神様がすべてのものを造って、支えてくださることです。(5-9)

そして、詩人はイスラエル人に神様が人間とその動物の力に全然感動しないことを思い出させます。むしろ、

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(11)

だから、詩人はイスラエル人を励ます。

「あなたの人生には、神様をほめたたえましょう。神様が私たちの門を強め、私たちを祝福し、私たちに平和を与え、私たちのニーズに備えることを覚えていてください。」

そして、詩人は彼らに、神様がほかの国々に表さずに、イスラエルだけに自分自身を表して、祝福してくださったことを思い出させます。

しかし、へブル人への手紙の著者によれば、神様は預言者たちだけを通して自分自身を表さなかった。今イエス様を通して、神様は自分自身を表してくださいます。だから、私たち皆はイエス様を通して、神様に近づくことができます。

それに、神様はイエス様にあって人間になったので、私たちをよく理解できるし、私たちに対して情け深いです。だから、その確信を持って、神様に近づきましょう。また私たちは神様に信頼しましょう。そうすれば、私たちは癒しや、祝福や、平和を見つけます。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

詩篇146篇ーー私たちの信頼に値する神

多くの場合、私たちは人々にがっかりさせられます。私たちは彼らの助けと励ましを期待するけど、結局彼らはそうしてくれません。

だから詩人はこう書いた。

君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。(3)

イスラエルの歴史の中では、彼らは敵に脅されたとき、神様の助けを求めずに、周りの国々の助けを求めました。その結果は何でしたか。その国はイスラエルを裏切りました。または、彼らは最終的にイスラエルを助ける力がありませんでした。

だから、その時代の預言者たちのように、詩人はこう言いました。

幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。

主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り【ます】。(5-6)

でも、神様は王たちとその王国だけを見守りません。神様は神様を愛している苦しんでいる人々も見守ります。神様は抑圧される人や、飢えた者や、囚人や、盲人や、在留異国人や、やもめや、みなしごと共におられます。彼らは苦しむかもしれないけど、神様は彼らを決して捨てない。それに、彼らのニーズに備えてくださいます。

私が以前言ったように、神様は無限の神だけではなく、神様は私たちと共にいて、私たちを愛しています。

だから、あなたが苦しんでも、苦しまなくても、この無限の私たちを愛している神に近づいてください。

またイザヤの言葉を覚えていてください。

[神様]を信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)


 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇145篇ーー私たちの無限の神、私たちに近い神

ある日、私はA Praying Lifeという本を読みました。残念ながら英語版しかないのですが、英語ができるなら、どうぞ読んでください。私は本当にその本を勧めます。

とにかく、その本では、著者は神様の本質の二つについて話します。一つ目は、神様が無限の方であることです。二目は、神様が私たちに近い方であることです。神様について考えるとき、両方のことを覚えていなくてはならない。そうしないと、私たちの祈りは影響されます。

もし、神様が無限の方であることを忘れたら、私たちの心では、神様が何ができるか制限してしまいます。もちろん、神様が何でもできるけど、私たちがそう思わないなら、祈れません。

その反面、もし私たちが神様が私たちに近く、私たちを本当に愛していることを忘れたら、私たちは祈りません。なぜなら、「神様はこの小さいことを興味がないだろう」と思い始めるから。

でも、神様は私たちの人生の詳しいものでも興味があります。そう思わないなら、もう一度139篇を読んでください。

詩篇145篇では、私たちはダビデが両方のことを覚えていたことが見ることができます。最初に、彼は神様の偉大さについて歌います。

主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。

代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。

私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。(3-5)

でも、何回も、彼は私たちに対する神様の愛について歌います。

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。(8)

また9節です。

主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。(9)

そして13-16節で、彼はこう歌います。

あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。

主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。

すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。

あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。(13-16)

また、18-20節で、彼はこう歌います。

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

すべて主を愛する者は主が守られる。(18-20)

ダビデはそのことを全部信じたので、この詩篇の最初では、彼はこう叫びました。

私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。

あなたはどうですか。神様が無限の方であることを信じるでしょうか。神様があなたの人生に立っている山に取り組むことができることを信じるでしょうか。また、神様があなたの敵に取り組むことができると思うでしょうか。

また、神様があなたを愛しているのであなたを助けてくださる確信があるでしょうか。

神様の無限さ、また、神様の愛を決して忘れないでください。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇144篇ーー勝利を与えてくださる神

多分、戦いの前に、ダビデはこの詩篇を書いたでしょう。でも、興味深いことは、ダビデはこの詩篇を、賛美の言葉で始めることです。

大変な状況に直面するとき、普段私たちは最初に、「神様。助けてください」と祈ります。でも、ダビデはこう歌いました。

ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。(1)

私はこの歌を読むと、ヨシャパテの話について考えます。彼は戦うとき、兵隊たちの前に歌手たちを送りました。そして、彼らはこう歌いました。

主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二20:21)

この詩篇にも、ダビデは戦うときに、神様に対する信仰を言い表しました。自分の軍隊や盾に頼らずに、神様に頼りました。彼はこう歌いました。

主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。(2)

そして8篇のように、ダビデは、どうして神様が彼を愛しているかを思って、驚きました。

彼はその神様の愛の確信を持って、神様がその戦いの中で彼を助けてくださることを願いました。また、神様が彼を敵から救って、彼の民が平安と繁栄があるように祈りました。

そして、彼はこう歌って、この詩篇を終えました。

幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(15)

あなたはどんな戦いに直面しているでしょうか。あなたは職場や、学校や、家でも、戦いがあるかもしれない。

あなたの1日を始めるとき、自分の心配に関して考えずに、先に神様を賛美してください。神様があなたを愛していることを覚えて、その知識にあって安心してください。もしあなたの周りに争いがあれば、神様の平和があなたを通して流れるように祈ってください。そして、その戦いがあなたに対しても、周りの人々に対しても、また敵さえに対しても、祝福になるように祈ってください。

なぜなら、私たちの敵は本当の敵ではないから。イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。

主よ。あなたの愛と慈しみを感謝します。あなたは私の戦いをよく知っています。私の盾になるように。私の助けになるように。この人々ではなく、むしろサタンと悪霊が私の敵であることを私が覚えるように。だから、私が私を傷つける人々を憎まないように。むしろ私が彼らを愛することを助けてください。あなたの平和を与えてください。また、あなたの平和が私を通して流れるように。イエス様の皆によって祈ります。アーメン。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇143篇ーーどこに向かうか

私たちは困った時に、どこに向かうでしょうか。人々が私たちに反対するとき、私たちは助けを得るためにどこに行くでしょうか。ダビデは何回も自分にその質問を聞かなくてはならなかった。

ダビデは多くの人々のように、自分自身に頼ることができたでしょう。自分の力や、知恵に頼ることができたでしょう。

でも、むしろ彼は神様に向かいました。彼はこう祈った。

主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください。(1)

暗闇の中で、また、自分の失望から、彼は叫んだ。

私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。(8-10)

どれほど、私たちは神様に頼らずに、自分の力で問題に取り組もうと思うでしょうか。どれほど、私たちは神様の言葉を聞かずに、自分の知恵に頼るでしょうか。

ダビデはそうしませんでした。むしろ、彼は神様に何をした方がいいか尋ねて、神様の知恵に頼りました。また彼は聖霊様の導きに従いました。

ヤコブはこう言いました。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

主よ。私が問題に直面するとき、私が自分の知恵に頼らずに、あなたに仰ぐように助けてください。あなたが約束したのは、私があなたの知恵を求めれば、あなたがその知恵を与えてくださることです。毎日、その知恵を与えてください。私はあなたのしもべです。私の耳をあなたの声に向け、私があなたの声が聞こえるように助けてください。アーメン。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇142篇ーー自分の嘆きを神様の前に注ぐこと

以前、57篇と一緒にこの詩篇について話したけど、今回、詩篇142篇だけについて話したいと思います。

ダビデはこの詩篇を書いたとき、サウルかアブサロムから逃げて、洞穴で隠れていました。だから、ダビデは牢に入っているように感じていました。(7)

洞穴から彼は神様に叫びました。

私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。(2)

彼は本当に苦しんだので、時々彼のトラブルを大げさに言いました。彼はこう言った。

私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。(4)

実は、ダビデの周りには自分の兵隊たちがいました。彼らはダビデを愛し、本当に忠実でした。

また、ダビデがサウルから逃げたとき、彼の親友(また、サウルの息子)ヨナタンはダビデを見つけて、励ましてあげました。

またダビデがアブサロムから逃げたとき、ほかの親友がダビデを助け、アブサロムの計画を無駄にしました。

時々私たちが試練に直面するとき、私たちは実際よりも私たちの状況は悪いと考えます。だから、私たちは文句を言ったり、自分の問題を大げさに言ったりします。

でも、私たちがそうしても、神様は私たちのことをよく理解できていらっしゃいます。だから、私たちが自分の嘆きを注ぐとき、神様は私たちを責めず、私たちに憐れみを注ぎます。

ダビデは、神様が彼を受け入れたたことが分かったので、神様に正直に祈ることができました。

それに、神様が彼と共にいて、素晴らしい計画を立てたことを知っていたので、ダビデは、こう歌いました。

私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。(3)

また、

あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。(5)

だから、試練に直面するとき、ダビデのように、自分の嘆きを神様の前に注いでください。神様があなたを責めないことを覚えていてください。また、神様が私たちのために計画を持っている確信を捨てないでください。もし神様が私たちと共におられたら、私たちは乏しいことがありません。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

詩篇138篇ーー私にかかわる計画を成し遂げてくださる神

詩篇137篇はちょっと憂鬱な詩篇だったけど、138篇は励ましてくれる詩篇です。なぜなら、この詩篇では、詩人(ダビデ)は神様に焦点を当てるから。

いつダビデがこの詩篇を書いたかはっきりしないけど、多分王になった後で書いたと思います。この詩篇を書きながら、彼は自分の人生や、どうやって神様が彼を守り導いたかを振り返ったかもしれません。

彼はこのように歌い始めました。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。 (1)

どうして、ダビデは神様をほめたたえたでしょうか。ダビデに対する神様の恵みとまことのためです。つまり、ダビデが苦しんで神様に叫んだとき、神様は天から手を伸ばして、助けてくださいました。また、ダビデが殺されると思ったとき、神様は彼に勇気を与えてくださいました。

だから、ダビデは振り返った時、神様の偉大さと忠実さを見ることができました。神様はダビデに対する約束のすべてを守りました。

だから、ダビデはこう歌いました。

主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。(4-5)

また、神様の忠実さによって、ダビデは確信を持ってこう言いました。

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。(8)

あなたは疑いと戦っているでしょうか。あなたは迷って、神様に捨てられたと思いますか。

あなたの人生を振り返って、神様のあなたに対する忠実さを思い出してください。イエス様は十字架であなたのために何をしてくださったかを思い出してください。

あなたをキリストに導いてくれた人々を思い出してください。また、あなたをキリストに導いた状態を思い出してください。また、その時から今まで、神様があなたのために何をしてくださったかを思い出してください。

その同じ神は今でもあなたと共におられます。神はあなたを捨てられなかった。私たちがどんなに失敗しても神様の恵みはとこしえにあります。そして、「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」

主よ。あなたの恵みと誠を感謝します。あなたの憐みが決して尽きないことを感謝します。私に対するあなたの目的を果たしてください。私を癒してください。私を完全にしてください。私の人生があなたに対して賛美になるように。アーメン。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇141篇ーー「私たちを試みに会わせないように」

詩篇140篇では、主の祈りのように、ダビデは祈った。「悪からお救いください。」

141篇も、主の祈りに似ている点があります。この詩篇では、ダビデは祈りました。

私たちを試みに会わせないように。(マタイ6:13)

特に、ダビデはこう祈りました。

主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。

私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもとともに、悪い行ないに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。(3-4)

ダビデは二つのことを気にしました。つまり、彼の言葉と思いを気にしました。

最初に、彼は祈った。「私の口から悪い言葉が出ないように)」

多くのクリスチャンは口の罪と戦います。彼らは文句を言ったり、噂をしたり、人々を傷つけたりします。私もそんな罪と戦います。時々私もその誘惑に負けます。

でもダビデは自分の思いをも気にしました。彼は祈った。「私の心を悪いことに向けさせないように。私は悪者の生活を見たら、彼らをねたまないように。」

もし私たちは罪について考えて、悪者をねたんだら、罪に落ちるのは簡単なことになるのです。

イエス様は私たちの思いについて私たちに注意しました。

イエス様が言ったのは、もし私たちが心の中で兄弟に対する怒りを保ったら、心の中で彼らを殺したのと同等ということです。(マタイ5:21-22)

また、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)

神様は私たちの仕業だけを気にしません。神様は私たちの心、また、私たちの思いをも気にします。ダビデはそのことを知っていたので、神様が彼の口も心も守るように祈りました。

そして、彼は謙遜な態度、また柔らかい心のために祈りました。彼はこう祈った。

正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。(5)

私たちの多くは、責められるのが嫌いです。でも、ダビデは、注がれる癒す油のように受けました。

ダビデがバテ・シェバの夫を殺して、彼女と結婚したら、預言者ナタンは彼を厳しく責めました。ダビデにとって、その言葉が本当に苦しかったと思います。

でも、彼はその言葉を受けて、悔い改めました。だから神様は彼を赦してくださいました。

それは誘惑に戦うカギの一つです。私たちは神様の懲らしめを受けなくてはならない。神様が私たちを責めたら、私たちは柔らかい心が必要です。そして、悔い改めなくてはならない。

この詩篇の終わりで、ダビデはもう一度、神様が彼を敵から救い出すように祈ります。

毎日、私たちも同じ祈りを祈りましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇140篇ーー悪からお救いください

そろそろ、詩篇を終えると思います。今まで4か月ぐらいかかって、後2週間ぐらいかかると思います。

とにかく、この詩篇を読むとき、私は主の祈りについて考えます。

イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えました。

悪からお救いください。(マタイ6:13)

この詩篇では、ダビデはそのように祈りました。実は、141篇から144篇まで、ダビデはそのように祈りました。

おそらく、ダビデがサウルかアブサロムから逃げたときに、この詩篇を書いたと思います。彼はこう祈った。

主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。

彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。

蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ

主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。

高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。(1-5)

ダビデは本当に大変な状況に入っていたらしいです。人々が彼を殺そうとしたので、彼は何回も祈りました。「私を敵から助け出してください」、「私を守ってください」と。

でも、彼のトラブルの中に、私たちは神様に対するダビデの信仰を見ることができます。彼は祈った。

私は主に申し上げます。「あなたは私の神。」(6)

また、

私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。 (7)

そして、ダビデは神様が正義によってその敵を裁くように祈りました。そのあとで彼は祈った。

私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。

まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。(12-13)

あなたはダビデのように試練を経験しているかもしれない。周りの人々はなぜかあなたを憎み、あなたを倒そうとしているかもしれない。

でもダビデのように、その問題を神様に任せてください。正義を神様の手に委ねてください。またダビデのように、私たちの敵に憐れみを与えてください。

あなたは今攻撃されていないかもしれないけど、私たちが霊的な戦いに入っていることを覚えていてください。私たちに対する悪意を持つ霊的な力があって、彼らは私たちを滅ぼしたがります。イエス様はそれを知っていたので、私たちに「悪からお救いください」という祈りを教えてくださいました。

だから私たちはそのように祈るべきです。私たちは壊れた世界に住んで、私たちの周りに、たくさんの壊れた人々がいます。サタンはまだこの世にいて、機会があれば私たちを攻撃します。

だから、目を覚まして祈ってください。でも自分自身を守るだけではなく、サタンの国を攻撃してください。人間は私たちの敵ではないです。サタンは私たちの敵なのです。だから、神様がこの世の民を救い出すように、福音を延べ伝えてください。

私たちが与えらえた鎧は私の背中のためではなく、私の表を守るためであることを覚えていてください。

だから、神様に付いて行って、前を進んでください。

古い讃美歌があります。日本語のタイトルは見よや十字架のだけど、英語はちょっと違います。英語ではこう書いてあります。

クリスチャンの兵隊たちよ。
戦うために行進せよ。
イエス様の十字架は私たちの旗で、
その旗についていく。

キリストは私たちの王、私たちの主。
キリストは敵を戦うのに私たちを導いておられる。

その戦いに行進せよ。
キリストの旗を見て、戦おう。

 

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇139篇--私を知っている神、私を愛する神

これは本当に有名な詩篇です。多くの人々が23篇と139篇が大好きだと思います。どうして、この二つの詩篇は親しまれるでしょうか。なぜなら、それらは神様の愛をはっきりしと表しているから。

実は、あなたの視点によって、この詩篇は怖いかもしれない。アメリカでは、たくさんの人は「お兄さん」について心配しています。「お兄さん」というのは、政府が、衛星やほかのテクノロジーを通して、私たちを見ることができることです。

でも、神様は私たちの政府よりも有能な方です。私たちが出かけても、リビングにいても、神様は私たちを見ることができます。神様は私たちのすべての行動を知っています。私たちは暗い所でも隠れることができません。そして、私たちがどこに行っても、神様から逃げられません。

それに、神様は私たちの携帯電話の話も知っています。私たちがうちにいても、職場にいても神様は私たちのすべての言葉を知っています。

もし、私たちが神様ににらまれたら、それは怖いことでしょう。もし神様は私たちを罰するために待っているなら、それは怖いことでしょう。

でも、神様は愛深く憐み深い目で私たちを見ます。私たちが自分の母のお腹の中にいたとき、神様は私たちを見守りました。その子宮の中で、神様は私たちを組み立てました。

そして、私たちを造っている間に、神様は私たちのために夢と計画がありました。神様は私たちについてずっと考えました。ダビデはこう言った。

神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。(17-18)

それに、神様がこの世界を造る前に神様は私たちが何をするか知っていたし、私たちの選択も知っていたので、そのすべてを神様の計画に織り込みました。

神様は決してびっくりしたことがありません。神様はプランBの必要がないです。プランAだけがあります。そして、神様の計画は初めから決して変わったことがありません。

だから、私たちが何をしても、また、どんなに失敗しても、私たちに対する神様の思いは決して変わりません。神様は自分の計画に私たちの良い行動も悪い行動も織り込みます。

だから、私たちにとっては、一つの質問しかありません。私たちは喜んで神様の計画に参加するでしょうか。もしくは、私たちは神様と戦うでしょうか。もし、神様と戦うなら、神様は私たちの行動を神様の計画に織り込むけど、私たちは苦しんでしまいます。

