コリント人への手紙第一14:1-31ーー言葉を通して、人々を育て、勧め、慰め、教えること

正直に言うと、私は、この個所について話すとき、あまり自信がありません。

私は異言の賜物がまた続いていると思います。私はクリスチャンの友達から、彼らの経験を聞いて、その話を信じます。それでも、私はその賜物を持っていません。

また、ある牧師たちの意見と違って、私は預言がただの説教することだと思いません。私が預言について勉強した時、私の結論は、預言は説教する以上であるということです。パウロによれば、預言は、教会の人を育てるため、人に進めるため、人を慰めるため、また人を教えるためです。(3、31節)

もちろんいい説教はその4つの目的を果たします。でも、説教と預言には大きく違う点があります。いい説教は、聖書の勉強を要します。でも、ペテロによれば、預言は違うものです。ペテロは、預言者について話した時、こう言いました。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(第二ペテロ1:21)

そして第一コリント14章でば、パウロは聖書の勉強による説教ではなく、聖霊に動かされる人の言葉について話しているようです。

とにかく、この個所では、パウロは異言と預言を比較対象します。主な違いは、異言を語るとき、通訳がないと、しゃべっている人だけに対して益があることです。周りの人々には全然益がありません。

でも預言する人は、皆が理解できる言葉を伝えます。だから、パウロは、コリント人たちが異言を語るのを願っていたものの、彼らが預言をする方をより願っていました。

パウロはこう言いました。

異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。(5)

また、

同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。(12)

預言や異言についてそれ以上に話すことが出来るけど、一番印象が残ったことは、こうです。教会では、私たちが語る言葉は、微調整した道具であるべきです。その言葉を通して、私たちは人々を育て、勧め、慰め、教えるべきです。

それが、預言の目的です。でも、すべてのクリスチャンたちはそうするべきです。預言の賜物は人々に超自然な力をクリスチャンの言葉に加わります。でも、その賜物を持っていも、持っていなくても、周りの人々と話すとき、私たちはそんな言葉を語るべきです。

あなたはどうですか。あなたの言葉は、人々を育て、勧め、慰め、教えるでしょうか。

 

bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
カテゴリー: コリント人への手紙第一, パウロの書簡, 新約聖書 タグ: , , , パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中