イザヤ書65章1-16節ーー神様の召しを無視すること

神様が私たちを見る時、どれぐらいフラストレーションを感じるでしょうか。この箇所では、神様のフラストレーションが見えると思います。神様はイスラエルについて話しているけど、私たちについても話しているかもしれない。

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし[ます]。(1-3)

どうして神様は私たちを捨てなかったのでしょうか。私たちは罪を犯したので、そのことは死に値しました。どうして、神様は「彼らは私を求めないのに、どうして私の方が彼らに手を伸ばすべだろうか」と言わなかったでしょうか。

何回も神様は私たちに「私はここだ、私はここだ」と言います。

でも、私たちがその愛を見ても、私たちはわざと神様を怒らせる。私たちは神様に対して良い香りではなくて、臭い煙になります。だから私たちは裁かれます。神様はこう言った。

わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。。。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する。。。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を選んだからだ。(6-7,12)

でも、その裁きの中にも、憐みがあります。もし私たちが神様の召しに答えると、神様は私たちに憐れみを与えてくださいます。神様はこう言いました。

ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。(8-9)

神様がすべてのイスラエル人を捨てずに、神様に属する心を憐れんだように、今、全ての人々を捨てずに、神様に属する心を憐れみます。

ペテロはこう書いた。

主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。(第二ペテロ2:9)

私たちはどのように神様の召しに反応するでしょうか。神様の所に走るでしょうか。もしくは私たちは神様に背を向けて、わざと怒らせるでしょうか。

神様、私が堅い心が持たないように。むしろ、私の心を柔らかくしてください。私が頑固の態度を取って、あなたを怒らせないように。むしろ、私があなたの召しと愛に反応してあなたを喜ばせるように。私をあなたの所に引き寄せてください。私の心があなたの物になるように。アーメン。

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bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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