ダビデはその選択肢を知っていて、神様に従うことを選びました。彼の言葉は厳しいかもしれないけど、神様が罪を憎むことを知っていたので、ダビデも罪を憎みました。だから、ダビデは罪を犯したがらなかったし、罪人と付き合いたがらなかったのです。

むしろ、彼は神様の前に清い心を保ちたがって、神様を喜ばせたがったのです。だから、彼はこう祈りました。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(23-24)

主よ。あなたが私を知って、愛してくださり感謝します。私が母の胎にいるときに、あなたは私をもう知っていて、計画がありました。あなたの目的のために私を用いてください。私の人生はあなたのものです。私がどこに行っても、私が何をしても、私を導いてください。私が変わらなくてはならないところを変えてください。私の罪を取り除き、清めてください。そして、とこしえの道に導いてください。アーメン。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

詩篇137篇ーー自己憐憫に浸ること

これは本当に憂鬱な詩篇です。多分、詩人はバビロンに追放されたときにこの詩篇を書いたのでしょう。

この詩篇では、詩人はバビロンの川のそばに座り、立琴を持っていたけど、エルサレムの没落を悩んでいたので、もう弾く気がなくなった。むしろ、彼は、その立琴を柳の木々に掛けて、エルサレムの没落を嘆きました。

そして、あるバビロン人が来て、彼をからかいます。「おい。歌えよ。エルサレムの歌を聞いてみたい。」

でも、詩人は拒絶して答えました。「一体どうしてそんな歌を歌えるでしょうか。エルサレムは滅びたので、私はエルサレムについて喜びの歌を歌えない。私がそうする前に、私の右手がその巧みさを忘れるように。また私が歌えなくなるように。」

そして、彼はバビロンとエドムを呪います。どうしてでしょうか。

エドム人の先祖エサウがイスラエル人の先祖ヤコブのお兄さんだったのに、エルサレムが没落した時、エドム人は喜びました。

そしてバビロン人はイスラエル人の子供たちを殺したし、さまざまな酷いことを犯しました。

だから、詩人は彼らを呪って、バビロン人とエドム人に対してそのようなことが起こるように願いました。

どれぐらい、私たちはそのように感じるでしょうか。自分の罪のため、私たちは苦しんで落ち込んでいます。時々、私たちの家族でも、私たちをからかうし、私たちの敵は笑って、「あなたの神はどこだろう」と聞きます。

どうやって、私たちは反応すべきでしょうか。

私たちは選択肢があります。私たちは自己憐憫に浸り、私たちが失ったものを嘆き、苦々しい思いに負けることができます。でもそうすれば、私たちは霊的に、また肉的に枯れます。

もしくは、ダニエルとネヘミヤのように、神様に向かって、悔い改めることもできます。そうすれば、神様は私たちの壊れた人生を癒して下さいます。そして、もう一度私たちは神さまからの喜びを知ります。

あなたはどうするでしょうか。どの選択肢を選ぶでしょうか。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇136篇ーー神様の慈しみと恵みを覚えていること

1節の言葉はこの詩篇を要約しています。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 (1)

この詩篇はイスラエルに対する神様の慈しみと恵みについてです。でも、この詩篇を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かります。

詩人は詩篇135篇のテーマを続け、神様を神の神と、主の主と呼びます。(2-3)

そして、詩人は神様を創造主として認めます。つまり、神様が自分の知恵と力によって、天と地とすべてのものを造ったことを認めます。(4-9)

そして、詩人は神様を贖い主として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人をエジプトから救い出し、エジプトの軍隊を打倒し、紅海を二つに分け、イスラエルにその中を通らせられたから。(10-15)

そして、詩人は神様を羊飼いと比べます。イスラエル人が砂漠を渡った時に神様は彼らを導き、彼らのニーズに備えてくださいました。(16-22)

そのあとで、詩人は神様を勇士として礼拝します。なぜなら、神様はイスラエル人を神様が約束した地に導いたとき、その敵を倒して、その地を遺産として与えてくださったから。(17-22)

23-25節では、詩人は神様を恵みと憐みの神として宣言します。イスラエル人が卑しめられたとき、神様は彼らを敵の手から救い出してくださいました。また、神様はイスラエル人のニーズだけではなく、すべての人間と動物のニーズに備えてくださいます。

最後に、詩人は神様を天の主として認めます。神様はすべてを治める方です。(26)

以前、私は皮肉の危険について話しました。皮肉に対する武器の一つは感謝の態度です。つまり、私たちは神様がどんな方であるか、また神様が私たちのために何をしてくださったかを覚えるべきです。

時々、私たちはこの世に神様が何をしているか分からないけど、神様がすべてのことをコントロールしていることを覚えていなくてはなりません。

またどのように神様が私たちをサタンの国から救い出したかを思い出すべきです。

今でも、神様はこの世で巡礼している私たちを、神様が私たちのために整えた国に導きます。

また、私たちは霊的な力と戦うときに、神様が私たちの勇士を覚えていなくてはならない。

そして、私たちが転ぶとき、神様が憐れみと恵みを私たちに与えてくださって、私たちを拾ってくださることを覚えているべきです。

毎日そのことを思い出しましょう。そのことに焦点を当てましょう。そして希望を持って、詩人のように歌いましょう。

「その恵みはとこしえまで。」

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇135篇ーー神の神

134篇のように、この詩篇は私たちを神様を礼拝するように招きます。また、この詩篇は115篇に似ているところもあります。

この詩篇のテーマは、神様が偉大な方で、ほかの(偽の)神々が神様と比べられないということです。

5節で詩人はこう歌います。

まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。 (5)

そして、彼は神様がどのようにほかのの神々よりも勝っているか説明します。

つまり、神様は全能の主で、すべての被造物を支配します。また、イスラエルを救うために、神様はエジプトとその神々を倒し、もう二人の王たちを倒したのです。

そして、詩人は神様を周りの国々の偶像と比べます。

神様はすべての被造物を作ったけど、偶像は人間の作品です。

偶像は目があるけど見ることができないし、耳があるけど聞こえないし、口があるけど息できないし話せない。だから、詩人はその自分の手で作ったものを礼拝する人々をからかいます。

これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。 (18)

そして、詩人はすべての人々をすべてを治める神様を礼拝するように招きます。

でも、私が気に入ったところは4節です。

まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。 (4)

神様はヤコブとイスラエルを選び、自分のものとされ、また自分の宝とされました。今でも、多くのイスラエル人がイエス様を拒絶しているけど、神様は彼らを諦めていないです。パウロはイスラエルに関してこう言った。

神の賜物と召命とは変わることがありません。 (ローマ11:29)

神様はイスラエルを捨てないけど、神様はイエス様を信じる方を見るとき、私たちに関しても、イスラエルに対する同じ言葉を言います。

つまり、ペテロは私たちについてこう言いました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 (第一ペテロ2:9)

なぜ神様は私たちを選び、自分の民とされたでしょうか。私たちが周りの人々に神様の素晴らしいみわざを宣べ伝えるためです。そうすれば、彼らも闇の中から出て、神様の驚くべき光に行くよう招かれます。

だから、詩人は私たちにこう言います。

イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。アロンの家よ。主をほめたたえよ。

レビの家よ。主をほめたたえよ。主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。

ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇134篇ーー礼拝する心を保つこと

これは最後の都上りの歌です。もしかしたら、イスラエル人はエルサレムへの巡礼が終わって、帰る時にこの歌を歌ったかもしれない。

帰る時、彼らは夕方にまだ宮で働く人々にこう歌ったかもしれない。

さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(1-2)

彼らは祭司たちとレビ人に、怠けずに注意をし続け、主を礼拝し続け、主に仕え続けるように励ましました。

あるレビ人たちは歌う役割があって、昼となく夜となくその仕事に携わりました。(歴代誌第一9:33)

もしかしたら、イスラエル人はそのレビ人にその言葉を歌ったかもしれない。

とにかく、私たちが覚えているべきなのは、神様についてよく考えるべきという事です。

時々、私たちの考え方は皮肉っぽくなるので、その考え方は私たちの祈りに影響を与えてしまいます。私たちは神様の愛を忘れます。神様の良さを疑い始めます。だから、祈る価値があるかどうか疑います。そして、私たちは神様からもっと離れるように感じます。

でも、感謝の心を持てば、神様がどんな方であるか覚えていて、また神様の良さを覚えていたら、皮肉があなたの魂を毒することはありません。

神様の民として、私たちは神様の祭司です。でも、皮肉っぽい祭司が本当に酷いものである事を覚えていてください。

あなたはどうですか。皮肉な態度はあなたの魂を毒しているでしょうか。皮肉はあなたのこの世に対する態度や、あなたの人生に対する態度を毒しているでしょうか。

もう一度私たちの思いを神様中心にしましょう。神様の良さに焦点を当ててください。神様のあなたに対する愛に焦点を当ててください。神様があなたのために何をしてくださったことに焦点を当ててください。感謝の態度を取ってください。そうすれば、あなたの皮肉な態度はなくなって、あなたの喜びは戻ります。

巡礼者が帰る時、祭司たちはこう叫んだ。

天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。(3)

この巡礼で、神様があなたに全ての霊的な祝福を与えるように。神様があなたの皮肉な心を清めて、あなたの心に喜びを満たしてくださるように。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇133篇ーー一致

イスラエル人はエルサレムに巡礼した時、彼らは教会に対して大切なことについて歌いました。つまり、一致です。ダビデはこう歌った。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(1)

キリストの教会で、一致は本当に美しいものです。その反面、闘争や争いは教会の染みです。

人々が初めて教会に行って、キリストの愛によって一致している人々を見ると、彼らは興味が湧いてきて、イエス様とその教会について、もっと知りたいと思うでしょう。

でも、もし彼らが入る時、文句やゴシップを聞いたり、苦々しい心を持っている人々を見るなら、彼らはすぐに逃げようと思います。彼らはとても悪い印象を受けて、尋ねます。「教会の人々はこの世界の人々とどう違うだろうか。」

だから、イエス様は弟子たちにこう言った。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34-35)

そして、イエス様は教会のためにこう祈った。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネ17:21)

キリストの教会が一致があれば、周りの人々は私たちの中にキリストを見て、神様とその祝福を知るようになります。それに、教会の人々も神様の祝福を知ります。

ダビデはこう書いた。

それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。(2)

その油は祭司たちのためのものでした。オリーブ油は液体の没薬、かおりの強い肉桂、におい菖蒲、桂枝と混じました。(出エジプト30:22-24)

ダビデが言ったのは、祭司にとっては(アロンはイスラエルの最初の大祭司でした)、一致はその油で注がれたみたいです。

現代でも、牧師たちはキリストにあって一致した教会を見ると、喜びます。教会のメンバーたちがキリストが命令したように愛し合ったり、仕え合ったりしたら、牧師たちは本当に嬉しいです。

それに、油は聖霊の象徴です。人々は聖霊に導かれたら、一致に導く聖霊の実を結びます。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、と自制です。(ガラテ書5:22-23)

一致した教会はそのような実を結びます。

そして、ダビデはこう歌います。

それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。(3a)

ヘルモンの山がシオンの山々よりも高かったので、シオンはヘルモンからの露を受けました。その露はシオンをすっきりさせて、清めました。

一致とはそのようなものです。一致によって人々はすっきりした感じがあって、神様の手に触れられて、清められます。

だから、ダビデはこう歌います。

主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(3b)

キリストにあって一致した教会は神様に祝福されています。そして、その人々は神様からの命を知ります。

あなたはどんな教会に行っているでしょうか。

実を結ぶ一致した教会に行っているでしょうか。もしくは闘争で満ちる教会に行っているでしょうか。

あなたは教会を建てるでしょうか。もしくは、教会を取り壊しているでしょうか。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇132篇ーー自分の約束を守る神

これは興味深い詩篇です。つまり、この詩篇の前半は神様に対する祈りだけど、後半は神様の答えです。他の詩篇にそのパターンがあったのか、私は今思い出せません。

この詩篇も都上りの歌です。そして、イスラエル人はエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌って、神様が自分のダビデに対する約束を覚えるように祈ります。要するに、ダビデの子孫がいつも治めるように祈りました。

そして、彼らは神様の宮を建てるダビデの願いを思い出して、エルサレムに上がった時、礼拝する喜びを言い表した。彼らはこう歌った。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(7)

そして、彼らは神様にこう祈りました。

主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、お入りください。あなたと、あなたの御力の箱も。

あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。(8-9)

つまり、「私たちと共にいてください。あなたの祭司たちは聖くなりますように。また、私たちにあなたの喜びで、満たしてください。」

私たちは礼拝するとき、そのような態度を取るべきです。神様が私たちと共にいて、神様の祭司が私たちを清め、私たちを喜びで満たしてくださるように祈るべきです。

イスラエル人の祈りを聞いた後、神様はその祈りに応えてくださいました。

神様は、シオンで彼らに会うと約束しました。シオンに関して、神様はこう言いました。

これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。(14-15)

それに、神様は彼らの他の願いに叶ってくださいました。神様はその祭司たちに救いを着せたし、イスラエル人に大喜びを与えてくださいました。(16)

そして、神様はダビデの王座に座る方を送ると約束しました。その王はイスラエルの敵をも治めるし、光り輝く冠を被と約束しました。もちろん、イエス様はこの世に戻る時、その約束が成就します。

この詩篇を読む時、私は希望があります。なぜなら、神様は決して変わらないし、その約束も変わりません。神様は約束したことを必ず行います。だから、イエス様の帰りを待ち望みます。その日、全ての神様の約束は成就するから。

イエス様、2000年前にあなたが私の罪のために死んでくださり、感謝します。あなたの血によって、あなたの目に私は聖くなりました。毎日私と共にいてください。あなたの喜びで私を満たしてください。また、あなたの祭司を通して、私が周りの人々に触れるように助けてください。私があなたの仕事をするために、あなたの聖霊と力で、私を満たしてくさい。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇131篇ーー謙遜

これもかなり短い詩篇だけど、この詩篇を通して、ダビデは私たちが神様に近づくときに、どのような心が必要か教えています。

私たちはどんな心が必要でしょうか。へりくだる心が必要です。ダビデはこう書いた。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。(1)

心の中でプライドを持ったら、神様の前に行くのは無理です。私はヨブについて考えます。

彼が苦しんだ時に、彼は神様の正義を疑い始めました。だから、神様の前に行きたがって、神様の正義に関して議論したがった。

多くの人々はそうします。彼らが神様と同じ知力を持っていると思うので、彼らは神様と義論したら、勝てると思っています。

多くの無神論者はこう思います。「たとえ神様が存在しても、どうして私が神様を信じなかったかを説明できます。」

でも、彼らが神様の前に来て話す時、ヨブのように彼らの論法が虚しいと実感することでしょう。

しかし、他の人々はヨブの友達のようです。彼らは誇って、他の人々を見下し、すぐに裁きます。でも、神様はそんな人にも反対します。なぜなら、彼らの判断は間違ったから。

でも、ダビデは彼らと違いました。神様に対しても、他の人々に対しても謙遜な態度を持っていました。だから、彼が理解できないことが起きたり、また、どうして神様がいろんな試練を許したか理解できない時、彼は謙遜に言いました。

及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1b)

ヨブは、悔い改めた時、同じようなことを言いました。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:3)

私たちも理解できないことを経験します。どうして、神様が災いを許すか分からないので、私たちは神様と議論したいと考えます。

でも、ダビデのように、その疑いを置いておいて、神様に信頼しましょう。神様が私たちと共におられ、私たちを愛することを信じ続けましょう。

「乳離れした子が母親の前にいるように」、また自分のニーズに供えられた子のように、神様の前に静まり、信頼しましょう。

ダビデのように私たちはこう言いましょう。

今よりとこしえまで主を待て。(3)

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇130篇ーー赦しの神、憐み深い神

これは短い詩篇だけど、私はこの詩篇が大好きです。苦しむ時、詩人は神様の赦しと愛を省みます。

いつこの詩篇が書かれたのか私は知らないけど、バビロンへの追放の後に書かれた感じがします。ダニエルのような人がこの詩篇を書いたことが想像できます。

でも、ダニエルの祈りと違って(ダニエル書9章)、この詩人は自分の罪のために赦しを願いました。彼は叫んだ。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。(1-2)

彼は自分の良さに基づいて願わなかった。むしろ神様の性格に基づいて願いました。彼は言いました。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(3-4)

その個所が大好きです。誰も神様のみ前に立つ資格を持ちません。もし、神様が私たちの罪の記録を持っていたら、私たち皆死ぬでしょう。

たとえあなたが一日に三回ぐらい罪を犯したら、あなたは三十代になるともう罪を三万ぐらい犯したことになります。

私がどれぐらい罪を犯したか考えたくないです。でも、イエス様の血によって、私の罪は清められました。私の罪の記録に、もう何も書かれていません。

だから、詩人はこう言います。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。(5)

彼は何を待ち望んでいるでしょうか。神様の恵みを待ち望んでいます。何に基づいて待っているでしょうか。神様の約束によって待ち望んでいます。私たちも神様の約束に頼ることができます。つまり、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

そして、夜明けが確かに来るように、悔い改める人に神様の赦しも確かに来ます。(詩編130:6)

自分の罪を悔い改めたあとで、詩人はイスラエルが悔い改めるように招きます。

イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。

主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(7-8)

私たちが神様の赦しを見つけたので、周りの人々に神様の憐れみについて伝え、彼れが悔い改めるように招きましょう。

主よ、あなたは私に憐れみを与えてくださり、感謝します。あなたが私のために何をしてくださったか、私が周りの人々に伝えるように助けてください。私を通して、彼らがあなたの光を見て、悔い改め、救われるように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇129篇ーー私たちが迫害される時

この詩篇では、私たちは二つのことが見ることができます。

一つ目は、ユダヤ人の迫害される歴史です。彼らはエジプトで迫害されたし、士師の時代にも、王国の時代にも迫害されたし、そして、最終的に彼らは追放されました。その追放から戻った後にも、迫害は続きました。ギリシャ王国とローマの帝国の時代に彼らは本当に苦しみました。

現代でも、その迫害が続いています。ヒトラーはたくさんのユダヤ人を殺したし、イスラエルは何回も周りの国々に攻撃されました。今でも、イスラエルが滅びたら、アラブ世界は喜ぶでしょう。

それでも、ユダヤ人はこう言えます。

彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。(2)

つまり(これは二つ目のことなんだけど)、試練の中で、神様の手はずっとイスラエル人の上にありました。

私たちもそう言えます。私たちはアブラハムの霊的な相続人です。私たちも迫害されるかもしれない。家族や、友達や、私たちの政府が私たちを襲うかもしれない。

でも神様は私たちが立つように助けてくださいます。また、神様は教会が立つように助けてくださいます。だから、私たちの敵は私たちに最終的に勝てません。

だから、イエス様の言葉を覚えていましょう。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:10-12)

