コリント人への手紙第二4:1-6--私たちの役割。神様の役割。

福音を宣べ伝えるとき、多くの人々は相手の反応が気になります。

それは当然のことだと思います。なぜなら、私たちは彼らの救いを望みますから。さらに、私たちは自分が好かれるように望みます。

もちろん一つ目の望みは大切なんだけど、二つ目の望みは二次的なものです。だから、その希望は福音の宣言を阻止してはいけません。

パウロはこう書きました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(1)

「落胆することがありません」と言うと、たぶん、パウロの意味したものは、「人々が福音を拒絶しても、私は落胆しない」ということです。

もちろん、人々が福音を拒絶すると、悲しいことです。さらに、人々が福音のために私たちを退けると、落胆するのはたやすいことです。

でも、パウロはこう言います。

かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(2)

つまり、「福音を宣言すると、私たちは正直にふるまいます。私たちは人をだまそうとするわけではありません。」ということです。

さらに、パウロは「私たちは神のことばを曲げない」と言いました。

「曲げる」という言葉は興味深いものです。普通は、その言葉は、ワインを売る人が自分の商品を水で薄めるという意味でした。

言い換えると、パウロは「私たちは神様の言葉を薄めません。人が福音をもっと簡単に受け入れるため、私たちは福音を絶対変えません。むしろ、私たちは正直にその真理を伝えます。」と言いました。

時々、相手が福音を受け入れるため、また、私たち自身を受け入れるため、私たちは福音のメッセージを変えるように誘惑されます。でもパウロにとって、それはいけないことでした。むしろ、彼は福音をはっきりと伝えました。そして、彼は相手に言いました。「これは福音です。あなたはどうしますか。」

神様は、私たちがそうするように呼びます。人々に信じさせることは私たちの責任ではありません。真理をちゃんと語ることは私たちの責任です。

パウロはこう言います。

それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(3-4)

パウロが意味したものは、もし私たちがちゃんと福音を伝えても、相手が真理が見えない場合、私たちは自分自身を責めなくていいということです。なぜなら、サタン自身は彼らの思いを暗くしましたから。

では、私たちはどうしたらいいでしょうか。私たちはその人を神様の手に委ねるべきです。私たちはそれしかできません。パウロはこうい書いた。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。(6)

世界が造られたときに神様こそが光を暗闇の中ですべてを照らしたように、神様こそが暗闇の中にある人の心を照らすことができます。だからある人が福音を拒絶すると、その人のために祈ってください。それは、私たちの役割です。その結果は、神様の役割です。

だから、相手がもっと簡単に福音を受け入れるために、福音のメッセージを決して曲げないでください。むしろ、その真理をちゃんと語って、その人のために祈りましょう。そして、神様が彼らの心の中で働くことを待ちましょう。そうすれば、神様の御心なら、神様のタイミングで、私たちは実を見るでしょう。

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コリント人への手紙第二3:7-18--どうして私たちは決して恥る必要がない

前回の記事で、このトピックにちょっと触れたけど、今日、そのことをもうちょっと深く考えたいと思います。

モーセはシナイから降りて、十戒を持った時、彼の顔は主の栄光で輝いていました。

最初は、イスラエル人たちが怖がりましたので、モーセは自分の顔に覆いをかけました。でも、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。もしかしたら、モーセはその栄光が消え去ることで恥ずかしかったからかもしれません。つまり、その時自分の罪によって、その栄光が消え去っていることが分かったのです。

その話を通して、私たちは律法の問題を見ました。律法は、神様がどんな方であるか、また私たちに対する神様の意志を現すけど、律法は私たちを変える力を持っていません。私たちはまだ罪深いので、律法で裁かれます。

でも、パウロによれば、私たちの状態は変わりました。私たちがイエス様を信じると、モーセの栄光より優れた栄光を見つけます。どうしてでしょうか。なぜなら、その律法は、石の板や、紙に書き記していませんから。

むしろ、私たちがクリスチャンになると、聖霊様はその律法を私たちの心に書き記しまし、毎日私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。毎日、私たちは栄光から栄光へと変えられています。私たちの栄光は消え去っていません。むしろ、その栄光はだんだん増えていきます。

だから、パウロは私たちにこう言います。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(12-13)

神様が私たちに賜った栄光が消え去ることを心配することはありません。むしろ、私たちがイエス様の同じかたちになるまで、神様が私たちの中で働いていることを確信することが出来ます。その時、私たちは神様の栄光で輝きます。

そういうわけで、パウロは、私たちが自由を持っていると言います。(17)

神様は私たちを罪悪感から自由にしました。

神様は私たちを罰の恐れから自由にしました。

神様は私たちを律法の力から自由にしました。私たちには自分の力で律法を守る必要はもうありません。

モーセはそんな自由を知りませんでした。彼は律法の管轄下にありました。だから、全焼のいけにえを何度もささげても、彼は罪悪感と恥を感じました。(へブル10:2-4)

彼は裁きの苦しみも経験しました。自分の罪のため、彼は神様がイスラエル人に約束した土地に入ることが出来ませんでした。だから、モーセの顔で律法の栄光が消え去りつつあるとき、彼は覆いを外しませんでした。

でも、私たちには、その必要がありません。私たちの覆いを外して、周りの人々に私たちの顔を見せましょう。私たちがどんな人であるかを見せましょう。私たちは恵みによって救われた人々です。私たちは完全な人々ではないけど、毎日、私たちはイエス様と同じかたちに変えられています。

だから、ペテロの言葉を覚えて、生きましょう。

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:6)

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コリント人への手紙第二3:7-18--神様の律法を正しく分かること

多くのクリスチャンたちは、クリスチャン生活をいろんなルールを守るものと見なします。多数のノン・クリスチャンたちも同じ考え方を持っているでしょう。でも、クリスチャンとして、私たちの栄光はルールにあるものではありません。なぜでしょうか。

パウロは、律法に関してこう書きました。

石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。(7-11)

律法が来るのは、本当に栄光のあることでした。なぜなら、律法を通して、私たちは神様がどんな方であるか、また、私たちに対する神様の意志を見ることが出来ますから。律法が来る前、人間たちはそのことを知らなかったけど、律法を通して、その真理は明らかになりました。

でも、律法に関して、問題がありました。律法を完全に守る人が誰もいないので、その律法は私たちの死に至らせました。そういうわけで、その栄光はすぐに消え去りました。モーセの顔でも、その栄光はすぐに消え去りました。

モーセがシナイ山から降りて、十戒を持った時、彼の顔は神様の栄光で輝きました。イスラエル人たちはそれを見て怖がったので、モーセは顔に覆いをかけました。でもパウロによれば、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。もしかしたら、モーセは恥ずかしかったかもしれません。もしかすると、彼がこう思ったかもしれません。「私がもっと清い人なら、その栄光は消え去らないだろう。」

そうだったかもしれません。

私はもう一度言います。律法の問題は、律法を完全に守る人が誰もいないことです。そういうわけで、律法は誰にも命を与えることが出来ません。律法は私たちをキリストと同じかたちに変える力を持っていません。

それでも、多くの人々は、律法を守ると、神様が彼らを受け入れると思います。パウロによれば、彼らが律法を読むと、覆いは彼らの心にかけられます。(14-15)

だから、彼らは律法に関する真理を見ることが出来ません。つまり、律法の栄光がもう消え去ったのです。だから、彼らはまだ、律法が栄光に満ちていると思って、その律法を通して、彼らが神様に受け入れられると思います。そういうわけで、彼らは頑張って律法を守ろうとします。でも実際は、律法は彼らの罪を指摘して、裁きます。

しかし、覆いが取り除けられると、私たちに分かったのは、律法の栄光がなくなったことです。そして、私たちは本当に栄光のある物を探し始めます。それは何でしょうか。それは、御霊の務めです。イエス様の働きによって、聖霊様の務めは始まりました。十字架で、イエス様は私たちの罪の代価を支払いました。

だから、私たちが信仰をもって、自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の主とすると、聖霊様は私たちの心を変え始めます。そして私たちは日々栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられます。

「栄光から栄光へと。」

律法の栄光と違って、御霊の務めの栄光は決して消え去りません。御霊の務めの栄光は律法の栄光より優れたものですから。

だから律法の目的を正しく理解しましょう。律法を通して、私たちは神様がどんな方であるか分かったし、私たちに対する神様の意志が分かりました。でもその栄光はもう消え去りました。だから、新しい心を持ちたいと思うなら、律法と自分の努力に頼らないでください。

むしろ、毎日、聖霊と歩むことを学びましょう。そうすれば、私たちは周りの人々に天の父の栄光を反映します。

 

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コリント人への手紙第二3章ーーキリストの手紙

私は年寄りなのかもしれません。私は手紙を書くことや、受け取るることをまだ覚えていますから。

私は大学生の時、メールを送ったり受け取ったりしたけど、その時代、メールはまだあまり普及していませんでした。だから、日本に来るとき、私は家族に航空書簡を送りました。(航空書簡を知っている人がまだいるでしょうか。)

今なお友達からの手紙をまだ持っているけど、最近手紙を全然もらっていません。

とにかく、パウロは私たちを「キリストの手紙」と呼びます。パウロはコリント人たちにこう言いました。「私のミニストリーの妥当性を証明するため、あなたたちからの推薦状は要りません。」

むしろ、

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(2-3)

私たちが、すべての人に知られ、また読まれているキリストの手紙であることは、どういう意味でしょうか。

それは、人々が私たちを見ると、私たちはの人生を通して、彼らがイエス様が生きていて、この世で働いていることが分かることです。

なぜなら、私たちを見ると、彼らは、イエス様が私たちの人生の中で働いて、私たちを変えていることを見ることが出来ますから。

モーセの時代、神様は律法を通して、自分がどんな方であるかをユダヤ人たちに現わしました。特に、十戒を通して、神様は自分の性格を現したし、私たちがどのように生きるべきかを現しました。

でも、その石の板は彼らのためにそれしかできませんでした。つまり、その石の板はユダヤ人たちに(また、私たちに)、心を変える力までは与えることができませんでした。

でも、私たちはクリスチャンになると、神様は自分の律法を私たちの心に書き記します。その律法はただ私たちにどのように生きるべきか教えるだけではありません。むしろ、聖霊様が私たちの心を変えています。毎日、聖霊様は私たちにささやきます。「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ書30:21)

そして、聖霊に従うにつれて、私たちは主の栄光を映し始め、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられます。(18)

要するに、私たちはちょとずつ踏み出すと、私たちはますますキリストのようになりつつあるのです。私たちが次の栄光の段階に到達すると、周りの人々は分かります。「イエス様は本当に生きておられます。そのクリスチャンを通してそれが見ることが出来ます。そのクリスチャンを通して、イエス様がどんな方であるか分かります。」

そのように、私たちは彼らへのイエス様の招待状になります。イエス様は彼らに言います。「私の所に来なさい。そうすれば、そのクリスチャンのように、あなたも本当の命を知ります。」

毎日、イエス様の手紙になりましょう。神様が自分の言葉を私たちの心に書きしるして、周りの人々がその栄光を見て、神様を知るように。

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コリント人への手紙第二2:16b-3:6 ーー 私のような人は人々に影響を与えることができるでしょうか。

時々、私たちは前回の記事のような聖書の個所を読んで、「私たちはキリストの香り」とか、「私たちは神様の祭司たち」ということを読みます。でも、それを読むと、私たちは疑問に思います。「どのように私は神様の祭司になることができるだろうか。どのようにキリストの香りを放つことができるだろうか。私は特別な資格を持っていない。神学校に行ったことがないし。私は牧師や宣教師ではないし。私はただ普通のクリスチャンなのに。」

でも実際は、キリストのために人に影響を与える資格を持っている人は誰もいません。あなたは神学校を行ったかもしれないし、ミニストリーの経験をたくさん持っているかもしれないけど、その教育と経験はあなたに人の心を変える力を与えません。神様だけが、人の心を変えることができます。パウロ自身も、そのことを理解していました。

パウロは、私たちが周りの人々にとってキリストの香りだと言った後、こう訊きました。

このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(2:16b)

その答えは当たり前です。その務めにふさわしい人は誰もいません。自分の知恵と力によって、私たちは人々の心を変えることができませんから。私たちはただパウロの模範に従うことができます。

誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(2:17b)

私たちはそれしか何もできません。私たちは神様から与えられた大宣教命令を果たさなくてはなりません。私たちは誠実を持って、周りの人々に話すべきです。なぜなら、神様は私たちを見ています。そして、私たちはその結果を神様の手に委ねます。私たちが自分の役割を果たすと、神様は自分の役割を果たします。

だからパウロはこう書きました。

私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(4-6)

パウロは、はっきり言います。私たち自身には、人に影響を与える資格を持っていません。むしろ、私たちの資格は神様から与えられるものです。私たちが神様に仕えるとき、神様は私たちに必要な資格を与えてくださいます。そういうわけで、私たちは確信を持つことができます。私たちは自分の賜物や能力に頼りません。むしろ、私たちは、その能力と賜物を与えてくださった神に頼ります。神様だけが、最も頑なな心を変えることができます。

その真理を覚えていましょう。私たちは人の心を変えることができないけど、神様はできます。そして、神様が命じたことを忠実にすると、私たちは人々に影響を与えることができます。

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コリント人への手紙第二2:14-16--いのちに至らせる香り、死に至らせる香り

私たちはクリスチャンであるがゆえに、すべての人々から愛されるということにはならないものです。イエス様は完全な人だったけど、彼を嫌う人もいました。どうしてでしょうか。

イエス様から出た香りのためです。

この個所では、パウロは興味深いことを言います。

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(14-16)

パウロの描写では、ローマの将軍が勝利のパレードで自分の軍隊を導くことです。彼らの後ろに祭司たちは香りのある香を道路に撒きました。

勝利をお祝いする人たちにとって、その香りは命と勝利の匂いでした。でも捕虜たちにとって、その香りは自分の死の香りでした。

そのように、私たちは祭司として、私たちの将軍について行って、その十字架の勝利をお祝いします。そして、私たちがキリストを知る知識の香りを放つとき、救われる人にとって、つまり、私たちのメッセージを聞いて信じる人にとって、私たちは最終的な勝利と命の香りです。

でもほかの人たちが私たちのメッセージを聞くと、彼らにとって、私たちは死の匂いです。どうしてでしょうか。私たちは彼らの罪を指摘し、その罪がどこに導くか教えますから。つまり、その罪は地獄に導きます。

彼らはそのメッセージが嫌いです。彼らは自分の罪の悪さを認めたくありません。彼らは自分の罪のために裁かれることを聞きたくありません。だから彼らにとって、イエス様は死から出て死に至らせる香りです。さらに、イエス様が私たちのうちにいるので、私たちからも、同じ香りが出ます。

私は、有名な宣教師ジム・エリオットの言葉が大好きです。

「天のお父様、私が危機に至る人間になるように。つまり、人々が私たちに出会うと、彼らがあなたに関して決断しなくてはならないように。私がただの一つの道路の距離を示す標識にならないように。むしろ、私が分かれ道になるように。人々が私のうちにキリストに出会うと、彼らは神様に近づくか、神様から離れるかの選択をしなくてはならないように。」

あなたはどうですか。人々があなたに出会うと、キリストの香りを匂わせるでしょうか。また、彼らはあなたのうちにいるイエス様に出会うと、イエス様に従うか、イエス様を拒絶するかの選択をしなくてはならないでしょうか。

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コリント人への手紙第二2:5-11--相手が悔い改めると

人々が私たちを傷つけると、恨みを抱くのは簡単なことです。相手が謝っても、私たちはその人を許したくない時もあります。または、私たちは相手を許してあげると言うけど、心の中でその恨みを手放すことを拒みます。相手が私たちの恨みをまだ感じるので、私たちと話すとき、相手はまだ不安を感じます。

教会のリーダーたちが罪を犯すメンバーを訓練するときも、同じようなことが起こるかもしれません。その人が悔い改めても、リーダーたちもほかのメンバーたちも、その人を勘ぐって、ちょっと敬遠します。

もしかしたら、彼らはこう考えるかもしれません。「相手をすぐに受け入れてはいけません。彼らをもう少し悲しませた方がいいです。そして、その人が十分悲しんでいたと思ったら、彼らを受け入れましょう。」

でもパウロはそんな訓練を教えませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。(6-8)

「あの処罰で十分」とは、どういう意味でしょうか。たぶん、パウロの意味したものは、処罰がその目的を果たしたことです。つまり、その人は悔い改めたことです。そして、人が悔い改めると、その人を処罰し続ける必要がありません。むしろ、私たちはその人を許して、慰めるべきです。神様が彼らを赦したと伝えるべきだし、私たちも許したことを伝えるべきです。そして、その人に私たちの愛を確認するべきです。

もちろん、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちがその罪を悲しむように望みます。でも、二つの種類の悲しみがあります。悔い改めに導く悲しみもありますし、死に導く悲しみもあります。悔い改めに導く悲しみは良いことです。でも、私たちがその人を許さないと、相手が悲しみすぎて、死に導くかもしれません。それは神様の望みではなく、むしろサタンの望みです。

サタンの欲望は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりすることです。だから、私たちが相手を許さずに、その人があまりにも悲しむと、私たちは神様と協力せずに、むしろサタンと協力しているでしょう。

あなたはどうですか。誰かがあなたを傷つけたでしょうか。または、教会の中で、ある人がひどい罪を犯したでしょうか。その人は悔い改めたでしょうか。そうすれば、神様と協力して、その人を許して、受け入れましょう。

イエス様の言葉を覚えていてください。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカ6:36)

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コリント人への手紙第二1:23-2:4--兄弟たちと姉妹たちと向き合わないといけないとき

兄弟たちや姉妹たちが罪を犯すとき、その人に向き合うのは、かなり大変なことです。もし「それが楽しい」と思う人がいれば、その人はそうしてはいけないと思います。

でも、その必要があるときもあります。その時、パウロの人生と言葉で私たちは良い原則を見ます。

パウロはこう書きました。

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。(1:24)

人と向き合う時、それはとても大切な態度です。彼らと話すとき、「あなたは私の言葉に従わなくてはいけない」という態度を持つべきではありません。

むしろ、私たちはこのような態度を持つべきです。「あなたのことを愛しています。あなたがこの罪を乗り越えるために私は助けたいのです。あなたが本当の喜びを知って、信仰に固く立つように望みます。」

でも多くの場合、私たちが相手を責める態度をもつので、彼らは私たちの中にイエス様の愛を見ることが出来ません。

でも、パウロの態度は違いました。彼はこう言いました。

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。(2-4)

この言葉には、プライドや傲慢がありません。むしろ、パウロはコリント人たちに対する愛を表しました。

それに、彼らと向き合うとき、パウロは彼らが悔い改める強い希望を持っていました。

時々、私たちは人々と向き合う時、私たちはその希望を持たずに、ただ怒りをぶつけて、彼れらを責めてしまいがちです。パウロの態度は違いました。彼はこう言いました。

あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。(3)

つまり、「その前回の手紙の目的は、私たちは今度会う時に苦しい訪問にならないように。あなたのことを信じているので、そんなことを書きました。私は、あなたたちが悔い改めて、私たちはもう一度一緒に主の喜びを知る希望を持っていました。」ということです。

私たちは人と向き合うと、「あなたらしい」と言わずに、「あなたらしくないよ。正しい道に戻りましょう。」という態度を持つべきです。

最後に、相手と向き合うべきの時もあるけど、神様が相手の心の中で働かせるべきときもあります。パウロが最初コリント人たちに向き合ったとき、彼らは怒っただけでした。パウロはすぐにもう一度向き合おうと思ったけど、結局後回しにしました。どうしてでしょうか。

私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。。。そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。(1:23、2:1-2)

だから、彼はコリントに行かずに、その代わりに手紙を送って、彼らが悔い改めるように願いました。(2:3)

時々、それは一番良い方法です。彼らに愛を伝えるけど、彼らを神様の手に委ねることです。

だから、人と向き合う時、そんな態度を持ちましょう。そして神様の恵みによって、彼らに人生に良い実が結ばれるでしょう。

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コリント人への手紙第二1:18-22--私たちが神様信頼できる理由

試練の時、神様に対する私たちの信仰を失うのは簡単なときがあります。パウロはそんなときがあったでしょうか。特に、彼は非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどのとき、その信仰を失う危機にあったでしょうか。(8)

でも結局、その試練を通して、パウロたちは神様に頼ることを学びました。(9)

どうして、彼らはその信仰を保つことが出来たでしょうか。また、どのように私たちは自分の信仰を保つことが出来るでしょうか。

パウロはこう書いきました。

神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。(18)

その言葉の中で、私の心を打つことの一つは、神様が真実な方であることです。試練の中で振り返ると、私たちはその真理が分かるはずです。でも、私たちの人生だけを振り返らずに、昔のクリスチャンと現代のクリスチャンの人生をも見ると神様の真実さが分かります。さらに、私たちの罪のためにイエス様を送ったとき、神様は自分の約束を守ることで、自分の真実さを証明しました。

パウロは、「私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。」と言いました。

要するに、福音は私たちが頼ることが出来るものです。そのメッセージは決して変わりません。神様は私たちに、「イエスを信じれば、あなたは救われる」と約束したので、天国の門で、急に「やっぱりだめです。私の気が変わりました。入ってはいけません」とは決して言いません。ほかの人は自分の約束を破るかもしれないけど、神様の約束は変わりません。神様は真実な方だから。

だからパウロはこう言いました。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ3:4)

パウロは続けます。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(19-20)

要するに、この常に変わりつつある世界でもイエス様は決して変わりません。言い換えると、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(へブル13:8)

イエス様にあって、神様の約束はすべて確認されていました。イエス様は、良い知らせを宣べ伝え、病気の人を癒し、私たちの罪のために死んだとき、メシアについての預言を満たしました。そして、ある日、イエス様は永遠の国を開始して、残りの預言を満たします。

だから、私たちは神様の他の約束を信じることが出来るのは、なおさらです。つまり、試練の時、神様が私たちと共におられる約束です。また、この試練がただ一時的なことだけという約束です。また、私たちは勝利を得て、その試練から私は金のように、出て来るという約束です。

だから、イエス様に会って、私たちは「アーメン。あなたがそれらのことを約束したので、必ずそれらの約束を守ると信じます。」と言えます。

でもパウロはさらに言います。

私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。(21-22)

神様は私たちに聖霊という油を注ぎました。神様は自分の目的のために私たちを聖別しました。さらに、神様保証の証印を私たちに押しました。その証印を通して、神様は宣言します。「この人は私のものです。私のひとり子の血によって、この人を贖いました。」

そして、聖霊様は神様がすべての約束を守る保証です。

だからどんな試練に直面しても、神様に信頼しましょう。ほかの人々は私たちをがっかりさせるかもしれないけど、神様は真実な方です。

あなたはどうですか。神様に信頼するでしょうか。

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コリント人への手紙第二1:12-2:4--人々が私たちのことを誤解し、責めるとき

この手紙を読むにつれて、パウロとコリント人たちの関係が大変だとはっきり分かるようになります。

コリント人たちはパウロが以前に送った手紙を読んだとき、パウロの言葉に気を悪くしたようです。彼らは、パウロが頼りない人だと思ったようです。さらに、ある人たちは、パウロが二枚舌を使う人だし、彼らを操ろうとしていると言ったようです。その理由の一つはパウロは以前、彼らを訪れると約束したけど、そのプランを土壇場でキャンセルしたことです。

そういうわけで、パウロはなぜそのプランをキャンセルしたか説明しなくてはなりませんでした。主な理由は、あるコリント人たちがパウロのリーダーシップに反対したようです。多くの聖書学者たちは、パウロがコリント人への手紙第一書いた後、彼はコリントの教会を訪問したけど、その時、パウロがコリント人たちを苦しませたと考えています。つまり、パウロは自分に反対したコリント人たちと向き合って、彼らの罪を指摘しなくてはなりませんでした。その結果、パウロとコリント人たちの関係が壊れたようです。

パウロはすぐにコリントの教会に戻るとしたら、もう一つの大喧嘩に至ると分かりました。なぜなら、以前の問題はまだ解決していなかったから。だから、パウロは彼らにもう一つの手紙を書いて、彼らが悔い改めるように訓戒しました。そして結局、多数のコリント人たちは悔い改めました。(7:6-13)

でも、あるコリント人たちはまだ、パウロが頼りなくて、二枚舌を使う人だと責めました。(1:7,7:2)

私たちはどのようにそんな人を扱うでしょうか。私たちを誤解して、私たちに言いがかりをつける人をどのように扱うべきでしょうか。

パウロの模範を見ると、良い方法を見ることが出来ると思います。パウロはこう書きました。

私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(1:12)

一番大切なのは、神様の前に潔白な心を保つことです。自分に反対する人を扱う時、私たちは純真さと誠実を持っていなくてはなりません。

相手が私たちを責めても、私たちを悪く扱っても、私たちは純真と誠実をもって反応するべきです。

私たちがしてはいけないのは、この世の知恵で反応することです。ヤコブはそのような知恵を説明します。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。(ヤコブ3:14-15)

むしろ、私たちは神様の恵みから流れる知恵で彼らを扱うべきです。神様の知恵はどんなものでしょうか。ヤコブはそれも定義しました。

ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。(ヤコブ3:16)

パウロはそのような知恵を振るいました。その結果、多くのコリント人たちはパウロのことを理解しました。

自分にまだ信頼していなかった人たちに、パウロは自分の言葉に隠された意図や、隠された意味がないと主張しました。また、パウロは、彼らがいつかパウロのことを完全に理解するようになる希望を伝えました。(1:13-14)

でも、その日まで、パウロは純真や誠実や、恵みをもって生き続けると言いました。

あなたはどうですか。人々はあなたを誤解して責めるとき、どう反応するでしょうか。パウロのように反応しましょう。純真や誠実や、恵みをもって反応しましょう。

 

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コリント人への手紙第二1:10-11--私たちの祈りの大切さ

私たちの祈りは、本当に効果的なものでしょうか。もしくは、私たちが祈ろうが祈るまいが、神様は自分がしたいことをするのでしょうか。

その疑問に関して、パウロは意見を持っていました。彼はこう言いました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。(10-11)

パウロは、コリント人たちの祈りの効果を信じたので、彼らの祈りを願いました。彼は彼らを励ました。「あなたの祈りには、本当に効果があります。」

どうして神様は私たちの祈りを望むのでしょうか。どうして、多くの場合、神様は行動する前に私たちの祈りを待つのでしょうか。

多分一番大切な理由は、神様が私たちとの関係を望みますから。さらに神様は、私たちが神とともに働く者になるように望みます。

私たちが祈り始めると、特にほかの人々のために祈り始めると、何が起こるでしょうか。

1.私たちは自分自身だけに焦点を当てずに、周りの人々のニーズを見始めます。私たちはそうすれば、神様は喜びます。なぜなら、私たちは神様のようになっているから。では、私たちの祈りによって、神様が人々の人生に働く可能性は高くなるでしょうか。聖書は、そんなことを教えるようです。例えば、ヤコブはこう書きました。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。(2)

イエス様自身はこう言いました。

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:24)

2.神様が私たちから何を望むか分かるようになります。私たちが祈るにつれて、神様は私たちの心にどのように周りの人々に触れることが出来るかささやきます。

大変な日の終わりに、イエス様の弟子たちはイエス様にこう言いました。「群衆を帰らせてください。もう遅くて、彼らはお腹が空いたでしょう。」

多分、彼らは主に群衆のニーズを考えていなかったでしょう。彼らはずっと群衆たちに仕えていたので、もう休みたいと思ったのでしょう。でも、イエス様は彼らに「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」と言いました。(マタイ4:16)

彼らはパンと魚を持っている少年を見つけて、その食べ物をイエス様に持ってきました。そしてイエス様は素晴らしい奇跡を行いました。

そのように、私たちが人のニーズを見て、祈り始めれば、イエス様は私たちにどのようにイエス様の仕事に参加できるか教えます。

3.神様はその祈りを応えるので、私たちは神様の良さが分かるようになります。そういうわけで、私はさらに祈るように励まされます。

4.あなただけではなく、ほかの人も神様の良さを見て、励まされます。パウロはこう言いました。

そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。(11b)

だから、祈りの大切さを疑わないでください。そして、神様の仕事に参加して、周りの人々のために祈りましょう。

神様は、あなたが誰のために祈るように望むでしょうか。

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コリント人への手紙第二1:6-7--自分のことに焦点を当てないこと

この個所を読むと私は、パウロがキリストの模範に従っていたことに気づきました。

もし、イエス様はただ快適な生活を送ることに関心があったとしたら、この世に来なかったでしょう。彼は飼葉おけに寝ていなかったでしょう。彼は貧しい大工の家で成長していなかったでしょう。枕する所もない日を経験しなかったでしょう。彼は十字架に行かなったでしょう。でも、イエス様はそのすべてを経験しました。どうしてでしょうか。

それは私たちの慰めと救いのためです。私たちの罪のゆえ、また、この世の悪の故、私たちは惨めでした。さらに、私たちは破滅への道を歩んでいました。イエス様はそれを見て、天国の楽な生活を捨てて、私たちのために苦しみました。

パウロはイエス様の模範を見て、従いました。コリント人たちやほかの人々のためにパウロは遭難や、禁固や、飢えや迫害を経験しました。なぜでしょうか。パウロは自分の楽な人生に焦点を当てませんでしたから。むしろ、彼は周りの人々の苦しみとニーズを見ました。

パウロは慰めを受けたときにも、彼はただ自分のことに焦点を当てませんでした。むしろ、パウロの希望は、コリント人たちがパウロの経験を見ると、励まされることです。つまり、彼らはこの世の試練は大変だけど、一時的なものだと分かるようになることです。なぜなら、パウロも安心と神様の喜びを知りましたから。だからコリント人たちは自分の試練の中で、自分たちが結局慰められる希望を持っていたでしょう。そして、その希望によって、彼らは耐える勇気を持ったでしょう。

自己中心になることは簡単なことです。神様の愛をスポンジのように吸収して、楽な人生を望むことは簡単なことです。

でも、神様は、私たちがそんな態度を取るのを望みません。むしろ、神様は、私たちがイエス様の模範に従い、私たちが苦しまなくてはならなくても、自分の楽な人生を捨て、周りの人々の救いのために働くように望みます。

でも、私たちがイエス様の目を持たないと、私たちは決してそんなことをしないでしょう。イエス様は周りの人々の苦しみを見ました。だから彼は十字架に行きました。あなたはイエス様の目を持っているでしょうか。

イエス様、私はしばしば自分勝手な生活を送ります。私はただ自分の快適な人生や、満足のために生きます。赦してください。私の回りでは、たくさんの人々は苦しんでいます。彼らは、あなたを必要とします。私があなたの目で彼らを見るように助けてください。私は彼らの心を見極めるように助けてください。彼らのニーズを見るように助けてください。あなたの憐れみ深い心を私に与えてください。あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神、あなたの憐れみや慰めが私を通して周りの人々に流れるように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

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コリント人への手紙第二1:3-5ーースポンジではなく、パイプラインになるように呼ばれること

クリスチャンになると、一つの益は、神様からの祝福です。その祝福の一つは、試練の中の神様の慰めです。

でも、私たちがスポンジになるのは、簡単なことです。私たちは神様からの愛と慰めを吸収します。もちろん、私たちには、神様の愛と慰めが必要なときもあります。でも、神様は、私たちがただのスポンジになるのを望みません。むしろ、神様は、私たちが周りの人々に対して祝福のパイプラインになるように望みます。

パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。(3-4)

神様が私たちを慰める目的の一つは、私たちが受けた慰めを周りの苦しんでいる人々に与えることです。

だからパウロはこう言いました。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(5)

ある意味、イエス様の苦しみは、私たちの人生に注がれました。もちろん私たちは自分の罪のために支払っていません。イエス様はその代価をもう支払いましたから。でも、私たちがイエス様のために苦しむときもあります。私たちは迫害されるときもあります。私たちは試練に直面するときもあります。

でもその苦しみや試練を通して、神様は自分の御国を拡げるし、私たちの性格を形成します。だからペテロはこう言いました。

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(第一ペテロ1:7)

だから、イエス様の苦しみは私たちの人生に注がれるかもしれないけど、イエス様の慰めも私たちの人生に注がれます。さらに、その慰めは私たちの人生からほかの人に溢れ出し始めます。

神様はただ私たちを慰めで満たしたいと思いません。むしろ、神様は、その慰めが、私たちの人生から周りの苦しんでいる人々に溢れ出すように望みます。

残念なことですけど、多くの人は、神様からの愛と慰めを吸収するけど、周りの人々のニーズを決して見ません。でも、私たちが見回してみると、私たちと同じような苦しみを経験している人を見つけます。そして、神様は、私たちが自分の経験を彼らに教えて、希望を与えるように望みます。私たちは彼らにこう言えます。「私には分かります。私も同じ経験をしました。神様はきっとあなたを助けてくださいます。」

そして、私たちは神様の愛と慰めを彼らの人生に注ぎます。

あなたはどうですか。あなたはただのスポンジですか。あなたは神様の愛を吸収しているばかりでしょうか。もしくは、あなたは周りの人々に対する神様の祝福のパイプラインでしょうか。

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コリント人への手紙第二1:1-10ーー試練の中の慰め

これは、聖書の中で、私は最も好きな個所の一つです。パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(3-5)

私たちの試練と苦しみの時、私たちは、神様が私たちのことを愛しているかどうか疑問に思うことがあります。でも、パウロによれば、神様は「あわれみ深い父」です。

要するに、私たちのトラブルを見ると、神様は無関心ではありません。むしろ、神様は憐れみに満ちる心をもって、私たちのことを考えます。

イエス様は、苦しんでいるイスラエル人たちを見たとき、そんな心を持っていました。何回も福音書の著者たちは「イエスは深くあわれみ。。。」と書きました。その点では、イエス様は天の父の性格を完全に反映しました。

でも、パウロはもう一つのことを言いました。パウロによれば、神様は「あらゆる慰めに満ちた神」です。神様は私たちに対する憐れみを感じるだけではなく、御手を伸ばして私たちに触れてくださいます。

ある日、ツァラアトのある人はイエス様のもとに来ました。(マタイ8)

イエス様は深く憐れみ、手を伸ばしてその人に触れました。たぶんその人は何年も人に触れられていなかったでしょう。なぜなら、周りの人々はその病気にかかりたくないと思ったから。でもイエス様が触れたことによって、その人は慰められたし、癒されました。

そして、パウロによれば、私たちの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれています。(5)

パウロは自分の経験によって話しました。彼は自分の力で耐えられない痛烈な苦しみを経験しました。

私たちはよく聞きます。「神様は私たちに耐えられない試練を許しません。」

ある程度まで、その言葉は正しいけど、実は、その言葉は不完全です。神様は私たちが自分の力で耐えられない試練を許します。私たちは「耐えられないほどの圧迫を受ける」ときもあるかもしれません。私たちは「生きる望みさえ失うほどの圧迫を受けるかもしれません。」(8)

どうして、神様はそんな試練を許すでしょうか。

パウロは説明します。

それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(9)

要するに、私たちが自分の力でこの人生を送ることが出来ないことを学ぶように、神様はこんな試練を許すことです。でも、私たちは神様に頼るなら、神様が死者をよみがえらせるほどに力強い方と分かるようになります。そして、神様は自分の恵みによって、私たちを絶望の落とし穴から引き揚げて、新しい希望と命を与えてくださいます。

神様はパウロにこう言いました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(第二コリント12:9)

だから、私たちはその試練を通過して、振り返ると、神様が私たちと共におられていたことが分かります。だから未来の試練に直面すると、私たちは、その同じ神が私たちをもう一度救ってくださる希望を持つことが出来ます。パウロはそう学んで、確信を持って、こう言いました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうですか。果てしのない試練に直面しているのでしょうか。あなたはもう耐えられないと思うでしょうか。神様があなたを愛して、あなたを見捨てないことを覚えていてください。だから自分の力に頼らず、神様の力に頼ってください。そうすれば、神様の恵みによって、あなたはその試練を通過します。

 

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コリント人への手紙第一16:22-23ーー主よ、来てください

この世とその悪を見ると、失望するのは簡単なことです。でもクリスチャンとして、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。

パウロはこう書きました。

主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(22-23)

その最初の言葉はちょっと厳しいですけど、その言葉は現実です。主を愛さない人は、呪われている。彼らは神様の律法に違反したし、救いの方法、つまり、イエス様を拒絶しました。イエス様を呪うことさえする人もいます。(第一コリント12:3)

でもイエス様を愛している私たちのために、イエス様は呪われました。パウロはこう書きました。

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)

イエス様は十字架で、私たちの罪の代価を支払って、律法の要求を満たしました。でもそれだけではなく、イエス様は復活して、死を破りました。

イエス様は生きておられるので、私たちも永遠に生き続ける確信を持っています。(ヨハネ14:12)

イエス様がこの世に来る日、私たちはたちまちキリストに似た者となります。すべての涙は私たちの目からぬぐい取られます。また、すべての悲しみはなくなります。

だから、パウロのように私たち皆は、「マラナタ」、つまり、「イエス様、来てください」と叫びます。

でも、私たちはもう一つの希望を持っています。それは、イエス様が来る日まで、イエス様は私たちに恵みを与えてくださることです。私たちが罪を犯しても、失敗しても、毎日イエス様は私たちのためにとりなしてくださいます。試練に直面するとき、イエス様は私たちに力を与えてくださいます。そしてイエス様は、私たちの間で良い働きを始めたことを完成させてくださいます。(ピリピ1:6)

だからあなたがどんな状況でも、希望を失わないでください。むしろ毎日、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいましょう。イエス様にあって、私たちは希望と命を持っているから。

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コリント人への手紙第一16:13-14--男らしくふるまること

新改訳2017を見ると、あなたは気づかないかもしれないけど、パウロはもちろんコリント人たちの皆に話しているけど、たぶん、特に男性たちに話していると思います。

彼はこう言いました。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。(13-14)

以前の新改訳はその箇所をより文字通りに翻訳しました。

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。(13)

その言葉は、ソロモンに対するダビデの言葉に似ています。

私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。(列王記第一2:2)

「男らしくありなさい」とは、新改訳2017の通りに、「雄々しくありなさい」という意味です。でも多分、パウロは13-14節のことを全部含めているでしょう。

1.目を覚ましていなさい。どうして私たちはそうするべきでしょうか。なぜなら、サタンと悪霊は私たちを攻撃したいから。また、私たちを迫害しようと思う人もいます。さらに、教会では悪いことを教える人も現れます。私たちは霊的な戦いに入っています。教会の中でも外でも、私たちは敵と向き合います。そういうわけで、私たちは目を覚まさなくてはいけません。

2.堅く信仰に立ちなさい。嵐が来るとき、試練やトラブルが来るとき、あなたの信仰が揺るがないように。躓かないように。むしろ、堅く立ちなさい。

3.強くありなさい。自分の力に頼らず、主の力に頼りなさい。そして、敵と向き合う時、神様があなたと共におられることを覚えていて、雄々しくありなさい。

4.一切のことを、愛をもって行いなさい。自分の傲慢やプライドをもって、行ってはいけません。勢力や尊敬を得るためではなく、むしろ、愛をもって行いなさい。

女性たちもそのようにふるまうべきでしょうか。もちろんそうです。でも男性たちは、男らしくふるまいたいと思うなら、私たちはそんな生活を送らなくてはいけません。

男性たち。あなたは男性らしくふるまっているでしょうか。

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コリント人への手紙第一16:15-18ーー周りの人達の心を安らがせること

人々に仕えることについて考えると、私は普通に、神様からの仕事を果たすことだけについて考えます。もちろんそれは大切です。パウロはこう書きました。

兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。ご存じのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。あなたがたも、このような人たちに、また、ともに働き、労苦しているすべての人たちに従いなさい。(15-16)

パウロはステファナとその家族の奉仕を認めました。そして、パウロはコリント人たちがそのような人に従うべきと言いました。なぜなら、ステファナたちは奉仕するだけではなく、その仕事するのに苦労していましたから。

奉仕はとても大変な仕事です。もちろん、その仕事を果たすのに、神様は私たちに霊的な賜物を与えてくださいます。それでも、その仕事をちゃんとするために、私たちは時間と努力を込めなくてはなりません。ステファナはそんな人でした。

でもパウロは続けました。

ステファナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。彼らは、私の心とあなたがたの心を安らがせてくれました。このような人たちを尊びなさい。(17-18)

どれぐらい私たちは相手の心を安らがせる大切さを考えるでしょうか。

あるクリスチャンたちは勤勉に奉仕します。彼らはその仕事がうまくできるかもしれません。

でも彼らの所から立ち去ると、ほかの人々は安がらせられなく、逆に疲れてしまいます。どうしてでしょうか。その主の仕事をしている人は、傲慢で短気だし、いつも相手を批判したり、見下したりするから。

でもステファナたちはそのような人ではありませんでした。ステファナたちの所から立ち去る人たちはいつも安がらせられました。私たちはステファナたちのような人々になるべきです。

あなたはどうですか。ほかの人々はあなたをどう思うでしょうか。あなたに会った後、彼らは疲れたでしょうか。あなたの態度のせいで、彼らはあなたを避けたいと思うでしょうか。もしくは、彼らはあなたに魅了されているでしょうか。あなたの素敵な奉仕のためではなく、あなたはいつも彼らを安がらせるから。

神様の愛が私たちを通して流れて人々を安らがせるように。

ソロモンはこう書きました。

おおらかな人は豊かにされ、 他人を潤す人は自分も潤される。(震源11:25)

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コリント人への手紙第一16:1-4--献金をあげるとき

教会を訪れたとき、パウロは、しばしばエルサレムの貧しいクリスチャンたちのために献金を集めました。

その献金に関するパウロの指示では、私たちは献金を捧げるいくつかの原則を見ることが出きます。

一つ目は、自分の収入に応じて捧げることです。あなたよりお金を儲ける人と同じ金額を与える必要はありません。神様はあなたの収入や、どれぐらい与えることが出来るかご存じです。神様にとって、大切なのは金額ではなく、あなたの心です。(ルカ21:1-4)

二つ目は、意図的に与えることです。それはどういう意味でしょうか。

要するに、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心から与えるべきです。(第二コリント9:7)

また、最初から、どれぐらい与えたいと思うか決めるべきです。言い換えると、自分の予算には献金のカテゴリーを入れるべきです。

このように思わないでください。「私がほかの費用を支払った後、もし残り物があれば、その残り物の部分を与えましょう。」

むしろ予算を作るとき、どれぐらい献金するかを決めてください。そして必要があれば、自分が決めた献金を捧げるため、ほかの費用を減らしてください。

パウロの言葉で、私たちはその原則を見ることが出来ます。

私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。(2)

でも、あなたの教会がちゃんと財務的な説明責任を持つことを確認してください。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。(3-4)

パウロの意図は、お金に関して説明責任があったし、お金を扱う人は頼もしい人だったことです。

神様は私たちにお金を託しました。だからお金をそのように思って、お金の使い方を通して神様に栄光を与えましょう。

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コリント人への手紙第一15:58ーー私たちは希望を持っているから

「私たちの人生は楽だ」と主張する人など誰もいません。

パウロはそう主張しませんでした。彼は石打ちされたり、迫害されたり、禁固されたり、海を漂流たりしたことがありました。

どうしてそんな試練に直面したのに、パウロは頑張ることが出来たでしょうか。なぜなら、パウロは希望を持っていましたから。

パウロはコリント人たちにこう言いました。

死者が決してよみがえらないのなら。。。なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(29-32)

でも復活があります。ある日、私たちが復活すると、新しい体が朽ちないもの、また、死なないものになります。だからパウロは私たちを励まします。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(58)

この世には、私たたちがいろんなことに動揺するのは簡単でしょう。私たちのトラブルや、試練や、心配に動揺してしまいます。だから私たちは、クリスチャンとして生活し続ける甲斐がないと思うかもしれません。また、主に仕え続ける甲斐がないと思うかもしれません。

でも、パウロは、私たちが人生の嵐に動揺しないように促します。むしろ、パウロは、私たちが神様に従い続けるように促します。どうしてでしょうか。

なぜなら、結局、私たちの努力に甲斐があったと分かるから。そして、ある日、私たちがイエス様のもとに来ると、イエス様は微笑んで私たちに「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言います。

イエス様のみ顔を見ると、私たちの試練やトラブルが「軽い患難」だと分かります。また、私たちの「重い永遠の栄光」と比べると、そのトラブルは何でもないものだと分かります。

私は、リビングバイブルが詩篇17:15の訳が好きです。

私は天で目覚めるとき、
この上ない満足感にひたるでしょう。
神の御顔をじかに見るからです。

だから失望するとき、トラブルのゆえに気が重い時、この歌の歌詞を覚えていてください。

Turn your eyes upon Jesus.
あなたの目をイエス様に向けてください。
Look full in his wonderful face.
イエス様の素晴らしい顔を見つめてください。
And the things of earth will grow strangely dim in the light of his glory and grace.
そうすると、この世のものは、イエス様の栄光と光にかすかなものに見えます。

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コリント人への手紙第一15:51-57--最終の勝利

私はこの個所が大好きです。この個所を覚えていた方がいいと思うけど、まだできていません。

これはパウロの勝利の叫びです。

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(54)

もしかしたら、パウロは預言者イザヤの言葉を引用したのかもしれません。

(主は)永久に死を吞み込まれる。(イザヤ書25:8)

そしてパウロは叫びました。

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(55)

パウロは興味深い個所を引用しました。その言葉はホセア書13:14からです。この個所を翻訳するのはちょっと難しいです。新改訳はある英語の聖書と同じく、その個所をこのように翻訳します。「私はよみの力から彼ら(つまり、イスラエル人たち)を贖い出し、死から贖う。」

でも、ある英語の聖書では、別の翻訳と解釈があります。それは、「わたしは、よにの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖うでしょうか。そうしません。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。私たちの民を殺せ。よみよ。お前の針はどこにあるのか。私たちの民を刺せ。」

