この個所では、イエス様はパリサイ人を非常に批判します。なぜなら、彼らの心は汚かったから。
パリサイ人のうわべはとてもきれいでした。彼らは律法を事細かに守りました。でも実は、彼らは偽善者でした。
たとえば、彼らの心は貪欲に満ちていました。彼らは十一献金をささげたけど、貧乏な人を見ると、その人を助けずに通り過ぎました。彼らは、人よりもお金を愛したから。
また、彼らは、神様の愛と知恵を持たずに、周りの人々をすぐに裁きました。だから、イエス様が安息日に人々を癒した時、彼らはイエス様だけではなく、癒された人々をも批判しました。(ヨハネ9章)
彼らは全く預言者ミカの言葉を忘れていました。
私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:6-8)
だから、イエス様は彼らを批判しました。
さらに、イエス様は彼らのプライドを批判しました。彼らがリーダーになろうと思った理由は、人々に仕えることではなく、尊敬されるためです。だから、イエス様はこう言いました。
おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(44)
どうしてイエス様はそう言ったのでしょうか。神様の律法によれば、墓が不潔なものだったから。その墓に触れると、あなた自身も儀式的に不潔になりました。
だからイエス様が意味したものは、「あなたたちは不潔だし、あなたが接する人も不潔になります。それに、彼らがあなたが聖いと思うので、あなたに接するとき、彼らは不潔になったことに全然気づきません。」ということです。
厳しい言葉ですね。
でも、真理はしばしば厳しいものです。そして、パリサイ人はその真理がわからなくてはいけませんでした。彼らは周りの人々をだましたかもしれないけど、神様をだましていませんでした。悔い改めないと、彼らは裁かれたでしょう。残念なことだけど、多くのパリサイ人たちは決して悔い改めませんでした。
あなたはどうですか。あなたのうわべはきれいでも、心は汚いでしょうか。
宗教的なことをしても全く足りません。教会に行くだけでは十分ではありません。十一献金をささげることも十分ではありません。心の中で、プライドや貪欲を持てば、その行動は意味がないのです。もし心の中で、愛がないなら、あなたの良い行動は意味がないのです。
あなたは、神様に対する愛が必要です。また周りの人々に対する愛が必要です。
神様はあなたの心を見抜きます。神様は、自分の心に叶う者を探しています。
あなたの心に、何が入っているでしょうか。