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇128篇ーー神様をまず第一に求めば

私たちの多くは自分の幸せを求めます。そして、私たちは自分の家族や仕事や家計によって、その幸せが見つけられると思います。

でも、この詩篇では、本当の幸せの鍵を見ることができます。詩人はこう書きました。

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。(1-4)

要するに、私たちが神様をすべてよりも敬い、神様の道を選べば、神様は私たちを祝福してくださいます。

多くの人々は、家計について心配して、働きすぎるので、自分の健康や家族を放置します。だから、彼らは勤務の実を食べられなくなります。つまり、妻との関係や子供との関係はダメになってしまいます。もしかしたら、彼らは若い時に、亡くなるかもしれない。

でも、あなたが神様を敬うと、神様はあなたの家計を祝福し、あなたの家族をも祝福してくださいます。神様が命令したように、夫たちが自分の妻を愛し、子供たちを育てるなら、その妻と子供たちは実を結びます。

もちろん、妻が自分の夫を敬うなら、また、子供たちは親御に従うなら、彼らも神様の祝福を受けます。

でも、家族に関して、ほとんどの命令、もしくはすべての命令は主にお父さんたちや旦那さんたちのためです。つまり、先にお父さんたちと旦那さんたちは、その命令に従うべきです。そうすれば、奥さんと子供たちは喜んで従い始めます。

だから、男性たち、責任を取って、神様とその命令に従いましょう。そうすれば、神様の祝福を知ります。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇127篇ーー私たちの努力の限界

ソロモンがこの詩篇を書いたのですが、私はこの詩篇を読むと、ネヘミヤの話について考えます。

ソロモンはこう書いた。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(1)

もちろん、ネヘミヤは自分の計画を立てました。ユダヤ人の敵がエルサレムを脅した時、彼は対策を練りました。でも、神様がユダヤ人と共におられなかったら、その計画は虚しかったでしょう。

私たちが自分の役割をすることと、神様に信頼して、委ねるバランスがあります。

もし、私たちが座っているだけで、何もしないなら、神様の祝福が期待できません。しかし、神様が私たちの計画の中心ではないなら、私たちの努力は虚しくなるでしょう。

多くの場合、私たちはこう祈ります。「神様、私たちはこうすることになりました。私たちの計画を祝福してください。」

でも、私は最初からこう祈らなくてはいけないです。「神様。あなたの御心を教えてください。私たちはどうすれば良いでしょうか。」

ネヘミヤの話を見ると、彼が何をしても、いつも祈ったことが分かります。私たちもそうするべきです。

ソロモンはこう書いた。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。(2)

多くの人々の問題は、その人生を仕事中心にすることです。でも、彼らは自分の健康と家族を放置してしまいます。

もちろん、仕事は大切なんだけど、私たちの優先順位が正しいかどうか確認しなくてはなりません。私たちはちゃんと寝るべきだし、ちゃんと食べるべきだし、家族と一緒に時間を過ごすべきです。

ソロモンはそれを理解しました。特に家族の大切さが分かりました。だから彼はこう書いた。

見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(3)

もし、あなたの仕事が大変すぎて、ちゃんと寝られず、しっかり食事をとれず、家族と時間を過ごせないなら、新しい仕事のために祈った方が良いと思います。

とにかく、覚えていてください。あなたの人生を神様中心にしてください。そうすれば、あなたの努力は決して虚しくならない。でも、そうしないなら、あなたの努力は最終的に虚しくなります。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇126篇ーー解放された

多分、この詩篇はエズラとネヘミヤの時代に書かれたものでしょう。この詩篇では、ユダヤ人はバビロンの追放からエルサレムへの帰省を振り返っています。

この詩人の喜びを良く見ることができます。

主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。

そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」

主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。(1-3)

この詩篇について考えると、新しいエルサレムはそのようなものだろうと思います。私たちの目が光り輝き、私たちの口は喜びと笑いで満たされるでしょう。

この世の旅を振り返ると、私たちは神様の御業を見ます。つまり、神様は十字架によって、私たちをサタンの国から解放してくださいました。

この世では、私たちはたくさんの涙と共に種を蒔くかもしれないけど、最終的に喜び叫びながら刈り取ります。それに、私たちの苦労のために、神様は報いを与えてくださいます。だからパウロはこう書いた。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇125篇ーー揺るぐことはない

この詩篇も私のお気に入りです。実は、私が高校生の時、私の教会はこの詩篇をもとにした歌を歌っていました。

私は特に1-2節が大好きです。

主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(1-2)

詩人は二つの生き生きとした描写を使います。一つ目は、揺るがない山です。

詩人は神様に信頼する人がシオンの山のようだと言います。

どうして、シオンは揺るがなかったでしょうか。大きい山だからでしょうか。それは違います。シオンの高さは約730メートルしかありません。富士山の方が断然大きです(3776メートル)。富士山と比べると、シオンはただの丘です。でも、神様はシオンを見守ったので、揺るがなかった。そのように、神様が私たちを見守るので、私たちは揺るがない。

それに、山々がエルサレムを取り囲むように、神様は私たちを囲みます。主は私たちの砦であり、私たちを滅ぼしたがる悪魔から守ってくださいます。

そして、詩人は神様の正義に関して、確信を言い表します。つまり、悪者は義人を治めないことです。なぜなら、悪者が義人を治めれば、最終的に義人は罪に落ちるかもしれないから。

残念なことですけど、詩人の言葉は神様の約束ではありません。でも、神様は支配者の行動に限界を置きます。神様はどれぐらいその支配者の治世が続く限界を置くし、信者に対する迫害の限界も置きます。

だから、いつか世界の酷い苦難のため、神様は最後の日数を少なくします。イエス様はその時についてこう言いました。

もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(またい24:22)

とにかく、詩人は神様が自分の民に慈しみを施すように祈りました。また、悪者がいつか裁かれることを覚えています。(4-5)

そして、彼は祈ります。

イスラエルの上に平和があるように。(5b)

私たちの人生はいつもスムーズに行きません。でも、神様に信頼しましょう。神様が私たちを見守り、私たちと共におられることを覚えていましょう。そうすれば、私たちは決して揺るぐことがありません。

また、私たちの苦難の中で、詩人のように、神様の祝福と恵みのために祈りましょう。そうすれば、イスラエルを見守った神様が、私たちをも守ってくださることを実感します。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇124篇ーー神様の恵みを喜ぶこと

ダビデはこの詩篇を書いたけど、いつ彼が書いたのかは分かりません。多分大きな勝利の後に書いたでしょう。

その時、ダビデは神様の恵みを喜びました。彼は叫んだ。「もしも主が私たちの味方でなかったなら、私たちは敵に滅ぼされただろう。でも、神様がその罠を壊したので、私たちは免れた。」(1-7)

そして、彼は歌います。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8)

幸いなことに、私は敵にそのように攻撃されたことがないですけど、神様が私をサタンの罠から救い出してくださったことを感謝します。私が自分自身を救い出せなかった時、キリストは私の罪のために死んでくださいました。

どうして、イエス様は私のために死んでくださったか。私を愛しているから。イエス様は私の味方だから。どうして、イエス様が私を愛して、私を助けたがったか分からないけど、そのことを感謝します。

さらに、神様はあなたの味方です。だから、この詩篇を読む時、この私たちに豊かに注がれた恵みを忘れないでください。

主よ。私があなたの恵みに値しなかったのに、その恵みを私に注がれたことを感謝します。あなたは私をサタンの罠から救い出し、あなたの国に導いてくさり感謝します。あなたの恵みを喜びます。だから、私がこのもらった恵みを周りの人々に与えられるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇123篇ーー憐みを求める叫び

この箇所は興味深い比喩を使っています。詩人はこう書きます。

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(1-2)

一見したところ、この詩篇は奴隷がその主人に仕えることを描写しています。その時代、もちろん、奴隷はその主人の言葉に注意したけど、それよりも奴隷は主人の合図に注意して、その主人の必要を察していました。

そのように、私たちも、神様に目を上げて、仕える心を持つべきです。私たちの人生は自分中心ではありません。私たちが自分だけのために生きるのはいけないことです。むしろ私たちの創造主に仕えるべきです。

でも、2節の全体を見ると、こう書いてあります。

ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

要するに、奴隷は仕えるために主人に目を上げなかったのです。むしろ、彼は憐れみを求めていました。彼は叫びます。

私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。

私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(3-4)

詩篇の背景ははっきりしません。バビロンへの追放の時に書かれたかもしれない。もしかしたら、アンティオコス4世エピファネスの時代に書かれたかもしれない。彼は、主の宮で祭壇の上で豚を殺して、その行動によって、主の宮を汚しました。

とにかく、イスラエル人にはあまり希望がなかった。だから、詩人は主に目を上げました。詩人は、イスラエル人の罪のため、彼らが神様からの祝福に値しないことをよく知ってました。でも、彼は神様の性格も知っていました。つまり、神様が私たちを懲らしめるかもしれないけど、私たちをまだ愛していることを知っていました。また、私たちが悔い改めると、神様が赦してくださることを知っていました。

この詩篇を読むと、私はイエス様のたとえ話を思い出します。ある人は神様の前に立って、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」

イエス様はその人についてこう言いました。

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。(ルカ18:14)

あなたの罪のために、神様に懲らしめられているかもしれない。あなたは神様に捨てられたと思うかもしれない。でも、イエス様に目を上げて、悔い改めてください。憐れみを願ってください。そうすれば、イエス様はあなたを赦してくださいます。

あなたが神様の憐みを知るように。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇122篇ーー神様の民と一緒にいる喜び

巡礼者がエルサレムの門にたどり着くと、多分この歌を歌い始めたでしょう。この歌は、詩人が神様の宮に入る喜びを言い表します。

人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。(1)

私は若い時、あまりそんな喜びはありませんでした。私は7-8歳ぐらいにクリスチャンになったけど、中学生になったとき、もう教会に行きたくなくなりました。私の教会はいい所でしたが、私は他のことをしたかったんです。

でも、高校生になった時、初めて神様の臨在を感じました。私が賛美をするとき、急に私が分かったのは、私たちがカラオケをしているではなく、その歌を通して、神様に祈っていることです。

その経験で、私が教会と礼拝についての考え方が変わりました。

時々、クリスチャンは教会が要らないと思います。なぜなら、彼らは自分で礼拝できると思うヵら。

もちろん、礼拝は個人的な面もあります。でも、もし私たちが他のクリスチャンと一緒に礼拝するのが嫌いだったら、私たちの態度は間違っています。

時々、私たちのにはプライドの問題があります。「私は聖書をもう良く知っている。牧師の説教は要らない。」

時々、私たちは人々を許せないので、教会に行きたくないと思います。「どの教会に行っても、誰かが私を傷つける。だから、教会はもういいです。」

時々私たちはいつも人々を裁きます。「全てのメンバーは偽善者だ。彼らと付き合いたくない。」

また、時々私たちは自己中心です。「私にとって、教会に行く益がない。」

でも、教会に行くのは、ただ私たちの利益のためではありません。教会で、私たちは神様に賛美を捧げます。また、私たちは周りの人々に仕えるべきです。そして、彼らと一緒にそのコミュニティに仕えるべきです。

この詩篇では、詩人はエルサレムの平和のために祈る事について話します。また、彼はエルサレムの繁栄を求めます。そのように、私たちは自分の都市のために祈るべきだし、その都市の繁栄を求めるべきです。

一人では、このようなことは私たちはあまりできません。しかし、キリストの体として、教会は私たちのコミュニティに影響を与えることができます。

もしあなたが、ただ礼拝に出て、すぐに帰るなら、あなたは神様の計画が全然見えない。だから、教会の人々と交わって、一緒に働いて下さい。神様の体で、あなたには自分の役割があるので、その役割を果たしてください。

へブル人への手紙の著者はこう書いた。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル書10:24-25)

 

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

詩篇121篇ーー私たちを見守る神

これは本当に美しい詩篇です。私の父が生前、この詩篇が大好きだったので、彼が亡くなった時、葬式でこの詩篇は読まれました。

この詩篇では、詩人は主に対する信頼を言い表します。彼は歌います。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。(1-2)

120篇のように、これは都上りの歌です。人々はエルサレムに巡礼するときにこの歌を歌いました。だから、彼らが目を上げて、エルサレムを見る時、心の中で喜びが湧いてきたことを想像できます。なぜなら、神様がソロモン王に約束したように、神様の臨在には主の宮にあったから。(列王記9:4)

もちろん主の宮は神様をお入れすることはできませんでした。ソロモンもそのことを認めました。でも神様は、宮に来てイスラエル人に会うことを約束しました。また、彼らが宮に向かい、祈る時、神様はその祈りに応えることを約束しました。

だから、人々はエルサレムに巡礼した時、全然寝ない神様が彼らを見守ることを覚えていて、慰められました。暑い日には、神様は彼らの陰でした。また夜には、神様は彼らを守りました。

でも、それだけではなく、彼らの人生を送れる間に、神様が彼らと共にいらっしゃることを覚えていました。

だから、詩人はこう歌いました。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(7-8)

私たちもその言葉によって慰められましょう。何が起きても、神様はあなたを「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。」(第一コリント10:13)

私たちがこの世界に生きる間に、神様は私たちを見守ります。そして、私たちを栄光に導いて下さいます。

主よ。あなたが私を見守ってくださり感謝します。あなたが決して寝ないし、私がどこに行っても、あなたの手は私を覆ってくださいます。だから、私が困る時に、あなたに向かって、仰ぎます。あなたは私の助け主です。主イエスキリストの名前によって祈ります。アーメン。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇120篇ーー私たちの周りの悪によって怒られる

どれぐらいあなたは周りの悪によって怒るでしょうか。

詩人はそれを見て、本当に怒りました。彼は何を見たでしょうか。偽りのくちびる。欺きの舌。平和を憎み人。戦いを望む人。

だから、詩人は呻きました。

ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(5)

メシェク人とケダル人たちは放浪の部族で、彼らは周りの人々を攻撃しました。

この詩人は彼らの間に住んだのか、そのような人々の間に住んだのか、私は分かりません。

でも、興味深いことは、この詩篇は都上りの歌であることです。つまり、人々がエルサレムに巡礼するとき、彼らはこの歌を歌いました。

どうして、彼らは神様に心を向け、礼拝する時、このような歌を歌ったでしょうか。あなたはそれがちょっと不思議だと思うかもしれない。でも、私はそんなに不思議だと思いません。

なぜなら、私たちの人生はいつも楽しくはないから。私たちがこの世界を見る時、落ち込むのは簡単なことです。その時、私たちは神様がどこにおられるのかと思います。また、神様が何かをしているかと思います。

でも、詩人が神様に向かう時、自分自身に思い出させます。「神様はいつか正義によって治めるから、すべてのことは大丈夫。」

だから、彼はこう書いた。

欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。

勇士の鋭い矢、それに、えにしだの熱い炭火だ。(3-4)

だから、テレビのニュースを見る時、がっかりしないでください。神様が良い方で、正義の方であることを覚えていてください。そして、この世の悪に焦点を当てずに、全てを解決する神を仰ぎましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇119篇145-176節ーー悪に負けないこと

それでは、今日詩篇119を終えます。以前私は言ったけど、私たちはこの詩の著者を知りませんが、もしダビデがこのを詩篇を書いたのだとしたら、驚くには及びません。なぜなら、この詩篇の終わりで、私たちは詩人が経験したことを読むから。つまり、彼は敵に追いかけられたり、迫害されたりしたけど、彼は復讐を求めなかった。むしろ、彼は主に叫んだ。

私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。(146-147)

それでも、彼の神様の道を行く決心は決して揺るがなかった。

彼は寝る前に、どうやって復讐しようか全然考えていなかった。むしろ、彼はこう言った。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。(148)

彼の敵が神様の言葉を捨てて、彼を殺そうと思ったのに、彼は神様の言葉を捨てずに、自分の命を神様の手に委ねました。

私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。

私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。(153-154)

また、

ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。(159)

また、

君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。(161)

どうして、彼はそのように生きたでしょうか。なぜなら、彼は神様の道が最も良いと思ったから。彼はこう書いた。

あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。(165)

そして、彼はもう一度、へりくだって、神様の導きを頼み、神様の道を行くことを決心し、自分の命を神様の手に委ね、神様からの救いを待ち望みました。

あなたはどうですか。あなたは傷ついたら、どう反応するでしょうか。攻められる時、あなたは起こって、悪をもって悪に報いるでしょうか。あなたは「それは許せない。神様の道じゃないかもしれないけど、復讐する。」と言うでしょうか。

そう思うなら、詩人の態度を覚えていてください。また、十字架でかけられたイエス様の態度を覚えていてください。イエス様は復讐を求めなかった。むしろ、その敵を赦してくださいました。また、イエス様は私たちをも赦してくださいました。

最後に、パウロの言葉も覚えていてください。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇119篇97-144節–理解への道

私たちは皆、ますます理解と知恵において成長したいと思います。この箇所では、私たちがどのように成長できるか見ることができます。

詩人はこう書いた。

あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。

私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。

私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。(98-100)

詩人はどのように賢くなったでしょうか。神様の言葉を知っているだけではなく、その言葉に思いを巡らすだけではなく、彼は神様の言葉に従いました。

たくさんの人々は神様の言葉を知っているけど、知恵を持っていません。彼らは、神様が何を言ったか知っているけど、自分の道を行き続けるので、結局彼らは苦しんでしまいます。

でもこの詩人はそのような人ではありませんでした。彼が神様の言葉を愛したので、その言葉は彼をだんだん変化させました。神様が憎むものを彼は憎み始めました。神様が愛したものを彼は愛し始めました。(103-104、127-128)

それに、神様の言葉が彼の言動の基準になりました。その言葉は、彼の足のともしびと道の光になりました。(105)

だから彼は悪者とその意見を避けました。(113,115)

それに、彼は神様の前にへりくだって、神様から学び(125、133,135,144)、神様の戒めに従うために神様の力に頼りました。(133-134)

どうして彼はそうしたでしょうか。彼は大切な真理を発見したから。つまり、

あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。。。あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです。(140,142)

要するに、彼は神様の約束と命令を試したとき、神様が真実で、その言葉は正しいと分かるようになったのです。

あなたはどうですか。あなたには本当の理解があるでしょうか。あなたは神様の命令を実行するでしょうか。あなたは神様が忠実な方であると分かるようになりましたか。もしそうなら、あなたは本当の知恵を見つけたのです。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇119篇81-96節ーー私たちは何によって希望があるか

