モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(8)
その言葉を読むとき、私はいつも最後の晩餐でのイエス様の言葉を思い起こします。
これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイ26:28)
モーセや祭司たちや、長老たちは血に振りかけられたので、彼らは神様の裁きを恐れず、神様との交わりができました。(9ー11)
そのように、私たち皆は(クリスチャンのリーダーたちだけではなく)、イエス様の血に振りかけられたので、裁きを恐れず、神様との交わりができます。
ぺテロによれば、私たちは天の父に選ばれ、聖霊に聖別され、イエスの血の注ぎかけを受けました。そのゆえ、私たち皆は、恵みを受け、神様との平和を持っています。(第一ぺテロ1:1ー3)
出エジプト記24章を読むとき、へブル9章も読んだ方が良いでしょう。へブル書の著者は出エジプト記24章を引用し、その出来事をちょっと解説します。
でも、とりあえず、この素晴らしい言葉を覚えていましょう。
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:13ー14)