つまり、神様はイスラエル人たちを自分の罪のために裁いていたことです。彼らは神様に不忠実だったので、彼らは裁かれました。

でもパウロはこう言っています。「神様はその言葉を通して、人々を自分の罪のために裁いたけど、今や、神様はその同じ言葉を用いて、人々を支配していた罪と死に対する勝利を宣言します。」

パウロは続けます。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(56)

とげというのは、バラのとげのようではなく、蜂の針や、サソリの針のようなものです。また、突き棒という意味もあります。だから罪は、サソリの毒を持つ針のように私たちを刺して、その結果は死でした。また、突き棒のように、罪は私たちを破壊に突きました。

パウロによれば、罪の力は神様の律法です。なぜなら、私たちはその律法を完全に守ることができませんでしたから。私たちは律法を知っていたけど、私たちの罪深い心のゆえにその律法を破って、罪を犯しました。だから私たちは神様の裁きを受けるべきでした。(ローマ書7章)

でもイエス様はこの世に来た時、私たちの代わりに律法を完全に守りました。それだけではなく、十字架でイエス様は私たちの罪のために死んでくださいました。だから私たちはもはや律法の管轄したにありません。むしろ、私たちは恵みの管轄下にあります。そういうわけで、律法は私たちに対する力を持っていません。そして、律法が私たちに対する力を持っていないなら、罪も私たちに対する力を持っていません。

簡単に言うと、罪のとげは取り除かれました。

だから、パウロは喜びを持って宣言します。

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(57)

では、私たちには、どんな意味合いがあるでしょうか。私たちは神様の裁きをもう恐れる必要がないので、死をもう恐れなくていいのです。神様は私たちを呪おうと思いません。むしろ、ある日、神様は私たちに新しいからだを与えるので、私たちは永遠に神様に栄光を与えることができます。また永遠に私たちが受けた恵みを喜ぶことができます。

あなたはどうですか。死を恐れるでしょうか。もしくは、あなたはパウロと共にこう歌うことができるでしょうか。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

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コリント人への手紙第一15:35-55--私たちがイエス様をぼんやりと反映するけど

私はこの個所を思案すればするほど、私たちがどんなものになるかに感動します。

私たちの体は朽ちないものになります。また、死なないものになります。私たちの体は病気にならないし、怪我しません。

さらに、パウロはこう言いました。

私たちは、土で造られた人(アダム)のかたちを持っていたように、天に属する方(イエス様)のかたちも持つことになるのです。(49)

パウロによれば、私たちの新しい体はイエス様のかたちを持つことになります。そして、イエス様が神様のかたちであるので(コロサイ1:15)、今よりも私たちは神様のかたちを持つことになります。

アダムの子孫として、私たち皆はアダムの欠点を持っています。嫉妬。欺瞞。苦々しい思い。怒り。憎み。罪。それらのものによって、私たちにある神様の似姿はゆがんでいます。だから、私たちが今持っている体は、神様をぼんやりと反映します。でも新しい体を受けると、私たちは天使よりも、神様の似姿をさらに反映します。

だからヨハネはこう言いました。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

でも、私たちの持っている体を軽蔑しないでください。

パウロはこう書きました。

また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。(40-41)

つまり、神様が造ったものは、それぞれの輝きを持っていることです。

私たちの体は、不完全なものでも、朽ちるべきものでも、自分の輝きを持っています。

目のことをちょっと考えてみてください。いろんな部分は一緒に働いているので、私たちは見ることが出来ます。

私たちの耳も素敵なデザインをもっているので、私たちは聞くことが出来ます。

どのように私の脳が私の指と働くかを考えてみてください。私は何かを考える瞬間、私の指はキーボードを打ちます。

私たちはそんなことが当然なことだと思うけど、実はそれはとても不思議なことです。

もちろん、私たちの体は不完全なものです。でも、私たちを変えるのに、神様は私たちが新しい体を受ける日まで待っていません。

むしろ、パウロはこう言います。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリント3:18)

だから、私たちの将来の体だけを喜ばないでください。今の体の輝きをも考えてください。今でも、ぼんやりと反映しても、私たちの体は神様の栄光を反映します。だから周りの人々にその栄光を反映するように努めましょう。

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コリント人への手紙第一15:35-55--私たちは何になるか

数年前、私は60代の生徒たちと、新聞の記事について話しました。研究者によれば、60ー65歳は、現代の中年になってきました。なぜなら、人間の寿命は増えていますから。

私は、彼らが何歳まで生き続けたいと思うか訊きました。彼らは75ー80歳までだと答えました。私はその意見が理解できます。その年ごろ、私たちの健康は本当に悪くなり始めます。それを特に経験したくないと思います。

それよりも、神様が与えてくださる新しい体を持ちたいと思います。この個所では、パウロはその体について話します。

あるコリント人のクリスチャンたちはパウロに訊きました。「私たちは復活すると、どんな体を持つのでしょうか。」

パウロは、私たちの現在の体を蒔かれた種に例えます。その蒔かれた種は、成長した木と全然違います。

そのように、私たちの埋められた死体は、私たちの新しい体と全然違います。その新しい体はどのように違うでしょうか。

パウロは説明します。

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(42-44)

私たちの現在の体は年を取りつつあり、結局死にます。でも、私たちの新しい体は決して死にません。私たちが死んだ後、死体は埋められて、腐敗します。でも、新しい体は栄光あるものによみがえらされます。私の現在の体は病気になったり、結局弱くなったりするけど、私たちの新しい体は健やかで、決して病気にならないし、弱くなりません。

私の父のことを考えます。彼は8年前に亡くなりました。事故のせいで、彼は失明しました。最後の数ヶ月は、彼はほとんど歩くことができませんでした。彼は糖尿病があったし、心臓も弱かったのです。最後の数日、彼は話すこともできませんでした。彼ができることは、ただベッドに寝ることだけでした。

父の状態を見るのは苦しいものでした。でも今、父はその弱い体から解放されました。そしてイエス様がこの世に戻ると、最後のラッパの響きのうちに、私の父は新しい体を得て、空中でイエス様と会います。その日、私も新しい体を得て、イエス様と私の父と会います。この世のすべては新しくなって、皆がこの歌を歌います。

死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)

その日を待ちきれません。

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コリント人への手紙第一15:1-34ーーイエス様の復活の大切さ

英会話の学校で教えた時、ある日、私は隣の教室の会話を耳にしました。ある先生とその生徒たちはイースターについて話しました。

生徒:「イースター」とは、何ですか。

先生:クリスチャンたちは、その日にイエス・キリストが復活したことを信じています。

生徒:(しーん)

もしかしたら、生徒たちは先生にぽかんと見たので、先生は続けました。「私はそれを信じていません。クリスチャンたちはそう信じています。」

私は子供の時からクリスチャンなので、イエス様の復活を当然なことだと思います。でも考えてみれば、それは本当に不思議な教会の教えです。また、それは本当に信じ難いことです。

もしかしたら、あなたはこう訊くかもしれません。「クリスチャンたちにとって、イエス様の復活を信じるのは、そんなに大切なのでしょうか。人々にイエス様の教えや、十字架の働きだけを伝えてもいいんじゃないですか。」

コリント人たちのクリスチャンたちも同じ疑問を訊きました。実は、あるコリント人たちはイエス様の復活を否定し始めたようです。

だから、パウロは復活の真実さを激しく議論しました。彼はこう言いました。

ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。(14)

どうしてパウロはそう言ったのでしょうか。なぜ、イエス様がよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教と信仰が空しいものとなるでしょうか。パウロは説明します。

そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。(17-18)

どうしてイエス様の復活はそんなに大切なのでしょうか。イエス様の復活を通して、神様はイエス様の十字架の働きを受け入れたことを証明しました。その復活を通して、神様は私たちに言います。「イエスの十字架の働きによって、あなたは赦されました。」

でも、イエス様がまだ死んでいるとしたら、神様がイエス様の十字架の働きを受け入れていないことを意味します。私たちが死ぬと、地獄に行きます。それなら、「私たちはすべての人の中で一番哀れなものです。」(19)

なぜなら、私たちが救われたと思うけど、地獄に行ってしまうから。私たちの希望はむなしいものになるのです。

さらに、パウロや、ほかのクリスチャンたちはイエス様のために迫害されて、苦しんでいたけど、イエス様がよみがえられなかったとしたら、その苦しみはむなしいものです。彼らは神様から報いを得られません。(32)

だから、私たちは自分自身のために生きた方がいいでしょう。そこでパウロはこう言いました。

もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(32)

でもイエス様は実際に蘇られました。神様はイエス様の十字架の働きを受け入れました。だから、イエス様を信じると、私たちもいつかイエス様と共に復活します。さらに、イエス様がこの世に戻り、すべてを新しくする希望を持っています。イエス様がすべての人を治めて、死をも治めます。(20-27)

だからこの世ではイエス様のために苦しんでも、死んでも、私たちは報いをくださる確信を持っています。

どうして、復活はそんなに大切なんでしょうか。なぜなら、復活は私たちの希望の基礎です。復活がないとしたら、私たちは希望を持っていません。でも、復活によって、私たちは人に奪われない希望と喜びを持っています。

あなたはそんな希望を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一15:8-10ーー無駄な恵みではない

あなたは自分自身をどんな人物と思いますか。

パウロはどのように自分自身を見なしたか、とても興味深いです。彼はクリスチャンになると、自分の名前を「サウロ」から「パウロ」に変えました。パウロとは、「小さい」という意味です。

彼は「へブル人の中のへブル人」でした。彼はかつてパリサイ人でした。クリスチャンになる前、彼らは自分の立場と履歴を誇りました。でもイエス様に出会うと、彼は謙遜になりました。彼は神様に仕えていたと思ったけど、実は、彼は神様を迫害していたことが分かるようになりました。パウロは、自分が正しい人ではなく、むしろ殺人者であることが分かりました。

この個所では、パウロは自分自身を「月足らずで生まれた者のような人」と呼びました。つまり、彼は死産児のようでした。

彼の過去のゆえに、パウロは自分自身を「使徒の中では最も小さい者」と呼びました。また、「私は使徒と呼ばれるに値しない者」だと言いました。

あなたは、自分自身について同じような意見を持っているかもしれません。あなたは、自分自身を取るに足りない人と見なすかもしれません。あなたが生まれなければ良かったのに、と思うかもしれません。

でもパウロは続けました。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず。。。(10)

パウロが意味したものは何でしょうか。

パウロの過去にもかかわらず、神様は彼を受け入れたし、神様の恵みによって彼は変わりつつあることです。神様はパウロのことを決してあきらめませんでした。

私たちはその真理を覚えていなくてはなりません。あなたの過去にもかかわらず、また、あなたの現在の状態にもかかわらず、神様はあなたをありのままで受け入れます。あなたの罪と失敗にも関わらず、神様はあなたを受け入れます。それに、神様はあなたを罪深い状態に放置しません。むしろ、神様はあなたの罪を清め、神様の計画に応じて、あなたを形成し続けます。

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。感謝と謙遜をもって反応するべきです。

パウロはこう書きました。

私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。(10)

パウロの感謝のゆえに、彼は心を尽くして神様に仕えたいと思いました。それでも、パウロは自分の業績を自慢しませんでした。パウロは、神様がパウロを用いることを選ぶことがパウロに対する恵みと分かりました。神様には、パウロを用いる必要がありませんでした。パウロは汚く、壊れた器だったけど、神様は自分の栄光のために彼を用いました。

あなたはどうですか。自分自身をどのように見なすでしょうか。パウロはのように、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず」と言えるでしょうか。

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コリント人への手紙第一15:1-11--一番大切なこと

この個所がこの手紙の最も大切なところだと思います。なぜなら、この言葉は私たちの信仰の基礎ですから。パウロはこう書きました。

兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。。。とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。(1-5,11)

福音は何でしょうか。

1.イエス様が私たちの罪のために死んだことです。

2.イエス様が葬られたことです。

3.イエス様が三日目に蘇られたことです。

そして、その出来事は、神様の預言者の言葉に応じて起こりました。特に、イザヤ書53章で、その預言を見ることが出来るけど、ほかの個所でも、いろんなイエス様に関する預言を見ることが出来ます。

パウロにとって、そのメッセージは最も大切なメッセージでした。どうしてでしょうか。

あなたが。。。この福音によって救われます。(2)

もし、人が、自分の罪から救われて、永遠の命を持ちたいと思うなら、その三つのことを信じなくてはなりません。ほかの方法は一切ないのです。

もし私たちの良い行動によって私たちが救われたら、パウロにとっては、神様の律法が最も大切なことだったでしょう。

もし永遠の命がないなら、パウロにとっては、最も大切なことが私たちがどのようにこの人生を送るかということだったでしょう。

でも永遠の命はあります。そして、永遠への道はイエス様の十字架です。天の父はイエス様の十字架の働きを受け入れました。その証拠に、神様はイエス様を復活させました。

だから、パウロはその真理が一番大切なことだと思いました。パウロはどこに行っても、だれと話しても、そのメッセージを伝えました。

あなたはどうですか。あなたにとっては、福音は一番大切なことでしょうか。周りの人々にその福音を伝えるほどに、福音を大切にするでしょうか。福音を本当に信じるなら、私たちは周りの人々にそのメッセージを伝えるはずです。

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コリント人への手紙第一14:26-40--教会を成長させること

この個所では、パウロはどのように教会の礼拝をおこなうべきか教えます。パウロにとって大切なのは、コリント人たち(また、私たち)が、教会の礼拝を秩序正しく行うことです。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。(27-28)

どうして異言するとき、解き明かす人が必要だったでしょうか。なぜなら、そんな人がいないと、その異言はクリスチャンたちを成長させないから。

また、パウロは預言に関して、こう言いました。

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。(29)

彼らはどのように預言を吟味したでしょうか。三つの方法があります。

一つ目は、聖書です。神様は決して自分の言葉に反対しないので、預言が聖書に反対するなら、その言葉は神様からではありません。

二つ目は、聖霊様が人々の心にその預言が神様からであることを確認することです。

三つ目は、その預言が将来についての言葉であれば、その言葉が成就するかどうか見て見ることです。

そして、異言するときのように、預言するとき、人々は順番に話すべきです。もしたくさんの人が同時に預言しようとするなら、混乱に陥るから。

そして、パウロはちょっと奇妙なことを言いました。

女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。(34)

その個所に関して、いろんな解釈があるけど、パウロは、すべての女性たちが教会で全く沈黙してなくてはいけないと言ったわけではありません。なぜなら、11章では、パウロは、女性たちが祈ったり、預言したりすることについて話しますから。また、女性が黙る指示を説明するとき、パウロは説教に関する女性たちの質問について話します。

現代では、教会で牧師が説教するとき、皆は静かに聞きます。でも、たぶん、コリント人たちの女性たちはそうしなかったでしょう。ある聖書学者たちは、ユダヤ人の会堂の礼拝のように、コリント人たちの女性たちと男性たちは違うところに座ったと考えています。だから、女性たちがご主人に何かを聞きたいと思ったら、大きな声で質問しなければなりませんでした。でもそうすると、教会の礼拝の邪魔になりました。

その説が正しいかどうかわかりませんけど、女性たちは教会の礼拝の邪魔になったらしいので、パウロはこう言いました。

もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。(35)

でもパウロは決して、女性たちが預言することとか、祈ることを禁止しません。

むしろ、パウロはこう言いました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(26)

つまり、教会の皆は教会を成長させるものを持っていくべきということです。

では、私たちはこの個所からの何を学ぶことが出来るでしょうか。

コリント人たちの教会では、訳されない異言で話したので、教会の礼拝の邪魔になりました。

ほかの人々は順番に話していなかったので、教会で混乱を起こしました。

説教の時、ある人は大きな声で質問したので、その説教の邪魔になりました。

その結果は?彼らは教会の成長を阻止しました。

あなたはそんなことをしないかもしれないけど、あなたは違う方法で教会の成長を阻止するでしょうか。

人の問題のために祈らず、その問題について噂を触れ回るでしょうか。

人々を励ませずに、批判するでしょうか。

自分の役割を守るため、あなたと同じ賜物を持っている人を助けることを拒むでしょうか。

あなたの行動によって、教会の聖書の教えを阻止しているでしょうか。

または、怠惰な態度のため、または、消極的な態度のため、あなたは教会を成長させないでしょうか。

もしかしたら、あなたは教会を成長させているでしょうか。

私は教会を成長させたいと思います。

あなたはどうですか。

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コリント人への手紙第一14:26--人に与えることができるものを教会に持っていくこと

教会をやめるとき、多くの人々はこの言い訳を言います。「私はその教会から益を何ももらいませんでした。」

つまり、彼らはエンターテインメントを期待したり、いつも教会のメンバーたちから世話してくれることを予想したりしたけど、その期待は満たされなかったのです。だから、教会に行く興味がなくなりました。

でもそれは自分勝手な考え方です。私たちはクリスチャンとしてそのように考えてはいけません。

パウロはこう言いました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(26)

パウロによれば、教会に来るとき、私たちはいつも「頂戴、頂戴、頂戴」という態度を持っていてはいけません。むしろ、私たちは、「私は人に何を与えることが出来るだろうか。私はどのように人を励まして強めることが出来るだろうか。」と考えるべきです。

パウロは、牧師たちだけがそのように考えるべきだと言いません。むしろ、パウロは、皆が何かを教会に持って、周りの兄弟たちと姉妹たちに与えるべきだと言いました。一番成熟したクリスチャンでも、洗礼を受けたばかりクリスチャンでも、「私はどうやって人々を祝福することが出来るだろうか」と考えるべきです。

若いクリスチャンでも、自分に感動させた聖書の個所をシェアすることが出来ます。子供でも、イエス様についての歌を歌えます。

ある日曜日、教会から帰るとき、私の娘は日曜学校で学んだ歌を歌いました。「神様はどこですか。神様はここにおられます。あなたがどこに行っても、神様はあなたと共におられます。」

だから、「今日、教会から何の益を得るのだろうか」と考え、自己中心的な態度をもって教会に行かないでください。

むしろ、どうやって人を励まして、強めることが出来るか考えてください。

また、愛と善行を促すために互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ、励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(へブル10:24-25)

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コリント人への手紙第一14:7-11--はっきりと話すこと

この異言と預言に関するパウロの話の中で、牧師に対しても、教会に座っている人に対しても、大切な真理があります。

パウロはこう言いました。

笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分るでしょうか。また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。(7-11)

パウロの要点は、教会の礼拝では、訳していない異言には、価値がないことです。

でも、時々牧師たちは、神様の真理を教会の人たちに伝えようと思うよりも、自分の聖書的な知識を披露しようと思っているように見えます。彼らはいろんな神学的な言葉を使うけど、その言葉を分かる人がほとんどいません。だから、そのメッセージの後、人々はこのように反応します。「そのメッセージはすごいものでした。本当に深く、霊的なメッセージに聞こえていました。でも、牧師が一体何を言いたかったのかさっぱり分かりません。」

私はそんな神学についての本を読んだことがあります。もちろん、それは学問的な本だし、その著者は読者たちが一般人よりも知識を持っていることを前提にします。それでも、私にとって、その本が分かりにくくて、あきらめました。

でも、時々、私たちは福音を伝えるとき、私たちは「クリスチャン語」を使います。例えば、私たちは「贖い」とか、「イエス様の血によって救われる」とか、「聖化」とか、「義と認められる」という言葉を使います。でも、相手がそれを聞いても、その言葉がわからないでしょう。

「罪」という言葉もちゃんと説明しなくてはなりません。「すべての人は罪を犯す」と言うと、相手が、「え?私には全然犯罪を犯したことがない」と思うかもしれません。

だから福音を伝えるとき、私たちの言葉使いに注意するべきです。私たちが理解しやい言葉を使わないと、相手がその言葉が分からないので、私たちの努力は無駄になります。彼らにとっては、私たちは外国語を喋るように聞こえます。

そうしないでください。むしろ、福音を簡単にはっきりと説明しましょう。

また、もし聖書を教える立場を持っているなら、人々をあなたの知識で感動させようとしないでください。むしろ、彼らが把握することが出来る言葉を使いましょう。そうすれば、神様は彼らの心に働くことが出来ます。

パウロの模範に従いましょう。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(第一コリント2:1-5)

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コリント人への手紙第一14:20-25--私たちの賜物を理解すること

この個所を解釈するのは、かなり難しいです。私はいろんな解釈を聞いたので、その個所が分かると思うけど、私の解釈が正しいかどうかわかりません。もしかしたら、将来私の意見は変わるかもしれません。

前回の記事で私は言いましたが、パウロは異言と預言の違いを説明し、どうして教会で預言の方が大事か教えます。

パウロは最初にこう言いました。

兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。(20)

コリント人たちはどのように幼い子のようにふるまったでしょうか。彼らにとっては、霊的な賜物、特に異言は、新しいおもちゃのようでした。彼らはその賜物を用いたけど、周りの人々に対する影響を全然考えませんでした。むしろ、彼らはただその賜物を使うことを楽しみました。

もしかしたら、彼らはその霊的な益を感じたかもしれません。(4)

または、彼らはノン・クリスチャンの前に自分の賜物を披露したいと思いました。

だからパウロは彼らに言いました。「悪事においては幼子でありなさい。でも霊的な賜物やほかの霊的なことに関して、大人のように考えなさい。自分自身だけについて考えてはいけません。周りのノン・クリスチャンについて考えて、特に、あなたの行動がどのように彼らに影響を与えるか考えなさい。」

コリント人たちはどのように考えていたでしょうか。もしかしたら、彼らはノン・クリスチャンに良い影響を与えていると思ったかもしれません。なぜなら、何年前にペンテコステの時、異言を通して、たくさんのノン・クリスチャンがクリスチャンになったから。

でもコリント人たちは大切なことを忘れてしまいました。そのペンテコステの日、エルサレムに来た外国人たちは、その異言を理解しました。使徒たちやほかのクリスチャンたちはその外国人たちの言葉で、神様の栄光を賛美したから。

でも、コリント人の礼拝では、参加するノン・クリスチャンたちはその異言が全然わかりませんでした。だから、彼らは感動せずに、むしろコリント人たちのクリスチャンたちの頭がおかしいと思いました。

だからパウロは彼らに言いました。「あなたたちは礼拝の時、異言でしゃべって、ノン・クリスチャンに感動させようと思うのかもしれないけれど、聖書の言葉を考えて見なさい。」

つまり、

「わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない」と主は言われる。(21)

この言葉は、イザヤ書28:11ー12から来ています。

その文脈は、イスラエル人たちは神様の言葉をちんぷんかんぷんと見なしました。だから、神様は彼らに言いました。「あなたは私の言葉がちんぷんかんぷんだと思うでしょうか。では、本当のちんぷんかんぷんを見せよう。あなたたちはほかの国に追放されれば、あなたにとっては、彼らの言葉はわけのわからないものになります。しかし、それでも、あなたたちは悔い改めないでしょう。」

パウロは神様の言葉を異言に当てはめます。「分からないのですか。訳されていない異言はノン・クリスチャンに対しては、もちろんしるしです。(22)

でも、そのしるしによって、彼らの改心のためではなく、彼らの裁きのためです。彼らが理解できる言葉を拒絶したので、神様の言葉は全部、彼らに対してちんぷんかんぷんになります。その結果は、彼らが悔い改めずに、逆に彼らの心はさらに頑なになることです。」

だからパウロは彼らにこう言いました。

ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。(23)

ペンテコステの日でも、異言が分からないユダヤ人たちはそう言いました。(使徒の働き2:13)

その反面、預言は信じるようになる人のためのしるしです。(22)

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。(24-25)

でも、私には認めなくてはならないことがあります。22節で、パウロは「信じるようになる人」と言わずに、「信じている人」と言います。でも、24ー25を見れば、パウロは将来に信じるようになる人について話しているようです。

では、私たちはこの個所から何を学ぶことが出来るでしょうか。コリント人たちは霊的な賜物とその目的が正しく理解できませんでした。だからパウロは彼らに警告しました。「あなたの賜物の使い方は、あなたの願いをもたらさず、逆効果をもたらすでしょう。」

あなたはどうですか。あなたの賜物が正しく分かるでしょうか。その賜物は誰のためか、何のためか覚えているでしょうか。その賜物を悪い方法で使うなら、あなたはその結果に驚くでしょう。

だから覚えていてください。その賜物は主に私たちの益のためではありません。むしろ、その賜物は神様の目的と栄光のためです。あなたはどのように自分の賜物を使っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一14:1-31ーー言葉を通して、人々を育て、勧め、慰め、教えること

正直に言うと、私は、この個所について話すとき、あまり自信がありません。

私は異言の賜物がまた続いていると思います。私はクリスチャンの友達から、彼らの経験を聞いて、その話を信じます。それでも、私はその賜物を持っていません。

また、ある牧師たちの意見と違って、私は預言がただの説教することだと思いません。私が預言について勉強した時、私の結論は、預言は説教する以上であるということです。パウロによれば、預言は、教会の人を育てるため、人に進めるため、人を慰めるため、また人を教えるためです。(3、31節)

もちろんいい説教はその4つの目的を果たします。でも、説教と預言には大きく違う点があります。いい説教は、聖書の勉強を要します。でも、ペテロによれば、預言は違うものです。ペテロは、預言者について話した時、こう言いました。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(第二ペテロ1:21)

そして第一コリント14章でば、パウロは聖書の勉強による説教ではなく、聖霊に動かされる人の言葉について話しているようです。

とにかく、この個所では、パウロは異言と預言を比較対象します。主な違いは、異言を語るとき、通訳がないと、しゃべっている人だけに対して益があることです。周りの人々には全然益がありません。

でも預言する人は、皆が理解できる言葉を伝えます。だから、パウロは、コリント人たちが異言を語るのを願っていたものの、彼らが預言をする方をより願っていました。

パウロはこう言いました。

異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。(5)

また、

同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。(12)

預言や異言についてそれ以上に話すことが出来るけど、一番印象が残ったことは、こうです。教会では、私たちが語る言葉は、微調整した道具であるべきです。その言葉を通して、私たちは人々を育て、勧め、慰め、教えるべきです。

それが、預言の目的です。でも、すべてのクリスチャンたちはそうするべきです。預言の賜物は人々に超自然な力をクリスチャンの言葉に加わります。でも、その賜物を持っていも、持っていなくても、周りの人々と話すとき、私たちはそんな言葉を語るべきです。

あなたはどうですか。あなたの言葉は、人々を育て、勧め、慰め、教えるでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一13:13ーー何が残るか

13章のパウロの最後の言葉は興味深いです。パウロは、私たちがイエス様の御顔を見ると、何の賜物がなくなるかについて話したばかりでした。でも、13節では、パウロは天国に残るものについて話します。彼はこう言いました。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

天国でも、信仰が残ることが興味深いことだと思います。なぜなら、私たちは神様の御顔を見るから。どうして私たちは信仰が必要でしょうか。もしかしたら、天にある信仰は、この世にある信仰と違うのかもしれません。

私たちがこの世にいる間、私たちの罪深い心のゆえに、私たちは神様を信じることに苦労します。私たちの心の一部は神様を信じるけど、一部は信じません。マルコ9章で、ある父は自分の心でそんな戦いがありました。私たちに神様が見ることが出来ないし、御声が聞こえないので、信じるのは難しいのです。

でも、私たちが天の父に会うと、天の父を信じやすくなります。神様の御顔と愛を見ると、私たちが神様を信じることは当然なことになります。私は今そんな信仰をもっていたらいいのにと思います。

天国では、希望があることも、ちょっと不思議だと思います。何を望むでしょうか。私たちはもう救われて、天国にいるのです。

でも天国にある希望も、世にある希望と違うと思います。私たちが天国で苦しんでいて、救いを望むというわけではありません。むしろ、私たちはもう喜びをもっているし、将来もさらに喜ぶという希望を持っています。なぜなら、私たちは神様が良い方だと信じますから。

でも、パウロによれば、その中で一番すぐれているのは愛です。なぜでしょうか。ちょっとわからないけど、もしかしたら、一つの理由は、希望と信仰は残るけど、ちょっと変わるからです。

今の信仰の大きい要素は、目が見えないものを信じることです。(へブル11:1)。でも、天国では私たちは神様の御顔を見ます。

そのように、希望の大きい要素は、目で見えないものを望むことです(ローマ8:24)。でもキリストを見ると、私たちの一番大きい希望は満たされます。キリストにあって与えられたものと比べると、私たちがまだ希望するものは取るに足りないものになります。

でも天国では、私たちの愛は完全になります。私たちの嫉妬や、プライドや、自己中心な態度を私たちの愛から清められて、私たちが今まで経験した愛よりも、その愛はもっと満ちた物、もっと清い物になります。

私はその日を待ちきれません。

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コリント人への手紙第一13:11--大人になるのに

11節で、パウロはこう言いました。

私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。(11)

この個所の文脈を見れば、パウロは天国の人生と地上の人生を比べているようです。つまり、天国に行くと、私たちは大人になるけど、地上にいる間、私たちはいろんな意味でまだ幼子です。だから、とりあえず私たちはいろんな霊的な松葉杖が必要です。

私たちに神様の言葉がもっとはっきりと聞こえるように、私たちは預言が必要です。どうやって祈ればいいか分からないとき、異言が必要です。私たちは神様のことをもっと理解したいと思うなら、限定された知識を持っている人間から学ばなくてはなりません。

でも天国では、その霊的な松葉杖は要らなくなります。なぜなら、私たちは神様の御顔を見るから。

それがパウロの主旨だと思います。

でももしかしたら、パウロは、コリント人たちが成長するように挑戦していたかもしれません。

3章では、パウロは彼らの幼い考え方を批判しました。(3:1-4)。

だから、この個所では、パウロは基本的にこう言っているのかもしれません。「もう成長しなくてはなりません。幼いクリスチャンの時、あなたはこの世のように考えました。でも、成熟したクリスチャンになる時間です。あなたのくだらない喧嘩を脇へ置きなさい。あなたの受けた賜物と祝福を誇らず、あなたの思いや行動に関して、成熟しなさい。

あなたはどうですか。あなたは幼子として考えるでしょうか。幼子として話すでしょうか。幼子としてふるまうでしょうか。もしかしたら、あなたの信仰は成熟しているでしょうか。

私たちが幼いクリスチャンとして生活することに満足しないように。むしろ、成長しましょう。

もちろん、どんなに成長しても、私たちは完全な人ではありません。天国にに着いてこそ、私たちはやっと完全になります。でも、それは成長しない言い訳にはなりません。

だから、成熟を目ざして進みましょう。また、キリストの恵みと知識において成長しましょう。(へブル6:1;第二ペテロ3:18)

 

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コリント人への手紙第一13:8-12--将来の片鱗

この個所を読むと、新しいことが私の心を打ちました。それは、私たちの霊的な賜物が天国の片鱗ということです。パウロはこう言いました。

愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。(8-10)

パウロが触れている賜物は、「不完全な賜物」です。たぶん、天国では、ある賜物は継続するでしょう。例えば、奉仕の賜物や、治める賜物や、音楽の賜物は継続するでしょう。

でも、預言はなくなります。なぜでしょうか。預言とは、基本的に神様の言葉を人に伝えることです。でも天国では、神様は直接に私たちに話します。

異言もなくなります。異言を通して、私たちは神様の御心に従って祈ることが出来ます。でも天国では、私たちは神様の御心を知っています。また、異言を通して、私たちは外国語で神様の栄光を伝えることが出来ます。でも、天国では、皆が神様を知っているし、私たちは完全に互いに分かり合います。

私の知識も不完全です。特に神様に関する私たちの知識は不完全です。でも、天国では、私たちは神様のみ顔を見ます。

この三つの賜物は天国の片鱗です。今、私たちには幾分神様の声が聞こえるけど、天国では、私たちにははっきり聞こえるようになります。

神様とのコミュニケーション、また、周りの人々とのコミュニケーションはある程度までできます。でも、天国では、私たちのコミュニケーションは完全になります。

私たちは今幾分神様を知っているけど、天国では、私たちは神様を完全に知るようになります。

言い換えると、

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。(12)

私たちがこの世に見ている物のすべては、天国からのぼんやり映るものです。でもイエス様のみ顔を見ると、私たちはイエス様を完全に知るようになります。また、私たちは、神様が元の私たちの人生の計画が分かるようになります。

だから私は希望を持っています。時々、この世界は惨めな所です。でも、この世は、ただ私たちの未来のぼんやり映るものです。

でも、この世は永遠にこのように続きません。

だから、私たちの霊的な賜物を見ると、また、周りの人々と被造物を見ると、それらのものはただぼんやり映る物であることを覚えていましょう。私たちには希望があります。それは、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

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コリント人への手紙第一13:1-8--自分自身に当てはめること

私は数えきれないほどこの個所を読んだことがあるけど、今回はこの個所を再認識しました。つまり、この言葉を違う方法で私の人生に当てはめてみました。

多分、あなたが聖書の言葉をあなたの人生に当てはめる大切さがわかると思います。私たちは聖書を小説や、時代遅れの道徳を教える本として、読んではいけません。むしろ、聖書をあなたに対する神様の言葉として読むべきです。

今日の個所を当てはめると、多くのクリスチャンたちは自分の名前を「愛」の代わりに入れます。例えば、「ブルースは寛容であり、ブルースは親切です。」

もちろん、それはいいことです。そうすれば、私たちの心を吟味して、自分がその愛の特徴を持っているかどうか考えます。

でも、今日この個所を読んだとき、違う方法で私の人生に当てはめようと思いました。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、妻に対する愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、娘に対する愛がないなら、私は無に等しいのです。(1-2)

「妻」と「娘」を入れて、私の人生について考えました。私は異言で話さないけど、私は教会でよく説教します。でも私が妻を愛さないなら、私はただ騒がしいどらや、うるさいシンバルです。もし私は聖書を精通し、力を持って神様の言葉を伝えられるけど、娘を愛さないなら、私は無に等しいのです。

だから私はこう思い始めました。「私はちゃんと妻と娘を愛しているのか。彼らに対して、私は寛容だろうか。私は親切だろうか。私は自分の利益を求めているでしょうか。私は苛立つだろうか。私は彼女らを信じるだろうか。彼女らの最善を望むだろうか。彼らのために私は耐え忍ぶだろうか。」

正直に言うと、私はいつもそのようにふるまいません。

もちろん、私はほかの人をその個所に入れることもできます。私はちゃんと同僚や、教会のメンバーたちを愛しているでしょうか。でも、とりあえず、私が妻との関係、また娘との関係を考えた方がいいとも思います。

あなたはどうですか。あなたはちゃんと家族を愛していますか。あなたはこの世界に素晴らしいことをしているかもしれません。また、教会で素晴らしいことをしているかもしれません。でも、自分の妻や、お子さんを愛さないなら、あなたは無に等しいのです。

あなたがこの記事を読むとき、神様はあなたにほかの名前を思い出させているでしょうか。あなたのご両親でしょうか。もしかしたら、ある嫌な同僚か教会のメンバーでしょうか。

もし神様があなたの心に話しているなら、私は、あなたが祈るように促します。あなたがその人をちゃんと愛するように祈ってください。どうやってその人を愛することができるか知るように祈ってください。

主よ。私はただの騒がしいどらや、うるさいシンバルになりたくありません。私はどうやって周りの人を愛するべきか教えてください。私の妻や娘をちゃんと愛するように助けてください。私はほかの人をも愛するように助けてください。私は良く失敗します。あなたのように愛したいと思います。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第一13:4-8--神様がどんな方であるか。私たちがどんなになるように努めるべきか。

この個所を読んだとき、興味深いことに気づきました。パウロの愛の描写は、コリント人たちの行動とかけ離れていました。

パウロによれば、愛は寛容であり、愛は親切です。また、愛は礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。

でも、聖餐式の後の晩餐で、金持ちは貧しい人たちの先に行って、良いものを食べ尽くしてしまいました。もし、残り物があれば、貧しい人たちはやっと食べることが出来ました。(11:17-34)

また、良心が傷つきやすい人を気にせずに、コリント人たちは自分の「権利」を利用して、その兄弟たちと姉妹たちを傷つけてしまいました。(8)

パウロによれば、愛はねたみません。また、愛は自慢せず、高慢になりません。

でもコリントの教会の中では、メンバーたちは自分がどのリーダーに従うかについて自慢して、そのことについて喧嘩しました(1章と3章)。

さらに、彼らは自分の持ち物を自慢して、そのことによって、パウロのことを見下したようです。(4章)

でも神様は、そのような方ではありません。私たちが何回失敗しても、神様は私たちに絶えず親切だし、寛容です。そして、神様は人間になったけど、それは私たちを支配する王としてではなく、私たちの罪のために死ぬしもべとして来ました。

イエス様は悪を見ると怒ったけど、真理を受け入れた人々を見ると喜びました。

そして今、イエス様の十字架の働きによって、天の父は、私たちがした悪を心に留めません。むしろ、神様は私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちのことを信じます。神様は私たちの最善を望みます。さらに、私たちに対する神様の愛は決して絶えることがありません。

私たちはそのような人になろうと努めるべきです。神様のように、私たちは、ほかの人々を愛し、扱うように努めるべきです。

正直に言うと、私はその基準を満たしません。でも、その愛を持っていなければ、私の人生はむなしいです。だから私は祈ります。「私が愛するように助けてください。」

主よ。私の妬みや、私の苦々しい思いのすべてを取り去ってください。私を清めて、私が金のように出て来るように。私があなたのようになるように。アーメン。

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コリント人への手紙第一12:31-13:3--私たちはどのように霊的な賜物を使うべきか

これは聖書の中で、最も有名な個所の一つです。この個所は愛についてですけど、パウロは特に結婚や恋愛関係について話しているのではありません。むしろ、パウロはそこまでの話をまとめています。つまり、私たちの賜物は、教会を分裂するためではなく、教会を成長させるためであることです。だから、この個所では、パウロは、私たちがどのように賜物を使うべきかを教えています。

パウロはその賜物の使い方を「はるかにまさる道」と呼びます。

彼はこう言いました。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(1-3)

簡単に言うと、私たちは世の中で最も素晴らしい賜物をもったり、自分自身を犠牲にしたり、すべての持ち物を貧しいものに与えたりすることが出来るけど、神様に対する愛、また、ほかの人々に対する愛を持っていないなら、それらは無意味です。

多くの人々は神様様とほかの人々に対する愛のためではなく、自分のプライドのために賜物を使ったり、自分自身を犠牲にします。彼らが求めるのは、人からの誉れです。

でもそのプライドによって、彼らは、ほかの人とその賜物に嫉妬します。または、彼らと同じ賜物を持っていない相手を見下します。

その結果は、偽善者に満ちた分裂した教会です。その賜物の使い方は、神様を喜ばせません。

私たちの賜物は相手に対する愛の表現であるはずです。愛を持っていないと、私たちの賜物の使い方は間違っています。

あなたはどうですか。どのように賜物を使っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一12:27-31--賜物を熱心に求めること

私たちがただ頼むと、神様はどれだけ与えてくださるでしょうか。

多くの場合、私たちは勝手な態度に注意したり、自分の動機を疑ったりするので、神様に頼むのを遠慮します。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん、私たちの動機を吟味するべきです。でも、私たちはためらわずに頼んでもいいです。もし私たちが頼んでいる途中で、神様が私たちの悪い動機を指摘するなら、もちろん私たちは悔い改めるべきです。

でも覚えていてください。神様は自分の子供たちに良いものを与えるのが好きな方です。だから、頼むとき、私たちは恥ずかしくならなくてもいいのです。

霊的な賜物をも、恥ずかしがらずに頼んでいいのです。だからパウロはこう言いました。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(31)

「より優れた賜物」とは何でしょうか。私は後でそのことについて話すけど、14章によれば、より優れた賜物とは、教会を成長させる賜物を意味します。(14:12)

だから霊的な賜物を頼むとき、教会を成長させることを考えるべきです。どのようにその賜物はあなたの評判を高めるか、また、あなたがどの益を得るかを考えてはいけません。むしろ、あなたがどのように人々を祝福することができるかについて考えるべきです。霊的な賜物を考えるとき、自分ではなく、周りの人々を考えるべきです。

でももう一つのことを覚えていなくてはなりません。神様は御心のままに、私たちに賜物与えてくださいます。(11)

キリストのからだの中で、私たちは自分の役割を神様から与えられました。だから、その役割を果たすために、神様は私たちに適切な賜物を与えてくださいます。

神様はそれ以上にも与えてくださるかもしれないけど、私たちが欲しい賜物のすべてを与えてくださることを約束しません。パウロはこう言いました。

皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。(29-30)

もちろん、その答えは「いいえ」です。

それでも、霊的な賜物を頼んでもいいです。特にあなたが自分のミニストリーや役割を見るとき、どんな賜物が必要かを考えて、その賜物を頼んだ方がいいと思います。

そして、あなたが自分の役割を果たすために、神様は適切な賜物を与えてくださることを信じてください。

どれだけ神様が「はい、喜んであげます。」と答えるかに驚くかもしれません。

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コリント人への手紙第一12:12-30--私たちはほかのクリスチャンをどのように見なすか

前回の記事では、私は、私たちがどのように自分をキリストのからだの部分として見なすべきかについて話しました。でも、私たちはどのようにほかのクリスチャンたちを見なすべきでしょうか。

パウロはこう書きました。

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(12-13)

パウロの言葉で、一番大切な真理は、私たちクリスチャンたちは一つのからだということです。もちろんからだには多くの部分がありますけど、私たちは一つのからだで、私たちは互いに必要とし合います。

また、パウロによれば、一つの御霊によって私たちはバプテスマを受けたし、一つの御霊を受けて、一つのからだとなりました。さらに、同じ御霊は私たちをキリストのからだに置いたし、私たちの中で働いています。だからどうして私たちはほかのクリスチャンたちを見下すことが出来るでしょうか。

私たちが彼らを見ると、彼らに住んでおられる御霊を見るはずです。どうして私たちは彼らに住んでおられる御霊を軽蔑できるでしょうか。どうして彼らの中で働いている御霊を見下すことが出来るでしょうか。

以前の記事で私は言いましたが、パウロによれば、私たちはほかのクリスチャンに「あなたはいらない」と言えません。私たち皆は互いに必要とし合うから。キリストのからだがちゃんと動くのに、私たち皆は自分の役割を果たさなくてはいけません。私たち皆は、キリストのからだに欠かせない者です。

さらに、パウロはこう言いました。

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(22)

数年前、バスケットボールをしたとき、私は右手の薬指を骨折しました。それ以前、私は自分の薬指の大切さがわかりませんでした。その手で何も握ることが出来なくなり、メールを打つのも大変になりました。簡単にできる行動は、とても難しくなりました。

パウロは続けました。

また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。(23-24a)

例えば、足と手を考えてみてください。「美しい手」という表現を聞いたことがあるけど、「美しい足」という表現はあまり聞いたことがありません。(「美しい脚」という表現を聞いたことがあるけど)。

それでも、たぶん、手よりも足はマッサージされるでしょう。また、靴を買うと、スタイルだけではなく、履き心地も考えるでしょう。

だからパウロはこの話をこのようにまとめます。

神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。(24b-25)

同じように配慮し合うこと。その言葉は、霊的な賜物に関する人のプライドや利己的な態度に反対します。

あなたの霊的な賜物を考えると、主に自分自身の益について考えるでしょうか。もしくは相手の益について考えるでしょうか。自分自身に焦点を当てるでしょうか。または、ほかの人に焦点を当てるでしょうか。

イエス様のことを考えてみてください。イエス様はいろんな力を持っていたけど、自分自身に栄光を与えるためにその力を使いませんでした。むしろ、彼はいつも周りの人々のニーズを考えました。

パウロはさらに言いました。

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(26)

痛みは興味深いものです。痛みがあれば、私たちは痛んでいる部分に焦点を当てます。体のほかの部分は大丈夫かもしれないけど、指を骨折すると、私たちは「まあ、私は99%元気だ」と思いません。むしろ、私たちは「痛い!」と思います。

私たちはほかの人々を見るときも、そう考えるべきです。彼らが悩んでいるとき、私たちは彼らを無視してはいけません。むしろ、私たちは彼らに触れ、助けるべきです。

パウロはこう言いました。

あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(27)

だから、ほかのクリスチャンたちを見下してはいけません。神様はそうしないので、私たちもそうしてはいけません。むしろ、彼らを神様の目で見るべきです。彼らを神様が大事するものとして扱うべきです。

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コリント人への手紙第一12:4-30--私たちがそんなに特別だと思わないけど

教会で多くの人々は、ほかのメンバーたちの賜物を見ると、劣等感を感じます。神様が彼らが特別な人で、キリストのからだに欠かせない者と見なすことを聞くけど、その真理を実感しません。でも何度もパウロは、神様の目には私たちがとっても特別な人であることを教えます。

パウロは基本的にこう言いました。「ほかの人々の賜物を見ると、劣等感を感じるのですか?そんな必要はありません。「あなたの賜物は安物だけど、彼らの賜物は高価な物だ」とは言えません。その賜物は同じ方から来ました。あなたの賜物の品質も高価なものです。

「あなたの役割はなんでもないものけど、彼らの役割はとても大事だ」とは言えません。彼らに役割を与える主は、あなたに役割を与える同じ主です。

そして、神様はあなたに「あなたの役割はそんなに大切ではないので、私はあなたを助けなくてもいい。私の代わりに天使を送ろう」と言いません。むしろ神様自身はあなたを助けます。

そして私が以前の記事で言ったように、あなたを造ったとき、神様は「あ、失敗しました。しょうがない。とりあえず、その人に、この何でもない仕事を与えましょう。」と言いません。

むしろパウロはこう言いました。

しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(18)

この個所によれば、神様があなたを造ったとき、ミスしませんでした。さらに、その個所の文脈を見てください。

17もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。。。もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。

簡単に言うと、神様は自分が指定したところにあなたを置きました。だから、ほかのクリスチャンはあなたに、「あなたはいらない」と言えません。むしろ、あなたはキリストのからだに欠かせない者です。

その言葉を読んで、「でも、私が欠かせない者だと言えません。だって、だれだって私の役割を果たすことが出来るから。」

でもちょっと考えてみてください。あなたのつま先はある程度まで、指の役割を果たすことが出ます。だからある意味で、指は要らないでしょう。でも、つま先は、その役割を指よりも上手にできません。