今日私たちはこの詩篇の中間点を過ぎます。

私は81節が大好きです。

私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

時々、私たちは試練を経験します。この詩人もいろんな試練を経験しました。たくさんの人々が、彼を迫害したり、彼を殺そうとしたりしました。(85-87,95)

83節では、彼は「私は煙の中の皮袋のようになっ[た]」と言いました。

その時代、人々が砂漠を渡った時、テントの中で火が必要なら、彼らは火の上に皮袋を吊るしました。その皮袋は煙を吸い込んだけど、だんだん縮んで堅くなりました。

そのように、周りの人々の罪によって、詩人は苦しみを吸い込んで、縮みました。だから、彼は叫んだ。

いつあなたは私を慰めてくださるのですか。。。あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。(82-84)

それでも、神様の言葉と約束によって彼には希望がありました。最悪な状態になっても、彼はその言葉と約束にしがみついた。どうしてでしょうか。

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。(89-90)

要するに、彼は神様とその約束が決して変わらないと知っていました。人々が不実なのに、神様がいつも忠実であることを知っていました。だから、何が起きても、彼が信じたのは、神様はいつも彼を助けてくださることです。

あなたはどうですか。人生の暗闇を通る時、あなたは神様の御言葉に従うでしょうか。神様が忠実であることを信じるでしょうか。

試練に直面するとき、「神様の道を行くのは空しいです。自分の道を行った方が良い。」と言うのは簡単です。

だから、私たちの結婚や、私たちの家計はダメになってしまいます。

でも、大変な時が来ても、自分自身に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。むしろ、神様を待ち望みましょう。何千年が経っても、神様の言葉は決して変わらなかった。だから、その言葉を信頼できます。イザヤはこう言った。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇119篇65-80節ーー柔らかい心

このブログで以前私は、この詩篇を書いた詩人が謙遜な心を持っていたと書きました。彼はすべてのことを知らないと認めたし、神様から学びたいと願っていました。

この箇所でも、その心が見えるし、神様に対する柔らかい心も見えます。66節で、彼はもう一度「私に教えてください」と祈ったけど、67節で彼はこう言いました。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

そして、71節で、彼はこう言います。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

つまり、神様は彼を懲らしめました。どのように彼が懲らしめられたか分かりませんけど、私たちは彼の反応を知ってます。彼は悔い改めたのです。

どうして彼は悔い改めたでしょうか。なぜなら、彼は神様が良い方だし、神様が彼の最善を望んだことを信じたから。だから、彼はこう歌いました。

なたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。(68)

悪者に関して、彼はこう歌いました。

彼らの心は脂肪のように鈍感です。(70a)

でも、自分自身に関して、彼は歌いました。

しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。(70b)

そして、彼は祈ります。

どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。(80)

私たちの心は神様とその言葉に対してどれぐらい柔らかいでしょうか。神様が私たちを懲らしめる時、私たちは腹が立つでしょうか。もしくは、私たちはへりくだって、悔い改めるでしょうか。

主よ。私の心を柔らかくしてください。私を懲らしめる時、私がその懲らしめを無視しないように。また、私は言い訳を言わないように。

私の心を堅くしました。赦して下さい。私の心が詩人の心のようにへりくだって柔らかくなるように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇119篇41-64節–自由と慰めを与える言葉

この詩篇を読む時、私は詩人の神様の御言葉に対する姿勢がよく見えます。

多くの人々は神様の御言葉は人を縛るものとして考えます。つまり、彼らは神様の御言葉が人生の楽しみを奪ってしまうと考えます。

「こうしなさい。こうするな。」

でも詩人はそのように考えませんでした。どうしてでしょうか。多分、彼には神様について正しい視点があったから。彼はこう歌います。

主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。(41)

また、

主よ。地はあなたの恵みに満ちています。(64)

要するに、彼は神様が彼を愛し、彼の最善を望むことを理解していました。また、この壊れた世界において、神様が彼の救いだと分かっていました。

だから、彼が神様の戒めを見る時、神様が彼の楽しみを取り去ろうとすると思いませんでした。むしろ、神様が彼に本当の命を与えようとしておられるのがと分かりました。

だから、彼はこう書いた。

そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。(45)

この詩人にとっては、神様の戒めが人々を縛らずに、人々を自由にするものです。どうしてでしょうか。もし神様のデザインの通りに私たちがこの人生を生きたら、精一杯に生きるからです。

多くの人々はスマートフォンを持っています。しかし、彼らは説明書を読まないので、その機能を少ししか使いません。でも、その機能が分かれば、彼らの人生はもっと便利になります。彼らが今までできないことができるようになります。

そのように、聖書は人生の説明書。聖書によって、私たちは神様がどのように人間をデザインしたか分かります。そして、聖書に従うと、私たちは縛られず、むしろ、私たちは自由にされます。また、本当の命を見つけます。

それに、苦しみの時に、神様の御言葉は私たちを慰めてくださいます。なぜなら、聖書によって、私たちは神様を愛する人に対する神様の約束を読むから。だから、この壊れた世に、私たちは希望を見つけます。

詩人はこう書いた。

どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(49-50)

私の気にいる箇所はヨハネ14:1-3.イエス様は弟子たちにこう言いました。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

弟子たちが迫害と死に直面した時、その言葉によって慰めれたと思います。この約束は私たちをも慰めます。

でも、ちょっと考えてください。神様が良い方だと思いますか。神様があなたの最善を望むと思いますか。それなら、神様の御言葉はあなたを慰め、自由にします。そうしないなら、多分あなたは神様の御言葉に対する詩人の熱心が理解できないでしょう。

あなたはどのように神様について考えているでしょうか。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇119:17-40ーー理解の必要

この箇所では、私たちは詩人のへりくだる心が見えます。彼は、「全てのことを知らない。だから教えてください」と言います。

私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。(18-19)

要するに、私は旅人です。だからあなたの道と律法がよく分かりません。あなたは私から何を要求するか分かりません。でも、あなたが私の最善を望むことを知っています。だから、私の目を開いて下さい。だから、あなたの道が理解できるように助けてください。

彼は祈り続けます。

どうか、あなたのおきてを私に教えてください。

あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。(26-27)

もう一度、私たちは詩人のへりくだる心が見えます。多分、彼は自分の罪のため、彼は「ちりに打ち伏しています。」と言いました。(25)

だから、彼はこう言いました。

みことばのとおりに私を堅くささえてください。(28)

また、

私は真実の道を選び取り[ます](30)

また、

私はあなたの仰せの道を走ります。(32)

なぜでしょうか。

あなたが、私の心を広くしてくださるからです。(32b)

そして、彼はもう一度言います。

あなたのおきての道を私に教えてください。(33)

また、

あなたのおきての道を私に教えてください。(34)

また、

私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。(35)

つまり、「私はあなたの道を知らないので、教えてください。私は本当にあなたの道を理解したいです。」

でも、多くの場合、私たちは「もう知っている」と言う態度を取ります。私たちの知恵と知識がもう十分だと思います。

しかし、そのような態度は破壊と恥に導きます。私たちはいつもへりくだる心が必要です。私たちは神様の教えに耳を開かなくてはならない。

また、私たちは自分の力で神様の道を歩むことができないと認めなくてはならない。

だから、詩人は神様の助けのために祈ります。

私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。

むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。(36-37)

そして、彼は40節で彼は祈ります。「どうか私の義によって、私を生かしてください。」(40)

実は上記の箇所で、一つのミスがあります。あなたは気づいたでしょうか。

ダビデが言ったのは、「どうかあなたの義によって、私を生かしてください。」と言っていました。

神様は私たち自分自身の義によって救いません。むしろ、神様の義によって私たちを救ってくださいます。神様の義によって、私たちは神様の目に義と認められます。

あなたはそのことを認めますか。詩人はそう認めました。

だから、プライドを捨ててください。自分の義に頼らないでください。自分の知恵に頼らないでください。

むしろ、神様の前にへりくだって来て、「教えてください」と言ってください。

そうすれば、神様は私たちに教えてくださいます。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇119篇1-15節ーー聖さの望み

これは最も長い詩篇だし、最も長い聖書の章です。だから、ちょっとずつこの詩篇を読み、そのテーマについて話していこうと思います。

この箇所では、私たちは詩人の聖さの望みを見ることができます。だから、この詩人がダビデかもしれないと考える方もいるでしょう。なぜなら、ダビデは、神様の心に叶うものと呼ばれたから。(でも、この詩篇は無名の詩人でによって書かれました。)

最初に、詩人は全き道を行く人々の幸せについて話します。そして、彼は心から叫びます。

どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。

そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。(5-6)

つまり、「どうして、聖い人生を生きることができないのだろう。私はよく自分の罪を恥じる。あなたの命令を守ることができたらいいのに。」

そして、もう一度、彼は約束します。

私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。(8)

聖さの鍵は何でしょうか。詩人は私たちにその答えを与えます。

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。

あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(9-11)

私たちはどのように聖い人生を生きられるでしょうか。私たちは神様の言葉に従って守るべきです。私たちは神様の言葉を心にたくわえ、その言葉に思いを巡らすべきです。私たちは聖書を本棚にずっと置かずに、その言葉を読んで、喜ぶべきです。

私たちを清める御言葉を喜ぶでしょうか。また、私たちは神様の聖さを喜ぶでしょうか。

時々私はそうしません。聖いものに思いを巡らずに、そのものを喜ばずに、私は聖くないものに焦点を当てます。だから、私は罪に落ちます。

だから、パウロのように私は叫びます。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

もし自分の力で聖い人生を求めるなら、それは当然の結果です。

それでは、その解決は何でしょうか。パウロはこう言います。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

私たちは自分の力によって聖い人生を生きることはできません。それは無理です。詩人もそのことが分かりました。だから、彼は神様に叫んだ。

どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。(10)

要するに、「私は聖い人生を送れません。助けてください。」

この詩篇を読む時、律法主義の考え方を持つことは簡単です。多くのクリスチャンは「私は自分の力で聖い人生を生きなくてはならない。」と思います。

でも、私たちが神様の恵みによって救われたことを決して忘れないでください。また、神様が私たちの中で働かないなら、私たちは決して聖い人生を生きることができません。

しかし、「もしそれは無理なら、どうして努力するだろうか」と思わないでください。

むしろ、私たちは義に飢え渇きましょう。そうすれば、どうして私たちが神様が必要かはっきり分かるようになります。その時、神様の恵みは私たちの心に注がれます。

また自分の正しさに関するプライドが無くなって、神様の恵みと憐れみを見るので、私たちはへりくだります。

その結果は何ですか。私たちが自分の力に頼らず、神様の力に頼るので、私たちは神様ともっと親しく歩みます。そして、神様が私たちの心を変えるので、私たちの人生は変わります。それは私たちが聖くなるプロセスです。

あなたはどうですか。神様の聖さに飢えるでしょうか。

 

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇118篇ーー救いの歌

イエス様がこの世に戻る日にクリスチャンたちが詩篇を歌うなら、多分この詩篇を歌うと思います。なぜならこれは救いの讃美歌だから。多分、この詩篇の詩人よりも、この詩篇は私たちに意味があると思います。

新エルサレムに入る時、多分私たちはこう歌います。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1)

どうして私たちはそう歌うでしょうか。なぜなら、私たちが苦しんだ時、また私たちが自分の罪によって死にかけていて、私たちが神様に叫んだ時、神様は私たちを自由にしましたから。

それに、毎日、神様は私たちを見守ってくださいます。人々は私たちの体を滅ぼすかもしれないけど、私たちの魂を滅ぼすことができません。だから詩人はこう歌った。

主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。(6)

そして詩人はどのように神様の力によって敵を断ち切ったか歌います。そのように、神様は私たちにサタンに対する勝利を与えてくださいます。だから、私たちもこう歌えます。

おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。。。

主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。(13-17)

時々、詩人のように、私たちは神様の懲らしめの手を見ます。でも、神様は私たちを滅ぼすために懲らしめず、私たちに命を与えるために懲らしめてくださいます。

だから、私たちはエルサレムの門に着くとき、私たちは門番にこう言えます。

義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。(19)

どうして、私たちにはその門に入られる確信があるでしょうか。私たちは救いの基礎を知っているから。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(22-23)

イエス様は私たちの救いの礎の石になりました。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶したけど、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは救いを見つけられます。

だから、毎日私たちの希望が新しくなって、私たちは歌えます。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(24)

そして、イエス様がエルサレムに来たとき、人々が叫んだように、いつか私たちも歌います。「ホサナ。ああ、主よ。どうぞ救ってください。」(25)

でも、私たちがそう歌う時には、もう救いが来るのを待っているのではなく、むしろ、私たちの救いを振り返ります。そして、もう一度、私たちは歌います。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(29)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。

 

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇117篇ーー全ての国民は礼拝するとき

これは聖書の中で、一番短い章です。でも、すぐに一番長い章を読みます。だから、私の英語のブログで、私は、「This is the calm before the storm.」と言いました。

つまり、「これは嵐の前の静けさです。」 🙂

とにかく、これはメシアについての詩篇です。なぜなら、詩人はすべての国民が神様を礼拝する日を楽しみにしているから。彼はこう歌いました。

すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。(1)

パウロはこの箇所によって、キリストがユダヤ人のためだけではなく、すべての人々のために来てくださったことを証明します。(ローマ15:11)

なぜ、詩人はすべての国民が神様をほめたたえるように招くでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、神様の私たちに対する大きい恵みです。神様は、十字架でキリストの死によってその恵みを示しました。その死によって、私たちの罪が赦されたし、私たちは神様の家族に入ることができます。その真理を理解したので、ヨハネはこう叫びました。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。(第一ヨハネ3:1)

あなたが日本人でも、アメリカ人でも、ユダヤ人でも、あなたがイエス様を信じたら、神様は自分の子供としてあなたを受け入れます。

二つ目の理由は、神様の忠実さは永遠に続くことです。私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して捨てないです。

日本語の聖書では、こう訳されました。

主のまことはとこしえに。(2)

つまり、神様とその言葉は決して変わらない。神様が気まぐれな方である心配がないです。神様が何かを言うなら、気が変わる心配がないです。だから、恐れずに、私たちは神様に信頼できます。

だから、詩人は歌います。

ハレルヤ。(2)

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇116篇ーー暗い時に希望

私が高校生の時、この詩篇にちなんだ歌を聴きました。その時から、この詩篇は私のお気に入りになりました。

そのソングライターはリビング・バイブルの訳を使いました。

私は主を愛します。なぜなら、主は私の祈りに聞き、答えてくださるから。
主が私に耳を傾けられるので、私は生きる限り祈ります。(1-2)

なぜか、「主が私に耳を傾けられる」と言う言葉は私の心の中に響きます。

神様は私を愛しているので、私のすべての言葉を聞くために耳を傾けてくださる。

そのことについて考える時、私は驚きます。

私には7歳の娘がいます。もちろん私の方が背が高ので、時々、私はちょっと低くして、彼女と話します。なぜなら、私が彼女の言葉を聞くのがもっと簡単になるし、彼女の目がちゃんと見えるから。

神様は私たちのためにもそうしてくださいます。特に、私たちが暗闇の中にいる時に神様はそうしてくださいます。この詩篇では、詩人は自分のそんな時について歌います。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)

そして、神様は憐れみと恵みによって、その詩人に触れました。だから、詩人は歌います。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7)

でも、この詩篇で私たちが学ぶのは、神様に従ったとしても、時々私たちは困難に直面することです。

詩人はこう書いた。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。(10)

パウロは、自分の試練について話した時、この詩篇を引用しました。彼はこう言った。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。(第二コリント4:8-9)

そして、彼はこう言った。「私が福音のために苦しんでいても、イエス様の命は私たちを通して表れました。だから、私の周りの人々はその命を受けました。」(第二コリント4:10-12)

だから、パウロは詩人のように言いました。

「私は信じた。それゆえに語った。」(第二コリント4:13)

要するに、「私が福音を述べ伝えることができるなら、私は喜んで暗い時を通って、苦しみます。」

だから、パウロはこう言います。

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(16-18)

詩人も主からの救いを知ったので、永遠の物に照準を合わせ、主をほめたたえ、自分の人生を主に奉げました。彼は歌った。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。(12-14)

神様は私たちの鎖も打ち砕いてくださいました。だから、心から主をほめたたえ、感謝のいけにえを捧げ、周りの人々に主が私たちのために何をしてくださったか伝えましょう。そうすれば、彼らも暗闇から自由にされます。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇115篇ーー私たちの賛美と信頼に値する方

この詩人の叫びは、私の心に響きます

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(1)

あなたは誰のために生きているでしょうか。何のために生きているでしょうか。お金を儲けるためでしょうか。栄光を得るためでしょうか。

もしくは、全ての栄光に値する方のために生きているでしょうか。神様の恵みとまことのために、主にあなたの人生を捧げるでしょうか。

この詩篇では、詩人は私たちが神様に信頼し、神様を賛美するように励まします。どうしてでしょうか。どうして、神様は私たちの信頼と賛美に値するでしょうか。

一つの理由は、神様は全能の主です。

詩人はこう言います。

私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。(3)

そのことを聞くと、恐れる人がいます。彼らは「神様が自分が望むことをことごとく行わるなら、神様は私をどのように扱うだろうか」と思います。

でも、神様を知っている人は、神様に畏敬の念を抱きます。なぜなら、この全能の神は私たちを愛しているから。それに、私たちがどんなに不実でも、神様はいつも私たちに忠実です。

それに、神様は、口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、手があってもさわれず、足があっても歩けず、のどがあっても声をたてることもできない偶像ではありません。そんな「神」は自分自身を支えられないし、私たちをも助けられない。

むしろ、神様は私たちを見る時、私たちの叫びを聞き、応えてくださいます。また、神様は私たちを助けてくださいます。

だから、詩人は言います。

主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。(11)

そうすれば、どうなるでしょか。

主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12-13)

あなたはどのように生きているでしょうか。あなたは自分の人生をコントロールしようとしているでしょうか。あなたがすべてのことをコントロールできないので、思い悩んでいるでしょうか。

神様に信頼してください。神様はあなたの盾になります。あなたの助けになります。神様が全能の主なので、あなたがコントロールできないことは神様はコントロールできます。

だから、詩人はこう歌います。

しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。(18)

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇114篇ーー聖所となるように救われた、神の国民になるように救われた。

この詩篇では、詩人はどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、砂漠を通して、約束土地に導いて下さったか話します。

