私は以前にも言ったけど、預言書を読むのは時々ちょっと辛いです。なぜなら、預言者のメッセージの大部分は裁きのメッセージだから。
この箇所もそうです。イスラエルの長老たちは、主に尋ねるためにエゼキエルの所に行きました。でも、彼らは心から主を求めていなかった。
だから、神様はエゼキエルに言った。「彼らのために私はメッセージがない。でも、良かったら、彼らに自分の歴史を思い出させてください。彼らの罪について思い出させてください。どうして私が彼らに話さないか教えてください。」(4-32)
しかし、この箇所では、ある真理が何回も現れます。つまり、神様は憐みの神です。神様がイスラエルの歴史について話す時、その真理が何回も現れます。
イスラエル人は何回も神様に反抗したのに、神様は彼らを全く滅ぼしていなかった。むしろ、神様は彼らに憐れみを与えてくださった。彼らの行動のために憐れみを与えなかった。むしろ、神様は憐れみ深い神だから。
何回も、神様はこのようなこと言いました。「私の名前のためにあなたを滅ぼさなかった。周りの国々があなたが忠実じゃなくても、私が忠実な方であることが分かるように私はあなたを諦めなかった。周りの国々が私が憐み深い神であることが分かるように私はあなたの罪を赦しました。」
そして、イスラエル人が悔い改める日に、
わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――」(44)
ダビデはこう書いた。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。(詩編103:10)
私はその素晴らしい真理を喜びます。私は神様の裁きに値しています。でも、神様がイスラエルに憐れみを与えたように、神様は私に憐れみを与えてくださいます。
神様は私を暗闇の王国から救い出して、光の王国に導いてくださいました。だから、神様に感謝します。
神様、あなたが私の罪にしたがって私を扱わないことに感謝します。あなたは私を赦したし、毎日私を変えています。私が自分の罪を憎むように。私があなたのように変えてください。そして、あなたが私に憐れみを与えたように、私が周りの人に憐れみを与えるように。アーメン。