また、腕が一本しかなくても、いろんな仕事ができるかもしれません。でもその一本の腕はやり過ぎると、疲れて、力を失うかもしれません。

そのように、ほかの人はあなたの仕事をすることが出来るかもしれないけど、彼らはあなたの賜物を持っていないなら、あなたよりもその仕事を上手にできないでしょう。

また、彼らはあなたと同じ賜物を持っているかもしれません。さらに、彼らの賜物はあなたのよりも優れたものかもしれません。でも、あなたが自分の役割を果たさないと、彼らは結局疲れて、燃え尽きるかもしれません。

だから神様から与えられた賜物を使ってください。神様は自分の目的のためにあなたを今のところに置きました。相手があなたを見下すことを許さないでください。また自分自身を軽蔑しないでください。なぜなら、神様はごみを作っていません。あなたはごみではありません。

では、キリストのからだの中で、あなたはどんな役割を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一12:4-18ーー神様の目的のため、神様の栄光のため

霊的な賜物に関するプライドや嫉妬を考えると、たぶん一番の問題は、私たちが大切な真理を忘れることです。それは、人生は私たち自身が中心ではないことです。私たちは自分の目的を果たすために造られませんでした。私たちは自分の栄光のために造られませんでした。むしろ、私たちは神様の目的を果たすために造られました。また、私たちは神様の栄光のために造られました。

4ー6節では、私たちはその真理を見ます。私たちはいろんな賜物を持っているけど、私たちは自分自身にその賜物を与えませんでした。むしろ、神様はその賜物を私たちに与えてくださいました。だからパウロはこう言いました。

いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。(そのことを認める人が誰もいません)。あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。(もらわなかったものがありません)。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(誇る理由が全然ありません)。(4:7)

でも、私たちは、しばしば自分が神様からの賜物であるかのようにふるまいます。

ある意味では、私たちは神様からの賜物です。神様は、私たちが周りの人々を祝福するように望みます。でも、それは私たちの栄光と益のためではありません。それは周りの人々の益のためだし、神様の栄光のためです。前回の記事で私が言ったが、私たちの賜物は教会の人々の益のためです。(12:7)

パウロは続けます。

同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。(11)

パウロによれば、聖霊様は自分の目的を果たすために、私たちに賜物を与えてくださいます。

パウロはさらに言います。

しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(18)

私たちは、神様の目的を果たすために、私たちがキリストのからだ(つまり、教会)に置かれた事をもう一度見ます。

そういうわけで、私たちにはプライドの余裕がありません。私たちの目的のためではなく、神様の目的のために、私たちは賜物を与えられたし、教会に置かれました。

また、嫉妬の余裕がありません。神様は自分の理由のために、あなたをその所に置きました。

神様は「あ、しまった。私はあなたを造ったとき、失敗した。まあ、しょうがない。あなたをあまり用いることが出来ないけど、とりあえずあなたをそこに置きましょう。」とは全然言いません。

むしろ、神様があなたを造ったとき、こう言いました。「特別の目的のためにあなたを造りました。キリストのからだで、この機能を果たすために、私はあなたを特別にデザインしました。」

あなたはどうですか。自分の賜物があなたの目的を果たすためだと思うでしょうか。自分の賜物はあなたの栄光のためだと思うでしょうか。もしかしたら、その賜物が神様の目的、また神様の栄光のためだと分かるでしょうか。

あなたの賜物に関する自己中心の態度は、プライドと嫉妬に至らせます。あなたはどんな態度を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一12:4-30ーー教会を団結させるための賜物

この個所では、パウロはまだコリント人の教会の分裂について考えていたかもしれません。この手紙では、パウロは、その問題についてもう二回話していました。

パウロは霊的な賜物によってコリント人の教会の分裂されたと言わなかったけど、その危険性を見たかもしれません。

実は、現代の教会にも、そんな問題があります。

だから、最初から、パウロははっきりと言います。私たちの賜物は教会を分裂するためではありません。その賜物は教会のメンバーたちを団結させるためのものです。

パウロはこう言いました。

さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。(4-6)

パウロの言葉では、三位一体が霊的な賜物が絡んでいることを見ることが出来ます。

いろいろな賜物があるけど、同じ御霊です。

いろいろな奉仕があるけど、同じ主(イエス)です。

いろいろな働きがあるけど、同じ(天の父の)神です。

パウロのポイントはこうかもしれません。天の父とイエス様と聖霊様が違う役割があるけど、彼らはまだ一つの神です。そのように、私たちの賜物が違うかもしれないけど、私たちはまだ一つの教会です。だから、私たちには心の一致が必要です。

7節で、パウロはそのことをはっきりと言います。

皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(7)

普通は、私たちがプレセントをもらうとき、そのプレゼントは私たちの益のためです。でも、霊的な賜物は違います。その賜物は皆の益のためです。特に、その賜物は教会の兄弟たちと姉妹たちのためです。

だから、霊的な賜物を考えると、勝手な考え方を捨てるべきです。むしろ、私たちは、どのようにその賜物を使って、周りの人々に益を与えられるかを考えるべきです。

そういうわけで、霊的な賜物に関して、プライドや嫉妬の余裕はありません。

パウロはこう言いました。

たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。(15-16)

でも、ある人は、相手の賜物をうらやましく思ってそのようにふるまいます。彼らが神様から与えられた賜物が気に入らずに、苦々しい態度を持っています。または、相手が同じ賜物を持っているけど、より大きな割合でその賜物を持っています。だから彼らは相手に怒るし、神様に怒ります。

でも正反対の問題もあります。パウロはこう言いました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。(21)

要するに、もっと「大切」な賜物を持っている人は、ほかの人を取るに足りない人として見下しがちです。

両方の態度は悪く、教会を分裂します。皮肉なことに、私が以前が言ったように、その賜物は教会を団結するためのものでした。

だから私たちは自分自身にこう訊くべきです。「兄弟たちと姉妹たちに対する私の態度は正しいでしょうか。自分の賜物と相手の賜物に関する私の態度は、教会を分裂するか、団結させるでしょうか。」

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コリント人への手紙第一12:1-3ーー霊を見分けること

私たちは、サタンについて覚えていなくてはいけないことがあります。それは、サタンがいつも神様が造った良いものを偽造することです。例えば、互いに愛し合う夫婦の代わりに、サタンは不倫や、ほかの性的な罪を売り込みます。

また、心を満たす喜びの代わりに、サタンは心を満足させない一時的な快楽を売り込みます。

そのように、サタンは偽の霊的な賜物を売り込みます。例えば、カルトやオカルトで、偽の異言や、偽の癒し、偽の奇跡などを見ます。

ところで、私が偽と言うと、その奇跡が実際に起こらないことを意味しません。むしろ、その奇跡の源は神様ではなく、サタンであることを意味します。

だからパウロは、コリント人たちが本当のものと偽物をちゃんと見分けられるかどうか、心配しました。

パウロは彼らにこう書きました。

さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。(1-2)

どのようにコリント人たちが偶像に惹かれて行ったか、はっきりしません。でも、もしかしたら、サタンからの偽の霊的な経験によって、彼らは騙されたかもしれません。だからパウロは彼らにどのように、サタンからのものと神様からのものを見分けられるか教えました。パウロはこう言いました。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(3)

一つの見分け方として、御霊に導かれる人は、イエス様を呪うことが出来ません。イエス様を呪う人を見れば、その人が神様からではないとすぐにわかるでしょう。

もう一つの見分け方が、聖霊に導かれる人が「イエスは主」と言うことです。

カルトやオカルトや、ほかの宗教に属する人たちの多くは、イエス様について、いろんな良いことを言います。

「イエス様はいい人でした。」

「イエス様は素晴らしい宗教的なリーダーでした。」

「イエス様は預言者でした。」

でも、彼らは、イエス様がすべての主であることを認めません。また、イエス様が人間としてこの世に来たただ一人の神であることを認めません。

もう一つのことに注意するべきです。「イエスは主」と告白する人は、聖霊に導かれる人とは限りません。私が以前言ったように、サタンはいろんな偽物を売り込みます。

サタンが偽のイエス様を売り込んでいることをご存じですか。第二コリント11:4で、パウロは「別のイエス」について話します。

モルモン教では、イエス様は、たくさんの神々の中の一人の神です。また、モルモン教のイエスは、サタンの兄弟です。

エホバの証人によれば、イエス様は御使いのかしらミカエルです。

だから、人が「イエスは主」と言うと、私たちは「どのイエスですか」と訊かなくてはいけません。本当のイエスでしょうか。偽のイエスでしょうか。そして、彼らが宣べ伝えるイエスを聖書のイエスと比べなくてはなりません。

だから、霊的な賜物や、霊的な経験について話すとき、私たちはそれがどこから来たか見分けなくてはなりません。それらは神様からでしょうか。それなら、それは聖書の言葉に同意します。つまり、イエス様が人間としてこの世に来たただ一人の神であることを認めることです。また、イエスがすべての主であることを認めることです。

だから人のすべての霊的な経験が神様から来ることを信じてはいけません。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)

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コリント人への手紙第一11:32--主があなたを懲らしめても

12章に進む前に、もう一つのことについて話したいと思います。パウロは32節で、こう言いました。

私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。

私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを懲らしめます。その懲らしめが苦しいので、神様が私たちを憎むことを考えるのは、簡単かもしれません。また、神様があなたのことをあきらめたと思うかもしれません。

でもパウロは、その考え方は間違っていると言います。むしろ、神様が私たちを懲らしめる目的は、私たちが世とともに裁かれないためです。要するに、神様は、私たちを世の人々が歩んでいる破壊に至る道から、命に至る道に導いてくださいます。

5章では、私たちは一つの例を見ました。パウロは、悔い改めるのを拒んだ兄弟に関して、こう言いました。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(5:5)

パウロの目的は、その人を滅ぼすことではなく、むしろ、その人を救うことでした。

だから、神様があなたの懲らしめるとき、神様があなたを憎まないことを覚えていてください。神様はあなたを敵として考えません。

あなたが実際に神様の敵であった時に、神様がイエス様を送って、イエス様はあなたの罪のために死んでくださいました。もし、あなたが神の敵の時に、神様があなたを和解してくださっていたら、なおさら神様はあなたを神の子供として和解してくださるでしょうか。(ローマ5:6-11)

自分の罪の故、あなたは神様に懲らしめられているのですか。元気を出してください。神様はあなたをまだ愛しています。あなたのことをあきらめていません。だからその懲らしめの痛みを感じていても、へブル人への手紙の著者の言葉を覚えていてください。

そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(へブル12:5-11)

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コリント人への手紙第一11:27-34--自分自身を吟味すること

私が以前言ったように、聖餐式に参加するとき、私たちは自分自身を吟味しなくてはなりません。パウロはこう言いました。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。(27-30)

その最後の部分は、ちょっと怖いです。聖餐式を汚したゆえに、あるコリント人たちは病気になって、死んだらしいです。

現代では、私たちはそんな裁きをあまり見ないけど、教会が始まっていたばかりなので、神様はどれだけその罪が深刻だったかをコリント人のクリスチャンたちに表したいと思ったようです。

イエス様は私たちの罪のために死んだけど、私たちはあえて罪を犯してもいいというわけではありません。もしイエス様の十字架の働きを軽く考えると、私たちは懲らしめられます。

だから、聖餐式に参加するときだけではなく、毎日私たちが自分の心を吟味しなくてはならないと思います。

ダビデのように私たちは祈るべきです。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)

私たちが決してイエス様の十字架を当然のことだと思わないように。

イエス様の十字架を、あなたの汚い足を拭くための玄関マットのように扱わないように。

むしろ、感謝をもってイエス様の前に跪きましょう。

そして、イエス様が私たちの罪を現すなら、悔い改めましょう。聖餐式に参加するときだけではなく、毎日そんな態度を持ちましょう。

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第一コリント11:26--イエス様がこの世界に戻るまで

この個所を読むと、聖餐式に関して、もう一つのことが私の心を打ちます。パウロはこう書きました。

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(26)

「主が来られるまで。」

聖餐式をするとき、多くの人たちがその真理をあまり考えないと思います。でも、その真理を覚えているのは、とても大切なのです。イエス様は必ずこの世界に戻ります。だから聖餐式に参加するとき、イエス様が来るまで、自分がどのように生きているかを考えるべきです。

私たちは何をするべきでしょうか。パウロは私たちに教えます。「周りの人々にイエス様の死を告げ知らせなさい。」

パウロによれば、その一つの方法が聖餐式です。

でも、私たちは世界に出て、つまり、職場や、学校や、近所に行くとき、私たちは福音を宣べ伝えるべきです。イエス様が来るまで私たちはそうするべきです。

時々、私たちは毎日の生活にのめり込んで、イエス様が来られることを忘れてしまいます。また、私たちはこの世が永遠に続かないことを忘れてしまいます。

だから、聖餐式は、この世が一時的なものであることを思い出させます。私たちは自分の時間を賢く利用して、私たちの回りの人々に福音を宣べ伝えるべきことを思い出します。

あなたはどうですか。周りの人々にイエス様の死を告げ知らせているでしょうか。

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コリント人への手紙第一11:26-34--イエス様の死を告げ知らせること

パウロが現代の教会に来るとしたら、彼はどう思うか、私は疑問に思います。

特に、パウロは、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加することを見ると、どう思うでしょうか。

ある教会は、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加することを禁止します。ほかの教会(私の教会も)は、そのことを許します。

もしタイムスリップが出来たら、新約聖書の時代に行って、教会で誰が聖餐式に参加するかを見たいと思います。それはクリスチャンだけですか。ノン・クリスチャンも参加したでしょうか。

なぜなら、14章では、パウロはノン・クリスチャンたちが教会に来る可能性について話していましたから。

それに、今日の個所で、パウロはとても興味深いことを言います。

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(26)

興味深いのは、「告げ知らせる」という言葉です。新約聖書の著者たちは、その言葉を使うとき、ほとんどの場合、イエス様のこととその福音を告げ知らせることについて話します。この個所でも、パウロは「告げ知らせる」という言葉を同じ方法で使います。聖餐式をするとき、私たちは福音を人々に告げ知らせています。

でも誰に福音を告げ知らせているでしょうか。私たち自身に?その可能性もあります。なぜなら、私たち皆は時々、福音の乳が必要ですから。

でも、もしかしたら、パウロは、ノン・クリスチャンも聖餐式に参加することを認識したかもしれません。だから聖餐式をするとき、私たちはもちろんイエス様の十字架の御業を覚えています。でも、それだけではなく、私たちはノン・クリスチャンにイエス様の死を告げ知らせています。

私たちは彼らにこう言っています。「イエス様はあなたのために死にました。あなたの罪が赦されるために、また、あなたが新しい命を得るためにイエス様は死にました。私たちはあなたにイエス様を信じる機会を与えます。あなたはどうするでしょうか。」

パウロによれば、彼らがパンを食べ、ぶどう酒を飲むけど、イエス様を信じることを拒むなら、どうなるでしょうか。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(27)

どうしてでしょうか。なぜなら、彼らは福音を聞いたけど、その福音を拒絶したから。

でも、私は、はっきりと言わなくてはいけないことがあります。パウロがそれを言ったとき、ノン・クリスチャンについて話していませんでした。パウロは、貧しいクリスチャンを軽蔑するクリスチャンについて話しています。彼らのふるまいによって、彼らは聖餐式を汚しました。

だから32節で、パウロは悪い態度を持ちながら、聖餐式に参加するクリスチャンの懲らしめと、イエス様を拒絶するノン・クリスチャンの裁きを分別します。パウロは、そのクリスチャンの救いを疑わずに、むしろ彼らを兄弟と呼び続けます。

だから、パウロのもとの意味はこうです。「自分自身を吟味しなさい。聖餐式に参加するとき、良い態度を持ちなさい。あなたたちが主の懲らしめを受けないように、自分の兄弟たちを正しく扱いなさい。もし兄弟たちに罪を犯すと、あなたたちは主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」(27-34)

ちょっと不思議なことだけど、パウロはノン・クリスチャンが聖餐式に参加できるかどうか決して話しませんでした。もしかしたら、彼はその参加の禁止が当たり前だと思ったかもしれないから。それとも、もしかしたら、パウロはその参加が大したものではないと思ったかもしれません。

でも、教会がノン・クリスチャンの参加を許そうと思うなら、理解しなくてはならないことがあると思います。それは、聖餐式するときに、ノン・クリスチャンの参加を許すと、私たちは彼らにイエス様を信じるように招待しているだけではなく、彼らに警告しているということです。

私たちは彼らにこう言っています。「福音とは、イエス様があなたの罪のために死にました。イエス様を通して永遠の命を得ることができます。イエス様をあなたの主として受け入れませんか。」

それを聞いて、信仰を持ち、パンを食べ、ぶどう酒を飲むノン・クリスチャンは救われます。でも不信を貫く人は基本的にこう言っています。「私は、イエス様が私のために何をしてくださったか分かります。でも私はイエス様を拒絶し、聖餐式によって、自分自身に対するさばきを食べ、また、裁きを飲みます。」(29)

ようするに、ノン・クリスチャンは聖餐式に参加するとき、彼らは、「私は兄弟たちをどのように扱うか」と訊かずに、「私はイエス様を受ける入れるか」と訊きます。

だから、もしかしたら、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加することを許すなら、私たちは彼らに挑戦するべきかもしれないです。「イエス様はあなたの罪のために死んでくださいました。あなたはどうしますか。」

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コリント人への手紙第一11:23-29--キリストとの交わり。兄弟たちとの交わり。

聖餐式の時、多くのクリスチャンたちはこの個所を聞きます。パウロはこう言いました。

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(23-25)

聖餐式を無意味な宗教的な儀式として考えるのは簡単なことです。コリント人たちはそうしました。だから彼らは、貧しい兄弟たちと姉妹たちを軽蔑して、聖餐式を汚しました。

でもイエス様はこう言いました。「パンを食べて、ぶどう酒を飲むとき、私のことを覚えていなさい。あなたたちの罪を赦し、あなたたちを神様と和解するために、私は自分の血を流します。」

しかし、その真理を覚えていながら、私たちは、イエス様が私たちの兄弟たちと姉妹たちのためにも死んだことを覚えていなくてはなりません。イエス様の目には、彼らも貴い人たちです。

だから、聖餐式に参加するとき、私たちはイエス様に近づくだけではなく、互いに近づき合うべきです。また、もちろん、私たちを神様と和解するために、イエス様は死にました。でもそれだけではなく、クリスチャンたちが互いに和解し合い、一つになるためにイエス様は死にました。

パウロはエペソ人たちににこう書きました。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(ました)。(エペソ2:15)

パウロは特に異邦人とユダヤ人の間に立っている壁について話しました。その壁は、モーセの律法です。でも、その原則は私たちに当てはめられます。クリスチャンたちの間に、人種の壁や、身分の壁などあってはいけません。

パウロは続けました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(15-16)

パウロによれば、私たち皆、ユダヤ人でも、異邦人でも、律法を通してではなく、イエス様の十字架を通して神様に近づきます。だからユダヤ人と異邦人の中で、分裂があってはいけません。イエス様が死んだ一つの理由は、クリスチャンたち皆が一つになることです。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(18-19)

だから教会の中で、二流のメンバーはいません。私たちがユダヤ人でも、異邦人でも、金持ちでも、貧しい人でも、偉い人でも、一般人でも、イエス様は私たちのために死にました。その目的は、私たちが神様との和解ができるし、私たち皆が一つになることです。

だから、聖餐式でキリストを思い出すとき、その肝心な真理をも思い出すべきです。

あなたはどうですか、聖餐式に参加するとき、神様との関係だけを考えるでしょうか。もしくは、ほかのクリスチャンとの関係をも考えるでしょうか。

聖餐式に参加するとき、兄弟たちと姉妹たちとの関係はどうでしょうか。自分の教会のメンバーたちだけではなく、ほかのクリスチャンとの関係はどうでしょうすか。彼らに対する苦々しい思いを持っているでしょうか。そんな思いがあれば、その人と仲直りしなくてはいけません。そうしないと、あなたの飲み食いは自分をさばくことになります。(11:27-29)

あなたはキリストとの一致だけではなく、兄弟たちと姉妹たちとの一致があるでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一11:17-22--プライドや勝手な態度から生まれた分裂

この個所では、パウロはコリント人の教会の分裂についてもう一度話します。一章では、私たちは一つの例を見ました。それは、コリント人たちがどんなリーダーが偉いかについて議論したことです。

でも今日の個所では、私たちはプライドや勝手な態度から生まれた分裂を見ます。パウロはこう言いました。

ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。(17-19)

多くの牧師たちは、この個所を引用して、宗派に至る聖書の議論が必要だと教えます。その議論を通して、私たちは聖書の本当の意味が分かるようになるから。または、その議論を通して、偽のクリスチャンを見分けることが出来ます。

それはそうかもしれないけど、私の意見では、パウロは皮肉を使っていると思います。「あなたたちは議論しなくてはならないね。あなたたちは誰が本当のクリスチャンであるか証明しなくてはならないね。」

要するに、その分裂はコリント人のプライドから生まれたので、パウロは彼らを厳しく批判しました。なぜなら、彼らは自分の霊的な偉さを証明しようとして、相手を見下しましたから。

もしかしたら、一つの問題は、あるユダヤ人たちの考え方かもしれません。彼らは、富が神様の祝福のしるしと信じました。

だから、彼らは聖餐式をして、そのあとで一緒に食べるとき、金持ちは貧しい者の先に行って、食いしん坊のようにふるまいました。なぜなら、彼らはその食べ物の多くを持ってきたから。

多分、彼らはこう考えたでしょう。「私がほとんどの食べ物を持ってきたので、先に食べるのは当たり前だろう。もし私が食べた後、残り物があれば、あいつは食べてもいい。」

でも、パウロは彼らに言いました。

あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。(22)

要するに、「あなたたちはいったい何をしているのですか。あなたたちはキリストのからだを祝うするはずのに、むしろ貧しい兄弟たちを見下して、キリストのからだを軽蔑しているのです。」ということです。

彼らは自分の勝手さとプライドによって、キリストのからだを軽蔑してしまいました。

あなたはどうですか。あなたのプライドや勝手な態度によって、キリストのからだに分裂を作っているでしょうか。あなたは貧しい兄弟たちと姉妹たちを見下すでしょうか。あなたより霊的に未成熟の人々を見下すでしょうか。あなたは、自分の賜物をほかの人たちの賜物と比べるでしょうか。自分のミニストリーの縄張りを守るでしょうか。

そんな態度によって、教会は引き裂かれます。

あなたはどのように兄弟たちと姉妹たちを考えるでしょうか。

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コリント人への手紙第一11:2-16–権威と従順

この個所は、聖書の中で最も解釈しにくい、応用しにくい個所の一つです。

例えば、ある牧師たちはこの個所によって、教会で女子たちが帽子をかぶらなくてはならないと教えます。でもある牧師たちは、その教えはただの文化的なことだったと教えます。正直言うと私は、そのパウロの教えの意味がまだ分かりません。

それでもこの個所で、私たちが結婚に関する原則を学ぶことが出来ると思います。パウロはこう教えました。

しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(3)

パウロの言葉で、私たちは神様の本質について大切なことを学びます。神様の本質の中で、権威と従順の関係があります。その権威と従順の関係は、私たちとイエス様との関係に反映されるし、夫と妻の関係に反映されています。

パウロは「キリストのかしらは神です。」と言いました。それはどういう意味でしょうか。ほかの聖書の個所を読むと、パウロの意味がはっきりすると思います。

ヨハネはこう言いました。

。。。御父が御子を世の救い主として遣わされた。。。(第一ヨハネ4:14)

そして、この世に来た時、イエス様は天の父にこう言いました。

今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。(へブル10:7)

この世にいるとき、イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。(ヨハネ6:38)

でも、天の父に対するイエス様の従順は一時的なものだけではありません。イエス様が復活して、天国に戻ったとき、その従順は終わりませんでした。むしろパウロは、イエス様の戻りと永遠の国について話した時、こう言いました。

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。。。「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(第一コリント15:24-25、27-28)

そのすべての個所を考慮に入れると、一つのことがはっきりしています。イエス様は本当に神の本質を持っているけど、永遠に天の父に従います。それでも私たちは、天の父がイエス様よりも神だと言えません。その本質に関して、天の父がイエス様よりも優れた方だと言えません。むしろ、彼らの本質に関して、彼らは平等です。

どうしてそのポイントはそんなに大切でしょうか。なぜなら現代には、多くの人々が、妻が夫の権利に従うことが彼女の本質に対する侮辱だと主張しますから。彼らは言います。「もしあなたが、妻たちは夫たちに従うべきだと言うと、女性たちを劣った人として扱います。」

だから、「女のかしらは男であり」と聞くと、彼らはパウロの言葉をごまかそうとします。

でも、パウロは、人間関係の中には順位があると教えます。イエス様は天の父の権威に従います。男性たちはイエス様に従います。そして、女性たちは男性たちに従います。

しかし、人間的な本質に関して、男性たちが女性たちより優れたものだと全然言えません。パウロはそんな考え方に一切反対しました。彼はこう言いました。

とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。(11-12)

つまり、神様はリーダーシップの役割を男性たちに与えたけど、男性と女性は互いに必要とすることです。

そして男性たちが自分の権威を利用して、女性たちを酷使する余地は全然ありません。むしろ、天の父がイエス様を愛し、尊敬するように、男性たちは女性たちを愛し、尊敬しなくてはなりません。さらに、神様が私たちの創造者なので、男性たちは神様に従うことを覚えていなくてはなりません。私たちは神様に責任を問われますから。

だから既婚女性たちは自分自身にこう訊くべきです。「イエス様が天の父に従うように、私は夫に従うだろうか。夫がキリストに従う限り、私は夫に従うだろうか。」

既婚男性たちは自分自身にこう訊くべきです。「天の父イがイエス様を愛し、尊敬するように、私は妻を愛し、尊敬するだろうか。イエス様が私を愛し、自分のいのちをささげたように、私も妻を愛し、彼女のために私のいのちをささげるだろうか。」

シングルの女性たちはこう訊くべきです。「私の彼氏(または、婚約者)はイエス様に従っているだろうか。私がイエス様に従うように彼氏に従うほど、彼氏を信頼しているだろうか。」

「はい」と答えないなら、結婚を後回しするべきです。

シングルの男性たちはこう訊くべきです。「私はイエス様に従っているだろうか。もし私がイエス様に従うなら、結婚したら妻をどう扱うべきだろうか。」

その質問に正しく答えられないなら、結婚を後回しにするべきです。

あなたは誰に従っているでしょうか。

 

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コリント人への手紙11:1--良い模範がいても

以前の私たちがついていく方で、私たちが誰に従うかに注意するべきだと言いました。たくさんのいいリーダーたちもいるし、たくさんの悪いリーダーたちもいます。だから、私たちが彼らの実を見なくてはなりません。特に彼らの教えと行為を見なくてはなりません。

でも良いリーダーに従っても、彼らが完全な人ではないことを覚えていなくてはなりません。彼らはいつも正しいわけでもありません。だから彼らを神様のように扱わないでください。彼らも間違える決断をします。時々、彼らの考え方は間違っています。だから私たちが彼らに従う時、彼らの良い点と悪い点を見分けなくてはなりません。

そういうわけで、パウロはこう言いました。

私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。(1)

最終的に、私たちの模範はキリストです。私たちの模範がキリストのかたちと同じである限り、私たちはその模範に従うべきです。でもキリストと違う彼らの点を見ると、彼らではなく、イエス様の模範に従うべきです。そうしないと、私たちは最終的に困ってしまいます。

ガラテヤ2:11-13で、私たちは一つの例を見ることが出来ます。ペテロは教会のリーダーたちの一人です。彼はきっといい模範でしょう?

でもプレッシャーを感じると、ペテロはイエス様の模範に従いませんでした。

最初は、彼はガラテヤの異邦人たちと話したり、彼らの食べ物を食べたりして、良い時間を過ごしました。

でも、モーセの律法に従うユダヤ人のクリスチャンたちが来ました。そして、彼らが来たら、ペテロは異邦人たちから遠ざかって、ユダヤ人のクリスチャンたちだけと交わり始めました。

ガラテヤにあるほかのユダヤ人のクリスチャンたちは、それを見て、ペテロの模範に従い始めました。バルナバという敬虔なクリスチャンもペトロの模範に従いました。だからパウロはそれを見た時、彼ら皆を厳しく責めました。

もちろん、ペテロの責任は一番大きいものでした。でも、ペテロの模範に従うクリスチャンたちも罪に落ちてしまいました。

だから覚えていてください。あなたの模範がどれだけいいクリスチャンであっても、彼らを神様との同じ立場に置かないでください。彼らは完全な人ではありませんから。彼らが牧師でも、メンターでも、有名な聖書の学者でも、その皆が悪いことをするときもあります。その時、彼らの模範に従ってはいけません。

むしろ、彼らがキリストに従う限り、彼らに従ってください。でも、彼らが落とし穴に落ちると、同じ落とし穴に落ちてはなりません。むしろ、彼らが以前あなたを警告し、助けたように、彼らに警告して、助けましょう。

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コリント人への手紙10:23-33--誰を喜ばせようとしているでしょう?

私たちはついにこの個所を終えます。皆さんは忘れていたかもしれないけど、この個所は実際に8章から始まりました。そして、この個所をまとめるとき、パウロはコリント人たちが一番大切な疑問を指摘します。それは、彼らが誰を喜ばせようとしているかということです。

現代のクリスチャンたちも、同じ疑問に直面します。

私は、自分の権利を大事にすることを認めます。そして、私の権利が踏みつけられるとき、私はすぐに怒ります。また、私が値するものが奪われると、気が動転します。くだらない例だけど、人が列に割り込むとき、私は腹が立ちます。

そして、私がどのように妻や同僚や、教会の人たちをどのように扱うか考えます。その時、私の権利を主張するのは簡単なことです。私はフェアのこと、また、私が値することを主張します。

でも、そんなことに集中すると、私たちが実際に誰を喜ばせようとするかを表します。それは、私たち自身です。

「信仰の強い」コリント人のクリスチャンたちはそのような者でした。彼らの傷つきやすい良心のある兄弟たちを気にせずに、その兄弟たちの前で何でもたべました。

また、ノン・クリスチャンに対する彼らの証しが汚れても、彼らは偶像にささげられた肉を食べました。どうしてでしょうか。彼らはその肉を食べる権利を持っていたからです。

11章では、私たちは彼らのわがままの態度をもう一度見ます。彼らは貧しい兄弟たちに恥をかかせて、聖餐式の意味を汚しました。

だからパウロは彼らに訊きました。「誰を喜ばせようとしているでしょうか。あなたたちは、「すべてのことが許されている。」と言います。もちろん、何を食べてもいいです。でも、すべてのことが益になるわけではありません。そしてあなたの行為によって、周りの人々を傷つけています。」

そしてパウロはこう言いました。

だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(24)

要するに、「自分の益を他の何よりも大切にするな。また自分の権利と自由を他の何よりも大切にするな。周りの人々をその物よりも大事にしなさい。もし、兄弟たちやノン・クリスチャンのために肉をやめる必要があれば、そうしなさい。」

どうしてでしょうか。

なぜなら、最終的に私たちは一人の方だけを喜ばせなくてはならないから。それは私たち自身ではありません。むしろパウロははっきり言います。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(31)

あなたはどうですか。だれを喜ばせようとしているでしょうか。

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コリント人への手紙10:14-22--悪霊と交わること

日本では、多くのクリスチャンたちは仏教の葬式や法事に関して、どうするべきか疑問に思います。

いろんな意見があります。そんな儀式に出ないクリスチャンもいます。または、あるクリスチャンはその儀式に出るけど、数珠を使わないし、焼香しません。

私の意見ですけど、そんな儀式に出ることに関して、自分に良心に従うべきです。でも、その儀式に出ると、あらかじめその儀式で、あなたが何をするか、しないか考えた方がいいと思います。そうしないと、自分の良心に反してしまうかもしれません。

例えば、あるクリスチャンはこう考えます。「私は焼香するけど、別に深い意味がない。この偶像は本当に神々じゃないし。」

あるコリントのクリスチャンたちは同じ考え方を持っていたようです。パウロは彼らに、「偶像にささげられた肉を食べてもいいです」と言いました。

でもあるクリスチャンたちはそれを聞いて、その言葉以上に進んだようです。彼らは市場で偶像にささげられた肉を買うだけではなく、友達の家で偶像にささげられた肉を食べるだけではなく、彼らはその偶像礼拝の祭りに出たようです。

もしかしたら、彼らはこう思ったかもしれません。「私は本当にその偶像を礼拝していない。私は家族と友達と遊んでいるだけ。」

または、彼らはこう思ったかもしれません。「この祭りに参加することを通して、家族と友達に愛を示している。とにかく、この偶像は大したものじゃない。ほんとうの神々じゃないから。」

でも、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。(14)

そしてパウロは二つのことを指摘します。一つ目は聖餐式です。パウロはこう言いました。「聖餐式に参加するとき、キリストの血とからだにあずかることではありませんか。」(16)

つまり、「そのパンを食べたり、そのぶどう酒を飲んだりするとき、イエス様との交わりを表しているでしょう。イエス様の十字架の御業によって、今やあなたはイエス様との関係を持っていることを表しているでしょう。」ということです。

そしてパウロは旧約聖書を指して、イスラエル人のいけにえについて話します。イスラエル人の一つの供え物は「和解のいけにえ」でした。その牛を供えた後、彼らはその肉の部分を家に持って帰って、家族と一緒に食べました。それは神様との平和、また、神様との交わりの象徴でした。

パウロは言います。「その偶像礼拝の祭りに参加するとき、同じようなことをしているでしょう。あなたはその偶像との交わりを表しているのです。」

偶像の本当の問題は何でしょうか。その偶像はただの金や銀や木のものでしょう?

そんな考え方は間違っています。パウロはこう言いました。

私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(19-20)

要するに、コリント人たちがその祭りに参加するとき、彼らは実際に悪霊と交わりました。そのように、焼香して、仏壇の前で拝むとき、人々は実際に悪霊と交わっています。私たちクリスチャンはそうしてもいいでしょうか。

パウロは、そんな行為を一切許しませんでした。

あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。(21-22)

私たちは霊的なことを扱う時に、注意するように覚えているべきです。私たちは何を扱っているでしょうか。神様でしょうか。悪霊でしょうか。

偶像だけではなく、占星術や、手相占いや、ウィジャ板や、タロットカードはただのゲームではありません。それらは、悪霊と交わることです。

私たちがそうしないように。むしろパウロの言葉に従いましょう。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(第二コリント7:1)

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コリント人への手紙10:12-13--励ましと警告

この個所では、私たちは誘惑に関して励ましと警告を読みます。

最初にパウロはこう書いた。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(12)

多分、パウロは特に「私の信仰は強い」と思ったクリスチャンについて話していました。

私が前にも言ったのですが、コリントには「信仰の弱い」人がいました。つまり、彼らの良心が傷つきやすかったことです。だから、彼らは、偶像に捧げられた肉を食べると、罪悪感を感じました。

多分、現代では、そんな人はいないけど、ワインやビールを飲むと罪悪感を感じるクリスチャンもいます。

だから「強いクリスチャン」にとって、「弱いクリスチャン」を見下して、「私は強い信仰を持っているので、そんなくだらないルールを必要としない」と自慢するのは簡単なことでした。

でも、パウロは彼らに注意しました。「気をつけなさい。自分が強いと思うかもしれないけど、自分のプライドによって、罪に落ちて、あなたが実際に弱いクリスチャンであることが証明されてしまうかもしれません。」

例えば、ビール一杯は、すぐに二杯、三杯、四杯、五杯になって、あなたは酔っぱらうかもしれません。そしてそのパターンを続けると、アルコール中毒の問題が出るかもしれません。いずれの場合も、あなたは罪に落ちます。

でも、その罪に落ちなくても、あなたはプライドの罪に落ちるかもしれません。あなたは相手を見下します。また、彼らの目の前であなたの自由を利用するので、彼らは罪に落ちてしまいます。

もしかしたら、あなたはほかの罪に落ちるかもしれません。例えば、職場で神様に信頼せずに、会社の業績のため、また自分の立場を守るために神様の教えを曲げてしまうかもしれません。

もしかしたら、あなたは周りの人々にキレるかもしれません。

または、傷ついたとき、あなたは恨みを抱き、相手を許すことを拒むかもしれません。

私たちはいろんな方法で罪に落ちることが出来ます。でも、プライドを持てば、パリサイ人のように、私たちは自分の罪が見えなくなるでしょう。

だからパウロは警告します。「注意しなさい。あなたが思うほど、あなたは強くありません。あなたも簡単に罪に落ちることが出来ます。

でもそのあと、パウロはコリント人たちを励ましました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(13)

原文では、「試練」とは、二つのニュアンスがあります。一つ目はもちろん「試練」です。でもその言葉は、「誘惑」という意味もあります。だからパウロの要点は、あなたがどんな試練や誘惑に直面しても、神様はあなたの限界を知ることです。だから神様は、あなたが耐えられない誘惑や試練を許しません。むしろ、神様はいつも脱出の道を備えてくださいます。

もう一つのことを覚えていてください。私たちの経験した試練や誘惑は、ほかの人の知らないものではありません。

あるクリスチャンはこう思います。「私だけがこの罪と戦っている。どうして私はこんなに悪い者だろうか。」

サタンは、あなたがそのように考えて欲しいのです。

でも、パウロははっきりと言います。あなたがどんな誘惑に直面しても、ほかのクリスチャンも同じ誘惑に直面したことがあります。

自分の罪をほかのクリスチャンに告白する益の一つは、あなたが相手もその罪と戦うことを知ることです。一人で戦うなら、あなたは弱いかもしれないけど、一緒に主の力で戦うと強くなります。

あなたはどうですか。あなたは自分が強いと思うでしょうか。注意しないと、罪に落ちるかもしれません。

自分が弱いと感じるでしょうか。元気を出してください。あなたは独りぼっちではありません。ほかのクリスチャンも、あなたの戦いが経験したことがあって、その苦しさが分かります。そして神様もあなたとともにいて、助けてくださいます。

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コリント人への手紙10:1-11ーー聖書の話の目的

多くのクリスチャンたちは旧約聖書を避けて、新約聖書だけを読みます。なぜなら、彼らは、新約聖書に最も大切なことが書いてあると思うから。

もちろん新約聖書には、イエス様の十字架の働きや、恵みのゆえに信仰によって救われることなどは、もっとはっきりと書いてあります。でも、新約聖書の著者たちは旧約聖書を不必要なものとして捨てませんでした。

むしろ、彼らは何回も旧約聖書を指しました。彼らは旧約聖書から引用したり、旧約聖書の話について話したり、その話から応用を教えたりしました。イエス様も、使徒たちもそうしました。

だから、私たちもそうしなくてはなりません。

10章の最初では、パウロはイスラエル人の砂漠の旅を思い出して、話します。そして、パウロはコリント人たちにこう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。(6)

また、

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(11)

パウロは特に偶像礼拝や、性的な罪や、神様に対する不信について話しています。そして、パウロによれば、私たちはこんな話を読むとき、その教訓を学ばなくてはなりません。

実は、どんな聖書の話を呼んでも、私たちはそうするべきです。不信者と違って、童話としてその話を読むべきではありません。また、ただの歴史的な話として読んではいけません。

むしろ、聖書を読むとき、私たちはこう祈るべきです。「神様、私に何を教えたいと思いますか。私に何を伝えたいと思いますか。」

そんな心を持てば、神様は私たちに教えてくださいます。このブログで、私はその模範を与えようとしています。私は事実だけを言っていません。私たちの人生に対する応用を教えようとしています。

でも、私たちの子供たちのためにそうするべきです。私たちの子供たちに聖書の話を教えるのはとてもいいことです。でもその応用を簡単に説明した方がいいです。

例えば、「神様は私たちのニーズに備えることが出来ます。」(神様はエリヤに食べ物を与える話、または、神様はイスラエル人にマナを与える話。)

または、「神様に従うことは大切なのです。」(アダムとエバの話です。)

とにかく、覚えていてください。聖書の話はただの話ではありません。神様は私たちの教訓、私たちの益のためにその話を与えてくださいました。

あなたはその考え方をもって、聖書をを読むでしょうか。

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コリント人への手紙第一10:1-12--失格すること

9章では、パウロはコリント人たちに、「冠に失格しないように注意するべきだ」と警告しました。パウロの要点は、彼らが自己中心の態度を持ってはいけないということです。なぜなら、彼らは自己中心で、自分の権利を主張したので、良心が傷つきやすい人が罪に落ちてしまったからです。だからパウロは、コリント人たちが自分の報いを失う危機にあると警告しました。

パウロ自身は自分の報いを失わないように、自分の権利でも犠牲にしました。

10章では、パウロは、自分の考え方をさらに説明します。

パウロは、神様がエジプトから救い出したイスラエル人について話します。パウロは、イスラエル人の砂漠の経験をクリスチャンの経験に例えます。

イスラエル人が紅海を渡ったことはバプテスマの経験のようでした。彼らは古い人生、つまり、奴隷の人生に対して死んで、神様の民になりました。

彼らは天からのパンを食べました。(イエス様はヨハネ6:33-35で、自分自身を天からのパンと呼びました。)

そして、彼らは岩から生ける水を飲みました。(ヨハネ7:37ー39によれば、その水は聖霊様の象徴でした。パウロによれば、その岩もキリストの象徴でした。)

でも、イスラエル人たちは約束の地という賞を受けたでしょうか。残念ですが、彼らはその土地に入る権利を失って、砂漠で死にました。

どうしてでしょうか。

あるイスラエル人たちは偶像礼拝をしたから。彼らが造った偶像を礼拝するのに、酔っぱらったり、もしかしたら性的な罪を犯したりしました。(出エジプト32章)

正直に言うと、その時、彼らは性的な罪を犯したかどうかわからないけど、民数記25章で、彼らは必ず性的な罪を犯したので、滅びてしまいました。

ほかのイスラエル人たちは主に信頼せずに、主に文句を言いました。彼らは食べ物と水のないことを文句を言ったし(民数記21:4-9)、約束の土地にいる手ごわい敵を見ると、カナンに入ることを拒みました(民数記14)。

だからパウロはこう書きました。

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(11)

要するに、イスラエルの経験は、私たちのための例えです。その例えは私たちに何を教えるでしょうか。

私たちは洗礼を受け、聖餐式に参加し、神様の御霊に満たされるけど、賞を失うかもしれない。私たちが本当にクリスチャンなら、まだ救われるけど、私たちの冠を失います。(第一コリント3:15)

どのように私たちは冠を失うでしょうか。私たちが一時的なものに焦点を当てると、その冠を失います。つまり、私たちはこの世の快楽に夢中であったり、試練に直面して文句を言ったりすることです。

この世の快楽に焦点を当てると、私たちは最も大切なのものを忘れてしまいます。つまり、神様とその御国を忘れてしまいます。試練に焦点を当てて、文句を言うと、私たちの信仰を失って、レースをやめてしまいます。

だからパウロは私たちに警告します。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(12)

一時的な快楽に夢中で、私たちの賞を失わないように。また、この世の物に執着して、神様と兄弟たちと姉妹たちに対する愛を忘れないように。そして、試練によって、私たちの信仰を失わないように。

むしろ、

一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)

あなたはどうですか。賞の失格の危機にあるでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一9:24-27--何としても

この個所はかなり有名です。25-27節で、パウロは私たちの人生をマラソンと例えます。神様が私たちをこのマラソンにおいて、私たちは走っています。私たちはどんな報いを求めているのでしょうか。それは、イエス様が私たちに託した仕事を完成するための冠です。

私たちに託した仕事は何でしょうか。それは御国を広げることです。

その冠は何でしょうか。私は詳しく分かりません。でも、イエス様の教えによれば、私たちはイエス様の称賛をもらうし、イエス様の喜びをともに喜びます。さらに、私たちがこの世にいる間の忠実さに応じて、私たちは御国でもっと大きい責任を受けるらしいです。(マタイ25:21,23)

だから私たちは自分自身に訊くべきです。その冠を得るために私たちは何をするでしょうか。何としても、神様から託された仕事を完成するでしょうか。

パウロはこう書きました。

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

ちょっと考えてみてください。もしマラソンに参加しようと思うなら、あなたはただ今日どうやって人生を楽しむかを考えません。むしろ、あなたの目的を果たすために、今日の楽しみを犠牲にします。

例えば、ポテトチップスやハンバーガーを食べずに、健康的な食べ物を食べます。テレビとインターネットを見る時間を減らし、毎日頑張って何時間も走ります。そうすれば、賞を得る可能性があります。

そのように、神様の国を本当に広げたいと思うなら、私たちの人生を中心にしてはいけません。私たちはこの世の快楽を求めてはいけません。むしろ、御国に仕えるために、私たちが欲しいものを犠牲にしなくてはいけない時もあります。

だからパウロは福音を伝えるときに、その給料を断りました。そのゆえ、よりたくさんの人はクリスチャンになりました。

またパウロはユダヤ人と一緒に食べるとき、クリスチャンの自由を犠牲にして、モーセの律法に応じて、「聖い食べ物」だけを食べました。

また、傷つきやすい良心のある人と一緒に食べるときに、そのクリスチャンの自由を犠牲にして、偶像に捧げた肉を断りました。

でも、私たちの多くは自己中心の人です。自分自身を喜ばせることだけを考えます。私たちは自分の権利を考えすぎて、相手の情を踏みつけてしまいます。

もしかしたら、私たちはケチで、ニーズのある人を助けないかもしれません。また自分の時間を大事にしすぎて、ニーズのある人のために時間を取りません。

もしかしたら、ミニストリーをするとき、私たちの動機は間違っているかもしれません。他のどんなものよりも、私たちは相手からのお金や尊敬を求めます。

でもそんな態度を持てば、裁きの日に、私たちは失格者になって、冠を受けません。

その冠を受けるため、何としてもするでしょうか。その冠を得るため、今日の快楽を犠牲にするでしょうか。その冠を得るため、私たちの権利や、時間や、お金や、プライドなどを犠牲にするでしょうか。

