コリント人への手紙第一13:8-12--将来の片鱗

この個所を読むと、新しいことが私の心を打ちました。それは、私たちの霊的な賜物が天国の片鱗ということです。パウロはこう言いました。

愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。(8-10)

パウロが触れている賜物は、「不完全な賜物」です。たぶん、天国では、ある賜物は継続するでしょう。例えば、奉仕の賜物や、治める賜物や、音楽の賜物は継続するでしょう。

でも、預言はなくなります。なぜでしょうか。預言とは、基本的に神様の言葉を人に伝えることです。でも天国では、神様は直接に私たちに話します。

異言もなくなります。異言を通して、私たちは神様の御心に従って祈ることが出来ます。でも天国では、私たちは神様の御心を知っています。また、異言を通して、私たちは外国語で神様の栄光を伝えることが出来ます。でも、天国では、皆が神様を知っているし、私たちは完全に互いに分かり合います。

私の知識も不完全です。特に神様に関する私たちの知識は不完全です。でも、天国では、私たちは神様のみ顔を見ます。

この三つの賜物は天国の片鱗です。今、私たちには幾分神様の声が聞こえるけど、天国では、私たちにははっきり聞こえるようになります。

神様とのコミュニケーション、また、周りの人々とのコミュニケーションはある程度までできます。でも、天国では、私たちのコミュニケーションは完全になります。

私たちは今幾分神様を知っているけど、天国では、私たちは神様を完全に知るようになります。

言い換えると、

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。(12)

私たちがこの世に見ている物のすべては、天国からのぼんやり映るものです。でもイエス様のみ顔を見ると、私たちはイエス様を完全に知るようになります。また、私たちは、神様が元の私たちの人生の計画が分かるようになります。

だから私は希望を持っています。時々、この世界は惨めな所です。でも、この世は、ただ私たちの未来のぼんやり映るものです。

でも、この世は永遠にこのように続きません。

だから、私たちの霊的な賜物を見ると、また、周りの人々と被造物を見ると、それらのものはただぼんやり映る物であることを覚えていましょう。私たちには希望があります。それは、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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