この箇所で、祭司たちについてのルールがたくさんありましたけど、根本的に、2つのルールがありました。祭司が神様に仕えるのに、彼らは清くなくてはならないし、欠陥があってはダメでした。
だから、普通の祭司たちは近親者以外の死体に触ってはダメでした。大祭司の場合は、近親者でも、死体に触ってはダメでした。そうしたら、汚れるからです。
それに、祭司たちは売春婦か離婚された人と結婚してはならなかった。大祭司の場合は寡婦と結婚したらダメでした。
それだけではなくて、体の欠陥があったら、幕屋で神様に仕えたらダメでした。例えば、目が見えない人とか、足が萎えた者が幕屋で仕えたらダメでした。
なぜでしょうか。多分、彼らは、特に大祭司はキリストのシンボルだったから。つまり、キリストは完全で、罪のない人でした。
死は罪の結果だから、祭司たちは死から離れなくてはならなかった。だから、大祭司は寡婦と結婚したらダメでした。
売春婦と結婚したらダメなことは当然だと思う。その売春婦の人生はとても汚れているからです。そして、離婚された人と結婚したら、神様によれば、姦淫でした。(マタイ5章と19章で書いてあるように)。
でも、私達の大祭司イエス・キリストとその時代の祭司たちと大きな違いがありました。その時代の祭司たちは汚れたものに触ったら、例えば、死体とか、ツァラアト(らい病)の者に触ったら、祭司たち自身が汚れた。そして、彼らは自分自身を清くしなくてはならなかった。
でも、イエス様がツァラアトの者か死体か売春婦か罪人に触れても、イエス様は汚れなかった。むしろ、彼らを清くした。彼らは完全になりました。彼らは聖なる者になった。
そのように、神様は罪深い私達を受け入れて、私達に触ります。そして、神様のタッチによって、私たちは清くなるし、完全になるし、聖なる者になる。神様はこう言った。「わたしは彼を聖別する主だからである。」
この箇所で、神様は6回その言葉を繰り返して言います。私たちは自分自身を聖くできない。神様はイエス様の血によって、私達を聖くする。
エペソ人への手紙で書いてあるように、
キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25ー27)