もしくは、この世のものを求めて、失格者になるでしょうか。

あなたはどうするでしょうか。

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コリント人への手紙9:16-23--ミニストリーに対する私たちの態度

ミニストリー、つまり奉仕をするとき、自分のことに焦点を当てるのは簡単なことです。

例えば、私たちはこう思い始めます。

「奉仕すると、私はどんな益を受けるでしょうか。私に対する尊敬はどこでしょうか。経済的な報いはどこでしょうか。」

でも、パウロの心の中で、説教に対する熱意を持っていました。彼はこう言いました。

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(16)

パウロの言葉を読むとき、私は預言者エレミヤの言葉を思い出します。

私が、「主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない」と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。(エレミヤ書20:9)

だから、神様のメッセージを伝えるかどうかについて考えるとき、パウロはとエレミヤは経済的な報いや、ほかの人からの尊敬などを計算しませんでした。もしそのメッセージを伝えなかったら、彼らは惨めになったでしょう。

パウロはさらに説明しました。

私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。(17)

パウロは何を言いたいと思ったでしょうか。パウロにとっては、喜びに満ちた心から、また、主と人に対する愛を持つ心から福音を伝えるのは、報いだということです。

18節で、パウロは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供するのは報いと言いました。どうして、パウロはそのように感じたでしょうか。もしかしたら、無報酬で福音を提供することによって、御国に入る人が増えましたから。

現代の人のように、ある人々はパウロの動機を疑ったでしょう。彼らは、パウロがお金だけが欲しかったと思いました。

でもパウロは彼らに言いました。「あなたからお金を求めていません。私は、あなたに与えたいものがあります。それは、神様の赦しと永遠のいのちです。」

さらに、人々はパウロを見るとき、彼らのものを取りたいと思う人を見ずに、彼らに仕えたいと思う人を見ました。彼らに仕えるため、パウロはいつも自分の権利を譲りました。そのゆえ、たくさんの人が御国に入って、パウロは喜びました。(19-23)

それだけではなく、パウロは、主も喜んでいることを知っていました。

でも、人を愛さなくても、福音を伝える気がなくても、パウロは福音を伝えなくてはいけませんでした。なぜなら、神様は彼にその責任を与えたから。そして、パウロがその仕事をしていなかったら、神様はパウロの責任を問うたでしょう。

タラントのたとえ話で、その原則を見ることができます。あるしもべは、主人を愛さずに、むしろ主人を恐れました。だから、主人が彼にお金を預けたとき、しもべはそのお金を投資せずに、埋めました。そして結局、主人はしもべの責任を問いました。(マタイ25:24-30)

エレミヤも、その責任を感じました。エレミヤ書20章では、私たちは、エレミヤの奉仕がいつも自発的なものではなかったと分かります。エレミヤは、神様が彼を正しく扱わないと文句を言ったし、彼がイスラエル人に迫害されることについて文句を言いました。(20:7-8)

それでも、エレミヤは神様のメッセージを伝え続けました。なぜなら、主のことばはエレミヤの心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、エレミヤは内にしまっておくのに耐えられませんでしたから。パウロのように、エレミヤはそのメッセージを伝えなくてはなりませんでした。そうしなかったら、彼はわざわいだったでしょう。

でも心から仕えることは優れたことです。「私はしなければならない」という態度ではなく、「私は仕えたい」という態度の方がいいです。そんな態度を持てば、私たちの人生はもっと幸せになります。また、ミニストリーはもっと楽しむことになります。しかし、中でも、主に会う時に、私たちは報いを受けます。

あなたはどうですか。どんな態度をもって、仕えるでしょうか。

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コリント人への手紙9:6ー15--私たちの牧師たちを経済的に支えること

「どうして教会に献金をささげるべきでしょうか。十一献金は新約聖書の教えではありません。」

多くのクリスチャンはそんなことを言います。十一献金は新約聖書の教えじゃないかもしれないけど、牧師たちを経済的に支えることは新約聖書の教えです。

パウロはこう書きました。

はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。(7)

簡単に言うと、そんな人などいません。そして、最後の二つの例の要点は、はっきりしています。もし何かの手入れをするなら、そのものから益をもらうべきです。もしぶどう園を造り、手入れをするなら、その実を食べる権利を持つべきです。もし羊を飼うなら、その乳を飲む権利を持つべきです。

そのように、牧師が人々の世話するなら、その人々から益を受けるべきです。

そしてパウロはモーセの律法を指します。神様が言ったのは、脱穀をしている牛は地面に落ちた穀物を食べる権利を持っていることです。

パウロはその律法を参考にして、「神様は牛よりも人を愛しています。だから、畑で働いている人も、その仕事のから益をもらうべきです。」と言っていました。

そして、パウロはその原則をキリストのしもべたちに当てはめます。

私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのながら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。(11-12a)

そしてパウロは、宮に奉仕する人は宮から下がる食べ物を食べ、祭壇でいけにえを捧げる祭司たちが、その肉を食べていることを指摘します。

パウロはその話をこのようにまとめます。

同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。(14)

自分の理由で、パウロはその権利を譲りました。でも、私たちが牧師たちをパウロのように生活するように強制するべきというわけではありません。牧師たちが教会の外の仕事をするのは、あまりよくないことです。

どうしてでしょうか。彼らがその外の仕事をすると、彼らに神様が与えた教会の人々をちゃんと世話できないから。彼らのメッセージを準備する時間は少なくなります。人々を訪問する時間、また、相談に乗る時間も少なくなります。教会のための祈りの時間も少なくなります。

教会の経済のせいで、私の牧師はずっとそんな生活をしなくてはなりませんでした。それは仕方がないかもしれません。だから私の牧師は頑張りました。私の牧師に本当に感謝しています。

でも、それは理想的な状況ではありません。もし、牧師たちが外の仕事をしなくてはならないなら、彼らが私たちのために時間を取ることが出来ないとき、私たちは、文句を言うことができないでしょう。

イエス様は、私たちが牧師たちを経済的に支えることを命令しました。あなたはそうしているでしょうか。

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コリント人への手紙第一8-10章--御国のために権利を譲ること

聖書を読むときに、私たちはたまに文脈に注意しないので、その著者の意図を見逃してしまいます。

だからこの記事では、8ー10章をまとめて、話したいと思います。そして、ほかの記事で、8ー10章の個々をもっと詳しく見たいと思います。もちろん、個々の章で私たちは興味深いことを学ぶことが出来るけど、パウロの主旨を見逃したくないと思います。

8-10章では、パウロの主旨は何でしょうか。それは、「私たちの権利ではなく、神の御国は一番大切なものだ」ということです。だから、時々、神の御国のために私たちの権利を譲らなくてはなりません。

8章では、もう私たちは一つの例を見ました。パウロによれば、私たちは、偶像にささげた食べ物を食べる権利を持っています。でも、パウロはこう言いました。「もし私がそんな肉を食べることによって、私の兄弟が罪に落ちてしまうなら、私はその肉を食べません。さらに、彼が罪に落ちないように、私は今後いっさい肉を食べません。」(8:13)

そして、パウロはコリント人の異議を予測します。「でも、私は食べる権利を持っているよ。どうして私の権利を譲らなくてはならないでしょうか。」

パウロは12節で一つの理由を与えます。それは、私たちの行為によって、兄弟が罪に落ちるなら、私たちの行為が罪になることです。

でもそれだけではなく、パウロは自分の人生を例として指します。使徒としてパウロは、いろんな権利を持っていましたが、その権利を利用することを主張しませんでした。たとえば、パウロは、結婚して妻と一緒に宣教旅行に行く権利を持っていたけど、結婚さえもしませんでした。

また、パウロは福音を伝える仕事のため、お金をもらう権利を持っていたけど、お金を受けませんでした。実は、モーセの律法によれば、また、キリストの言葉によれば、私たちはそんな人にお金を払うべきです。でもパウロはそのお金を断りました。(9:1-14)

どうしてパウロはその権利を主張しなかったでしょうか。もしかしたら、パウロは貧しい者に福音を伝えていたからです。もしパウロが彼らのお金を受けていたら、彼らはもっと経済的に苦しんだでしょう。そしてパウロは、その貧しいものを利用するという言いがかりを避けたいと思ったかもしれません。

もう一つの可能性は、パウロは、福音を利用して、お金を儲けるという言いがかりを避けたいと思ったかもしれません。

そんな言いがかりは福音の普及を阻止したでしょう。

そして、パウロは福音のためのほかの犠牲について話しました。

モーセの律法の下にあるユダヤ人たちと一緒にいるとき、パウロはユダヤ人のようにふるまいました。例えば、モーセの律法に応じて、豚肉や貝を食べませんでした。

でも異邦人と一緒に食べるとき、パウロは何でも食べました。

しかし傷つきやすい良心のある人と一緒に食べるとき、偶像にささげた肉を食べませんでした。

多くのコリント人たちにとっては、パウロは注意し過ぎたでしょう。たぶん、彼らはパウロがその権利を譲るのは、やりすぎだと思ったでしょう。

でもパウロはその生き方をマラソンの訓練と例えました。マラソンを準備するために、時々ランナーは好きな食べ物をやめたり、好きなアクティビティをやめなくてはなりません。そうしないと、賞を受けないでしょう。そのように、もしキリストとその御国のためではなく、自分のために生きるなら、賞を受けることはないでしょう。

だから10章で、パウロはこう言いました。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(23-24)

また、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(31-33)

だから、自分の権利について考えるとき、自分自身にこう訊かなくてはなりません。「私は何のために生きているだろうか。だれのために生きているだろうか。私のためだろうか。もしかしたら、神様とその御国のためだろうか。」

神様のために生きるなら、あなたは最終的に報いを受けます。でも自分のために生きているなら、あなたの業績はなくなって、神様からの報いを受けません。

あなたは何のために、また、だれのために生きているでしょうか。

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コリント人への手紙第一8章ーー私たちの持っている知識をどのように扱うか

いろんな意味で、この個所はローマ書14書に似ています。だから、1ー3節を見て、その言葉がどのようにこの個所の残りにかかわるか話したいと思います。

パウロはこう言いました。

次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(1-3)

クリスチャンの兄弟たちが偶像にささげた食べ物を食べるときに、あるコリント人たちは気になったようです。彼らは、そんな食べ物を食べるのは罪だと思いました。そんな人に関して、パウロはこう書きました。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ書14:23)

でも、ほかのコリント人の信者たちは、偶像にささげた肉を食べることが彼らの霊的な人生にかかわらないと分かりました。実は、イエス様は、すべての食べ物がきよいと教えました。(マルコ7:19)

でも、彼らの知識はプライドに至りました。だから傷つきやすい良心のある兄弟たちの前で、彼らは自分の自由をあえて利用して、偶像にささげたものを食べました。

彼らの行為によって、傷つきやすい良心のある兄弟たちは、自分の良心に反して、その肉を食べ始めました。でも、彼らの行為が信仰から出なかったので、彼らにとっては、その肉を食べるのは罪でした。

だからパウロはその知識のある兄弟たちに怒りました。なぜなら、彼らの行為によって、その兄弟たちは罪に落ちたから。だから、パウロは彼らに言いました。「もちろん、偶像は本当の神ではありません。私たちはそう知っています。だから偶像にささげた肉を食べてもいいのです。」

でもパウロはこうも言いました。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(2)

パウロは何を言おうとしているでしょうか。知識を持っているのは、足りないのです。どのようにその知識を扱うかを知らなくてはなりません。知識を扱い方を知らないと、あなたの知識は欠けているものです。

私たちは、どのように知識を用いるべきでしょうか。愛をもって、知識を扱うべきです。

パウロはコリント人たちにこう言いました。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。(1)

知識を持つことは、プライドに至るかもしれません。「私は知っている。あなたは知らない。」

そのプライドによって、ある人は聖書についてずっと議論するけど、何も解決しません。

また、人はその知識とプライドによって、相手を見下し、裁いてしまいます。

おまけに、そのプライドによって、ある教会は引き裂かれてしまいます。

コリント人の教会で、そんな問題が出て来ました。だからパウロは彼らに言いました。

「あなたが知識を持っていることによって、神様は喜びません。あなたたちがどのようにその知識を扱うかによって、神様は喜びます。その知識によって人々を育てるでしょうか。もしくは、その知識によって、人々を取り壊すでしょうか。」

パウロはその話をこのようにまとめます。

しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(3)

私たちはどのように人が神様を愛するかどうかわかるでしょうか。ヨハネは私たちに教えます。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。(第一ヨハネ4:21)

でも、コリント人たちはそうしていませんでした。彼らの知識によって、兄弟たちを育てずに、取り壊してしまいました。その結果は?

つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。(11)

だから、パウロは彼らに警告します。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(12)

そして、パウロは彼らがどのように知識を扱うべきか教えます。

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。(13)

あなたはどうですか。どのように自分の知識を扱っているでしょうか。自分自身を高ぶらせながら、兄弟たちと姉妹たちを取り壊すでしょうか。もしくは、彼らを育てるでしょうか。

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コリント人への手紙7:29ー31--私たちのいのちがはかないゆえに

私たちのいのちは、とてもはかないものです。

私の高校性の時代の友達で、亡くなった人もいます。

明日は、私たちに約束されていないものです。

イエス様はこの世に帰るかもしれません。

もしかしたら、私たちは車にひかれるかもしれません。

パウロは「時は短くなっています」と言いました。たぶん、パウロはコリント人の「迫っている危機」について話したけど、私たちもこの世に永遠まで生き続けないことを覚えていなくてはなりません。その真理は私たちの生き方を影響に与えるはずです。

パウロはこう書きました。

今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。(29)

その言葉はちょっと不思議です。文脈を見ると、パウロは「離婚しなさい」や「奉仕に集中するために、妻(または、夫)を無視しなさい」と意味しませんでした。

でも、私たちの人生は配偶者中心のものであるべきではありません。むしろ、夫婦は神様中心の人生、また御国中心の人生を送るべきです。

また、シングルの人たちは結婚活動中心の人生を送ってはなりません。むしろ先に神の御国を求めなくてはなりません。そして、神様のタイミングで、配偶者を与えてくださいます。

パウロは続けます。

泣いている人は泣いていないかのように。。。していなさい。(30)

私たちはみんな、いろんな苦しみを経験します。私たちの周りに、死や、いろんな悲劇を見ます。その時、泣いてもいいのです。それは健康的なことです。私たちにはその必要があります。でも一生泣いていてはいけません。むしろ、私たちは立ち上がって神様の仕事に戻らなくてはいけません。私たちが泣き続ける限り、過去に縛られてしまって、神様が私たちのために計画した未来を見ることが出来ません。

でも、パウロはさらに言います。

喜んでいる人は喜んでいないかのように。。。していなさい。(30)

その言葉はちょっと不思議に聞こえるかもしれないけど、時々、私たちは自分の幸せに夢中で、満足しすぎて、もはや先に進みません。そうすれば、違う意味で私たちは過去に縛られます。私たちは先に進まなくてはなりません。私たちは喜んでいるかもしれないけど、私たちの周りに苦心でいる人が多いです。彼らも喜びを与えてくださる方を知る必要があります。

買う人は所有していないかのようにしていなさい。世と関わる人は関わり過ぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。(30-31)

要するに、この世のものが一時的なものであることを覚えていなくてはなりません。私たちは天国に行くとき、自分のお金や持ち物を連れて行くことが出来ません。二つのものしか持っていくことが出来ません。それは、神様との関係と、ほかのクリスチャンとの関係です。だからそのことを覚えていて、生きましょう。この世の物に焦点を当てずに、神様と周りの人々に焦点を当てましょう。

あなたの人生は、はかないものです。どのようにあなたの時間を使っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一7:17-24--後悔

私たち皆は後悔を持っています。もちろん私も後悔を持っています。例えば、私は人々を傷つけたことがあるので、その過去を変えたいと思います。

また、私が後悔する決断もあります。例えば、私はずっと日本に来る考えと戦いました。もっと早くその決断を神様に委ねていたら、私は大学で日本語を専攻したり、英語を教える授業を受けたりしたでしょう。

でも、私は自分の過去を変えることが出来ません。過去を変える人は誰もいません。では、どうしたらいいでしょうか。

コリント人たちは同じ疑問に直面しました。ある人はクリスチャンになる前にノン・クリスチャンと結婚したけど、クリスチャンになった後、ノン・クリスチャンと結婚するべきではない、というパウロの教えを聞きました。だから彼らは「離婚した方がいいでしょうか」と訊きました。でもパウロはこう答えました。「そんな必要はない。相手があなたと一緒に住み続けたいと思うなら、離婚してはいけません。」

ほかの異邦人が、クリスチャンになる前にユダヤ教を信じたので、割礼を受けました。でも、クリスチャンになった後、彼らは「異邦人は割礼を受けてはだめです」というパウロの教えを聞きました。だから彼らは訊きました。「割礼の跡をなくした方がいいですか。」

でももう一度、パウロは答えました。「そんな必要はありません。」

ほかの人は、クリスチャンになる前、借金のために自分自身を奴隷として売ったけど、あとで後悔しました。でもパウロは彼らにこう言いました。「自分の自由を得られるなら、もちろんその自由を得てください。でも自由を得られないなら、心配しないでください。」

簡単に言うと、パウロはこう言いました。

それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。(20)

要するに、あなたの過去の決断によって、辛い状態になっていても、その後悔を思い詰めないで。あなたがその状態にいても、神様はあなたを用いることが出来ます。

多分、割礼や、奴隷になった後悔を思い詰める人はもういないでしょう。

でもノン・クリスチャンと結婚するクリスチャンはいます。神様は彼らに言います。「その結婚から逃げるな。あなたを通して、私はあなたの家族に触れるから。」

あるクリスチャンは、離婚して、別の人と再婚しました。もしくは、元夫か元妻は再婚したかもしれません。神様はその人に言います。「心配しないでください。むしろ、今の配偶者に仕えて、子供の世話をするべきです。また、周りの人にも、私のために触れなさい。」

ほかのクリスチャンは、自分の罪のために刑務所にいます。神様はその人に言います。「それは大丈夫です。もし仮釈放が出来たら、それは良いことです。でもできないなら、そのままで刑務所にいなさい。刑務所でも私はあなたを用いることが出来ます。」

簡単に言うと、あなたがどんな状態にいても、どんな過去の失敗があっても、神様はあなたを用いることが出来ます。だからパウロはこう言います。

ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。(17)

また、

兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(24)

だから自分の後悔で思い詰めないように。むしろ、神様が今言っていることに従いましょう。なぜなら、過去に起こったことがそんなに大切ではないから。

むしろ、今は、

重要なのは神の命令を守ることです。(19)

 

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コリント人への手紙第一7章ーー結婚を後回しにした方がいい?すぐに結婚した方がいい?

いろんな理由で、日本でも、アメリカでも、多くの人々は結婚を二十代の後半、三十代になるまで後回しにしています。

ある意味、それは良いかもしれません。私の友達の間で、19歳か20歳になって結婚した人がいましたけど、私にしてみると、それは若すぎると思います。(でも、その友達はまだ結婚を継続していますから、彼らにとっては早く結婚するのは良いことでした。)

とにかく、私たち皆は違うので、ある人にとって早く結婚するのは良いことだし、ほかの人にとっては、待った方がいいこともあります。この個所では、パウロはそう教えます。

コリント人の教会で、ある婚約者たちは、結婚した方がいいか、待った方がいいか、結婚する予定をやめた方がいいかどうか、疑問に思ったようです。

結婚した方がいいか、結婚を後回しにした方がいいかについて考える人には、パウロは三つの考えるべきことを教えます。

一つ目は、結婚に対するあなたの態度です。つまり、あなたには本当に結婚にコミットメントがあるでしょうか。もしかしたら、もう逃げ道を探しているでしょうか。あなたはもうこのように考えているでしょうか。「もし私たちの結婚がうまくいかないなら、離婚すればいい。」

もし逃げ道のある結婚が欲しいなら、結婚しない方がいいです。どうしてでしょうか。イエス様は結婚が末永いものだと教えましたから。パウロはこう書きました。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(10-11)

それはマタイ19:3-12に書かれたイエス様の言葉に関してのパウロの応用です。イエス様の弟子たちでも、その教えを聞いたとき、驚きました。彼らは、「それなら、結婚しない方がいいです。」と言いました。

もしあなたがこの弟子の態度を持っているなら、結婚しない方がいいです。あなたの態度が変わるまで、結婚を後回しにするべきです。もしあなたの態度が変わらないなら、結婚しない方がいいです。

また、もう一つのことを考えるべきです。それはあなたの状況です。コリント人たちの「差し迫っている危機」のゆえに、パウロは彼らが結婚を後回しにするべきだと言いました。パウロは説明します。

(この大変な状況にいる)結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。(28)

コリント人たちがどんな危機に直面したか分からないけど、もしかしたら、迫害に直面したのかもしれません。

でもとにかく、パウロの大幅な原則は、あなたの状況によって、結婚を後回しにした方がいい時もあると教えています。

たとえば、あなたの経済状況はあまりよくないかもしれません。もしあなたが経済的な不安定があれば、結婚はつらくなるかもしれません。多くの結婚は、経済的な問題によって壊れてしまいます。

もう一つの問題はあなたの感情的な重荷、また、あなたの精神的な重荷です。もしかしたら、あなたは元彼に虐待されたかもしれません。もしかしたら、お父さんに虐待されてかもしれません。そんな問題はあなたの結婚に影響を与えるでしょう。だからあなたの感情的な問題や、精神的な問題を乗り越えるまで、結婚を後回しにした方がいいかもしれません。

でももう一つのことを考えるべきです。ただ性的な誘惑を避けるだけのために結婚するのはあまりよくないけど、やっぱりたくさんの人々はその誘惑と戦います。だからパウロはこう書きました。

結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。(8-9)

つまり、あなたの彼や彼女に対する欲情が強すぎて、もう自制できないと思うなら、あなたの状況が理想的じゃなくても、結婚した方がいいということです。でもまだ自制出来るなら、あなたの大変な状況が良くなるまで、結婚を後回しにした方がいいです。

早すぎる結婚することはとても大変なことです。でも、もし結婚の逃げ道を捨てて、配偶者に対するコミットメントがあれば、神様の恵みによってあなたはどんな問題でも乗り越えることが出来ます。

だから結婚する前、最も大切な質問はこうです。「逃げ道を探せずに、結婚のコミットメントをもって、私自分自身を相手にささげるでしょうか。」

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コリント人たちの手紙第一7章ーーシングルの生活の方がいい?

この個所を読むと、パウロが結婚についてそんなに熱心ではないと結論をつけるのは簡単なことです。

パウロは決して、「結婚は素晴らしいものです。結婚した方がいいです。」と言いません。

むしろ、パウロはこのようなことを言いました。「結婚するなら、それは罪ではありません。」(28,36)

それは熱心な勧めではありませんね。

また、パウロは言います。

婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。(38)

私たちはパウロの言葉をどのように解釈するべきでしょうか。

結婚の良さを控えめに言うよりも、パウロはシングルの生活の益を強調したいと思ったのです。

パウロの言葉は、私たちの家族と友達がしばしばいうことに反対します。

「もうそろそろ結婚した方がいいんじゃない?もう結婚の年ごろでしょう。」

「あなたはとても素敵な人だよ。どうしてまだ結婚しないの?この人はどう?あの人はどう?」

でもパウロははっきり言います。「シングルの生活でいいよ。」

どうしてでしょうか。

独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。(32-35)

私の経験では、パウロの言葉は正しいです。シングルでいれば、既婚者よりも、主に仕えるのは簡単なことです。奉仕をするとき、私はいつも妻と娘のニーズを考慮しなくてはなりません。良かったのは、私の妻もクリスチャンで、私の奉仕を応援してくれます。それでも、私の時間のバランスに注意しなくてはなりません。妻との時間や、娘との時間と、奉仕の時間を考えるべきです。

シングルの人はそんなことを考えなくていいです。だからパウロによれば、人が結婚せずに、シングルの生活を続けることは神様からの賜物です。

どうやって、あなたがその賜物があるかどうかわかるでしょうか。

もし、シングルの生活を賜物と見なさないなら、たぶんそれはあなたの賜物じゃないでしょう。:)

でも、あなたがその賜物を持っても、待たなくても、神様は自分の栄光のためにあなたのシングル生活を用いることができます。あなたは神様のためにたくさんの人に触れて、この世に影響を与えることができます。私の知り合いの間で、たくさんの人がそうしていました。神様はある友達に後で配偶者を与えてくださいました。他の人は、シングルの生活に満足するようになりました。

だから、あなたがシングルなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、シングルの人として、あなたの時間を利用して、神様に仕えようと努めてください。また、神様が一番良いタイミングで、いい人をあなたに与えることを信じてください。

シングルとして、あなたはどのように自分の時間を利用しているでしょうか。

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コリント人への手紙第一7:10-16;39-40--結婚と離婚

7章では、パウロはいろんなトピックについて話すけど、前回の記事で、私は結婚について話したので、そのトッピクについて書き続けようと思います。

今日の個所では、パウロはイエス様の結婚の教えを新たに強調します。パウロはこう言いました。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(10-11)

パウロはパリサイ人に対するイエス様の言葉を参考しています。イエス様はこう言いました。

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され」ました。そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6)

また、

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」(8-9)

私は以前の記事でイエス様の言葉について話したので、この記事では話しません。でもパウロのポイントは、結婚が末永く続くものであるべきということです。だから私たちは、結婚をそのように考えるべきです。39節で、パウロはこう言います。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。(39)

もちろん、夫も妻が生きている間は妻に縛られています。だから私たちはできるだけ、その結婚を守ろうと努めなくてはなりません。

でも時々、相手は私たちをどうしても離婚したいと思います。その場合、私たちはどうするべきでしょうか。パウロはこう言います。

そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。

信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。

しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(12-16)

パウロの教えは分かりやすいと思うので、ちょっとだけ解説します。

最初に、パウロは「これを言うのは主ではなく私です。」と言ったとき、「ただ私の意見だから、気にいらないならその意見を無視してもいい」を意味したのではありません。

むしろ、パウロの言葉の意味は、イエス様が信者でない人は信者を離婚したいという場合について話したことがなかったということです。だからパウロはこう言いました。「イエス様はこのケースについて話していないので、イエス様が任命した使徒として私はどうすればいいか教えます。」

使徒として、パウロの言葉が権威をもっているので、その言葉に従わなくてはなりません。

だから、信者でない人がどうしてもあなたと離婚したいと思うなら、離婚してもいいです。神様はそれを許します。

でも、あなたの配偶者が信者でない人なら、必ず離婚しなくてはならないとは限りません。なぜなら、あなたのおかげで、神様の手はあなたの家族の上にありますから。神様はあなたを通して配偶者と子供たちに触れることが出来ます。

この個所では、「聖なるもの」とは、「救われる」を意味しません。むしろ、神様はその家族を見て、「これは私のものだ」と言って、自分の目的のためにその家族の中で働きます。

最後に、シングルに対するパウロの言葉に注意してください。つまり、結婚したいと思うなら、クリスチャンはクリスチャンと結婚しなくてはならないことです。39節で、パウロはこう言いました。

しかし、(女の人の)夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。(39)

もちろん、パウロは特に寡婦に話しているけど、その言葉はすべての独身に当てはめられます。主に属する人と結婚しなくてはいけません。

時々、クリスチャンはこう考えます。「その人と結婚した後、その人は救われるかもしれません。」

でもちょっと考えてみてください。パウロが言ったのは、信者でない人が離婚したいと思うなら、その人を離れて行かせなさいということです。なぜでしょうか。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(16)

その答えは何でしょうか。その人が未来に救われるかどうかわかりません。そのことに関して神様からの約束はありません。多くのクリスチャンはノン・クリスチャンと結婚して、後ですごく悩んでしまいます。クリスチャンと結婚しても、結婚は難しいのです。でも、夫婦の基本的な信じることが違ったら、結婚はさらに大変になります。だからそもそもそんな関係を避けた方が良いのだと思います。

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コリント人への手紙第一7:1-5ーー結婚とセックス

多くの人々はセックスの必要を強く感じます。たぶん、一つの理由は、人間が結婚して子供を作るために、神様がその欲望を人間の心に入れたからでしょう。

でも、前回の記事で私が言ったように、神様はセックスに制限をかけます。つまり、セックスは夫婦のためということです。

日本では、セックスレス夫婦の人数が増えているようです。いろんな記事はそのトッピクについて書いてあります。でもコリント人のクリスチャンたちも、結婚とセックスという質問があったらしいです。だから、彼らはパウロにどうすればいいか尋ねました。

パウロはこう答えました。

さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが。。。(1)

「男が女に触れないのは良いことだ」、つまり、「セックスしない方がいい」というコリント人たちがいたようです。

一方で、あるコリント人たちは性的な罪を犯しました。(5章)

でもその反面、あるコリント人たちはセックスしない方がいいと言いました。もちろん、クリスチャンにとってセックスが夫婦だけのためですので、彼らの意味は、「結婚しない方がいい」ということです。

パウロは独身の生活も良いことだと教えたけど(7ー8,32-35節)、パウロは彼らにこう言いました。

淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。(2)

つまり、性的な欲望がとても強いので、結婚しないと、人が性的な罪に落ちる可能性が高いということです。そして、私が以前言ったように、神様の御心が人間が結婚して子供を作ることなので、神様はその強い欲望を人々に与えたのです。

実は、結婚は神様との関係の描写です。私たちたちはキリストと結ばれます。キリストは花婿みたいだし、私たちは花嫁みたいです。そして、その結婚によって、私たちはイエス様に対する愛をもって、義の実をを結びます。

とにかく、パウロが言ったのは、夫婦が結婚してから、配偶者とのセックスを楽しんでもいいということです。さらに、パウロは、彼らが定期的にそうするべきだと言いました。パウロはこう言いました。

夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。(3-5)

パウロはその言葉で、私たちが覚えていなくてはならない結婚の原則を教えます。

一つ目は、結婚すると、あなたのからだはただ自分のものではないことです。あなたはあなたの配偶者に属するし、あなたの配偶者はあなたに属するのです。だからパウロは「互いに相手を拒んではいけない」と言います。

パウロによれば、あなたたちが祈りに専念するために、ちょっと遠慮してもいいけど、それでも相手の合意が必要です。

でもパウロは、夫婦がもう一度一緒になるべきだと教えます。どうしてでしょうか。そうしないと、サタンはすぐにあなたたちを性的な罪で誘惑するから。それは特に男性の問題だけど、もちろん女性も誘惑されます。

でも多くの夫婦はその指示に従わないので、その結婚は壊れてしまいす。彼ら結婚の外で、自分の性的なニーズを満たしてしまって、その結婚を壊したり、相手を傷つけたり、子供をも傷つけたりします。

そうしないで下さい。不倫せずに、自分の配偶者を通して、その性的な満足と幸せを求めましょう。

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コリント人への手紙第一6:13-20--どうして性的な罪がそんなに悪いか

もちろん、すべての罪は悪いのです。でもパウロは性的な罪が特に悪いと言います。特にクリスチャンにとっての性的な罪は悪いと言います。

パウロは言います。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。(15a)

パウロはさらに説明します。

しかし、主と交わる者(つまり、クリスチャン)は、主と一つの霊になるのです。(17)

また、

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり(ます)(19a)

でも、私たちは遊女と寝ると、どうなるでしょうか。パウロはこう言います。

それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。(16)

要するに、神様がセックスを発明した理由は、単に人々が子供を作り、また、遊ぶわけではありません。その理由は、夫と妻は一体となることです。セックスるするとき、その人と肉体的な一致だけではなく、感情的な一致を作ります。あなたが遊女と寝るとき、そんな一致を作ります。それを考慮して、パウロはとても見苦しい絵を描きます。

それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。(15b)

私はパウロのポイントをさらに説明する必要がないと思います。

でも、遊女との罪だけではなく、すべての性的な罪が悪いのです。「淫らな行い」、また、「不品行」というは、何でしょうか。それは夫と妻の間以外のセックスです。夫と妻の間のセックスは神様に祝福されるものです。ほかのセックスは神様に呪われます。(9)

なぜ性的な罪はほかの罪と違うでしょうか。性的な罪は独特な方法で私たちに影響を与えるから。その罪によって、私たち自身が相手と結ばれてしまいます。だからパウロはこう言います。

人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(18)

多分、多くの人々はパウロの言葉が分かるでしょう。でも覚えていてください。私たちのからだは、キリストのからだの一部です。だから、遊女と寝ると、まるで私たちがイエス様をその遊女とを結んでいるかのようです。私たちがほかの人の配偶者と寝ると、まるでキリストはその罪に参加するかのようです。彼や彼女と寝ると、まるでイエス様がその罪に参加するかのようです。それはとてもひどい考えでしょう。だからパウロはこう言います。

淫らな行いを避けなさい。。。あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(18-20)

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コリント人への手紙第一6:12-20-キリストにある自由に関する間違っている考え方

パウロの書簡の中で、一つのテーマは、私たちが律法から自由されていることです。私たちは律法の下にはなく、恵みの下にあるのです。でも現代の人たちと同じく、パウロの時代の人々はその教えを曲げました。

コリント人たちはあえて罪を犯して、互いに傷つけ合ったので、パウロは彼らを叱責しました。パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(9-10)

コリント人たちはどのように反応したでしょうか。彼らはこう言いました。「でもね、パウロ。あなたは、「すべてのことが私には許されている」と言ったでしょう。だから罪を犯してもいいんじゃないですか?やっぱりこれは私の人生でしょう?」

でも、パウロは答えました。「すべてのことが許されているかもしれないけど、すべてが益になるわけではありません。」(12)

8章では、私は一つの例を見ます。偶像にささげた食べ物を食べるのは罪ではないけど、あなたの兄弟がそれを見てきっと躓いてしまうことを知っているなら、あなたはそんな食べ物を食べてはいけません。あなたがその食べ物を食べることは、兄弟には益がないからです。

パウロは続けます。「すべてのことがあなたに許されているけど、あなたはどんなことにも支配されてはいけません。特に、罪に支配されてはいけません。」(12)

ローマ人への手紙で、パウロはさらに説明します。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ人への手紙6:16)

多くの人は、最初は罪を犯すことを選ぶけど、結局その罪の奴隷になってしまいます。飽食は一つの例です。ポルノはもう一つの例です。人々はあえてその罪に耽るけど、自分の行動をコントロールできなくなったと急に分かるようになります。

お医者さんが彼らに「体重を減らさなくてはならない。そうしないと、必ず心臓発作を起こすでしょう」と警告しても、彼らは食生活を変えることが出来ません。

または、結婚関係が大変になっても、ポルノをやめられません。

あるコリント人たちはこう言いました。「でも、神様の御心は私たちが食べることです。だから私たちに胃袋を与えてくださいました。また、神様は私たちを性的な被造物として造りました。そのニーズを満たすように私たちが造られました。どうしていろんな制限が必要でしょうか。」

でも、パウロが答えたのは、私たちがもちろん胃袋を持っているし、性的な被造物だけど、そのニーズを満たすのが私たちの主な目的ではないことです。私たちは単に自分のために生きるために造られませんでした。私たちは自分自身を喜ばせるためだけに造られませんでした。パウロはこう言いました。

「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。(13a)

ようするに、食べ物や腹は永遠のものではなく、一時的なものです。だから、私たちは単に自分の腹を満たすために造られませんでした。

パウロは続けました。

からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。(13b)

つまり、罪を犯すためではなく、むしろ主を喜ばせるために私たちが造られたのです。私たちは、主の宮になるために造られました。そして、私たちを買うためにイエス様は十字架で大きい代価を支払いました。

パウロはこう書きました。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(19-20)

キリストにある自由は、私たちが自分のために生き、罪に耽ることではありません。むしろ、キリストにある自由は、私たちを滅ぼしていた罪から自由にされることです。だから、私たちは神様からの罰を恐れる必要がありません。むしろ、神様が私たちを愛して、聖霊様が私たちのうちに住んでおられることを知って、歩むことが出来ます。そして、私たちが造られた目的を満たします。それは、私たちは神様を愛し、敬い、栄光をささげることです。

あなたはどうですか。あなたはどのように自分の自由を用いるでしょうか。

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コリント人への手紙第一6:1-11--どのように私たちは自分自身を世に表すか

訴訟はアメリカでは日常茶飯事に行われています。どんなに馬鹿なクレームをもっても、人々は相手を訴えます。

アメリカと比べると、日本には訴訟がそんなにないけど、相手を訴える人もいます。

コリントのクリスチャンたちの間でも、たくさんの訴訟があったらしいです。パウロはそれを見て、二つのことに困惑しました。

一つ目は、兄弟たちや姉妹たちは相手にあえて罪を犯すことです。二つ目は、傷ついた兄弟か姉妹が相手を訴えることです。

さらに、傷ついた人自身は毒を以て毒を制して、相手に悪いことをしてしまいました。だから、パウロは彼らにこう言いました。

それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をするもの、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することが出来ません。(8-10)

簡単に言うと、自分自身をだまさないでいなさい、ということです。あなたはクリスチャンを自称するかもしれないけど、悔い改めずに罪を犯すと、神の国を相続することが出来ません。

ある人は、パウロが救いを失った人について話していると思います。でも、そんな人がもともとクリスチャンではなかったでしょう。

でも、パウロはコリント人たちが本当にクリスチャンであることを前提にします。だからパウロはこう言いました。

あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(11)

つまり、「あなたたちは神様に清められて、神様のために聖別されました。あなたたちは違う人になったでしょう。どうしてあなたの兄弟たちと姉妹たちをこのように扱うでしょうか」ということです。

そして、クリスチャンの間の訴訟に関して、パウロはこう言いました。「ある日、あなたたちは世界の人々と天使たちをも裁きます。どうしてあなたたちは、こんな些細な問題に対処できないでしょうか。」(2-5)

でも、パウロが本当に怒ったのは、コリント人たちが自分の恥ずかしいことをノン・クリスチャンの前に出すことです。だから、ノン・クリスチャンはそれを見て、こう訊きました。「クリスチャンとは、そんなものでしょうか。私たちと同じです。彼らも互いに傷つけ合ったりするでしょう。」

要するに、彼らの罪は教会のしみになりました。

だからパウロはこう言いました。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。(7)

コリント人たちは二つの方法で、敗北しました。

一つ目は、彼らはサタンと戦わずに、互いに戦い合ったことです。

二つ目は、彼らの評判が汚されたことです。

イエス様はこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

でも、教会で私たちはそのようにふるまっているでしょうか。もしくは私たちが互いに戦い合って、サタンは勝利を得ているでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一5章ーー兄弟たちと姉妹たちは厚かましくて罪を犯すとき

前回の記事では、私は、兄弟たちと姉妹たちが厚かましく罪を犯すと、教会がそんな態度を寛容に許すべきではないと言いました。

でも、二つの注意事項があります。

一つ目は、パウロが、私たちが罪と戦っている人を避けるべきだと言っていないということです。キーワードは、「戦っている」です。

私たち皆は自分の罪と戦っています。私たち皆には、毎日毎日戦わなくてはならない罪があります。でも私たちがどんなに戦っても、ある罪は粘ります。でも、自分の罪と戦うことと、あえて罪を犯すことは全然違うことです。

クリスチャンにとっては、罪との戦いは大変なことです。あなたは自分の行為が悪いと認めて、その罪を悩んでいます。心の中で、あなたは本当にその罪を捨てたいと思います。そして、毎日、あなたは神様の前に来て、その罪を克服する力のために祈ります。自分の罪によって本当に苦しんでいる場合、あなたがほかのクリスチャンの祈りとサポートを頼んだ方がいいと思います。そして、罪に落ちたら、すぐに悔い改めなくてはなりません。

でも、あえて罪を犯すのは、あなた自分の罪を自慢し、全然悔い改めないことです。そんな人はこう言います。「これは私の性格です。私は変わらないので、あなたは私をありのままで受け入れなくてはなりません。」

もし、ほかのクリスチャンがみ言葉を通して、その人を訓戒しようとすると、その人は自分自身の行為を正当化しようとします。

コリントの教会の兄弟はそのようにふるまいました。彼は罪と戦っていませんでした。彼はあえて罪を犯していました。そしてパウロは、そんな人と交際してはいけないと言いました。そんな人の罪を無視して、その人を受け入れると、その人の罪はパン種のように教会に広がりますから。

もう一つの注意事項があります。それは、その人を懲らしめるときの私たちの態度です。パウロはこう言いました。「その人の罪の故、あなたたちは悲しむべきだったでしょう。」(2)

その人に対する態度は、傲慢ではなく、悲しみです。私たちの願いは、彼らが悔い改めることであるべきです。あえて罪を犯すクリスチャンを教会から追い出す理由は二つあります。一つ目は、その罪が教会に広がらないということです。でも二つ目は、その人が悔い改めることです。

パウロはこう言いました。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(5)

「その人をサタンに引き渡しなさい。」

それはとても厳しいい言葉です。でもパウロの意味は、「その人が罪をあえて犯すので、この世に追い出しなさい。その人が教会の安全から離れさせて、サタンが攻撃するように許しなさい。」ということです。

どうして、そんなことを許すでしょうか。サタンがその人を滅ぼすためでしょうか。

違います。

私たちの希望は、その人が放蕩息子のように自分の罪の惨めさが分かって、悔い改めることです。その結果は、彼の罪深い心が死ぬので、イエス様がこの世に戻ると、その人は救われることです。

簡単に言うと、その人に対する私たちの態度は愛であるべきです。でも愛とは、あえて罪を犯す人を受け入れることではありません。愛とは、その罪の故に悲しんで、その人をこの世に追い出して、悔い改めを待つことです。

罪の深刻さを忘れないでください。イエス様が罪のために死ぬほどに、罪は深刻なことです。イエス様の死が分かっていながら、罪をあえて犯すのは、「神の御子を踏みつけること」と「恵みの御霊を侮る」ということです。(へブル人への手紙10:29)

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コリント人への手紙第一5章ーー罪を大目に見て、誇る?

