マタイ13:44-46--救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいた時、木の下で埋coins-2-way_2834423bまっていた缶を見つけました。それは、ただのごみみたいだったけど、注深く見ると、缶に入ったものは古い金貨でした。その金貨は1800年代のものでした。そして、彼らが庭でさらに探してみると、金貨が入った缶をいくつか見つけました。その金貨の価値は10億万円ぐらいでした。私もそんな宝物を見つけたらいいのにねえ。

この個所では、イエス様のたとえ話は上記の話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性は畑に隠された宝を見つけました。でも、その畑が自分のものではなかったので、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物を全部売り払って、その畑を買いました。

二つ目の話では、商人は真珠を探していて、良いのを見つけました。でも、その真珠はとても高かったので、彼は自分の持ち物を全部売り払って、その真珠を買いました。

その二つの話を読むとき、二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、宝を見つけた人の喜びです。二つ目は、その人がどうしても、その宝物を買おうと思ったことです。

多くの人々はこの話を読むとき、キリストを見つける人の喜びを考えます。イエス様との関係がすごい価値があるので、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる気があります。彼らはイエス様に従うのに、自分の家や、家族や、持ち物を捨てます。(マルコ10:29)

それはちょっと痛いかもしれないけど、彼の喜びはその苦しみよりも優れたものです。

でもこの話では、もう一つの解釈があります。つまり、私たちは宝ものです。私たちは真珠です。そして、イエス様は探している人です。

私たちは自分の罪のため、迷ったし、霊的に死んだものでした。でも、イエス様が私たちを探していて見つけた時、イエス様は喜びを持って、すべてを売り払って、私たちを買いました。イエス様は天国を去って、自分の栄光を天国に残して、人間になりました。

この世にいる間に、お腹がすいたときもあったし、喉が渇いたときもあったし、疲れた時もあったし、痛んだ時もありました。そして、イエス様は十字架で、苦しくて死んでしまいました。

どうしてでしょうか。イエス様にとって、私たちがすばらしい値うちの真珠だから。私たちは埋まった宝物です。私たちは汚いし、錆びたけど、イエス様の目では、私たちには高い価値があったから。だから、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買いました。

それでは、私たちはどのように反応しましょうか。

パウロはこう言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だから毎日、私たちを愛している救い主をほめたたえましょう。

 

bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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