イザヤ書63章1-6節ーー救いの神、裁きの神

福音は両刃の剣です。福音は始めからそのようなものでした。イエス様を受け入れたら、福音は救いの方法です。イエス様を拒絶したら、裁きに導きます。この箇所では、救いと裁きの両方を見ることができます。

最初に、キリストが国々を裁くのを見ます。イエス様の着物は神様に背く人々の血で赤いです。彼は言います。

わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(3-4)

また、

わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。(6)

私たちがイエス様について考える時、だれもその絵を想像したくない。でも、パウロはこう言った。

罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)

しかし、この同じ神は、救いの神でもあります。

イザヤは訊きます。

エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。(1)

神様は答えます。

正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。。。わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。(1,4-5)

その言葉はパウロの言葉に似ている。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:6-8)

誰も私たちを救えない時、私たちが自分自身を救えない時、神様は人間としてこの世に来て、私たちの罪のために死んだ。神様は私たちが良い人になるまで待っていなかった。私たちは自分自身を変えられなかったから。だから、私たちがまだ弱い罪人の時、イエス様は私たちのために死んだ。

今私たちがするべきことは一つしかないです。それは、神様からの救いの賜物をもらうことです。それは福音です。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

救いか裁き。皆は選ぶべきです。あなたは何を選ぶでしょうか。

 

bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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