以前の記事で、私は「寛容」ということについて話しました。「寛容」とは、アメリカ人にとっては合言葉みたいなものです。

もちろん、ある意味で、寛容はとてもいいことです。つまり、相手と違う意見を持っているのに、まだ互いに尊敬し合ったり、いい関係を持ったりするなら、それはとてもいいことです。

私たちクリスチャンたちはノン・クリスチャンに、もちろん寛容を示さなくてはなりません。彼らが私たちのように信じないので、私たちのようにふるまうことを期待できません。そのことを覚えていながら、彼らを愛し、彼らと時間を過ごし、福音を伝えたり、彼らのために祈るべきです。

イエス様はそうしました。イエス様は「罪びとの友達」でした。実は、宗教的な人たちが気を悪くするほど、イエス様は罪人たちと時間を過ごしました。

それでも、パウロははっきりと言います。自分がクリスチャンだと主張する人が厚かましく罪を犯すと、私たちはそんなことを寛容に許してはいけませんん。でも、ある教会は、「愛」と「受け入れ」の名によって、そんなふるまいを寛容に受け入れてしまいます。コリント人たちはそうしていたようです。

ある人は、自分がクリスチャンだと主張したけど、自分の母と寝ていました。もしかしたら、それは実の母ではなく、義理のお母さんかもしれませんでした。それでも、一般のコリント人たちはそんな関係を受け入れませんでした。

でもコリント人の教会は、この態度を持っていたようです。「私たちは愛に満ちた教会です。私たちはすぐに人を許して、受け入れます。私たちはとても寛容な教会なので、義理のお母さんと寝ていても、その人を受け入れます。」

でもパウロはそれを聞いて、とても仰天しました。彼はこう言いました。

あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。(6-8)

聖書では、パン種は罪の比喩です。そういうわけで、過ぎ越し祭りの時、ユダヤ人たちはパン種のないパンを食べました。何百年も後、過ぎ越しの祭りの時に、イエス様はパンを裂いて、「これは私の体」だと言いました。そのパンはイエス様の罪のない人生を表しました。イエス様が罪を犯していなかったのに、私たちのために死んでくださいました。

とにかく、パウロはコリント人たちにこう言いました。もしその罪が続くことを許すと、その罪は教会に広がってしまいます。もし、このクリスチャンが厚かましくて罪を犯すのに、あなたたちがその振る舞いを許すなら、ほかの人はその人の模範に従い始めます。だから、その悪意と邪悪のパン種を捨てなさい。誠実と真実に満ちる教会になりなさい。

パウロはさらに言いました。

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。(11)

それは厳しい言葉です。多くの教会は今その言葉を愛の言葉と見なしません。でも、パウロの言葉は本当に明らかです。

しかし、注意してください。パウロはノン・クリスチャンの罪人と罪を厚かましく犯すクリスチャンを区別します。パウロはこう言いました。

外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。(それは違います。)あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。(もちろん。)(12)

そしてパウロはこう言います。

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

教会の人々は罪人を愛するべきでしょうか。もちろんです。でも、愛の名によって、クリスチャンの厚かましい罪を許すべきでしょうか。それはダメです。

それでも、明日、私はもっと説明することがあると思います。お楽しみに。

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コリント人への手紙第一4:14-21--私たちがついていく方

私たちが人生を送るにつれて、私たちはいろんな人を見上げます。たとえば、私たちは両親や先生や、コーチや、牧師などを見上げます。

多くの場合、彼らは良い模範です。でもパウロは、私たちが誰についていくかに注意するべきだと警告します。

クリスチャンの世界でも、多くの人々の言葉が良いに聞こえます。でも、パウロはこう言いました。

神の国はことばではなく、力にあるのです。(20)

そして、パウロがコリント人たちにこう言いました。

主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。(19)

私たちがついていくリーダーたちに関して、「彼らはどんな力を持っているか」と訊くべきです。彼らの力は神様から来るでしょうか。もしかしたら、彼らの力は違うところから来るでしょうか。彼らは自分のカリスマに頼るでしょうか。自分お金に頼るでしょうか。自分の権力に頼るでしょうか。もしくは、彼らの力はサタンから来るでしょうか。

私たちはどのように彼らの力の源を見極めるでしょうか。彼らの実によって見極められます。

イエス様はこう言いました。

偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、裏側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:15-16)

私たちはどんな実を探すべきでしょうか。それは彼らの教えと行為です。パウロは、自分とテモテについて話した時、同じ基準を使いました。彼はこう言いました。

そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えている通りに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(17)

そんな人を見つければ、彼らの模範に従うべきです。だからパウロは、こう言いました。

ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。(16)

でも、彼らの実が腐っているなら、私たちは彼らを避けるべきです。

あなたはどうですか。あなたは誰についていくでしょうか。

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コリント人への手紙第一4:6-13--プライドについての警告

C.S.ルイスというクリスチャンの著者は、プライドを「最大の罪」と呼びました。どうしてでしょうか。なぜなら、プライドは神様と私たちの間に壁を建てるし、私たちと周りの人たちの間に壁を建てるから。

エデンの話で、私たちはその問題を見ることが出来ます。エバのプライドによって、神様のようになりたいと思って、罪に落ちてしまいました。プライドによって、サタンも罪に落ちたようです。

今日の個所では、私たちが見たのは、プライドがコリントの教会を引き裂いていたことです。さらに、プライドはパウロとコリント人の間の壁になりました。

4ー13節と18ー19節によれば、コリント人たちはパウロのことを見下したようです。自分の持ち物や、知識によって、悦に入っていたので、パウロの弱さや苦しみを見た時、彼らはパウロを軽蔑しました。

でも、パウロは彼らにこう言いました。

それは、私たちの例から「書かれていることを超えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。(6)

「書かれていることを超えない」とは、どういう意味でしょうか。

答えがはっきりしないけど、たぶんパウロは、キリストにあって私たちの立場に関する教えについて話しているのだと思います。

つまり、私たちの救いは私たちの身分や行いによらないことです。むしろ、私たちの救いは神様の恵みに基づいています。もし私たちは神様の恵みによって救われた者だと覚えていれば、ほかの人たちを軽蔑することはありません。また、私たちはリーダーたちを比べたりしません。

パウロはその真理をはっきりして教えて、コリント人たちに思い出させました。

いったい誰が、あなたをほかの人よりも優れていると認めるのですか。あなたには、何か、もらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(7)

その最初の答えはちょっと微妙です。もしかしたら、パウロは「私は偉い」という態度を批判しているかもしれない。それがパウロの意図なら、その答えは、「あなたをほかの人よりも優れていると認める人がだれもいません」。でも、もしかしたら、パウロのポイントは、「もしあなたが本当に優れている人なら、神様は恵みによってあなたにその立場を与えてくださったのです。」

最後の答えははっきりしています。2番目の答えは、「何も」です。要するに、あなたがもらわなかったものは何もありません。

そして、3番目の答えは「あなたには誇る理由がありません。」

その答えを考えると、私たちは謙遜な態度を持っていなくてはなりません。

でも多くの場合、私たちはそのように考えません。むしろ、私たちのプライドによって、私たちと神様の間に壁を建てるし、私たちと周りの人たちの間に壁を建ててしまいます。

私たちが神様の恵みを実感したら、私たちの考え方は全然違うでしょう。どれだけ、私たちの神様との関係や、配偶者との関係や、教会の人との関係や、ほかの関係は良くなるでしょう。

あなたはどうですか。あなたのプライドによって、どんな壁を建てているでしょうか。

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コリント人への手紙第一4:1-5--忠実だと認められること

使徒ヤコブはこう書きました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

私は聖書を教える立場なので、私にとってそれはちょと恐ろしい言葉です。神様は私にみ言葉を与えたし、そのみ言葉を教える賜物を私に委ねました。だからパウロの言葉も、私の心を打ちます。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(4:2)

でも、私たち皆が神様からゆだねられたものを持っています。神様は私たちにいろんな資源や、賜物や、才能を委ねました。そして、神様は、私たちがその物を忠実に使うことを期待します。私たちがそうしないと、私たちは神様に責任を問われます。

神様は私たちの裁判官なので、私たちはほかの人よりも神様を喜ばせようとしなくてはなりません。私たちは最終的に牧師や、教会の人や、ほかの人ではなく、神様だけを喜ばせなくてはなりません。

だから、私たちはいつも自分の心を探らなくてはなりません。私たちの動機は何でしょうか。私たちは正しい動機を持って、神様に仕えているでしょうか。私にも自分の動機について疑いがあります。裁きの日にキリストが私に何を言うかちょっと恐れます。イエス様は何を言うでしょうか。

パウロにはやましいことは少しもありませんでしたけど、パウロも自分の動機に関して、ちょっと疑いがありました。彼はこう言いました。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(3-5)

たぶんパウロの要点の一つは、私たちが自分の心をプライドから守らなくてはならないことです。あなたの動機は正しいと思うかもしれないけど、あなたの自己評価が正しいとは限りません。

預言者エレミヤはこう書きました。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ書17:9)

主はこのように反応しました。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:10)

だから何をしても、自分の心を探りましょう。また、主があなたの心を探るように祈りましょう。主が私たちの動機を現すように祈りましょう。そうすれば、私たちは謙遜な態度を保つし、私たちに委ねられたものを忠実に使います。

あなたはどうですか。神様からゆだねられたものを忠実に使っているでしょうか。

 

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コリント人への手紙第一3:5-9--主に仕えるときの私たちの態度

ある程度、私は前回のブログのことを繰り返します。でも、今回はある物事を特に強調したいと思います。

一つ目は、神様と働くのは私たちの特権ということです。パウロはこう言いました。

私たちは神のために働く同労者であります。(9)

聖書の脚注を参考すると、別訳を見ることが出来ます。

「私たちは神の協力者。」

それをちょっと考えてみてください。神様は実際私たちの助けを必要としません。神様は一人で自分の仕事をすることができます。でも、神様は私たちを用いることを選びます。神様は私たちにその仕事に参加するように招待します。それは本当に驚くべきことです。

神様の私たちを救った目的は、私たちがただ座って神様の恵みを楽しむことではありません。神様は、私たちが御国で活躍することを望みます。だから、神様は私たちを招きます。「私の仕事に参加しませんか。一緒に働きましょう。」

でも二つ目のポイントは、神様が私たちを招く目的が私たちの栄光ではないことです。パウロはこう言いました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。(5)

しもべは周りの人々の注意を引こうとしません。もっとも良いしもべは、人から気づかれません。それでも、その人はやらなくてはならないことを忠実にします。そして、日が終わると、その人はこう言います。

私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです。(ルカ17:10)

この世の主人はしもべを評価しないかもしれないし、見下すかもしれないけど、神様は私たちを協力者と見なします。そして神様は私たちと共に働きます。

なぜなら、神様が私たちの人生の中で働かず、また私たちを通して働かないなら、私たちは何も達成できませんから。だからパウロはこう書きました。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(6)

そういうわけで、私たちには誇る余裕がありません。パウロは続けます。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(7)

最後に覚えていなくてはならないのは、神様の仕事に参加する人々は教会のリーダーたちの労働者ではないことです。彼らは神様の畑、神の建物です。(9)

多くの人々は、ミニストリーの縄張りを作ります。もし私たちが同じミニストリーをしているなら、それが自分の縄張りとみなします。また、そのミニストリーで働く人を自分の労働者であると思い始めます。

でも主はそれぞれの人々に仕事を指名します。また、主はいつも人々を仕事に参加するように招くから、その人々が参加し始めると、ほかの人の責任は変わるかもしれません。そして、それは御国の成長のためです。

でもイエス様がほかのクリスチャンを呼ぶとき、あるクリスチャンは怒ります。なぜなら、その新しい人々は彼らの縄張りを荒らしているから。そして、相手がもっと才能があるなら、彼らは嫉妬してしまいます。

でも覚えていてください。すべてのクリスチャンはキリストの体の中で、自分の役割を持っています。神様はそれぞれのクリスチャンたちに役割を与えてくださいました。私たちはもちろん神様と共に働くけど、ほかのクリスチャンたちと共にも働きます。だから、縄張り意識と嫉妬を捨てましょう。なぜなら、教会は神様の畑、神様の建物ですから。

でも中でも、私たちの神様との関係に焦点を当てましょう。神様が自分の仕事に参加するように私たちを招く理由は、私たちが神様と時間をもっと過ごすことです。そうすれば、私たちは喜びを見つけます。

あなたが神様の仕事をするとき、どんな態度を持っているでしょうか。

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コリント人の手紙第一3:5-23--何の原料で教会を建てるでしょうか。

今日の個所では、パウロは、私たちがどのように教会を建てているかについて話します。そしてパウロは、私たちがどのように教会を建てるかに注意しなくてはならないと言います。

だから最初にパウロは教会の基礎について話します。もちろん、その基礎はキリストです。(11)

でも私たちは何の原料で、その基礎の上に教会を建てるでしょうか。それは牧師のカリスマでしょうか。または、ねたみでしょうか。もしくは、蔭口でしょうか。または、プライドでしょうか。

牧師のカリスマは悪いことではないけど、それは安定的な原料ではありません。

でもそのほかのものはどうですか。それらは教会を壊してしまいます。だから教会のメンバーたちそれぞれは、牧師でも最も新しいメンバーでも、自分の役割を果たしている間に、自分自身に訊くべきです。「私は何の原料で、この教会を建てようとしているでしょうか。」

私たちが使っている原料によって、私たちは裁かれます。

パウロはこう言いました。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(12-15)

自分の役割をちゃんと果たさないなら、私たちは地獄には行かないけど、自分の報いを失ってしまいます。だからある人は天国に行くけど、彼らの成果は全部なくなります。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの心は神様の目に正しくなかったからです。彼らはねたみやプライドに満ちた心を持っていました。そんな態度によって教会の分裂が出てきたり、教会が破壊されたりします。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。(16-17)

パウロが言ったのは、あなたがたクリスチャンたちは神様の宮ということです。言い換えれば、教会は神様の宮です。もし私たちの行動によって、教会が滅びるなら、神様は私たちを裁きます。私たちのプライドや、ねたみによって教会が壊れたら、私たちは神様に責任を問われます。

だからパウロは、「そんなものを捨てなさい」と言います。プライドやねたみや分裂に至る知恵を捨てなさい。むしろ、十字架の「愚かさ」を抱きましょう。十字架の愚かさは、私たちに謙遜な心、また感謝深い心に至ります。そんな心を持つなら、私たちが互いに受け入れ合う態度に至ります。

あなたはどうですか。あなたが牧師でも、教会の最も新しいメンバーでも、あなたは教会を建てる役割を持っています。何の原料で教会を建てているでしょうか。

 

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コリント人への手紙3:1-4--幼子

2章では、パウロは「成熟したクリスチャンたち」や「御霊を受けている人」について話します。この場合、「御霊を受けている人」は「霊的な人」というニュアンスがあります。つまり、聖霊様を受けているだけではなく、その人は聖霊様の導きに従うことです。

でもパウロは、コリント人たちを「成熟したクリスチャン」や「聖霊様の導きに従ているクリスチャン」と呼ぶことが出来ませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私は、あなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。(1-4)

それはとても厳しい言葉です。でも、パウロはあなたを見れば、何を言うでしょうか。もしイエス様はあなたを見れば、何を言うでしょうか。

私の言葉を誤解しないでください。もしあなたは最近クリスチャンになったばかりのなら、私はあなたについて話していません。もちろん、あなたが赤ちゃんのクリスチャンだから、いろんな成長しなくてはならないところがあるでしょう。でも、赤ちゃんが決して成長しないなら、何か深刻な問題があります。

もし私の10歳の娘がまだ哺乳瓶からミルクを飲んでいるなら、それはおかしいでしょう。赤ちゃんの時にそれは可愛いけど、10歳の子にはふさわしくありません。もし、彼女が歩かずに、まだはいはいしているなら、それはおかしいでしょう。もし、彼女がまだ赤ちゃん言葉だけを言うなら、それはおかしいでしょう。

でも、多くのクリスチャンたちはまだ幼子です。彼らは全然成長しませんから。

つまり、彼らはまだ「肉に属する人」ということです。そんな人はまだノン・クリスチャンのように生き続けます。コリント人たちの場合、彼らの心はねたみに満ちて、いつもケンカしていました。彼らはプライドをもって、彼らのリーダーたちを比べて、ほかのクリスチャンたちを見下しました。だから、彼らの教会は引き裂かれていました。

現代でも、どれだけ教会が同じ理由で引き裂かれているでしょうか。どれだけ、その問題のせいで、多くの人々は教会をやめるでしょうか。それは未成熟の兆候です。

もしあなたの心はそんなものに満ちているなら、どのように成長することが出来るでしょうか。あなたは根本的なことに戻らなくてはなりません。つまり、あなたは福音のミルクをもう一度飲まなくてはなりません。そのミルクは何ですか。そのミルクに何の真理が入っているでしょうか。

それは、神様はあなたを愛していることです。あなたの身分のためではなく、あなたの行いのためではなく、神様の性格のため、神様はあなたを愛しています。あなたの罪のために死ぬようにイエス様をこの世に送ったほどに、神様はあなたを愛していました。

どいうして私たちはプライドを持っているでしょうか。どうして自分自身をほかの人と比べるでしょうか。どうして、私たちは相手をねたんで、喧嘩するでしょうか。なぜなら、その神様があなたを愛しているという真理をまだ実感しないから。

もし私たちは神様の愛を本当に知っているなら、ほかの人の私たちに対する意見を気にしません。

相手をねたまないし、自分自身を相手と比べません。なぜなら、神様が私たちをありのままで受け入れるから。

さらに、私たちはプライドを捨てます。なぜなら、私たちが自慢することがないと分かるから。私たちが持っているもののすべては、神様から来ました。もし、私たちがその祝福のために働かずに、むしろ、私たちがただでその祝福をもらったら、自慢する余裕がありません。

あなたはどうですか。その真理が身に染みたでしょうか。

私たちがこの世界の考え方に従わないように。私たちが幼子にならないように。むしろその真理を飲み込みましょう。そうすれば、私たちは成長して、神様が望んむ通りになります。

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コリント人への手紙2:6-16--神様の思いを知ること

目に見えない神が自分自身を私たちに現わさないなら、私たちはその神について何も知らないでしょう。さらに、その神が自分自身を私たちに現しても、私たちに理解できる心を与えてくださらないなら、私たちにはその啓示が分からないでしょう。

それは救いと恵みの不思議さの一つです。私たちに神様が見えないけど、神様は自分自身を現してくださいました。そして、私たちが自分の知恵で神様が何を現したか把握できなかったけど、神様は聖霊様を通して私たちにその理解を与えてくださいました。

この個所で、私たちはその真理を見ることが出来ます。

パウロはこう訊きました。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(11)

結婚する前、私は婚約者にこう言いました。「私はあなたの思いを読み取ることが出来ません。だから、気になっていることがあれば、私に教えてください。」

人々の思いを読み取るのはとても難しいことです。彼らはいったい何を思っているでしょうか。何を感じているでしょうか。何を計画しているでしょうか。

もし私たちに見える人々の思いを読み取れないなら、どうやって、目に見えない神の思いを読み取ることが出来るでしょうか。

自分の知恵によって、人々は神様とその計画が理解できないでしょう。7ー8節で、パウロは一つの例を与えます。それは、神様の救いの計画です。神様はもともと何をするか分かったけど、人々はその計画を完全に理解できませんでした。

神様はユダヤ人たちに儀式や預言者の言葉を通して、救いの描写を与えてくださいました。でも、彼らはその描写を把握することが出来ませんでした。だからパウロはこう言いました。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(8)

大祭司であったカヤパでも、その計画を把握することが出来ませんでした。皮肉なことだけど、カヤパは自分の言葉の意義を把握することが出来ませんでした。彼はイエス様についてこう言いました。

一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。(ヨハネの福音書11:50)

ヨハネは後でカヤパの言葉を解説しました。

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。ヨハネの福音書11:51-52)

神様がカヤパを通して預言するのは、とても不思議なことです。でも、パウロの言葉は完全にカヤパを描写します。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(14)

カヤパは大祭司だったけど、誰かがイエス様が人々の罪のために死ななくてはならないと伝えていたら、カヤパは、その人が頭がおかしいと思ったでしょう。どうしてでしょうか。なぜなら、聖霊様はカヤパのうちに住んでおられなかったからです。

でも、聖霊様は私たちのうちに住んでおられます。だからパウロはこう言いました。

しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。(9-10)

また、

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(12)

また、

「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。(16)

私たちはすべてのことが分かるでしょうか。もちろんそうではありません。私たちがはっきり見えないことがまだいっぱいあります。神様は私たちの救いをよく現したけど、救いも神秘的なものです。でも神様に近づいて、霊的に成長するにつれて、神様は霊的な真理を教え、さらにいろんなことを現してくださいます。(13)

だからこう祈りましょう。「聖霊様、私があなたを知るように、また、あなたが何を整えてくださったことを知るように、私の心の目と耳を開いてください。」

そのように祈れば、聖霊様は必ず自分自身を現してくださいます。

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コリント人への手紙2:1-5--力を持って、話すこと

私はしばしば教会で話すし、もちろんこのブログも書くので、この個所は私にとってとても大切です。

パウロはこう書きました。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(1-5)

もし牧師や、バイブルスタディーのリーダーや、日曜学校の先生として聖書を教えているなら、この個所を暗記して、メッセージを準備するたび、またメッセージをするたび、この個所の言葉を噛み締めるべきだと思います。

正直に言うと、私もこの個所をもっと復習するべきなのです。

私は日曜日にいいメッセージを伝えようと思います。私のメッセージがわかりやすいものであるようにと思います。

でも、私が覚えていなくてはならないことがあります。私の言葉と知恵によって人々に影響に与えることができるかもしれないけど、私の力で人を変えようとするのは、限界があります。どうしてでしょうか。なぜなら、私の知恵と説得力は、とても限定されているものだからです。

さらに、私は人々に自分自身を変える力を与えることができません。彼らは私の言葉を聞くとき、同意するかもしれません。

彼らは、「私が敵を愛するべきだと同意します。相手を許すべきだと同意します。罪を捨てて、義を着るべきだと同意します。」と言うかもしれません。

でも、神様が彼らの心の中で働かないなら、何も変わらないでしょう。

パウロが分かったのは、一つのものだけが人を変えることができることです。それは十字架のメッセージからの神様の力です。十字架のイエス様の働きこそによって、私たちは神様との関係ができます。イエス様の働きこそによって、私たちの神様に対する反抗的な心が無くなって、新しい心をもらいました。イエス様の働きこそによって、私たちは古い人生を捨てることができて、本当の命を知ります。

だから、パウロはこう言いました。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。(2)

あなたはどうですか。あなたは教会でどんなメッセージを聞くでしょうか。そのメッセージは十字架中心でしょうか。もしかしたら、そのメッセージは牧師の知恵によるでしょうか。そのメッセージは、「自分自身を変えるべきだ」というメッセージでしょうか。

あなたが聖書を教える人なら、あなたのメッセージの準備の焦点は何でしょうか。それは、教会の人々を楽しませることですか。自分の知恵と知識によって、人々を感動させようとしていますか。もしかしたら、あなたはイエス様、しかも十字架につけられたキリストを述べ伝えているでしょうか。あなたが話すとき、神様の力はあなたを通して流れるでしょうか。教会の人たちの信仰は、あなたではなく、イエス様に基づいているでしょうか。

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コリント人への手紙第一1:26-31--自慢する余地がない

神様の「愚かさ」を描写するため、パウロはコリント人の教会を指します。

もしあなたが神で、たくさんの人々を救いたいと思うなら、金持ちや、権力者たちや、賢い人たちを先に救おうとするのではないでしょうか。なぜなら、彼らはたくさんの人たちに影響を与えられるから。でも、パウロはコリント人たちに関して、こう言いました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えて見なさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるためにこの世の弱い者を選ばれました。あるものをないものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。(26-29)

もちろん、パウロは神様が知者や、力ある者たちや、身分の高い者たちを全然救わないことを意味しません。パウロは、教会にそんな人が全然いないと言わずに、そんな人が多くはないと言いました。

でもパウロのポイントは、神様が人々のお金や身分によって選ばずに、恵みによって人々を選ぶことです。そして神様は、弱い人々や取るに取りないと考えられた人々を通して、強い人々や賢い人々を恥じ入らせました。どうやって、その弱い人々や取るに取りない人々は、強い人や賢い人々を恥じ入らせたでしょうか。神様に対する彼らの信仰によって、そうしました。

例えば、年寄りのノアは神様を信じて、大きい箱舟を作りました。隣人たちはノアが頭たがおかしいと思っていたでしょう。なぜなら、その辺に海がなかったし、そんな箱舟を必要とする人がいませんでしたから。でも、雨が降って、洪水が来た時、ノアの知恵は証明されました。

イスラエル人たちをエジプトから救い出した後、神様は彼らを強い城壁のあるエリコに導きました。でも彼らはすぐに攻撃しませんでした。むしろ、彼らはエリコの周囲を一度回りました。彼らは6日間そうしました。7日目には、彼らは7度エリコを回り、祭司たちが角笛を吹き鳴らしました。そして彼らは叫んで、城壁に向かって走り始めました。

その作戦を始めて聞いたとき、イスラエルの軍人たちは将軍ヨシュアの頭がおかしいと思っていたでしょう。さらに、エリコの人たちがイスラエル人たちが町を回るときに、イスラエル人たちが何をしているか疑問に思ったでしょう。でも、7日目にイスラエル人たちが城壁に向かって走り始めた瞬間、その城壁が崩れ落ちてしまいました。だからその日、イスラエル人たちは大勝利を得ました。

何百年後、ダニエルという若いユダヤ人はバビロンに追放されました。それでも、ダニエルとその友達は神様の律法に従いたいと思ったので、王から備えられた食べ物を拒否しました。むしろ、彼らはただ野菜を食べたり、水を飲んだりしました。ほかのユダヤ人たちはそれを見て、ダニエルたちが頭がおかしいと思っていたでしょう。でも最終的に、ダニエルたちはほかのユダヤ人たちより、健康だったし、賢くて有能な人でした。

何回も神様はそのようなことをしました。

でも究極の例は十字架です。その時代の人々にとって、十字架は弱さと敗北の象徴でした。でも、十字架を通して、神様は私たちの救いをもたらしました。そして、神様は世が称賛する人々だけではなく、世が軽蔑する人も救います。

クリスチャンたちが弱いと考える人もいます。彼らが思うのは、あまり賢くない人たちや、感情的にダメージを受けた人たちだけが神様を必要とすることです。私たちが自分自身に頼らずに、神様に頼るので、彼らは私たちを軽蔑します。

でも最終的に、彼らは恥じ入らせられます。

でも、覚えていてください。あなたがクリスチャンなら、自慢する余地はありません。あなたの身分や、あなたの行為によって、神様があなたを救ったわけではありません。神様が誰であるかのため、また神身様の御業のために私たちを救ってくださいました。だからパウロはこう書きました。

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(30)

パウロはの結論は?

「誇ろ物は主を誇れ」と書いてある通りになるためです。(31)

あなたは何を誇るでしょうか。自分自身を誇るでしょうか。あなたは最終的に恥じます。

神様を誇るでしょうか。それなら、プライドの余地はありません。

あなたは何の態度を持っているでしょうか。

 

 

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コリント人への手紙第一1:18-25--人間の哲学と知恵の空しさ

18節を読んだとき、パウロの言葉は私の心を打ちました。

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(18)

私が子供のころからクリスチャンだったから、十字架の言葉(つまり、十字架のメッセージ)は私にとって当たり前のものでした。私はそのメッセージを教えられたので、それを信じました。

でも、もし誰かが、「あなたの救いは電気椅子のメッセージによります」と言ったら、また、「あなたの救いは絞縄のメッセージによります」と言ったら、私はその人の頭がおかしいと思うでしょう。

そのように、ユダヤ人たちやギリシア人たちはパウロのメッセージを聞いたとき、パウロの頭がおかしいと思いました。

パウロはこう言いました。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを述べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかなことです。。。(22-23)

神様がいろんな奇跡を通してイスラエル人たちをエジプトから救い出したように、ユダヤ人たちは神様が力を振るって、彼らをもう一度救い出すように期待しました。神様がモーセを通していろんなしるしを行って、エジプト人の軍隊を滅ぼしたので、ユダヤ人は、メシアが同じようなしるしを行って、ローマ帝国を滅ぼすように期待しました。

でもパウロが宣べ伝えた救いのメッセージは、ローマの十字架に死なれたメシアというメッセージでした。ローマ人たちはそのメシアを打ち、十字架につけて殺しました。だから多くのユダヤ人たちは、イエス様がメシアであることを受け入れられませんでした。

その反面、ギリシア人たちは哲学に感動しました。だから、イエス様の教えが彼らの考え方をチャレンジすることが出来たら、彼らには興味がありました。でもパウロはアテネでイエス様について話した時、イエス様の教えではなく、イエス様の死と復活について話しました。だから、彼らはパウロの言葉をすぐに捨ててしまいました。「このパウロは、頭がおかしいなあ」と思いました。(使徒の働き17:31-32)

自分の考え方と知恵にしがみつきながら、神様の知恵を求めることは大問題です。そうすれば、神様が私たちの期待に合うことを要求します。神様の言葉と行為が私たちの知恵と論理に合うことを要求します。そして、神様の知恵と行為が私たちの知恵や考え方に合わないと、神様の言葉と行為を愚かと見なして、捨ててしまいます。

でもパウロはこう言います。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(25)

私は神様の行為とその理由が分からないときもあると気軽に認めます。例えば、どうしてイエス様の十字架の働きは私たちの罪の代価を払うことが出来るでしょうか。具体的な説明が欲しいです。どうして、一人の行為はすべてのクリスチャンの罪を覆うことが出来るでしょうか。私は分かりません。私はいろんな説明や、描写を聞いたので、ある程度までは、その理由が分かります。でもそれと同時に、どうしてある人々がその教えが愚かだと思い、信じないかも分かります。

でも神様は、私たちが愚かであると思うものが実際には賢明であることを証明します。私たちが神様の弱さを見つけたと思う時、神様はその弱さが実際に力であることを証明します。

そして最終的に、神様は「知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りあるものの悟りを消し去る。」(19)

だから、パウロは訊きます。

知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(20-21)

私たちは自分の知恵や、自分の条件によって神様を見つけることが出来ません。私たちの考え方は小さすぎますから。もし神様を見つけたいと思うなら、私たちは神様とその知恵に従わなくてはなりません。最初のステップは、イエス様を主として認めることです。なぜなら、十字架につけられたイエス様は私たちにとって、神様の力と知恵ですから。(24)

イエス様は、私たちを救う神様の力です。そして、イエス様は、人間になった神様の知恵です。そしてイエス様の知恵は人間の知恵より優れたものです。

これから、イエス様に従いませんか。

 

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コリント人への手紙第二1:10-17--人々をイエス様の立場に上げること

クリスチャンたちがリーダーたちに感心して、そのリーダーたちを模範として見上げるのは自然なことでしょう。なぜなら、そのリーダたちは何年もイエス様に従っているし、いろんな知恵と知識があるはずですから。さらに、私たちは彼らに会って、話すことも出来ます。

もちろん、人々を私たちの模範として見上げるのは悪いことではありません。でも、私たちが彼らをイエス様の立場に上げると、それは危険です。なぜなら、私たちはイエス様に従わずに、そのリーダーたちに従い始めるから。また、そのリーダーたちはイエス様よりも、私たちの模範になってしまいます。

そうすると、教会の分裂が出やすくなります。コリント人のクリスチャンたちはその問題を持っていました。ある人々は「私はパウロにつく」と言いました。ほかの人々は「私はアポロにつく」と言いました。また、ほかの人々は「私はケファ(つまり、ペテロ)につく」と言いました。

だから、パウロは皮肉を言いました。

キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(13)

要するに、「いったい誰に従っているでしょうか。」

3章で、パウロはこう言いました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられた通りのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。(3:5-7)

簡単に言うと、「人々を神様の立場に上げるのをやめなさい。その人たちはただの神様のしもべです。主人よりもしもべを大事にする人は誰もいません。だから、教会のリーダーたちがただのしもべなのに、どうして彼らを神様の立場に上げるでしょうか。」ということです。

でも多くのクリスチャンたちはそうします。だから、多くの教会の中で、いろんな分裂があります。

でも、人々を神様の立場に上げることには、もう一つの問題があります。彼らがただの人間だから、結局彼らは私たちを失望させてしまいます。もし、私たちの信仰が神様ではなく、その人々に基づいたら、彼らが失敗したり、私たちをがっかりさせたりすると、私たちの信仰も落ちるかもしれません。

だから人々がどれだけ敬虔な人でも、彼らを私たちのために死んでくださり復活したイエス様の立場に上げないでください。牧師たちを比べないでください。どの牧師がもっと偉いか議論しないでください。神様は彼らにそれぞれの仕事を与えてくださいました。私たちには彼らを裁く権利がないし、彼らとほかの牧師と比べる権利を持っていません。その判断を彼らの主イエス様に委ねましょう。

そして、自分の信仰をほかの人々の信仰に基づいてはいけません。むしろ、自分の信仰と希望は神様に基づくべきです。私たちが自分の信仰をほかの人々に基づいたら、私たちは結局がっかりしてしまいます。でも、イエス様に信頼するなら、私たちは失望させられることがありません。(ローマ書10:11)

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コリント人への手紙1:1-9--清められて、聖なる人生を送るように呼ばれた

この手紙を読むと、私たちはコリントの教会にはいろんな深刻な問題があったことが分かります。

その問題を考慮に入れて、この教会に関するパウロの言葉は驚くべきものです。パウロはその教会の人々を聖なる者と呼んだし、彼らが聖徒として召されたと言いました。

彼らの問題を考慮に入れると、コリント人のクリスチャンたちを聖なる者を呼ぶのはふさわしくないようです。なぜなら、彼らは聖徒だったかもしれないけど、聖徒として歩んでいなかったのですから。

でも神様は私たちの現在の状態だけを見ずに、私たちの将来をも見ます。だから、兄弟たちと姉妹たちを見ると、私たちはそれと同じ態度を取るべきです。私たちは彼らの現在の状態だけを見ずに、彼らをキリストに聖別された人々として見るべきです。彼らはキリストのものです。

そしてパウロのように、私たちは彼らを聖徒として歩むように励ますべきです。私たちは、彼らがもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったイエス様のために生きるべきだと言うことを思い出させるべきです。(第二コリント5:15)

それだけではなく、私たちは自分自身にそのことを思い出させなくてはなりません。

私たち自身を見るとき、がっかりするのは簡単なことです。なぜなら、私たちは自分の罪を見て、どうして神様が私たちを受け入れられるか疑問に思うから。でも、神様が私たちをもう受け入れていることを思い出しましょう。神様は自分のために私たちを聖別しました。だから、そのように歩みましょう。

でも、私たちが自分の力で歩む必要はないと覚えていてください。パウロはこう言いました。

主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。(8-9)

私たちはいつも忠実な人ではありません。でも神様はいつも忠実な方です。そして、私たちが責められるところがない者としてキリストの前に立つ日まで、神様は私たちの人生に働くことをやめません。

あなたはどうですか。あなたの兄弟たちと姉妹たちを見るとき、どんな人を見るでしょうか。自分自身を見るとき、どんな人を見るでしょうか。

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ローマ人への手紙16:25-27--私たちを堅く立たせることができる方

これは、ローマ人への手紙に関する私の最後の記事です。この手紙について書くのは、本当に楽しいことでした。そして、パウロはこの手紙を始めたように、この手紙を終えます。パウロは私たちに、救いが最終的に神様の働きということを思い出させます。パウロはこう書きます。

私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって、隠されていた億着の啓示によってーー永遠の神の命令に従い、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた億着の啓示によって、あなたがたを強くすることが出来る方(別訳:あなたがたを堅く立たせることができる方)、知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(25-27)

この個所によって、私たちは福音の不思議さを見ることが出来ます。イエス様がこの世に来る何百年も前に、神様は預言者たちを通して将来に何が起こるかの片鱗を見せました。預言者たちの言葉には何年も不明なところがあったけど、イエス様にあって、その言葉は明確になりました。だから今、すべての国民はイエス様を信じ、従うことが出来ます。

でも、この福音は私たちの行いによりません。むしろ、この福音は神様の恵みによります。神様は私たちを信仰と救いに立たせました。

時が始まる前に神様は私たちを選んで、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めました。

イエス様を通して、神様は私たちの罪の代価を支払ってくださいました。そして、私たちが天国でイエス様を見る日まで、神様は日々、聖霊によって私たちを清めてくださいます。

それは救いの不思議さです。私たちは救いに値しないのです。私たちは救いのために働かなかったのです。でも、恵みによって、神様が私たちの上に愛を注いだので、私たちはイエス様を信じました。そしてある日、私たちはイエス様のようになります。

だから、パウロはこの手紙をこのようにまとめました。

知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(27)

 

 

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ローマ人への手紙16:17-20--私たちが純朴な人にならないように

この手紙を終える前に、パウロはローマのクリスチャンたちに警告します。

兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。(17)

パウロは何について話しているでしょうか。パウロは、偽教師とその教えについて話しているのです。パウロの時代の教会でも、偽教師は大問題だったし、現代の教会でも、偽教師は大問題です。だからパウロは、「そんな人に注意しなさい」と警告します。

でも多くの場合、そんな人を認識するのは難しいです。なぜなら、彼らの教えは良いことに聞こえるから。パウロはこう書きました。

彼らは、滑らかな言葉、へつらいの言葉をもって、純朴な人たちの心をだましています。(18b)

でも実は、

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。(18a)

だから、パウロはこう言います。

。。。なお私が願うのは、あなたがが善にはさとく、悪にはうとくあることです。(19b)

私たちは、どのように偽の教師とその教えが認識することが出来るでしょうか。そのカギは17節に書いてあります。彼らの教えは私たちの学んだ教えに背きます。

もちろん、私の前提はあなたがキリストに関する本当の教えを学んだ事があることです。もしその教えを知らないなら、あなたは善にさとくないし、悪にうとくないのです。むしろあなたは狼の純朴な獲物になります。

でも、ローマ人のクリスチャンたちは神様のみ言葉に踏まえたので、パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいます。。。平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。(19-20)

だから神様の言葉を踏まえてください。神様の真理を求めてください。そうすれば、あなたは決して騙されません。

銀行員たちは偽札が分かるように、偽札を勉強しません。むしろ、彼らはいつも本当のお札に触るので、偽札に触ると、そのお札が何か違うと分かります。

そのように、神様の言葉をよく知っているなら、あなたは騙されません。

だから、神様の良い真理をよく勉強しましょう。そして、

平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みがあなたがたとともにありますように。(20)

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ローマ人へ手紙16章ーー非常に苦労している人。試されて、認められる人。

この個所では、パウロはたくさんの人々に挨拶します。パウロはその人たちを本当に評価しました。ある人々はパウロを経済的に支えました。ほかの人々はパウロとともに働いていました。福音のため、パウロとともに牢にいた人もいました。

でも、特に二つのことが私の心を打ちました。パウロは非常に苦労していたマリヤとペルシスについて話しました。そして、パウロはアペレという人について話しました。パウロは、アペレがキリストにあって認められている人だと言いました。「認められる」というニュアンスは、「試されて、認められる」ということです。

人々が私を見るとき、私についてそんなことを言われたいなぁと思います。私が神様のために苦労していると言われたいです。私が神様から任された仕事を忠実にしていたと言われたいです。そして、私がいろんな試練に直面しても、キリストにあって、私が試されて認められたと言って欲しいのです。

でも、私の最高の望みは、私が天国に行くと、神様が私に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言ってくださることです。

人からの誉れ言葉はもちろん良いことですけど、それよりも神様からの誉れの言葉が大切なのです。

あなたはどうですか。神様とあなたの周りの人々はあなたについて何を言っているでしょうか。

 

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ローマ人への手紙15:30-33--前線部隊を支えること

時々、私たちが霊的な戦争中であることを忘れるのは簡単なことでしょう。でも、私たちは実に戦争中です。

そして多くの人々は前線で福音を述べ伝えています。ある人々は自分の近所でそうしているし、ある人々は外国でそうしています。でも、どこでイエス様に仕えても、彼らには私たちの祈りが必要です。

パウロ自身、そう知っていました。もし、ほかのクリスチャンたちの祈りが要らない人がいるなら、パウロはそんな人でしょう。でも、パウロはそのように考えませんでした。パウロは自分の力で神様の仕事をすることが出来ないと認めていました。だから、パウロは、ローマの教会にこう書きました。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように。。。(30-31)

「私とともに力を尽くす」という表現は興味深いです。別訳では、「私とともに戦う」ということです。

牧師たちや宣教師たちについて考えるとき、私たちはしばしば彼らを超人たちと見なします。でも、彼らは超人たちではありません。彼らはただの人間です。そして、彼らは大変な戦いの中にいます。だから、その戦いに参加して、彼らのために祈ってください。

あなたの牧師たちのために祈ってください。前回の記事では、私は牧師たちを経済的に支えることについて話していました。でも、彼らはあなたの霊的な支持もまた必要です。だから彼らのために祈ってください。

あなたが知っている宣教師たちのために祈ってください。彼らもあなたの祈りを必要とします。

霊的な前線部隊の人たちを決して忘れないでください。

もちろん、私たち皆は神様の働きに参加するはずです。その御国の仕事に参加するとき、サタンやその悪霊は私たちを攻撃しようとします。でも、彼らは特に前線部隊の人たちを攻撃しようとします。だから、その人たちのために祈りましょう。

さらに、彼らを励ましましょう。そして神様が私たちを祝福する限り、彼らを経済的にも支えましょう。

時々、前線は孤独なところです。だから、あそこにいる人々を励まして、支えましょう。

 

 

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ローマ人への手紙15:23-29--霊的な祝福を与えてくれる人に祝福を返すこと

お金はいつもちょっと気まずいトピックです。特に、教会では、十一献金について話すのは気まずいのです。多くのクリスチャンたちは、十一献金が新約聖書の教えではないと考えています。私も、ある程度まではその意見に同意できます。

しかし、聖書がはっきり教えているのは、私たちを霊的に祝福してくれる人を経済的に支えるべきだということです。この個所で、その原則を見ることが出来ます。

もちろん、この個所では、パウロは十一献金について話していません。パウロは、貧しいクリスチャンを助けるために、マケドニヤとアカヤからの経済的援助をエルサレムに持っていくプランについて話しています。

でも、パウロはとても興味深いことを言います。

彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。

二つのことに注目してください。

一つ目は、マケドニヤ人たちとアカヤ人たちは自ら望んでユダヤ人のクリスチャンたちに与えたことです。

二つ目は、パウロによれば、彼らにはユダヤ人のクリスチャンたちを助ける義務があったことです。なぜなら、イエス様が言ったように「救いはユダヤ人から出る」からです。(ヨハネ4:22)

つまり、神様がユダヤ人たちを通して、イエス様をこの世に送ったことです。そしてペテロや、パウロや、バルナバや、ほかのユダヤ人たちが異邦人たちに福音を伝えたので、たくさんの異邦人は救われました。

だから、パウロは言います。「異邦人たちはユダヤ人たちからいろんな霊的な祝福を受けたので、彼らはユダヤ人たちに物質的な祝福を返すべきです。」

そのように、私たちも自分の牧師を支えるべきだと思います。私たちの牧師たちは私たちにいろんな祝福を与えてくれました。私たちが神様を知るように、彼らは自分のいのちを神様にささげました。だから、彼らが自分の家族を支えるように、私たちは彼らを経済的に支えるべきです。

でも、ただの義務を感じる心を持って与えずに、私たちは自ら望んで与えるべきです。別の書簡で、パウロはこう書きました。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

だから、いやいやながら与えないでください。そんな態度を持つなら、与えない方がいいです。

でも、あなたがお金に執着して、あなたを霊的に支えてくれる人を経済的に支えたくないと思うなら、その点では、あなたには成長する必要があります。

なぜなら、イエス様は人々に与える方でしたから。イエス様は私たちのために天国を去りました。また、私たちのためにイエス様は自分のいのちをささげました。

私たちが本当にイエス様を愛しているなら、その態度を持つべきではないでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは人々に与える者でしょうか。

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ローマ人への手紙15:14-22--人々が見るようになり、悟るようになるため

パウロのような人について読むと、また、自分の牧師を見ると、特別な人だけが奉仕する資格があると思うのは簡単なことです。もちろん、パウロは異邦人に福音を伝える恵みを受けました。そして、パウロの働きによって、たくさんの人々は福音を聞いて、わかるようになりました。パウロによって、私たちのようなユダヤ人ではない人たちもクリスチャンになりました。

でも、私たち皆が奉仕するように召されました。私たち皆が、福音を伝える祭司の務めを持っています。私たちを通して、聖霊様が人々を清めて、彼らは神に受け入れられる供え物になります。(16)

もしかしたら、あなたはこう思うかもしれません。「私はそんなことが出来ない。私は奉仕することが出来ない。だって、私は、人を変える力を持っていない。」

もちろん、あなたはそんな力を持っていません。でも、イエス様はその力を持っています。パウロは自分の業績を誇りませんでした。なぜなら、パウロの力と知恵によって、人々がクリスチャンになったわけではないから。むしろ、パウロはこう言いました。

ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。(17)

また、

私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。(18)

言い換えれば、キリストこそが、聖霊の力によって人々を変えてくださいます。でも、恵みによって、その働きを成し遂げるために神様は私たちを用いてくださいます。

多くの人々は聖書を読まないので、彼らにとっては、私たちが聖書です。私たちだけを通して、彼らはイエス様を見ることが出来ます。

だから、神様が与えられた祭司の務めを果たしましょう。福音を周りの人々に伝えましょう。それは神様の希望です。

彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。(21)

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ローマ人への手紙15:1-7--人々を受け入れること

たぶん私たち皆は、人々を変える力が欲しいでしょう。私たちが思う彼らを操る力が欲しいでしょう。もしかしたら、彼らの悪い習慣を変えいたいと思うかもしれません。もしかしたら、彼らの欠点を変えたいと思うかもしれません。

でもあいにく、私たちはそんな力を持っていません。私たちは彼らをいじめるかもしれません。私たちは、彼らが罪悪感を感じるように努めようとするかもしれません。私たちは、彼らは変わった方がいいと当てこすかもしれません。

でも、パウロは私たちにこう言います。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。(1)

私が以前言ったように、パウロは傷つきやすい良心のある人について話しています。彼らは、神様が確立しないルールに従わなくてはならないと思います。

でも、パウロの言葉には、もう一つの応用があると思います。

相手がいろんな悪い習慣や、欠点を持つので、あなたは彼らを弱い人と見なすかもしれません。さらに、私たちがそんな悪い習慣や欠点を持たないので、自分自身が強いクリスチャンだと思うかもしれません。だから、私たちは彼らを変えようとします。でも、それは彼らの益のためではなく、私たちの益のためです。つまり、私たちの希望が、彼らが私たちを喜ばせることだからです。

でもパウロは、私たちが力のない人たちの弱さを担うべきだと言います。

多くの人々には、自分の悪い習慣や欠点を変える力はありません。彼らは変わるべきだとわかっているけど、それは戦いです。だから、神様がその恵みと力を与えるまで、私たちは彼らを操るべきではなりません。彼らにプレッシャーをかけるべきではありません。

むしろ、パウロは私たちにこう言います。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(7)

どのようにイエス様は私たちを受け入れるでしょうか。私たちがまだ弱さを持っている時に、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。イエス様は私たちの弱さと欠点を全部ご存知です。でも、イエス様は、私たちが、その欠点や弱さを一瞬に扱うことを要求しません。むしろ、イエス様は忍耐を持って、愛と憐れみを与えてくださいます。そして、どのように変えるか教えるだけではなく、その変える力を与えてくださいます。

私たちは、相手に変えるべきことを示すことができるし、お勧めを与えるかもしれないけど、変える力を与えることができません。イエス様だけが、その力を与えることができます。

だから、忍耐を持って、相手に愛と憐れみを彼らに与えて、相手をイエス様に任せましょう。

そうすれば、神様は栄光を受けます。

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ローマ人への手紙15:4-13--私たちが希望を持つため

私たちが聖書を読むとき、どうして神様がある話や情報を記録したか疑問に思うときもあるでしょう。例えば、どうして、出エジプト記とレビ記には、神様はいろんな律法を記録したでしょうか。ある律法は、私たちに関係があるけど、ある律法は、私たちには全然関係がなさそうです。また、どうしてレイプの話や、殺害の話が記録されたでしょうか。

でも、パウロは興味深いことを書きます。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。(4)

つまり、聖書に書かれたことのすべてには目的があります。例えば、律法を通して、私たちは神様の聖さや正義や、憐れみを見ることができます。

ひどい話を通して、私たちは人間の罪を見ることができます。人々が神様から離れると、どれだけ彼らの人生がめちゃくちゃになるか分かります。

でもその話を通して、私たちは、そのひどい状態の中で、どのように神様が働いて、良いことをもたらすかも分かります。

神様の民が迫害されたとき、神様は彼らをしばしば救いました。彼らが死んでも、神様が彼らに平和を与えたことを見ます。

神様の民が苦しんだとき、また、彼らが神様が彼らを見捨てたと思ったとき、私たちは、神様が働いて彼らを慰めることを見ます。

そういうわけで、私たちはこの世の災いを見て、また私たちが迫害されたり、苦しんだりするとき、私たちは耐える希望を持ちます。私は歩み続ける勇気を受けます。そして私たちは、2000年前に人々を助けた神様は、今なお生きていて、私たちの人生の中で働いていることを見ます。

だから、どんな試練に直面しても、あなたの人生がうまく行っても行かなくても、聖書を読みましょう。神様が今なお生きていて、私たちの人生の中で働いていることを覚えていましょう。

そしてパウロの祈りを覚えていましょう。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(13)

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ローマ人への手紙15:1-12--一致を持って、歩むこと