神様はイスラエル人のためにいろんな奇跡を行って、自分の力を表しました。(3-8節)

でも、2節は私の心を打ちます。

詩人はこう歌います。

ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。(2)

どうして、神様はイスラエル人のためにたくさんの奇跡を行ったでしょうか。

神様の目的は、神様が彼らの間に住み、イスラエル人が神様の聖い国民になる事です。

そのように、神様は、ただ私たちが天国に行くために私たちを救ったのではありませんでした。むしろ、神様は私たちの間に住むように私たちを救いました。また、私たちが神様の宮になって、神様は私たちの中に住まれます。それに、神様の民として、私たちは神様が設立する国に参加します。

だからペテロはこう書いた。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

その最後の部分に注意してください。どうして、神様は私たちを聖所とするでしょうか。どうして、神様は私たちを自分の国民とするでしょうか。私たちが神様の素晴らしい御業を宣べ伝え、私たちの周りの人々を闇の中から神様の驚くべき光の中に導くためです。

主よ。私の中に住んで、私があなたの使節になるように。あなたが私を闇の中から光の中に招いてくださり、ありがとうございます。私たちの周りの人々があなたの光に来るように私たちを用いてください。アーメン。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

詩篇113篇ーー高い御位に座る神、身を低くして覧になる神

多分、神様に関して最も驚いたことは、神様は威光ある方だけど、私たちを愛していることです。

詩人はこの詩篇の最初から私たちを礼拝するように呼びます。

ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(1-3)

そして、彼は歌います。

主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。

だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し。。。(4-5)

要するに、「神様は偉大な方です。神様を他のものと比べられません。神様が私たちの賛美に値する方だから、ほめたたえましょう。」

でも、6節で、詩人はこう言います。

「神様は」身を低くして天と地をご覧になる。(6)

そして、詩人は、どうやって神様が弱いもの、貧しいもの、子供のいない女の人(その時代、それは本当に恥ずかしいことでした)を引き上げ、祝福してくださることについて話します。(7-9)

神様は私たちを見るために身を低くし、私たちに触れられました。

でも、それだけではなく、神様は人間として、この世に来られて、私たちと共に住みました。パウロはこう書いた。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ[た]。(ピリピ2:6-7)

だから、神様は私たちのことを本当に理解できます。

さらに、神様は私たちの最大の必要を見て、十字架で、私たちの罪のための罰を受けました。神様は死に値しなかったのに、私たちを愛し、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。

だから、詩人が歌ったように、

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(3)

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇112篇ーー神様を恐れる祝福、神様を喜ぶ祝福

恐れと喜び。私たちはふだんその言葉をいっしょに使うことはありません。でも、この詩篇では、詩人はそうします。彼は神様を恐れる祝福と、神様とその言葉を喜ぶ祝福について話します。

詩人はこう言います。

ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(1)

神様を恐れることは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、神様の偉大さに畏敬の念を抱くことです。私たちは神様が私達よりも偉大な方だし、私達よりも聖い方であることを理解します。その知識によって、私たちは神様を恐れます。なぜなら、私たちは神様の前に立つことに値しないから。むしろ、私たちの罪のため、私たちは死に値します。聖書で神様に会う人々はそう感じました。

しかし、同時に彼らは彼らに対する神様の愛と憐れみを知ったので、神様を喜んだし、神様を喜ばせたいと思いました。

詩人はそのような人々が祝福を知ることを言います。それに、彼らは天の父の性格を取るようになります。彼らも、恵み深く、情け深くなって、義の道を歩みます。彼らも気前がよく、自由に人に貸し、義によって行います。(4-5)

その結果は?

彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。

その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。(6-8)

多くの人々は自分自身だけを信頼するので、将来について心配します。どうしてでしょうか。なぜなら、将来をコントロールできないから。だから、悪い便りを聞くと、彼らはパニックになります。

でも、神様に信頼したら、悪い時が来ても、私たちは安心出来るし、将来を恐れません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、私たちは全てをコントロールできる方の手に任せるから。そして、人々が私たちを攻めても、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

詩人は悪者についてこう言います。

悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。(10)

でも、神様に信頼する人は周りの人々を祝福します。それに、神様は私たちに栄光を与えてくださいます。(9)

だから、毎日この聖く、良く、素晴らしい神を恐れ、喜びましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇111篇ーー 主の御業に思いを巡らす

私たちが悪いことについて考え続けるのは簡単なことです。私たちは自分の問題を思い出して、その問題のことしか何も考えられなくなります。そして私たちにその問題を解決する力がないなら、私たちのストレスは上がります。私には何度もそんな経験があります。

でも、詩人は私たちが他のことについて考えるように励まします。

ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。

主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。

そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。(1-3)

この箇所では、詩人は神様がどんな方であるか、また神様が何をしたか考えるように私たちを励まします。

神様はどんな方でしょうか。神様は義の神だし(3)、情け深く、あわれみ深い神です。(4)。また、神様の戒めは確かです。(7)

神様は何をしたでしょうか。イスラエル人を憐れんで、エジプトから彼らを贖い、砂漠で彼らのニーズに備え(5)、彼らに自分の土地を与えて、国として確立しました(6)。そして、彼らの罪によって彼らが追放されたとき、神様は彼らをバビロンから贖ってくださいました。(9)

それに、神様は私たちのためにもそうして下さいます。神様は私たちのニーズに備え、私たちを憐れみ、サタンの国から私たちを贖い、私たちを神様の民にし、約束の地に導いて下さいます。

私たちの命は一時的なものです。だから、私たちが天国に行くと、この世の苦しみとトラブルをすぐに忘れます。それなら、どうして、私たちは心配しているでしょうか。心配すると、私たちはストレスを溜めるだけです。

だから、詩人はこう書きます。

主を恐れることは、知恵の初め。(10)

私たちが神様に畏敬の念を抱くとき、この世の一時的なトラブルは小さく見えるようになります。私たちが神様がどんな方であるか、また、神様が何をしたか思いを巡らすと、私たちが悟るのは、心配しなくて良いという事です。それは知恵です。

主よ。あなたは私の心配をよくご存知です。その心配によって、私はストレスを溜めるてしまいますが、ストレスは要らないし、欲しくもないです。私がその心配を手放すように助けてください。私が自分問題について心配せずに、私があなたがどなたであるか、何をしてくださったか思いを巡らすように助けてください。私が一時的なものではなく、永遠の物に焦点を当てるように助けてください。あなたの知恵を与えてください。あなたの視点を与えてください。

私の命と思いと態度が、あなたに対する賛美になるように。あなたは本当に私たちの賛美にふさわしい方です。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー: 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇109篇ーー苦々しい心と許し、憐れみと正義

これは「呪いの詩篇」です。時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きのために祈ります。

多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくない。なぜなら、イエス様は私たちが自分の敵を赦しなさいと命令したから。

以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。

王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈った。

ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈った。

「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉はちょっと難しいです。もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだでしょう。

そして、ダビデは祈ります。

その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(9-10)

それは酷い祈りです。でも、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。

最近私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。私たちの罪は自分自身に影響に与えることはもちろん、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。

そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。

でも、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけないです。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、あなたを傷つけるから。

興味深いポイントは、ペテロはこの詩篇をユダに当てはめることです。ユダはゆえもなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを報いました。そして、彼らが決して悔い改めなかったので、神様が赦してくださいませんでした。だから彼の人生は短く、別の人が彼の仕事と立場を取りました。

でも、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っていなかった。むしろ最後の晩餐で、イエス様はユダの足を洗ったし、彼にパンをあげました。そして、庭で、ユダがイエス様を裏切るために来たとき、イエス様は苦々しくなかった。むしろ、彼はユダに対して情け深い態度をとられました。

イエス様は騙されやすいものではなかった。イエス様はユダの性格と動機をよく知っていました。それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示しました。その愛と憐れみによって、イエス様が彼の頭に燃える炭火を積んだので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。

でもイエス様は苦々しさに汚れませんでした。

ダビデも苦々しさに汚れなかった。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したかった。でも、彼は本当の正義を思い出したら、その苦々しい心を手放して、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見た時、この詩篇のように、彼は喜びました。

私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)

だから苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦しと正義を大事にしましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

詩篇110篇ーー私たちの王と祭司

これは、本当に有名なメシアについての詩篇です。イエス様はその詩篇を引用して、パリサイ人が答えられない謎をかけました。(マタイ22:41-45)

この詩篇では、(つまり、天の父)は、ダビデの主(つまり、メシヤ)にこう言います。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(1)

昔は、戦勝した王は敗戦した王の首を踏みました。この箇所では、天の父はイエス様が敵を打ち勝つことを約束します。また、天の父はイエス様が自分に逆らう人でも支配することを約束します。

でも4節によれば、イエス様はただの王ではありません。イエス様は私たちの祭司です。でも、イエス様はアロン系の祭司ではありません。むしろ、天の父はこう言った。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(4)

アブラハムの時代、メルキゼデクは祭司であり、王でした。

ダビデとその息子ソロモンは王だったけど、時々祭司のように、いけにえをささげたり、主の名によって人々を祝福をしたりしました。それでも、彼らは祭司ではありませんでした。

でも、イエス様は私たちの王と祭司です。でもアロンの祭司の職はイエス様の祭司の職には大きい違いがあります。アロンとその子孫は祭司として一時的に神様に仕えました。でも、イエス様は永遠の祭司です。なぜなら、イエス様は永遠の方だから。(へブル人への手紙7:24)

そして、6節によれば、最後の日にイエス様は全ての国々を裁きます。その日、すべての人々はイエス様の王座の前に立って、裁かれます。

良い知らせは、イエス様は私たちの大祭司だから、天の父の前に私たちのためにとりなしていることです。だから私たちは神様を恐れる必要はありません。むしろ、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

イエス様、あなたは私の王と神と裁判官です。でも一番感謝しているのは、あなたは私の大祭司であることです。あなたは私のためにとりなし、私の罪をあなたの血によって取り去ってくださり、感謝します。でも、それよりも、あなたが本当に素晴らしい神であることを感謝します。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇107篇ーー私たちの話を伝えること

私はずっとクリスチャンだったけど、最近まで、この詩篇の美しさに気づいていませんでした。特に1-2節は私の心を打ちました。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者はこのように言え。(1-2)

ちょっとパラフレースだけど、ある英語の聖書は「主に贖われた者はこのように言え」を「主に贖われた者は自分の贖いの話を伝え」と訳しています。

この詩篇はそのような話です。人々は自分の贖い話をシェアして、神様を賛美します。

この詩篇は、賛美の言葉で始めます。イスラエルの詩篇では、この言葉がよく見えます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1)

この詩篇は、どうやって神様が私たちを贖って、自分の慈しみを表したか宣言します。

イスラエル人は、砂漠でさ迷って、飢え、渇き、自分の家がなかった。でも、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らの声に聞き、安全な所に導き、食べ物と水を備えてくださった。

そのように、私たちは罪にさ迷って、霊的に飢えたり渇いたりし、平安を見つけなかった。でも、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを喜びと平和深い所に導いて下さいました。だから、私たちは満足します。

そして、詩人は囚人について歌います。彼らは神様に逆らったので、暗闇に住んでいました。でも、彼らが神様に叫んだので、神様は彼らの鎖を打ち砕いて、救いだしてくださいました。マナセ王はそれを経験しました。

そのように、私たちも、神様を知ったけど、神様に背を向けました。私たちは自由を求めて、この世の物を追い求めました。でも、私たちが追い求めたものは、つまり、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などはかえって私たちを奴隷にしました。でも、私たちが神様にもう一度向かった時、神様はその鎖を砕いて、私たちを本当の自由に導いて下さいました。

ある人々は、自分の罪によって、病を経験しました。でも、彼らが神様に叫んだら、神様は彼らを赦し、癒してくださいました。ダビデも、その経験があったかもしれない。(詩篇30,32,38-39)。

そのように、神様は私たちも私たちの注目を得るため、私たちを倒しました。でも、私たちが悔い改めたら、神様はすぐに赦してくださいました。

時々、私たちは人生の嵐に巻き込まれます。時々、それは私たちのせいだけど、時々他の人のせいで、私たちは苦しみます。でも、私たちが神様に叫んだら、神様は私たちを救いだしてくださいました。

他の人々は砂漠を渡った時、神様の備えを見たけど、神様が約束土地に着くと、彼らはすぐにそのことを忘れたので、自分の罪によってすべてを失ってしまいました。イスラエルの歴史はその通りでした。

でも、彼らが神様に向かったら、神様は彼らをその土地に戻らせて、もう一度彼らを祝福しました。

あなたもそのような経験があるかもしれない。砂漠で神様の祝福を見たのに、あなたの人生が上手くいき始めたら、あなたは神様を忘れたので、すべてを失ってしまいます。それでも、私たちが悔い改めたら、神様は私たちを赦し、癒してくださいました。

だから私たちはどう反応するべきでしょうか。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(15,21,31)

また、私たちの話を次の世代に伝えましょう。そうすれば、彼れらはこれらのことに心を留め、主の恵みを悟ります。(43)

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇106篇;歴代誌第一16章34-36節ーー不従順の歴史、憐みの歴史

この詩篇では、ダビデはイスラエルの歴史を伝えます。でもその歴史はいつもポジティブではあいません。何回も、ダビデは、どうやってイスラエル人が神様に背を向けたか話します。その話は私たちの人生も反映します。

1.イスラエル人は神様に逆らいました。(6-7)これはこの詩篇の主のテーマの一つです。彼らは逆らうことを選びました。一つの理由は、彼らが神様の御業をすぐ忘れたのです。何回も彼らの目の前に神様は素晴らしい奇跡を行いました。でも、トラブルが来るとき、彼らはその御業を覚えていませんでした。だから、何回も、彼らは罪を犯したのです。

どれぐらい私たちもそうするでしょうか。神様が私たちのために何をしてくださったか忘れるので、困る時に、私たちは文句を言い、神様を責め、自分の道を行きます。

2.彼らは自分の欲望に負けました。(14)イスラエル人は肉を貪りました。神様が肉を与えてくださったけど、そのあと、疫病が発生したので、たくさんの人々は亡くなりました。そのように、私たちの欲望に従えば、結局私たちは滅びます。例えば、性病や、心臓麻痺や、ガンにかかります。あなたは貪ったものを得るかもしれないけど、結局その代価を払うことになります。

3.彼らは本当の神の代わりに、他の神々を礼拝し始めました。(19-20,28)そのように、私たちもよく神様に背を向け、違うものを追い求めます。私たちはセックスや、お金や、この世の物を追い求めます。そのものは私たちの「神」になります。だから、私たちはもう心のすべてを神様に奉げない。また、その物は私たちを神様から奪います。

4.神様の約束を信じずに、神様の良い計画を侮った。(24-27)だから、彼らは文句を言って、神様が約束したものをもらいませんでした。

どれぐらい、私たちもそうするでしょうか。私たちは聖書を読んで、神様の良い計画を見るけど、神様がその約束を守ることを信じません。だから、神様の言葉に従わないので、神様が約束したものをもらわない。

5.彼らは周りの国民のようになりました。彼らはその国民の価値観と道徳を受け入れました。34-39)多くのクリスチャンもそうします。神様のために、この世に影響を与えずに、かえってこの世の民のようになるので、神様が憎むことをし始めます。

この詩篇で、イスラエル人の失敗が良く見えます。でも神様の憐みも見えます。何回も、自分の罪によって苦しんだ時に、イスラエル人が神様に叫んだので、神様は彼らを救い出してくださった。

そのように、私たちが罪に落ちるとき、本当に悔い改めると、神様は赦してくださいます。

だから、ダビデは歌います。

私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。

ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン」と言え。ハレルヤ。(47-48)

主よ。私は何度も罪を犯しました。何度も私はあなたが私のために何をしてくださったか忘れるので、感謝することもわすれてしまいます。何度も私はあなたの約束を信じることをせず、自分の道を行き、あなたに背きます。

私はよくこの世の神に追い求めます。また、何度も私はこの世の民のようになります。

赦して下さい。私を変えてください。

あなたの私に対する憐れみを感謝します。

毎日、私がもっとあなたのようになりますように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書, 歴史書, 歴代誌第一 | タグ: , | コメントをどうぞ

歴代誌第一16章18-22節;詩篇105篇ーー自分の約束を覚えている神

この詩篇のテーマは、神様が自分の約束を覚えている神であることです。特に、詩人はアブラハムとイサクとヤコブに対する約束について話します。神様は彼らに、カナンを与え、その子孫から大きい国が来ると約束しました。そして、彼らとその子孫がどんな試練に直面しても、神様は彼らの上に手を置いて守りました。

だから、アブラハムとイサクとヤコブが寄留の他国人としてカナンにいた時、神様は彼らを守ってくださった。(12-15)

ヨセフが奴隷としてエジプトに住んでいだ時、神様は彼に対する約束を守って、彼を支配者にしました。(17-22)

そして、エジプト人はイスラエル人を迫害した時、神様はパロとその民を裁いた。(23-38)

イスラエル人が水と食べ物が必要な時、神様は彼らのニーズに備えました。(40-41)

そして、最終的に、神様がアブラハムとイサクとヤコブに対する約束を守ったので、ダビデはこの歌を書いて、神様をほめたたえました。

だから覚えていてください。神様はいつも自分の約束を守ります。何が起こっても、あなたがどんな試練に直面しても、神様が忠実な方なので、私たちは神様に信頼できます。

だから、パウロはこう書いた。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18,23-25)

ある日、神様がイスラエル人に安息を与えてくださったように、私たちにも安息を与えてくださいます。その日まで、ダビデは私たちに言います。

1.主が何をしてくださったか思い出して、感謝せよ。(1、5)

時々、私たちは自分の問題に巻き込まれて、主からの祝福を感謝することを忘れます。その時、私たちの問題に圧倒されます。でも、神様からの祝福を思い出し、感謝するとき、希望と喜びは戻ります。

2.主に歌え。その時、私たちの問題に圧倒されます。主の聖なる名を誇りとせよ。喜ばせよ。(2-3)

そうすれば、私たちはどれぐらい神様が大きいか、またどれぐらい私たちの問題が小さいか分かるようになります。そして、私たちの問題に焦点を当てずに、私たちの助け主に照準を合わせます。

3.主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4)

あなたの人生が辛すぎる時、また希望がない時、主を慕い求めてください。その力を尋ね求めてください。そうすれば、神様はあなたを助けてくださいます。

パウロはこう書いた。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(26-28)

神様は私たちに対する約束を覚えていて守ります。だから主を思い出し、慕い求め、賛美しましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書, 歴史書, 歴代誌第一 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇104篇–創造者とその被造物

