何年か前に、神様の御心についてのメッセージを聞いた。その牧師が言ったのは、神様の御心が的の中心みたいだと思う人達がいるそうです。つまり、ターゲットの真ん中に当てないと、神様の御心を逃したことになる、とその人達は考える。でも、神様の御心はそういうものではないです。神様の御心は塀に囲まれた庭の中みたいです。その庭で、私たちは自由に選択できます。もし、塀の外に行ったら、神様の御心を逃がすけど、その塀の中、つまり、神様の御心の中で色んな選択ができます。
例えば、結婚です。多くの人々はこう考えます。「神様は私のために一人を選んでくれている。だから、その人を見つけなくてはならない。」
でも、そんな考え方は間違っています。神様の御心の中で、あなたはいろんな人から選択してもいいです。でも、その塀の中で選ばなくてはならない。
36章で、神様はツェロフハデの娘たちに塀を与えた。マナセの部族はツェロフハデの娘たちについての心配があった。その娘たちのお父さんが亡くなったし、兄弟がいなかったから、その娘たちはお父さんの土地を受け継ぎました。でも、その娘たちが他の部族の男の人と結婚したら、その部族の相続地は小さくなります。だから、神様は命令した。
彼女たちは、その心にかなう人にとついでもよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。(6節)
この箇所で、神様の御心が見える。塀があった。つまり、その娘たちは父の部族に属する氏族に嫁がなければならなかった。でも、その塀の中で、自由があった。つまり、彼女たちの心にかなう人に嫁いでよかった。
私たちのクリスチャン生活も同じです。もちろん結婚でも同じですけど、どの事でも同じです。超えてはならない塀がある。例えば、結婚について、神様は命令した。「クリスチャンはクリスチャンと結婚しなくてはならない。」でも、その塀の中で、誰とでも結婚してもいいです。神様が選ばれた一人と結婚しなければならないことではない。
時々私たちは、的に当てるかどうか心配しすぎて、何かをする恐れがあるから、結局私達は何もしない時がある。でも、それはダメです。神様の御心の中で、私達に自由があることを覚えていてください。結婚でも、仕事で も、どの事でも。塀に囲まれている庭はどこか知らなくてはならない。その中で生きるべきです。でも、そうすると、神様の御心の中に入るかどうか心配し過ぎないでください。多分、大丈夫です。もし、神様があなたのために違うプランがあるなら、つまり、もっと具体的な的があるなら、あなたに知らせてくださる。でも、的に当てない恐れによって躊躇しないでください。