ヨハネ12:27-41--遅すぎる前に

時々、人々はイエス様に従うことを延ばします。なぜなら、彼らは「後でそれができる」と思うから。でもそうすれば、危険性があります。

この話では、イエス様は十字架を考えた時、腹をくくって叫びました。

父よ。御名の栄光を現してください。(28a)

そして、天の父は皆の前で答えました。

わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。(28b)

イエス様の周りの人々はその声を聞いたけど、正しく聞いていないようです。

ある人々は「雷が鳴ったのだ。」と言いました。

「天使があの方に話しかけた」と言う人もいました。

どうして彼らは天の父の言葉が分からなかったのでしょうか。

ヨハネは解説します。

それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。

「主よ。私たちが聞いたころを、誰が信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。

「主よ。彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(38-41)

私は以前の記事でその個所を説明したけど、基本的に、彼らが天の父が分からなかった理由は、彼らがもうイエス様に対する頑なな心を持っていたということです。

ある人にとっては、イエス様が以前大工の仕事をしていたから、そのイメージは彼らのメシアというイメージに調和していませんでした。

他の人々がイエス様を拒絶する理由は、イエス様が彼らを宗教的な偽善者として現したということです。

また、イエス様の教えが彼らの伝統と宗教的なルールに反対したから、イエス様を拒絶する人もいました。

だから、イエス様が奇跡を通して、自分のメシアの資格と自分の言葉の真実さを証明しても、彼らは、「悪魔の力でその奇跡を行った」と言い張りました。

この話では、彼らは「まさかそれが神様の声とは思えない。それはただ私の想像でしょう。きっとその音は雷だろう」と言いました。

でも、彼らが自分の目と耳を閉じれば、閉じるほど、彼らの心は頑なになって、もっと霊的に盲目になりました。

だから、イエス様はもう一度彼らに警告しました。

もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。(35-36)

要するに、「あなたの時間は短いです。すぐにあなたの心を開かないと、あなたは永遠に盲目になってしまいます。あなたがまだできるうちに、私と私が持っている光を信じなさい。」ということです

イエス様はあなたに同じことを言っています。人々がイエス様のもとに引き寄せられて救われるために、イエス様は地上から上げられて、十字架でかけられました。

でも、あなたが目と耳を閉じ続けるなら、最終的にその真理が目の前にあっても、あなたはその真理が認識できません。そうなら、あなたにとっては、救いのチャンスはなくなります。

だからパウロはこう言いました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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ヨハネ12:12-26--仕えるのに

イエス様のエルサレムへの目立つ入場のため、また、イエス様が神殿から業者たちや両替人を追い出したゆえに、エルサレムのいたるところに、イエス様は話題になりました。だから、初めてエルサレムに来た人たちがイエス様に会いたいと思ったのは驚くようなことではありません。

この話では、ユダヤ人になろうと思っているギリシャ人たちは、イエス様に会いたいと思いました。多分、ピリポがギリシャ語の名前だから、彼らは最初にピリポのところに来ました。だから、ピリポはアンデレと一緒にその人々をイエス様のところに連れて行きました。(アンドレはしばしば人々をイエス様に紹介しました。)

イエス様は彼らに会ったとき、こう言いました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(23-24)

イエス様は自分の死と復活について話していました。イエス様がこの世に生きている限り、彼のミニストリーはイスラエルまでの限定されたものでした。でもイエス様が死んで、復活した後、聖霊を通して、イエス様の働きは世界中に広がって、全ての国と民族に触れました。

でも、イエス様は続けました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は当たり前のことを言ったし、結構逆説的なことを言いました。

当たり前のことは?イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなくてはいけません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様にいるところにいなくてはいけません。

もしあなたがいつもイエス様から離れているなら、イエス様に仕えるのは難しいのです。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望むことを見なくてはいけません。

でもイエス様と共にいたいと思うなら、時々あなたが愛する者や、執着するものをも残さなくてはなりません。だから、イエス様は逆説的なことを言いました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。」

もちろん、私たちがすべてを憎まなくてはいけないわけでもありません。でも時々、イエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものをの残さなくてはなりません。

例えば、イエス様は「あなたの国を出て、別の所に行きなさい」と言うと、私たちは従わなくてはなりません。

もしイエス様は「あなたの現在の給料が高いけど、その仕事を捨てて、私に仕えなさい」と言うと、イエス様の国のために私たちは従わなくてはなりません。

時々イエス様についていくために、私たちの人生は全く変わってしまいます。時々私たちは犠牲を払うことがあるでしょう。でも、私たちがイエス様のところにいないと、私たちはちゃんと仕えることができません。

でも覚えていてください。その犠牲と変化はとても痛いかもしれないけど、最終的にその甲斐があります。

私は日本に引っ越した時、そのことを学びました。私には全然ハワイを出る予定がありませんでした。でも実は、日本に来ると、私はもっと幸せになりました。イエス様についていって、日本に来ると、私は命を見つけました。

イエス様についていくと、あなたも命を見つけます。

あなたはどうですか。イエス様にいるところに、あなたもいるでしょうか。

 

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マタイ21:18-22;マルコ11:20-25--私の信仰の強さは?

信仰。

実は、私は自分の信仰はあまり強くないと思います。特に、祈るときに私の信仰があまり強くないと思います。私は祈るとき、信仰をもって祈るでしょうか。「信仰をもって祈る」とは、どういう意味でしょうか。

イエス様が呪った木が枯れると、弟子たちはとても驚きました。彼はイエス様に訊きました。

どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。(マタイ21:20)

イエス様は答えました。

神を信じなさい。(マルコ11:22)

「神様を信じなさい」とは、どういう意味でしょうか。私たちは何を信じているでしょうか。

一つ目は、神様が良い神ということです。神様は私たちを愛する天の父なので、私たちに良い賜物だけをくださいます。だから、私たちがパンを願うと、神様は石を与えるようなことはしません。また、私たちが魚を願うと、神様は蛇を与えるようなことはしません。

二つ目は、神様は私たちの祈りを聞くということです。小さい願いでも、神様は聞いてくださいます。私たちの問題が大きくても、小さくても、私たちが祈ると、神様は聞いてくださいます。

三つめは、神様が私たちの祈りにかなえる力があるということです。私たちの願いは、神様にとって難しいものではありません。

四つ目は、神様が私たちを祝福したいと思うということです。良い理由がないなら、神様は私たちに良いものを与えてくださるのを控えることはなさいません。

五つ目は、神様は私たちのために計画を持っているということです。そして、その計画は良いものです。

その五つことを覚えていながら、イエス様の次の言葉を読みましょう。

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求める者は何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。(マルコ11:23-24)

この個所のため、神様に何を頼んでも、神様がその祈りをかなえなくてはならないと思う人がいます。

でも時々、私たちが魚やパンに見えるものを頼むけど、実際にそれらは石や蛇です。例えば、私たちはある男性や女性と結婚するように祈るけど、十年後に私たちは神様がその祈りにかなえてくれなかったことを感謝するようになります。

または、私たちは良いことのために祈るけど、神様はより良いものを整えています。例えば、私たちが新しい仕事のために祈るけど、神様はそれより良い仕事を与えてくださいます。

だから、信仰をもって祈っても、神様がその祈りをかなえてくださるとは限りません。

でも、普通はそれは私の問題ではありません。私の問題は、神様が本当に私を祝福したいと思うことを信じないことです。

例えば、私の現在の職場はとてもいいです。私の以前の職場よりも十倍ぐらいより良い職場です。でも、その学校に応募するとき、私はいろんな疑いを持っていました。実は、数年前、その同じ場所で私は不採用になりました。それに何回も私は良い仕事のために祈ったけど、かなえてくださいませんでした。

でも、私があまり信仰がなくても、神様の恵みによって私は採用になりました。

また、私はがんにかかった人のために祈りました。お医者さんたちはその状態がもうだめだと言ったけど、たくさんの人々は祈りました。私も祈ったけど、あまり希望を持っていませんでした。もちろん、神様が私の友達を癒す力を持っていると信じるけど、癒してくださるかどうかわかりませんでした。結局その二人とも亡くなりました。でも、神様は一人の命を5年ぐらい伸ばしてくださいました。

とにかく、私は何を言おうとしているでしょうか。

神様は信仰を見て喜ぶし、祈りに応えるけど、私たちの信仰の強さにはあまり関係ないです。私たちの信仰が小さくても、神様が応えてくださるときもいっぱいあります。

それでも、私はもっと希望をもって、祈った方がいいとも思います。なぜなら、神様は私を助けられるし、実際に私を助けてくださいますから。

だから、私はよくこう祈ります。

「あなたを信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

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マタイ21:12-22;マルコ11:11-25;ルカ19:45-48--実のない木

多くの人々はこの話を読むと、イエス様の行為がわかりません。いちじくのなる季節ではなかったのに、どうしてイエス様は実の結んでいない木を呪ったでしょうか。

聖書学者たちは、いろんな意見を持っています。一つの意見は、過ぎ越しの祭りの時、普通のいちじくの木が人が食べられる芽を結んだことです。もしかしたら、イエス様はそんな芽を探していたかもしれません。でも、木にそんな芽がないなら、多分、いちじくのなる季節が来ても、その木は実を結ばないでしょう。

その意見が正しいかどうかわからないけど、筋が通った話だと思います。

とにかく、マルコの福音書によれば、イエス様はいちじくの木を呪って、エルサレムに入って神殿を清めて、エルサレムから帰っている途中で、弟子たちがその木が枯れたことに気づきました。だから、そのいちじくの木を通してイエス様は弟子たちに何かを教えたいと思ったようです。それは何でしょうか。

いちじくの木が実を結ばないゆえに裁かれたように、イスラエルが霊的な実を結ばないゆえに裁かれることです。神殿で、私たちはそのことが見ることができます。

イエス様のミニストリーの初めにも、イエス様は神殿を清めました。イエス様は牛や羊を売っている人々を追い出したし、両替人を追い出しました。なぜなら、その場所まで、外国人たちは入って礼拝できたから。彼らが神殿のより近くに来るのは禁止されていました。でも祭司たちはその所を市場としました。それに、たくさんの人々は、その業者や、両替人に騙されました。

その場所が神殿なのに、祭司たちはそうしました。

だから彼らの修行や、宗教的な熱心が堕落したものであることは明らかでした。

さらに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶するだけではなく、イエス様を殺そうと思いました。だから、イスラエルは裁かれました。ローマ帝国の将軍タイタスは、その神殿を破壊しました。今なお、その神殿は再建されていません。どうしてでしょうか。神様がずっと愛と恵みをイスラエルに注いだのに、彼らは実を結ばなかったから。

でも、神様の行為は実を結ばないわけでもありません。ユダヤ人たちがイエス様を拒絶したので、福音はこの世界に浸透しました。そして、ある日、ユダヤ人もイエス様を信じるようになります。(ローマ書11章)

でも、私たちは自分自身にこう訊くべきです。私たちの人生は何の実を結んでいるでしょうか。私たちの体は神様の宮です。その宮は実を結んでいるでしょうか。

私たちは周りの人々に影響を与えているでしょうか。もしかしたら、この世界に執着して、私たちの宮は汚されているでしょうか。ユダヤ人たちの祭司たちのように、私たちはお金に執着しているでしょうか。他の世の物に執着しているでしょうか。もしそうなら、私たちが実を結ばないので、裁きの日に私たちの功績は燃えてしまいます。

私たちが実のない木にならないように。私たちは実を結びましょう。聖霊に満たされて、私たちは周りの人々に神様の愛で触れましょう。

 

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マタイ21:1-11;マルコ11:1-11;ルカ19:28-44;ヨハネ12:12-19--私たちに平和を与えるもの

この個所で、イエス様はエルサレムにようやく着きました。そして四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよくわかると思います。彼らは叫んでいました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため多くの人々は、「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と訊きました。そして、ほかの人たちは答えました。「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ。」(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々はまだ、ラザロの復活について話していたことです。(ヨハネ12:17-18)

最初は、パリサイ人たちはイエス様に言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

でも、イエス様がその願いを断ると、彼らはつぶやきました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

でも、イエス様がエルサレムに近づいてその都市を見た時、喧噪の中で、イエス様は泣いてこう言いました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、その聖書に書かれている出来事が起こりました。タイタスというローマの将軍は、エルサレムとその神殿を破壊しました。

どうして神様はそれを許したでしょうか。なぜなら、ユダヤ人たちは神の訪れの時を認識しなかったから。だから、彼らは神様の平和を逃しました。彼らの心の中の平和を逃したし、神様との平和を逃しました。

そのように、神様が私たち一人一人に来ると思います。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがなくても、全ての人々は神様のことがわかります。彼らは星空を見て、また、周りの自然を見るとき、多分聖霊様は、彼らの心にこう言うでしょう。「これは偶然じゃないですよ。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

もしくは、教会で、彼らはイエス様について聞くかもしれません。または、彼らの友達はイエス様について教えてくれます。

その時、彼らは分かれ道に立ちます。彼らはどうするでしょうか。彼らは聞いて、従うでしょうか。もしくは、その言葉を拒絶するでしょうか。神様に従うと、彼らは神様との平和と永遠の命を知ります。でも、彼がその言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうですか。今神様はあなたを呼んでいます。今日は救いの日です。今日イエス様を受け入れませんか。

イエス様、私は罪を犯しました。私は自分の道を行って、あなたを傷つけました。それに、私は周りの人々を傷つけたし、私自身をも傷つけました。私を赦してください。あなたが十字架で私の罪のために死んでくださることを信じます。あなたが三日目に蘇られたことを信じます。あなたの愛を感謝します。私を救ってください。私の王になってください。私の主になってください。私はこれからあなたに従います。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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マタイ21:1-11;マルコ11:1-11;ルカ19:28-40;ヨハネ12:12-16--主がお入り用なのです。

私たちはイエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この個所では、一つのプレースは私の心を打ちました。イエス様は弟子たちにこう言いました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従がうと、その持ち主たちは訊きました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちがイエス様が指示したように答えたので、持ち主たちはその子ろばを貸してあげました。

それを読んで、私は思いました。「主が私に「私はこれが必要です」と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。彼は経済的に苦しんでいるから。」と言ったとしたら、私はすぐに「はい、あげます。」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに行っている途中、誰かにばったり会って、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい。」と言ったとしたら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時間が来たよ。私に仕えるために別のところに行きなさい」と言うと、私は「はい。行きます。」と答えるでしょうか。

もしくは、私が持っているものにしがみつくでしょうか。

実は、私はわかりません。振り返ると、たぶん何回もイエス様は「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だから。」と言ったけど、私は断ってしまいました。

「私は忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要です。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様のところに行って、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちもそうしなくてはなりません。イエス様が私たちに「これが必要です。」と言うと、私たちはそのものをイエス様にささげて、イエス様を私たちの王としてあがめなくてはなりません。

私はそうするでしょうか。

あなたはどうするでしょうか。

主よ。時々、あなたは「私はこれが必要だ」と言ったのに、私は断りました。赦してください。特に、あなたに私の時間をささげないときも多いです。あなたが私のお金や時間や人生の王になるように。私の優先順位を整理することを助けてください。毎日、私があなたを主としてあがめるように助けてください。アーメン。

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ルカ19:28;ヨハネ11:55-57--本当の聖さ

前回の記事で、私たちは王を拒絶する人に関するたとえ話を読みました。今日の話では、私たちはイエス様が指した人々を見ます。

イエス様がエルサレムに近づいていて、多くの人々は過ぎ越しの祭りをお祝いするためにもう来ていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。

どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)

なぜ彼らはそう訊きましたか。

祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)

実は、それは本当に皮肉なことでした。どうしてでしょうか。

過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちはちゃんと自分自身を清めなくてはなりませんでした。つまり、彼らが儀式的に清められなくてはならなかったことです。(ヨハネ11:55)

でも、祭司たちとパリサイ人たちは儀式的に清められたのに、彼らは心の中で、イエス様を殺そうと思いました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。聖さは、儀式的なものだけではないことです。聖さは、教会に行ったり、聖書を読んだり、献金をささげたりすることだけではありません。

本当の聖さは、イエス様を王として受け入れる事から始まります。「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や私の努力で、私は清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」

ヨハネはこう書きました。

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

私たちが神様に受け入れられるように望むなら、他の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとに行って、イエス様の救いの御業を信じなくてはなりません。そうしてこそ、私たちは神様の目に清められます。

あなたはどうですか。あなたは本当に清められるでしょうか。

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ルカ19:11-28--キリストを拒絶することを主張すると

このたとえ話では、もう一つの大切なポイントがあります。

イエス様はこう言いました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。。。一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と伝えた。さて、彼は王位を授か[りました]。(12,14-15)

実は、このたとえ話は実話を基にしています。ヘロデ大王が亡くなったとき、彼の息子ヘロデス・アルケラオスは王位を授かるためにローマに行きました。(なぜなら、ローマの皇帝はイスラエルの本当の支配者だったから)。

でも、ユダヤ人たちは大使を皇帝アウグストゥスに送って、「ヘロデス・アルケラオスが私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と言いました。

最終的に、ヘロデス・アルケラオスは、ユダヤを支配したけど、王位を授かることができませんでした。

そのように、イエス様は天の父から王位を授かるのを待っています。でも今なお、多くの人々はイエス様を憎んで、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と言います。でもヘロデス・アルケラオスの場合と違って、彼らがそれを望もうが望むまいが、イエス様は王になります。

そして、彼らがイエス様に反対することを主張すると、たとえ話の人たちのように彼らは裁かれます。

あなたはどうですか。あなたはイエス様をあなたの王として受け入れているでしょうか。それを望もうが望むまいが、イエス様は王になります。だから、イエス様に反対するために裁かれるよりも、イエス様にあなたの人生を捧げた方が良いでしょう。

私は、地獄の話であなたが怖がることを望みません。神様の愛と恵みは、もっと幸せな話です。そらに、神様はあなたを本当に愛しています。神様との和解ができるように神様は、イエス様をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪のために、イエス様は十字架で死んでくださいました。

でも、神様の賜物を拒絶すると、また、イエス様をあなたの王として拒絶するなら、あなたは裁かれます。

ヨハネはこう書きました。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神様のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)

あなたは選択しなくてはいけません。あなたはどうするでしょうか。

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ルカ19:11-27--私たちが待っているうちに

ルカによれば、イエス様がこのたとえ話を教える理由は、「イエス様がエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていた」ということです。(11)

つまり、イエス様は彼らの間違った考えを吹っ飛ばしながら、正しい考えを彼らの心に植えたいと思ったことです。だから彼はこう言いました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。(12-13)

イエス様は、どのような間違った考えを覆したいと思ったのでしょうか。それは、神の国がすぐに来るということです。

王になる前に、イエス様は罪の問題に取り組むために十字架で死ななくてはなりませんでした。イエス様は死んで、復活した後、天国に帰って天の父の右に座りました。そして、聖書によれば、今イエス様は「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。」(へブル人への手紙10:13)

だから、いまだに私たちはイエス様の帰りを待っています。

それでは、イエス様が帰るまで、私たちはどうしたらいいでしょうか。

私たちはイエス様に忠実に仕えるべきです。イエス様は弟子たちの心にその考えを植えたいと思いました。神の国のために、まだたくさんの仕事をしなくてはいけません。

このたとえ話では、王は十人のしもべに同じ金額を与えました。そして、彼は彼らに、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言いました。

そのお金は何を象徴しているでしょうか。多分、それは私たちの救いです。そのしもべたちはそのお金のために働きませんでした。王は、彼らにをそのお金を預けて、彼らは投資しなくてはなりませんでした。

そのように、私たちが働かずに、神様の恵みによって救いを与えられました。でも、私たちはその救いを持って、神様の国のために働くべきです。

パウロはこう言いました。

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ2:12-13)

私たちが与えられた救いを投資するとは、どういう意味でしょうか。私たちが受けた救いを持って、周りの人々に投資することです。私たちは自分の救いを喜ぶだけではなく、周りの人々にその救いをシェアする心が必要です。彼らのために祈るべきです。彼らに仕えるべきです。また、彼らに対して、私たちはイエス様の目と口と耳と手になるべきです。イエス様が帰るまで、私たちはそうしなくてはいけません。

そうすれば、私たちは報いを受けます。どんな報いを受けるでしょうか。私たちは神様の国のために、もっと大きい責任をもらいます。

多くのクリスチャンたちは神様のために素晴らしいことをしたいと思います。でも、彼らが受けた救いを周りの人々にシェアしないなら、神様はもっと大きい責任を与えるでしょうか。

さらに、最後のしもべのように、彼らが神様の国のために投資しないと、イエス様が帰ると、彼らは叱責されます。

パウロはそんな人に関して、こう言いました。

その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:15)

あなたはどうですか。あなたが受けた救いで、何をしているでしょうか。

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ルカ19:1-10--私たちのせいで

これはとても有名な聖書の話ですけど、今日私がこの個所を読んでみると、今まで読み過ごしていた個所が私の心を打ちました。

[ザアカイ]はイエス様がどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。(3)

ザアカイは取税人でした。現代でも、多くの人々は税務署が嫌いかもしれないけど、イエス様の時代では、ユダヤ人たちは取税人が大嫌いでした。以前にも私は言いましたけど、取税人はユダヤ人たちが憎んだローマ帝国と協力したし、自分の民をだましました。だから、ユダヤ人の間では彼らは全然人気者ではありませんでした。

それでも、ザアカイはどうしてもイエス様を見たいと思いました。なぜでしょうか。

多分、彼はたくさんのお金を持っていたけど、彼の心はまだ空っぽでした。でも、ザアカイがイエス様を見ると、イエス様の中で違うことを見ました。つまり、命と希望を見ました。

でも群衆のため、ザアカイにイエス様が見えませんでした。

多分、その群衆の中には大勢の信心深い人々がいたでしょう。多分彼らは神様を愛していたでしょう。でも、彼らのため、ザアカイにイエス様が見えませんでした。

ザアカイは背が低い人でした。もちろん、大勢の人々がいました。でも、もしザアカイが無理矢理にイエス様のところに行こうとしたら、ザアカイは群衆の反応を予想できたでしょう。彼らはザアカイだと認めれば、たぶん彼を通らせなかったでしょう。

だから、ザアカイは木に登りました。でもザアカイを見て、イエス様はこう言いました。

ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(5)

もし、ザアカイが人々の彼に関する意見について疑いがあれば、彼らの反応はその疑いを吹っ飛ばしたでしょう。彼らは文句を言いました。

[イエス様]は罪人のいところに行って客となった。(7)

でも、ザアカイがイエス様の愛に触れたので、彼の心は変わりました。だから彼はこう言いました。

主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。(8)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれだけその群衆のようにふるまうでしょうか。私たちは神様を愛していると言うかもしれません。また、イエス様に従うと言うかもしれません。でも、私たちのせいで、周りの人々にイエス様が見えないでしょうか。

私たちは彼らにイエス様のことを伝えるでしょうか。

または、私たちは彼らを見下したり、彼らを追い出すでしょうか。

ザアカイに対するイエス様の反応を覚えていましょう。イエス様は、彼らとの関係を望みます。だから、イエス様は十字架に行きました。私たちだけのために死なずに、イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。

イエス様は軽蔑されている人ためにも死にました。だから人々を軽蔑しないでください。また人々がイエス様に来るとき、妨げないでください。むしろ、イエス様の言葉を覚えていましょう。

人の子は、失われたものを探して救うために来たのです。(10)

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マタイ20:29-34;マルコ10:46-52;ルカ18:35-43--私たち自身のことだけで思い詰めずに、周りの人々に気づくこと

私がバルティマイとその友達の話を読むと、イエス様の愛と憐れみ深い心は、私にとても印象的です。

イエス様はもうすぐ十字架に行くし、そのことを親友たちにはっきりと伝えたのに、彼らは理解してくれませんでした。そんな状況で、イエス様が自分の思いや、フラストレーションや、心配で思い詰めていたなら、びっくりすることではなかったでしょう。でも、その道を歩いているうちに、イエス様は前に何回も聞いていた願いをもう一度聞きました。

主よ。ダビデの子よ。私たちを憐れんでください(マタイ20:30)

大勢の人がイエス様を取り巻いて、多分イエス様がその声を見逃すのは簡単だったでしょう。

または、その声を無視するのは簡単だったでしょう。なぜなら、たくさんの人はその二人に「黙れ」と言いましたから。

でも、イエス様は止まって、「その二人を呼んできなさい」と言いました。

そして、彼らが来ると、イエス様は彼らに訊きました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

彼らは答えました。「主よ。目を開けていただきたいのです。」

そして、マタイによれば、イエス様が深く憐れんで、彼らの目に触れて、癒してくださいました。

イエス様は自分のフラストレーションとトラブルで思い詰めずに、周りの苦しんでいる人々に気づきました。

私たちはどうでしょうか。どれぐらい、私たちはイエス様の模範に従って、自分自身のことで思い詰めずに、周りの苦しんでいる人々んい気づくでしょうか。

どれぐらい私たち自分自身の必要やフラストレーションで思い詰めるので、神様の愛で周りの人々に触れる機会を逃がすでしょうか。

多分、私はよくそんな機会を逃がしたでしょう。

私たちはイエス様のようになるように学びましょう。私たちの苦しみと心配で思い詰めずに、周りの人々のニーズや痛みを見ましょう。そして、イエス様のように、彼らに触れて、神様の力で彼らを癒しましょう。

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マタイ20:20-28;マルコ10:35-45--全く違う態度

前回の記事で私は言いましたけど、イエス様は弟子たちにはっきりと自分のミッションを説明したけど、彼らはまだ分かりませんでした。彼らは、どうしてイエス様がこの世に来たか分からなかったし、すぐに来る試練がわかりませんでした。もし、彼らはちゃんと分かったら、たぶんヤコブとヨハネ(また彼らの母)はこの願いをイエス様にしなかったでしょう。彼らはこう頼みました。

あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。(マルコ10:37)

イエス様はそれを聞いて、どう感じたでしょうか。その直前、イエス様は彼らに「私はすぐに殺される」と言ったのに、彼らは自分の地位が気になりました。だから、イエス様は彼らにこう言いました。

あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができますか。(マルコt10:38)

つまり、「私の話を全然聞いていないのですか。私は死にます。私の右と左で死にたいと思うのですか。」ということです。

それはイエス様が意味したものでした。でも、いつものように、ヤコブとヨハネはその言葉を完全に誤解しました。だから、彼らは「できます」と答えました。

だから、イエス様はこう言いました。

確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。(39)

実は、その二人はイエス様のために苦しみました。ヤコブは殺されて、ヨハネは追放されました。

でも、イエス様は彼らにこう言いました。

しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。(40)

でも他の弟子たちはヤコブとヨハネの願いを聞くと、本当に怒りました。どうしてでしょうか。ヤコブとヨハネがイエス様の感情を全然考えなかったからでしょうか。違います。多分、彼ら自身がヤコブやヨハネよりも資格があると思ったからでしょう。

でも、イエス様は彼らを集めて、こう言いました。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マタイ10:42-45)

要するに、「あなたたちは自分の態度を変えなくてはなりません。あなたたちは、私の国に何の位置を持つか心配します。なぜなら、偉い人が楽な人生を送ると思うから。あなたたちは、周りの人々に命令できるし、彼らがあなたに仕えると思います。

でも、私の国では、それは偉い人ではありません。偉くなりたいと思うなら、あなたは人々に仕えなくてはなりません。また、あなたが先頭に立ちたいと思うなら、あなたは皆のしもべにならなくてはいけません。なぜなら、私は仕えられるために来なかったから。私は人々に仕えるために来ました。実は、私は彼らのために死ぬために来ました。」ということです。

実は、私もその態度が必要です。私はよく自分自身を周りの人々と比べるし、競争します。でも、ミニストリーをするとき、その態度はいけないのです。私たちは仕える態度が必要です。

それはミニストリーのための態度だけではなく、それは私たちの人生の態度でなくてはいけません。

仕事で、私たちは同僚やお客さんに仕えるべきです。

家で、主人たちは妻と子供に仕える態度が必要です。

正直に言うと、その三つのところで、私はよく失敗します。

だから、ある古い英語の讃美歌は、私の祈りです。

実は、「The Witness」(目撃者)というクリスチャンのミュージカルで、ヤコブとヨハネはこう歌いました。

Lord make me like you.  Please make me like you.
主よ。私をあなたのように変えてください。
You are a servant.  Make me one too.
あなたはしもべです。私もしもべになるように。
O Lord I am willing.
私の心は開いています。
Do what you must do to make me like you Lord.
私があなたのようになるように、あなたがしなければならないことをどうぞしてください。
Make me like you.
あなたのように私を変えてください。
Whatever you do Lord, please make me like you.
どうしても、私をあなたのように変えてください。

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マタイ20:17-19;マルコ10:32-34;ルカ18:31-34--はっきりしていることがわからないこと

この話では、ルカの言葉は私の心を打ちます。

弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカ18:34)

もちろん、「これらのこと」や、「このことば」というのは、イエス様の死と復活のことでした。

ルカの言葉が私の心を打つ理由は、イエス様がはっきりと自分の死と復活について話したことです。弟子たちはその言葉が理解できないはずがありませんでした。それでも、彼らは理解できませんでした。なぜでしょうか。

もしかしたら、彼らはまだ霊的に成熟していなかったかもしれない。多くの若いクリスチャンが聖書を読むとき、理解できないことがいっぱいあるでしょう。でも、私たちの信仰と知識が成長すると、私たちは神様の言葉がますますわかるようになります。

もしかしたら、それは弟子たちの問題だったかもしれないけど、彼らにほかの問題もあったと思います。

つまり、彼らはイエス様の言葉を理解したくなかったということです。イエス様がすぐに死ぬことを信じたくなかったのです。だから、イエス様が自分の死と復活について教えると、彼らは自分の耳を閉じました。

もう一つの理由は、彼らが神様の御心を求めるよりも、自分の望みを求めたことです。次の話のヤコブとヨハネの願いを見ると、私たちはそんな考え方を見ることができます。

でも、どれぐらい私たちは同じような態度を取るでしょうか。聖書では神様の言葉がわかりやすいし、または、神様は私たちの心にはっきりと話すので、私たちがそのメッセージを見逃すはずはないのですが、私たちは見逃してしまいます。

例えば、私が振り返ると、私がハワイに住んでいた時、神様ははっきりと私が日本に行くように呼びました。何回も私は、「あなたは事務などの仕事には向いているとは思えない。ミニストリーをした方がいいよ」と言われました。ある人々は率直に、「あなたは宣教師として日本に行った方がいいよ」と言いました。

でも、私はハワイを出る気が全然ありませんでした。また、日本に行く気が全然ありませんでした。だから私はその言葉をずっと受け入れられませんでした。

私が「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」のような言葉を聞いても、私は「その言葉は私のためではない」と思いました。

でも、神様は私の心の中で働き続けて、数年後、私は日本に来ました。そして、私は神様に従う喜び、また神様の言葉に従う喜びを知りました。

もし、あなたの心を神様に開けば、あなたもその喜びを知ります。

でも、あなたの心の状態はどうでしょうか。神様があなたに話しているのに、その言葉に対して、あなたは自分の目をくらましているでしょうか。もしくは、あなたは自分の心をその言葉に向かって開いたでしょうか。

私たちは、いつも神様にこう言いましょう。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

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マタイ20:1-16--でも、それは不公平だよ

私の意見だけだけど、もしかしたらこのたとえ話は、ペテロに対するイエス様の反応かもしれません。ペテロはこう言いました。

私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

多分イエス様はこの話を通して、ペテロを励ましたいと思ったけど、同時にペテロに警告したいと思ったでしょう。

この話では、ある主人が自分のぶどう園で働く者を雇いました。最初に雇った労働者たちは主人と交渉したけど(一デナリは普通の一日の賃金でした)、そのあとに雇った労働者たちは具体的な賃金を交渉していませんでした。むしろ、主人はこう言いました。

あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。(4)

夕方になると、主人は労働者に賃金を払いました。彼は一番最後に雇われた人々に最初に払って、一番最初に雇われた人々に対して最後に払いました。主人は後に雇われた人々に一デナリを払いました。だから、最初に雇われた人々が来たとき、彼らはもっと払われると思いました。でも、主人は彼らにも一デナリを払いました。だから彼らは文句を言いました。

それは当然の反応でしょう?ある労働者は一時間だけ働いたけど、一デナリをもらいました。でも、一日中働いた人々も同じく一デナリだけをもらいました。

でも、主人の答えを見てください。

友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私は気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。(13-15)

要するに、その最初の労働者たちが騙されたとは言えないことです。彼らは交渉した賃金をちゃんともらいました。それでは、どうして彼は怒りましたか。なぜなら、主人は後に働いた労働者に対して、とても気前が良かったから。

イエス様のポイントは何でしょうか。「私に従うために何をもらうか気にするな。あなたが値するものをもらうことに気にするな。また、自分自身を周りの人々と比べるな。あなたはどれぐらい捨てたか、また、相手がどれぐらい捨てたか、気にするな。あなたの報いはちゃんともらいます。でも実は、神様は人が値する報いを与えることにあまり興味ありません。神様は私たちが値しない報いを与えるのを喜びます。もし、あなたが値する報いを心配しすぎると、神様はそれを与えるかもしれないけど、それだけを与えます。

でも周りの人が何をしているか気にならないし、あなたが値する報いが気にならないなら、あなたが想像するよりも、神様からの祝福を受けます。」

あなたはどうですか。あなたはいつも自分自身を周りの人々と比べているでしょうか。あなたはいつも、「どうして、私が相手よりも神様に仕えているのに、相手の方が神様に祝福されるだろうか」と疑問に思うでしょうか。

覚えていてください。恵みとは、あなたが値することには全然関係のないことです。

恵みとは、私たちが神様からの報いに値しないのに、神様が私たちにいつくしみを注ぐことです。実は、私たちに値するのは死です。なぜなら、私たち皆は罪を犯したから。

だから、私たちが値するものをあまりにも考えないでください。むしろ、私たちが値しない恵みを受けたことを喜びましょう。つまり、私たちは永遠の命、喜び、平和、と愛を豊かに受けたことを喜びましょう。

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マタイ19:27-30;マルコ10:28-31;ルカ18:28-30--イエス様に従い甲斐がある?

イエス様に従い甲斐が本当にあるでしょうか。裕福な役人はその疑問に向き合わなくてはなりませんでした。残念なことだけど、彼はイエス様に従い甲斐がないと思いました。

ペテロも自分自身に同じことを聞きました。「イエス様のために、私はすべてを捨てたけど、本当にその甲斐があるでしょうか。」

だから、彼はイエス様に訊ねました。

ご覧ください。私たちはすべとを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

イエス様は答えた。

まことに、あなたがたに言います。私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マルコ29-31)

ここには、二つの注意事項があります。

1.イエス様は、私たちがイエス様に従うと、報いを得ると教えました。天国だけで報いを得ずに、この世でも報いを得ます。それだけではなく、イエス様は、私たちが豊かに祝福されると言いました。もちろん私たち皆が金持ちになるわけではありません。でも、私たちの人生の終わりに私たちが振り返ると、「私は祝福された。やっぱりイエス様に従った甲斐があった。」と言えます。

2.マルコの福音書だけもこの言葉が書いてありますが、本当に目立つ言葉です。イエス様は私たちの報いについて話すけど、私たちに警告もします。「あなたは迫害されます。あなたは私に従えば、きっと迫害されます。」

つまり、クリスチャンの生活はいつも楽しいものではないことです。もちろん喜ぶときもあります。もちろん、神様は私たちに祝福を注ぎます。

でも、もしイエス様に従うと、あなたを憎む人もいます。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々は彼を憎みました。イエス様はこう言いました。

しもべは主人にまさるものではない。。。人々が、私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ15:20)

だからイエス様に従っているうちに、私たちが迫害されることに驚かないでください。むしろ、永遠の報いに照準を合わせましょう。なぜなら、私たちが苦しんでも、最終的にイエス様に従い甲斐があるから。

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マルコ10:21-22--真理を言うほどに、人々を愛すること

この話では、イエス様は意地悪だったでしょうか。どう思いますか。

この若い役人は必死に神の国に入りたいと思ったけど、イエス様は彼に不可能な挑戦を与えてしまいました。その人が神様に対する熱心を持ったのに、イエス様の言葉によって、その熱心は消えてしまいました。

でもマルコは興味深いことを言います。彼はイエス様のその役人に対する感情を説明します。

イエスは彼を見つめ、その人をいつくし[みました]。(マルコ10:2a)

イエス様は彼のうわべだけを見ずに、その人の心をも見つめました。イエス様は彼の熱心がよくわかりました。でも、イエス様は彼が欠けていたものをも見ました。だからイエス様は、その人が自分が欠けているものがわかるように望みました。そうすれば、その人はイエス様の助けを求め、永遠の命を見つけたでしょう。

だから、イエス様は彼にこう言いました。

あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っているものをすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。(21b)

要するに、「さっき、あなたは自分が何かまだ欠けている感じがすると言ったでしょう?その通りです。あなたは神様を愛するよりも、お金に執着しています。だから、あなたが持っているものをすべて売り払いなさい。あなたの隣人をあなた自身のように愛すると言ったでしょう?それでは、あなたの持ち物を売り払ってから、貧しいものに与えなさい。そうすれば、あなたは本当の宝を得ます。そして私に従って来なさい。」ということです。

それを言った時、イエス様の望みは相手が本当の命を知ることでした。でも逆に、彼は悲しく帰りました。

イエス様は真理を取り繕おうとしませんでした。イエス様は率直に真理を言いました。

時々真理は聞きにくいものです。時々、人々はその真理を拒絶します。でも私たちは真理を伝えなくてはなりません。

それでも、私たちは本当の愛と憐れみを持って、真理を伝えなくてはなりません。

相手はまだ真理を拒絶するかもしれないけど、彼らが私たちの愛がわかるように。

彼らは傷つくかもしれないけど、彼らが私たちが彼らの最善を望むことを知るように。

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マタイ19:16-26;マルコ10:17-27;ルカ18:18-27--救いの不可能性

私が大学生の時、私の宗教学の教授はキリスト教に関して話した時にこの話について話しました。彼のポイントは何だったでしょうか。キリスト教によれば、あなたが天国に行きたいと思うなら、あなたの持ち物をすべて売らなくてはいけないことです。

実は、私の教授はうっかり全く違う事を証明しました。それは、「文脈にちゃんと注意しなくてはなりません。そうしないと、聖書の言葉を誤解してしまうから」ということです。

とにかく、この個所のすべてを比べると、イエス様と話した人に関して、興味深いことを見つけられます。彼は金持ちだったし(すべての著者がそう書きました)、彼は若かったし(マタイ19:22)、彼は役人でした(ルカ18:18)。

そして、彼はイエス様にこう訊きました。

「良い先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16;マルコ10:17)

イエス様はこう答えました。

なぜ、私を「良い」と言うのですか。また、なぜ、良いことについて、私に訊ねるのですか。良い方は神おひとりのほか、誰もいません。(マタイ19:17;マルコ10:18)

この個所では、イエス様は自分自身に関する誤解の一つを吹っ飛ばします。それは、「イエス様は良い方だったけど、神ではありませんでした。」ということです。

イエス様はその人に、こう言いました。「あなたは私を神と呼んでもいいです。それを信じないなら、私をただの人間と呼ぶかもしれません。でも、私がただの人間なら、私を良い方と呼んではいけません。なぜなら、神様だけが良い方だから。」

そして、イエス様は彼にこう言いました。

「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(マタイ19:17)

その言葉だけを読むと、あなたは、イエス様が私たちの良い行動によって天国に入られると言っていると思うかもしれません。でも、この役人の反応を見てください。

私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。(20)

多くの人々には同じ問題があります。彼らは一生懸命神様の戒めを守ろうとします。彼らは頑張って、正しいことをしようとします。その役人のように、その戒めをちゃんと守ったと思う人もいます。でも、心の中では、彼らは何かが欠けているとわかります。どうして、彼らはそう感じるのでしょうか。

なぜなら、私たちは周りの人々をだますかもしれないし、私たち自身をだますかもしれないけど、神様の基準を完全に満たす人がいないから。

パウロはこう書きました。

全ての人は罪を犯し「ます」。(ローマ3:23)

もし、私たちは自分の心を探ると、そのことが分かるでしょう。

それでは、どうしてイエス様は永遠の命の方法について話した時、神様の戒めを指したでしょうか。多分、パウロはその答えを与えてくれます。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては、神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ3:20)

ちょっと考えてみてください。鏡には私たちの顔を洗う力があるでしょうか。そんな力はありません。でも鏡は私たちの汚い顔を映します。

そのように、律法は私たちの罪を清める力がないです。でも、律法は私たちの罪を指摘できます。

でも、時々、その「鏡」の反映はちょっとピンぼけになるかもしれません。もちろん、神様の律法の言葉はわかりやすいです。それでも、私たちがその律法の意味がちゃんとわからないときもあるし、その律法がわかっても、私たちに自分の罪をまだ見ることができないかもしれません。

この役人には、その問題がありました。彼はちゃんと律法を守ったと思いました。だから、その人に自分の反映を見えるように、イエス様はその「鏡」を拭いてくださいました。イエス様はこう言いました。

完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、私に従って来なさい。(21)

どうして、イエス様はそう言ったでしょうか。なぜなら、その役人が言ったように、彼は何かがまだ欠けていたから。神様を愛するよりも、その人はお金に執着しました。だから実際は、彼は十戒の最初の戒めを破りました。お金が彼の神になりました。

その役人がイエス様の言葉を聞くと、自分の罪をはっきり見ることができました。残念なことだけど、彼はこう言いませんでした。「イエス様、私を助けてください。私は罪人です。私を憐れんでください。」

むしろ、彼は立ち去りました。彼は悲しく立ち去りました。

だからイエス様はこう言いました。

富を持つものが神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。(マルコ10:23)

弟子たちはそれを聞くと衝撃を受けました。なぜなら、彼らは金持ちは神様に恵まれた人だと思っていたから。でも、イエス様は同じことを繰り返しました。

子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。(マルコ10:24-25)

どうしてでしょうか。なぜなら、この世のものを持ちながら、神様からのものを持つのは無理だから。金持ちは、普通の人よりも、この世のものを持っています。だから、彼らが手離すべきのものが普通の人よりも多いです。

弟子たちはこう訊きました。

それでは、だれが救われることができるでしょう。(マルコ10:26)

イエス様の次の言葉はこの個所の要点です。

それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)

神様から離れたら、救いは不可能です。私たちが不完全な人だから、自分の努力で自分自身を救うことができません。

イエス様はその教訓を役人に教えたいと思いました。

でも、イエス様の十字架の御業によって、また神様の御業によって、救いの可能性があります。私たちはしなくてはならないのは、イエス様を信じることだけです。

ヨハネはこう書きました。

神は、実に、そのひとり子を与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

今日あなたは、神様の救いの賜物を受けないでしょうか。

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マタイ19:13-15;マルコ10:13-16;ルカ18:15-17--子供のように

イエス様が弟子たちを子供たちを追い出すために責めた時、イエス様はこう言いました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:14-15)

子供のように神の国を受け入れるとは、どういう意味でしょうか。子供の性格はどんなものでしょうか。

1.彼らは人々を全面的に信頼します。年が過ぎ去り、いろんな傷や、嘘や、裏切りのため彼らの心が堅くなるまで、彼らは人々が言うことを信じ、全然疑いません。私たちはそんな心を持つべきです。

罪とは、基本的に神様に対する信頼の欠如ということです。つまり、私たちは神様にこう言います。「あなたの言葉を信じません。あなたが私の最善を望むことを信じません。だから、私は自分の道を行きます。」

でも、そんな態度を持っていれば、私たちには決して神の国に入ることができません。

2.彼らは全く大人に依存することです。そして、彼らはそのことを認めます。彼らには自分の料理が用意できないし、服やほかの必要なものを買えません。彼らはそのものをもらうために、自分の両親に依存しています。

そのように、どれぐらい私たちが神様に依存しなくてはいけないことがわからないなら、私たちには決して神の国に入ることができません。なぜなら、私たちには救いを買うことができないから。また、私たちには、救いのために働くことができません。むしろ、私たちは神様の恵み、またイエス・キリストの十字架の御業に頼らなくてはなりません。

それは、あまりにも簡単すぎるので、多くの人々にはその真理を受け入れられません。また、彼らはその真理を信じたくありません。彼らは自分の救いを買えると思いたいのです。または、彼らは自分の救いのために働けると思いたいのです。彼らに何もできないことを認めたくないから。

でも、私の最初のポイントに戻ります。彼らは、神様を全く信じるように学ばなくてはなりません。

イエス様はこう言いました。

神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神の御業です。(ヨハネ6:29)

あなたはどうですか。子供のような心を持って、神様の前に来るでしょうか。

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マタイ19:13-15;マルコ10:13-16;ルカ18:15-17--取るに足りない者の神

父親として、私は自分の娘が大好きです。それでも、彼女がうっとうしい時もあります。特に、私が大切な仕事をしているとき(別に大切じゃないことをする時も)彼女は必死に私の注意を引きたいと思います。

私が仕事をし続けながら、彼女を見ずに「はい、はい」と言うのはとても簡単です。もし、私は特に参ったら、「後で。今忙しいよ。」と言うかもしれません。

この個所では、イエス様の弟子たちはそのように反応しました。お母さんたちが自分の赤ちゃん(きっと、泣いている赤ちゃんもいたと思う)、また、幼い子供たち(多分、乱暴な子供もいたと思う)をイエス様に連れて行ったとき、弟子たちは参ってしまって、「もう帰れ。イエス様はこの子供たちのために時間がないよ。」と言いました。

でも、イエス様はすぐに弟子たちの言葉に反応しました。

イエス様はそれを見て、憤っ[た]。(マルコ10:14a)

そしてイエス様は彼らに言いました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(マルコ10:14b)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちの子供たちを、またほかの人を弟子たちがしたように扱ってはいけません。彼らを取るに足りない人として扱ってはいけません。大切ではない人として扱ってはいけません。私たちの時間に値しない人として考えてはいけません。

そうすれば、イエス様はとっても憤るから。彼らはイエス様の貴い創造物です。イエス様は、彼らのために死ぬほどに、彼らを愛していました。

あなたもそのように愛されています。あなたは自分が取るに足りない人だと思うかもしれません。あなたがのけ者だと思うかもしれません。でも、人々があなたをそのように扱う時、イエス様は憤ります。イエス様はあなたを憐れんでくださいます。あなたを愛しています。イエス様は決してあなたを捨てません。

だから、イエス様に近づいてください。イエス様の目では、あなたがとても大事な人です。あなたは貴い者です。そして、イエス様はあなたとの関係を望みます。

主よ。あなたが取るに足りない人の神であることを感謝します。ほかの人が私を捨てたかもしれないけど、あなたは私を決して捨てません。

主よ。私が周りの人々を取るに足りない人と見なさないように。私があなたのように、彼らを貴いものと見なすように。私の心を変えてください。私があなたのようになるように。アーメン。

 

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マタイ19:1-12--結婚しない方がましでしょうか

イエス様の教えに対する弟子たちの反応は、とても興味深いです。

もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。(10)

要するに、「もし離婚できずに、同じ人とずっと結婚していなくてはいけないなら、結婚しないほうが良い」ということです。「みじめな結婚よりも、独身の生活がましです。」

もちろん、みじめな結婚よりも、独身の生活の方がましですけど、多くの人々はずっと独身の生活を送りたくないでしょう。だから、イエス様はこう言いました。

そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。(11-12)

要するに、独身の生活で満足できる人は少ないことです。

ある人は、「母の胎から独身者として生まれた。」例えば、生まれつきの体の不自由のため、彼らにとって、結婚生活を送るのは大変すぎます。

もしくは、彼らは「人から独身者にさせられた」。多分イエス様は宦官について話しています。現代では宦官という存在はありませんが、以前のトラウマのため、結婚したくない人もいます。

またはパウロのように、神の国のため、独身の生活を送ろうと思う人もいます。

そしてイエス様は、あなたが独身生活で満足できたら、それでもいいと言いました。

でも、情けないのは、弟子たちが、また、現代の人の多くが、一生の結婚は牢みたいだと思うBall and chainことです。英語圏では、「Ball and chain」とううイメージがあります。(右の絵を見てください。)

