それでは、新約聖書を始めましょう。福音書について書くとき、私が旧約聖書について書いたように、年代順に書きます。だから、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書について順番に書かずに、その福音書に入っている話について順番に書きます。
だから、マタイから始めません。むしろ、ヨハネから始めます。なぜなら、ヨハネ1章の話は、イエス様がこの世に来る前の話だからです。
ヨハネはこう書きました。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(1:1)
ヨハネは「言葉」と言う時、イエス様について話します。つまり、時間と空間が創造される前に、イエス様はもう存在していました。イエス様は永遠の方だから。
どうして、ヨハネはイエス様を「言葉」と呼ぶでしょうか。
ユダヤ人の考え方では、「言葉」は「神の知恵」という意味です。
ギリシャ人の考え方では、「神の思い」、また「神の理」という意味です。彼らに「どうして、この世界はこんなに整然と造られたしょうか。」と訊いたら、その答えは、「神様の理だから。」
だから、ヨハネが、イエス様を「言葉」と呼ぶ時、その意味は、イエス様は神の知恵、また、神の理という事です。
もう少し、「言葉」という名前について考えましょう。
私たちはどのように人を知ることができるでしょうか。彼らの言葉を通して、彼らを知ることができます。もし、その人は決して話さず、何も書かないなら、ある程度まで彼らを知ることができるけど、限界があります。
でも、彼らが喋りはじめると、私たちは彼らの考え方を知ります。彼らの知恵から私たちは学ぶことができます。でも一番大切なのは、私たちは彼らの性格、また彼らの心を知ることができます。
そのように、イエス様は私たちに対する神様の言葉です。イエス様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。どうしてでしょうか。
二つの理由があります。
一つ目は、始めから、イエス様は「初めに神とともにおられた。」ということです(1:2)。その意味は、彼らには親しい関係があったということです。
それだけではなく、イエス様自信が神です。それが二目の理由です。14節によれば、イエス様は人となって、私たちの間に住まわれました。つまり、神は人間になりました。
キリスト教の難しい教えがあります。それは「三位一体」ということです。それはどういう意味でしょうか。
父である神がおられます。御子(イエス様)である神がおられます。聖霊である神がおられます。父は御子ではありません。御子は聖霊ではありません。聖霊は父ではありません。でも、神が3つおられるわけではありません。神は一つしかおられません。
それは人間の想像より大きいです。人間では、三人は三人です。でも、神様では、父と御子と聖霊は一つの神です。それが聖書の教えです。
実は、私たちは神様のことがすべて理解できたら、ちょっと不審なことだと思います。もし偉大なる神のことを全部説明できたら、多分私たちは自分の想像から神様を造れるでしょう。でも、私たちはこの三位一体の神をすべて理解できないし、説明できません。ある程度までその神のことが理解できるけど、全て理解できません。
でも、イエス様のおかげで、私たちは神様のことがもっと理解できます。イエス様が2000年前に生まれた時、私たちは初めて、自分の目で神を見ることができました。
ヨハネはこう書きました。
私たちはこの方(つまり、イエス様)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)
イエス様は地上で歩いた時、また話した時、彼は神様を表しました。なぜなら、彼は人間となった神だから。イエス様を通して、私たちは神様がどんな方であるか見えます。
だから、ヨハネはこう書きました。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)
ギリシャ語の文字通りに、イエス様は神様を説明しました。また、神様を解釈しました。イエス様は父である神の通訳みたいです。
この記事を書くとき、もうクリスマスは迫っています。まだ11月だけど、いろんなクリスマスの飾りが出ています。でもクリスマスの意味を覚えていてください。私たちは神様が人となることを祝います。どうしてそれは大切なのでしょうか。なぜなら、その奇跡によって、神様は自分自身を表したから。
目が見えない神を知りたいでしょうか。その飼葉おけを見てください。なぜなら、イエス様にあって、神様の知恵、力、と栄光のすべてが見えるから。
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