聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きに関して、いろんな生々しい描写を与えてくれます。
まず、神様はアダムとエバに、誰かが蛇の頭を踏みつけて潰すけど、そうするときに、その人の足は打たれる、と約束しました。(創世記3)
他の描写は、神様がアブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと命令したという話です。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に神様は彼を止めました。(創世記22章)
そして、神様の律法では、いろんないけにえや捧げものがイエス様を指していました。
それだけではなく、預言者イザヤはイエス様についていろんなことを預言したし(特に、イザヤ53章)、ダビデの詩篇もイエス様を指しました。(例えば22篇)
でも、イエス様が十字架で死ぬ前にもう二つの描写を与えてくださいました。一つ目のは、もちろん聖餐式です。(別の記事で、私はそのことについて話します。)
でも、二つ目のは、この個所にあります。それはとても美しい描写だと思います。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(4)
それは何の描写でしょうか。パウロはこう言いました。
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ5-7)
イエス様は神だったけど、ご自分を空しくしました。もちろん、イエス様はまだ神だったけど、栄光の上着を脱ぎ、人間になりました。それだけではなく、イエス様は王として来ないで、しもべのかたちをとりました。
パウロはつづけました。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)
イエス様が自分自身を低くして、弟子たちの足を洗ったように、イエス様が自分自身を低くして、十字架で死んだので、今私たちの罪はイエス様の血によって洗われます。
だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようと思ったとき、イエス様は言いました。
わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)
要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私がはあなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。私があなたの罪を清めないと、あなたは私と関係ないことになります。」ということです。
イエス様は彼らの足を洗うと、上着を着て、もう一度自分の席に戻って、彼らの主としてふるまいました。そのように、パウロはこう言いました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)
イエス様が弟子たちに訊いたように、私たちにも同じ質問を訊きます。
わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)
あなたは分かっているでしょうか。あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨てたか、また何をささげたか分かりますか。それが分かっているなら、イエス様はあなたにこう言います。
あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)
イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべでした。そして、イエス様は私たちにイエス様のようになるように呼びます。あなたもしもべでしょうか。