だから、彼らは結婚する気が進みません。でも、その考え方のせいで、彼らは一生の結婚の喜びを逃してしまいます。神様は初めて結婚を造ったとき、夫婦のために幸せな生活を計画しました。

結婚は素晴らしいものであるはずです。結婚は「Ball and chain」とは限りません。

それでは、いい結婚の秘訣は何でしょうか。

結婚の始めから、あなたと伴侶は腹を決めなくてはなりません。

まず、神様に対する柔らかい心を保つことを決めなくてはなりません。

そして、伴侶に対する柔らかい心を保つことを決めなくてはなりません。

神様に対する柔らかい心を保つなら、あなたたちが喧嘩するとき、神様はあなたたちの心に語って、平和をもたらしてくださいます。多くの場合、神様はあなたに(または伴侶に)「もうやめなさい。相手に譲りなさい。」と言います。

また、神様はあなたたちにどのようにあなたたちの結婚を強めるか教えてくださいます。またあなたたちがどのように相手のニーズに備えるか教えてくださいます。また、あなたたちがどのようにもっと愛し合えるか教えてくださいます。

もし伴侶に対して柔らかい心を保つなら、あなたが相手のことをもっと理解するようになります。相手の動機が分かるし、相手をイライラさせることがわかるし、相手を喜ばせることがわかるようになります。もし、あなたが頑張ってそのことを学ぼうと思って、相手をイライラさせないように努力するだけではなく、あえて相手を喜ばそうとしたら、相手はあなたにそうしてくれるでしょう。

だから、あなたたちはみじめな結婚ではなく、幸せな結婚ができて、本当に一体となります。

あなたはどのように結婚とみなすでしょうか。「Ball and chain」とみなすでしょうか。もしくは、神様が意図した喜びで満ちたものとみなすでしょうか。

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マタイ19:1-12;マルコ10:1-12--私たちの伴侶が私たちに対して頑なな心と持つとき

以前の記事で、私は夫婦が自分の心を探らなくてはならないと言いました。つまり、私たちが自分の伴侶に対して頑なな心を持っているかどうか、自分自身に訊かなくてはいけないことです。また、私たちが神様に対しても頑なな心を持っているかどうかを訊かなくてはなりません。

健全な結婚のためにも、不健全な結婚のためにも、それらはとても大事な質問です。なぜなら、あなたは神様に対して、また伴侶に対して頑なな心を持っているなら、あなたの結婚は長く続かないからです。

でも、もし私たちの伴侶が私たちに対して頑なな心を持っているなら、私たちはどうしたらいいでしょうか。

それはとっても難しい問題です。

聖書では、神様は二つの件についてしか教えていません。

一つ目は、相手が姦淫を犯した場合です。でもそれだけではなく、相手がどうしても悔い改めません。イエス様ははっきり言います。その場合、神様は離婚を許します。あなたが相手と離婚して別の人と結婚すること、それは姦淫ではありません。

多分その理由は、神様の目では、その結婚が修復できないくらい、相手が頑なな心を持っていることです。その夫婦の関係はもう潰れてしまいました。なぜなら、相手がほかの人と一体となったから。特に、相手が再婚するなら最初の結婚は壊れてしまうので、あなたはその人に縛られません。

でも、相手が一回だけ不倫したけど、悔い改めた場合はどうでしょうか。それは、もうちょっと複雑です。もちろん壊れた信頼関係を修復するのはとても難しいです。無理だと言わないけど、とても難しいです。でも、相手が悔い改めると、あなたが仲直りをもたらすために働くのは神様の御心だと思います。

それはとっても難しいです。もちろん、あなたは神様の恵みが必要だし、周りのクリスチャンたちのサポートも必要だと思います。信頼関係を修復するのはたくさんの時間がかかると思います。でも、神様はあなたの結婚を癒すことができます。もし、あなたと伴侶が神様に対して柔らかい心を持つなら、神様はあなたの心を癒せるし、あなたの結婚を癒せます。

第一コリント7章で、パウロは別の件について話します。それは、あなたのノンクリスチャンの伴侶があなたを捨てることです。その場合、パウロはこう言いました。

しかし、信者でないほうの者が離れていくなら、離れていかせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。(第一コリント7:15)

イエス様と使徒たちは、その二つの場合についてしか話しません。

でも現代では、多くの人々はDVに関して疑問に思います。その場合、神様は離婚を許すでしょうか。イエス様と使徒たちはそのことについて全然話していません。

私はその理由が分かりません。その時代でも、同じ問題がありました。ユダヤ人の妻たちは夫と離婚できなかったけど、DVの場合は彼女らが裁判官に願って、裁判官が夫が妻を離婚するように強制できました。

とにかく、イエス様と使徒たちがDVに関して話さないので、多くの牧師たちはDVが離婚の理由にはなりえないと考えます。

私はこう言います。もし、あなたの伴侶が危ない人で、あなたが相手に虐待されるなら、それに、相手がどうしてもカウンセリングを受けないなら、あなたは相手と一緒に住み続ける必要がありません。あなた自身と子供を守ってください。

私の意見ですけど、パリサイ人たちに対するイエス様のことがDVに当てはめられると思います。

私が喜びとするのは真実の愛(あるいは、憐れみ)。いけにえではない」とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

神様が結婚の祭壇の上に、虐待された妻たちをささげることなど要求しないと思います。

それでは、DVの場合、神様は離婚を許すでしょうか。それは正しい質問だと思いません。

正しい質問は何でしょうか。

イエス様は、モーゼの時代に神様が人々の頑なな心のため、離婚を許したと言いました。

ちょっと質問を訊かせていただきます。

クリスチャンは頑なな心を保ってもいいでしょうか。

それはだめです。

だから、これは私の個人的な意見です。結婚がもう続くことができないほど、相手が頑なな心を持っていたら、神様は離婚を許します。

それでは、あなたが離婚を考えているなら、どうしたら良いでしょうか。

どんな条件に直面しても、(姦淫や、あなたが捨てられた状態、DVなど)、決める前に自分の心を探ってください。

「私には神様に対して、また、伴侶に対して、頑なな心があるだろうか」と自分自身に訊いてください。

それは最も大切な質問だと思います。

もし、あなたは「はい」と答えると、離婚の決断を伸ばした方が良いと思います。あなたは、自分の頑なな心のため、離婚するべきではありません。

でももし、あなたが自分の心を神様と伴侶に開いたのに、伴侶が頑なな心を持って、離婚を求めたり、または、相手が暴力であなたを脅すなら、離婚しても良いです。

その場合、神様は離婚を命令はしないけど、その状態をよく理解してくださり、離婚を許すと思います。

 

 

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マタイ19:1-12;マルコ10:1-12--神様と私たちの伴侶に対して、頑なな心を持つと

いろんな福音書を読んで、同じ話を統合するのはとても興味深いです。私はマタイの福音書とマルコの福音書をちゃんと統合しているかどうかわからないけど、このように統合するのは面白いと思います。

パリサイ人たち:何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。

イエス様:知らないのですか。二人は結婚すると、もはや二人ではなく、一体になったのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。

パリサイ人たち:では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。

イエス様:え?モーセはあなたがたに、何と命じたでしょうか。「あなたの妻を離婚しなさい」と命じたのですか。

パリサイ人たち:まあ、そういうわけではないけど、モーセは、私たちの妻を離別することを許しました。

イエス様:その通りです。モーセは離婚を命令しないで、離婚を許しました。どうして、離婚を許したか分かるでしょうか。なぜなら、あなたたちの心が頑ななものだったから。でも神様がアダムとエバを造ったとき、結婚を造ったとき、離婚は神様の元の意図ではありませんでした。

この話を統合するのは面白いかもしれないけど、とても深刻です。

そして、この個所では、イエス様はどうして多くの夫婦が離婚してしまうか説明します。彼らは神様に対する頑なな心を持つし、伴侶に対する心を持っています。

人々はどのように神様に対する頑なな心を持つでしょうか。

まず、彼らは結婚に関する神様の教えを拒絶します。結婚は一生のものです。私たちは自分の妻か夫に忠実しなくてはなりません。キリストが教会を愛するように、夫は妻を愛しなくてはいけません。教会がキリストに従うように、妻は夫に従わなくてはいけません。それらは神様の教えです。

でも逆に、多くの人々は、その教えに従うのが無理だと言って、いろんな言い訳を作ります。

「私の妻が私に従わないのに、どうして愛するべきだろうか。」

「私の夫が私を愛してくれないのに、どうして私は彼に従わなければいけないんだろう。」

「結婚生活がうまくいくかどうかだれもかわかりません。もしかしたら、うまくいかないかもしれないので、離婚のオプションを保った方がいいだろう。」

また、彼らは喧嘩するとき、神様は彼らに「もうやめなさい。相手に譲りなさい。このことについて喧嘩するのは無駄です。」と言います。

でも、彼らは誇りや怒りを捨てるのを拒むので、神様の声に従いません。

どのように人々は伴侶に対する頑なな心を持つでしょうか。彼らは互いに聞き合わないのです。

妻が夫が働きすぎると言う時、夫は「だって、私たちはお金が必要だろう」と答えます。

夫が情交の欠如に関して文句を言うと、妻は「だって、私は疲れ過ぎているよ」と答えます。

妻が夫の言葉か行為がひどいと言うと、夫は「あなたは敏感すぎだよ」と答えます。

いろんな例を与えることができます。

その結果は?

離婚です。

多くの人々はどうして自分の結婚が失敗したか疑問に思います。2-3回結婚する人もいるけど、その再婚も離婚することが大半です。どうしてでしょうか。

なぜなら、彼らは自分の心の問題に取り組まなかったから。つまり、神様に対して、また、伴侶に対して、柔らかい心を保つのを学ばなかったことです。

あなたは独身でしょうか。あなたは伴侶を求めているでしょうか。その前に、自分の心を探ってください。

神様があなたの行為について訓戒するとき、あなたはその言葉を聞いて受け入れるでしょうか。あなたが結婚すると、神様は、きっとどうやってあなたの伴侶を扱うか訓戒するしょう。でも、もし今あなたが神様の言葉に対して頑なな心を持って、その態度を結婚に持っていくと、あなたの結婚は潰れてしまいます。

あなたは結婚しているでしょうか。あなたの伴侶のため、フラストレーションを感じるでしょうか。手始めに、あなたの目を相手を離して、自分自身の心を探ってください。どのように、伴侶に対して頑なな心を持っているでしょうか。あなたの方が何をした方がいいか、神様に訊いてください。

あなたは離婚しているでしょうか。別の伴侶を探しているでしょうか。その前に、自分自身にこう訊いてください。「私はどのように以前の伴侶に対して、頑なな心を持っていただろうか。私はどのように神様に対して、頑なな心を持っていただろうか。」

そう訊かないと、あなたは同じ失敗を繰り返すが落ちです。

もう一つのことを考えてください。今でも、あなたは神様に対して、また、元夫か元妻に対して、頑なな心を持っているでしょうか。つまり、神様は、あなたに相手と仲直りをもたらすように働きなさいとおっしゃっているでしょうか。神様がそうしているなら、その言葉に従うでしょうか。

次回、相手があなたに対して頑なな心を持つ場合について話していきますが、今日自分の心を探ってください。神様はあなたの心をの全体を持っているでしょうか。

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マタイ19:1-12;マルコ10:1-12--どうして離婚はそんなに痛いでしょうか

離婚はとても難しいトピックです。なぜなら、離婚に関連する痛みはとても深いから。日本でも、離婚率はだんだん上がる一方です。だから、私たちは真剣に結婚と離婚に対するイエス様の教えを見るべきだと思います。

パリサイ人たちはイエス様のところに来て、こう訊きました。

何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。(マタイ19:3)

その時代でも、それは論争的な問題でした。どんな理由でも離婚してもいいと思ったパリサイ人たちもいたし、性的な罪だけが、正しい理由だと思ったパリサイ人たちもいました。

実は、多くのパリサイ人たちは離婚していました。多くの場合、彼らはほかの女性と結婚したいと思ったから妻を離婚しました。もちろん彼らは姦淫を犯したくなかったけど、別の女性と付き合おうと思ったので、妻を離婚したのです。

多分、山上の垂訓とこの個所では、イエス様が特にその問題について話していると思います。つまり、「あなたと結婚していない人と寝なくても、もし、別の女性に付き合うために、あなたの妻を離婚したら、神様の目では、それは姦淫だ」ということです。

とにかく、イエス様はパリサイ人の質問にこう答えました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはや二人ではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイ19:4-6)

イエス様は律法の専門家の意見を全く無視して、聖書を示しました。そして、聖書によって、イエス様は結婚が何であるべきかを説明しました。

結婚とは、男と女が一体となることです。彼らはもはや別々のものではありません。彼らは結ばれて、一体となったのです。

時々、人々は疑問に思います。「どうして、神様はセックスが夫婦だけのためだと命令するだろうか。」

主な理由は、男性と女性が一緒に寝ると、彼らは結ばれるからです。それが肉体的な結びだけではなく、彼らは精神的にも結ばれます。彼らの魂も結ばれます。

あなたはボンドを使ったとき、うっかり指を二本貼り合わせたことがあるでしょうか。もし無理やりにその指を引き離そうとしたら、どうなるでしょうか。肌が傷ついてしまうでしょう。

そのように、夫婦が離婚すると、きちんと別れられません。肉体的と精神的な結びのため、彼らの魂は裂かれます。

また、結婚していない人たちの場合でも、彼らが一緒に寝ると、彼らが別れるなら、その魂の結びのため、彼らの魂が裂かれてしまいます。

でも、結婚しても、結婚しなくても、カップルの関係が長く続けば続くほど、別れる痛みはひどくなります。なぜなら、性的に結ばれたし、彼らが一緒に経験したもの(良くても悪くても)に結ばれたから。

なぜ離婚がそんなに苦しいでしょうか。この個所で、イエス様はその理由を教えます。離婚は私たちの魂の部分を裂きますから。永遠まで続くはずのものが、つまり、体の一致、心の一致、魂の一致は裂かれました。だからイエス様は命令します。

「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(マタイ19:6)

それでは、離婚の痛みは決して癒されられないでしょうか。神様は離婚した人を赦してくださらないでしょうか。

そういうわけではありません。

でも私たちは二つのことを理解しなくてはいけません。

一つ目は、神様は結婚を永遠のものとしてデザインしたことです。

二つ目は、私たちが神様のデザインを拒絶するなら、痛みは自然な結果のことです。

それでは、どうして、人々は離婚するでしょうか。次の記事でそのことについて話そうと思います。

 

 

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ルカ18:9-14--恵みの必要を覚えていること

まず、ちょっとアナウンスがあります。最近私は新改訳2017を買ったので、これからその翻訳から引用し始めます。だから、あなたの聖書と比べると、ちょっと違うかもしれません。

とにかく、不思議なことだけど、何千年経っても、人間はあまり変わりません。この個所を読むとよくわかります。

ルカはこう書きました。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエス様はこのようなたとえを話された。(9)

その時代、特にパリサイ人たちはそんな態度を持っていました。パリサイ人たちは一生懸命一番細かい律法でも従おうとしました。でも、それはプライドに至りました。イエス様のたとえ話で、あるパリサイ人は大きな声で、こう祈りました。(もしくは、祈りよりも独り言を言ったでしょうか)。

神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。(11-12)

ようするに、「神様、あなたの国に私のような人がいて良かったですね。私はいい人でしょ?逆に、この収税人は。。。」ということです。

残念なことだけど、今なお、そんな態度を取るクリスチャンもいます。彼らは、神様の恵みによって救われたと認めるけど、彼らの態度は違うことを伝えます。

恵みによって生きる人に二つのことがはっきり見えます。彼らの罪深い心が見えますし、どれぐらい神様が必要か見えます。

収税人には、その二つのことがよく見えました。

その時代、ユダヤ人たちは収税人を憎みました。なぜなら、収税人はユダヤ人なのに、イスラエルを征服したローマ帝国と協力したから。それに、収税人たちは、イスラエル人を騙して、ローマ帝国が要求したよりも多く税を取りたてました。

でも、この収税人は自分の胸をたたいて、こう祈りました。

神様、罪人の私をあわれんでください。(13)

イエス様はその人に関して、こう言いました。

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14)

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みによって生きているでしょうか。あなたには、自分の罪深い心が見えるでしょうか。どれぐらいあなたが神様が必要か分かるでしょうか。

そんな人は、どんな人でしょうか。

彼らは、へりくだり、神様が何をしてくだったことを感謝します。彼らの心の中で、プライドの余裕がないのです。つまり、自分の義に関するプライド。自分のたまものに関するプライド。

彼らは自分が永遠の死にしか値することがわかります。でも、神様が彼らに恵みを注いだので、毎日彼らの心は感謝で満ちています。

相手が彼らを正当に評価しないとき、彼らは苦々しい思いを持っていません。彼らの功績を自慢しません。むしろ、彼らは感謝で満ちた心を持っています。

二つ目は、彼らが受けた恵みを周りの人々に与えることです。彼らは偉そうな態度を取りません。むしろ、彼ら自身が神様の恵みが必要だったように、彼らは周りの人々もその同じ恵みが必要だとわかります。

自分の罪深い心がわかるなら、相手を軽蔑できません。あなたがどうれぐらい赦されたかわかると、あなたは周りの人々を裁くことができません。むしろ、あなたの心は恵みと憐れみで満ちるので、その恵みと憐れみで周りの人々に触れ始めます。

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みがどれぐらい必要か分かるでしょうか。

 

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ルカ18:1-8--試練に直面するとき、信仰を貫くこと

一節だけを読むなら、あなたは、イエス様のポイントが、神様がすぐに祈りに応えないとき、祈り続けるべきことなのだと思うかもしれません。

もちろん、それはそうだけど、実は、イエス様は一つの種類の祈りに関して話しています。

この個所では、イエス様はまだこの世の最後の日について話しています。その日は、悩みの日、試練のある日です。

イエス様は、私たちが自分の罪のために裁かれないと約束したけど、イエス様は、私たちが決して試練と苦しみに直面しないとは約束しませんでした。時々、私たちは不正義を経験します。特に、反キリストが現れて、この世を治めるとき、クリスチャンたちは本当に苦しみます。

この個所では、イエス様はそのクリスチャンについて話しています。聖書によれば、すべてのクリスチャンが迫害されます。その時、私たちは、「神様はどこか。神様は私を捨てただろうか。まだ私を愛しているだろうか。正義はいつ来るだろうか。」と疑問に思うかもしれません。

だから、イエス様はこのたとえ話を話しました。この話では、ある女性が不正義を経験したので、彼女は裁判官の所に行って、正義を願いました。でも、その裁判官はずっと断りました。でも、彼女はあきらめずに、何回も裁判官の所に行って頼み続けたので、結局裁判官はこう言いました。

私は神を恐れ ず、人を人と思わ ない が、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよ う。そうでないと、ひっきりなしに やって来 て、私は疲れ果ててしまう。(4-5)

イエス様の意味したものは、何ですか。神様がその裁判官のように、私たちに正義を与えたくないので、毎日私たちの祈りで神様を困らせないと、応えてくださらないということでしょうか。違います。

実は、イエス様は正反対のことを言っています。この不正な裁判官がその女性のしつこい願いのために正義を与えるなら、ましてあなたを愛する公正な神様は、あなたに正義を喜んで与えてくださらないことがあるでしょうか。

黙示録6:9-11で、私たちは似た話を読みます。その個所では、聖徒たちはイエス様のために迫害されたけど、この世では、正義を受けませんでした。でも、神様は彼らを励ました。「正義はきっと来ます。」

でも、苦しんでいるとき、正義を待つのは苦しいです。だから、イエス様は私たちにこう訊きます。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(8)

もしかしたら、あなたはこう考えます。「大丈夫です。私はひどい苦難(マタイ24:21-22)に直面しないから。その前にイエス様はクリスチャンたちのすべてを天国に連れて行ってくださるから私は心配しなくていいです。私は反キリストを決して見ません。」

正直に言うと、私はその確信がありません。もしかしたら、私たちはそのひどい苦難を経験し、反キリストに直面するかもしれません。

でも、私たちがそれを避けられても、あなたの信仰はどれぐらい強いでしょうか。

辛いときに、あなたは神様とその正義を疑問に思い始めるでしょうか。あなたは、「神様、あなたはどこですか。私を愛しているでしょうか。どうして私はこんなに苦しんでいるでしょうか」と訊きますか。

もしくは、あなたは信仰を貫いて、「神様、私はあなたをまだ信じる。私が苦しんでいても、あなたを捨てない。あなたが最終的に正義を私に与えてくださるのを信じます。この世では、私はその正義を見ないかもしれないけど、後で私はあなたの正義を知ることを信じます。」と言うでしょうか。

イエス様はあなたを見ると、揺らいでいる信仰を見るでしょうか。もしくは動かぬ信仰を見るでしょうか。

へブル人への手紙の著者の言葉を覚えていてください。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(へブル12:12)

そして、私たちの忠実な神に対する信仰を貫きましょう。

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ルカ17:20-37 --急な裁き、確かの裁き

パリサイ人たちに神の国について話した後、イエス様は弟子たちに警告しました。つまり、とても大変な時が来ることです。その時、彼らはイエス様の帰りを願うので、イエス様が帰った噂を聞くと、その噂を信じるかもしれない。でも、イエス様は自分の帰りに関して、いくつかのことをはっきり教えました。

一つ目は、イエス様が帰って来ると、だれも見逃すことはできないことです。イエス様はこう言いました。

いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(24)

二つ目は、イエス様が不意に現れることです。その日は普通の日のように始まります。人々は、いつものように、食べたり、飲んだり、結婚したり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりします。でも急にイエス様が来て、裁きが始まります。

三つ目は、義人が死に至る裁きを経験しないことです。イエス様はこう言いました。

ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。(29-30)

注目してください。ロトがソドムを出ていくと、裁きが来ました。そのように、イエス様が帰ると、義人が悪者から別れたあとで、裁きは来ます。

四つ目のポイントは、イエス様が来ると、もしあなたが神様との関係を持たないと、あなたは裁かれることです。あなたの友人や、妻や、夫や、親族が素晴らしいクリスチャンでも、その関係はあなたを救うことができません。だから、イエス様はこう言いました。

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。(34-35)

最後のポイントは、裁きが確かなものであるということです。イエス様はこの話をこの言葉でまとめました。

死体のある所、そこに、はげたかも集まります。(37)

死体があれば、はげたかが来るのは確かです。そのように、霊的な死んだ者がいれば、その裁きが来るのは確かです。

だから、あなたは自分自身にこう訊かなければならないです。あなたは準備しているでしょうか。あなたの心は準備しているでしょうか。あなたはこの世のものに執着しているでしょうか。もしくは、あなたは神様を愛しているでしょうか。

裁きの日に、あなたの心の隠されたものは現れます。

イエス様が来ると、イエス様を愛している人たちは、イエス様を喜んで迎えます。でも、この世のものに執着する人は持ち物をなくすことを恐れます。

だから、イエス様は弟子たちに警告しました。

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(32-33)

神様がソドムを裁いた時、ロトの妻はソドムにある生活に執着して、振り返りました。だから、彼女も裁かれました。もし、あなたがこの世のものに執着するなら、イエス様が帰ると、あなたも裁かれます。

あなたの心はどこでしょうか。

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ルカ17:20-21--神様に御国を見ること

この個所では、パリサイ人たちはイエス様に、神の国がいつ来るのか訊きました。もしかしたら、彼が意味したものは、「あなたは本当にメシアでしょうか。そうなら、私たちにしるしを与えてください。」ということです。

でも、いつものように、イエス様は批判者にしるしを与えることを拒みました。むしろ、イエス様はこう答えました。

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(20-21)

イエス様の意味したものは何でしたか。「あなたたちは、神の国のしるしを探しすぎて、神の国がもう来たのが認識できません。」

つまり、「あなたの王はもう来ましたよ。その王は、あなたの間で、御国の仕事をしています。それを見ているのに、どうしてあなたは、まだしるしを求めているでしょうか。」ということです。

パリサイ人たちには神様が何をしているか見ることができませんでした。でもあなたはどうですか。神様はあなたの周りの人々の心の中で働いています。神様は彼らの人生を変えたいと思います。それに、神様はあなたを通して、彼らに触れたいと思います。でも、あなたは自分の人生に集中しすぎて、神様が何をしているか認識できないでしょうか。

もしくは、聖書に書いてある預言に興味があって、いつイエス様が帰ってくるか疑問に思いすぎているため、神様があなたの周りに何をしているか分からないでしょうか。

もちろん聖書に書いてある預言は大切です。でも、神様が何をしているか見えないなら、私たちの視点はゆがんでいます。そして、神様は御国のために私たちを用いることができません。

あなたはどうですか。あなたの周りに神様が何をしているか見えるでしょうか。

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ルカ17:11-19--感謝

この個所では、10人のツァラアトに冒された人々は一緒にイエス様の所に行きます。

もちろんツァラアトはつらい病気でしたけど、一つの良い点がありました。ツァラアトに冒された人々の間では、普段存在する壁は崩れました。

普通は、ユダヤ人とサマリヤ人は互いに憎み合いました。でも、その十人は病気のせいで、自分の民の間でのけ者になりました。だから、彼らがわっかったのは、彼ら皆がただの人間で、ユダヤ人とサマリヤ人には大差がないことです。

私たちもそのことを学ぶべきです。つまり、パウロはこう教えました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

私たちにどんな宗教的な背景があっても、どんな文化的な背景があっても、私たち皆は同じです。つまり、私たち皆は罪人です。そして、イエス様が私たちに触れてくれないと、私たちは死ぬとき永遠に神様から離れます。私たちの罪のせいで、私たちはのけ者になりましたから。

おまけに、その10人のように、私たちは自分自身を救うために何もできません。

その時代、ツァラアトの治療がなかったので、ツァラアトに冒された人は、何もできませんでした。

そのツァラアトに冒される人のように、私たちは一つのことしかできません。それは、神様様の憐れみを願うことです。

その十人はイエス様にこう叫びました。

イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。(13)

イエス様は彼らを憐れんで、癒してくださいました。でも、彼らは信仰が必要でした。イエス様はその場で彼らを癒してくださいませんでした。むしろ、イエス様は彼らにこう言いました。

行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(14)

そして、彼らは行く途中で癒されました。そのように、イエス様だけが私たちの罪深い心を清められます。

とにかく、自分が癒されるとわかると、彼らは大喜びでした。でも、サマリヤ人だけが、イエス様の所に戻って、イエス様に感謝しました。

イエス様はそれを見ると、こう訊きました。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(17-18)

イエス様は、どれぐらい私たちに関して、同じことを言うでしょうか。私たちの罪を清めるために、イエス様は十字架で死にました。イエス様の恵みによって、私たちは永遠の死から救われました。でも、どれぐらい私たちはその救いを当たり前のものだと思っているでしょうか。

私は感謝の言葉についてだけ話しているわけではありません。どれぐらい私たちの行動は、イエス様に対する私たちの感謝を表すでしょうか。

イエス様は愛と恵みを私たちの人生に注いだけど、私たちはその愛と恵みを楽しんでいるだけでしょうか。もしくは、その愛と恵みは私たちを通して、周りの人々に触れるでしょうか。私たちの人生は神様に栄光を与えているでしょうか。

あなたはどうですか。あなたの人生はイエス様に対する感謝を反映するでしょうか。

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ヨハネ11:45-57;12:9-11--真理を認識すること

私は前にも言いましたけど、パリサイ人たちと祭司たちの大きい問題は、彼らがイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を見たにもかかわらず、まだイエス様を信じなかったことです。

だから、この個所で、彼らは危機に直面しました。

イエス様はラザロを復活させたし、彼らはその奇跡を否定できませんでした。皆は、ラザロが4っ日間死んでいたのに、イエス様が彼を復活させたことを知っていました。だから、たくさんの人々はイエス様を信じるようになりました。

でも、パリサイ人たちと祭司たちの反応はどうだったでしたか。

「私たちはイエス様の御業をよく知っています。私たちはその奇跡を否定できません。でも、私たちはまだ信じません。」

イエス様がメシアだという証拠があったのに、彼らはどうしてもイエス様を信じませんでした。

その反面、彼らはユダヤ人たちの反応に思い悩みました。つまり、ユダヤ人たちがイエス様を王にしようとすれば、ローマ帝国はイスラエルの土地と国民を奪い取る、ということです。

ヨハネは、大祭司カヤパの言葉の皮肉さを認識しました。カヤパはこう言いました。

あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(49-50)

カヤパが意味したものは、ローマが彼らの国を奪い取るよりも、イエス様が死んだ方がいいということです。

でも、ヨハネは、こう解説しました。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51-52)

自分自身の口から出る真理が認識できないくらい、プライドと野心が彼らの目をくらましていました。

あなたはどうですか。真理を聞くとき、その真理が認識できるでしょうか。

イエス様は、「私は真理だ」と言いました。

真理がわかるようになるためには、あなたは一つのことを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が生ける神の御子キリストであることです。それを認めるまで、あなたは真理を決して認識できません。

あなたはどうですか。真理が認識できるでしょうか。

 

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ヨハネ11:23-44--死んだ者に命を与える方

いつかこの11章を終えるでしょう。でも今日はまだ終えません。:)

この個所は真理に富む所だから。

イエス様がマルタに「あなたの兄弟はよみがえります。」と言ったとき、マルタはこう答えました。

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。(24)

でもイエス様はこう答えました。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。(25-26)

つまり、「よみがえりはただの未来の出来事ではありません。私はよみがえりです。私は死んだ者に命を与える者です。もし私を信じれば、あなたは決して死ぬことがありません」ということです。

そして、イエス様はラザロを復活させて、自分の言葉を証明しました。

イエス様はラザロを復活したように、イエス様を信じる人たちのすべてを復活させます。

パウロはこう言いました。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり[ます]。(第一テサロニケ4:16)

そして、パウロはこう言いました。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(第一コリント15:51-53)

ラザロの場合、彼はよみがえらされたけど、もう一度死にました。でも、イエス様は私たちを復活させるとき、私たちに朽ちない体を与えてくださいます。

あなたはどうですか。死後、あなたがどうなるか存知ですか。永遠の命を持つ確信があるでしょうか。

イエス様はよみがえりと命です。イエス様を信じると、あなたは決して死ぬことがありません。あなたがこの世を去ると、新しい命は始まります。

だから、イエス様はマルタに訊いたように、あなたにも訊きます。「このことを信じますか。」

あなたがマルタのように答えるように。

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。(27)

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ヨハネ11:17-44--私たちの苦しみをイエス様に打ち明けること

私たちの多くは、苦しむとき、その苦しみに取り組まずに、埋めてしまいます。私たちはその苦しみを無視しようとします。もしかしたら、私たちは仕事や、食べ物や、楽しいことでその苦しみを埋めようとするかもしれません。でも、その苦しみは私たちの魂を腐らせてしまいます。そして、その腐敗は広がって、私たちを食い尽くしてしまいます。

私たちはどうしたらいいでしょうか。

マリアとマルタはそれを経験しました。彼女らの兄は亡くなりましたから。おまけに、もしイエス様がもっと早く来れば、ラザロが死ななかったことをよく知っていました。でもなぜか、イエス様はすぐに来てくれませんでした。だから、彼女らはラザロの死を考えると、苦しんだし、多分、イエス様が彼女らを裏切ったと思ったでしょう。

だから、イエス様がやっと来た時、彼女らは大体同じことを言いました。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(32)

私は前にも言ったけど、もしかしたら、マルタはそれを言ったとき、イエス様を責めずにその言葉に「私はあなたをまだ信じる」という意味を含めたかもしれません。

でも、マリヤの場合、多分苦しみを込めた声で、それを言ったでしょう。だから、ヨハネはイエス様の反応を描写するとき、こう言いました。

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ[ました]。(33)

どうしてイエス様はそのように反応したでしょうか。多分イエス様はマリヤに同情したでしょう。でももしかしたら、イエス様はマリヤの不信仰を見たので、傷ついたかもしれません。38節で、ほかの人々がどうしてイエス様がもっと早く来なかったか訊いた時、イエス様は同じ反応をしました。

だからイエス様はラザロのお墓に行ったとき、マルタにこう言いました。

その石を取りのけなさい。(39a)

私はマルタの答えがよくわかります。

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。(39b)

でもイエス様は答えた。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

最初、マルタはその言葉に従うのは、気が進みませんでした。もう手遅れでしたから。ラザロはもう亡くなっていました。

でも結局、彼女がイエス様の言葉に従ったので、イエス様はラザロを復活させました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは、どんな苦しみを心の中に埋めてしまったでしょうか。その苦しみのため、どんな苦々しい思いを持っているでしょうか。つまり、ほかの人々に対する苦々しい思い。または、神様に対する苦々しい思い。

イエス様はあなたに、「その石を取り除けなさい」と言います。「あなたの苦しみと苦々しい思いを打ち明けなさい。そのものはあなたの心の中で腐っているから。だからその苦しみを打ち明けなさい。もし、私を信じるなら、あなたは神様の栄光を見るから。」

あなたはどうするでしょうか。

 

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ヨハネ11:7-10--光の中を歩んでいること

イエス様がラザロとその家族に会うためにユダヤに行こうとすると、イエス様の弟子たちはその決断に反対しました。

先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。(8)

でも、イエス様の答えは本当に印象的です。

昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(9-10)

イエス様が意味したものは何だったのでしょうか。

天の父の御心に従う限り、きっと大丈夫になるでしょう。天の父の導きを信頼する限り、つまずかないでしょう。そう、イエス様は教えました。

その反面、神様の御心に従わない人、また、天の父の導きを信頼しない人は困ってしまいます。

だから私たちは、イエス様のように生きるべきです。

前回の記事で私は、イエス様が他の何よりも私たちの信頼を望む、と言いました。そして私たちがイエス様を信じて従う決断をすれば、私たちは現実をはっきりと見ます。私たちの状況が大変な時、私たちには、イエス様の愛が見えます。また私たちの試練が一時的なものであることが分かります。

でも世の光から離れると、私たちの試練と受けた傷のため、私たちは絶望の暗闇の中でつまづきます。

あなたはどうですか。あなたには、はっきり見えるでしょうか。

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ヨハネ11:1-45--私たちが信じるために

これはイエスの最も有名な奇跡の一つです。私は何回もこの話を読んだことがあるけど、今回、この言葉は私の心を打ちました。

あなたがたが信じるために。。。(15)

この個所では、私たちはこのテーマを何回も見ます。そして、その言葉にあって、私たちはイエス様の動機を見ることができます。時々、人々はイエス様の行動がわからなかったけど、イエス様の動機は、彼らの信仰が成長することです。

だからイエス様はマルタの信仰に挑戦しました。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

そして、イエス様はラザロのお墓で祈ったとき、こう祈りました。

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(42)

そして、ラザロの復活の後、ヨハネは私たちにこう言いました。

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

イエス様が私たちが学んでほしいことの一つは、私たちがイエス様を信頼することです。私たちのすべての経験、私たちの苦しみや試練の中にあってイエス様を信頼すること、それがイエス様の意図されていることです。

時々、私たちは神様にこう訊きます。「神様、あなたを愛しているけど、どうして、私はこの試練に直面しているのでしょう。あなたは私のことを本当に愛しているでしょうか。」

この話では、マリヤはそう訊きました。マリヤはイエス様のことを本当に愛していました。別の話で、彼女はとても高価な香油でイエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐいました。

マリヤはイエス様のことを愛したし、イエス様がマリヤたちを愛していることを知っていたので、ラザロが病気になると、彼女はイエス様を呼びました。イエス様がきっと来る確信がありました。

実際、イエス様はその家族を本当に愛していました。(5)

だから、イエス様は彼らの家に行かずに二日間待ちました。(6)

ちょっと待ってください。イエス様は彼らを愛していたから、行かなかったのでしょうか。

それはどういう意味でしょうか。

どうして、イエス様は二日間も待っていたのでしょうか。なぜなら、イエス様は彼らがイエス様を信頼することを学ぶのを望んでおられたから。

イエス様が二日間も来られなかったので、ラザロは死にました。でもイエス様がラザロを復活させたとき、彼らの信仰のレベルはすごく上がりました。

時々、私たちは「どうして神様は何も言わないだろうか。どうして私の祈りに応えてくれないだろうか」と疑問に思います。

マリヤとマルタは多分そう考えたでしょう。「どうしてイエス様は来てくれないだろうか。」

もちろん彼女らはイエス様を信頼したけど、イエス様は彼女らがもっともっと信頼するように望みました。

マルタの言葉をちょっと見てください。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 (21)

それは苦々しい気持ちを込めた言葉でしょうか。私はそう思ったけど、今私はわかりません。もしかしたら、それは信仰の言葉かもしれません。

「イエス様、あなたがもっと早く来ていたら、私の兄を癒すことができたことをよく知っています。でもあなたをまだ信じています。今でも、神様はイエス様と共におられ、イエス様の願いを聞いてくださることを知っています。」(21-22)

マルタはイエス様がラザロを復活させることを信じたでしょうか。多分そう信じなかったでしょう。(39節を読んでください。)

でも、もしかしたら、彼女はこう言いたかったのかもしれません。「あなたは私の願いを叶えてくださらなかったけど、あなたをまだ信じています。だからこれからも、私が困ったとき、あなたの所に行きます。」

でもイエス様はもう一度マルタの信仰に挑戦しました。

「今の問題をもうあきらめたでしょうか。そうしてはならない。あなたのお兄さんは復活する。私は命の主です。私は誰にも命を与えることができます。私を信じるものは死んでも、生きるのです。そして私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(23-26)

マルタは、「はい」と答えたけど、多分、彼女は、イエス様が意味したものが分からなかったでしょう。それでも、彼女は言いました。「あなたを信じます。あなたが神の子だと信じます。」(27)

それはどういう信仰でしょうか。それは子供の信仰です。

私たちはイエス様の言葉がわからないときもあります。私たちが神様の決断と行動がわからないときもあります。でも、私たちは混乱しても、がっかりしても「私はまだあなたを信じる」と言うでしょうか。

マルタはラザロの墓で、その疑問に向き合わなくてはなりませんでした。「大変な状態になったのに、私はイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。」

でも、彼女がイエス様の言葉に従うと、神様の栄光を見ました。

私たちもそうします。マルタに訊いたように、イエス様は私たちにこう訊きます。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

あなたはどう反応しますか。

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ルカ17:1-10--私たちの奉仕に対する態度

私たち皆は、褒める言葉を聞くのが好きです。相手が「よくできたね」と言ってくれると、私たちはとても嬉しくなります。でも、そういうわけで私たちは奉仕するでしょうか。私たちは相手の称賛を求めているでしょうか。私たちは神様の称賛を求めているでしょうか。

相手から称賛をくれないと、私たちは正当に評価されていないと感じるでしょうか。私たちは怒ってしまうでしょうか。

イエス様はとても興味深い描写を与えてくださいます。

ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。(7-10)

イエス様が意味したものは何ですか。神様は私たちの努力を正当に評価しないでしょうか。神様は私たちに報いを与えてくださらないでしょうか。違います。

ほかの個所によれば、神様は私たちの努力と働きを評価して、いつか報いを与えてくださいます。

でも、私たちが二つのことを覚えていた方がいいと思います。

一つ目は、私たちがこの世に生きている限り、私たちにするべきの仕事があることです。私たちは自分の成功を祝って、怠ける態度を取る余裕がありません。さらに、私たちには相手からの称賛を求める余裕がありません。むしろ、私たちは神様にゆだねられた仕事をし続けなくてはなりません。

二つ目は、私たちがどんな役割を持っていても、神の国でどんな立場を持っていても、私たちは神様の恵みだけによって仕えることです。

私たちは神様から報いをもらうことに値しません。もちろん、私たちは救いにも値しません。

実は、私たちの欠点や弱さ、失敗にかかわらず、神様が私たちを用いることは、恵みなのです。

それに、私たちが仕えることができるように、神様はいろんな才能や賜物を与えてくださいます。神様は私たちに力と知恵を与えてくださいます。

だから、それらを全部もらったら、私たちは自慢することができるでしょうか。

パウロはこう書きました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから私たちが生きる限り、神様にゆだねられた仕事をし続けましょう。謙遜に。忠実に。

そして、仕えるときに、どうして私たちが仕えることができる理由を覚えていてください。つまり、神様の恵みを覚えていてください。

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ルカ17:3-6--赦し

この個所では、イエス様は赦しについて話していますが、とても厳しい言葉を言っています。彼はこう言いました。

もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。

相手があなたを傷つけるとき、あなたはずっと怒りを抱いていはいけません。イエス様は私たちに「その人とじかに話し合いなさい」と命令しました。

もちろん、あなたがちょっと落ち着くまで待った方がいいと思いますけど、あなたの怒りがずっと溜まったらダメなのです。そしてイエス様が言ったのは、「相手が悔い改めれば、赦しなさい」ということです。

でも、イエス様は続けます。

かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(4)

これはただの勧めではありません。イエス様は「相手が謝るなら、あなたは許してあげるのをちょっと考えた方がいいかも」と言っていません。

イエス様は私たちに命令します。「赦しなさい。」

弟子たちの反応は何だったでしょうか。

私たちの信仰を増してください。(5)

私たちの多くが、そのように考えると思います。

「主よ。私の傷はとても深いのです。私が赦せるかどうかわかりません。私たちが相手を赦せるように、私の信仰を増してください。」

イエス様は弟子たちに(また私たちに)こう答えました。

もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ」と言えば、言いつけどおりになるのです。(6)

つまり、どれだけあなたの傷が深くても、その根は引っこ抜けられるということです。それに、あなたはそんなにたくさんの信仰がいりません。

あなたが信仰をどれぐらい持っているかは、あまり関係ありません。

あなたがだれを信じるかが、大切なのです。イエス様は素晴らしい癒し主です。あなたがどんな傷を持っていても、イエス様はあなたを癒すことができます。

だから、あなたが自分を変える強い意志があるかどうかは、大切ではありません。

実は、神様の戒めは私たちに自分自身を変える力を与えることができません。だから、私たちは自分の心を変える力がないのです。自分の力で、私たちは完全な人になることができません。

でもイエス様は私たちを変えることができます。

だから、自分の力に頼り、「頑張ろう。相手を許そう。」と思わないでください。

むしろ、イエス様に向かって、イエス様からの癒しと助を頼んでください。

そして、イエス様を信じると、あなたは奇跡を見ます。

 

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ルカ17:1-3--人々につまずきを与えること

この個所では、イエス様はこう言います。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(2)

それはとても厳しい言葉ですけど、イエス様は続けます。

気をつけていなさい。(3)

つまり、「私はあなたに話しているよ。あなたに警告しているよ。気を付けていなさい。」ということです。

それを読んで、私はちょっとびくびくしています。私には9歳の子供がいます。彼女も小さいものだと思います。私はどんな父だろうか。私は頑張っているけど、完全な父ではありません。

彼女は私を見ています。私は良い模範でしょうか。もしくは、私の行動によって、娘につまずきを与えているでしょうか。

それを考えるとき、私はこう祈ります。「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」

でも、私はほかの人々につまずきを与えているでしょうか。私は、妻や、同僚や、教会の人たちに、私の行動と悪い態度によって、つまずきを与えるでしょうか。

あなたはどうですか。周りの人々にどんな影響を与えているでしょうか。あなたの助けによって、彼らはイエス様に近づいているでしょうか。もしかしたら、あなたは彼らにつまずきを与えているでしょうか。

神様、あなたは私の心をよくご存じです。私の失敗をご存知です。私が傷つけた人々をご存知です。赦してください。私を変えてください。私の心を変えてください。私の態度と行動を変えてください。私の影響で、人々があなたに近づくように。私が彼らにつまずきを与えないように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ルカ16:19-31--地獄の現実さ

地獄。それは全然楽しいトピックではありません。でもイエス様は地獄について教えました。この個所では、イエス様は地獄の実在を教えるし、地獄がどんな場所であるか教えます。

最初のポイントは、地獄が苦しみの場所ということです。人々は意識がある状態で苦しんでいます。人々が死ぬと、もう意識はないと思う人が多いです。でもその考え方は間違っています。地獄で、人々は自分の状況をよく知って、苦しみます。

二つ目のポイントは、悪者と義人の間には、大きな淵があることです。そして、人々はその淵を渡ることができません。一旦地獄に入ると、脱出できません。もう手遅れで、悔い改めることができません。実は、多分、地獄にいる人が悔い改める気はないと思います。この話では、金持ちは苦しんでいても、憐れみを願っていても、悔い改めませんでした。

三つ目のポイントは、地獄にいたいと思う人がいないのです。また、地獄にいる人は、愛しているものが地獄に来ることを望みません。

時々、人々はこう言います。「私はクリスチャンになりたくないです。なぜなら、私の両親と祖父母は亡くなりましたから。もし、彼らが天国に行けないなら、私も行きたくないのです。」

でも、この金持ちの言葉を聞いてください。

父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。(27-28)

アブラハムは、「それは無理だ」と答えました。なぜなら、神様がそれを許しても、その金持ちの兄弟たちがすでに神様のみ言葉を拒絶したので、誰かが復活して、彼らに警告しても、彼らは信じないでしょうから。

皮肉なことですが、別のラザロは、イエス様の力で復活しました。だから、イエス様は自分が神の子であることを証明しました。でも、イエス様の敵がそれを見ても、イエス様を拒絶したし、イエス様とラザロを殺そうと計画しました。

しかし、私のポイントは、その金持ちは家族が地獄に来ることを望まなかったことです。だから、あなたの家族と友達が地獄にいるため、あなたがイエス様の救いを拒絶しているなら、その金持ちの言葉を覚えていてください。あなたの家族と友達はあなたが地獄に行くことを望みません。

どうやって、私たちは地獄を避けることができるでしょうか。それには、イエス様を信じなくてはなりません。イエス様があなたの罪のために死んでくださり、よみがえられたことを信じなくてはなりません。イエス様を主と救い主として受け入れなくてはなりません。

「神様が愛なら、どうして人々を地獄に送るでしょうか。」と訊く人もいます。

でも、神様から離れた人生そのものが、地獄なのです。あなたが命と愛と喜びと平和の源から離れるなら、それは地獄ではありませんか。

神様が人々を地獄に送ることよりも、人々が自ら地獄に行くことを選びます。つまり、彼らは命の意味を与える方に背を向けるのです。そうすると、どうなるでしょうか。彼らは絶望しか持っていません。それは地獄です。

あなたはどうするでしょうか。命の源に向かうでしょうか。もしかしたら、命の源に背を向けるでしょうか。それはあなたの選択です。

 

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ルカの福音書16:19-31--準備しないと

この個所で、イエス様は地獄について話します。そして、それは本当たに生々しい描写です。なぜなら、イエス様はある人の経験を描写するから。

ある学者たちは、イエス様が実在の人について話していると考えています。なぜなら、この話で、イエス様は登場人物の名前を教えるから。

私は、この出来事が本当に起こったかどうかわかりません。でもこの話を通して、イエス様は、私たちが永遠のために準備するべきだとはっきり警告しています。だから、16章では、最初の話(ズル賢い管理人)と最後の話には強い関係があります。

この話では、イエス様はぜいたくに暮らしている金持ちについて話します。彼のニーズはすべて満たされたし、欲しいものをすべて持っていたから、自分の未来は全然気になりませんでした。

また、彼は周りの人々のことも心にとめていませんでした。

毎日、彼はラザロという乞食の前を通り過ぎました。私たちはラザロについてあまり知らないけど、もしかしたら、ラザロは体が不自由だったので、物乞いしかできなかったのかもしれません。

そしてラザロは、いつも金持ちの食卓から落ちる物を食べたいと思ったけど、金持ちはラザロに全然気づいていませんでした。

彼らは何年もそのような生活を送りました。

でも、彼らが死ぬと、ラザロはアブラハムのふところに連れて行かれて、慰められて、金持ちはハデス(地獄のようなところ)で苦しみました。そして、彼が助けと憐れみを求めると、アブラハムはこう答えました。

子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(25)

アブラハムが意味したものは何ですか。その金持ちはずっとこの世の人生を楽しみました。彼は富を蓄えて、快楽を求め、勝手気ままに暮らしていました。でも、彼は全然永遠のために備えをしていませんでした。