この個所では、パウロは14章の話をまとめます。最初に、彼はこう言います。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。(1-2)

14章によれば、「力のない人」とは、クリスチャンがやってもいいことをすると(例えば、お酒を飲むとき)、自分の良心に反してしまう人です。また、やらなくてもいいこと(例えば宗教的な祝日を祝うこと)をやらなくてはならないと思う人。

「力のある者」とは、そんなルールを守らなくていいと思う人です。

でもパウロは、力のある者たちは力のない人たちを責めてはいけないと言います。むしろ、力のある者たちは力のない人たちの益を求めて、その人を支えるべきです。

イエス様は私たちの模範です。イエス様は力のある方だったけど、私たちの弱さを担ってくださいました。

弟子たちがいつも喧嘩したり、誇ったり、わがままだったり、めちゃくちゃな人生を送ったりしても、イエス様は彼らを愛し、彼らの足を洗うほどに、彼らに仕えました。(ヨハネ13章)

さらに、人々がイエス様を憎んだり、侮辱したり、十字架につけたりしても、イエス様は彼のために祈りました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

そしてイエス様は彼らの罰を受けて、彼らのために死にました。

でも、イエス様は私たちのためにも死んだので、私たち皆は希望を持っています。

だからパウロはこう言います。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(7)

そして、パウロはこう祈りました。

どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。(5-6)

神様は、私たちが一致を持って歩むように呼びます。そのカギは、私たちが互いの失敗や弱さに焦点を当て合わずに、むしろイエス様に焦点を当てて、従うことです。私たちがほかのクリスチャンを見るとき、互いに引き裂き合わないで、むしろ互いに励まし合うべきです。

私たちが互いにかみ合ったり、食い合ったりするとき、どれだけ神様は悲しむでしょう。私たちはそうしないで、イエス様のように生きるように。私たちは互いの弱さを担い合い、互いに愛し合い、受け入れ合い、仕え合いましょう。

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ローマ人への手紙14章ーー良心に反すること

この個所を終えて15章に進める前に、私はもう一つのことについて話したいと思います。それは、私たちの動機です。私たちの行いの動機は何でしょうか。

パウロは、私たちが何の動機を持つべきかはっきりと教えます。パウロはこう言いました。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(6-9)

つまり、私たちは自分のために生きるのではなくて、イエス様のために生きるべきということです。だから、ある日を尊ぶなら、その理由はただの伝統であってはいけません。むしろ、イエス様に対する愛のため、その日を尊ぶべきです。

また、私たちは何かを食べたり、飲んだりするとき、自分のお腹だけを考えてはいけません。むしろ、私たちは神様に対する感謝の心を持つべきです。

簡単に言うと、私たちは何をしても、神様のためにするべきです。違う個所で、パウロはこう言いました。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)

私たちがそんな心を持たないと、それは罪です。偶像に捧げられた肉に関して、パウロはこう言いました。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ人への手紙14:23)

この個所では、パウロは偶像に捧げられた肉を食べることについて心配する人に関して、話しています。その肉を食べながら、彼らはその肉が偶像に捧げられたのがを忘れることができませんでした。だからその肉を食べるとき、彼らは神様に対する感謝の心を持っていませんでした。むしろ彼らはずっと、「これはダメです。この肉は偶像に捧げられた。私がこれを食べると、罪を犯してしまう。」と思いました。

だから彼らにとって、その肉を食べるのは、罪になりました。なぜなら、彼らはその肉を食べるのが悪いと思ったのに、その肉を食べてしまったから。そんな態度は神様を決して喜ばせません。

私のポイントは何でしょうか。私たちが決して自分の良心に反してはいけないことです。私たちの良心が痛めたら、私たちはその行為を避けるべきです。他のクリスチャンたちがその行為が大丈夫だと思っても、私たちはその行為をしてはいけません。

何をしても、私たちは、その行動が神様を喜ばせる確信を持たなくてはなりません。

でも、ちょっと注意してください。その確信を持っても、あなたが本当に神様を喜ばせているとは限りません。だから私たちは聖書を読まなくてはなりません。聖書によれば、その確信を持てます。でも、白黒ではないことを考えるとき、自分の良心に従うべきです。そして、神様が私たちの良心を形成し続けるように祈りましょう。そうすれば、私たちは本当に神様喜ばせることができます。

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ローマ人への手紙14章ーー互いに愛し合うこと

ローマ13章で、パウロはこう言いました。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(13:8)

また、

愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(13:10)

14章では、私たちはその教えの大切な応用を見ます。以前の記事で私たちが見たのは、あるローマのクリスチャンたちが偶像に捧げられた肉を食べることについて心配したことです。それだけではなく、ほかのクリスチャンたちはぶどう酒を飲むのがダメだと思ったようです。

現代では、私たちは、偶像に捧げられた食べ物を食べることを考えないかもしれないけど、ワインを飲むのがダメだと思うクリスチャンはまだいます。

もちろん、聖書によれば、酔っぱらうことは罪です。でも聖書では、私たちが禁酒しなくてはならないと教えられません。

それでも、あるクリスチャンたちはお酒を飲むクリスチャンたちを裁きます。その反面、お酒を飲むクリスチャンは、お酒を飲まないクリスチャンを律法主義的な人だと思って、責めます。

でも、パウロははっきりして言います。そんなことについて、互いに裁き合ってはいけません。その裁きを神様に任せるべきです。彼らはあなたのしもべではなく、神様のしもべです。あなたからではなく、神様から彼らが責任を問われます。

それでも、パウロはこう言います。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(15)

また、

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(13)

また、

ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。(19-21)

要するに、クリスチャンとして、私たちは勝手気ままに生きてはいけません。あなたは、自分が神様から責任を問われることを覚えていているべきです。そして、神様は私たちが兄弟たちと姉妹たちを愛するように命じました。

でも、あなたの行動で、兄弟や姉妹が心を痛めているなら、あなたは愛によって歩んでいません。さらに、あなたの行為のせいで、彼らは自分の良心に反して、罪に落ちるかもしれません。パウロはこう言いました。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(23)

次の記事で、私はパウロの言葉をもっと具体的に説明するけど、その要点は、私たちが相手にその良心に反させてはいけないことです。

ハワイにいたとき、私が行った教会で、ある話を聞きました。ある日、数人のクリスチャンの友達同士たちは一緒にビールを飲みました。でも彼らが知らなかったのは、一人がアルコール中毒だったということです。その人はアルコールをやめていたけど、その友達が飲み始めると、彼も飲み始めました。でもその友達と違って、彼は飲み始めると、止まれなくて、酔っぱらってしまいました。

もちろん、彼らはあえてその兄弟を躓かせませんでした。でも、相手を考えずに、私たちの自由を利用したら、そんな問題が起こるかもしれません。

だから、勝手な考え方を捨てましょう。もし、私たちの行動によって、彼らが心を痛めているなら、彼らの前にその行動をやめましょう。私たちは彼らの弱さを考えて、彼らを愛しましょう。なぜなら、イエス様は彼らのためにも死んだから。

 

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ローマ人への手紙14章ー兄弟たちと姉妹たちを裁くこと

教会の中で、大きな問題の一つは、兄弟たちと姉妹たちが互いに裁き合うことです。

でも、誤解しないでください。私は白黒のことについて話していません。クリスチャンたちがあえて罪を犯すとき、パウロはためらず人を裁きました。コリント人への手紙第一5章では、私たちは一つの例を見ます。

でも、ある問題については、聖書の著者たちは何も書いていません。また、彼らが個々のクリスチャンに任せることもあります。

今日の個所では、パウロは個々のクリスチャンに任せる問題の一つについて話します。

パウロの時代では、クリスチャンたちは肉を食べることについて議論しました。なぜなら、ローマ帝国では、多くの肉が人々に売られる前に、偶像に捧げられた場合が多かったからです。

ほかのクリスチャンたちは、宗教的な祝日について議論しました。特に、ユダヤ人ではないクリスチャンたちがユダヤ教の祝日を祝うべきかどうか議論しました。異邦人のクリスチャンたちが安息日を祝うべきかどうかという議論もありました。

パウロにとっては、その議論は白黒をつけるものではありませんでした。だからパウロは彼らに、そんなことに関して裁いてはいけないと言いました。(1)

パウロによれば、彼らはそのことについて自分の良心に従うべきでした。だからユダヤ人たちは、ユダヤ教の祝日や、安息日を祝うべきだと思ったら、そうするべきです。なぜなら、彼らにとっては、急にその祝日や安息日を祝うのをやめることは、神様を侮ることですから。

でも、異邦人たちはそのユダヤ教の祝日は彼らに関係ない、と思いました。

その議論に関して、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちも、異邦人のクリスチャンたちも責めませんでした。むしろ、パウロはこう言いました。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(5-6)

つまり、あなたの信仰のゆえ、ユダヤ教の祝日が大事だと思うなら、祝うべきだということです。神様はあなたの心を見て、喜びます。でも、あなたがすべての日が同じだと思っても、かまいません。

偶像に捧げた肉に関して心配する人々に、パウロはこう言いました。

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。(14)

つまり、「私の意見は、偶像に捧げられた肉をたべてもいいということです。でもあなたがそのことを本当に気にするなら、食べないでください。」

でも、パウロはこんなことも言いました。

食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。(3-4)

また、

自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(10-13)

私はパウロの言葉には、付け加える必要がないと思います。パウロの言葉でけっこうはっきりすると思いますから。パウロの要点は、神様が私たちの主であることです。私たち皆が神様の裁きの座に立たなくてはなりません。だから白黒つけられないことに関して、私たちは互いに裁き合ってはいけません。私たちはその裁きを神様にゆだねるべきです。

私は十代の時、ほかのクリスチャンの高校生たちと働いて、バイブル・クラブで子供たちに教えました。その前に私たちは合宿があって、どのようにそのクラブをするか教えられました。

休憩の時、ある人はトランプをしました。もちろん、彼らはギャンブルしなかったけど、一人の人は本当に気になりました。なぜなら、ご両親は彼女にトランプをするのはダメだと教えたから。

ほかのクリスチャンはそれを聞いて、「それはバカな話。それは律法主義的な考え方だ。」

でも、もう一人のクリスチャンはこう答えました。「いや、私たちは彼女の良心を重んじるべきです。」

だからその合宿で、私たち皆はトランプをやめました。

私たちは彼女を裁きませんでした。また、彼女は自分の意見を言ったけど、私たちを裁きませんでした。だから私たちは平和を守って、神様のために素晴らしい伝道の働きをすることができました。

それがパウロのポイントです。私たちが完全に同意できない時もあります。でも、白黒はっきりできないことに関して、互いに受け入れ合いましょう。そうすれば、キリストのために、この世に大きい影響を与えることができます。

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ローマ人への手紙13:11-14--イエス様の戻る日を待ち望むこと

イエス様が天国に戻ったとき、使徒たちは天を見つめていました。その時、天使が現れて、こう言いました。

ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

彼らはそれを聞いて、喜びとともにエルサレムに帰って、いつも宮にいて神様を礼拝しました。(ルカ24:52-53)

さらに、彼らは聖霊様を待ちました。(使徒の働き2章)

聖霊様が来ると、彼らはこの世界を完全に変えていき始めました。

何年か後、パウロはその出来事を覚えていて、こう言いました。

さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(11-12)

要するに、イエス様はすぐにこの世に戻るので、私たちは目を覚ましていて、用意するべきです。

夜は深まり、昼は近づいて来ました。(12a)

言い換えれば、サタンの支配がもうすぐ終わって、イエス様の帰る日はもうすぐに来ます。

そしてパウロは夜と昼の比喩をさらに利用します。

ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(12b)

つまり、私たちはサタンの国に関係する行為を捨て、イエス様の国に関係する行為をするべきだということです。

「闇のわざ」というのは何でしょうか。13節でパウロは説明します。

遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(13)

多くの人々は悪い行為を行うとき、夜を待ちます。でもパウロが言ったのは、私たちは光の中で歩むべきだということです。私たちは、世の民が私たちを見ているかようにふるまうべきです。それよりも、神様が私たちを見ているかのように私たちはふるまうべきです。なぜなら、神様は本当にあなたの行動をすべて見るから。

でも、もう一つのことに気づいてください。サタンの時間が過ぎ去り、十字架のために彼はもう負けたというのに、サタンは戦い続けます。

だから、私たちはその戦いのために用意して、光の武具を身に着けるべきです。私たちの足には平和の福音の備えをはきましょう。また、私たちには、信仰の盾や救いのかぶとや御霊の剣が必要です。(エペソ人への手紙6:14-17)

パウロはこの話をこのようにまとめます。

主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。(14)

私たちはイエス様を着るべきです。毎日、私たちはイエス様の力と性格を身に着けるべきです。そうすれば、私たちは罪に落ちないでしょう。

私たちはイエス様がもうすぐ帰ることを知っているので、イエス様の12人の弟子たちのように、毎日喜びを持って、聖霊様に満ちてイエス様のためにこの世に影響を与えましょう。そのように、イエス様の戻る日を待ち望みましょう。

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ローマ書13章8-10--律法の要求を 満たすのに

他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(8)

私はいつもその言葉をちょっと不思議だと思いました。

なぜなら、律法の要求を満たすのであれば、他の人だけではなく、神様をも愛するべきではないでしょうか。イエス様は一番大切な戒めについて話したとき、こう言いました。

「「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:37-39)

パウロは必ずイエス様の言葉を知っていたはずなのに、どうして、「他の人を愛する」という戒めだけについて話したでしょうか。

私はわからないけど、たぶん神様を愛することと他の人を愛することを分けることができないからでしょう。私たちが本当に神様を愛するなら、他の人も愛さなくてはなりません。もし他の人を愛さないなら、私たちが本当に神様を愛しているとは言えません。

ヨハネは、自分の書簡でそう言いました。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

また、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。(第一ヨハネ4:20-21)

ヨハネの議論に反ばくするのはとても難しいと思います。私たちに見える人を憎むなら、どうして私たちは、目に見えない神様を愛していることを主張できるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは、神様を愛していることを主張するでしょうか。あなたは周りの人々をどのように扱うでしょうか。彼らを見下すでしょうか。彼らを軽蔑するでしょうか。そうしているなら、あなたが本当に神様を愛しているかどうか考えるべきです。

だからヨハネの言葉を覚えていてください。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:18)

 

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ローマ人への手紙13:8-10-払い戻すことができない負債

私はパウロのこの言葉が大好きです。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。(8)

「借り」というのは何でしょうか。それは、私たちが払い戻さなくてはならないものです。私たちはそのお金を払い戻す義務を持っています。

この個所では、パウロは「愛」を「借り」と比べます。だからパウロの言葉を言い換えれば、私たちは人を愛する義務を持っています。

パウロの言葉をちょっと考えてみてください。もし誰かが、「私を愛しなさい。あなたはその義務を持っているから」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

私なら、「いやだ。あなたを愛する義務を持っていないよ」と答えるでしょう。

でもパウロは、私たちがその義務を持っていると言います。どうしてでしょうか。

一つ目の理由は、私たち皆が、神様の似姿に造られたことです。そういうわけで、私たちは彼らを愛するべきです。

二つ目の理由は、神様は彼らを愛していることです。もし神様が彼らを愛しているなら、私たちの愛にふさわしい人と見なすべきです。

でも多くの場合、相手を私たちの愛にふさわしい人と見なしません。なぜでしょうか。

時々、彼らは私たちと違うから。つまり、彼らの身分や、私たちの性格とは違うのです。

時々、私は彼らの行為にはあきれています。

でも、私たちが覚えていなくてはならないのは、神様が彼らを造って、愛していることです。だから、彼らは私たちの愛にふさわしい人です。その愛を与えることを拒むなら、基本的に私たちは神様にこう言います。「あなたはダメなものを造りました。何であいつを愛しているの?」

でも三つ目の理由があります。神様が私たちを愛したので、イエス様をこの世に送ったことです。私たちを救うために、イエス様は十字架で大変に高い代価を支払いました。私たちには決してその負債を払い戻すことができません。私たちが値しない愛と恵みを受けたので、神様に対して負債があります。それは、私たちが受けた恵みと愛を周りの人々に与えることです。相手がその愛と恵みに値しないと思っても、私たちはその愛と恵みを与えるべきです。

だからイエス様はこう言いました。

あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

あなたはどうですか。あなたがただで受けた愛を周りの人々にただで与えているでしょうか。

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ローマ人への手紙13:1-7--誰が支配しても、正しいことをすること

この個所では、パウロは、クリスチャンと政治の関係について話します。基本的に、パウロは、私たちが政府の権威に従うべきだと教えます。

どうしてでしょうか。なぜなら、最終的に神様はその人々に権威を与えてくださったから。だから彼らに反抗するなら、実はあなたは神様に反対しているのです。

でも、もう一つの理由があります。社会の益のために神様は権威を確立しました。権威がないなら、私たちは無政府状態にあるでしょう。それは本当に恐ろしい社会でしょう。

だから、パウロはこう言います。

彼(つまり、権を持つ人)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。(4)

多くの場合、権威を持つ人のおかげで、私たちの社会は安定しているし、平和な社会です。だから、私たちが正しいことをするなら、私たちには、問題があるはずがないのです。

私は、列王記18章のオバデヤについて考えます。(それは預言者のオバデヤではありません)。彼は、アハブ王に仕えました。アハブは、イスラエルの中で最も悪い王でした。でも、オバデヤが良いしもべなので、アハブは彼に王宮をつかさどる責任を与えました。それでも、オバデヤは神様を恐れて、正しいことをしました。

彼の模範によって、私たちは大切なことを学びます。時々、正しいことは、権威を持つ人の命令と違います。そのとき、私たちは正しいことをするべきです。

だから、アハブの妻イゼベルが神様の預言者たちを殺すように命じたとき、オバデヤはその預言者たちを救い出しました。

預言者ダニエルとその友達も正しいことをしました。神様の律法に反対することを命じられた時、彼らは神様の戒めに従いました。(ダニエル書1-3)

ユダヤ人のリーダーたちがペテロと他の使徒たちにイエス様のことについてもう話さないように命じたとき、ペテロたちは断りました。(使徒の働き4-5)

だから神様はオバデヤや、ダニエルたちや、ペテロたちを守って祝福してくださいました。そして、ダニエルたちの場合、結局その支配者たちは彼らに栄誉を与えました。

パウロはこう言います。

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(3)

特に、正しいことをすれば、私たちは神様を恐ろしいと思わなくていいのです。むしろ、神様は私たちを称賛してくださいます。だからこの世の支配者たちの命令が神様の言葉に反対する場合、私たちは神様に従うべきです。なぜなら、私たちの一番上の権威は神様ですから。

でも、支配者の命令を断ったとしても、私たちは彼らを尊敬するべきです。

パウロはこう言いました。

すべての人に対して義務を果たしなさい。。。恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。(7)

オバデヤや、ダニエルたちや、ペテロたちは、そうしました。だから、私たちは彼らの模範に従うべきです。

ペテロはパウロの言葉をこのようにまとめます。

もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(第一ペテロ3:13-16)

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ローマ人への手紙12:14,17-21--人々が私たちを憎むとき

一番最初のクリスチャンたちがこの世の憎みや、世からの迫害に直面しました。2000年後に、クリスチャンはまだ同じ問題に直面します。

だから、パウロの言葉はクリスチャンに対して、今でも大切なのです。パウロはこう言いました。

あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。(14)

イエス様は、山上の垂訓で似たことを言いました。

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様は自分の言葉に従いました。十字架で、イエス様は自分の敵のために祈りました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

私たちはイエス様の模範に従うべきです。私たちが苦々しい思いを持ち続けると、その思いは私たちを滅ぼしてしまいます。だから、パウロは私たちに言います。「その苦々しい思いや恨みを手放しなさい。むしろ、相手のために祈りなさい。」

パウロはさらに言います。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。(17)

もちろんパウロは、私たちがこの神様の律法に反対する世の道徳に従うべきだと言いません。むしろ、パウロが言ったのは、迫害されても、世の考え方が神様の律法に反対しない限り、すべての人が良いと思うことを行いなさいとういことです。

だから私たちは苦々しい思いや、怒りや、仕返しの思いを捨てるべきです。

そしてパウロはこう言います。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(18)

時々私たちは相手の意見に同意できないけど、そのとき、謙遜な態度を持つべきです。

時々私たちは、相手があまりにも傷つきやすいと思うけど、私たちの言葉や行為によって相手を傷つけてしまったのなら、その人に謝るべきです。

時々、神様の言葉を破らずに、私たちは妥協点を見つけるべきです。例えば、私のクリスチャンの友たちは家族の仏教の葬式に出ないけど、その葬式の前後、彼らはできるだけ家族に仕えます。

最後に、パウロはこう言います。

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。20次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」(19-20)

簡単に言うと、最終的に正義はあなたの責任ではなく、神様の責任なのです。神様はすべての人々とその行為を裁きます。だから毒を以て毒を制しないでください。苦々しい思いを持ち続けないでください。そんな思いをあなたを食い尽くしますから。むしろ、イエス様の模範に従って、イエス様の愛を彼らに示しましょう。

もしかしたら、あなたの反応によって、彼らはクリスチャンになるかもしれません。ステパノの祈りはどのようにパウロに影響を与えたでしょうか。(使徒の働き7:60)

だから、パウロはこの話をこのようにまとめます。

悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(21)

 

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ローマ人への手紙12:9-16--クリスチャンとして生きる。。。他のクリスチャンと共に

この個所を読むとき、自分自身のクリスチャン生活を考えるのは簡単なことです。

でも、私たちが注目したいのは、パウロが個々のクリスチャンたちに話しているのではなく、キリストのからだの全体に話しているということです。

パウロは最初にこう言います。

愛には偽りがあってはなりません。(9)

私は、ある一つの英語の翻訳が好きです。

相手を愛する振りをするな。本気で相手を愛しなさい。

例えば、どれぐらい私たちは相手の話を聞く振りをするけど実は、全然違うことを考えているでしょうか。私たちはそうせずに、本当に相手の話に関心を持つべきです。

そして、パウロは教会にこう言います。

悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(9b)

教会として、私たちはこの世の悪を憎み、戦うべきです。それと同時に私たちは善にしがみつくべきです。でも、まず先に教会の中でそうするべきです。

苦々しい思いや、相手を許さない心を見ると、私たちはその態度と戦うでしょうか。逆に私たちは許し合う態度を求めるでしょうか。

教会の中で、喧嘩と分裂を見ると、和解をもたらすために働くでしょうか。私たちは教会の一致を求めるでしょうか。

プライドや差別を見ると、私たちはその態度を教会から追い出して、互いに受け入れ合うでしょうか。(10節,16節)

人があえて罪を犯して、悔い改めないなら、その問題をちゃんと処理するでしょうか。(第一コリント5章)

ある人が罪に陥れるなら、柔和な心でその人を正してあげるでしょうか。(ガラテヤ人への手紙6:1)

パウロは続けます。

望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(12)

試練で悩んでいる人がいるとき、私たちはその人を支えて、励ますでしょうか。その人のために祈るでしょうか。

また私たちは「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣くでしょうか。」(15)

私たちは教会のメンバーたちに仕えるでしょうか。パウロはこう言いました。

聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。(13)

それが普通のクリスチャン生活です。私たちはそのように生きているでしょうか。

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ローマ人への手紙12:3-16--でも、私たちはこの世に行って、福音を述べ伝えなくてはならないでしょう。

もしかしたら、前回の記事を読んで、異議を持った人がいたかもしれません。なぜなら、私はこう言ったったから。「私たちにクリスチャンの交わりが必要という理由の一つは、私たちがお互いを必要とすることです。キリストのからだの中で、私たち皆は役目を持っています。だから、私たちが受けた賜物を使って、互いに仕え合う必要があります。」

でも、ある人はこう言うかもしれません。「教会の人々を祝福するだけではなく、私たちはこの世の人々をも祝福するべきではなないでしょうか。」

もちろん、それはそうです。でも覚えていてください。私たちが受けた賜物の多くは先に教会のためです。例えば、エペソ人への手紙では、パウロはこう言いました。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。(エペソ4:11)

どうしてイエス様はそれをしたのでしょうか。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(エペソ4:12-13)

伝道者の役目をちょっと考えてみてください。彼らの役目は特に教会の外の人のためのはずでしょう。でも、パウロの言葉に注目してください。伝道者の仕事の目的は、聖徒たち(つまり、クリスチャンたち)を整えて奉仕の働きをさせることです。伝道者はもちろん福音を伝えるけど、ほかのクリスチャンたちが福音を伝えるように励ます役割もあります。他のクリスチャンたちが伝道者のこの世への影響を見て、励まされて、彼ら自身は友達に福音を述べ伝えようと思います。それに、伝道者は彼らに福音を伝える方法を教えるかもしれません。

そして、パウロがリストアップした人々は自分の役目を果たすと、キリストのからだを建て上げます。

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私は使徒や預言者や伝道者や牧師や教師ではありません。」

それは構いません。なぜならパウロはこう言いました。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ4:15-16)

私はもう一度パウロのポイントを見ます。キリストのからだが完全に成長するまで、私たち皆は、自分の役割を果たして、互いに建て合うべきです。

だから、別の個所で、パウロはこう言いました。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:10)

だから、もちろん私たちは賜物を使って、この世の民に仕えるべきです。でも私たちは教会の人々にも仕えるべきです。

イエス様の言葉も覚えていてください。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:34-35)

イエス様の言葉を読んで注目してください。どのように、この世の人々は私たちがイエス様の弟子たちであることを知るでしょうか。私たちが互いに愛し合うことによって、彼らはそう知ります。私たちが互いに愛し合い、仕え合うなら、人々はそれを見て、キリストに惹かれます。

でも、私たちが喧嘩したり、自分勝手に生きたり、プライドを持ったりすると、彼らは訊きます。「クリスチャンたちが私たちとどう違うだろうか。彼らは私たちと全く同じです。」

あなたはどうですか。神様の民を愛しているでしょうか。神様の民を避けているでしょうか。神様の民に仕えているでしょうか。もしかしたら、あなたが受けた賜物を無駄にするでしょうか。

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ローマ人への手紙12:3-16--クリスチャンの交わりを壊すもの

クリスチャン生活をただの個人的なこととして考えるのは簡単なことです。もしかしたら欧米各国では、そのように考える人は多いかもしれません。でもクリスチャン生活は一人で送るものではありません。私たちがほかのクリスチャンと一緒にクリスチャン生活を送るのは、神様の御心です。

それでも、多くのクリスチャンたちはもう教会に行きません。どうしてでしょうか。いろんな理由があるけど、この個所では、パウロは一つの理由を指摘します。パウロはこう書きました。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(3)

また、

互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。(16)

クリスチャンの交わりを壊すものの一つはプライドです。

「私には、ほかのクリスチャンが要らない。私は一人で、クリスチャン生活を送ることができる」と言うプライドです。

「私は彼らよりも優れたクリスチャンだ。どうして、彼らとの交わりが必要だろうか。」と言うプライドです。

「私は彼らと違う身分を持っている。彼らと共通点がないのだ。」と言うプライドです。

「この人も、その人も私を傷つけた。彼らが謝るまで、私はもう教会に行かない」と言ううプライドです。

でも、パウロは私たちに思い出させます。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、5大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(4-5)

この個所では、私たちはとても大切な真理を見ます。すべてのクリスチャンたちはキリストのからだの器官です。だから私たちはもう自分自身だけに属しないのです。私たちは先にキリストに属するけど、私たちクリスチャンたちは互いに属し合います。

どうしてでしょうか。私たち一人一人は、キリストのからだの中で違う機能を持っているから。そして、体の全体は、私たちがこの機能を満たすことに頼ります。

だからパウロはこう言いました。

私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(6-8)

あなたには、ほかのクリスチャンたちを必要としないと思うかもしれません。でも、あなたに彼らが要らなくても、彼らにはあなたを必要とします。彼らを祝福するために、神様は霊的な賜物をあなたに与えてくださいました。そして、私たちはほかのクリスチャンたちにに仕えるとき、実は私たちは神様に仕えているのです。

だからパウロは私たちに教訓します。

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(11)

もし私たちのプライドによって、私たちの賜物を使わずに、教会に仕えないなら、ある日、神様は私たちに責任を問います。

だから覚えていてください。私たちはほかのクリスチャンたちに属します。また、彼らは私たちに属します。私たちはお互いを必要とします。

だから兄弟たちを分けるプライドを捨てましょう。むしろパウロの言葉に従いましょう。

兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。(10)

 

 

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ローマ人への手紙12:2--神様の思いを知ること

新改訳では、2節はこのように翻訳されています。

この世と調子を合わせてはいけません。(2)

でも、私はある英語の翻訳も好きです。

この時代と調子を合わせてはいけません。

私たちはよく、「この時代」について話します。また、「時代の変化」について話します。

もちろん、この世界は変わりつつあります。私は1995年に日本に引っ越しました。その時、インターネットや、メールは新しいものでした。だから、アメリカにいる家族と連絡したいと思ったとき、航空便を送ったり、固定電話で電話したりしました。時々、公衆電話とテレフォンカードを使いました。(多分若い人は私が言っているかさっぱりわからないでしょう。)

でも、テクノロジーのほかに、人々の考え方も変化しました。特に道徳観念が変わりました。今なお、何の行為が恥ずかしいか、また何の行為が悪いか、という考え方は変わりつつあります。

さらに、日本では私はわからないけど、欧米各国では、人々は「寛容の時代」に生きています。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん寛容自体は良いことです。「寛容」をちゃんと定義すると、その意味は、「私はあなたの意見に同意できないけど、私はあなたをまだ尊敬します」ということです。そして、人々はその寛容を持って一緒に働けるし、相手を丁寧に扱い合うし、友好的な関係ができます。

でもこの時代では、寛容には違う意味があります。それは、「すべての意見が正しい」ということです。だから、もし二人が同意できないなら、一人の意見が正しくて、相手の意見が間違っていると言えません。その二人の意見が反対しても、両方の意見は正しいのです。だから、あなたが「あなたの意見が間違っている」と言うと、あなたは悪い人になってしまいます。なぜなら、あなたは偏狭な人だから。

でも最近、特に欧米各国では、クリスチャンの意見を考えると、多くの人々は寛容の態度を捨ててしまいます。だから、彼らはクリスチャンたちに「あなたは間違っている。あなたの考え方を変えなくてはならない」と言います。

でも、私たちが神様の思いを本当に知りたいと思うなら、私たちはこの時代の人々の考え方と調子を合わせてはいけません。なぜなら、人々の考え方は変わりつつあるけど、神様の考え方は決して変わらないから。

でもこの世と調子を合わせるプレッシャーが、至るところから来ます。社会から来るし、家族から来るし、友達から来ます。どこに行っても、私たちはそのプレッシャーを感じます。

特に、日本では、「和」というコンセプトはとても大切です。だから私たちはその和を保つプレッシャーを感じます。

もちろん、私たちはできるだけ平和を守った方がいいです。パウロはこう言いました。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ書12:18)

でも、私たちが神様の御言葉に逆らうプレッシャーを感じるときもあります。その時、私たちはこの世と調子を合わせてはいけません。なぜなら、それは滅びに至る道ですから。そして私たちは神様を傷つけるし、人々を傷つけるし、私たち自身も傷つけてしまいます。

だから、この世と調子を合わせずに、パウロの言葉に従いましょう。

むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。(2b)

どのように私たちは心を新たにすることができるでしょうか。神様の言葉によってできます。私たちは聖書を読んだり、噛み締めたり、聖霊の力によって、その言葉に従ったりします。そうすれば、私たちは本当の命を知ります。

なぜなら、私たちの思いだけではなく、私たちの人生も変わるから。私たちは神様の計画通りに生き始めます。私たちの結婚はうまくいきます。苦難の時でも、私は平和を知ります。死の影の谷にいても、私たちは喜びを知ります。

簡単に言うと、私たちは神様も御心を知ります。そして、私たちは何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができます。

あなたはどうですか。あなたの思いはをこの世と調子を合わせているでしょうか。もしくは、あなたの思いは神様の御言葉によって変わりつつあるでしょうか。

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ローマ人への手紙12:1--生きたささげ物

これは、聖書の中で最も有名な個所の一つです。パウロはこう言いました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(1)

「ですから」などという言葉を見るとき、それ以前の言葉を読んだ方がいいです。パウロはこう言っていました。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(11:36)

「すべてのもの」という言葉をちょと考えてみてください。「すべてのもの」というのは、私たちも含まれています。神様の計画によって私たちは造られました。私たちは神様の力によって造られました。私たちは神様の栄光のために造られて、最終的に私たちは神様の前に立って裁かれます。

多くの人々は「これは私の人生です。自分勝手に生きる権利を持っている」と言い張ります。

でも、それは真実の半分です。もちろん神様は私たちに自由意志を与えてくださいました。だから、その意味では、私たちは自分勝手に生きる権利を持っています。でも、私たちの人生は、本当に自分のものではありません。私たちは神様の力によって造られたし、神様の目的のために造れました。

だからパウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」と言います。それが、私たちにふさわしい礼拝です。

要するに、私たちが神様の力によって造られて、神様の目的のために造られたので、私たちは神様に自分のからだを生きた捧げものとしてささげるのは当然なことです。

でも、生きた捧げものとは、どういう意味でしょうか。私たちは神様のために死ぬべきでしょうか。神様のために死ぬ人もいるけど、それはパウロの意味するところではありません。パウロは、私たちが「生きた捧げもの」になるべきだと言います。

生きた捧げものについて話すとき、私は結婚の描写をよく使います。

結婚では、夫と妻は互いに自分自身を相手に捧げ合います。もちろん、私の妻は私が彼女のために喜んで死ぬことを聞けばうれしいけど、それ以上に彼女は、私が生き続けることを望むでしょう。つまり、私が自分自身をほかの女性に捧げずに、彼女だけに捧げるのを望みます。

さらに妻は、彼女を喜ばせたいと思うほどに、私が彼女を愛することを望みます。もちろん私は妻から同じことを望みます。

そして、夫と妻が互いに生きたささげものとして自分自身たちを捧げ合うと、その結婚はうまくいきます。

そのように、私たちが喜んで神様のために死ぬと思うなら、神様は喜びます。でもそれ以上に、神様は生きたささげものを望みます。私たちが毎日神様に私たちのすべてを捧げることを望みます。また、私たちが神様を喜ばせたいと思うほどに、神様を愛することを望みます。

どうして私たちは自分自身を神様に生きた捧げものとしてささげたいと思うでしょうか。神様が私たちをあわれでくださったから。神様は人間になって、十字架で私たちのために死んでくださいました。私たちがまだ罪人で、神様に反抗していたのに、イエス様は私たちの罪のために死ぬほどに、私たちを愛していました。そして、イエス様の死によって、神様との和解ができます。

私たちは神様の愛を知っていて、神様を愛しているので、自分自身を生きた捧げものとして捧げるのは当然なことでしょう。そういうわけで、私たちは毎日神様を喜ばせたいと思います。

それは生きた捧げものです。

あなたはどうですか。あなたは生きた捧げものでしょうか。

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ローマ人への手紙11:33-36--私たちよりも優れた神

神様と議論する機会があれば、神様をやり込めることができると思う人がいます。それはとてもバカな話だと思います。

それでも、多くの無神論者はこう言います。「神様が実在するなら、私は神様にどうして私が神様の存在を信じなかったか説明できるから、神様をやり込めることができます。」

でもこの個所では、パウロはそんな考え方の虚しさを示します。10-11章では、パウロは、神様がどのようにユダヤ人たちの不従順を利用して、異邦人たちを救ったかを説明します。そしてパウロは、どのように異邦人の救いがユダヤ人の救いに至るかを説明します。パウロは神様の計画をこのようにまとめます。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。(30-32)

その話を通して、私たちには神様の予知と予定説の関係が見ることができます。

神様はユダヤ人たちがどのようにイエス様を扱うかをあらかじめ知っていて、異邦人を救う計画を立てました。でも、神様が知っていたのは、異邦人の救いによって、ユダヤ人たちが神様の関係にあこがれることです。だから神様は、その異邦人を救う計画を通して、あるユダヤ人たちもイエス様を受け入れて救われるのかを、よく知っていました。

簡単に言うと、この宇宙のチェスボードでは、神様はどのように自分の目的をもたらすかよく知っています。神様はもう私たちの選択を知っていて、どのように自分がその選択に反応するか分かっています。だから私たちが何をしようが、神様の御心は成就します。そのように、人々は自由意志を保つけど、神様自分の自由意志を保ちます。

パウロはそのことを考えると、圧倒されました。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。(33-34)

要するに、神様の知識と知恵に叶う人は誰もいません。なぜなら、神様はすべての知識を知恵を持っているから。その反面、私たちはただの人間で、私たちの知恵と知識には限界があります。だから、神様が自分の計画を現わさないなら、私たちはその計画が理解できなでしょう。神様が自分の計画を現わしても、その計画の深さを完全に把握することができません。

例えば、たくさんの人はこう言います。「神様が本当に良い方なら、どうしてこの世には悪があるのですか。」

でも彼らは自分の無知から議論します。彼らは神様が知っていることを知りません。だから、彼らの議論は無駄です。

それでも、彼らは、すべてのことを知っているかのように議論します。神様が彼らの議論を反ばくすることができないかように、彼らは自慢します。

でも彼らが神様の御前に来るとき、神様は彼らの動機を現わします。神様は、彼らが知っていたことも、知っていたはずのことも現わします。そして、神様は彼らの間違った考え方や仮定を現わして、事実を現わします。その時、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服します。(ローマ書3:19)

神様をびっくりさせて、「私は知らなかった」と言わせる私たちの言葉など全然ありません。

また、私たちは神様に「私のやったことを見て。私は天国に入る資格があります。」と言えません。

パウロの言葉はやっぱり正しいのです。

だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。(35-36a)

私たちの持ち物のすべては、神様から来ました。すべてのものは神様から発しました。すべてのものは神様に返されます。ある日、私たちも神様の前に立って、裁かれます。

だから私たちは二つの選択があります。パウロのように、私たちはこう言えます。

この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(36b)

それとも、私たちは裁きの日まで神様に反抗し続けることができます。でもその日、私たちの口がふさがれて、私たちは裁かれます。

あなたはどうですか。あなたはどうしますか。

 

 

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ローマ人への手紙11:1-32--プライドの余裕がない

ほとんどのクリスチャンたちは、もう反ユダヤ主義的な態度を持たないけど、過去にはそんなクリスチャンもいました。私には決してそんな態度が理解できませんでした。なぜなら、今日の聖書の個所では、パウロはそんな考え方を潰したから。

たぶん、反ユダヤ主義的な態度の根元はプライドでしょう。この個所では、パウロは私たちのプライドの理由をも潰します。

実は、イスラエル人に関して文句を言ったとき、預言者エリヤもそんなプライドを持っていました。エリヤはこう言いました。

私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエル子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。(列王記第一19:10)

要するに、「神様は私を見てください。私はあなたのために熱心を持っているよ。私の行為を見てください。でもほかのイスラエル人たちはもうダメなんです。」ということです。

でも、神様はエリヤにこう言いました。

わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。(列王記19:18)

だからパウロはこう言いました。「エリヤの時代と同じように、この時代にも、ユダヤ人の間に、神様に忠実だし、メシアイエス様に仕える残された信じる者たちがいます。そして私たちのように、そのユダヤ人たちも恵みによって選ばれました。」(ローマ書11:5)

そして、パウロは私たちを思い出させます。

恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。(6)

エリヤのように、多くのクリスチャンは、自分の行為によって救われると思っています。つまり、頭の中で、彼らが恵みによって救われたとわかっているかもしれないけど、心の中で、自分がほかの人よりも優れた者だから救われたと思うことです。でもパウロによれば、そんな考え方は間違っています。救いは恵みに値しない人に与えられるものです。

エリヤは神様の恵みに値しなかったけど、その恵みを受けました。イゼベルがエリヤを脅かしたとき、エリヤは、神様に怒ったり、苦々しい思いを持ったりして、結局落ち込んでしまいました。それでも、神様は手を伸ばして、エリヤを励まして、強めてくださいました。

私たちも神様の恵みに値しません。でも神様は手を伸ばして、私たちを救ってくださいました。だから、私たちはユダヤ人たちを見下すことができません。私たち皆は恵みによって救われたから。

そしてパウロはユダヤ人たちを折られたオリーブの木の枝と比べて、私たちを接ぎ木された枝と比べました。

でも、パウロはこう言います。

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(18-22)

もう一度、パウロのポイントは、私たち皆が恵みによって救われたことを述べています。私たちの行為によって救われたわけではなく、イエス様の十字架の御業によって、私たちは救われました。私たちがしたのは、その御業を信じたことだけです。だから私たちには、プライドの余裕がありません。

だから、イエス様を信じないユダヤ人たちを批判する人は、自分自身を注意した方がいいです。彼らは自分自身にこう訊くべきです。「私は信仰と恵みによって立っているだろうか。もしくは私は自分の行為に頼っているのだろうか。自分の行為によって立つなら、私は破滅への道に行っています。でも、恵みによって立つなら、私にはプライドの余裕が全然ない。」

あなたはユダヤ人たちを見下さないかもしれないけど、ほかの人々を見下すでしょうか。あなたが彼らよりも優れた人だと思うでしょうか。そんな考え方は間違っています。あなたがほかの人よりも優れた者なら、恵みは恵みでなくなります。むしろ、あなたは自分の救いに値するでしょう。

だから謙遜な態度を持って、神様に感謝してください。神様の国では、私たちにはプライドの余裕がないからです。

 

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ローマ人への手紙10:16-11:10-信じることを拒否すること

以前の記事では、私は救いの逆説について話しました。つまり、救いの道は簡単だけど、それと同時に難しいのです。もし、ただ神様を信じて、また、イエス様の十字架の働きを信じれば、私たちは救われます。でも多くの人々はそうしません。ユダヤ人たちは一つの例です。パウロはこう言いました。

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。(16)

でも、それはただのユダヤ人の問題ではありません。この世の多くの人々は同じ問題を持っています。今なお、パウロの言葉は世の人々に当てはめることができます。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか?」

そして、パウロはこう言います。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(17)

要するに、人々が救われるのに、二つのことが必要です。人々は福音を聞かなくてはならないし、そのメッセージを信じなくてはならないのです。

でも、どうしてユダヤ人や、ほかの人々は信じないのでしょうか。イエス様は彼らに語っていないのですか。または、彼らは聞いていないのですか。そういうわけではありません。パウロはこう書きました。

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。(18)

パウロは詩篇19:14を引用しました。その詩篇では、詩人は、「天は神の栄光を語り告げる」と歌います。パウロはその詩篇を福音に当てはめます。つまり、福音は世界の果てまで届いたということです。

そしてパウロは訊きます。

では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。(19)

彼らは知っているはずでしたが、結局神様の言葉が分からなかったようです。

そして、パウロは救いの皮肉について話します。神様は自分自身を先にユダヤ人たちに現れたけど、彼らは神様に背を向けました。だから、神様は異邦人たちのところに行って、異邦人たちは信じました。

だからパウロはイザヤの言葉を引用します。

わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。(20)

その個所では、神様は異邦人たちについて話しました。異邦人たちが自分の道を行って、神様を全然求めていなかったのに、神様は自分自身を彼らに現しました。その結果、異邦人たちは神様を信じるようになったのです。

でも、ある意味では、この個所をユダヤ人たちにも当てはめることができます。彼らも神様を求めていませんでした。彼らはエジプトの奴隷の時に、偶像を礼拝していました。(ヨシュア24:14)。

それでも、神様は自分自身を彼らに現しました。でも、彼らの反応は何でしたか。

神様は彼らに関して、こう言いました。

わたしは終日、手を差し伸べ た。不従順で反抗する民に対して。(21)

どうして彼らは信じなかったのでしょうか。彼らはいろんな奇跡を見ました。神様はいろんな災害をエジプトに送ったし、紅海を分けたし、砂漠でマナを与えてくださいました。ユダヤ人たちには、信じる理由がたくさんありました。

そしてイエス様は来ました。イエス様もいろんな奇跡を行ったし、悪霊を追い出したし、優れた知恵を教えたけど、彼らはイエス様を拒絶しました。どうしてでしょうか。

ほかの者たち(つまり、神様を信じないユダヤ人たち)は頑なにされたのです。「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。(11:7-8)

パウロはイザヤ書29章を引用しました。私はその個所をここでもっと説明するけど、その旨は、ユダヤ人たちが先に自分の目を閉じたことです。だから、神様は彼らにこう言いました。「あなたは見たくないのですか。では、あなたは霊的な盲人になれ。」

ユダヤ人たちは何百年神様の御業を見たし、み言葉を聞いたけど、どうしても信じませんでした。だから、神様は彼らに自分の不信に引き渡しました。

福音を聞く人は、その危険性に直面します。もし私たちがずっと自分の心を頑なにするなら、神様は私たちにこう言うかもしれません。「信じたくないなら、信じるな。」

そして、私たちは自分の不信の結果を受けます。それは死です。

だから、救いのメッセージに自分の心を頑なにしないでください。そうすれば、あなたの霊的な目が見えなくなって、あなたは永遠の死を知ります。

だから、自分の心を開いてください。イエス様とその福音だけによって、あなたは救われるから。

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ローマ人への手紙10:19-11:32--神様の取り消されることのない召命

救いの不思議さの一つは、救いが神様の召命を通して来て、その召命は取り消されることのないものだということです。

パウロはイスラエルの例を用いて、その真理を描写します。神様がいろんな奇跡を行ったり、恵みを与えたりしたのに、イスラエル人たちは自分の心を神様に対して頑なにしました。そしてパウロはこう言いました。

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。(1a)

パウロの答えは?

