レビ記21ー22章 ーー きよくて、傷のない

この箇所で、祭司たちについてのルールがたくさんありましたけど、根本的に、2つのルールがありました。祭司が神様に仕えるのに、彼らは清くなくてはならないし、欠陥があってはダメでした。

だから、普通の祭司たちは近親者以外の死体に触ってはダメでした。大祭司の場合は、近親者でも、死体に触ってはダメでした。そうしたら、汚れるからです。

それに、祭司たちは売春婦か離婚された人と結婚してはならなかった。大祭司の場合は寡婦と結婚したらダメでした。

それだけではなくて、体の欠陥があったら、幕屋で神様に仕えたらダメでした。例えば、目が見えない人とか、足が萎えた者が幕屋で仕えたらダメでした。

なぜでしょうか。多分、彼らは、特に大祭司はキリストのシンボルだったから。つまり、キリストは完全で、罪のない人でした。

死は罪の結果だから、祭司たちは死から離れなくてはならなかった。だから、大祭司は寡婦と結婚したらダメでした。

売春婦と結婚したらダメなことは当然だと思う。その売春婦の人生はとても汚れているからです。そして、離婚された人と結婚したら、神様によれば、姦淫でした。(マタイ5章と19章で書いてあるように)。

でも、私達の大祭司イエス・キリストとその時代の祭司たちと大きな違いがありました。その時代の祭司たちは汚れたものに触ったら、例えば、死体とか、ツァラアト(らい病)の者に触ったら、祭司たち自身が汚れた。そして、彼らは自分自身を清くしなくてはならなかった。

でも、イエス様がツァラアトの者か死体か売春婦か罪人に触れても、イエス様は汚れなかった。むしろ、彼らを清くした。彼らは完全になりました。彼らは聖なる者になった。

そのように、神様は罪深い私達を受け入れて、私達に触ります。そして、神様のタッチによって、私たちは清くなるし、完全になるし、聖なる者になる。神様はこう言った。「わたしは彼を聖別する主だからである。」

この箇所で、神様は6回その言葉を繰り返して言います。私たちは自分自身を聖くできない。神様はイエス様の血によって、私達を聖くする。

エペソ人への手紙で書いてあるように、

キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25ー27)

 

広告

bkshiroma について

I'm from Hawaii, but have been in Japan as a missionary/English teacher since 1995. I'm currently going to a church called Crossroad Nishinomiya, an international church in Nishinomiya, a city right between Kobe and Osaka. Check out their website: crossroad-web.com 私がハワイから来ましたけど1995年に宣教師と英会話の教師として日本に引っ越しました。 今西宮にあるクロスロード西宮という国際の教会に行っています。どうぞ、そのホムページを見てください: crossroad-web.com
カテゴリー: モーセ五書, レビ記, 旧約聖書 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中