ローマ人への手紙4章16-26--確固とした確信を持っている

私は聖書を何回も読んだことあるので、新しいことを見つけると、本当にうれしいです。

とくに16ー17節は、私の心を打ちました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。(16-17)

「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神。」

その言葉を考えて見ると、その言葉は救いというコンセプトをまとめると分かります。神様が私たちを救う前に、私たちは死んだものでした。私たちの罪によって、私たちは裁かれました。でも、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったので、私たちは永遠の命を与えられました。

「無いものを有るものとして召される神。」

その言葉は創造を指すようです。つまり、神様の思いからこの世のすべては現れたことです。

でも、アブラハムについて読むと、私たちはその「「無いものを有るものとして召される神」と言うコンセプトを見ることができます。神様はアブラハムに「あなたは多くの国民の父となる」とか、「地のすべての国民はあなたによって祝福される」と約束しました。

驚くべきことは、神様がそう約束した時、アブラハムはもう75歳で、その妻サラは65歳だったということです。でも、神様はその約束を守りました。神様の思いにはアブラハムのための素晴らしい計画がありました。そして、その計画は現実になりました。

そして、アブラハムは決して神様が自分の約束を守るかどうか疑いませんでした。時々、アブラハムは神様の計画の詳細が分からなくて、馬鹿なことをしました。(だからハガルの問題がありました。)でも、アブラハムは、「神様はうそをついた」と全然考えませんでした。

だからパウロはこう言いました。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(19-22)

そしてパウロはこう言いました。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23ー24)

この個所では、パウロは「義と認められる」と言うことについて話します。私が以前言ったように、そのコンセプトを把握するのは、ちょっと難しいです。どうして、神様は罪人を義人と見なすことができるでしょうか。彼らが何回も罪を犯すのに、どうして、彼らは義と認められるでしょうか。

その答えは17節にあります。神様は「無いものを有るものとして召します。」

新改訳第三版で、このように翻訳されます。「(神様は)無いものを有るもののようにお呼びになります。」

それは「義と認められる」というコンセプトです。神様は義のない者を義のある者のようにお呼びになります。どうしてでしょうか。なぜなら、神様の思いには、私たちはもう義人だから。神様は現在の私たちだけではなく、将来のわたしたちを見ます。

神様は宇宙を創るとき、神様の思いには、どんな宇宙になるかもう知っていて、一言で、すべては作られました。神様はアブラハムに約束した時、思いにはイサクやイスラエルやイエス様を見て、一言ですべては成就しました。

神様が私たちを見ると、神様の思いには私たちがどんな人になるか見えます。そして、神様の力によって、私たちはイエス様のかたちに変えられます。毎日私たちは変わりつつあります。そして、天国に行くと、そのプロセスは完成します。だから、神様は私たちを見ると、私たちを義人と呼ぶことができます。

でも、アブラハムのように私たちはよく今日の現実を見ます。つまり、私たちは弱いです。私たちはよく罪を犯します。

でもアブラハムのように確固とした確信を持って、神様の約束を信じましょう。神様が自分の約束を実行する力を持つ確信を持ちましょう。神様は私たちを変えて、私たちが本当に義人になります。それは神様の思いの中だけではなく、それは現実になります。(第二コリント3:18;第一ヨハネ3:2)

それを覚えていて、信仰が強められて、神に栄光を帰しましょう。私たちの行ったもののためではなく、イエスの行ったもののためです。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(25)

bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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