決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。(2b)

要するに、「私はユダヤ人ですが、救われました。だから、神様がすべてのユダヤ人たちを退けたとは言えません。」

そして、パウロはとても興味深いことを言います。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。(2)

パウロのポイントは何でしょうか。

神様はあらかじめユダヤ人たちが自分の心を神様に対して頑なにすることを知っていたのに、ユダヤ人たちを選びました。ユダヤ人たちが神様を拒絶し、イエス様を磔にしたとき、神様は全然驚きませんでした。だからユダヤ人の行為によって、神様が急に彼らを退けようと決めたわけではありません。

むしろ、神様は、あるユダヤ人たちがイエス様を拒絶することを知っていたけど、ほかのユダヤ人たちがイエス様を信じることをも知っていました。どうしてそう知っていたでしょうか。なぜなら、神様が創造物を作る前に、神様は彼らを救いのために選んだから。

だから、預言者エリヤが神様に「私だけがあなたに従っている」と文句を言ったとき、神様はこう答えました。

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」(4)

だから、パウロは自分の時代のユダヤ人たちに関して、こう言いました。

ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(5)

そして、パウロは神様の救いの計画を現します。この世が造られる前から、神様はその計画を立てました。その計画は何ですか。

ユダヤ人たちが自分のメシアを拒絶したので、福音は全世界に広がって、たくさんの異邦人(ユダヤ人ではない人)が救われて、神様の子供になりました。そして、ユダヤ人たちはその神様との関係に憧れて、神様が彼らをそんな関係のために召したことを思い出します。だから、彼らは自分の愚かさに怒って、悔い改めて救われます。最終的に、すべてのユダヤ人たちはイエス様を認めて、救われるようです。(26-27)

そして、パウロはこう言いました。

彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。(28)

要するに、ユダヤ人たちはクリスチャンたちを迫害していました。でも、神様はまだユダヤ人たちを愛して、救おうと思いました。なぜでしょうか。彼らはとてもいい人だったからでしょうか。違います。アブラハムや、イサクや、ヤコブのゆえに、神様は彼らを愛しているから。さらに神様はその三人に約束をしておられるので、その約束を決して取り消しません。

だから、パウロはこう言いました。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(29)

でも私たちのためにも、良い知らせがあります。私たちにも、神様の賜物と召命は取り消されることがありません。私たちが生まれる前に、神様は私たちを知っていました。神様は私たちの疑いを知っていました。私たちの失敗も知っていました。それでも、神様は私たちを選びました。

だから私たちが疑うときに、また、失敗するときに、神様が私たちを見捨てることを恐れないでください。なぜなら、神様の賜物と召命は取り消されないものですから。そして、パウロが言ったように、神様が始めたことを必ず完成します。(ピりピ人への手紙1:6)

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ローマ人への手紙10:14-15--私たちが福音を述べ伝える必要

私が前に言ったのは、この世が造られる前に神様は自分の子供として私たちを選んだことです。

あるクリスチャンたちはそのコンセプトを信じるけど、こう言います。「もし神様が誰を救うかもう選んだのなら、私たちには福音を伝える必要がありません。」

それは言い過ぎです。そのことを言う人々は一つのことを見逃します。神様は私たちに福音を伝えるように命令します。

もちろん神様には私たちの助けが要らないけど、神様は福音を伝えるのに、私たちを用いることを選びます。神様は私たちに御国の鍵を与えてくださいます。でも私たちがそのカギを使わないと、救われる人は誰もいないでしょう。

だからパウロはこう言います。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(14)

そのすべての答えは同じで、明確です。その答えは「それは無理だ」ということです。

信じたことのない人は主を呼び求めません。聞いたことのない方は、信じることができません。延べ伝える人がいなければ、福音を聞く人は誰もいません。

そしてパウロはこう言います。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(15)

もう一度、その答えは「無理だ」ということです。でも注意事項があります。神様は私たち信者たちの皆を、行って福音を伝えるように呼びました。

イエス様は弟子たちにこう言ったが、私たちにも言います。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネの福音書20:21)

また、

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け(ます)。(マタイの福音書28:19)

私たちにはイエス様からの召しを待つ必要がありません。イエス様は私たちをもう呼びました。

だからパウロは、福音を述べた得る人に関して、こう言います。

「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。(ローマ人への手紙10:15)

あなたはどうですか。あなたは御国の鍵を持っています。あなたはどうするでしょうか。

 

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ローマ人への手紙10:6-13--私たちがしなくてはならないこと

ある意味では、救いの道は矛盾しているものです。つまり、その道はとても簡単だけど、それと同時に難しいのです。

パウロはこう書きました。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、「だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを」とは、引き降ろすことです。また、「「だれが深みに下るのか」と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

つまり、救いを得るために私たちにはイエス様を天国から引っ張る必要がないのです。また、私たちにはイエス様をお墓から掘りだす必要がありません。イエス様はもう天国から来て、私たちの罪のために死んで、復活しました。

では、私たちに残されているものは何でしょうか。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(9-10)

簡単に言うと、私たちは心の中にイエス様を主として認め、イエス様が十字架で行った働きを認めることです。

「イエスは主」と言うと、私たちは実は何と言っているのでしょうか。パウロはこう説明します。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(11-13)

その最後の部分で、パウロはヨエル書2:32を引用しました。そして、「主」という言葉は、ヘブル語では、「ヤハウェ」です。「ヤハウェ」とは、神様の名前です。だから、私たちはこの個所をこのように翻訳することができます。「ヤハウェの御名を呼び求める者はみな救われる。」

パウロはこの個所をイエス様に当てはめます。だからパウロが言ったのは、イエス様はヤハウェだということです。要するに、イエス様ご自身が神です。

パウロはピリピ人への手紙2章で、似たことを説明します。その個所では、パウロはイザヤ書45:23を引用します。イザヤ書45:23で、ヤハウェはこう言います。

すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い。。。

そして、パウロはその言葉をイエス様に当てはめます。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。)「ピリピ2:10-11)

だから、私たちが救われたいと思うなら、私たちはイエス様を主と神として認めなくてはなりません。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んで、復活したことを信じなくてはならないことです。

でもそのことを信じるだけでは足りません。私たちは主を呼び求めなくてはなりません。

悪霊たちはイエス様が主であることを知っています。悪霊たちは、イエス様が罪のために死んで、復活したことを知っています。でも、彼らは救われていません。

ただの知識では足りないのです。私たちはイエス様に「私を救ってください」と願わなくてはなりません。そうすれば、イエス様は必ず私たちを救ってくださいます。

だから救いはとても簡単なことです。でもそれと同時に、救いは難しいです。なぜ救いは難しいのでしょうか。なぜなら、多くの人々はそう信じたくないからです。

多くの人々は「私は信じることができません。」と主張します。でも、神様は私たちに十分な証拠を与えてくださいました。私たちには言い訳がありません。すべての人々は信じることができるけど、あえて信じないことを選びます。

自分のプライドのために信じない人もいます。

「その救いの方法は簡単すぎる。自分自身を救うために、私はもっと難しいことをするべきはずです。」

または、

「神様を必要としない。私はもう大丈夫です。霊的な松葉杖が要らない。」

または、

「私は知的な人だから、もう神様を信じない。」

他の人は、自分の罪に執着しすぎます。だから、その罪が彼らを滅ぼしているのに、彼らはその罪を手放し、神様に従いたくないのです。

あなたはどうですか。あなたはどうするのですか。

 

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ローマ人への手紙10:1-5--どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。(2)

前回の記事で私は、どうして神様への道がイエス様しかないかという疑問について話しました。今日の記事では、この疑問について、もっと話したいと思います。

前回の記事で私は言いましたが、パウロは特にユダヤ人たちについて話しています。でもパウロの言葉はすべての宗教的な人々に当てはめられると思います。

パウロはこう言いました。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。(1-2)

パウロは本当に大切なポイントを教えています。多くのユダヤ人たちや宗教的な人たちは神様に対して熱意を持っています。もちろん、それは良いことです。でも、知識に基づかない熱意は良いことではないのです。特に、彼らは、神様が最も望んでいるのが信仰だということを知りません。

さらに、パウロはこう言います。

彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。(3)

それは宗教的な人のもう一つの問題です。彼らは本当の義を知らなかったので、「義」を勝手に定義してしまいました。つまり、彼らは何が良いか、何が罪か、勝手に定義したことです。彼らは、神様が何を望むかを想像して、その想像によって自分のルールを作りました。

そういうわけで、本当の義を知ると、つまりイエスを信じる信仰による神の義を知ると、彼らはその義を拒絶します。むしろ、彼らは自分の作った道を行き続けます。

でも、あなたがたくさんの熱意を持っていても、神様の基準に反対する基準を建てていたら、神様はあなたのことを喜びません。

実は、神様がその人間的な基準を許しても、人々は自分の基準を完全に満たすことができません。

パウロこう言いました。

モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。(5)

もちろん、パウロはユダヤ人とモーセの律法について話したけど、日本では、だれが日本のルールや律法に完全に守るでしょうか。完全にルールや律法を守る人は誰もいません。それでも、多くの人は、ルールを守ることを通して、神様を喜ばせようと思います。

だから、自分の宗教的なルールを建てるとき、二つの意味で彼らは失敗します。

一つ目は、彼らの基準が神様の基準ではないことです。

二つ目は、彼らが自分の基準を完全に満たすことができないということです。

だから、どうして彼らは、神様が彼らを受け入れると思うでしょうか。特に、神様が最も望むのは、彼らが神様に信頼することだけど、彼らはそうしないのです。

それではダメです。

だからパウロはこう言います。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(4)

簡単に言うと、私たちは自分の基準や宗教を捨てなくてはいけません。その基準や宗教を通して、私たちは神様を喜ばせることができませんから。むしろ、イエス様に向けましょう。

キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(第一コリント1:30)

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ローマ人への手紙9:30-33--どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。

多くの人々のキリスト教に関する一つの疑問は、「どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。どうしてほかの道で救われることができないだろうか。」ということです。

この個所では、パウロは一つの答えを教えます。パウロは特にユダヤ人たちについて話しているけど、その言葉がこの世界のすべての宗教的な人に当てはめられると思います。

パウロはこう言いました。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。(30-31)

パウロの言葉をちょっと言い換えて、この世の人々に当てはめましょう。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかったクリスチャンたちが義を、すなわち、信仰による義を得ました。しかし、ほかの宗教を信じる人は、自分の宗教の義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。

どうして私たちはそのようなことを言えるでしょうか。その人々が頑張って自分の宗教の律法に従っても、どうして私たちは彼らの努力が足りないと主張するでしょうか。

パウロはこう言いました。

なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。(32)

要するに、彼らが神様に義と認められる方法かわからないことです。彼らの考え方は全く違います。私たちは自分の良い行為によって、義と認められません。むしろ信仰だけによって、私たちは義と認められます。

この例をちょっと考えてみてください。

愛を伝える5つの方法」という有名な本がありますす。その著者が言ったのは、一人一人は、違う方法で愛を感じるということです。例えば、相手がプレゼントをくれるとき、愛される感じがする人もいます。相手が何かやってくれるとき、愛される感じがする人もいます。褒められるとき、愛される感じがする人もいます。

とにかく、夫がどのように妻に愛を伝えるべきか知らないなら、または、妻がどのように夫に愛を伝えるべきか知らないなら、結婚の中で問題が出てきます。

例えば、夫は妻のためにたくさんのプレゼントを買うけど、彼の予想通りに妻が反応してくれないので、夫はフラストレーションを感じます。

もしかしたら、彼の場合、妻がプレゼントをくれるとき、彼はとても愛される感じがするかもしれません。でも、彼が知らないのは、妻がプレゼントよりも夫との時間を望むことです。だから、彼はたくさんのプレゼントを買っても、彼女は彼の愛を特に感じません。

そのように、人々は、神様に受け入れられるのに、彼らは頑張ってたくさんの良い行為をしなくてはならないと思います。でも、彼らがわからないのは、もちろん神様が良い行為を見て喜ばれるけれど、それよりも、神様は私たちの信仰を望まれているということです。つまり、私たちが神様に信頼する態度を望むのです。

アダムとエバの話では、神様の望みを見ることができます。神様は彼らにこう言いました。「私に信頼しなさい。その木の実を食べるな。その実を食べると、あなたは死ぬから。」

でも彼らは神様を信じないで、その実を食べたので、その関係は壊れました。聖書を読むと、そのパターンを何回も見ます。神様は人々に「私に信頼しなさい。」と言ったけど、彼らは神様を信じずに、神様に背を向けてしまいました。

今なお、そのパターンは続いています。神様は人々にこう言います。「私に信頼しなさい。イエスを信じなさい。イエスはあなたのために救いの働きをすべて行ったから。」

でも、人々は神様を信じずに、自分の努力で義と救いを求めます。

だからパウロはこう言います。

彼らは、つまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。(32-33)

あなたはどうですか。自分の努力と良い行為で、神様を喜ばせようと思っているでしょうか。あなたの努力は無駄です。神様はあなたの努力を望んでいません。むしろ、神様はあなたの信仰を望んでいます。あなたは神様に信頼しているでしょうか。イエス様に信頼しているでしょうか。そうしないと、あなたは躓きます。でも神様に信頼すると、神様がはあなたを受けれるので、あなたは失望させられることがありません。

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(5)

予定説に関するもう一つの疑問について話したいと思います。私が以前に言ったのは、もし神様が人の心の中で働かないなら、救われる人が誰もいないことです。それなら、どうして神様はすべての人々の心の中で働いて、すべての人々を救わないでしょうか。

正直に言うと、私はわかりません。たぶん、私が理解できない要素があるでしょう。さらに聖書では、神様は自分の理由を説明してくれません。

でも、私たちは二つのことを覚えているべきです。

一つ目は、神様が人の信仰をとても大切にすることです。でも、信仰とは、目で見えなくても神様に信頼することです。

しかし、ある人にとっては神様を信じる前、彼らは自分の目で神様を見たいのです。彼らは基本的に言います。「神様の存在の証拠があると認めるけど、自分の目で見ないなら、私は神様を信じない。」

でも、それは信仰の態度ではありません。さらに、多くの場合、その言葉は反抗的な心から来ます。だから多くの場合、神様はその要望を叶えません。

しかし、もう一つのことを考えてみてください。神様は人々の人生の中で働くとき、多くの場合、クリスチャンを通して働きます。そして、神様は私たちにこの世の人々に福音を述べ伝える責任を与えました。神様は天の御国の鍵を私たちに与えてくださいました。それを使わずに、福音を伝えないなら、私たちは神様に問われます。(エゼキエル33:7-9)

でも、神様は私たちがその鍵を使うことを強制はしません。

だから、人々の人生の中で働くとき、神様は二つの方法を使うことができます。神様は直接働くことができます。つまり神様は直接自分自身を現すことができることです。でも、神様は信仰を望むから、その方法をほとんど使いません。

ほかの方法は神様は人々を通してほかの人々に触れることです。でも、神様はクリスチャンたちに福音を伝えるように強制しません。

そういうわけで、たくさんの人々は救われません。

神様はの考え方は正しいでしょうか。神様が私たちの創造者で、すべてのことを知っていて、私たちはただの人間で、私たちが少ししか知らないので、神様の判断を問うことができないと思います。

だから予定説に関して考えるとき、結局アブラハムのように私たちはこう言うべきだと思います。

全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。(創世記18:25)

結局私はそう思います。そして、神様が公正を行うことを信じます。

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(4)

予定説について話すとき、よく出る質問はこうです。

「あなたは、神様が誰が天国に行くかあらかじめ定めると主張します。と言うのは、神様は誰が地獄に行くか、あらかじめ定めるわけでしょう。」

ある程度、私は前回の記事でその疑問に答えました。ある意味、神様は誰が地獄に行くかあらかじめ定めます。でも、誤解しないでください。神様は「あなたは地獄に行け!あなたが悔い改めても、かまいません。イエス様を信じることを選ぼうと思っても、かまいません。私はあなたの運命をもう決めたから。」と決して言いません。

むしろ、神様は彼らにこう言います。「私の計画は、あなたの罪のためにあなたを罰することです。正義を執行しなくてはならないから。」

でも、神様はその宣告を猶予して、その人がただ自分の意志で悔い改めるかどうか待ちます。その人が自分の意志だけで神様を求め始めるかどうか待ちます。でも残念なことは、神様がその人の心の中で働かないなら、自分の意志で神様を求める人は誰もいません。

だから結局私はこう信じます。人々は自分の自由意志によって、地獄に行きます。でも、神様の選びによって、人々は天国に行きます。

神様は人々に自由意志を与えてくださいます。私たち皆は神様に従うかどうか選ぶことができます。でも、神様が私たちの心の中で働かず、私たちをそのままにしていたら、私たち皆は神様に反抗して、自分の道を行きます。例外は全然ありません。それが人間の歴史です。

だから神様は選択をしなくてはなりませんでした。神様が人間をほっといて、皆が滅びることを許すことができました。もしくは神様は働いて、ある人々を救うことができました。

結局、神様はある人々を救うことを選びました。

だからパウロはこう言いました。

また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」(29)

ソドムとゴモラの人々は自分の自由意志で、神様に反抗することを選びました。神様は彼らを憐れむことを選ばずに、彼らが値することを与えました。つまり、彼らは裁かれて死にました。

イスラエル人たちも自分の自由意志で、神様に反抗することを選びました。でも、神様は彼らを憐れんで、彼らが値しないことを与えてくださいました。それは命に至る恵みです。

ソドムとゴモラの人々とイスラエル人たちと、どう違ったでしょうか。イスラエル人たちは何とかソドムとゴモラの人たちより優れた者だったでしょうか。違います。違いは一つだけあります。神様の選びです。神様はイスラエル人を選びました。神様はソドムとゴモラの人たちを選びませんでした。

もう一度私は言います。それは恵みの不思議さです。私たちはほかの人よりも優れた者というわけでもありません。でも、神様は私たちを救うことを選びました。

だから神様の選びによって、私たちは救われました。でも、人々が地獄に行くなら、それは自分のせいです。

 

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(3)

前回の記事で私たちが見たのは、神様は人々を裁くことを決めるけど、その裁きを猶予するということです。その間に、神様は彼らに基本的にこう言います。「私はあなたを裁こうと思っているけど、私の判断が間違っていることを証明する機会をあなたに与えます。私が間違えていたら、そう証明しなさい。あなたが破壊に値しないことを証明しなさい。」

そして神様は忍耐を持って、彼らの反応を待ちます。

エゼキエル書でも、私たちは神様の考え方を見ます。神様はエゼキエルにこう言いました。

わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

また、

わたしが悪しき者に「あなたは必ず死ぬ」と言っても、もし彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公正と義を行った彼は必ず生きる。(エゼキエル書33:14-16)

でも、私が以前に言ったように、問題だったのは人々が悔い改めずに、もっと悪くなってしまうことです。ファラオは一つの例です。

神様は最初にファラオに警告しました。そのあと、神様はファラオを裁きました。でも、ファラオは自分の心を柔らかくしませんでした。彼は悔い改めませんでした。むしろ、彼はあえて、自分の心を頑なにしました。出エジプト記7:13と7:22と8:15と8:19と8:32と9:7で、そのパターンを見ることができます。

そのあと、私たちは初めてこの言葉を見ます。

主はファラオの心を頑なにされた。(出エジプト記9:12)

ファラオが何回も自分の心を頑なにした後、神様は彼にこう言いました。

このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:16;ローマ9:17)

ファラオはをそれを聞いて、もう一つの奇跡を見た後、ちょっと心を柔らかくしたけど、すぐに自分の心を頑なにしました。(9:34)

そのあと、神様自身はファラオの心を積極的に頑なにしました。神様は基本的にファラオにこう言いました。「あなたは自分の心を頑なにしたいと思うのですか。では、私はそのプロセスを早めます。」

神様は、ファラオの心を変えるのにもっと何かをすることができたでしょうか。神様は、ファラオが悔い改めるまで憐れみを示すことができたでしょうか。そうかもしれません。でも、神様にはそんな義務があったわけではありません。逆に、神様は罪を罰する義務を持っていました。そして神様はそうしました。

恵みの不思議さはこうです。私たちはファラオ同然でした。私たちが自分の心を頑なにしたのに、神様は私たちの罪の状態のままにはなさいませんでした。さらに、神様は私たちに値する罰を与えませんでした。むしろ、私たちがやっと神様を信じて、愛するまで、神様は私たちを憐れんでくださいました。

だからファラオのような話を読むと、私たちはファラオと他の裁かれた人々を見下すことはできません。むしろ、パウロはこう言います。

しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。(23)

つまり、私たちがこんな話を読むとき、私たちがその裁かれた人々同然なのに、神様が私たちを選んで救ったことに驚くはずです。

私たちが神様の民ではなかったのに、神様は私たちを自分の子供にしました。私たちが神様の愛にふさわしくなかったのに、神様はその愛を私たちの上に浴びました。(9:24-27)

それが恵みの不思議さです。

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(2)

前回の記事の最後では、私はこう訊きました。「もし私たちの救いが神様の選びだけによるなら、神様はみだりに誰を救うか、だれを地獄に送るか選んでいるのですか。」

もちろん神様はみだりに選びません。神様が確定した計画を持って、神様のすべての決断はその計画に基づいています。

しかし、神様は私たちにその計画を完全に現わしていません。また、神様は自分の決断の理由を全部現していません。特に、どうして神様がある人々を救うか、ある人々を救わないかを説明していません。

だからこの疑問どう考えても、私たちは完全に理解することができません。神様はすべてをまだ現わしていませんから。

だから多くの人々は、神様の選びが不公平だと思います。

ですから、神様は「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」(15節)と言って、また、モーセは、「ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。」(18節)と書くと、人々はこう叫びます。「不公平だ。どうして、神様はある人を憐れむけど、ある人を憐れまないだろうか。もし、神様がある人々を憐れまずに、その心を頑なにするなら、どうして神様は彼らを地獄に送るのだろうか。それは彼らのせいではない。だって、だれが神の意図に逆らえるのですか。(19節)」

パウロは、二つの答えを教えます。

人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。(20-21)

要するに神様は創造者です。神様は自分が造ったものを好きなように扱う権利を持っています。また、神様は、自分の目的を果たすためにその造ったものを好きなように用いる権利も持っています。

でも、そう言った後で、パウロは興味深いことを言います。

それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。(22)

パウロは何を言いたいのでしょうか。たぶんパウロのポイントはこうです。神様は自分の計画を作ったけど、滅ぼされるはずの怒りの人にこう言いました。「あなたは私の判断が間違えていると思うでしょうか。では、私の判断が間違えいていることを証明しなさい。あなたが救いに値することを証明しなさい。」

そして、神様は待っていました。そして、神様はさらに待っていました。そして、神様はさらに待っていました。でも、神様が待てば待つほど、その人々は悪くなりました。

カナン人は、その例の一つです。アブラハムが初めてカナンに着いたら、神様は彼にこう言いました。

そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。(創世記15:16)

要するに、神様はアモリ人たちを裁くことを決めたけれど、すぐにその裁きを実行しませんでした。逆に、神様は彼らが破壊にふさわしくないことを証明する機会を与えました。でも毎日、毎日、彼らが証明したのは、自分たちがその裁きに値するということです。そして、神様はイスラエル人をエジプトからカナンに導いた時、イスラエル人を通してその裁きを実行しました。

大洪水の前に神様は似たことをしました。ノアはずっと周りの人々に警告しました。「神様はあなたたちを裁くことを決断した。あなたは悔い改めないと必ず滅びるでしょう。」

ノアがその箱舟を作っている間、ずっと彼らに警告したので、彼らは悔い改める機会がたくさんありました。彼らは神様の判断が間違えていることを証明する機会がありました。彼らがそんなに悪い人じゃないことを証明する機会がありました。でも結局彼らが証明したのは、自分たちがその裁きに値することでした。

だから覚えていてください。人々が本当に神様を求めて、従いたいと思うのに、神様は彼らをみだりに地獄に送るというわけではありません。彼らが「神様、私は悔い改めます。赦してください。」と言うのに、神様は「残念だけど、私はあなたを選んでいないので、君が地獄に行かなくてはならない」と答えるわけではありません。

むしろ、人々が神様に背を向けることを選んで、神様が彼らに悔い改める時間をどんなに与えても、彼らは自分が破壊に値することを証明します。

だから、パウロはこう言います。

ですから、これ(つまり、神様の選び)は人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

もし、神様の選びが私たちの願いや努力によるなら、救われる人は誰もいないでしょう。なぜなら、神様が彼らをほっといていたら、神様に従おうと思う人は誰もいないから。だから、神様はの選びはただ自分の恵みと憐れみによります。次の記事で、そのことをもっと説明します。

 

 

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ローマ人への手紙9:1-29--神様の選びと言う疑問。神様の選びの不思議さ。(1)

聖書な中で、最も難しいコンセプトの一つは、神様の選びということです。つまり、神様が人々を聖徒として選ぶことです。

神様の選びを考えると、人間の自由意志というコンセプトと矛盾するようです。また、神様の選びというコンセプトは、神様がすべての人々を愛するという考え方と矛盾するようです。

私の意見を言う前に、私が言わなくてはならないのは、神様の選び、また、予定説に関して、私たちの知識は不完全だということです。その疑問をどう見ても、私たちはそのコンセプトを完全に理解することができません。

今日の個所で、パウロはユダヤ人に対する自分の悩みを表現します。なぜパウロは悩んでいたでしょうか。神様が自分自身をユダヤ人たちに現したのに、多くのユダヤ人たちはイエス様をメシアとして拒絶したから。パウロ自身がユダヤ人だから、特に悲しんでいました。

でもパウロは、アブラハムの子孫への神様の約束が無効になったわけじゃないと言いました。パウロは二つの理由を教えます。

一つの理由は、11章に書いてあります。もう一つの理由はこの個所に書いてあります。

パウロの最初の答えは、ただの系図によって、人々は「私はユダヤ人だ」と主張することができないことです。自分の意味を説明するのに、パウロはイサクとイシュマエルについて話します。

パウロは「肉の子供」と「約束の子供」と比較対照します。「肉の子供」というのは、自然に生まれた子供です。イシュマエルは肉の子でした。アブラハムはハガルという若い女性と寝て、結果イシュマエルが生まれました。でも、イサクが「約束の子でした」。アブラハムの妻サラはずっと不妊でした。でも、神様は「サラは息子を産む」と約束しました。そして彼女は90歳になった時、イサクを生みました。神様の約束と力だけによって、彼女はイサクを生むことができました。

そのように、アブラハムの子孫になるのは、自然のプロセスではなりません。それは系図によらないものです。むしろ、神様の恵みと約束だけによって、私たちはアブラハムの霊的な子孫になるのです。

でも、パウロはとても大切なポイントを教えます。その約束は私たちの行動に基づいていません。

エサウとヤコブの話を通して、パウロはそのポイントを描写します。

その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。(11-12)

パウロのポイントは何でしょうか。神様がヤコブを選んだ理由は、ヤコブがエサウよりも優れた人というわけではありません。ヤコブが品行方正だったというので、神様は彼を選んだわけではありません。むしろ、恵みによって、神様は自分の目的を果たすのに、ヤコブを選んで、約束をしました。

多くの人々は神様の選びをこのように説明しようとします。「神様は自分の予知によって人々を選びました。神様は誰が良い人になるか、悪い人になるかあらかじめ知っていました。また、神様は、だれが神様を選ぶか、選ばないかあらかじめ知っていました。だから、神様はその予知によって人々を選びました。」

でも、神様は人々をそのように選ぶなら、11節にあるパウロのポイントは無意味です。その考え方によれば、人々の行ったことによるわけではなく、人々が将来に何をするかという神様の知識によって、神様は人々を選びました。

でも、パウロによれば、神様の選びは人々の過去の行為や将来の行為によりません。むしろ、パウロは「行いによるのではなく(過去の行いでも、将来の行いでも)、召してくださる方によって」と言います。

そして、パウロは預言者マラキの言葉を引用します。

わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。(13)

私はその言葉をこの記事でもっと説明したけど、簡単に言うと、神様のポイントは、ヤコブの行為によらずに、神様の恵みと目的によって、ヤコブを選んだということです。

でもそれは不公平ではないでしょうか。神様は、だれを救うか、だれを地獄に送るか、みだりに選ぶのでしょうか。次の記事で、私はその疑問について話します。

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ローマ人への手紙8:35-39--私たちが苦しんでも

今日の個所では、パウロは15-18節の話をまとめます。

15-16では、パウロは、私たちが神様とどのような関係を持つかを教えます。私たちは神様を恐れないで、神様の御前に来て「アバ、お父さん」と言う権利を持っています。

そして、17-18節では、パウロは、私たちがこの世界で苦しむときもあると警告します。時々、私たちはイエス様に従うゆえに苦しみます。時々、ただこの壊れた世に住むことによって、私たちは苦しみます。

でも、35節では、パウロは私たちにとても大切なことを思い出させます。私たちは苦しむとき、その言葉を覚えているべきです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」(35-36)

もちろん、その答えは、私たちをキリストの愛から引き離すことができるものが何もないということです。私たちが直面する苦難や、迫害や、災害や、飢えなどは、私たちをその愛から引き離すことができません。私たちは死んでも、神様の愛から離れません。

でも、パウロは続けます。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(38-39)

だから、霊的な力や、私たちの心配や将来への恐れや、この世にある力も、私たちをイエス様の愛から引き離すことができません。あなたが海底にいても、宇宙にいても、どこにいても、神様の愛はあなたに触れることができます。

だからパウロはこう言えます。

これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(37)

要するに、イエス様は十字架で勝利を得たので、最終的に私たちも勝利を得ます。十字架でイエス様はサタンを破って、その計画を狂わせました。

だから、サタンが私たちを誘惑したり、責めたり、苦しめたりしても、神様が私たちをまだ愛しているので、私たちには希望があります。そして、私たちをその愛から引き離すことができるものは何もありません。

だから、苦しむとき、その愛によって安心しましょう。その愛の慰めを受けましょう。なぜなら、神様の愛は私たちを決して手放さないから。そしてどんな試練に直面しても、その愛によって私たちは乗り越えます。

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ローマ人への手紙8:29-34--神様が私たちの味方ならば。。。

クリスチャンたちにも、罪悪感を持って、神様に責められるように感じるときもあります。私たちの悪い決断によって、すべてがめちゃくちゃになって、私たちは「どうして私はいつも失敗するの?」と思います。

または、私たちは誘惑と戦って、「私は長い間クリスチャンだったが、どうして私はまだこの罪に誘惑されるだろうか。」と思います。

または、私たちは聖書で御霊の実のことを読むとき、自分自身を批判します。「愛?いや、私にはその実があまりないのだ。寛容?いや、ないのだ。柔和?いや、それもない。」

そして、私たちは自分自身に訊きます。「どうして私はその実を持っていないのだろうか。どうして私は変わらないだろうか。私はやっぱりだめだろうか。」

でも、前回の記事で私が言ったことを覚えていてください。神様はこの世を造る前に、あなたのことをよく知っていました。神様は、あなたがどんな人になるかよく知っていました。神様は、あなたがどんな罪と戦うか知っていました。神はあなたの人生で、どの実が現れるのに長い時間がかかるかを知っていました。そして神様は、あなたが御子のようになるのに、何年かかるか知っていました。

それでも、神様はあなたを選びました。そして神様はあなたを召しました。そのあと、神様はあなたを義と認めました。そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えます。その日、私たちは、キリストに似た者になります。なぜなら、キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だからパウロはこう言います。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(31)

神様は私たちの味方です。神様はあなたを選んだほどに、愛していました。だから誰があなたに反対できるでしょうか。

パウロはそのコンセプトをもっと説明します。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(32)

要するに、神様が私たちの最大の必要、つまり、私たちの罪の赦しに備えていたら、私たちのほかのニーズにも備えてくださいませんか。

だからイエス様はこう言いました。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:31-33)

そして、パウロは私たちを神様の法廷に導いて、こう訊きます。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。(33)

つまり、神様の法廷で、神様はあなたを訴えていないことです。逆に、神様はあなたを義と認めているのです。

そしてパウロは訊きます。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(34)

キリストは、あなたを責めていません。私たちが裁かれないように、イエス様は十字架で死にました。さらに、イエス様は裁判官の右手に座り、あなたのためにとりなしてくださいます。

その判決はもう決まったでしょう。裁判官も検事もあなたの味方です。それなら、どうして私たちはいつも自分自身を責めるでしょうか。裁判官と検事はそうしません。だから私たちには、自分自身を責める必要がありません。

だから、罪悪感を持って、裁かれるように感じるとき、また、あなたが神様の恵みに値しないと思うとき、この個所を覚えていてください。

神様はあなたの味方です。あなたが生まれる前に、神様はあなたの味方でした。そして永遠まで、神様はあなたの味方です。

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ローマ人への手紙8:29-30–私たちの希望の理由(2)

この個所では、私たちの苦しみの中で希望を持つ理由をもう一つ見ることができます。それは、永遠の昔から神様は私たちのために計画を持ったことです。パウロはこう書きました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(29-30)

多くの人々は自由意志や予定説(つまり、神様はあらかじめすべてのことを定めたこと)というコンセプトを考えて混乱します。他の記事で、私はそのことについて話したし、また9章について書くとき、もう一度そのことについて話します。

でも、当分クリスチャンのためにパウロの言葉の意味合いを考えてください。

あなたが生まれる前から、神様はあなたのことをよく知っていました。エペソ人への手紙1章では、パウロが言ったのは、この世を造る前に、神様はあなたのことを知っていたことです。神様はあなたの良い点も、あなたの悪い点もよく知っていました。神様はあなたの得手不得手をよく知っていました。神様は、あなたが何の良いことをするか、何の悪いことをするか知っていました。

それでも、神様はあなたを選びました。あなたのために良い計画を作りました。その計画は、あなたが神様の御子の形と同じ姿に変化されることです。あなたが罪深くて、弱い反抗的な人になるとよく知っていたのに、神様はあなたに恵みを与えて、あなたを栄光のあるものに変えるように計画しました。

その計画を実行するのに、神様はあなたを召しました。あなたが神様を求めていなかったのに、神様はあなたを召しました。そして、あなたが信仰を持って神様に向かうと、神様はあなたを義と認めました。イエス様が十字架であなたの罪の代価を支払ったので、神様はあなたに関して「無罪」と宣言できます。そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。イエス様の体と同じような体を与えてくださいます。その体は決して滅びないし、罪で汚れないものです。その体は本当に栄光のあるものです。

それは神様のあなたのための計画です。そして、その計画は確実なものです。所詮、神様の計画を変えることができるものが全くないでしょう。神様は永遠からすべてのことを知っていたので、神様は私たちを見るとき、こんなことを決して言いません。「あれ?彼を選んだけど、ダメになっちゃった。彼の人生はめちゃくちゃになった。もうダメだ。私さえ彼を救うことができない。」

神様は絶対そんなことを言いません。神様はそもそもあなたのことを全部知っていたのに、あなたを選びました。そして、パウロは私たちへの神様の賜物に関して、こう言います。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(ローマ人への手紙11:29)

あなた自身を見るとき、気が重いでしょうか。あなたがクリスチャンとしてあまり進んでいないと思って、失望しているでしょうか。神様は失望していません。神様はずっと昔からあなたを知っていました。神様はそもそも、あなたがイエス様の形と同じ姿に変化されるために何年かかるかよく知っていました。だから神様は決してあなたのことをあきらめません。

そして、あなたがどんな試練に直面しても、その試練は神様の計画を狂わせません。神様はびっくりしたことがありません。神様はあなたをどのように助けるかもう知っています。だから、苦しんでも、絶望しないでください。そして、パウロの言葉を覚えていてください。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(28)

 

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ローマ人への手紙8:26-28--私たちの希望の理由

聖書の中で、これは最も好きな個所の一つです。実は、26節から8章の最後までの言葉が大好きです。どうしてでしょうか。この個所は私たちの希望の理由を伝えるからです。

多くの人々は28節を引用します。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(28)

でも、どうして、神を愛する人たちのために、すべてのことがともに働いて益となるのでしょうか。26-27節では、パウロはその理由を説明します。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(26-27)

祈りの時に、しばしば私たちは何のために祈ったらいいか、また、どう祈ったらいいか分かりません。どうしても私たちの言葉が出なくて、祈れない時もあります。また他の時、私たちは間違っていることのために祈ってしまいます。私はイエス様のたとえを使うけど、私たちはパンのために祈ると思っているけど、実は、私たちは石のために祈っているときもあります。

でも良い知らせは、神様が私たちの弱さや、間違ている祈りに限定されていないということです。神様が一番望んでいるのは、私たちが神様と話していることです。私たちが祈るとき、聖霊様は私たちのためにとりなしてくださいます。聖霊様は、私たちのうめきや、言葉のない祈りや、間違った祈りを取って、神様の御心に合う祈りに変えてくださいます。

だから、パウロはこう言えます。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(28)

私にとって、その言葉はとても心強いです。

私の娘が赤ちゃんの時に、時々私と私の妻はフラストレーションを感じました。なぜなら、娘が泣いた時、どうして泣いていたかわからなかった時もあったから。彼女の泣き声や叫びは私たちに彼女のニーズをちゃんと伝えませんでした。だから、私たちは彼女のニーズを推測しなくてはなりませんでした。当たっていたときもあったけど、全然当たっていない時もありました。

でも、私たちがうめいたり、言葉を使わずに祈っても、聖霊様は私たちのニーズをよくご存じです。だから聖霊様はちゃんととりなすことができて、私たちを助けることができます。

あなたはどんな試練に直面しているでしょうか。祈るときに、フラストレーションを感じるでしょうか。あなたの祈りが天井にぶつけて止まるように感じるでしょうか。

希望があります。今なお、聖霊様はあなたのためにとりなしてくださいます。そして、その祈りは神様の御心に合っています。だから、安心してください。神様は働いて、あなたの試練から良いことをもたらします。

 

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ローマ人への手紙8:16-25--どうして私は苦しまなくてはならないだろうか

16-17節の言葉は本当に心強いものです。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。

すべてのクリスチャンはそれを読んで、励まされるでしょう。私たちは神様の愛する子供です。私たちは神様の相続人です。

でも、パウロは続けます。

私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

苦難?苦難を全然望みません。パウロはどんな苦難について話しているでしょうか。

35節で、パウロはちょっと例を挙げます。「迫害」とか「 飢え」とか、 「裸」とか、 「危険」と か、 「剣」 です。

私たち皆は苦しみを経験することがあります。この世では、私たちは苦しみを避けることができません。もちろん、ノン・クリスチャンはそうできないけど、クリスチャンでも、苦しみを避けることができません。なぜなら、キリストに従うと、そのためにあなたを憎む人もいるから。

でも、どうして私たちは苦しまなくてはならないでしょうか。どうして神様は単にその苦しみを取り除かないでしょうか。だいたい、どうして神様は苦しみを許すでしょうか。それは難しい疑問です。パウロはその答えの部分を説明します。

被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(20-22)

どうして地震や、津波や、ほかの天災が起こるでしょうか。どうして先天的障害や、ほかの疾患や、死があるでしょうか。神様はそれらを取り除くことができるでしょうか?もちろん神様はそうできます。でも、神様はそれらのものを許します。なぜでしょうか。

そんなものがない世界を想像してください。もちろん私たちの人生は楽になるでしょう。でも必ず人々はまだ罪を犯すでしょう。彼らは神様のことを考えずに罪を犯すのに、平気な態度を持つでしょう。彼らは、自分の罪の悪さに気づかないでしょう。だから、この世の状態はさらに悪くなるでしょう。

でも、この世の苦難を通して、人々は自分の死ぬべき運命に向き合わなくてはなりません。また、彼らは罪の悪さに向き合います。そして、人々は目が覚めて、神様を求めて、救われます。

だから、神様はこんな苦難を許せます。神様の望みは、人々が神様に向かって、本当の喜びを知ることです。そして、神様の救いの計画が成就したら、イエス様はこの世に戻って、すべてを新しくします。

でもパウロによれば、その日が来るまで、この世は産みの苦しみを経験します。死に至る痛みではなく、新しい命に至る痛みです。そして、この世の苦難を通して、たくさんの人々は神様に向かって、神様の子供になって、神様の国は広がります。

それでも、この世の産みの苦しみは本当に大変です。

クリスチャンたちの苦しみも本当に大変です。パウロはこう言います。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(23)

私たちの苦しみのゆえ、私たちはうめきます。私たちは自分の罪と戦って、うめきます。この世の罪や苦しみから解放される日を待ち望みます。

でも私たちは待っている間に、希望があります。それは、私たちがキリストとともに苦難を経験しているけど、イエス様の栄光も受けることです。また、その栄光と比べると、その苦しみは取るに取りないものです。(18)

そして、私たちには、いつかすべてが新しくなるという希望を持っています。

それは今、目に見えない希望です。パウロによれば、「目に見える望みは望みではありません。」(24)

でもパウロはこのことも言いました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)

では、待っている間に、私たちはどうするべきでしょうか。忍耐して望みましょう。必ずその希望は現実になるからです。

あなたはどうですか。あなたは今苦しんでいるでしょうか。あなたは希望を持って、待ち望んでいるでしょうか。

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ローマ人への手紙8:12-17--全く違う関係に導かれた

もしかしたら、6章で自分が書いた言葉を考えてみたら、パウロはその言葉をもっと説明したほうがいいと思ったのかもしれません。

6章では、パウロが書いたのは、私たちがかつて罪の奴隷だったけど、今私たちが神様の奴隷だということです。

「神様の奴隷」という言葉はちょっと不思議な言葉です。たぶん、パウロのポイントは、私たちが完全に神様のものになったということでしょう。でも、「奴隷」を聞くと、「自由がない」とか「罰の恐れ」というイメージが思い浮かぶでしょう。

だから、パウロはその誤解を解こうと思ったかもしれません。パウロはこう言いました。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(15-17)

つまり、聖霊様はあなたを導くけど、全然厳しい主人ではありません。あなたが罪を犯したり、失敗したりしたら、聖霊様は鞭であなたを罰しません。また、「あなたはだめな人だ。天の父は決してあなたなんて受け入れることができません。」と言いません。

むしろ、私たちが自分の失敗を見て、絶望するとき、また、放蕩息子のように神様を「お父さん」と呼ぶ権利がないと思う時、聖霊様は私たちの心にささやきます。「ちょっと待ってよ。あなたはまだ神様の子だよ。天の父はまだあなたを愛しているよ。神様をお父さん」と呼んでもいいよ。天の父はそれを聞いて、本当に喜ぶから。」

そして、私たちが試練に直面して、苦しむとき、聖霊様は、私たちがまだ希望があると思い出させます。私たちは神様の相続人だから。そして、私たちの苦しみは永遠に続けません。

簡単に言うと、私たちは単なる奴隷ではありません。私たちは神様の愛する子供です。それを決して忘れないでください。

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ローマ人への手紙8:5-16--私たちがイエス様に属すると

5-8節を一目見ると、私は、パウロがクリスチャンについて話しているかどうか疑問に思いました。つまり、パウロは、神様を全然知らない、自分の罪深い心に従う人について話しているでしょうか。もしくは、パウロは、死んだ罪深い心の残った影響に従い続けるクリスチャンについて話しているでしょうか。

でも、9節を読むと、パウロがノンクリスチャンについて話しているのが明らかです。パウロはこう言いました。

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。(9)

5ー8節では、パウロが言ったのは、罪深い心を持つ人(つまり、「肉のうちにある人」)は、神様を喜ばせることができないということです。実は、その人は神様に敵対します。その人が行く道は、死へと導きます。

でも、9節では、パウロは私たちをその罪深い心を持っている人と比較対象します。パウロが言ったのは、御霊を持っていないなら、あなたはキリストのものではないということです。要するに、聖霊様があなたのうちにおられないなら、あなたは本当にクリスチャンではありません。

しかし、聖霊様があなたのうちにおられるなら、聖霊様はあなたの心の中で働いて、イエス様と同じかたちにあなたを変えています。あなたはもはや罪深い心の奴隷ではないのです。

そして、パウロはこう言います。

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(10)

パウロによれば、私たちの罪のゆえ、私たち皆はいつか亡くなります。でも、イエス様は私たちのうちにおられて、自分の義を私たちに与えてくださいます。だから、私たちの体が死んでも、私たちの魂は生き続けます。でも覚えていてください。神様は私たちに関して、「無罪」と宣言するけど、それだけではなく、神様は私たちを本当の義人に変えてくださいます。

パウロは続けます。

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(11)

私たちは、二つの希望を持っています。

一つ目は、私たちのうちにおられる御霊のゆえ、私たちの体が死んでも、私たちは新しい死ぬことができない体を受けることです。

でも、今なお、聖霊様は私たちに命を与えてくださいます。聖霊様は私たちをイエス様と同じかたちに変えています。私たちの性格は変わりつつあって、神様の計画通りに生き始めます。

それでは、私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。パウロはこう言います。

ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。(12-14)

つまり、私たちには、死んだ物に対しては全然義務がありません。私たちは、死んだ罪深い心を拝んではなりません。死ぬ前に、その罪深い心は私たちを死に導いていました。

でも、聖霊の力と導きによって、私たちはその罪深い影響を滅ぼすと、私たちは本当の命を知ります。パウロによれば、神様の子供たちの皆はそうします。

あなたはどうですか。あなたには、罪深い心に義務があるかのように、生きているでしょうか。もしくは聖霊の導きによって、神様の子供として歩んでいるでしょうか。

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ローマ人への手紙8:1-16--私たちを責める言葉が一つもない

映画中で私がもっとも好きな映画の一つは「 ア・フュー・グッドメン」です。

とても印象的なシーンは、軍事裁判所で二人の被告は判決を聞くときです。その直前、海兵隊の大佐は、その海兵隊員たちに別の海兵隊員を「しつける」ように命じたことを認めました。でもその命令によって、彼らはその海兵隊員を誤って殺してしまいました。

もちろん、その大佐は逮捕されたましたが、そのあとに陪審員たちはまだその二人の海兵隊員に関して、どうするべきか決めなくてはなりませんでした。

陪審員が判決を決めて後、裁判官はその判決を読みました。

「殺害の容疑に関して、陪審は被告人たちに無実の判決を下します。」

「殺害を謀る容疑に関して、陪審は被告人たちに無実の判決を下します。」

それを聞いて、たぶん皆はその二人が全然罰されないと思いました。

でも、裁判官は続けました。

「米国の海兵隊員としてのふさわしくない行為の容疑に関して、陪審は被告人たちに有罪の判決を下します。」

そして、裁判官はその宣告を下しました。

でも、その裁判官と違って、パウロは私たちについて全然違うことを言います。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(1)