ダビデがこの詩篇を書いたかどうか分かりませんけど、詩篇103篇のように、詩人はこう歌い始めます。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(1)

でも、103篇と違って、主の愛と憐れみのためではなく、神様の被造物のために詩人は神様に感謝します。彼は被造物を見る時、神様の素晴らしさを驚き、歌います。

わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。

あなたは光を衣のように着[る](1-2)

それを読む時、私はヨハネの言葉について考えます。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(第一ヨハネ1:5)

要するに、神様は聖なる方です。だから、光を見ると、私たちは神様の栄光と聖さを垣間見ることができます。

そして、詩人は星空に感心します。神様は、天を、幕のように広げておられる。それに雲は神様の車です。

詩人がこの詩篇を書いた時、彼は風と稲妻を神様の使いと召使いと呼びます。それらは神様の栄光を宣言し、神様の目的を果たします。でもへブル人への手紙の著者はこの箇所を天使に当てはめます。彼が言ったのは、イエス様が神様のひとり子だけど、稲妻と風のように天使はただの召使いということです。

そして、詩人は創世記1章について話します。つまり、神様は土地を造ったり、植物や、動物を造ったりしました。また、神様は日や月や季節を造りました。また、神様は動物にエサをやります。それに、神様はすべての物を命を与えてくださいます。

だから、詩人はその被創物のために神様をほめたたえました。

主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。

そこには大きく、広く広がる海があり、その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます。(24-25)

また、

主の栄光が、とこしえにありますように。主がそのみわざを喜ばれますように。

主が地に目を注がれると、地は震え、山々に触れられると、山々は煙を上げます。(31-32)

そして、この歌をまとめて歌います。

私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。

私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。(33-34)

それは最も大切な教訓です。神様が私たちの創造者なので、神様は私たちの賛美に値する方なのです。だから、私たちは、毎日私たちの言葉や、思いや、行動で神様を礼拝しましょう。

なぜなら、神様を私たちの創造主として認めない人は裁かられて滅びるから。(35a)

だから詩人は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。(35b)

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇103篇ーー神様の愛と憐れみ

この詩篇では、ダビデは神様の愛と憐れみについて歌います。いつダビデがこの詩篇を書いたか分からないけど、多分バテ・シェバとの罪の後かもしれない。もしかしたら、ダビデはイスラエル人の人数を数えた罪の後に、この詩篇を書いたかもしれない。

とにかく、彼の罪が赦された後に、彼は歌います。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(1)

私はこの箇所を読む時、イエス様の言葉が浮かびます。つまり、多くの罪が赦された人は神様をよけい愛します。(ルカ7:47)

ダビデは、多く赦されたので、彼の神様に対する愛はより大きかった。

彼は酷い罪を犯しても赦されたし、彼の健康が回復されたし、死から救われた。それに、彼が何回失敗しても、神様は彼を恵みとあわれみとの冠をかぶらせました。(2-4)

そして、ダビデは神様がモーセに何を言ったか思い出した。神様は自分についてこう言いました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(8)

ダビデはその言葉に加えました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(9-12)

その言葉が大好きです。

「絶えず争ってはおられない。」

あなたのお父さんとお母さんは何回もあなたを責めたかもしれない。彼らはあなたを決してほめずに、いつも批判したかもしれない。だから、あなたは神様がそんな方であると思っておられるかもしれません。でも、神様は絶えず争う方ではありません。

そして、私たちが悔い改めると、神様は自分の怒りを心の中に持ち続けることはありません。

時々、人々は「あなたを許してあげる」と言うけど、私たちがもう一度失敗したら、彼らは私たちの以前の失敗も思い出させます。神様はそうしません。神様は私たちを赦す時、私たちの罪をもう思い出しません。

それに、神様は私たちの弱さを知っているので、私たちを憐れみます。神様は人間になったので、私たちの弱さをよく知っています。私たちのようにイエス様は誘惑されたけど、決して罪を犯さなかった。でも、その経験によって、私たちの誘惑が分かるようになった。だから、私たちは悔い改め、神様を敬うと、神様の恵みは永遠から永遠まで私たちの上にあります。(13-17)

だから、ダビデは天の者と全地の者が神様を誉めるように招きます。ダビデも賛美してこう歌いました。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。(22)

主よ、あなたの愛と憐れみを感謝します。私が弱くて、罪を犯しても、あなたが私をまだ愛して下さることを感謝します。あなたは私を争わずに、恵み深い目で私を見ます。私がその恵みと憐れみを周りの人々にシェアするように助けてください。アーメン。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇102篇ーー決して変わらない神

私はこの詩篇の最後の部分が大好きです。

あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。

しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。(25-27)

要するに、いつかこの世が滅びるので、神様はこの世を新しくしなくてはならない。でも、神様は決して変わらない。

どうしてその真理は大切なのでしょうか。なぜなら、私たちがどんなに失敗しても、私たちに対する神様の憐みは決して絶えないから。

多分、ユダヤ人がバビロンに追放されたとき、詩人はこの詩篇を書いたのでしょう。だから、彼はイスラエル人の苦しみを見た時、泣きました。神様が自分の怒りを彼らに注いたので、彼らの敵は彼らをからかったし、イスラエル人は絶望しました。

でも、詩人は叫びます。

しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。

あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。(12-13)

エレミヤの預言によれば、イスラエル人の追放は70年続きます。だから、多分のその追放の終わりが迫るとき、詩人は祈った。「私たちがエルサレムに帰る時間がもうすぐ来ます。だから、立ち上がって、私たちを憐れんでください。」

そして、彼は将来について考えました。その時、神様がエルサレムを建て直すので、周りの国々は驚きます。

詩人はこう歌いました。

こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。

なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ「ます。」(15-16)

その日を楽しみにして、詩人は主の憐みを喜び、歌います。

窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。(17)

また、

主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。

捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。(19-20)

この箇所が大好きです。私たちが罪で縛れて、死に値したのに、神様は私たちの叫びを聞いて下さって、私たちを解放してくださいました。

いつか、私たちは私たちを贖った神の前に集まり、礼拝します。それに、私たち永遠まで神様の御前に住みます。(22,28)

私はそれを楽しみにしています。

主よ、あなたは永遠からの神です。人々は変わるかもしれないけど、あなたは決して変わらない。私たちが罪を犯しても、あなたの憐れみは決して変わらない。だからあなたを賛美します。あなたがもう一度来るまで、私に対するあなたの憐れみが毎日新しくなるように。あなたの忠実さを感謝します。アーメン。

カテゴリー: 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇101篇ーー神様のようになる事

この詩篇では、私たちはどうして神様がダビデを神様の心に叶う人だと呼んだか分かります。

ダビデは歌います。

私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。(1)

神様のダビデに対する愛のため、また、ダビデの神様に対する愛のため、ダビデはもっと神様のようになりたいと願っていました。つまり、ダビデは正義を愛し、清い人になりたかったのです。だから、彼は言いました。

私は、全き道に心を留めます。(2)

そして、彼はどのように神様のようになりたがったかリストアップします。

彼は自分の家庭生活によって神様を喜ばせたがった。だから、家でも、卑しいことを見なかった。(2-3)

私たちが教会や仕事にいく時、敬虔な人生を生きることをフリするのは簡単です。でも、正直な人は、家でも、外でも同じように振る舞います。

そして、ダビデは人の罪を憎むし、その罪に参加しないと言いました。だから、誰かが隣人を謗った時、ダビデはその人を黙らせました。また、彼らが高ぶって、人に見下したり、神様を侮ったら、ダビデは彼らのことを我慢できませんでした。

でも、どれぐらい私たちは悪を耐えるでしょうか。私たちの友達が噂話をする時、どれぐらい私たちも参加するでしょうか。どれぐらい、私たちは高ぶって、相手を見下すでしょうか。

ダビデは神様を愛していたので、そんな態度を憎んだし、その罪に参加しなかった。

それに、ダビデは友達を選ぶ時、気を付けました。また、誰のアドバイスに従ったか気を付けました。だから、彼はこう言った。

私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。(6)

最後に、自分の家族のリーダーとして、また、国のリーダーとして、真理と正義によって治めることを決心しました。(7-8)

私たちは本当に神様を愛するなら、そんな態度は私たちの心を治めるべきです。なぜなら、神様の心に叶う人はそのような人だから。

私たちがダビデのように、私たちを愛する神、また私たちが愛する神のようになるように。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇100篇ーー本当の礼拝

これは礼拝のための歌です。

だから、この詩篇の始めに、詩人は私たちを神様を礼拝するように招きます。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。(1-2)

そして、詩人は私たちの礼拝の理由を教えます。つまり、詩人は神様がだれであるか、わたしたちがだれであるか、また私たちの神様との関係は何であるか反省します。

神様は誰でしょうか。神様は「」です。

この話を進める前に、多分ちょっと説明した方が良いと思います。

新改訳では、時々「」は太字で書かれます。時々、「主」は普通のフォントで書かれます。どうしてでしょうか。「」は太字で書かれた時、実は、それは「ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」は神様の名前です。

実は、私たちはその名前の子音しか知りません。なぜなら、ユダヤ人は神様の名前を尊重したので、聖書を読む時、彼らは決して「ヤハウェ」を言わなかったから。その代わりに「主」と言いました。それに、彼らはヤハウェの名前を書くとき、子音しか書かなかった。だから、今誰もヤハウェの本当の発音をよく知らない。誰もヤハウェの母音を知らないから。

そういうわけで、日本語の聖書と英語の聖書のほとんどは神様の名前のために「主」と使います。

とにかく、太字の「」を見るなら、その代わりに「ヤハウェ」と入れ替えてみてください。

多分「ヤハウェ」という名前は、出エジプト3章14節から来ます。その時、モーセは神様に尋ねた。「あなたの名前は何ですか。」

神様は「わたしは、『わたしはある』という者である。」と答えました。

ヘブル語では、「ヤハウェ」と言う名前は「ある」という動詞から来ています。

その名前によって、神様は私たちに言うのは、「私は永遠の方です。私は永遠から存在し、永遠まで存在します。私は決して変わらない。」という事です。

それに、神様は私たちの創造主です。

それでは、私たちは誰でしょうか。そして、私たちの神様との関係は何でしょうか。私たちは神様のものです。私たちは神様に属するものです。なぜでしょうか。

神様が私たちを造ったから。私たちは自分自身を造らなかった。神様は私たちの創造主だから、私たちは正当に神様に属します。だから詩人は言います。

私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。(3)

神様の羊として私たちはどうしたらいいでしょうか。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4)

以前のブログでは、私はジム・エリオットという人について話しました。「Shadow of the Almighty」という本の箇所の一つは本当に私の心を打ちました。エリオットは100篇4節についてこう書いた。

どうして、羊はその門に入っているでしょうか。どうして、主の大庭に入っているでしょうか。歌を歌って、羊の交わりを楽しむためでしょうか。それだけでしょうか。違います。

彼らは祭壇に行っていました。彼らは牧場で食べた目的は、彼らを試し、いけにえの準備させられるためです。

だから、神様に感謝しましょう。なぜなら、あなたはその祭壇に値するものとして認められたから。

賛美しながら、神様の仕事をしなさい。。。

天のお父様、あなたの御心だったら、私の命、私の血を取って、あなたの火で焼きつくしてください。私の人生を救おうと思っていません。なぜなら、この人生は私の物ではないから。私の人生のすべてを取って、用いてください。この世のために私の血を供え物として注いでください。なぜなら、私の血は、あなたの祭壇の前に流れる時だけに価値があるから。

あなたはその言葉が極端だと思うかもしれないけど、多分エリオットはパウロの言葉をよく理解していました。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

実は、エリオットはアウカ族の救いのために自分の血を注ぎました。

だから、覚えていてください。礼拝はただ賛美の歌を歌う事ではないです。

礼拝は生きた供え物になる事です。

礼拝は、自分の目的のためでなく、神様の目的のために生きることです。

礼拝は主を喜ばせることです。

それらは本当の礼拝です。

時々、礼拝の代価は高いです。でも主にすべてを捧げるとあなたは喜びを知ります。どうして私はそう思うでしょうか。

主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(5)

その言葉を信じないなら、主に人生を捧げるのは難しくなります。でも、神様が良い方であることを信じたら、また、神様が忠実で、私たちを愛して、私たちの最善を望むことを信じたら、神様にすべてを捧げることは当然なことになります。

あなたはどうですか。そのことを信じるでしょうか。神様は本当に礼拝しているでしょうか。

 

カテゴリー: 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

詩篇99篇ーー聖なる神

私たちが神様の性格について考える時、たいてい「愛」と言う言葉はすぐに浮かぶでしょう。

もちろん、神様は愛です。でもこの箇所では、私たちはもう一つの面を見ることができます。つまり、神様は聖なる方ということです。

だから、詩篇97篇と99篇の最初の言葉はちょっと違います。

詩篇97篇では、詩人は歌います。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(97:1)

でも、99篇では、詩人はこう歌います。

主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。(99:1)

どうして神様の前に私たちは恐れおののくでしょうか。どうして、地は震えるでしょうか。なぜなら、神様は聖なる方だけど、私たちはそうではないから。

この詩篇では、詩人は何回も神様の聖さについて歌います。

国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。(3)

また、

われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。(5)

また、

われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。(9)

神様の聖さを見る時、何回も人々は神様を恐れ、平伏しました。モーセや(出エジプト3:5-6)、イザヤや(イザヤ6:5)、ヨハネは(黙示録1:17)そうしました。

彼らは神様を見る資格がないとよく知っていました。むしろ、彼らは自分の罪のために死に値することをよく知っていたのです。

でも、何回も神様は彼らとイスラエル人に憐れみを与えてくださいました。

だから、詩人はその憐れみについて歌います。

あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。(8)

イスラエル人は神様に信頼しそびれたのに、神様は彼らを決して捨てなかった。彼らが罪を犯した時、神様は彼らを懲らしめたけど、彼らを捨てずに、憐れみました。

それに、モーセや、アロンや、サムエルが不完全な人なのに、彼らが神様に祈った時、神様は応えてくださいました。

ここの良い知らせは、神様は私たちにもそのように扱ってくださることです。神様は聖なる方で、私たちがそうではないのに、私たちを決して捨てません。私たちが何回も失敗しても、神様は私たちを赦して、私たちの祈りに答えてくださいます。

だから、神様の聖なるさと憐れみを覚えていて、毎日神様をほめたたえましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇98篇ーー私たちの救いを喜ぶこと

私たちはこの詩篇の著者を知らないので、いつ書かれたか分かりません。もしかしたら、イスラエル人がエジプトから救い出された後に書かれたかもしれない。もしくは、ダビデが王になった時に書かれたかもしれない。もしくは、イスラエル人がバビロンへの追放から帰った時に書かれたかもしれない。

そんなわけで、私にはいつ書かれたのか分かりませんが、この詩篇を読むと、その詩人の喜びがはっきり見えます。

詩人は歌います。

新しい歌を主に歌え。(1)

時々私はギターを弾いて、昔の賛美の歌を歌います。その歌のことがまだ好きですが、教会で新しい歌を歌うのも好きです。昔の歌は素敵な歌だけど、歌いすぎたらすぐに飽きます。なぜなら、その歌の意味をもう考えずに歌い始めるから。もう祈りを歌わずに、カラオケに過ぎなくなるから。

しかし、新しい歌を歌うなら、何を歌うか考えなくてはならない。だから、もう一度私たちは神様が私たちのために何をしてくださったか思い出します。

だから、詩人はこの新しい歌を書きました。彼は歌いました。

奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。

主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。

主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(1-3)

その個所を読む時、イザヤ59章を思い出します。イザヤはこう書いた。

主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。(イザヤ59:15-16)

神様は世の悪を見る時、その悪に取り組む人を見なかった。だから、神様自身が何かをしました。私たちが自分の罪のせいで神様が見えなかった時、また私たちが救いを求めなかった時、神様は救いのわざを行いました。パウロはこう書いた。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

だから今、神様を信じる人はその救いを受けられます。

詩人はその真理が分かったので、こう書いた。

地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。(3)

そして、彼は叫びます。

全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。

ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。(4-6)

そして、詩人は全創造物を呼んで、「神様をこの救いのためにほめたたえよう」と言います。(7-8)

私たちの救いを喜ぶことは良いことです。それに、そうするべきです。しかし、詩人の最後の言葉を思い出しましょう。

確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。(9)

イエス様を救い主として受け入れた方は、もう罪に定められないので、将来の裁きを喜びます。でも、私たちが愛している人も裁きのために準備できているでしょうか。

もちろん私たちの救いを喜びましょう。でも、私たちの喜びと希望を周りの人々にシェアしましょう。そうすれば、彼らもその希望と喜びを知るのです。

 

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇97篇ーー私たちの王を喜ぶこと

この詩篇も、私たちの王の偉大さを喜びます。

詩人は叫びます。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(1)

「地は、小躍りせよ。」

完全な世では、全ての国民は神様を私たちの王として喜ぶでしょう。

完全な世では、彼らは義と裁きが神様の王座の基であることを喜ぶでしょう。(2)

また、彼らは神様の力を喜ぶでしょう。(3-5)

また、神様の栄光を喜ぶでしょう。(6)

でも今は、この世の人々はそうしません。むしろ、彼らの偶像にしがみついて、お金や、セックスや力を追い求めます。だから、ある日、彼らは恥を見ます。(7)

それでは、私たちは何を喜ぶでしょうか。私たちの王の偉大さを喜ぶでしょうか。もしくは恥を与えるものを喜ぶでしょうか。

もし、神様を喜ぶなら、詩人は私たちに言います。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(10)

あなたは神様を愛しながら、悪を抱くことができません。だから、神様を愛するなら、あなたは神様が憎むものを知って、その物を捨てなくてはならない。

そのような人に関して、詩人は言います。

主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(10-11)

そして、詩人はこの詩篇をまとめます。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12)

あなたは何を喜ぶでしょうか。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇96篇/歴代誌第一16章23-33節ーー神様の名前を国々に宣言すること

ダビデは神様の契約の箱をエルサレムに持ってきたとき、感謝の詩篇を書きました。もしかしたら、その詩篇は詩篇96篇、105篇、と106篇からのメドレーかもしれない。もしくは、元々ダビデは一つの詩篇を書いたけど、後でその詩篇を三つの詩篇に分けて、歌詞をちょっと加えたかもしれない。

とにかく、私はそれぞれの詩篇について書こうと思いました。歴代誌に出た詩篇はその三つの詩篇とちょっと違うけど、96篇、105篇と106篇だけについて解説します。今日96篇について話します。