その反面、ラザロはこの世に何も所有してませんでした。生前は、彼は本当に苦しんでいました。それでも、彼は永遠のために準備しました。

だからその二人が亡くなった時、ラザロは慰められたけど、金持ちは苦しみました。

お金は、その金持ちの問題ではありませんでした。彼の問題は、未来のために準備していなかったことです。イエス様の言葉に従わずに、彼が自分のお金をちゃんと使わなかったので、永遠の住まいに迎える人が全然いませんでした。(16:9)

その人の模範に従わないように。私たちの命はとても短いです。それを覚えて、永遠のために準備しましょう。そうしないと、金持ちのように永遠に苦しみます。

あなたはどうですか。永遠のために準備しているでしょうか。

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ルカ16:15-18--自分を正しいとすること

パリサイ人の一つの大きな問題は、独善的な態度です。

彼らは細かいルールに従ったけど、彼らには自分の目立った罪が見ることができませんでした。そして、イエス様がその罪を指摘したとき、彼らはその罪を否定ました。「私たちは正しい人だ」と言い張りました。

だから、イエス様は彼らにこう言いました。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。(15)

この話では、イエス様は彼らのお金に対する執着を裁きました。でも、パリサイ人たちはこう思いました。「でも、私のお金は神様の祝福のしるしだろう。イエス様は何を言っているんだろう?」

でも、彼らの心の中では、お金は彼らの偶像になりました。彼らは神様よりも、お金を愛していました。もしかしたら、彼らはお金よりも一つのものだけを愛していたかもしれません。それは、周りの人々の誉め言葉です。だから、彼らは施しをしたとき、たくさんの人に見られるのを確認しました。

たくさんの人々はお金や、周りの人々からの称賛を求めるけど、神様の目にはそれらは憎まれるものです。もちろん、お金と誉め言葉自体は悪いものではありません。でも、それらが私たちの人生の目的になると、また、それらが私たちの神になると、私たちの神様との関係の邪魔ものになります。

パリサイ人たちは人の前で自分を正しいことをする他にも、色んなことをしました。彼らは余計なルールを強制したけれど、そこに抜け穴を見つけると、自分自身を褒めました。

例えば、イエス様は彼らの姦淫の考え方を非難しました。あるパリサイ人はその律法を避けるため、自分の妻たちと離婚して、すぐに別の人と再婚しました。でもイエス様は彼らにこう言いました。

だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。(18)

でも、最悪なのは、彼らは罪人に触れずに、罪人を裁いたことです。彼らは律法を利用して人々を裁きました。彼らは全然その罪人の救いを望みませんでした。むしろ、彼らは「人々から天の御国をさえぎっていました。」(マタイ23:13)

それでも、ある人々はパリサイ人を押し切って、天国に入っていました。つまり、パリサイ人たちが拒絶した人々はイエス様に触れられて、パリサイ人たちとその余計なルールを押し切って、神の国に入っていたことです。(16:16)

あなたはどうですか。あなたの心に何が入っているでしょうか。あなたのうわべはきれいなのに、あなたの心は汚いでしょうか。

あなたは独善的な態度を持っているので、自分の罪がわからないでしょうか。

私たちがパリサイ人のようにならないように。むしろ、イエス様が私たちの罪を表して、神様との関係を塞ぐ私たちのプライドの壁を壊すように祈りましょう。

 

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ルカ16:13-15--誰に仕えるでしょうか。何に仕えるでしょうか。

私たちの社会では、お金という神はとても人気です。多くの人々はお金を慕い求めます。彼らはお金のために働きます。時々、お金のために彼らは死にます。(例えば、過労死です。)

でもイエス様はこう言いました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(13)

私は以前も言いましたけど、私にとっては、その教えがとてもきついです。特に、お金を使って人に仕えるのは難しいです。だから、私は自分自身にこう訊くべきです。私は誰に仕えているでしょうか。

私はお金に仕えているでしょうか。私は頑張って働いて、持っているお金をできるだけ握っているだろうか。もしくは、その金を神様に仕える道具とみなすだろうか。神様は、いつでもどこでも、私のお金にアクセスができるでしょうか。

そうではないなら、私は神様ではなく、お金に仕えています。実は、それは偶像礼拝です。

それはパリサイ人たちの問題でした。彼らがイエス様の言葉を聞いた時、彼らはあざ笑っていました。

その時代、人々は富が神様の祝福のしるしだと考えていました。

「神様は義人だけを祝福するだろう。私はたくさんのお金を持っているので、確かに私は義人だろう。」

それだけではなく、彼らは貧乏な人々を見下しました。彼らはイエス様をも見下しました。だから、彼らは偶像礼拝を犯しただけではなく、プライドと言う罪を犯しました。

あなたはどうですか。あなたは自分の持ち物を誇るでしょうか。あなたの持ち物はあなたの神でしょうか。あなたはお金に仕えていて、神様の国のために周りの人々に触れないでしょうか。

あなたは何に仕えているでしょうか。誰に仕えているでしょうか。

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ルカ16:10-12--忠実さ

前回の記事では、私たちはズル賢いの管理人の話を読みました。その管理人が自分の未来のために準備していたので、イエス様はその人を褒めました。それでも、イエス様はその人を責めました。イエス様はこう言いました。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(10)

要するに、だれを信頼するか気をつけなさい。どんな人にも大きい責任をゆだねることをせず、まず、人々をちゃんと見てください。最初に、その人に小さい責任を与えて、その人がちゃんと果たすかどうか確認しなさい。その人が忠実に仕えるなら、もっと大きい責任を与えなさい。でも、小さい責任でも、その人が不忠実なら、その人を信頼するな、ということです。

でも、私たちは相手を評価するだけではなく、私たち自身にも見なくてはいけません。イエス様は続けました。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(11-12)

神様は私たちにお金や、いろんな資源を与えてくださいました。あなたはその資源を忠実に使っているでしょうか。

あなたのお金が、実は神様のものだとわかるでしょうか。神様はあなたに才能と体力を与えてくださいました。だから、あなたはお金を稼ぐことができます。あなたが持っているお金はあなたのものではありません。あなたは、神様のお金を管理しているだけです。

もしあなたが忠実に神様のお金を管理していないなら、神様があなたにほかの責任を与えると思うでしょうか。特に、神様はあなたにミニストリーの責任を与えるでしょうか。

私は教会の働きだけについて話していません。あなたの学校や、職場や、近所では、たくさんの人は神様が必要です。神の国の一員として、私たちはその人々に触れるように呼ばれました。私たちはそうすれば、天国で報いを得ます。

でも、あなたが一時的な物であなたが不忠実なら、神様は永遠のものであなたを信頼できるでしょうか。

あなたは、神様があなたにゆだねたもので忠実でしょうか。神様はあなたを信頼できるでしょうか。

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ルカの福音書16:1-9--私たちの未来を確保すること

私たち皆は安定した未来を望みます。でも私たちはちゃんと準備しているでしょうか。そして、未来を考えると、永遠のもののためにも準備しているでしょうか。

このイエス様のたとえ話は、ちょっと変わっていました。なぜなら、イエス様は私たちがどのように生きた方がいいかを教えるのに、悪い人の模範を用いたから。

この話では、ある管理人は、その雇い主のお金を乱費しました。もしかしたら、彼はそのお金を横領したかもしれません。雇い主はそれがわかったら、その人を首にしました。でもその前に、管理人は会計の報告を出さなくてはなりませんでした。だから、その報告を完成するまで、彼はまだ雇われていました。

その報告をしている間、管理人はどうやって自分の未来を確保できるか考えました。彼は肉体労働者になりたくなかったし、雇い主が推薦状を書いてくれないので、別の人のために管理人として働かないでしょう。もちろん彼は乞食になりたくなりませんでした。

だから、彼は計画を立てました。彼は雇い主の債務者たちのところにに行って、その借りを減らしてあげました。なぜなら、彼はこう思ったから。

こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。(4)

そこまで、そのたとえ話はあまり変わった話ではありませんでした。でも、雇い主がその管理人の行動を知ると、その反応はとても変わったものでした。

主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。(8b)

どうしてでしょうか。その管理人は自分の未来を確保したから。(でもきっと、管理人を褒めた後、雇い主は「出て聞け」と叫んだでしょう。)

そして、イエス様はこう言いました。

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないもの[です」。(8a)

要するに、この世の人は、自分のお金と立場を賢く利用して、また人を賢く扱うので、自分の未来を確保するのです。世の人はそうするのなら、ましてクリスチャンたちはなおさらです。でも、クリスチャンとして、この世の人生だけではなく、永遠を考えなくてはいけません。

たとえ話では、管理人が自分の立場を利用したので、人生の次の段階に入ると、友達は彼を迎えました。私たちにはこの話はどんな関係があるでしょうか。イエス様こう言いました。

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(9)

イエス様が意味したものは何ですか。私たちは、人々が神の国に入られるように、資源を利用することです。例えば、宣教師たちにお金をささげることです。また、教会に献金をささげることです。また、誰かと一緒に食事して、福音を伝えることです。

そうすれば、天国にたどり着いた時、あなたのお金はなくるけど、あなたが福音によって触れられた人々はあなたを歓迎します。さらに、イエス様はあなたを迎え、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言います。

でも、自分のお金を自分自身だけのために使うなら、あなたを迎える人は誰もいないでしょう。そして、イエス様はあなたを迎えると、あなたは自分のお金の使い方を申し開きをしなくてはなりません。その時、あなたが自慢する達成はどうなるでしょうか。パウロはこう言いました。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:12-15)

あなたはどうですか。あなたの未来を確保しているでしょうか。

 

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ルカ15:11-24--恵みの贅沢さ

多分、これはイエス様の話した中でも一番有名なたとえ話でした。でも、パリサイ人たちはその話を聞くと、本当にあきれたかもしれません。

なぜなら、パリサイ人にとっては、この話の主人公が嫌な人でしたから。その若い人はそのお父さんに背を向け、「お父さんは死んだらいいのに」と言いました。(なぜなら、お父さんが死ぬと、遺産をくれるはずだから。)

そして、息子はその遺産を取って、ぜいたくな暮らしをしました。彼はいろんな意味で、欲張りだったし、わがままだったし、ゆがんだ人でした。

彼はすぐにその遺産を費やしてしまいました。そして、大飢饉が起こりました。

おまけに、彼のお金が無くなると、その友達も彼から離れていきました。彼は貧乏だったし、情けなくなりました。彼を助ける人が誰もいなかったので、彼は本当にみじめな仕事をしなくてはなりませんでした。ユダヤ人にとっては、豚は不潔な動物だったのに、彼は豚の世話をしなくてはなりませんでした。彼はその豚の餌を食べたいと思うくらい、飢えていました。

それは罪の欺きです。罪はあなたを一時的に喜ばせるけど、最終的に死に至ります。

とうとう、彼は自分の罪を悟りました。彼はこう言いました。「父のしもべの人生は私のよりもましだ。多分、父は私を自分の子として受け入れられないだろう。私は悪すぎたから。でも、もしかしたら、父は私をしもべとして雇ってくれるかもしれない。」

だから、彼はてくてくと歩いて家路につきました。

歩いている間、彼は自分のセリフを練習しました。

お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。(18-19)

多分、パリサイ人たちは息子の思いを聞いたら、二つの反応があったでしょう。

「もし、彼が土下座して、お父さんの許しを請うなら、お父さんは彼を許すかもしれない。でも、息子がそうしても、許してくれないかもしれないな。」

または、パリサイ人たちは「まさか。だって、その息子はひどすぎただろう。お父さんは絶対許さない。」と思ったかもしれません。

だから、彼らはイエス様の次の言葉を聞くと、あきれたでしょう。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(20)

その時代、凛としたユダヤ人の叔父さんは絶対すたこら走ったりしませんでした。だから、パリサイ人たちは、お父さんがそんなみじめな息子のために、そのように走ったことがありえないと思ったでしょう。

でも、そのお父さんはそうしました。彼はその息子を抱いて、口付けました。

その息子は汚くて臭かったし、その服もボロボロだったでしょう。それでも、そのお父さんは気になりませんでした。

そして、その息子が自分のセリフを言い始めると、お父さんは口を挟んで、しもべを呼んで、こう言いました。

急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。(22-24)

それは、神様の恵みと愛のぜいたくさです。

パリサイ人たちはそんな神が想像できませんでした。だから、彼らが周りの罪人を見るとき、その罪人を軽蔑しました。

でもイエス様は、神様がその罪人が神様に戻るように望むのを教えました。そして、その人が戻ると、神様はその人を侮りません。むしろ、神様はその人を抱いて、祝います。

あなたが神様を考えるとき、どんなイメージを持っているでしょうか。厳しいお父さんでしょうか。または、いつも責めている神でしょうか。私たちの罪をずっと覚えている神でしょうか。

イエス様はそんな神を教えませんでした。だから、周りの人々を見るときは、パリサイ人の性格ではなく、天の父の性格の真似をしましょう。

そして、もし、あなたが神様があなたのことを愛し、受け入れられるかと疑問に思うなら、神様がきっとあなたを愛して受け入れることを覚えていてください。

あなたに対する神様の愛と恵みはぜいたくなものです。そして、悔い改めさえすれば、神様はその愛と恵みをあなたに浴びせてくださいます。

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ルカ15:1-10--失われた人を捜して救うこと

この個所では、イエス様とパリサイ人たちの大きい違いを見ることができます。つまり、パリサイ人たちは失われた人々を裁いたのです。残念なことですけど、今なお、多くのいわゆるクリスチャンの態度は神様の態度と全然違います。でも、イエス様は失われた人々を探して救おうと思いました。

イエス様はパリサイ人たちと時間を過ごしたばかりだから、次はイエス様は「罪びとたち」と時間を過ごしました。実は、イエス様は普段から罪人と時間を過ごしました。

でもパリサイ人たちはそれを見たとき、イエス様を責めました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2)

パリサイ人たちは、「罪びとたち」に触れると汚れると思ったので、彼らを避けました。パリサイ人たちは決して罪人たちを食事に誘わなかったし、罪人の家を訪ねることなど想像できませんでした。できるだけ、仕事するときにも、罪人とやり取りしないように努力しました。

だから、イエス様が罪人たちを歓迎したときに、パリサイ人たちは衝撃を受けました。

だから、イエス様は三つのたとえ話を話しました。今日、私は二つのたとえ話について話します。

一つ目の話は、迷子の羊に関する話です。羊飼いはその羊を愛していたので、その羊を探しました。そして、その羊を見つけたとき、羊飼いは友達や近所の人たちを呼び集めて、こう言いました。

いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。(6)

そして、イエス様はパリサイ人たちにこう言いました。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(7)

パリサイ人たちをちょっと考えてみてください。もしパリサイ人たちが羊飼いだったら、羊を責めたでしょう。「馬鹿な羊だな。あいつが死んだら、いい気味だ。」

でもイエス様はそのように決して考えませんでした。むしろ、自分の命を捨てるほどに、羊飼いはその羊を救おうと思いました。

パリサイ人たちの考え方は全然違いました。でも、彼らはイエス様の態度を持っていたはずでした。たぶん、彼らは預言者たちの書を何回も読んだでしょう。そして、彼らがその書をちゃんと覚えていたら、神様はそのように考える方だとわかるはずでした。実は、それがホセア書の要点です。

そして、イエス様は銀貨を一枚をなくした女の人について話しました。たぶん、それは結婚した女性の頭飾りだったのでしょう。頭飾りとは、10枚の銀貨で作られたアクセサリーでした。現代の結婚指輪に似ているでしょう。もし、あなたが結婚指輪をなくしたら、どう感じるでしょうか。その女の人もあなたと同じように感じたでしょう。

だから、彼女は頑張って、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜しました。

そのように、神様はあまねく全地を見渡し、念入りに失われた人々を探して、救おうと思います。そして、イエス様によれば、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(10)

それは、神様の態度です。あなたはどうですか。「罪びと」を見ると、その人を裁くでしょうか。もしくは、彼らに神様の愛で触れて、彼らの救いのために働くでしょうか。

人々を裁くのパリサイ人のようにならないように。むしろ、私たちを救ってくださったイエス様のようになりましょう。

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ルカ14:25-35--費用を計算すること

大勢の群衆がイエス様についていくとき、イエス様は彼らの心を探っていて、彼らの動機を見抜こうと思ったでしょうか。

彼らはイエス様の奇跡を見るためについて行いったでしょうか。イエス様の素晴らしい教えを聞くためについていったでしょうか。もしくは、彼らは本当にイエス様がメシアであることを信じたからついていったでしょうか。

多分そういうわけでイエス様は彼らに挑戦しました。

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(26-27)

要するに、「あなたは本当に私の弟子たちになりたいと思っていますか。その代価は高いです。あなたの家族をも失うかもしれません。あなたの命をも失うかもしれません。」ということです。

イエス様は弟子たちに決して楽な人生を約束しませんでした。実は、彼は正反対なものを約束しました。

十字架を負うのは全然楽なことではありませんでした。また、人々が十字架を地面に置いた後、彼らはその十字架で苦しみ、ひどい死を経験しました。でも、その十字架を負わないで、つまり、あなたがイエス様のために試練を経験することを拒むなら、イエス様はあなたが弟子になることはできないと言いました。

それは受け入れやすい言葉でしょうか。そんなことはありません。

でもイエス様は私たちに挑戦します。「私についていきたいと思うなら、費用を計算しなさい。」

イエス様はその決断を塔を築くことと比べました。もしある人は前もってその費用を計算しないので、その塔が完成できないなら、周りの人々はその人をあざ笑います。

そのように、もしあなたはイエス様についていき初めるけど、試練のせいで諦めると、あなたは恥をかきます。

でも、もう一つの費用を計算しなくてはなりません。イエス様についていかないと思うなら、その費用をも計算するべきです。イエス様はこう言いました。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。(31-32)

あなたには神様との平和があるでしょうか。もしくは、あなたは神様と戦っているでしょうか。あなたは神様と戦っていないと思うかもしれませんけど、イエス様をあなたの主として拒絶するなら、実は、あなたは神様に反抗しているのです。

ちょっと考えてみて下さい。聖書によれば、神様は私たちと和解をもたらすためにイエス様をこの世に送りました。でも、どうして私たちには神様との和解が必要でしょうか。私たちは神様と戦っているからです。

だからイエス様は私たちに警告します。「あなたが神様と戦っているなら、その費用を計算しなさい。もし、ある王はほかの王と戦い交えようと思うなら、勝利の見込みを考えます。もし、勝利できないと思えば、平和をもたらそうとします。」

私たちもそうするべきです。実は、神様はもう私たちに手を伸ばしています。でも、神様との平和を望むなら、あなたは神様の条件を受け入れなくてはなりません。つまり、イエス様の十字架の働きを信じ、イエス様を主として受け入れなくてはなりません。

そうすれば、本当の命を知ります。でも、イエス様を拒絶しているまま、あなたが亡くなるなら、神様との戦いがどれだけひどいか分かるようになります。

だからまだ時間がある間に、神様との平和を求めてください。神様は私たちがこの世の塩になるように呼びます。私たちがこの世を神様の光と愛で影響するように呼ばれます。あなたが役立たない塩にならないように。

 

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ルカ14:15-24--言い訳

イエス様はパリサイ人たちに、神の国に入ることができると仮定しないように警告した後、いつものように例え話を話しました。

その話では、ある人はたくさんの人々を宴会に誘いました。その時代、時計を持っている人はいませんでしたから、招いた人たちは宴会の日を知っていたけど、何時に始まるか知りませんでした。だから、主人は、彼らの家にしもべを送って、「宴会の準備ができましたよ。どうぞお越しください。」と伝えました。

でも、その日、多くの人々は断りました。彼らはいろんな言い訳を言いましたけど、許されない言い訳ばかりでした。

ある人は、「畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。」と言いました。(彼はその畑をまだ見ていないのに、買ったのでしょうか。)

ほかの人は、「五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。」と言いました。(つまり、私は新しい「おもちゃ」を買ったので、宴会に行けません)。

もう一人は、「結婚したので、行くことができません。」と言いました。

もちろん、彼が最近結婚したのは良かったのでしたが、その宴会に行かない言い訳ではありませんでした。多分、その奥さんと一緒に来ても良かったのです。

でも、聖霊様が人々の心の戸を叩いたら、どれぐらい彼らは言い訳を言うでしょうか。

「私は忙しすぎる。別の用事があるから。」

もしかして、彼らはこの世のもの、お金や、持ち物に熱中して、「私はそれを楽しみたいのです。後で、イエス様を慕うかもしれませんけど。」と言います。

または、彼らの家族は邪魔ものになります。「クリスチャンになると、私の夫は何を言うだろうか。私の両親はどう思うだろ。私がクリスチャンになると、私の家族の関係は複雑になるだろう。」

でも、神様はその言い訳を許しません。そして、危険があります。もしかしたら、神様は誘い続けるかもしれません。でも、あなたが現在もらった招待はあなたにとって最後のものかもしれません。明日、あなたは交通事故に会って、死ぬかもしれません。あなたがいつ亡くなるかは誰もわかりません。だから言い訳を言わないでください。神様の招待を受け入れてください。

パウロはこう言いました。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第一コリント6:2)

 

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ルカ14:15-24--イエス様を拒絶すると

この直前の個所では、義人の復活のとき神様が気前の人々に報いを与えることを、イエス様は教えておられました。

それを聞くと、食卓に着いていた客の一人はこう言いました。

神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。(15)

ユダヤ人たちはメシアが来て、自分の国を確立するとき、大きい宴会を開催すると信じました。だから、その人がその言葉を言った後、多分皆は「アーメン」と言っていたでしょう。そこにいる皆はメシアの宴会にきっと誘われると思いましたから。

皮肉なことですが、その時、彼らはメシアと一緒に食事をしていました。でも、彼らはメシアを認識しませんでした。おまけに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶しました。最終的に、彼らはイエス様を十字架につけてしまいました。

だから、神の国が来ると、彼らは入ることができません。それに、彼らが見下したもの、つまり、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちが天国に入ります。

さらに、パリサイ人たちが救いに値しないと思った罪人や異邦人は神の国に入ります。でもパリサイ人たち自身は拒絶されます。

多くの人々は天国に行きたいと思うけど、パリサイ人のようにイエス様を拒絶します。むしろ、彼らは自分なりの道徳的なルールを確立し、従おうと思うし、そのルールに従わない人を批判します。でもパリサイ人のように、彼らは天国の門に着くと、入ることができません。でも、彼らが軽蔑した人々は歓迎されます。

あなたはどうですか。あなたはイエス様を拒絶しているのに、天国に入られると思いますか。イエス様しか、天国への門はありません。イエス様とその十字架の働きを信じる人たちだけが天国に入ることができます。だから、自分の誇りを捨てて、イエス様のもとにきてください。

イエス様はこう言いました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)


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ルカ14:12-14--人に与えること

イエス様はその部屋にいる人々を見たとき、どんな人を見たでしょうか。そのパリサイ人はいろんな人を誘ったけど、もしかしたらイエス様以外に、その誘われた人々は裕福だったでしょう。少なくとも、彼らの仕事はうまくいっていたと思います。

だから、イエス様は彼らにこう言いました。

昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。(12-14)

このパリサイ人はきっと施しをしたと思うけど、多分貧しいものを決して食事に誘わなかったでしょう。もしかしたら、その考えは決して思い浮かんでいなかったかもしれません。

どうしてでしょうか。たぶん、彼らの友達と社会の偉大な人々に感心されたかったから。周りの苦しんでいる人たちを助けるよりも、友達と遊び、自分の評判を立てることに彼は興味がありました。

多くのクリスチャンは十一献金をささげるけど、残りの給料を自分自身のために使います。私たちは十一献金をささげたので、神様に対する義務をちゃんと果たしたと思います。でも、神様は私たちが気前がいい人になるように望みます。教会だけではなく、私たちの日常生活でも神様はそう望みます。そして、私たちは誰かのニーズに備えると、神様は私たちを祝福してくださいます。

でももう一つのことを考えるべきです。私たちは与えると、恩返しを期待するでしょうか。もしくは、恩返しを期待せずに、神様が私たちに与えてくださったものを周りの人々に惜しげもなく与えるでしょうか。イエス様が教えるのは、神様がそんな与える態度を祝福することです。

私は告白しなくてはなりません。私にとって、人に与えるのは難しいときもあります。でも、イエス様のようになりたいなら、私たちはイエス様のように与えることを学ぶべきです。私たちは恩返しを期待せず、犠牲的に与えて、周りの苦しんでいる人々を助けるべきです。

あなたはそのように周りの人々に与えるでしょうか。

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ルカ14:7-12--謙遜

この個所では、私たちは興味深い文化的な状況を見ます。イエス様がパリサイ人の家で食事して、イエス様が気付いたのは、誘われた人々が一番良い席に座ろうとしたことです。その文化では、一番偉い人は、主人の右に座りました。もしその席が占領されたら、人々は主人の左に座ろうとしました。もしその席も占領されたら、できるだけ主人の近くに座ろうとしました。

でもイエス様は彼らにこう言いました。「一番ベストの席を求めるな。なぜなら、主人があなたに、「この人に席を譲ってください」と言うなら、あなたは恥ずかしい思いをしてしまうから。むしろ、末席に座りなさい。もしかしたら、主人があなたに「どうぞもっと上席にお進みください」と言って、皆はあなたを尊敬するかもしれません。」

多分日本では、そんな状況に直面することはありません。でも教会では、多くの人々はもっと偉い立場を求めます。彼らは皆が尊敬する立場、例えば、牧師や、ワーシップリーダーなどになろうと思います。

でも、そんな立場を求めないでください。むしろ、謙遜な態度を取って、小さい仕事でもして、仕えてください。例えば、礼拝のために椅子をセットしてください。人々を迎えて入口であいさつしてください。

そして忠実に仕えてください。そうすれば、あなたの心が準備できたとき、神様のタイミングで、イエス様はもっと大きい仕事を与えるかもしれません。

でも、もしあなたがいつも周りの人々を批判し、「私の方がその人よりも、その仕事が上手にできるのに」と言うなら、結局あなたは恥ずかしくなります。

イエス様がこの世に生きていた時、謙遜な態度を取りました。ユダヤ人の王になろうと思いませんでした。イエス様は神様なのに、最上のものを求めていませんでした。むしろ、しもべの態度を取って、十字架まで行って、私たちの罪のために死んでくださいました。

だからパウロはこう言いました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピりピ2:9-11)

だからイエス様のようになりましょう。謙遜な態度を取って、できるだけ周りの人々に仕えましょう。そして、神様のタイミングであなたは高くしてくださいます。

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ルカ14:1-6--議論を通して、人を救う?

イエス様は優秀な先生だけではなく、優秀な論者でもありました。この個所では、イエス様はもう一度パリサイ人たちと、安息日に人を癒すのが合法的かどうか、議論しています。

パリサイ人の反応はちょっと興味深いです。イエス様が彼らに安息日に癒すことが正しいかよくないか問うたとき、彼らは黙っていました。だから、イエス様は水腫をわずらっている人を癒しました。

その後、イエス様はパリサイ人にこう訊きました。

自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。(5)

彼らの答えは?

彼らは答えることができなかった。(6)

もしかしたら、彼らはこのことわざをもう一度思い出しました。「あなたが黙っていて、周りの人々にあなたが馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周りの人々があなたが馬鹿者だとはっきり分かるよりも良いです。」

でも、もう一度私たちは大切な真理を見ることができます。

パリサイ人たちは何回もイエス様と議論しました。そして、最終的に彼らはイエス様の議論に応えられませんでした。イエス様はその議論に勝ちました。では、パリサイ人はイエス様の教えを信じるようになったでしょうか。安息日に人を癒すのが正しいことだと認めたでしょうか。

そうではありません。逆に、彼らはイエス様を殺そうと思いました。

つまり、単なる議論によって、人々はイエス様を信じるようになりません。あなたは人々と議論して、どうしてイエス様を信じたほうがいいか、また、どうして聖書を信じたほうがいいか、また、どうしてキリスト教が正しいか説明することはできます。

あなたは、その議論に勝つかもしれません。相手がパリサイ人のように答えられないかもしれません。でも、あなたが何を言っても、どんな証拠を示しても、イエス様を拒絶する人もいます。

何年かラジオ番組で、あるクリスチャンが哲学者と議論しました。その哲学者はこう言いました。「クリスチャンたちはいつも聖書の真実性を証明するとき、聖書を引用します。それは循環論法ですよ。あなたが証明したいのを、最初から仮定してはいけません。」

クリスチャンはこう答えました。「どうしてあなたは聖書が一冊の本だと思うのですか。実は聖書は、66冊で構成されています。さらに、著者は40人以上もいます。それに、1000年以上も掛けて、聖書は書かれました。だから、一人の著者を利用して、別の著者の言葉を確認することは循環論法ではありません。私は全然違う出所を利用しています。」

その哲学者は「違う、違う、違う」と言いました。

そして、クリスチャンはこう訊きました。「なぜ違うと言うんですか。あなたは私の議論に答ええられますか。もしくは、信じないだけでしょうか。」

哲学者は「私はそれを信じない。」と主張しました。

その哲学者は答えることができませんでした。彼はパリサイ人たちのように黙っていました。でも多分、彼はほかのクリスチャンたちと話したときでも、同じ議論を利用したでしょう。

では、私たちは決してノン・クリスチャンと議論してはいけないのでしょうか。私たちは彼らの疑問に答えないほうがいいでしょうか。そういうわけではありません。

ペテロはこう言いました。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)

答えを本当に求めている人もいます。そして、もしあなたがその答えを与えたら、彼らはクリスチャンになるかもしれません。でも、単なる議論によっては、だれも神の国に入りません。

聖霊様だけが人々の心を開くことができます。だから、人々と話すとき、彼らの質問に答えるだけではなく、彼らのために祈ってください。そうすれば、聖霊様が彼らの心を変えて、彼らは救われるかもしれません。

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ルカ13:33-35--神様が何を望むか、何をしないか、何ができないのか

これは、本当に切ない箇所です。パリサイ人と話した後、イエス様はこう言いました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。(34-35)

イスラエルの歴史では、そのリーダたちは主のみ言葉とその言葉を伝えた預言者たちを拒絶しました。だから、イエス様は裁きの日が迫っていると警告しました。エルサレムの宮はもう一度滅ぼされるし(西暦70年にそう起こりました)、ユダヤ人たちはあっちこっちに逃げなくてはならなかったので、20世紀までイスラエルという国はなくなっていました。そして、イスラエル人たちがイエス様をキリストとして受け入れるまで、イエス様はこの世に戻りません。

でも、私たちにとっては、この個所は何の意義があるでしょうか。この個所では、私たちは神様が何を望むか、何をしないか、また何ができないのか見ることができます。

神様の望みは何でしょうか。私たちとの親しい関係を望みます。そして、神様はその愛によって、私たちが平和や、喜びや、満足を見つけるように望みます。

神様は何をしないでしょうか。神様は私たちに神様を受け入れるように強制しません。イエス様はユダヤ人のリーダーたちにこう言いました。「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」

もしユダヤ人のリーダーたちのように、私たちが神様を拒絶するなら、神様は私たちの決断を受け入れます。

神様は何ができないでしょうか。私たちが神様から離れるなら、神様は私たちに喜びや、平和や、満足を与えることができません。神様はそのものを与えたくないではなく、与えることができません。

なぜなら、私たちは神様との関係のためにデザインされたから。だから、私たちが神様から離れるなら、私たちの心にいつも穴があります。私たちはその穴に、お金や、持ち物や、仕事や、人間関係で満たそうとしても、満たすことができません。そして、最終的に私たちの人生はみじめになります。神様抜きの人生はそんなものです。なぜなら、本当の愛、本当の平和、本当の喜びは神様から来るから。神様から離れると、あなたは愛と平和と喜びから離れてしまいます。

あなたが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言えるまで、あなたは愛と平和と喜びを得られません。

あなたはどうですか。あなたはイエス様を救い主として受け入れているでしょうか。もしかしたら、神様から離れているまま、平和と喜びと愛を求めているでしょうか。そんな人生は最終的にみじめになります。イエス様こそを通して、本当の満足を見つけることができます。

今日、イエス様を受け入れてみませんか。

イエス様、今まで私はあなたに背を向けていました。あなたから離れて、頑張って生きようとしたけど、私の人生はみじめになりました。赦してください。あなたが私の罪のために死んでくださり、よみがえられたことを信じます。あなたを私の主と救い主として受け入れます。私を近づけてください。あなたとの親しい関係を望みます。アーメン。

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ルカ13:31-33--どうしても恐れに負けないこと

相手に「恐れるな」と言うのは、簡単なことです。でも、自分が恐れに負けないのは時々難しいことです。

でも、イエス様は決して恐れに負けませんでした。

ある日、パリサイ人はイエス様のところにきて、こう言いました。

ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。(31)

このパリサイ人たちはイエス様のことを本当に心配していたでしょうか。そうかもしれません。パリサイ人の一人ニコデモは、イエス様を信じたようです。イエス様を信じたほかのパリサイ人たちもいたかもしれません。

でも実は、私はそのパリサイ人の動機を疑います。その時まで、ヘロデはイエス様を殺そうという気持ちを周囲に打ち明けていませんでした。ヘロデが初めてイエス様のことについて聞いた時、バプテスマのヨハネがよみがえったと思ったらしいです。だからヘロデはイエス様に会ってみようと思いました。でも、彼は、イエス様を殺そうとは思っていませんでした。(ルカ9:7-9)

そして、やっとイエス様に会ったとき、ヘロデはイエス様が奇跡を行うのを頼んだらしいです。(ルカ23:8)

ヘロデは全然危険じゃない人だというわけでもありません。でも多分パリサイ人は、その危険さを大げさに言ったでしょう。なぜなら、彼らはイエス様が恐れるように望んだから。

だから、イエス様はこう答えました。

行って、あの狐にこう言いなさい。「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」(32-33)

簡単に言うと、「出ていけ。私は逃げないよ。」

どうして、イエス様はヘロデを狐と呼んだでしょうか。狐はズル賢いし、危ない動物だから。また、ユダヤ人にとっては、狐は取るに足りない人を象徴しました。

イエス様は自分の助言に従いました。イエス様は蛇のように聡い人でした。(マタイ10:16)

もちろんイエス様は世の危険性を無視しませんでした。イエス様は、その危険性をよく知っていて、注意しました。でも同時に、イエス様は人々を恐れませんでした。なぜなら、彼らはイエス様の体を殺せたけど、イエス様の魂を殺せませんでしたから。それに、イエス様が死ぬ時間がまだ来ていませんでした。だから、イエス様は天の父の御心に従うように決定しました。

私たちもそうするべきです。私たちが神様に仕えようと思うなら、私たちに反対する人もいるかもしれません。その人は、ズル賢いし、危ない人かもしれません。そんな人に注意しなくてはなりません。そうしないと、私たちは傷つけられるかもしれません。

でも、私たちは彼らを恐れるべきではありません。彼らが私たちを拒絶することを恐れるべきではありません。また、彼らが私たちに何をするかを心配してはいけません。

むしろ、私たちは神様が命令したことをし続けましょう。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:2-3)

 

 

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ルカ13:22-30--遅すぎる前

地獄について考えるのが好きな人はだれもいないと思います。また私たちは、地獄に行く人がいるとは思いたくないものです。逆に、私たちは(麻原彰晃やヒトラーなど以外に)すべての人々が天国に行くものと思いたいです。

多分、イエス様の時代にも、多くの人々はそのように考えたでしょう。だから、ある人はイエス様のところに来て、こう聞きました。

主よ。救われる者は少ないのですか。(23)

もしかしたら、その人が意味したものは、「天国に行く方法をもっと簡単にできないでしょうか。もっと多くの人々が天国に入らせられたらいいのに。」ということです。

その人の言葉をちょっと考えてみてください。その人はユダヤ人でした。たぶん彼は異邦人の救いを全然考えていませんでした。

多分、彼はユダヤ人として、天国に入るのはどれだけ難しいか考えました。なぜなら、彼は自分自身を周りの人々と比べたから。パリサイ人たちや、律法学者たちは律法を勉強し、神様のルールと人が作った宗教的なルールにもできるだけ従おうとしていました。

だから、その人がパリサイ人や律法学者たちを見たとき、多分、彼はこう思いました。「これは無理だよ。パリサイ人のように生きることができない。さらに、イエス様は、私たちの義がパリサイ人の義に勝らなくてはならないと教えた。」(マタイ5:20)

でも、イエス様の次の言葉は、その人を慰めなかったでしょう。イエス様はこう言いました。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

要するに、「はい。救われる人は少ないのです。」ということです。

そして、イエス様は私たちに警告します。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人さま。あけてください」と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない」と答えるでしょう。

つまり、その狭い門に入るのには、期限限定なのです。もし、私たちが入る前に死んでしまえば、もう遅すぎます。

その門は何でしょうか。イエス様はこう言いました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハネ10:9)

天国に入りたいなら、イエス様との関係が必要です。イエス様とその十字架の働きを信じなくてはなりません。そうすれば、私たちは救われます。

イエス様はユダヤ人たちに警告しました。

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。(28-30)

多くのユダヤ人たちは、「私はユダヤ人だ。神様が自分の民として、ユダヤ人たちを選んだので、私は大丈夫だ」と考えていました。

また、あるユダヤ人たちは律法を守れば、救われると思っていました。

でも、イエス様がが教えていたのは、イエス様を救い主として受け入れた人は救われるけど、イエス様を拒絶する人は救われないことです。

だから、多くのユダヤ人は天国で先頭になると思ったけど、結局彼らは天国に入ることができません。

今なお、多くの人々はユダヤ人たちのように考えます。彼らはクリスチャンホームに生まれたから、自分がクリスチャンだと考えています。もしくは、彼らは教会に行って、いろんないいことをするので、救われると思うかもしれません。

でも、そんな人が天国に行くとは限りません。イエス様は門です。イエス様以外に、天国への門がないのです。

遅すぎる前にその門に入りませんか。

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ルカ13:20-38--目を覚ます必要

マタイの福音書では、私たちはこの個所と同じイエス様のたとえを見ます。(多分、これは別の時ですけど)。

でも、この個所を読んだ時、私は前回このたとえを正しく解釈したかどうと疑問に思いました。もしかしたら、イエス様は、同じたとえでいろんなことを教えていたかもしれません。(例えば、マタイ5:23-26ルカ12:54-59。)

とにかく、このたとえの別の解釈について話そうと思います。イエス様はこう言いました。

神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。(20-21)

旧約聖書では、パン種は罪と不潔の描写でした。例えば、過越の祭の食事を食べたとき、イスラエル人たちはパン種が入っていないパンを食べなくてはなりませんでした。彼らはそのパンを裂いて食べました。そして、そのパンは、彼らの体に命を与えました。

どうして彼らはパン種のないパンを食べたでしょうか。一つの理由は、彼らがエジプトから逃れたとき、速く行かなくてはならなかったことです。そしてイスラエル人たちはパン種のないパンをすぐに焼くことができました。

でも、もう一つの理由がありました。イエス様は、自分自身を「命のパン」だと呼びました。そして最後の晩餐で、イエス様は過越の祭のパンを取り、裂いて、弟子たちにこう言いました。

これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。(ルカ22:19)

イエス様は、自分の罪のために十字架で死にませんでした。そのパンのように、イエス様の心にはパン種、つまり、罪や不潔がありませんでした。でも私たちの罪のためにイエス様の体は裂かれました。イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださいました。そして、私たちがその命のパンを食べると、つまり、イエス様とその十字架の働きを信じて、受け入れると、イエス様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

でも私の要点に戻りましょう。パン種は普通、罪と不潔の描写です。でもこのたとえ話で、イエス様は、神の国をパンに広がっているパン種と比べます。どうしてでしょうか。

答えはちょっと怖いものです。神様の民の中で堕落が広がる可能性があるということですから。

アメリカの教会を見ると、それがすぐにわかると思います。例えば、監督教会と長老教会はゲイの結婚を認め始めました。

それは道徳的な堕落です。

でも、教会の歴史で、私たちはキリストに関する教えの堕落をも見ることができます。だから教会では、多くの人々は処女懐胎(つまり、イエス様の父はヨセフではなく、神でした)や、イエス様の復活や、イエス様が神であることを否定します。それでも、彼は「私はクリスチャンだ」と言い張ります。

どうして、彼らはそう言えるでしょうか。彼らは聖書をも否定するから。もしクリスチャンたちが聖書を否定するなら、堕落は簡単に教会に入ることができます。

イエス様はそのことについて警告しました。サタンは麦の中に毒麦を蒔きます。その毒麦の一つの種類は聖書に反対する教えです。私たちが注意しないと、そんな教えは教会の中に広がってしまいます。(マタイ13:24-30、36-43)。

だからイエス様は私たちに警告します。たくさんの人々は「イエス様を知っている」と主張するけど、実はイエス様を全然知りません。(24-28)

だからイエス様はこう言いました。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

私の要点は何でしょうか。目を覚ましてください。あなたの牧師の教えに注意してください。ポッドキャストで聞く説教に注意してください。クリスチャンの本を読む時、注意してください。もしその教えが聖書に合うなら、その教えを受け入れ、従ってください。でも、その教えが聖書に合わないなら、その教えを捨ててください。そうしないと、堕落はあなたの心にすぐに入ってしまいます。

だから、パウロはこう言いました。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

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ヨハネ10:22-42--見ても信じないこと

ある人々はこう言います。「神様自身が私の前に現れて、私と話すなら、私は神様のことを信じるだろう。」

でも、その考え方には、大きい問題があります。

神様自身はこの世に現れたのです。神様は私たちと話していたのです。私たちの間を歩いていたのです。神様はいろんな奇跡を行いました。神様が自分の敵と議論したとき、相手は答えられなくなりました。それでも、彼らは神様を信じませんでした。

私の要点は何でしょうか。

もし、あなたが信じないと決定すると、神様があなたの前に現れても、あなたは信じません。むしろ、あなたは夢や幻覚を見たことを自分自身に説得しようとするでしょう。

人々が神様を拒絶する理由は、彼らが神様のことを信じることができないことではなく、彼らは信じたくないのです。

この個所では、私たちはそんなことを見ます。ユダヤ人たちはイエス様のところにきて、こう言いました。

あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。(24)

イエス様はこう答えました。

わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。(25)

その前、イエス様は病気な人々を癒したし、足が不自由の人々を癒したし、目が不自由な人々を癒したし、皮膚病にかかった人を癒したし、死んだ人を復活させました。どうして、周りの人々はそれを見ても、イエス様を信じなかったでしょうか。

さらに、彼らが勉強した預言者たちはその奇跡について話していました。(イザヤ書53:4、61:1-2など)。でも、なぜか彼らはイエス様を信じることを拒みました。

そして、イエス様はもっとはっきりと話しました。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(27-30)

誰が永遠の命を与えることができるでしょうか。神様だけです。でも、イエス様は自分の民に永遠の命を約束しました。

そして、イエス様は「わたしと父とは一つです。」と言いました。

イエスが意味したものは何ですか。ユダヤ人たちはわかりました。イエス様は自分が神であることを主張しました。彼らはすぐに反応しました。彼らはイエス様を殺そうとしました。彼らはこう言いました。

良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。(33)

彼らはイエス様の言葉を誤解しませんでした。イエス様は続けました。

イエス様は旧約聖書を引用しました。その詩篇では、神様は不正な裁判官を「神」と呼びました。なぜなら、彼らが人々を裁くとき、彼らは神様の立場に立ったから。

だから、イエス様はこう言いました。「もし、裁判官の立場のため、神様は彼らを神だと呼ぶなら、神の独り子として、私は「神だ」と呼ばれることに値するでしょう。」

動物でも、人間でも、親子はいつも同じ本質を持っています。だから、イエス様が神の子なら、イエス様は誰でしょうか。

そして、イエス様は自分の人生について話しました。彼はいつも神様の働きに参加し、いろんな奇跡を行いました。ユダヤ人たちはそのことを知っていました。そのことを見ました。それでも、彼らはイエス様を拒絶しました。なぜでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イエス様の教えと行動は彼らの期待と違ったからかもしれません。でも、彼らは自分たちの考え方を変えずに、イエス様に背を向けました。

今なお、多くの人々はそうします。彼らはイエス様に出会うけど、イエス様は彼らの期待するものと違います。もしかしたら、イエス様が彼らの罪を示すので、彼らは気分を害するかもしれません。彼らは自分の罪にしがみつきたいので、イエス様を拒絶します。

あなたはどうですか。あなたは「神様を見るなら、私は信じる」と言いますか。たぶん、あなたは見ても信じないでしょう。もし信じたくないなら、何を見ても信じないでしょう。せめて、そのことを認めてください。自分自身を騙さないでください。でもそれよりも、自分の心をイエス様の前に柔らかくしてください。そうすれば、あなたは本当の命を見つけることができるから。

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ルカ13:10-17--人々を解放するのに

決着した伝統と考え方を捨てるのは難しいことです。ユダヤ人のリーダーたちはイエス様の教えと力のゆえに、安息日に人を癒すことが悪いことではないのがもうわかるはずです。何回も彼らはイエス様と議論しようとしたけど、イエス様の答えに何回も黙りこんでしまいました。

でも私がこの個所を読んだとき、ある言葉が私の心を打ちました。その言葉はイエス様のミニストリーの理由を表しています。それは、「解放」です。

イエス様はある女性を見たとき、こう言いました。

あなたの病気はいやされました(12)

新改訳では「あなたは癒された」と翻訳されたけど、原文では、イエス様は「あなたは病気から解放された」、また「あなたは病気から自由にされた」と言いました。(12)

そして、イエス様は自分の行動を会堂管理者に弁解したとき、こう言いました。

この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。(16)

私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。宗教的なルールを守るよりも、イエス様は人々を解放したいのです。

サタンが18年間その女の人を縛っていたので、彼女の人生は本当にみじめでした。その18年の間、その会堂管理者は彼女にあまり情けを与えなかったらしいです。もし、彼が本当に彼女を愛していたなら、彼女が癒されると、彼は喜んだでしょう。でも逆に、彼はイエス様がルールを破ったために責めてしまいました。

その反面、イエス様は彼女を見た瞬間、彼女に共感しました。イエス様はどうやってサタンが彼女をずっと苦しめたかを見て、彼女を解放しようと思いました。そしてイエス様は彼女を癒しました。

あなたはどうですか。あなたはルールを守ることに集中しすぎているので、周りの縛られている人々を見ることができないでしょうか。縛られている人々を見ても、同情しないのでしょうか。あなたは神様の愛と力で、彼らに触れて解放しようと思いませんか。

そうしないと、あなたはその会堂管理者のようです。そして、その会堂管理者のように、いつかあなたはイエス様の前に立って、恥じ入ります。

毎日、私たちがをもって、彼らに触れて解放されますように。

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ルカ13:1-9--自分の心を見抜くこと

イエス様が皆に、裁きの日が来る前に、神様との和解を求めなさいと警告したばかりなので、多分群衆の一人は、そのちょっと前の事件を連想したと思います。

どうやら、ガリラヤ人たちがいけにえをささげるとき、ローマの総督ピラトは彼らが殺されるように命令したようです。そして、その兵隊たちはガリラヤ人たちの血をささげた動物の血と混ぜました。

多分、イエス様にその話を伝えた人は、こう思いました。「イエス様、あなたはこんな人について話しているのでしょうか。彼らはとても罪深い人だったでしょう。なぜなら、神様はそのように彼らを裁いたから。」

でも、イエス様はこう答えました。

そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(2-3)

そして、イエス様は別の災害について話しました。

また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(4-5)

イエス様は何を言いたかったのでしょう。

災害が発生ときに、どうして神様がそんなことが起こることを許されたのかと、議論することがよくあります。

でも結局、私たちは自分自身にこう聞くべきです。「私たち皆はいつか死ぬ。私は事故で亡くなるかもしれない。私は誰かに殺されるかもしれない。高齢で自然に亡くなるかもしれない。いつ亡くなるかわからない。時間がまだたくさんあると思うかもしれないけど、明日亡くなるかもしれない。そうなれば、私は死ぬ準備をしていると言えるだろうか。」

ルカ12章のイエス様のたとえ話では、金持ちは準備していませんでした。ピラトが殺した人々は準備していなかったかもしれません。そのシロアムの事故で殺された人々は準備していなかったかもしれません。彼らにとっては、もう遅過ぎです。でもあなたはどうですか。自分の死のために準備しているでしょうか。

