「私はもう救われたから、勝手に罪を犯しても、神様は私を赦してくれる。」
ある人々は自分がクリスチャンであると言っても、そんな態度を取ります。でも、神様はそのような態度をお許しになりません。
神様はユダ人たちとイスラエル人についてこう言いました。
「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。彼らは、わたしのことばを聞こうとしなかった彼らの先祖たちの咎をくり返し、彼ら自身も、ほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの先祖たちと結んだわたしの契約を破った。」(9-10)
現代でも、多くの人々はそうします。彼らは罪を捨てたのに、その罪に戻ります。
ユダ人たちはこう思ったかもしれない。「罪を犯しても、大丈夫。もし、いけにえを捧げれば、神様はきっと私たちを赦してくださいます。」
でも、彼らはいけにえが勝手な罪のためじゃないことを忘れました。時々、私たちは意図せず罪を犯します。例えば、私たちは急に怒って、悪いことをします。いけにえは、そのような罪のためでした。(そのいけにえについてもっと知りたいなら、これを読んでください。)
ユダ人たちは、自分の罪をよく知っていたけど、その罪を犯し続けました。だから神様はこう言いました。
それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれからのがれることはできない。彼らはわたしに叫ぶだろうが、わたしは彼らに聞かない。(11)
また、
あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ。(14)
もちろん、私たちは恵みの時代に生きています。もし私たちが心から悔い改めたら、神様は私たちを赦して下さいます。でも、悔い改めても、罪の結果を避けることができるわけではありません。
あなたが不倫したら、あなたが神様に祈っても、妻に頼んでも、妻はあなたと離婚するかもしれない。もし、ギャンブルでお金が無くなったら、神様に祈っても、あなたは自己破産するかもしれない。
だから、「神様が私を赦してくださるので、罪を犯しても良い」と言って、自分自身を騙さないでください。
むしろ、パウロが言ったように、
それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2:22)