この詩篇では、私たちが学ぶのは、神様には私たちのための目的があるということです。その目的は何でしょうか。

ダビデはこう歌いました。

新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。

主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。

尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。(1-6)

私たちの目的は何でしょう。それは、国々に神様の名前を宣言することです。私たちは持っている喜びを周りの人々にシェアするべきです。

ダビデは、「主に歌え」と言います。どうしてでしょうか。神様をほめたたえるためでしょうか。もちろんそうですが、それだけではないのです。

ダビデは歌い続けます。

日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。(2-3)

どうしてそうしなくてはならないのでしょうか。なぜなら、多くの人々はそのことを知らないから。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。(5)

多くの人々は神様を知っていると思っていますが、実は、その神々はただの虚しい偶像です。

だから、私たちは神様の偉大さを宣言するべきだし、裁きの日が来ることも宣言するべきです。だから、ダビデはこう書いた。

国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

御名の栄光を主にささげよ。(7-8)

ある日、神様は自分の王座に座り、この世の民は神様を王として認めます。その日について、ダビデはこう言ました。

確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。(13)

多くの人々は不正義について文句を言います。でも、彼らが知らないのは、正義が来ると、彼らも裁かれるということです。もし彼らの罪がイエス様の血によってまだ赦されていないなら、彼らは自分の罪のために裁かれます。

だから、神様はその人々に警告するように私たちを招きます。

あなたはどうですか。あなたは周りの人々に神様について話すでしょうか。彼らは神様の偉大さを知っているでしょうか。また彼らは神様の愛について知っているでしょうか。また、将来の裁きについて知っているでしょうか。

彼らにそのことを宣言するのが私たちの目的です。だから、ただあなたのもらった救いに安心しきってはいけないのです。むしろ、周りの人々に神様の名前を宣言しましょう。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書, 歴史書, 歴代誌第一 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇95篇ーー私たちの賛美と信頼に値する神

私にとって、この詩篇は興味深いものです。なぜなら、この詩篇は賛美と大喜びで始まるけど、深刻な警告で終わるから。

詩人の言葉を読むと、その詩人の喜びが聞こえます。彼は歌います。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(1-2)

どうして、私たちは神様を賛美するでしょうか。

1.神様は大いなる方だから。(3)

2.神様は王の王だし、すべての神々にまさるから。(3)

3.神様は私たちの創造者だから。(4-5)

4.それなのに、神様は私たちを本当に愛しています。(実は、多分「神様はそのような方だから私たちを本当に愛する」と言った方が良いです。)(7)

だから、詩人は私たちを招待します。

来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(6)

でも、最後に、彼は私たちに警告します。

主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、

メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。

それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。(7-11)

イスラエル人が砂漠を渡った時、水が見つけられなかった時が二回ありました。その時、彼らは神様を信頼せずに、文句を言いました。神様がそこまで彼らのニーズに備えられたのに、彼らは神様を信じませんでした。

その時だけではなく、何回も彼らは文句を言って、神様を信頼しませんでした。彼らは神様が彼らに与えると約束した土地に入ることを拒絶し、エジプトに帰りたがりました。(申命記13-14章)

だから、神様は彼らに言った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない。」

だから、詩人は私たちに警告します。「彼らのようにならないでください。あなたの心を堅くしないでください。神様の前にへりくだってください。なぜなら、神様は私たちの賛美と信頼に値する方だから。」

あなたはどうですか。神様に信頼しますか。神様の道を行っているでしょうか。もしかしたら、自分の道を行っているでしょうか。もし神様に信頼すると、あなたは神様からの喜びと安息と平和を知ります。でも自分自身に信頼すると、それらを失います。

あなたは誰に信頼しているでしょうか。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇94篇ーー人々を裁く神、私たちを懲らしめる神

裁きか懲らしめか。私たちの人生に悪いことが起きる時、神様がそのどちらかをしているのではないかと、私たちは混乱するときもあります。だから、私たちが「神様が私を裁いて、罰している」と考えるのは簡単なことです。

でも、神様はそのように考えているでしょうか。

この詩篇では、裁きと懲らしめの違いを見ることができます。裁きは神様を拒絶する人のためですけど、懲らしめは神様の民のためです。

この詩篇の最初の部分では、詩人は神様が悪者を裁くように祈ります。

地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。

主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。(2-3)

そして、詩人は悪者の行動について話します。その人は「神様は私の罪を見ない」と思っています。

だから、詩人は彼らを責めます。

気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。

耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。

主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(8-11)

そして、彼らについて詩人はこう言います。

主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。(23)

でも、神様の子供が罪を犯したら、神様はどうするでしょうか。神様はどのようにその罪を扱うでしょうか。

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。

わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。

まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。(12-14)

この詩篇によって、私たちは神様の懲らしめについて二つのことを学びます。

一つ目は、神様は私たちの益のために懲らしめるということです。神様は私たちを苦しませるのに懲らしめるではなく、私たちを苦しみから守るために懲らしめます。

二つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して捨てないことです。

それに、神様は私たちを擁護してくださいます。詩人はこう歌いました。

だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。

もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。

私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。(16-19)

つまり、悪者が私たちを攻める時、神様は私たちを擁護してくださいます。サタンが私たちを責める時、神様は私たちを擁護してくださいます。だから、詩人はこう書きます。

彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。

しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(21-22)

だから、神様の子供として、神様の裁きと神様の懲らしめを取り違えないでください。私たちが罪を犯すと、神様は私たちを懲らしめます。でも、それは私たちに損害を与えるためではなく、私たちの益のためです。神様は私たちを滅ぼそうとは思っておられません。私たちを救いたいと願っておいでです。だから、覚えていてください。あなたがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して捨てません。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇93篇ーー 全てを治める神

これはとても短い詩篇です。この詩篇を読む時、ジャック・ヘイフォードの歌「Majesty」(「威光」)と言う歌について考えます。

この詩篇は私たちに神様の威光を思い出させます。また、神様がこの世のすべてを治めることを思い出させます。詩人は宣言します。

主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。

あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます。(1-2)

時々、私たちはこの世を見て、戦争があったり、暴力があったり、いろんな悪があったりするので、本当に神様がこの世をコントロールしているのだろうか、と疑います。

でも、詩人は私たちに思い出させます。「神様はまだ治めています。神様はまだこの世をコントロールしています。神様はこの世界を造ったし、そのずっと前に、自分の王座を確立しました。だからパニックに陥らないで。思い悩まないでください。むしろ、永遠の方に信頼してください。」

そして、詩人は私たちに尋ねます。「海の力が見えますか。波の音が聞こえますか。どのようにその波が海岸に激しく打ち寄せるか見えますか。神様は海よりも力強い方です。」

そして、詩人は歌います。

あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。(5)

神様は威光である方だけではなく、神様は聖なる方です。私はそれを聞いて慰められます。なぜなら、神様が力強くて全てを治めるけど、神様が悪を愛する方なら、私たちは本当に困るから。

でも、神様は聖なる方だし、良い方だし、正義の方です。

だから、神様の民をとして、私たちは聖なる民にならなくてはならない。へブル人への手紙の著者はこう書いた。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)

だから、神様の威光と聖なるさを覚えていて、聖さを求めましょう。

そしてある日、私たちは自分の目で、全てを治める神を見ることになります。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇92篇ーー神様の御名にほめ歌を歌うこと

この詩篇は安息日のために書かれました。神様はイスラエル人が神様を礼拝するために安息日を聖別しました。だから、この詩篇では、詩人は神様を賛美します。

私は1-2節が好きです。

主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。(1-2)

朝にあなたの恵みを言い表す。どうして、私たちがそうするのは大切なのでしょうか。そうすると、今日も私たちが希望がある事を思い出すから。私たちはどんな試練に直面しても、神様が私たちと共におられて、神様の手が私たちの上であることを思い出します。

夜ごとにあなたの真実を言い表す。日の終わりで、振り返って、神様が何をしてくださったか思い出すのは良いことです。振り返れば、私たちが問題に直面しても、神様が私たちを捨てなかったことを悟ります。むしろ、神様が愛によって私たちを救い出したことを悟ります。

だから、詩人は歌います。

主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。

主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。(4-5)

そして、詩篇1篇のように、詩人は悪者を正しい者と比べます。最初に、彼は歌います。

悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。

しかし主よ。あなたはとこしえに、いと高き所におられます。

おお、主よ。今、あなたの敵が、今、あなたの敵が滅びます。不法を行なう者どもがみな、散らされるのです。(7-9)

でも正しい者に関して、詩人はこう歌います。

正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。(12-15)

私はその最後の部分が大好きです。私たちは年寄りになっても、実を結んで、みずみずしく、おい茂ります。年寄りになる時、私は枯れたものになりたくない。私はみずみずしく、おい茂っているものになって、周りの人々に神様の愛で触れたいです。

でも、私たちはいつも神様にほめ歌を歌わないなら、枯れるものになるかもしれない。神様の愛や忠実さや、慈しみを忘れ、苦々しく貪欲のある心を持ったら、私たちは枯れた木のようになります。

だから、毎日時間を取って、神様をほめたたえましょう。朝でもほめたたえましょう。夜でも、ほめたたえましょう。一日中、機会があれば、主をほめたたえましょう。そして私たちの日だけではなく、私たちの心も神様のために聖別しましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇91篇ーー全能の神の陰に宿ること

私が好きな本の一冊は「Shadow of the Almighty」(つまり、全能の神の陰)という本です。この本はジム・エリオットという宣教師についてです。彼は南米のアウカ族に対する宣教師でした。

この本の中に、彼の手紙や日記の書き入れがあります。残念なことだけど、日本語の翻訳がないのですが、あなたが英語ができるなら、私はその本を本当に勧めます。

皮肉なことだけど、その本のタイトルはこの詩篇から来るけど、エリオットの人生のうわべを見るなら、あなたは彼が本当に神様の陰に宿ったかどうか疑うかもしれない。

この詩篇は神様の陰に宿る人の祝福について話します。詩人はその人についてこう言います。

あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。(5-7)

そして、彼はこの詩篇をこの素晴らしい言葉で終えます。

それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(9-16)

それでは、エリオットはどのように死んだのでしょうか。実は、彼が福音を述べ伝えた人々が彼を殺してしまったのです。

それは神様の人々に対して、異常なことではないです。多くの人々は神様に従ったのに、暴力的な死を経験しました。イザヤや、エレミヤや、ペテロや、ヤコブやパウロは神様に従ったけど、神様の敵に殺されました。

では、私のポイントは何でしょうか。神様の言葉は間違いのということでしょうか。とんでもない。

でも、もしこの詩篇によって、あなたは私たちがこの壊れた世界で決して苦しまないと思うなら、その詩人の意味を誤解しているのです。なぜなら、その詩人が(モーセかもしれないけど、私は分からない)きっと神様の陰に宿る人々が苦しむのも見たことがあったと思うから。

それでは、この詩人は何を言っているでしょうか。

もし、私たちが神様の陰に宿るなら、私たちがどんな試練に直面しても、神様が私たちを決して捨てないことです。神様は私たちを守るために天使を送るし、神様自身は私たちと共におられます。そして、死の陰の谷を歩いても、その谷の反対側にきっと辿り着くことができます。

そのとき、私たちが振り返るなら、神様が最後まで私たちとともにおられたことを見ます。私たちは神様が私たちの絶望の叫びを聞いてくださったことを見るし、私たちをいろんな災いから守ったことも見ます。また、私たちは神様からの救いを見ます。

ジム・エリオットが天国についたら、そのように見えたと思います。彼の救い主は微笑んで、こう言ったと思います。「よくやったよ。あなたの死による実を見てごらん。あなたの妻と友達がもう一度アウカ族のところに行って、福音を述べ伝えたので、アウカ族はクリスチャンになった。それに、あなたを殺した人々もクリスチャンになったよ。あなたはよくやったよ。」

だから、どんな試練に直面しても、神様の陰に宿りましょう。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇90篇‐‐正しい視点を保つこと

モーセの人生について書いた時、私はこの詩篇について書いたけど、そのブログを読んだ後で、私はもうちょっと書きたいと思いました。

この詩篇では、モーセは人間の短い寿命を神様の永遠さと比べます。

私は1節が大好きです。

主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。(1)

1節では、神様の永遠さを見ることができます。世代が行ったり来たりするけど、神様は決して変わりません。神様は最初からおられたし、いつまでもおられます。それに、昔は神様がイスラエル人の住まいだったように、今でも神様は私たちの住まいです。

アブラハムとイサクとヤコブを見守った神は、私たちも見まります。ペテロとヤコブとヨハネと一緒に歩んだ神は、私たちとともに歩みます。神様はその人たちが生まれる前におられたし、時間が始まる前にもおられました。だからモーセはこう言いました。

山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。(2)

しかし、私たちの寿命は息のようです。モーセはこう書いた。

あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」

まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。

朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。(3-6)

私はそのことが想像できません。もし80歳まで生きるなら、私の人生はもう半分以上終わりました。今まで、私はいろんなことを経験しました。たくさんの喜びを経験したし、いろんな苦しみを経験したし、たくさんの勝利を経験したし、多くの失敗を経験しました。でも、私の人生は海の水玉のようです。実は、私の人生はそこまでさえも大きくない。

でも、いつか私たちは神様の前に、どうやってこの人生を生きたかの申し開きをしなければならない。私たちの人生は短いけど、神様からのたまものです。だから私たちはどうやって生きているでしょうか。

多くの人々はこの世の快楽のために生きるので、罪深い人生を生きます。でもモーセはこう書いた。

なたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。(8)

つまり、神様は私たちの罪を見るので、その罪のために私たちを裁きます。私たちは誰も知らないと思うかもしれないけど、結局その罪は暴露されて、裁かれます。だから、モーセはこう書いた。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(11)

私たちはいつも神様の愛について話すけど、神様を恐れることも覚えていなくてはならない。神様は罪を憎むので、罪人を罰します。神様はいきなり私たちをその罪のために殺さないかもしれないけど、神様が私たちの罪を気にしないと思わないでください。

神様は愛ですけど、神様は聖なる方です。だから、神様は私たちが聖なる人になることを望みます。

だから、モーセはこう祈りました。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(12)

また本当の喜びがどこから来るか思い出して、モーセのように歌いましょう。

どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。(14)

そして、毎日、また毎秒を神様に捧げて、こう祈りましょう。

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(17)

アーメン。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇89篇‐‐私たちの信頼できる神

詩篇88篇は本当に暗い歌だったけど、この詩篇はもっと明るく始まります。それでも、この詩篇は、苦しんだ時に書かれました。

詩人は歌います。

私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。

私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(1-2)

そして詩人は神様の偉大さを思い出します。

主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。

まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。

主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。

万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。(5-8)

そして、彼は神様の従う人の喜びについて歌い(15-17)、神様のダビデに対する約束を思い出します。つまり、ダビデの子孫はいつまでもイスラエルを王として治めます。(3-4,19-37)

でも、急にこの詩篇の感情は変わります。なぜなら、その約束はもうだめになったようだから。ダビデの子孫の罪のせいで、神様は彼らを拒絶し、彼らに背を向けました。だから詩人は叫びます。

いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠し、あなたの憤りが火のように燃えるのは。。。主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。(46,49)

でも、イスラエルの状態は暗かったのに、神様は変わっていなかった。神様はイスラエル人を自分の土地に一回だけではなく、二回戻された。

そして、いつかダビデの子孫イエス様はこの世に戻って、神様が約束通りにこの世を永遠に治めます。

私たちは時々見えないけど、神様の愛と忠実さは決して変わらないものです。神様は約束すると、いつもその約束を守ります。イスラエル人への約束を守ったし、私たちへの約束も守ります。だから、詩人のように神様に信頼し続けて、歌いましょう。

ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(52)

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇88篇‐‐神様の沈黙

ヨブがこの詩篇を書いたわけではないのですが、この詩篇を読むとき、私はヨブの話について考えます。なぜなら、この詩人は自分の苦しみの中にある神様の沈黙について話すから。でも実生活のように、この詩篇は、ハッピーエンドではありません。

詩人は叫びます。「神様。私の声に聞いてください。あなたはここにおられるでしょうか。私のトラブルで圧倒されています。私は病気で、死にかけています。もう私の力はなくなってしまった。」(1-5)

そして、詩人は、どうして神様がそのトラブルを送ったか尋ねて、文句を言います。何回も、詩人はどうのこうの言います。

「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。」(6)

「あなたの激しい憤りが私の上にとどまります。」(7)

「あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌みきらう者とされました。」(8)

そして、彼は叫びます。「私はあなたを呼んでいる。どうして、あなたは隠れているでしょうか。どうしてあなたは私を拒絶しているのでしょうか?私の生涯、ずっと苦しんでいます。私は独りぼっちです。」(13-18)

それは、この詩篇の終わりです。

希望の言葉も、慰めの言葉もありません。

でも、時々私たちもそう感じることがあるでしょう。もし、あなたそう感じたら、覚えていてください。たくさんの人々もそう感じたことがあります。あなただけじゃないです。

もちろん、この詩人はそう感じました。多分、すべてのクリスチャンはそう感じたことがあると思います。

ある人は諦めて、その穴を決して出なかった。でもそんな人のようにならないでください。

覚えていてください。あなたの信仰はあなたの感情に基づいてはならない。むしろ、神様の性格とみ言葉に基づいてはならない。

あなたの感情は時々揺るぐかもしれない。それは不安定の物です。だから、感情は信頼できない土台です。サタンはそのことをよく知っています。だから神様が沈黙するとき、サタンはあなたに絶望させようとします。あなたの信仰を奪おうとします。

私たちの感情はいつも変わります。でも、神様とその言葉は決して変わらない。あなたは神様の約束が信頼できます。だから、落ち込んでいる時、失望するとき、自分の感情に頼れずに、神様とその約束に頼ってください。

そうすれば、どんなに暗いトンネルを通っても、あなたは最終的には抜け出すことができるのです。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇87篇ーー神様の民

この詩篇はエルサレムについてですけど、この詩篇を読む時、私は神様の自分の民に対する愛がわかりますし、どのように神様が私たちのことを喜ぶかを見ることができます。

詩人はエルサレムについて歌います。

主は聖なる山に基を置かれる。

主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。

神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。セラ (1-3)

どうして神様はエルサレムを愛したのでしょうか。神様はエルサレムの城壁や、建物を愛したのではなく、エルサレムに住んでいた人々を愛しました。神様は彼らを自分の民として選んで呼びました。その愛によって神様がエルサレムを確立したので、周りの国民はそれを見て、感心しました。