イエス様はもう一つのたとえ話を話しました。その話では、ある人は、いちじくの木を植えました。三年間経ったけど、その木は実を結びませんでした。だから、彼はその木を切り倒してしまおうと思いました。でも番人はこう言いました。

ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。(8-9)

この話では、私たちは二つのことを見ることができます。それは、神様の裁きと憐れみです。

神様は私たちからの実を求めます。つまり、救いの実を求めます。なぜなら、イエス様は自分の血によって、その救いを買ったからです。

神様はすぐに実を結ばない木を切り倒すことができるけど、忍耐強く、彼らの心の中に救いのために働いています。

でも最終的に、裁きの日が来ます。もしあなたが準備していないなら、つまり、救いの実を結ばないなら、あなたは永遠に滅びの道に入ります。

だから、「どうしてその残虐な犯罪が起こったのか」とか、「どうしてこの災害が発生したのか」を心配せずに、あなた自身がいつでも亡くなるかもしれないことを覚えていてください。また、自分自身にこう訊いてください。「私は裁きの日のために準備しているだろうか。」

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ルカ12:54-59--神様との和解

福音書にあるイエス様の教えは、とても興味深いです。なぜなら、私が以前言ったように、イエス様はしばしば同じたとえや教えを繰り返すけど、違う応用を教えるから。

山上の垂訓では、イエス様は私たちに、できるだけ早く相手と仲直りしなくてはならないと教えました。そうしないと、彼らがあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、あなたは裁かれます。その裁判官はあなたを裁いてからでは、遅すぎです。(マタイ5:26-27)

この個所では、イエス様は同じたとえを用いるけど、人々との和解について話していません。むしろ、神様との和解について話しています。

まず、イエス様は群衆を責めます。なぜなら、彼らは空の現象で天気を予想できたけど、神様からの明らかな現象、つまりイエス様が来たのに、イエス様をメシアとして認識しませんでしたから。それに、彼らはイエス様の教えに反対しました。彼らは神様に反対していたので、裁かれる恐れがありました。

だから、イエス様は彼らに警告しました。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。(58-59)

要するに、神様との和解を求めなさい。そうしないと、あなたはきっと裁かれます、ということです。

あなたはどうですか。神様との平和を持っているでしょうか。一つの方法しかありません。それは、イエス様との関係のことです。イエス様は十字架で、私たちの罰を受けてくださいました。もし、イエス様とその御業を信じるなら、私たちは神様と和解されます。

だからパウロはこう言いました。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5:20-21)

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ルカ12:49-53--福音の炎

炎は時々怖いものです。特に森林火災は怖いものです。森林火災はすぐに広がって、ひどい被害を起こすから。でもその反面、炎には森林に良い影響があるときもあります。

炎は地面にある落ち葉や壊れた枝などを燃やして、土壌は日照に当たって、栄養素を与えられます。また、下生えが燃やされて、その周りの木は土壌の栄養素をもっと得ることだできるので、強くなります。それに、炎は木を害する虫を殺します。

要するに、炎は森林を清め、命を与えることができるのです。

イエス様は弟子たちにこう言いました。

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。(49)

その火は何でしょうか。聖書学者たちにはいろんな意見があるけど、私はその火が福音だと思います。イエス様はどうやってその火をつけたでしょうか。イエス様はこう言いました。

しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(50)

この話では、「バプテスマ」と言うのは、イエス様の死のことです。別のときに、イエス様はヤコブとヨハネにその「バプテスマ」について話しました。(マルコ10:38)

イエス様が死んで、よみがえられた後、福音の火がつけられました。そして森林火災のように、その火は広がって、人々の魂を清めて、永遠の命を与えました。彼らの罪は赦されて、彼らの神様との関係は修復されました。

でも火が痛みの原因になるときもあります。だから、イエス様は弟子たちにもう一度警告します。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。(51-53)

魂を清める炎に触るのは痛いです。だから、その痛みを経験したくないと思う人もいます。だから、福音を聞いた時、彼らの良心はその火でちょっとやけどして、彼らはひるみます。その火で清められることを望まないから、その火から逃げてしまいます。もしくは、彼らはその火を持ってくる人と戦うかもしれません。自分の家族とも戦うかもしれません。

この個所では、イエス様はそのことについて話しています。

でも、私たちの家族や友達などが私たちを福音のために拒絶して、私たちが苦しむときに、イエス様の方が十字架でもっと苦しんだことを覚えていてください。

だから、へブル人への手紙の著者はこう言いました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:3)

だから福音の炎を持ちましょう。そうすれば、その火が周りの人々に触れて、清め、命を与えます。

 

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ルカ12:35-48--イエス様が帰ると

イエス様は偽善や貪欲やこの世のものを慕うことに関して警告した後、もう一つのことに関して弟子たちに訓戒を与えました。つまり、イエス様が帰ってくる時のために、彼らはちゃんと準備しなくてはいけないことです。

イエス様はこう言いました。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(35-37)

つまり、イエス様が帰ってきても、私たちは驚いてはいけません。私たちはいつもイエス様を待ち望んでいるはずです。だからイエス様が来ると、私たちはすぐにイエス様の声に応えるべきです。

でも、私が準備していないときが多いと認めなくてはなりません。私はこの世のものにのめりこむときもあるから。だから、イエス様は私たちに警告します。

ところが、もし、そのしもべが、「主人の帰りはまだだ」と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。(45-46)

私たちは「イエス様はいつでも、戻るかもしれない」とよく言うけど、その言葉を本当に信じるでしょうか。私たちは「イエス様は今日戻らない」と言わないかもしれないけど、どれだけ私たちはイエス様が決して戻らないかのように生きるでしょうか。

だから、私たちは兄弟たちと姉妹たちを悪口を言ったり、傷つけたりするでしょうか。もしくは、私たちはこの世のものにのめりこむかもしれません。そうすると、私たちは裁かれます。

イエス様はこう言いました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(47-48)

要するに、あなたがもっと知っていれば知っているほど、あなたは責任を持ちます。

でも、「私が知らなかった」と言っても、それは言い訳ではありません。あなたは知っているべきでしたから。あなたは積極的に神様の御心を求めるべきでした。そうしないと、あなたは罰せられます。

それは本当にネガティブな警告ですけど、イエス様はポジティブなことをも言いました。

では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。(42-44)

もし私たちが忠実に神様に仕えるなら、イエス様が帰ってくると私たちは報いをもらいます。

あなたはどうですか。神様はあなたにいろんな責任を負わせたけれど、あなたはその仕事をちゃんとしているでしょうか。あなたは忠実に仕えているでしょうか。イエス様の帰りのために準備できているでしょうか。

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ルカ12:13-34--人生の意義

この人生の意義は何でしょうか。

多くの人々はその答えを知らないので、とても迷っています。彼らは、お金や持ち物を通して、人生の意義を見つけられると思うので、それらのものを追い求めます。

だから、この話では、その人はイエス様に家族の遺産を分けるように願いました。

でも、イエス様は彼にこう言いました。

いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない。(15)

そして、イエス様は周りの人々にこう言いました。

だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(22-23)

どうしてイエス様はそのことを言ったでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、食べ物や服や、お金で買えるものよりも、私たちの命は大事なのです。なぜなら、それらのものは一時的なものだから。一瞬で、そのものがあり、一瞬で、なくなります。この世のものを買うと、一時的にあなたのお腹や心を満たすかもしれないけど、最終的にあなたはもっともっと欲しがるようになります。ようするに、この世のものによって、あなたは決して満足できないことです。逆に、あなたはもっと飢えるようになります。

二つ目は、神様はあなたのことを本当に愛しているのです。神様はあなたのニーズをよくご存知だし、あなたが神様を他の何よりも求めるなら、神様はそのニーズに備えてくださいます。

そうならば、私たちはほかのものを優先するべきじゃないでしょうか。

では、私たちは何を優先するべきでしょうか。それは、神様の国です。

神の国というのは何でしょうか。それは、人々です。イエス様は彼らのために死んでくださいました。神様は彼らとの関係を望みます。だから、私たちはその人々を優先するべきです。

もし相手がニーズがあれば、できるだけ私たちはそのニーズに備えようとするべきです。お金を愛するよりも彼らを愛するべきで、惜しげなく与えるべきです。なぜなら、神様は惜しげなく私たちにいろんなものを与えてくださったから。私たちがそのように与えると、「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げます。」(33)

でも彼らの物理的なニーズよりも、彼らの霊的なニーズを見て、イエス様の愛によって、彼らに触れるべきです。

神様は私たちに素晴らしい国を与えてくださいました。私たちの罪が赦されるために、神様はイエス様を送ってくださいました。そして、神様は私たちを養子にしました。だから一時的なものを求めずに、時間を費やさないでください。むしろ、永遠のものを追い求めましょう。私たちを愛する神を追い求め、神の愛をもって、周りの人々に触れましょう。そうすれば、彼らも神様を知るようになるでしょう。

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ルカ12:13-21--私たちの時間が来るとき

私たちの命はもろいものです。一秒で、その命は取られてしまうかもしれません。交通事故や地震などが起これば、私たちは急に亡くなるかもしれません。

その日、私たちが神様に会うと、神様は私たちに何を言うでしょうか。

今日の個所では、ある人はイエス様に家族の遺産を分けるように頼みました。どうやら、そのお兄さんは遺産を公平に分けなかったから。

でも、たぶんイエス様の目にはもっと大きい問題があったのでしょう。つまり、その人はお金を愛しすぎたということです。もしかしたら、その人のお父さんが金持ちで、ずっとその遺産をもらう夢を見ていたのかもしれません。でも、そのお父さんが亡くなったとき、その人はちょっとしかもらわなかったので、その夢はつぶれました。

だから、彼はイエス様の助けを頼みました。

でも、イエス様はあっさり断りました。

いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。(14)

簡単に言うと、「絶対だめだよ。」ということです。

そして、イエス様は彼に警告しました。それ以前、イエス様は弟子たちに偽善に関して警告しました。でも、イエス様はその人の願いを聞いて、その人と弟子たちに貪欲に関して警告しました。

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(15)

イエス様はその人と弟子たちに何を言いたかったのでしょうか。私たちの人生では、この世のものが一番大切なものではないことです。楽な人生、また豪華なライフスタイルはそんなに大切ではありません。

そして、イエス様はたとえ話を話しました。その話では、金持ちがいました。彼はたくさんのお金をもって、豪華なライフスタイルがありました。

そして、ある年、彼の畑は豊作でした。だから、彼はどうしようかと思いました。

彼は貧しい人々に食べ物を与えることができたし、自分お金でたくさんの人を助けられたけど、そういうことをせずに自分自身のことだけを考えました。彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(18-19)

多くの人々はそんな夢を持っています。彼らは早く引退し、自分のために生きたいと思います。

「安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

でも神様はその人にこう言いました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(20)

そして、イエス様はその話をこのようにまとめました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(21)

では、私のもとの質問に戻りましょう。あなたが亡くなって、神様に会うと、神様はあなたに何を言うでしょうか。

神様は「愚か者。あなたの人生では無駄なものを追い求め、自分の人生を無駄にしてしまった。」と言うでしょうか。

もしくは、神様は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言うでしょうか(マタイ25:23)

神様、私が優先順位をちゃんと整理するように助けてください。私が何が大切かを覚えているように助けてください。私がお金や物を愛し過ぎないように助けてください。私が趣味に夢中になり過ぎないように助けてください。

むしろ私が時間を賢く使うように助けてください。また私のお金を賢く使うように助けてください。私がもう愚か物のように生きないように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ルカ12:1-8--隠れクリスチャン

私は子供のころに、「Undercover Christian」、つまり「隠れクリスチャン」というスキットを聞きました。そのスキットでは、レポーターが、あるクリスチャンをインタビューしたとき、そのクリスチャンはこう言いました。「私の信仰は個人的なものなのですので、周りの人々に私の信仰について話しません。」

でも、イエス様は隠れクリスチャンに別の名前を付けます。それは「偽善者です。」または、「役者です。」(実は、偽善者の元の意味は「役者」ということでした。)

その人はクリスチャンの世界で歩くとき、クリスチャンのように話すし、ふるまいます。でも、教会を出ると、彼らはイエス様を全然知らないようにふるまいます。

でも、この個所では、イエス様は「最終的にあなたの秘密はばれる」と警告します。

私はそのようなクリスチャンの話を聞きました。彼はイエス様を自分の主として受け入れたけど、その両親の反応を怖がりました。だから、仏壇で祈り続けたり、線香をあげ続けたりしました。彼は、「私は両親に愛を示したいから」と言いました。

でも、結局その秘密はばれました。その時、そのお父さんは激怒しました。「お前はクリスチャンなのに、仏教の儀式をし続けていたか?お前はどんなクリスチャンなの?」

彼は「両親に対する愛を示したい」と言っていたけど、結局自分のあかしを壊してしまいました。

イエス様はこう言いました。

だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(8-9)

では、私たちは、人の前でイエス様を知らないと言ったことがあるなら、救いをなくしたでしょうか。そうだとは限りません。ペテロは弱いときに、「イエス様を知らない」と三回言いました。

私も、中学生の時、また高校生の時、私の信仰を友達から隠しました。相手が「あなたはクリスチャンですか」と聞いても、私はその質問にあいまいに答えました。

でも、もし私たちはずっと人の前で、「イエス様を知らない」と言うなら、自分がクリスチャンであることを言えません。もし、あなたがクリスチャンなら、そのことをちゃんと言わなくてはなりません。

洗礼式の一つの理由は、「私はクリスチャンだ」ということを宣言することです。あなたは世界に自分の主を宣言します。もし、あなたが洗礼を受けることを拒むなら、あなたは本当にクリスチャンであることを言えるでしょうか。

私たちが隠れクリスチャンにならないように。私たちのために死んでくださり、よみがえられたイエス様を大胆に宣言しましょう。私たちを拒絶する人もいます。でも、私たちが見つけた喜びを見つける人もいます。

あなたはどうするでしょうか。

 

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ルカ12:4-7--恐れなさい。恐れるな。

この個所のイエス様の言葉は私の心を打ちます。

「恐れてはいけません。」

また、「恐れなさい。」

イエス様はこう言いました。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(4-5)

要するに、「人ではなく、神様を恐れなさい。」ということです。

人々はあなたの体を殺せるかもしれないけど、神様はあなたを地獄に投げ込む権威を持ちます。ほんの一瞬で、あなたの体は死ぬかもしれないけど、霊的な死は永遠のものです。

では、私たちは恐れて生きた方がいいでしょうか。神様は、私たちをじっと見て、私たちの失敗を待っているでしょうか。そして、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちを稲妻で打つでしょうか。神様は人々を地獄に投げ込むとき、喜んでいるでしょうか。そんなことではありません。

イエス様はこのことも言いました。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(6-7)

私たちが神様の性格を考えるとき、二つのことを覚えていなくてはなりません。それは、神様の聖さと神様の愛。その二つのコンセプトのバランスを保たなくてはいけません。

多くの人々は神様の愛に集中して、神様の聖さを忘れようとします。

でも、聖書では、人々が神様の栄光を見るとき、彼らは最初に神様の聖さに気づきます。そして、彼らは神様の聖さを見ると、自分の不潔さに気づきます。

その結果は?

恐れです。

なぜなら、彼らは神様からの罰に値することがわかるから。また、彼らは死ぬべきだとわかります。

でもその後、彼らは神様の愛を見ます。何回も、神様の最初の言葉は「恐れるな。」

この個所では、イエス様は私たちに同じことを教えています。

最初に、イエス様は「神様を恐れなくていけません」と言います。なぜなら、神様は聖なる方だから。そういうわけで、神様は罪を罰しなくてはなりません。

もしこの世に住んでいる間に、あなたが神様の前に来ないで、その罪が赦されないなら、その罪は地獄で罰されます。

でも、それは神様の望みではありません。神様は私たちを本当に愛しています。神様は私たちの最善を望みます。神様の目には、私たちは取るに足りない人ではありません。むしろ、神様は私たちの名前や、私たちの人生を事細かにご存知です。

神様は、あなたの罪のために死ぬためにイエス様をこの世に送ったほど、あなたを愛しました。もしあなただけが罪を犯していても、神様はイエス様を送ったでしょう。

私たちがそのことを実感すると、私たちの最初の恐れは、神様に対する圧倒的な愛に変わります。私たちはもう神様やほかのものを恐れる必要がありません。もし私たちが神様に信頼するなら、この世で何が起こっても、私たちは天国に未来があるから。

だからヨハネの言葉を覚えていましょう。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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ルカ12:1-3--偽善

時々、イエス様は一つのたとえを用いて、いろんな応用を教えました。この個所では、私たちは一つの例を見ます。

以前、イエス様は弟子たちを宣教旅行に送ったとき、こう言いました。

おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。(マタイ10:26)

つまり、イエス様は弟子たちにいろんなことを教えましたけど、ほかの人々はその教えをまだ聞いていなかったということです。でも、弟子たちが福音を伝えたとき、彼らはイエス様のすべての教えを人々に教えなくてはなりませんでした。また、イエス様が彼らにささやいたことを彼らは屋上で叫ばなくてはなりませんでした。(マタイ10:27)

この個所では、イエス様は大体同じたとえを用いたけど、全然違う応用を教えました。イエス様は弟子たちにこう言ました。

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(ルカ12:1)

そして、イエス様はこう言いました。「あなたは、心の中でいろんなものを隠すかもしれないけど、結局そのものは現れます。あなたが暗闇で言ったことは、明るみで聞かれます。またあなたがささやいた秘密は屋根から叫ばれます。」

要するに、あなたは良いクリスチャンのふりをするかもしれません。でもあなたが偽善者なら、また、あなたの行動があなたの言葉に反対するなら、あなたの偽善は結局ばれます。この世ではばれないかもしれないけど、天国ではばれてしまいます。

だから私たちが偽善者にならないように。私たちは神様と人々の前に正直な人生を生きましょう。そうしないと、私たちに関する真実は結局ばれます。

 

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ルカ11:47-57--私たちの行動は私たちの言葉に反対するとき

律法学者たちとパリサイ人たちは旧約聖書の預言者たちをよく褒めました。彼らは預言者たちのためにお墓を立て、こう言いました。「この預言者たちは本当に偉大だった。もし私が自分の先祖だったら、その預言者たちを決して迫害していなかっただろう。」

でも、もう一人の預言者が来ました。でも、ただの預言者ではなく、神様が約束した待ちに待ったメシアがやっと来ました。でも、パリサイ人たちと律法学者たちはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様とその弟子たちを殺そうと思いました。

その行動は彼らの心を現しました。もし彼らは本当に預言者たちを信じて、尊敬していたなら、イエス様をも信じて、尊敬したでしょう。でも逆に、彼らはイエス様に激しく反対しました。

でも、彼らがイエス様に反対したとき、知識のカギを持ち去りました。彼らは神の国に歓迎されると思ったけど、イエス様は彼らが拒絶されると言いました。

もっと大変なことは、彼らはイエス様を拒絶したので、ほかのユダヤ人たちも天国に入らなかったことです。なぜなら、ユダヤ人たちは、パリサイ人たちと律法学者が真理を知っていると考えて、彼らの模範に従ったから。

あなたはどうですか。あなたは、神様に従うと主張するでしょうか。あなたの行動はあなたの言葉を証明するでしょうか。もしかしたら、あなたの行動は、あなたがキリストを重んじないことを証明するでしょうか。むしろ、あなたの行動はあなたがキリストを拒絶することを証明するでしょうか。

正しいことを言うだけでは足りないです。あなたの行動は言葉と一致しなければなりません。

あなたの心には、何が入っているでしょうか。

 

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ルカ11:45-46--律法主義という問題

イエス様はパリサイ人たちを批判した後、律法学者たちをも批判し始めました。

イエス様はこう言いました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(46)

この個所では、私たちはどうして律法主義がそんなに悪いか学びます。

一つ目は、律法主義は人々に負いきれない重荷を負わせるし、その重荷が取り去られる希望が全然ないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法にいろんな余計なルールを加えたことでした。

例えば、律法によれば、安息日に仕事することは禁止されていました。でも、その律法学者は「仕事」を非常に細かく定義していました。

例えば、安息日に女性たちはアクセサリーを付けてはだめでした。なぜなら、もし彼女らがそのアクセサリーを外そうと思ったら、自分の手に持たなくてはなりません。でもそうすれば、彼女らは「重荷」を持っているので、安息日の律法を破ることになってしまいます。

また、安息日にどこまで歩いたか気を付けなくてはなりませんでした。もし、歩きすぎると(2.5キロメートルぐらい)、安息日の律法を破ったことになりました。

こんな余計なルールには何百もありました。そして、あなたがそのルールを破ると、律法学者たちに責められてしまうでしょう。

律法学者のルールはもうなくなったけど、どれだけクリスチャンたちはほかのクリスチャンに余計なルールを負わせるでしょうか。聖書にはそのルールが書かれていないけど、彼らはそのルールを守らなくてはならないと思うから。

例えば、彼らは、「酔っぱらってはならない」ではなく、「全然お酒を飲むな」と言います。

または、「映画を見るな。」

または、「踊るな。」

そんなルールは、もう一つの問題に至ります。それは相手を裁く態度です。

つまり、「あなたはそのルールを守らないので、良いクリスチャンじゃない。」という態度です。

さらに、彼らは「私はルールを守る」と思うので、プライドを感じます。でも、ルールを守っても、パリサイ人のように彼らは公義と神への愛と憐れみを忘れます。彼らは自分が正しい人だと思うけど、神様の目には、彼らはパリサイ人と律法学者たちのようです。

でも、律法主義の最も悪いことは、律法は正しいことと悪いことを教えるけど、正しいことをする力を与えられないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くだけです。だから、人々は何回も失敗すると、絶望して諦めます。

イエス様の時代、多くの人々はそう感じていました。彼らは律法学者のルールを守ろうと思ったけど、できませんでした。でも、彼らが律法学者に「どうしたらいいでしょうか」と聞いたら、「もっと頑張りなさい」と言われました。

つまり、律法学者たちは彼らを全然助けなかったのです。

あなたが余計なルールを捨てて、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力がありません。最終的に、あなたは、パウロのようにこう叫びます。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

でも、イエス様の時代の人々と違って、パウロは希望を持っていました。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)

だから律法主義を捨てましょう。プライドと絶望を捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。そうすれば、私たちは赦されるし、神様を喜ばせる力を受けます。

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ルカ11:37-44--心にあるもの

この個所では、イエス様はパリサイ人を非常に批判します。なぜなら、彼らの心は汚かったから。

パリサイ人のうわべはとてもきれいでした。彼らは律法を事細かに守りました。でも実は、彼らは偽善者でした。

たとえば、彼らの心は貪欲に満ちていました。彼らは十一献金をささげたけど、貧乏な人を見ると、その人を助けずに通り過ぎました。彼らは、人よりもお金を愛したから。

また、彼らは、神様の愛と知恵を持たずに、周りの人々をすぐに裁きました。だから、イエス様が安息日に人々を癒した時、彼らはイエス様だけではなく、癒された人々をも批判しました。(ヨハネ9章)

彼らは全く預言者ミカの言葉を忘れていました。

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:6-8)

だから、イエス様は彼らを批判しました。

さらに、イエス様は彼らのプライドを批判しました。彼らがリーダーになろうと思った理由は、人々に仕えることではなく、尊敬されるためです。だから、イエス様はこう言いました。

おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(44)

どうしてイエス様はそう言ったのでしょうか。神様の律法によれば、墓が不潔なものだったから。その墓に触れると、あなた自身も儀式的に不潔になりました。

だからイエス様が意味したものは、「あなたたちは不潔だし、あなたが接する人も不潔になります。それに、彼らがあなたが聖いと思うので、あなたに接するとき、彼らは不潔になったことに全然気づきません。」ということです。

厳しい言葉ですね。

でも、真理はしばしば厳しいものです。そして、パリサイ人はその真理がわからなくてはいけませんでした。彼らは周りの人々をだましたかもしれないけど、神様をだましていませんでした。悔い改めないと、彼らは裁かれたでしょう。残念なことだけど、多くのパリサイ人たちは決して悔い改めませんでした。

あなたはどうですか。あなたのうわべはきれいでも、心は汚いでしょうか。

宗教的なことをしても全く足りません。教会に行くだけでは十分ではありません。十一献金をささげることも十分ではありません。心の中で、プライドや貪欲を持てば、その行動は意味がないのです。もし心の中で、愛がないなら、あなたの良い行動は意味がないのです。

あなたは、神様に対する愛が必要です。また周りの人々に対する愛が必要です。

神様はあなたの心を見抜きます。神様は、自分の心に叶う者を探しています。

あなたの心に、何が入っているでしょうか。

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ルカ10:38-42--イエス様が望むこと

私はこの話が大好きです。なぜなら、この教えはとても大事だけど、忘れやすいから。

マルタは、イエス様を自分の家に誘ったけど、イエス様が来ても、マルタはイエス様と全然時間を過ごせませんでした。どうしてでしょうか。皮肉なことだけど、彼女はイエス様に仕えようと思っていたから。

しかしマルタの妹マリヤは手伝わずに、イエス様の足元に座って、聞きました。だから、マルタはとてもイライラさせられました。

何分(何時間?)経ったか分からないけど、結局イエス様がまだ教えている間に、マルタは口を挟んで、大きな声で言いました。

主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。(40)

多分、皆がそれを聞いたので、気まずい沈黙がありました。

もしかしたら、マリヤは頭を下げて、顔が赤くなったかもしれません。多分ほかのお客さんたちは、まずマルタを見て、そして、マリヤを見て、そして最後にイエス様に向かって、その反応を待ったでしょう。

多分ある人は、イエス様がマリヤを叱責すると思ったでしょう。なぜなら、彼女はマルタを手伝うはずだったから。それに、その時代、女性たちはイエス様のような先生から学ぶことはありませんでした。(でも、イエス様はそんなことを何度も許しました。)

もしかしたら、ある人は、イエス様がマルタを叱責すると思ったかもしれません。なぜなら、その時代、女性たちは偉い先生が話すとき、口を挟んではいけなかったから。

でも、イエス様は、たぶん愛と情けを持って、マルタにこう言いました。

マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。(41-42)

「肝心なことは一つだけです。」という表現はとても興味深いです。誰がその一つのことが必要だったでしょうか。イエス様でしょうか。マルタでしょうか。

たぶんイエス様とマルタの二人とも、そのことが必要だったでしょう。

マルタはイエス様との時間が必要でした。ちょっと休憩が必要でした。イエス様の言葉を聞く時間が必要でした。さらに、どれぐらいイエス様がマルタを愛していたかを知る必要がありました。

マリヤは、それを選んで、イエス様は喜んでそのことをマリヤにあげました。

その反面、イエス様はマルタが準備していた料理を必要としていませんでした。ぴかぴかな家が要りませんでした。実は、イエス様はマルタとの時間が要りませんでした。でも、他のどんなことよりも、イエス様はマルタとの時間を望みました。マルタはイエス様に仕えて、忙し過ぎてしまったので、イエス様と全然時間を過ごしませんでした。多分挨拶した後、全然イエス様と話さなかったでしょう。

あなたはどうですか。あなたの心の戸をイエス様に開けたでしょうか。イエス様があなたの心の居間にいるままで、あなたは忙しくて、別のことをしていますか。

もしかして、毎日あなたはイエス様と時間を過ごしているでしょうか。イエス様から学んでいるでしょうか。イエス様と話しているでしょうか。

他のどんなことよりも、イエス様はそう望みます。あなたと親しい関係があるようにイエス様は十字架で死にました。

「My heart, Christ’s home」(私の心、イエス様の住まい)という小さいフィクションの本があります。その本で、イエス様はある人にこう言いました。

「あなたの問題はこうです。あなたは、聖書を読む時間、また私に祈る時間を自分の霊的な成長の修行として考えました。でも、私はこの時間が大好きです。私があなたのことを愛していることを忘れないでください。私は高い代価を払って、あなたを贖いました。あなたとの時間を貴いものと見なします。だから、私のためにこの時間を忘れないでください。あなたは私との時間がどうでもいいと思うかもしれないけど、私はあなたとの時間を望みます。」

イエス様の望みを覚えていましょう。

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ルカ10:25-37--知識をもって、行動すること

私はこの個所を読むとき、もう一つの考えが思い浮かびました。

この話では、神様の言葉をよく知っている人が三人いました。もちろん、律法専門家は実在した人で、あと二人はフィクションの登場人物でした(祭司とレビ人)。でも、そのフィクションの登場人物には律法の専門家と同じ問題がありました。

その三人は神様の律法をよく知っていて、イエス様が律法に関する質問を訊くと、彼らはすぐに答えられたでしょう。でも、彼らの心の中で、その律法の意味が本当には分かっていませんでした。

だから、たとえ話では、祭司とレビ人はその怪我した人を助けませんでした。彼らは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、神を愛することと、隣人を愛することが本当にわかりませんでした。むしろ、彼らは自分の愛の欠如のために言い訳をしました。

律法専門家はそうしました。律法を読んで、自分の弱さを見た時、彼は、「イエス様、どうしましょうか。私は神様の基準を満たすことができません」と言いませんでした。むしろ、彼は自分の正しさを示そうとしました。イエス様は彼の心の状態を指そうとしたけど、律法専門家は律法の意味を議論したかったのです。

「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

だから、イエス様はたとえ話を伝えて、律法専門家に自分の質問に答えさせました。そして、イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい。」と言いました。

そのあと、律法専門家はどうしたのでしょうか。私たちはわかりません。

多分ルカは、私たちが自分の心を探るように望みました。私たちはイエス様の言葉を聞いて、どうするでしょうか。

聖書の知識を持つだけでは足りないです。聖書の言葉を引用するだけでは足りないです。あなたはその言葉に従うべきです。その言葉はあなたの心に入って、あなたを変えなくてはいけません。

もう一つのことを考えましょう。

そのたとえ話では、サマリヤ人は祭司とレビ人の行動を見たでしょうか。彼らを見ていたら、どう思ったでしょうか。

周りの人々が私たちを見ると、何を見るでしょうか。私たちを見ると、彼らはこう言うでしょうか。「どうしてその人は、愛にそんなに満ちているでしょうか。どうして、その人はそんなに憐れみ深いでしょうか。私はそのようになりたい。」

もしかしたら、彼らはこう言うでしょうか。「それはクリスチャンでしょうか。私の方がいい人だけど。」

私たちが知識だけを持たないように。むしろ、神様の言葉が私の心に入らせて、その言葉に従いましょう。

日曜日に教会に行って、宗教的なことをするだけではなく、憐れみ深く、恵み深い人生を送りましょう。そうするなら、私たちを見るとき、周りの人々はイエス様をも見、知りたいようになります。

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ルカ10:25-37--行ないと真実をもって愛すること

私がこの話を読むとき、ヨハネの言葉が思い浮かびます。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3:18)

このたとえ話では、私たちがその意味を見ることができると思います。このサマリヤ人はどのように行いと真実を持って愛を示したでしょうか。

一つ目は、彼が自分の文化の偏見を捨てたことです。多分、ユダヤ人たちはその話を聞いたとき、とてもびっくりしました。なぜなら、ユダヤ人の泥棒は旅行者を襲ったし、ユダヤ人の祭司とレビ人(神殿で働く人)はその人を助けなかったから。でも、そのあと、サマリヤ人が来ました。サマリヤ人たちが混血の人だったし(ユダヤ人と異邦人)、本当の神様の礼拝と偽物神々の礼拝を混ぜたので、ユダヤ人たちはサマリヤ人たちを軽蔑しました。だから、サマリヤ人たちもユダヤ人のことを憎みました。

でも、この話では、サマリヤ人は怪我したユダヤ人を見た時、その人をかわいそうに思いました。

しかも、そのサマリヤ人はかわいそうに思うだけではなく、そのユダヤ人を助けました。もちろん、怪我した人をかわいそうに思うことは良いことだけど、助けないと意味がないです。

そのサマリヤ人は何をしたでしょうか。

彼はユダヤ人に近寄りました。(34a)

彼はその人の痛みを和らげました。(34b)

彼はせっかくその人を宿屋に連れて行き、介抱しました。(34c)

さらに、自分のお金を使って、その人を世話にしました。(35)

そして、イエス様が律法専門家に言ったように、イエス様は私たちにもこう言います。

「あなたも行って同じようにしなさい。周りの人々を見て、彼らが必要があれば、その人を助けなさい。」

でも、言い訳するのはとても簡単です。

「私は忙しすぎる。」

「助けたいけど、何もできない。」

「より大切なことをしなくてはならない。」

多分、祭司とレビ人はそのように思いました。もしかしたら、彼らは、その人がもう死んだと思ったので、その死体に触ると、彼らが儀式的に不潔になると思ったかもしれません。(神様の律法によれば、儀式的に不潔な人は神殿に入ることができませんでした。)

だから、彼らは自分の義務をその人に対する愛よりも優先しました。

もしかしたら、彼らはこう思ったかもしれません。「私はお医者じゃない。私の責任じゃない。何もできないよ。」

どう思っても、彼らは神様の言葉を忘れました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。(ホセア書6:6)

あなたはどうですか。周りの人々のニーズを見るとき、その人を無視するでしょうか。もしかしたら、あなたは祈るけど、助けないでしょうか。ただ言い訳するでしょうか。

憐れみ深い心を持って、生きましょう。なぜなら、神様はそんな人を望みます。言葉や口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛しましょう。

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ルカ10:1-24--祈りなさい。行きなさい。

この個所では、イエス様は12人の弟子たちだけではなく、もう72人を送りました。そして、彼らに前と同じ指示を与えてくださいました。

でも、2-3節は私の心を打ちます。

イエス様は、以前言った言葉を繰り返します。

実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(2)

要するに、多くの人々の心は福音のためにもう準備ができているのです。もし私たちが彼らに福音を伝えると、彼らはすぐにそのメッセージを受け入れるでしょう。だから、イエス様はこう言いました。「働き手のために祈りなさい。神様が彼らを送るように祈りなさい。」

でも、それだけではなく、イエス様は命令します。「行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わす。。。」(3)

イエス様は私たちに同じことを言います。もちろん、イエス様は私たちが働き手のために祈ることを望みます。でも、イエス様はあなたをも送りたいと思います。あなたがその召しを聞き、周りの人々に触れるように望みます。

時々、私たちは拒絶されることを恐れます。でも、イエス様は私たちにこう言います。

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。(16)

ようするに、人々があなたを拒絶すると、実は、彼らはイエス様を拒絶しています。だから失望しないでください。なぜなら、かならず福音を受け入れて、救われる人もいるからです。

だから、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。(23-24)

長い間、モーセや、ダビデや、ダニエルなどは、神様の国が力を持って、到来するように願いました。でも、キリストが来たので、私たちはその国が人々の人生に来ることを見ることができます。でも、私たちが行かないと、私たちはその力を見ないでしょう。しかし、私たちが行くと、私たちは神の国が来て、力をもって人々の人生を変えることを見ます。

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ヨハネ10:1-21--良い羊飼い

この個所では、私たちとイエス様との関係の素晴らしい描写を見ます。イエス様は羊飼いと羊の描写を用います。

門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(3-4)

イエス様の言葉から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

簡単に言うと、イエス様は私たちと本当に個人的な関係があります。私は高校で働いて、一つの授業で40人が入っているし、多くの場合、一週間に一回だけその生徒たちを教えます。だから、すべての生徒たちの名前を覚えるのはとても難しいです。だから、多くの先生たちには座席表があります。

でも、羊を見分けることを想像してください。多くの人々にとって、それは無理でしょう。すべての羊は大体同じに見えるから。でも、羊飼いは一匹一匹の名前を知っています。

この世には、何億人がいるのに、イエス様が私の名前をご存知であることが、想像することが難しいかもしれません。でも、それだけではなく、イエス様は毎日私を導いて、世話してくださいます。イエス様は私の先に行って、私を守ります。さらに、イエス様は私のために自分の命を捨ててくださいました。

イエス様はこう言いました。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(11)

羊飼いと羊の価値を比べてください。羊飼いの価値は断然高いです。

そして、宇宙を造った神とあなたの価値を比べてください。どう思いますか。

でも、イエス様はあなたを愛したので、天国を去って、人間になり、あなたの罪のために十字架で苦しんで死にました。

あなたは、それがありえないと思うかもしれません。でも、それは本当の話です。それは私たちに対するイエス様の愛です。

イエス様、あなたが私の羊飼いであることを感謝します。この世には何億人がいるのに、あなたは私の名前をご存知です。私だけが罪を犯していても、あなたは私のために十字架で死んだでしょう。あなたの愛が本当に驚くべきの物です。私がその愛を本当に実感できるように助けてください。そして、私を通して、あなたの愛が流れ、周りの人々に触れるように。彼らも、あなたを知って、あなたの羊になるように。アーメン。

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ヨハネ10:1-10--門

多くの人々はクリスチャンたちに、「どうしてあなたは、神様への道が一つしかないと信じるでしょうか。」と聞きます。

簡単に言うと、イエス様がそう主張したから。

イエス様はこう教えました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。(1)

多くの人々はどうやって天国に行けるか教えようとします。パリサイ人たちは、神様の律法をちゃんと守らなくてはならないし、ユダヤ人たちの先祖のルールと伝統も堅く守らなくてはならないと教えました。

今なお、多くの人々は自分の努力で天国に入ろうと思います。

でも、イエス様によれば、天国の門を入らず、ほかの方法で入ろうと思うなら、その人は強盗です。自分の努力では、彼ら自身は天国に入らないし、あなたが彼らの教えに従うなら、彼らはあなたの魂を盗みます。つまり、あなたは裁かれて、地獄に行きます。

イエス様はこう言いました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(10a)

この個所では、イエス様はサタンについて話しています。でも、サタンは人々を用いて、私たちを永遠の破壊に導きます。

その人はあえてあなたの魂を滅ぼそうと思わないかもしません。実は、多くの場合、彼らの意図は良いかもしれません。でも彼らはサタンに騙されたので、私たちが彼らに従うなら、私たちも落とし穴に落ちます。

では、天国に至る門というのは何ですか。イエス様はこう言いました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(9)

この描写は本当に興味深いです。羊飼いは羊をちょっと遠いところに連れて行くとき、彼らdoor-of-the-sheepfoldが休むと、羊飼いはその羊を一時的な羊小屋に入れました。その羊小屋が一つの入り口しかなかったので、羊飼いは寝るときに、その入り口に休みました。彼は門になりました。

イエス様が言ったのは、もしあなたが天国に入りたいなら、また、祝福される人生を望むなら、イエス様に従わなくてはならないということです。違うことを教える人はあなたを破壊に導きます。

イエス様は、こう言いました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)

あなたは豊かな人生を望むでしょうか。一つの道しかありません。一つの門しかありません。あなたはその門に入るでしょうか。

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ヨハネ9:39-42--もう学ぶ必要がないを思うと

この個所では、強烈な皮肉があります。

生まれつきの盲人はイエス様をキリストとして認識したので、イエス様を拝みました。

でも一生を通じて見える人たちはイエス様を見ても、イエス様がキリストであることを認めませんでした。

さらに、彼らはイエス様の奇跡を見たし、彼らがイエス様と論じようと思ったとき、彼らはいつも負けたのに、イエス様を信じませんでした。

どうして彼らは真理を見ることができなかったでしょうか。なぜなら、彼らは真理をもう知っていると思っていたから。

彼らは律法と預言者の書をよく知っていました。彼らは若い頃から、その知識を鼻にかけました。だから、イエス様が来て、彼らの間違った考え方を暴露した時、彼らはその間違った考え方を手放すことができませんでした。自分が間違えていることと認めることができませんでした。

イエス様はこう言いました。

わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。(39)

イエス様が意味したものは何ですか。イエス様に会うと、人々は分かれ目に立ちます。もし彼らがへりくだり、イエス様を受け入れると、彼らの霊的な目が開いて、彼らは救われます。

でも、もし彼らが自分のプライドを手放さないで、もう真理を知っていると思うなら、彼らはイエス様に関する真理を見ることができません。なぜなら、彼らはその真理に目をつぶるから。

パリサイ人たちはそうしました。彼らはイエス様にこう訊きました。

私たちも盲目なのですか。(40)

現代でも、多くの人々はそう訊きます。「私が盲目だって?私にはいい学歴がある。私には、いろんな経験がある。私はもうこの世のことを知っている。」

でも、イエス様は答えます。

もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。(41)

ようするに、「はい、あなたは盲目ですよ。もし、あなたが謙遜で、助けを求め、自分の目が見えないと認めると、神様はあなたの罪を赦してくださるでしょう。でも、あなたがもう真理を知っていると思って、あなたのプライドのため、私の真理を拒絶するので、あなたの罪は残るのです。」ということです。

あなたはどうですか。もう学ぶ必要がないと思うでしょうか。もしかしたら、あなたはへりくだり、イエス様の真理を受けるでしょうか。イエス様自身が真理であることを受け入れるでしょうか。

 

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ヨハネ9章ーー救い

イエス様が生まれつきの盲人を癒した時、ユダヤ人たちは驚きました。でも、この話を通して、私たちはもう一つのことを見ることができます。それは美しい救いの描写です。

この話では、その人は生まれてから、目が不自由でした。そのように、私たちが生まれてから、私たちは霊的に盲目な人々だったし、霊的に死んでいました。

そして、イエス様は私たちを見つけました。この話では、盲人はイエス様を求めていませんでした。イエス様はその人を見つけて、触れました。そのように、私たちが神様を求めていなかったのに、神様は私たちを見つけて、触れました。

そして、イエス様はその人に、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言いました。そのように、神様は霊的なバプテスマを通して、私たちの罪を清めました。また、私たちの洗礼式では、私たちは周りの人々に神様が私たちのために何をしてくださったかを宣言します。

その人の目が癒されたのは、本当に劇的な変化でした。だから、周りの人々は彼のことをほとんど認識できませんでした。彼らはこう言いました。

これはすわって物ごいをしていた人ではないか。(8)

ある人は、「これはその人だ」と言いました。でも、ほかの人は、「そうじゃない。ただその人に似ているだけだ」と言いました。(9)

でも、その人は言い張りました。「私がその人です。」

時々、私たちがクリスチャンになると、周りの人々がユダヤ人たちのように反応します。私たちが劇的な変化を経験するので、周りの人々は私たちを見て、びっくりします。「あなたは全然違う人みたいです。どうして。」

その時、私たちには、彼らに神様が私たちのために何をしてくださったかを言う機会があります。

でも、時間が経てば経つほど、私たちはイエス様のことをもっとわかるようになります。この話で、癒された人にとっては、いろんな段階がありました。

「彼はイエスという方です。」

そして、「あの方は預言者です。」

そして、最後に、「あなたは人の子(つまり、メシア、王、救い主)です。」

私たちは自分のあかしを言うかもしれないし、相手が私たちが変わったことを否定できないかもしれません。それでも、彼らはキリストだけではなく、私たちをも拒絶するかもしれません。

この話では、癒された人はそう経験しました。パリサイ人たちは、その人にイエス様が罪びとであることを説得しようとしました。でも、その人が彼らの主張を否定したら、彼らはその人を拒絶しました。

それでも、その人の信仰は揺れませんでした。イエス様はもう一度彼を見つけた時、その人はひれ伏して、イエス様を拝みました。なぜなら、彼は新しい命を受けていたから。

私はその人のように反応しましょう。神様が私たちのためにしてくださったことを感謝しましょう。そして、大胆に周りの人々に私たちのあかしを伝えましょう。私たちが反対されると、勇気を持って、恐れに負けないように。そして、毎日私たちの救い主を求め、礼拝しましょう。

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ヨハネ9:1-5--どうして、私にそんなことがおこっただろうか

時々、私たちに悪いことが起こって、私たちは「どうして?神様は私を罰しているのだろうか」と訊きます。

実は、時々私たちの罪のため、神様は私たちが苦しむことを許します。でも、多くの場合、神様は積極的に私たちを罰していません。むしろ、私たちは自分の罪の自然の結果を受けます。

あなたがクリスチャンで、神様はあなたを赦してくださったかもしれないけど、この世にあなたは自分の罪の結果を避けられるとは限りません。多くの場合、私たちの罪のゆえ、悪いことが起こります。そして、神様がその罪の結果から私たちを守らないなら、私たちは神様を責めることができません。なぜなら、その苦しみによって、私たちは罪の悪さがわかるようになります。それは、私たちが聖くなる過程の部分です。その火によって、神様は私たちを清めてくださいます。

でも、私たちが罪を犯さなくても、私たちに悪いことが起こるときもあります。

今日の個所では、イエス様とその弟子たちは、生まれつきの盲人を見ました。そして、弟子たちはイエス様にこう訊きました。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(2)

その時代、多くの人々はこう思いました。「あなたの体が不自由なら、それはあなたのせいです。神様はあなたの罪のために罰しています。」

でも、その人は生まれつきの盲人でした。だから、弟子たちは混乱しました。この人は、ご両親の罪のために盲人になったでしょうか。もしかしたら、子宮の中で、その人はなにか罪を犯したでしょうか。

でもイエス様はこう答えました。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3)

イエス様が意味したものは何でしたか。時々、私たちの苦しみは私たちの罪のためではありません。むしろ、神様は私たちを通して、素晴らしいことをしたいと思うのです。

アメリカでは、ジョニー・エリクソン・タダという人がいます。彼女は十代の時に、ダイビングの事故で、四肢麻痺の人になりました。たくさんの人々は彼女のために祈ったけど、神様は彼女を癒してくださいませんでした。でも彼女を通して、神様はたくさんの人々に触れました。その事故が起こらなかったなら、ジョニーはそんな影響力がなかったでしょう。

神様は彼女を罰していませんでした。でも、彼女を通して、神様のわざは現れました。

イエス様はこう言いました。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(5)

イエス様は天国に戻ったけど、イエス様は神様の栄光を現すために私たちの人生を照らします。そして、私たちを通して、イエス様は輝いて、周りの人々に触れます。

だから、あなたが苦しんでいるなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、こう祈ってください。「神様、私を照らしてください。また私を通して、輝いてください。」

そうすれば、あなたの人生に神様の栄光が輝きます。

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ヨハネ8:37-47--あなたは誰の子でしょうか。

この個所では、ユダヤ人たちとイエス様は痛烈な会話をしました。その会話では、一番大切な質問は、「あなたが誰の子でしょうか」ということでした。

イエス様がこの世に生きている間、ユダヤ人たちはイエス様の父親を疑ったでしょう。多分、彼らは「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」と言ったとき、「でも、イエスは不品行によって生まれた人だ」と内心、思っていたでしょう。

なぜなら、マリヤとヨセフが結婚する前に、マリヤが妊娠したから。もちろん、周りの人々は聖霊の力によって、マリヤが妊娠していたことを信じませんでした。だからイエス様の実のお父さんに関して、いろんな噂がありました。

でも、元の質問に戻りましょう。あなたは誰の子でしょうか。

イエス様は、本当の神の子の特質について教えました。つまり、彼らはアブラハムのようにふるまうことです。(39)

アブラハムはどのようにふるまったでしょうか。

1.アブラハムは、神様を完全に信じました。(創世記15:6)

2.アブラハムの信仰のゆえ、行動しました。だから、彼は自分の地元を去って、神様が約束した土地に行きました。それに、神様が「イサクをいけにえとしてささげなさい」と命令すると、アブラハムはその命令に従おうと思いました。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様はアブラハムを止めました。」

3.アブラハムは神様の言葉を受け入れました。神様が話したとき、アブラハムは聞きました。神様の子は真理の子です。つまり、彼らは真理を愛して、持ち続けることです。真理が自分にとって痛くても、彼らは自分の耳を閉じません。むしろ、彼らはその真理を聞き従うので、成長します。(8:44-47)

4.神様の子の最後の特質は、彼らがイエス様はを愛しているので、イエス様に従うことです。(42)

イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。だから、私たちがイエス様を愛することは当然のことです。

でもこの話では、ユダヤ人たちはその特質を持っていませんでした。だから、私たちは彼らの本当の父親がわかります。

あなたはどうですか。あなたは誰の子でしょうか。

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ヨハネ8:31-35--人々を開放する真理

時々、人々は「キリスト教のルール」を見て、束縛されるように感じます。だから彼らはこう思います。「私がそのルールに従うなら、私は人生を楽しめない。」

でもイエス様の言葉は私たちを束縛するためのものではなく、私たちを解放するためです。だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(31-32)

