マタイ27:22-26--イエス様の血が私たちの上に

全ての福音書を読むと、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫びは、私の心に響きます。

イエス様はそれを聞いて、本当に悲しんでいたでしょう。なぜなら、イエス様がその人々を本当に愛していたのに、彼らはそんなひどい言葉を叫んだから。

ピラトはその言葉を聞いて、諦めて、群衆の前に手を洗って言いました。

この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。(24)

その群衆はそれを聞いて、答えました。

その人の血は私たちや私たちの子供らの上に。

最終的にユダヤ人たちはその行為のために苦しみました。彼らが自分のメシアを拒絶したので、西暦70年に、タイタスというローマの将軍が、エルサレムを破壊して、多くのユダヤ人たちとその子供たちは殺されました。もちろんタイトスが刀を振るったけど、それはユダヤ人に対する神様の裁きでした。

でも、ピラトと群衆の言葉に思いを巡らすと、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、私たち皆はイエス様の死の責任を持っていることです。イエス様は私たちのために死にましたから。私たちが神様を拒絶していなかったら、また、罪を起こしていなかったら、イエス様が死ぬ必要がなかったでしょう。だから、イエス様の血は、その時代のユダヤ人だけではなく、私たち皆の上なのです。

パウロはこう言いました。

全ての人は罪を犯し「ました」。(ローマ3:23)

だから、ピラトと違って、「私には責任がない」と言える人がいません。私たち皆は責任を持っています。

でも実は、「イエス様の血は私たちの上に」という言葉に、もう一つの意味を付けられると思います。(これは私の二番目のポイントです。)

もちろん、群衆の意味したものは、「イエス様の死は私たちの責任だ」ということです。でも、皮肉なことは、イエス様の血は私たちを覆って、私たちの罪をきよめてくださることです。私たちがイエス様を信じたら、その血は私たちの罪を覆って、神様の目に、私たちは義人と認めれます。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体をきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:12-14)

だから、私たちの救い主に叫びましょう。「あなたの血が私たちの上に。私たちは罪を犯したので、あなたの死の責任を持っています。でも、あなたの血が私たちの上になるように。あなたの恵みと憐れみによって、私たちをきよめ、赦し、完全にしてください。」

 

bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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