そして、エルサレムの敵、ラハブ(つまり、エジプト)や、バビロンや、ペリシテでもいつかエルサレムの栄光を見て、神様を認めます。

その時、彼らは「その人はシオンで生まれた。その人もシオンで生まれた」と誇ります。(4)

それに、神様は彼らの名前を登録して、「この民はここで生まれた」と認めます。

この詩篇を読む時、私が考えるのは、これが教会のための神様の意図という事です。

教会は建物ではなく、神様の民です。そして、神様がエルサレムの人に愛を注いだように、私たちにも愛を注いでくださいます。

そして、神様の希望は、私たちが周りの人々に影響を与えることです。また、私たちを憎む人々でも、私たちを通して神様を知ることです。

そして、私たち皆は新しいエルサレムに着いたら、神様は命の書を指して、「私が確立した教会で、その人は生まれた。その人も。その人も。」と言います。

多分、誇りを持って、神様はそう言うでしょう。

そして、神様が命の書の名前のすべてを呼んだ後で、私たち皆は歌います。

私の泉はことごとく、あなたにある。(7)

言い替えれば、「主よ。あなたは私の命と愛と喜びの源です。」

私たちは神様の民です。神様は私たちを愛して、喜びます。でも、できるだけ、多くの人々を天国に連れて行きましょう。私たちは隠れることができない山の上にある町になりましょう。

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇86篇ーー苦難の中にいる時、心を守る事

ソロモン王はこう書きました。 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉 … 続きを読む

ギャラリー | タグ: | コメントをどうぞ

詩篇85篇ーー悔い改めと憐れみ

この詩篇はいつ書かれたか誰も知らないけど、多分イスラエル人がバビロンへの追放の後に書かれたものだと思われます。

詩人はこう書いた。

主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。

あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ

あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。(1-3)

イスラエル人がバビロンに70年いた後で、神様は彼らをエルサレムに帰らせました。多分、詩人は上記の箇所でそのことについて歌ったでしょう。それでも、イスラエル人はまだトラブルがありました。だから、詩人は願います。

われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(4-7)

なぜ、詩人はそう祈ったでしょうか。ネヘミヤ記によれば、ユダヤ人がエルサレムに帰ったけど、城壁はまだ崩れていたので、彼らの敵はいつも攻撃しました。だからユダヤ人の人生は本当に大変でした。

だから、詩人は神様の憐みを願います。そして、詩人は本当に大切なことを言います。

私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。(8-9)

私たちはよく神様の憐みのために祈るけど、平和が悔い改める人のためであることを覚えていてください。もし、私たちは神様に背を向け、私たちを滅ぼした罪に戻ると、神様の憐みを期待できません。

もちろん、神様は私たちが完全な人になるまで私たちを憐れまないわけではない。でも、神様は私たちの心を望みます。神様は、私たちが古い道を行かずに、神様の道を行き始めることを見たいです。

たまに私が転ぶかもしれないけど、神様の道を行き続けたら、神様は私たちを拾って、私たちを導き続けます。そして、私たちは神様の祝福を知ります。

だから、詩人はこう書いた。

まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。

義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(12-13)

あなたはどうですか。悔い改めの道を歩んでいますか。

カテゴリー: 詩篇, 諸書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇84篇ーー永遠の物に照準を合わせる

この詩篇は本当に美しい歌だと思う、私が大好きな詩篇の一つです。この詩篇で、私たちはこの世の物に照準を合わせずに、永遠の物に照準を合わせるように励まされます。

この詩篇はエルサレムに巡礼する喜びを表現するけど、私たちの新しいエルサレムへの巡礼の関係もあります。

詩人は歌います。

万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。

私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。(1-2)

私たちはそんな態度を持って、神様と歩みたいです。神様を恋い慕う心が欲しいです。でも時々、私の魂は乾きます。だから、その時、今でも、私は祈ります。「主よ。あなたを慕います。あなたの臨在をもっと知りたいです。あなたのみ前にいたいです。」

この詩人はそのように祈りました。

私は3節も好きです。

雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。(3)

この箇所を読む時、イエス様の言葉を思い出します。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29-31)

もし、神様が雀を主の家に歓迎したら、神様は私たちも歓迎してくださらないでしょうか。

そして、詩人は礼拝の喜びを表現します。

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。(4)

でも、そのあとで、詩人は神様の家への巡礼について考え始めます。彼は歌います。

なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

二つのことは私の心を打ちます。

一つ目は、彼らは現在どこにいるかに焦点を当てずに、どこに行くかに照準を合わせたという事です。クリスチャンとして、私たちもそうするべきです。この世は私たちの住まいじゃないです。だから、私たちの永遠の住まいに照準を合わせるべきです。

二つ目は、新しいエルサレムに巡礼するとき、自分の力ではなく、神様の力によって行くべきだという事です。私たちは自分の力で出来ません。神様とその力が必要です。

6節で、詩人は歌います。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(6)

この世では、私たちは時々涙の谷を過ぎます。私たちは痛みや愛する人の死を経験します。でも、神様はその所を泉のわく所とします。恵みの雨はその痛みと苦しみを覆って癒します。

だから、

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。(7)

イザヤはこう書いた。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)

だから、詩人は神様叫びます。

万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ

神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。(8-9)

この箇所では、詩人は王のために祈りました。その王はイスラエルの盾でした。でも、私たちクリスチャンにとって、その王はイエス様です。この世で、イエス様は私たちの盾です。

最後に、詩人は礼拝者の祝福と喜びについて歌います。

まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。(10-12)

私たちはただ旅人です。この世の物は将来の栄光の影だけです。だから、一時的なものに照準を合わせずに、神様に照準を合わせましょう。

あなたは、どこに照準を合わせているでしょうか。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇83篇ーー悪からお救いください

この箇所を読む時、私は主の祈りについて考えます。つまり、「悪からお救いください」という願いです。(マタイ6:13)

この詩篇では、イスラエルは周りの国々に脅されました。だから、詩人は叫びます。

神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。

今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。

彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。

彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」(1-4)

そして、詩人はイスラエルを襲う国々の名前をリスト・アップします。でもその後で、彼はどうやって、神様が以前イスラエルを救い出してくださったか思い出します。

その敵からの救いを願った後、彼は祈ります。

こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。(18)

周りの国々はあなたを襲わないかもしれないけど、あなたを憎む人がいるかもしれない。また、エペソ人への手紙で、パウロは私たちを襲う霊的な力があると警告します。時々悪霊は人を通して、私たちを物理的に、感情的に、また霊的に襲います。

でも覚えていてください。神様は全地の上にいるいと高き方です。神様はすべてをコントロールしています。だから、攻撃されるなら、神様に向かってください。今攻撃されていなくても、神様の守りを祈る方が良いです。なぜなら、神様に従うなら、結局サタンはそれに気づいて、あなたを攻撃し始めるから。

もし、イエス様が「悪からお救いください」と祈りなさいと言ったら、そうするべきでしょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ

詩篇82篇ーー裁判官が裁かれるとき

裁判所で不正義を見る時、私たち皆はフラストレーションを感じるでしょう。有罪の人は解放されるし、彼らが傷付けた人はその決断によってもっと傷つけられます。

そんな問題はただ現代の物じゃないです。聖書の時代でも、そんな問題がありました。だから、この箇所では、神様は裁判官を裁きます。

私が続ける前に、1節をちょっと説明した方が良いと思います。1節で、こう書いてあります。

神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。(1)

詩人は「神の会衆」と「神々」と言いますけど、皮肉っぽく話します。彼は本当の神々について話していません。本当の神は一人しかいないのです。この「神々」はイスラエルの士師でした。この士師が神様の代表で、人々を裁く力があったので、詩人は彼らを「神」と呼びました。

もし、あなたがモルモン宣教師と話したら、彼らはこの詩篇を指摘して、「ほら、たくさんの神々が存在します。そして、あなたも神になることができます。」と言います。

でも、この詩人はそのことを全然教えません。6節で、詩人は「おまえたちは神々になる」ではなく、「おまえたちは神々だ。」と言います。モルモンの人でも、今彼らが神であることを言いません。

それに、7節で、神様はこの「神々」にこう言います。「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に[ます]」。この士師はただの人間だし、また、堕落している人間だから、彼らは結局死にました。でも、本当の神は決して死なない。

とにかく、どうして、神様はこの士師を裁くでしょうか。

2-4節で、その答えを見つけられます。

いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ

弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。

弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。(2-4)

神様はこの士師に関してこう言います。

彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。(5)

そして、詩人は本当の神に歌います。

神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。(8)

だから、この世の不正義を見る時失望しないでください。ある日、神様は悪人と彼らを解放した裁判官を裁きます。裁判官は正しい人じゃないかもしれないけど、神様は公正な方です。だから、最後の日に正義がきっと来ます。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇81篇ーー神様に聞き従いさえすれば

この詩篇の最初で、詩人は私たちを神様を礼拝するために呼びます。

われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。

声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。(1-2)

多分、この詩篇は祭りのために書かれたと思います。神様の律法で、神様はイスラエル人がいろんな祭りを祝うように命令しました。過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りは、特に大切な祭りでした。過ぎ越しの祭りは、神様がどのようにイスラエル人をエジプトから救い出したかを記念してお祝いしました。仮庵の祭りは、どのように神様がイスラエル人を砂漠を通って導いたかお祝いしました。

どうして、神様はその祭りをお祝いするのを命令したでしょうか。イスラエル人は神様が彼らのために何をしてくださったか忘れないためです。

この詩篇では、詩人はそのことを思い出して、歌います。

私は、まだ知らなかったことばを聞いた。

「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごから離してやった。

あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助け出した。わたしは、雷の隠れ場から、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたをためした。(5-7)

でも、私たちは神様の心の叫びも聞きます。

聞け。わが民よ。わたしは、あなたをたしなめよう。イスラエルよ。よくわたしの言うことを聞け。

あなたのうちに、ほかの神があってはならない。あなたは、外国の神を拝んではならない。

わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。(8-10)

また、

ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。

わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」。。。

わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。(13-14,16)

つまり、「もしあなたが私に聞き従いさえすれば、あなたを祝福します。また、あなたのニーズに備え、あなたのために戦います。」

でも、神様は言い続けます。

しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。

それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。(11-12)

神様は私たちを祝福したいです。私たちの人生に素晴らしいことをしたいです。でも、もし私たちが自分の道を行きたいなら、神様は私たちに行かせます。しかし、そうすれば、私たちの人生は悲しくなるし、神様も悲しみます。

あなたどうするでしょうか。あなたの耳を開き、神様に聞き従うでしょうか。そうすれば、あなたは祝福されます。でも頑固な心を持ち続けたら、破壊に導かれます。

それはあなたの選択です。あなたはどうしますか。

 

 

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , | コメントをどうぞ

詩篇79-80篇ーー罪の結果

79篇と80篇が関係があるので、一緒にまとめます。多分、バビロンがエルサレムを滅ぼした後で、これらの詩篇が書かれたので、ちょっと哀歌に似ています。

79篇はこう始まります。

神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。

彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、

聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。(79:1-3)

そして、詩人は5節でこう叫びます。

主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。(79:5)

80篇で、同じような叫びがあります。

万軍の神、主よ。いつまで、あなたの民の祈りに怒りを燃やしておられるのでしょう。

あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました。(80:4-5)

ふたつの詩篇で、詩人はイスラエル人に対する神様の憐みを願います。

先祖たちの咎を、私たちのものとして、思い出さないでください。あなたのあわれみが、すみやかに、私たちを迎えますように。私たちは、ひどくおとしめられていますから。

私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。(79:8-9)

また、

万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(80:19)

ふたつの詩篇で、詩人はイスラエル人のために誓います。

そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。(79:13)

80篇で、詩人は祈ります。

あなたの右の手の人の上に、御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に、御手がありますように。

そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。私たちを生かしてください。私たちは御名を呼び求めます。(80:17-18)

でも、イスラエル人が神様に忠実に仕えていたら、どれぐらい彼らの人生はよりうまくいったでしょうか。どうして、彼らが苦しむまで待ったのでしょうか。

もちろん神様は憐み深い神です。私たちが悔い改めると、神様は赦してくださいます。でも多くの場合、この世で私たちはその罪の結果を受けてしまいます。だから、苦しいことが起こるまで待たないでください。むしろ、今神様に向かい、求めましょう。そうすれば、罪から生み出す痛みも苦しみも避けることができます。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: | コメントをどうぞ

詩篇78篇ーー次の世代を教えること

私の娘の4歳の誕生日のために、私は子供の聖書を買ってあげました。その聖書がバイリンガルだったので、私は英語の部分を読んであげたけど、私の妻は日本語のを読んであげました。私の娘はもうすぐ8歳になるので、その聖書をもう読まないけど、私たちはまだ彼女に聖書の教えを教えたいので、どうすれば良いか考えています。

私たちの子供を神様について教えるのは、本当に大切なことです。でも、私は娘が神様について知識を得るだけはなく、本当に神様を知ることを望みます。

詩人にもその希望があったので、この詩篇を書いた。彼は次の世代に神様について教えたかった。だから彼は歌った。

私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。

私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。

それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。

それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを。(1-4)

そして、彼はイスラエル人に、神様が私たちが自分の子供に教えることを命令することを思い出させます。その命令の理由は何でしょうか。

後の世代の者、生まれてくる子らが、これを知り、彼らが興り、これをその子らにまた語り告げるため、

彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。(6-7)

そして詩人アサフは、神様の御業について歌い始めます。つまり、アサフはどうやって神様がイスラエル人をエジプトから救い出し、砂漠で彼らの必要を満たしたのか歌います。パンや肉や水がない時、神様はそれらを備えてくださいました。

そして、彼はどうやって神様がイスラエル人の敵を追い出し、その土地をイスラエル人に与えてくださったか歌います。

でも、つぎに、彼はイスラエル人の失敗について歌います。つまり、彼らは神様を信頼しなかった。彼らは砂漠で、いつも不平を言ったし、新しい土地に住み始めた時、彼らはすぐに偶像を礼拝し始めた。だから、彼らは裁かれました。

でも、彼らが失敗しても、神様は彼らに憐れみと恵みを与えてくださいました。だから、アサフは歌います。

しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。

神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。(38-39)

そして、アサフはイスラエルに神様の恵みを思い出させます。つまり、神様はイスラエルの敵を破って、ダビデを正義の王として確立しました。

私たちも、そのようなことを次の世代に教えるべきです。つまり、

  • どうやって神様が私たちを罪から救い出したか、また、神様が私たちのために何をしてくださったかという事。
  • 私たちの失敗とその結果という。どうしてでしょうか。彼らが私たちの失敗を、繰り返さないように。
  • 神様の恵みと憐れみついて。つまり、私たちが失敗しても、神様は私たちのことを諦めずに、私たちを赦し、救い出したのです。
  • 神様は彼らのために計画がある事です。ダビデが羊飼いなのに、神様は彼をイスラエルの王にしました。そのように、神様は私たちの人生を素晴らしいものに変えることができます。

私たちの子供たちに、そのことを教えましょう。そうすれば、彼らも神様を知ります。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇77篇ーー捨てられた?

私は詩篇を読み通した時、同じテーマがよく繰り返すのに気づきました。つまり、時々詩人には、目が見えない神との関係が本当に難しいものであったのです。私にもそう考える時があるので、ちょっと慰められます。

詩篇77篇はそのような詩篇です。詩人は叫びます。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。(1-2)

どれぐらい私たちにはそんな経験があるでしょうか。私たちは神様に叫ぶけど、何も聞こえない。そして、悩んでいる心のせいで、私たちは寝られません。だから、詩人のように、私たちは訊き始めます。

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。

主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ (7-9)

言い替えれば、「あなたは私を捨ててしまったでしょうか。私を諦めたでしょうか。私がもうだめだと思うでしょうか。」

でも、失望の中で、彼は叫びます。

「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。

私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。

あなたは奇しいわざを行なわれる神、国々の民の中に御力を現わされる方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。セラ

。。。あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。(10-15、20)

急に詩人は神様が彼を捨ててしまった考えを捨てます。彼は言います。「あなたが私を捨てるのが信じられない。なぜなら、あなたは私のために多くのことをしてくださったから。あなたは私を愛したので、私とあなたの民を贖ったし、羊のように私たちをこの良い土地に導いて下さった。その愛によって、私はあなたが私を捨てたという考え方を拒絶します。」

それは信仰です。私たちは神様が見えなくても、信じ続けます。その瞬間に私たちは神様の臨在が感じなくても、神様が私たちを捨てずに、私たちと共にいることを信じ続けます。

でもそれは盲信じゃないです。なぜなら、振り返る時、私たちの人生に神様の力と愛の事例が見えるから。だから、捨てれたと思う時、詩人のように、神様の慈しみを思い出し、以前、私たちと共におられた神が、まだ私たちと共におられることを思い出しましょう。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ

詩篇76篇ーー誉に値する神

ある聖書の学者たちは、この詩篇がヒゼキヤの時代に書いてあったと考えています。すなわち、アッシリヤの王セナケリブの事件の後に書かれた可能性があります。その学者たちが正しいかどうかわからないけど、この詩篇はその話に関係があるようです。

この詩篇では、神様がイスラエルを敵から救い出すために詩人は賛美します。彼は歌います。

神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。

神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。

その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。セラ (1-3)

そして詩人は、どのように神様がエルサレムを攻撃しようとした人々を滅ぼしたか歌います。10節は本当に興味深いです。

まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ[る]。

どうすれば、人の憤りが神様をほめたたえられるでしょうか。多分その意味は、人々が神様に対する怒りがあり、神様と戦っても、神様が結局勝つので、神様の名前はほめたたえられるということです。だから、セナケリブは神様の名前をからかい、エルサレムを攻撃したけど、神様はその軍隊を滅ぼしたので、イスラエル人は神様をほめたたえました。

また、パロは「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。」と言って、イスラエル人を迫害したけど、神様がパロを低くして、イスラエル人を自由にしたので、周りの国々は神様の名前を恐れました。

だから、この詩篇を読む時、慰めも警告もあります。私たちが神様の手の中で休めば、神様は私たちを守り、助けてくださいます。しかし、神様に背くと、私たちは裁かれます。

でも、私たちがどう選択しても、神様の名前はほめたたえられます。だから、パウロはこう書いた。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

だから、私たちは自分自身にこう訊かなくてはならない。感謝と愛を持って、そのことを告白するでしょうか。もしかしたら、憤りをもって、苦々しい心からそう告白するでしょうか。

カテゴリー: 詩篇, 諸書, 旧約聖書 | タグ: , , | コメントをどうぞ