民数記8章 ーー 清められて、神様の前​に立たせられる

金の子牛の事件の時に、レビ人が神様のための情熱を示したから、神様は彼らを仕えるために選びました。でも、神様に仕える前に、彼らの罪を贖われたし、体は洗われなければならなかった。その後で、神様の前に立たせられた。その全部をしてから、彼らは神様に仕えることができた。

この箇所から、4つのことを学べると思う。

一 つ目は神様に仕えるために、情熱が足りないです。神様に仕える前にイエス様の​血によって、私達の罪は清められなければならない。神様の一番大切な命令 は、私達が悔い改めて、罪の赦しのためにイエス様を信じることです。その命令を拒否したら、どうやって私達が神様に仕えることができるでしょうか。

2つ目は、私たちが神様に仕えたいなら、自分自身を神様に捧げなくてはならない。ローマ書12:1で、私たちはからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさいと書いてあります。

そうしないと、神様は私達をあまり用いることができない。その決断をするときに、私はこう言います。「私はあなたに仕えるためのものです。私を用いてください。」そうすると、神様は自由に私達を用いることができる。ローマ書6:13でこう書いてあるます。

むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

3つ目は、自分の方法で神様に仕えることができない。レビ人はそうしなかった。むしろ、祭司たちに従いました。そのように、私たちは大祭司イエス様に従います。

最後に、神様に仕える人生の順番は、私たちは清められてから仕える。多くの人は「神様に仕えたら、また、良いことをたくさんしたら、私が清められる。」と考 えます。でも、もし私達の罪が清められないと、神様の目に私たちの働きは汚れた着物みたいです。(イサヤ書64:6)。まず、清められなければならない。 そして、神様は私たちの行動を受け入れる。

イエス様、レビ人のあなたに仕える情熱を私に与えてください。私を清めてください。そして、私 の行動を受け入れてください。私の人生をあなたに捧げます。私を用いてください。それが​私の願いです。私は自分の道を行かずに、あなたの道を行きたいです。私の罪のために死んでくださってありがとうございます。私をもう受け入れてくださってありがとうございます。私の人生をあなたの目的のために用いてください。私が聖い、生きた供え物になりますように。アーメン

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bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
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