でも、それを聞いて、多くの現代の人たちはそのユダヤ人たちのように反応します。

私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。(33)

現代では、多くの人々はこう言います。「私は日本人です。(または、アメリカ人などです)。私は奴隷じゃない。私は好きなように生きられます。「あなたが自由になる」って、どういう意味でしょうか。」

でも、イエス様は私たちにこう言います。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(34-36)

多くの人々は、自分の良心から解放されて、罪を好きなだけおかせば、それは本当の自由だと思います。

でも事実は、最初は彼らが罪を犯すことを選んでも、最終的に彼らは罪の奴隷になることです。彼らはもうその罪を犯したくなくても、自分自身を止められません。ポルノの中毒とか、ギャンブル中毒とか、アルコール中毒とか、いろんな例があります。

でもそれだけではなく、多くの人々は苦々しい思いの奴隷です。

または、彼らが自分の悪い習慣の奴隷のゆえ、自分の結婚や人間関係を壊すけど、その習慣を捨てられません。

でも、私たちがイエス様に従うと、イエス様は私たちを解放してくださいます。私たちは自分の人生を滅ぼすものに鎖で縛られました。でも、イエス様はその鎖を壊して、より優れた道を示してくださいます。それだけではなく、その道を歩む力を与えてくださいます。

イエス様は「しなさい」だけを言いません。むしろ、イエス様はこう言います。「私の手を取ってください。一歩一歩、一緒に進みましょう。」

そして、私たちはちょっとずつ変わりつつあり、あっという間に、私たちは完全に解放されました。

あなたはどうですか。あなたはもうあきらめて、こう言っているでしょうか。「もう無理です。私はこの罪をやめられない。その罪が私たちの人間関係や私の人生を壊しているのに、やめられない。」

イエス様はあなたを解放できます。でも、あなたはイエス様の助けを頼まなくてはいけません。

「イエス様、あなたが私を愛して、私の最善をの望むことを信じます。だから、私はあなたの道を行きたいです。助けてください。」

そうすれば、あなたの人間関係や、あなたの人生は癒されます。そして、あなたは本当の自由を知ります。

 

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ヨハネ8:12-58--光と命を与える方

この世では、多くの人々は道に迷っています。つまり、彼らは、良い人生や良い結婚や、良い仕事や、何にも増して喜びと平和を求めているけど、なぜかそれらを見つけられません。アダムとエバがエデンから追い出されて以来、人々はそのように生きいていました。

そして、イエス様は来て、こう宣言しました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

要するに、「良い人生を求めているでしょうか。喜びと平和に満ちている人生を求めているでしょうか。どうやってそんな人生を得ることか分からないので、あなたは暗中模索しているでしょうか。私のところに来なさい。私はあなたに光を与えます。あなたはもう暗闇に躓きません。むしろあなたは、本当の命を見つけます。」

でも、パリサイ人たちと律法学者のように、多くの人々はイエス様の資格を疑います。イエス様はどなたでしょうか。どうしてイエス様が、そんなことを言う権利を持っているでしょうか。

もし、イエス様がただの人間なら、そんな権利を持っていないでしょう。なぜなら、人間の知識には限界があります。でも、イエス様は人間であるばかりではありません。イエス様は神です。

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。(ヨハネ8:56)

ユダヤ人たちは、それを聞いて驚きました。彼らはこう答えました。

あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。(57)

そして、イエス様はこう言いました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58)

イエス様が意味したものはなんですか。イエス様はユダヤ人に出エジプト記3章を示しました。神様が自分自身をモーセに現した時、モーセは神様の名前を訊きました。神様はこう答えました。

わたしは、「わたしはある」という者である。。。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。(出エジプト記3:14)

つまり、神様は永遠の方であることです。過去でも、今でも、未来でも、神様は変わりません。そして、神様以外に、ほかの神がおられません。

新改訳では、イエス様が何をしたか見えませんけど、原文では(また英語の翻訳では)私たちがはっきり見えるのは、イエス様が神様の名前を自分自身に当てはめたことです。イエス様は「私は永遠の神です」と言いました。

ユダヤ人たちはそれを聞いて、イエス様の言葉がよくわかりました。だから、彼らは石を取ってイエスに投げつけようとしました。なぜなら、彼らはイエス様の主張を信じなかったから。そして、ただの人間が「私は神だ」と言うなら、それは死に値する罪でした。

あなたはどうですか。イエス様が誰だと思うでしょうか。イエス様はただの人間だったでしょうか。預言者だったでしょうか。もしかすると、素晴らしい先生だったでしょうか。もしそうなら、あなたは、イエス様の言葉をあっさりと拒絶することができます。

でも、イエス様が本当に神様なら、あなたはイエス様の言葉を重視しなくてはなりません。なぜなら、もしあなたの人生に光を見つけたいなら、イエス様だけを通して、あなたはその光を見つけることができるから。

さらに、イエス様を拒絶するなら、あなたは死だけを知ります。あなたの体も死ぬし、あなたは永遠に神様から離れます。その暗闇で、あなたには苦しみと悲しみだけが残ります。

イエス様はこう言いました。

もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネ8:24)

あなたはイエス様が神であることを信じるでしょうか。それだけではなく、あなたはイエス様に従っているでしょうか。

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ヨハネ8:1-11-わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。

私はこの話が大好きです。

イエス様は宮で教えています。たくさんの人はイエス様を取り巻き、聞いています。

でも、急にパリサイ人たちと律法学者たちイエス様のところに来ます。彼らはある女性を引っ張っていて、イエス様の足元に彼女を押します。たぶん彼女は泣いて、その目は恐れに満ちているでしょう。

そして、一人のパリサイ人がこう言いました。

先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。(4-5)

でも、イエス様が彼らの目を見た時、その心を見抜きました。彼らがその女性の罪を見てびっくりし、どうしたらいいか分からなかったわけではありませんでした。

むしろ、彼らはイエスに何か言わせて、わなに陥れようと思いました。

つまりイエス様が、「彼女を彼女に石を投げなさい」と言うと、彼らはイエス様の言葉をローマ人たちに伝えたでしょう。なぜなら、ローマ帝国の律法によって、ローマの政府だけが人を死刑にすることができたから。それに、イエス様が「罪人の友達」なのに、そんなことを言うと、たぶん罪人たちは彼を避けるでしょう。

でも、イエス様が「その女性を逃せ」と言うと、パリサイ人たちは「イエス様がモーセの律法に反対している」と言えました。だから、人々はイエス様の言葉をもう信じなくなったでしょう。

しかし、イエス様は彼らに答えずに、指で地面に書き始めました。つまり、イエス様は彼らを無視しました。

もちろん、彼らは腹が立って、イエス様に叫びました。「おい。私たちを無視するな。答えろ。この女性はひどい罪を犯した。どうすればいいか。」

ようやく、イエス様は立って、彼らに向かってこう言いました。「じゃあ、彼女に石を投げなさい。」

たぶん、それを聞いて、彼らは微笑み始めたけど、イエス様はつづけました。

あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(7)

そして、イエス様はもう一度地面に書き始めました。何を書いたでしょうか。私はわからないけど、時々「書く」という言葉には、「人の罪を書き留める」というニュアンスがあります。だからもしかしたら、イエス様は彼らの名前と罪を書き留めたかもしれません。

もし、誰かが皆の前にあなたの名前と隠した罪を書くと、あなたはどうするでしょうか。多分、パリサイ人たちと律法学者たちのように、あなたは逃げるでしょう。

だから結局、その女性だけがイエス様の前に残りました。だからイエス様は彼女に訊ねました。

婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。(10)

彼女が目を上げると、誰も見ませんでした。だから彼女は驚き、答えました。

{主よ。}だれもいません。(11)

多分、イエス様は微笑みました。そして、イエス様は言いました。

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11b)

時々、私たちは鏡をのぞくと、こう思います。「どうして神様は私のことを愛しているだろうか。どうして私を受け入れるだろうか。」

なぜなら、私たちは自分の罪を見るし、私たちの人生はめちゃくちゃですから。

でも、イエス様は私たちにこう言います。「わたしはあなたを罪に定めない。」

それだけではなく、イエス様はこう言います。「あなたの後悔に浸るな。いつも振り返るのをやめなさい。あなたはもう赦されたから。そして、あなたの人生を壊した罪を捨てなさい。行きなさい。私はあなたの人生のすべてを新しくします。私の死によって、あなたには新しい人生があります。その新しい人生を送りなさい。」

あなたの後悔で思い詰めているでしょうか。あなたに対する神様の愛と赦しを疑うでしょうか。この言葉を覚えていてください。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

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ヨハネ7:37-39--救いの水

仮庵の祭りの最後の日に、多分、イエス様は祭司たちがシロアムの池からの水を祭壇に注いだ事を見たでしょう。周りの人々もそれを見て、こう歌いました。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ12:3)

でも多分、そのすぐ後、彼らはほかの声を聞いたでしょう。イエス様はこう叫びました。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38)

それはさすがイエス様でした。ユダヤ人たちはずっとその祭りをお祝いして、祭司たちはずっと水を祭壇に注いだけど、イエス様は彼らにその儀式の本当の意味を説明しました。

その前、人々がその儀式を見た時、彼らはエジプトからの救いを思い出しました。また、彼らは、その先祖が砂漠を渡ったとき、神様が岩から水を二回備えてくださったことを思い出しました。だから、その儀式を通して、彼らは救いの喜びを思い出しました。その救いは、自分の努力によるものではなく、神様の備えによるものでした。

でも、彼らは一つのことを見逃していました。その岩を通して、神様は彼らにイエス様のことを描写しました。

パウロはこう書いた。

(イスラエル人の)みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(第一コリント10-3-4)

だからイエス様はユダヤ人たちにこう言っていました。「あなたたちは砂漠にいるイスラエル人のように渇いているでしょうか。あなたは霊的な砂漠にいるでしょうか。あなたは神様を慕うけど、なぜか神様を見つけることができないでしょうか。では、私のところに来なさい。私のことを信じなさい。(ヨハネ6:35を覚えているでしょうか)。そうすれば、あなたの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

イエス様が意味したものは何だったでしょうか。ヨハネはその意味を説明してくれます。

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(39)

つまり、私たちがイエス様のところに来て信じるなら、聖霊である神は私たちとともに住み、私たちのうちにおられることです。(ヨハネ14:17)

だから、私たちの霊的な渇きは満たされます。それに、私たちの人生から、聖霊様は流れて、私たちの周りの人々に触れます。だから、毎日、私たちが救いの泉から水を汲み、私たち自身は祝福されるし、周りの人々も祝福されます。

クリスチャンたちは、そのように生きるべきです。毎日、私たちは聖霊様から力を受けて、だんだんキリストと同じかたちに姿を変えられて行きます。(第二コリント3:18)

また、私たちは周りの人々に神様の救いを延べ伝えます。そうすれば、私たちは喜びを知ります。

聖霊様、今日私を満たしてください。救いの喜びで私を満たしてください。あなたの力で私を満たしてください。毎日私がイエス様のようになるように助けてください。私から流れて、周りの人々があなたを見て、あなたに触れられるように。また、あなたが私を救ったように、彼らをも救ってください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ7:24--聖書を正しく解約すること

前回の記事で、私たちはイエス様がユダヤ人に、外見によって裁くことをしないように警告することを見ました。一つの理由は、多くのユダヤ人たちが、イエス様があまり教育を受けていないと思ったので、イエス様の教えを拒絶したことです。

でも、ユダヤ人たちには、もう一つの問題がありました。彼らの聖書の解釈は間違っていました。彼らは、安息日に人々を癒すことが罪であると思いました。なぜなら、彼らは、人を癒すことが仕事だと思ったから。でも、彼らは注意深く聖書を読んでいたなら、安息日に良いことをするのはいつも正しいこととわかったでしょう。(マタイ12:12)

時々、クリスチャンたちは同じミスをします。彼らは聖書を読むけど、彼らの解釈は間違ってます。どうしてでしょうか。時々、彼らはその個所の前後を見逃します。もしかしたら、彼らは聖書のメッセージの全体がわからないかもしれません。

例えば、ヨハネ6章では、イエス様はこう言いました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ6:53)

その前後を読まないと、それはかなりグロテスクな言葉です。でも、その前後を読むと、私たちはイエス様の意味が分かります。イエス様はたとえを使っていました。つまり、もし私たちがイエス様のところに来て、イエス様を信じたら、私たちは永遠の命を得ることです。(その個所について、もっと知りたいなら、ここでクックしてください。)

私が大学生の時、私の友達はほかの個所を間違って解釈しました。マタイ26章では、(マルタの妹)マリヤはイエス様の頭にとても高価な香油を注いだし、イエス様の足に塗りました。だから、弟子たちはマリヤを批判して、こう言いました。

何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。(マタイ26:8-9)

でも、イエス様はこう言いました。

貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。(マタイ26:11)

私の友達はその言葉を読んだとき、「イエス様は本当に偉そうな態度を取っていたね。彼は自分が貧しい者よりも偉いと思ったから。」と言いました。

でも、私の友達は二つのことを見逃しました。一つ目は、ヨハネの福音書によれば、最初にマリヤを批判する人はユダだったことです。実は、ユダは貧しい者を愛していませんでした。むしろ、彼は貧しい者のための寄付されたお金をしばしば盗みました。(ヨハネ12:6)」

二つ目は、イエス様は申命記から引用しました。

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記15:11)

だから、イエス様の要点は、貧しい者が大切ではないというわけではありませんでした。イエス様が言っているのはこうです。「貧しいものがあなたたちと一緒にいつもいるので、私たちが今までしていたように、助け続けるべきです。でも、あなたたちが私に対する愛を示す機会はすぐになくなります。マリヤはその機会を利用しています。だから彼女を批判してないけません。」

だから、イエス様は偉そうな態度を取っていませんでした。イエス様はマリヤを偽善者の批判から守りました。

でも聖書の前後を読まないと、私たちはイエス様の言葉を誤解するかもしれません。

だから、聖書を読むとき、気を付けましょう。聖書の個所を読むとき、その前後をちゃんと読みましょう。また、気に入った個所だけを読むことではなく、聖書のすべてを読みましょう。そうすれば、私たちはちゃんと聖書を解釈できます。

 

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ヨハネ7:24--人々を正しく裁くこと

この個所では、イエス様は人々を裁くことについて話します。イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(24)

どうしてイエス様は彼らにそう言っていたでしょうか。二つの理由がありました。

今日、まず一つ目の理由を見てみたいと思います。

一つ目の理由は、ユダヤ人たちがイエス様に関してこう言ったことです。

この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。(7:15)

要するに、「彼はただの大工です。彼はれっきとした学者ではありません。どうして、私たちは彼に聞くべきでしょうか。」ということです。

だから、彼らはイエス様の権威を拒絶し、イエス様の言葉を受け入れませんでした。

そのように、わたしたちが相手の外見や、教育や、背景によって、牧師や、聖書を教える人を裁くことは簡単なことです。

その人がそんなに賢く見えず、ごく普通の人で、正式な聖書の教育を受けたことがないかもしれないけど、私たちがちゃんと聞けば、神様は彼らを通して私たちに話すことができます。

でも、私はただの牧師について話していません。もし、聖霊がその人の中に住んでいるなら、神様は小さい子供を通しても、話すことができます。でも、どのぐらい私たちは相手の見かけによって裁いてしまい、神様の言葉を見逃すでしょうか。

その反面、ある人はカリスマを持っているし、うまく話せるけど、私たちがその人の教えに従うと、私たちは間違っている道に行ってしまいます。

だから、外見によって(良くても、悪くても)人々を裁かないでください。むしろ、彼らが何を言っているかを注意深く聞いて、彼らの人生に聖霊の働きが見えるかどうか調べましょう。時々、神様が誰を用いるかを見て、私たちはびっくりします。

 

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ヨハネ7:16-18--私たちは誰に仕えているでしょうか

この個所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えるから。

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(16-18)

この個所を読むと、私は自分自身に訊きます。「私の教えはどこから来るだろうか。私自身から来るだろうか。もしかしたら、神様から来るだろうか。私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人たちを感動させたいと思っているだろうか。もしかしたら、私は人々が神様に栄光を与えるように望むだろうか。」

我々クリスチャンたちは、真理を伝える人であるべきです。私たちには不正がないはずです。牧師たちと聖書を教える人たちだけではなく、私たち皆はそんな人であるべきです。

でも、真実を言う人になりたいなら、私たちは誰に仕えるか決めなくてはなりません。私たちは、誰の栄光を求めるか決めなくてはなりません。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。もしくは、神様の栄光を求めているでしょうか。私たちは神様に仕えているでしょうか。もしくは、口で神様の名前を褒めるけど、自分自身に仕えているでしょうか。

もし、私たちは自分の栄光を求めているなら、また、周りの人々から誉れを求めるなら、神様の福音を薄くする誘惑に直面します。もしかすると、私たちはその福音を全然伝えないかもしれません。

もしくは、私たちはパリサイ人のようになるかもしれません。私たちは神様に仕えるふりをするけど、実は、私たちは人々からの栄光を求めます。

あなたは誰に仕えているでしょうか。誰の栄光を求めているでしょうか。

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ヨハネ7:11-53--イエス様は誰でしょうか

以前、イエス様は弟子たちに「私が誰だと思うか」と訊きました。(マタイ16:13)

この個所では、ほかのユダヤ人たちはエルサレムで同じ質問に直面しました。

いろんな意見がありました。

「イエス様は良い人だ。」

「イエス様は預言者だ。」

「違う。イエス様は群衆を惑わしている。彼は悪霊につかれている。」

「いや、メシアじゃないでしょうか。」

どうして、ユダヤ人たちはそんなに混乱していたでしょうか。

一つの理由は、彼らが「メシア」、つまり、「キリスト」がどんな方であるかを誤解したから。

彼らは、キリストが奇跡的に現れると思いました。でも、彼らはイエス様の家族を知っていると思いました。(しかし、彼らはその話の全てを知りませんでした)。

それに、イエス様は律法学者と違って、特別な教育を受けていませんでした。

もう一つの理由は、イエス様は律法学者の伝統を何回も破ったことです。例えば、安息日に、イエス様は人々を癒しました。イエス様は彼らに、安息日に良いことするのは、合法なことだと教えたけど、彼らは自分の伝統を手放すことができませんでした。彼らは律法を知っていると思ったので、その大工の意見を受け入れられませんでした。

三つ目の理由は、ユダヤ人のリーダーたちが律法をよく知っていると思ったけど、実は、たくさんのことを見逃したことです。だから、ニコデモがイエス様を擁護しようとしたら、彼らは答えた。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(52)

でも、イザヤ書9章で、キリストがガラリヤで現れることは書いてあります。

しかし、イエス様は、最も大切の理由を伝えます。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(17)

つまり、あなたが心から神様を求めるなら、神様を見つけます。そして、イエス様を見ると、イエス様がキリストであることを理解します。でも、心から神様を求めないなら、その真理を理解しません。

パリサイ人たちは宗教的な熱心を持っていたけど、プライドを持っていたし、偽善者でした。彼らが神様を求めるように見えたけど、実は、彼らは人間の喝采を求めました。だから、彼らはイエス様を見た時、イエス様を認めませんでした。

でも、神様を求める人々は、真理を見ました。なぜなら、彼らは神様の前にへりくだったから。

あなたはどうですか。あなたはまだイエス様が誰か、疑問に思っているでしょうか。自分のプライドを捨ててください。神様に関するあなた自分自身の意見を捨ててください。お金よりも、自分の幸せよりも、すべてよりも、神様を求めてください。そうすると、あなたの混乱がなくなって、神様は自分自身をあなたに現わしてくださいます。

主よ。私がプライドを捨てるように助けてください。もし、私たちの間、邪魔ものがあれば、それを取り除いてください。私がすべてよりもあなたを求めるように助けてください。私があなたを見るように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネ7:10;ルカ9:51-56--裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

でも、私はこの言葉も言いました。「私たちが真理を伝えると、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。」

この個所では、私たちはその理由を見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムに行ったけど、イエス様はもうちょっととどまりました。どのぐらいイエス様が待っていたか私たちはわからないけど、結局イエス様もエルサレムに行きました。その時から、イエス様のミニストリーのほとんどは、ユダヤとエルサレムで行われました。イエス様が十字架で死ぬまで、あと6カ月ぐらいでした。

でも、エルサレムにつく前、イエス様はもう一度サマリヤを通ろうと思いました。イエス様が一回サマリヤに行ったことがあって、その時、たくさんのサマリヤ人たちはイエス様を受け入れて、信じました。(ヨハネ4章)

でも、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。なぜなら、イエス様はエルサレムに行こうと思ったから。サマリヤ人たちとユダヤ人たちの間には、まだ敵意がありました。サマリヤ人たちがユダヤ人の祭りで歓迎されなかったので、イエス様がその祭りに行くと分かったから、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。

イエス様の弟子たちはサマリヤ人たちの反応を見ると、激怒しました。サマリヤ人たちがイエス様から何ももらうことに値しないのに、イエス様は彼らを訪ねようと思いました。それでも、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。

ほかの町に住んでいるサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたので、弟子たちは彼らに対して、寛容になりました。でも、この町の人々がイエス様を拒絶すると、ヤコブとヨハネはイエス様にこう言いました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(54)

多分、彼らはエリヤの話を考えました。ある人々がエリヤを軽蔑したら、エリヤが火を呼び下して、その人たちは滅びました。(列王記第二1章)

でも、イエス様は彼らを叱責しました。

なぜでしょうか。多分、裁きの時間はまだ来ていなかったからでしょう。イエス様は人々を救うために来ました。(ヨハネ3:17)

私たちはイエス様の心を持っていなくてはなりません。もちろん、イエス様を拒絶する人のために、裁きの日が来ます。

でも、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために、祈り、働かなくてはなりません。愛をもって、イエス様が私たちに与えてくださった真理を伝えなくてはなりません。そうすると、神様の恵みによって、人々は救われます。

周りの人々の罪がどんなに酷くても、彼らが滅びるなら、私たちは喜んではいけません。イエス様はそのことを喜びません。彼らが永遠の命を得るため、イエス様は十字架で死にました。

罪人に対して、あなたはイエス様の心を持っているでしょうか。

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ヨハネ7:1-9--真理を言うと

昨日もこの個所について書いたけど、また別のことが私の心を打ちました。

時々、私たちが人々に神様の真理を伝えると、相手にむっとされたり、その人が真理を信じず、私たちを憎むことさえあります。

イエス様はそんな不信と憎しみを経験しました。イエス様の兄弟たちも、イエス様を信じなかったし、からかいました。

だから、イエス様は彼らにこう言いました。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(7)

現代のアメリカでは、クリスチャンたちが同性愛は罪というと、多くの人々は「あなたの心は狭い。あなたは偏屈だ」と言います。

イエス様はこの個所では、そのことについて警告しました。私たちは世において、その行いが悪いことをあかしするなら、私たちは憎まれ、迫害されます。

私が以前言ったように、真理を伝えるとき、正しい方法と悪い方法があります。私たちは相手を憎まず、愛をもって真理を伝えるべきです。

私の娘が4歳の時、私はよく言いました。「危ないよ。駐車場と道に飛び出すな。車に轢かれるよ。」

どうして私はそう言ったのでしょうか。なぜなら、娘を愛しているから。

人々を彼らの罪のゆえに警告するとき、私たちもそんな態度を取るべきです。その罪が本当に酷くても、私たちは彼らを軽蔑せず、憎むべきではありません。私たちは彼らが悔い改めて、救われるように望むべきです。また、私たちは彼らが神様の恵みと憐れみを知るように望むべきです。

でも、愛を持って真理を伝えても、私たちが憎まれるときもあります。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々はイエス様を信じず、憎んだので、イエス様を十字架で殺しました。私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

 

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ヨハネ7:1-9--天の父のスケジュールに従うこと

イエス様が5000人にパンを与えた奇跡の後、また、たくさんの弟子たちがイエス様を拒絶した後、イエス様はユダヤとエルサレムをちょっと避けました。でも、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いは迫っていました。だから、多くのユダヤ人たちはエルサレムに行きました。

その時、イエス様の兄弟たちは、イエス様にこう言いました。「あなたは、ずっとエルサレムを避けていたでしょう?もし、本当に有名になりたいなら、エルサレムに行くべきだよ。奇跡をおこなった方がいいよ。もし、家に隠れたら、有名にならないよ。」

でも、その言葉はとても皮肉っぽいものでした。ヨハネはこう書きました。

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(5)

イエス様は兄弟たちにこう言いました。

わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。。。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。(6-8)

要するに、「私はあなたのスケジュールに従いません。実は、私は自分のスケジュールに従いません。私の天の父のスケジュールに従います。」ということです。

だから、自分の兄弟たちは祭りに行ったけど、イエス様は天の父のタイミングを待っていました。

多くの人々は、自分のスケジュールに従います。時々彼らは、むりやり相手の日程に従わせられてしまいます。でも、我々クリスチャンたちはイエス様の模範に従うべきです。私たちは天の父の声を聞き、天の父が決めたスケジュールに従うべきです。

多分、私はしばしば自分のスケジュールに従うので、神様の働きを見逃すでしょう。私には、いろいろしなくてはならないことがあるけど、神様は私のところにいろんな人々を導きます。でも、私は立ち止まらず、話しもせずに、ちょっと挨拶だけして、行き続けます。もしかしたら、相手が私に気づかないと、私は挨拶もしないかもしれない。でも、歩きながら、私は「しまった。あの人と話した方がよかったのに。機会を見逃したかな」と思います。

あなたはどうですか。誰のスケジュールに従っているでしょうか。あなたのスケジュールを置いておいて、天の父のスケジュールに従うでしょうか。もしくは、自分のスケジュールに集中しすぎて、神様の働きを見逃すでしょうか。

天のお父様。時々、私は自分のスケジュールに集中しすぎて、あなたの声が聞こえません。赦してください。あなたが人々を私のところに導くとき、私があなたの目と耳と口と手になるように。私が、あなたが何をしているかを見えるように。あなたの声を聞こえるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

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マタイ8:19-22;ルカ9:57-62--イエス様に従うこと

イエス様に従うとはどういう意味でしょうか。

この話では、3人の人たちは「弟子」の意味を知りました。

律法学者はイエス様のところに来て、こう言いました。

先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。(マタイ8:19)

この人は、ほかの律法学者たちと違いました。多くの律法学者たちはイエス様に反対したけど、この人は熱心を持って、イエス様に従おうと思いました。もちろん熱心を持つのは良いことです。でも、イエス様は彼に警告しました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)

要するに、「私は、楽な人生を約束しません。私に従うのは時々大変です。あなたが家を出て、帰る機会は少ないのです。もしかしたら、あなたは決して結婚しないかもしれません。それでも、あなたはまだ私に従いたいのですか。」

そして、イエス様はほかのにこう言いました。「わたしについて来なさい。」

でも、その人は答えました。

まず行って、私の父を葬ることを許してください。(ルカ9:59)

多分、その人のお父さんは、まだ生きているでしょう。多分葬式の途中、イエス様はその人に「私についてきなさい」と言わなかったでしょう。

もしかしたら、そのお父さんは病気で、死にかけているかもしれません。でも、もしかしたら、そのお父さんはとても元気だけど、年老いていたかもしれません。とにかく、そのお父さんが亡くなるまで、その人は待ちたいと思いました。もしかしたら、そのお父さんがイエス様に反対したので、その人がイエス様に従うと、お父さんに拒絶されるかもしれません。

だから、イエス様はこう言いました。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(ルカ9:60)

多分イエス様が意味したものは、霊的な死人たちが霊的な死人たちを葬らせなさいということでした。

時々、人々はこう思います。「私はクリスチャンになりたくないのです。なぜなら、私の両親がもう亡くなって、私たがクリスチャンになると、私は彼らが地獄に行っていたと信じなくてはならないから。」

でもイエス様が言ったのは、あなたがそのことをコントロールすること権限はないということです。霊的な死人たちがあなたの霊的な運命を決定させることを許してはいけません。

また、霊的な死人のために、神様の仕事を避けてはいけません。なぜなら、あなたがほかの霊的な死人に福音を伝えると、その人は救われるかもしれないから。でも、あなたが自分の家族の意見を恐れて、周りの人々に福音を伝えないなら、彼らも地獄に行くかもしれません。

もう一人はイエス様のところに来て、こう言いました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

でも、イエス様はその人にこう言いました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

どうして、イエス様はそう言ったでしょうか。多分、イエス様はその人の心を見抜いたからでしょう。つまり、その人の家族に対する愛のため、その人は心を尽くして、イエス様に従うことができませんでした。だから、彼がイエス様について行っても、すぐに家に帰るでしょう。

もし、私たちがいつも振り返ると、イエス様に従うのはとても難しくなります。イエス様は私たちの心のすべてを要求します。私たちの心の一部分を望まれません。だから、時々、私たちは良いことでも離さなくてはなりません。なぜなら、私たちはより優れたものを求めているから。

その3人の人たちがイエス様の言葉にどうやって反応したか、私たちは分かりません。多分、福音の著者たちは、私たちが自分自身の心を探るように望んだでしょう。

難しくても、あなたはイエス様に従うでしょうか。あなたの家族や、友達がイエス様に従うことを拒んでも、イエス様に従うでしょうか。イエス様に従うため、すべてを捨てるでしょうか。

イエス様が「わたしについて来なさい。」と言うと、あなたはどうするでしょうか。

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マタイ18:21-35;マルコ9:49-50--憐れみによって、塩気をつけられること。火によって、塩けをつけられること。

マタイ、マルコ、ルカ皆は、同じ事件について話しました。その話をまとめるのは、本当に興味深いものです。でも、この話の始めに戻りましょう。つまり、弟子たちが誰が一番偉いかと論じ合っていたことです。

多分、論じ合ったとき、たくさんの酷い言葉が言われて、人々は傷ついたでしょう。だから、イエス様は、私たちが傷ついたとき、どうしたらいいかを教えました。

そのあと、ペテロは質問をしました。多分、ほかの弟子たちは彼を傷つけたでしょう。それは初めてではなかったし、たぶん将来にもペテロは傷つけられるでしょう。だから、ペテロは、イエス様に訊きました。

主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)

多分、ペテロは相手を七回赦すのは寛容な態度だと思いました。その時代、多くの先生たちは、三回赦した方がいいと教えました。(でも、聖書には、そんなことは書いてありません。)

でも、イエス様こう答えました。

七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18:22)

でもイエス様が意味したものは、私たちが490度まで許さなくてはならないというわけではありません。むしろ、私たちは数えずに、許さなくてはなりません。

そして、イエス様は有名なたとえ話を教えます。ある王は、しもべの大きい借金を免除しました。でも、そのすぐあと、そのしもべは、ほかの人に出会いました。その以前、しもべはその人にお金を貸したので、その返済を要求しました。相手が払えなかったので、しもべはその人を牢に投げ入みました。

しかし、王はそのことについて聞いたとき、そのしもべを呼びました。しもべが来た時、王はこう言いました。

悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:32-33)

だから借金を全部返するまで、そのしもべは牢に投げ込まれました。そしてイエス様はこう言いました。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(35)

この話から何を学ぶことができるでしょうか。

そのしもべにとっては、仲間が返さなくてはならない借金は大きいものでした。それは4か月の給料ぐらいでした。でも、その借金をしもべが王に返済しなくてはならなかった借金と比べると、とても小さいでした。それは何億円の借金でした。

時々、人々は私たちを傷つけて、その傷は本当に深いです。でも、私たちの神様に対する負債の方がだいぶ大きいです。私たちは、自分の罪が小さいと思うかもしれないけど、その罪は溜まります。もし、あなたは毎日罪を三回ぐらい犯すと、一年に1000の罪になります。その数字をあなたの年齢とかけたら、それは何千の罪です。でも、神様はあなたの罪を全部赦してくださいました。だから私たちもほかの人々を許すべきです。

そうしないと、どうなるでしょうか。そのしもべが仲間を牢に投げ入れたとき、その仲間は自分の罪悪感に浸りました。私たちも、しばしば同じようなことをします。私たちは相手を許さないで、その縁を切ります。私たちの希望は、相手が自分の罪悪感に浸ることです。

でも、王は、そのしもべの行動を知ったら、彼を獄吏に引き渡しました。その時代、獄吏は、囚人を見張るだけではなく、その囚人を拷問しました。

そのように、私たちが相手を許さないなら、私は神様が私たちをサタンに引き渡すと思います。(別の罪だけど、第一コリント5:5を読んでください。)そして、サタンは私たちを苦しめます。私たちは自分の怒りと苦々しい思いに浸ります。

どうして、神様はそうするでしょうか。私たちのことを憎むからでしょうか。違います。私たちが悔い改めることを望むから。

とにかく、もしかしたら、そのたとえ話のあと、イエス様はこう言いました。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9:49)

つまり、あなたは神様の憐れみによって、塩けを付けられないなら、あなたは火によって、塩気を付けられます。あなたが悔い改めるまで、あなたの人生は惨めになります。

そして、イエス様はこう言いました。

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50a)

イエス様は、私たちを地の塩と呼びました。私たちはこの世の民を憐れみと恵みで味をつけるべきです。でも、怒りと苦々しい思いを持ち続けるなら、私たちの塩気をなくなります。だから、イエス様は、弟子たちと私たちにこう言います。

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50b)

あなたはどうですか。あなたを傷つける人に対して、あなたは塩でしょうか。

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マタイ18:18-20--傷ついたとき、神様の手を解くこと

この個所は、マタイ16章に似ています。この個所もちょっと解釈しにくいです。

16章では、イエス様は、繋ぐことと解くことについて話します。

何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)

その個所では、イエス様は神の国と救いについて話しています。新約聖書を読むなら、あなたにわかるのは、多くの場合、神様は私たちを通して人々に触れたいと思うことです。私たちはキリストの体です。私たちは周りの人々に対して、イエス様の目や耳や口や手です。もし私たちが出て行って福音を伝えるなら、神様の手が解かれて、多くの人々は救われます。でも、私たちが福音を伝えないと、ある程度まで、神様の手は縛られています。もちろん、私たちにも関わらず、神様は働くことができます。でも多くの場合、私たちが働かないなら、神様は何もしません。

ペテロは、二つの方法で神様の手を解きました。彼はユダヤ人たちに福音を延べ伝えました。

でも、弟子たちはイエス様の命令に従わずに、異邦人たちに福音を延べ伝えませんでした。だから、神様は直接何かしました。神様はペテロに幻を示したし、コルネリオという異邦人に天使を送りました。それは、神様の理想ではありませんでした。神様の理想は、ペテロたちが積極的に異邦人たちに福音を延べ伝えることでした。とにかく、その話の後、神様は天使を送らずに、人々を通して異邦人たちを救いました。弟子たちは福音を延べ伝えて、人々は救われました。

また、ペテロは異邦人たちをユダヤ人の律法の要求から解放しました。だから、神様の手を解いて、たくさんの人は救われました。

でもこの個所では、その前後は全然違います。もう一度、イエス様は言います。

何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

でも、この場合、イエス様が意味したものは何でしょうか。

私の意見だけど、相手があなたを傷つけて、謝らないなら、あなたはその人のために祈るべきです。そうすると、私たちが神様の手を解くので、神様は彼らの人生に働き始めます。

多くの場合、私たちは相手に対する怒りと苦々しい思いに縛られます。私たちは相手のために祈らず、相手について祈ります。

「主よ。彼が何をしたか見た?信じられない。彼を罰してしてください。」

でも、十字架で、イエス様は敵について祈りませんでした。イエス様は彼らのために祈りました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

その祈りを通して、神様は彼らの人生に働き始めました。また、神様は救いの業を行いました。

そのように、私たちが相手のために祈るなら、神様の手を解いて、神様は彼らの人生に働き始めます。もちろん、私たちの祈りにも関わらず、神様は働くことができます。ども多くの場合、神様はその祈りのために待ちます。

でも苦々しい思いを持ち続けたら、神様の手を縛るので、神様は私たちの人生と、相手の人生に働きません。

怒りと苦々しい思いを手離すことは難しいです。だから、神様は私たちを支えてくれる兄弟地と姉妹たちを与えてくださいます。彼らは、和解をもたらすために助けるし、私たちのために祈ってくれます。だからイエス様はこう言いました。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(19-20)

あなたはどうですか。あなたは傷ついているでしょうか。あなたは天の父の手を縛っているでしょうか。もしかしたら、その手を解いているでしょうか。

ようするに、あなたはただ相手について祈っているでしょうか。もしくは、相手のために祈っているでしょうか。

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マタイ18:15-17ーー傷ついたとき

私たちが傷つくのは、本当に辛いことです。さらに、私たちが信頼してる人に傷つけられたら、それはもっと辛いものです。

多分、弟子たちが誰が一番偉いと論じ合っていたとき、互いに傷付け合ったでしょう。イエス様はそれを知っていたので、彼らにこう言いました。

また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。(15)

二つのことに注目してください。

一つ目は、相手があなたを傷つけるとき、その人があなたの所に来て、謝るのを待つべきではないことです。あなたは積極的に、相手のところに行って、そのことについて話すべきです。

でも、多くの場合、私たちは怒って、相手が私たちのところに来て、謝るように要求します。しかし、その態度は、和解の態度ではなく、誇りの態度です。神様は私たちが 平和をつくる者になることを望みます。イエス様の言葉を覚えていてください。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

もちろん、あなたのケンカしている友達を助けるべきです。でも、あなたが相手と喧嘩するとき、あなたは平和を作るものにならなくてはなりません。しかし、プライドを持ち続けると、相手と和解できません。

さらに、相手がそうとは意図せずに傷つけるとしたら、私たちの傷に気づかないかもしれません。だから、私たちがずっと待っても、彼らは決して謝らないでしょう。だから、私たちは相手のところに行くべきです。

二つ目は、私たちはゴシップや中傷をしてはいけないことです。イエス様は「あなたが傷ついたとき、皆にそのことについて話しなさい」と言いませんでした。むしろ、イエス様は、「行って、ふたりだけのところで責めなさい」と言いました。

もちろん、私たちの希望は、相手が私たちの傷に気づいて、謝ることです。

ところで、相手があなたのところにきて、そのように責めたら、どう反応するべきでしょうか。とくに、あなたは相手が繊細過ぎると思う時、どう反応した方がいいですか。彼らの感情を大事にするべきです。謝ってください。そして、相手の言葉を覚えて、気を付けてください。それは、平和を作る者の態度です。

でも、あなたが傷ついたのに、相手が自分の悪さを認めないとき、どうしたらいいでしょうか。その場合、イエス様はもう二人の人々を連れて行って、その人と話すべきですと言いました。もちろん、その二人にその状況を説明するべきです。それでも、相手を悪く言ってはいけません。あなたの目的は和解ですから。

実は、その二人と相談すると、あなたが相手のことを誤解したのだと分かるかもしれません。もしかしたら、彼らの助けを通して、相手が自分の至らなさに気づくようになることもあります。でも、もう一度覚えていてください。あなたの目的は和解です。

でも、相手がまた聞いてくれないなら、教会の前にその問題を伝えるべきです。皆の前にその問題を出す必要はありません。でも、例えば、牧師やほかのリーダたちの助けを求めるべきです。

でも、相手がまた聞いてくれないなら、イエス様はこう言います。

教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(17)

イエス様が意味したものは何ですか。相手に対するあなたの期待を変えるべきです。相手がクリスチャンとしてふるまうことを期待しない方がいいです。彼らをクリスチャンじゃない人として考えた方がいいです。私たちは、クリスチャンじゃない人がクリスチャンのようにふるまうことを期待しないでしょう。そして、相手が悔い改めないと、クリスチャンのようにふるまっているとは言えません。

だから、相手に会うと、気を付けてください。相手が悔い改めないなら、たぶん、あなたを何回も傷つけるかもしれないでしょう。

イスラエル人が取税人を避けたように、できるだけ相手を避けた方がいいです。どうしてそうした方がいいでしょうか。あなたが怒っているからでしょうか。あなたが苦々しい思いを持っているからでしょうか。違います。

実は、その怒りと苦々しい思いを離さなくてはなりません。そうしないと、あなたはその怒りと苦々しい思いに縛られます。

むしろ、相手が危ない人なので、その人を避けた方がいいです。もし、彼らが自分の悪さを認めないなら、彼らはあなたに対して危ない人なのです。だから相手を避けてください。

あなたはどうですか。傷ついたとき、どうしますか。

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マルコ9:38-41;ルカ9:49-50--ミニストリーに関するプライド

イエス様が弟子たちにどうやって神の国で偉くなるか教えた時、たぶんその弟子たちはちょっと違和感を感じたでしょう。なぜなら、彼らは、誰が一番偉いかについて喧嘩したし、そのグループの外の人々を悪く扱ったから。だからヨハネは多分ちょっと緊張して、こう訊きました。

先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。(マルコ9:38)

イエス様はこう答えました。

やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(39-41)

教会の一つの問題は、人々は自分のミニストリーを守ることです。つまり、彼らはこう思います。「これは私の役割です。私のミニストリーです。ほかの人は参加してだめです。」

弟子たちはそんな態度を取りました。誰かが悪霊を追い出したけど、その人は弟子たちの仲間ではありませんでした。だから、弟子たちは彼に「やめなさい」と命令しました。

でも、イエス様は彼らにはっきり言います。「これは競争ではありません。その人は私を愛して、仕えたいと思ったのです。だから、やらせなさい。私は彼にその力を与えたから。」

私たちもそんな態度を取るべきです。相手が私たちよりも上手にできても、私たちは喜んで彼らをそのミニストリーに参加させるべきです。どうしてでしょうか。ミニストリーをするとき、私たちは自分の栄光を求めていないから。実は、私たちは自分の栄光を求めてはだめです。

むしろ、私たちは神様に栄光を与えようと思うべきです。そして、誰かが、神様からの賜物を使う時、私たちは喜ぶべきです。

あいにく、教会の中でも、そんな競争があります。人々はどの教会の方が大きいか考えます。どの教会のミニストリーの方がいいか考えます。

また、相手に違う方法があれば、相手を批判し始めます。でも、それはイエス様の希望ではありません。それはサタンの希望です。もし教会の人々が互いに争うなら、サタンと争う時間が無くなるから。

だから、教会として、また、教会のメンバーとして喧嘩することをやめましょう。むしろ、一緒に働きましょう。なぜなら、私たちは同じチームに入っているし、同じ目標を持っているから。

私たちが別れたら、神様の名前を汚します。でも一致して協力すれば、私たちは神様のみ名に栄光を与えます。そんな人々になりましょう。

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マタイ18:6-14;マルコ9:42-48--どのように神様が私たちの子供を考えること

イエス様が神の国について教えた時、神様がどのように子供たちを考えるかをはっきり教えました。

最初に、イエス様は私たちに警告します。「子供に罪を起こさせるようにするな。」

それに、イエス様はこう言いました。

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。(マタイ18:6-7)

また、イエス様は、あなたが子供に躓きを与えるよりも、自分の手や足を切った方がいいと言いました。

どうして、イエス様はそんな極端なことを言ったでしょうか。なぜなら、子供たちが簡単に影響されるから。彼らは私たちを見て、すぐに学びます。もし私たちが怒りっぽいなら、彼らも怒りっぽくなります。もし私たちが旦那さんか奥さんに感謝しないなら、彼らが成長して結婚すると、自分の伴侶に対して感謝しません。もし私たちが彼らを虐待するなら、彼らも自分の子供を虐待します。

だから、子供がいるとき、あなたの言動に注意してください。神様はそのためにあなたを裁くから。

イエス様は、私たちにさらに警告します。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)

神様は子供を愛しているので、その子供を守るために天使を送ります。だから、私たちも子供たちを大事にしなくてはなりません。彼らが取るに足りないものと見なしてはいけません。神様はその宝物を私たちに委ねました。

そして、イエス様は子供たちを迷子になった羊と比べます。神様はその子供を救いたいのです。だから、イエス様はこう言いました。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(マタイ18:14)

子供に関して、私はもう二つのことを言いたいです。

私は、人が責任を取らなくてはならない年齢があると思います。つまり、子供が自分の罪の責任を取らなくてはいけない年齢がると思います。その年がいつか分かりません。多分、子供によって違います。彼らが自分の罪を認識するなら、つまり、罪の悪さを認識するなら、責任を取らなくてはいけないと思います。

二つ目は、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」と書いてあるけど、彼らが滅びる可能性があると思います。ペテロは似たことを言いました。

[神様は]あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

でも、ペテロははっきり言います。人は、悔い改めないと救われません。だから、子供がどうしても悔い改めないなら、救われないと思います。

だから、神様が子供を大事にするように、私たちも子供を大事にしましょう。また、彼らが救われるように、彼らに福音を伝えましょう。

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聖さの中心

[この記事は、私が伝えた教会のメッセージでした。私の通訳者は、このメッセージを翻訳してくれました。]

SNSを使ってる人はどのくらいいますか?私もSNS使ってます。でも時々、ちょっと怒りを感じる書き込みを見かけるときがあります。そんな時は、つい言い返しそうになる口をぐっと抑えます。正確に言うと、書き返しそうになる “腕を” 抑えます。

最近Facebookでこう言う投稿を見ました。「クリスチャンていうのはさ、『あれは罪、これは罪、なぜなら旧約聖書にそう書いてあるから』って言って人を裁くよね。でも旧約聖書には『シーフードは食べたらいけない。二つの素材が混じった服は着たらいけない。土曜日に働いてはいけない。』と書いてあるじゃないか。でもそれをクリスチャンは今は守ってないことに関しては、どういうつもりなんだい?」という書き込みでした。

この人は何を言いたいんでしょう?「クリスチャンは矛盾してる。旧約聖書から、自分の好きなところだけ選んで従って、それ以外は見ないふりしてる。」ということでしょう。

この指摘は正しいですか?もしあなたがこのように問われたら、何と答えますか?アメリカのある有名な牧師が、このことに関して最近非常に”面白い”回答を導き出しました。「もう旧約聖書の律法はすべて忘れてしまえ」と。

その牧師はこう言ってるんですね。「十戒はもう気にしなくていいんです。汝らはもう十戒に従うことなかれ。なぜならこれらはもはや現代を生きるあなたへの命令ではないんです。」

さらにエスカレートしてこう言います。「ペテロも、ヤコブも、パウロも、クリスチャンの信仰から旧約聖書を切り離すことにしました。つまりこの使徒たちは、教会からこの世の価値観や仕組みから切り離し、旧約聖書の掟すら切り離したんです」。

はっきりさせておかないといけないのは、この牧師は決して、私たちは好きなように生きていい、とは言ってはいません。彼は、私たちに大切なのは愛の律法だ、と言いたいのです。愛の律法とは、「神を心から愛しなさい。自分を愛するように隣人(となりびと)を愛しなさい。」です。これは完全に真実です。でも、だからと言って、愛の律法から十戒を切り離すことはできません。愛の律法と旧約聖書にある倫理的な律法を切り離すことはできません。イエス様はそうされませんでした。イエス様の弟子たちもそうはしませんでした。実際、愛の律法とは旧約聖書の倫理的律法から来ているんです。(レビ19:18, 申命6:5)

じゃあ、私たちにとって旧約聖書って何でしょうか。神様を喜ばせるために、一個一個すべての律法を厳密に守るべきでしょうか。じゃあ食べ物に関しての律法は?着るものに関しては?もっと言えば、いけにえを捧げることは?なぜ私たちはもういけにえを捧げなくていいんでしょうか?このようなことを、皆さんは考えた事ありますか?

最近こういう本をもらいました。「聖書的に生きる1年。」1年間、この本の著者は、聖書に書いてある戒めの一つ一つを厳格に守るということにチャレンジしました。もちろん その中には、人のものを欲しがらない、嘘をつかない、ゴシップをしない、というものも含まれています。そして、安息日に休む事、特定の食べ物は食べないこと、服装のことも、全部聖書の通りに守るようにしました。不貞を働く夫がいれば、その人に石を投げることすらしました。(まあ、石といっても小石ですけど。) 私たちも皆こういうふうに生きるべき?これが聖いってことでしょうか?

