イザヤ書49章14-26節ーー忘れられていない

「神様は私を忘れただろうか。私には、希望があるだろうか。」

ユダヤの亡命者は多分そう思いました。彼は叫んでいた。

主は私を見捨てた。主は私を忘れた。(14)

時々、私たちもそう感じます。「神様に捨てられた」と思います。また「私は希望がない」と思います。

でも神様は何だと言うでしょうか。

女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。(15-16)

つまり、私たちは、母が自分の乳飲み子を忘れることを想像できません。また母が自分の子を憐れまないことも考えられません。でも、この壊れた世界では、自分の子を捨てる母もいます。

それでも、神様は言います。「そのような親しい母子の関係が破れても、私は決してそのようなことをしない。私の愛は母の愛よりも深いから。あなたを決して忘れない。あなたを決して捨てない。」

神様はイスラエル人を自分の土地に返すことを約束した。そして、彼らが希望をなくしても、神様はもう一度彼らに祝福を注ぐと約束した。その時、

あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。(23)

私が主であることを知る。

私たちはそのことを本当に知っているでしょうか。「私は神様を信じている」と言うけど、私たちの行動は私たちの言葉と合うでしょうか。

神様の約束を、本当に信じているでしょうか。

神様が私たちの将来を自分の手に持っていることを、信じているでしょうか。

神様が自分の約束を守ろことを、信じるでしょうか。

私たちに希望がない時、神様に信頼して、従いし続けるでしょうか。

わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。

何によって希望するでしょうか。希望があるでしょうか。

神様が約束したのは、もし私たちが神様を待ち望むと、また、神様に従い続けると、結局神様の祝福を知るということです。

時々私たちは神様にがっかりさせられると思うから、神様に信頼して従うことをためらいます。

「もし神様に従っても、結果が出ないなら、私はどうするでしょうか。」

また、こう思ったりもします。

「神様に従ったら、私の状態はもっと悪くなるかもしれない。」

でも、神様の約束は、結局、私たちが恥を見ないという事です。ある英語の翻訳によれば、神様は私たちをがっかりさせない、と書いてあります。

でも、あなたは本当にそう信じているでしょうか。神様が来るまで、待ち望むでしょうか。

あなたはどうでしょうか。忘れられたと思うでしょうか。捨てられたと思うでしょうか。希望がないと思うでしょうか。

神様はあなたを忘れていない。神様はあなたを決して捨てない。あなたが神様に向かうと、神様はあなたに希望を与える。

神様に信頼してください。神様を待ち望んでください。神様の言葉に従ってください。そうすれば、大変な試練に会っても、結局、あなたは恥を見なのです。

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bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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