ある聖書学者は、この個所をこのように言い換えました。「神様は私たちに責める言葉を一つも言いません。」

その映画の裁判官と違って、神様は「この容疑に関して、あなたに無罪の判決を下す。この容疑に関して、あなたに無罪の判決を下す。でも、この容疑に関しては、あなたに有罪の判決を下す」と言いません。むしろ、神様は私たちに「すべての容疑に関して、あなたに無罪の判決を下します。」と言います。

どうしてでしょうか。

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを開放したからです。(2)(「原理」は別訳です。聖書の脚注を見てください。)

罪と死の原理とは、何でしょうか。それは、「罪を犯すと、あなたは死ぬ」という原理です。もし神様の律法に違反すると、あなたは裁かれます。私たち皆、罪を犯したので、もう裁かれています。

でも、御霊の原理は私たちを罪と死の原理から解放します。御霊の原理とは、何でしょうか。それは、私たちが神様の恵みによって、神様に義と認められることです。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは新しい命を受けました。

パウロは続けます。

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪の清めのために遣わし、肉において罪を処罰されました。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるためなのです。(3-4)

律法にできないことは何でしょうか。律法には、私たちを義人にすることができませんでした。どうしてでしょうか。律法は何が善か悪かを示すことしかできませんでしたから。でも、私たちが神様に逆らう罪深い心を持っていたので、私たちはその律法に従いたくありませんでした。

神様はそれを見て、何をしたでしょうか。神様はその罪に対処するためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様は罪を犯さずに、完全に律法に従いました。そして、十字架で、天の父はイエス様に私たちの罪を置きました。私たちの代わりに、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。律法によれば、すべての罪は罰せられなくてはなりません。イエス様が十字架で死んだとき、私たちのすべての罪は罰されました。だから、イエス様を通して、律法の要求が満たされました。

でもそれだけではなく、私たちがクリスチャンになるとき、神様が聖霊様を遣わして、聖霊様は私たちのうちに住むようになります。そして聖霊の導きによって、私たちは義人として生き始めます。私たちが、死んだ罪深い心の影響を感じるかもしれないけど、聖霊様が罪に対して勝利を与え、私たちは神様の計画通りに生き始めます。

そして、私たち裁かれるかのように感じるとき、また、神様の愛と恵みにふさわしくないと感じるとき、聖霊様は私の心にささやきます。「あなたは神様の子供です。あなたは神様に属する者です。あなたはもう裁かれていません。」

あなたはどうですか。「神様は、私が安心することを待って、そしていきなり私をきっと罰する」と思うでしょうか。

神様は絶対そうしません。あなたが神様に属するなら、あなたに対して責める言葉が一つもありません。

だからパウロはこう言います。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(15)

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ローマ人への手紙7:14-25--希望

前回の記事で、私は、私たちに罪に勝つ希望があると言いました。

それでも、多くのクリスチャンたちは絶望してしまいます。彼らは訊きます。「私は本当にクリスチャンだろうか。私は何回も罪を犯すけど、本当のクリスチャンがそうするはずはないだろう。私は正しいことをしたいのに、何回も失敗する。」

でも、パウロの言葉を読んでください。

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。。。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(15-16,19-20)

この個所のテーマは何でしょう?それは、「戦い」です。

神様の恵みに触れられていないノン・クリスチャンは罪と戦いません。多くの場合、彼ら自分の罪の問題に気づきません。でも、クリスチャンはその問題に気付いて、戦うのです。

もし、「私はクリスチャン」と言い張る人が、神様が罪に関して何を言ったか知っていても、あえて罪を犯しながら、「私が罪を犯しているって?罪を犯していないよ。」と言うなら、私はその人の「私はクリスチャン」という主張を疑うでしょう。もしかしたら、彼らは本当はクリスチャンじゃないかもしれません。もしかしたら、彼らはクリスチャンだけど、自分の心を固くして、もう神様の声が聞こえなくなったのかもしれません。

(もちろん、神様の言葉をあまり知らない若いクリスチャンたちもいます。その人の信仰を疑っていないけど、私たちはその人をちゃんと教えなくてはなりません。)

でも私は、罪と戦っているクリスチャンの信仰を疑いません。逆に、神様がその人の心の中で働いている確信を持っています。そして、もし神様がその人の心の中で働ているなら、神様はきっとその働きを完成してくださいます。パウロはこう言いました。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り。。。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信してます。【ピリピ1:4,6)

もし神様があなたの罪を指摘しているなら、神様があなたをほっといて豚小屋に置かないことを信じて、安心してください。神様はあなたに勝利を与えてくださいます。それは私たちの希望です。

だから、パウロは「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」と叫んだけれど、またすぐに「神に感謝します。それは、私たちの主イエス・キリストによるのです。」と叫ぶことできました。(25節の別訳です。その脚注を見てください。)

私たちは自分自身をより良い人にすることができません。私たちは自分自身を変える力を持っていません。でも、神様はそんな力を持っています。それは私たちの希望です。どうやって私たちは変わることができるでしょうか。私たちのうちに住んでおられる聖霊様を通して。でもそれは別の記事のトピックです。どうぞお楽しみに。

 

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ローマ人への手紙7:14ー25--どうして私たちはまだ罪と戦うでしょうか。

前回の記事でも言いましたが、聖書の学者はこの個所について議論します。つまり、パウロが罪との戦いについて話すとき、クリスチャンとして話しているでしょうか。もしくはノン・クリスチャンとして話しているでしょうか。

とりあえず、パウロがクリスチャンとして話していると仮定しましょう。

パウロはこう言いました。

。。。私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。(14)

また、彼はこう言いました。

。。。この私は。。。肉では罪の律法に仕えているのです。(25)

その言葉を読むと、当然起こる疑問はこうです。もしパウロがクリスチャンとして話しているなら、神様が彼を贖って罪から解放したのに、どうしてパウロは「私は売り渡されて罪の下にあるものです」と言ったのでしょうか。

また、パウロはこう言いました。

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。(18)

でも、パウロがクリスチャンとして話しているなら、聖霊の力によって、パウロは良いことをしたいという願いを実行できるはずではないでしょうか。

それはとてもいい質問です。私たちはその疑問に答えなくてはなりません。でも、もしあなたが、パウロがノン・クリスチャンとして話していると思うなら、もっと難しい疑問が出てきます。

一番難しい個所は17節です。

ですから、今それ(つまり、罪)を行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(17)

そして、20節で、パウロは同じようなことを言います。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(20)

どうやって、ノン・クリスチャンは、「もはや私は罪を犯さない」と言えるでしょうか。ノン・クリスチャンは生まれつきの罪深い心をもって、神様に反抗しています。

私が以前言ったように、その罪深い心はノン・クリスチャンを定義します。また、その人は罪深い心と「結婚」しているので、死に至る実しか結ぶことができません。だから、どうやって、その人は「罪を犯しているのに、それは私の本当の姿じゃない」と言えるでしょうか。

でも、クリスチャンたちはそのことを言うことができます。だから私は、パウロがそのことをクリスチャンとして言っていると思います。

私たちが以前の記事で見たのは、私たちがクリスチャンになると、神様に反抗する私たちの罪深い心が十字架につけられて死んだということです。私たちの「元夫」が死にました。その罪深い心は、私たちを影響に与えることができません。

でも、私たちの体や、思いや、心は、私たちが生まれたからクリスチャンになるまで、その罪深い心に影響されています。その傷、つまり、罪深い行為のパターンは残っているし、今でもその影響を感じます。要するに、その罪深い心は死んだけど、その影響はまだ生きています。そして私たちはこの世に生きて、その傷が残る限り、私たちは罪の下にある者です。

そのように考えたら、パウロの言葉が分かりやすくなると思います。

本当の私は、もはや罪を犯したくないのです。神様に反抗する罪深い心がもう死にましたから。だから今、心の中で、私は正しいことをしたいと思います。神様を喜ばせたいと思います。でも、罪の傷がまだ残っています。その罪を犯す傾向が残っています。私たちの罪深い心は亡くなったけど、その影響はまだ残っています。だから、私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できません。

私は相手を許したいと思うけど、できません。自分の子供に対して忍耐を持ちたいと思うけど、できません。

では、私は何を言いたいのですか。この世に生きる限り、希望がないでしょうか。私たちが生きる限り、罪との戦いを負けるでしょうか。

そういうことではありません。今度の記事で、そのことをもっと話します。

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ローマ人への手紙7章14ー25--私たちの罪深い心が本当に死んでいるだろうか

ローマ書6ー7を読んだとき、私は自分自身にいろんな疑問を訊きました。一つの疑問は、「私たちの罪深い心が本当に死んでいるだろうか」ということです。

どうやって、その疑問に答えるかが、あなたのローマ書7章の解釈に影響を与えます。特に14ー25節の解釈に影響を与えます。

その個所では、パウロは律法に出会ったとき、パウロが律法に従えないと分かってきたと告白しています。でも、パウロは自分のノン・クリスチャンの経験について話しているでしょうか。もしくは、パウロはクリスチャンとして、罪の戦いについて悩んでいることを認めているでしょうか。

だから、その個所を見る前に、私たちと自分たちの罪深い心の関係について話したいと思います。私たちはまだ罪深い心を持っているでしょうか。聖書学者たちはそのことを議論します。私の意見が正しいかどうかわからないけど、取り合えずその意見を伝えておきます。(10年後に、その意見が変わるかどうかわからないけど。)

私が以前言ったように、「罪深い心」と言うと、私は神様に反抗する生まれつきの態度について話します。私たちが生まれてから、その態度をもって、私たちが年を取れば取るほど、その態度は私たちの考えや、行為に浸透します。最終的に、その態度は私たちを定義することになりました。

悪い伝染とゾンビの話を覚えているでしょうか。そのゾンビのウイルスが人に伝染して、結局そのウィルスはその人を定義します。つまり、その人はゾンビになります。そのように私たちが無実の赤ちゃんの時、罪深い心は私たちに伝染して、結局私たちは本格的な罪人になります。

でも、私たちが救われたとき、何が起こったでしょか。その罪深い心は十字架で付けられて死にました。今や、私たちはイエス様と「結婚」しています。でも今でも、罪からの残った結果を見ることができます。

ちょっと考えてみてください。ある女性は、夫に虐待されました。だから彼女は肉体的な傷や、精神的な傷を持っています。そして、その夫が亡くなります。彼はもう積極的に彼女を傷つけることができません。でも、彼の過去の行為はまだ彼女に影響を与えます。その肉的な傷や精神的な傷がまだ残っているから。

いろんな意味で、その夫とその行為はその妻を定義します。だから、将来に別の男性と付き合う時、彼女は元夫の悪い影響を感じるでしょう。例えば、彼女を虐待する人と付き合うかもしれません。または、いい人に出会っても、彼女はその人に完全に信頼できないかもしれません。だから彼女は彼の愛に反応できないでしょう。時間と癒し主の触れだけによって、彼女はその悪い影響から解放されて、癒されます。

私たちの死んだ罪深い心は私たちにそんな影響を与えます。その罪深い心が生きている間に神様に信頼せずに、反抗しました。そして、その罪深い心は私たちにそんな態度を持つように訓練しました。だから、私たちの思いや体には罪の傾向がありました。その罪深い心は私たちを定義しました。

私たちがクリスチャンになったら、その罪深い心はなくなったけど、その影響はまだ残っています。私たちは生きている間、その残っている影響と戦い続けます。

だから私たちクリスチャンたちは、自分の罪深い心が死んだと言えます。つまり、私たちはもうあえて神様に反抗せずに、神様に従いたいと思います。でも、私たちはまだ罪深い心の残っている影響を感じます。その影響はまだ生きています。

でも、その罪深い心は死んだので、もう私たちに悪い影響を与えることができません。それに、私たちのお医者さん、つまり、イエス様は私たちを癒してくださいます。以後数日に渡って、私たちそのことをもっと話します。

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ローマ人への手紙7:7-13--罪の悪さ

5節でパウロは、私たちが罪深い心と「結婚」している間、律法によって、罪の欲情はもたらされた、と言います。

だから当然の疑問は、「律法は悪いものなのですか。律法は罪なのですか。」ということです。「だって、律法は私たちの罪の欲情をもたらすでしょう?律法のせいで、私は罪を犯すでしょう?」

でもパウロはこう答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。(7)

要するに、律法は良いものです。律法は罪ではありません。むしろ、律法を通して、私たちは罪が認識できます。その知識によって、私たちは罪を避けることができます。

では、問題は何でしょうか。

しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。(8a)

この個所では、パウロは罪を擬人化します。このたとえで、罪は律法を見ると、こう言います。「ああ、神様はこんな行為が嫌いなの?」

そして、罪は私たちがの罪深い心に誘います。「神様の律法に違反しよう。」

私たちの罪深い心には、もう神様に反抗する傾向があるので、喜んで律法に違反します。

次に、パウロはこう言います。

律法がなければ、罪は死んだものです。(8b)

それはとても大切な真理です。私たちは存在しない律法に違反することができません。私たちは悪いことをするかもしれないけど、律法がないなら、神様はその違反のために私たちを裁くことができません。律法のない時、神様は一つののことのために人を裁きました。それは、彼らが神様に背を向けて、自分の道を行ったことです。実は、その態度はすべての罪の根本です。

でも、神様はモーセを通して、私たちに律法を現しました。その律法を通して、神様は人々に命への道を現しました。つまり、彼らは神様がどんな方であるか分かったし、神様が人間をどのようにデザインしたか現したことです。

神様がイスラエル人に律法を与えた時、彼らはどのように反応したでしょうか。彼らは、「これはいのちへの道だろうか。良かった。それに従おう」と言ったでしょうか。違います。パウロはこう言いました。

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(9-10)

どうしてでしょうか。

罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。(11)

要するに、戒めが来ると、戒めに違反する可能性が生まれました。そして、罪は生き、私たちを欺いたので、私たちはその戒めに違反しました。だから、私たちは裁かれました。

以前言ったように、この話ではパウロは罪を擬人化しています。罪は実に人ではありません。また、パウロが「罪」と言う時、サタンに触れないと思います。(でも、もちろんサタンは私たちを誘惑しようとします。」

パウロの要点は、神様が律法を現すと、律法に違反する機会も来たのです。また、私たち皆は罪深い心を持つので、その機会を見ると、罪を犯してしまいました。

その結果は何でしょうか。それは死です。

パウロはこの話をこのようにまとめます。

ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。(12)

簡単に言うと、「律法が問題ではありません。律法は良いものです。問題はあなたです。あなたは律法に違反したので、死に値します。」ということです。

そして、パウロはこう訊きます。

それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。(13a)

つまり、「パウロ、あなたは律法が良いものだと言うけど、その律法によって私は裁かれて、死ななければならないなら、それは良いことじゃないでしょう?」ということです。

でも、パウロは答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。(13b)

パウロは何を言いたいのでしょうか。彼はこう言ってます。「今更あなたは、どうして罪がそんなに悪いか分かります。罪は良いものを曲げて、悪い結果をもたらします。律法はいのちへの道を現すけど、罪は律法を通して人々を滅ぼしました。」

考えてみれば、罪はいつも良いものを曲げます。例えば、セックスはとても良いものです。セックスを通して夫婦は互いに愛を表し合うし、子供ができます。でも、罪がセックスを曲げたので、私たちの社会には、レイプや、姦淫や、ポルノがあります。

律法の主な役割の一つは、私たちが罪の悪さが理解することです。それが分からないと、人々は自分が救い主を必要とすることが決して分かりません。だから私たちは律法を必要とします。

あなたはどうですか。罪の悪さが本当にわかっているでしょうか。

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ローマ人への手紙7章1-7--イエス様と結婚すること

以前言いましたが、結婚の比喩を使う時、パウロは二つのポイントを描写したいと思いました。

私たちは、最初のポイントをもう見ました。つまり、私たちがイエス様と共に死ぬと、律法は私たちに対して力を失うことです。だから、死によって、結婚の律法は夫婦に対して力を失います。

そして前回の記事で私は、パウロがそのポイントを描写するのに、私たちを死んだ夫と比べるのは当然なことだろう、と言いました。つまり夫が亡くなったので、律法は彼に対して力を失ったことです。そのように、私たちがキリストと共に死んだので、律法は私たちに対して力を失いました。

でもかえって、パウロは、どうやって夫の死がその妻を結婚の律法の力から解放したか、ずっと話します。

だから、その比喩はちょっと分かりにくくなります。パウロは、私たちを死んだ夫と比べずに、まだ生きている妻と比べます。

でも、結婚の比喩をそのように使うにつれて、パウロは、第二のポイントを説明することができました。そのポイントは何でしょうか。

私たちがクリスチャンになる前に、私たちは別の夫と結婚していました。でも今、私たちはイエス様と結婚しています。

そのポイントを描写するのに、パウロはイエス様を新しい夫と比べて、私たちを妻と比べます。でもその比喩では、私たちはかつて誰と結婚していたでしょうか。その死んだ夫は誰でしょうか。

私は以前言ったけど、死んだ夫は律法ではありません。なぜなら、パウロは、律法がなくなるとは教えていないから。今でも、律法は大切な役割があります。律法は私たちに何が良いか何が罪かを教えます。(7)

では、私たちは誰と結婚したでしょうか。おそらくパウロは私たちの罪深いこころを指しているでしょう。

私たちがクリスチャンになる前、私たちの心は神様に反抗したり、自分の道を行きたいと思いました。生まれてから、私たちはその心と結ばれていました。そしてその「結婚」によって、私たちはどんな実を結んだでしょうか。私たちは、死に至る実を結びました。(5)

さらに、私たちが罪深い心と結んでいる限り、私たちはイエス様と結婚することができませんでした。

でも私たちを救ったとき、神様は私たちの罪深い心を十字架につけて殺してしまいました。

その罪深い心が亡くなると、どうなったでしょうか。

一つ目は、律法が私たちに対する力を失ったことです。妻の夫が亡くなれば、結婚の律法が妻に対して力を失ったように、私たちの罪深い心が亡くなったら、神様の律法は私たちに対して力を失いました。

二つ目は、私たちの罪深い心が亡くなったので、私たちがイエス様に結婚することができることです。

そして、私たちがイエス様との結婚によって、私たちはもう死に至る実を結びません。むしろ、永遠の命に至る実を結びます。

だから、救いの道がイエス様しかないのです。神様に反抗する心と結ばれている限り、私たちは永遠の命に実を結ぶことができません。罪深い心が私たちに入れる種は死に至ります。でもイエス様が私たちに入れる種は永遠の命に至ります。

あなたは誰と結婚しているでしょうか。

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ローマ人への手紙7:1-6--恵みの管轄

前回の記事で、私は、この個所でパウロが結婚の比喩を使うけど、その使いかたがちょっとちぐはぐだと言いました。彼はその比喩を通して、死によって律法が人に対する力を失う真理を描写しています。パウロの比喩では、夫の死によって、結婚の律法はその妻に対する効力を失いました。

そして、パウロは、私たちが死んだので、律法は私たちに対する効力を失ったと言います。でもパウロは、私たちを比喩にある夫と比べずに、まだ生きている妻と比べます。

どうしてでしょうか。

ちょっと考えてみてください。その夫が死んだとき、律法はその夫婦に対する力を失ったけど、どっちの方がより影響されたでしょうか。夫でしょうか。違います。妻の方が影響されました。その夫が死ぬ前に、律法によって彼女は夫と結ばれていました。彼女に対して、その律法は権限を持っていました。

でも、夫が亡くなったら、律法は彼女に対して権限を失いました。その法律はもはや彼女には関係がありませんでした。言い換えると、夫が亡くなったとき、彼女も違う意味で亡くなりました。彼女はその結婚の律法の権限に対して死にました。だから、彼女は別の人と結婚しても良いのです。

私たちはその話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがクリスチャンになる前に、神様の律法は私たちに対して権限を持ちました。その律法は私たちにこう言いました。「神様の戒めに従いなさい。そうしないと、あなたは死にます。」

でも、大きい問題がありました。完全に戒めを守る人は誰もいませんでした。だからは私たち皆は処刑を宣告されました。

でも、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。そしてイエス様は、私たちができないことをして下しました。イエス様は神様の律法を完全に守りました。そして、十字架で、イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださいました。

だから今、神様は私たちを受け入れます。なぜでしょうか。私たちが律法を守るからでしょうか。違います。私たちがイエス様とその十字架の働きを信じるからです。

だから今や、私たちは律法の管轄下にありません。私たちは恵みの管轄下にあります。私たちは律法には関係がありません。私たちは律法に対して死んだから。

だから私たちは律法に従うことに焦点を当てません。むしろ、イエス様と結婚して、私たちは毎日、聖霊に導かれています。その結果は何でしょうか。私たちは永遠の命に至る義の実を結びます。律法によって、私たちはそんな実を結ぶことができませんでした。

でも、私たちはその真理を把握するでしょうか。多くのクリスチャンが恵みの管轄下にあるのに、律法の管轄下にあるかのように生きます。彼らは、神様に受け入れられるのには、完全に律法を守らなくてはいけないと思います。律法を守らないと、罰されると思うから、彼らはいつも神様を恐れます。

でも覚えていてください。私たちはもう律法の管轄下にありません。私たちを愛して受け入れるイエス様と結婚しています。だから神様を恐れずに生きましょう。神様の基準に満たすかどうか心配しないでください。むしろ、イエス様にある愛を喜んで、その愛をイエス様に返しましょう。それは恵みによる生活です。

あなたはどうですか。あなたは恵みの管轄にあるでしょうか。もしくは、律法の管轄にあるかのように生きるでしょうか。

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ローマ人への手紙7章--破れた力

この個所を始めて読んだとき、私は本当に混乱しました。というのも、パウロは自分のポイントを説明するのに、結婚の比喩を使いました。でも、その比喩の使い方はちょっとちぐはぐです。

つまり、パウロは私たちと律法との関係や、私たちと神様との関係について話した時、結婚の比喩を使ったのです。

その比喩では、ある男性が亡くなったので、結婚の律法はその妻に対して、もう効力がなかったのです。つまり、その律法によれば、その夫が生きている間、彼女は別の人と結婚することができませんでした。でも、彼が亡くなったら、彼女は別の人と結婚することができました。

だから、私はこう考えました。「この比喩では、夫は誰でしょうか。妻は誰でしょうか。パウロによれば、私たちは律法に対して死にました。だから、私たちが夫で律法が妻なのだろう。いや、違う。だって、その比喩では、夫が死ぬと妻は別の人(つまりキリスト)と結婚することができる。律法はキリストと結婚するの?」それはナンセンスです。さらに、パウロが言ったのは、私たちがキリストと結婚するということです。

では、律法が夫で、私たちは妻でしょうか。いや、違います。パウロは律法が死ぬとは言いませんでした。逆に、パウロは、私たちが死んだと言いました。

最終的に、私たちはパウロの比喩の使い方に拘りすぎない方がいいです。パウロがあるポイントを伝えたいと思って、その比喩の使い方がちょとちぐはぐでも、私たちはパウロの比喩に拘らずに、そのポイントを理解しようとした方がいいです。

それでは、パウロの要点は何でしょうか。

「死によって、人に対する律法の力が破れます。」

だから結婚の場合、夫の死によって、その妻に対する結婚の律法の力は破れます。私が以前言ったように、夫が生きている間は、律法によって、彼女は別の人と結婚することができませんでした。でも、夫が亡くなったので、その律法が彼女に当てはめられないので、彼女は別の人と結婚することができます。

私たちの場合、私たちは別の律法の下でした。それは神様の律法です。その律法は何の行為が良いか、悪いか、を教えていました。その律法によって、私たちが罪を犯すと、私たちは裁かれました。さらに、私たちが罪を犯したので、私たちは神様から離れました。神様との関係ができませんでした。

でも、キリストにあって、私たちは死にました。ローマ書6章で、私たちはそう読みました。イエス様が十字架で死んだとき、私たちはイエス様と一緒に死にました。そして、イエス様は私たちを新しい人として復活させました。(6:3-7)

バプテスマはその真理の描写です。水はお墓の描写です。そして、私たちが水に沈むとき、それは霊的な真理を表します。私たちの古い人生、つまり、自分のために生きる私たち、また、神様に反抗する私たちは死にました。そして、私たちは新しい人として復活します。私たちは神様に従いたいのです。私たちはこれから神様のために生きたいのです。でも、もっと大切なのは、聖霊様を通して、神様は私たちのうちに住んでおられことです。神様は私たちに神様を喜ばせたい望みを与えるし、その望みを実現する力を与えてくださいます。

では、パウロのポイントに戻りましょう。私たちがイエス様と一緒に死んだので、神様の律法は私たちに対して力がもうありません。私たちと神様との関係は、私たちが律法を守ることに基づいていません。その関係は神様の恵みと、イエス様の十字架の働きに基づいています。律法は私たちをもう裁くことができません。なぜなら、イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださったから。私たちが罪を犯しても、律法は私たちを神様から離すことができません。むしろ、イエス様にあって、私たちは神様との関係があります。

イエス様と教会の関係が、新郎と新婦の関係として描写したことは、偶然ではないと思います。教会の一員として、私たちはイエス様と結婚しています。そして私たちはイエス様のために実を結びます。もちろん私たちは文字通りの子供たちを生むという意味ではありません。でも、私たちが霊的な実を結ぶにつれて、つまり、私たちが神様の愛と福音をシェアするにつれて、神様の国は大きくなります。

その真理に思いを巡らして、喜びましょう。

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ローマ人への手紙6章ーー本当の自由

どうしてたくさんの人々は神様に従わずに、逃げるでしょうか。もしかしたら、彼らは「自由」を望んでいるのかもしれません。

でも、彼らにとって「自由」とは、どういう意味でしょうか。たぶん、彼らは好き勝手に生きたいと思っています。でも、彼らは「神様に従うと、好き勝手に生きることができない。むしろ、私はいろんなルールに従わなくてはならないのだろう。」と考えます。

多分、パウロの時代でも、多くの人々はそのように考えたでしょう。だから、彼らは「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」とか、「私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、となるのでしょうか。」と訊きました。

でも本当の自由は、好き勝手にする生活でしょうか。もしくは、本当の自由には、全然違う意味があるでしょうか。

私は、本当の自由には、全然違う意味があると思います。

ちょっと考えてみてください。

日本に住んでいるアメリカ人として、私の一つのチャレンジは、電化製品を買う時に、その説明書が日本語で書いてあることです。なぜなら、私には、日本語の読み書きはとても難しいのです。だからこのブログの記事を掲載する前に、私の妻はいつも編集してくれます。(それを本当に感謝します。)

とにかく、4年前、私はブルーレイ・プレイヤーを買って、テレビやケーブル・モデムに繋ごうと思ったけど、日本語の説明書がよく分かりませんでした。だから、私は混乱して、ちゃんと接続するのに何時間もかかりました。

でも、私には説明書を使わない言い訳がありました。その説明書の漢字や専門用語がわかりにくかったのです。

でも、多くの日本人(特に男性たち)はブルーレイ・プレイヤーやコンピューターをセットするとき、「説明書は要らない。私は何とかできる」と思います。だから私のように、彼らはフラストレーションを感じてしまいます。それは本当の自由でしょうか。

そのように、神様は私たちに言います。「私はこのように人間をデザインしました。このように生きたら、あなたの人生はうまくいきます。私に信頼すると、あなたは祝福されます。」

でも、多くの人々は答えます。「いや、あなたの言葉はいらない。私は自分の方法に従っても、すべては何とかなるだろう。」

でも、彼らが自分の道に従うと、結婚や、親子の関係や、ほかの人間関係を壊したり、自分の健康や人生がめちゃくちゃになったりして、最終的にフラストレーションを感じてしまいます。彼らが求める幸せを手に入れられません。それは本当の自由でしょうか。

だからパウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、神様から離れたとき、好き勝手に生きる自由を持ったけど、その自由はどこに至ったでしょうか。それは恥に至りました。また、その自由はあなたを滅ぼしていました。

でも、私たちの人生を神様に委ねて、神様の導きに従うと、どうなるでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

つまり、私たちの人生は完全になります。永遠の命は天国で始まりません。永遠の命はここで始まります。神様に従うと、私は豊かな人生を生き始めます。なぜなら、神様がどのように私たちをデザインしたか分かっていて、私たちはそのデザインに従うから。それは本当の自由です。

では、自由のカギは何でしょうか。それは、神様に信頼することです。私たちは、神様が最もベストな生き方をご存じだと信じます。また、私たちは、神様が私たちの最善を望むことを信じます。だから毎日、私たちは自分の人生を神様にささげます。そうすると、本当の自由を見つけます。

あなたはどうですか。本当の自由を見つけたでしょうか。

 

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ローマ人への手紙6章ーー惨めな人生に戻ること

パウロはこの言葉を書いたとき、出エジプトの話を考えたでしょう。第一コリント10章では、パウロはその話に触れて、イスラエル人が紅海を渡ることをバプテスマと比べました。

この個所でも、いろんな意味でパウロの言葉は、イスラエル人がエジプトから救い出された経験を反映します。彼らはエジプトで死にかけていました。彼らは奴隷で、惨めな人生を送りました。

イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼ら叫びは神に届いた。(出エジプト記2:23)

そして、神様は彼らを救い出しました。でも、砂漠を渡るとき、彼らはいろんな試練に直面したので、ぼやき始めました。

エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。(出エジプト記16:3)

そのあと、神様が彼れらに与えると約束した地に入る直前、彼らの信仰が揺れて、彼らは「エジプトの方がいいです。新しいリーダーを選んで、エジプトに帰りましょう。」と言いました。(民数記14:3-4)

この個所では、パウロは似た状態に臨みました。パウロは「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と言いました。でもパウロの経験では、そんなことを言うと、よく聞かれた質問が出ました。だから、彼はこう言いました。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(1)

彼の答えは?

決してそんなことはありません。(2)

そのあと、パウロは、クリスチャンたちが律法の下にではなく、恵みの下にあると言いました。だから、もう一度パウロはよく聞かれた質問を出します。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15)

もう一度、パウロは答えます。

決してそんなことはありません。(15b)

どうしてでしょうか。パウロは説明します。

罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(2-4)

つまり、私たちは以前に罪のうちに生きていたけど、クリスチャンになると、そんな生き方に対して死んだということです。むしろ、今私たちは新しい人になって、より良い人生を送ります。今や私たちは神様との関係を持っています。(10)

そうならば、どうして古い人生に戻りたいのですか。

でも、多くのクリスチャンたちはイスラエル人たちのようです。彼らは紅海を渡ったとき、奴隷の人生に対して死にました。彼らは新しい人になりました。新しい人生を送る自由を持っていました。勝利のある人生を送る自由を持っていました。

でもかえって、彼らは「古き良き時代」を回顧し始めました。彼らはエジプトのおいしい食べ物を思い出しました。そして、彼らは奴隷の惨めな人生を忘れて、「エジプトに帰りましょう」と思いました。

罪は本当に欺瞞的なものです。私たちはすぐに罪の快楽を思い出すけど、罪から生まれる惨めを忘れてしまいます。

だからパウロはこう言います。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、「あなたは罪に治まれる人生に戻りたいのですか。そんな人生の惨めさをもう忘れてしまったでしょうか。そんな人生は恥に至ったし、おまけに死に至りました。そんな人生に本当に戻りたいのですか。

だからパウロはこう言いなした。

また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(13)

どうして私たちはそうするべきでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

私たちの命を神様にささげると、私たちの人生は聖いものになります。言い換えると、私たちは、神様が計画通りに生き始めます。私たちの人生は健全なものになります。そして、私たちは本当の命を得ます。

でも一番良かったのは、この賜物はただです。その賜物の価値を把握するなら、私たちは決して死に至る人生に戻らないでしょう。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(23)

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ローマ人への手紙5:20-21--治める恵み

この個所は二つの真理を現します。一つ目は、律法の不備です。二つ目は、恵みの力です。

パウロはこう言いました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。(20)

それはちょっとおかしく聞こえるでしょう。人の罪を増やすことが神の律法の目的なのでしょうか。

でも13節を読むと、パウロの意味はちょっと分かりやすくなります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪として認めらないのです。(13)

律法が存在する前に、人々は悪いことをしました。でも、人々が神様の基準を知らないかぎり、その基準によって裁かれません。それでも、神様に背を向けたので、そのことによって彼らは裁かれました。さらに、自分の良心や律法に反したので、彼らの良心や律法が神様の基準に合った限り、彼らは裁かれました。(ローマ2:14-15)

でも、彼らの良心や律法は不完全でした。それらは汚い鏡みたいでした。だから、神様は自分の律法を人々に与えました。その律法によって、人々は何が良いか、何が悪いかはっきりとわかるようになりました。でも、彼らがその律法を知るにつれて、罪が増えました。なぜなら、彼らはあえて神様の律法に違反し始めたたから。

それは律法の不備です。律法は私たちを良い人に変えることができません。むしろ、私たちが罪が何かわかるので、私たちの責任は増えます。それに、私たちは罪人の心をもって、神様に逆らうので、その律法を見ると、罪をもっと犯したいと思います。

その結果は?死です。

でも、よい知らせがあります。

しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(20b-21)

「どうして神様が律法を与えたでしょうか。私たちの責任が増えれば増えるほど、私たちの罰は厳しくなります。神様がそれを知っていても、律法を私たちに与えました。それはひどくない?神様は罰したいのだろうか。」と思う人がいるかもしれません。

でも、パウロはそのように考えませんでした。むしろ、どんなに罪が増えても、イエス様を救い主として受け入れる人に対して恵みが満ち溢れます。神様の恵みが覆うことができない罪が何もありません。

さらに、人がどんなに悪くても、神様の恵みはその人を変えることができます。パウロは、「恵もまた義によって支配する」と言いました。

もちろん、恵みによって、神様が私たちを見れば「この人は無罪だ」と言いますけど、それだけではなく、神様の恵みによって私たちは新しい心を受けます。その新しい心を受けるので、私たちは自然に良いことを行い始めます。私たちはの考え方や、行為や、言葉は神様を喜ばせます。言い換えると、私たちは神様の思いに義人になるだけではなく、私たちは実際に義人になります。究極的に、神様の私たちの中の働きの結果は永遠のいのちです。

だから恵みは驚くべきものです。あなたがどんなに悪くても、神様の恵みはあなたを変えることができます。あなたがするべきことは、ただその恵みを受けることです。

あなたはどうですか。神様の恵みを本当に知っているでしょうか。

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ローマ人への手紙5:15-21--良い伝染

「良い伝染」と言う表現を作ったと言いたいですけど、実はC.S.ルイスがその表現を発明しました。(もし、ルイスの「キリスト教の精髄」をまだ読んでいないなら、私はその本を本当に勧めます。)

とにかく、昨日私たちは「悪い伝染」について話しました。つまり、アダムを通して、私たち皆に罪が伝染しました。私たちの犯した罪によって罪人になるわけではありません。むしろ、私たちは罪人として生まれたので、罪を犯します。

でも、イエス様を通して、良い伝染が来ます。パウロはこう書きました。

しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。

こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。(15-19)

ようするに、アダムを通して罪が伝染したので、たくさんの人々が死にました。でもイエス様を通して恵みと義が伝染したので、イエス様を受けた人々は永遠の命を受けます。

言い換えると、アダムを通して罪が私たちに伝染したので、私たちが裁かれたように、イエス様を通して義が私たちに伝染したので、私たちは義と認められました。

さらに、その良い伝染を通して、私たちは全く違う人になりました。でも良かったのは、私たちはゾンビにならないことです。むしろ、私たちは新しい本性を受けます。つまり、私たちは義人の本性を受けます。だからクリスチャンは、自分の良い行いによって、義人になるわけではありません。むしろイエス様にあって、私たちが義人になるので、私たちは自然に良いことをし始めます。

だから、パウロはこう書いた。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、018その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、019すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

要するに、イエス様にあって、私たちは本当に生き始めます。

私たちを通して、周りの人々に神様からの義が伝染するように。そうすれば、彼らも本当に生き始めます。

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ローマ人への手紙5:12ー14--悪い伝染

私はこの個所の旨が大体分かるけど、パウロの言葉を完全に把握するのはちょっと難しいです。

最も分かりにくいのは、私たちの罪との関係です。つまり、「私たちは罪を犯してから、罪人になるでしょうか。もしくは、私たちはもともと罪人だから、罪を犯すのでしょうか。また、私たちは罪を犯すので、裁かれるでしょうか。もしくは、私たちの罪深い本性のゆえ、裁かれるでしょうか。」ということです。

パウロによれば、私たち皆はもともと罪人だから、罪を犯しますし、私たちの罪深い本性のゆえに私たちは裁きに値します。

パウロはこう言います。

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった。。。(12)

この個所の部分は分かりやすいです。パウロによれば、エデンでアダムが罪を犯すと、罪が世界に入りました。そして、その罪によって死がこの世界に入りました。アダムは死んだし、エバも死にました。彼らの子孫はすべて死にました。今なお、すべての人々は最終的に死に至ります。

でも、この個所の最後の部分はちょっと分かりにくい箇所です。パウロは、「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言いました。それを読むと、多くの人々はこう思います。「では、人は自分の犯した罪のために死ぬのだろう。」

そんな説明は幾分正しいけど、ちょっと足りません。もちろん、何年も生きている人のすべては罪を犯したので、その罪のために裁かれます。私たち皆が死ぬことに値します。

でも、赤ちゃんが死んだら、何の罪のために死んだでしょうか。死産児は?彼らには良心もないし、善悪の意識がありません。彼らは自分の犯した罪のために死んだでしょうか。パウロは、間接的にそのことについて話します。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪と犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。(13-14)

つまり、アダムの時代からモーセの時代までは、神様からの律法がありませんでした。神様はアダムに戒めを与えたけど、その子孫に戒めを与えませんでした。だから、神様は人々に「あなたは私の律法を違反した」と言えませんでした。それでも、人々は死にました。どうしてでしょうか。

なぜなら、アダムの罪は私たち皆の心の中にあるから。その罪は何でしょうか。私たち皆は神様に逆らいます。私たち皆は、自分の道を行きます。そして、それは生まれつきの態度です。

だから、パウロは「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言うと、アダムが罪を犯したので、私たち皆が罪人になったことに触れます。私たちにはアダムの罪深い本性が遺伝しています。

ちょっと違う描写を使うと、罪は伝染病のようです。アダムの罪は私たち皆に移りました。

どのように、アダムの罪は私たちに移ったでしょうか。私は分かりません。でも、人間の歴史を見ると、その真理がはっきり見えます。イエス様以外に、全く罪のない人は誰もいません。私たち皆は罪を犯します。私たちは罪を犯してから、罪人になったわけではありません。私たちは罪人だから、罪を犯しました。罪人は自然に罪を犯します。私たち皆は罪人だから、死ぬことに値します。

それはとても憂鬱な真理だけど、次の記事で良い知らせを聞きます。

 

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ローマ人への手紙5:1-11--神様は私を罰しているでしょう

前回の記事で、私は6ー8節について話したけど、その個所を文脈に戻した方がいいと思います。そうすれば、私たちにはパウロのポイントをもっとはっきりと見えるようになるでしょう。

パウロが言ったのは、私たちは苦難さえも喜んでいるということです。なぜなら、その苦難は忍耐を生み出すし、忍耐は練られた品性を生み出すし、その品性は希望を生み出しますから。

でも、多くのクリスチャンたちは苦難に臨むとき、喜びません。かえって彼らは苦々しい思いを保ちます。彼らは忍耐を持たずに、あきらめます。また、希望を持たずに、絶望してしまいます。

どうしてでしょうか。

多くの人々は、神様が彼らを罰していると思いますから。彼らが失敗したので、神様が怒って、彼らを苦しませていると思います。

さらに、時々彼らはそう感じるけど、どうして神様が彼らを罰しているか分かりません。だから、彼らはその罰が不公平だと思います。

でもパウロは何を言いますか。

「神様があなたを罰しているという考え方を捨てなさい。」

パウロは説明します。「ちょっと考えてみてください。あなたがクリスチャンになる前に、あなたは神様に背を向けて、罪をたくさんを犯したのに、イエス様はあなたのために死んでくださいました。イエス様は、あなたの悔い改めのために待ちませんでした。イエス様は、あなたが自分自身を清めるために待ちませんでした。あなたがイエス様を求める前に、イエス様はあなたを探していて、手を伸ばしました。

ルールに拘る人のために死ぬ人はほとんどいないでしょう。優しい人のために死ぬ人はいるかもしれないけど。でも、あなたが神様のルールを違反したり、神様や周りの人々を傷つけたのに、神様はあなたを愛してくださいました。

神様はあなたのために自分の御子を送って、イエス様があなたのために死にました。

神様がそうしてくださったのに、どうして神様があなたを罰していると思うでしょうか。」

パウロはこう言いました。

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(つまり、イエス様)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって、神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが御子のいのちによって、救われるのは、なおいっそう確かなことです。(10-11)

つまり、神様の目には、私たちはもう義と認められたのです。だからどうして、「神様は私を罰している」と思うでしょうか。私たちは神様の怒りからもう救われました。そして、私たちが神様の敵であった時に、神様が御手を伸ばしていたら、今私たちが神様の友達で、神様は御手を伸ばしてくださらないでしょうか。

だから苦難に臨んでも、私たちは喜ぶことができます。神様は私たちを罰していません。神様は私たちの試練を無視していません。むしろ、神様が私たちを罪から救ったように、私たちの試練から救ってくださいます。

だから、パウロはこう言います。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)

あなたは苦難に臨んでいるでしょうか。神様があなたを罰しているかどうか疑問に思っているでしょうか。覚えていてください。神様はあなたを罰していません。もし神様に信頼するなら、火の中を歩いても、あなたは焼かれません。むしろ、その火を通して、神様はあなたを清めて、強めます。だから諦めないでください。絶望しないでください。むしろ神様に信頼し続けてください。

神様はこう言いました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(5)

 

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ローマ人への手紙5:6-8--恵みとは

私は高校生の時にこの個所を暗記しました。それは何年も前だったけど、今でもよく覚えていて、英語で唱えることができます。(日本語では無理だけど。)

実にキリストは私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(6-8)

私が高校生の時も、今も、その言葉は私の心を打ちました。

神様は、私たちができることをしてくださったわけではありません。私たちは自分自身を救うことができませんでした。私たちは自分の罪の中で溺れていました。私たちは救命浮輪を持たなかったし、船は全然なかったのです。私たちは自分を救う力を持たなかった。それでも、私たちは神様を求めなかったし、誰かの助けさえ求めませんでした。

でも、私たちが神様に背を向けたのに、神様はイエス様をこの世に送りました。十字架でイエス様は私たちの罪のために死んで、私たちの罰を受けてくださいました。だから私たちには、神様との和解ができます。

パリサイ人のような正しい人のために死んでくれる人は、ほとんどいません。なぜなら、パリサイ人のような人は、ルールを守るかもしれないけど、いつも人を責めるから。でも優しい人のために死んでくれる人は、いるかもしれません。

でも、私たちはルールを守らなかったし、そんなに優しい人ではありませんでした。私たちは神様に反抗しました。私たちは神様に背を向けて、自分の道を行きました。だから、私たちは神様や、周りの人々や、私たち自身を傷つけました。でも、神様は私たちに背を向けて、捨てるわけではありませんでした。

むしろ神様は人間になって、私たちの代わりに死んでくださって、三日目によみがえられました。

それは恵みです。私たちは、神様から良いものに値しませんでした。逆に私たちは刑に値しました。それでも、神様は私たちを愛して、救いました。

神様を信じる私たちは、その恵みを受けました。私たちは有罪なのに。私たちはその愛に値しないのに。私たちは罪で汚れたのに。私たちは惨めな人だったのに。それは本当に驚くべき恵みです。

Amazing grace,
驚くべき恵み。
How sweet the sound,
恵みという言葉は本当に美しいです。
That saved a wretch like me,
その恵みは惨めな私を救いました。
I once was lost,
私は迷子の羊のようでした。
But now I’m found.
でも、神様は私を見つけました。
Was blind but now I see.
私は盲人だったけど、今私は見ることができます。

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ローマ人への手紙5:3-5--火を通過する

時々、聖書を読むとき、私はちょっと首をひねります。この個所は一つの例です。パウロはこう書きます。

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(3-5)

これが結構有名な個所で、私はの何度も読んだことがあります。でも、今回読んでみると、私は疑問に思いました。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」ということは理解できるけど、どうして、練られた品性は希望を生み出すだろうか。その関係は何だろうか。」

実は、新改訳は英訳よりもクリアです。英訳では、ただ「忍耐が品性を生み出す。」と書いてあります。

でも、原語では、「品性」というのは、試された人というニュアンスがあります。彼らは試練に直面して、乗り越えたので、彼らは神様に認められています。彼らの信仰は、ただ頭の中の知識ではありません。むしろ、彼らは実際に神様の忠実さや愛を経験しました。だから、彼らの信仰は強まりました。彼らの品性は強まりました。だからどんなに大変な試練に直面しても、彼らは神様の愛や忠実さに関する確信を持って、希望があります。

だからパウロは、「この希望は失望に終わることがありません。」と言えるのです。私たちの希望は、ただ自分の身分や品性によりません。むしろ、私たちの希望は、神様が私たちを愛して、私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して私たちと共におられるという確固とした事実によります。

旧約聖書のヨブの話を考えます。彼は大変な試練に直面しなした。彼の持ち物や、子供たちは奪われました。さらに、ヨブの友達は、彼を責めました。それでも、彼は忍耐を持ち続けました。そして、彼は火を通過した後、神様の愛や忠実さをより深く理解したので、希望を知りました。

あなたはどうですか。どんな試練に直面しているでしょうか。その試練のゆえ、神様から逃げないでください。むしろ、神様に近づいてください。そうすれば、あなたは神様の愛や忠実さを経験して、希望を知ります。そして、パウロは言ったように、「この希望は失望に終わることがありません。」

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ローマ人への手紙5章1-2--私たちが今立っている恵み