先週からSteadfast断固というシリーズが始まりました。聖いという事が、毎日の日常の生活の中ではどういう事なのか、を一緒に考えてみましょう。

イエス様の弟子の一人、ペテロはこのように言いました。

あなたがたを召してくださった聖なる方(神様)にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ 1:15-16)

この箇所では、ペテロは旧約聖書のレビ記というところから引用しています。(レビ11:44-45, 19:2; 20:7)レビ記で神様は民に繰り返し語られています。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」そして、その度に、神様はこうも言っています。あなたがたは周りの人たちと同じことをしてはならない。 (レビ18:3; 24-30, 20:23-26) あなた方は選り分けれたほかとは違う存在なのです。

ペテロが、旧約聖書から引用したということは、実はすごく大事な意味があります。つまり、こと聖さに関して言うと、私たちと旧約聖書は大事な関係がある、ということです。じゃあ、旧約聖書と私たちの関係って本当のところ、何でしょうか。私たちが聖い生き方をしようとするとき、旧約聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。イエス様が何と言われたか、見てみましょう。

マタイによる福音書5:17から。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(17-20)

ここはとても大事なことですが、イエス様は神様のことばに対して、最大限の敬意を払っています。イエス様が律法や預言者について語るとき、それらはすべて旧約聖書から語っています。そしてこう言っていますよね。「わたしが来たのは、律法を廃棄するためではないです。成就するために来たのです。」

どういう意味でしょうか。二つ意味があります。一つ目は、イエス様は神の律法に完全に従いました。大工として30年間を過ごし、3年間は福音を伝える説教者としていきました。その間、一度として神の律法を破ることはありませんでした。神がしなさいということはしたし、神がしてはいけないといわれることは決してしませんでした。私たち「してはいけないことをしてしまうこと」イコール罪と考えがちですよね。でも、実は「しなければならないことをしない」ことも罪です。イエス様はどちらにも従いました。

二つ目は、旧約聖書はイエス様を指し示しているということです。旧約聖書の中にある300以上もの預言がイエス様を指し示しています。 それだけではないです。旧約聖書の中にあるストーリーもイエス様のことを示しています。ノアの箱船や、ヨナと大きな魚や、モーセがイスラエルの民を連れてエジプトを脱出した、これらのストーリーは、すべてイエス様のことを指しています。

律法もそうです。イスラエルの民が捧げたいけにえはイエス様を指し示しています。いけにえは、人の罪は、誰かの死を持って贖わなければならないということを示しました。幕屋もそうです。幕屋は、神がわたしたちの間に住まわれるということを表しました。. 民法もそうです。民法はイエス様の聖さ、正しさ、愛を表しています。そして倫理的律法は、イエス様がいかに罪の無いお方か、ということをを示しています。

預言、ストーリー、律法これら全てがイエス様のことを指し示し、またイエス様によって成就しました。だから、これらは今イエス様が説明したように イエス様の教えに従って、理解するべきなんです。この山上の説教と呼ばれる箇所の最後の部分では、イエスさまの話を聞いていた人々は、イエス様が権威を持って話されることに驚いた、とあります。イエス様はこのことを権威を持って話すことができました。なぜなら、イエス様ご自身ががこれらを作られた方だからです。そしてすべてはイエス様のことを指し示していました。

だから、「どうして旧約聖書の律法のうち、これは守るけど、あれは守らないのはなんでだろう」って思ったら、これを思い出してください。私たちは「イエス様の権威に従う」のです。

なぜならすべての律法はイエス様を指し示しているからです。つまりどの律法が今も有効で、どの律法がそうじゃないのか、それを知りたかったら、一番簡単な方法はイエスさまがそのことについてどう教えたかを、調べることです。

そしてイエス様は、旧約聖書についてご自分の弟子たちに教えましたので、弟子たちが何と言っているか、ということも調べることができます。つまり、弟子たちが、「この律法やあの律法は今は当てはまらない」、と言っていたら、それはつまりそうなんです。

だから、私たちはもういけにえを捧げることはしません。だから今はなんでも食べていいのです。イエス様も、弟子もこう言っています。「それらの律法はイエス様によって成就された。果たされた。それらの律法は私たちにイエス様がなぜ必要なのかを表すpictureとして大切です。でも、もはやあなたたちは律法にしばられてはいないのです。」でも、イエス様もしくは弟子たちがこの律法には従うべきとする時、私たちもその律法に従う必要があります。なぜなら、そこには聖く生きるとはどういうことかが、表されているからです。

だから、イエス様は、「すべてが成就されるまでは、律法の中の1ピースすら廃されることはない。」と言われました。イエス様が再び戻って来られるその日まで、私たちには旧約聖書が必要です。

その理由は二つです。一つ目は、旧約聖書と律法はイエスさまがなぜこの地に来られたのかを証言しています。もう一つは、旧約聖書は私たちがどのように生きるべきかを教えてくれます。

だから「旧約聖書はもういらない」とは言えないんですね。私たちには必要です。そして「あなたがそれを軽く扱うなら、天の御国で一番小さいものと呼ばれる。」とイエス様は言われます。さらに、イエス様やその弟子たちが教えた「戒めを破ったり、破るように人に教えたりするものは、天の御国で一番小さいものと呼ばれます。」と言われます。

注目したいのは、イエス様がこの箇所で聖く生きることについて話すときに、いつも十戒を引用してきているということです。でもただ十戒にだけ目を向けさせたいのではないです。イエス様はあなたの心を指さしています。「あなたの心はどこにありますか?」と聞いています。

聖さの中心は、単にたくさんの律法を守ることではありません。「ここからこっちはアウトだけど、ここからこっちはセーフだよね?」と、安全ラインを見極めようとすることでもありません。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうか、です。

だからイエス様は続けてこう言いました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

律法学者たちやパリサイ人たちっていうのは、当時とてもちゃんとした、宗教的な人々とされていました。でもそれはとても表面的なもので、彼らの心は神様に向いてはいませんでした。もちろん彼らは律法を一言一句守ろうとしていました。でも同時に、いつも、その律法の抜け穴を探していました。残りの箇所からそれが伺えます。

21-22節を読みましょう。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(21-22)

イエス様はここで十戒から引用していますよね。殺してはならない。すると、律法学者やパリサイ人はこう言います。「私たちは誰も殺してはいない。だから大丈夫だ。」

でもイエスさまは言われます。「それは良かった。じゃあ、あなたの心の中はどうですか?あなたが怒りを感じた時、あなたはその怒りをすぐに水に流しますか?それともあなたの兄弟姉妹に対して怒りをくすぶらせたままでいますか?」

私たちは、感情を持ってるから、怒りを感じることがあるのは当然です。ただ、その怒りを握りしめたままでいませんか?そうするとどうなりますか?私たちは心の中で、人を殺すんです。

その人に刺々しく話すようになる。言葉で攻撃するようになる。場合によっては、その人を自分の人生から締め出そうとします。それを言葉に出さなくても、行動や態度でそれを伝えてしまうんです。 それが伝えるメッセージは「あなたが死んでしまえばいいのに」です。

イエス様が言ってるのは、「心にそんな怒りや憎しみを抱えたままでいるなら、あなたは神様の命令を破っていることになる」です。

だから23節から26節では、あなたが律法を破り、誰かを傷つけたらなら、まず行って、仲直りしなさい、と言っています。ただ教会に来て、我敬虔なり、という顔で、献金をして祈って、賛美をしないで。まず関係を修復しなさい、と。

あなたはどうですか?行って修復しなければならない関係がありますか?

27節、28節を読みましょう。

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(27-28)

ここでも十戒から引用しています。ここでも、イエス様は、「もう十戒を守る必要はないよ」と言っているのではなくて、この文字の言葉の向こう側にあるものを見なさい、そして自分の心を探りなさい。あなたは心の中で、姦淫の罪を犯していないですか?」と言っています。

夫である皆さん、妻である皆さん、自分の夫や妻以外の異性を見て、「あー、この人が私の伴侶だったらな」って思ったこと、ありますか?それは、神様の目には、姦淫です。心の中であっても、その人を欲しがることは、十戒を破っていることになります。

男性にとってポルノは大きな誘惑です。それも、心の中で姦淫を犯していることになります。

イエス様は言います。「あなたのその目があなたをつまづかせるなら、えぐりだしてしまいなさい」と言われました。

文字通り、えぐりだせと言っているのではないです。イエス様が言われるのは、心の中をあつかうためには、そのくらい極端でありなさい、と言われました。

最近アメリカのあるクリスチャンの政治家が、あることで批判にさらされました、それは、たとえ仕事であったとしても、女性と二人きりでランチやディナーに行ったりしないというふうに彼が決めたからです。周りの人は彼を批判しました。

「いやいやちょっと待って。あなたの周りの女性がみんなあなたを誘惑しようとしてるとでもいうの?」といって彼を批判しました。

でも彼が言ってるのはそうじゃないですよね。彼が言ってるのは、「僕は自分自身を信用していない。僕は罪人です。だから気をつけていなければ、僕の心が僕をどこに連れて行くか、わからない。」

極端にも見えるかもしれないど、彼は自分の心の弱さを真剣に取り扱いました。私たち全員が彼の真似をする必要はないです。でも罪のことを考える時、私たちもそれを避けるために、そのくらい真剣に向き合う必要があります。あなたはどうですか?

多くの場合、私たちは罪を軽く考えてしまいます。だから、旧約聖書の律法を読むと、罪に対する裁きがあまりにも大きすぎるように、神様が厳しすぎるように感じるんですね。私たちは、神様が真剣に考えてる罪をとても軽く考えている。

でも神様は罪はとてもシリアスなものと考えた。だから、罪のあがないのためにイエス様を十字架に送ったんです。イエス様は殺人や、レイプや、盗みといった罪のために死んだのではありません。あなたの口から出る汚れた言葉のために死んだのです。あなたが誰かを傷つけた言葉のために死んだのです。あなたがついた嘘のためにです。あなたが、私が自己中心だったから、その罪のために死なれたんです。これらは私たちを地獄に送る罪です。決して軽く扱うことはできません。

イエス様は罪を避けるためなら、どんなことでもしなさい、と言われます。あなたの心はどこにありますか?

31節、32節を読みましょう。

また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

離婚を経験された人は、この言葉はすごく痛いと思います。ここでイエスさまが伝えようとしていることをまず言いますね、そのあとで、離婚についてもうすこし触れます。

ここでイエスさまが仰っているのは、やはり姦淫についてです。当時、夫が妻に離婚を突きつけることはできました。でもその逆はできませんでした。夫が妻と離婚したいとなったら、その離婚状と呼ばれるものを渡すだけでいいんです。そこには「もうお前は私の妻ではない、誰とでも再婚すればいい。」と書いてありました。

でもイエス様がここで夫たちに言っているのは、夫が妻と不当な理由で離婚する時、それは、妻に対して「好きなように姦淫の罪を犯しなさい」って言ってることになる、ということです。なぜなら神の目には、その離婚は正当なものではなくて、妻はまだその人の妻だからです。だから彼女がもし誰か別の人と結婚するという罪を犯すなら、その責任は元々の夫であるその人にあると。

神様が結婚というものを作られました。それは、いつまでも続く関係としてデザインされたものです。神様がアダムとエバを作られた時、二人は元々永遠のいのちが与えられていたはずでした。永遠に夫婦として生きるはずでした。彼らが罪を犯し、死というものがこの世界に入ってきたそのあとでも、結婚は、死が二人を分かつまで、夫婦を一つに結びつけるものでした。

神様の結婚に対する計画は、最初にそれをデザインされた時と全く変わってはいません。だからもしあなたが、不当な理由で結婚の関係を壊し、他の人と再婚するなら、神様の目には、あなたは姦淫の罪を犯していることになります。

そうなってくるとbig questionが出てきます。じゃあ離婚の、正当な理由って何。

イエスさまがここで言われる様に、相手が自分以外と性的関係を持った時というのがそうです。

パウロはこう言いっています。ノンクリスチャンの伴侶が離れていくなら、離れて行かせなさい。(第一コリ7:15-16)

この二つ以外に、神様が認める離婚の理由はあるでしょうか? あるとしても、私はそれを聖書に見つけることはできません。でも大事なことは、もし他にも正当な理由が あったとしても、この質問自体が正しくないんです。

たとえ、あなたの状況がどうであったとしても、あなたが最初に問うべき質問は、「神様がデザインした結婚から、逃れる方法はありますか」ではあってはいけないです。それはパリサイ人の思考です。だからパリサイ人は神様の結婚への計画からかけ離れたことをしていました。つまりしょっちゅう離婚を繰り返してました。

あなたが神様に聞くべき質問は、「神様、私の結婚を何とかして守る方法はないでしょうか。」「神様、私の心はあなたのものです。あなたは私に何を望まれていますか」。結婚を守ることがいつも可能であるとは言いません。でも夫と妻の両方がその心を持てば、そして神様には対してへり下るなら、希望があります。あなたの心はどこにありますか?

考えて欲しいことはこうです。この中にも、離婚を経験した人がいるでしょう。それはあなたのせいではなかった。あなたの夫や、妻があなたを裏切ったんです。彼らがあなたに背を向けたんです。もしそうなら、どうか自分を責めないでください、なぜならイエス様はあなたを責めません。

でももし、あなたが自分の心を、神に対して、相手に対して頑なにしてしまったが故に、離婚したのなら。もしそうなら、そしてそのことを悔い改めていないなら、どうか、今日、悔い改めてください。悔い改めるなら、あなたは赦しと癒しを受け取ります。神様は離婚のドロドロの醜ささえも、美しいものに変えることのできるお方です。たとえ一度は離婚することになっても、神様が関係を癒してくれて、再度一緒になったっていう夫婦がいることも私は知っています。

もうそうするには遅すぎる人もいるかもしれない。相手はすでに再婚してしまったかもしれないもしくはあなたが再婚しているかもしれない。でも聞いてください。あなたの新しい結婚が良くない形で始まったとしても、神様は、それを贖うことが、修復できるお方です。

聖書にダビデという男性が出てきます。彼はバテシェバという女性と結婚しました。彼のこの結婚は、最も良くない形でスタートしました。ダビデは夫のある女性と関係を持ち、女性を妊娠させました。そして自分が結婚するために、女性の夫を殺しました。でもダビデが心から悔い改めた時、そのことに対する裁きはダビデはもちろん受けましたけれども、神様はダビデの結婚を祝福されました。この結婚がのちに生み出した子孫を知っていますか。イエス様です。神様は結婚を修復してくれます。

あなたの結婚もそうです。でもあなたが悔い改めないなら、最初の結婚を壊した時と同じ態度のままなら、次の結婚もいつか崩れます。もう一度言いますねだから大事な質問は、あなたの心はどこにありますか?

時間がなくなってきたので、もう一つだけ例を見ましょう。43節から45節を開きましょう。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(43-45)

最初の自分の隣人を愛しなさい、は、レビ記に出てくることばですが、後半の自分の敵を憎みなさいは、旧約聖書のどこにも書かれていません。じゃあここ、イエス様は間違ってるの?そうではなくて、律法が歪んだ解釈をされている点を指摘しているんです。

律法学者たちやパリサイ人たちは勝手にこう言いました。「神は自分の隣人を愛しなさいと言われる、ということは、その理屈でいうと、敵は憎みなさいってことだよね。」

なぜこういうふうに考えたのでしょうか。律法が本当に伝えようとしていることを見ようとせずに、表面だけとって、私は誰に対して愛を示すべきだろうか?と考え、そしてその範囲を限定し、じゃあ誰に対しては愛を示さなくてもいいだろうか?と考えるようになりました。そして結論は、「じゃあ敵のことは愛さなくてもいいよね!」でした。

このことは、ヒデさんが先月話してくれた、良きサマリヤ人の話にも出てきました。律法の専門家はイエス様に尋ねましたよね。「私の隣人とは誰のことですか?」

彼の本当の質問はこうなんです。「ここからは愛さないといけない、ここからは愛さなくても良い。その境界線のラインはどこにあるんですか?」

イエス様の答えはよく読んでみると、イエス様はこう言ってることがわかります。「律法学者君、君の質問は間違っています。誰が私の隣人かと聞くのではなくて、私は誰の隣人になれますか?って聞くべきです。そして出会うすべての人の隣人になりなさい。たとえその人たちがあなたを憎んでいたとしてもね。」

この少し後の箇所で、イエス様は言われます。もし自分を愛してくれるものだけを愛したとして、それじゃあこの世界の人々と何も変わりません。誰だってそうします。この世界とは違う、聖いものになりなさい。イエス様はこれらの教えのまとめとして、ペテロがレビ記を引用したことと同じような言い方をされています。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(48)

律法や、十戒や、それらを全て要約した、イエス様と弟子たちが私たちに守る様に言われた愛の律法、いろいろな戒めががありますね。でも聖さの中心とは、これらの戒めを表面を見てただ単に守ることだけではないんです。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうかです。

今日のメッセージを聞いて、こう感じてる人もいるでしょうか。「私にはそんなの不可能だわ」その通りです。不可能です。だから私たちはイエス様が必要なんです。だから聖霊様に私たちの内側に住んでいただく必要があるんです。この山上の説教の一番最初に、イエス様は何と言われたでしょうか。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(5:3)

イエス様は、「超霊的な人たちは幸いです。天の御国はそういう立派な人たちのものだから」とは言われませんでした。イエス様は、心の貧しい人は幸いです、自分の罪のために苦しみの声を上げる人は幸いです。と言われました。なぜなら、天の御国は、まさにその人たちのためのものだからです。

だからイエス様が来られたんです。私たちのすべての失敗を償うために死なれました。でもイエスさまは死からよみがえりました。そして私たちがイエスさまに心を明け渡すなら、イエス様は私たちの心を作り変えてくれます。そしていつか私たちはイエス様のようになります。イエス様は私たちをこう励ましています。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

あなたの心はどこにありますか?義に対する飢え渇きはありますか?イエス様のようになりたいと願う心はありますか?それとも何も思わないですか?

あなたの義が、ただ表面的に決まりを守るだけの律法学者たちと何も変わらないなら、あなたは天の御国には入れません。神様はあなたの心を求めておられます。あなたの心は神様のものですか?

Plant Group Questions
1. マタイ5:17-22, 27-28, 31-32, 43-48を読もう。

2. 旧約聖書に書かれている法の中で、クリスチャンとして、あるものは今も守り、あるものは守らないことについて、不思議に思ったことはありましたか?メッセージを聞いた今、どのようにほかの人に説明することができるでしょう?

3. 聖書の中に書かれている、神様からの命令について、従うのが難しかったり、つい言い訳をして逃れようとしてしまうものはありますか?もしあるなら、それは何ですか?日曜日のメッセージの中で話された個所のものかもしれないし、それ以外でも構いません。

4. 神様の命令を聖書を通して知りながらも、「でも、神様はこんな状況のときは例外ですよね?あんな状況のときは仕方ないですよね?」と聞き続けることは、どうして良くないのでしょうか?

5. クリスチャンの政治家のとった、極端な行動についてあなたはどう思いますか?(たとえ仕事であっても、女性と二人きりでは会わない)あなたの心の中を探ったとき、あなたも、同じように”極端な”対策をとる必要なことがありますか?もしそうなら、それはどんなことですか?そのためにお互いに祈りましょう。

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マタイ18:1-9;マルコ9:33-37;ルカ9:46-48--一番偉い人

時々、私がどれだけクリスチャンとして、成長しなくてはならないかを見ると、私はがっかりしています。でも、弟子たちに対するイエス様の忍耐を見ると、私は励まされます。

弟子たちはカペナウムに行くとき、だれが一番偉いかと論じ合っていました。多分、イエス様はその会話を聞いて、彼らのけんかを聞きながら歩き続けました。でも、彼らが家につくと、イエス様は彼らにこう訊きました。

道で何を論じ合っていたのですか。(マルコ9:33)

多分、弟子たちは恥ずかくて、何について話していたかと認めなかったので、黙っていました。だから、イエス様は彼らにこう言いました。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35)

多分、弟子たちはそれを聞いて、混乱したので、イエス様に訊きました。

それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。(マタイ18:1)

つまり、「私たちの間では、一番偉い人は誰でしょうか。」

そして、イエス様は小さい子供を腕に抱き寄せて、こう答えました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)

イエス様が意味したものは何でしょうか。

一つ目は、小さい子供のようにならないなら、だれも天国に入ることができないことです。

小さいの子供の習性は何ですか。彼らは謙遜です。彼らは、すべてのことを知っていると思いません。だから、彼らはいつも両親に質問をします。それに、彼らはすべてにおいて両親に頼ります。

もし、私たちが天国に入りたいなら、その態度を取らなくてはなりません。神様の前に、私たちは謙遜な態度を取らなくてはなりません。私たちは、自分がすべてのことを知らないと認め、神様の知恵と道を求めなくてはなりません。また、私たちは神様に頼ることを学ばなくてはなりません。もちろん、私たちの救いのために神様に頼らなくてはなりません。しかし、毎日神様の知恵と力に頼ることを学ばなくてはなりません。

でも、多くの人々はそのように生きません。彼らは十分の力と知恵を持っていると思うので、その知恵と力によって生きます。でも、そのように考え、生きるなら、彼らは決して神様の国に入ることができません。

多くのクリスチャンも、自分の知恵と力によって生き続けます。私もよくそうします。でも、今なお、私の弱さを理解し、どれぐらい私は神様が要るか分かるようになっています。

でもイエス様の二つ目のポイントは、あなたの偉さは、何人の人々があなたに仕えるかによって図らないことです。むしろ、一番偉い人は、周りの人々に仕えます。だから、イエス様は、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」と言いました。

一番偉いリーダーたちについて考えてください。彼らは無理やり相手を従わせる必要がありませんでした。むしろ、人々はそのリーダーたちに喜んで従いました。それに、リーダーたちは周りの人々に仕えるために生きました。

だから、相手から何も益をもらわなくても、リーダたちは彼らに仕えます。

イエス様はこう言いました。

だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。(マルコ9:37)

あなたが子供に仕えると、あまり益がありません。なぜなら、彼らはあなたにあまり与えることができません。でも、あなたが子供に仕えると、実はイエス様に仕えています。それに、イエス様に対するあなたの愛のため、あなたは誰かに仕えると、実はイエス様に仕えています。イエス様の目には、そんな人は偉いです。

あなたは偉い人になりたいでしょうか。子供のようになってください。謙遜になってください。相手に仕えてください。相手が偉くても、そうではなくても、彼らのニーズを優先してください。

あなたはどうしますか。

 

 

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マタイ17:24-27--あえて人々を怒らせること

我々クリスチャンたちは、この世界の人々と違う価値観と考え方を持っているので、時々、彼らの意見に反対するのは仕方がありません。

ただ私たちが信じることを伝えると、相手にむっとされるときもあります。

でも、私たちの信仰のために相手がむっとされることと、私たちがあえて相手を怒らせると大差があります。

一つ目のは、仕方がないことです。二つ目のは罪です。

この話では、イエス様とその弟子たちはカペナウムというところにいました。そして、宮の納入金を集める人はペテロに、「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」と訊きました。

多分、ペテロは焦って、答えた。「もちろん払うよ。」

あとで、イエス様はペテロに尋ねた。

シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。(25)

ペテロは、「ほかの人たちからです」と答えたので、イエス様はこう言いました。

では、子どもたちにはその義務がないのです。(26)

要するに、イエス様は神様の一人子なので、払う義務がなかったのです。それでも、イエス様はつづけました。

しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。(27)

イエス様は払わない権利を持っていました。でも、イエス様がその権利を主張するなら、相手は怒ったでしょう。だから、イエス様は払いました。

この話から二つの応用があると思います。

時々、私たちは相手のために自分の権利を譲らなくてはなりません。

私が大学生の時、私はクリスチャンのキャンプに行きました。そして、暇な時、私たちはトランプをやっていました。私たちはギャンブルとかしなかったけど、ある女性は怒りました。なぜなら、彼女はトランプをするのはだめだと教えられたから。私たちはそんな考え方は間違っていると思ったけど、彼女を責めませんでした。彼女の感情を無視しませんでした。むしろ、私たちはやめました。もし、私たちがやり続けていたら、彼女につまずきを与えたでしょう。それは罪だったでしょう。

もう一つの応用があると思います。私たちが信じることのため、相手を怒らせるかもしれないけど、私たちは彼らに愛を示すことができます。

あるクリスチャンは、ゲイの生活が罪だとはっきり言うけど、彼らはエイズにかかっているゲイの人々を愛し、世話してあげます。

私の牧師の義理のお父さんとお母さんはクリスチャンではありません。そして、仏教の儀式があるとき、私の牧師とその妻は参加しません。

でも、彼らそのご両親たちにこう言いました。「私たちは儀式に参加しないけど、家を掃除して、儀式の後、私たちは食べ物を出したり、できるだけ手伝います。」

彼らは、自分が信じることをはっきり言ったけど、愛も示しました。

私たちが信じることのため、相手を怒らせるかもしれません。でも、あえて相手を怒らせるのは罪です。私たちがただキリストに従うことのため、怒る人がいることは仕方がありません。でも、あえて彼らを怒らせる必要がありません。

 

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マタイ17:22-23;マルコ9:30-32;ルカ9:43-45--訊くのを恐れること

この個所では、イエス様は、もう一度弟子たちに、エルサレムで何が起こるか説明しました。彼は本当にはっきり説明しました。

このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。(マタイ17:22-23;ルカ9:44)

弟子たちの反応はどうだったでしょうか。

しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。(ルカ9:45)

多分、私たちにとって、どうして弟子たちがイエス様の言葉が理解できなかったか、わかりにくいです。イエス様は遠まわしに言いませんでした。イエス様は率直に話しました。どうして、彼らはイエス様の言葉が理解できなかったでしょうか。ルカは、その理由を私たちに教えます。「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」

どうして、その言葉は彼らから隠されていたでしょうか。多分、彼らの心はその言葉を理解できるほどまだ準備できていなかったから。彼らはまだ、イエス様がローマ帝国を倒し、新しい王国を建てるように望んでいました。

でも、彼らがのその希望に集中しすぎたので、イエス様の率直な言葉が理解できませんでした。それに、彼らは、イエス様にその言葉について尋ねるのを恐れました。

どうして彼らは恐れたでしょうか。私は、彼らがイエス様の叱責を恐れたと思いません。たぶん彼らは、イエス様の言葉はたとえではないことを恐れました。彼らはイエス様が殺されるという言葉を集中しすぎたので、イエス様がよみがえられることを聞きませんでした。

私たちは、この話から何を学ぶことができますか。

時々、私たちの考え方にこり固まるので、イエス様がはっきり話しても、私たちはその言葉が理解できません。私たちはこう思います。「イエス様はこう言っているみたいだけど、きっとイエス様が意味したのは違うことだろう。」

でも、私たちはイエス様に尋ねたくないです。なぜなら、イエス様が本気でそう言ったなら、私たちの考え方や、ふるまいを変えなくてはならないから。でも、変えるのはちょっと怖いです。

例えば、パウロはこう言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(第二コリント6:14)

つまり、相手があなたを神様とその道から引っ張るなら、その人から、離れた方がいいです。

でも、クリスチャンじゃないと付き合っているクリスチャンにとって、またクリスチャンじゃない人と婚約しているクリスチャンにとって、それは怖い言葉です。

「彼氏と別れた方がいいという意味ではないだろう?」

でも、彼らは神様に訊きたくないです。そうすると、彼らはその人と別れなくてはならないと思うから。

また、パウロは「不品行を避けなさい。」と言います。(第一コリント6:18)

だから、あるクリスチャンは、「その意味したものは、私の彼氏と寝てはだめということだろうか。」

でもその人は神様に訊きたくないです。なぜなら、その人はもう彼氏と寝ているからです。

正直に言うと、時々、真理を聞くのは痛いです。時々、あなたの考え方とふるまいを変えるのは大変痛みを伴うことです。でも、私たちはそのネガティブなことに集中するので、ポジティブなことが見えません。

例えば、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」のある個所には、この言葉もあります。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント6:17-18)

また、「不品行を避けなさい。」のある個所には、この言葉があります。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であることを知らないのですか。」(第一コリント6:19)

私たちは、そのことをもっと考えた方がいいです。

だから、私たちは聖書について質問があれば、訊いた方がいいです。またその言葉を抱きましょう。その言葉によって、生きましょう。最初は、ちょっと痛いかもしれないけど、最終的に私たちは神様からの祝福を知ります。

 

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マタイ17:14-20;マルコ9:14-29;ルカ9:37-43--私たちの信仰はどこでしょうか

私の信仰はどこだろうか。

時々私は自分自身にそう訊きます。「どうして私は神様をもっと信頼しないだろうか。」

でも、時々、私はちょっと違う質問を訊きます。「私は何を信頼しているだろうか。」

この個所では、その二つの質問は浮かびます。

イエス様とヨハネとヤコブとペテロは、山から帰ったとき、他の弟子たちが律法学者と論じ合っていました。何について論じ合ったか分かりませんけど、もしかすると、律法学者はこう言ったかもしれません。

「あなたの先生は神様から来たのではありません。ほら。あなたたちは、この男の子から悪霊を追い出させられません。」

とにかく、イエス様が彼らが何について話したか尋ねたら、その男の子のお父さんはこう言いました。

先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(マルコ9:17-18)

そして、そのお父さんは必死に願いました。

もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ9:22)

イエス様はこう答えました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)

私は、そのお父さんに共感できます。彼はこう言いました。

信じます。不信仰な私をお助けください。(9:24)

どのように、そのお父さんは、その言葉を言ったでしょうか。もしかしたら、彼の希望がほとんど無くなったので、あまり信じなかったでしょう。でも、彼はイエス様が助けられないなら、誰も助けられないとわかりました。

だから、イエス様の目を見ると、そのお父さんは泣いて、自分の不信仰を認めました。「イエス様、私は信じたいけど、この問題はずっと続いて来ました。あなたを信じるのは、とても難しことです。でも、あなたが助けてくださらないと、私は希望がありません。私が不信仰を克服するように助けてください。」

イエス様はその父の願いを聞くと、その悪霊を追い出しました。

私は、この話から希望を受けます。私はよく不信仰と戦います。私の信仰の水滴は、不信仰の津波に圧倒されます。そのお父さんは、そのように感じたでしょう。でも、そのお父さんは不信仰なのに、イエス様は憐れみと恵みを示し、その息子を癒してくださいました。

時々、私も神様の良さを疑います。でも、私が叫ぶとき、イエス様は答えてくださいます。神様は私に憐れみと恵みを与えてくださいます。そして私はもう一度神様の恵みと憐れみを思い出します。

とにかく、この話では、弟子たちはイエス様に訊きました。

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)

そして、イエス様は彼らに信仰について教えます。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

でも、イエス様はもう一つのことを言いました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。(9:29)

覚えていてください。その事件の前に、彼らはイスラエルの中で、人々からたくさんの悪霊を追い出しました。でも、時間が経てば経つほど、彼らはその力がどこから来たか忘れたかもしれません。だから、彼らは神様を信頼せずに、彼らは自分の力と方式に頼り始めたかもしれません。だから、彼らが祈ることを忘れて、その悪霊を追い出すことができません。

私は、その話を読むと、自分自身にこう訊きます。「私は何を信じるでしょうか。私の能力や賜物に頼るでしょうか。私の知恵に頼るでしょうか。もしかしたら、神様に頼るでしょうか。神様を信頼すると、私がからし種ほどの信仰があっても、何でもできます。でも、自分自身に頼ると、私は何もできません。

毎日、私はそのことについて考えなくてはなりません。私はよく失敗します。あなたも不信仰と戦うなら、私と一緒に祈りませんか。

イエス様。私の信仰はどこですか。私の状況を見るとき、私はよくパニックになって、あなたが私を助けられるかどうか疑います。私の不信仰を赦してください。私がすべてのことであなたを信じるように助けてください。私の心と状況の中で働いて、私に平和と喜びを与えてください。

私は何を信頼するでしょうか。私はよく自分自身に頼るので、失敗します。赦してください。私があなたの声を聞こえるように助けてください。私が毎日あなたを信頼するように助けてください。アーメン。

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マタイ17:1-13;マルコ9:2-13;ルカ9:28-36--聞きなさい

福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも興味深いです。

イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを砕けたばかりでした。それに、弟子たちはイエス様が死んで、よみがえる話がさっぱり分かりませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話をおいておいて、そのことを考えないように努力しました。

弟子たちは、「イエス様は、ただのたとえを言っているのだろう。もしかして、イエス様は間違えているかもしれない」と考えたかもしれません。とにかく、彼らは心の中で、イエス様の言葉と取り組んでいませんでした。

だから、その一週間ぐらい後、イエス様はもっとも親しい弟子たちの三人がそのことを理解させるように努力しました。

ところで、マタイとマルコは「それから、六日たって」と言いますけど、ルカは、「これらの教えがあってから八日ほどして」と言います。どちらの方が正しいでしょうか。もしかしたら、ルカが間違っているのでしょうか。

実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現はよく使われた熟語でした。その意味したものは「一週間ぐらい」ということです。

もう一つの可能性は、その時代、ユダヤ人たちが日の部分(一時間でも)を一日とみなしたことです。(私たちはイエス様の復活について話すとき、そのユダヤ人たちの考え方をもう一度見ます)。だから、もしかしたら、ルカが意味したものは、メシアに関する会話が最初の日に起こり、山の話が最後の日に起こり、その間に六日間が経ったことです。

とにかく、イエス様はペテロとヤコブとヨハネを高い山に連れて行きました。そして、イエス様が祈っている間に、彼らは眠ったようです。だから、たぶん彼らは次の出来事をほとんど見逃しました。イエス様は輝いて、エリヤとモーセと話していました。そして、弟子たちは起きて、彼らがイエス様とエリヤとモーセの会話を聞いた時、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について話していました。(ルカ9:30-31)

弟子たちはそれを見て、完全に起きていて、いつものようにペテロは先に話し始めました。

先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)

でも、光り輝く雲がその弟子たちを包み、そして、雲の中から声が出ました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)

その声を聞くと、彼らは恐れて、ひれ伏しました。でもすぐに、彼らは違う声を聞きました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。

起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)

彼らが目を上げると、イエス様は普通に見えました。彼はもう輝いていなかったし、モーセとエリヤはもういませんでした。彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告しました。

人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)

どうして、イエス様は彼らにその幻を見せたのでしょうか。多分、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。でも、イエス様はもう一つのことを教えたいと思いました。それは、死は終わりではないことです。

彼らはモーセとエリヤを見ました。モーセは山で死んだけど、エリヤは死なずに、天国に行きました。でも、彼らはまだ生きていて、イエス様と話していました。

それでも、その三人の弟子たちは、まだ分かりませんでした。だから、彼らは山を降りている時、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合いました。(マルコ9:10)

でも、私にとって、一番印象を残ったものは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

時々、イエス様の弟子たちのように、私たちはイエス様の言葉が完全に理解できません。あとで、弟子たちのように、私たちはその言葉が理解できるようになります。でも、その言葉がわかっても、分からなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送ったので、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなくてはなりません。

あなたはどうですか。イエス様の言葉が理解できなくても、イエスを信頼し、その言葉に従うでしょうか。

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マタイ16:24-28;マルコ8:34-9:1;ルカ9:23-27--一番大切なもの

あなたは何のために生きているでしょうか。何を求めているでしょうか。

楽な人生でしょうか。お金でしょうか。この世の物でしょうか。

この個所では、イエス様は私たちが自分の優先順位を考え直すように挑戦します。イエス様は弟子たちに、また私たちに、本当に難しい事を言いました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)

イエス様は私たちにそう要求したけど、イエス様自身がそのように生きていました。

イエス様は自分自身を捨てました。

イエス様は天国におられ続け、私たちをほっといて、地獄に行かせることができました。でも、イエス様は天国を立ち去って、栄光を離し、天使の礼拝を離し、この世に来て、人間になりました。この世で、イエス様は自分のニーズを考えず、周りの人々のニーズに備えようと思いました。

イエス様は十字架を負いました。

イエス様は打たれて、たくさんの血をなくしたのに、自分の十字架を死刑の場所まで負いました。そして、十字架で彼はすごく苦しんで、死にました。どうしてでしょうか。

天の父の計画を果たすためです。私たちの救いのために死にました。

イエス様が自分自身を捨てたように、私たちも自分自身を捨てるべきです。私たちがこの人生を楽しんではだめだというのではありません。イエス様は、自分の人生を楽しみました。でも、神様の計画を果たすために、私たちが自分のニーズと要望を捨てるときもあります。

時々、私たちは苦しまなくてはなりません。私たちの家族は私たちの信仰のゆえに私たちを拒絶するかもしれません。私たちが日曜日に働かないため、私たちは首になるかもしれません。私たちは、イエス様に従うために迫害されるかもしれません。

でも、苦しんでも、私たちはイエス様に従うべきです。

どうしてでしょうか。イエス様にあって、私たちは一番大切なものを見つけるからです。それはイエス様との関係です。また、私たちのためのイエス様の計画を果たすことです。

でも、ある人は、自分が欲しいもののためにイエス様とその計画を捨てます。彼らは自分が欲しいものを捨てずに、イエス様を捨てます。でも、イエス様は彼らにこう言います。

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。(ルカ9:25-27)

痛烈な皮肉だけど、あなたがイエス様を捨て、自分が欲しいものを持ち続けるなら、最終的にあなたはすべての物をなくしてしまいます。でも、自分が欲しいものを捨て、イエス様に従うなら、本当の満足と平和を見つけます。なぜなら、裁きの日に、イエス様は私たちに報いを与えてくださるから。

この世にも、私たちはその栄光を垣間見ます。

だから、イエス様は弟子たちにこう約束しました。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(マルコ9:1)

弟子たちはイエス様のために苦しんだけど、彼らは神の国が力をもって到来しているのを見ました。神様は彼らを通して奇跡を行ったし、福音を通して、たくさんの人々の人生が変えられました。

また、彼らはイエス様のために殺されたけど、神の国に着いたら、素晴らしい報いを受けました。

あなたはどうですか。一番大切なものを得るために、あなたが欲しい物を捨てるでしょうか。

 

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マタイ16:21-23;マルコ8:31-33;ルカ9:22--イエス様の邪魔するもの

私たちはよく、ほかのクリスチャンにとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように注意されます。

また、私たちは、キリストを信じない人々に対して、イエス様がつまずきの石、妨げの岩であることをよく聞きます。

でも、どのぐらい私たちがイエス様とその働きの邪魔するものになるでしょうか。この個所を読んだとき、そのことを考えました。

イエス様は弟子たちに、神様の計画を果たすため、イエス様が死ななければならないと伝えました。

弟子たちはそれを聞いて、驚きました。彼らは初めてその話を聞いたし、彼らのメシアのイメージに合わなかったのです。彼らは、イエス様がローマ帝国を滅ぼし、イスラエルを解放すると思いました。彼らがイエス様の大臣になると思いました。だから、彼らはイエス様の言葉を聞いて、本当に当惑しました。

でも、いつものように、ペテロは先に自分の思いを表現しました。

主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。(マタイ16:22)

「神の御恵みがありますように」という言葉は、文字通りの翻訳だけど、その意味は、「まさか!」ということです。

つまり、ペテロはイエス様の言葉に大反対しました。

どのぐらい、私たちはイエス様を「主」と呼ぶけど、イエス様の言葉に反対するでしょうか。ペテロはそうしました。

だから、イエス様は彼を厳しく叱責しました。

下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(23)

イエス様にあなたをサタンと呼ばれるなら、あなたはどう感じるでしょうか。イエス様はペテロをサタンと呼びました。なぜなら、サタンの言葉がペテロの口から出たから。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で死ぬことを決定しました。でも、ペテロはイエス様の計画に大反対しました。だから、イエス様の敵がイエス様を逮捕しようと思ったとき、ペテロは、(下手に)彼らを攻撃しました。

でもその態度のため、彼はイエス様とその計画の邪魔ものになりました。ペテロは、自分の思いをイエス様の思いに合わせようと思いませんでした。むしろ、ペテロはイエス様の思いをペテロの思いに合わせようとしました。

あなたはどうですか。あなたの人生に、あなたは神のことを思っているでしょうか。もしくは、人のことを思っているでしょうか。あなたの計画を神様の計画に合わせているでしょうか。もしくは、あなたは神様の計画をあなたの計画に合わせようとしているでしょうか。

あなたは神様の御心に従っているでしょうか。もしくは、神様の名前を自分の計画につけようとしているでしょうか。

主よ。私が、あなたの邪魔ものにならないように。私が自分自身に集中しすぎないように。私があなたの計画を見逃さないように。私があなたの計画の邪魔ものにならないように。私が神のことを思わないで、人のことを思っている時を赦してください。私を形成してください。私を変えてください。私が、毎日、毎秒、あなたに従うように助けてください。アーメン。

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マタイ16:13-20ーー教会が立つ基礎

これは本当に印象的な個所なので、もう一度見て目ましょう。

ペテロがイエス様がキリストだと告白した後、イエス様は彼を誉めました。

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(17-19)

それは本当に印象的な言葉だけど、その言葉が意味したものは何でしょうか。私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

最初に、神様が自分自身を現わすと、救いが来ることです。人々に神様が見えないので、神様が自分自身とその真理を現わさなければ、私たちは神様のことを知ることができません。だから、救いは本当に恵みから来るものです。

カトリックたちはペテロのことを尊敬し、ペテロの権威によってイエス様が教会を建てると教えます。

でもこの個所では、イエス様はそう教えていません。ペテロという名前は、小さい石という意味です。でも、イエス様は、岩の上に教会を建てるとおっしゃいました。

ペテロ自身はその言葉を覚えていて、こう言いました。

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:4-6)

ペテロによれば、教会は何の石の上に立つでしょうか。それはイエス様です。

我々クリスチャンたちは何者でしょうか。私たちは生ける石です。そして、神様は私たちを用いて、自分の家、つまり、自分の神殿を建てています。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きのため、神様の祭司になりました。私たちには祭司が要りません。ならなら、私たち自身が神様の祭司ですから。私たちは確信をもって、大胆に天の父のみもとに近づくことができます。

教会がイエス様の上に建てられたので、ハデスの門もそれには打ち勝てません。サタンはずっと教会を滅ぼそうとしたけど、教会はまだ立っているし、イエス様が戻るまで立ち続けます。

イエス様はペテロに特別な権威を与えたでしょうか。多分そうしました。だけど、その時、ペテロとほかの弟子たちは、イエス様の言葉をちゃんと理解しなかったと思います。

イエス様が天国に戻った後、ペテロの最初のメッセージを通して、たくさんのユダヤ人がクリスチャンになりました。(使徒の働き2章)

また、異邦人も、ペテロを通して福音を聞いて、始めてクリスチャンになりました。(使徒の働き10-11)

つまり、ペテロは、天の御国の鍵を使ったので、ユダヤ人と異邦人は初めて神の国の門に入りました。

また、その鍵を使って、ペテロとヤコブは、ユダヤ人たちの儀式的な律法のほとんどと、食事に関するルールのほとんどを解いたけど、教会の平和を守るためにある律法を守りなさいと言いました。(使徒の働き15章)

それでも、ペテロが最初の法王で、ほかの人々がペテロの権威と立場を継いだと言えません。イエス様は、そんなことを決して言いませんでした。

でも、ある程度、イエス様の言葉はクリスチャンの皆に当てはまります。神様の祭司として、私たち皆は天の御国のかぎを受けました。そして、私たちが福音を延べ伝えると、その福音を聞いて信じる人々に天の国の門は開きます。

また、私たちは信じる人々に、彼らの罪が恵みによって赦されることを宣言する権威を持っています。だから、彼らは、自分の働きによって、救いを得ようという考え方から解放されます。

だから、その鍵を使いましょう。そうすれば彼らも、私たちがいただいた救いを受けるのです。

 

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マタイ16:13-16、20;マルコ8:27-30;ルカ9:18-21--一番大切な質問

イエス様はミニストリーの半分ぐらいを終えた頃、十字架について考え始めました。だから、イエス様は、弟子たちがイエス様についてどう考えたか知りたいと思いました。イエス様がただの預言者だと考えていたでしょうか。ただの良い先生だと思ったでしょうか。

だから、イエス様は弟子たちにこう訊きました。「人々は私をだれだと言っていますか。」

弟子たちはいろいろと答えましたが、その後、イエス様は彼らに訊きました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

その質問は、その世代のためだけではなく、すべての世代のためです。今なお、イエス様は私たちに訊きます。「あなたは私を誰だと言いますか。」

イエス様を預言者だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は預言者でした。イエス様を通して、私たちは神様の言葉を聞きます。

イエス様を良い人だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は良い人です。彼は全然罪を犯しませんでした。

でも、イエス様はただの預言者でしょうか。イエス様はただの良い人でしょうか。

ペテロはそう思いませんでした。彼はこう言いました。

あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)

ペテロがそう言ったとき、ユダヤ人たちは「メシア」、また「キリスト」という言葉がちゃんとわかりませんでした。(メシアとキリストは同じ意味です。)

弟子たちも、その意味が分かりませんでした。だから、イエス様は、自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められました。もしあなたが、あるコンセプトが分からないなら、どうやってほかの人々に説明できるでしょうか。

彼らは、メシアが人々の罪のために死ななくてはならないことが分かりませんでした。彼らが分かったのは、いつかメシアがイスラエルを治めることでした。だから、彼らが「キリスト」や、「メシア」を聞くと、そのイメージが出てきました。

あなたはどうですか。イエス様がメシアであることを信じるでしょうか。つまり、イエス様があなたの罪のために死んだことを信じるでしょうか。また、イエス様は、あなたの王でしょうか。あなたの人生をイエス様にささげたでしょうか。

イエス様は、ただの預言者ではありません。イエス様は、ただの良い人ではありません。イエス様は神です。

ユダヤ人たちは、イエス様の主張がよくわかりました。ある意味、私たち皆が神様の子供たちです。なぜなら、神様は私たちを創造しましたから。でも、「あなたたちと違って、私は本当に神の子である」というのは、「私は神である」という主張でした。その主張のため、ユダヤ人たちは、十字架でイエス様を殺しました。(ヨハネ5:18、マタイ26:63-66)

イエス様があなたの神と王なら、イエス様はあなたの礼拝と奉仕に値します。でも、あなたはそう信じるでしょうか。ペテロのように、あなたは、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と言えるでしょうか。

そう信じているけれど、まだそのことを告白していないなら、今祈りませんか。

イエス様、あなたが、ただの良い人だと思いません。あなたが、ただの預言者だと思いません。あなたが神であることを信じます。あなたが、十字架で私の罪のために死んだことを信じます。またあなたが三日目によみがえられたことを信じます。それを本当に感謝します。私の神になってください。私の王になってください。これから、私はあなたに従いたいです。どうやって生きた方がいいか教えてください。アーメン。

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マルコ8:22-26--盲人

17年くらい前の話ですが、私の父が転倒した際メガネが割れて、父の目にガラスが入ったので、目が見えなくなりました。

多分、この個所では、この男性には似た経験がありました。彼は若い時にちゃんと見ることができたけど、事故や病気のせいで、目が見えなくなりました。どうしてそう考えられるかと言うと、彼は木や人の形をよく知っていたから。

とにかく、イエス様がその人を癒した時、その手順はちょっと珍しいものでした。イエス様はその男性の両目に唾きをつけ、その目に触りました。もしかしたら、多くの盲人のように、瞼はちょっと粘っている物のせいで閉じていたので、それを洗わなくてなりませんでした。そして、イエス様はその目を開きました。その後、イエス様は「何か見えるか」と訊きました。

その男性は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と答えました。

イエスがもう一度彼の両目に触って、その男性の目はすっかり治りました。

イエス様がその人の目を癒したように、霊的に盲目な人々を癒してくださいます。でも、この話のように、時々手順があります。イエス様は彼らの霊的な瞼を開くために、彼らの罪深い考え方を洗います。そして、彼らはちょっと見ることができるようになるけど、はっきり見ることができません。でも、イエス様は彼らにもう一度触れると、彼らの霊的な目はすっかり治ります。その時、彼らの最初の見るものはイエス様です。

そして、イエス様は彼らの思いと人生を変えて、彼らは新しい人になります。

だから、もし、周りの人々がイエス様が見ることができず、人生を変えられる真理がわからないなら、諦めないでください。時間がかかるかもしれません。

また、あなたは彼らの霊的な目を開くことができません。イエス様だけが彼らの目を開くことができます。だから、彼らのために祈り続け、霊的な種を蒔き続けてください。

そして、神様の恵みによって、いつか彼らの目が見えるようになります。

 

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マタイ15:29-39;マルコ8:1-21-律法主義。この世を愛すること。

