イエス様が復活した日曜日に、11人の弟子たちの間で、たくさんの混乱や不信があったらしいです。彼らが集まったとき、マリアやほかの女性たちや、エマオに行ってきた弟子たちや、ペテロは、「主を見た。」と言い張りました。それでも、ほかの弟子たちはその話を信じませんでした。
そして、イエス様は急に現れました。もちろん、彼らは驚いて、最初は幽霊を見ていると思いました。
でも、イエス様は「平安があなたがたにあるように。」と言いました。
私たちはその言葉を聞いて、「やっぱり弟子たちが怖がったので、イエス様は彼らを慰めようとしました」と思うかもしれません。
でも実はその時代、その言葉は「こんにちは」のようなとても普通の挨拶でした。
だからもしかしたら、最初は、イエス様はとてもカジュアルな態度を持って、普通の挨拶としてその言葉を言ったかもしれません。でも、彼らは怖がったので、イエス様はもっと真剣に、「安心してください。わたしだよ。」と言って、彼らを励ましました。
そして、イエス様は自分の手と足を見せたり、魚を食べたりした。多分、皆はイエス様の傷跡に触りました。そのあと弟子たちの皆は説得されて、喜びました。
そして、イエス様は彼らに預言者たちがイエス様の死と復活を預言したことを教えました。また、イエス様自身が以前言ったことを彼らに思い出させました。
そのあと、イエス様は彼れにこう言いました。
父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)
また、
あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:48-49)
そして、イエス様は彼らに息を吹きかけて言いました。
聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。(ヨハネ20:22-23)
それを読んで、私は別の聖書の話を考えます。エデンで、神様がアダムに息を吹きかけて、アダムは物質的な命を受けました。でも、この個所では、弟子たちは霊的な命を受けました。
聖霊様は、救いのしるしとして、彼らに入りました。そしてイエス様が以前約束したように、聖霊様は彼らにいろんなことを教えたし、彼らがどこに行っても聖霊様は彼らと共におられました。さらに、聖霊様は、彼らがイエス様からの使命を果たすために力を与えてくださいました。だからそのあと、彼らはあらゆるところに福音を広げました。
そのように、私たちがイエス様を救い主と主として受けると、イエス様は私たちに息を吹きかけて、霊的な命を与えてくださいます。聖霊様も、私たちに入って、私たちを導いてくださいます。さらに、聖霊様は私たちに力を与えてくださるので、イエス様からの使命を果たすことができます。
だから、私たちは独りぼっちではありません。私たちは自分の力と努力によって、神様を喜ばせ、神様の目的を果たす訳ではありません。
むしろ神様自身は私たちに住んでおられる聖霊様を通して、私たちを満たして、命と敬虔をもたらすすべてのものを私たちに与えてくださいます。(第二ペテロ1:3)
私たちの主な仕事は、福音を広げることです。私たちは、悔い改めてイエス様を受ける人に、「あなたの罪は赦された」と宣言できます。でも、神様の救いを受けない人に、私たちは将来の裁きについて警告します。
神様は御国のカギを私たちに与えてくださいました。福音を伝えたら、私たちが御国を門を開けて、周りの人々は入る機会があります。
だから聖霊に満たされて行きましょう。死にかけている世に、御国の門を開きましょう。