私の意見だけだけど、もしかしたらこのたとえ話は、ペテロに対するイエス様の反応かもしれません。ペテロはこう言いました。
私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)
多分イエス様はこの話を通して、ペテロを励ましたいと思ったけど、同時にペテロに警告したいと思ったでしょう。
この話では、ある主人が自分のぶどう園で働く者を雇いました。最初に雇った労働者たちは主人と交渉したけど(一デナリは普通の一日の賃金でした)、そのあとに雇った労働者たちは具体的な賃金を交渉していませんでした。むしろ、主人はこう言いました。
あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。(4)
夕方になると、主人は労働者に賃金を払いました。彼は一番最後に雇われた人々に最初に払って、一番最初に雇われた人々に対して最後に払いました。主人は後に雇われた人々に一デナリを払いました。だから、最初に雇われた人々が来たとき、彼らはもっと払われると思いました。でも、主人は彼らにも一デナリを払いました。だから彼らは文句を言いました。
それは当然の反応でしょう?ある労働者は一時間だけ働いたけど、一デナリをもらいました。でも、一日中働いた人々も同じく一デナリだけをもらいました。
でも、主人の答えを見てください。
友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私は気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。(13-15)
要するに、その最初の労働者たちが騙されたとは言えないことです。彼らは交渉した賃金をちゃんともらいました。それでは、どうして彼は怒りましたか。なぜなら、主人は後に働いた労働者に対して、とても気前が良かったから。
イエス様のポイントは何でしょうか。「私に従うために何をもらうか気にするな。あなたが値するものをもらうことに気にするな。また、自分自身を周りの人々と比べるな。あなたはどれぐらい捨てたか、また、相手がどれぐらい捨てたか、気にするな。あなたの報いはちゃんともらいます。でも実は、神様は人が値する報いを与えることにあまり興味ありません。神様は私たちが値しない報いを与えるのを喜びます。もし、あなたが値する報いを心配しすぎると、神様はそれを与えるかもしれないけど、それだけを与えます。
でも周りの人が何をしているか気にならないし、あなたが値する報いが気にならないなら、あなたが想像するよりも、神様からの祝福を受けます。」
あなたはどうですか。あなたはいつも自分自身を周りの人々と比べているでしょうか。あなたはいつも、「どうして、私が相手よりも神様に仕えているのに、相手の方が神様に祝福されるだろうか」と疑問に思うでしょうか。
覚えていてください。恵みとは、あなたが値することには全然関係のないことです。
恵みとは、私たちが神様からの報いに値しないのに、神様が私たちにいつくしみを注ぐことです。実は、私たちに値するのは死です。なぜなら、私たち皆は罪を犯したから。
だから、私たちが値するものをあまりにも考えないでください。むしろ、私たちが値しない恵みを受けたことを喜びましょう。つまり、私たちは永遠の命、喜び、平和、と愛を豊かに受けたことを喜びましょう。