いつイエス様がペテロに自分自身を現したかによって、この話では、私たちはイエス様の復活の後の第三目か第四目の現れを見ます。
この話では、二人の弟子たち(しかし12人の弟子に所属していませんでした)は、エマオという村に向かっていました。もしかしたら、エマオは彼らの出身地だったかもしれません。彼らが歩きながら、女性たちの話や、ペテロとヨハネの話について話しました。でも、彼らはまだイエス様が復活したことを信じなかったらしいです。
そしてイエス様は突然現れました。でも、彼らはイエス様を認識できませんでした。聖書によれば、彼らの目はさえぎられていました。(16節)
つまり、彼らはイエス様を見ることができたけど、イエス様は彼らがイエス様のことを認識するように許しませんでした。もしかしたら、イエス様はお墓の外で、マリアに同じことをしていたかもしれません。
とにかく、イエス様は彼らに訊きました。
歩きながら語り合っているその話は何のことですか。(17)
多分その二人はとても驚いたでしょう。「知らないのですか。君はエルサレムにいていたわけじゃないのですか。何が起こったか知っているでしょう?」
でも、イエス様は何も知らないふりをして、答えた。
「どんなことですか。」(19節)
そして、その二人は自分の混乱と悲しみを打ち明けました。つまり、彼らが、イエス様がメシアで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると思ったのに、イエス様は十字架で死んだことです。それに、彼らはイエス様がよみがえられた話を聞いたけど、その話を信じられるかどうかわかりませんでした。
それを聞いて、イエス様は彼らを叱責しました。
ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(25-26)
そして、イエス様は、苦しんでいるメシアが私たちの罪のために死んでくださって、よみがえられたという始めての説教を教えました。
彼らがエマオに着いたら、イエス様はもっと先まで行きそうな様子でした。でも、彼らの心がかき回されたので、イエス様に頼みました。
一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。(29)
そして、イエス様が彼らと食卓に着くと、イエス様はパンを取って、神様をほめたたえ、裂いて、渡されました。(30)
もしかしたら、それを見ると、彼らはイエス様が5000人にパンと魚を与えてくださった出来事をを覚えていたかもしれません。そして、彼らの目が開かれて、イエス様を認識しました。でもその瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。
そして彼らは話し合いました。
道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。(32)
そして、彼らは11人の弟子たちのところに行って、イエス様が復活したことを伝えて、女性たちとペテロの話を確認しました。
それでは、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。
どれぐらい私たちは、神様の言葉に対して、鈍い心を持っているでしょうか。
私たちはイエス様が私たちの罪のために死んで、よみがえられたことを信じるかもしれないけど、イエス様のほかの言葉を本当に信じるでしょうか。
なぜ私たちの心が鈍くなるのでしょうか。
もしかしたら、その二人の弟子のように、私たちの過去の経験を振り返って、失望するかもしれません。または、私たちの人生は希望通りに進んでいないかもしれません。
だから、私たちは神様に疑問を持ちます。「あなたの言葉は真実なのしょうか。あなたは本当に私とともにおられるのでしょうか。私のニーズを本当に備えてくださるのでしょうか。あなたは私を本当に愛しているのでしょうか。」
私もそんな疑いを持ったことがあります。
もしかしたら、私たちは神様の道を疑って、自分の道を行きたいと思うかもしれません。私たちは神様の道が無駄だと思いますから。
私はノンクリスチャンと結婚するクリスチャンをたくさん知っています。彼らの理由は、良いクリスチャンの伴侶を見つけることができなかったことです。でも多くの場合、あとでその決断を後悔してしまいました。
私たちがイエス様の言葉を信じないので、その二人の弟子たちのように、私たちは失望した人生、悲しみの人生を送ってしまいます。
でも、良い知らせがあります。イエス様は私たちのことを決してあきらめないのです。イエス様はまだ私たちと共に歩んでいます。
もし私たちが自分の心を開いて、すべてを打ち明けると、イエス様は自分の言葉を私の心に注いて、私たちを癒して、新しい希望を与えてくださいます。
だから私たちの鈍い心を捨てましょう。私たちの心を開いて、イエス様を信じましょう。
聖書はこう言っています。「この方(イエス様)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)