イザヤ書10章5ー19節ーー誰が主人でしょうか。誰が道具でしょうか。

聖書が私たちによく警告することはプライドです。そしてこの箇所で、神様はアッシリヤ人をプライドのために責めた。アッシリヤは強い国なって、周りの国々を征服し始めた。でも彼らが知らなかったことは、神様が彼らを通してその国々を裁いていたことです。つまり、アッシリヤ人達はただ神様の道具にすぎませんでした。

神様はこう言った。

わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。(6)

でも自分のプライドによって、アッシリヤ人達は自慢した。

私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。(13)

だから神様は答えた。

斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。(15a)

そして、神様は皮肉っぽく言った。

それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。(15b)

だから、神様は彼らを裁いてこう宣言した。

それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。(16)

ヒゼキヤ王の治世のとき、その預言は成就された。(イザヤ37:36ー37)

ここから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはよく自分ができること、また自分ができたことを自慢する。社会でも、教会でも私たちはそうします。

でも覚えていなくてはならないことは、私たちが主人じゃないことです。私たちはただの道具です。私達が持っている物の全ては神様から来る。そうであれば、私達は何を自慢できるでしょうか。

パウロはこう言いました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから、教会でも、この世界でも、私達が素晴らしいことをする時、すべてがどこから来るか思い出しましょう。

私達の賜物と才能がどこからか来るか思い出しましょう。私達の祝福がどこから来るか思い出しましょう。

そして自分自身のために生きずに謙遜な態度を持って、神様に感謝して仕えましょう。

 

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bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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