私は、このブログで何回も言ったことがあるけど、牧師のメッセージを聞いても、ポッドキャストを聞いても、クリスチャンの本を読んでも、その教えを聖書と比べるべきです。実は、このブログの記事も、聖書と比べるべきです。(あなたがこのブログを読むとき、その聖書の個所も読んで、私の言葉を調べるでしょうか。)

とにかく、この個所では、どうして私たちが人々の教えを聖書と比べるのは大切なのか学びます。この個所では、イエス様は、5000人にパンを与える奇跡を繰り返します。でも、これは全然違う出来事です。人数が違ったし、パンと魚の数も違いました。

その奇跡のあと、パリサイ人たちとサドカイ人たちはイエス様のところに来た。(もしかしたら、サドカイたちの中では、ヘロデ王に従う人もいたかもしれません)。

もう一度、彼らはイエス様に天からのしるしを求めたけど、イエス様は断りました。その会話の後、イエス様は、弟子たちにこう言いました。

パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。(マタイ16:6)

(マルコによれば、イエス様は「ヘロデのパン種に十分気をつけなさい。」と言います。多分、イエス様はヘロデに従うサドカイ人たちについて話しました。)

いつものように、弟子たちは混乱しました。

「私たちはパンがない。でも、もしかしたら、私たちはパリサイ人とサドカイ人からパンを買ってはいけないのでしょうか。」

でも、イエス様は彼らを叱りました。「なぜ、パンについて話しているのですか。あなたは、私が5000人にパンを与えた時、また、4000人にパンを与えた時のことをもう忘れたのですか。私は、そんなパンについて全然話していません。」

そして、マタイはこう言います。

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(マタイ16:12)

彼らの教えは何だったでしょうか。

パリサイ人の教えは律法主義です。彼らは、自分の良い行動によって神様の国に入ることができると思いました。だから、彼らは、律法を勉強して、頑張ってその律法に従おうと思いました。

でも、彼らは神様の律法に、たくさんのルールを加えました。だから、彼らは、人々に神様が意図しない重荷をかけました。それに、パリサイ人が加えたルールを守らない人々を批判しました。

さらに、彼らは、神様の律法に反対するルールも作りました。

それだけではなく、彼らは律法の細かいことに集中しすぎたので、その律法の精神を見逃しました。だから、彼らは、間違って人々を裁きました。それに、彼らは、本当の正義と憐れみを忘れてしまいました。ほかの個所を読むと、そのことがよくわかります。

その反面、サドカイ人たちは富と力に興味がありました。だから、彼らはローマ帝国(とヘロデ王)と協力しました。それに、彼らは復活を信じませんでした。だから、彼らは永遠の物ではなく、一時的なものに集中しました。

だから、イエス様は律法主義と、この世を愛することについて警告します。どっちも、パン種のように教会に広まります。そうなると、神様は、その教会をもう用いられません。

あいにく、その時代、多くの人々は、パリサイ人とサドカイ人の教えを調べませんでした。だから、彼らは律法とルールによって圧倒されて、神様に裁かれると感じました。また、ほかの人々は永遠の物に集中せずに、一時的な物のために生きました。

あなたはどうですか。あなたは、この二つの罠に入っているでしょうか。

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マタイ15:19-31;マルコ7:31-37--人々をイエス様に連れて行くこと

この個所では、私たちはイエス様の癒しのミニストリーの人気を見ることができます。

私の心に打つのは、多くの癒されたいと思った人々は、一人でイエス様のところに行かなかったことです。むしろ、友達や家族が彼らをイエス様のところに連れて行きました。そして、イエス様は彼らを癒してくださいました。

その時代、イエス様が目と耳を癒したように、現代でもイエス様は霊的な目と耳を開いてくださいます。その時代に、イエス様が人々の体を癒したように、今イエス様は人々の心を癒してくださいます。

もちろん現代でも、イエス様は人々の体を癒してくださいます。でも、それよりも、イエス様は人々の心と魂を癒したいのです。(例えば、マルコ2:1-12を読んでみてください。)

とにかく、人々が病気の友達と体が不自由な友達をイエス様の所に連れて行ったように、私たちも苦しんでいる人々と霊的に病気な人々をイエス様に連れて行くべきです。私たち自身は彼らを癒すことができないけど、イエス様は彼らを癒すことができます。でも、私たちは、彼らが自分でイエス様のところに行くことを待つべきではありません。むしろ、私たちは、積極的に彼らをイエス様のところに連れて行くべきです。

でもこのことを覚えていてください。イエス様は、しばしば人々にこう訊きました。「わたしに何をしてほしいのか、」

また、「よくなりたいか。」

彼らが癒しを望んだら、イエス様は彼らを癒してくださいました。

そのように、私たちは人々をイエス様のところに連れていくかもしれないけど、彼らは決断をしなくてはなりません。彼らは癒しを望むかどうか決めなくてはいけません。彼らはイエス様が提供するものを受けるかどうか決めなくてはなりません。彼ら自身はそう決めなくてはなりません。

あなたはどうですか。あなたは人々をイエス様のところに連れて行っているでしょうか。

 

 

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マタイ15:21-28;マルコ7:24-30--根気、謙虚、信仰

イエス様はこの女性と話した時、何を考えていたでしょうか。彼は話した時、どんなトーンを使ったでしょうか。

ユダヤ人と向き合った後、イエス様はイスラエルから出て、ツロとシドンに行きました。その場所はイスラエルの北で、海岸が近い所でした。

イエス様は、こっそりそこに行ったけど、すぐにその人たちはイエス様がおられることを聞きました。ある一人の女性も、その知らせを聞きました。彼女はギリシャ人だったけど、その辺に生まれました。(だから、マルコの福音書によれば、彼女はカナン人と呼ばれました。)

彼女の娘が悪霊に取りつかれていたので、イエスに助けてくださるように頼みました。

主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。(マタイ15:22)

普通は、イエス様は人々と思いやりをもって話したけど、この場合、そうしませんでした。イエス様は彼女の願いを聞いたけど、彼女を無視しました。

それでも、彼女はあきらめずに、必死に叫び続けました。「主よ。私の娘を助けてください。」

だから、イエス様はの弟子たちはイエス様にこう言いました。

あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。(マタイ15:23)

それを聞いて、イエス様はその女性に向かって、こう言いました。

わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。(マタイ15:24)

イエス様は、どのようにそう言ったでしょうか。ちょっとイライラされた声で言ったでしょうか。もしかすると、ちょっと謝るような声で、そう言ったでしょうか。「ごめんね。助けたいけど、私はユダヤ人たちのために遣わされているのです。」

イエス様がどのようにその言葉を言ったか分からないけど、彼女は、まだあきらめませんでした。むしろ、彼女は、イエス様のもとに来て、ひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言いました。

でも、もう一度、イエス様は、ちょっと厳しい言葉で断ります。

子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです(マタイ15:26)

イスラエルでは、誰かを犬と呼ぶなら、侮辱でしたけど、でもイエス様は「子犬」と言いました。彼らの言語では、その「小」を付けたら、ちょっと相手を可愛がるニュアンスがありました。それでも、多分、多くの人がそれを聞くと、彼らの感情が害されたかもしれません。

でも、彼女は怒らずに、イエス様の言葉を用いて、こう言いました。

主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。(マタイ15:27)

つまり、「あなたがユダヤ人のために遣わされていることを知っているけど、彼らが要らない落ちるパンをいただいてもいいでしょうか。」

それを聞いて、イエス様は意外な褒める言葉を言いました。

ああ、あなたの信仰はりっぱです。(マタイ15:28)

イエス様が相手の信仰のために褒めることは本当に珍しいことでした。二回だけそんなことがありました。その二人目の人も異邦人でした。(マタイ8:5-13)

とにかく、イエス様はその女性の信仰を見て、感動したので、その娘を癒しました。

私たちは、その話から何を学ぶことができるでしょうか。

時々、私たちが祈るとき、私たちは神様が静かだと思います。私たちは無視されていると思います。でも、この女性のように、私たちは根気をもって、祈り続けるべきです。

もちろん、私たちはイエス様に命令できません。(時々、ある牧師たちは、そんなことを教えます。)

でも、私たちは謙虚な態度をもって、イエス様が私たちを助けることができると信じるなら、多くの場合、イエス様はその願いを叶えてくださいます。

だから、私たちは自分自身にこう訊くべきです。

1.神様が良い方で、私たちを愛してくださることを信じるでしょうか。

2.神様がその願いが叶っても、断っても、私たちは、その答えが私たちの益のためだと信じるでしょうか。

3.神様は答えるまで(「はい」でも、「だめ」でも、)私たちは祈り続けるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは根気をもって祈り続けるでしょうか。神様を信頼するでしょうか。神様があなたの願いを断っても、あなたは謙遜にその答えを受け入れるでしょうか。

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マタイ15:10-20;マルコ7:14-23--本当に不潔な者

多分、たくさんの人々はモーセの律法を読むと、どうしてユダヤ人たちが聖いものと不潔なものに関して、いろんな律法があるかと訊きます。

多分ある律法は、健康や衛生の理由のためでした。

でも、神様はユダヤ人にもっと大切なことを教えたいと思っておられたのです。つまり、あるものは、あなたを汚します。

その物理的な聖いものと不潔なものは霊的な聖いものと不潔なものの例えでした。

だから、神様が教えたいのは、「あなた完全に聖いものになるべきです。」ということです。体だけではなく、あなたの霊も聖くならなくてはなりません。

残念なことだけど、ユダヤ人たちはあまりに物理的な聖さに集中したので、神様の要点を見逃しました。

だから、イエス様が、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」と言ったとき、その弟子たちは本当に混乱しました。

子供のころから、彼らは「このものを食べてはだめです。そのものを食べてはだめです。そのものを食べると、あなたは汚されるから。」と学びました。

だから、彼らはイエス様に訊きました。「ええ?どういう意味ですか。私たちは、あるものを食べると、私たちが汚されると教えられました。」

イエス様はこう答えました。

あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。。。人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:18-23)

イエス様の意味が分かりやすいと思うので、私はこれだけを訊きます。

あなたの心に何が入っているでしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、と自制という実が入っているでしょうか。そうなら、そのものは自然にあなたの口と人生から流れます。

でも、あなたの心に悪い考え、不品行などが入ると、そのものは、あなたの口と人生から自然に流れます。そんなものは、あなたを汚してしまいます。

あなたの口から何が流れているでしょうか。あなたの人生から何が流れているでしょうか。

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マタイ15:1-9;マルコ7:1-13--私たちの人生の目安

何によって、自分の価値観が続くでしょうか。それは本当に大切な質問です。なぜなら、あなたの価値観によって、あなたはいろんな決断をしますから。

パリサイ人たちにとって、モーセの律法や、預言者の言葉はとても大切でした。でも彼らの伝統は何よりも優れたものでした。多分、彼らはそう言わなかったけど、彼らはそのように生きました。だから、時々彼らは神様の戒めを離して、自分の伝統に従いました。

だから、イエス様は彼らを責めました。

あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)

あいにく、たくさんのクリスチャンたちは、そのように生きます。彼は神様の言葉を無にして、ほかの基準に従います。

ある人は、自分の文化と伝統に従います。たとえば、彼らは仏壇で線香をあげます。

「それは文化的なことだけです。深い意味がありません。ただ日本の風習です。」

でも、そうすれば、彼らは文化と伝統のために神様の戒めを離しています。(第一コリント10:19-22)

でも、文化はほかの方法で私たちに影響を与えるかもしれません。

アメリカでは、今ある人々は「私はキリストを信じる。キリストに従う」と言うけど、「神様の目には、同性愛は良いものです」と言います。

どうしてでしょうか。彼らはますます神様に反抗する文化に従っているから。彼らは、自分の価値観をこの世の文化の目安に調子を合わせています。でもそうする上で、彼らは神様の戒めを離さなくてはなりません。

あるクリスチャンは自分の間違っている意見を離さずに、神様の戒めを離します。例えば、神様は「クリスチャンじゃない人と結婚するな」と言います。

でも、彼らは言います。「でも、私はこの人を愛している。なんとかなるだろう。」

だから、彼らは神様の戒めを捨てて、その人と結婚します。

あなたはどうですか。あなたの目安は何でしょうか。文化でしょうか。伝統でしょうか。自分の意見でしょうか。

事実は、一つの目安しかありません。それは神様のみ言葉です。

文化は変わるかもしれません。伝統は変わるかもしれません。あなたの意見も変わるかもしれません。でも、神様の言葉は決して変わりません。

イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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抜かれた?(旧約聖書が私たちに関係あるでしょうか)

普段私はこんなことをしないけど、最近、私は有名なアメリカの牧師のメッセージを聞いたので、そのことについて話したいと思います。

彼は、使徒の働き15章から話しました。私は、そのメッセージの80%ぐらいに賛成できたけど、あと20%は賛成できませんでした。

でも、彼を批判するよりも、私は、どのように旧約聖書が私たちに関係があるか話したいと思います。

多分、彼の要点は、クリスチャンになるために、私たちがユダヤ人になる必要がないことです。つまり、ユダヤ人たちは神様がモーセとイスラエル人に与えた契約に結ばれたけど、私たちは、その契約とは結ばれていません。今、クリスチャンたちの皆は(ユダヤ人でも、ユダヤ人じゃなくても)神様の恵みによって、神様の民になります。私たち皆、救い主が必要である罪人です。

多分、彼はそう言いたかったと思います。もしその牧師が、そのように説明していたら、彼を批判する人はいないと思います。でも、彼はこう言いました。

「不品行を定義するために、パウロやほかの使徒たちは旧約聖書、つまり、モーセの律法を調べませんでした。実は、彼らは罪を定義するために旧約聖書を全然調べませんでした。」

「あなたは、十戒とは全く関係ありません。あなたは、そのユダヤ人の律法、またモーセの律法に全然関係ありません。あなたは十戒に従うべきではありません。なぜなら、その律法は、あなたのためではないから。あなたが従う律法(つまり、隣人を愛する戒め)は、より優れたものです。あなたが従う律法は、もっと理解しやすいです。実は、あなたが従う律法は、あなたからもっと要求します。」

「ペテロとヤコブとパウロがクリスチャンの信仰について話したとき、旧約聖書に頼りませんでした。彼らは教会から旧約聖書の世界観や、価値観や、律法を抜きました。どうやってクリスチャンになることについて教えたとき、旧約聖書を全然使いませんでした。教会から旧約聖書の全体を抜きました。使徒たちは、クリスチャンの信仰から旧約聖書を抜いたし、私たちもそうするべきです。」

私は、この牧師の言葉を言いなおします。そうすれば、あなたには、彼の言葉と聖書の言葉の違いをはっきり見ることができると思います。彼の最後のポイントから始めましょう。

1.ペテロとヤコブとパウロは、クリスチャンになることと、ユダヤ人になることを区別しました。

ユダヤ人の世界観によれば、あなたが救われたいなら、ユダヤ人にならなくてはいけませんでした。また、モーセの律法のすべてを守らなくてはなりませんでした。だから、使徒の働き15章では、あるユダヤ人たちは「クリスチャンになりたいなら、ユダヤ人になるべきです」と言いました。でも、ペテロたちは、その考え方を捨てました。私たちも、そうするべきです。

それでも、旧約聖書は、教会とその教えにとって欠かせないものでした。だから、パウロはテモテにこう言いました。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。(第一テモテ4:13)

パウロは「聖書」と言ったけど、私たちの66書のある聖書(創世記から黙示録)について話していません。なぜなら、パウロがその言葉を書いた時、新約聖書は、まだ書かれている途中だったから。もう書かれた手紙と福音書があっても、多分テモテはそのすべてを持っていなかったでしょう。

それに、新約聖書の著者たちが「聖書」と言ったとき、その意味が「新約聖書の書」だったのは二回だけでした。(第二ペテロ3:15-16--パウロの手紙、第一テモテ5:17-18--多分ルカの福音書)。

だからパウロは「聖書」と言ったとき、だいたい旧約聖書について話していました。

ところで、その牧師の話の話では、もう一つの問題が出てきます。彼は、よく言います。

「使徒たちの信仰は特別な本(つまり、聖書)に基づいていなかった。なぜなら、彼らは特別な本を持っていなかったから。」

もちろん、使徒たちは新約聖書の全部を持ってはいなかったけど、彼はきっと旧約聖書をもって、教えました。使徒たちは、すべての教会で旧約聖書の全体を持っていたかどうかわかりませんけど、彼らの手紙でも、福音書でも、また彼らのメッセージでも、彼らは、いつも旧約聖書を引用しました。また、上記の個所では、パウロはテモテに、「旧約聖書を朗読しさい」と言いました。

この牧師は、もう一つのことをよく言います。「使徒の働きでは、ペテロたちは、いつもイエス様の復活について教えました。聖書ではなく、イエス様の復活は彼らの信仰の基礎でした。」

もちろん、イエス様の復活は、彼らの信仰の基礎でした。でも使徒の働きで、彼らのユダヤ人に対するメッセージを読んで見てください。彼らは復活だけはなく、旧約聖書も指摘しました。

「ほら、旧約聖書では、神様は、イエス様の死と復活について話しています。」

そして、パウロはコリント人に復活について話したとき、最初に旧約聖書を指摘しました。(第一コリント15:3-4)

だから、教会にとっては、旧約聖書は欠かせないものでした。でも、彼らは旧約聖書を読んだとき、ほかのユダヤ人と違うレンズを使いました。イエス様の復活の後、イエス様は彼らにそのレンズを与えました。(ルカ24:26-27、44-47)

もしあなたがそのことを疑うなら、使徒の働きと使徒たちの手紙を読んでみてください。何回も彼らはイエス様からのレンズを用いて、旧約聖書を教えました。彼らの教えには、旧約聖書は欠かせないものでした。

ところで、そのレンズは何でしたか。旧約聖書のすべてがイエス様を指していることです。イエス様の死と復活は一つの例です。

また、そのレンズのため、儀式に関る律法は私たちには、もう関係がないのです。その儀式はイエス様のことを示していました。でも、イエス様はもう来て、その律法を満たしたので、その儀式はもういりません。(へブル人への手紙8-10章を読んでください。)

ユダヤ人の民法もイエス様のことを指しています。例えば民法は聖さの大切さを教えました。また民法は、罪の深刻さを教えました。もしあなたが、民法に書かれた罰がひどいと思うなら、十字架を見てください。そこで、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

とにかく、ユダヤ人の民法の目的もイエス様を指しているので、イエス様が来た後、私たちはその律法に従う必要がありません。でも、その律法を読むとき、イエス様があなたのために何をしてくださったか忘れないでください。

2.教会で使徒たちは不品行や、ほかの罪について教えたとき、旧約聖書によって、その罪を定義しました。

私たちにとっては、「不品行」というのは、ちょっとあいまいなことかもしれないど、パウロは具体的にそれを説明しました。そして、その定義は旧約聖書の律法から来ました。パウロはこう言いました。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。(ローマ7:7)

パウロは、むさぼることについて話したけど、それは例だけでした。ほかの罪を入れてもいいです。だから、その言葉をちょっと変えてみましょう。

律法が、「姦淫してはならない。同性愛は罪です。獣と寝てはならない」と言わなかったら、私は不品行を知らなかったでしょう。

でも律法は足りませんでした。なぜなら、律法は罪を定義するけど、私たちに罪を克服する力を与えてくれないから。だから、パウロはこう言いました。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

地図は私たちの目的地を示していますが、その地図が私たちの手を取って、導くことはできません。そして、私たちが地図を読めなくて、フラストレーションを感じるとき、その地図は私たちを慰めず、助けることができません。

そのように、神様の律法は、正しいことと罪を定義することできるけど、私たちに罪と戦う力、また正しいことをする力を与えることができません。むしろ、私たちが罪を犯すと、律法は私たちを裁きます。だから、私たち皆にイエス様が必要です。

3.あなたがクリスチャンなら、あなたは十戒に従います。

「あなたがクリスチャンなら、十戒に従いなさい」と言っていません。

クリスチャンが十戒に従うのは、事実です。もちろん、あなたは完全に十戒に従うことができません。でも、聖霊様の導きと力によって、あなたはだんだん十戒に従い始めます。あなたが頑張っているから、十戒に従うというわけではないです。むしろ、毎日、聖霊様が、あなたを導いて、あなたの考え方と生き方を変えるのです。

聖霊の導きによって、私たちは律法の文字だけに従うだけではなく、その律法の精神にも従い始めます。つまり、私たちは神様を愛し、隣人を私たち自身のように愛します。それは、もちろんより優れた命令です。なぜなら、その命令には、抜け穴がないのですから。

要するに、私たちはユダヤ人になる必要はありませんが、私たちはまだ旧約聖書に強い関係があります。私たちはユダヤ人ではありませんが、私たちが教会に入れる理由は、ヤコブが教会を旧約聖書につないだから。つまり、

この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。(使途の働き15:16-18)

もちろん、私たちは新約聖書と旧約聖書(つまり、神様との新しい契約、神様との古い契約)を混ぜません。でも、私たちは旧約聖書が私たちにまったく関係ないと言えません。むしろ、私たちは新しいレンズを用いて、旧約聖書を読みます。そのレンズは、イエス様のレンズ。

そこで、イエスは、聖書(つまり、旧約聖書)を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:45-47)

 

 

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マタイ15:1-14;マルコ7:1-15--手引きする盲人から立ち去る

この個所では、イエス様はもう一度パリサイ人たちと向き合います。イエス様の弟子たちはユダヤ人の長老たちの伝統に従わずに、手を洗わずにパンを食べました。だから、パリサイ人はイエス様とその弟子たちを批判しました。

でも、イエス様はパリサイ人たちを批判しました。なぜなら、彼らは自分の伝統のために神様の律法を犯していたからです。例えば、パリサイ人たちはユダヤ人たちにこう教えました。

「あなたのご両親が貧しくても、あなたは「私のお金を神様にささげたので、あなたを助けることができない」と言うのであれば、ご両親を助けなくてもいいです。」

でも、神様は「あなたの父と母を敬いなさい」と命令しました。

だから、イエス様は預言者イザヤの言葉をパリサイ人に当てはめました。

この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。(マタイ15:8-9)

そのあと、イエス様の弟子たちはイエス様にこう言いました。

パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。(マタイ15:12)

でも、イエス様はこう答えました。

わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。(マタイ15:13-14)

私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。あなたが誰に聞くか注意するべきです。

多くの人々は上手に話すことができます。彼らは話すときに、神様からの権威を持っているように見えます。

でも、彼らの言葉が神様の言葉に反対するなら、結局彼らのミニストリーは偽物として暴露されて、引っこ抜かれます。

この世では、そのミニストリーが栄えても、裁きの日に神様はその働きを燃やしてしまいます。そのリーダーは救われるかもしれないけど、彼らが達成したものは全部燃やされます。(第一コリント3:10-15)

だから、あなたが聞くことを調べてください。牧師の教えでも、クリスチャンの本の教えでも、ポッドキャストの先生の教えでも、ちゃんと調べてください。

その言葉が聖書に合うなら、あなたは従うべきです。でも、聖書の教えと違うと、その人の言葉を捨てるべきです。

もし、その先生は何回も聖書と違うことを教えるなら、その人から立ち去るべきです。そうしないと、彼らが落ち込む穴に、あなたも落ち込みます。

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ヨハネ6:60-71--躓かせる者

イエス様の話を聞いたとき、どうしてユダヤ人は気分を害したのでしょうか。もしかしたら、彼らはイエス様の言葉を誤解したかもしれません。つまり、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(53-56)

もし、その言葉を文字通りに解釈するなら、誰でも面食らうでしょう。でも子供のころから、ユダヤ人たちの皆は、獣や鳥を食べる前に、その血を注ぎ出しなくてはいけないと教えられました。つまり血を食べては絶対ダメだと教えられました。(レビ記17:10-14)

でもその時、イエス様は文字通りに話をしていたわけではありません。イエス様はたとえ話をしていたのです。

以前の記事で私は言ったけれでも、イエス様の肉を食べるのは、イエス様のところへ来ると言う意味です。イエス様の血を飲むのは、イエス様を信じるということです。そして、あなたがイエス様のもとに来て、信じるなら、あなたは決して霊的に飢えないし、渇きません。(ヨハネ6:35)

とにかく、もしかしたら、ユダヤ人たちはイエス様の言葉を文字通りに解釈したから、機嫌が悪くなったのかもしれません。

でも、もしかしたら、彼らはイエス様の言葉をちゃんと理解できたけど、その言葉を受け入れられなかったのかもしれません。つまり、永遠の命に至る道は、イエス様しかないことです。

今なお、人々はその言葉を聞いて、「これはひどい言葉だ。そんなことを誰が聞いておられようか」と言います。(60)

クリスチャンたちが神様への道はキリストしかないと言うと、多くの人々はむっとします。だから時々、クリスチャンのリーダーたちでも、その真理を教えるのをためらいます。

「まあ、多分イエス様は、自分がただ一つの道だと意味しなかっただろう。ほかの方法があるかのしれません。」

でも、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言ったとき、本気でそう言いました。もしイエス様のところへ行かず、信じないなら、誰も永遠の命を受けられません。イエス様を拒絶する人に対しては、裁きしかないのです。

イエス様はユダヤ人たちにこう言いました。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(63)

つまり、「律法を守るあなた自身の努力を通して、あなたは天国に行こうと思っています。でも、その努力はむなしいものです。あなたの努力は足りないから。実は、あなたの良い行動は、神様の目には不潔な着物のようです。御霊だけがあなたたちに永遠の命を与えることができます。でも、あなたたちが私のもとに来て信じてこそ、御霊はその命を与えてくださいます。」

そして、イエス様はこう言いました。「わたしの言葉は霊的なものです。もし、あなたたちはその言葉を信じてこそ、命を与えられます。」(63)

でも、多くの現代の人々のように、多くのユダヤ人たちはイエス様の言葉を拒絶し、立ち去りました。

だから、イエス様が弟子たちに訊いたように、私たちにも訊きます。

まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。(67)

ペテロのように答えましょう。

主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。(68-69)

 

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ヨハネ6:22-65--本当のパンのために働くこと

聖書の中では、これは本当に印象的な個所の一つですけど、ちょっと難しい箇所です。

イエス様が5000人にパンと魚を与えた後、その群衆はイエス様を王にしようと思いました。だから、イエス様はすぐに立ち去りました。

彼らがイエス様を見つけると、イエス様は彼らを訓戒しました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。(26-27)

要するに、「あなたたちは私を捜していたけど、あなたたちの動機は間違っています。あなたの霊的な必要を求めずに、ただの物理的な必要を求めています。私はあなたたちにパンを与えたけど、一時的なものを優先するな。永遠の命に至るもののために働きなさい。」

そして、ユダヤ人たちはこう答えました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(28)

多分、彼らはこんな答えを予想しました。「聖書を覚えていなさい。十戒やほかの律法に従いなさい。」

なぜなら、彼らは律法学者たちとパリサイ人たちからそんなことをよく聞いたから。

でも、イエス様は意外な答えを与えました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(29)

つまり、「永遠の命を得るために私を信じなくてはなりません。ほかの方法はありません。律法によってあなたは永遠の命を得ることはできません。私を信じないなら、永遠の命を得られません」ということです。

ユダヤ人たちは、それを聞いて、ちょっと違和感があったかもしれません。だから、彼らは天からのしるしを求めました。例えば、モーセはイスラエル人に天からのパンを与えてくれました。そのしるしによって、イスラエル人はモーセが神様のしもべとわかりました。

でも、イエス様は彼らの間違った考え方を訂正しました。モーセではなく、神様はイスラエル人にパンを与えてくださいました。

それに、そのパンはただの象徴でした。つまり、神様は彼らに「まことのパン」を彼らに与えたいと思っておられました。その「まことのパン」は世の民に一時的な命を与えず、永遠の命を与えます。

そして、イエス様の次の言葉は彼らを驚かせました。

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

ところで、35節は6章のカギです。イエス様は物理的なパンについて話していませんでした。(だから、イエス様は聖餐式のパンについて話していたのではありません。)

だから、あなたがイエス様のところに来て、イエス様を信じても、あなたはまだ毎日ご飯を食べなくてはなりません。イエス様は霊的なことについて話しています。

イエス様の肉を食べるのは、イエス様のところに来るという意味です。イエス様の血を飲むのは、イエス様を信じることです。35節を読めば、そのことは明らかになると思います。

もし、イエス様のもとに来て、イエス様を信じるなら、神様の関係をもって、あなたの霊的な飢えと渇きはなくなります。

6章を読むと、そのテーマを何回も見ることができます。

イエス様はユダヤ人の問題を指摘しました。「私がまことのパンなのに、あなたたちは私のことをまだ信じません。私の奇跡を見たし、私の教えを聞いたけど、私のことをまだ信じません。」(36)

でもイエス様はこう言いました。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(37)

イエス様は続けました。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。(40)

また、

父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(45)

また、

信じる者は永遠のいのちを持ちます。(47)

また、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら(つまり、私に来るなら)、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(十字架で、イエス様は自分の体をささげたので、私たちは永遠の命を得ることができます。)(51)

また、

これは天から下って来たパンです。。。このパンを食べる者(つまり、私に来る者)は永遠に生きます。(58)

そして、イエス様はこう言いました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ(私に来て、私を信じなければ)、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(53-54)

また、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56)

最後に、イエス様こう言いました。「物理的な食べ物は、結局虚しいものです。なぜなら、そんな食べ物は永遠の命を与えることができません。でも、私の言葉を信じるなら、永遠の命を受けます。」(63)

私たちはこの個所から何を学ぶことができますか。本当の満足を求めているなら、神様との関係が必要です。でも、神様との関係を望むなら、イエス様に来て、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはなりません。

あなたも、今日そうしませんか。

主よ、私は一時的なものにうんざりしました。私はあなたに来て、あなたを信じます。私は今まであなたに背を向けていました。赦してください。あなたが私の罪のために死んでくだったことを信じます。私の主になってください。私が永遠なもののために生きるように助けてください。アーメン。

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マタイ14:22-36;マルコ6:45-56;ヨハネ6:16-21--イエス様を疑うこと

この個所を読むとき、いくつかのことが私の心を打ちます。

一つ目は、イエス様は自分の人生のバランスを保ったことです。彼は周りの人々のニーズに備えるために自分のニーズを犠牲したときもあったけど、イエス様は天の父と一緒する時間を優先しました。

もし、イエス様がその時間を優先するなら、私たちもそうするべきでしょう。

でも、イエス様は山にいる間、彼は弟子たちが海で苦しんでいることを見ました。それでも、イエス様は3時ー6時ごろまで待って、彼らのところに行きました。

そのように、時々私たちは苦しんでいるけど、イエス様は待ちます。それは、イエス様が私たちを捨てたというわけではありません。イエス様は私たちのことをまだ見守っているのです。でも、イエス様は、その試練を許します。なぜなら、イエス様は私たちにイエス様が見えなくても、私たちがどのぐらい信頼するか知りたいのですから。

弟子たちがイエス様のところから去ったとき、イエス様は「後で私は向こうで会います」と言いました。でも、弟子たちが海で苦しんだとき、イエス様の言葉を覚えていて、信じたでしょうか。

そして、イエス様は湖の上を歩いて、彼らを通り過ぎようとのおつもりでした。弟子たちがイエス様を見たとき、恐れて、イエス様が幽霊だと思いました。でもイエス様は彼らに言います。「心配しないで。私だよ。」

そして、ペテロはイエス様のところに行こうと思って、湖の上を歩き始めます。でも、彼は風と波を見たら、パニックになって沈み始めて、「主よ!助けて!」と叫びました。

イエス様は愛と恵みをもって、ペテロを救ったけど、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言いました。

でも、この話の最後を読むと、私たちは薄い信仰を持った人がペテロだけではないとがわかります。イエス様は船舟に乗り込むと、風がすぐにやんだ。弟子たちは、それを見ると、非常に驚きました。なぜでしょうか。

というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6:52)

その言葉は私の心を何よりも打ちました。彼らはパンの奇跡の本当の意味が分かりませんでした。何がわからなかったでしょうか。

1.イエス様が彼らを本当に愛して、彼らのニーズに備えることです。

2.イエス様は彼らのニーズに備える力を持っていました。

ペテロは海の上を歩いた時、最初は全然大丈夫でした。でも、彼がイエス様から目を離し、周りの波を風を見たら、困ってしまいました。

どのぐらい私たちも同じことをするでしょうか。私たちの境遇に集中して、イエス様から目を離すので、イエス様の愛と力を忘れてしまいます。だから私たちは疑って、沈み始めます。

実は、私もそうするときがあります。だから私と一緒に祈りませんか。

主よ。あなたが私のためにいろんなことをしてくださいました。私に対するあなたの良さを見ました。あなたの愛を見ました。あなたの力を見ました。でも、なぜか私は、まだ疑います。私の信仰を増やしてください。私の固い心を柔らかくしてください。私がパンの話が分かるように助けてください。私があなたの愛と力が理解できるように助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

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マタイ14:13-21;マルコ6:30-44;ルカ9:10-17;ヨハネ6:5-13--私たちがあまり持っていなくても

多分、私はこの話を一億回読みました。(まあ、大げさかもしれませんが)

でも、今回は新しいことを見出しました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅行から戻ったばかりで、たぶん疲れ果ていたと思います。だから、マルコの福音書では、こう書いてあります。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

でも多分もう一つの理由で、イエス様は弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがりました。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

多分、イエス様はそのことを聞いたので、自分の安全のために寂しいところに行きました。なぜなら、ヘロデ王はイエス様のことについて聞くと、イエス様を探し始めましたから。(ルカ9:9)

でも、どうしてイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがったでしょうか。

多くの場合、私たちはこのことを考慮しないけど、イエス様は100%神であっただけではなく、100%人間でした。

ヨハネとイエス様がどれだけ親しかったか分かりませんけど、彼らは従兄弟でした。もしかしたら、子供の時に、彼らは一緒に遊んでいたかもしれません。

それに、イエス様のミニストリーのはじめに、ヨハネはイエス様にバプテスマを授けました。また、ヨハネが牢にいて、本当に滅入ったとき、イエス様は彼を励ました。

だから多分、イエス様があっさり「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とは言わなかったと思います。

むしろ、多分イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。もう一つのことを覚えていてください。イエス様の弟子達の中では、2人はもともとヨハネの弟子たちだったのです。(ヨハネ1:37)

多分、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのでしょう。

でも、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々は彼らについて行って、イエス様とその弟子たちのニーズを知らずに、イエス様が彼らのニーズに備えるように迫りました。

私がイエス様なら、それを見て怒ったかもしれません。「もう出て行け。私の友達の死を嘆いていることを知らないのか?」

せめて、私は「ごめんね。あなたと一緒に時間を過ごしたいけど、今日はちょっと。明日来てくれませんか」と言ったかもしれません。

でも、イエス様は彼らを歓迎しました。(ルカ19:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと一緒にいました。

そして、だんだん暗くなってきていたので、弟子たちはイエス様のところに行って、「先生。もう遅くなってきたけど、食事するために、皆を帰らせたらどうでしょう。」と言いました。

それはその群衆を帰らせる良い言い訳でした。でも、イエス様はそうしませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言いました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」(マタイ14:16)

「でも、人が多すぎるよ。私たちは絶対できません。」

「あなたは何を持っているか。」

「少しだけしかないんですけど。」

「私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取って、祝福して、すごい奇跡を行いました。弟子たちだけではなく、その群衆も食べて満腹しました。

それだけではなく、食べ物はたくさん余りました。

私は新しいことを見たといったけど、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れて、傷ついているので、私たちは人々にあげられるものはないと考えます。

でも、神様が私たちにそうするように頼んだら、神様は相手のニーズに備えるように私たちに与えるだけではなく、私たちのニーズにも備えてくださいます。そして神様はギリギリ備えてくださらずに、豊かに備えてくださいます。

キーフレーズとは、「神様があなたに頼むとき」ということです。

神様は私たちにすべての人々のニーズに備えるように要求しません。私たちがそうしようとしたら、燃え尽きてしまします。

だから、自分自身にこう訊いてください。「私があまり与えることができないと思うけど、神様は私に彼らに対する情け深い心を与えてくださっているだろうか。神様は私にその人に仕えるように頼んでいるだろうか。もしくは、ただ「これが私の義務だ。その人に触れなくてはならない」と思うだろうか。」

もし、神様があなたに情け深い心を与えず、あなたの心に話さないなら、あなたはその人を別の人に任せた方がいいです。

でも、神様が「行きなさい」と言ったら、神様はあなたが持っているものを取って、祝福して、相手のニーズだけではなく、あなたのニーズにも備えてくださいます。

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マタイ14:1-2;マルコ6:14-29;ルカ9:7-9ーーあなたを尊敬するけど。。。

この個所では、ヘロデ王の行動は謎に満ちているようです。ヘロデが自分の兄弟の妻を取って結婚した時、バプテスマのヨハネはヘロデを厳しく責めました。もちろん、ヘロデはそれを聞いて、嬉しくなかったけど、その妻ヘロデヤに影響されなかったら、たぶん彼は何もしなかっただろうと思います。彼女はヨハネの死を希望したけど、ヘロデはそこまでしませんでした。最初は、ヘロデもヨハネを殺したがったかもしれないけど、結局彼はヨハネを逮捕して、牢に入れました。

どうして、ヘロデはヨハネを殺すことをためらったでしょうか。一つ目の理由は、ヘロデはユダヤ人の反応を恐れたことです。(マタイ14:5)

でも、もう一つの理由は、たぶん時間が経てばたつほど、ヘロデはヨハネを尊敬していたことです。なぜなら、この預言者は王に「あなたが悪い」と言う勇気を持っていたから。

マルコの福音書によれば、ヘロデはヨハネがほかの人々と違うとわかりました。つまり、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていました。

そして、ヨハネが何回もヘロデを責めたのに、また、ヨハネの言葉にヘロデは当惑されたのに、なぜかヘロデは「喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:20)

それでも、ヘロデは決して悔い改めませんでした。

そして、ヘロデの誕生日パーティーで、その娘が皆の前に踊りました。ヘロデはそれを見て喜んで、こう言いました。

おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。(マルコ6:23)

ヘロデの娘はお母さんに相談して、バプテスマのヨハネの首を頼みました。

ヘロデはそれを聞いて心が痛んだけど、自分のプライドのため、皆の前に自分の誓いを取り消せなかったので、ヨハネを殺しました。

多分、その前にヘロデはヨハネと話さなかったけど、私の想像では、ヘロデはヨハネにこう言いました。「ごめんなさい。俺はあなたのことが別に嫌いではない。実のところ、あなたを本当に尊敬している。でも、うちの娘はあなたの首ねだったのだ。」

私たちがヘロデの態度を非難するのは簡単なことだけど、どのぐらい私たちはイエス様にそんなことを言うでしょうか。

私たちがイエス様の言葉を聞くと、私たちの心がかき回されます。でも、その言葉に従わずに、私たちはイエス様とその言葉に背を向けてしまいます。なぜなら、私たちは自分のプライドや家族や、他の物を優先するから。

あなたはどうですか。教会のメッセージを聞くとき、このブログを読むとき、また、聖書を読むとき、その言葉があなたの心に染み込んで、あなたの心はなぜかあったかくなります。あなたは「この人を尊敬します。感心な方だ。」と思うかもしれません。

しかし、あなたは「けれでも。。。」と言ってしまいます。

そして、あなたは神様のみ言葉に背を向けてしまいます。

神様が送った人を尊敬することだけでは足りません。彼らが敬虔な人だと認めるのは足りません。もし彼らが神様の言葉にちゃんと伝えたら、あなたは行動しなくてはなりません。あなたは悔い改めなくてはなりません。なぜなら、いつか神様はあなたが聞いた言葉によってあなたを裁くから。

あなたはどうするでしょうか。

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マタイ10:40-42--偉い?取るに足りない?

イエス様がどのようにこの話をまとめるか、本当に興味深いです。イエス様は弟子たちに、「あなたを受け入れるものは、私を受け入れる」と言います。

そのように、福音のために私たちを拒絶する人は、イエス様をも拒絶しました。

つまり、相手があなたを拒絶しても、自分を責めないでください。彼らの拒絶は痛いかもしれません。とくに、あなたがその人を愛しているなら、その拒絶は痛いかもしれません。でも、あなたが悪いというわけではありません。むしろ、彼らはあなたが代表する方を拒絶しています。

でも、イエス様はこの原則を違う方法で用います。

つまり、預言者を受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また義人を受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。

たぶん、イエス様は弟子たちのニーズに備える人々について話しています。その人々は弟子たちの食料などに備えるなら、弟子たちの報いを受けることになります。

どうしてイエス様は、弟子たちにそう言ったでしょうか。多分、イエス様は弟子たちに、こう教えたかったのだと思います。

「もちろんあなたの仕事は大切です。しかし、ほかの人々を見下すな。なぜなら、その人々も神様の仕事をしているから。そして、あなたのニーズに備える人々は、あなたのように名誉を受けるべきです。」

弟子たちは「霊的な仕事」をしているかもしれないけど、ほかの人々は弟子たちの奉仕を支える仕事をしています。彼らがいないと、弟子たちは自分の仕事ができませんでした。

私たちの多くは、牧師や、教師や、ワーシップリーダーたちを偉い人と見なします。でも、私たちは背景で働いている人々に気づきません。例えば、彼らは、礼拝のために椅子を並べるし、マイクとスピーカーをセットします。彼らも栄誉をうけるべきです。そして、裁きの日、神様は彼らに牧師や、ワーシップリーダーのような報いを与えてくださいます。

要するに、神様が彼らを褒めるなら、私たちも彼らを褒めるべきです。

さらに、イエス様はこう言いました。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(42)

それを言ったとき、イエス様は小さい子供を抱いていたでしょうか。もしかしたら、イエス様は弟子たちを小さいものと呼んだのでしょうか

もしイエス様は小さい子について話すなら、覚えていてください。神様にとっては、キリストに属する小さい子供を世話することは本当に大切な仕事です。

もしイエス様が弟子たちや預言者について話すなら、覚えていてください。彼らも小さいものです。だから、あなたがリーダーなら、偉そうな態度を取ってはいけません。

あなたは「偉い人」でしょうか。覚えていてください。神様にとって、ほかの人々の神の国の仕事も大切です。神様は人の前でする仕事も、裏方でする仕事も同じように褒めます。だから、そんな人をも褒めましょう。

あなたは「取るに足りない」立場にでしょうか。覚えていてください。あなたが忠実に仕えると、神様は「偉い人」のように報いを与えてくださいます。

なぜなら、神様の目には私たち皆は貴い人々だし、忠実な者に報いを与えてくださいますから。

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マタイ10:32-39--人々を分かつ剣

イエス様が迫害の話をまとめる言葉を聞くと、あなたは違和感があるかもしれません。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(34-36)

イエス様は平和の君だと呼ばれます。どうしてイエス様は、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たと言ったのでしょうか。どうして、イエス様が剣のように家族を分かつと言ったでしょうか。

もちろんイエス様は平和の君です。もちろんイエス様がこの世に戻ってすべてを治めるとき、平和をもたらします。でもその時間はまだ来ていません。

だから、イエス様は自分の警告を繰り返します。つまり、あなたがイエス様に従うと、あなたの家族でもあなたを拒絶するかもしれません。

日本では、私はそんな状態を見たことがあります。ある女性は本当に苦しんでいました。なぜなら、そのお父さんに、「あなたがクリスチャンになりたいなら、この家から出て行け。あなたはもう俺の娘じゃない。」と言われたから。

イエス様はに従うなら、家族の争いに至るかもしれません。その時、私たちはどうすればいいでしょうか。

私たちは信じ続けながら、その信仰を隠すでしょうか。ある人々は、そうしようとしましたけど、彼らの嘘がばれると、その問題はもっと大変になりました。さらに、イエス様はこう言いました。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(32-33)

もし、あなたが愛している人たちの前でイエス様を否定するなら、あなたは本当にイエス様を愛し、イエス様に従うと言うことができるでしょうか。あなたの一生、イエス様をずっと否定するなら、あなた自身がクリスチャンだと言えるでしょうか。

もちろん、私たちが弱い時もあります。ペテロも弱い時がありました。だから、彼はイエス様を三回否定しました。

でも、最終的に、ペテロは自分の信仰のために十字架で死にました。

イエス様はこう言いました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(37-39)

要するに、あなたにとっては、イエス様が、何にもまして大切なものになるべきです。あなたがどんなに苦しんでも、イエス様をすべてよりも優先しなくてはいけません。もし家族の平和を守るために、あなたがイエス様を否定するなら、最終的に彼らは地獄に行きます。でも、キリストのためにその家族の平和を手放すなら、もしかしたら、いつか彼らはイエス様に従うようになるかもしれません。

この言葉は実践しやすいものではありません。でも、あなたの家族があなたを拒絶しても、あなたにはほかの家族があります。そして、あなたが苦しむときに、彼らはあなたを愛し、支えます。なぜなら、教会とは建物ではなく、神の家族ですから。

だから、家族の平和を守るためにあなたの信仰を否定しないでください。イエス様を否定しないでください。むしろ、イエス様を他の何物よりも優先しましょう。そうすれば、本当の平和を見つけます。

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マタイ10:14-31-迫害が来ると

迫害。

それはかなり嫌な言葉でしょうね。迫害については全然話したくありません。でも、聖書では、「迫害が来る」という警告は何回も出てきます。

パウロはこう言いました。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(第二テモテ3:12)

「もしかしたら、迫害を受けるかもしれません」と書いてありません。「確かに迫害を受けます」と書いてあります。

前回の記事でも言いましたが、あなたがイエス様のようになりたいなら、必ずあなたを憎む人もいます。迫害は憎みの次の段階です。

だから、イエス様は弟子たちにも、私たちにも警告しました。イエス様は私たちのことを、狼の中の羊と呼びました。

迫害に関して、イエス様はどんな指示を与えてくださるでしょうか。

まず、気をつけなさい、ということです。あなたの信仰のためにあなたを攻撃する人もいます。イエス様は体に対する攻撃について話したけど、心に対する攻撃もあります。あなたの信仰のために、言葉を通してあなたを攻撃する人もいます。

その人を良く知っていてください。そして、感情的な危険があれば、また、物理的な危険があれば、すぐに逃げてください。福音を伝えた後、あなたの役割を果たしたから。もし、彼らがあなたの言葉を拒絶するなら、イエス様はこう言いました。

あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(14)

それがちょっとおかしい表現に見えるけど、その文化では、異常なことではありませんでした。

ユダヤ人たちは外国を出た時、彼らはそうしました。なぜなら、そのちりをイスラエルに持っていくと、イスラエルは不潔になると思いましたから。

だからイエス様の意味したのは、「相手が福音を拒絶するなら、彼らが汚れたものになったことを伝えなさい。彼らは裁かれるけど、それは彼らのせいであることを伝えなさい。」ということです。

そして、立ち去りなさい。あなたの役割を果たしたので、彼らの暴力や酷い言葉をずっと受ける必要がありません。

でも一度迫害されると、私たちが将来の迫害を恐れるようになることは簡単なことです。だから、ほかの人々に福音を伝えることをためらうかもしれません。

でも、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(26-27)

つまり、「私があなたに教えたことは最終的にみんなの前に現れます。迫害でも、その言葉を止めることができません。だから恐れるな。大胆にその言葉を伝えなさい。」

そして、イエス様はこう言いました。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(28)

あなたの魂を滅ぼす方はサタンではありません。それは神様です。サタンは地獄の囚人になります。(サタンはまだ地獄にいないですが。)サタンは地獄の支配者ではありません。

でも覚えていてください。多くの人々が神様を拒絶したので、毎日彼らは死んで、地獄に行っています。不潔なものが天国に入らないので、神様は彼らを地獄に送らなくてはなりません。もし、私たちが彼らを愛しているなら、私たちの迫害の恐れを捨て、大胆に福音を延べ伝えるべきです。

そして、イエス様は私たちを慰めてくださいます。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(29-31)

つまり、迫害が来ても神様はあなたのことを決して忘れません。あなたを助けてくださいます。

そして、もしイエス様のために死ななくてはならないなら、神様があなたと共におられて、あなたはすぐにイエス様の顔を見ます。

だから迫害を恐れないでください。むしろ、私たちが与えられた命の言葉を大胆に伝えましょう。

 

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マタイ10:1-25-すべての人々に好かれること

今日、イエス様の弟子たちに対する指示をもう少し見ていこうと思います。

7-8節は私の心を打ちました。イエス様は弟子たちに、「病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」と言った後、こう言いました。

あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(8)

つまり、あなたはただで神様の恵みを受けたので、その恵みを周りの人々にただで与えるべきです。神の国はお金を儲けるためではありません。

牧師や宣教師が、自分の働きのためにお金をもらってはだめというわけではありません。実は、イエス様は「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです」と言いました。

でも福音を伝える目当ては、お金をもらうことではありません。むしろ、私たちが受けた貴重なものを周りの人々に与えたいのです。

しかし、もう一つのことは私の心を打ちました。イエス様は彼らに何回も警告します。「すべての人々はあなたを受け入れません。あなたが神様の仕事をして、彼らに神様のみ言葉を伝えているのに、彼らはあなたを必ずしも愛するわけでもないです。

むしろ、弟子たちを憎み、拒絶する人がいるとイエス様は警告しました。だから、弟子たちが奉仕するときに、その友達にも、家族にも注意するべきでした。

それはちょっと言いすぎみたいでしたけど、その時代ではそうではありませんでした。特にサウロの時代、クリスチャンたちは厳しく迫害されました。もし、彼らがすべての人々を信頼したら、殺されたでしょう。サウロのように彼らの家族や、友達はクリスチャンを迫害するのは、神様の御心だと思ったからです。

だから、イエス様は彼らに「蛇のようにさとくなりなさい」と言いました。要するに、行動する前にちゃんと考えなさい。相手がどんな人かちゃんと考慮しなさい。相手のことが信頼できるかどうか、よく見極めなさいということです。

でも、イエス様はつづけました。「鳩のようにすなおでありなさい。」(10-16)

あなたが裏切られるとき、あなたの愛が冷めないように気を付けてください。相手を憎むまず。復讐の態度を捨てなさい、ということです。

私たちもイエス様の言葉を覚えているべきです。あなたがイエス様に従うなら、あなたを憎む人もいます。多分あなたの家族や友達はあなたを殺さないけど、彼らはあなたを拒絶するかもしれません。

イエス様は弟子たちにこう言いました。

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。(24-25)

私は前にも言いましたけど、イエス様は完全の愛を持った方でした。彼の人生は完全でした。それでも、イエス様を憎む人もいました。イエス様を「悪魔」と呼ばれました。そして、彼らはイエス様を殺してしまいました。私たちがイエス様に従うなら、私たちはすべての人々からの愛を期待することができると思うでしょうか。

だから、自分が愛されるように努力するのはむなしいことです。むしろ、イエス様のようになるように努力してください。なぜなら、あなたのためにイエス様は自分の人生を十字架でささげたから。

 

 

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マタイ10-11;マルコ6:6-13、30;ルカ9:1-6、10ーー弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様は弟子を作ったとき、彼らに霊的な指示だけではなく、実用的な指示を教えてくださいました。

最初、イエス様はずっと彼らに霊的な真理を教えていました。例えば、山上垂訓と平地の説教を教えました。さらに、イエス様は彼らにたくさんのたとえ話などを教えました。

でも、奉仕をするのに送ったとき、イエス様は実用的な指示も教えました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところに行かずに、ユダヤ人の町だけに行くべきでした。どうしてでしょうか。なぜなら、パウロが言ったように、福音は先にユダヤ人のためだったから。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒したし、教えたけど、彼らに福音を延べ伝える時間はまだ来ていませんでした。

イエス様はほかの指示を弟子たちに与えました。

イエス様は、彼らが何を持った方がいいか、持たない方がいいか教えました(マタイ10:9-10)。

彼らがどこに泊まるか教えました。(マタイ10:11-13)

彼らが拒絶されるなら、また、迫害されるならどうしたらいいか教えました。(マタイ10:14,23)

そして、イエス様は彼らに厳しく警告しました。「信頼できない人もいますよ。気をつけなさい。もちろん、悪いことをしてはいけない。でも、賢く相手を扱いなさい。」(マタイ10:16-17)

でも、その時にイエス様は霊的なことについても教えました。

例えば、神様はスズメの必要に毎日備えるので、きっと彼らの必要に備えるし、彼らを守るということです。なぜなら、神様は彼らをスズメよりも愛し、大事にしてくださるから。だから、彼らは神様を信頼するべきでした。(マタイ10:9-10;29-31)

また、彼らは神様をすべてよりも愛するべきでした。イエス様は彼らにこう言いました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私は何を言おうとしているでしょうか。私たちは人々を奉仕のために訓練するとき、彼らに霊的なことと実用的なことを教えるべきです。

もちろん彼らはミニストリーや日常生活に関する霊的な原則を学ぶべきです。

でも、彼らにどのようにミニストリーをするべきか教えるべきです

イエス様はそうしました。まず、弟子たちはイエス様がどうやってミニストリーをしたか見ました。そして、イエス様は少しだけ指示して、弟子たちを送りました。

弟子たちが帰ると、彼らが何が起こったかイエス様に知らせて、イエス様はフィードバックを与えました。私たちはそのように人々を訓練するべきです。

もちろん、彼らが私たちとまったく同じようにミニストリーをするべきというわけでもありません。でも、私たちが基本的なことを教えた後、彼らはその基礎の上に神様の導きによって、自分のミニストリーを立てるべきです。

残念ですけど、多くの人々は訓練の一種しか与えません。

例えば、彼らは霊的な訓練を与えるけど、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えないので、その弟子が大失敗して、そのミニストリーはすぐに倒れます。

その反面、彼らはミニストリーに関する実用的な指示を与えるので、最初はそれはうまくいくけど、その弟子はプライドや、罪や、ほかの霊的な落とし穴によって、倒れてしまいます。だから、そのミニストリーもすぐに倒れてしまいます。

だから、弟子たちを訓練するとき、そのミスをしないでください。霊的な訓練も、実用的な訓練も与えましょう。そうすれば、神様は彼らと私たちを用いて、神の国は成長します。

 

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マタイ10:1-4;マルコ6:6-7;ルカ9:1-2--畑になる毒草

この個所を読むと、なぜかユダは私の目につきます。

この個所では、イエス様は弟子たちを呼んで、イスラエル人に奉仕するように送りました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒す力を与えてくださいました。でも彼らの一番大切な仕事は福音を延べ伝えることでした。

マタイは、その弟子たちの名前をリストアップした時、最後にこう言いました。「イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ12:4)

ちょっと考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病気の人々を癒しました。ユダも福音を延べ伝えました。しかし結局、彼はイエス様を裏切りました。

どうしてユダはいろんな素晴らしいことをしたのに、イエス様を裏切ったでしょうか。その理由は、わかりにくいです。

でもユダは、イエス様の「畑にある毒麦」というたとえ話の例でした。(マタイ13:24-30;36:-42)

実は、毒麦と麦の見かけはとても似ています。だから、農夫は毒麦を引っこ抜こうとするなら、同時にうっかり麦も引っこ抜きます。だから、農夫は収穫まで待ちました。その時、彼は麦と毒麦を分別しました。

その毒麦のように、ユダは信者のように見えました。彼はほかの弟子たちと一緒に勉強しました。また、ほかの弟子たちのように、彼は悪霊を追い出したし、人々を癒したし、福音を延べ伝えました。

でも、彼は決して自分の心をイエス様にささげませんでした。私のただの推測だけど、もしかしたら、自分の益のために、ユダはイエス様を利用しようと思っていました。でも、彼とイエス様のビジョンが全然違うとわかって、イエス様を利用できないとわかったから、イエス様を裏切りました。

現代でも、教会にそんな人がいます。彼らはクリスチャンのように見えます。彼らはクリスチャンのように聞こえます。彼らは奉仕さえするかもしれません。でも、彼らは本当に心をイエス様に捧げていません。

あなたはどうですか。あなたの心をイエス様に捧げていますか。あなたの人生は本当にイエス様の物でしょうか。

もしくは、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。ふりをしないでください。あなたは牧師や、教会のメンバーたちをだますかもしれないけど、神様をだますことができません。そして、裁きの日、あなたは暴露されます。

その毒麦にならないように。あなたの心をイエス様に捧げてください。クリスチャンのふりをしても、あなたの人生は虚しくなるし、あなたは裁かれます。

 

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マタイ9:35-38--収穫を見ること

この個所から、私たちはイエス様のミニストリーに関して学ぶことができます。

1.イエス様は出て行きました。

イエス様は福音を延べ伝えるため、また、病気な人や傷ついた人々に触れて癒すためにいろんなところに行きました。

2.イエス様は見ました。

多くの場合、私たちは人々を見るけど、彼らのことに本当に注目しません。私たちは自分の考えや、自分の計画にのめり込みすぎるので、周りの人々に注目しません。

もしくは、私たちは彼らの見かけに注目します。彼らの見た目や、行動を見るけど、彼らの心の痛みと悲しみに注目しません。でも、イエス様はそのすべてに注目しました。

3.イエス様は彼らを見て、かわいそうに思われました。

イエス様は行って、見ただけではなく、人々を見るとき、彼らをかわいそうに思われました。なぜなら、彼らを縛り付けるサタンの鎖を見たから。また、サタンが彼らを苦しめることを見ました。彼らは弱り果てて倒れている羊のようでした。彼らは迷っていて、命の道をよく知らなかったので、イエス様は悲しみました。

イエス様の弟子として、私たちはイエス様の態度を取るべきです。私たちは教会の外に行って、周りの人々を見て、彼らを憐れむべきです。

イエス様は弟子たちに言いました。

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(37-38)

この個所を読むと、私はいつもある歌を思い出します。

See the fields,
畑を見てください。
Ripe and white as snow,
雪のように、白くなって、刈り入れるばかりになっています。
Up from the seeds of faith we planted long ago.
あれらは昔に蒔いた種から成長しました。

So many the hearts in season,
もう準備できた心がいっぱいあります。
With every prayer they’ve grown.
人々のすべての祈りのおかげで、その種は成長した。
He has made them ready,
神様はその人々の心を整えました。
But we must bring them home.
でも、私たちは彼らを刈り入れなくてはなりません。

Time like a free wind,
時間は風のように
So quickly slips away.
すぐに行ってしまいます。
Too soon today’s tomorrow,
「明日」とは
Too soon a yesterday.
すぐに「昨日」になります。

So little time for the reaping,
刈り入れる時間が少ないけど
And laborers are few,
働き手が少ない。
Lift your heads to the fields of white,
目を上げて畑を見なさい。
The work that we must do.
するべきの仕事を見なさい。

Lord of the Harvest,
収穫の主
Place your fire in me.
私の心にあなたの炎をつけてください。
Servant you need now,
あなたはしもべが必要でしょうか。
Servant I will be.
私はそのしもべになります。

Give me the eyes of your Spirit,
あなたの御霊の目を私に与えてください。
Your heart of compassion to know.
私があなたの憐れみ深い心を知るように。
Lord of the Harvest,
収穫の主。
Show me where to go.
私がどこに行けばいいか教えてください。

Wherever you may lead me, Lord of the Harvest, I’ll go.
収穫の主、あなたがどこに行っても、私はついていきます。

–ポール・スミス、ジェームズ・ニュートン・ハワード

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マタイ13:53-58;マルコ6:1-6--私たちが愛している者が私たちのあかしを拒絶するとき

私は前にも言いましたが、聖書では、イエス様は二回驚きました。一回目は、イエス様は百人隊長の信仰を見て、驚いた時です。(マタイ5:8-13)

二回目のは、この話です。イエス様はもうイスラエル中で有名な人になりました。福音書によればその時、イエス様は二回地元に戻りました。(多分ほかの戻った時もあったけど、聖書では書いてありません)。

とにかく、地元に戻ると、人々はイエス様の奇跡や知恵を認めたけど、イエス様を預言者やメシアとして受け入れることを拒みました。

どうしてでしょうか。たぶん、彼らはずっとイエス様をただの大工として考えたから。それ以前、イエス様は何回も彼らのために食卓や、いろんなものを作ってくれました。その時、彼らは、「ああ、イエス様は素晴らしい預言者だ」とは思いませんでした。彼らにとっては、イエス様はただの大工でした。

おそらく、そのおじいさんたちとおばあさんたちにとっては、イエス様を昔にその近所で遊んだ子供として考えました。その時、イエス様は近所の子供たちと一緒に遊んだし、その家を訪ねて、一緒に食べたりしました。

だから、彼らにはイエス様に教えられるのを想像できませんでした。「この人が、私を教えるなんて。」と思ったかもしれません。だから、イエス様が教えた時、彼らはむっとさしました。

だから、イエス様は彼らに言いました。

預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。(マルコ6:4)

私たちはこの話から何を学ぶことができますか。

1.神様は意外な人を通して話すことができます。でも、私たちが彼らを見下すと、神様の声を見逃すかもしれません。

時々、彼らは若いし、未経験者です。時にあまり教養のない人だったりします。だから私たちは彼らを見下します。でも基本的に、私たちは神様が彼らのことをちょっと軽んじると思うので、私たちも彼らのことを軽んじます。だから、私たちは彼らの言葉を受け入れません。

でも、神様は若い人、年取った人、教育のある人、教育のない人も用いて、私たちに語ることができます。神様はあなたが尊敬する牧師も用いることができるし、あなたがイライラさせられる妹さんや弟さんも用いることができます。もし、彼らが自分の人生を神様にささげて、聖霊様が彼らの中に住んでいるなら、神様は彼らを通して私たちに語ります。

でも、私たちは謙虚な心を持っているでしょうか。私たちは彼らの見かけだけを見ずに、彼らにおられる聖霊様を見ることができますか。

2.時々、以上の理由で、周りの人々はあなたのあかしを拒絶するかもしれません。イエス様にはそんな経験があったので、不完全な私たちが拒絶されるなら、びっくりすることではないでしょう。

私たちには相手の反応がコントロールできません。彼らに無理やりに信じさせることができません。

あなたの責任は、神様があなたに何をくださったか、また、神様が何をしてくださったか教えることです。そして、彼らがあなたのあかしを拒絶するなら、彼らのために祈るべきです。

人々の心を変えられる方は一人しかいないです。それは神様です。

だから拒絶されても、がっかりしないでください。謙虚な態度を取り続けてください。そして、ほかの人と話すとき、神様が話すかどうか見てください。そうすれば、あなたが予想するよりも神様の声が聞こえます。

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マタイ9:27-34--イエス様ができること。イエス様がしないこと。

この個所を見ると、私たちはイエス様が何ができるか、またイエス様が何をしないのか見ることができます。

イエス様は、盲人や口のきけない人を癒すことができます。

でも、イエス様は自分のことを人々に無理やり信じさせません。

イエス様は盲人たちにこう訊きました。

わたしにそんなことができると信じるのか。(28)

彼らは「そうです。主よ。」と答えたら、イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言いました。(29)

つまり、彼らが本当に信じなかったら、彼らは癒されませんでした。

実は、私たちが信仰を持っていなくても、イエス様は私たちを癒すことができます。ある日、相手がイエス様のことよく知らなかったので、その人は全然信仰を持っていませんでした。それでも、イエス様はその人を癒してくださいました。(ヨハネ5:1-15)

でも、多くの場合、イエス様は人々の信仰を要求しました。

この話では、その二人の盲人たちは信じたので、癒されました。

でも、次の話では、イエス様が口のきけない人を癒した時、多くの人々は驚いたけど、パリサイ人たちはまだイエス様を信じないで、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(34)

イエス様がどんな奇跡やしるしを行っても、パリサイ人は信じることを拒みした。

イエス様は彼らの信仰を求めたけど、彼らに無理やり信じさせませんでした。

そのように、イエス様は私たちに無理やり信じさせません。

イエス様は私たちに聖書を与えてくださいました。イエス様は神様があなたの人生にどのように働いたか指摘し、あなたが神様に従う時、その祝福を思い出させます。

でも、私たちは毎日自分自身に訊くべきです。「私は神様を信じるだろうか。私は神様を信じるので、神様の道を行くだろうか。」

そうすれば、神様からの祝福と癒しを見つけます。

そうしないと、パリサイ人のように、あなたは神様の祝福と癒しを決して知りません。

あなたはどうしますか。

 

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マタイ9:18-26;マルコ5:21-43;ルカ8:41-56ーー人々を清める神、人々を復活させる神ーー

旧約聖書を読んでいると、聖いものと汚れたものという話がよく出てきます。

つまり、ユダヤ人たちにとって、触ってもいいものと、触ってはならないものがいっぱいありました。例えば、死骸は汚れたものです。また生理の時に、女性たちも汚れたものでした。もし、その者に触ると、あなたも汚れたものになりました。

前にも言いましたけど、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れたら、イエス様が汚れたものにならなかったことです。むしろ、その汚れたものは聖い者になりました。

この個所では、私たちにはそんなことを見ることができます。

一人は、十二年の間長血をわずらっている女でした。もしかしたら、それは生理的な問題でした。だから、一か月一回だけではなく、その女性はいつも汚れたものとみなされました。彼女はたくさんのお医者さんに診てもらったけど、全然治りませんでした。

だから、彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。なぜなら、彼女はその服に触れば、きっと治ると思ったからです。

どうして、彼女は直にイエス様に頼まなかったでしょうか。多分、彼女は自分の病気で、恥ずかしかったから。彼女が「汚れたもの」とみなされたから、イエス様が彼女を拒絶すると思ったかもしれません。

でも、彼女が治った拍子に、イエス様は訊きました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女は自分の行動を認めるまで、イエス様は待っていました。なぜイエス様は彼女の返事を持っていたでしょうか。多分二つの理由がありました。

一つ目は、彼女が本当に癒された確信を与えたかったことです。つまり、彼女にその病気はもう再発しないことを伝えたかったのです。

二つ目は、イエス様は周りの人々にその癒しについて知らせたかったことです。12年間、彼らはその女性を除け者にしました。でも、彼女が聖いものになったことを伝えたいと思われました。

そのあと、イエス様は会堂管理者のひとりでヤイロという者の家に行きました。なぜなら、彼の娘は死にかけていたから。でも、その家に着く前、ヤイロの家から人が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました。」と言いました。

でも、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言いました。

そして、イエス様はその娘のところに行って、愛をもって、こう言いました。「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」

その言葉を言った拍子に、彼女は起きました。

この話から、私たちは何を学ぶことができますか。

私たちの罪によって、私たち皆は「汚れたもの」になりました。あなたは汚すぎて、もうきよめられないと思うかもしれません。神様があなたをもう赦すことができないと思うかもしれません。

あなたの罪のため、もう希望がないと思うかもしれません。あなたの結婚や、家計はダメになったかもしれません。もう将来性もないと思うかもしれません。

でも、その女性を癒した神、また、その女の子を復活させた神はまだ生きているので、あなたを清めて、新しい命を与えることができます。

一つの言葉で、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もし、イエス様に向かって、イエス様とその十字架の働きを信じたら、イエス様はあなたを癒してくださいます。

だから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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マタイ8:28-34;マルコ5:1-20;ルカ8:26-39ーー解放された

これは本当に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に着きます。そのとき、彼らは二人の悪霊につかれた人に出会います。(マルコとルカは一人だけについて話すけど、私はどうしてか分かりません。もしかしたら、一人だけがイエス様を信じたかもしれないけど、それはただの推測です。)

多分、イエス様と弟子たちが浜辺へこぎ寄せた拍子に、彼らは変な叫びを聞きました。そして、急に裸の二人の男性たちは走り近づきました。多分、彼らには腕と足に壊れた鎖をつけています。そして、弟子たちが彼らを注意深く見ると、その二人のたくさんの傷に気づきます。なぜなら、その二人は、何回も自分自身を傷つけたから。

あなたがその二人を見たら、どう感じたでしょうか。多分私はとても恐れたでしょう。

でも、イエス様は冷静に、悪霊たちがその二人から去るように命令します。

最初は、その悪霊たちは去らずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

しかし、イエス様がもう一度「出て行け」と言ったから、その悪霊たちはイエス様に頼みます。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様は「行け」と言ったので、その悪霊たちはその豚に入って、その豚は湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死にました。

その二人は解放されたけど、町中の人たちがその二人を見ると、町中の人たちは喜ばずに、逆に恐れました。

だから、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」、と願いました。

私たちはこの話から何を学ぶことができますか。

一つ目は、悪霊は存在することです。そして、悪霊は本当に危ないです。ある人々はタロットカードやウィジャ板を使って、「これはただの遊び」と思います。でも、そのものを使ったら、私たちは悪霊の影響を受けやすいです。

ある牧師はこう言いました。悪霊の世界に導くドアがあるけど、そのドアに一つの取っ手しかありません。私たちだけがそのドアを開けることができます。でも、そのドアを開けたら、悪霊は私たちの人生に入ることができます。

タロットカートや、ウィジャ板や、占い師などはそんなドアです。

さらに、その悪霊は私たちの益を望みません。時々、彼らは光の天使に変装するけど、実は、彼らは私たちを滅ぼしたがります。今日の箇所では、悪霊がその二人の人々、またその豚をどのように扱ったか見てください。それは悪霊の意図を現します。タロットカートや、ウィジャ板や、占いは楽しそうかもしれないけど、悪霊はそのもの裏だし、あなたを滅ぼしたがります。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がありません。彼らは力があるけど、イエス様は彼らよりも力強いから。また、悪霊に対して、イエス様は権威を持っています。

それでも、オカルトから逃げてください。いつか、イエス様と弟子たちのようにあなたは悪霊と向き合うかもしれないけど、悪霊を求めないでください。

でも、この話からもう一つのことを学ぶことができます。

最初は、罪は楽しそうかもしれないけど、最終的にその罪はあなたを治めてしまいます。

どうして悪霊がその二人に入ったから分からないけど、確かに彼らは神様を求めていませんでした。そして、悪霊にドアを開けたら、その悪霊が彼らに入ってしまって、その二人はもう自分自身をコントロールことができません。悪霊たちは彼らをコントロールし始めました。

そのように、最初は私たちは罪を選ぶかもしれないけど、結局その罪は私たちを治めます。そしてこの話のように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。神様が私たちに恵みを与えずに、私たちが決して悔い改めないと、私たちは最終的に滅びます。

でも、イエス様は私たちを解放する力があります。もし、私たちが悔い改めたら、イエス様は私たちを赦して、私たちが罪を克服するように助けてくださいます。

しかし、ある人々は私たちの変化を見ると、嬉しくないかもしれません。

この話では、町中の人たちは嬉しくありませんでした。だから、彼らはイエス様が立ち去るように願いました。

その悪霊につかれた人たちは怖かったけど、町中人たちは彼らが解放されなかったら、良かったと思ったみたいです。

あなたの周りの人々はあなた変化を見ると、そのように感じるかもしれない。

でも、イエス様は私たちを彼らに送ります。イエス様は彼らに言ったように、私たちにもこう言います。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにどんなことをしてくださったかを周りの人々に伝えませんか。そうすれば、彼らも解放されるかもしれません。

 

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マタイ8:23-37;マルコ4:35-41;ルカ8:22-25ーー私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら良いのにと思います。私が自分の状況をコントロールできないとき(実は、コントロールできる時って本当にあるでしょうか?)、私はパニックにならず、イエス様に信頼した方が良いでしょう。私は信仰を持って、イエス様が私を愛して、私のニーズに備えてくださることを信じた方が良いでしょう。

イエス様、何回も私はあなたを信頼しません。何回も、恐れや心配が私を治めます。赦してください。

あなたが私を愛してくださるのに、どうして私は自分の状況を恐れるでしょうか。

私を変えてください。私があなたに信頼するように助けてください。あなたの完全の愛が私の心から恐れと心配を追い出すように。アーメン。

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マタイ13:51-52--私たちが知っていることを教えること

「あなたがもらったものをどうしましたか。」

裁きの日に、神様が私たちにその質問を訊くと思います。この個所では、イエス様が同じ質問を弟子たちに訊いたと思います。

イエス様は彼らにこう訊きました。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。(50)

彼らが「はい」と答えると、イエス様はこう言いました。

だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。(52)

この個所から私たちが二つのことが学ぶことができると思います。

1.神の国に関する知識は宝のようです。(ギリシャ語で、「倉」という言葉は、「宝」という意味もあります。マタイ13:44では、その同じ言葉は新改訳で「宝」と翻訳されます。)

だから、私たちはその知識を軽んじたらだめです。

2.私たちが問題に直面するとき、また、周りの人々が問題に直面するとき、私たちはその宝を出すべきです。

私たちは神の国に関する知識をもって、宝を持っています。

例えば、神様は人々をすばらしい値うちの真珠とみなします。だからイエス様は、すべてを捨てて、十字架で私たちを買いました。

また、私たちが見る悪は永遠に続かないと知っています。ある日、その悪は取り除かれて、裁かれます。

また、今でも、神様はこの世に働いています。そして今、神様が蒔いた種は、小さいかもしれないけど、私たちがその過程がわからなくても、その種は成長します。サタンでも、その成長を止めることができません。

そして、その木(つまり、神の国)の下に私たちは平和と喜びを見つけます。

でも、神様はこの世に働くだけではなく、私たちの人生にも働いています。

あなたがその宝を出すと、始めて聞く人もいるし、何回も聞いたことある人もいます。

でも、この世の人々を見ると、その宝をすぐに出しましょう。なぜなら、多くの人々は愛や、希望や、人生の目的にあこがれるから。そして、私たちが持っている宝だけは、その飢えに満たすことができます。

さらに、ある日、神様はあなたに訊きます。「私はあなたに素晴らしい宝を与えたけど、どうしましたか。周りの苦しんでいた人々に与えましたか。」

あなたはどう答えるでしょうか。

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マタイ13:47-50ーー迫っている裁き

福音では、イエス様は天国について話したけど、イエスは天国についてよりも地獄について教えました。この個所では、イエス様は迫っている裁きについて話します。

以前にも言いましたが、この世の悪を見ると、私たちはよくフラストレーションを感じて、どうして神様が何もしないか疑問に思います。

でも、この個所では、イエス様はその日がきっと来ると言います。すべての人々は、死んだ者の魂でも、まだ生きている者でも、神様の前に立って、裁かれます。

その日、神様は悪者と正しい者を分別します。正しい者は報いをもらって、永遠に神様と一緒にいます。でも、悪者に関して、イエス様はこう言います。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(49:50)

どうして、イエス様はこのことを教えましたか。一つの理由は、私たちに希望を与えるためです。つまり、この世の悪は永遠に続かないことです。この邪な世界で、私たちにはそんな希望が必要だと思います。

でも、二つ目の理由は私たちを警告するためです。つまり、神様の忍耐は永遠に続かないことです。

神様は誰も滅びるように望まないけど、彼らがあえて神様とその福音を拒絶したら、神様は彼らの願いを果たします。つまり、彼らは永遠に神様から離れて生きます。

しかし、その日が来ると、彼らは神様から離れた存在が惨めな人生だと悟ります。だから、彼らは永遠に絶望して苦しみます。

多くの人々は神様が彼らの喜びを盗もうとしていると思うので、神様から逃げます。でも、事実は、神様から離れていると、喜びが全然ありません。

だから、この邪な世界を見ると、覚えていてください。裁きの日が迫っています。あなたはもう準備したでしょうか。つまり、信仰によって神様の救いを受け入れましたか。

もし、あなたはもう準備したら、自分自身にこう訊いてください。「私が愛している人々は準備しているだろうか。」

彼が準備していないなら、どうしても、彼らに福音を伝えてください。

地獄は現実です。イエス様はそう教えました。あなたは信じているでしょうか。あなたは信じているので、福音をあなたが愛している人々に伝えているでしょうか。

 

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マタイ13:44-46--救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいた時、木の下で埋coins-2-way_2834423bまっていた缶を見つけました。それは、ただのごみみたいだったけど、注深く見ると、缶に入ったものは古い金貨でした。その金貨は1800年代のものでした。そして、彼らが庭でさらに探してみると、金貨が入った缶をいくつか見つけました。その金貨の価値は10億万円ぐらいでした。私もそんな宝物を見つけたらいいのにねえ。

この個所では、イエス様のたとえ話は上記の話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性は畑に隠された宝を見つけました。でも、その畑が自分のものではなかったので、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物を全部売り払って、その畑を買いました。

二つ目の話では、商人は真珠を探していて、良いのを見つけました。でも、その真珠はとても高かったので、彼は自分の持ち物を全部売り払って、その真珠を買いました。

その二つの話を読むとき、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、宝を見つけた人の喜びです。二つ目は、その人がどうしても、その宝物を買おうと思ったことです。

多くの人々はこの話を読むとき、キリストを見つける人の喜びを考えます。イエス様との関係がすごい価値があるので、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる気があります。彼らはイエス様に従うのに、自分の家や、家族や、持ち物を捨てます。(マルコ10:29)

それはちょっと痛いかもしれないけど、彼の喜びはその苦しみよりも優れたものです。

でもこの話では、もう一つの解釈があります。つまり、私たちは宝ものです。私たちは真珠です。そして、イエス様は探している人です。

私たちは自分の罪のため、迷ったし、霊的に死んだものでした。でも、イエス様が私たちを探していて見つけた時、イエス様は喜びを持って、すべてを売り払って、私たちを買いました。イエス様は天国を去って、自分の栄光を天国に残して、人間になりました。

この世にいる間に、お腹がすいたときもあったし、喉が渇いたときもあったし、疲れた時もあったし、痛んだ時もありました。そして、イエス様は十字架で、苦しくて死んでしまいました。

どうしてでしょうか。イエス様にとって、私たちがすばらしい値うちの真珠だから。私たちは埋まった宝物です。私たちは汚いし、錆びたけど、イエス様の目では、私たちには高い価値があったから。だから、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買いました。

それでは、私たちはどのように反応しましょうか。

パウロはこう言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だから毎日、私たちを愛している救い主をほめたたえましょう。

 

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マタイ13:34-35; マルコ4:33-34–良い先生の特質

私は20年間以上英語を教えてきたし、多分30年間ぐらい聖書を教えてきました。

でも、私にイエス様の教える技術レベルに決して達成できないと思います。イエス様は本当に最も熟練した先生でした。

どうして、イエス様はそんなに素晴らしい先生でしたか。彼の教え方は素晴らしかったから。イエス様はどのように教えたでしょうか。

この個所によれば、イエス様はいつもたとえ話を用いました。どうして、たとえ話を用いたでしょうか。

前にも言ったけど、たとえ話を通して、イエス様は誰が本当に学びたがったか区別できましたから。学びたい人たちは、いつも質問を訊きました。訊かない人たちは、その話を楽しんだかもしれないけど、その話の意味が分かりませんでした。

でもイエス様に訊く人にとっては、その話は分かりやすくなったし、覚えやすかったのでした。

それは、良い先生の特質の一つです。彼らが霊的な真実を説明するとき、だれでもその真理が理解できるようになります。

ある先生は、自分の教育や、霊的な知識によって会衆を感動させたがるので、誰も分からない術語を用います。もしくは、彼らは会衆がすぐに忘れてしまうギリシャ語やヘブル語を紹介します。

会衆は感激して、「それは深いメッセージだったね。本当に学問的なメッセージだったね。」というかもしれないけど、結局彼らはこう言います。「いったいどんな話だったんだろうか。その意味はよく分からなかった。」

でも、イエス様がシンプルな言葉を用いたので、誰にも理解できました。

だから、そのたとえ話とシンプルな言葉のため、その会衆はイエス様の教えにのめり込みました。会衆にとっては、つまらない話をずっと聞くのは本当に最悪なことです。イエス様はそんな話を全然しませんでした。

イエス様は会衆のレベルがよくわかりました。マルコによれば、イエス様は、「彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。」(マルコ4:33)

要するに、イエス様は彼らが理解できないことを教えませんでした。

へブル人への手紙の著者は、赤ちゃんに堅い食べ物をあげるのはだめだ、と言いました。その赤ちゃんが固い食べ物が食べられるまで、彼らにミルクをあげなくてはなりません。彼らがもうちょっと成長したら、固い食べ物をあげてもいいです。(へブル5:11-14)

最後のポイントだけど、イエス様は弟子たちの質問に答えてくださいました。マルコはイエス様に関して、こう言いました。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(4:34)

普通は、イエス様は弟子たちの質問を待ちました。そして、イエス様はその質問に答えてくださいました。

イエス様と違って、私たちにはいつも答えがないかもしれません。でも、その質問を通して、私たちはもっと勉強し、先生として成長します。

あなたは教会の先生じゃないかもしれません。でも、私たち皆は教える機会があります。私たちの子供を教える機会があるし、私たちのもとに神様に導かれた人を教える機会があります。

だから、イエス様のような先生になるように努力しましょう。

 

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マタイ13:33;ルカ13:20-21--変えられた

私はパン屋ではないけど、多分だれでも、この個所のたとえ話を理解できると思います。もう一度、イエス様は神の国について話しています。

パン職人はパンを焼くとき、その生地にパン種を入れます。そのパン種は何をするでしょうか。最初に、そのパン種は生地に広がります。そして、そのパン種は生地を変えます。パン種が入らないと、そのパンは平たくて、固いものになります。でも、そのパン種のおかげでそのパンはふわふわになって、おいしくなります。

神の国はそのようなものです。

まずは、私たちは福音の種を人々の心に蒔きます。そして、ある人々は信仰によって、福音を受け入れます。その福音は彼らの魂に広まりつつあって、最終的に彼らは全く新しい人になります。

彼らの考え方が変わるし、その行為も変わるし、彼らのすべては新しくなります。

だからパウロはこう言いました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (第二コリント5:17)

神の国はそのようなものです。

私たちはこの世界を政治的な方法を通して変えられません。新しい律法によって、この世界は変わりません。誤解しないでください。もちろん、民主的な社会で、私たちは自分の権利を行使して、変化のために戦うべきです。

でも、新しい律法によって、私たちが人々の心を変えると思ったら、私たちは自分自身をだましてしまいます。

同性愛に反対する新しい律法があっても、そんな振る舞いは止まりません。中絶に反対する新しい律法があっても、中絶する人もいます。

神様の国はたちまちこの世に現れません。聖霊様は人々を一人ずつ変えます。まず、聖霊様は私たちの心を変えてくださいます。そして、私たちを通して、聖霊様はほかの人々に触れて変えます。そして、だんだん神様の国は広まって、国々が変わり始めます。

だから、私たちは自分自身にこう聞くべきです。私たちは福音をもって、何をしているでしょうか。あなたがその福音を受け入れて、あなたの人生は変えられているでしょうか。そして、あなたは周りの人々にその福音を延べ伝えているでしょうか。そうすれば、聖霊様は彼らの心にも働き始めます。

だから毎日祈りましょう。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

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マタイ13:31-32;マルコ4:30-32;ルカ13:-18-19--小さいものから始まること

私は、イエス様が自分の説教で用いた生き生きとした描写が大好きです。

この話では、イエス様は神様の国をからし種と比べます。その種はとても小さいものだけど、大きい木になるので、鳥はその枝に巣を作ります。

イエス様の要点は何でしょうか。たいていは、神様の国は最初から大きなものとして始まりません。逆に、小さいものとして始まります。

特に、多くの場合、神様は自分の国を建てるために、取るに足りない人々を選びます。

例えば、マリヤは貧しい十代の女性でした。ヨセフはただの大工でした。

そして、イエス様が来た時、大きい軍隊を導く王として来ませんでした。父ヨセフのようにイエス様は大工でした。

イエス様は弟子たちを選んだ時、漁師や、ローマ帝国と協力した収税人や、ローマ帝国を憎んだ愛国者を選びました。

キリスト教が始まったとき、割と取るに足りない都市で始まりました。世界では、エルサレムよりも主要な都市があったけど、神様はエルサレムを選びました。

でも、その取るに足りない都市から、クリスチャンたちは世界中に行って、福音を延べ伝えました。

私たちにはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたが取るに足りない人だと思うかもしれません。神様が天の国のためにあなたを用いることができないと思うかもしれません。でも、世界の目ではあなたが取るに足りないので、神様は喜んであなたを用います。神様の国には、たくさんの「取るに足りない人」がいます。

でもあなたのような人を通して、神様の国は広まって、この世の人々に触れます。

パウロはこう言いました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26-29)

神様の目には、あなたが取るに足りない人だと思わないでください。小さいものを通して、神様の大仕事は達成されるから。

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マタイ13:24-30,36-43--どうして悪があるの?

多くの人々は、どうして神様がこの世に悪を許すか、疑問に思います。

このたとえ話では、イエス様は一つの理由を与えてくださいます。

私たちがわからなくてはならないのは、神様がこの世の悪の源ではないのです。神様は聖なる方です。神様は決して悪いことをしません。神様は良い種だけを蒔きます。

でも、私たちには敵がいます。サタンも人々の心に種を蒔きます。その種が人々の心に毒麦になって、その人々は周りの人々を傷つけるし、いろんな被害を起こします。

イエス様は彼らを引っこ抜くことができるけど、そうすれば、神様が救いたい人に悪い意味でかかわります。

どうしてでしょうか。私はちょっとわかりません。でも、例えば、ある人々は神様に関して、本当に無関心です。時々、苦難がないと、彼らは決して神様に向かいません。それは天災かもしれません。もしかして、犯罪によって、彼らは本当に傷つくかもしれません。でも、その苦しみを通して、彼らは神様に向かって、救われます。でも、その苦しみがなければ、神様はその人が決して救われないとご存知です。だから、神様はその毒麦が残ることを許します。

簡単に言うと、神様には、私たちに見えないことが見えます。神様は私たちが知らないことをよくご存じです。

でも、覚えていてください。裁きの日がきっと来ます。人を殺す人のために裁きが来ます。女性をレイプする人のために裁きが来ます。神様に反抗する人のために裁きが来ます。その日、すべての人々は、神様に仕える人と神様を拒絶する人の違いがよく分かります。

だからこの邪な世界を見ると、絶望しないでください。裁きの日を待ち望んでください。その日は、正義が来ます。そして、すべての人々は神様の知恵と正義が分かります。

 

 

 

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マルコ4:26-29--国の種

このたとえ話には、前回のたとえ話と大体同じ意味がある思います。前にも言いましたが、私たちは神様の言葉を人々の心に蒔くかもしれないけど、神様だけが、その種を成長させることができます。

例えば、私たちが福音を伝えるとき、相手は無関心かもしれません。または、彼らは本当に怒るかもしれないです。でも私たちが意識しなくても、その種は根を張っています。

私たちの力がなくても、神様は聖霊様を通して、相手の心の中に働き始めます。神様は状況やほかの人々を用いて、その人を近づけてくださいます。そして、いつの間にか、その人はあなたのところにきて、微笑んで言います。「イエス様のことを教えてくれて、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、私はクリスチャンになりました。」

でも、このたとえ話はまた別の解釈ができると思います。

時々、私たちはこの世を見て、フラストレーションを感じます。「神様の国は本当に来るだろうか。そう見えないなあ。この世界はだんだん悪くなりつつあるから。」

でも、このたとえ話では、私たちはいくつかのことを見ることができます。

イエス様とその弟子たちを通して、神の国の種はもう蒔かれました。今なお、人々の心にたくさんの種が蒔かれています。そして、その種は成長しています。

でも多くの場合、私たちは全然気づきません。でも、私たちが振り返ると、どれだけその福音の種が成長したか分かるようになります。

イエス様が天国に戻って以来、どれだけ福音が広まったか考えてください。一つの都市から、世界中に広まりました。今なお、その福音は広まっています。

そして、神様の国が克服するのは確かなものです。だれも、その成長を止めることができません。ソ連はそう学びました。福音を滅ぼそうと思ったほかの国々も、そう学びました。

だから、最終的に神様の国が来て、すべての人々はその国を見ます。その日、イエス様は、すべてを治めます。そして裁きの日に、イエス様に従う人は報いを受けるし、自分の道を行く人々は滅びます。

だから、私たちはどうすればいいでしょうか。

1.希望を持って、待つべきです。周りの悪を見ると、失望するのは簡単なことです。でも、勇気を持ってください。神様の国は来ています。今でも、その国は成長しているし、だれもその国の成長を止められません。だから、フラストレーションを感じても苦しみを経験しても、待ち望んでください。この邪な世界はいつまでも続きません。そして、裁きの日には、あなたは報いをきっと受けます。

2.ちゃんと準備していてください。いつイエス様が戻るかわからないけど、その日まで、私たちは天の父の用をしなくてはなりません。いつイエス様が戻るのはあまり大切ではありません。大切なのは、イエス様が戻るとき、私たちがちゃんと準備していることです。

あなたはどうですか。あなたは準備しているでしょうか。

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-20;ルカ8:1-15--種を蒔くこと

前回、この個所について話したけど、今日、同じ個所からもう一つのことについて話したいと思います。

この話を見ると、私は農夫がイエス様だとよく思います。それはそうかもしれないけど、イエス様は農夫について話したとき、私たちについて考えたかもしれない。イエス様がこの世におられる時間は、かなり短いものでした。もちろんその時、イエス様は神様の御言葉を人々の心に蒔いたけど、今、私たちが種を蒔く人たちです。

だからこのたとえ話から、本当に大事なことを学ばなくてはならないと思います。

時々、私たちが神様の御言葉を蒔くとき、その種は固い心に落ちます。相手がその言葉を聞いてもわからないので、サタンはその言葉を取ってしまいます。

ほかの人々がその言葉を聞いて、喜んで受け入れ、自分の信仰を宣言するので、私たちはとても嬉しくなります。でも、困難や迫害が来ると、彼らはすぐにその信仰を捨ててしまいます。

またある人は、その言葉を信じて、クリスチャンとして成長し始めます。でも、彼らの仕事は彼らの神様との関係を塞いでしまいます。もしかして彼らは、お金や、持ち物を考えすぎます。彼らは教会に行くかもしれないけど、もう成長しません。また、彼らは霊的な実を結びません。

でもある人は、その言葉を聞いたとき、神様の国のために、たくさんの実を結び始めます。

私のポイントは何でしょうか。その結果は私たちの責任ではありません。私たちは相手の心を形成できません。では、私たちにできるのは何ですか。

種を蒔くことができます。また、水を注げます。そして、祈れます。パウロはこう言いました。「植える人もいるし、水を注ぐ人もいるけど、成長させたのは神です。」(第一コリント3:6-7)

あなたの蒔いた種が成長しないし、実を結ぶないため、あなたはがっかりしたことがあるでしょうか。あなたには、その結果がコントロールすることができません。

あなたにできるのは、種を蒔いて、水を注ぐことです。そのあと、その人を神様に任せるしかありません。

あなたはどうですか。その種を周りの人々に蒔いているでしょうか。

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-20;ルカ8:1-15--私たちの心の状態

以前、イエス様はいろんなたとえを用いましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫はたくさんの種をあっちこっちに蒔きました。たぶん、もっと効率的な方法があったけど、その時代、農夫たちはそのように種を蒔きました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人です。でもあいにく、その人はその言葉がわからないし、その言葉を理解しようと全然思いませんでした。

私は前にも言いましたが、たとえ話によって、本当に学びたいと思った人とエンターテインメントを望む人とは区別されました。イエス様の弟子たちのような人々は学びたがったので、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。ほかの人々はわからないままで帰りました。彼らは、イエス様の話を聞くのを楽しんだかもしれないけど、そのたとえ話の意味を理解しなかったし、理解しようと思いませんでした。だから、サタンがその言葉を取って、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

ほかの種は岩地に落ちました。岩地というのは、石灰岩の上に土の薄いところです。その土は薄かったので、すぐに生えたけど、日が上がると、根がないためにすぐに枯れました。こういう人は、「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受けます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったでしょうか。たぶんそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったから。もしかすると、彼らには感情的な経験だけがありました。でも、その感情がなくなったら、またその「信仰」のために迫害が来たとき、彼らはすぐにキリストに背を向けました。

ほかの種は、いばらの中に落ちました。でも「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。 」(マルコ4:7)

そういう人は、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。 」(4:19)

多くのクリスチャンは、そのように生きます。彼らはこの世を愛しすぎるので、彼らのイエス様に対する愛を忘れてしまいます。

最後に、ある種は、良い地に落ちたから、たくさんの実を結びました。そんな人は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、ずっと覚えています。だから、彼らは神様の国のためにたくさんの実を結びます。

あなたはどんな心を持っているでしょうか。

あなたは神様の言葉がわからないとき、その言葉を置いておくだけでしょうか。もしくは、その意味を求めるでしょうか。あなたは誰かに尋ねるでしょうか。私たちは質問するときに、成長します。でも、私たちが決して聞かないと、私たちは全然成長しません。そしてサタンは神様が蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、感情的な経験だけを求めているでしょうか。感情は行ったり来たりします。もしあなたの感情に基づいて、信仰を建てようと思うなら、その信仰はすぐに崩れます。むしろ、あなたの信仰をイエス様とそのみ言葉に基づいて建てなくてはなりません。

あなたは、毎日何を求めているでしょうか。すべてよりも、神様を求めているでしょうか。もしくは、お金や、快楽や、持ち物を求めているので、もう神様のために時間がないでしょうか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めていないでしょうか。

もしくは、あなたは、神様のみ言葉を聞いて、理解しようと思うでしょうか。その言葉を受け入れ、信じ、覚えているので、実を結んでいるでしょうか。

あなたの心の状態はどうでしょうか。

 

 

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マタイ13:1-23;マルコ4:1-25;ルカ8:1-18--聞く目、見る目

イエス様の口癖の一つは、「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。

福音書では、イエス様はそう言ったし、黙示録でも、そう言いました。

でも、イエス様が意味したものは何でしたか。

ある日、イエス様がたとえ話で話したあと、弟子たちは「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」と訊きました。

イエス様はこう答えました。

あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:11-15)

「あなた方に天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」という言葉は、ちょっと不公平みたいかもしれません。どうして、イエス様はそんなことを言ったでしょうか。

ちょっと考えてみてください。

だれにも、イエス様のたとえ話を聞くことができました。そして、そのたとえ話の意味はちょっと漠然としていたかもしれなかったけど、イエス様は、いつかその意味が現れるように意図しました。結局、そのたとえ話は真理を照らします。

イエス様はこう言いました。

隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。(ルカ8:17)

だから、弟子たちがイエス様のたとえ話の意味を求めると、イエス様は説明してくださいました。そして、最終的に彼らは、教会の人々にその意味を説明しました。

でも、すべての人々は、真理を本当に知りたがるでしょうか。彼らは答えを求めているでしょうか。

もしくは、彼らはエンターテインメントだけを求めているでしょうか。

イエス様のたとえ話は、神様の真理を求める人とエンターテインメントを求める人を区別しました。

現代の教会の問題は、多くの人々が神様の真理を求めるよりも、エンターテインメントを求めていることです。

だから、彼らは歌を歌うかもしれないし、牧師のメッセージを聞くかもしれないけど、その言葉は彼らの心を貫きません。そして万が一、心を貫く言葉が来て、違和感を感じるなら、彼らは聞くことを止めて、別のことについて考え始めます。

あいにく、彼らがそうし続けるなら、結局彼らは神様の声が聞こえなくなります。彼らの上に、マタイが引用したイザヤの預言は実現します。彼らは見るけど、本当に見えません。彼らは聞くけど、本当に聞きません。むしろ、彼らは自分の目と耳を神様の真理に閉じます。

だからイエス様は私たちに警告します。「神様の真理を聞くとき、あなたの聞き方に注意しなさい。その言葉にちゃんと思いを巡らしなさい。もし、その言葉をちゃんと聞いて、その言葉に従うなら、神様はもっと教えてくださいます。でも、そうしないと、あなたが学んだことを忘れるし、結局神様はもうあなたに話しかけません。(マルコ4:24;ルカ8:18)

でも、イエス様は弟子たちにこう言いました。

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17)

あなたはどうですか。あなたには見る目と聞く耳があるでしょうか。

 

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ルカ11:27-28--祝福を得るため

私たち皆は神様の祝福を知りたいものです。でも、どのようにその祝福を得られるでしょうか。

イエス様が群衆に話したとき、ある女性はこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(27)

でも、イエス様はこう答えました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて話すのが好きです。

もちろん、神様の恵みがないなら、だれも神様の恵みを受けられません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないから。

しかし、神様の祝福を受ける鍵は、信仰を持つ従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれないけど、従順な心を持たないなら、その言葉は無意味です。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、神様の言葉に従います。